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2011年12月30日 (金)

2011年を振り返って<映画>

今年はほんとに色々ありました。
まずは3月の震災がやはり大きかったです。
日本人のものの考え方にも大きな影響を与えたと思います。
当然のことながら、自分の映画を観る時の見方にも影響はあったと思います。
震災以外でも、映画を観ている場合じゃないというようなことがいくつもありまして、今年は折り返しの時点で観賞本数が40本程度という状況でした。
後半は巻きを入れて劇場に行くようにしましたので、結果的には劇場観賞本数は107本で、去年の109本とほぼ同数となりました。
さて、2011年のベスト10を発表してみましょう。

1.「ツリー・オブ・ライフ」
2.「ブラック・スワン」
3.「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」
4.「聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実―」
5.「アリス・クリードの失踪」
6.「ミッション:8ミニッツ」
7.「世界侵略:ロサンゼルス決戦」
8.「SOMEWHERE」
9.「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」
10.「恋とニュースのつくり方」

毎年どちらかというとけっこうジャンルが偏りがちなのですが、今年は上げてみると見事なほどにジャンルも規模もバラバラしています。
特徴としてはわかりやすくてストレートなハリウッド系の作品が入っていないことでしょうか。
あと邦画が1作品しか入っていないですね。
去年は「告白」「悪人」と印象深い作品がありましたが、今年は邦画はこれは!と思えるものがなかったような気がします。

1位は「ツリー・オブ・ライフ」です。
これをピックアップする方、少ないでしょうね。
公開時も「わけわからない」という意見の方も多かったですから。
僕自身は記事のときも書いたのですが、この作品は理解するというよりは感じる作品であり、なんだか知らないけれど、人、生命、宇宙といったものが伝わってくるという感じを受けました。
僕は映画を観ている時、けっこう分析しながら観ているクセがあるのですが、こちらの作品はそういう感じではなく、映像を見、音楽を聞いていて、わけもわからず涙がこぼれるという経験をしたんですよね。
それがあまりないことだったので1位にしました。
たぶん震災後という今年は生命とはなんなのかというのを、いつも考えているのかもしれません。

2位は「ブラック・スワン」。
この作品は他でも上げている方は多いかと思います。
こちらは1位にしようかどうか迷ったぐらいで、出来はすばらしく良かったと思います。
主人公が自分で自分を追い込んでいき、そして次第に変容していく心理描写が鬼気迫るような感じがありました。
その描写は生々しくもあり、幻想的でもありました。
主演のナタリー・ポートマンもまさに体当たりの演技と言っていいほどすばらしかったですね。

3位は「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」です。
これは今年のベスト10の中では唯一ストレートなハリウッド系のエンターテイメントです。
やはりこれはエモーション・キャプチャーという手法を手にしたスピルバーグがイキイキと自分の想像力を映像にしているのが、やはり観ていて楽しかったわけです。
スピルバーグファンとしては、久しぶりにこういうタイプの映画を撮ってくれて嬉しくもありました。
思えば今年は「SUPER 8」や「宇宙人ポール」等スピルバーグLOVEな映画もありましたよね。
そういう意味でスピルバーグイヤーであったのかもしれません。

4位は「聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実―」。
今年のベスト10の中で唯一の邦画です。
やはりこれは太平洋戦争の映画でありながらも、震災後の現代の日本を観ているような気持ちになり、その中で今の日本が持っている課題というものを映し出してくれたというのが大きいです。
国のリーダーだけでなく、自分たちも将来・未来のことを流されずに自分で考えることが必要であるということを改めて確認させてくれました。
今年作る意味があった映画であったと思います。

5位は「アリス・クリードの失踪」です。
これはもうミステリーとして完成度が高いです。
脚本がもう完璧です。
細かく語るとネタバレになるので、ぜひ観てください。
監督のJ・ブレイクソンはデビュー作であるということですので、なおさら驚きます。
ダニー・ボイル、クリストファー・ノーランなど活躍しているイギリス人監督に続いてほしいですね。

6位は「ミッション:8ミニッツ」。
こちらもイギリス人の監督ダンカン・ジョーンズの作品。
最近イギリスの若手いいですよね。
「月に囚われた男」も良かったですけれど、この作品もいい。
SFの設定を使いながら、人間というものを深く掘り下げていくというのは2作品に共通しています。
ラストがハッピーエンドで後味がよいのもよろしい。

7位は「世界侵略:ロサンゼルス決戦」です。
震災により公開が延期された作品です。
去年から今年にかけては異星人侵略の映画が多くありましたが、その中でも抜きん出ていいです。
あえてミニマムな視点で異星人侵略を描き、あまたあるこのジャンルの中でもリアリティを高めた作品に仕上がってます。
あとやはり個人的には、現場でこのように命をかける海兵隊の姿が、震災時にやはり命をかけた現場の人の姿にかぶったというのがありますね。

8位は「SOMEWHERE」。
これも上げる方は少ないかもしれないです。
驚くほどに何も起こらない映画なのですが、けれどその空気感が愛おしかったんですよね。
こちらも考えるよりは感じる映画かもしれません。
それとなんといってもエル・ファニング!
「SUPER 8」のエル・ファニングも良かったですが、僕はこちらのほうのエル・ファニングが好き。

9位は「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」です。
シリーズものをランクインさせることはあまりないのですけれども、やはり10年にも渡る大シリーズの大団円にふさわしかったと思います。
えてして長いシリーズものは後になればなるほど魅力が薄れるものですが、本作はイエーツ監督になってからはどんどん上り調子になったかと思います(話がどんどん暗くなるというのもありますが)。
一時期乱立したファンタジー映画ですが、そのほとんどがシリーズ化を標榜しながらも落伍していく中、本家本元が最後まで走りきったのは評価に値すると思います。

10位は「恋とニュースのつくり方」。
これは誰もあげないんじゃないかなぁ。
でも僕はこの作品、好きなんですよ。
観ていて元気が出るというか、前向き感があっていいなと。
観たのは震災前というのはあるんですが、今観ても元気がもらえそうな気がします。

こうやって振り返ってみるとやはり震災の影響が自分の中にもあります。

さてこちらも恒例のワースト5です。
順位はつけてません。

・「グリーン・ホーネット」
・「僕が結婚を決めたワケ」
・「スカイライン -征服」
・「小川の辺」
・「グリーン・ランタン」

一見あまり共通性がないという感じがありますが、それぞれのジャンルの中であまり新しさを出せていないというか、工夫がなさ過ぎるところが共通点です。
「グリーン・ホーネット」「グリーン・ランタン」は最近大きな流れとしてあるコミックの映画化なのですが、一連のマーベルの作品がヒーローものでもそれぞれに人を掘り下げる工夫をしているのですが、上げた作品はそれがあまりありません。
「スカイライン -征服-」と「世界侵略:ロサンゼルス決戦」も同じような題材を扱っていますが、出来は天と地ほどの差があります。
「スカイライン -征服-」は人を描けず映像のみに注力してしまったのが敗因でしょう。
「小川の辺」はこれも量産されている藤沢作品群の二匹目(何匹目)の泥鰌に見えました。
あたったジャンルの中に参入したい気持ちはわかりますが、やはり工夫がなければダメということでしょう。

来年はどんないい作品に出会えますかねー。
とりあえず期待したいのは「ダークナイト」の続編です!

2010年を振りかえっての記事はこちら→

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「映画 怪物くん」 われがまま

例によってテレビドラマは未見です。
とは言いながら、世代的には藤子不二雄先生の作品にはどっぷり浸かって、自分の血と肉になっているので、まぁ未見でも大丈夫だろうと。
僕はどちらかと言えば我孫子先生より藤本先生の作品の方が好きだったんですけれど、もちろん「怪物くん」もマンガも読んでましたし、アニメも観てました。
劇場へ行ってみると、親子連れが多い(あと女性客、これは大野くん目当てかな)。
ドラマは子供にウケていたというのは聞いていたので、やはり子供向けなのかな。
実写化というと原作のキャラクターのイメージをどう実際に役者が演じるかというのが課題になりますが、まずはお供の三人組は思いのほか、いい感じ。
特にフランケンのチェ・ホンマンはビジュアル的にもぴったり。
フンガー、フンガー言っているだけでしたが(笑)。
ま、マンガもそうですのでね。
大野くんの怪物くんは初めは違和感あったんですけれど、観ているうちに慣れてきました。
いい大人が演じているのですけれど、観ているうちに次第にワガママな子供に見えてくるのは不思議です。
お話としては、やはり子供向けというところもあるからか、それほど複雑なところはありません。
子供向けとしてストーリー展開に過度な期待をせずに観るべきでしょう。
本作のテーマは「ワガママ」。
「ワガママ」というと悪いイメージが強いですが、感じで書くと「我が侭」でわれがままということなんですよね。
そもそもは自分らしくあるということ。
ただそのために人の迷惑も気にしないで我を通すから、それは悪いイメージになってくるのです。
本作で怪物くんが(受け売りですが)言っていますけれども、ワガママを通すからには、自分の信念を持つ、それに責任を持つということが必要です。
そういうメッセージは観ている子供たちに伝わったかな?

本作を観賞しようと思ったのは、メガホンを取っているのが、好きな中村義洋監督だからです。
けっこう中村監督がこの題材を撮るというのは意外だったんですよね。
本作は中村監督らしさが出ていたかというと、・・・。
あんまりそんな感じはしなかったですね。
そこがちょっと残念なところでした。

あ、あと3D版で観たんですけれど、あんまり効果なし。
流行っているからなんでも3D化すると、お客が離れていってしまいます。
この点、映画会社はしっかりとわかっておいてほしいです。

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2011年12月29日 (木)

「50/50 フィフティ・フィフティ」 ポジティブとネガティブと拮抗

いわゆる難病ものというのは、あまり好きじゃなかったりします。
(特に邦画の)難病ものは、お涙頂戴フォーマットに則って型にはまっていることが多くて、観ているとそれにげんなりしちゃうんですよね(と言いつつ泣かされてしまったりもするので悔しかったりもする)。
フォーマット化されているのですが、実際のところ現実はこんなんじゃないだろうとも思うわけです。
本作の主人公アダムは27歳と若いのにも関わらず、突然ガンを宣告され、余命がないということがわかります。
生きる可能性は半々、つまりフィフティ・フィフティということなのです。
ここでよくある難病映画フォーマットだったら、主人公は泣き叫んでしまったり、また人生を振り返るように自分の過去をたどっていったりするものですが、アダムは違います。
淡々と普段通りの生活をするのです。
セラピストに「気分はどう?」と聞かれても、「普通です」と答えます。
全然お涙頂戴フォーマットではないのですけれど、アダムの反応はリアルだなと思いました。
突然、自分の余命が幾ばくもないと告げられても、自分もそれがリアリティがあることなのか、急には腹に入らないかなと。
まだ普通に生活できる状態であるならなおさら。
僕もそうなるかもしれない。
普通に家に帰って、ご飯食べて、風呂入って、寝る。
けどだんだんとじわじわとそれがリアリティを増してきて、どんよりしていくような感じがします。
まさにアダムのように。
でもまだしばらくは死というものにリアリティを感じられず、前向きになるわけでもなく、後に向きになるわけでもない状態が続くように思います。
「大丈夫、治るさ」というポジティブな気持ちと、「もう死ぬんだ・・・」というネガティブな気持ちがまさにフィフティ・フィフティの状態で、その力同士が拮抗して結果的に、気分的には「普通」な状態になるというような。
このあたりの真逆の心の力が均衡して「普通」の状態になっているというのがリアルな感じがしました。
手術前日に車の中でアダムが叫んでしまうというのも、気持ちがよくわかりました。
それまではポジティブ/ネガティブがバランスをとれていたのに、前日ということもあり「死」というものがいよいよリアル感をもってアダムは感じたのでしょう。
だからネガティブの感情が強くなり、それまでのフィフティ・フィフティの感覚がバランスを崩したということなんでしょうね。
人ってほんと悪いこと、イヤなことでも直前までリアリティというものを感じなくて、「明日」とか「前日」になると怖くなるというところありますよね。
僕もそれまでは全然平気なのに、「明日」試験とか、プレゼン「前日」とかになると、暗い気分になってお腹痛くなったりしますもの。
なんかそういう気持ちの描き方がリアルだなぁと思いました。
リアルな感じがするのもそのはずで、本作の脚本ウィル・レイサー自身がガンの告知を受け、それから無事生還した経験を持っているのです。
本作にアダムの親友役で出ているセス・ローゲンはレイサーと友人ということで、彼はまさにレイサーの経験をすぐ近くで見ていたということです。
だからこそ、本作は気持ちのリアルさを感じるのかもしれません。
アダムを演じたジョゼフ・ゴードン=レヴィットがよかったですね。
「(500日)のサマー」あたりから注目している俳優さんですが、この人の持つ普通っぽさというのがいいですね。
この役はジェームズ・マカヴォイがやる予定だったようですが、降板になったので、急遽ジョゼフが演じることになったとか。
これは交替が吉とでた感じがしました。

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本 「震災後 -こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか-」

「亡国のイージス」等の作品で知られる福井晴敏さんの小説です。
タイトルからわかるように東日本大震災を真正面から取り上げた作品となっています。
小説の体裁ですが、震災後の日本人への福井さんからのメッセージとなっていると思います。
あまり知られていないかもしれないですが、福井さんは3・11前に大震災を扱った小説「平成関東大震災 いつか来るとは知っていたが、今日来るとは思わなかった」を発表しています。
この作品では、大地震に襲われた東京で帰宅困難者が大量に発生すること、また情報が錯綜しどのように行動すればよいかわからなくなること、などが一般市民の目線から描かれています。
僕はこの小説は震災前に読んでいたのですが、震災時にはこの作品で描かれていることがほぼ予言めいたように起こっているので、たいへん驚いたものでした。
副題にあるように僕自身も「いつか来るとは知っていたが、今日来るとは思わなかった」だったのです。
おそらく福井さん自身も驚いたのではないでしょうか。
そしてその後の日本の混乱に対して何かしらメッセージを出したいと考えたのかもしれません。
それが本作なのだと思います。
「平成関東大震災」で描かれておらず、現実の東日本大震災で起こったこと、それは原発の問題です。
現在進行中の課題でもあり、原発を再稼働するべきか否かについてはまだ論議が分かれていると思います。
「あんな危険なものはもういらない。」
「なくした場合は代替エネルギーはどうするのか。」
「太陽エネルギーなり、風力エネルギーがあるのでは。」
「安定供給が見込めないし、コストがかかる」
などなど。
しかし、福井さんが危惧しているのは、原発問題からくる「進歩」への忌避の考えです。
スローライフではないですが、昔のような生活に戻ればいいではないかという意見があります。
しかし現実的にそういうことが可能なのか。
そういう考えが出てくるのは科学万能という考え、安全神話という考えに対するアンチテーゼであることであると思います。
確かに科学を無制限に信じ過ぎることは危険です。
しかし、科学やその進歩というものまでを否定するというのはいきすぎではないかと福井さんは言っているように思います。
もともと科学の進歩というのは、人間を理不尽に襲う死というものから、その悲しみから救いたいという人間の意志から起こったものではないかと福井さんは考えます。
病気や、災害、人の命を容赦なく奪う出来事があります。
それをなんとか人のコントロール化に納め、理不尽な悲しみから救うというのが科学の出発点ではないかということです。
いつしかその科学の力をコントロールできなくなってしまっているのですけれども、それならばそれを反省し、また進んでいけばいいということなのです。
科学そのものを否定し、拒否した時、それでは病気や災害に対し人はまた無防備になってしまうわけなんですよね。
この時期大切なのは、人は未来を描き進歩をしながら、少しでも理不尽な悲しみを少なくするということを止めないということなのでしょう。
今、若い人が「闇」に囚われていると福井さんは書きます。
それはもう彼らにこの国の、自分の未来が描けないからということです。
震災だけではなく、財政の問題など、前の世代から負の遺産ばかりを受け取ってしまう。
だから未来を考えられない。
けれどやはり未来を考えなくてはいけないのです。
今、この時代たいへん厳しい時代であるのは確かです。
でもそういうたいへん厳しい時期は今だけかというとそうではありません。
太平洋戦争直後の東京も、戦国時代の京都も、溶岩に流されたポンペイも、世界が終わったかのような状態であったのだと思います。
それでも人はなにか未来を描き、時間はかかりながらも、前よりも豊かで平和な世界を築いてきたのです。
だからこそ。
あきらめずに未来をみる。
考える。
そういうことが大事なのではないかと、福井さんは言っています。
だから「こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか」なのです。

「震災後 -こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか-」福井晴敏著 小学館 ハードカバー ISBN978-4-09-379824-2

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2011年12月25日 (日)

「聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実―」 今現在、作られ、観られる意味

太平洋戦争が始まったのは1941年、ちょうど現在から70年前のことです。
本作はその節目の年に向けて作られたわけですが、本作を観てみて、今、現在の日本で作られ公開されたことに意味があるように思いました。
太平洋戦争前と現代の日本には共通点があります。
劇中でも触れられますが、戦前の日本は世界恐慌の影響を受けて経済は低迷、国民には閉塞感が漂い、政治も国の舵取りを仕切れずに軍部が台頭を始めていました。
現在の日本。
リーマンショック、そして進行中の欧州経済危機などグローバル経済の影響を受け、経済はいっこうに良くなる気配はありません。
また政治も自民党から民主党になったにも関わらず、相変わらずの迷走状態。
人びとにはやはり閉塞感があります。
戦前はその国の、そして国民の閉塞感を打破するために日本は満州へ進出、そして中国との戦争、さらには太平洋戦争へ突き進んでしまうのです。
これはよく言われるような軍部だけの暴走というわけではありません。
本作もここはしっかり描いていますが、政治家も、そして国民も報道も戦争を望んでいたのです。
国全体がそれを求める空気感があったわけです。
そして戦争を始めてしまった日本は、大戦力を誇るアメリカに圧倒され、多くの国民が死に、またたくさんの地域が焦土と化してしまったのです。
さすがに今の日本が閉塞感を打破するために戦争を始めるとは思いません。
しかし、本作のラストに焼け野原となった東京が映し出されますが、それと似た風景を僕は今年何度となく観たと思いました。
それは震災で破壊された街です。
不況からくる閉塞感、さらに追い打ちをかけるように破壊された街が、人びとの気持ちを萎えさせる。
そんな状態から、進むべき正しい方向性を示してくれるリーダーがいないというのも戦前と現在が共通しているところのような気がします。
本作は、太平洋戦争時の聯合艦隊司令長官であった山本五十六の生き方を、戦争前夜から彼の死まで描いています。
山本は海軍省にいたときは陸軍や国民・マスコミなどの世論が戦争へぐっと向かおうとする中で、開戦に反対してきました。
アメリカとの戦争になった場合、日本に勝つ見込みは全くないと考えたからです。
しかし海軍省の中にも開戦派が力を持つ中で、山本らの力だけではその流れを止めることはできなかったのです。
山本は戦争開始時には聯合艦隊の司令長官となっていました。
彼は軍人として命令に従わなければなりません。
しかし、それが勝つ見込みがある戦いだとは思えないわけです。
彼はその中で、アメリカに対して一撃を加えそのタイミングで講和を行うというストーリーを描きます。
その一撃こそが真珠湾攻撃であったわけですが、その際アメリカの戦艦には多くのダメージを与えられましたが、空母などの機動部隊を行動不能にすることはできませんでした。
時代は大鑑巨砲戦から航空機動戦に移っていたのです。
そのため日本は本土へアメリカからの空爆を受けることとなるのです。
アメリカの機動部隊をたたくため、ミッドウェー海戦を山本たちは行いますが、しかし艦隊指揮官へ意志が徹底されておらず、相手の機動部隊をたたくばかりか日本は貴重な空母を何隻も失い、大敗北をきしてしまうのです。
その後聯合艦隊は南方に転進、そこでガダルカナルなどの拠点を防衛しようとしますが、やはりアメリカの大兵力に押され敗北を続けてしまいます。
このように負けに負け続けている中で、山本五十六は部下に対して怒りをぶつけるのでもなく、またその闘志をなくすわけでもありません。
観ていて思ったのは、山本が「ぶれない」ということでした。
状況は日に日に悪くなっていきます。
その中で打ち手もなかなかうまくいかない。
普通だったらば気力を失ったり、投げやりになったりしそうなものです。
それでも山本はなにか手を考え、状況を変えようとします。
それが何故できるかと言えば、山本五十六の中にぶれないビジョンがあったからだと思います。
それは先ほども書いた「敵に一撃を与えたタイミングで講和」というものです。
彼が行ってきた作戦はすべてそれにつながっています。
このビジョンは彼の現実的な分析により導きだされた解です。
アメリカに勝つなどとどんな奇跡があろうとありえないという冷静な分析。
山本が「その根拠は?」と問う場面が多く観られました。
彼がこう会って欲しいという空想ではなく、冷徹な現実性というものを重視していたことがわかります。
状況がどう変わろうと、冷静な分析から導きだされた大方針は変えない。
だからこそ彼の行動には迷いがないのです。
しかし山本五十六は南方視察中にアメリカ軍機に搭乗機が撃ち落とされ、戦死してしまいます。
その後の日本が、根拠のない空想と精神主義により、破滅の道を歩んでしまったのは皆さんもご存知の通りです。
ひるがえって現在の日本です。
経済には相変わらず光明は見いだせません。
そしてさらにまだ日本は震災のダメージから回復をしておらず、さらには原発という問題も抱えてしまっています。
政治家は国民に対して進むべき正しい道を示しきれていません。
指導者ばかり問題があるわけではありません。
マスコミもただ空気を煽るだけです。
劇中で山本が若い記者に言った「自分の目で見、耳で聞き、心で感じたことを伝える」ということを今のマスコミもできていないと思います。
戦前戦中と日本の戦争への気分を煽った大新聞と、ただ危機感を煽るだけの現在のマスコミも何か同じように思えるわけです。
そして戦前の国民が戦争への雰囲気に流されてしまったように、一般市民も自分で考えるわけでもなくただ何か雰囲気に流されているような感じがするのです。
冒頭に何か70年前と現在は似ていると書いたのはこういう点なのですよね。
何かわからない空気に国全体が流されている。
その空気が悪い方向に向いたら、一気になだれ込んでしまうのではないかという怖さのようなもの。
そういう空気の中で、やはり山本のように冷静な分析とそれから導きだされたぶれないビジョンを持つことが必要なのではないかと思います。
だからこそ、本作が今現在の日本で作られ、公開されたことは意味があるのではないかと感じたのです。

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2011年12月24日 (土)

「ワイルド7」 逸脱する超法規的力

望月三起也さんのマンガ「ワイルド7」の実写化作品です。
世代的には自分よりもちょっと前なので原作マンガは読んだことはなく、それを映像化したテレビドラマが微かに記憶にあるくらい。
なのでオリジナルと比べて云々という感じではなく、フラットに観てきました。
ワイルド7とは超法規的な武装集団で裁判にかけることなく悪人たちを抹殺する組織です。
その構成メンバーはすべて元凶悪犯の男たち。
言わば毒には毒を、悪には悪をということです。
ワイルド7のワイルドは法に縛られぬ野生という意味でのワイルドと、切り札=ワイルドカードの意味合いを持っているのかもしれません。
法では裁けない、また正統な手続きでは追いつけない悪に対して、何かしら鉄槌を下したいという気持ちはあるもので、だからこそ本作や「仕事人」のようにルールに縛られずに悪を倒すという物語は生み出されていくのでしょう。
ただ「ワイルド7」が「仕事人」とは違うのは、その活動が指令に基づくものであるということです。
「仕事人」は悪に泣く市井の人びとの恨みのこもった依頼によって、悪を裁く。
しかし「ワイルド7」は、超法規的組織とはいえ、やはり国家の指令によって動くわけです。
そこに危うさがあるわけです。
悪を悪と指定するのは国家であるわけです。
それならば、そもそも運用する者たちが、悪であったならばどうなるのかと。
本作では公安調査庁の情報機関であるPSUという組織が出てきます。
その組織はありとあらゆる情報を持っており、その組織のトップはすべての個人情報にすらアクセスする権限を持っています。
その権限自体はインテリジェンスな力で、ワイルド7のバイオレンスな力とは真逆ではありますが、これも超法規的なものと言えます。
本作ではPSUのトップである桐生がその超法規的な権限を使い悪事を行うわけです。
超法規的な力、インテリジェンスかバイオレンスかという違いはあるにせよ、その二つは同じようなものです。
緊急時に正しく使われればそれを危機の回避に大きな力を発揮しますが、悪意を持って使われれば逆に大きな災いとなってしまう。
超法規的であるがゆえにその力は世間からは見えないわけで、それだからこそなおさらに危険なわけです。
悪事を行われている側(一般市民)が、その悪事に気づかないとういう状況になるわけですね。
逸脱する超法規的な力というものは怖いということです。

というようなことを考えましたが、アクション映画としてどうかというと・・・。
確かに7人揃ってバイクで出撃するシークエンスはカッコいいし、銃撃戦なども頑張っていたと思います。
しかし、肝心の物語がいまいちだったかな。
やはり倒すべき悪=桐生がちょっとしょぼすぎる。
予告を観ていると警察内部の巨悪という感じでしたが(ま、これもありがちと言えばありがちなんですが)、実際桐生がやっていたことは事件の連絡を遅らせてその間に株の投資を行い儲けるという(言わばインサイダー取引のようなもの)・・・。
これはこれで悪いことなんですけれど、銃乱射して乗り込むほどのものかと。
ま、桐生の性格などが嫌らしい感じなので、観ているときはやっつけちゃえという気持ちにはなるんですけれどね。
また飛葉とユキ、セカイとその娘のドラマもあったのですけれど、それほど深入りする感じもなくて中途半端な感じがしました。
メンバーが一人また一人と倒れていくところももう少し盛り上げがあるかなと思ったらそれほどでもなく、けっこうあっさり。
予告を観ているとみんな死んじゃうのかなと思ったのですが、倒れるけど死んじゃうわけではないんですよね。
最後を観ると(唯一死んだセカイに代わりユキが加わる)、死なないのは次回作を作りたいから、という理由がわかっちゃうのもややさびしい。
次のこと考えないで、まずはこの作品をしっかりと盛り上げて欲しいと思いました。

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2011年12月23日 (金)

本 「三国志 -演義から正史、そして史実へ-」

「三国志」という作品は日本人は好きですよね。
かくいう自分もそうでして。
僕が「三国志」というものに触れたのは、NHKで放映された「人形劇 三国志」が初めてでした。
これはご存知の方も多いでしょうが、川本喜八郎さん作の人形たちが「三国志」の物語を演じるものでしたが、これがもう面白くて、それですっかり「三国志」という物語に魅了されました。
それから「三国志演義」を日本語訳版を読み、吉川英治の「三国志」を読みました。
その間にコーエーの「三國志」のテレビゲームもやったりしましたし。
そうそう、最後に蜀が勝ってしまうという「反三国志」という小説も読みましたね。
最近ではジョン・ウー監督の「レッド・クリフ」という映画も良かったですよね。
といように、「三国志」にはやはり惹かれてしまうのです。
で今回読んでみたのが「三国志 -演義から正史、そして史実へ-」という新書です。
世間で読まれている「三国志」というのは、基本的には「三国志演義」というものです。
これは歴史を元にした小説というようなもので、当然のことながら史実とは違いフィクションの要素が多く含まれています。
日本でも織田信長の小説と言っても史実とは違ういろいろな解釈をした作品が多くあるということを想像すればわかりやすいかと思います。
そして「正史」といわれるものが、西晋の陳寿が書いた「三国志」になります。
「正史」というのは歴史書なのですが、基本的にはその国家がその正統性を裏付けるために作っているものなので、その国にとっていいことしか書いていないことが多いので、歴史書だといってもそれがすべて事実であるかというと疑わしいわけです。
西晋は三国鼎立の中から勝ち残った曹操が打ち立てた魏から禅譲をうけたわけですので、魏の正統性を基本におきます。
ただ本著によれば著者の陳寿の先祖は蜀の出らしく、そこはかとなく蜀への同情のようなものも入っていると言います。
本著はかなりフィクションの多い「演義」、偏向性のある「正史」とひも解きながら、その他の書物などから実際にあったであろう史実を解き明かしていこうという主旨の本です。
例えば、映画「レッド・クリフ」で描かれる「赤壁の戦い」、これは諸葛孔明と周瑜という二大軍師に「演義」などの小説ではスポットが当たりますが、二人の引き立て役っぽい魯粛がもっと重要な役割を担っていたとか。
魯粛も孔明とは別に天下三分の計を考えていたかもしれないと解かれています。
小説というのは物語をわかりやすくするために、事実と違うことを書くのは当然なのですが、なるほどいろいろ調べると実際の出来事はこうだったのかと発見があるものなのですね。
「三国志」というのは様々な人物が登場し、それぞれがまた魅力的だったりするので、いろいろと本や映画なども読みたくなる奥深い世界です。
現代に生きる我々が「三国志演義」を読むとそこに書いてあることをなんとなく史実っぽく思えたり、そこのキャラクターイメージ通りに実際の人物を想像してしまいます。
今、現代にある歴史小説が1000年生き残って、その時にそれを読んだ人もそこに書かれていることを史実っぽく感じてしまうのかなとも思ったりすると、不思議な気もしますね。

「三国志 -演義から正史、そして史実へ-」渡邉義浩著 中央公論 新書 ISBN978-4-12-102099-4

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2011年12月18日 (日)

「ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル」 このシリーズの方向性とは

トム・クルーズ主演の「ミッション:インポッシブル」シリーズの最新作です。
監督は「Mr.インクレディブル」等のピクサーのアニメーション作品のブラッド・バードで、彼にとっては発の実写作品になります。
このシリーズは挑戦的に監督を抜擢することが多いのが特徴ですね。
1作目のブライアン・デ・パルマ、2作目のジョン・ウーは他にはない映像スタイルが確立している大御所を起用。
3作目は「LOST」で注目され始めたJ・J・エイブラムスに託し、今回は実写が初めてとなるブラッド・バードです。
シリーズものになるとそのスタイルが固定化されがちですが、それを避けようとするプロデューサー、トム・クルーズの考えなのかもしれません。

さて、スパイアクションものというと、比較する作品として「007」シリーズ、「ジェイソン・ボーン」シリーズがあげられます。
これらのシリーズと「ミッション:インポッシブル」シリーズはそれぞれに影響しあいながら、この10年発展してきていると思います。
「007」シリーズについては説明不要ですが、イギリスの諜報員ジェームズ・ボンドを主人公とするスパイ映画の金字塔です。
1962年にショーン・コネリー主演で「007 ドクター・ノオ」が登場して以来、しばらくはスパイ映画と言えば「007」でした。
いい意味でも悪い意味でも「007」シリーズはスタイルが確立し、ショーン・コネリーから演じる役者が変わってもそれは受け継がれてきたのです。
しかし、それは次第にマンネリ化ともなってしまったところがありました。
しばらく作品が作られない時期もあったのです(ティモシー・ダルトンからピアーズ・プロスナンの間は5年ほど空いています)。
スパイ映画=古典的な感じというイメージがでてきたのかもしれません(もちろん東西冷戦終結という、スパイが生き難い時代になったというのもありますが)。
スパイ映画の本家「007」がピアーズ・プロスナンで再起動するのとほぼ時を同じくして公開されたのが「ミッション:インポッシブル」の1作目です。
ピアーズ・プロスナンの「007」が基本的にはシリーズのスタイルを踏襲しているのに対し、「ミッション:インポッシブル」は鬼才ブライアン・デ・パルマの起用もあり、スタイリッシュな現代風のスパイ映画として登場したのです。
古くさいという感じがあったスパイ映画が息を吹き返したというところでしょう。
続く「M:i-2」でこれもまた独自のスタイルを持つジョン・ウーを起用し、固定されたスタイルをとらないシリーズであるということをこのシリーズは表明します。
しかし「新しい」スパイ映画の地位を「ミッション:インポッシブル」シリーズは保ち続けることはできませんでした。
2002年の「ジェイソン・ボーン」シリーズの登場です。
マット・デイモン主演の「ボーン・アイデンティティ」からスタートするこのシリーズは、ドラマ性の高さ、またとことんリアルにこだわったアクションにより、スパイ映画の新スタンダードを作ったのです。
「ボーン」シリーズの影響を受け、本家「007」シリーズがダニエル・クレイグ版になってからは、ドラマ性、リアル感にこだわって新しいジェームズ・ボンド像を作ろうとしているのはみなさんご存知の通りです。
新しいシリーズの登場、古典の再起動という間で、「ミッション:インポッシブル」シリーズはしばらく影の薄い存在となってしまいました。
「ボーン」シリーズの影響を受けた「007」シリーズのようにリアル感を求める方向に変化していくのかどうか。
しかしそれでは二大シリーズと差別化は図れません。
「ミッション:インポッシブル」シリーズはそれと違う方向性を志向したのだと思います。
その試みがみられるのはJ・J・エイブラムスの「M:I:3」です。
さりげなく「ミッション:インポッシブル」シリーズはここで方向転換を試みているのです。
「007」シリーズにせよ、「ボーン」シリーズにせよ、その物語の中心にいるのは主人公のスパイなわけです。
その主人公の超人的な活躍により物語は進んでいきます。
「ミッション:インポッシブル」も1作目、2作目はそうでした。
しかし3作目において、ミッションを成し遂げるのはイーサン・ハント個人の力ではなく、イーサン率いるチームになったのです。
むろん主人公であるイーサン・ハントの存在感はあるのですが、ミッションは彼の個人的な力だけではなく、個々の能力に秀でたプロフェッショナルたちのチームワークによって達成されるのです。
このチームでミッションで挑むという試みがなされたのが前作「M:I:3」で、本作もその流れを汲み、さらに発展させていると言っていいでしょう。
ここにおいて「007」シリーズ、「ボーン」シリーズとは異なるコンセプトに「ミッション:インポッシブル」シリーズはしようとする意図を明らかにしたと思います。
あと新「007」がリアル志向の中で置いてきてしまったものを、「ミッション:インポッシブル」は拾おうとしているような気がします。
旧来の「007」の要素として大きかったのはQの発明するスパイグッズであったでしょう。
荒唐無稽なものも多かったですが、それが「007」の個性の一つであったと思います。
しかし「007」はリアル志向の中でそういった秘密兵器的なものはリアルでないと判断したのか、大きくフューチャーすることはなくなりました。
しかし「ミッション:インポッシブル」は本作を観ればわかるように、そこかしこにテクノロジーを駆使したスパイグッズが登場し、ストーリーにも大きく関わります。
「ミッション:インポッシブル」シリーズは、リアル方向ではなくよりフィクションとして面白いものという方向に舵をきっているように思いました。
このチームでミッションに挑むというスタイルは、実はシリーズを続けるにあたっては大きな要素であるかと思います。
「ボーン」シリーズの弱点は、それは主人公がジェイソン・ボーンでなくてはいけないということであり、またドラマ性の高さは彼の物語が終わってしまった後は、シリーズを続け難いということに繋がります。
「007」シリーズは、ジェームズ・ボンドを演じる役者を変えることによりシリーズをフレッシュ化することを行ってきました。
「ミッション:インポッシブル」は、トム・クルーズが老けてイーサン・ハントができなくなったとしても、IMF(イーサン・ハントが所属するスパイ組織)の物語として続けていける可能性があるのです。
言わばアメリカドラマの「CSI」シリーズのようにすることができるのです。
それをプロデューサーであるトム・クルーズとJ・J・エイブラムスは狙っているのではないかと思いました。

と、つらつらとスパイ映画について書いてきましたが・・・。
じゃ「ゴースト・プロトコル」は面白かったのかよ?ということになるのですが、率直に言うと「普通」です。
面白くないかというとそうでもないけど、絶賛するほどでもないという感じ。
上に書いたように制作サイドの狙いはわかりました。
しかしこのままだとお金をかけたテレビシリーズのような感じもしてしまいます。
なにかもう一つ、輝く個性がこのシリーズには欲しいのだけれどなぁ。
この作品のテーマ曲がかかると気分が盛り上がって好きなシリーズなので、長く続けてほしいのですよ。

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「宇宙人ポール」 これこそスピルバーグLOVE、宇宙LOVE

「ショーン・オブ・ザ・デッド」、「ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!」の主演コンビ、サイモン・ペッグとニック・フロストの新作「宇宙人ポール」を初日に観てきました。
そういや、「ホット・ファズ」も初日に観たなぁ。
本作はエドガー・ライト監督ではないですが、「ショーン・オブ・ザ・デッド」、「ホット・ファズ」と系統は同じですね。
この2作品はそれぞれゾンビ映画、刑事アクション映画にオマージュを捧げつつ、それをパロディにして楽しむというマニア心満載な映画になっていました。
それもただのパロディではなくて、一つの作品としてもなかなかに完成度が高かったわけです。
本作「宇宙人ポール」はオマージュを捧げる映画がSFものとなっています。
中でもスピルバーグにですね。
もう、スピルバーグLOVEが溢れてきてます。
スピルバーグLOVEといえば、J・J・エイブラムスの「SUPER 8」もそうでしたが、本作の方がLOVEを感じます。
「E.T.」「未知との遭遇」とか「インディ・ジョーンズ」の印象的な場面を髣髴させるところもあります。
これは観ればわかるので、ぜひ観て笑ってください(特に「インディ」のところは声を上げて笑ってしまいました)。
こんなにパロって大丈夫か、スピルバーグは怒んないかと勝手な心配をしていたのですが、スピルバーグは声の出演もしてました(爆)。
スピルバーグ、喜んでいるじゃん。
ま、スピルバーグも昔の映画へのオマージュ溢れる作品を撮っている人なので、シンパシー感じたのかもしれないですね。
サイモン・ペッグとニック・フロストのコンビはもう鉄板です。
さえない残念な男のコンビをやらせたらこの二人に敵う人はいません(褒め言葉!)。
本作でもこの二人はホモ呼ばわりされてますが、それだけ息が合っているってことですよね。
もう一人の主人公というか、タイトルにある宇宙人であるポールも最高にいい。
見た目は、みなさんどこで一度は観たことのある、お目目大きなつるっとした頭の大きい宇宙人そのまんまです。
それもそのはず、ポールは60年前に地球に不時着して以来、ずっと政府に軟禁されていたわけなのです。
一般市民がその存在を知った時に衝撃を受けないように、その姿をすこしづつ露出していたのが、よく観るあの宇宙人のイメージだということです。
このポールなんですが、アメリカ生活が長かったせいか、アメリカナイズされてます。
E.T.のような宇宙人らしい神秘的な感じはなくて、ムチャクチャ陽気なアメリカンなんです。
下品な言葉を使うし、タバコとかハッパとか吸ってるし、ジョーク好きだし、踊っちゃうし。
サイモン・ペッグとニック・フロストはイギリスから来たSFオタクの役ですが、その二人よりよほどアメリカ人な感じです。
「E.T.」のように切ない感じとかないですし、「宇宙戦争」のように怖い感じもありません。
こいつほんとに宇宙人なのか(見た目は宇宙人そのもので疑いようもなく宇宙人なのですが)という感じなくらい、アメリカに馴染んでるんですよ。
ポールは最後はやはりお約束で宇宙船で宇宙に帰るわけなんですが、ここら辺も一波乱ありますので。
エイリアン退治と言えばこの人!という方が出演したので、びっくりしましたよ。
映画ファン、SFファン、スピルバーグファンである僕としては十二分に楽しめた作品でした。

「ショーン・オブ・ザ・デッド」の記事はこちら→
「ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!」の記事はこちら→

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2011年12月17日 (土)

本 「小太郎の左腕」

「のぼうの城」でデビューし、ベストセラー作家の仲間入りを果たした和田竜さんの三作品めになります。
時代小説というのは慣れない人には取っ付き難いかもしれないのですが、和田さんの作品は読みやすいので時代小説苦手な人にもお勧めできます。
本作は時代小説ではありますが、現代にも通じるテーマがあります。
タイトルにある「小太郎の左腕」についてですけれども、本作に登場する小太郎という少年、彼は通常はぼおっとしているなの人のよい性格なのですが、ひとたび左利き用の鉄砲を持たせると性格が変わったようになり、神業のような腕を振るうのです。
常識では考えられないほどの距離から、的を百発百中で当てることができるという能力を持っています。
彼は侍でもなく漁師なのですが、その祖父は小太郎の力を利用されることを恐れ、その腕前を隠そうとするわけです。
戦国の世の中で、遠距離から相手の将の命を奪えるという力は、戦い方や勢力図を一気に変えるほどのインパクトを持っているわけです。
これは戦国時代での現代戦でのピンポイント爆撃のような力を持っているのです。
小太郎の祖父はその力を利用され、孫が兵器のように扱われることを恐れるわけです。
しかし、半右衛門という侍にその能力をみられてしまいます。
半右衛門もその力に驚きつつも、小太郎が素直な子供であることを知り、始めは戦場へ連れて行ってはいけないと思います。
しかし半右衛門の陣営が滅亡の危機に陥った時、彼は非情な画策をして小太郎を戦場に連れ出します。
これが現代に通じるというのは、高性能の戦力は使わないと言いつつも、ある状況に陥ったときにはやはり使ってしまうということです。
持っていてそれしか現状を打破しなくてはいけないとき、どんなに非情であってもそれを使ってしまうのです。
イラク戦争のときにもスマート爆弾(地下にこもった敵を狙い撃ちする爆弾)みたいなものは非人道的であるといわれましたが、やはり使われてしまいましたし。
本作に悲しさがあるのは、その高性能兵器が、ただの少年であるということです。
その少年を平気にするために、半右衛門は非情な行いをしました。
それにより半右衛門も苦しみます。
そして半右衛門は最後は、その苦しみから脱却するように、再び己の命をかけようとするのです。
半右衛門は最後に侍らしい生き方を選択するのです。
本作は読みやすい本ですが、半右衛門のような状況になった時、自分はどのように行動するのか。
どういう風に選択するのか、と考えさせられる作品でもありました。
もちろん、エンターテイメント小説として読んでも面白いですよ。

「小太郎の左腕」和田竜著 小学館 小説 ISBN978-4-09-4-8642-3

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2011年12月11日 (日)

「源氏物語 千年の謎」 物語世界に投射される女の情念

世界最古の恋愛小説と言われる「源氏物語」。
それを書いたのは紫式部であるというのは、みなさんご存知の通りです。
本作は「源氏物語」を書き進む紫式部の現実の世界と、「源氏物語」の光源氏の物語世界が並行して描かれます。
観ていくうちにわかりますが、紫式部のいる現実の出来事が、物語世界の光源氏の運命に影響を与えていくメタフィクションの構造になっています。
小説家は、その人の書く作品にその人の思いや考えが反映されると言われます。
小説の中に出てくる人物は少なからず、作者の分身とも言えるような存在なわけです。
ですので、その作品が書かれたときの作者の状況や気持ちといったものが、物語に大きく影響を与えるのは至極当然のことと言えるでしょう。
本作で描かれる紫式部(中谷美紀さん)は、当時栄華を誇った藤原道長(東山紀之さん)に手込めにされ、そして彼が権力を得るために帝の心を惹くような物語を書くように依頼されます。
紫式部は道長に惹かれますが、道長が自分に愛を捧げてくれるとも思っていません。
そしてこの気持ちは本作劇中では直接的に描かれることはありません。
式部の道長への想いはかなわぬ愛であり、隠さなければならない愛であったわけです。
そしてその気持ちとは裏腹に、道長憎しの気持ちも式部の中で育っていったのでしょう。
式部は語れぬ想いを、「源氏物語」の中に投射するわけです。
彼女の気持ちは並行して描かれる「源氏物語」の物語世界の中で登場人物により語られるのです。
この構成が非常に上手いです。
劇中で道長が言っているように、「源氏物語」の光源氏は道長自身をモデルにしているということなのでしょう。
では、紫式部が自分を投影しているのは登場人物の誰なのか。
そのヒントは衣装にありました。
現実の世界の紫式部はその名の通り、ほぼすべての登場場面で「紫」を基調とした衣装を着ています。
「紫」が紫式部のシンボルなんですよね。
それでは物語世界の中で、「紫」を身につけているのは誰か。
一人は六条御息所(田中麗奈さん)です。
特に六条御息所が、光源氏が他の女性に心が動き、自分を忘れたかのようになったことに対し、嫉妬に狂い生霊となっていくところで「紫」の衣装を身に着けます。
源氏を愛するあまりに、彼が情をかけた女を滅ぼさずにはおれないほどに強い(こわい)情を持った女。
これはすなわち紫式部が道長に恋い焦がれ、彼をも滅ぼさずにはおけないほどであるということを六条御息所を通じて、吐露しているのです。
生霊となった六条御息所を演じる田中麗奈さんの演技がすざまじく、終止平静な佇まいを崩さない中谷美紀さんの紫式部が、内面に凄まじい情念を押さえ込んでいるということが伝わってきます。
それを安倍晴明(窪塚洋介さん)は喝破していたのでしょう。
もう一人、物語世界で「紫」を身につける女性がいます。
それは光源氏が愛していた義理の母、藤壷(真木よう子さん)です。
藤=紫で紫の衣装を身に着けているとも解釈できるのですが、藤壷が「紫」を纏うのは光源氏と愛を交わしてからなのです。
これは紫式部が想い描いた理想の姿が藤壷に反映されているとみるべきでしょう。
自分が愛する男から一身に情を受ける。
それは現実世界の式部が道長に求めていたものであり、その理想が藤壷に表れていたのでしょう。
しかし式部はそれが叶わぬものともわかっています。
だからこそ藤壷は光源氏と別れ、出家するのです。
この藤壷の方から去るというのがポイントではないかと思います。
男に捨てられるのではなく、自分から捨てる。
ここに紫式部の誇り高さが表れているのだと思います。
現実世界でもだからこそ式部は自分から去るのです。
捨てられた光源氏は嘆き悲しみます。
本当は式部も道長が嘆き悲しむことを期待していたのかもしれません。
そうすれば道長の愛が確認できるから。
しかし、現実には道長はそうはしません。
それも式部はわかっていたのでしょう。
物語世界で光源氏を苦しませるのは、紫式部の道長に対してのサディスティックな復讐とも言えなくはありません。
本作での紫式部は終止そこはかとない笑みを浮かべた静かな佇まいでいます。
しかし、その内面では強い(こわい)情念が渦巻き、そして深い愛を求めているという女性であったということが並行して描かれる物語世界から伝わってきます。
このメタフィクション的な構成は見事成功していると思います。
正直、ここまで引き込まれる作品であるとは思いませんでした。
描かれる時代的にも題材的にも取っ付き難い印象を持つかもしれませんが、観て損はないかと思います。

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2011年12月10日 (土)

「仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦 MEGA MAX」 まさにメガ盛り

「W&ディケイド」、「オーズ&W」と続き、冬の定番となってきている仮面ライダーのMOVIE大戦、今年は「フォーゼ&オーズ」です。
「ディケイド」以前の平成仮面ライダーはそれぞれが独立した世界観であって、それぞれの作品に登場するライダーが並び立つことはないと考えられていましたが、「ディケイド」がその戒めを解き放ちました。
「W&ディケイド」はディケイドがライダーの世界を渡ることができるという特殊能力ゆえできた特別な作品だと思いましたが、昨年の「オーズ&W」、今年の「フォーゼ&オーズ」ときて定番化してきましたよね。
1作目は「ディケイド」と「W」の物語が別々に進み、最後の第3部で二つの物語が合流するという「ディケイド」ならではの仕掛けがありました。
昨年の「オーズ&W」もその構成を踏襲しますが、第1部、第2部の物語に品質差(「W」は良く、「オーズ」は良くない)があり、そしてそれを合流させる第3部が無理矢理感がありました。
違う世界のライダーが並び立つっていうことにも違和感がありましたし。
それで、今年の「フォーゼ&オーズ」ですが、ライダーが並び立つことに違和感なくなってます。
これは観る側の慣れというのもあるんでしょうね。
構成も前作までの3部構成ではなく、5部構成になっています。
第1部がアバン、第2部がオーズ編、つなぎの第3部があって、第4部がフォーゼ編、そして第5部がオーズとフォーゼが合流するクライマックス編といった形です。
5部構成というのは聞いていて複雑になるのではと思いましたし、また世界観・テイストが大きく違うオーズとフォーゼが融合できるのか(「オーズ&W」のようにうまくいかないかも)という心配もありました。
しかし第1部と第3部がうまく機能していて、オーズ編とフォーゼ編をうまくまとめあげることができていると思いました。
違うストーリーが合流するというというよりは、一つの物語のように構成されていたのでオーズとフォーゼが並び立っても違和感がなかったのでしょうか。

監督は「W」の「運命のガイアメモリ」でライダー映画の新境地を開き、また「フォーゼ」のメインでもある坂本浩一監督。
「運命のガイアメモリ」もそうですし、「仮面ライダーアクセル」もそうでしたが、坂本監督の作品は動き始めたら最後まで物語が止まることがありません。
まさにノンストップという感じがします。
アクション俳優出身であり、本作でアクション監督も兼任しているだけあって、相変わらずライダーアクションは見せてくれます。
それも盛りだくさんというか、メガ盛りというか、溢れ出してます。
伝説の7人ライダー(1号からストロンガーまで)のアクションも坂本監督が得意のワイヤーアクションを駆使して現代風にアレンジされています。
アレンジされていますが、オリジナルへのリスペクトがあるというか、リスペクト以上に坂本監督のライダー愛を感じます。
V3の反転キックはオリジナルはカット割りで見せていますが、本作はそれをワイヤーをつかってV3を空中で反転させて1カットで撮ってます。
XライダーのXキックも空中で大車輪してるし!
カッコよすぎます。
「W」以降の平成仮面ライダー第二期のライダーはフォームチェンジが多種類・複雑化してますが、それも惜しみなく見せてれてます。
こういう盛りだくさんの作品の場合はカットされがちなんですが、できうるかぎり全フォーム見せるぞという気合いを感じます。
Wはサイクロンジョーカー、ヒートメタル、ルナトリガーの主要3フォームはマキシマムドライブ付きで見せてくれますし、オーズはタトバ、ガタキリバ、ラトラーター、サゴーゾ、シャウタ、タジャドルの主要コンボとその必殺技を披露してくれます。
フォーゼも全スイッチとはいかなかったですが、10くらいのスイッチは使ってましたよね。
こういうフォームチェンジは見せていくと無理矢理感がでたり、冗長になってしまうかというところなんですが、坂本監督はアクションの見せ方が小気味好くテンポがいいので、それほど長い時間を使わずに十分満足感が得られるようにしてくれるので気持ちがいいですよね。
ここはやはりアクションをやってきた監督さんだからなんでしょうね。
アクション出身の監督はエモーショナルな部分が弱かったりするものですが、坂本監督はそういうところがありません。
しっかりエモーショナルなドラマを見せてくれました。
それではドラマ部分についてオーズ編、フォーゼ編と見ていきましょう。

オーズ編については、観る前の一番の心配はアンクの再登場についてでした。
テレビの最終回はあのような別れになってしまっていますから、普通で考えればアンクが登場することはできないわけです。
でもアンクがいないオーズはオーズじゃないわけで。
そこをどう解決したか、なんですが・・・。
さすが脚本の小林靖子さん、どう解決したかは書きませんが、見事にやってのけてます。
それどころか寂しさも残る結末であった「オーズ」の物語に「明日への希望」も与えてくれます。
このあたりは見事ですね。
坂本監督はテレビの「オーズ」は担当していなかったので、本作が初めての「オーズ」の演出になります。
監督するにあたり一気見したということですので、「オーズ」のキャタクターの演出も違和感なかったです。
映司は映司らしく、アンクはアンクらしく、キャラクターが出ていましたよね。
オーズ編の見所は映司役の渡辺秀さん、アンク役の三浦涼介さんの素面でのアクションでしょう。
二人ともアクション俳優顔負けくらいに動いてます。
クスクシエのシーンは吹き替えなしだったとか。
特に渡辺秀さんはすごい!
流れるように回し蹴りとか決めてますし。
JAEの人かと思っちゃいます。
あ、あと里中も相変わらず強いですね(笑)。
後藤ちゃんと伊達さんも相変わらずで。

フォーゼ編は弦太朗の初恋物語です。
仮面ライダーで学園青春ドラマという意外なところをついてきた「フォーゼ」ですが、現在進行中のテレビもこれがなかなかにいいんです。
仮面ライダー部の連中の友情っていうのが、けっこうジンジンきちゃうんですよね。
テレビも仮面ライダー部の7人が集まるまでの10話はけっこうホロリとくるようなところがありました。
テレビシリーズは、主人公の弦太朗が一癖二癖ある同級生を熱いハートで支え、それによって彼らは心を開き仲間となっていくという展開でした。
映画では悩み悲しむ弦太朗を支えるのが、逆に仮面ライダー部の仲間たちなんですよね。
賢吾の「君が泣く時間くらいはかせぐことはできる!」っていうのには、ジーンときました。
こういう青春ストライクなセリフには弱いのです。
弦太朗が変身する時にライダー部のみんなが「スリー、ツー、ワン!」とカウントダウンするところもジ、ジーン・・・。
フォーゼ編はエモーショナルなところをしっかりと出してくれていた気がします。
弦太朗の初恋の相手となる撫子役の真野恵里菜さん、かわいいですね・・・。

その他、気になったところを散文的に。
「W」の登場を嬉しかったですね。
やはり「W」好きなので。
翔太郎と弦太朗が会うところがけっこう面白かったです。
基本的に翔太郎と弦太朗って同じタイプなんですよね、友情に厚くて正義感が強いところなどは。
翔太郎はクールを気取っているけど、弦太朗はそのまま熱い気持ちを外に出すというところが違うかな。
翔太郎が弦太朗に対して、先輩を気取っているところなんかはほんの少しのシーンなんですけれど、翔太郎らしさがでてました。
仮面ライダージョーカーの登場も意外なサプライズでした。
出てくると思わなかったんで。
カッコいいよなぁ、ジョーカー。
そういえば坂本監督って、アクションのクライマックスで主題歌を流すんですよね。
これは「運命のガイアメモリ」もそうですし、「フォーゼ」の演出回もそうなんですけれど。
盛り上がるところに主題歌っていうのは直球勝負で、ヒーロー好きとしては好きな演出です。
あと今回の敵になるのは「W」でも登場した財団X。
財団Xっていう設定は使い勝手がいいですよね。
なんでもこれで繋ぐことができます。
昭和ライダーの大首領のようなものでしょうか。
財団X自体がなくなったわけではないですから、今後もMOVIE大戦では重宝しそうです。 あと、弦太朗が「全ライダーと友達になるっス!」と言っていたときに、オフでアマゾンが「トモダチ・・・」とリアクションしていたところは昭和ライダーで育った世代的にはツボでした(笑)。

ああ、なんかとりとめがなくなってきました。
それだけいろんな要素が入っていた映画だということでごカンベンください。
まさにメガ盛り!

そうそう最後にスーパー戦隊の予告が流れてました。
事前に情報が出ていた「ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン」は初めて聞いたときは驚きましたが、これは織り込み済み。
しかし4月に「スーパー戦隊VS仮面ライダー」をやるということです。
そうきたか・・・。
レジェンド大戦VSライダー大戦ね。
すごいことになりそうだ。

昨年のMOVIE大戦「仮面ライダー×仮面ライダーオーズ&ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE」の記事はこちら→

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「リアル・スティール」 全部入り

夏ぐらいから盛んに予告編を流していた本作、さっそく初日に観てきました。
結果から言ってしまうと面白かったです。
たいへんベタな話しではあるのですが、ベタだからこそジーンときてしまうんです。
たぶん、観た方で中にはどこかで観たようなシーンばかりだと言う方もいるかもしれません。
それはまさしくその通りです。
挫折した男の再生物語、対立していた親子の和解の物語、ロボットアクション、スポーツもの、この映画はどこかで観たような題材、テーマが言わば「全部入り」になっています。
部分で見ると確かによくみたような話なのです。
でもそれがいい具合に融合されて、いいバランスになっているんですよね。
最後のATOM・ゼウス戦はほぼまんま「ロッキー」なわけです。
でもそれはそれでいい。
だったそれで感動できちゃうんだもん。
「ロッキー」は結末がわかっていても、何度観てもジーンときちゃうわけですから、ここはあえて奇をてらうのではなく、王道の演出でよかったかなと。
これが普通の人間だったら二番煎じな感じにはなるのですが、ロボットだということで変化はでますし。
「ロッキー」みたいだろうとなかろうと、ワクワクし、ジーンとしてしまうならばそれでいいんです。
ボクサーとして挫折したチャーリーが、息子との出会いにより次第に戦う気力を取り戻していくというのもありがちと言えばありがちです。
また長年別れていた親と子が再会し、手探りながらもお互いの愛情を確認していく、というのも親子再生ドラマとしては典型的です。
本作はそういうありがちな物語の要素を融合し、いい塩梅に物語のバランスをとることに成功していたと思いました。
そのバランスのいい融合を果たすにあたり、うまく効いていたのがATOMでしょうね。
このロボットの最大の特徴は、シャドー機能というもので目の前にいる人間の動きをそのまままねるというものです。
ATOMはチャーリーの息子マックスが見つけ、整備をしたロボットです。
また試合の前にはマックスの動きをまねをしてATOMもダンスをするというパフォーマンスを見せます。
そういう意味で、ATOMとマックスは一体化しているといっていいでしょう。
さらにラストのゼウス戦の最終ラウンドでは、音声認識機能が破壊されたATOMはシャドー機能でチャーリーの動きをコピーし、戦います。
その意味において、リングの上で戦っているのはATOMでありますが、チャーリーでもあるわけです。
ここでATOMを媒介にして、チャーリーとマックスは一体化、つまりは心を通じ合うことになるわけです。
またチャーリーは実際はリング脇にいながらも、ATOMと一体化しリングでも戦うのと同じ気持ちになり、まさにそれは挫折した男が戦う気持ちを取り戻す物語のクライマックスともなります。
このようにシャドー機能をもったATOMというロボットの存在が物語上では、チャーリーとマックスを繋ぐ媒介となり、また物語構成上では先にあげた典型的ないくつかの物語パターンを上手に繋ぎあわせる役割とうまく担っているなと思いました。

むかーし、「プラレス三四郎」というマンガ・アニメがありました。
自分で作ったプラモデルをラジコンでリングの上で戦わせる(プラモデルのプロレス→プラレス)というお話なのですが、まさに設定は同じ感じですよね。
本作は「プラレス三四郎」から影響を受けている感じがするんですよねー。

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2011年12月 8日 (木)

本 「サヴァイヴ」

自転車ロードレースを題材にした「サクリファイス」「エデン」に続く、近藤史恵さんのシリーズの3作目になります。
3作目といっても、続編ではなく「サクリファイス」「エデン」の登場人物の前日譚、後日談、サイドストーリーを集めた連作集になっています。
ですので前作2作を読んでいなくても、問題なく読めるかと思います。
近藤史恵さんの文章は読みやすいですし。
しかし、面白さでいうとやはり「サクリファイス」のほうが面白かったかな・・・。
自転車ロードレースという題材だからか、登場人物のキャラクターはストイックなタイプが多いので、短編になったときのいわゆるキャラ立ちのようなものはないので、ややもの足りなさを感じます。
ロードレースは個人競技ではなく、チーム競技です。
<エース>を勝たせるためにチームの他のメンバーは<アシスト>としてフォローをします。
<アシスト>は<エース>の風よけになったり、時には自分がリタイアになってもバイクの部品を<エース>に提供し勝たせようとします。
しかしそこにはやはり<エース>は<エース>としての孤独やプレッシャーがあり、<アシスト>には妬みや確執、または<エース>に想いを預けるというようなことがあり、そこがドラマになります。
本作ではロードレースの選手のそれぞれ立場の違う登場人物の想いが描かれています。
それは描かれているのですが、やはりそういう想いに加えミステリーの要素を縦糸として持つ「サクリファイス」の方がやはり面白い。
連作集であるためそのような縦糸の部分がないので、登場人物のストイックさというのもあり、やや全体的に地味めで、疾走感がないというのはありました。
短編だとこのシリーズの魅力を出すのは、なかなか難しいのかもしれません。

「サクリファイス」の記事はこちら→
「エデン」の記事はこちら→

「サヴァイヴ」近藤史恵著 新潮社 ハードカバー ISBN978-4-10-3-5253-1

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2011年12月 6日 (火)

本 「相手に『伝わる』話し方 -ぼくはこんなことを考えながら話してきた-」

みなさんご存知の元NHKキャスターの池上彰さんの本です。
池上さんを知ったのはご多分に漏れず「週間こどもニュース」の「お父さん」をされていたときですね。
「週間こどもニュース」はその週に起こった主なニュースを、子供でもわかるように解説するという番組ですが、これは大人が観ても勉強になります。
実はなんとなくしかわかっていないのに、今更人に聞くのも恥ずかしいようなこともわかりやすく解説してくれるので、重宝するわけです。
番組の作りもわかりやすいものなのですが、わかりやすく伝えることに大きな役割を果たしていたのが初代「お父さん」の池上さんだと思います。
この本は池上さんが、記者時代、それからキャスター時代、そして「週間こどもニュース」のお父さんをやるようになってまで、いろいろと人に伝えるということについて考えたことをまとめたものです。
その要点はというと。
・聞くためには相手に信頼されるようになる。
・聞く相手の立場になって話す。
・自分の言葉で話す。
のようなこと。
しごく当たり前のことなんですが、実際できている人はそれほど多くありません。
しかし会社でも説明が上手い人、プレゼンが上手い人というのはいますが、だいたいこういうことができています。
逆に話がよくわからない人というのは、こういうことができていないことが多いですね。
上に書いたことは言われてみれば当たり前のことなんですが、池上さんが書くとまた違う。
池上さん曰く、相手に話して理解してもらうには抽象的ではなく、なるべく具体的なことに落とし込むことが大事だそうです。
例をあげたり、身近なものにたとえてみたり、図式化をしてみたり。
これは「こどもニュース」で池上さんがとっていた手法ですね。
この本でも池上さんの失敗談などの具体例を織り交ぜながら、解説しています。
ようは自分だけわかっていて、滔々とお説を述べているだけじゃダメってことなんですよね。
相手に伝わってこそ、話す意味があるということ。
伝えるためには聞く立場になって伝えるという意識を持つということと、そのための工夫は惜しまないということですね。

「相手に『伝わる』話し方 -ぼくはこんなことを考えながら話してきた-」池上彰著 講談社 新書 ISBN4-06-149620-4

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2011年12月 4日 (日)

「BONES シーズン4」 キャラクターの掛け合いも楽しみのひとつ

おっと、前回のシーズン3のレビューをしてから2年近くも経ってしまっています。
気がつけばもうシーズン6が日本でも放送されているらしい・・・。
完全に出遅れてます。
2年間の間、全然観ていなかったわけではなくて、ちびりちびりとDVDを借りて観ていたんですよね。
シーズン3はゴルモゴンのエピソードが縦軸になっていましたが、シーズン4はそういう縦軸的なものはあまりなく、1話完結のエピソードが多いですね。
だから途中ちょっと時間が空いてしまっても、大きなストーリーを忘れてしまったりすることがないので、大丈夫だったりするわけですが。
前シリーズのラストでは、ブレナンが片腕として信頼をしていたザックが殺人鬼ゴルモゴンの弟子であったという衝撃の事実が明らかになります。
これはシーズン4の1話完結スタイルにも影響を与えています。
ザックがいなくなったあと、ブレナンのサポートという立場は空席になります。
助手の候補はラボの中でも数人いて、それが毎回事件ごとにかわりばんこに助手を担当するというスタイルになります。
この助手たちは優秀そうなのですが、一癖も二癖もありそうな者ばかり。
彼らとレギュラーメンバーとのやりとりも本シリーズの楽しみの一つとなりました。
ブレナンのサポートという立場はそのように何人かの登場人物がローテーションするということで補っているわけですが、ザックの代わりにストーリーの中でレギュラーの位置を獲得したのがFBIに所属する心理学者のスイーツです。
彼はシーズン3からブースとブレナンのコンビのセラピーを担当しています。
スイーツとブース、ブレナンの噛み合ない会話も本シリーズの楽しいところですね。
スイーツも心理学の天才というところもありますが、ちょっと世間知らず的なところがあったり、無邪気なところがあったりやはり一癖ある感じで。
キャラ立ちしている「BONES」にふさわしいレギュラーとなったと思います。
あとシーズン2から出てますが、サローヤン博士もけっこう好きなキャラクターなんですよね。
ときどき笑えないジョークを言ったり、ホッジンスの「実験」の巻き添えを食ったりするところがしばしばありますが、そのあたりもなかなか楽しい。
「BONES」はミステリーとしての楽しみもあるんですが、こういったキャラクターたちの掛け合いみたいなところも楽しみの一つなんですよね。
ブースとブレナンの関係も相変わらずです。
スイーツが指摘するように、彼らは互いに好意を持っているのは明らかですが、本人たちがそれを認めていない。
性格は正反対だけれど、お互いに補いあう関係。
二人は互いに欠かせないパートナーと認識はしているけれど、恋愛感情は認めないわけです。
けれどそこに変化が表れそうな気配がでてきたのが本シリーズラストの2話。
いろいろあって二人の関係が次のステージに進むかと思われた時に、ブースが脳腫瘍を患っているということが発覚します。
その手術は成功しますが、ブースはブレナンのことを覚えていない様子・・・。
というところでシーズン4は終了。
あと引く終わり方してくれますねー。
シーズン5観たくなるじゃないですか(笑)。

「BONES シーズン1」の記事はこちら→
「BONES シーズン2」の記事はこちら→
「BONES シーズン3」の記事はこちら→

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本 「ホルモー六景」

万城目学さんの「鴨川ホルモー」の続編です。
「鴨川ホルモー」のメンバーもちらりちらりと出てきますが、続編というよりはサイドストーリーという感じですね。
タイトルにもあるように六つのお話が収められている連作集になります。
それぞれ独立したお話ですが、リンクするところもありましたね(もちろん「鴨川ホルモー」とも)。
どれも面白いですが、僕がなかでもお気に入りなのが「鴨川(小)ホルモー」と「丸の内サミット」ですね。
それぞれのタイトルも粋ですし。
万城目さんの作品は「鴨川ホルモー」と本作しかまだ読んだことがないのですが、「ホルモー」という非日常を題材にしながらも、それに関わる学生たちというのは至極普通のそこらへんにいる学生なんですよね。
本作に収められている話というのは恋愛話が多いのですが、そこで展開される恋愛事態は決して非日常ではなくて、普通の人の普通の恋愛。
状況がホルモーというものがある非日常というだけで、気持ちは特別なものではありません。
このあたりの設定の非日常性と、そこにいる登場人物の日常性みたいなもののバランスをとるのが、万城目学さんは絶妙なのだろうなと思いました。
原作は読んでいないですが、映画の「プリンセス・トヨトミ」もそんな感じでしたし。
万城目さんの作品は他のものも読んでみようかと思います。

「ホルモー六景」万城目学著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-393902-2

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2011年12月 3日 (土)

「映画 けいおん!」 いつまでも続くふわふわ時間

軽音部のメンバーが過ごすゆるっとした放課後の時間を描いたアニメがついに映画化です。
映画だからといって特別なものになっているわけではなく、そのゆるゆるしたというか、ふわふわしたというか、そういった空気感はそのままでしたね。
この空気感こそが「けいおん!」そのものなのかもしれません。
作品の中で描かれるのは、「けいおん!」のラストを飾るということで、卒業旅行がメインで描かれていますが、そこでも特別なことがあるわけでもありません。
旅行先のロンドンで突然ライブをやったりすることになりますが、彼女たちにとっては、学祭でライブをやったりすることとそれほど変わりがありません。
というより、それこそ彼女たちにとっては、ロンドンでライブをするよりは、卒業式に友達の前で教室でライブをやったりとか、後輩のために部室で曲を歌うということのほうが断然重要なんですよね。
こういうバンドものやスポーツものの物語というのは、どうしてもてっぺんを狙っていくといったようなサクセスストーリーであったり、成長物語であったりするわけです。
そのほうがやはりお話は作りやすい。
けれども本作の登場人物たちは別にトップになりたいから音楽をやっているわけではなくて、友達と楽しく過ごす時間が嬉しいということで音楽をやっているんですよね。
実際はほとんどの人はてっぺんめざして何かをやっているわけではなくて、唯たちのような時間の過ごし方のほうが共感性があるのかもしれません(実際僕は部活をしていたけれど、本来の活動はほとんどせず、しゃべったり、トランプしてたりしてました)。
社会に出れば当然厳しい現実があるわけですが、高校生の頃というのはそういう現実もまだまだ先の話というところがあってゆるゆる、ふわふわと時間が過ぎていく感じなんですよね。

上に書いたように本作のロンドン卒業旅行でもなにか特別なことが起こるわけではありません。
また卒業式自体も描かれることはありません。
第二期のテレビシリーズで軸になっていたのは唯たち3年生と、ただ一人の後輩である梓の関係です。
映画もその流れを汲み、ふわふわとした空気の中で、一本それが軸になっています。
第二期の頃から、唯たちの卒業を前にして、梓は口には出さないけれど楽しかった時間がもう終わってしまうという寂しさを感じていました。
けれど本作で描かれているのは、唯たちが卒業してもそんな楽しい時間は終わらないということです。
唯も、澪も、律も、紬も、卒業してもずっと変わらない。
卒業したら、もう終わりというのではなく、楽しいから、かけがいのない仲間だから、ずっと一緒にいたいし、楽しい時間は終わらないと彼女たちは思っている。
だから梓と出会えたことを感謝したいし、だからこれからもずっと一緒にいるということを、伝えるメッセージに彼女に送った歌はなっていたと思います。
ほんとの日常には特別なことというのはそれほどあるわけではなく、けれどだからといって無味乾燥なものでもない。
日常には日常での楽しさ、嬉しさみたいなものがあるわけですよね。
あえて日常を描き続けたところに、よくある若者の成長物語にはない、リアル感(あるあるといった感じの)のようなものを感じたからこそ、本シリーズは当たったのかなと思いました。

第一期「けいおん!」の記事はこちら→
第二期「けいおん!!」の記事はこちら→

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本 「永遠の出口」

人間、大人になると子供の頃、自分がどう感じていたのかを思い出すのが難しい。
なんとなく大人の目線で子供の頃の気持ちを想像するくらいしかできないわけです。
けれど、本作の作者の森絵都さんというのは、子供の頃の気持ちというのをずっと思い出すことができる人なのだなあと思います。
元々ジュブナイル小説畑の作家さんで、子供を描くのは得意な方ではあるのですけれど、本作はそれがとても際立っています。
子供の頃の気持ちを思い出せるというと、大人は「子供の頃の純真な気持ち」とか「天真爛漫な気持ち」と思ってしまいますが、実際のところ子供だって別に純真でもないし、爛漫でもないわけです。
やはり子供は子供なりの悩み事というのがあって、それに心を痛めていたりするわけですよね。
大人になってしまうとそういうことは「些細なこと」となってしまいますが、子供当人にとってはそれは一大事なわけです。
そのような子供にとっての「一大事」という感覚を森絵都さんは持っていると思います。
本作はある女性の小学生から高校生までの出来事を描いた連作短編集になります。
小学生なら小学生なり、高校生なら高校生なりの悩みにヒロインは心を揺れ動かします。
本作品を読んでいると、このあたりの揺れのようなものがかつて自分も味わったものであると、感じるんですよね。
よく「そのときの気持ちが瑞々しく甦る」という表現をすることがありますが、まさに本作の感覚はそういう感じがします。
あのとき感じたような不安、焦燥みたいなものがほんとに自分の心の中で感じられるというか。
そういう感覚を起こさせてくれる作品でした。

「永遠の出口」森絵都著 集英社 文庫 ISBN4-08-746011-8

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「ザ・ロック」 共感できる敵役

この作品は大好きで、何度観たか数えきれないほどです。
マイケル・ベイの第2作品目なのですが、彼の作品の中でも最もおもしろいと言っていいかもしれません。
ド派手な演出、スピーディな展開など後のマイケル・ベイ作品の特徴となるところはすでに出ていて、ノンストップアクションとして2時間を越える作品であるにもかかわらず、最後まで一気に見せてくれます。
しかし、そういうマイケル・ベイの演出よりも何よりもこの作品を良いものにしているのは、エド・ハリスが演じる敵役となるハメル准将というキャラクターでしょう。
このようなアクション映画というものは明確な敵役がいなくては成立しません。
古くはソ連や国際犯罪組織などでしたが、ベルリンの壁崩壊後はテロリストやサイコな人間というのが定番となっていました。
そういう敵は同情するべき点はないために、主人公たちが倒す明確な敵として存在する以上のものではありません。
しかし本作におけるハメル准将というキャラクターはそういう描かれ方をしていません。
そもそもオープニングからしてハメル准将から始まるわけで、彼が本作の影の主役と言ってもいいかもしれないのです。
ハメルは海兵隊を率いる将軍であり、自分も含め今までも国のために死地に赴きました。
けれども秘密任務であるため、部下の死は公表もされず、また遺族にもその真相を知らせることはできません。
まさに使い捨ての駒のように部下は扱われたわけです。
国のため、正義のために命をかけて戦ったのにも関わらず、だれもそれに報いてくれようとはしない。
それに憤りを感じ、ハメルは何度も国へ嘆願をしますが、聞き入れてもらえず、最後の手段として致死性ガスによるテロの実施を脅しとして国へ要求を突きつけようとします。
ハメルの憤りというのは十分同情の余地があるもので、だからこそ観客はハメルの気持ちに共感をします。
もちろん彼がとった行動というのはやはり間違っているもので、その点においては支持できるわけではありません。
それもハメルはわかっていて、ラストのほうで実際にミサイルの発射ボタンを押すか押さないかでの彼の苦悩も描かれるわけです。
彼ら反乱した海兵隊を鎮圧しようと、海軍の特殊部隊SEALSがアルカトラズに侵入し、対面する場面があります。
海兵隊にしてもSEALSにしても国のために戦うということは同じ気持ちがあるのですが、それなのに銃を向けあうようになってしまう。
この場面はなにか切ないものがあります。
ハメルはどこで間違ってしまったのか。
ハメルは金などを求めているわけではありません。
彼らが命をかけて守ろうとした国や正義というものに、彼らが少しでも役に立ったという証し、評価を欲しかったのですよね。
自分たちが命をかけた意味合いのようなものを。
国家というものは大きなシステムで、その中では個人はそれこそ駒のように扱われてしまいます。
それはそれで致し方のないところもあるのですが、それでもそこで関わる人びとには何かしら実感できる意味合いというものを提供しなくてはいけないのだと思います。
それはある程度の報酬なのか、勲章なのか、それとも「よくやってくれた」という一言だけでも違うのです。
システムがそこに関わる人を駒としてしか見えなくなった場合、その組織は内部から崩壊していく危険性があるのかもしれません。
そういう点をうまく表した作品となっていると思います。
これはマイケル・ベイの手柄というよりは、脚本家チームの手柄だと思いますけれどね(笑)。

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2011年12月 2日 (金)

「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」 自由を得たスピルバーグ

僕の生涯の中でのベスト5映画の中には必ず「E.T.」「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」はランクインするであろうと思うほどに、スピルバーグは好きです。
特に「インディ・ジョーンズ」シリーズは好きなのですが、本作「タンタンの冒険」は往年の「インディ・ジョーンズ」のようなジェットコースター・ムービー的なハラハラドキドキ感があって楽しめました。
世界各地を冒険をしながら回っていくというのも「インディ」を髣髴させますし、ジョン・ウィリアムズの音楽もなにか「インディ」っぽい感じがありました。
本作はスピルバーグとして始めての3D作品、そしてモーションキャプチャーを採用したということで話題になっていますが、予告で観たタンタンの微妙なタッチがやや気になって、「どうだろう?」という心配もありました。
皆さんご存知のエルジェのタンタンはシンプルでしたので、「Disney's クリスマス・キャロル」的なタッチは受け入れられるかなと気になっていたんですよね。
スピルバーグが「タンタンの冒険」の映画権を得て映画化するという話はずいぶん前に聞いたのですが、そのときはやはりアニメなんだろうなと思いました。
ただ、アニメだとありふれた感じになりそうだなとも思ったりしたんですよね。
その後、実写という話も聞こえましたが、ぴったりな役者さんはいるのかなと別の心配もありました。
そこへきて、本作はパフォーマンス・キャプチャーを使った3Dアニメということで、「なるほど、そうきたか」と思いました。
そもそもスピルバーグは新しい技術を取り入れて、彼のイマジネーションを映像にしていくというのに長けた監督です。
「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のミニチュアのトロッコレースのところは、ルーカスが「スター・ウォーズ」で開発したモーションコントロールカメラを(おそらく)使い、息もつかせぬ程のチェイスシーンを表現しています。
また「ジュラシック・パーク」では本格的にCGを導入し、いままではストップモーションアニメでしかできない恐竜を活き活きと描き、人間の役者と「共演」させることに成功しました。
このように彼は、自分のイマジネーションを表現するために新しい技術を果敢に取り入れ、それを使いこなして、皆が観たことのない映像を作り、観客を興奮させてくれるのです。
本作においてはそれがパフォーマンス・キャプチャー+3Dアニメということなのですね。
「タンタンの冒険」において圧巻だったのが、モロッコの街での大チェイスシーンです。
観た方はわかると思いますが、タンタンとハドック船長と、サッカリン一味が宮殿を出てから港に着くまでのチェイスシーンは長回し(デジタルアニメなので長回しという言葉は適さないかもしれませんが)の1カットなんですよね。
これは到底、実写ではできないですし、アニメだとできないとはいいませんがたいへんな労力がかかるカットだと思います。
これはパフォーマンス・キャプチャー+3Dアニメという新しい技術によって初めてできたものと言っていいでしょう。
スピルバーグはパフォーマンス・キャプチャー+3Dアニメという技術によって、物理的な制約から解き放たれ彼のイマジネーションを表現する自由を得たのではないかと思いました。
「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のトロッコシーンは何度観ても飽きないのですが、「タンタンの冒険」のこのチェイスシーンもそれに匹敵するか、それ以上の見応えがあります。
ストーリーとしては奇をてらったものではなく、素直に冒険活劇を楽しむものとなっているのも好感が持てました。
やはりこのあたりも「インディ」シリーズに通じるところがあります。
主人公タンタンよりも、ダメダメなところばっかりのハドック船長は魅力的ですね。
こちらのパフォーマンスを担当しているのはアンディ・サーキス(「猿の惑星」のシーザーも演じる)で、もはや彼はパフォーマンス・キャプチャーの大家と言っていいくらいです。
パフォーマンス・キャプチャー+3Dアニメという手法は役者の年齢の制約からも解き放たれます。
どうしてもハリソン・フォードは年をとってしまうから、あの頃のような若々しさは出せないわけです。
でもパフォーマンス・キャプチャーならできる。
タンタンもハドック船長も老けることなくスクリーンで活躍することができます。
本作は「インディ」のようにシリーズ化されていくんではないかなあ。

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