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2012年4月30日 (月)

「Black & White/ブラック&ホワイト」 予告で全部見せ過ぎ

本作とか、「ナイト&デイ」などのロマンティックアクションは嫌いじゃないのです。
監督は「チャーリーズ・エンジェル」のマックGです。
本作もノリ的にはマックGらしい感じがします。
いい意味でも悪い意味でも、あんまり小難しく考えずに観れます。
ま、これも映画のひとつの楽しみ方ですよね。
予告を観ると、CIAのスパイコンビが同じ女性ローレン(リース・ウィザースプーン)を好きになって、恋のライバルになってしまうというストーリーということがわかります。
それぞれがCIAの情報収集力を職権乱用で利用て、相手を出し抜こうとするわけですね。
ロマコメ要素が強そうでお話的には面白そうということで、観に行ったわけです。
観てみると、確かに予告編で描かれていたようなストーリーです。
しか〜し!
予告編でいいところ全部見せ過ぎ!
本編はもっとすごいことになっているじゃないかと期待するではないですか。
予告編以上のなにもないという本編も考えものですが、もともとこういうロマンティックアクションに深いことは期待していないわけで、どこまで観る前のワクワク感を満足させてくれるかというところが重要なわけです。
でもいいところを全部予告で見せちゃっているので、それ以上の満足が得られるわけでもありません。
ストーリーは軽妙だし、アクションなどもそれなりに見せ所もあるし、コメディ的な笑いの要素もある。
作品的にはこの手の映画としては悪くはないと思います。
しかし全部予告で観ちゃっている。
この作品、予告観ないで、観賞したらもっと満足感が得られたかもしれないなぁと思いました。
ローレンの親友でビッチな発言をしまくるトリッシュが、個人的にはツボでした。

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本 「夜は短し歩けよ乙女」

「四畳半神話体系」等の森見登美彦さんの作品です。
森見さんは京都大学出身の作家さんですが、「鴨川ホルモー」の万城目学さんも京都大学出身ですよね。
このお二人の作品、読んでるとちょっと似たようなニオイを感じたりするのですよね。
ちょっと浮世離れした京大生の描写とか、ちょっと古典的な印象のある文体、日常と非日常がまじったような感じ(「四畳半神話体系」のときのレビューでは「ビューティフル・ドリーマー」的と書きましたが)が、なんか共通しているような感じがします。
そういえば、本作でも学園祭のエピソードがでてきますが、これもよく考えれば「ビューティフル・ドリーマー」的ですね。
これは京大、もしくは京都という土地がらがもっているものなのでしょうかね。
歴史が長く古い街なので、実は非日常的な物事の片鱗というのが言い伝えなどであるからかもしれません。
お二人の生年月日を見ると3歳差なので同じキャンパスですれ違っていたかもしれませんね。
本作「夜は短し歩けよ乙女」も森見さんらしい作品と言えます。
日常的な場面を描いているかと思うと、実は非日常的というか。
というより非日常的な出来事を、日常的に描写しているっていうのが正しいかもしれません。
本作では京都の学生の非日常的な日常を描いているのですが、その芯はラブストーリーです。
主人公は京大の男の学生(作品中では名前はでてこない)。
これまた万城目学さんの作品と共通しているところなのですが、どうも京大の学生というのは、ダサい、弁はたつけどやや鬱陶しい、恋愛ベタというのがスタンダードなイメージなんですかね。
ちょっとこの冴えない感じの青年が、日々悶々と外堀を埋める作業(好きな女の子にお近づきになるための準備)をしているというのは、同じく恋愛ベタな自分としては十分に共通するところであったりして共感しちゃいます。
このあたりのダサさ加減は東京のスマートな学生にはないようなところですね。
だからこそ共感できたりするわけです。
ラブストーリーとしてもハッピーエンドに終わるので、読後感も非常によろしい。
いい気分で読み終えられます。
文庫版のあとがきは漫画家の羽海野チカさん(「ハチミツとクローバー」「3月のライオン」等)がイラスト付きで描いています。
このキャラクターのイラストが、またイメージにぴったり。
羽海野さんの画にあっているなぁ、本作は。
この画でアニメ化してほしいくらい。
解説では羽海野さんが、気に入ったセリフを書き出してますが、これがまた羽海野さんぽくもあるなぁと共いました。
是非アニメ化を。

「夜は短し歩けよ乙女」森見登美彦著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-387802-4

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2012年4月29日 (日)

「テルマエ・ロマエ」 濃ゆい人祭り

日本の風呂文化というのは世界の中でも類いまれなものだと思います。
江戸時代から銭湯といった公衆浴場が発達していましたし、現代はほとんどの人は毎日お風呂に入るのが当たり前でしょう。
家を建てたりするときも浴室はけっこうこだわる方が多いのではないでしょうか。
清潔に保たれるかどうか、癒される空間になっているかどうか、とか。
海外へいくとけっこういいホテルでも浴室は殺風景だったりしますものね。
トイレと同じように用を足すところといった感じで(日本人のトイレへのこだわりも半端ないけど)。
かくいう僕も一時期、マイブームで銭湯ブームというのがありまして、休日になるといろんな銭湯を巡ったときがありました(本気で銭湯のホームページを作ろうと思ったこともある)。
特にスーパー銭湯というのは優れたアメニティ施設で、低料金でいろんなお風呂が楽しめる!、1日いても1000円もかからない!、という風呂好き日本人の大発明と言えます(きっぱり)。
ルシウス(本作の主人公)が来たら、卒倒するに違いありません。
そのルシウスが暮らしていた古代ローマ時代、そこではテルマエと言われる公衆浴場が発達していたというのは、みなさんも耳に挟んだことはあるかもしれません。
風呂文化が花開く現代日本と、テルマエが発達した古代ローマを結びつけるという奇想天外な発想をしたのが、本作の原作であるマンガ「テルマエ・ロマエ」なのです。
原作者の10代にイタリア留学をしていて、旦那様もイタリア人ということですので、その両者を結びつける発想ができたのでしょうね。
マンガは500万部の大ヒットとなりました。
そこに目をつけて映画化話が持ち上がったのでしょう。
しかし、たぶんそこで障害があったのではないでしょうか。
誰が「演る」のかと。
ローマ人が主役なのでイタリア人が演じればいいのでしょうけれど、知らないイタリア人が出る風呂の映画など誰も観たいと思わないでしょう(僕も)。
そこで制作者の誰かの頭にキャスティングが閃いたに違いありません。
「彼ならば!」と。
日本人離れした彫りの深い顔立ち、外国人に見劣りしない身長、堂々たる肉体美を併せ持つ男、そう「阿部寛」ならば!
古代ローマ人を阿部寛さんが演じるということならば、風呂文化に興味なくてもちょっと観てみたい気がするでしょ?
観てみましたが、ルシウスは阿部寛さんしか考えられないというほどのハマりっぷりでした。
このキャスティングができた時点で、この映画の話題作りは勝利したとスタッフは確信できたことでしょう。
そうそう、ヒロインの真実が初めてルシウスにあったときに「ケンシロウ?」っていうのは、阿部さんがアニメの劇場版の「北斗の拳」でケンシロウの声をあててたからですね。
見た目もケンシロウっぽいけど
そしてまた脇をかためるのも、日本を代表する濃ゆい顔の方々で。
市村正親さん、北村一輝さん、宍戸開さん。
濃い!濃ゆすぎる!まるで煮詰めた中濃ソースのようだ!
ローマ人にぴったり過ぎる、ナイスなキャスティング。
あ、濃ゆい顔の竹内力さんも出てましたが、日本人役でした(笑)。
ヒロイン役は上戸彩さん。
最近流行の彫りの深いモデル系美女ではなく、「平たい顔族」的にの美人をキャスティングしたのもナイスジョブ。
笹野高史さんなどもいかにも「平たい顔族」でしたよね。
ローマと日本の対比がわかりやすいキャスティングでした。
個人的にはこのキャスティングでほぼOKな感じで楽しめました。
でも意外にもローマと日本の風呂文化の造詣も含められているので勉強になります(役に立つかどうかはしらないが)。

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2012年4月28日 (土)

「タイタンの逆襲」 やっぱり記憶に残りにくい作品

2010年に公開された「タイタンの戦い」の続編です。
続編が作られるのはけっこう意外でした。
前作はすごく面白かったとか、成績が良かったとか、あまりそういう印象がないので(「インモータルズ」と記憶がけっこう混じっているし)。
とりあえず思い出そうと自分のブログの過去記事を見てみたら「記憶に残りにくい作品」というタイトルをつけていました(爆)。
やっぱり、その通りの結果に・・・。
では、その続編である本作はどうだったかというと、やっぱり記憶に残りにくい作品だと言わざるを得ません。
というより、あまり面白くなくて、途中で数度落ちていました・・・。
前作もそうでしたが、映像的にはがんばっているとは思うのです。
でも「インモータルズ」のように、こだわり抜いたビジュアルということでもありませんでしたし、最近のアクション映画の中では平均点と言ったところでしょう。
で、お話がおもしろいかというと、また何か新しいところを感じるようなストーリーではありません。
よくある話と言ったら、それまで、という感じでしょうか。
いいところを挙げるとしたら、ゼウスのリーアム・ニーソンとハデスのレイフ・ファインズのキャスティングですね。
この二人は並んで立つと、見栄えがあります。
前作はもっとキラキラした衣装だったような気がしましたが、本作は神様も地味目でしたね。
落ち目だから・・・?
あまり取り上げるところがなくて、こちらは短めの記事で勘弁してください。

前作「タイタンの戦い」の記事はこちら→

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2012年4月27日 (金)

本 「ペリー」

幕末期を舞台にした小説はそれこそいくつもありますが、外国人の目線から描いた作品というのはあまり見かけません。
佐藤賢一さんの本作「ペリー」はそのタイトルの通り、黒船を率いて日本に開国を迫ったペリー提督から見た日本というものを描いています。
ペリーという人物については必ず歴史の教科書にはその名が出ているので、知らない人はいないはず。
しかしその人の背景について知っている人はあまりいないのではないでしょうか。
かくいう僕もその一人です。
幕末期の物語は好きで、映像作品や小説もいくつも観たり読んだりしましたが、そういえばあまりペリーのことは知らないなぁと。
本作を読むとペリーという人物の背景、またアメリカが日本に開国を迫った理由などもわかります。
佐藤賢一さんは実際の歴史を題材に作品を書く方ですので、このあたりの料理の仕方は手慣れたものです。
ただ作品としては少々物語についてもの足りないところもありました。
ドラマチックさというか、意外性はあまりありません。
このあたりは実際の歴史をベースにしているということの不自由さはあったのかもしれません。
作品の中でペリーが日本と開国について交渉する場面があります(日米和親条約を結ぼうとしているところですね)。
そのときのペリーが日本人に対してこのように思ったというのがこのように書かれています。
「なにもジャパンは敵意を剥き出しにしているわけではない。慇懃無礼な態度でよそよそしいわけでもないく、むしろアメリカに対しては、こうして心慰められるくらい誠実な友情を惜しみなく示すのだ。
ただ容れるところは容れ、断るところは断る。そうした当たり前の態度を堅持しているだけだ。」
無論、小説ですので実際のペリーがこのように思ったかどうかはわかりません。
しかし当時の日本がこのように外国と交渉をしていたのだとしたら、昨今の外交下手は退化と言えるでしょうね。
アメリカを始め、周囲の諸国が日本に対してイライラとしているのは、のらりくらりとしていて交渉がなかなか先に進まないことでしょう。
今こそ「容れるところは容れ、断るところは断る。そうした当たり前の態度を堅持」することが大事なのではないかと思いました。

「ペリー」佐藤賢一著 角川書店 ハードカバー ISBN978-4-04-874222-1

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2012年4月23日 (月)

本 「スティーブ・ジョブズ」

僕は「尊敬する人」は誰かと聞かれた時、挙げられる人があまりいないのですが、そういう自分でもスティーブ・ジョブズは「尊敬する人」になるような気がします。
「尊敬する人」というより「憧れの人」なのかもしれません(あとはスピルバーグか)。
ジョブズの存在を知ったのは大学生の頃でしょうか。
その頃、先生の手伝いをして、しこしことPC(NECの98だったと思う)に数値を入力していたのです。
これが一日ずっと数字とにらめっこ。
どこかで入力ミスをしたら台無しという、なんだか機械に使われているような気分になったものでした。
そんなとき隣の研究室では不思議なコンピューターを使っていました。
表のような画面に数値を入れて、マウスというツールでそれらを選んで、なにかしらの操作をすると、あら不思議グラフができあがちゃうわけです。
機械に人が使われるのではなく、人が機械を使って何かをしようとしているという感じがしました。
そのコンピューターがMacintoshと知り、それを作った会社がAppleという会社であると知りました。
そしてその会社を作ったのがスティーブ・ジョブズであるということも。
ちなみに最初に見た表計算のソフトはExcelでした。Excelは最初はMacintosh用にリリースされたのです。
その後、メーカーでデザイン部門に勤めることとなり、その時はちょうどその業界にもコンピューターが導入される時期であったので、工学系出身ということもあってMacintoshをどうやって活かして使うかということを考えることになりました。
その頃のMacintoshは軽自動車くらいの金額はする代物で、自分で手に届くようなものではありませんでした(しかし、3年後にはボーナスを全額突っ込んで結局自腹で7500を買ったのでした)。
Macintoshはジョブズが言っているようにクリエイティブなものを生み出す人のためのツールとして最適でした。
学生の頃に感じた機械に使われている感じというのはあまり感じず、その頃のMacintoshは機嫌が悪いと全く仕事をしてくれないという人間らしさ(?)もあり、なにか相棒のような愛着を感じさせるものでした。
結局7500から始まり、家のデスクトップのMacintoshはすでに4代目となっています(他にもノートはいくつか所有しましたが)。
ジョブズが「憧れの人」というのは彼が作ったプロダクトによるだけではありません。
彼のものの考え方に対し、僕は非常に共感があり、ひとつの指針になっているとも言えます。
彼の考えで一つ大きいのは「シンプルさ」です。
彼の作ったプロダクトであるMacintoshでもiPhoneでもわかるとは思いますが、余計なものは一切つけない。
極限までシンプルにするというこだわりです。
僕もデザインに関わっている者として、いつも考えるのがシンプルさなのです。
なるべく余計なものは入れたくない(とはいえジョブズほど神経も太くもないし、力もないのですべてがそうなっているわけではないですが)。
いろいろな要素を入れこんでいくというのは、作り手の大きな要求であるとは思います。
しかし消費者はそれをすべて使いこなしているわけではありません。
家にある機械の能力をすべて理解している人なんているのでしょうか。
消費者が使いやすくする、また理解しやすくするには、極限までシンプルにする必要があるのです。
そのほうがコミュニケーションが早いのです。
僕はデザインをしたり、コミュニケーションのことを考えるときはいつも「シンプルに、シンプルに」と言いきかせています。
あとジョブズの考えで「緊密なコラボーレーション」「同時並行のエンジニアリング」というのがあります。
彼が作ったのはMacintoshというハードのコンピューターだけでありません。
その中で走るOS「MacOS」であり、iTunesのようなサービスであったりするわけです。
ハード、ソフト、サービス、三位一体と言われますが、それぞれで試みた良かった点を、他にもそのエッセンスを展開していくのがジョブズは天才的にセンスがよかったのです。
初代iMacのトランスルーセントの素材感は、その後のMacOSのアクアというグラフィカルなインターフェイスに活きています。
また最近ではiOSのルック&フィールが、ハード的にもソフト的にもMacOSの方に影響を与えています。
とうぜんハード、ソフト、サービスという次元の違うことですが、そのまんま移植できるわけではありません。
そのエッセンス、そのフィールを移植していくことがジョブズはできていたのです。
僕の今の仕事は、パッケージのデザイン、広告コミュニケーション、Web施策、販促施策など消費者へのありとあらゆるコミュニケーションを一括して取り扱うというものです。
これまたそれぞれは次元が違うものなのですが、いつも心がけているのはジョブズが実践していた「緊密なコラボーレーション」であり「同時並行」なのですね。
パッケージデザインで訴求してよかった点を広告にも展開する。
ホームページと広告を連携させて同時並行で進める、などなど。
そこには一貫したフィールというものがあるようにしたいと思っています。
ジョブズには到底及ぶわけもないのですが、そのようにありたいとは考えるのですね。
彼が亡くなったのを知ったのは出張中のときの新幹線の中でした。
かなり驚いたのを覚えています。
たいへん残念なのですが、Appleという会社、そこが生み出すプロダクトやサービスにはまだジョブズらしさが脈々とあるのは嬉しいところです。

ジョブズは「憧れの人」なのですが、「憧れの上司」かと言われるとまったくそんなことはないですね(笑)。
本著を読む限り彼のような人の下にいたらとたんに具合が悪くなるような気がします。
遠くで憧れているのがいいという感じがしますね。

「スティーブ・ジョブズⅠ」ウォルター・アイザックソン著 講談社 ハードカバー ISBN978-4-06-217126-7
「スティーブ・ジョブズⅡ」ウォルター・アイザックソン著 講談社 ハードカバー ISBN978-4-06-217127-4

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2012年4月22日 (日)

「ももへの手紙」 手描きアニメーションについて考えた

アニメーションというのは不思議な表現形態だと思います。
まさに画が動くというのがアニメーションなわけなのです。
最近はCGが発達し、3DCGアニメというジャンルが確立してきました。
技術の進化により、実写映画が3DCGアニメに限りなく近づいたり(「アバター」とか)、逆に3DCGアニメが実写に近づいたり、その境目が曖昧になっています。
ただそこに共通してあるのは「リアル化」なんですよね。
想像力で生まれたものを目に見えるものとして「リアルに」見せることを行っています。
ですのでそういった映画に出てくる想像力で生みだされた産物(クリーチャーでも、異世界でも)はどれだけ「リアルに見えるか」ということが評価になっているわけですね。
想像の産物をリアルにすることにより、実写的な世界に馴染ませるといった感じですね。
けれど、もともとアニメーションというのは「動くマンガ」が出発点であり、マンガにしてもアニメにしても、「リアル化」というよりは「抽象化」「簡略化」している作業なわけです。
そもそもアニメーションというのは「リアル化」というものとは別のベクトルを持っているわけです。
最近日本のアニメーションは手描き表現の見直しが起こっているような気がします。
宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」などもそうですし、「時をかける少女」の細田守監督の作品もそんな感じがします(全然コンピュータを使っていないわけではないですが)。
こういう従来のアニメーションは現実の世界をある種の「簡略化」で画にするわけです。
ですので想像の産物を、実は同じ世界に取り込みやすい。
それは「ポニョ」にしても、本作についてもそう。
「ポニョ」を実写でとったとした場合の気持ち悪さを想像してみてください。
いくら実写でポニョがリアルに表現されたとしても、それは受け入れにくいだろうとういうのは想像に難くありません。
本作の妖怪たちもそうですね。
この物語で展開されるのはとてもリアリティがある題材です。
父親であり夫であった人を、亡くした娘と母親がそれを受け入れ生きていこうと思うまでの物語です。
これは実写でも撮れる題材だと思います。
しかしそこに妖怪たちが絡んでくる。
これを実写でやった場合を想像すると、いくら妖怪がリアルに描けたとしても(そもそもそれが正しいか)とても安っぽいものになるのはわかります。
抽象化されたアニメーションというものは、心情的なリアル感を保ちつつも、妖怪のような想像の産物(ポニョなどもそう)を取り込みやすいという表現方法なのですね。
本作を観ていて思ったのは、人の描写、当然これは抽象化されたキャラクターなわけですが、その仕草、動き、表情にリアリティがあるなということです。
これはキャプチャーしたからリアルというのではなく、誇張された表現でありながらもそこにリアル感、肌感を伴う表現ができているという感じがしました。
また本作はキャラクターが動く舞台となる背景がとにかくきれいです。
これもいうなれば単なる画なわけですが、そこには街の息吹のようなもの、風の流れのようなものを感じられます。
このあたりのキャラクターのアニメーション、背景画というのは日本のアニメーションが元々もっていたものだと思いますが、これがまた見直されているように感じたのです。
肌感のある表現ができる抽象的なアニメーションだからこそ、妖怪のような想像の産物が同じ世界にいても違和感がない。
リアリティすら感じる。
このリアリティとイマジネーションの同居といったものは、実写・3DCGが目指しているのとは違った方向としてありうる選択肢だと思いました。

お話はとても良い話で、すなおにジンとくるものがありました。
というよりけっこう感動してしまったのですが、妖怪などがでていながらも普通にももやその母親の感情がリアルに感じられ、これはどうしてなんだろうと考えた次第です。
ちょっとうまくまとめられていないですけれど・・・。
今後、考えていってみたいと思います。

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2012年4月21日 (土)

「仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦」 ライダーと戦隊のカンケイ

東映の特撮ヒーロー映画は、春夏秋冬のイベントムービーとして定着してきた感があります。
これらの作品は確実に稼げるコンテンツとして少なからず役割を担っていますが、これは突然でき上がったものではなく、少しずつトライアルを行いながら定着させてきた東映の努力があると思います。
夏は「仮面ライダー」シリーズのテレビの終了前後に公開されるので、そのシリーズの集大成的な作品。
秋は「MOVIE大戦」として定着してきた新旧仮面ライダーの「VS」シリーズ。
冬は「スーパー戦隊」の「VS」シリーズ。
そして春はどちらかというと今までは実験的な興行(「電王」の3本連続公開とか、「オールライダー」とか)を行ってきました。
「MOVIE大戦」は本作でも中心となるライダーである「ディケイド」の劇中設定である「ライダー大戦」を拡張したもので、それに「スーパー戦隊」が長らくビデオの企画として実施してきた「VS」シリーズの要素を盛り込んだというものです。
最近はその「スーパー戦隊」の「VS」も劇場で公開後、ソフトリリースされることになってきていて、直近では「宇宙刑事ギャバン」との「VS」という意欲的な企画を行っています。
そして春については「オールライダー」という企画を何度かやりましたが、それを拡張したのが本作の「スーパーヒーロー大戦」なわけですね。
数年前は「仮面ライダー」シリーズで年間一本、おまけで「スーパー戦隊」シリーズの30分程度の劇場版というのが定番でしたが、それを大きく成長させたわけですね。
このあたりはコンテンツをいかに使い倒すかということを東映が試行錯誤しながら切り開いてきたわけで、これには努力が感じられます。
何か新しい試みを行い、それがいけるとなれば、上手にそれを次の作品に取り込んでいく。
こういう普段の努力があればこそではないでしょうか。
例えば「カードで変身」というのは「仮面ライダー龍騎」で初めて行われ(これは「ポケモン」などのカードゲームの流行をキャッチしたアイデア)、その後「ブレイド」「ディケイド」でも行われるのですが、やはり玩具も当たったわけですね。
それを受け、「スーパー戦隊」シリーズでは「天装戦隊ゴセイジャー」で「カードで変身」取り入れています。
また「仮面ライダー555」で変身アイテムとして「携帯電話」を取り入れました。
これは「W」が抜くまでは「変身ベルト」で最も売れた商品となったわけです。
その後、やはり「スーパー戦隊」でも「変身アイテムが携帯電話」というが多くみられるようになります。
どちらかというと革新的なチャレンジを「仮面ライダー」シリーズが行い、それで当たった要素を「スーパー戦隊」シリーズがキャッチアップするというパターンになっているような感じがしますね。
最近の中では最もチャレンジングな試みであったのはやはり「仮面ライダーディケイド」の他の仮面ライダーへ変身できる(多段変身)という設定でしょう。
これは以前もこちらのブログで書いたように、過去のライダーの掘り起こしなどに繋げられ「仮面ライダー」をブランド化することに繋げられた企画であったと思います。
この過去のヒーローに変身できるという設定を「スーパー戦隊」でキャッチアップしたのが、この間まで放映されていた「海賊戦隊ゴーカイジャー」であったわけです。
「ギャバンVSゴーカイジャー」のときの予告で「仮面ライダーVSスーパー戦隊」と観たときはとても驚きましたが、今までの東映の企画の考え方からすると、本作の企画は必然であったかもしれません。

さて本作はすべてのライダーに変身できる「ディケイド」と、すべてのスーパー戦隊に変身できる「ゴーカイジャー(中でもゴーカイレッド)」が中心になります。
とはいえ現在放映中の「フォーゼ」「ゴーバスターズ」も出ますし、また始祖たる「仮面ライダー1号」「秘密戦隊ゴレンジャー」も登場しますし、その他「オーズ」「電王」なども現れます。
「多段変身」「巨大メカ戦」「デンライナーでのタイムスリップ」など要素は多いですし、相当の情報量が盛り込まれている作品です。
ですので「かなりムリムリな展開であるな」というのは正直な感想ですが、逆に「よく帳尻を合わせることができたな」とも思いました。
帳尻があったのは「ディケイド」の門谷司、そして「ゴーカイレッド」のマーベラスのキャラクターの強さがあるかもしれません。
そもそも過去ヒーローがでる作品の主役ということで、それぞれアクが強いキャラクターなんですよね。
他のヒーローに負けない「俺様」な感じが、このキャラクターに共通していると思います。
そういう「俺様」キャラ同士がぶつかるわけなので、それを軸に芯が通った感じがありました。
ただ二人ともそれぞれ仮面ライダー、スーパー戦隊を倒していく役回りなので、ある種ヒールなところがあるわけです。
それを観客側に繋げるのが、「ディケイド」に登場したもう一人のライダーである「ディエンド」こと海東であり、また「ゴーカイジャー」の「ゴーカイブルー」ことジョーであったわけですね。
ジョーは一本気な性格なので、これはまさに観客側にたったキャラクターであり、彼が物語の中心にいるからこそ、ヒールな役(に見える)二人の主人公をつなぎ止められたのだと思います。
これはジョーを中心にするというのはいい判断だったなと。
海東についていえば、どちらかというと物語を動かしていくエンジンのような役割であったと思います。
なんだかいろいろ知っていて、物語を導いていくガイド役といった感じで。
主人公二人が「悪の側かも?」という謎の部分があるわけで彼らに頼って物語を進めるわけにはいかず、別に物語を進めるキャラクターは必要だったわけですね。
最後は海東があんなことしちゃうというのは驚きましたが。
それはそれでひねたキャラクターの代表株である海東らしかったかと思いました。
「ディケイド」のメインライターである米村正二さんが脚本を書いているので、海東の活かし方というのは十分に考えられたものであったと思います。

劇中で「仮面ライダーがいなくならなければスーパー戦隊が生まれない」とか「枠の問題」というセリフのありました(デンライナーでタイムスリップするあたり)。
これは全く当時の状況を知らない人にはわけがわからないところだと思いますので、補足をしたいと思います。
もともと仮面ライダーシリーズ(昭和ライダー)は毎日放送制作で、関東ではNET(現在のテレビ朝日)で放映されていました。
しかし仮面ライダーが「アマゾン」から「ストロンガー」になるときにネットチェンジ(いわゆる腸捻転の解消)が行われます。
現在TBS(東京)と毎日放送(大坂)は同じ系列局(ネット)で、テレビ朝日(東京)と朝日放送(大坂)が同じ系列局です。
しかし「アマゾン」のときまでは、毎日放送のコンテンツをNET(現在のテレビ朝日)で流していたわけなのですね(これがいわゆる腸捻転)。
これを解消し現在のような系列局としたわけですが、問題が発生します。
「仮面ライダー」シリーズはNETからTBSに放映枠が移ってしまうということになったわけです。
そうすると人気の特撮番組を失ったNETとしては厳しいわけです。
そこで新しい特撮番組をということで東映がNETのために製作したのが「秘密戦隊ゴレンジャー」であったのです。
つまりは「仮面ライダー」がいなくなったからこそ「スーパー戦隊」が生まれたということなのですね。
「枠の問題」というのもこの一連のことをさしていると思います。
「ゴレンジャー」が5人のチームというのは、実は「仮面ライダー」にアイデアのヒントがあったのです。
「仮面ライダー」シリーズでは過去のライダーが登場するというイベントの回が何回かありました。
いわゆる「5人ライダー」とか「7人ライダー」とかいわれるものですね。
そのときはものすごく視聴率がよかったということで、「5人のヒーローがチームで戦う」というアイデアが出たそうです。
上段で書いたように、「仮面ライダー」でトライアルし、それを「スーパー戦隊」がキャッチアップするという流れはそもそも最初の頃からあったわけなのですね。
ちょっとしたトリビアでした。

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2012年4月15日 (日)

「バトルシップ」 正しいブロックバスタームービー

昨日観た「ジョン・カーター」はウォルト・ディズニー生誕110年記念作品でしたが、本日観賞の本作「バトルシップ」はユニバーサル映画100周年記念作品。
思い切りかぶせたタイミングで公開するなぁと思っていたら、主演俳優までかぶってて驚きました。
主演はテイラー・キッチュで、昨日の「ジョン・カーター」で初めて認識した俳優さんです(「ウルヴァリン」にも出ていたようだが、あまり覚えていない)。
彼は本作では海軍軍人を演じていますのでほぼ短髪なのですが、物語冒頭の遊び人時代はロン毛だったので「ジョン・カーターじゃん!」と心の中でツッコミを入れてしまいました。
大作へ続けての抜擢なので、有望株ということでチェックしておいたほうがいいのかな。
「ジョン・カーター」はお金をふんだんに使った記念作品の割につまらなくて、昨日の記事ではけちょんけちょんに書いてしまいました。
そういうことで本作についても、やや不安を持ちながら観に行ってきました。
記念作品ということでずいぶん前から予告をやっていましたが、みるからにハリウッドのブロックバスター作品だなと。
けっこうこういうタイプの作品はハズレも多いですからね。
ということで、観た感想ですが・・・、おもしろいじゃないですかー。
いい意味でハリウッドのブロックバスタームービーです。
実は「インディペンデンス・デイ」とか「アルマゲドン」とか好きなんですよね。
この手の作品は荒唐無稽とか、お約束とか言われますが、そのぐらいでちょうどいいんです。
あとから考えるとけっこうご都合主義なところはあるのですが、そのあたりは爆撃とともに勢いでふっ飛ばしてしまうのが正しいブロックバスタームービー。
整合性とか考えて勢いを削いでしまうと、かえって恥ずかしい感じになるんですよね。
いい具合に突き抜けてます。
この2、3年ハイテクノロジーのエイリアンが侵略してくるというパターンの作品が多いですが、本作もその一つに位置づけられるでしょうね。
でも本作が新しいのは、メインとなる戦いの場は海上だということですね。
タイトルの通りバトルシップ、つまりは戦艦で異星人を迎え撃つということになります。
とはいえバトルシップと言っても、本作で前半活躍するのはいわゆる日米のイージス艦(アメリカはイージス駆逐艦、日本はイージス護衛艦<みょうこう>)になります。
イージス艦は先週の北朝鮮のミサイル騒ぎの時にも迎撃のため配備されていましたよね。
ちなみに自衛隊は専守防衛なので駆逐艦ではなく護衛艦(トマホークなどの攻撃用ミサイルはなし)なのですよ。
第二次世界大戦前半は大鑑巨砲主義で戦艦がもてはやされていましたが、航空戦力が発達するに従って、旧時代の遺物となります。
その後は航空戦力を供給する空母、そしてその空母を守る高機動力、防衛力を持った駆逐艦・護衛艦という編成に艦隊はなっていくわけですね。
その最先端がイージス艦で、その名の通り(イージス=楯)防衛力を高めた艦になります。
そのコンセプトは高い索敵力と長距離の攻撃力です。
ようは相手から攻撃を受ける前にそれを察知して、相手に打撃を与えるということです。
しかし本作ではイージス艦の一番の能力である索敵力が無効化(レーダーが使えなくなる)されてしまいます(ミノフスキー粒子でレーダーが使えなくなるようなものか)。
そのため、潜水艦ゲームのように相手の挙動を予想しミサイルを撃ち、そして近接攻撃となる、というような戦いになります。
このあたりは緊迫感がとてもありました。
しかし異星人の圧倒的なテクノロジーにより、その最新鋭のイージス艦も次々に沈められてしまうのです。

<ここからはネタバレあり>

そこで登場するのが、ハワイに係留されていた戦艦ミズーリです。
これは第二次世界大戦後半に建造された戦艦なのですね。
言わばロートルです。
これが最後の決戦で活躍します。
そしてそれを動かすのは引退したベテラン軍人たち。
このあたりはハリウッドのブロックバスターならではの展開。
「インディペンデンス・デイ」で大統領が戦闘機に乗って戦っちゃうとか、「アルマゲドン」で採掘屋が隕石を破壊するとかと同様によく考えると「ありえねーだろ」という展開なわけです。
でもいいんです。
こういうのは勢いですから。
ベテラン軍人たちが登場するあたりは、不覚にもジーンとしてしまうのです。
最終決戦でのミズーリの操船もこれもまた「ありえねー」って感じなのですが、勢いと迫力があるので許します(なんせ戦艦が水上をドリフトしますからね)。
アンカー打って急旋回というのは、「宇宙戦艦ヤマト」でヤマトがアンカーをアステロイドに打ち込んで方向転換をしたのを思い出しましたよ(絶対ネタ元は「ヤマト」のはず)。
海上自衛官として出演していた浅野忠信さん、「マイティ・ソー」のように申し訳程度かと思っていたら、すごい活躍しているじゃないですかー。
すでに書いた「潜水艦ゲーム」的な戦いのところは、活躍していてカッコよかったですよ。
本作、観ていて途中からけっこうテンション上がりましたね。
これぞ正しいブロックバスタームービーっていう感じです。
エンドロール後はなんか次回作作る気満々でしたね。
イギリスだったから、今度は大西洋が舞台となるのかしらん。

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2012年4月14日 (土)

「ジョン・カーター」 ジョブズが観たらなんて言う?

エドガー・ライス・バローズの「火星のプリンセス」の映画化作品です。
「火星のプリンセス」はSFファンタジーの古典とも言うべき作品で、その後の小説や映画などに大きな影響を与えました。
明らかに「スター・ウォーズ」は「火星シリーズ」の影響を受けていると思います。
その古典を「ファインディング・ニモ」を監督したアンドリュー・スタントンが、現在の最新のテクノロジーで実写化を果たしました。
アンドリュー・スタントンにとっては初の実写作品で、最近「ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル」のブラッド・バードといい、ピクサーの監督の実写作品が続いていますね。

さてディズニーも相当に力を入れた本作ですが、申し訳ないですけど全然面白くない・・・。
上で書いたように原作はその後の多くの作品に影響を与えただけあって、そのプロットは何度も観た感がありました。
これは古典を映画化する場合のリスクとして少なからずあるわけですが、それにしても新鮮味のないストーリーでした。
映像についてもかなりの費用をかけて作り込んでいるのは伝わってくるわけですけれども、そこで展開される世界というものはどこかで観たことがある感じがしてしまします。
多くは「スター・ウォーズ」でなんですけれどね。
逆に「スター・ウォーズ」はそれだけ「火星シリーズ」に影響を受け、そこで受けたインスピレーションをルーカスは見事に映像化したと言えるでしょう。
ですので本作は「スター・ウォーズ」を最新の技術でリメイクした映像といった感が漂ってしまいます。
初めて「スター・ウォーズ」を観た時や、初めて「アバター」を観た時の衝撃のようなものは感じられませんでした。
開き直ってどれだけ「スター・ウォーズ」との共通点があるか探してみるというのも面白いかもしれません(ひねてる見方だなあ)。
ハン・ソロはジョン・カーターに影響を受けたような気がしますし、惑星タトゥイーンは本作のバルスームからのインスピレーションでしょう。
本作はシリーズ化構想もあるようですが、厳しいのではないかなぁ・・・。
そこは「スター・ウォーズ」のようにはいかないかも。
エンドロールで本作はスティーブ・ジョブズに捧げられていましたね。
オリジナリティを求め、口の悪いジョブズがこの作品を観たらどう言ったでしょうか?
おそらく「shit movie」ではないかな。

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2012年4月 8日 (日)

「マイ・バック・ページ」 あの事件を思い出した

本作の舞台となる時代は69年の東大安田講堂事件から71年の朝霞自衛官殺害事件あたりまで。
僕も生まれたばかりの頃なので、その時代の記憶があるわけでもありません。
60年代の学生運動の頃というのは、その時代を知らぬ自分からすると、その時に日本全体が熱を持っていたような感じがします。
「政治の季節」とも言われるように、戦後復興から高度経済成長期に入り、ようやく戦後のいろいろな積み残しの問題に目が向いた時代であったのかもしれません。
60年代の学生は「戦争を知らぬ子供たち」であったため、より敗戦国となった日本が戦後受け入れた施策について、素直に問題点を指摘できたのでしょうか。
しかし本作で描かれる時代はそのような「政治の季節」も終わりを告げようとしていました。
熱病のようなエネルギーは去り、世の中は「しらけの時代」へと移っていくのです。
本作の登場人物の中でキーマンとなるのは、松山ケンイチさんが演じる梅山です。
時代の熱は冷めつつある中で、梅山は「遅れてきた世代」であり、時代の残熱を自身の中に持ち、闘争・行動を叫びます。
しかし、彼が60年代を生きた学生ほどに世の中を変えられるという自信と希望を持っていたかというと疑問が出てきます。
彼が行う学生同士の論争を見ても、彼が明確なビジョンを持っているようには思えません。
ビジョン達成のための闘争や行動があるのではなく、その手段が目的化しているように見えます。
「革命家」である自分に酔うという感じですね。
まさに彼は前の世代の熱病を自分の中に取り込んでしまい自家中毒というか、自分酔いという状態になっていたように感じます。
これは彼がとか、この時代の若者がということではなく、そもそも若者というものは自分に酔うという性質のものではあるのではあるのですが。
けれども不幸にしてと言っていいと思いますが、彼はある種のカリスマ性を持っていたのでしょうか、数人の仲間は彼の考えに共感し、「過激派」めいた行動を共にします。
彼のカリスマ性が、自家中毒であったものを周りの人々へも影響を与えてしまうこととなったわけですね。
梅山に影響を受けた一人が主人公沢田(妻夫木聡さん)です。
彼は世代的には60年代に学生だったようですが、学生闘争とは一歩距離を置いていたと思われます(いあゆるノンポリといったところだったのでしょうか)。
しかしその距離感は、彼の中で後ろめたさのようなものになっていたような感じもします。
その後ろめたさのようなものがあったからこそ、梅山の影響を受けてしまうこととなったのだと思います。
梅山という人物を本作で観ていたときに、思い浮かべたのはオウム真理教の麻原彰晃でした。
彼もまた自分酔いといったような状態になり、そして類いまれなカリスマ性で周囲の人々、そしてまったく無関係の人々の運命を狂わせることとなったのです。
梅山と麻原の共通点は、社会との断絶であると思います。
オウムの場合は、周囲から迫害されているという妄想により、自ら社会との関係性を断ち切りました。
梅山の場合は社会の中にいますが、彼の強固な自信とプライドが、周囲の人々の意見を聞くことができないという点で、社会と断絶していると言えます。
この断絶が、自分の中で生み出された毒に自分自身が侵され、さらにはその毒が濃縮化されていくということにつながったのだと思います。
そして彼らの磁力圏内にいる人々もまた毒に侵されるのです。
本作でも、梅山が作った計画にのり、自衛隊駐屯地に侵入し行きずりの自衛官を殺してしまうことになる柴山という学生がいますが、彼はオウム事件の実行犯を連想させます。
すべての事件が発覚したところで、その首謀者が自分の罪の自覚がなく、配下の者が勝手にやったことだと責任逃れをするところも同じですよね。
監督の山下敦弘さん、脚本の向井康介さんは共に、この作品の時代には生まれていませんでした。
けれどそれをリアリティを持って描くことはできたのは、オウム事件のことがイメージとしてあったのではないかなと思ったりしました。

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2012年4月 7日 (土)

「アーティスト」 映画の進化

第84回アカデミー作品賞受賞作品です。
サイレント映画からトーキー映画に移行する時代のハリウッドを描いた作品です。
主人公ジョージはサイレント映画のスターです。
しかし彼はサイレント映画にこだわったため、次第に時代に取り残されていきます。
逆にジョージに憧れていた新人の女優ペピーは、時代の流れにのりスターの階段を昇り始めていきます。
作品賞を競い合ったスコセッシの「ヒューゴの不思議な発明」も映画愛に溢れる作品でしたが、本作もそうですね。
「ヒューゴ」はパリを舞台にしたアメリカ映画でしたが、本作はハリウッドを舞台にしたフランス映画なんですよね。
なぜこのように映画黎明期とも言える時期の作品が作られているのでしょうか。
「ヒューゴ」の時も書きましたが、今、映画が大きく変わる節目にあるということが大きいかと思います。
映画というのは芸術(アート)でありながらも、テクノロジーの影響を強く受けるものです。
そもそも映画というのはテクノロジーがなければ生み出されなかったわけです。
ですので、テクノロジーの進化にあわせて映画も進化していくのは必然なのでしょう。
そういう節目の一つが本作で描かれている時代のトーキー化であり、またカラー化であったと思います。
で、今起こっているテクノロジーの進化の一つが「ヒューゴ」のところでも触れましたが、3D化であるのは間違いありません。
そしてもう一つが、パフォーマンス・キャプチャーではないでしょうか。
キャメロンの「アバター」は3Dテクノロジーに注目されますが、パフォーマンス・キャプチャーも今後の映画を変える力を持っているように思います。
生身の演技がなくなるとは思いませんが、パフォーマンス・キャプチャーを使った演技というのは確実に増えてくるでしょう。
「アバター」で見せつけられたように、この技術であれば人が人でないものを演じることも可能になってくるわけですね。
演技の方法も変わってくるでしょう。
俳優たちは目の前が何もないのに演技をすることになります。
生身の演技に比べ、より俳優の想像力が要求されることになることになるのではないでしょうか。
また演技の質も変わってくるような感じがします。
パフォーマンス・キャプチャーを使用する映画の場合は、どちらかと言えばオーバーアクション気味の演技のほうがはまりやすい気がしています(ジム・キャリーのような)。
より動作の表情が出やすくすると言いましょうか。
これはいわゆるナチュラルな演技というよりは、舞台っぽい感じに近くなるかもしれません。
目の前にないものに対して演技をするというところは一人芝居的なところもあるかもしれないです。
なぜこのようなことを思ったかというと、本作の中でトーキー映画に取り残されたジョージが大げさな演技と言われたシーンがあったからです。
サイレント映画では、言葉やSE的な音の要素がないため、視覚情報だけで登場人物の感情を表現しなくてはいけません。
だから俳優たちの演技はオーバーアクションであり、その身体的な動きと表情で、登場人物の気持ちを伝えるわけです。
このあたりはパントマイムなどにも通じるところかもしれません。
しかしトーキー映画となり、言葉という音の情報を伝えることができるようになると、そのトーンで登場人物の感情をより繊細に伝えることができるようになったわけです。
俳優たちに求められるようになるのは、微妙な表情であったり、声のトーンをコントロールできることだったりすることとなったわけですね。
ですので、サイレント映画にこだわるジョージの演技は、ややもすると大味なものに見えてしまったのかもしれません。
今後パフォーマンス・キャプチャーが取り入れられていくに従い、俳優に求められる演技もまた変わっていくかもしれません。
おそらく体全体を使った感情表現のようなものが求められるように思います。
ジョージのように適応できない人、パピーのように適応できる人と分かれてくるかもしれませんね。

ジョージがただ適応できないまま人々に忘れられていくという結末だとあまりに悲しいなと思ったのですけれど、その後の映画の展開をふまえた粋な結末であったと思います。
ミュージカル映画(またはダンス映画)というジャンルは、トーキー化というテクノロジーのブレイクスルーがなければ生み出されなかったものです(歌が重要なのですから当たり前ですけれど)。
パピーはジョージのタップダンスという技術に目を付け、それをトーキー映画で活かす方法として広義のミュージカル映画を作ったというわけですね。
このあたりの脚本は実際の映画がしていく流れをきちんとふまえたよくできたアイデアだなと思いました。
そしてテクノロジーが映画を進化させていくということを象徴している話になっているとも感じました。
パフォーマンス・キャプチャーにしても、トーキー化が新しいミュージカルというジャンルを生み出したように、今までにないジャンルを作るかもしれません。
そういった新しい映画が観てみたいと思います。

パピー役を演じたベレニス・ベジョは初めて観る女優さんですが、顔の表情も肉体の動きも表現力が豊かでサイレント映画にぴったりだと思いました。
本作に出演する俳優さんたちは普段とは違う演技を要求されたと思いますが、どなたもうまく演じられていましたよね。
感心しました。

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本 「幻色江戸ごよみ」

こちらは宮部みゆきさんの時代物の短編集になります。
宮部さんの時代物は怪異をとりあげたものがいくつかありますが、本作もそういう作品の一つになります。
「こよみ」とタイトルにあるように、本作には十二編の短編が収録されています。
宮部さんの作品のレビューでは、僕は「純粋な悪意」というものが彼女の作品のテーマのひとつとなっていると書くことがあります。
しかし他にも、宮部さんの作品には「悪意」と対する「善良さ」であったり、市井の人の「ささやかな夢」について書かれることも多いのですね。
特に時代物では庶民の「ささやかな夢」であったり、「人情」がテーマになったりしていますが、本作はそれが色濃く出ていると思います。
本作の多くは怪異と関わってるものが多いですが、その出来事には「ささやかな夢」を求める人の業のようなものが根底にあります。
庶民には「ささやかな夢」ですら叶えることができなかったりしたわけです。
それでもその「ささやかな夢」を求めずには生きていけない。
そういう人の業が、本作で描かれる出来事に通じています。
「ささやかな夢」を求めずにはおれない人の業、そしてそれに注がれる宮部さんの優しい視線を感じる作品集であると感じました。

「幻色江戸ごよみ」宮部みゆき著 新潮社 文庫 ISBN4-10-136919-4

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2012年4月 6日 (金)

「スーパー・チューズデー ~正義を売った日~」 生き馬の目を抜く世界

先週「ドライヴ」を観たので、本作でライアン・ゴズリング祭りにしようか、「SHAME」でキャリー・マリガン祭りにしようか迷ったのですが、こちらを選択。
原題の「THE IDES OF MARCH」、「IDES」の意味がわからなかったのですが、調べてみると「15日」という意味らしい。
つまりは「3月15日」という意味で、これは本作で描かれる民主党の予備選の日を指しています。
これがいわゆる「スーパー・チューズデー」と言われるものなので、日本人にもわかりやすい邦題にしたなと思います。

<ここからネタバレありますので、注意です>

ライアン・ゴズリングが演じるのは、民主党の代表候補を争う知事マイク・モリス(ジョージー・クルーニー)の選挙スタッフである広報官スティーヴン。
彼は自分の理想の政治を行ってくれるのがモリスだと信じ、選挙戦の責任者ポール(フィリップ・シーモア・ホフマン)のもと、主要スタッフとして活躍します。
スティーヴンは敵陣営からしても優秀らしく、相手方の選挙参謀ダフィ(ポール・ジアマッティ)からも引き抜きにあいます。
これが彼をドロドロの政治の世界に引きずり込んでいきます。
そしてもう一人、彼の運命を変えるのが、モリスの選挙戦をサポートするインターンの若く美しい女性モリーです。
スティーヴンとモリーはやがて肉体関係を持つこととなります。
しかし、モリーはモリスとも一度過ちをおこなっていたことが判明、さらには彼の子を宿してしまいます。
それを知ったスティーヴンですが、モリーに対し愛情の裏切りを責めるわけではありません。
そうではなく、モリーのことが公になれば、彼が当選させようとしているモリスへ致命的なダメージになることを案じるのです。
妻もいるモリスがインターンに手を出せば一大スキャンダルです(某大統領を思い出させます)。
スティーヴンを事態を発覚させないよう、モリーに中絶を薦め、さらには選挙事務所を去るように言うのです。
彼は選挙戦を戦うスタッフとして、冷徹な判断を下しました。
しかし、彼自身を同じようなことが起こります。
スティーヴンはダフィの引き抜きにあったことを上司のポールには内密にしていました。
しかしそれは新聞記者に知られることとなり、それが記事になれば、それはまたモリス陣営のダメージになるのです。
記者へのリークは引き抜きを知ったポールが行ったことであり、スティーヴンは忠誠心を疑われ解雇されることとなったのです。
つまりスティーヴンは自分がモリーに行ったことを、ポールに行われたわけです。
そしてそもそもの引き抜きについては、敵陣営のダフィがモリス陣営の切り崩しを図るために行ったものであったというのもわかります。
つまりは両陣営ともに、自分たちの勝利のために人を冷徹に切るということを行っていたわけですね。
そこには人らしい温情といったものはなく、あるのは勝利のみ。
もともとスティーヴンは理想に燃える若者であったのでしょう。
だからこそその政治姿勢に惚れ込んだモリスへ忠誠を誓い、彼のために働いてきたわけです。
しかし、その彼をモリスも、ポールも冷徹に切った。
そしてまたスティーヴンもモリーを切ったのです。
自殺したモリーの姿を見た時スティーヴンが流した涙は、モリーへの謝罪の気持ちでしょうか、それとも同じように切られた自分自身の姿を見たからでしょうか。
ここがスティーヴンの人生の分かれ目であったと思います。
人間らしい気持ちをもって普通の人間として生きるか。
冷徹に生き馬の目を抜く世界で「政治屋」として生きるか。
彼は後者を選びました。
モリーの件で雇い主であるモリスをも脅し、ポールを切らせ、さらに自分自身を選挙参謀として雇わせます。
ラストシーンで、演説のリハーサル場でモリスの代わりに立つスティーヴンは、大統領候補を操る「政治屋」の姿そのものでした。
彼が影のブレーンとして影響を与えていくであろうということを示唆させるシーンです。
しかし、それは人間らしい感情を捨て去って得た地位であり、そして彼の本来もっていた理想とも離れたものであったのです。
そういう道を選んだスティーヴンは幸せなのかどうなのか・・・。
結果はどうなるのかわからないのですが、それでも彼自身が選んだ道なのですよね。

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2012年4月 1日 (日)

「ドライヴ」 あっしには関わりねえことでござんす

主人公ドライバー(劇中で名前が出ない)は昼間は映画のカースタント、及び修理工をしていますが、裏の顔があります。
彼は自分の類いまれなカーテクニックを使い、犯罪者の逃亡を助けて報酬を受けとるということを行っているのです。
主人公について、この映画はほとんど語ることがありません。
彼の名前だけでなく、彼が今までどのように生きてきたのか、なぜそのような裏稼業を行っているのか、通常の映画の場合に主人公のキャラクターを作り上げる上での「背景」は説明されないのですね。
そのような説明がないということ自体が、彼を能弁に語っていると思います。
彼はおそらく今まで他人と深く関わり合って生きることを避けてきたのではないかと。
もしかしたら過去の何かあったのかもしれません。
けれど今の彼は他人と関わり合うことを避けるように生きています。
仕事においても彼は依頼者が何をするかについては何も情報を求めません。
彼はただ運転し、依頼者を逃すことのみに専念します。
ドライバーが時折、爪楊枝を口にくわえているというシーンがあります。
これを観て思ったのは、このドライバーは「木枯らし紋次郎」なのだなと。
「木枯らし紋次郎」と言えば、「あっしには関わりねえことでござんす」という名セリフがあります。
まさに本作の主人公はずっと人に「関わらないように」生きてきたのではないかと思いました。
紋次郎は渡世人、つまりは世を渡り歩いて生きているわけですが、本作のドライバーも同じような根無し草であるように感じます。
本作が「木枯らし紋次郎」に対してのオマージュがあるのかどうかはわかりませんが、ふと紋次郎とドライバーの共通点を感じたのです。
他人と関わりあることがなかったドライバーはふとしたきっかけである母子と知り合います。
彼女たちと過ごす時間は、ドライバーにとって今までになかった暖かさ、幸せを感じさせることとなりました。
けれども彼女たちが、自分が関わった案件により、危険な状態であることを彼は知ります。
彼は幸せを感じさせてくれた人を守るために、初めて「人と関わり」一人命をかけて戦うことを決意するのです。
主人公の背景、気持ちも含め、本作は極めて説明を排除している作り方をしています。
ストーリーはそれほど特別なものではないのですが、研ぎすませた語り口によってエッジが効いているように思いました。
どちらかというと装飾が多かったり、説明過多な映画が多い中で、ストイックさを感じる作品となっています。
そのストイックさは、主人公の性格とも相通じるところではあったと思います。

ライアン・ゴズリングは最近いろんな作品で主人公を演じてますが、まともに観たのは初めてかも。
続いて「スーパー・チューズデー」がありますね。
あとキャリー・マリガンがすごくキュートで、ちょっとズキュンときてしまいました。
今まであまりそういうふうには思ったことないのですけれど。
守ってあげたくなる感じはありましたね。

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本 「世界の陰謀論を読み解く -ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ-」

世にいう陰謀論というものを時折聞きます。
アポロは実際には月にはいかなかった、このあたりはよく聞くような話ですが、9・11はアメリカの自作自演だった、3・11は地震兵器によるものだった(!)なんてのもあるようです。
個人的にこういうのは眉唾もので、信じちゃうのはどうかしてると思うわけですが、それでもインターネットの世界ではいろいろと噂が出ているようなのですね。
陰謀論なんてものは、映画や小説の世界では非常に使いやすい小道具のようなもので、そういうフィクションの世界で楽しむっていうのには向いているとは思いますけれども。
副題にあるユダヤ・フリーメーソン・イルミナティというのは、昔から陰謀論の黒幕として上がられていた集団ですね。
ユダヤというのは黒死病も彼らの仕業だったという話はよく聞く話かなと。
フリーメーソンというのは、ある儀式を経て会員になったものたちによる秘密結社で、フランス革命なども彼らに寄るものという話があります。
僕がフリーメーソンという言葉を知ったのは荒俣宏さんの「帝都物語」の中ですね。
イルミナティというのは「ダヴィンチ・コード」での影の秘密結社として有名になりましたが、これも昔から様々な陰謀の黒幕とされる秘密結社です。
噂されている陰謀というものは個々に実証して論破していくのは可能なものばかりです。
というよりあまりに荒唐無稽でそれを信じるほうがどうかしているような代物ばかりなのですね。
本著はその陰謀をどうこうというより、陰謀論を信じてしまう心理というのものについて掘り下げています。
陰謀論というものが出始めたのは、ヨーロッパで大きく社会が変わろうとしている時代でした。
旧来の精神面でのキリスト教支配、また政治的には王家貴族支配から、自由主義が広まり始めた時代です。
そのころに陰謀論というものが普及し始めました。
ユダヤにせよ、フリーメーソンにせよ、イルミナティにせよ、その陰謀論の根拠となる文書というものが上げられるのですが、それは実際にはなかったり、あったとしてもものすごく曲解していたりしています。
陰謀論というのは、旧体制派が新しく変わってしまう社会に対して、その流れに竿をさすためにでっちあげたものであるといえます。
基本的に現在語られている陰謀とういものはこの時代に大枠の型はできていて、その後の陰謀論というものはその型をアレンジしたり、組み合わせたりしているだけのバリエーションでしかないのですね。
元々はキリスト教原理主義的なものがベースにあったものですが、現在においてはそこも場合によっては薄れてしまい、でき上がった型の部分が一人歩きしている感もあります。
例えば、オウム真理教は彼らが陰謀に巻き込まれていると主張していましたが、そこでの陰謀はそれまで使い古されてきた陰謀の焼き直しばかりなのですね(それこそ「トンデモ本」に載っているような)。
その元ネタはそもそもキリスト教原理主義からくるものであるのですが、それをオウムはいいように都合の良いところだけを抜き出しているわけです。
さらには引用した陰謀論それぞれが矛盾したりもしているのですが、そういうことをあまり彼らは気にしないようです。
どちらかと言えばもともとある主張があり、それに緊迫感を与えるために丁度いい陰謀論のネタを肉付けしているといった感じなのでしょう。
それはオウムに限らず、アメリカやその他で言われている陰謀論も似たようなものなのです。
陰謀論そのもの自体は、あまりに突拍子もなくて論破するのは容易ですが、それを信じてしまうほうの心理への対処はなかなかに難しい。
本著も最後で言っていますが、政府などが言う事実に対して疑問の目を持つことは大切です。
福島原発の問題などでは、やはりそういう目で検証する必要はあるでしょう。
しかしそれは健全な懐疑であるべきで、陰謀論のようなものがあったとしても冷静な目で検討する必要があるでしょう。
震災のときもいろいろなデマがでました。
そういうデマのいくつかには陰謀論的なものもあったということです。
それらについてはやはり冷静な目で情報を解釈するという能力が自分たちにも必要であると思いました。

「世界の陰謀論を読み解く -ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ」辻隆太郎著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288246-3

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