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2012年2月26日 (日)

本 「歌枕殺人事件」

内田康夫さんの浅見光彦シリーズの一作。
最近書かれた内田さんの作品ではない(1990年作)ですし、また僕自身が最近の作品を読んでいないのですけれど、内田さんの作品(特に浅見光彦シリーズ)というのは読後感があまり変わらないのですよね。
これはいい良くいえば安定している品質、悪く言えばワンパターン。
もちろんミステリーですので、事件そのものは変わるのですけど。
どの作品でも浅見は居候の独身ルポライター(かつ歳をとらない)ですし、事件を通じて知り合う美しい女性とはいつもうまくいきそうでうまくいかないし。
母親の雪江はしっかりしなさいとうるさく言うし、お手伝いの須美子さんは浅見に声をかける女性に目を光らせている。
これは「サザエさん」や「ドラえもん」、「水戸黄門」のようなもので、ファンからすれば「お約束」で、なかったらさびしいものなのかもしれません。
ただこのシリーズ、続けて読むと、味わいがいっしょなので飽きる感じというのはありますね。
とは言いながらも、けっこう僕も読んでいるのですが。
時々、食べる箸休めみたいな感じなのかな。

「歌枕殺人事件」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN4-04-160736-1

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本 「刑事雪平夏見 愛娘にさよならを」

昨年も公開された「アンフェア」シリーズの原作シリーズの4作目になります。
原作と言っても、もともと最初のテレビシリーズでも雪平夏見というキャラクターと「推理小説」殺人事件を扱っているとっかかりのところだけが共通で、その後の展開は全く異なりますので、別の物語として読んだほうがいいでしょう。
その違いがよくわかるのが、昨年の映画「アンフェア the answer」と、本作「愛娘にさよならを」ですね。
でも物語の進んで行く方向はまったく違うのですが、雪平というキャラクターの根本はやはり共通していると思います。
映画「アンフェア the answer」では警視庁検挙率No1の刑事であった雪平が、女の一面を見せます。
彼女はある男に惹かれますが、事件の展開に伴い、刑事という生き方をとるか、女としての生き方をとるかという選択に直面します。
しかし、というかやはりというか、雪平は刑事としての生き方を選ぶのです。
テレビシリーズでは描かれていた母親という立場は映画ではほとんど触れられません。
逆に小説のほうは映画と異なり、前作もそうでしたが母親という側面を雪平は持ち続けます。
しかし映画と同じように、刑事という生き方と、母親としての生き方のどちらをとるのかという選択を迫られることになるのです。
やはり小説においても、雪平が選ぶのは刑事としての生き方なのですね。
女としての生き方を選ぶのか、母親としての生き方を選ぶのかと、迫られる答えは異なっていますが、しかし雪平というキャラクターの根本は映画も小説も変わっていません。
ストーリーの展開は異なれども、その根本は変わらない。
その根本にあるのは雪平というキャラクターなのですね。
テレビ/映画もさらにストーリーが展開する余地がありますし、小説のほうも同様です。
物語が転がっていく先は違えども、雪平という女刑事の根本は変わらずに続いていくのでしょう。

前作「刑事雪平夏見 殺していい命」の記事はこちら→

「刑事雪平夏見 愛娘にさよならを」秦建日子著 河出書房新社 ハードカバー ISBN978-4-02053-2

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「顔のないスパイ」 凡百のスパイ映画に埋もれていく作品

スパイものというジャンルは好きなんですよね。
敵味方の心理戦、正体がばれてはいけないというサスペンス、また息もつかせぬアクション・・・。
まさにエンターテイメント映画ならではの楽しませる要素を持つことができるジャンルだと思います。
ですからこのジャンルは傑作が多い。
がしかし、このジャンルはたくさんの映画が作られているためか、凡庸な出来の作品もまた多いのです。
本作もそういう凡百の作品の一つと言っていいでしょう。
原題は「The Double」で、それは二重スパイを意味していると思います(実はもう一つ意味があるかと思いますが、ネタバレなので伏せます)。
主演のリチャード・ギアが元CIAのエージェント役ですが、こちらは予告でもはっきりと見せていたように、旧ソ連の二重スパイです。
スパイもので、誰が二重スパイなのか、というのはひとつサスペンスをよぶ定番ネタでありますから、それを予告で曝しているからには、さらに仕掛けがあるのだろうと思います。
なくはないのですが、実際のところ、残念ながら大したことはありません。
この作品、致命的なのは登場人物の心理についての描き方がかなり浅いのですね。
元CIAエージェント、そして彼とコンビを組むトファー・グレイス演じる若手のFBI捜査官が、物語の中心になるのですが、彼らの人物、心情の掘り下げが浅いため、最後に「真実」が明らかになっても、心に迫るものがあまりないのですね。
その「真実」もこの手の映画を見慣れた方なら、だいたい予想できるものでありますし。
凡百のスパイ映画の中に埋もれていってしまう作品のように感じました。

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2012年2月25日 (土)

「メランコリア」 美しい破滅

予告編でのその美しい映像に惹かれ、絶対に観ようと思っていた作品。
気がついたら公開終了まであと1週間ということで、慌てて観に行ってきました。
冒頭から繰り返し流れるワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲が、荘厳でありながらも何か不安をかき立てるような心境にさせられます。
このテーマはまさに地球に衝突せんとする惑星「メランコリア」の存在と、それにより登場人物がかき立てられるいいしれぬ不安感を音楽で象徴しています。
そしてその音楽を背景に超スローモーションで、まるで絵画のように幻想的で美しく、そして破滅の予感を感じさせる映像、それに最初から圧倒されました。
冒頭の映像や、パンフレットの表紙で、主演のキルスティン・ダンストがウェディングドレスを纏いながら小川を流れていく映像がありますが、これはミレーの「オフィーリア」のイメージですね。
この絵は先日読んだ夏目漱石の「草枕」でも引用されていました。
漱石も「オフィーリア」に「死」と「美しさ」を読み取っていますが、本作の監督であるラース・フォン・トリアーも同じように感じたのかもしれません。

ある日、地球に衝突する可能性がある惑星「メランコリア」が夜空に出現します。
最初は小さな点であった惑星は、次第に天空でその存在感を増し、青く美しく輝きをはなちます。
本作は地球滅亡を目の前にした、二人の姉妹ジャスティンとクレアを中心に描かれます。
惑星衝突という出来事を描きますが、本作はSF映画でもパニック映画でもありません。
タイトルにある「メランコリア(melancolia)」は「憂鬱」という意味です。
「憂鬱」こそ作品全体を覆う雰囲気そのものです。
本作は第一部ではジャスティン、第二部ではクレアという、まったく性質の違う姉妹が中心になり描かれます。
ジャスティンは新進気鋭の広告のコピーライターです。
その才能は上司にも評価をされ仕事も好調であり、そしてまたプライベートでも結婚をしようとするところで、公私ともに幸せの絶頂であるはずの女性です。
しかし結婚披露宴の当日も、ジャスティンの表情はすぐれません。
思い出したように笑顔をふりまくものの、すぐに心あらずの無表情になってしまい、さらには奇行も見られます。
ジャスティンは思うように動くことができない、灰色の糸で縛られているようだ(冒頭のイメージにもある)と言いますが、これは鬱病の症状そのものです。
彼女は周囲の人々が言う「これこそが幸せ」というものに合わせるように生きてきたのかもしれません。
それを本当は彼女が幸せであるとは思っていなかったのでしょう。
だからこそ歪みが彼女の中で生じてしまい、披露宴その日にすべてを破壊してしまいたいという衝動に駆られてしまったのだと思います。
そして破壊した後に残ったのは虚脱感。
自分で何もできなくなってしまうほどに無気力になってしまう。
彼女は自分自身も消し去りたいと思っていたように思います。
これは鬱病になると陥る心理状態です。
そして第二部で中心となるのは姉のクレア。
彼女は人がうらやむような幸せな生活をおくっています。
お金持ちで自分を愛してくれている夫を持ち、可愛い子供も授かっています。
彼女は同じような幸せを妹にも得てほしいと願いますが、自分の思うようにならないジャスティンの行動に苛立ちます。
そんな彼女たちの前に、世界を破滅させる「メランコリア」が現れるのです。
対称的な二人の姉妹は、「メランコリア」が出現して以降、その立場が変わったかのようになります。
クレアは幸せだった生活が、破壊されてしまうかもしれないということに混乱し取り乱し、そして呆然とします。
平和な心持ちだった彼女が「憂鬱」な状態になっていくのです。
逆にジャスティンは、「メランコリア」が近づけば近づくほど、次第に穏やかに冷静になっていきます。
まるで鬱病の症状がなくなったかのように。
ジャスティンはそもそもが自分自身を消し去りたいと思っていたわけであり、自分もろとも世界を消滅させる「メランコリア」の存在は受け入れられるものだったのでしょうか。
逆にクレアは破滅を受け入れられません。
最後の瞬間、ジャスティンは静かに座ったまま破滅を受け入れ、クレアは逃れようとするかのように腰を浮かせます。

人間という存在だけが「不安」を持つものだと思います。
「不安」というものは何かと言えば「将来についての展望のなさ」なのですね。
将来について展望がないとき、人は「不安」になります。
「メランコリア(憂鬱)」になるのです。
惑星「メランコリア」は地球を避けるかもしれない、けれども衝突するかもしれない。
世界は終わる、かもしれない。
そういう「かもしれない」という先の見えない状態が人を憂鬱にさせるのです。
「かもしれない」と考えるのは、時の感覚があるから。
時を感じ、未来を見ようとするのは人間だけ。
だからこそ、人間だけが「不安」になる、「憂鬱」になる。
その気持ちは人間であり続ける限りは持つ心理なのでしょう。
作品を観終わったあとにパンフレットを読んで知ったのですが、監督のラース・フォン・トリアーは近年鬱の症状に悩まされたそうです(主演のキルスティン・ダンストも)。
彼によれば本作のラストは「ハッピーエンド」とも言えるとのこと。
確かに「憂鬱」であり続けるということは非常に辛いことです。
そこから開放されるという意味では「ハッピーエンド」とも言えなくもありません。
美しく破滅を願う気持ち。
これはそういう悩みに陥ったことがない方にはわからない感覚かもしれないですけれど。
実は昔の文学を読んだり、絵画などを見ているとそこに作者のそういう気持ちがぶつけられた作品も多いと感じたりするのですよね(漱石や前述の「オフィーリア」などにも)。
やはり人という存在は「憂鬱」という感情といっしょに生きるのが宿命なのかもしれません。

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「英雄の証明」 思いのほかシェイクスピア

「ハリー・ポッター」シリーズの"ヴォルデモート卿"で知られるレイフ・ファインズが主演のシェイクスピア劇です。
レイフ・ファインズは本作で監督も務めていて、デビュー作ということ。
本作はシェイクスピアの「コリオレイナス」を原作(原題はそのまま「CORIOLANUS」)にしています。
「コリオレイナス」の舞台は古代ローマなのですが、本作はそれを大胆に現代(原題といっても架空の都市ローマですが)に置き換えています。
本作はまったくノーマークで、今回は知り合いの方からご招待をいただいたので、初日に観賞してきました。
シェイクスピアはまともに読んだこともないので、「コリオレイナス」という劇の存在は全く知らず。
劇場でも予告編も観たことがなく、ほぼ無垢の状態で観賞しました(ご招待いただいてからネットで予告編は観ましたけれど)。
予告編ではレイフ・ファインズとジェラルド・バトラーがダブル主演で敵味方のライバルの戦争アクション映画という趣でしたが、けっこう本編は印象が違いました。
基本的にレイフ・ファインズが主演で、ジェラルド・バトラーは助演ですね。
あと戦争アクション映画というよりは、思いのほかしっかりとシェイクスピア劇であったと思いました。
登場人物のセリフ回しは、映画というよりはどちらかと言えば演劇風味でした。
現代の戦争を舞台にした大仰なセリフ回しに、戦争アクションとして観始めたため最初は戸惑いましたけど、途中からそうではなくシェイクスピア劇として観るのがよいなと思って、スタンスを切り替えたらすんなりと観れるようになりました。
予告編がちょっとミスリードっぽいので、戸惑う方は多いかもしれません。
とはいえ、現代を舞台にしたシェイクスピア劇(それもマイナーな「コリオレイナス」)と言ってもなかなかお客さんは反応しなさそうなので、宣伝的には難しいところです。
観終わった後に、「コリオレイナス」の原作のあらすじを調べてみましたが、ほぼほぼ本作と同じでしたね。
そういう意味では舞台設定以外はかなり忠実にシェイクスピアの原作を映画化したのだと思います。
観ている時に感じた舞台的で大仰な感じという印象は、そんなに間違っていなかったなと。
では本作はなぜ原作通りに古代ローマではなく、現代を舞台にしたのでしょうか。
ぶっちゃけ、古代ローマを再現するには予算的な厳しさはあったかと思います。
また古代ローマと言ってもなかなか客を呼びにくいというのもあったかもしれません。
ただもう一つは、シェイクスピアが描いた物語の骨子は現代でも通じるものであったというのがあったかと思います。
本作の骨子は政治劇となります。
主人公のコリオレイナスはローマを救った英雄として讃えられ、政治でもトップに祭り上げられますが、その妥協をせず厳しい性格から、政治的なライバルや民衆から攻撃され侮辱され、その地位を追われます。
これは現代、それも日本でもよくある構図ですよね。
政治の世界でも改革をかかげた政治家が最初はヒーロー扱いでマスコミや国民から注目されて、政治の中枢に立っても、そうするとなんやかんやと非難囂々となって攻撃される。
これは自民党政権のときも、民主党政権になってからも変わりません。
ここには衆愚政治的なところもあるかと思いますが、これは民主的であったと言われる古代ローマにも通じるのかもしれません。
これは日本に限ったことではなく、最近のギリシャなどはまさに同じようなところがありますね。
また本作ではコリオレイナスとかつての好敵手であったオーフィディアスが連合し、ローマを攻撃します。
そしてコリオレイナスが力を持っていくと、オーフィディアスはそれを煙たく思い、彼を消そうとします。
これはやはり、日本で頻繁に繰り返される、政党の集合離散や政治家の合従連衡をみているような気がします。
このあたりの政治的な駆け引き、政局というものが、実際の政治をなおざりにしてしまうということは、日本以外の国でもありそうです。
シェイクスピアの原作のテーマといったものは現代に通じるものであると考えたのではないかと思いました。

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2012年2月24日 (金)

「おとなのけんか」 カチンとくるスイッチ

予告編を観たときから、ぜひ観たいと思っていた作品。
期待通り面白かった!

二組の夫婦が、それぞれの子供のケンカの手打ちをしに集まります。
怪我をさせてしまった子供の親も、怪我をさせられた子供の親も、最初のうちは常識的に紳士的に話をしていきますが、しだいになんとなく食い違って、エキサイトしていってしまう・・・。
登場するのは二組の夫婦、四人の男女。
演じるのはジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストファ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー。
すごいメンツですね。
登場する四人はそれぞれが、大人らしく、常識的に振る舞おうとしています。
これはすごく当たり前で、社会で生活していくには、うまく他人とつき合っていかなくてはいけませんから。
でもそれは他人に自分を合わせるということで、そこにはある程度「ガマン」が必要です。
それでも「大人」たるものはそういう「ガマン」をするのです。
それができるからこそ「大人」だったりするわけです。
でも時々、ある一言が「プチッと」スイッチを押しちゃうことがあるんですよね。
相手にとっては何気ない一言だったり、ただの勢いで言っちゃったりしたことが。
まぁ、いわゆる「カチンとくる」というやつです。
本作の四人は、それぞれがお互いに「カチンとくるスイッチ」を押しまくっていて、売り言葉に買い言葉でどんどんエスカレートしていく様子がおかしい。
けんかがエスカレートしていくに従い、どんどん本題からは外れていくし。
この脱線ぐあいというか、話が違う方向違うにずれていくっぷりもおかしいです。
夫婦同士も実際のところは価値観が違っていて、それがけんかのなかで露呈していくのも、端から見ているとやっぱりおかしい。
2VS2のタッグマッチかと思っていたら、実はバトルロイヤルだったみたいな・・・。
結局四人はそれぞれ自分の価値観・スタイルを主張するばかりで、相手のことは聞いていない。
これはまさに子供のケンカだよなぁと。
「大人」として普段生活していた4人の中にたまっていた「ガマン」が一斉に噴き出したという感じでしたよね。
なんというか観ていておかしかったんですけれど、すっきりした気持ちもありました。
自分の中にあった「ガマン」もいっしょに笑い飛ばしたからかもしれません。
ラストカットで、ケンカのもとの子供たちはすっかり仲直りしていたのも効いてましたね。
子供たちのほうがよっぽど大人(笑)。

原題の「CARNAGE」は訳すると「修羅場」。
なるほど・・・、まさに修羅場とは言い当てています。
でも「おとなのけんか」という邦題もけっこういいセンスだなと思っています。
「おとなのケンカ」でもなく、「大人の喧嘩」でもなく、「おとなのけんか」。
全部ひらがなっていうところが、四人が展開するけんかは、実際のところはこどもっぽい言い合いだというのをうまく表現している気がします。

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2012年2月20日 (月)

本 「すべての経済はバブルに通じる」

ぶっちゃけ経済というものはよくわからないし、特に金融となるともうちんぷんかんぷんだったりします。
けれど、最近のニュースを見ていても、やはり話題の中心にあるのは、ギリシャのデフォルトの問題であったり、ユーロ危機だったり、円高問題であったりと、経済・金融に関わることが多いわけです。
最近で世界的に大きな経済的な傷跡を残したのは、アメリカに端を発するサブプライムローン問題。
アメリカの貧困層向けのローンの問題が、なぜに日本の株価に影響を与えるのか?
さっぱりわからないわけです。
でも自分たちの生活に実際に影響を与えるわけであるので、あんまりよくわからないからと、放っておくのもなぁと。
で、この本を読み始めたのですが、とてもわかりやすい。
なぜに現在の経済がこういう状態で、サブプライムローン問題というものが起こってしまうのかというが、よくわかりました。
まさに目からウロコという感じでしたね。
タイトルにあるバブルですが、この本を読んでわかるのは現在の経済・金融システム下だとバブルは起こるべくして起こるし、また起こるであるということなのですね。
まずポイントは証券化。
そもそも証券という言葉はよく聞きますが、それが何かというとよくわかっていませんでした。
証券化というのはいくつかの段階を経て行われます。
サブプライムローンなどの債券(実物資産)から生じるキャッシュフローを権利としてまとめます。
1件、1件の債券として取り扱うのではなくて、ひとつの大きな権利としてまとめるということですね。
ここのまとめるという段階で個別案件毎のリスク(貸し倒れ)というのが、実は薄まるのです。
というのも1件、1件はそこそこ高いリスクでも、100件、1000件ともなるとそれらが全部同時に樫田折れることがなくなるので、大きな権利としてはリスクは低くなるのです。
その権利を細かく分けます。
例えばリスクは高めだけどリターンも大きい債券、リスクは低くリターンも少ない債券といったように。
それを求める投資家に売るということで証券化が成立します。
切り分ける作業がなぜ必要かというと、大きな権利だとそれに必要なコストは莫大なものになるわけです。
それを切り分けることにより、ひとつの証券自体の金額は下げることができ、投資しやすくなるのですね。
この証券化により、もともとは住宅ローン債権というだったものが、リスクとリターンという数字のみで表現される金融商品になるわけです。
証券化されることにより、もとは住宅ローンでも、先物取り引きでもなんでも、リスクとリターンという数字で表現されるのです。
そしてそのリスクとリターンというものでのみ取引されることになり、それは元々の実物資産とは乖離したものになっていきます。
金融商品は実物資産をはなれ、それ独自で肥大化していくわけなのです。
この実物から離れてリスクとリターンのみで表現できるものなる、そうすると世界中で取引しやすくなり、地域に関係なくグローバルに結びつくというのがポイントなのです。
だからアメリカのローンの問題が、結果的には日本の株価にまで影響を与えるようになるのです。

さてその肥大化していくところですが、そこの要因として大きいのが、投資者と運用者の分離です。
我々が投資などを行う時に、自らトレードする人というのはあまりいないと思います。
実際はプロに任せるわけですね。
素人が手に負えないほど、金融は複雑化しているからです。
投資者はよりもうけてもらえる運用者にお金を預けます。
運用者は投資者のお金をより増えるように動きます。
なぜならライバルの運用者より増やせなければ、まかされたお金を引き上げられて破滅してしまうからですね。
そうなると運用者はよりリターンがある証券を探そうとします。
リターンが大きい金融商品は、リスクも大きい。
このときに彼らが考えるのは、その証券がもともともっていたリスク(住宅ローンだったら貸し倒れ)を観るのではなく、その証券が誰かに高く売れるか売れないかというリスクなのですね。
儲かりそうな証券は値が上がる。
そして運用者が群がる。
そしてさらに値が上がる。
またまた群がる。
さらにさらに値が上がる。
こうしてバブルが起こります。
けれどそれでも終わらない。
バブルの時、ようはハイリスクのときほどハイリターンが見込まれるので、運用者はバブルのときほどそこから離れられなくなるのです。
だれもがその証券が売れると思っているときはバブルはいくら実質からかけ離れていてもはじけない。
しかしあるとき、なにかのサインが起こった時たちまちバブルははじけてしまいます。
もうこの証券は買い手がいなくなるのではと誰かが不安になったらダメなのです。
もうそこからは急激に値が下がるばかり。
このときのポイントはバブルだと危険だから寄り付かないのではなく、バブルだからこそ(値が上がるから)人は集まり、彼らが気にしているのはいつが引き時かということなのですね。
まるでずっとチキンゲームをやっているかのようです。
金融工学という言葉が一時期でて、もうわけのわかんない世界になったと思ったら、そこで実際やっているのは運用者の我慢比べ、度胸試しみたいなもので。
そうわかるとなるほどなと腑にも落ちたりしたんですね。
マーケットのニュースを見ていたりすると、「市場が嫌気した」とか「パニック売り」とか言っていてえらく俗で人間的な言い方をするなと思っていたのですが、こういうことを知ると、なるほどマーケットというのは、そこに関わる人の心理的要素が思いのほか大きいのだと思うわけです。
金融の世界というのは「空気」とか「雰囲気」というのが重要だというのがわかりました。
ある種、そういう気分的なものが世界の行く末を決めているというのも、そらおそろしい気もしますが・・・。

「すべての経済はバブルに通じる」小幡績著 光文社 新書 ISBN978-4-334-03466-5

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2012年2月19日 (日)

「海賊戦隊ゴーカイジャー」 お祭り感とドラマ性の両立

スーパー戦隊シリーズの第35作品目の記念作品として作られたのが本作「海賊戦隊ゴーカイジャー」です。
「仮面ライダーディケイド」が平成仮面ライダー10作品をクロスオーバーしたとき、「なんて無茶な企画を」と思ったものですが、「ゴーカイジャー」は35作品ですからさらに驚きました。
「ディケイド」のチャレンジは成功し、その後は昭和ライダーまでも巻き込んだ「仮面ライダー」ブランドの確立につながったということもあり、東映としては「スーパー戦隊」でも同様のことを狙ってきたのでしょう。
結果的にこれはうまくいったと思います。
僕は個人的には「スーパー戦隊」シリーズは離れていた期間がすごく長いのです。
「仮面ライダー」で観ていなかったのは「スーパー1」だけなのですが、子供時代に「スーパー戦隊」で観ていたのは、最初の「秘密戦隊ゴレンジャー」「ジャッカー電撃隊」まで。
ここからしばらくの間、卒業していたわけです。
観るのが復活したのは「忍風戦隊ハリケンジャー」から。
なので35戦隊のうち、知っているのは1/3程度。
「仮面ライダー」と違い、過去の戦隊については思い入れも薄いので、乗っていけるかと心配ではありました。
しかしそういう人も多いと見越していたのが、今回の「ゴーカイジャー」については脚本のレベルが高い品質で保たれていたような気がします。
あまり「スーパー戦隊」シリーズになじみがない人が観ていても、ちゃんとドラマとしても見応えがあるように作られていたと思います。
さらによく知っている人にはたまらない過去の設定などもうまく踏まえられていたように思いますので、ディープなファンの方もたまらなかったのではないでしょうか。
少なくとも僕が観ていた作品についてはいいところを押さえていたと感じました。
キャスティングも過去の作品に実際に出演されていた方たちが、再登場してくるというイベント感がある回も多かったですね。
個人的には「ハリケンジャー」の3人がすべて揃ったのは、痺れましたよ。
あと最終回のアカレンジャーこと誠直也さんが出てきてくれたのも。

「ゴーカイジャー」はある種のお祭り感があるアニバーサリー作品ですが、またしっかりとドラマパートが描かれていたというのが、ただのお祭りに終わらなかったところにつながったと思います。
お祭り感と、またドラマの双方(ややもすると両立するのが難しい)の両立をさせたのは、やはり「海賊戦隊」という設定ではなかったかと思います。
すべての戦隊が登場するという「お祭り感」を出すには、少々の設定の不整合はやむを得ないわけです(それでも十分整合性をとっていたと思いますが)。
その不整合を許容するのは、ようは「なんでもあり感」をださなくてはいけないわけです。
その「なんでもあり感」を出すのが、そもそも「地球や人類を護るために戦うわけではない」戦隊である「海賊戦隊」なのですね。
海賊ですから、何もにも縛られず自分たちが自由にやりたいことをやる。
ようは「なんでもあり」なわけです。
この設定により、特に「仮面ライダー」よりも様式が決まっていた「スーパー戦隊」を自由に扱うことができるようになったと思います。
宇宙海賊と言えば、普通に考えればワルモノ。
「ディケイド」も「破壊者」と呼ばれましたが、やはりこういう派手なクロスオーバーを行うときは、今までの常識を覆す強さが必要なのでしょう。
だからこその「海賊」なわけです。
当然、依然として続いている「ワンピース」ブーム、また「パイレーツ・オブ・カリビアン」の最新作の公開など、「海賊」=「カッコいい」というイメージにのるという上手さもそこには感じられます。
特に「ワンピース」の人気の要因の一つである「仲間」という軸は、「スーパー戦隊」にも通じるものがあり、うまく引用したと思います。
そもそもは「地球や人類を護るために戦うわけではない」戦隊が、1年をかけて戦っていく中で、最終回には地球を護るために戦う。
彼らが次第に地球で暮らす中で、彼らにとっての「大切なお宝」を見つけ出すというところまでたどり着くストーリーが、もう一つの性向の要素としてあげたドラマ性の高さにつながっていると思います。
今回の作品は、通常よりも6人のキャラクターの描かれ方がわかりやすく明確であったと思います。
これは他の戦隊が登場することによって「食われる」ことを防ぐためということもあったと思いますが、いわゆるキャラ立ちが強いことにより、それぞれの主役回でのエピソードもより深く充実したものになったと思います。
それぞれのエピソードをとりあげることはここではしませんが(とりあげないけどアイムがマーベラスたちに合流したときのエピソードは好き)、個々のキャラクターの掘り下げと過去の戦隊を登場させるということを同時に行った構成力の高さには驚きます。
あと先ほどもちょっと触れましたが、「ゴーカイジャー」たちの「仲間」への信頼の揺るぎなさというのもドラマ性に繋がっていたと思います。
今までだと、メンバー内の確執などでドラマ性を出している作品もありましたが、「ゴーカイジャー」はそれがない。
彼らの仲間への信頼は揺るぎない。
この揺るぎなさは、歴代スーパー戦隊の登場という要素があるなかで、しっかりとしたドラマの地盤になっていたように思います。

その他に気になったことを。
「ゴーカイジャー」についてはアクションシーンも今までよりも数段アップしたように思います。
「龍騎」以降の「仮面ライダー」シリーズは面をかぶっても、元のキャラクターの個性がでるという方向性がありましたが、「スーパー戦隊」シリーズはその方向性はないとはいわないですが、薄かったと思います。
けれども「ゴーカイジャー」は変身した後も、元のキャラクターの個性を出すという方向に大きく舵を切ったと思いました。
それは「ゴーカイチェンジ」という他の戦隊に変身できるという設定からくる必然ではあります。
マジレッドになっても、デカレッドになっても、中身はマーベラス。
それが感じられないと観ている側は混乱してしまいます。
今回のスーツアクターは今までにない苦労があったかと思います。
どなたもすごかったですが、特にあげるとすればゴーカイイエローを演じた蜂須賀祐一さん。
女性キャラですが、演じている蜂須賀さんは男性ですからね!
どんなスーツになっていても、ゴーカイイエロー=ルカに見えるという。
立ち方とか、剣の使い方とか、ルカのクセみたいなものをうまく表現していてすばらしかったです。
あとアクションについてもそれぞれのキャラクターの個性のある戦い方というのがでていたのもわかりやすいポイントであったと思います。
ゴーカイブルーは剣が主体で二刀流(五刀流もやりましたが、これはゾロだよなーと思いました)、ゴーカイグリーンはオタオタしたような慌てたような戦い方などなど。
このあたりのアクション演出もいままでの「スーパー戦隊」シリーズからのレベルアップを感じました。

平成仮面ライダーは「ディケイド」を経て、「W」以降はさらに自由度をあげたあらたな時代に足を踏み出したように思います。
「スーパー戦隊」シリーズも「ゴーカイジャー」を経て、あらたな時代を踏み出すのでしょう。
次回作「ゴーバスターズ」は、しばらくぶりに「ジャー」がつかない戦隊名。
今まで通りではない、ということを宣言しているタイトルだと思います。
メインライターは「仮面ライダー龍騎」「仮面ライダーオーズ」「侍戦隊シンケンジャー」と常にレベルの高い作品を手がけている小林靖子さん。
プロデューサーは武部直子さん、メイン監督は大抜擢の柴崎貴行監督で、小林さん含め「仮面ライダーオーズ」からの大移動です。
「仮面ライダー」が「W」で「スーパー戦隊」のプロデューサーであった塚田さんが担当したことにより大きく進化したように、次回作でも大きな期待をしてよいかと思います。

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「キツツキと雨」 やるの?やんないの?

「やるの?やんないの?」
新人映画監督、田辺幸一(小栗旬さん)にカメラマンが言う言葉ですが、これ、僕自身も若い頃、よく言われたなぁとしみじみ・・・。
僕はメーカーでデザインやら広告やらを担当する部門で仕事をしているのですが、そのためにいわゆる撮影現場(スチールも、ムービーも)に立ち会うことが多いわけです。
今でこそ場数を踏んでいるのであまり動じなくはなりましたが、幸一のように新人のころ、現場に行くのが怖かったんですよね。
あんまりよくわからない若い頃でも、現場で判断を求められるわけです。
それこそ、「やるの?やんないの?」という感じで。
クライアントの立場ですから、判断を求められるのは当たり前です。
でも周りは自分よりも年上で何十年もその道で仕事をしている方ばかりです。
そして撮影ともなると関わる人の数も多い。
自分の判断でいろいろな人が動く。
間違っていても人が動く。
そりゃ、怖いわけです。
間違った判断をしようものなら、白い目で見られる気もしますし。
怖くて何でもかんでもテイクを重ねたら、スタッフは疲れてきますし、時間もなくなる。
かといって妥協すると、あとですごく後悔するし、再撮影なんてことになったらさらに迷惑をかける。
そこでのプレッシャーというのはけっこうなもので、ほんと幸一が逃げようとした気持ちっていうのもわかるんですよね。
自分はこう思うけど、それがほんとに自信があるかというとそれほど自信もない。
でもね、胃がギューギューと痛くなりがらも、そこで「こうしてみたい」と判断をして、スタッフに伝えて、何か形としてでき上がっていくときはやはり嬉しかったりするのです。
そしていいのが撮れて最後の幸一のように「OKです!」って元気よく言うと、ベテランのスタッフの方も嬉がってくれるんですよね。
それもなんか嬉しくて。
最初の頃は怖くってカメラマンさんとも話ができなかったんですよね。
新人の頃はやっぱり「やるの?やんないの?」的なことも言われたわけです。
でもいろいろ仕事をして自分がやりたいことを不器用ながらも伝えていくと、「○○くん(僕の名前ね)が言うなら、やってみようか」と言ってくれるようになったんですよね(10年くらいはかかったけど)。
僕も困った時はそう言ってくれる信頼できるスタッフに相談しますし、またスタッフも信頼してくれてる(と思う)。
なんかそういう関係ができてくると現場はとても楽しくなってくる。
また僕も歳をとってくるとわかっていたことがあります。
最近は自分よりも年下と仕事をすることも多い。
若い頃は、こんなこと言ったら、怒られるんじゃないかと思って躊躇したりすることがあります。
でも自分は最近若いのも言っているのです。
「どんどんやりたいことを言ってみろ。たいていのことは受けてやる」と。
幸一の周りのスタッフもそうだったと思うんですよね。
「やるの?やんないの?」という言葉は言われるほうからするときつい感じもしますが、成長を促す言葉でもあるんですよね。
そこでへこたれずになんとか若いなりに判断しようとする姿勢が見えた時、周りはなんとかしてやろうと思うわけです。
最近は若いのと仕事をするような立場にもなるんで、幸一のやりたいことをサポートしてあげる木こりの克彦(役所広司さん)の気持ちもわかるし、映画のスタッフたちの気持ちもわかるんです。
そういう意味では、本作は幸一にも、克彦にもシンパシーを感じることができました。

最後の雨のくだりは似たような経験をしたことがあったんですよね。
やはりロケで、晴天の画でなくてはいけないシーンがありました。
しかし撮影当日は嵐・・・。
そしてそのとき撮らなければスケジュール的に間に合わない。
いろいろ諦めそうになったとき、撮影のプロデューサーが決行しましょうと。
半ば賭けでロケ地に向かったのですが、現場についたらびっくりするくらいの晴天に。
これは奇跡だ・・・と思いました。

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2012年2月18日 (土)

「TIME/タイム」 格差社会の投影

前にも何度か書きましたが、優れたSFのアイデアというのは実はその作品が作られた時代を風刺しているものだったりします。
現実的にはありえない突飛なテクノロジー、それに伴う社会の変化を極端に描くということは、現代社会の一つの課題にフォーカスをあてるということになるのですよね。
本作のアイデアもそういう意味では優れたものと言っていいでしょう。
この映画で描かれる未来では、「時間」が通貨代わりに流通している社会です。
すべての人間は遺伝子操作をされ、25歳を過ぎた時点で成長(老化)が止まり、それから1年間のカウントダウンが始まります。
働けばそれに対する対価として「時間」が支払われ寿命が延びる。
何かを買えばその代金して「時間」を支払い、寿命が縮まるというわけです。
労働者はすくない「時間」で働かされ、また物価や利子の値上げにさらされ続け、短い一生を終えるものも少なくありません。
一方、富裕層はそれこそ100歳などとどまらず、不死と呼べるほどに長生きすることも可能となっています。
この作品で描かれる社会は、まさに現代社会の問題の一つである「格差社会」を象徴していると言っていいでしょう。
皆が中流階級と言われていたアメリカでも、昨年末の抗議デモなどでもわかるように、富める者とそうでない者との格差が問題視されています。
デモの参加者は「We are the 99%」と叫び、たった1%の人々が他の人々から搾取をしていると訴えます。
これはまさに本作で描かれている富裕層と、スラム街の人々と重なります。
またこの生きていける時間が刻々となくなっていくという設定は、サスペンスものとしては王道の手法である「タイムリミット」の要素を取り込んでいるので、緊迫感をだすことに成功しています。
原題は「IN TIME」で、これは「時間内に」という意味ですので、まさにタイトルからして「タイムリミットサスペンス」と言っているわけです。
「タイムリミットサスペンス」というのはありふれた手法ですが、「時間」を通貨として扱うという設定で一味変わったものとなっていると思いました。
自分に与えられた時間というのは、長くあったほうがいいと思いますが、確かに限られているとわかっているからこそ一所懸命生きるというのもありますよね。
昨年亡くなったジョブズの「自分がもうすぐ死ぬということを自覚しておくことは、これまで私が出会ってきた中で、人生で大きな決断を下す手助けになる最も重要な道具だ」という言葉を思い出しました。

主演の一人、アマンダ・セイフライドは最近ほんとに売れっ子さんですね。
ルックスがかなり特徴的であるということでこういう現実離れしたSFやファンタジー、ホラーものみたいなジャンルはぴったりなのですが、小さい現代作品にも出ていたりするので、幅が広い女優さんですよね。
本作観ていて、むちゃくちゃスタイルいいなと感心してしまいました。
ほんとお人形さんみたい。

あと実際にこういう遺伝子技術が開発されたとして、経済として成り立つかどうかですが・・・。
「時間」が通貨として取引されるとしても、この通貨のやっかいなところは供給量を簡単に増やせないということですね。
「時間」を増やすには下々の人間の人口を増やすか、それぞれの人の人生の時間を延ばしその中の幾ばくかを取るしかないわけです。
取り過ぎて、その人間がタイムリミットを迎えてしまえば、その後に取れる「時間」も無くなってしまいます。
ですので取り過ぎるわけにもいかない。
また人口を増やそうにも、かつかつの生活であれば、子作りする時間もないわけですからそうは増えないでしょう。
供給量が少ない通貨は価値が上昇するわけですから、映画の中で描かれるように上の都合で「時間」の価値が下落するということはありえないわけです。
ということで、「時間」が通貨となる経済社会は成立しえないことになります。
とりあえず安心しておいていいでしょうね(笑)。

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本 「草枕」

「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
という有名な出だしで始まるのが、夏目漱石の「草枕」です。
これは一人の「画工」が、「住みにくい」街を離れ、しばし那古位という温泉場に逗留しているときを描いています。
しかしそこでなにか大きな出来事が起こるわけではありません。
淡々と時間が過ぎていきます。
「画工」はしがらみや喧噪といった人とのめんどうな関係を嫌い、ただ世の中に対して一歩引いたところにいたいというようなスタンスを好みます。
何度か作品の中に「非人情」という言葉が出てきますが、これはいわゆる「非情」ということではなく、人情的なしがらみがない状態のことを言っているかと思います。
情があり、活力がある状態というのは、いつか尽き果てるという心配があります。
「画工」はそういう心配とは無縁な「非人情」という状態を好むわけですね。
そういう心情を表しているところとすれば
「余は明らかに何も考えておらぬ。または慥かに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著しき色彩を以て動くものがないから、われは如何なる事物に同化したともいえぬ。」
あり、また
「ただそれほどに活力がないばかりだ。しかしここにかえって幸福がある。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸念が籠る。常の姿にはそういう心配は伴わぬ。常より淡きわが心の、今の状態には、わが烈しき力の銷磨しはせぬかとの憂を離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している」
などとあります。
こういう心情はわからないわけではありません。
とかく人の世はしがらみがあって住みにくいとも、同じように感じたりしますから。
「画工」はなにかそういう心情を画なり、文なりで表したいと考えており、それをなんどなく繰り返しては先送りし、といったようなことをして小説の時間は過ぎていきます。
そこでやはり大きな事件が起こるわけではありません。
「画工」という人物は漱石自身の投影であることは間違いないでしょう。
漱石自身も人の世は住みにくいと感じていたのでしょうね。
「草枕」は漱石の作品でも初期のもので、これは思いのほか世間での評判が高かったようです。
それにより漱石はなお注目されることになり、しがらみがまた強くなっていくというのは皮肉なところかもしれません。
本作は漱石のスタンスもしがらみなどを纏いながら生きていくということを面倒だと思う気持ちはあれど、それほどの切迫感はありません。
まだ余裕があるという感じを受けます。
後期の作品になるとそれが次第に重みになり、生きること自体がしんどくなっていくというのが、彼の作品から伝わってくるようになります。
漱石の心がまだ平和であった時代の作品なのだろうなと感じました。

「草枕」夏目漱石著 岩波書店 文庫 ISBN4-00-310104-9

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2012年2月12日 (日)

本 「虚像の砦」

インターネットの浸透に伴い、旧四媒体(テレビ、新聞、雑誌、ラジオ)の影響力が弱まってきていると言われていますが、その中でやはりテレビの影響力は別格です。
影響力の広さ、スピードという点ではやはり最大の媒体と言っていいでしょう。
様々な業界へ鋭く切り込み、その課題をエンターテイメント小説の中で提示してきた真山仁さんが本作で取り上げるのは、そのテレビ業界です。
本作で物語の舞台となるのは架空の民放です。
そしてストーリーの中心になるのは、みなさんも記憶しているイラクでの民間人人質事件(本作ではイスラム国という架空の国となりフィクションとなっています)です。
「自己責任」という言葉が流布したあの事件ですね。
当時、自分も「こんな状況の中で危ないところに行って、捕まってしまうのは人騒がせだな」と思いました。
しかし本作を読むと、そういう気持ちになったのは、メディアの影響力はあったのだろうなとも感じました。
テレビなどの影響力が強いメディアは、やろうと思えば恣意的な意識操作も可能です。
またある種のムードが醸成されたとき(例えば先ほどの「自己責任論」のような)、それだけに収斂されていってしまう怖さもあります。
危険なのは、そのメディアの伝え方が一方向だけの見方になってしまうことです。
あるトピックがあったとしても、それはできうる限り多面的で、いくつかの方向性からの捉え方をされていなければなりません。
それを視聴者にしっかりと提示するということがメディアの役割であると思います。
そしてまた観る側も、意識的に他の見方ができないか、ということを考えながら観なくてはいけないのでしょうね。
本作の中で、政治家と役所(総務省)とテレビ局が三すくみの状態になっているということが書かれていましたが、なるほどなと思いました。
政治家はテレビで吊るし上げられるのが怖い。
テレビは総務省に放送局免許で首根っこを押さえられている。
役所は政治家に頭があがらない。
そういった構図です。
例えば、政治家は直接はできないので、霞ヶ関を通じてテレビ局に圧力をかけようとしたとしても、それがもしバレたら憲法(報道の自由)違反になるわけでなかなか下手はできないわけですね。
そういう意味で三すくみ状態というのは悪いものではないかもしれません。
ただ今のメディアはなんでもかんでも叩く傾向があります。
右肩上がりの世の中ではないので、一般人には権力サイドへの不満は常にあると思います。
それを背景にしている(ようは視聴率がとれる)とは思いますが、次から次へと出てくる人を叩きまくる。
政治家(権力)に対して批判的であるということはメディアとして正しいスタンスだとは思いますが、それによりメディアが権力を差し替えることができるという逆の権力意識なってしまってはいけません。
やはり観ている側も、そういう情報について客観的に観れるようになる(メディア・リテラシー)というのが、必要なのでしょうね。

小説的には「ハゲタカ」の投資業界や「ベイジン」「マグマ」などのエネルギー業界のテーマに比べると、やや面白みでは少しもの足りない感じがありましたね。
話題自体は個人的には新鮮味がある話ではなかったからかな。

「虚像の砦」真山仁著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-275925-0

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「逆転裁判」 劇場型裁判

カプコンがニンテンドーDS等でリリースしているゲーム「逆転裁判」を原作にした映画です。
「ヤッターマン」や「クローズ ZERO」「忍たま乱太郎」等コミックやアニメの原作ものを多く手がけている三池崇史監督が映像化します。
原作のゲーム「逆転裁判」は(例によって)やったことがなく、そのストーリーは知りません。
ただゲームの中のセリフ「異議あり!」とか「くらえ!」とかは何となく知っていました。
あと主人公、成歩堂龍一(なるほどうりゅういち)のビジュアルですね。
三池監督は原作もののときは、オリジナルのビジュアル面の再現性をこだわりますが、本作も同様です。
成宮寛貴さん演じる主人公のビジュアルは、ゲームのまんまですね。
相変わらずの再現性の高さです。

本作が舞台となるのは、近未来の日本。
その頃の日本は凶悪犯罪の増加に対応するために「序審裁判」制度を導入し、わずか3日間で審理を行うことになっていました。
検事と弁護人は法廷の場で、互いに証拠・証人を提示し、相手の論理の矛盾を突き合い、その上でその場で被告人の有罪無罪を結審されます。
検事と弁護人の丁々発止のやりとりは肉体を使っていなくても、まさにバトルですね。
言うなればこれは劇場型裁判といったところでしょうか。
本作の物語の構造は「少年ジャンプ」的と言ってよく(好敵手が存在することとか)、このあたりが原作ゲームがヒットした点かもしれません。
「序審裁判」自体は現実離れしていますが、裁判自体のビジュアル化というのは今でも始まっていると聞きます。
裁判員制度の導入により、事件を法律などを詳しく知らぬ一般人が裁くこととなりました。
その際、検事側も弁護人側も、よりわかりやすくその論拠を提示する必要がでてきたのです。
本作では証拠を文字通り相手に「投げつける」シーンがありますが、こういうビジュアルを用いた裁判でおの攻防というのはこれからさらに強くなっていくかもしれません。
閉鎖された空間での言葉でのバトルであるのでなかなか映画的には難しいところですが、そのあたりの演出(証拠を「投げつける」ところ等)はさすが三池監督はテンポ良くやっていたと思います。
ただ作品自体はそれほど三池印は強くなかったかなと思いました。
三池さんの作品は、原作に超リスペクトしていながらも、その上で三池テイストのような個性が出ていたと思います。
ビジュアルの再現性へのこだわり等は三池さんらしいところですが、それ以外のストーリーや演出についてはやや三池テイストは薄味だったかなと。
三池監督ファンとしては少々もの足りないところもありました。

今日は劇場に着いてから、眼鏡を忘れた(普段は裸眼で映画を観ている時は装着)ということに気づいたというあまりコンディションが良くない状態での観賞となりました(字幕のある洋画じゃなくて幸い、とりあえず邦画だったので助かった)。
ちょっと画面がぼやっとしちゃて映画に集中しにくくなるんですよね。
さらに集中力を削ぐこともあり。
隣の席の親子がマナーが悪くて・・・。
子供はお菓子の袋をずっとガサゴソやってるし、さらには親はかかってきた電話に出るし(相手と会話しているし!)・・・。
その振る舞いに「異議あり!」と言ってやりたくなりました。

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2012年2月11日 (土)

「はやぶさ 遥かなる帰還」 淡々としてる

日本中が熱狂した「はやぶさ」プロジェクトの映画化作品です。
本作は東映作品ですが、「はやぶさ」については昨年の秋にFOXの「はやぶさ/HAYABUSA」が公開され、また春には松竹の「おかえり、はやぶさ」が公開予定となっています。
堤監督の「はやぶさ/HAYABUSA」は、そのときのレビューにも書きましたが、「はやぶさ」を実際にみながそう感じていたように擬人化し、また架空のJAXAの広報担当というキャラクターを主人公にすえるということを行っていました。
これについては作品に観客が感情移入しやすくし、また映画としてもドラマティックにするということで、個人的にはうまい手法であったなと思っています。
それに対して本作「はやぶさ 遥かなる帰還」については、基本的に実際の出来事を丹念に追っていくという正統派の作りとなっています。
実際の「はやぶさ」プロジェクト自体が十分にドラマティックであり、感動を呼び起こすものであったので、最後は当然のことながらじんとくるというところはあります。
ただ先に「はやぶさ/HAYABUSA」を観ていると、映画としてのドラマティックさではやや負けるかなと思いました。
事実を淡々と追うというところに、映画としては少々もの足りなさを感じました。
「プロジェクトX」的なドキュメンタリーほどの迫真のリアリティというところまでもいっていなかったかと思います。
「はやぶさ/HAYABUSA」の手法については「あざとい」という評価をする方もいるかと思いますので、どちらが好きか嫌いかは好みが分かれるところかとは思いますが。
もの足りなさを感じるところは、登場人物たちの感情が比較的淡々としていたというところもあるかもしれません。
実際のところは、プロジェクトメンバーは科学者の集団であり、困難な事態になっても冷静に理性的に対応していたかもしれないので、こういうほうがリアリティはあるのかもしれませんが、やはり映画としてはややもの足りないかなと。
唯一感情のぶつかり合いが起こるのは、イオンエンジンの開発担当の藤中教授と、NECのエンジニア森内が満身創痍となった「はやぶさ」のイオンエンジンの運用について対立するところでしょうか。
この場面は「はやぶさ」の最大の危機という局面で、映画として登場人物の感情としても盛り上がりを作るという意図であったのかもしれません。
ただ個人的にはこのときの森内が反対する理由が、正直言ってまったく共感できなかったので興ざめしてしまったのですね。
森内が反対する理由は、藤中がやろうとしていることはイオンエンジンの本来の運用方法と異なる使い方であるということです。
彼は想定していなかった本来と違う使い方をするということに反対しているのです。
しかし、こういうプロジェクトに限らず、仕事のおいては想定しなかったことというのは度々起こるものです。
そういうとき、何を本来目指すべきなのかという本質的なところに立ち返り、マニュアルに書いていないことでも実行するということが必要になります。
時間や手段がない中でよりベターな手を選択できる判断力、決断力、そして限られたリソースの中で最良の結果をだそうとする知恵と工夫ということがそういう場面では必要です。
渡辺謙さん演じるプロジェクトマネージャーはそういう力を持つ人物として描かれていましたが、森内についてはプロジェクト全体を広くみるという姿勢に欠け、自分の担当のことだけにこだわる狭隘な感じを受けたため、映画として盛り上がる場面で個人的には盛り下がってしまったのです。
こう感じるのは、自分が仕事をしていても、自分の部署のことだけしか関心がない人とか、あまりにマニュアルにこだわりすぎる人とかいたりして、辟易してしまうことあったりするからかもしれませんけれど。
最後はちょっと脱線気味でしたが、「はやぶさ/HAYABUSA」との比較で言うと、個人的には感情移入度は低く、映画にぐっと入り込んでいけなかったかなと感じました。

春公開の「おかえり、はやぶさ」は3Dという荒技できますので、「はやぶさ/HAYABUSA」よりもフィクション度が高いのではないかと予想しています。

「はやぶさ/HAYABUSA」のレビューはこちら→

「おかえり、はやぶさ」のレビューはこちら→

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「ドラゴン・タトゥーの女」 偏執狂な人々

スウェーデンの映画「ミレニアム」(こちらは未見。原作も未読)を鬼才でデヴィッド・フィンチャーがリメイク。
こちら一番最初に劇場で流れた「特報」が凄まじくカッコよかったんですよね。
レッドツェッペリンの「移民の歌」をバックグラウンドにし、ナレーションなしで激しく切り替わるカットだけで見せるという。
久しぶりにフィンチャーらしい、エッジの効いた映像になっていて、すごく期待感が高まりました。
実際本編での、やはり「移民の歌」をテーマにしたオープニングを観ると、フィンチャーという監督の映像センスは卓越しているなと思ったりするわけです。
余談ですが、このオープニングを観た時、フィンチャーに「GANZ」(ドロドログチャグチャでバイオレンスなコミックのほう)を映画化してもらったら凄いことになるだろうなと思ったりしたわけです。

さて作品についてです。
こちらアメリカでのリメイクで言語も英語になりますが、物語の舞台は原作と同じでスウェーデンになります。
「ミレニアム」を観ていないので比較はできないですが、本作はスウェーデンという土地が作品の要素として大きなものになっているのだと思います。
ご存知の通り、スウェーデンは北欧の国であり、冬期は雪に覆われ、あまり陽がさすこともない土地柄です。
本作でもその風景は昼間であっても陰鬱であり、その雰囲気が作品全体を覆っているのです。
寒さのためか冬期は人はあまり外へ出て行かず、多く人と交わるということがないのかもしれません。
そういうことを反映しているためか、本作の登場人物たちの精神は、基本的に内へ内へと閉じこもる方向のベクトルを持っています。
その内への方向は、登場人物たち(事件の犯人、ドラゴン・タトゥーの女であるリスベット、さらにはその他のほとんどの人物)の偏執狂的な側面と、他人へ心を開かない堅いガードを、強化していきます。
唯一、他人に対してオープンなところがあるのが主人公の記者ミカエルですが、これは観る側が作品での導入をしやすくするためでしょう。
おそらく観客が移入できるのはミカエルだけであり、彼をガイドとして作品に入っていくことになります。
とはいえ、ミカエルも偏執狂的な側面を持っていないわけではありません。
何十年も前の資料を漁り、当時の写真を一枚一枚見ていき、そこにある微かな手がかりの糸をたどっていく。
これにはやはり偏執狂的な資質がいるのだと思います。
前半はミカエルとリスベットの物語は並行して描かれ、途中から二人は合流します。
ミカエルが観客を作品世界へ導くガイドの役であるとするのあらば、リスベットこそが本作そのものを人物として具現化させたキャラクターであると言えるでしょう。
偏執狂的であり、他人に心を閉ざしているという。
だからこそ本作のタイトルは「ドラゴン・タトゥーの女」であるわけです。
主人公はミカエルですが、作品の本質を表しているのはリスベットなのです。
リスベットが他人に心を閉ざしているのは、過去から現在に至るまで他人より受けた仕打ちのためであろうと推察されます。
彼女が受けてきた仕打ちは、事件そのものとは関係ないとしても、事件そのものの本質を暗示します。
リスベットの偏執狂的な気質というものは彼女自身がすでに持っていたものだと思われます。
おそらく彼女も自身の気質というのは理解しており、またそれによってより他人と自分は違うのだというように心を閉ざすことを強化していったのではないでしょうか。
しかしリスベットはミカエルに出会い、歳も離れまったく異なる人生を歩んできた彼に、ある種の自分と同じような気質を見つけます。
それは細かなことが気になり、それをとことんまで探求していかなくては気が済まないという偏執狂てきな気質です。
この点において、ミカエルとリスベットは同じであり、はじめてリスベットは自分と同じ魂をミカエルに感じ惹かれたのではないかと思います。

事件解決後についてはちょっとグダッと長かったかなというのが残念。
特報であったようなキレ味がもう少し欲しかったですね。
「ミレニアム」を観ていないので、同様のシーンが元々の作品にあったかどうかを知らないので、なんとも言えないのですが、最後のクリスマスのシーンはちょっとハリウッド的であったかなと。
リスベットが人間味が出てきた感じがあって、一般的には気持ち良く終われたかもしれないですが。
ああいう感じにしないと後味が悪いからなのかな。
「セブン」の頃の若いフィンシャーだったら後味悪くても気にしなかったかなと思った次第です。

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2012年2月 6日 (月)

本 「おまえさん」

「ぼんくら」「日暮らし」に続く井筒平四郎シリーズになります。
「おまえさん」、この作品を手に取った時、なんとも不思議なタイトルをつけるなぁと思いました。
でも最後まで読んでいくと、この作品に「おまえさん」というタイトルがぴたりとはまっていることがわかります。
「おまえさん」というのは、言うまでもなく女性が男性を呼ぶ時の呼び方ですが、「あなた」とも「あんた」ともなんか違う。
なんというか相手の良いところも悪いところもわかっていて、それも全部含んだうえで、相手のことを愛情深く呼んでいるという感じがしますよね。
本作は時代劇ミステリーではあり、事件が起こり、その謎を解いていくという体裁にはなっています。
宮部みゆきさんなのでそのあたりも抜かりなく、ミステリーとしても読んでいて面白い作品になっています。
けれども本作について言えば、ミステリーというのは主筋ではなく、どちらかと言えば人情ものといったところのほうが強いような気がしました。
宮部さんの時代物というのはもともとそういう江戸の人情が描かれていますが、本作はそういった宮部時代物の集大成のような感じもします。
本作ではその人情の中でも中心に描かれているのは、人の恋心なのですね。
そこで「おまえさん」というタイトルがうまいなと思うのです。
本作にはいく組もの男女が出てきます。
主人公の平四郎とその妻もいい夫婦ですが、また市井に暮らす丸蔵とその妻もいい夫婦。
互いに相手に愛情を持っていて、暮らしています。
それは「愛」と呼ぶような青く激しいものではなくて。
なんというかどちらかというと「情」なのですよね。
特に妻は、先に書いたように相手の良いところも悪いところもまるっと呑み込んで、夫のことを愛情深く包んでいるように見えます。
そこには母性のようなものも感じられます。
そういうときの呼び方が「おまえさん」なんですよね。
そのような夫婦は読んでいてもなにかとてもほっこりと感じられます。
他にも男女の組が出てきますが、すべてがいい方向に向かっているわけでもありません。
ほんとにいろいろな男女が出てきます。
特に若いものというのは「愛情」の中でも「愛」の方が強いわけです。
それしか見えなくなってしまう。
それによって道を踏み外してしまう者もいるし、また道に迷う者もいる。
そういう激しい感情を越えて、「愛」が「情」になったときほっこりとした二人になれるのかもしれませんね。
個人的には平四郎と同じ同心である慎之輔にシンパシーを感じてしまったりします。
そういうふうになると、何ともめくらな感じになってしまうところなどは。
平四郎のセリフにこうありました。
「男はどこまでも莫迦で。
女はどこまでも嫉妬やきだ。
どっちも底なしだ。」
痛いです・・・。

「おまえさん<上>」宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-277072-9
「おまえさん<下>」宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-277073-6

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2012年2月 5日 (日)

「荒川アンダー ザ ブリッジ THE MOVIE」 ROCKか、ROCKじゃねえか

中村光さんのマンガ「荒川アンダー ザ ブリッジ」を原作の作品です。
同じ出演者で昨年ドラマ化もされていて、アニメにもなっているということです。
例によって原作もドラマもアニメも観てません〜。
最近いつもこんなふうに書いていますが、それだけ邦画も原作ものが多いってことですよね。

荒川河川敷で再開発計画が立ち上がりました。
しかしその場所は何者かが不法占拠をしているらしい。
開発を手がける大企業の御曹司、行(こう)(林遣人さん)はそこに単身乗り込み、彼らに出て行ってもらおうとしますが・・・。
河川敷を占拠しているのは、見た目から行動から何から何まで常識ハズレな人(?)たち。
河童の格好をしているけれど、その言葉には何か重みのある「村長」。
星形のかぶりものをかぶっているロッカー、その名も「星」。
自らを金星人という美少女、「ニノ」。
エトセトラ、エトセトラ・・・。
行は荒川を訪れるやいなや、彼らの洗礼を受け、勝手に「リク」という名に名付けられます。
河川敷の面々は一見して常識から逸脱していて、一本ねじの外れたアブナイ人という感じもなくもないですが、荒川で共同生活をする彼らの姿は見ていても、何か幸せそう。
逆に息苦しく生きているのは、リクに代表される常識的な生活をしている自分たちではないかと思えるくらい。
リクはマジメで極めて常識人で、仕事一徹な父親に育てられ、自分もそうありたいと生きてきました。
彼から見たら、河川敷の住人たちは常識ハズレなおかしな人たちです。
でも彼らと交流していくにしたがい、そこでの生活が何かイキイキとしたものに感じるようになっていくのです。
星が最初のほうで発する言葉「世の中は二つに分けられる、それはROCKか、ROCKじゃねえか」というのがあります。
ここでいう「ROCK」は自分が生きたいように生き、他の何ものにも束縛されないという精神なんでしょう。
普通に生きていれば知らず知らずのうちに世間の「常識」に取り込まれて生きていて、そういうふうに生きることが正しいと思っているものです。
それがいけないわけではないのですが、あまりそれに囚われ過ぎ、さらには自分がやりたいことをやらなかったり、自分らしく生きないというのもなにか息苦しいもの。
ただ、自分らしくあれとはよく言われますが、今の世の中、自分らしくあるというのは、なかなかに難しい。
そもそも自分らしいとは何なのかとも、わからないかもしれません(ぶっちゃけ、僕は自分ではよくわからない)。
まさに本作のリクという主人公は、常識人の僕たちの代表者なわけですね。
河川敷の住人は、他人からどう見られるかなんてことはそもそも気にしない。
自分が生きたいように生きている。
それはなにか清々しく、とても開放感があるように見えてくるんですね。
荒川の河川敷という割とこじんまりとした場所を舞台にする物語ですが、何か広々した開放感を感じました。
本作は主人公リクと、自称金星人のニノとのボーイ・ミーツ・ガールの物語でもあります。
この二人の関係も、無条件に相手のことを信じられるかどうか、相手のことを守ってあげたいと思えるかどうかという、ピュアな気持ちを描いていて好感が持てましたね。

監督の飯塚健さんは知らない方でしたが、テンポのよい演出が気持ちよかったです。
とにかくカットの切り替えが早い。
河川敷の住民は全員がボケみたいなものですから、唯一の常識人リクが電光石火のスピードでツッコミを入れまくります。
このあたりのツッコミスピードに合わせたカット割りが、テンポ良くて僕はけっこう好きでした。
脚本も監督が書かれているんですよね。
けっこういいセリフが多かったのは、良かったなぁ。
主演の林遣人さんもいい感じです。
彼は見た目がすごく好青年ですが、最近は幅が出てきましたよね。
本作の役柄にあっていたかな。
あとやはり村長役の小栗旬さん、星役の山田孝之さん。
村長は発する言葉がいちいち謎掛け、格言めいているところがあんな格好をしていてもやはり風格すら感じましたし、星は言うこともやることも「ちぃっちゃい」感じがまたいい味を出してました。
ほとんど素顔がわからないほどのメイクでしたが、小栗さんも山田さんもイキイキとしていましたよね。
そういや、この二人「クローズ ZERO」コンビですね。
桐谷美玲さんは、あひる口が可愛かったです。

テレビドラマも見ようかな。

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2012年2月 4日 (土)

「ベルセルク 黄金時代篇I 覇王の卵」 キーワードは夢と友

20年以上も連載が続くコミック「ベルセルク」の映画化作品です。
いつものごとくなのですが、原作は未読。
じゃ、なんで観に行ったかというと予告で観た絵がきれいだったからです。
本作を制作しているプロダクションは「鉄コン筋クリート」等で知られるスタジオ4℃。
このプロダクションの仕事はいつも感心するのですが、仕上がった作品の絵が綺麗なんですよね。
うーん綺麗というよりは、丁寧っていう感じかな。
すごく好感が持てます。
本作は中世的な世界を舞台にし、いくつもの戦闘シーンがでてきます。
そこでの剣と剣のぶつかり合いのようなところの作画は、鉄の重さを感じるほどです。
このあたりは従来の手描きならではの丁寧さが出ているところなんですよね。
また合戦シーンなどで、モブでの乱闘シーンのようなものもあるのですが、このあたりはおそらく3DCGを使っているのでしょう。
これは手描きでは無理。
でもそこでは手描きと変わらぬ風合いが出せていて、まったく区別はつきません。
モブシーンだったり、手描きだとかなり難しいカメラがグルグルと回っていくようなカメラワークのところはおそらくCGじゃなければできないだろうと想像しているだけです。
手描きのアニメーションで3DCGが取り入れられ始めたのは「もののけ姫」あたりからだと思いますが、もう手描きと3DCGの技術はもううまく融合されて使いこなされている感じがしますね。

先ほど書いたように本作の舞台は、中世のヨーロッパのような世界。
しかしそこには何か物の怪のようなものも存在しており、ファンタジー的な世界でもあります。
原作を読んでいないので、僕が観ていて思い浮かべたのは「グイン・サーガ」。
あちらも中世的世界観に、ファンタジー的、さらにはSF的な要素が組み込まれたものでした。
主人公は一人で傭兵として世を渡ってきていた剛の者ガッツ。
彼はあるとき、鷹の団(鷹の爪団ではない)のリーダー、グリフィスに出会います。
美貌を持つグリフィスですが、剣の腕もたち、ガッツを一騎打ちで破り、彼を仲間に引き入れます。
グリフィスは自分の国を持つという夢をもち、ガッツは次第に彼の夢を叶えたいと考えるようになります。
ガッツはグリフィスに友情を感じていったのでしょう。
孤独に生きてきた彼にとってはグリフィスは唯一の真の友でした。
グリフィスはその容姿だけでなく、剣の腕、また知謀、そして人を魅了する力をもっており、次第にその夢を叶える地盤をかためていきます。
彼は王国の姫に問われた時、傭兵団を大事な仲間だが友ではないと言います。
グリフィスにとっての友とは人の夢をかつぐのではなく、自分の夢を持ちそれを叶えようとしている者のこと。
これはグリフィスにとってはガッツは友ではないと言っているに等しい。
いずれグリフィスとガッツは袂を分かち、再び戦うのでしょうか。
それともガッツはグリフィスの夢を叶えるために、己の命を捧げるのでしょうか。
原作を読んでないので「グイン・サーガ」からイメージしてしまうのですが、グリフィスというキャラクターは「グイン・サーガ」に登場する主要キャラクターであるイシュトバーンとアルド・ナリスを足したような感じがしますね。
人を魅了する力を持ち己の夢を叶えるために手段を選ばないところ、選ばれた人間であるというような意識。
どのようにガッツやグリフィスは生きていくのでしょうか。
今回は3部作の第1部ということで、序章ともいうべき作品です。
今後の展開に期待したいと思います。

ガッツの声はどこかで聞いたことあるな、と思っていて、エンドロールを観たら「伊達さん」(岩永洋昭さん)だったのね。
男気あふれるところなどはぴったり。

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「逃亡者 おりん 最終章」 テレビ時代劇の遺伝子をつなぐ

2006年に放映されていた時代劇「逃亡者 おりん」のスペシャル版で、そのシリーズの物語のすべての決着がつく物語となっています。
テレビのシリーズの時代劇は「水戸黄門」が終了してしまった今となっては他ではなくなってしまっています(こちらのシリーズ「逃亡者 おりん2」が現在放送中のみ)。
僕が子供の頃を思い出すといくつもの時代劇が放映されており、また再放送などもけっこうやっていたので親しんでいたのですが、気がつけばもうほとんど放映されることがなくなりました。
テレビの時代劇というのはずっとあるフォーマットがしっかりできており、それがいいという人が多かったと思いますが、もうそういう変化のない調子というのは受け入れられなくなっているのかもしれません。
とはいえ映画では時代劇というのは今までと同様に作られていて、というより最近は時代劇でも意欲的な作品、また人間が描かれている作品が多く、観ていても見応えあります。
テレビの時代劇はフォーマットに沿っていなくてはいけないという考えを改めれば、新しい時代劇というのはできるとは思うのですけれどね。
そんな状況の中、キー局の中で唯一現在放送されているテレビ時代劇が「逃亡者 おりん2」です。
「最終章」は1作目を総括し、そして2作目に続くリングような役割を持っています。
こちらでは1作目に登場したキャラクター(死んだと思っていた者まで含め)が多く登場します。
それでもっておりん以外のそのほとんどが死んでしまう・・・。
1のしがらみを持って2に続くのはやりにくということなのでしょうけれどね。
ま、ある意味、潔い感じはしました。
この作品は1作目のときのレビューでも書きましたが、物語自体はテレビ時代劇の王道中の王道で、ベタと言えばベタ。
このあたりは今までのテレビ時代劇にも馴染んでいた世代にも受け入れられやすいのかもしれません。
なぜか主人公のくノ一の忍者服はレオタード風であったりという、ウケやすくわかりやすい仕掛けもしながらという展開は1作目そのままでした。
まだ2作目は観ていないのですが、そこの基本フォーマットから外れることはないのでしょうね。
古き良き時代劇の遺伝子を繋いでいるということでしょうか。
この路線でテレビ時代劇が復活するとはなかなか思いませんが、こういうのもありでしょう。
とりあえずはテレビ時代劇に火を絶やさないという点で、がんばってほしいものです。

テレビシリーズ「逃亡者おりん」のレビューはこちら→

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2012年2月 2日 (木)

本 「攘夷の幕末史」

幕末史というのは興味を持つとなかなかに面白いのですが、わかりにくいというのも確かにありますね。
それはおそらく10数年という短い時間の中で、いろいろな考え方が入り乱れ、それぞれの思惑により敵になったり味方になったり、また主流になったり、追い落とされたりといったことが起こったからなのではないでしょうか。
その中で話をわかりやすくするのに使われる構図で「尊王攘夷」派VS「公武合体」派という図式があります。
「尊王攘夷」派というと長州藩なり、水戸藩なりが浮かび、「公武合体」派というと薩摩藩なり、越前藩が浮かびます。
ただ実際のところは、そんなに簡単に割り切れるものでもありません。
よく考えてみると「尊王攘夷」と「公武合体」は対立の構図になる考え方ではないのですよね。
こちらの本は当時の日本は多かれ少なかれ基本的には「攘夷」という考え方を持っていたと論じます。
その程度により(本著では「大攘夷」、「小攘夷」という)、対立が生まれていたというわけです。
確かに「尊王攘夷」派と対立すると言われる薩摩藩は生麦事件(薩摩藩士が外国人を無礼討ちにした事件)を起こしていますし、決して攘夷という考えがなかったわけではないのですね。
そもそも「尊王」という考えと、「攘夷」という考えは次元が違うものなんですよね。
「尊王」というのは(幕府よりも)天皇家を尊ぶという考え。
「攘夷」というのは、外国人を打ち払うという考え。
次元が違います。
幕府主導で「攘夷」という考え方もできますし、「尊王」で開国という考えもありうるわけです。
「公武合体」は天皇の権威を借りて、幕府を強化するという考え方なので、「尊王」とは対立するかもしれません。
だから「尊王」VS「公武合体」は考えの対立になるのですが、「尊王攘夷」VS「公武合体」は実はおかしい。
さきほども書いたように本著では、「攘夷」はこの時代の共通した認識であったということで、「攘夷か」「攘夷ではないか」は対立軸にはならないのですね。
「攘夷」の程度の問題が対立軸であったわけです。
本著によれば開国派と認識される坂本龍馬も基本的には攘夷の考えを持っていましたが、単純に戦っても外国に蹂躙されるだけなので、そのためには「開国」をして軍事力を蓄えるべしというふうに考えたということです。
いわゆる長州などの「攘夷」派は、負けるも勝つも関係なく、とにかく外国は打ち払えという考え方です。
ようは程度の問題であるのですね。
結局は日本は「開国」に向かうのですが、その後の日本の進む道にこの考え方が実は関係していると言うのが興味深かったです。
日本は基本的には「攘夷」で日本が中心であるという考えを持っていた。
しかし国力が海外に及ばないため、「開国」し国力と軍事力を充実させた。
その中でもともとの「攘夷」思想というのは綿々と続いていて、それが日清、日露の戦争、さらには太平洋戦争へと繋がっていく。
確かにこれはなるほどと思うところはありますね。
歴史というものは違った角度から観るとまた違った相が浮かび上がってきます。
これが歴史の面白いところだと思いますね。

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