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2012年3月31日 (土)

「マリリン 7日間の恋」 マリリンというキャラクター

惜しくもオスカーを逃したミシェル・ウィリアムズがマリリン・モンローを演じる「マリリン 7日間の恋」を観に行ってきました。
ミシェル・ウィリアムズをマリリン・モンローは似ているわけではないのですけれど、作品の中ではマリリン・モンローに見えてくるのですよね。
観終わって、それはひとつ理由があるなと思いました。
それは後ほど。
自分は世代的にはマリリン・モンローは映画ファンとして知識は持っているのですけれど、実際しっかりと彼女の作品を観たことがあるかというとなかったりするわけですね。
しかし、いくつもの作品でアイコンとなった彼女に触れているわけで、あるイメージは持っているわけです。
ですので、彼女の生い立ちとか人生について深い知識があったわけではありません。
本作では彼女がイギリスで過ごす短い期間を描きますが、その中で彼女のそれまでの人生に触れるところがいくつかあります。
すなわち、彼女は幼少期からさまざまな家にたらい回しにされて育った頃、本作で描かれるとき(30歳頃)までにすでに3回結婚しているということなどです。
また、本作ではモンローが、天性の演技者であるということを描きつつ、役に入り切るまでに非常に時間がかかること、また非常に気まぐれで、かつ精神的にはとても不安定なところなども触れられます。
精神的に不安定なところは、映画スターとして名前を馳せながらも、彼女の中で常に自信のなさがあるというところに起因していると思われます。
その自信のなさというのは、女優としてのということではなく、もっと根本の自分は存在していいのかというようなところまで深いものであったのでしょう。
それは幼い頃よりたらい回しにされてきたということで、自分の居場所というものを見つけられなかったという経験によるものだと思います。
また天性の演技者という点についても、恵まれない環境の中で自分の居場所を見つけるために、人に気に入ってもらうという術を知らず知らずのうちに身につけてきたということなのかもしれません。
モンローに惹かれるコリンに「さあ、マリリンになるわよ」とモンローは言います。
彼女にとってマリリン・モンローという存在は、素の自分ではなく、自分が世の中に受け入れられるために演じているキャラクターなのでしょう。
そのキャラクターは、幼い頃よりモンローが周りの人に好きになってもらうために作り上げられてきたものなのですよね。
そういう点で「人に好かれる」という点において練りに練り上げられたキャラクターなわけです。
つまりそのキャラクターのエッセンスを捉えられていれば、誰でもマリリン・モンローになれるわけです。実際はそのエッセンスを捉えるのが難しいわけではあるけれど。
ミシェル・ウィリアムズはそのエッセンスを上手く捉えたのでしょうね。
だから比べると似ているわけではないのに、作品の中でのミシェル・ウィリアムズはマリリン・モンローに見えるわけです。
オスカーを競った「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」のメリル・ストリープもサッチャーに似ているわけではないのに、サッチャーに見えました。
実在の人物のエッセンスを掴むという点で、今回のアカデミー賞は真っ向勝負だったわけですね。
マリリン・モンローは、マリリン・モンローという女優を演じつつ、さらには映画の役も演じなくては行けなかったわけです。
本作を観ると彼女は役を理解し切って、どっぷりとはまらなければ演じられなかったタイプのようです。
そうすると撮影中は素の自分、マリリン・モンローの自分、演じる役の自分という3つの自分がいっしょにいる状態になるわけですね。
そういう状態では精神的に不安定になるのもわかります。
唯一、本作の中で出会うコリンの前では、マリリン・モンローの自分を演じなくてよかったというのが、彼女が精神的に楽になったところなのでしょう。
彼と二人のシーンで、モンローが全裸になって河で泳ぐシーンがありますが、これはマリリン・モンローの自分を脱ぎ去るという点で象徴的なシーンであったと思います。
では彼女がマリリン・モンローの自分を脱ぎ去ることができるかというとそれはまた無理であったわけです。
彼女が作り上げてきたマリリン・モンローというキャラクターは彼女が世の中で生きていくための唯一の武器であったわけです。
それを捨てることはできません。
ですのでコリンとの別れも必然であったわけです。
人に愛されたいと願い、多くの人に愛されることができたマリリン・モンロー。
しかし人々が愛したのは素の彼女ではなく、作り上げたキャラクターであるマリリン・モンローであったわけですね。
彼女が愛されることを望み続ける限り、マリリン・モンローは捨てられない。
この二重性は常に彼女を苦しめることになったのでしょう。

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2012年3月25日 (日)

「僕達急行 A列車で行こう」 ライフスタイルは人それぞれ

森田芳光監督の遺作となってしまった作品です。
全編ほのぼのとした雰囲気が漂っている映画ですが、ここが盛り上がりに欠けるとか、ヌルいという方もいるかもしれないですが、嫌いじゃないです、僕は。
主人公の二人、小町(松山ケンイチさん)と小玉(瑛太さん)は、いわゆる「鉄ちゃん」(鉄道マニア)です。
おそらく僕はこの「マニア」感に共感したのだろうと思います。
最近でこそ「鉄ちゃん」という言葉が普通に使われ「鉄道が趣味」っていうのはメジャーになってきたと思うのですけれど、一昔前は「鉄道オタク」と言われていたわけですね。
「オタク」という言葉は、70年代頃から使われてきたようですが、その言葉はなんとなく暗いとか、内にこもっているというようなネガティブなイメージがあったと思います。
一般的に「オタク」とはあること(アニメやらアイドルやら鉄道やら)が好きでかなりそれに入れこんでいるような人のことを言っているように思います。
そしてそこにはある種の閉鎖性があるような気がします。
「オタク」という言葉はアニメやアイドルやら一般的にはメジャーにならない(いわゆるサブカル)ようなことが好きな人たち自身が自分たちを一般人と区別するカテゴライズするために使っている言葉であり、そしてまた周囲の一般的な人々も彼らを区別するように使ってきた言葉であるかなと。
ある種の閉鎖性、境界性を表す言葉であり、これはその中にいる人々にとっても、一般的な人にとっても便利な言葉であったと思います。
オタクという言葉の境界内はそれこそ同じ趣味の人間たちの集まりであるため、何の気兼ねなく話ができるわけですから居心地がいいわけです。
その居心地を守るために「オタク」という境界線が作られたような気がします。
しかし最近は何が起こっているかというと、かつてはマイナーであったサブカルがメジャーに変容してきているということです。
それこそアニメは普通に成人でも観るようになっていますし、アイドルだって若い人たちのものではなくAKBやら嵐をいい年した大人がキャーキャーいうわけです。
引退する列車の最後の運行日には、大勢の人が駅に詰めかけるわけです。
つまりはかつて「オタク」と一般ピープルを分け隔てていた境界線がなくなってきているのが今だと思います。
そしてそこでどうなってきているかというと、「オタク」のオープン化ではないかと。
「鉄ちゃん」という言葉がそれをよく表していますし、本作の小町と小玉はまさにそのいい例です。
彼らは自己紹介の時に、趣味はと聞かれると「鉄道です」と答えます。
一昔前だと鉄道好きであっても、それを公の場で言うのは「オタク」の烙印を押されそうで躊躇していた方も多かったと思います。
「オタク」という言葉には閉鎖性と、社会性のなさというイメージが含まれていたからです。
ぶっちゃけ自分も「映画好きです。年間100本以上観てます」と言うのは、「映画オタク」かと思われるかもしれないのでなかなかよう言いません。
さらに「特撮好きです。特に仮面ライダーが好き」なんてさらに言えません(最近あまり気にしなくなったけど)。
けれどさきほど書いたようにサブカルのメジャー化(AKBがいい例)という環境変化あり、「オタク」と一般人の境目がなくなってきているように思います。
「オタク」だと未だ社会性がないニュアンスが残っていますが、普段は仕事をちゃんと仕事をしていながらも休日に趣味に入れこむというのはスタイルとして認められてきているような気がします。
入れこめる趣味があるくらいなほうが、ライフスタイルは豊かではないかと思う風潮になってきたと感じますね。
平日は仕事をバリバリやって、休日はゴロ寝っていうのは、けっこうカッコ悪いと思われるようになってきているように思います。
本作の小町と小玉は仕事もしっかりやってるし、休日は好きなことに入れこんでいるし、ライフスタイルしては豊かだなと。
一昔前は、ライフスタイルにしても「こうあるべき」という姿がけっこう皆のなかにあったと思います。
だからこそ「あるべき」ライフスタイルを過ごせていない人は、閉鎖的にならざるを得ず「オタク」という言葉が生まれたのではないかとも考えられます。
しかし今はライフスタイルが多様であることが当たり前になってきていたので、小町や小玉のような生き方Mもありだよね、と世間的に思われるようになったわけです。
またかつて「オタク」と自らを呼んで閉鎖的であったマニアも、自らを開くようになってきたと思います。
これにはブログやらツィッターなどのパーソナルな発信インフラの整備も影響しているかと思いますね。
それにより先に書いた「オタク」のオープン化が起こっているのではと。
これは自らを顧みてもそう思ったりしますね。

小町が「電車に乗って風景を見ながら音楽を聴くのが好き」。
小玉は「電車の構造、メカニックが好き」。
鉄ちゃんでもない自分からすると、「そんなこだわりがあるのか〜!」と思ったりもしますが、自分をまた顧みると納得したりして。
「昭和ライダーは好き。平成ライダーも好き。しかし、どうにもRXは認められない」的な(あぁ、仮面ライダーマニアでないとさっぱりわからんだろう)。
趣味を深めるとその人ならではの志向がでてきますよね。
映画のブロガーさんの集まりとかでも、それぞれの方の趣味志向がお話の中に出ていて面白いですもん。
この趣味志向は全然関係ない人から見ると「そんなこだわりがあるのか〜!」なのでしょうね。

あと小玉とお見合いをしたあやめのお断りのセリフ。
「あなたのこと好きだけど、自分が許せないから」。
「アフロ田中」に続き、きたよ〜、この女子の言葉。
女の子にとっては理屈は通っているかもしれないけれど、まったく男子にはわからん。
小町が言っていたように「女子の気持ちはわからないもの」なのだと達観するしかないね。

さらにさらに。
小町と小玉が目をキラキラさせていた京急2000系ですが、通勤でよく乗るので、フューチャーされていた「おおっ!」と思いました。
京急には「ドーレミファソラシド〜」と音階が上がっていくようなモーター音がする車両があるんですよね。
マニアじゃないので、何系か知らないですが。
けっこうその道では有名らしいです。

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2012年3月24日 (土)

「ウルトラマンサーガ」 諦めない勇気

こちらの作品、約1年ぶりのウルトラマンの劇場版になります。
登場するウルトラマンは直近の2作品「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」「ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国」で中心となっているウルトラマンゼロ、そして平成ウルトラマンと呼ばれるウルトラシリーズから、ウルトラマンダイナとウルトラマンコスモスとなります。
僕はメビウスを除く平成ウルトラマンのウルトラシリーズはまったく観ていませんので、昭和のウルトラマンに持っているような思い入れがほとんどありません。
最近の映画でもダイナやティガも出てきていましたが、昭和ウルトラマン(とメビウス)とは全く作品世界が違うにも関わらず登場するので、個人的には無理矢理感を感じていました。
作品世界といっても観ていないのであまり理解していませんが。
知っているのはコスモスが怪獣を倒さないウルトラマンというくらいかな。
ですので、本作はゼロとダイナとコスモスが出るということであまり思い入れのないウルトラマンなので、あまり期待せずに観に行きました。
AKBメンバーが出るということで話題にもなりましたが、前田敦子さんくらいしか顔がわからないのでこちらにも思い入れなし。
映画が始まってしばらくは、ちびっ子たちがでてきたり、AKBメンバーによる女性だけの防衛隊(チームU)とか出てきて、「うーん、これはやはりファミリー向け、アイドル好き向け映画なのかしらん」と思いながら観ていました。
しかし、行方不明になっているウルトラマンダイナ=アスカの話がでてくる中盤くらいから、俄然ストーリーが盛り上がっていきます。
ゼロに変身する能力を持つことになった主人公タイガはピンチになっても変身しようとしません。
彼が幼い頃に怪獣に襲われたときダイナが人々を助けたのですが、彼の両親は命を落としてしまいました。
タイガはそれから自分の力だけ生きる、そして自分の力だけで人々を守るというように思うようになったのです。
そのため彼はゼロの力を使おうとしないのです。

ダイナを慕う子供たちやチームUのメンバーの話から、ダイナを観ていない僕にも、アスカは人々を守るということを揺るぎない勇気をもって行っていた男だということが伝わってきます。
またコスモス=ムサシは怪獣を倒さずに、慈愛の心で怪獣を救うウルトラマンであるということも描写されます。
ダイナが勇気、コスモスが優しさというヒーローが持つべき心を象徴しているように思いました。
そしてまたチームUのメンバーは本物の地球防衛隊ではなく、ただの素人であったということがわかります。
彼女たちはバット星人の侵略により逃げてきた子供たちに出会い、彼らを安心させるために地球防衛隊だと嘘をつくのです。
しかし彼女たちはその嘘を実現しようとします。
子供たちを守ろるために彼女たちは素人ながらも戦い続けてきたのです。
けれども3人のウルトラマンたち、そしてチームUも最強の怪獣ゼットンによって敗北させられます。
しかし負けてもダイナ、コスモスは再度立ち上がり、そしてまたゼロ=タイガも同じように諦めずに立ち上がるのです。
この作品はタイガが、ダイナ=勇気、コスモス=優しさという精神を自分のものとし、人々を守りたいと言う気持ち、そして諦めない心の力を得るという物語となっています。
そしてまたそれはタイガだけの話ではなく、ただの普通の一般人であったチームUのメンバーも同じように諦めない気持ちを持つということも描いています。
このチームUの存在が本作品では実は大きいかと思いました。
この数年のウルトラマンの映画は、ウルトラマン自身を主人公にするという形が多く、それはややもすると「着ぐるみショー」的な雰囲気を醸し出すことに繋がっていきます(前作はけっこうそういう感じがしました)。
しかし本作はタイガ、そしてチームUという人間が物語の中心にきているため、感情移入できる共感できるドラマとなっていたと思います。
ラストでゼロが地球を離れる時、人々が戻ってきた日本列島に灯がともっていきます。
カメラは次第にズームアップしていくのですが、普通は東京辺りにいくところをそのズームの先は東北地方でした。
久しぶりに人間が中心になった物語であること、「諦めない」がキーワードとなっていたこと、未曾有の災害のあとの人々へのメッセージなのかなと感じました。
本作はこの数年で最も出来のよいウルトラシリーズの劇場版であると思います。

前作「ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国」の記事はこちら→

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本 「ジェノサイド」

昨年の「このミステリーがすごい!」の国内編で第1位をとった高野和明さんの作品です。
レビュアーの多くも絶賛しているので興味がありましたが、やっと読みました。
みなさんが「おもしろい!」というのも納得のエンターテイメント小説ですね。
高野さんの作品は今までも江戸川乱歩賞をとった「13階段」、「クライヴディッカー」「K・Nの悲劇」「幽霊人命救助隊」と読みましたが、どれもおもしろかったですね。
コンスタントにおもしろい小説を発表される作家さんだと思います。
それらの作品に比べても本作「ジェノサイド」はスケール感が圧倒的に大きく、いろいろな要素を盛り込んでいながらも破綻をしていないという感じがします。
本作は読んでいるとさまざまなエンターテイメント小説、映画などで取り上げれた要素が入っています。
感染力の高い謎のウイルス、サイバー攻撃、人類の進化、情報機関による陰謀などなど、それぞれの要素で一本作品ができるのではないかというネタがふんだんに織り込まれています。
そしてそういうネタの映画や小説はいくつも今までもあって、本作でそういう要素が出てくると今まで観たり読んだりした作品のような展開になるのかなと思ったりすると、本作ではまったく違った展開になっていくのです。
あまりこのあたり詳しく書くとネタバレになってしまうので、これはぜひ読んでご確認いただきたいなと思います。
本作はエンターテイメント映画、小説を観たり読んでいる人ほど、いい意味で裏切られ「なるほど、こうきたか」と唸るということになると思います。
ボリューム的にはかなりある作品ですが、そういう予想とは違う展開が出てくるので先が読めず、どんどんページを繰るスピードが速くなってしまう作品だなと。
気持ちよくハッピーエンドで終わっているので、読後感もいいです。
ボリュームのある作品を読み終わると疲れたりしますが、そういう疲れも感じませんね。
一気に読み切ってしまうという感じでした。
上級のエンターテイメント小説ですね。
読んでいると映画を観ているような臨場感を感じたのですが、改めて高野和明さんのプロフィールを調べてみると、若い頃は映画監督を志していたのですね。
なるほど、納得です。

「ジェノサイド」高野和明著 角川書店 ハードカバー ISBN978-4-04-874183-5

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2012年3月22日 (木)

「ストロベリーナイト(テレビシリーズ)」 意外なキャスティングだったがピタリとはまった

一昨年、誉田哲也さん原作を竹内結子さん主演でスペシャルドラマとして放映された「ストロベリーナイト」を連続ドラマ化した作品です。
久しぶりにテレビドラマをリアルタイムで観たいと思った作品でしたね。
原作シリーズについてはこちらのブログでレビューを何度かしているのでご存知の方もいるかと思いますがファンでして、そのファン目線からしてもこのドラマの出来は良かったと思いました。
キャストはスペシャルドラマといっしょで、主人公姫川の新たな部下として葉山の小出恵介さん、湯田の丸山修平さんが加わっています。
今回のテレビドラマは誉田哲也さんの小説「ストロベリーナイト」に続くシリーズ「ソウルケイジ」「シンメトリー」をベースに構成されています。
テレビドラマは、記憶している限り基本的に原作に忠実に作られていたと思います。
話の順番としては、原作の順と前後しているところはありますが元々独立した事件を扱っているため、違和感はありませんでした。
原作とちょっと違うというところでいうと、ささいなところですが姫川の性格が少し違うような気がしました。
原作は姫川一人称で語られるところも多いので、彼女の内面の声などがあるので、彼女のすこしあっけらかんとした明るいところもでたりしています。
当然高校生の時の事件をひきずっているのは原作もドラマもいっしょなのですが、原作のほうが普段はふっきっている感じを受けますね。
ドラマの姫川はその事件をひきずり、基本的にはクールというか肩肘はっているようなところがより出ていますね。
男ばかりの捜査一課で日下、ガンテツといったクセのある男たちと張り合うわけですからそういうところはより出てくるのだと思います。
姫川というキャラクターはそのように男と張り合ってズケズケとものをいう女猛者といったところもある反面、その内側は過去の事件をひきずった弱さ脆さをもっているという両面性が特徴でしょう。
姫川はその脆さを自分でもわかっていて無理をしている感じというのが絶妙でなんとかしてあげたいと思わせるようなところはありますよね(菊田もそういうところで惹かれているのでしょう)。
はじめ竹内結子さんというキャスティングは姫川的にはちょっとやわらかいかなと思っていましたが、竹内さんだからこそ、男まさりのすき間に脆さみたいなものを窺わせるようなところが出せたのかなと思いました。
あと原作と違うのは、「親子」というところにスポットをあてていたところですね。
「ソウルケイジ」を最終話に持ってきたというところからの逆算かもしれないですが、姫川とその両親との心のすれ違いを初回から描きつつ、「ソウルケイジ」の事件でポイントとなる親と子の愛情というところに、姫川親子の感情をリンクさせていました。
原作ではあまり姫川の家庭については触れられていませんでしたが、ドラマはそこに着目し彼女の性格をより掘り下げたかと思いました。
母親や父親が、事件の被害を受けた娘を受け止めようとした想いを描いていて、いい最終回であったと思います。
姫川のライバルの日下を演じていたエンケン(遠藤賢一さん)がまた、いい演技をしていました。
日下が関係者を聴取しているときに、自分の息子との関係を思いながら関係者に話をするっていうシーンがあったのですが、日下演じるエンケンさんが泣く手前の目を赤くするという絶妙の演技だったんですよね。日下は人前でそれも姫川の前で泣くなどということは絶対しないキャラクターなのですが、それがこの演技だけですごくよくわかるという。
さすがだなと思いました。
その他のキャラクターのキャスティングも良かったかなと思いました。
菊田はスペシャルドラマのレビューでも書きましたが、西島秀俊さんは原作とイメージが全然違うのですが、西島さんならではの菊田を作っていっていてピタリとはまっていったと思います。
後輩にスキンシップでグーでけっこう強くパンチをするなんてのは、体育会系な菊田らしい仕草だったなと思います。
ガンテツを武田鉄矢さんというのもけっこう以外なキャスティングだったのですが、説教するようにネチネチ言うところなどは、観ていてぴったりだと。
このシリーズは竹内さんの姫川を始め、サブについても意外なキャスティングに見えて、けっこう原作のキャラクターをいい具合に膨らませているなと思いました。

観終わったところで、「特報」で「ストロベリーナイト」の映画化のお知らせがありました。
もう少しこのメンツの物語を観たいなと思ったところだったので、これは歓迎ですね。
原作になるのは、手を付けられていない「インビジブルレイン」になるのでしょうか。
この作品は姫川の脆さがでる作品なのですよね。
ドラマで窺われる姫川の脆さは、その伏線なのかな。
「インビジブルレイン」の映画化はそれで期待なのですけれど、そうすると菊田が猛烈に可哀想なことになるのだよな・・・。

スペシャルドラマ「ストロベリーナイト」の記事はこちら→
原作小説「ソウルケイジ」のレビューはこちら→
原作小説「シンメトリー」の記事はこちら→
ついでに「インビジブルレイン」の記事はこちら→

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2012年3月20日 (火)

「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」 FeelingではなくThinking

アイアン・レディ(鉄の女)と呼ばれ、チャーチルに並んでイギリスの名宰相と言われるマーガレット・サッチャーを描く作品です。
サッチャーは80年代のまるまる10年間首相を務め、イギリスの立て直しを行いました。
70年代までのイギリスはかつて大英帝国と呼ばれ世界の第一国として君臨していたときの姿は見る影もなく、失業率の上昇、経済の低迷、財政悪化という諸問題に喘いでいました(この辺りの状況は現代日本にも通じるところがあります)。
問題があることは間違いありませんでしたが、ご存知の通りイギリスは保守党、労働党という二大政党制で、そのパワーバランスの中で妥協した政策しかなされず、改革が進まなかったのです。
そういう状況の中でサッチャーは首相となり、「鉄の女」と称されるほどの硬い意志で様々な改革を行っていきました。
サッチャーの基本政策は自由化で、その中でも大きかった政策は金融自由化でしょう。
これは「金融ビックバン」とも言われ、日本もイギリスの政策を見本に各種自由化を図ったのは記憶に新しいところです。
金融自由化により、それまで二次産業に頼っていたイギリス経済は、三次産業(金融サービス)などの比重を高めることになり、復活を果たしたのです(ただ、金融サービスへの傾注はその後のリーマンショックなどの影響をもろに受けるころになります)。
映画を観ているとサッチャーの考え方の基本は「自立」にあると思いました。
民力を信じ、自由化を進めることによりその力を活かすというもその表れでしょう。
「自立」という考えの根底には「自由」「権利」がありますが、そこにはもう一つ「責任」というものもあります。
サッチャーがストに対して厳しく挑んだり、「人頭税」などの税金の導入を行おうとするのも、「権利」の主張だけではなく、その「責任」を果たさなくてはいけないということからくるものでしょう。
またフォークランド紛争において、アルゼンチン軍と戦火を交えるという決断も、「自立」を確保するためには「権利」を守る「責任」を果たさなくてはいけないという考えからくるものだと思いました。
この「自立」という考えは、父親の影響もあり、また女性ながら男社会の中で生きてきた彼女の人生の中で培われたものなのでしょう。
冒頭に書いたように当時のイギリスの状況というのは、日本の現在に似ています。
両者ともにかつては経済大国と言われていながらも、斜陽を迎えてしまった国家です。
日本は経済の低迷、財政悪化という問題は明らかになってきていますが、そこに明確な手を打ち切れていません。
揚げ足取りをしているような論議の応酬、妥協につぐ妥協の末に作られた中途半端な政策。
本作ではこのようなイギリスの国会が描かれますが、これはそのまま日本の事情とかぶります。
作中でサッチャーが最近は「こう感じる(Feeling)」ばかり、昔は「こう考える(Thinking)」であったと言うところがあります。
これはなるほどと思いました。
Feelingというのは、今現在感じていること。
今のことしか見ていない。
Thinkingというのは、将来のことを予想し、それに対処しようとすることなんですよね。
サッチャーはそのときの問題だけでなく、その先のあるべき姿を考えながら政権を運営していたのでしょう。
このあるべき姿を考えるということを、日本の政治家はできているのだろうかと考えてしまいます。
まさに目先の票の獲得だけしか見ていないんではないかと。
イギリスが立ち直ったように、日本も立ち直る方策はあるはず。
それには痛みがあるかもしれないですが、あるべき姿をイメージし、それを貫き通せるリーダーシップが今求められるような気がします。

サッチャーを演じたメリル・ストリープはアカデミー賞受賞も納得です。
まずその姿、振る舞い、声の出し方、本物のサッチャーかと思えるほどでした。
そしてさらには中年時代から、老年時代までを演じるということで、さらに難易度があがっていましたが、それも見事に演じきっています。
もうその演技は盤石で受賞は誰も文句言えないものであったと思います。

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2012年3月19日 (月)

「おかえり、はやぶさ」 着眼大局、着手小局

「はやぶさ」のエピソードの映画化作品、こちらは松竹版になります。
結果から言ってしまうと、三作品の中で最も面白くない。
「はやぶさ」の旅の経緯というのは変えようがないわけで、それが最後発の公開となるのでエピソードそのものに新鮮さがなくなり、不利ではあるのは間違いないのですけれども。
「はやぶさ」がイトカワへのタッチダウンを失敗し再チャレンジするところとか、通信途絶してしまうところも描かれますが、今までの2作品に比べると割とあっさりしています。
イトカワへもすんなりたどり着けたような感じもしてしまいますね。
この点については作品としての意図があると思いますので、これについては後ほど。

三作品が出揃ったところで、比べてみると同じ題材を使いながらも、その料理の仕方が三作品で違うのは興味深いところです。
FOX版「はやぶさ HAYABUSA」は当時「はやぶさ」にシンパシーを感じた日本人の心を最も素直に映画にした作品と言えます。
ただの探査機であるのにそれを「はやぶさくん」と皆が言っていたように人々は「はやぶさ」に感情移入をしたわけで、それを映画の中でも擬人化することで人々の気持ちを作品の中に表しています。
観客は「はやぶさくん」が困難にもめげず諦めずに、その旅を続けていく姿に感情移入をするわけですね。
そういう意味で観客である普通の日本人の目線に立った作品であると言えます。
竹内結子さんが演じた架空の広報担当者が観客のガイドとなって、「はやぶさ」と観客を繋ぐ機能を果たしていました。
この作品は「はやぶさくん」が中心とも言えるわけで、心を揺さぶる感動という点ではこのワーナー版が最も優れていたと感じました。
「はやぶさ」プロジェクトそのものの解説という意味でも最もわかりやすかったと思います。
東映版「はやぶさ 遥かなる帰還」は、「はやぶさ」というかつてないプロジェクトに挑む研究者、技術者たちを描いている作品となります。
「はやぶさ」そのものというよりは、困難なプロジェクトに立ち向かい葛藤しながらも、諦めない人たちが中心になっています。
ドキュメンタリーに近い要素があるのがこの作品で、「プロジェクトX」的な香りもあり、そういう意味では大人向けの「はやぶさ」物語と言えるでしょう。
そして本作、松竹版「おかえり、はやぶさ」ですが、パンフレットのトーンを観る限り、子供というかファミリーでの観賞を狙っている作品であるかと思われます。
導入部分で子供が「はやぶさ」について解説したりというようなところにもその意図を感じますが、かといって子供が中心に物語が進むわけでもありません。
どの登場人物にも求心力があまりないのですよね。
強いて言えば、主人公健人とその父親の関係が中心ではあるのですが、ここへのドラマ的な中心をもっていききれていない感じがあります。
あまりファミリーということを意識せずに、健人と父親へフォーカスをもっとすればドラマとしては盛り上がったかもしれません。

本作でユニークな目線だと思ったのは、火星探査機「のぞみ」の「失敗」にフォーカスをしているということです。
本作で「はやぶさ」のエピソードが「成功」として割とあっさりと描かれているというのは、「のぞみ」の「失敗」と対比させる意図があるのかと思いました。
宇宙探査といった大プロジェクトは、それこそ長い年月と莫大な費用がかかる事業です。
そのプロジェクトに携わったとしても、結果を見ることができない人というのも多くいるでしょう。
そして本作で触れられているのは、「のぞみ」の「失敗」で得られた知識、知恵というものが、その後の「はやぶさ」に活かされている、そしてまた「はやぶさ」の経験もまた、その後のプロジェクトに引き継がれていくということです。
本作で「着眼大局、着手小局」という言葉が出てきますが、これは「はやぶさ」プロジェクトについてというだけではなく、日本の宇宙開発事業全体について言える言葉でもあります。
「のぞみ」の「失敗」、「はやぶさ」の「成功」は宇宙開発事業全体から言えば小局とも言えるわけで、それを含めた大局を描けているかというのが、本作が伝えたかったことの本質ではないかと思います。
目先の予算で「仕分け」してしまうのではなく、国家としてどう宇宙開発を考えるかという大局を論じる時期なのではないかと言いたいのではないのでしょうか。
本作は「はやぶさ」だけの物語ではなく、日本の宇宙事業全体の物語として観ることができます。
それを「のぞみ」で「失敗」した父親、そして「はやぶさ」で「成功」を果たす息子というキャラクターに落とし込んだ発想はおもしろいなと思いました。
そこをもっとドラマとして膨らませればおもしろい作品になったのではないかと感じました。
へんにファミリー層狙いなどというところを意識したのか、焦点がぼやけたものになってしまったのが残念です。

ちなみに3D映画としては、その技術を活かした演出ができておらず、残念な感じです。

「はやぶさ HAYABUSA」の記事はこちら→
「はやぶさ 遥かなる帰還」の記事はこちら→

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2012年3月18日 (日)

本 「最愛」

久しぶりに真保裕一さんの作品を読みました。
初期の通称「小役人」シリーズは好きだったので、ある時期集中的に読んだのですが、最近はちょっとご無沙汰していました。
真保さんの作品は主人公が何かの出来事に巻き込まれる中、次第にその全貌に迫っていくという展開が多いですよね。
出来事の謎が明らかになっていく過程が、真保さんの作品「読ませる」力になっていると思います。
本作も長年連絡を取っていなかった姉・千賀子が重傷を負ったということを聞いた主人公・悟郎が、事件にあった姉の行動を追っていくという展開になります。
千賀子はずっと病院で寝ているので、実際に話すシーンはないのですが、悟郎が関係者に話を聞いていくうちに彼女の性格、生活が次第に明らかになっていくのです。
事件に関わった千賀子の性格、そしてその性格の源泉となった過去の出来事、それが明らかになっていく様はぐいぐいと読ませる力があり、さすが真保さんだなと思いました。
千賀子の行動というのは、彼女の性格によるものが大きいのですが、またそれに主人公・悟郎の性格というものも大きく関わってくるのが、最後に判明します。
そこでタイトルの意味も明らかになるわけです。
この辺りの展開も見事な感じがしました。

「最愛」真保裕一著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-713115-9

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「トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part1」 監督変え過ぎ

「トワイライト」シリーズの最終章となりますが、Part1、Part2と「ハリポタ」と同じように2部作で公開されるということです。
このシリーズ、僕はほぼ惰性で観ている感じとなっています。
それこそ「ハリポタ」は最終章に近づくに従い、物語もどんどん盛り上がっていき、引き込まれるようなところがありました。
しかし、このシリーズは逆にどんどん盛り下がっていくような感じがします。
1作目の「トワイライト」は、吸血鬼との恋愛ものということで、ホラー風味が入ったちょっとダークな恋愛物語といった感じがありました。
恋愛ものにしては珍しく画面も陰々とした感じでしたよね。
しかしその後どちらかというと、三角関係やら恋愛話の方が強くなっていきました。
本作は初期のダークさはほとんど感じられず、普通の恋愛ものになった感じがしました。
その割に2時間程度の尺があるので、話の展開が遅い、遅い。
結婚式からハネムーンまではもっともっと短くていいなと。
恋にときめく乙女的にはこのぐらい観たいのかもしれませんが・・・。
まどろっこしくてなりません。
あと主人公ベラというキャラクターが男からみると、あまり魅力的に見えないのですよね。
どちらかというと「わがまま言い過ぎ!」と言いたくなります。
ジェイコブがかわいそ過ぎるじゃん。
ま、二人の男が自分のために戦ってくれるというのは乙女的には萌え要素なのかもしれませんが。
本シリーズは4作目ですが、作る度に監督が変わるのはいかがなものかとも思っています。
脚本家はずっと継続なのですが、監督は毎回違います。
なので、1作目と本作はけっこう画のトーンも違っていたりするわけです。
「ハリポタ」も中盤で監督がよく変わったところはいまいちで、最後のほうでデヴィッド・イェーツに固定されてからスタイルが確立して、物語も盛り上がっていったと思うのですよね。
監督が変わるのはいろいろ大人の事情があるのかもしれませんが、これほど頻繁だとシリーズ全体の力が落ちていくことに繋がりかねません。
と、ブースカ言いながら、結局ここまでつき合ってしまったので、最後のPart2も観てしまうんだろうなぁ。
それでまたブースカ言うのでしょう。

前作「エクリプス/トワイライト・サーガ」の記事はこちら→

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2012年3月16日 (金)

本 「コロヨシ!!」

「となり町戦争」「失われた町」の三崎亜記さんの作品です。
文庫の帯には「前代未聞の奇想青春小説」とあるように、青春小説に分類される作品だとは思います。
巻末の解説にも「DIVE!!」や「風が強く吹いている」等がいっしょにあげられているように、スポーツを物語の中心においた青春小説と言えます。
ただ書いているのは三崎亜記さんなので、ただのスポーツ青春小説となっていません。
本作で取り上げられているスポーツは「掃除」。
この「掃除」は、普段自分たちが行っている「掃除」ではありません。
箒様の「長物」を振り、ほこりを見立てた「塵芥」という羽子板のはねのようなものを巻き上げ、それを空中でコントロールする技術の芸術点、技術点で競うという架空のスポーツです。
三崎亜記さんはデビュー作の「となり町戦争」からそうですが、一見我々が普通に暮らす日本のある街を舞台にした作品のように見えながらも、それは三崎さんが作った架空の世界であるという作品が多いです。
そこにはその物語世界ならではの社会、ルール、法則などがあります。
三崎さんのすごさというのは、そういう現実とは異なる世界を作り上げる力技を持っているところだと思います。
本作は「掃除」という架空のスポーツを作り上げていますがそれだけにとどまりません。
登場人物が暮らす世界は日本のようにも見えながらも、まったく違う世界であり、歴史であるわけですが、そういう設定などを三崎さんは細かいところまで作り上げているんですよね。
その世界での「常識」みたいなものまでを細かく作り上げているんです。
だからこそ、現実とは違う世界ではありながらも、非常にリアリティを感じる世界観になっています。
世界観が薄っぺらくないわけですね。
このあたりの世界構築力というのは、いつも三崎さんの作品を読むとすごいなと思うところです。
「となり町戦争」「失われた町」などはちょっと読み心地が重めであったりするので、ちょっと手を出しにくい人もいたかもしれませんが、本作は「奇想青春小説」とあるように、一風変わった世界観ではありますが、そこで展開される物語は青春小説の王道である「成長」であったりするわけです。
なので読み心地は重めではなく、軽やかに読み進めることができます。
そういう点では、解説で「DIVE!!」や「風が強く吹いている」などの爽やかなスポーツ青春小説があげられていたのもわかる気がします。
読み終わって、この世界観でもうちょっと続きを読みたいなと思っていたのですが、今日書店を流していたら続編が出ていました。
やはりみなさんそう思ったのでしょうね。
今度続編も読んでみようかと思います。

「コロヨシ!!」三崎亜記著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-100060-1

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2012年3月11日 (日)

「シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム」 正しい続編

「アイアンマン」のトニー・スタークと並んで、ロバート・ダウニーJr.のアタリ役となったシャーロック・ホームズの新作です。
興行的にあたった作品の続編は、(映画会社の)期待感からか、規模が大きくなり物語も大作化していきます。
しかし大風呂敷を広げてしまい元々の作品の良さをオミットしてしまった作品がいくつもあります(「パイレーツ・カリビアン」の2、3作目とか、「トランスフォーマー」の2作目とか)。
本作はそのような続編の罠にはまることなく、1作目の良さを引き継ぎつつ、2作目とてのグレードアップ感を出すというところを、いいバランスで仕上げたと思いました。
正しい続編ですね。
1作目の良さは新しいシャーロック・ホームズ像の構築であったと思います。
新ホームズはロバート・ダウニーJr.がもう身に付いているというか、彼が出てくるだけでホームズだと違和感なく認識できるくらいに定着した感じがありました。
1作目では戦いのシーンで相手の出方を先読みしながら頭の中でシミュレーションし、それを実際にその通りに行うという今までに見たことのないやりかたで表現していましたが、本作はそこはやはり踏襲しています。
これはロバート・ダウニーJr.の「シャーロック・ホームズ」の定番シーンとなったと言えます。
このシーンは、新ホームズが観察眼の鋭く、さらには武術もできるということを能弁に語っているわかりやすいものになっていると思います。
またホームズとジュード・ロウ扮するワトソンの関係性も1作目と同様です。
ワトソン像というと推理ものでは「ワトソン役」言われるように、ずっとホームズに脇に沿っている語り部的な位置づけとして思っていますが、本シリーズのワトソンは違います。
ホームズにとっての頼もしい相棒となっており、その役回りは本作でも同じです。
このあたりの新しいホームズとワトソンの関係性も1作目があたった理由でもあったと思います。
またガイ・リッチーのスタイリッシュな演出もそのまま。
シャーロック・ホームズの時代というと実際はもっとのんびりとした雰囲気であったと思いますが、そこに現代的なスピード感を取り込み、コスチュームものになりそうなこの時代を受け入れやすいものにしています。
このあたりについては1作目でもすでにやっていたことで、そこが成功した要因だと思いますが、ここを2作目でもしっかりと守っているといます。
最初に書いたようにあたった作品の続編はとかく規模が大きくなった割に、最初の良さを失ってしまうもの。
そのような罠をしっかりと避けています。
では2作目のグレードアップ感は何で出しているかというと、それはやはりホームズの宿敵、モリアーティ教授の登場でしょう。
やはりホームズと言えば、その好敵手はモリアーティ教授。
ホームズをしのぐほどの頭脳を持った悪の天才モリアーティ。
モリアーティ教授の仕掛ける事件はより狡猾により規模の大きなものとなっています。
その事件を解きほぐしていくホームズ。
やはり好敵手の存在は物語を俄然盛り上げます。
前作のレビューで彼の登場への期待を書きましたが、本作で登場してくれて原作もファンである自分としては満足です。
そして当然のことながら、最後の対決はスイスの高山にある滝の上。
二人が対決するならばこのロケーション以外はありえないでしょう。
このシーンが本作で観れてよかった。

コナン・ドイルはホームズのシリーズが当たっても本人自身はあまり嬉しくなかったようで。
彼はホームズを「シャーロック・ホームズの最後の事件」で滝の上からモリアーティ教授と道連れに落ちて失踪させ、その物語の幕を引きます。
しかしファンはそれに失望し、ホームズの再登場を願います。
結果的にコナン・ドイルは「シャーロック・ホームズの帰還」で彼を復活させるわけです。
本作も最後にホームズはモリアーティと共に滝に落ちます。
しかし、というかやはりホームズは、みなさんの期待通りです。
まだまだいけますかね、このシリーズ。

ひとつ残念なのは、レイチェル・マクアダムスのアイリーンが死んじゃったこと。
この役、好きだったのだけれど。
実は生きてましたってことにならないかなぁ・・・。

「シャーロック・ホームズ」の記事はこちら→

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2012年3月10日 (土)

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」 理不尽な現実、そこからの再生

主人公は9・11で父親を亡くした少年オスカー。
タイトルの「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(原題:EXTREMELY LOUD & INCREDIBLY CLOSE)」というのは、圧迫感を感じるほどの理不尽な現実を指している言っていいでしょう。
オスカーは時折両手で耳を塞ごうとする仕草をしますが、彼はまさにその理不尽さを実際に感じているんだろうと思います。
そもそも9・11の悲劇(もしくは東日本大震災のような災害)というものは、大人にとっても突然で、理不尽で、そして自分の力ではどうしようもなく無力感を感じてしまうようなことです。
そして子供にとっての世界というのは、大人とは違いとっても狭い。
それは家族であったり、学校の友達だったりといったとても小さな世界です。
そもそもの世界が小さいのに、大人でも受け入れがたい理不尽さで、大切な人を失ってしまったとき、子供にとっては世界が崩壊するかに等しいほどのダメージを与えてしまうのかもしれません。
まさにオスカーは、父親を失ったあとの1年は呆然と過ごし、そしてそれが現実だと認識し始めたときから、それを実際に痛みを感じてしまうほどの辛さを感じます。
それは一人の子供が背負うにはあまりにも重い辛さです。
大人であれば、理性的に納得しようと努力するかもしれません。
また現実的には生きていくためにやらなければいけないことがあり、その中で時が癒しとなってくれるかもしれません。
でも子供にとってはその世界が小さいからこそ、大きな圧力となり、のしかかってくるのです。
けれど理不尽な現実を乗り越えていかないわけにはいきません。
そのために必要なのは、やはり勇気なのでしょう。
もともとオスカーは物怖じをし、心配性な子供であったようです。
父親のトーマスはそういうオスカーの性格を知っていて、彼が世間に一歩踏み出せる勇気を持てるような「探検ゲーム」を提案します。
オスカーは父親の死後、彼が残した持ち物の中に一つの鍵を発見します。
そして彼はその鍵が、父親が彼に何かメッセージを残したのではないか、この理不尽な出来事を説明してくれるようなことがわかるのではないかと、鍵の謎を解く「探検ゲーム」を始めます。
彼はその過程の中で、様々な人に出会います。
出会う人々それぞれに生活があり、人生がある。
そこには幸福もあり、不幸もある。
そして誰もが大切な何かを失っている。
謎解きの旅の中で、オスカーは小さな子供の世界から、世間というより大きな世界に触れていきます。
何かを背負っているのは自分だけではないということを知っていきます。
そしてずっと自分の心の中に抱えていた気持ちを吐き出します。
それは内に籠っていた自分を、外に大きく開放することです。
それは勇気のいること。
でもオスカーは、父親が信じていたようにそういう勇気を持った子であったのですね。
そして母親がオスカーのためにしてくれていたことを知り、オスカーは自分が背負っていた理不尽さを自分だけで背負わなくていいということもわかります。
母親も夫の喪失感を持ちながらも、子供への愛情、信頼を持ちづけていました。
そういう母親の気持ちを気づくほどにオスカーは成長したのですね。
オスカーに起こった出来事はとても悲しいことですが、それは確実に彼を生きることに強い人間に育てました。
それが悲劇の中の希望に感じられました。

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2012年3月 9日 (金)

「戦火の馬」 お馬さん版「マイウェイ」、ではない

類いまれな資質をもって生まれたサラブレッド、ジョーイ。
そしてジョーイに愛情を注ぎながら育てる少年アルバート。
彼らは貧しい生活ながらも幸せなときを過ごしていましたが、やがて第一次世界大戦が勃発し、ジョーイは軍馬として、戦場に送られることとなります。
予告を観たときは、戦争によって無理矢理に引き割かれたジョーイとアルバートが困難を乗り越え、再会するという感動物語かと思っていました(実際、そうなのですが)。
ジョーイはイギリス騎兵隊の軍馬として戦場に送られますが、その後、戦いを経る中で、ジョーイはドイツ軍、フランスの農家、そして再びドイツ軍と渡り歩くという数奇な運命を辿ります。
むむむ、これはお馬さん版「マイウェイ」かと(カン・ジェギュ監督の「マイウェイ」ね)。
戦争に入ってからの前半はジョーイを軸にしながら、彼が渡り歩くところで出会う人々を描いていくという展開になっていました。
このあたりではアルバートとの関係性はそれほど描かれていなくて、自分が想像していた物語とちょっと違ったので戸惑ったところではあります。
後半はやはりジョーイとアルバートの関係性に戻っていくのですが、中盤の展開で目線をずらされていたからか、彼らの再会に大感動!というところにはいけませんでした。
いいなと思ったシーンは、鉄条網により身動きできなくなってしまったジョーイを、対立するイギリス兵とドイツ兵が協力して助けようとするところですね。
ジョーイは戦争という困難を渡り歩くはめになるのですが、そこで愛情深い人々に出会います。
アルバートからジョーイを預かったイギリス騎兵隊のニコルズ大尉。
冷徹に馬たちを扱う将校と違い、ジョーイらを大切にするドイツ軍の軍馬係。
ジョーイに安らぎを与えてくれたフランス人の少女。
ドイツ、イギリス、フランスと当時国は戦争をしていましたが、その国民がすべて個人的に悪であったわけではなく、それぞれに人間らしい愛情を持っていたことなのですよね。
戦争という状況の中でも、人は愛情を決して失うことはないという希望をスピルバーグは描こうとしたのでしょうか。
そして困難な状況の中でも、諦めないタフネスさを持った心と体があれば、いつかは道は開くということをジョーイが象徴しているようにも感じました。
どちらかというとこういうことのほうが本作のテーマであり、ジョーイとアルバートの友情(いわゆる動物ものによくあるような)という狭い関係性を主軸と思って観に行くと、戸惑うかもしれないですね(個人的には戸惑いました)。
スピルバーグが描こうとしたのはもっと広い、困難なときでも愛情を失わず、そして諦めないという人の力なのでしょう。
そう考えると、お馬さん版「マイウェイ」っていう見方はちょっと違うかもしれないですね。

本作、いつものスピルバーグ映画と、ちょっとライティングの雰囲気が違っているように感じました。
いつもよりメリハリが強い感じでしょうか。
馬の躍動感を出そうという狙いかな。
ちょっと光を作くりこんでいるっぽいというか、舞台っぽい感じがしたのが気になりました。

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2012年3月 4日 (日)

本 「デザインの教科書」

僕は学校もそうですし、今の仕事もデザインに関わっていたりします。
しかし、あまりデザインに関する本を読むことはありません。
困ったことに、昔から「お勉強」というのが好きになれず、学業や仕事に関することを「勉強しよう」と思って読むことが苦手なのです。
ただ興味を持ったことはジャンルに囚われず読んだりするので、たまたま「興味を引いた」のが本著であったわけです。
興味が引かれたのはタイトルの「デザインの教科書」の「教科書」という部分ですね。
デザインというのは新しいものを作っていくようなところもありますので、教科書的なものというのは、歴史的なものや色彩学的な法則的なもの以外はなかなか難しい。
学校で習うようなことならつまらない、でも新書ですから少し現代的な切り口になっているかもしれないと。
一通り読んだのですが、正直がっかり。
タイトル通り「教科書」的で、机上のデザイン論だなと。
著者は武蔵野美術大学の先生ということらしいので、やはりな、という感じでした。
デザインという言葉は最近はいろいろと便利に使われています。
狭義では、様々な工業製品や衣服などの立体物の造形であったり、ポスター等の平面の意匠であったりします。
しかし、広義では「システムのデザイン」とか「環境のデザイン」などと言われるように、ある思想に基づいた設計といった意味でも使われます。
なので、本著にも「デザイン」が人の生活を変える、環境問題を解決する力があるというようなことが書いてあります。
それは一面で正しいし、そうなるのが理想です。
ただ社会の現場でデザインの仕事をしていると、そういうことよりももっともっと現実的なことが問題になるのです。
限られた条件、限られた予算、限られてたスケジュールで、課題をデザインで解決しなくてはいけない。
その課題もデザインだけで解決できるとは限らない。
もっともっと根本的なシステムから変えなくてはいけないこともあります。
それも含めてデザインだろうという広義の解釈もあるかもしれませんが、それはもうデザイナーではなく、デザイナーを脱皮してさらなる高みに登らなくてはいけません。
本著を読んで思ったのは、狭義と広義のデザインがいいように使われているような気がしたことです。
目の前の課題は狭義のデザインで解決しなくてはいけません。
そのときに大学の先生がいうような広義のデザイン、理想論を持ち出しても、頭でっかちの地面から浮き上がったものになるのが落ちなのです。
学生から社会人になったばかりのデザイナーにはそういうタイプがいたりしますが。
まずは狭義でのデザインによる解決力がなくてはいけません。
若いうちはデザインの基礎体力がなくてはいけません。
理想はそれから。
だんだんと社会でデザインをやっていく中で、次第にデザインでは解決できないことというのがわかってくるようになるのです。
そこで狭義のデザインから脱皮して、広義のデザインに広がると僕は考えています。
頭でっかちのデザインをみていると、押し付けがましくて僕自身は嫌いなのです。
本著では、使う側がデザインを判断・評価するということが書いてありますが、それはまさしくその通りだと思います。
どんな理想論を掲げたデザインだろうと、受け手の評価こそすべて。
受け手にどんな思想を与えようとするようなことというのは、なんか不遜な感じがするのですよね。
ひねくれ者なのだろうなぁ、僕は。

「デザインの教科書」柏木博著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288124-1

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2012年3月 3日 (土)

「アフロ田中」 もんもん、もやもや

予告で観た松田翔太さんのアフロっぷりが弾けていて興味を持った作品。
彼は端正な顔立ちからか、クールだったり、キツい印象のキャラクターを演じることが多かったですから、こういう役は意外であったんですよね。
本編を観てみましたが、松田さんはこういう感じもアリですねー。
松田さんが演じるのは、彼女いない歴=年齢という田中宏という青年。
タイトルにあるように田中は印象的なアフロヘア。
それに物語上何か意味があるのかと思ったら、全く意味はありませんでした(笑)。
この作品は、小心者で、ええかっこしいで、奥手な田中の「心の声」を追いかけます。
おそらく男であるならば、田中の「心の声」のいくつか(多くの?)に、うんうんと頷くことでしょう。
頷くことがないならば、その方は相当にハッピーな人生を歩んできたに違いありません(笑)。
人には、他の人の心のうちなんて読めるわけもなく、ましてやそれが異性であったならばなおさら。
想像力を働かせて、いくつもシミュレーションをしてみたりもしますが、ああでもない、こうでもないと、もんもんとするばかり。
初めてメールを送る時に、文章の語尾の使い方にまで細心の注意を払ったということは、みなさん経験ありますよね?(少なくとも僕はある)。
それでもって相手から何かしらの反応があったとしても、その意味をどう解釈するのかと、またもやもやと考える。
そういうもんもん、もやもやの気持ちっていうのは、他の誰かに見せている人はあまりいないと思いますけれど、だからこういう風に映画で正面切って描かれると、うんうんと頷いてしまうんですよね。
そうだよね、男の子だもんね、と。
なんというか男子校的なノリのような感じがします(経験はないけど)。
しかし、最後の亜矢の「田中クンのこと好きだけど、私が許せないんです」っていうのは男にとってはキツいよね。
男子的は、「え、なんで?」となっちゃうわけですよ。
女の子的には筋が通っているのかもしれないのですけれど、男からするとその筋がよくわからんと。
個人的にも似たようなことを言われたことがありますが、「???」となり、その後「なにがいけなかったのだろう?」ともんもん、もやもやとしばらくなるのですよね。
経験的にはこういうモードに女の子が突入すると、何を言ってもほぼリカバリーすることは不可能。
男子的にはわからない、女の子の筋があるようなのですよ。
女性的には、田中の妄想モードの「心の声」はどう見えるのでしょうね。
多くの男はこういう葛藤を抱えているものなので、愛情深く扱ってやってください。
男子としては、同じ場面の亜矢の「心の声」バージョンを観てみたいと思った次第です。
女性の気持ちがわかんないもので。

本作の松居監督はデビュー作ということなので、全体的に荒削り感はありました。

 

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本 「ガール・ミーツ・ガール」

さて誉田哲也さんの「ガール・ミーツ・ガール」です。
こちらは1月にレビューを書きました「疾風ガール」の続編になります。
「疾風ガール」は主人公柏木夏美を中心にし、彼女が属していたバンドのメンバーの自殺をめぐる一種のミステリー的な要素も含んだ青春小説となっていました。
そういう意味では誉田さんの作品を大きな二つの流れ、青春小説(武士道シリーズや、こちらのシリーズ)と、警察小説(「ストロベリーナイト」等の姫川玲子シリーズ)の中間に位置した作品となっていたと思います。
「ジウ」も同じように中間かもしれませんね(ちょっと警察小説よりですが)。
本作「ガール・ミーツ・ガール」はミステリー的要素はなく、「武士道」シリーズのような青春小説に大きく振られています。
誉田さんの青春小説は今までのレビューでも書いてきたとおり、女性の主人公がツインになっていることが多いですね。
「武士道」シリーズしかり、「ジウ」シリーズしかり。
本作も夏美に加え、新たなキャラクターである島崎ルイが登場します。
ルイは一作目でも名前は出ていたのですけれど、夏美との絡みが本作ではあります。
夏美は思い込んだら一直線で周りのことはお構いなしのタイプ。
ルイは二世でお嬢様系でありながらも、実は周囲に目を配れるタイプ。
全く相反する性格でありながらも共通するのは音楽に関する天才性。
この二人がコラボをすることになり、たがいに戸惑いながらも認めあうようになり、さらにてっぺんを目指していくというのがストーリー。
これは「武士道」シリーズの香織、早苗の関係にも似ていて、まさに誉田哲也さんの青春小説の典型と言っていいでしょう。
典型といってもやはりこういう青春ものは読んでいて気持ちがいいもので、こういう作品は好きですね。
「武士道」シリーズも三部作でしたが、このシリーズももう1作くらい書いてくれないかな。
夏美とルイのその後が読んでみたいです。

「疾風ガール」の記事はこちら→

「ガール・ミーツ・ガール」誉田哲也著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-76335-0

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2012年3月 2日 (金)

「ヒューゴの不思議な発明」 映画讃歌

スコセッシがファンタジー?それも3D?なんで?と初めて予告を観たときはたいそう驚きました。
「タクシードライバー」「ディパーデッド」「シャッター アイランド」等と今までの作品は、子供向け、ファミリー向けとは真逆の映画を撮る監督だと思っていたので。
多くの人が呼べるファンタジー映画、それも3Dに、巨匠も担ぎだされてしまったのかと。
あまり得意のないジャンルに手を出して、残念な結果(「エアベンダー」のシャマランのように)になってしまったりしないかと、勝手にヒヤヒヤしておりました。
しかし、本作はスコセッシが監督だけではなく、製作も務めているということで、本人もかなりやる気を持って挑んだ作品なのかもしれないとも思いました。
そして不安と期待が混じりあった気持ちで、劇場を訪れました。
観たあとに思いました、本作はいわゆるファンタジー映画ではありません。
そういう映画を期待して観に行くと肩すかしに合うでしょう。
けれども、スコセッシの映画愛が溢れる作品になっており、その点はいい意味で裏切られました。
そして今、なぜスコセッシがこの映画を撮ろうと思ったのかも、わかった気がします。
本作の劇中でも描かれているように映画という発明は、人がそれまでとは違う表現方法を手に入れたということを意味します。
それまでの表現は絵画であったり写真はある時間・瞬間を切り取って記録するものでしたし、舞台演劇というものはストーリーを追うという時間軸のある表現方法ではありましたが、その場にいてリアルタイムでしか提供できないというものでした。
しかし、映画はそれらの特徴をミックスした(ストーリーを時間軸で追いそれを記録する)初めての表現方法であったわけです。
それによってある人が頭の中で想像したことを表現し、それを他の人にも見せることができるということができるようになったわけです。
人はもとより物語ることを行っていました。
しかしそれを伝える手段は言語(語りであったり書物であったり)したわけです。
それぞれ受け手が自分のイマジネーションを駆使して物語を読む、聞くという行為はそれはそれですばらしいことなのですが、映画というものはある人の想像の産物を皆でそのまま共有できるようになった初めての媒体なのだと思います。
初めて映画を観て衝撃を受けたときというのは、映画のファンであれば皆お持ちだと思います。
僕であれば「スターウォーズ」の宇宙戦闘シーンであったり、「未知との遭遇」のUFOの登場シーンであったり、「E.T.」の自転車飛行シーンだったりするのです(ルーカスとスピルバーグばかりですが、そういう世代だということで)。
これらの作品を初めて観たときは、理屈抜きに「すげーっ!!」と思ったわけですね。
この気持ちは、本作で初めての映画(機関車がただホームに入ってくるだけの作品)を観て観客が驚くところがありますが、その時の観客が感じたことと一緒なのだろうと思いました。
こういう「すげーっ!!」って思った作品は、それぞれみなさんがいくつかは持っているのだと思います。
たぶんスコセッシにとってのそういう映画もあるのだと思うのですね。
本作はスコセッシの、自分の好きな映画を作った人々への想い、そしてさらには映画を作った初期の人々への敬愛みたいなものが本作には溢れているように感じました。
僕が本作をいいなと思ったのは、映画を観て「すげーっ!!」と思ったときの気持ち、たぶんおそらくスコセッシもそう思ったであろう気持ちが、素直に表現されているところです。
スコセッシはいまなぜ、彼の映画讃歌というべき本作を撮ったのでしょうか。
映画は観客に驚きの気持ちを起こさせ、皆で共有させることができた「発明」であったのだと思います。
そしてこの2、3年、映画は大きな転換を迎えようとしています。
それが3D化なのでしょう。
これはご存知の通りキャメロンの「アバター」が火付け役となりました。
この「アバター」も僕にとっては久しぶりに「すげーっ!!」と圧倒される作品となりました。
おそらくスコセッシも本格的な3D映画の登場に、衝撃を受けたのではないかと思います。
初期の映画を観ていた人がスクリーンに映し出されているただ走ってくる機関車にのけぞったときに受けた衝撃と同じくらいのインパクトをスコセッシは感じたのではないでしょうか。
映画というものは、最初の映画そのものの発明、そしてトーキー化、カラー化と、大きな技術的革新を経て進化してきました。
そしてその技術進化を受けて、映画そのものの表現もより豊かになってきたのです。
そのように進化していく力を持っている映画そのものへのスコセッシの愛を感じました。

本作は「人はみななすべき役割があり必要とされている」というテーマもあります。
またスコセッシが3Dをかなり意識して作ったと思われる画面構成や美しいライティングといった見所もあります。
それらについて書いていくとそれはそれで多くの文章を費やさなくてはいけなさそうなので、割愛します。
でもそういうことや、つらつら書いたスコセッシの映画愛のことなどをあえて分解して観るのではなく、素直に物語に身をまかせて観るのがよいかなと思いました。
僕は観ていて「やっぱり映画はいいよなぁ」としみじみ感じたりして、なんだかスコセッシと映画談義をしたような気分になりました。
映画ファンこそ楽しめるのではないかと思いました。

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