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2012年6月30日 (土)

「ソウル・サーファー」 堂々と受け入れる

ベサニー・ハミルトンは幼い頃よりサーフィンを始め、プロのサーファーになることを夢見ていた少女です。
彼女はサーファーとしての才能があり、彼女の夢もあながり夢では終わらないというところでした。
けれど、ある日いつものように海に入りサーフィンをしていたところ、彼女はサメに襲われ、左腕を失ってしまうという事故にあってしまいました。
これは実話に基づく物語です。

驚くべきはベサニーの揺るぎない心です。
事故のとき、彼女はたった13歳でした。
13歳という、これからいろいろと夢をみていくことができる年頃に、片腕を失ってしまうという事故に合い、それでもサーフィンにかける思いは揺るぎません。
自分であったならばおそらく「なんで私だけが」とくさってしまうというのがおちだと思います。
彼女の揺るぎない心を支えたのは何だったのでしょうか。
一つは信仰心であったと思われます。
実際のハミルトン家は敬虔なキリスト教徒であるということです。
本作でもどんなにつらいことでも、それには意味があるといったようなことが聖書から引用されていました。
彼女も家族も、これほどまでに辛いことでも何か人生にとって意味があるはずだと、神が意味がないことをするはずがないというように信じているということが心の支えになっていたのでしょう。
僕は個人的には無宗教で、神の存在は信じているわけではないのですが、辛い時に宗教というものが心を支えることができるというのはわかる気がします。
また彼女が若いということも大きかったと思います。
これから夢を叶えるために走り出そうとした時に彼女は事故に合いました。
それを諦めるにしても、それからの時間がまだまだありすぎる。
夢を諦めるって言っても、何もしていないじゃない!という気持ちが彼女の中にあったように思います。
ある程度年齢をとっていたら、諦めたかもしれない。
諦めるには彼女はまだまだ若かったのです。
そしてやはり大きいのは家族の支えですよね。
両親にしても、二人の兄にしても、彼女の思いを大切にし、見守りサポートをしていました。
家族の愛情がなくして、ベサニーは夢を叶えることはできなかったと思います。

サーフィンの試合のあとに、インタビュアーがベサニーに事故の前に戻りたいですかと(無神経な)質問をします。
けれどその問いに、「時間は巻き戻せないから」と言います。
起こってしまったことはやり直すことはできない。
それを受け入れなくては再スタートはできません。
ベサニーという少女は、他の誰と比べてもとてもたいへんな状況に陥りましたが、それを素直に受け入れます。
10代の少女であれば、片腕を失ってしまった傷を堂々と人前にさらすことというのが辛いのが普通であると思います。
けれど彼女は堂々とその姿で人前に出て、サーフィンをする。
彼女はそういう状態となってしまった自分を受け入れているから、人前にでても恥ずかしいとかそういった思いはないのでしょう。
僕は作品の中で最初に彼女のその姿を観たとき、あまりに痛々しくそして哀れに感じてしまいました。
けれど、観ていて驚いたのは、彼女が堂々とその姿を見せているうちに、その姿であることが「普通」に見えてきたのです。
ベサニーがその状態を受け入れ、普通に堂々としていることによって、周りの人々も変な気を使うのではなく、そういうことをすべて合わせてベサニーであると受け入れるようになったのかもしれません。
そういう意味でベサニーのライバルであったマリーナが、ハンデを背負っているベサニーにも容赦がなかったことは、劇中でも言っているようにベサニーにとっては嬉しかったことなのでしょう。

主人公ベサニーを演じたのは「チャーリーとチョコレート工場」でチューインガム少女ヴァイオレットを演じたアナソフィア・ロブ。
ずいぶん大きくなりましたね!
けっこうな難役だったと思いますが、危なげなく演じていました。
ベサニーの親友役アラナを演じていたのはロレイン・ニコルソン。
彼女は、ジャック・ニコルソンの娘さんだそうです。
そういえば、面影があるような・・・。
女の子的にはいいんだか、悪いんだか。

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「逃亡者おりん 2」 パチンコメーカーのビジネスモデル

2006年に放映されていた時代劇「逃亡者おりん」の続編となります。
やっと録画していたものを観終えました(放送は3月末で終了してます)
「1」についてはゴールデンタイムで1時間枠での放映でしたが、「2」は深夜帯で30分の枠になっています。
30分ということでストーリーはいたってシンプルになっています。
1時間枠のときから元々、ベタな時代劇のパターンの物語でしたが、時間も短いということで大昔の特撮もののようなパターン化が著しい。
そういうこともあり、おもしろいかと言われると、おもしろいとは言えない作品です。
前作はけっこうゲストの出演者は有名な俳優が出ていましたが、本作はほとんど知らない人ばかり。
予算のなさが窺い知れます。
全体的に「1」よりはスケールダウンしたという感じは否めません。
じゃ、なんでそういった作品を作るのを考えてみました。
本作品はテレビ番組として視聴率をとる、とかその後のDVD化などのコンテンツで稼ぐというモデルではないのではないと思いました。
深夜枠のアニメなどは視聴率を高めそれにより広告費を得るという従来型のモデルではなく、放映後の関連グッズ(DVD等)などで稼ぐというモデルで成功しています。
じゃ、本作もそうかというそうは言えないかと。
昔ながらのオーソドックスな時代劇コンテンツをオタクな方が買うとも思いませんし、また年配の方がDVDを買うとも思えません。
この番組はメインのスポンサーがパチンコ屋さんでした。
たぶんその絡みが大きいのでしょう。
僕はパチンコはやらないのですが、お店の前を通ったり、広告を見たりすると、最近のパチンコはこれまでの他メディアで有名となったコンテンツを使った人を集めてきているというやり方をやっていると思います。
エヴァンゲリオンであったり、仮面ライダーであったり、水戸黄門であったり、ルパン三世であったり・・・。
ただもう大所のコンテンツというのは各社がもう手をつけきってしまっているという状況なのではないでしょうか。
だからこそパチンコメーカーは自分たちが影響する形でオリジナルのコンテンツを作るという戦略をとりはじめているのかもしれません。
本作についてもパチンコ屋さんでは「おりん 2」の機械も稼働していましたし。
同じような例でいうと、やはり深夜帯にやっていた特撮番組の「GARO」もパチンコメーカーがメインスポンサーで、オンエア同時期に「GARO」の台が稼働していました。
特撮番組の話がでてきたので、よくよく考えてみると、これはパチンコ屋さんだけに限ったモデルではない気もします。
「仮面ライダー」にしても「スーパー戦隊」にしても、おもちゃ屋のバンダイが番組企画に大きく関わっているのは知られていることです。
番組に関わることにより、関連おもちゃの売上アップを狙うという戦略ですよね。
まさにパチンコ屋さんがやろうとしているのは、このバンダイモデルなのかもしれません。

番組内容から大きく離れた話になってしまいました。
内容についてはたくさん文字を使って書くほどの内容ではなかったということでお許しを。

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2012年6月28日 (木)

「図書館戦争 革命のつばさ」 一番の敵は無関心

有川浩さん原作の「図書館戦争」シリーズの映画化作品になります。
2008年にテレビアニメ化もされていまして、本作はその続きになります。
テレビアニメでは原作の「図書館戦争」「図書館内乱」「図書館危機」をベースに描かれ、今回の映画は原作シリーズの最終巻である「図書館革命」をベースにしています。
そういう意味でアニメシリーズの集大成と言えるでしょう。
制作会社は高い品質が評価されるプロダクションI.G.で、スタッフも声優もテレビアニメと同じなので心配はありませんでした。
「図書館戦争」シリーズの設定の中で最も重要なものが「メディア良化法」という法律です。
もちろんこの法律はフィクションですが、その内容は公序良俗を乱し、人権を侵害する表現を取り締まるというものです。
これは事実上の検閲に等しい内容になっており、憲法に定められている「表現の自由」に抵触すると思われる法律です。
この法律により、出版物などを検閲する組織メディア良化隊が生まれ、それが武装化したために、収蔵する図書を守るために図書館側で作られた武装組織が図書隊と言われるものです。
主人公、笠原郁は図書隊タスクフォース(特殊部隊)の初の女性隊員であり、そしてその指導教官である堂上篤との、「ベタ甘」の恋愛模様というのもこのシリーズが人気がある理由のひとつでしょう。
しかし原作の「図書館革命」もそうでしたが、本作「革命のつばさ」もベタ甘恋愛よりも、その設定の根底にある「メディア良化法」にまつわるテーマをしっかりと描いています。
上に書いたように「メディア良化法」という法律は「表現の自由」に抵触すると思われる悪法であると言っていいと思います。
けれども、なぜそのような法律が施行されてしまったのか。
だれもその内容がおかしいと言わなかったのか、という疑問が起こるのは当然だと思います。
それについて本作では、さりげなく、しかし問題意識を持って提示していると思いました。
本作は、テロ事件が起こり、その事件が小説家当麻が書いたエンターテイメント小説に似ているという指摘が起こり、良化隊により当麻が執筆権を奪われそうになるというところから始まります。
これと似たようなことは、現実の世の中でも実際にあることです。
何か重大事件が起こったとき、それはマンガだったりアニメだったりの悪影響ではないかといい、それを規制するべきだと言う人々がいます。
実際、東京都においては都条例(東京都青少年の健全な育成に関する条例)で不健全図書の積極的規制を行っています。
ここで個人的な見解を書かせてもらうと、この都条例は非常に危険性の高いものであると思います。
それは「不健全図書」というものの定義が曖昧で、その時々の施政者によりどうとでも解釈できると思うからです。
「著しく性的感情を刺激するもの」とあり、これはポルノマンガ・アニメなどをターゲットとしていると思います。
これらについては規制されても仕方がないような内容のものを見かけますが、しかしこの「著しく」といった表現が曖昧さを持っています。
例えば渡辺淳一さんの作品は、谷崎潤一郎さんの作品は、違うのかと。
こういった作品により「著しく性的感情を刺激」されたりしちゃったりする人もいるのではないかと。
そうしたらそれらも規制されるのか。
こういった主観的な感覚については、基本的に明確な線を引くことはできないわけで、それにより運用次第では、検閲に近いことにもなりかねないと思っています。
本作の設定となっている「メディア良化法」は決してフィクションの世界のものではないのですね。
ちょっと脱線しましたが、このような法律が施行されてしまった背景について話を戻します。
本作でキーマンとなる小説家の当麻のセリフでこうありました。
「検閲をうまくすり抜けて書くのがプロだろうと思ってました」
これは悪法が施行されていることを認識していながらも、それに関わりなく過ごしていれば自分には関係がないであろうというスタンスです。
「守ってもらっていることに気づいていなかった」
これも図書隊という表現の自由を守ろうとする組織によって、人々に自分の本が読んでもらえているということに無頓着であったということですね。
ここに提示された問題があります。
悪法がなぜ施行されてしまったか、それは人々の「無関心」に帰することができると思います。
自分もそうなのですが、政治や行政にはなかなか関心がいきません。
日々、いくつもの法律や条例が作られていますが、その内容に関心を持ってチェックをしている人というのは専門家以外はそう多くはいないでしょう。
けれどやはりそういうわけにはいかないのですよね。
我々が、法律などに関心が向くのは、大きな問題が起こった時です。
例えば福島原発の問題が起こったときに、注目されたのが「電源三法」と呼ばれる法律でした。
改めてこういう法律も見ると「なんじゃこりゃ」と思うような内容があったりするのですが、その法律が通ったときは誰も関心を持っていなかったわけですよね。
もしくはいいところしか見ていなかったか。
問題が起こったときに、「これは悪法だ」と言ったとしても、後の祭りなわけです。
本作で描かれる「メディア良化法」という法律が通ったときも、多くの人は無関心であったのでしょう。
もしくは、良くない内容の本などが規制されるのは良いことだというような感じであったかもしれません。
しかし結果的には、本作で描かれている世界では、検閲といった行為が行われ、それによって表現の自由が規制される社会となってしまったわけです。
紹介した都条例が決まったとき、出版社で作られる団体で抗議があったと思いますが、世間一般の人が抗議をするというようなことはなかったと記憶しています。
こういう無関心が、いつの間にやら社会を悪い方向に持っていってしまう気がしたりします。
昨今の政治、行政の不始末を見ていると、無関心になりたくなる気持ちもわかります。
個人的にも「もういいよ」と言いたくなったりしますが、けれどそれでも関心は持ち続けなくてはいけないのかなと。
無関心でいることが、将来的に自分たちの生活を脅かすことになるかもしれません。
飽きれてしまう気持ちを抑えつつ、それでも政治や行政に関心を持つということが、こういうときこそ大事なのかもしれません。

原作小説「図書館革命」の記事はこちら→
テレビアニメ「図書館戦争」の記事はこちら→

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2012年6月25日 (月)

「非公認戦隊アキバレンジャー」 本家によるセルフパロディ(マジ)

「非公認戦隊アキバレンジャー」、その存在を知ったのは、某特撮雑誌でしたでしょうか。
スーパー戦隊シリーズというのはパロディや、なんちゃってもののネタになることが多いのは、よく知られているところ。
「○○ジャー」という名のご当地戦隊ものは数しれず、また低予算のビデオコンテンツなども雑誌の広告などにはよく載っていますよね(つか、普通の人は見ないか、こういう雑誌)。
最初はオタクを狙った、この手のなんちゃってものの一つかと思っていたのですが、よくよくスタッフ名を観てみて、えらく驚きました。

制作:東映(え、本家じゃん!)
プロデューサー:日笠淳(東映のベテランプロデューサーであり、スーパー戦隊も数多く手がけている!)
脚本:荒川稔久(この間まで「海賊戦隊ゴーカイジャー」のメインライターを務める。スーパー戦隊の知識は半端なし!)
監督:田崎竜太(平成「仮面ライダー」のパイロット監督を一番多く担当!アメリカでは「パワーレンジャー」も監督!)
アクション監督:大橋明(AAC所属、最近では「GARO」のアクション監督も務め、ワイヤーアクションを巧みに扱う!)
音楽:川井 憲次(東映作品初参加なるも、押井守監督とのコンビが数多く、その曲は川井節と言われるほどに個性的!)

こ、この布陣は・・・、なんちゃって深夜番組のレベルじゃないぞ。
本家のスタッフと比べても遜色なしの豪華な顔ぶれ。
「ドカベン」のスーパースターズか、マーベルのアベンジャーズかといった感じ(なんじゃその例え)。
オンエアされる曲はBS朝日、東京MXの深夜1:30という超深い時間帯ではありますが、このスタッフィングに惹かれ、録画して観ていました。

<ここから先はネタバレ、良い子は見ちゃダメ!>

アキバレンジャーというのは、オタクの街秋葉原を舞台に、かの街を再開発しようとする邪悪な企業「邪団法人ステマ乙」と戦う三人組のヒーロー。
アキバレッドこと赤木信夫は、29歳にして「スーパー戦隊」オタク、そして最近美少女アニメ「ズキューーン葵」にも惹かれているという、ものすごーくイタイ青年。
アキバブルーの青柳美月は、格闘マニアな美少女高校生、ややツンデレ系。
実は意外にも「ズキューーン葵」に夢中だったりする。
そしてアキバイエローの萌黄ゆめりあ(CN)は、コスプレ腐女子、本当は24歳OLだったりします。
この三人が、秋葉原という狭い空間でセコい敵と戦い、そして認められいつかは日曜7:30のスーパー戦隊枠でテレビ化されることを願う物語、それが「非公認戦隊アキバレンジャー」です。
スーパー戦隊枠での放映=公認ってことで、まだそれが叶わないので「非公認」ってわけですね。
こう書くとオタクたちの残念な感じのお話かと思いきや、これが意外にも壮大な物語になっていきます・・・。
本作は東映のセルフパロディとも言うべき作品なのですが、「公認さま」(本家スーパー戦隊のことを本作ではこう呼ぶ)のキャラクターを登場させたり、BGMなどそのまま使うなど本家しかできないことを惜しげもなく披露。
特撮ファンは感涙の嵐です。
塚田P登場などは、マニアしかわからないけど、東映じゃなきゃできないし。
脚本の荒川さんは「海賊戦隊ゴーカイジャー」で過去のスーパー戦隊を巧みに物語に取り込みましたが、本作でもその力を遺憾なく発揮してます。
ただのマニアネタで楽屋落ちっていう感じではなくて、それもストーリーにけっこう絡ませてくるところがうまいですね。
「大いなる力」でなく、「大それた力」って・・・、うまい!
そこかしこの小ネタもマニアならば、うんうんと頷くところでしょう。
この作品、ただのセルフパロディということだけではなく、後半はまさかのメタフィクションへ変貌。
こんな展開になるなんて放送当初は予想していなかっただけに、ただただ呆然&興奮。
そして最後のラスボスが「八手三郎」って・・・。
これは特撮ファンしかわからんだろう!とツッコミをいれつつも、特撮ファンしか観ていないだろうから、ま、いいかと納得。
ちなみ八手三郎とは、東映のプロデューサーの共同ペンネームのようなもの。
数多くの東映特撮作品の原作者でクレジットされています。
「良い子は見ちゃダメ!」っていうのはあながちネタというわけではなく、メタフィクションで制作者側を感じさせてしまうということで、まだヒーローの存在を信じているちっちゃなお友達の夢を壊さないようにっていう配慮なのでしょうね。
ストーリーも手を抜いた感はなく、作品中盤のゆめりあ母のエピソードなどは、まさかの泣かせネタだったりもして驚きました。
それにしても本作全体に通じる「残念っぽい感じ」っていうのは、制作者側が本気で作って作っているからこそできるもの。
本気でなかったりすると本当に残念な感じになってしまうわけです。
アクションもマジ本気、音楽も川井節炸裂!
なのになんだか「残念っぽい感じ」が漂う。
これを狙って出すのだからすごい。
川井さんの音楽もスゴく良いです(主題歌の8ビット音には、そうきたか!と感心)。

怒濤の展開でいろいろありましたが、ステマ乙との戦いはまだまだ続くようで。
「あと6ヶ月は」というセリフが気になる・・・。
6ヶ月後に「帰ってきた非公認戦隊アキバレンジャー」をやるんじゃなかろうか。
ぜひ、やってほしい。

さて本作でアキバレンジャーの待機場所(というかだべり場所)となっていたのは「戦隊カフェひみつきち」でした。
その店のなかにはところ狭しとスーパー戦隊グッズが飾られていました。
先日、特撮ファンの先輩に連れられ、某新橋にある特撮バー(カフェじゃないよ、お酒出すとこね)にリアルに行ってきました。
「戦隊カフェひみつきち」より、その内部は100倍すごかった!!!
特撮グッズが山のように・・・圧倒されました。
飲んでいると、ずっとそこのテレビで「レインボーマン」が流れているという・・・マニアックな空間。
そちらでも「アキバレンジャー」は話題になっておりました・・・。

最後に「アキバレンジャーなら、こずこず推し!」(観ていた人しかわからんだろう)。

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2012年6月24日 (日)

「ベルセルク 黄金時代篇II ドルドレイ攻略」 喪失

2月に公開された「ベルセルク 黄金時代篇I 覇王の卵」の続編になります。
原作でも読み応えのあるドルドレイ攻略戦を本作では中心に置いています。
「覇王の卵」が公開された時は、原作マンガは未読でしたが、観てから読み始め、現在ちょうど本作で描かれているガッツとグリフィスの別れのところまで読み進めたところです。
原作のマンガは「サーガ」とも呼ばれるだけあって、かなりのボリュームがあります。
登場人物の背景の物語まで描こうとすると納まりません。
原作を読んでわかりましたが、「覇王の卵」、そして本作「ドルドレイ攻略」は原作マンガの重要なところをうまく切り取ってまとめあげていますね。
原作でそこそこボリュームをもって描かれているところをかなりばっさりと切っていたり、フラッシュバックなどで断片的に感じさせています。
それによって映画は主筋が逆に明確になっていると思います。
その主筋は、ガッツとグリフィスの関係性でしょう。
「覇王の卵」において、ガッツは「ただ生きている」という状態から、グリフィスにより「何かのために生きる」ということを知ります。
ガッツはグリフィスの志を叶えるために生き、そして戦うのです。
けれども1作目のラストでグリフィスの価値観を知り、自分がグリフィスに対等な友としてはまだ足りないということを知ってしまいます。
ガッツにとってはグリフィスは友であり、彼のために命を捧げても食いはないという存在であったのでしょう。
ここでガッツは一度、友を喪失したわけです。
しかしガッツは、グリフィスと対等な友になるためには自分がなぜ生きるか、何のために生きるかという志を持たなければいけないと覚ったのでしょう。
だからこそ彼は家族同然の鷹の団を去ろうとしたわけです。
しかし、それはグリフィスにとっては裏切りと同様の仕打ちであったのでしょう。
グリフィスは彼なりの特別な友情をガッツに感じていたのだと思います。
今までグリフィスが出会った人々は彼を求めました。
それに応えるか、応えないかはグリフィス次第。
選ぶ側であったのがグリフィスであったのでしょう。
しかし、ガッツが彼の元を去るということにより、彼は初めて「捨てられた」と感じたのだと思います。
だからこそいつになくグリフィスは感情的になり、その後の自爆的な行動により、それまで築き上げてきた地位を失ってしまうのです。
物語は急転しました。
グリフィスはどうなるのか、鷹の団はどうなるのか。
そしてガッツは。
原作もまだこの先は読んでいないので、展開が気になります。
ガッツとグリフィス以外で深く描かれていたのは、女千人隊長であるキャスカ。
キャスカはグリフィスに憧れに近い恋心を持ち、彼のために戦うことを厭いません。
しかしガッツにも惹かれている。
そういったキャスカの気持ちを深く描くほどに、彼女を、そして鷹の団の行く末に悲劇が待ち受けているような気がしてなりません。

作画は相変わらずの高レベル。
原作マンガは初期の頃なので、まだまだ三浦建太郎さんの画力も成長途中という感じで荒削りです。
それを読んで、本作を観ると画のレベルが高いので、見入ってしまいます。
作画監督の恩田さんは相変わらずうまいですよね。

前作のレビューのとき、グリフィスに「グイン・サーガ」のイシュトバーンとナリスをみた感じがしたということを書きましたが、本作ではグリフィスはよりイシュトバーンっぽくなっていますね。
影響を受けているかなと思っていたら、三浦さんは「グイン・サーガ」のファンらしいですね。
やはり・・・。
あちらは未完で終わってしまって残念ですが、「ベルセルク」は最後まで描き切ってほしいものです。

「ベルセルク 黄金時代篇I 覇王の卵」の記事はこちら→

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2012年6月23日 (土)

「アメイジング・スパイダーマン」 アメイジングな感じがしないぞ

クリストファー・ノーランの「ダークナイト」があたったからか、「スパイダーマン」もリブート(再起動)です。
先行ロードショーで観てきました。
監督は「(500)日のサマー」のマーク・ウェブ。
けっこう意外な人選でしたが、吉と出るか凶とでますでしょうか。
まあ、ノーランが「バットマン」を撮るときも驚きましたけどね。

そもそも「バットマン」についてはティム・バートン版が、それまでのアメコミヒーロー映画の常識とは異なって、ティム・バートンの個性を出してぶっとんでいたものでした。
ですので、バートン版とはまったく方向性の違っているノーラン版のダークさが、より際立ち、リブートする意味合いというものもわかりやすかったかと思います。
ティム・バートンとクリストファー・ノーランは、それぞれにバットマンというキャラクターの解釈は微妙に違います。
そもそもバートンの方はバットマン自身よりは周囲の登場人物のほうへ関心がいっていて、ノーランはバットマンの心理の奥深く奥深くへ踏み込んでいくところが違いますよね。
サム・ライミ版の「スパイダーマン」というのは、それまでのB級的なライミっぽさというのは極力抑えていて、王道のスーパーヒーローものとして仕上がっています。
ピーター・パーカーを悩めるヒーローして描いたところはそれまでのヒーローものとは違った新しさを出し、その後のこのジャンルの作品に影響をあたえたように思います。
個人的にはけっこう好きな作品です。
さて前段が長くなってしまいましたが、今回の「アメイジング・スパイダーマン」についてどうだったかというと、リブートという割には、それほど前シリーズとの違いといったものを強く感じることはありませんでした。
少なくとも「バットマン ビギンズ」の時のような印象は受けませんでした。
もちろんヒロインがMJではなくグウェンになったり、ピーターの両親に何か秘密があるという設定を変えているところはあります。
しかし作品のテーマのようなものは前シリーズほど強くは感じられなかった印象です。
前シリーズのテーマは「大いなる力には大いなる責任が伴う」という有名な言葉に集約されています。
1作目でピーターは叔父の死により、この言葉の意味を強く心に刻み、その後は極めてストイックにスーパーヒーローたろうとします。
そういった責任感とMJへの恋心の間で葛藤するのが前シリーズのピーター・パーカーでした。
リブートされた「アメイジング・スパイダーマン」でも「責任」という言葉は出てきますし、またグウェンへの恋心を断ち切ろうとするピーターも描かれます。
けれどそれは前シリーズほど、ピーターの心の葛藤が描かれたような感じはしませんでした。
また今回の作品で前シリーズと最も大きな違いというのは、ピーターの両親の謎ですが、こちらについてはそれほど多くは触れられていません。
その謎については2作目以降でということなのかもしれませんが、ピーターの心情の描写のぬるさとも相まって本作はどうも3部作の前座的な印象が強いような気がしてなりません。
本作で敵となるリザードも、キャラクター的にも造形的にもなんだかいまいちでしたし。
敵が魅力的でいないとヒーローが映えません。
こちらについても2作目の敵はオズボーンになる(つまりはグリーン・ゴブリン)と思われるので、そちらのほうが本命感があります。
シリーズ化をもくろんでいたとしても、最初からそういう前座感をだすのはどうかなと。
前シリーズの「スパイダーマン」もノーランの「ダークナイト」も最初の作品はそれだけでも成立するほどに力を入れたからこそ、シリーズ化になったのだと思います。
本作はそのあたりの全力感が感じられなかったのですよね。
スパイダーマンはスパイダーウェブを操り、摩天楼を縦横無尽に駆け抜けるというのが魅力的なところです。
サム・ライミの「スパイダーマン」は早くにCGをアクションに全面的に取り入れた作品で、スタントでの撮影では撮れないような画で、スパイダーマンの浮遊感というのをうまく表現していたと思います。
当時はあまり観たことのない映像で、感心した覚えがあります。
3Dという技術は、スパイダーマンの縦横無尽さ、浮遊感といったものに向いていると思っていました。
だから3Dで観賞したのですが、思っているより3Dの効果というのが感じられない。
サム・ライミのときのような映像を単に3Dにしただけといった感じでした。
もっとスパイダーマンならではの、3Dならではの新しい映像を観たかったのですけれどね・・・。
大いに期待していたので、ちょっと肩すかしという感じでした。
リブートするならもっと新しさを、個性をだしてもいいのではないかと思いました。
マーク・ウェブはこういうジャンルは向かないかなぁ。

グウェンのエマ・ストーンはかわいかったです。
17歳には見えないけど。

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「ガール」 人生の半分はブルー、もう半分は・・・

テーマから予想されたことですが、やはり観賞客の女子率高し。
金曜日の晩ということもあり、同世代のお友達で劇場を訪れた感じの方が多かったですね(金曜日の晩なのに男一人でこれを観に行くお前はなんなんだということはさておき)。
本作で中心となる登場人物は4人の女性です。
由紀子は広告代理店勤務の29歳の独身女性。
30代突入を目前としながらも、カワイイもの、キラキラしたオシャレなものが大好きな夢見がちな女性なのですが、さすがに周囲からは「イタイ」と言われてくるのを気にし始め、また仕事でも挫折をして大人になりきれぬ自分に悩み始めています。
由紀子の先輩である聖子は、大手建築会社に勤めるバリバリのキャリアウーマンで、結婚はしていますが、子供はなし。
昇格して管理職になったものの、部下に年上の男性を持ちますが、彼が男性至上主義タイプで扱いに困っています。
また旦那さんよりも給料が高いこと、子供を作ろうとしないことについて、旦那さんが不満を持っているのではないかという心配を抱えています。
容子は聖子と同世代の女性で、独身。
バリバリのキャリアというわけではありませんが、仕事はそつなくこなし、社内でも認められている様子。
でもいつもの間にやら30代に突入し、恋やら結婚ということへのエネルギーが枯れてしまっている自覚があったりもします。
そして孝子は他の3人よりもちょっと年上のシングルマザー。
一人息子を愛してますが、母であり、また父親代わりにもなろうと一生懸命。
その一生懸命さが、周囲の人からすればがんばりすぎに見えることも。
4人それぞれが、それぞれらしい違う生き方をしていますが、またそれぞれに悩みを抱えています。
女、男に限らず、人生というものは一度っきり。
別の人の生き方を見て、こういう生き方もあったかもしれない。
自分の生きてきた道というのは、間違っていたのではないかと思ったりするのは誰しもあるんではないでしょうか。
でも、もう一度、人生をやり直すわけにはいけません。
後悔やら、諦めといったものを感じることもありますよね。
「みんな人生の半分はブルーだよ」というセリフがありました。
確かにそうかもしれません。
自分の人生がベストであるなんて思える人なんてそうそういないのではないでしょうか。

「人生の選択肢が増えて、不自由になった」というセリフもありました。
何十年も前は女性の生き方にそれほど選択肢はありませんでした。
結婚して、子供を産んで育てる、それがどの女性も歩む道のような感じで。
けれどその後、フェミニズムやらウーマンリブやらの考えが広がり、女性の社会進出も増えました。
僕が社会人になったころは、男女雇用機会均等法が施行された頃で、女性一般職が増えた時代でした。
女性管理職も増えた時期ですが、その頃の女性は、男性に負けないようにというような気負いのようなものがあったような気がします。
けれど法律とは別に、やはり会社では本作での聖子のようにがんばってもなかなか女性が働きにくいのも確かでした。
その後、結婚もせず会社でバリバリ働く女性というのが、いつからか「負け組」と言われるようになり、いい旦那を見つけて結婚をして子を産み家庭を築く人が「勝ち組」と言われるようになりました。
正直、女性にとって何が勝ちなのか、負けなのか、わからないのですが、女性たち自身でも自分たちの価値観が激しく変わっているのが現代なのだと思います。
ですので先ほどとりあげた「人生の選択肢が増えて、不自由になった」というセリフは、かなり的を射てる言葉だなと感じました。
価値観が多様化して、どういう生き方が幸せなのかというもののスタンダードがなくなったというのは、女性も男性も変わらないかと思います。
なので、男も女も、半分ブルーな気持ちを持っているのでしょうね。
でも女性のほうがより切迫感があるというのも、本作を観てわかりました。
またセリフの引用なのですが、「男は足し算、女は引き算」というのがありました。
これも人々(男性も女性も)の価値観としてかなり本質をついているように思います。
男は年をとると年輪を刻むじゃないですが、経験を積むことにより人として世間の評価が上がるということはあります。
そして女性の場合は、世間一般としての評価として「若さ」「美しさ」というのが重要なファクターであり、それは年をとることに減っていくということがあります。
これは男性が女性を評価するという面だけでなく、女性が女性を評価するという点でもこのファクターが効いているのです。
だからこそ「勝ち組」「負け組」のような言葉も生まれるわけですね。
じゃ、女性というものはどんどん価値がさがっていくものか、男に比べて女の人生なんて・・・ということになるのかというとそうではないのではということをこの作品は言っているのですよね。
「女の人生の半分はブルー」というセリフを引用しましたが、これは「もう半分はピンク」という言葉に繋がります。
ピンクという色は、キラキラして前向きなイメージがあり、そして女性らしさをもっている色です。
このセリフが言っているのは、現代の社会で女性が生きることはブルーな気持ちになるようなことはたくさんあると言っているわけですが、もう一面では女性であることを前向きに捉えている言葉でもあります。
女性であるからこそ、楽しめること、経験できることがある。
女性であることを前向きにとらえることができれば、人生を謳歌することができると言っているように感じました。
では男性の人生の半分はブルー、もう半分は?と自分に問うてみたところ、まったく色が浮かびませんでした。
それはそれでよろしくないかも・・・。
男性ももっと前向きに人生を捉えられるようにならないといけないですね。

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2012年6月18日 (月)

本 「連続殺人鬼カエル男」

「さよならドビュッシー」で「このミス大賞」を受賞した中山七里さんの作品です。
ちなみに「さよならドビュッシー」は未読ですので、中山さんの作品は初めて読みました。
この作品、ミステリー好きにはオススメです!
読んで損はありません。
終盤の驚愕のどんでん返しが見事です。
こちらの作品は「さよならドビュッシー」と一緒の時期の「このミス」選考会で、最後まで両方の作品が残ったそうです。
大賞は「さよならドビュッシー」がとったものの、こちらの作品も良かったため出版されることとなったとのことです。
こちらを読む限り、こっちが賞をとったと聞いても、違和感は感じませんね。
この作品、最後のどんでん返しも見事なのですが、僕がすごいなと思ったのは中盤くらいの集団パニックの心理の描写ですね。
カエル男と呼ばれる殺人犯により、その現場となった飯能市の住民はパニックに陥ります。
けれども今までも連続殺人といったものはなかったわけではないのに、この事件では住民はいい知れぬ不安に苛まれ、パニックに至るのです。
その不安というのは、誰が狙われるのかがまったくわからないこと、犯人像がまったく見えないことです。
一般大衆といったものは、事件が起きてもそれは自分が直接それに関わることはないと、無意識に思っています。
だからこそ重大事件が発生しても、興味本位の報道は後を絶ちませんし、それを観る人も数多くいるわけです。
そういうことも、自分は部外者であり、傍観者である無意識の安心があるからです。
この小説で取り上げられる殺人事件で、住民たちは「自分も狙われるかもしれない」という不安に苛まれるのです。
そしてその相手は皆目見えない。
僕は読んでいて、これは何かに似ていると思いました。
これは昨年の福島の原発事故以降の放射能汚染などの問題に、特に東日本の住民の反応に通じるものがあるのではないかと。
放射能も見えない。
そして自分もその被害に合うかもしれない。
自分の家を離れればいいが、そうもいかない。
漠然とした不安、そして切実な不安にずっと住民は曝され続けている。
これは本作で描かれる飯能市の住民たちの姿に繋がります。
最後のどんでん返しもさることながら、こういった集団心理、集団不安を活写したところが、本作はすごいなと思いました。
中盤以降は手に汗握る展開で、ページを繰る手が止まらない感じでした。
最後にもう一度、オススメです。

「連続殺人鬼カエル男」中山七里著 宝島社 文庫 ISBN978-4-7966-8089-9

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「愛と誠」 ひたむきにまっすぐに

梶原一騎さん原作の純愛マンガの三池崇史監督による映画化作品です。
「愛と誠」は今までも何度か映画化していて、女優の早乙女愛さんはこの作品でヒロインと同じ名前でデビューしました。
原作マンガ、映画ともにちょうど小学生の頃であったので、全く読んでも観てもおりません。
とはいえ、純愛物語であるというのはなんとなく知っていました。
今回初めて知ったのですけれど、純愛ものの名句「白馬の王子」「君のためには死ねる」っていう言葉は「愛と誠」から出てきたんですね。
梶原一騎さん、恐るべしです。
純愛ものですので、三池監督が映画を撮るということを知って、初めは「なんで??」と思いました(ま、三池さんの場合はこの「なんで??」っていうのはいつのものことですが)。
しかし予告を観たときに、三池監督らしく大胆にアレンジされているのがわかり、期待度があがりました。
なんかミュージカルっぽくなってるし・・・。
今回の作風は元々の原作ファンや、まっとうな純愛ものを期待している方からすると引いてしまうところかもしれませんが、三池ファンとしては全然OK。
のっけから「激しい恋」のミュージカル風でスタートで、けっこうテンションあがりました。
本作は昭和歌謡ミュージカルとも言ってもいいシーンがいくつもあり、ここは昭和世代的にはけっこう好きでした。
「あの素晴らしい愛をもう一度」のところは「くどいっ!」と思いながらも、ほとんどパーフェクトに歌詞を口ずさむことができる自分に驚いたりして・・・。
そういえば、小学校の時に合唱コンクールの課題曲だったか・・・。
他の曲もだいたい子供の頃の歌なので、自分でレコードを買って聞いたってわけではないのですけれど、テレビなどで観ていたからか、ほとんど歌詞を覚えていました。
うーん、子供の頃の記憶力というのはスゴいものです。
これらの昭和の歌謡曲を久しぶりに聞いて思ったのは、「愛」という言葉がけっこう頻出していること。
このころは「愛」という言葉が、とても真剣なもので、重いものであったのだろうと感じました。
いつからでしょうか、「愛」という言葉が、なにか小っ恥ずかしいもののようになって、口にするのが残念な感じになったのは。
なにか「ひたむきな感じ」「まっすぐな感じ」というのがいつからか恥ずかしい感じになってきたのです。
実はこの「ひたむきさ」が、三池版の「愛と誠」のテーマになっているかなと思いました。

武井咲さん演じる本作の早乙女愛は、現代という時代からの視点で観ると、とてもズレたところがある少女に見えます。
「愛」にまっすぐに、献身的に生きるその姿勢は、なにか滑稽に見えます。
本作でも誠に「うっとおしい」と言われ続けますが、彼女のひたむきさはややもすると「残念な感じ」にもなるわけです。
これを現在売り出し中の美少女である武井咲さんが演じているので、この「残念な感じ」が「残念な女」になる一歩手前で踏み堪えていて、このギリギリでバランスとっている感じが本作での早乙女愛が醸し出す笑いの部分になっているわけです。
ぶっちゃけ武井咲さん級の美少女でなければ、ほんとうに「残念な女」になっていると思いますね。
昭和歌謡にも通じる「愛」にひたむきであり、真剣なところというのは、現代でいえば何か恥ずかしさのようなものを持ってしまうものですが、それを逆手にとって笑いにしているのですね。
本作の早乙女愛というのは、そういった昭和っぽさを持っているキャラクターなわけです。
もう一人の女性の登場人物で、誠を狙う由紀ですが、彼女は作中で「悲しい女」と言われます。
この「悲しい女」というのも昭和歌謡では度々取り上げられるモチーフであるんですよね。
堕ちた女が酒場の片隅でひとり酒を呑む的な感じ。
早乙女愛のまっすぐな愛というのは進んでいく力であり、高度経済成長時代の陽の部分の象徴かもしれません。
しかし、その成長の中でも取り残される部分もあったわけで、由紀せよ、誠の母にせよ、その時代の陰の部分を象徴しているわけです。
本作で描かれている時代はまだ格差というものが激しくありました。
その後、日本は総中流化、そしてバブル経済まっさかりに突入します。
「ひたむきに」やらずともそこそこの生活はできる。
汗水たらして努力するのがバカらしい感じ、このあたりから「ひたむきさ」が恥ずかしい感じになってきたかもしれません。
そしてさらにはバブル崩壊、経済低迷。
この頃は逆に「ひたむきに」やっても全然良くならないという空しさ感がでてきます。
現代においては成長神話というものがなくなって久しく、がんばっても上昇していけるわけではないというのはみんなが知っているわけで、だからこそ「ひたむきさ」とか「まっすぐさ」といったものは何か気恥ずかしいもの、無意味なものになっていってしまったのかもしれません。
だから本作の早乙女愛という存在がコメディエンヌのように見えるわけです。
けれど「ひたむきさ」の価値みたいなものがなくなってしまったわけではなく、それを恥ずかしがることなく「ひたむきに」やっていくことは決して意味がないわけではありません。
だからこそこっけいにも見える早乙女愛の「ひたむきな愛」も最後には誠に通じるわけです。
昭和っぽいかもしれないのですが、また現在は「ひたむきさ」「まっすぐさ」のようなものを恥ずかしがることなく態度や行動で表してもいい時期なのかもしれません。
AKB48などが支持されているのもなにか「ひたむきさ」「まっすぐさ」みたいなものを、皆が彼女たちに感じているからかなとも思ったりします。
時代は一巡して、また「ひたむきさ」「まっすぐさ」に戻ってきているのかもしれません。

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2012年6月17日 (日)

本 「浪費するアメリカ人 -なぜ要らないものまで欲しがるのか-」

2000年に日本で出版された本で、書かれている内容のベースとなるのは90年代の調査だったりするので、そのまんま現代に当てはめられないような気がしますが、けっこう今でもあまり人の消費行動はその頃と変わらなかったりするのだなと再確認しました。
こちらの内容はアメリカ人が自分の収入以上のものを欲しがることにより、自己破産などに陥ることについて、どうしてそうなるのかということについて書いています。
その要因としてあげられているのは、一つはカードです。
ご存知の通り、手持ちの資産以上のものも、カード決済では購入することができてしまいます。
それは結果的には将来への借金になるのですが、とりあえず収入が安定であれば問題ないわけですね。
けれども90年代のアメリカの不景気により、雇用や収入が安定であるとは限らなくなり、自己破産が増えたわけです。
またサブタイトルにもあるように、「要らないものまで欲しがる」という心理の理由を、アメリカ人の中流階層が自分よりもちょっと上の所得層のライフスタイルを、自分のあるべき生活と感じ、自己資金よりも大きな支出をしてしまうということをあげています。
著者によれば、もともとアメリカ人は社会的な各層でそれぞれのライフスタイルがあり、同じ層であれば横並びになりたいという心理があるようです。
隣の家と同じ程度の車、芝生のある家など。
思いのほかアメリカというのは所得による階級があります。
その生活スタイルが収入に見合うものであれば、横並びでも問題ありません。
しかしテレビや映画で描かれる生活というのは中流よりもちょい上、斜め上の生活を描いており、見ている側からするとそれがスタンダードのように思えてしまうようになったと著者は言います。
斜め上の生活を実際やろうとすれば、収入が足りるわけがありません。
それでもカードなどがあれば購入することはできます。
それにより自己破産のリスクが増したり、また支払いのための労働時間の延長などの問題に繋がっていったわけです。
本著ではそういったリスクに対して、「足りる」生活を行おうとするダウンシフターと言われる人々を紹介しています。
斜め上の生活を目指すのではなく、自分にとって必要なものだけを欲する生活スタイルですね。
著者はこういった生活者が増えていくとよいと書いています。
しかし、現実的にはアメリカはそうはなりませんでした。
結果的にはより斜め上の生活を目指すという傾向は強まったわけです。
それがよく現れているのがサブプライムローン問題ですね。
あれはそもそも家を購入するほどの収入がない人のためのローンでした。
社会全体が登り調子(実際はアメリカは実質経済は伸び悩みつつも金融の伸びでカバーしていた)の時は問題ありません。
しかし金融破綻が起こったことで、サブプライムローンも一気に破綻したわけです。
「浪費するアメリカ人」はそこで大きな教訓を得た、というわけではありません。
世界経済が危ういバランスの中にいる現在においても、世界の景気を左右するのはアメリカの個人消費だったりします。
アメリカの個人消費の指数が下がるとみるみるうちに輸出をしている国の為替は下がり、企業の株も下がります。
現在も世界経済は「浪費するアメリカ人」によって支えられているわけなのですよね。
10年以上も前の本で、その後世界経済はいろいろなダメージを受けましたが、その割にあまり変わっていないものだなと思いました。

「浪費するアメリカ人 -なぜ要らないものまで欲しがるのか-」ジュリエット・B.ショア著 岩波書店 ハードカバー ISBN4-00-002584-8

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「外事警察 その男に騙されるな」 公安の魔物

NHKのドラマ「外事警察」の劇場版です。
例によってドラマは未見、原作小説も未読です。
原作は未読ですが、麻生幾さんの小説は今までも何冊(「宣戦布告」「ZERO」「ケース・オフィサー」「瀕死のライオン」等)か読んでいます。
麻生さんは本名などが公表されていないいわゆる覆面作家なのですが、今まで発表してきた作品は諜報活動、いわゆるスパイ活動などを扱ったものが多いですよね。
彼の作品の中で描かれるスパイ活動は、いわゆるハリウッド映画のような派手なスパイ合戦のようなものではなく、本作のように協力者の獲得、育成、運営といったような活動が描かれることが多いですね。
そこにはハリウッド映画のような爽快さといったものはあまりなく、どちらかといえば陰々としていたり、不条理な世界が描かれています。
麻生さんの小説としてのデビュー作である「宣戦布告」は、北朝鮮が北陸の原子力施設を襲撃するという事件を扱っています(今考えるとあながち荒唐無稽ではなかったりします)が、そこで描かれるのはけっこう救いのない出来事だったりするのですね。
ハリウッド映画だったら絶対死なないような人が、不条理にも殺されたりしてしまう。
その不条理さみたいなものが、かえって現実感を与え、そして国と国との間で繰り広げられる攻防といったものがいかに熾烈を極めるものであるかというのが伝わってきます。
本作の主人公である住本は「公安の魔物」と呼ばれる男です。
国益のためであるならば、人の感情や生命をも犠牲にすることを厭わない男。
彼の部下であり、何度も対立することになる松沢は、どちらかと言えば観客の目線にたったキャラクターであるかと思います。
彼女が住本に食って掛かる場面というのは、おそらく同じように観客が「そこまでするのか、しなくてはいけないのか」と思うシーンでしょう。
しかしおそらくそのような問いに住本は「何をきれいごとを言っているんだ」という顔をするだけではないでしょうか。
個人的な感情といったようなものを表していたのでは扱え切れないほど、そしてきれいごとだけでは住まされないほどに国家間の暗闘というものはシビアであり熾烈なものであるのでしょう。
「公安の魔物」と言われる住本というキャラクターはそういった熾烈さを象徴しているキャラクターなのですよね。
ドラマを観ていないので何ともいえないのですが、本作においては、住本という人物の描写には彼の感情やその背景といったものはほとんどなされていません。
国家間の影の戦いには個人の感情が入り込むすき間というものはないのかもしれません。
「国益とは何なのか?」と住本が問われる場面がありますが、彼はそれに明確に答えていません。
彼は守るべきものをどのように思っているのか、知ってみたい気がします。
しかし、どうも思っていないかもしれません。

<最後にちょいネタバレ>

拉致された香織の娘が、日本で発見されたシーンがありました。
なんで日本で、それも拉致した側が周りに誰もいないのは何故?と思ったのですが、それは最後に明かされました。
人の感情(特に怒り)を操ることにより、人を思う通りに動かす、これこそが「公安の魔物」と言われる所以かもしれません。
彼が個人的な感情を一切出さずに任務に向かうというのは、かえって良いのかもしれません。
彼が自分のために、その力を使ったら、とてもおそろしいことになるかもしれないとも思うのです。

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本 「悪夢のクローゼット」

木下半太さんの「悪夢」シリーズの最新作です。
「悪夢のエレベーター」を読んだとき、そのおもしろさにびっくりして、その後の木下さんの作品は追いかけるようになりました。
この作品はほぼワンシチュエーションであり、登場人物も限られた中で、全く先を読ませない展開でぐいぐいと引き込んで読ませてくれます。
特に後半のどんでん返しの連続は読むのを止められないほどでした。
木下さんはもともと舞台出身なので、こういったワンシチュエーションは得意とするところなのかもしれません。
しかし「悪夢のエレベーター」「悪夢の観覧車」まではそういった勢いのような感じがありましたが、その後の「悪夢のドライブ」「悪夢のギャンブルマンション」「悪夢の商店街」はややもの足りない感じもありました。
トリッキーな仕掛けが木下さんらしさではあるのですが、そちらのほうを意識しすぎているというような感じがしていて、なんとなくバランスが悪いような気がしたものです。
けれども本作「悪夢のクローゼット」は初期の「悪夢のエレベーター」に匹敵するようなおもしろさでありました。
限られたシチュエーションであるというのも共通点ですが、何度となく起こるどんでん返しも健在。
ストーリーが展開していくに従い、限られた登場人物、なかでも主人公、そしてもう一人のキャラクターの背景が次第に明らかにされていきますが、これにより物語に引き込まれていきます。
その背景というのが、本作で展開されるミステリー、またトリックなどに密接に関係してくるという構成もさすがです。
久しぶりにキレ味のよい「悪夢」シリーズを読ませていただきました。

「悪夢のクローゼット」木下半太著 幻冬舎 文庫 ISBN978-4-344-41743-4

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2012年6月16日 (土)

「スノーホワイト」 スノーホワイトが象徴するもの

みなさんご存知グリム童話の「白雪姫」、こちらを新解釈で映画化したのが本作品です。
ポスター等で見かけるクリステン・スチュワート演じるスノーホワイト(白雪姫)の甲冑姿が印象的ですよね。
新解釈ですが、もちろん「7人の小人」も「毒リンゴ」も出てきます。
こういった童話を新解釈で映画化というのは最近よくあるパターンですが(「赤ずきん」とか、「アリス・イン・ワンダーランド」も入れてもいいかもしれません)、アイデア先行となってしまいものすごく良かったという感じではなかったのは正直なところ。
そういうことで期待値は高くないところで観に行ったからかもしれませんが、意外に楽しめました。

本作ではスノーホワイトだけでなく、シャーリーズ・セロンが演じるラヴェンナ(継母)にもスポットをあて、この二人の女性を対象的に描いているところが、見応えをあげていると思います。
この二人の女性は象徴的な意味で対立した存在となっています。
まずスノーホワイトという存在が象徴しているのは、「若さ」であり「生命」です。
本作のスノーホワイトはまさに地母神的な存在であり、「大地」を表していると思います。
古来より東洋でも西洋でも、すべての生命の源となる地母神という存在が伝説などで出てきますが、「母」という文字があるように、生命を産み育む「大地」は女性の属性を持つことが多いのですね。
それを強調しているのが、スノーホワイトが毒リンゴを食べて一度死に、そして再び甦るという童話でもおなじみのシチュエーションです。
「死」そして「再生」というのは、まさに「大地の営み」そのものであり、また受け継がれていく「生命」そのものでもあるわけですね。
本作の中でもスノーホワイトは「死」そのものを否定しているわけではなく、むしろ受け入れています。
「生命」はやがて死に、そしてまた「再生」する。
彼女はそういった営み・サイクルを象徴しているのです。
対してラヴェンナが象徴しているのは、「老い」です。
ラヴェンナは、死を含めた生命の営みを受け入れているスノーホワイトとは異なり、老いて死ぬことを止めようとあがく姿を見せます。
彼女は「死」や「滅び」から、懸命に魔法をつかって逃れようとします。
このラヴェンナの姿は、魔法ではなく科学を使って、自分の繁栄を永遠のものにしようとする現代の人間にも通じるもののようにも見えます。
ラヴェンナは魔法を使って、若い女性から生気を抜き取り、自分の若さを保っています。
これは地球、そしてそこに生きる生命から様々な資源を搾取して文明を維持する人間の姿にかぶります。
そう考えると、スノーホワイトという存在は、昨今語られている地球及びその生命との共存を図っていこうとするエコロジカルな考え方の象徴とも見ることができます。
またスノーホワイトが妖精のいる森で、大きな白鹿に出会う場面がありました。
おそらく多くの人がこの場面で「もののけ姫」を思い浮かべたと思います。
本作の白鹿は「もののけ姫」と同様に生態系を目に見える形で表したものと解釈でき、白鹿にスノーホワイトが祝福されたことから、彼女が「生命の営み」の象徴であると考えられます。
さらにはその白鹿を弓で射ったのがラヴェンナの配下の者であるということで、やはりラヴェンナは生態系と対立する存在であると印象づけられます。
実の弟さえ見捨て、自分だけ若くいたいということを願ったラヴェンナが、最後にやはり滅んだということは、他の生命を犠牲にして文明を維持していこうとする人類の行く末を想像させます。
ちょっと読み過ぎなところはあるかもしれませんが、思いのほかいろいろと考えることのできる作品だと思いました。

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2012年6月11日 (月)

「HOME 愛しの座敷わらし」 家族の中心

海外出張の機内で「HOME 愛しの座敷わらし」を鑑賞しました。
前日鑑賞した「幸せへのキセキ」も家族再生の物語でしたが、偶然にも本作もそうでした。
食品メーカーに勤める高橋晃一は岩手へ転勤(いわば左遷)となり、新居として古い茅葺の民家を住処として決めました。
妻の史子、長女の梓美、息子の智也、母親の澄代の家族もいっしょです。
史子は家族を一所懸命支える心優しい女性ですが、なにぶん都会暮らししかしたことがなく、田舎の暮らしに不安がいっぱいでした。
梓美は前の学校でいじめにあっていたらしく、新しい学校でも同じようなことをされるのではないかと彼女も不安な気持ちを抱えており、それが家族へ反抗的な態度として表れています。
智也は田舎の暮らしに興味をもちますが、小さい頃から喘息を持病としてもっており、やりたいことができないのがずっと不満でした。
澄代も田舎暮らしには不満はありませんが、少し認知症の気配が現れてきていたのです。
実は高橋家は東京にいるときから家族の間にはギクシャクしたところがあり、晃一は今回の転勤で環境を変えることにより、それが少し改善されるんではないかと考えたわけです。
晃一も母親いわく「ものわかりのいい子」で周囲となるべく波風を立てずに生きてきたタイプです。
娘の梓美が悩みを抱えているのはわかっていてもそれを踏み込んで聞いてあげることはできませんでした。
そんないろいろな問題を抱える高橋家が暮らす民家で不思議な現象が起こります。
見えないけれど何かがいる…。
それは座敷わらしでした。
高橋家の面々はその見えない存在を受け入れ、家族のように扱います。
冒頭に書いたように本作は家族の再生を描いた物語で、「幸せのキセキ」とも似通ったところがあります。
晃一は娘の梓美に妻の様子がおかしいので手を貸しくれと頼みます。
実は史子は座敷わらしを見えているのが自分だけではないかとなやんでいただけなのですが…。
けれど梓美にとって自分を頼って父親が力を貸してくれと言ってくれるのは嬉しかったに違いありません。
自分のことを信用してくれているのと、そして父親の気持ちというものが見えたからです。
このあたりは「幸せへのキセキ」でディランが「助けてよ」と言うシーンにも通じるところがあります。
また晃一が本社で「見えないけれど確かにあるものがある」と言う場面があります。
これは晃一曰く「愛」ということですが、見えない「愛」は何も言わないとやはり見えないままなのですね。
家族であり、血がつながっていて、近くに住んでいても、何も言わなければ伝わらない。
やはり本音を言うということが、家族の絆を深めることになるのでしょう。
高橋家にとってそのきっかけとなったのが座敷わらしであり、そして家族の中心としての場となったのが囲炉裏だったのですね。
結局晃一は本社に呼び戻されることになり、再び一家は東京に戻ります。
けれど以前のようにバラバラになることはないでしょう。
本音を語り合えるようになりましたし、また座敷わらしもいることですから…。

梓美が転校するところのシーンはうるっときてしまいました。
梓美を演じているのは「告白」にも出演していた橋本愛さん。
こういう陰のある役が似合いますね。
本作では前半の暗さと後半の明るさの落差が魅力的でありました。

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2012年6月 9日 (土)

「幸せへのキセキ」 20秒の勇気

邦題の「幸せへのキセキ」、最初聞いた時は「幸せのキセキ(奇跡)」の方が日本語として正しいのでは?と思いましたが、観終わって考えると「幸せへのキセキ(軌跡)」なのですね。
ダブルミーニングだったわけか〜。

愛する妻であり母を病気で亡くしてしまったミー一家。
父、息子、娘、それぞれに心に悲しみを背負い、だんだんとギクシャクしていきます。
特に父親ベンジャミンと、息子のディランは気持ちのすれ違いが深刻になります。
そんなときベンジャミンは新しく環境を変えようと家を購入しますが、そこにはなんと休園している「動物園」がついていました。
ベンジャミンはその動物園を再開すること目指し、活動を開始します。
本作はその動物園が立て直しをされていく軌跡を描きつつ、ミー一家の絆が再生されている軌跡も描きます。
ベンジャミンにとって妻、そして家族というものは、何においても大事なものであったのでしょう。
ですから彼にとって妻を失ったことというのは大変に大きな喪失感を与えます。
けれでもベンジャミンは残された子供たちの世話をし、なんとか家族の絆を取り戻そうとします。
しかし彼の中にはやはり大きな喪失感はあったわけなのですが、それを子供たちの前でさらけ出すわけにはいきません。
たぶん基本的には彼は前向きな男なのでしょう、そういった悲しみを抱きつつも彼は動物園と家族の再生に懸命になります。
ディランも母を失った喪失感を持っています。
行動力がある父とは違い、ディランはどちらかと言えばおとなしいタイプの子供なのでしょう。
だから彼の悲しみは内へ内へとはいっていき、家族への心の扉も閉ざします。
すれ違う父と息子は中盤で激しく対立します。
そのときディランは「僕のことも助けてよ!」と言います。
彼は悲しみの中で一人もがき、苦しんでいました。
けれど父に対して「助け」を求めることはできないでいました。
またベンジャミンも父親の義務を果たそうとし、自分の悲しさ、苦しみを子供たちにされけだすことをしません。
たぶん二人ともそれぞれ、「家族だったらわかってくれるはず」「家族なのにどうしてわかってくれないんだ」という気持ちを持っていたのだと思います。
でも近しいからこそ言えない、言いにくいということはあるわけですね。
弱い部分を見せるというのは家族であっても、できないことです。
家族だからこそというのもあるかもしれません。
自分の気持ちを、家族に伝える、そうすることにより絆は再生されるのかもしれません。
ベンジャミンとディランもあの喧嘩で初めて相手の気持ちを理解し、そしてまた相手に自分の気持ちが伝わったと思ったのではないでしょうか。
「20秒の勇気」という言葉が本作では出てきます。
これはベンジャミンが妻へ告白するとき、また息子のディランが動物園を手伝う美しい少女リリーに想いを伝えるときに出てくるキーワードですけれども、これは家族同士が本音を言うときにも通じることかもしれません。
近しい存在だからこそ言えないこと、それを言うときの「20秒の勇気」。
その勇気を持てれば、家族はもっと繋がれるのかもしれません。

本作を観に行った大きな理由の一つは、ディランが恋する相手であるリリーを演じるエル・ファニングでした。
「SOMEWHERE」「SUPER 8」で注目されたティーンの女優ですが、彼女はやっぱりいいですね。
直近の2作も、本作もそうなのですが、彼女の笑顔は無垢な感じがするのですよね。
ディランが惚れてしまうのもわかります。
スカーレット・ヨハンソンも相変わらず美しくてよいです。
リリーとは違い、しっかりと男っぽいタフさを持っているケリーを演じていますが、これがまたぴったりとしていていいです。
彼女は大人っぽい色気がありますが、役柄に合わせてその色気を自在にコントロールできるところが、またいいです。
あとベンジャミンの娘ロージー役のマギー・エリザベス・ジョーンズ、これがまた格別によいです。
まさに「おしゃまさん」といった感じのロージーを「地?」とも思えるような演技で演じています。
この子の表情がまたいいんですよね。
家族の再生、父と息子の対立といった重くなりそうな題材がロージーの存在によりずいぶんと和らげられた感じがしました。
三人の世代が違う女優の可憐さ、麗しさを観に行くのという見方も本作はありですね。

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2012年6月 5日 (火)

本 「三四郎」

日露戦争後の時代、九州の田舎から上京してきた学生、三四郎の周囲の人々との交流を描く、夏目漱石の作品です。
「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」のような風刺が効いた軽妙さがあるわけでもなく、後期の「こころ」などの深刻な心理などが深く描かれるわけではなく、どちらかというと淡々と物語が進んでいきます。
「草枕」はちょっと雰囲気が近いかな。
淡々と進んでいくので、ちょっと読み進めるのに力がいるという感じはしますね。
三四郎が自身で言っているように、彼が東京に出てきて認識するのが三つの世界です。
一つ目が母が属する世界、言わば彼の生まれ故郷の世界で、彼が上京していなければ彼のすべてであった世界です。
二つ目が本作の登場人物である野々宮に象徴される学究の世界。
野々宮が自身の研究室を穴蔵と言っているように、それは周囲と没交渉であり、そして自分の好きなことに耽溺できる世界と言えます。
三つ目が三四郎が思慕する美穪子が中心となる華やかな世界。
これは愛に溢れる世界であると言えるでしょう。
三四郎はそれぞれの世界にそれぞれ惹かれるものを感じ、その3つをすべて満たした世界を目指したいと考えます。
それは青年らしい願いでありますが、現実というものはそう上手くはいかないというのはみなさんがご存知でしょう。
一つ目の世界というのは、もっと抽象的にいうならば「安定している世界」と言えるでしょう。
居心地がよく、いつもの通りにことは進み、時間は流れる。
三四郎は故郷の母に、何度も幼なじみと所帯を持つようにと薦められています。
それはそれで幸せな生活かもしれませんが、そこでは変化や冒険といった心躍るようなものは「安定」と引き換えに持ちうることはできないのです。
二つ目の世界は現代でいうならば、好きな仕事に打ち込んでいける状態と言えるかもしれません。
そこには発見もあり、やりがいもある。
そして自分のペースで好きなことをやるという自由さもある。
けれどもそこには、愛といった安らぎであったり、ドキドキするような気持ちはありません。
三つ目の世界が、華やかな「恋愛」の世界であると言っていいでしょう。
結婚や生活といった「安定」ではなく、恋や愛というドキドキするような感情のやり取りのある世界。
三四郎があこがれる美穪子がその象徴であり、彼女は三四郎に思わせぶりなことを言ったり、行ったりして彼の気をもませます。
そこにはドキドキするような気持ちはあっても、心安らぐということはないのかもしれません。
乱暴な言い方をするのであれば、一つ目の世界は「結婚」「生活」「安定」、二つ目は「独身」「仕事」「知能」「発見」、三つ目の世界は「恋愛」「感情」「疑心」といった言葉で象徴できるかもしれません。
二つ目と三つ目の世界はドキドキする気持ちというのは同じなのですが、その種類が違います。
二つ目は知的なドキドキ、三つ目は感情的なドキドキと言ったところでしょうか。
一つ目の世界にはそういったドキドキはないですが、不安定さもありません。
また二つ目と三つ目は「仕事」と「恋愛」どっち選ぶじゃないですが、両立することはけっこう厳しい。
そういう意味で三四郎が三つの世界をすべて持ちたいというのは、青年らしい思いであり、それはいずれどこかで挫折するということは想像に難くありません。
この物語の最後では三つ目はもろくも崩れるわけですが。
自分の将来を夢想する、それも想像力豊かに大きくというのは青年期ならではの行為であり、本作が青春小説と言われるのも、なるほど納得することができます。
三四郎がやがて、どの世界を選ぶかというのは本作では描かれません。
どの世界を選ぶか、そしてどの世界を諦めるかということをしたとき、人はいい意味でも悪い意味でも大人になるということなのかもしれませんね。

「三四郎」夏目漱石著 角川書店 文庫 ISBN4-04-100107-2

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2012年6月 4日 (月)

本 「坂の上の雲」

司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」を読み始めたのは、NHKのドラマがきっかけ。
3年越のドラマが終わってもまだ読み終えておらず、えらくペースが遅かったですが、ようやく最終巻まで読み終えました。
ご存知の通り、「坂の上の雲」は日露戦争を題材としています。
日露戦争はほんの百年くらいまえの出来事なのですが、意外と小説や映画の題材になることはありません。
なのであまり日露戦争の詳しく知る方というのは少ないのではないでしょうか。
かくいう僕もそういった者の一人でした。
旅順攻略、奉天決戦、日本海海戦など部分的には知っていましたが、戦争全体の趨勢についてはそれほど知っていたわけではありません。
司馬遼太郎さんは本作で日露戦争に至る明治という時代、そしてその時代を生きる日本人の精神を描き、さらに日露戦争開始後からはその日露双方の戦略・戦術の分析を行っています。
日露戦争を題材にする小説や映画がなかなか作られなかったというのも、完成度の高い司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」に挑むことに人々が躊躇したというのもあるかもしれません。
司馬遼太郎さんがあとがきでも書いているように日露戦争の頃の日本人は楽天主義でありました。
それは明治維新後50年ひたすらに先進国に追いつくべく突き進み、無理をしながらもその背中が見えてきたという時代であったかもしれません。
頑張ってその成果がでている、手応えを感じるというのがあの時代の楽天主義に繋がっていたのかもしれません。
またその楽天主義の裏には、追いつかなくては日本という国がどうなってしまうかわからないという危機感もありました。
そういった楽天主義と危機感が、日本を日露戦争へ誘い、そして結果、勝利を得ることができました。
日露戦争とは日本が先進国へ仲間入りしたことを宣言するものでもありました。
そしてそれは日本人が大いに自信をつけることになったのです。
けれどこの戦争は日本にとって先進国入りをしたというだけでなく、大きな歴史の転換点でもありました。
日本が得た自信はやがて、慢心となり、その後の太平洋戦争へと繋がっていくのです。
そのあたりの危うさは司馬遼太郎さんもこの作品のなかで何度も触れていました。
太平洋戦争は悲惨な敗北として終わり、日本は再び先進国から脱落する結果となったわけです。
この作品が書かれたのはちょうど僕が生まれた頃で、日本が高度経済成長の時期に重なります。
現代を生きる僕がこの作品を読むと、日露戦争直前の日本の楽天主義というものは、高度経済成長下の日本人にも通じるところがあったかなと思いました。
右肩上がりで経済は成長し、戦後の悲惨な状態からどんどん生活はよくなっていく。
そして先進諸国へ経済も追いつき、そして追い越そうかというほどの勢いを日本は持っていました。
そういった右肩上がり感を信じるその頃の日本人は、日露戦争直前の楽天主義にも通じるような気がします。
やがて日本はアメリカに次ぐ経済大国となり自信を深めます。
そしてその自信は、やはり慢心となり、そしてその末路としてバブル崩壊と繋がっていくのです。
これは戦争というかたちをとっていませんが、日露戦争から太平洋戦争への道筋とオーバーラップします。
もしかすると司馬遼太郎さんは高度経済成長下の日本人に、日露戦争時の日本人と共通する危うさを感じたのかもしれないなと思いました。
日本人というのは何度イタい目にあっても変わらないということでしょうか。
ただイタい目にあってもそこから復活しようとするたくましさとういのも日本人は持っているのだと思ったりもしました。

「坂の上の雲(一)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-710576-4
「坂の上の雲(二)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-710577-2
「坂の上の雲(三)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-710578-0
「坂の上の雲(四)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-710579-9
「坂の上の雲(五)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-710580-2
「坂の上の雲(六)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-710581-0
「坂の上の雲(七)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-710582-9
「坂の上の雲(八)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-710583-7

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2012年6月 2日 (土)

「ダーク・シャドウ」 ティム・バートンなのに前向き感あり

ティム・バートン&ジョニー・デップコンビの作品は本作で8作目!
ほんとに相性が良いのですね。
ティム・バートンの作品には共通した題材があります。
周囲の人々とは異質な存在(外見だったり、内面だったり)が、愛したいし愛されたいのに、その異質さ故にそれができない、というようなことがしばしば描かれます。
一番それが如実に現れているのが、ジョニー・デップと初めて組んだ「シザーハンズ」でしょう。
主人公ではないですが「バットマン・リターンズ」のペンギンなどもそういうところがありますね。
本作もそういったティム・バートンの傾向が現れている作品だと思います。
ジョニー・デップ演じるバーナバスは、200年前の人間であるということ、そしてバンパイアであるということで、二重の点で周囲の人々との異質性を持っています。
彼はかつての恋人であるジョゼットと瓜二つのヴィクトリアを愛したいし愛されたいし、しかしその異質性ゆえにそれができないという点は今までの作品に通じる部分があります。
ただバーナバスは思いのほか前向きな性格で、自分の時代のときのようにコリンズ家を再興するべく活動したり、ヴィクトリアへの思いについても積極的であったりします。
そういう点では「シザーハンズ」のエドワードのような悲哀のようなものは感じません。
例によってジョニー・デップの外見の役作りの割には、本作は意外と全体的にまっとうな感じがするのは、ティム・バートンの作品らしからぬ主人公の前向きさのためかもしれません。
本作においてティム・バートンらしさが最も強く出ているのは、バーナバスに呪いをかけた魔女アンジェリークであるように思いました。
彼女も魔女であるがゆえに不死であり、そしてバーナバスを愛しているにも関わらず、ずっと拒否をされていた人物です。
彼女こそが周囲との壁を感じ、愛したいのに愛されたいのに、そうできないという苦しみを抱えた人物であったと思います。
アンジェリークがバーナバスに呪いをかけバンパイアにしてしまったのも、彼を「向こう側」ではなく「こちら側」にしたら、自分を愛してくれるのではないかという期待があったのではなかったかと思います。
けれども、そうはならなかった。
愛したい、愛されたいという彼女の思いは、悲しみではなく怒りとなり、愛するものを破壊していくという行為につながっていきます。
これは最初の方にあげた「バットマン・リターンズ」のペンギンに通じるところもあるかなと思いました。
彼もその外見故に周囲に壁を感じており、そして一度は人々に認められるということになったけれども、それもやがてなくなり、そのときの気持ちが怒りへと向かったのでした。
本作は主人公ではなく、その敵役にティム・バートンらしさを感じましたね。
上に書きましたが、主人公が前向きなため、映像は暗めではあるのですけれど、作品のトーン自体は意外と明るい。
そういう点で、ティム・バートン好きとしてはちょっともの足りない感はあったりしました。

バーナバスが愛する女性ヴィクトリアを演じるのはベラ・ヒースコート。
どっかで観たことがあるなと思っていたら「TIME」に出ていましたね(アマンダ・セイフライドのお母さん役)。
ティム・バートンってこういう目がパッチリしてお人形さん的な風貌の女性が好きですよね。
ウィノナ・ライダーもそうですし、クリスティナ・リッチもそう。
ヘレナ・ボナム=カーターもそうかも。
アマンダ・セイフライドもこの系統ですが、グラマーなのでちょっと違うかな。
なんとなく彼は、お人形的な女性を選びますよね。
グラマーだと生々しい感じがして、彼の好み的には違うかもしれません。

「キック・アス」のクロエ・グレース・モレッツも出演していましたが、えらく大人になっていてびっくり。
「キック・アス」の続編の話があったような気がしますが、いけるんだろうか・・・。

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