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2012年1月29日 (日)

「麒麟の翼~劇場版・新参者~」 何も知らない

東野圭吾さんの小説、加賀恭一郎シリーズをドラマ化した「新参者」の劇場版です。
例によってテレビドラマは未見ですが、観てきました。
すごく良かったです。
泣けました。

東京日本橋、首都高の高架下に翼を背負った麒麟の像があります。
江戸橋で何者かに刺された男が、その麒麟の像の下で息絶えました。
死亡した青柳武明が発見された直後から、警察は特別警戒体勢に入り、その時に職質された若い男八島が逃走、
そして彼はトラックに衝突し、意識不明の重体となりました。
被害者青柳を殺したのは八島なのか?
そして青柳は何故刺されてから、麒麟の像の下まで自ら歩いてきたのか?
警察は、被害者の青柳、そして被疑者の八島を調べるために、その家族に話を聞きます。
青柳家については、その妻、そして息子の悠人と娘の遥香に。
八島については同棲相手である中原香織に。
被害者の青柳は休日に日本橋界隈にいつも訪れていたことがわかります。
けれども家族はなぜ彼がそこにいたのかわからない。
また八島については、香織は就職活動をしていることは知っていたが、どこに就職しようとしていたかどうかわからない。
被害者についても、被疑者についても、最も近しい家族がその人物について「何も知らない」ということに気づくのです。
けれど、これは普通のことなのかもしれません。
家族だから、いっしょに暮らしているから、お互いに何でも知っていると思っている。
けれどそれぞれに何を思っているのか、実はよくはわかっていない。
それぞれがどのような悩みを抱えているのか。
それぞれがどれほどに相手のことを想っているのか。
青柳の息子、悠人は父親が死に、加賀たちが父親の行動を明らかにする中で、父親がどれほどに自分のことを想っていたかを気づきます。
八島の恋人の香織もまた、彼が彼女のことを大切にしていたかを知ります。
近くにいるのが当たり前で、そして反発することもあった相手が、どれほどに自分のことを考えていてくれていたか、残された家族は相手をなくして初めてその想いに気づくのです。

東野圭吾さんの作品は本作も「容疑者Xの献身」そうですが、謎が謎をよぶ仕掛けとなっており、ミステリーとして見応えがあります。
けれどそれはトリック的なミステリーではなく、隠されていた人の想いのようなものが次第に浮かび上がっていく物語なのですね。
事件の謎を追っていく中で、次第に人が誰かを想う気持ちが明らかになっていく。
東野さんの作品が何か切なさというものを持っているのは、そういうところなのかもしれません。
最近のミステリーでのヒットメーカーでいうと宮部みゆきさんなどがあげられますが、彼女の作品で一貫しているのは、どうしようもなく絶対的な悪意といったものです。
しかし東野さんで一貫しているのは作品は、悪意というよりも、やはり誰かへの想い、愛なのですよね。
その想いが伝えられない、伝わらないもどかしさが切ない。
本作でも絶対的な悪意というものをもった人物はいません。
あるのは少しの勇気というものを持っていなかったということ。
被害者の青柳武明も息子と勇気を持って向かい合えばよかった。
彼の息子の悠人も自分の悩みを口に出せばよかった。
八島も香織も、互いの想いをしっかりと相手に伝えればよかった。
近くにいるからこそ、家族だからこそ、なにか恥ずかしい、なにか気まずい。
それは誰もが家族に対して思うこと。
でも気持ちを口に出して伝えるということが、やはり大切なのだなと感じさせてくれる作品でした。
そういう想いを感じさせてくれるやさしさを感じさせてくれるのが、東野作品の魅力なのでしょうね。

テレビシリーズの「新参者」も観てみようかな・・・。

「容疑者Xの献身」の記事はこちら→

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2012年1月28日 (土)

「J・エドガー」 「アメリカ」の国家像とかぶる

ジョン・エドガー・フーヴァー、彼はFBI初代長官にして、48年もの長期にわたりその職を務めました。
彼はその任期の間にFBIを盤石な組織として作り上げ、また科学捜査、組織捜査を進めてきました。
情報収拾の重要性を認識し、時には盗聴などの超法規的な手段を使ってまでも情報を集めようとしました。
また社会的影響力のある政治家等の著名人の個人的な情報についても機密ファイルとして持ち、それにより歴代の大統領へも影響力を持っていたとも言われています。
そのためか様々な映画などでFBIのトップはフーヴァーを髣髴させるようなキャタクターであることも多かったりします(「ザ・ロック」のFBI長官などはまさにそのようなイメージ)。
「J・エドガー」はそのような伝説的人物の複雑さを描こうとする作品です。
本作ではフーヴァーが強い権力を志向する人物となる一端を、母親の教育によるものとしています。
「女々しい男はいらない」とまで言う母親により育てられたフーヴァーは、尽きることなく権力を求めます。
キング牧師に対し敵対心を持つのも、その思想への警戒というのもあったかと思いますが、同時に自分以上に国民の注目を集めるということへの敵愾心のようなものがあったように描かれています。
大統領の就任パレードの様子をビルから見下ろし、その歓声を聞いているフーヴァーは、こう思っていたのでしょう。
「みなが歓声を上げている大統領ですら、自分に対して恐怖心を持っているのだ」と。
自分の自伝では、自身が主役になるように事実を改変したりということもフーヴァーはやっていました。
彼は幼い頃に刷り込まれた子供っぽい権力欲というものを死ぬまで持ち続けていた人なのでしょう。
しかしその権力志向は私利的かというとそうではないというのが、本作で描かれているフーヴァーでした。
基本的に彼は、国家や国民を守ろうとし、正義を貫く信念を持っていた人物とされています。
自身に正義があることを、揺るぎなく信じていた人物でもあります。
そういう点において、彼は悪ではないのですね。
またフーヴァーが同性愛的な性向を持っていたことも描かれています。
幼い頃より男らしくあれと言われ続けてきたことへの反動なのでしょうか。
それとも母以上の女性を見いだせなかったことからくるものでしょうか。
子供っぽい権力欲を持ちながらも、正義を守る男でもあるフーヴァー。
正義を守る男でありながらも、女々しさ、臆病さをもった弱い面をあったフーヴァー。
そのような複雑な人物像を本作は描きます。
本作を観ていて、このようなフーヴァーのような人物をみたことがあるなと思って考えていたのですが、思い至ったのは、こういう性格を持っているのは「アメリカ」という国家そのものではないかと。
アメリカは「強い国家」というものを志向し、そして戦後は「世界の警察官」という自覚で、彼らが信じる「正義」を貫くべく超大国として活動を続けてきました。
またアメリカは科学的であったり、理論的なアプローチを好み、さまざまな新しいプロジェクトを世界に先駆けて実施してきた国でもあります。
しかし、彼らが掲げる「正義」は、なにか子供っぽさを孕んだ一方的な「正義」であることの危険性のようなものを感じている方も多いかと思います。
このような複雑なアメリカ像というものが、本作で描かれるフーヴァー像とかぶっているように感じました。
まさにフーヴァーの一生は、アメリカが世界の超大国として成長していく歴史とほぼ同一となっています。
しかし、人には寿命があり、長い間君臨していたフーヴァーもその一生を閉じます。
人は寿命があり、どう抗おうとその歴史は閉じてしまいますが、国家はそうはならない。
フーヴァーが晩年に健康面から以前のようには動けなくなったように、アメリカも現在は以前ほどの権勢を誇ってはいません。
けれどもその一生を閉じるわけにはいかないのです。
本作はイーストウッド監督が、アメリカという国家に「どういうふうにしていきたいのだ?」と問うているようにも思えました。
老いてもなお盛んに活動し、毎年のように映画を撮り続けているイーストウッドだからこそ、その問いに重さがあるように感じました。

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2012年1月22日 (日)

「海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン」 よろしく勇気

今年しかできなかったであろう、スーパー戦隊と「宇宙刑事ギャバン」の奇跡のコラボ。
「ギャバン」とはコショウのメーカーのことでもなく、フランスの俳優のことでもないので、念のため。
「宇宙刑事ギャバン」とは1982年に放映された東映の特撮テレビシリーズで、今年で30周年ということです。
「ギャバン」はいわゆる「メタルヒーロー」シリーズの最初の作品となります。
「メタルヒーロー」という通称は、メタリックで未来的なギャバンのデザインテイストからいつの間にか言われるようになったものです。
あの「ロボコップ」は「ギャバン」にインスパイアされたというのは有名な話。
1982年頃、東映で特撮テレビシリーズはスーパー戦隊シリーズのみでした。
そのような特撮氷河期の中で、起死回生の作品としてリリースされたのが「宇宙刑事ギャバン」でした。
今までにないデザインのヒーローは衝撃をもって受け入れられ、その後「宇宙刑事」シリーズは三作作られることになります。
「ギャバン」は東映としても様々な新しい試みを行っており、ビデオ合成などの特撮技術が導入されました。
これは今観ると、やはり古くさくは見えるのですが、当時としては費用がかかるためテレビシリーズではなかなかできなかった合成が、比較的簡単にできるということで、テレビシリーズで表現の幅が大きく広がったと思います。
それがよく表れているのが、本作でも登場する「マクー空間」での戦闘シーンでしょう。
この成功がその後の東映作品でのアクションシーンへのCGの導入に繋がっていくのだと思います(円谷は従来の特撮手法にこだわったのか、ビデオ合成もCGも東映に大きく遅れた)。
また剣と銃で戦うというスタイルは「ギャバン」で定着した感もあり、その後「仮面ライダーBLACK RX」から同様のスタイルが「仮面ライダー」シリーズにも導入されました(当時は「ライダーが剣を使うなんて!」という批判もあった)。
いまでこそ「仮面ライダー」シリーズで剣と銃というのは定番ですが、画期的でもあったのです。
それもそのはずで「仮面ライダーBLACK」のスタッフの多くは「宇宙刑事」シリーズを手がけた人たちであったんですね。
ということで、「宇宙刑事ギャバン」という作品は、今の東映の特撮の基礎を作った意欲作であったわけです。

ぶっちゃけ、今回は「ゴーカイジャー」を観に行くというよりは、「ギャバン」を観に行くという気持ちの方が強かったですね。
やはりカッコいいですよ、ギャバン。
今回はコンバットスーツを新調したとか。
やはりキラキラしてますよ。
今観ても、古くさくないですね。
もう30年も経っているんだ・・・。
一条寺烈役の大葉健二さんが出てくれているのが、嬉しい。
彼が出なくちゃ、やはりギャバンじゃないですからね。
さすがJAC(現JAE)メンバー、56歳とは思えない動きです。
「蒸着!」という、あの変身ポーズはやはり燃えます。
「では蒸着プロセスをもう一度見てみよう」もやってくれてます。
嬉しい・・・。
「ディメンションボンバー」「レーザーZビーム」とか懐かすうぃー。
「レーザーブレード」から「ギャバン・ダイナミック」もそのまま再現してくれました。
音楽も当時の渡辺宙明さんが作曲した劇判をアレンジして使ってくれてるし。
嬉しい・・・。
「マクー空間」も当時の雰囲気を大切にしながら、今の技術で再現していました。
さらには串田アキラさんの主題歌も流れ・・・。
全編を通して、「ギャバン」という作品に対し、今回の制作者がリスペクトしているのが伝わってきます。
「よろしく勇気」という「ギャバン」の主題歌のフレーズが、「ゴーカイジャー」と繋ぐキーワードになっているのも気が利いてます。
「ギャバン」に思い入れがない方にとっては、「ふーん」という感じだと思いますが、楽しんで観れました。
「宇宙刑事」シリーズ、リブートしてくれないかな・・・。

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2012年1月21日 (土)

「月光ノ仮面」 ・・・よくわからん

「板尾創路の脱獄王」でデビューした板尾創路監督の第二作目です。
古典落語「粗忽長屋」に発想を得た作品になります。
・・・とここまではいいのですが、これ以上は書き難い。
正直言って、よくわからなかったんですよね。
解釈し難いと言いますか、手に負えなかったです・・・。
ラストシーンをどう解釈するか、自分の中で結局消化できませんでしたし、さらには穴掘りの意味、はたまたドクター中松の存在もよくわからなかった。
誰かにどう捉えるのがよいのか、教えてほしいくらい。
ですのでここから先は、この映画の解釈としてはずれているかもしれないので、ご承知おきください。

板尾創路さんが演じる男は記憶をなくしています。
自分がなにものかわからない。
しかし、朧げにある記憶(実は戦友であった本物のうさぎから聞いた話)を辿り、森乃家一門を、落語家森乃家うさぎとして訪れます。
彼が森乃家にうさぎとして受け入れられたとき、本物のうさぎ(浅野忠信さん)が戻っています。
彼こそが正真正銘のうさぎなのですが、戦争により声を失っており、落語家として生きていくことはできません。
記憶をなくした男は森乃家うさぎとして生きることにより人としてのアイデンティティを得、声をなくした本物のうさぎは男に森乃家うさぎとして生きてもらうことにより、落語家としてのアイデンティティを保のです。
ある意味、彼らは二人で一人の存在となったのかもしれません。
しかしそこにうさぎの婚約者であった弥生がからまります。
弥生は最初に帰ってきた男をうさぎだと思い込み、彼に抱かれます。
しかしその後、本物のうさぎが帰ってきたわけです。
それにより彼女は気鬱のような状態になるわけです。
それはそのはずで彼女は結果的に見ず知らずの男に抱かれてしまったと言う罪の意識と、さらには自分が本当に愛しているのはどちらの男なのかわからなくなっていくという困惑の中におかれるのです。
おそろしいと思ったのは、弥生を救おうとして本物のうさぎが溺れることとなったとき、彼女は彼にむかってロープを投げるのを躊躇います。
彼女の中ではおそらく本物のうさぎがいなくなったら、罪の意識に捉えられることもなくなるのではという考えがよぎったのでしょう。
もし溺れているのがもう一人のうさぎであったとしても同じ結果であったような気がします。
満月の光のもと、彼女は月に魅せられてしまったのかもしれません(古来月は人の狂気を増幅すると言われる)。
結果的には、ほんもののうさぎを助けるのは、記憶をなくした男であるわけです。
ある種、とても不安定であるのが三人の関係であり、これが早晩バランスをなくして崩壊していくのは想像できます。
それを本能的に察した男が、自然崩壊するより先に己でそれらの関係を破滅させた・・・というのかなと思ったりもします。
ただこの解釈では、三人以外の人間をも殺すという行為へ繋がる説明にもなっていませんしね。
殺されるほうも、笑いながら殺されるというのも何かしら意味がありそうな感じがしますが、やはりよくわかりませんでした。
あとやっぱり、穴掘りとドクター中松はよくわかりません。
むむむ・・・。

あと板尾さんが演じる男は、初回作もそうなんですけれども最後まで正体不明なんですよね。
さらには主人公でありながら、最後まで何を考えているのか、その心情が明らかにされることはありません。
このあたりは板尾さんの作品の特徴になっていくかもしれませんね。
どういう意味があるのか、まだよくわかりませんが・・・。

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本 「インビジブルレイン」

現在テレビドラマが放映中の「ストロベリーナイト」の原作姫川玲子シリーズの最新作です。
本シリーズは警察小説、ミステリー小説に分類されるとは思いますが、本作について言えばそういう雰囲気よりも姫川という女性刑事のキャラクターを描く物語になっていたかと思います。
警察もので女性刑事主人公という場合は、警察という最も官僚的な組織の中で働くということからか、今までのさまざまな作品でも男まさりでクール・ビューティ的なキャラクターが多かったかと思います。
「アンフェア」の雪平などはその代表格でしょう。
本作の姫川についてもクール・ビューティ的な側面はもちろんあります。
それは捜査をしているときの刑事としての顔の時であったりするのですが、本作は姫川の内面にある女の部分について描いています。
今までのこのシリーズでも時折、姫川のキャラクターについては一人称という描き方の中でその内面について描かれてきました。
そこでは、仕事ではクールなところもありますが、その内面は弱いところもあったり、女らしい可愛らしいところがあったりするところが描写されていました。
本作ではそういった姫川の内面の女の部分に触れています。
互いに惹かれあった男が、ヤクザであり、そして事件の容疑者の疑いがある。
刑事としての姫川、女としての姫川によって、彼女は引き裂かれるような思いになるのです。
このあたりは今までの女性刑事ものにはないアプローチかなと思いました。
結末では姫川が所属する警視庁刑事課の姫川班は解体されてしまいます。
今後はどのように展開していくのでしょうね。

それにしても・・・、ちょっと菊田はかわいそうだね。
知らぬが仏ということか。

「インビジブルレイン」誉田哲也著 光文社 ハードカバー ISBN978-4-334-92688-5

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2012年1月20日 (金)

「デビルズ・ダブル -ある影武者の物語-」 なぜウダイはラティフを殺さなかったのか?

サダム・フセインの息子、ウダイ・サダム・フセインとその影武者とされたラティフという男の物語。
普通の一般市民(イランイラク戦争中であったので兵士となっていた)であるラティフは、ある日突然に似ているからという理由で親の権力を背景に極悪非道を繰り返すウダイの影武者に仕立て上げられます。
ウダイはまさに悪魔のごとく極悪であり、周囲の者、更にはまったく関係のない者までを悲劇のどん底に陥れ、それを本人はまったく気にしていないという人物です。
そしてそれを間近で見ることとなったラティフの心には、次第にウダイに対しての殺意が育っていくという展開になります。
ぶっちゃけ、サダムをその道では名を挙げた極道の大親分、ウダイを極悪非道で狂気じみた二代目と置き直してみてみると、Vシネのヤクザものでありがちな話だったりします。
サラブはヤクザの情婦で、主人公にも粉をかける謎の女という感じですしね。
ストーリーというよりもウダイ、ラティフという真逆の性格の人物を一人二役で演じたドミニク・クーパーの演技が見ものですね。
動き方、表情のつけ方、声の出し方で、こうも同じ顔をしている人が異なる人物に見えるように演技するというのは驚きますね。
ラティフがウダイの演技をして演説をするなんていうシーンもありますからね。
ほとんどのシーンでウダイか、ラティフが出てきますから、ドミニク・クーパーの演技でかなりの部分を背負っているという感じがします。
見事な演技でした。

話を変えてみましょう。
ウダイは、なぜに最後までラティフを殺さなかったのでしょうか。
ラティフが自分に敵意を持っているというのをウダイは知っていました。
そしてさらにラティフが彼を裏切っても、それでも彼を殺さない。
容易にラティフを殺す力をウダイは持っていた。
なのになぜ・・・。
ウダイは狂気じみた精神の持ち主でした。
しかし彼はおそらく自分の中に足りないものを本能的に感じ、それをラティフの中に見いだしたのではないでしょうか。
ウダイは傍若無人な振る舞いをしますが、実のところ臆病な人物であることがわかります。
父の側近を殺し、父の怒りを買った時には自殺を試みますし、また戦地への演説も自分では行かずにラティフに身代わりをやらせます。
基本的には彼は臆病な人物なのです。
権力をふるいそれに人々が従うのを見なければ、安心できないということなのかもしれません。
しかしラティフはウダイのような臆病さはなく、覚悟を決めたらやり遂げる強い意志を持った男です。
そこにウダイは自分にないものを見たのでしょう。
彼にとって偉大な父親にあり、自分にはないものを。
ウダイは、ラティフを言わば自己同質化して見ていたのでしょう。
ラティフが演説する姿を見ながら、無邪気にあれは俺だというウダイの姿にそれを感じます。
ウダイにとっては、ラティフはこうありたいと思う自己イメージの重要な1ピースなのですね。
そのためラティフを殺すということは、自分自身の半分を殺すということになるのです。
だからウダイにはラティフは殺せない。
実のところ、本作は主人公であるラティフの心情ではなく、ウダイという男の狂気の精神を描こうとする映画であったのかもしれません。

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2012年1月19日 (木)

「CUT」 怒りの爆縮

エネルギーを感じる作品でした。
そのエネルギーとは怒り。
主人公が湛える怒りを描いた映画は今までいくつもあり、その多くの作品では、内から外へのエネルギーの爆発、つまりはバイオレンス・暴力として表現されてきました。
しかし、本作は主人公の怒りのエネルギーは内から外へと向かうのではなく、内からさらに内へ内へと逆の方向に進んでいくのです。
外に向かって暴力として発散するのではなく、殴られるという行為を積極的に受けるということで逆説的にエネルギーを発散するという感じを受けました。
いわばそれは爆発ではなく、爆縮とも言えます。
内へ内へと向かうという方向性ではありますが、そこには凄まじいエネルギーを感じました。
主人公秀二は二つの怒りを抱えています。
一つは現在の映画、その環境についての怒り。
それは本作ではストレートに描かれています。
シネコンで上映されるエンターテイメントに席巻され、良質な作品が人の目に触れることがないということについての怒り。
その怒りは幾度となく本作の中で叫ばれる映画についてのアジテーションで直接的に描かれます。
そしてもう一つの怒りはおそらく自分に対する怒りではあったのではないかと思いました。
秀二は兄によって資金を調達してもらい、何本かの映画の作品を作りました。
しかし兄はそれを借金で都合しており、そのために彼は殺されます。
秀二は純粋に映画が好きであった男なのだろうと思います。
まさに映画にかけて生きてきたと言っていい。
秀二は兄の借金を返済するように迫られますが、そのときになって初めて彼は自分の映画に純粋にかけてきた人生が、兄の犠牲の上に成り立っていたということに気づいたのだと思います。
それは後悔となり、自分への怒りへと繋がったのだと思います。
その怒りを外に発散すれば、いわゆるバイオレンス映画の系譜に繋がるものになったと思います。
しかし秀二という男はおそらく自分の思いというものを外へ発信することが本質的に難しい人間ではなかっかと想像します。
映画のアジテーションは彼が実際に人前で行ったというシーンは描かれません。
彼は映画への思い、その環境についての怒りを心に持っていますが、それを外へ発散できない人物のような気がします。
ですので、兄の死によって自分の内にわき起こった怒りも、外へではなく、内へと向かうのです。
殴るのではなく、殴られるという方向に。
殴られ、殴られ、殴られ、殴られ、殴られ続けて、彼は怒りを発散させていく。
暴力を受けることにより怒りを封じるのではなく、怒りを開放していくように感じるのが非常に興味深かったです。
ですので冒頭でこれを「爆縮」という言葉で表したのです。
97発、98発、99発、そして100発まで殴られ続け、極限までに怒りが爆縮されたところにあったのは「無」であったわけなのですね。
そこで同時に彼は赦されることとなるのです。
この感情のエネルギー放出のむかう方向性がとてもユニークな作品であると思いました。

本作でも描かれている映画の現状について、ちょっと一言。
僕はシネコンで上映されるエンターテイメントも好きですし、単館のアート系映画も観ますので、エンターテイメント映画そればかりが悪いとはまったく思っていません。
どちらかというと、ことさらにアート映画、芸術映画を作るんだと自分で言っている人は鼻持ちならないと思っています。
個人的な見解としていえば、芸術というものは、これは芸術だと自分で言うものでないと思っています。
芸術として感じるのは受け手側であり、それを出し手がアートとして感じろというのは、不遜だと思います。
本作でも名を挙げられていた黒澤明、溝口健二、小津安二郎にしても芸術を撮ろうと思って映画を撮っていたのではないだろうと。
それを観た人の多くがそれを芸術的だと感じ、そういう評価をされるようになったわけです。
評価のスタイルを出し手が規定し、それをわからない奴はクソだと言うのはやはりちょっと不遜であるなと。
実はその不遜さが、多くの一般の観客を小規模のアート系映画から足を遠のかせているのではないかとも思ったりもします。
ただ最近ミニシアターのいくつか閉館になり小規模の作品が上映される場が少なくなっていることも事実ですし、それについては個人的にも残念に思っています。
いい作品が上映されない、上映されない映画は存在しないのも同じ。
上映の機会が失われていくのは、やはりもったいないと。
もう少しアート系の映画を作る人々もわかる奴だけわかればいいというスタンスからもう少し、一般観客に歩み寄る姿勢があってもいいかなと思います。
ま、この映画の秀二にから観ればクソやろうに迎合しているということになってしまうかもしれませんが。
僕ができるのはこういうふうにブログで感想を書いて、この映画観てみたいなと思ってもらえるようになることくらいなんですけれどね。

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2012年1月15日 (日)

「ロボジー」 またまた意外な組み合わせ

「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」の矢口史靖監督の最新作です。
今までの作品もおもしろかったですが、本作はまたまたおもしろい。
男子校生とシンクロナイズドスイミング、女子高生とジャズという意外な組み合わせでコメディを作ってきた矢口監督ですが、本作「ロボジー」はじいさんとロボットというさらに意外な組み合わせです。
この映画を観るまでまるで思いませんでしたが、確かにASIMOなどの二足歩行型のロボットの歩き方っておじいちゃんぽい・・・。
それに気づいてしまった矢口監督、さすがです。
まったく次元の違うものを結びつけるというのは、そこに無理がある故に物語的な化学反応が生まれやすいと思います。
矢口監督はそういう組み合わせを見つける嗅覚がいいんでしょうね。

予告を観たときは最先端(風)のロボットの中に入っているおじいちゃん鈴木重光と、開発者3人組たちのドタバタかなと思っていたのですが(それもあるけど)、思いのほか吉高由里子さん演じる佐々木葉子がキャラクターとしてきいていました。
コメディというのは、暴走して周囲を振り回すキャラクターと、それに振り回されるキャラクターの間で笑いが起こると思いますが、本作においては振り回すキャラクターが、おじいちゃんと葉子の二人なんですよね。
またコメディというのは、笑いそのものだけでなく人の感情のようなものがちゃんと描かれていたほうがより面白いというのが持論なのですが、本作はそのあたりもいい匙加減です。
おじいちゃんが偏屈で、だけど孫たちとうまくやっていきたいと思っているところとか。
葉子が「ニュー潮風」に憧れて、そして裏切られたと思って、怒り狂うところとか。
こういう感情が描かれるから、彼らの「暴走」も不条理なものではなく、愛おしく見えてしまうんです。
このあたりの匙加減が矢口監督は昔から上手です。
予告を観たときは三人組が主役かと思っていたのですが、本作はまぎれもなく、おじいちゃんと葉子が主役ですね。
ラストの決着のつけ方も絶妙でした。
それまでさりげなく撒いてきていたものが最後の決着にうまーく繋がっています。
いい脚本ですねー。

主人公の鈴木重光を演じたのは、五十嵐信次郎さん。
五十嵐信次郎って誰?
オーディションで受かった素人さん?などと思っていたのですが・・・、ミッキー・カーチスさんだったんですねー。
予告を観ていても気づきませんでした。
もっとダンディでカッコいいイメージだったんですが、本作ではしょぼくれたおじいちゃん・・・。
いやー、すごい役作りです。
ほんとびっくりするぐらいステテコが似合ってました。
主題歌も五十嵐信次郎名で歌ってます。
さすがミュージシャン。
これもエンドロールが流れるまで気づきませんでしたー。

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2012年1月14日 (土)

「マイウェイ 12,000キロの真実」 相互理解に至る道のり

韓流ブームと言われて久しく、そのきっかけはいくつかあったと思いますが、1999年の「シュリ」のヒットも一つの要因だったと思います。
「シュリ」以降コンスタントに韓国の映画が日本でも公開されるようになりました。
その「シュリ」の監督カン・ジェギュが久しぶりに手がけたのが本作「マイウェイ 12,000キロの真実」です。
本作は第二次世界大戦中、日本、ソ連、ドイツと3つの軍服を着て戦うこととなった日本人の青年長谷川辰雄(オダギリジョー)と朝鮮人の青年キム・ジュンシク(チャン・ドンゴン)の数奇な運命を描いています。
145分とかなりの長尺ですが、見応えのある作品となっていました。
辰雄とジュンシクが出会ったのはまだ少年の頃で、日本が韓国を併呑していた時代でした。
戦争が始まり、ジュンシクが日本兵として戦っていた前線に、辰雄が指揮官として赴任してきます。
正直、前半はひとりの日本人としてかつて同じ民族が行ってしまったことに対して、いたたまれない気分になります。
そういう気分にさせる映画を韓国人の監督が作るということにいろいろと言いたくなる人もいるかもしれません。
ただ後半を観ていけばわかるように日本人を糾弾するという意図ではないのは明らかです。
辰雄やジュンシクはソ連軍に捕われ、ソ連兵として戦うことを強要されます。
そしてさらにはドイツ軍にも同じように戦うことを強いられます。
日本だけではなく、ソ連もドイツも同じようなことを行ってしまっていた。
この三国はワルモノにされがちな国ですが、そういう国に限った話ではなく、つい先日問題となったアメリカ軍海兵隊員がタリバン兵へ行った冒涜行為もありますし、どのような国も戦争状況では同じようなことをしてしまうのかもしれません。
これは戦争の狂気、または国家というシステムが持つ狂気というものでしょうか。
戦争状態では、味方と敵、勝者と敗者といった二分したものの見方で、敗者に対しては何をしてもいいという気分になってしまうのかもしれません。
戦争の最中においては、自分の行為を客観的に観ることができなくなってしまうのでしょうか。
辰雄は己がかつて朝鮮の人々に対して行ってしまったことを同じことを、ソ連軍に行われたときにはじめて自分の行いについて客観的に観ることができたのです。
辰雄は典型的な軍国少年でありました。
幼く純粋なときに軍国主義的な考えを吸収してしまったのでしょう(そういう思想ばかりであったから)。
カン・ジェギュ監督が日本人の描写についてかなり気をつかっているのをうかがえるのは、辰雄の父親は医者で当時にしてはリベラルな考えの持ち主として描かれていますし、また祖父についても帝国軍人でありながらも皆を身を呈して守るという人として表現されています。
当時の日本のもっていた狂気のようなものが人として表されたのが、辰雄であったのだと思います。
しかし、先に書いたように辰雄は数奇な運命を辿る中で、己の行為を客観視し、別のものを得ていきます。
それは幼い頃からのライバルであったジュンシクとの友情です。
辰雄とジュンシクはそれこそ相手を殺したいほどに憎みあう仲でした。
二人の関係はかつての日本と韓国の関係を表していると思います。
僕が学生の頃は、今では考えられないほどまだ韓国との距離、特に心理的な距離がありました。
「近くて遠い国」であったんですね。
韓国の人がまだ日本人に対して悪感情を持っているのは感じましたし、やはり日本人は負い目があったわけです。
負い目があるからこそ、それにあまり触れられたくない、それに触れてくる韓国の人に対してまた悪い印象を持ってしまうといったようなことがあったかもしれません。
「もう何度も謝っているじゃないか、何度も何度も頭を下げさせるなよ」と。
この悪感情、悪印象というのは誰か具体的な人に対してではなく、なんとなくの心理的なイメージ、空気感なんですよね。
思想的なレベル、主義的なレベルと言ってもいいかもしれません。
しかし、日韓ワールドカップ共催や、日本では現在まで続く韓流ブームやK-POPの流行などで、また韓国でも日本の音楽やアニメなどが受け入れられるということで、互いに近い国と感じられる状態になってきたと思います。
そういう文化的なレベルと言いましょうか、自分の個人的なレベルで「これ好き」と思えるようになったというのはすごく大きいかなと思います。
辰雄とジュンシクが対立していたのは、それぞれが背負ってしまっていた民族的なものによるものが大きかったように感じます。
しかし、奇しくも二人で死線を乗り越えていくこととなり、彼らはそれぞれが持っている人間性そのものを見ることができるようになったのだと思います。
自分個人として相手個人を尊敬できるのかどうかというのは、互いの国家が理解しあうというのにとても重要なのではないかと感じました。
ヨン様好き、少女時代カワイイという個人的でかつ具体的な感情というのは相互理解においてとても大事なのかもしれません。
辰雄とジュンシクもマラソンというものを通じて、そして共に戦場を生き抜いたということを通じて、相手を一人の人間として尊敬できるようになっていき、相互に理解できたのだと思います。
そしてそれはできるのだということを、この映画は伝えていると思います。
日韓の相互理解を強めてきた韓流ブームのきっかけの一つとなった「シュリ」の監督であるカン・ジェギュが本作を作ったというのも何か因縁めいてはいますね。

ラストはけっこう好きでした。
ああいう風にまとめるとは意外でした。
それにしても山本太郎さんは最近、「カイジ」といい、ああいうイヤな役が多いなぁ(苦笑)。

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本 「天智と持統」

著者の遠山美都男さんは古代天皇についての著作があり、何冊か読んだことがあります。
本著では天智天皇が後世に「武の人」と「文の人」という2つの異なる側面をもって語られることについて着目し、それが何故にそうなったかを解き明かそうとするものになっています。
天智天皇は歴史の教科書にも書いてある通り、即位する前は中大兄皇子と言われ、中臣鎌足とともに、蘇我入鹿を倒すというクーデターを起こし、政治権力を天皇家に引き戻した人物です。
それゆえ「武の人」というイメージがありますが、しかしその後の律令制定の基礎を作ったともいわれ「文の人」というイメージもあります。
そういった異なったイメージはどうしてそうなったかということですが、それを著者は持統天皇に求めます。
持統天皇は夫である天武天皇の死後、即位した日本史の中でも珍しい女性天皇です。
天武天皇と言えば、有名な壬申の乱で、天智系から天武系への流れを作った人物です。
天智天皇像というのは、その持統天皇が作ったと言うのが著者の仮説です。
奈良時代などの古い時代を研究するには、古い文書しかありません。
代表例が有名な日本書紀ですが、それは天武〜持統天皇の時代に作られました。
中国の史書などでわかるように、歴史書というのはその時代の政権が自分たちの正統性を裏付けるために作られることが多いわけです。
ですのでそこの書かれている記述は事実もありますが、そう書かせた意図というものが、書かれた時代をより浮かび上がらせていくのです。
本著は日本書紀、また中臣鎌足(のちの藤原鎌足)に関する鎌足伝などの文献を比較検討し、そこの差異に浮かび上がる意図を探ります。
結論から言えば、持統天皇はその後の天皇家支配を盤石にするために、その正統性を天智天皇に求めたたわけです。
天智天皇が「武の人」であり「文の人」という神の如く優れた人物であるということを歴史書で描写することにより、それを継ぐ自分そしてその後継者の正統性を表そうとしたわけです。
古代の研究というのは先に書いたように基本的には文献しかありません。
その文献の差異を見つけ、それについての仮説を組み立てていく作業の中で、その時代の出来事に関わった人物像を浮かび上がらせるのですね。
こういう歴史の研究は、ひとつのミステリーを読んでいるような気分にもさせられます。

「天智と持統」遠山美都男著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288077-0

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2012年1月 9日 (月)

本 「疾風ガール」

誉田哲也さんの小説をざっくりわけると「ストレベリーナイト」から続く姫川玲子シリーズや「ジウ」などの警察小説と、「武士道シックスティーン」から始まる武士道シリーズの青春小説になるかと思います。
本作は武士道シリーズと同じように青春小説に入るでしょう。
しかし警察小説、青春小説に限らず、共通しているのはどれも主人公が女性であるということですね。
そしてその女性たちは、皆、強い。
強いというのは肉体的なものではなく、意志、想い、ハートが強いということです。
姫川や「ジウ」の基子、また武士道シリーズの香織などは女性らしさを封印して意志の強さで突き進むタイプ。
逆に「ジウ」の美咲、武士道シリーズの早苗は女性的な弱さは持ちつつも、それでも想いを強く持ち、考え考え歩んでいくタイプですね。
本作の主人公である夏美はハートが強いタイプの女性です。
意志をもったり、深く考えて進むわけではありません。
まさに「疾風」そのもののように、ハートで感じたそのままに突き進んでいくのです。
その姿が、ロックという題材と相まって、作品自体に疾走感を生んでいます。
風を切って進んでいくようながむしゃらな疾走感を感じます。
あと誉田さんの作品に共通する点としては、主人公はなにかしら過去に心を傷つけられるようなダメージを受けています。
ハードな体験であれば姫川や「ジウ」の基子などで、それでなくても香織なども両親の離婚の危機などのダメージを受けているのですね。
彼女たちはそれらの体験を通じて、意志や想いを自ら強くし、己自身が強くなっていきます。
夏美も過去に辛い経験をしていますが、それは自分を縛るようなものになっていないのが、他の作品の女性主人公とは違うところですね。
夏美の場合はつらい体験なども吹き飛ばすようなハートがあるというか、そういうこともおいて、もっともっと前に進んでいってしまうパワーのようなものがあります。
その前進力のようなものが、夏美のキャラクターを魅力的なものにしています。
こちらの続編「ガール・ミーツ・ガール」では、もう一人の女性キャラクターが出てくるらしい。
「ジウ」「武士道シックスティーン」のような対称的な女性キャラクターとして描かれるのかな。
このあたりは誉田哲也さんの最も得意とするところなので、期待したいと思います。

「疾風ガール」誉田哲也著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-74570-7

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2012年1月 7日 (土)

「マーガレットと素敵な何か」 大切な宝箱を開ける鍵

マーガレットはバリバリのキャリアウーマン。
彼女が40歳の誕生日を迎えた時、彼女の元に手作り感溢れるキラキラした手紙が届いたのです。
それはマーガレットが7歳の誕生日に、未来の自分に向けて送った手紙でした。
幼い彼女と約束をした公証人が、約束通りにそれを送ってきたのです。
子供の頃、想い描いていたとおりの大人になっているという人は少ないのではないでしょうか。
やはり社会と向かい合い、また自分の能力と向かい合い、現実的な選択をしていってしまうものです。
そうしないと多くは生きていけません。
けれどマーガレット(幼い頃はマルグリットと呼ばれていた)の場合は、両親の離婚、それに伴う経済的に苦しい生活をおくる中で、早く大人にならなくてはいけないと思ったのでした。
それから彼女はただひたすらに上へ上へと歩んできたのでしょう。
けれど、それはマーガレットらしい生き方であったのか。
大人になって生きていると、自分の生き方というのは、折々の現実的な選択の中で歩んできた結果であり、そこに大きく疑問を持つことはないような気がします。
自分らしいか、そうでないかというのもなかなかわからない。
現実的な選択をしてきた自分こそが、自分らしいと思うことがほとんどだと思います。
マーガレットは、大きな商談を迎える前に、グレタ・ガルボやエリザベス・テイラー、キュリー夫人など女性ながらも強い生き方をした人を思い浮かべ、そのように振る舞おうとします。
それはおそらく仕事をしている時の彼女というのは、やはり自分も忘れてしまっている本来の彼女自身を閉じ込めながら暮らしているのでしょう。
仕事をしているときというより、都会で暮らし、大人になろうとしたときから彼女は本来の自分自身を封印してきたのかもしれません。
こどもの頃のマルグリットが宝箱にしまったように。
大人になろうとしたマルグリットは何か予感があったのかもしれません。
大人になるということは、今までの子供であった自分を捨てていくことだと。
その捨てていく中には、本来の自分というものも混じっているかもしれない。
けれどそれも彼女にとっては大事なものであるという気持ちがあったのかもしれません。
だからこそそれを将来の自分に忘れてほしくない、思い出してほしいという気持ちで手紙を出したのでしょう。
幼いマルグリットが埋めた宝箱にはそういう気持ちが込められています。
その宝箱を開ける鍵が、幼い彼女から現在のマーガレットに手紙という形で届いたのです。
この映画を観ていると、自分が子供の頃好きだったこと、なりたかったことというのを思い出します。
普段はそんなことを考えることもないのですが。
僕は子供の頃から絵を書くのが好きで、なんとなくそういうことができる人(漫画家とかね)になりたいなと思っていました。
さすがに漫画家などにはなれなかった(というよりそんな努力もしなかった)ですが、デザインに関わる仕事をしているので、なんとなくは子供のころの夢みたいなものにざっくり近いところにはいるかなとは思います。
けれど久しく自分の手で絵など描いたこともないわけで。
本作を観ていて、自分は絵を描くのが好きだったよなぁと、思い出したわけです。
なんとなく久しぶりに絵でも描いてみようかなという気分になりました。
この作品を観ると、そういう風に小さい頃に好きだったことをもう一度やってみようという気分になる人は多いのではないかなと思いました。

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2012年1月 3日 (火)

「ストロベリーナイト」 原作に忠実にいい仕上がり

一昨年の秋(!)にスペシャルドラマとしてオンエアされ録画していたけれども、HDの肥やしのまま観ていなかった本作をようやく観賞。
原作は好きな作家の一人誉田哲也さんですが、もちろん小説は読んでいます。
慌てて観たのは、今月より本作「ストロベリーナイト」がレギュラードラマ化されると知ったため。
まずはこれを観ておかないといけないだろうというわけです。
じゃ、今までどうして放っておいていたかというと・・・。
原作を読んだり、本作観たりした方はわかるとは思いますが、この作品で描かれる事件はけっこう陰惨なわけです。
ま、文字ならばそういうのもなんとかなるのですが、やはり映像だとね・・・(ホラーとか、スプラッターとか苦手なもので)。
チキンハートなもので、そういう作品を観るのにはそれなりに覚悟がいるわけで、それで放っておいたわけなんです。

で、観賞した後の感想ですけれども。
うん、よくできています。
ほぼ原作に忠実な展開ですね。
ですので陰惨な事件も、主人公の過去もそのままなのですが、やはり放送コードがあるからか、個人的には許容範囲内な表現なのでOKでした。
それでも原作の持つハードさなりクールさのようなものは保たれていましたね。
元々こういうミステリアスな事件もので、クールな女性刑事ものというは好きなのです。
古くは「沙粧妙子-最後の事件-」とか、最近だと「アンフェア」とか。
主人公姫川玲子を演じるのは竹内結子さん。
原作者の誉田哲也さんは、小説を書く時に登場人物に俳優をあてて書くのだとか(何かのあとがき書いてありました)。
確か姫川は松嶋菜々子さんをイメージしてたとか書いていたような気が・・・。
でも竹内結子さんもいい感じでしたね。
あと姫川につきまとう井川は生瀬勝久さんが演じていましたが、これは誉田さんのキャスティングイメージそのままだったと思います。
僕も小説を読んでいたときはなんとなく生瀬さんをイメージしてました。
あと部下の菊田は原作ではもっと体育会系なイメージでしたが、本作では西島秀俊さんが演じていて、スマートな感じになっていますね。

原作小説はミステリー小説としても読めますが、警察小説としても読めます。
ドラマも警察ドラマの側面をしっかりと描いていたかと思います。
最近の警察ものだと、よくあるパターンでは警察内部に悪がいるというものなのですけれど(「アンフェア」とか)、ただそれもやや食傷感もあります。
本作は警察の二つの側面を描いているなと。
そのひとつは警察という組織に属する人はやはり正義を守るという使命感がある人びとであるということ。
その象徴が姫川が警察を志すきっかけとなった佐田刑事です。
彼女は警察のそういうまっすぐに正義な部分を表しています。
姫川が高校生の時の裁判で、傍聴席にいた警官が敬礼をしたシーンはけっこうジーンときました。
もうひとつの警察の側面は、階級社会であり、その中で勝ち登っていくにはそれ相応の実力を見せていかなければいけない弱肉強食の世界であるということです。
そういう警察の二面性のようなものに初めてドラマでしっかりと描いたのは「踊る大捜査線」だと思いますが、さきほどあげた最初の側面は青島刑事がにない、もうひとつの側面は室井警視がになっていたわけです。
「ストロベリーナイト」は警察の二つの側面を姫川という女性刑事の中に両立させているところが新しいのかもしれません。
レギュラードラマについては全然情報を入れておらず、原作の「姫川」シリーズをたどっていくのか、それともテレビドラマオリジナルの展開を見せていくのかわかりませんが、期待していたいと思います。

こうやってあわててスペシャルドラマを見たわけですが、この記事を書くためにネットで調べものをしていたら、今週末に再びスペシャルドラマをオンエアすることを知りました・・・。
それも新撮を加えて・・・。
あわてて観ることなかったじゃん。

原作小説「ストロベリーナイト」の記事はこちら→

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2012年1月 2日 (月)

「永遠の僕たち」 消化しきれていない死

2012年、最初の作品はこちら、「永遠の僕たち」です。
他のブロガーさんの昨年の総括を読んでいるとこちらの作品をあげていた方も何人かいらっしゃったので。
実はガス・ヴァン・サント作品を観るのは初めてだったりする〜(映画ファンか、それでも)。
邦題を観ると、難病恋愛もののように感じられるのですが(そういう要素もありますが)、この作品の本質というかテーマはずばり「死」ですね。
作品のテーマとしてはやはり原題の「Restless」が当を得ていると思います。
「Restless」の意味は「落ち着かない」「そわそわする」です。
では何に対して「落ち着かない」のかというとそれは「死」なのです。
「死」を題材にした映画や小説その他の創作活動というのは、数えたらキリがありません。
突き詰めていけばすべて「死」(と「生」)に繋がるのではないかというくらい。
それは人間が人間であるがゆえに考えてしまうことなのかもしれません。
では、「死」についてどれだけ人を知っているのか。
「死亡」という現象については知っているでしょう。
それを心臓が停止した状態なのか、脳の活動が停止した状態かという論議はありますが、そういう状態は認識できるわけです。
でもそれこそ「人は死んだらどうなるの?」という子供に聞かれたら答えに窮する問題について確信をもって答えられる人はいないでしょう。
まさに「死んでみないとわからない」わけです。
わからないこそ「死」について考えると「落ち着かない」わけです。
子供の頃、ふと「自分は死んだらどうなるのだろうか?」と寝床で思ったことがあります(変な子だ)。
そのときとても怖くなったというか、よくわからなくてまさに「落ち着かない」気持ちになったことを覚えています。
結局そのときは考えてもどうしようもなくて寝てしまった(!)わけですが、それから大人になってからもふと自分は死んだらどうなるのかという考えがよぎるときはあります。
いつも、結局わからないわけで、なんとなく本能的にタブーに踏み込みそうな感じで、考えることをやめてしまうわけですね。
そのタブーに踏み込んでしまう感じが「落ち着かない」感じなのではないかと思ったりします。
主人公イーノックは、両親と自分が乗っていた自動車が事故に合い、両親は死亡し、それを知らぬまま彼自身も生死をさまよって生き残ったという経験があります。
自分が目覚めた時、両親はもういない。
彼が眠っている間に両親の死は起こったわけですから、彼にとっては目覚めた時に両親の死というものが突然現れたように感じるわけです。
また彼も「死」を体験し、そこから帰還したわけです(彼はそこにあるのは「無」だと言います)。
彼には両親の「死」、そして自分の「死」というものが他の誰よりものしかかっていて、彼を離さないのです。
彼は「死」というものと対面し続け、そしてそれを自分の中で消化しきれていないのだろうと思います。
おそらくその「消化しきれていない死」の象徴がヒロシという「幽霊」であると思います(ヒロシが特攻隊員であり、「死」というものと生きている間に向き合った人間であるということがイーノックと対称的)。
普通生活をしていると「自分の死」を想像したとしても、すぐにその考えを払ってしまうと思います。
なにか落ち着かないから。
けれど彼はその体験によりずっと「死」を考え続けます。
だからずっと「落ち着かない」。
その気分から逃れられない。
「死」というものを理解しようとするために、彼は葬儀に紛れ込むということを何度も行ったのだろうと思います。
けれど死期が迫っているアナベルという少女と出会い、彼女と過ごし、そして彼女の死への道のりをいっしょに生きたことにより、イーノックは「死」というものを消化できる機会を与えられたのかもしれません。
アナベルと一緒にヒロシが去るということは、彼女との時間がイーノックの「消化しきれていない死」を消化させてくれたということなのでしょう。
「死」から逃れられる人はいない。
いつか必ず訪れる。
だから生きている間に「死」というものに囚われ過ぎると、逆に「生きている」ということが希薄になってしまうのかもしれません。
「死」に囚われ「生きている」とはいえないイーノックをアナベルは開放してあげたということにもなるのかもしれませんね。

と、こういう文章を正月から書いていると「落ち着かない」気分になってくるなぁ。
考えるの止めようっと。

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2012年1月 1日 (日)

「謎解きはディナーのあとで」 お寒い演出

年末年始で録画していたドラマ「謎解きはディナーのあとで」を観賞。
原作は東川篤哉さんの同名小説「謎解きはディナーのあとで」と「謎解きはディナーのあとで2」です。
小説は以前記事でも書きましたが、ミステリー的には少々もの足りない印象で、どちらかと言えばキャラで読ませる作品でした。
超お金持ち令嬢の刑事と、毒舌執事ですからね。
あまり現実的な客ター設定ではありません。
だからか、テレビドラマの演出もかなり大げさで、マンガ的なものとなっています。
キャラで見せる作品だと思うのでそのアプローチは間違っていないとは思いますが、その具体的な演出がどうも良くない。
フィクションしていてもいいんですけれど、白けてしまうというか、「さぶっ!」ていう感じなんですよね。
外しちゃっている感じと言いましょうか。
「のだめカンタービレ」のドラマなどはマンガ的な演出していても、全然白けることはなかったんですけれどね。
これは演出のセンスとしか言いようがない。
特にさぶかったのは、椎名桔平さん演じる風祭警部。
元々、KYなお寒いキャラという設定なのですが、それがあまりに出過ぎていて、観ていてイタイタしい。
最近「ワイルド7」とか「山本五十六」とかでシブい椎名桔平さんを観ていただけに、余計にそう感じちゃったんですよね。
櫻井翔さんの毒舌執事はいい雰囲気だっただけに、仕上がりが残念な感じでした。

原作小説「謎解きはディナーのあとで」の記事はこちら→

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