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2011年11月30日 (水)

「江~姫たちの戦国~」 女の道は一本道

毎回、NHKの大河ドラマのレビューの時に書くのですが、僕個人的には大河ドラマ当たり年とはずれ年というのが、交互にきているのですね。
昨年の「龍馬伝」が大当たりであったので、今年は順番から言えばはずれ年。
ですが本作は、脚本家田渕久美子さんを始め、こちらも当たり年であった「篤姫」のスタッフが参加しているということでジンクスがはずれるかもという期待もありました。
さて、最終回まで観終わっての感想ですが、う〜ん、はずれ、かな。
やはり前半の印象が悪すぎました。
本作は義父である柴田勝家が滅亡し浅井三姉妹が大坂の秀吉に引き取られるところで前半と後半に分けられると思います。
前半は江の少女時代を描いているわけですが、この少女の江がやたら喧しい。
江を演じた上野樹里さんは「のだめカンタービレ」ののだめのイメージが強いですが、同じようなイメージで江の少女時代が演出されてしまったような気がしました。
上野樹里さん=のだめの印象強いですが、上野さんの演技はけっこう幅が広いと思うので、この喧しい江はのだめイメージにひきづられた演出によるものかなと。
後半の江が大人になっていこうは落ち着いた佇まいになっているので、上野さん由来ではないと思います。
また前半は浅井三姉妹が揃っているので、三姉妹という設定によるドラマ性というのも出し難かったという感じでした。
前半は後半に向けた歴史のおさらい、前振りのような感じがしました。
後半、浅井三姉妹それぞれの運命が分かれていくようになってからはドラマ性が増し、おもしろくなってきたと思います。
歴史のうねりと合わせるように浅井三姉妹の運命も翻弄されていく。
なかでも茶々(宮沢りえさん)が、秀吉を恨みながらも惹かれていくところは見応えありました。
三姉妹の中ではコメディリリーフ的な初も少女時代は滑り気味でしたが、姉と妹を繋ぐという役割をなそうとするあたりはなかなかの存在感があったと思います。
しかし、後半は三姉妹の波乱の運命を描く中で盛り上がったとは思いますが、やはり前半のマイナス点をとりもどすまでにはいかずといったところのような感じがします。

「篤姫」と「江~姫たちの戦国~」は女性を主人公にした時代劇ですが、同じテーマがあったと思います。
「篤姫」で篤姫の乳母の言葉で「女の道は一本道」というのがありました。
現代でこそ女性は自分の将来や道を自分で選べるような時代になりましたが、それこそ戦前などはまだまだ女性は結婚相手を自由に選べるという時代ではなかったと思います。
ましてや戦国時代、江戸時代と言ったら、女性の結婚相手は政治や家の論理で決められしまうわけです。
運命は決められてしまうものなのですが、篤姫にしても、江にしても、その運命を受け入れながらも、覚悟をしてその中で自分らしくたくましく生きていくということを貫いています。
それは先の「女の道は一本道」という言葉につながるわけですが、運命は一本道に決められている、しかしその道を流されて進んでいくのか、自分の足で前に前に進んでいくかというのは、違うということなんですね。
女性に限らず、男性も「ままならぬ」ことは現代でもあります。
運命と言ってしまい腐ることもできますが、それを受け入れつつもその中で懸命に生きるという選択肢もあるわけです。
本作での江も運命に翻弄される中で、しっかりと自分の感じるまま、考えるままに生きたということは豊かな人生であったのではないかと思います。

さて来年は松山ケンイチさん主演の「平清盛」ですね。
これはちょっと期待しています。
時代的にもあまり取り上げられていない時代ですし、平清盛という公家社会から武士社会への変化の先鞭をつけた人物がどのように生きたか、その描き方に注目したいと思います。

10年NHK大河ドラマ「龍馬伝」の記事はこちら→

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2011年11月27日 (日)

「新少林寺/SYAOLIN」 アクションとドラマを両立

久しぶりです、本格的なカンフー映画は。
やはり、ジャッキー・チェンの作品やリー・リンチェイ(ジェット・リー)の「少林寺」に燃えた世代としてはたまりません。
けれども本作はただカンフーでのアクションだけを見せるだけの作品になっているのではなくて、しっかりとしたドラマもあります。
これは主演のアンディ・ラウをはじめ、ニコラス・ツェー、ジャッキー・チェンなど演技もできて、かつアクションもできる俳優陣が揃っていたからでしょうね。
しかし香港の俳優さんというのはほんとに体がよく動きます。

主人公、候杰(アンディ・ラウ)は軍閥の将軍で民衆に対し、非道な行いをしてきました。
しかし、家族を守ろうとする気持ちから、義兄弟が自分を裏切るのではないかという疑心暗鬼に囚われ、逆に義兄を暗殺しようとします。
しかし候杰は腹心の部下、曹蛮(ニコラス・ツェー)に裏切られ、その混乱の中で愛娘を失ってしまいます。
候杰は嘆き悲しみますが、初めてそこで自分が今まで行ってきた罪の重さに気づくのです。
彼は少林寺の門弟となり浄覚と名を変え、そこでの修行を通して、自分を見つめ、心の平静を得ていくのです。
争いを嫌う仏教と、武道というのは相反するような感じはありますが、武道というのは思索へ通じるところがあるのでしょう。
拳法に限らず、武道というのは基本の型を繰り返し、それを意識せずに動けるほどに身にしみ込ませていきます。
始めは意識して拳を突き、脚で蹴っていたりしますが、それが次第に考えずにもできるようになる。
肉体を動かすことが無意識にできるようになったとき、内面の心は静まり返った状態になるといいます。
体を動かしながら無の境地に達し、そこで思索を行う。
自分をいうものを見つめ、さらにはそれすらも超えていく。
そんな境地に自分で達したことはないですが、体を動かしている時に頭が冴え渡るという感覚はわからないわけではありません。
浄覚も少林寺での修行の中で、過去の疑心暗鬼に囚われた自分の行いを悔い、それを超えて揺るぎない心を得たのでしょう。
そのような彼からみれば、かつての部下であり、自分を裏切った曹蛮も、憎むべき相手ではなく、憐れむべき相手に見えたのですよね。
「あいつは俺しか救えない」と浄覚は言い、曹蛮との最後の戦いに向かいます。
そして命をかけた浄覚の戦いを通じて、曹蛮も何かを得、そして救われるのです。
このあたりのドラマ性はやはりアンディ・ラウとニコラス・ツェーの演技によるところが大きいと思います。
かつてのカンフー映画のようなアクションも楽しめ、さらにはかつてのカンフー映画にはなかったドラマ性も楽しめる良作に仕上がっていたと思います。

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2011年11月26日 (土)

「コンテイジョン」 情報パンデミック

タイトルの「コンテイジョン(CONTAGION)」は「接触感染」という意味らしい。
本作で描かれるのはまさに接触感染で起こるパンデミックに襲われる世界です。
新型インフルエンザの流行などによりパンデミックという言葉もポピュラーになり、そのような題材を扱う映画もいくつも作られました。
現在パンデミックの危険性が高くなっているのは、いくつかの原因があると思われます。
まずは世界が経済的に互いに深く結びつき、グローバルな交通網・流通網が発達したため、以前では考えられないほどに人と物が、大量にかつ早く往来するようになったということがあります。
どこかで感染がはじまっても気づいた時にはそれが世界規模で広がっているという事態は十分に起こりえるのです。
また開発拡大により、未知の病原菌などに接触する可能性がでていることです。
人類未踏のジャングルなどにはいまだかつて人類が接触したことのない病原菌がある可能性はあります。
それらについては人類は免疫を持っていない可能性もあり、それにより大きな被害をことも考えられます。
このように人類はパンデミックという事態が起こりうるという可能性に面していると言えます。
しかし、本作ではもう一つ、別の観点での「感染」が描かれていると思いました。
それは流言・噂などの真偽が定かではない情報の「感染」です。
本作ではジュード・ロウが演じるアラン・クラムウィディというフリージャーナリストが感染源と言えるでしょう。
彼はブログで多くの読者を抱えるジャーナリストですが、真偽が定かではない(本人は信じている)情報を発信し続けています。
曰く、政府や医薬会社はワクチンを開発しているが隠匿しているなどと言ったような。
災害などの状況化においてはこのような憶測や噂は手段的なパニックを生む可能性があり、非常に危険です。
しかしこのような情報はセンセーショナルであればあるほど、真偽などは関係なくどんどんと拡散していくものです。
それらの情報はインターネットという情報網により、世界の裏側までまさに一瞬で伝わっていく。
これはまさに「感染」していくといったような状況で、「情報パンデミック」と言ってもいいかもしれません。
憶測や噂は伝わっていく間に変質していきます。
「口裂け女」といった都市伝説が、各地で異なるバージョンを持っているように。
この情報の変質は、病原菌が感染していく間に変異していく様にも似ています。
噂が噂を生み、さらに伝播力が強くなっていく。
さらにこの「感染」は接触しなくても、伝染していくからたちが悪い。
本作で描かれるパンデミックの原因はコウモリが食べたえさの残りを豚が食べ、それにより病原菌がコウモリから豚に移り、そこで変異体が生まれたことによるものであることがわかります。
当然のことながらコウモリにも豚にも悪意はありません。
そして「情報パンデミック」の元となるアランも正しいことをやっているという意識はありこそすれ、悪意があるわけではないでしょう(不正をする気持ちはあったようだが)。
そういう悪意から発信されたわけでない情報でも、真偽は定かではないものもあるということです。
個人としてできることは、よくよく危機化の情報の吟味は冷静するということでしょう。
そして政府や企業に求められることは、情報の封じ込めではなく、正しい情報の開示です。
情報の封じ込めはいらぬ噂を生むだけです。
これが「情報パンデミック」を防ぐ処方箋だと思います。

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「インモータルズ -神々の戦い-」 計算された映像美

「300」とか「タイタンの戦い」とかの二番煎じみたいな感じかなと思っていて、正直まったく期待していなかったんですけれど、思いのほか楽しめました。
確かにお話は特筆するべきところはありません。
ただ映像が綺麗で美しいなと思ったんです。
スクリーンで展開されるのは殺伐とした殺し合いだったりするのですが、それでも美しいと思えてしまいました。
事前に監督の名は確認せずに観賞し、観終わってから調べるとターセム・シンという監督さんが撮っているということなんですね。
僕は名前を聞いただけではどんな人かわからなくて、そこでプロフィールをみてみると「落下の王国」を撮った監督だということがわかりました。
「落下の王国」は未見なのですが、予告編を観た時の印象だと非常に計算された映像であり、なるほどその監督だったら、本作がグラフィカルであることはわかるなと納得しました。
まず観ていて思ったのは、1カット1カットの構図がしっかりとレイアウトされているんですよね。
映像というよりはグラフィックデザインのように計算されたレイアウトをされている感じがしました。
あと通常スピードとハイスピード(スローモーション)のコントロールのリズム、カット割りのテンポなどもけっこう神経を使っているなと。
もともとCMの監督だったということですので、このあたりの細かさは納得です。
クライマックスは、人間同士の戦いと、神々の戦いが並行して描かれますが、これの描き方も違えているんですよね。
テセウスとハイペリオンの人間同士の戦いはどちらかというと、型とかルールとかがない肉弾戦のような感じでした。
それを映すカメラも基本的には通常スピードで撮っていて、肉と肉がぶつかりあうような生っぽさがあったように思います。
オリンポスの神々とタイタンとの神々同士の戦いは、「マトリックス」風のスローモーションとワイヤーを使ったファンタジックな描き方でした。
カメラのスピードも通常とハイスピードを切り替えリズムに緩急をつけていたのが、人間同士の戦いとの差、神々の超越感を出すことにうまく働いていたかなと思います。
あと思ったのが、この作品は3Dに相性がいいなということです。
最近はなんでもかんでも3Dになっていて、「これは3Dじゃないほうが良いのではないか」と思う作品も多々あります。
けれど本作は3D向きかなと。
というより3Dを意識して撮ったのかなと感じました。
3Dの映画というのいうのは通常の映像に奥行き情報が加わるので、けっこう観ていて情報量が多くてついていけなくて疲れる、ということがあります。
3Dの映画というのは奥行き情報が加わる分を見越して、観客が処理できる情報量というのをコントロールすることが必要なのではないかと僕は考えています。
本作は先に書いたように、画面がグラフィック的に整理整頓されているので3Dで観ていても思いのほかすっきりとしていて疲れずに観ることができます。
またスピードのコントロールも巧みで、以前「トランスフォーマー ダークサイド・ムーン」の記事の時にも触れましたが、カメラや対象物が激しく動くときはスローモーションにして、観客の情報処理能力を超えないようにするというようなことをしっかりと行っているように思いました。
ですので、アクション映画の3Dの割には観終わった後も、それほど疲れないなと感じたのです。
あまり世間では評価が高くないようですが、映像としてはとても計算されていて巧みな作品だなと思いました。

あ、ゼウスはどこかで観たことがある人だな〜と観賞中に気になっていたのですが、「三銃士」のアラミスを演じていた人だったんですね。

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2011年11月23日 (水)

「のだめカンタービレ フィナーレ(アニメ)」 楽しい音楽の時間の始まりデス

最近オンエアでアニメを追いかけて観ることがなくなって、やっとこさDVDで観ました。
うん、きれいにフィナーレしていましたね。
原作マンガの「のだめカンタービレ」は終盤は展開にかなり苦しんでいるようなような感じがありました。
物語の最終着地点をどこにしようか迷っているような感じといいましょうか。
マンガに限らず、主人公が成長していく物語というのはどこにゴールを設定するのかというのが難しいところであります。
僕は「ジャンプ病」と読んでいるのですが、主人公がドンドン強くなる、そうなるとさらに強大な敵が出て、それを倒すと、さらに強いのが・・・という無限拡大をしていくんですよね。
ドンドン拡大できればいいのですが(「ワンピース」のように)、どこかでやはり無理が出てくるわけです。
そうなると物語がダレダレになってしまうという・・・。
「のだめカンタービレ」は最初は主人公の成長物語などという路線ではなかったと思うのですよね。
才能があるけれど、奇妙な音大生の、風変わりな日常を描くというどちらかと言えばギャグに近いセンスだったと思うんです。
それがパリへ渡ったあたりから、成長物語の要素が色濃くなってきてしまいます。
そこで展開を難しくしてしまうのは、主人公のだめが「成長したくないと思っている」キャラクターであるということです。
よくある成長物語というのは、主人公はもっと強くなるなり、上にあがりたいなりの向上心というものを持っているものですが、のだめにそういうものは一切ありません。
けれども成長ストーリーとしては物語は成長を要求する。
主人公は成長したくない。
このあたりがぶつかって物語がややぐちゃっとした感はあります。
しかしメタ目線でよく考えてみると、のだめに成長を期待している「成長物語」というのは、作品の中では千秋というキャラクターに表されているんですよね。
だからマンガの後半は千秋とのだめがぶつかりあったり、すれちがったりしてしまうわけです。
物語の期待と主人公の望みが相反しているということが、展開される物語に表れているという感じだったのかもしれません。
マンガの方はそれを連載していきながら、うまく着地をさせていくということにとても苦心しているように思いました。
それを受けてのアニメ版のフィナーレは、原作での苦闘を踏まえた上で、整理をよくしているかなと思いました。
成長してほしいと思うこと(千秋)、成長を強制されるのはいやだと思うこと(のだめ)の気持ちがすれ違うことを軸に描いていたと思います。
そして決着としては、成長するとかしないとかそういうところを論点にするのではなく、やはり「音楽は楽しいよね。好きだよね」という根本的なところを互いに共通して理解するということで終わらせています。
物語の要請ものだめの希望もここで摺り合わせられるわけですね。
原作もそうでしたが、二人の出会いであった「2台のピアノのソナタ」に収束させるというのはうまい着地点であったと思います。
まさに二人にとってはこれから「楽しい音楽の時間の始まり」ということになっていくのでしょう。

「のだめカンタービレ(アニメ)」の記事はこちら→
「のだめカンタービレ 巴里編(アニメ)」の記事はこちら→

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「メカニック」 徹頭徹尾ハードボイルドな男

この間まで公開されていたような気がしましたが、もうDVDリリースされているんですね。
上映館が少なくて見逃していたのですが、Apple TVで観賞しました。
それほど過度な期待をしていなかったからかもしれないですが、思いのほか楽しめました。
上映時間もコンパクトですしね。
ジェイソン・ステイサムが演じる殺し屋(メカニック)アーサーが徹頭徹尾クールだったのが、良かったですね。
アーサーは正確無比な超一流のメカニックですが、彼の依頼主であり友人でもあるハリーを仕事として殺さなければいけなくなります。
軽く触れらているだけですけれども、アーサーをメカニックとして仕込んだのはハリーのようです。
その後アーサーはハリーの息子であるスティーブをメカニックとしての弟子兼相棒として組んでいくようになります。
やがてハリーを殺すという依頼は陰謀であるということが判明し、アーサーとスティーブは真の黒幕に迫るわけです。
僕は好きだったのは真の黒幕との戦い云々よりも、スティーブが父親を殺したのをアーサーだと気づいたあとの二人のやり取りあたりですね。
スティーブはアーサーが父親を殺したということを知っているということを臭わせる。
アーサーもスティーブがそれを知ってしまったことに気づいている。
二人で組んできた間に培われていた師弟感情・友情が勝つのか、それともやはり復讐心、または殺し屋としての生存本能が勝つのか・・・。
このあたりではアーサーもスティーブも互いの感情は決して出さないし読ませない。
彼らがどのように考えているのが観ている側はわからないわけです。
下手に友情やお涙系に転がっていくと興ざめしてしまうのですが、最後までハードボイルドを貫き通したのが良かったかなと思います。
ラストのアーサーの表情からは何も窺い知ることはできません。
その心の中で、悲しみや後悔があったのだとしても、それを決して表には出さない。
徹頭徹尾ハードボイルドな男でした。

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「孔子の教え」 入門編としてはよいでしょう

「子曰く」で始まる言葉が記された「論語」は内容は別にしてほとんどの方がご存知でしょう。
ここで言う「子」とは孔子のことであり、「論語」とは孔子の死後、弟子たちが生前の孔子の言葉をまとめたものです。
「論語」の中の言葉は「温故知新」など日本で普段使われる言葉になっているものも多く、中国を始め朝鮮、日本など東アジア周辺国家へ文化や政治などへ影響を与えました。
孔子の教えは「儒教」と言われますが、「教」とあるゆえ宗教と思われる方も多いかもしれませんが、どちらかと言えば、生活の仕方、生き方の規範のようなものと言っていいでしょう。
僕が孔子に興味を持ったのは、幾つか歴史に関するものを読んだこともあるのですが、一番のきっかけは酒見賢一さんの「陋巷に在り」という小説を読んだことがきっかけです。
「陋巷に在り」は本作にも登場している孔子の弟子である顔回が主人公の小説ですが、当然のことながら孔子も登場しています。
この作品の孔子はそれまでにイメージしていた聖人君子とは違い、もっと野心的でかつ人間的な人物として描かれていました。
孔子が重用ししていた「礼」についても大胆に解釈しており、これはこれで非常におもしろかったです。
孔子に興味がある方は一度お読みになるのをお勧めします。
さて、本作ですが、孔子の後半生を順に淡々と描いていくという伝記的な物語となっています。
孔子はまさに大器晩成と地でいくような生涯で、出身国である魯の大司寇に就任するのは50歳を過ぎてからでした。
そのときの中国はいくつもの国が乱立している状態であり、魯も周辺国から侵略の危機を迎えていました。
けれどもその内政は三桓氏と
呼ばれる三つの一族の専横状態となっておりました。
大司寇となった孔子は大胆に改革を進め三桓氏の力を削ぎ魯公を中心とし、礼に基づいた政治へ改革をしようとします。
しかし三桓氏たちは逆に孔子を魯国から追放してしまいました。
その後、孔子とその弟子たちは十数年にも及び各国を放浪することとなるのです。
孔子の弟子で有名な人は何人もいますが、孔子は本作にも登場している才のある顔回(本作では凍った湖で亡くなった)を最も愛したと言われています。
顔回は孔子よりも若くして亡くなりますが、その際に孔子は「ああ、天われをほろぼせり」と嘆いたと言われています。
また子路は本作でも描かれているように高弟の一人ですが、やや乱暴でせっかちな人物として描かれることが多いですね。
本作にもあるように衛の高官となりますが、反乱で落命してしまいます。

本作はこのような孔子の後半生を淡々と忠実に描いています。
ですので、孔子という人物に興味を持ち、どんな生涯を歩んだかということを知りたいという方には最適な映画だと思います。
ただそのような事実を追っていくような伝記的要素が強いため、やや映画としてのドラマ性として観るとやや弱い感じがしました。
僕は本などで孔子の生涯は知っていたので、やや退屈な面もありました。
もう少し孔子という人物を「陋巷に在り」で行われたように、大胆に解釈し、彼の人間性へ新しいアプローチをしてくれると良かったかなと思いました。
諸星大二郎さんの「孔子暗黒伝」がおもしろいと聞いているので、こちらいつか読んでみたいと思います。

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2011年11月21日 (月)

本 「松下幸之助日々のことば -生きる知恵・仕事のヒント-」

経営の神様と言われる松下幸之助のことばを、日めくりカレンダーのように1日1日のことばとして記載した本です。
松下幸之助のことば自体は何も難しい言い回しはありません。
だれでもすらりすらりと読めることばです。
そして言っていることもそんなに難しいことでもありません。
これもだれでもその通りだと思うことばです。
けれど、それを毎日の自分の行いで実践できているかというと首を傾げざるを得ません。
だからこそ、日々ちゃんとできているか自分に問う姿勢が必要なのでしょうね。

いくつか松下幸之助のことばをあげてみましょう。

「何事にも素直な心で”なぜ”と問いたい。”なぜ”と懸命に考えるところから進歩も生まれる」
これはまさにその通りで、自分も仕事ではそうありたいと常に心がけていることです。
このブログで映画や本のことを書いているのも、”なぜ”自分はこう感じるのか、ということを考えるということの訓練というのもあります。

「協力は無理に得ようとしても得られない。熱意と誠意で懸命に取り組むところにおのずと集まってくる」
これもその通りなんですよね。
たまたまそういう部署だったり、得意先だったりすることで、協力が得られるものだと考えたりする人がいます。
けれどその地位を離れてしまった時、誰も協力何かしてくれません。
協力したいと思わせるのは、地位ではなくて姿勢なんですよね。

「かつてない困難からはかつてない革新が生まれ、かつてない革新からはかつてない飛躍が生まれる」
うちの会社も困難にぶつかったときが何度かありましたが、その中で知恵を絞ってやったことが、その後のスタンダードになっていくというのを何度か経験しました。
それは他の会社にはない経験であり、財産であるんですよね。

「人より多く働くことは尊い。しかし、人より少なく働いて、今まで以上の成果をあげることもまた尊い」
多く働くことが正しいと考える人はまだ多くいます。
たくさん働くことを自体が悪いとは言いませんが、僕はうまく時間を使って成果を出すということもやはり正しいと思います。
なるべくそうありたいと考えて仕事をしています。

「頭で考えて身で行う。行ってまた頭で考える。それをくり返していくところに進歩向上がある」
これはPDCAサイクルのことですね。
理論と実践をくり返すということはやはり大事です。

「引くに引けないという覚悟が、今日のむずかしい時代に対処する第一歩。そこに道が開ける」
まさに今の時代のことを言っているかと思える言葉です。
日本という国も、それぞれの企業も難しいの今の時代。
やはり覚悟が必要です。

「どんなに良い製品でも、世の人びとに知らせなければ意味がない。宣伝広告本来の意義はそこにある」
僕が広告宣伝に関わる仕事をしているのでとりあげました。
広告の基本は知らせる、伝えるということ。
これを外して手法と目的を勘違いをした広告を作ってはいけません。

「責任が重くなっていくことに生きがいを覚えてこそ人は一人前」
臆病者なので、耳が痛い。
若い頃は責任を背負うということはイヤでしたが、責任を背負わなければできないこともあるっていうことですよね。

「適正価格を守り、値引く以上に価値あるサービスでお客様を満足させる商売が、繁栄に結びつく」
これは現在のメーカー、卸店、流通、そして消費者にわかってほしいこと。
むやみやたらに値段を下げればいいというものではありません。
某スーパーの「KY」戦略などはもってのほか。
そしてメーカーは価格に見合った価値を提供できるようにしなければいけません。
できないから価格競争になるんです。
アップルを見習いましょう(最近パナソニックはできているようには見えないですが、大丈夫か・・・?)。

「松下幸之助日々のことば -生きる知恵・仕事のヒント-」PHP研究所編 PHP研究所 新書 ISBN4-569-53320-5

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2011年11月20日 (日)

「マネーボール」 ビジネス指南映画

本作は「日頃忙しくて映画なんか観に行く暇なんかないやい」というビジネスマンに観てもらいたいですね。
いろいろとビジネスについて示唆してくれるところが多い映画です。
ニューヨーク・ヤンキース等の金持ち球団に対して、そもそも使える予算の少ないオークランド・アスレチックスが連勝記録を打ち立てた背景には、アスレチックスのGMビリー・ビーンが実践したマネーボール理論というものがありました。
マネーボール理論というのは、ホームランをたくさんかっ飛ばすスラッガーや観客ウケする選手、言わば派手な選手を起用するといことではなく、出塁率などのデータを重視し、チームとしていかにたくさんの得点を取るかということを主眼にして考えるというものです。
本作ではマネーボール理論自体が重要ではなく、その理論がそのときの大リーグでは異端視されていたものであったことに着目するべきでしょう。
大リーグに限らず、どの業界も古ければ古いほどそこに既存のシステム、仕組みがあります。
そのシステムは作られたときにはそれ相応の理由があり、効率的であったのでしょうが、時間が経つにつれ制度疲労を起こしてくるものです。
突然何かしらの変化と出てくればいいのですが、じわじわと変化が訪れているとき、その仕組みの中で生きている者はその変化を実感できず、いつの間にか真綿に首を絞められるような感じでにっちもさっちもいかない状態になってしまう(いわゆる「ゆでガエル」ですね)。
そういうときは目先の手法ではなく、根本的なシステムそのものを見直さなければいけない(いわゆるパラダイム・シフト)ものなのですが、これがなかなかにやっかいなのは皆さんはご存知のとおり。
そのパラダイム・シフトを起こすには、その新しい考え方を自分が揺るぎないほどに信じなくてはいけない。
その勇気と気概があるかどうか、それが今を生きるビジネスマンにも必要とされるところでしょう。
今世間を騒がせているオリンパス問題というのはまさに既存のやり方を見直す勇気のなかった者のなれの果てというところでしょうね。
またもう一つ示唆される点は、人の評価についてです。
人の評価にはどうしても主観というものが入ってしまいます。
また過去の実績やそういうものも。
しかしその人のポテンシャルを評価し、他の者と比べる時になにかしらの基準がなくては公平な評価はできません。
その基準はそもそものその組織が達成すべき目標を実現するために必要とされる能力によって定められるものではなくてはいけない。
これがないと組織の人の評価はできません。
本作で描かれるアスレチックスは「出塁率」というのがひとつの評価基準として設定されました。
これはマネーボール理論に基づき、必要不可欠な基準であるということが、評価者そして評価される者にとってもい納得性の高いものなのです。
そしてもう一つ示唆される点です。
当初、ビリー・ビーンもできていなかったところですけれども、トップがたてた戦略というものをその組織のメンバーにしっかりと理解させるということが大事ということです。
ビリーは始めは新しい考え方に基づきチームの編成を変えました。
それでチームは勝ち始めると思ったわけですが、そうは簡単にはいきません。
なぜならばチームのメンバー(監督を含め)、ビリーの理論を理解していなかったからです。
いくら理論がしっかりしていてもそれを実行する者が理解できていなければ結果はだせるわけがありません。
結果を出せないチームに対し、徐々にビリーは自分の考えを直接話し、理解してもらうようになります。
それによりようやくチームは結果を出せるようになったのです。
こうなれば組織はうまく回り始めます。
ビジネスにおいてもありがちなのはビリーが最初にやってしまったこと、理論はたててそれで満足してしまうというものです。
書類できれいなマーケティングプランが書けても、それを開発や工場、営業まで落としきれない。
これでは結果はだせません。
プランをそれを実施するメンバーの腹に入れてこそ、ようやく結果を出すための基盤ができたということなのです。

・・・などと日経新聞を毎日読んでいるビジネスマンのツボに入る要素が多い映画であります。
つらつら書いてきたように示唆される点もあり、他にもいろいろと見つけられると思います。
ただ映画的にはややそれらの示唆があざといかな・・・。
もうちょっとドラマ的に心に訴えかけるような感じもあればもっと良かったかなと。

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2011年11月19日 (土)

「第7鉱区」 韓国版「エイリアン」といったところ

韓国南西の海上にある石油掘削プラットフォーム。
長年にわたりボーリングが続けられていましたが、成果が上がらないということで乗組員に引き上げ命令がでます。
けれどもラストチャンスで最後の探査を行うために残ったチームに、何か得たいの知れない怪物が襲いかかります。
折しも海上は嵐で脱出もままならない。
次々と襲われる乗組員。
怪物の正体は何なのか、乗組員は無事に脱出できるのか・・・。

韓国版「エイリアン」といったところでしょうか。
もうこれでほとんど説明できちゃう。
閉鎖空間で謎の怪物に次々に乗組員が教われ、最後に残るのはヒロインのみというところはまさにそのまんま。
そのせいか、あまり新味を感じませんでした。
怪物が化学合成生態系の生物であるという設定はおもしろいなと思いましたが、その姿は最近よく見られる映画のクリーチャーと同じ感じなので、新鮮さがありませんでした。
「エイリアン」とか「プレデター」は見ただけで「新しい!」って感じがありましたが、最近はアメリカをはじめクリーチャーというとこういうテイストですよね。
そろそろ新しい造形を見てみたいです。
人間ドラマのほうもそれほど深堀りされておらず淡白でした。
キャラクターもステレオタイプでしたしね・・・。
そんでもってキャラクターの描き方がなんか微妙なんですよね。
ヒロインの相手役は活躍しそうで活躍しないし。
頼りにならないキャプテンは最後まで頼りにならないし。(「エイリアン2」みたいに最後はかっこよくさせてあげたらよかったのに)。
ほんと微妙・・・。
アクションやVFXが目を見張るかと言えば、アメリカでも日本でもこのくらいはできそうなくらいの標準レベル。
質は悪くはないけど、良くもない。
これも微妙・・・。

ま、主人公のハ・ジウォンがタイプ(強い女性ずき)だったのと、アン・ソンギが相変わらずいぶし銀な感じだったので、よしとしますか。

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本 「ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔」

前作「ルー=ガルー 忌避すべき狼」が出版されたのが2001年ですから、10年ぶりの新作となります。
昨年映画化されたことがきっかけになっているのかな?
本作は前作から3ヶ月後という設定になっています。
前作の中心となったのは、牧野葉月、神埜歩未、都築美緒というキャラクターでしたが、本作では前作の脇であった来生律子、作倉雛子、麗猫が中心となります。
葉月は出番は少ないもの歩未、美緒は本作では脇とはいえ活躍します。
前作は「京極堂」シリーズにも通じるような京極夏彦さんらしい虚と実というテーマがありましたが、本作ではそのあたりはやや薄れ、ストレートなエンターテイメントとなっているように思います。
このあたりもアニメ版の影響かな?
本作で描かれる未来は、世の中の仕組み・枠組みががっちりとできてしまっている世界です。
その中で先にあげた少女たちはそれぞれにその世界への居心地の悪さを感じています。
かっちりと固まっていた世界に対し、少女たちが行動をもって自分らしさというものを発揮していくというのが本作のテーマになりましょうか。
京極さんらしいテーマは薄いものの物語としては一気に読ませるパワーはありますので、素直に面白く読めるのではないでしょうか。
美緒って前作もそうでしたが破天荒なところは、「京極堂」の榎木津に通じるところがありますよね。
そろそろ「京極堂」シリーズも新作が読みたいなぁ。
本作はシリーズ化しそうな終わり方でしたね。

本作はハードカバー、新書、文庫、電子書籍という4形態で同時に発売されました。
ハードカバーは重いし、文庫は分冊で上下巻合わせると新書版と同じ値段だし、電子書籍は苦手だしということで僕は新書判で読みました。

前作「ルー=ガルー 忌避すべき狼」の記事はこちら→

「ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔」京極夏彦著 講談社 新書 ISBN978-4-06-182755-4

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2011年11月13日 (日)

本 「Wドライヴ 院」

「コズミック」「ジョーカー」の清涼院流水さんの作品

清涼院さんも、今年でもうデビュー15周年なんですね。
「コズミック」と「ジョーカー」という作品は衝撃的でありました。
そもそも推理小説という枠組みととらえるべきかどうか・・・。
発表されたときは、いろいろと論議があったようですね。
個人的には「あり」だと思います。
厳密に推理小説かと言われるとそうではないかもしれないと思いますが、小説としておもしろければ「あり」なのです。
そもそも清涼院さん自体がそのようなジャンル分けを無意味だと思っているような気がしますし。
推理小説というものがある枠組みの中で論理を組み立てていくということが前提であるとするならば、「コズミック」や「ジョーカー」は推理小説ではないでしょう。
ただそういう枠組みを破壊してしまうようなパワーを「コズミック」「ジョーカー」を持っていたわけでだからこそ論議があったのでしょうね。
とはいえ、最近はあまり作品を発表されていないような感じもします。
ただの一発もののキワモノとならないためにも、清涼院さんらしい突飛な作品を発表してもらいたい者です。

前段が長くなりましたが、こちらの作品は古い作品で中編が2つ組合わさったものとなっています。
それらの2作品にも清涼院さんらしいギミック(装丁を含め)がされていますが、ま、あまり個人的にはこういうギミックは好みません。
じゃ、おもしろくないかというと、おもしろいです。
もうこれは推理小説ではないですけれどね。
でもおもしろい。
清涼院さんらしい不条理な出来事が起こりそれが展開していきます。
その中で、人の奥深くにあるドロドロっとしたものを描いていくのが、この方の作風。
キワモノっぽい感じがしますが(たぶんキワモノなんですけれど)、だからといって食わず嫌いももったいない。
一度手に取って読んでみてはいかがでしょうか(でもやっぱり受け入れられない人はいるかと思いますが)。

「Wドライヴ 院」清涼院流水著 講談社 文庫 ISBN4-06-273240-8

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「カイジ2~人生奪回ゲーム~」 変わらない高い緊張感

前作「カイジ 〜人生逆転ゲーム〜」はそれほど事前情報をもたず、また期待もせずに観に行ったのですが、観終わった後にとても満足度の高い作品でした。
全編ピンと張りつめた緊張感がありましたが、特にカイジ(藤原竜也さん)と利根川(香川照之さん)のEカードをめぐる心理戦が凄まじく、、観ていても胃がギューとなったのを覚えています。
その「カイジ 〜人生逆転ゲーム〜」の続編が本作になるのですが、やはり前作が好評だったからなんでしょうね。

本作のクライマックスとなるゲームは、なんと巨大なパチンコ「人食い沼」。
通常パチンコは1玉=4円なのだそうですが、「沼」は1玉=4000円。
まさに底なし沼のように、お金を呑み込んでいくマシーンです。
そしてこのマシーンには仕掛けがあり、決して「勝てない」。
カイジは再び地下から脱出できるのか、仲間を救うことができるのか・・・。
前作は利根川という敵役と、人対人の心理戦が緊張感を出しました。
本作はカイジ(人)対「沼」(機械)の戦いになるので、前作のような緊張感が出せるかどうかが心配していたところでした。
しかしその心配は杞憂で、前作に引き続き高い緊張感が物語に張りつめます。
それこそ一難去ってまた一難といった展開で、これで勝負は決まっただろうというところでも、またさらに勝負が続いていく。
カイジたちが「沼」を攻略していく様は、周到にくみ上げらたクライムサスペンスを観ているような感じもあります。
けれどもいカイジたちが「沼」を攻略していっても、相手方はさらに卑怯な手でそれを阻止しようとします。
それを突破していくのは、カイジだけの力ではなく、カイジのまっすぐさと運にかけてみようとした仲間たち(厳密には仲間ではないのですが)であるというのが、前作と違う新しいところですね。
前作は敵との心理戦。
本作は仲間との心理戦と言っていいかもしれません。
人対機械の戦いではありましたが、それを勝ち抜くためにはカイジと彼をとりまく人との間でのやはり心の戦いが展開されているのです。
基本的には相手の気持ちを読み、それの裏をかく、そういう心理戦が「カイジ」シリーズの真骨頂なのだと思いますが、前作の構図をそのまま繰り返すのではなく、少し捻っているところに本作の工夫を感じます。
ピンチがこれでもか!というほどに続くねちっこい脚本は見事でした。
また場面があまり変わらず、人物もそれほど動くわけではないので単調になりがちな話なのですが、緊張感と、それと相反するテンポの良さをうまくバランスをとった佐藤監督の演出もよかったと思います。
前作で存在感を出した利根川を引き続き登場させ、また前作のラストでちらりと出た石田の娘(吉高由里子さん)をストーリーで重要な役にしているのもおもしろい試みでした。
これで本作はシリーズ化もいけるんじゃないかなと思いました。
おそらくやりますよね、「カイジ3」。
次は再びカイジVS利根川ですかね。
それともカイジVS兵藤か?
いずれにしても続編制作を期待したいです。

前作「カイジ 〜人生逆転ゲーム〜」のレビューはこちら→

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2011年11月12日 (土)

「1911」 ジャッキー・チェンの想い

ジャッキー・チェンの映画出演100作目、かつ辛亥革命100周年を記念して作られたのが本作「1911」です。
清朝末期、中国は列強各国に領土や権益を奪われ没落の危機にありました。
しかし政治の中央はそれらに対して有効な対応策を打つことができず、さらには汚職にまみれ自己の保身に走っていました。
そのような清朝政府に対し、欧米の思想に触れた孫文らが民主化を掲げ活動し、ついには清朝皇帝を退位させることに成功したのが辛亥革命です。
辛亥革命という出来事は歴史の授業で習ったにせよ、その詳細は知らないという方がほとんどではないでしょうか。
かくいう僕もその一人。
本作は歴史の出来事を扱っているので大河ドラマになることは当然としても、やや淡々とその出来事を追っていくという展開がやや退屈ではあったように感じました。
物語に芯になる人物がいてくれて、その人物に感情移入できる物語であればもう少し見易くかったかと思います。
孫文が中心になるわけでもなく、ジャッキー・チェンが演じる黄興が中心になるわけでもなかったので、観る側の目線としてはどうしても客観目線になってしまいます。
予告を観たときは、辛亥革命に参加した無名の若者たちのドラマになるのかと思いましたが、それはほんとに序盤だけでしたし。
そういう点でやや観る側の視点の置き所がぼんやりした物語になったかなと感じました。
多くの人がよくは知らない出来事を描いているわけなので、致し方ないところもあるのかもしれませんけれども。

「ラスト・ソルジャー」を観た時に感じたのですが、最近のジャッキー・チェンの作品にはメッセージが込められるようになってきた気がします。
ジャッキー・チェンは今まではどちらかと言えばエンターテイメントに徹してきた映画人であったと思いますが。
本作は彼の今の考えのようなものが表れているようにも思いました。
ご存知の通り、ジャッキー・チェンは香港生まれのアクション・スターです。
香港が中国に返還されるとき、ジャッキー・チェンは移住するという噂もありましたが、結局は香港にとどまり、また映画制作を(本作のように)中国本土を巻き込み展開しています。
移住すると噂というのは民主化された香港生まれで、日本やアメリカでも活躍するジャッキーが、共産党一党支配の中国で活動が息苦しくなるのを嫌うのではないかという憶測があったからだと思います。
けれども返還後は中国政府のイベントに参加したり(例えば上海万博のテーマ曲提供など)などしています。
ジャッキーでも長いものに巻かれろ的なところもあるのかなとも思いましたが、本作を観るとそうでもないかとも思い直しました。
本作で題材となった辛亥革命を主導した孫文は国民党を興した人物ですが、専制政治を終わらせたということで現在の中国共産党からも評価をされているようです。
孫文が唱えていたのは基本的には民主化なので、中国共産党的には思想的にどうかというところもあるのかもしれないですが、やはり清朝を打倒したこと=革命が評価に繋がっているのでしょう。
孫文が行ったことは革命であり、同じく革命を唱える共産党からすれば批判しにくい人物であるに違いありません。
ジャッキーの話に戻りますが、彼が孫文を題材に選んだところに、彼の考えが表れているかなと思います。
ジャッキーは香港VS中国という見方はあまりしていないように思います。
今までの発言などを聞いていても異、香港だろうと本土だろうと同じ中国人同士なのでひとつの祖国として見ているように感じます。
では現在の中国本土の状態がいい状態であるかというと、それが決していい状態ではないとも思っているような気がします(これは僕がそう感じているだけですが)。
経済が発展していると言っても持てる者と持てない者の格差は広がり、また一党独裁で人びとの権利も政治に規制されているわけです。
自由が当たり前であった香港育ちのジャッキーがそれをよしと思うとは思えません。
けれどその体制を正面きって批判するというよりは、映画を観る人にすこしづつでも感じてもらいたいというのがジャッキーの思いなのではないでしょうか。
だから最近のジャッキーの映画はメッセージ性が強くなってきているのです。
本作は無名の若者たちの犠牲を強いながら辛亥革命が成功するまでの道筋を描いています。
「1911」では辛亥革命が成功するまでを描いていますが、歴史にはその続きがあります。
孫文が共和国大総統の地位を譲った袁世凱はその後、孫文らの活動を弾圧するようになり、最後は自らが皇帝になろうとまでします。
孫文は私利私欲がなく志の高い人物だったようですが、袁世凱は逆のタイプであったようです。
若者たちの自由のための活動を封じ込めようとしたのが袁世凱なのです。
この姿は現代中国にも重ねて見ることができるような気がします。
革命を標榜し、より平等な社会を目指したはずの中国共産党。
しかし現実はそうはなっていません。
どちらかといえば利権まみれになっており、これは清朝末期や袁世凱の姿とオーバーラップします。
本作で倒れていく若者たちの姿は、天安門事件の姿とも重なります。
ジャッキーはそういう現代中国への問題提起を本作を通じて行っているような気がします。
それを中国政府が表立っては批判できない孫文という人物を通して。
そういう意味で本作はとても考えられているなと思いました。
正面切って批判をするのではなく、あくまでも自分の仕事である映画を通じて、ソフトに伝えようとする。
争いを好まないジャッキーらしいなと思いました。

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本 「虚言少年」

京極夏彦さんというと「京極堂」シリーズや「巷説百物語」シリーズなどの作品で、妖怪というものを通じて人や社会の歪みを描いています。
けれどもそれらとはまったく違う方向性で、ギャグ小説というような作品も書いています。
「どすこい」や「南極(人)」などがそういう作品なのですが、本作「虚言少年」もそのようなギャグ小説群に入れられるかと思います。
ユーモア小説というジャンルがありますが、京極さんのギャグ小説というのはそういうのともちょっと違う感じがします。
ユーモア小説というのは四コママンガのような感じで、起承転結の最後の転結でひっくり返してその落差で笑わせるというようなところがあるかと思います。
構成で読ませるという感じでしょうか。
京極さんのギャグ小説というのは、そういう構成で笑わせるというよりは、ほんとに話の中に織り込まれている一発ギャグで笑わせる感じのイメージなんですよね。
イメージ的には赤塚不二夫さんのマンガのような感じとでも言いましょうか。
当然、短編それぞれで構成で笑わせるところもあるのですが、どちらかというとそれは話に決着をつけるためという感じで、狙いは織り込まれるギャグのほうではないかと。
だいたい京極さんのギャグ小説は一風変わった登場人物が出てきていて、それらの登場人物の掛け合いで笑わせてくれるんですよね。
本作ではケンゴ、ホマレ、キョーノという三人組の小学生がメインの登場人物なのですが、それぞれが変わった価値観で子供社会というのをみていてそれらの掛け合いがおもしろい。
京極さんのギャグ小説は、文章は理性的に書かれているのですが、その内容はえらくくだらないという落差がありそのあたりもおかしいという感じがありますね。
ギャグマンガというのも笑える笑えないというのはけっこう人によるところがあるかと思いますが、たぶん京極さんのギャグ小説というのもそうかもしれません。
僕の場合は京極さんのギャグ小説というのは波長が合うらしくいつも笑わせていただいております。
電車の中で読んだときは笑いをこらえるのがきつかったですし、家で珈琲を飲みながら読んでいたところは突然展開されたギャグに文字通り吹き出してしまいました。
おかげでそのページは珈琲色に染まってしまいました。

「虚言少年」京極夏彦著 集英社 ハードカバー ISBN978-4-08-771407-4

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2011年11月11日 (金)

「スマグラー おまえの未来を運べ」 覚悟

タランティーノの「キル・ビル」のアニメパートとか、「REDLINE」などの石井克人監督の作品です。
実は僕は石井監督の実写映画は今まで観たことがありません。
「鮫肌男と桃尻女」とか「PARTY7」とか有名な作品がありますが、なんとなく見逃してきた感じですね。
初実写石井作品だったわけですが、タランティーノがアニメパートを任せたのもわかる感じがしますね。
映像の感覚的には通じるものがあるような気がしました。
で、やはりタランティーノ的な残酷描写もありで、これはやはりちょっと苦手だったりするわけです。
痛いの苦手なんですよ、けっこう執拗に描くし・・・。

主人公はしがないフリーターの砧(妻夫木聡さん)。
彼はぼんやりとした夢であった役者を目指しつつも、なんとなく限界を感じてそれも止め、そのままダラダラとフリーターとなり暮らしていました。
甘い言葉に誘われて、多額の借金を背負ったことで、危ない仕事に首をつっこむようになってしまったわけです。
彼は自分の限界というものを何もしないうちに勝手に定めてしまっているところがある男です。
おそらくがんばって努力しても、どうにもならなくなって挫折してしまうということを恐れているのかもしれません。
こんなにがんばったのに・・・、と泣くことを怖いと思っているのだと思います。
けれどもそういう「がんばり時」というのを避けてしまいながら生きていくというのは、水は低きに流れるといった感じで楽に楽にと考えていくと、いつの間にかこんなはずではなかったという状態になるということもあるわけです。
個人的には「努力!」「根性!」とかいう精神論を始終言われるのはゲンナリしてしまうほうなのですが、そうはいってもがんばらなければならない時があるというのはその通りだと思います。
「ここはがんばり時だ!」と覚悟を決めることができるというのが大事なのかなと。
砧は覚悟を決めることを避けてきたのでしょうね。
もう一人、主人公に近い役回りなのがチャイニーズの殺し屋、「背骨」。
背骨はしなやかかつ頑強な肉体で相手を圧倒する殺人マシーンであり、ヨワヨワな砧と一見正反対に見えますが、実際のところは鏡像とも言ってもいいほど似通ったところがあります。
背骨は幼い頃より殺し屋になるべく育ち、多くの人を殺してきたわけです。
それは自分で選択してきたというよりはそうなるように育ったということなのでしょう。
そういう意味では自分の将来を覚悟して決めてきたというわけではなく、低きに流れる水のように生きてきたと言ってもいいと思います。
背骨もこうなってしまった自分に対し、どうしてこのようになってしまったのだろう、殺すということはなんなんだろう、生きるということはなんだろうと考えるようになります。
これは砧が己の今の状態をどうしてこんなことに、と考えることとまさに同じです。
ラストで砧が背骨とオーバーラップするカットはそれを象徴的に表してます。
本作は彼らと同じように生きてきた人間が多く、運び屋仲間のジジイもそうですし、丈も同じです。
丈が砧に言うセリフで「望まぬ日常に埋もれるカスにはなるな」というのがありましたが、これは丈が自戒を込めて、まだ自分で未来を選択できる可能性のある砧に伝えたかった正直な気持ちでしょう。
困難な壁が目の前に現れた時、それを避けたいと思うのは人情です。
けれどそこをがんばり時と考え、それに向かう覚悟ができるかどうかは、やはり選択なんですよね。
ラストで砧はその覚悟をした。
だから自分の未来を運ぶことができたのですよね。

高嶋(兄)のヤクザの拷問シーンがほんと痛かった・・・。
そう言えば、高嶋(弟)も「探偵はBARにいる」でSッ気たっぷりのヤクザを演じていましたね。
兄弟でSッ気ヤクザ役とは・・・。

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2011年11月 6日 (日)

「三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船」 想像していたよりオーソドックス

三銃士の物語はけっこう好きで、映画や本も読んでます。
映画だと1993年の「三銃士」は好きですし、ディカプリオが出ていた「仮面の男」というのもありましたね。
デュマの原作も読みました。
ストーリーはもう決まっていますからそこに新味は感じないんですけれど、何度も作られるというのはそこに普遍的なテーマがあるからなんでしょうね。
王への忠誠と仲間への信頼というのが「三銃士」の根本テーマであると思います。
日本の「忠臣蔵」みたいなものかな。

監督のポール・W・S・アンダーソンが「三銃士」を選んだのを聞いて、始めは意外だなと思いました。
どちらかというとコミックやゲームを原作にして、オタク趣味を炸裂させた作品を作るのが彼の方向性だと思っていたので、古典的作品を選んだのに少々驚いたのです。
でもよく考えると彼はオリジナルのゲームやコミックをベースにしてそのエッセンスを汲み取りながらも、彼らしい風味を出してくるというのが今までであったので、ポール・W・S・アンダーソンらしい「三銃士」を見せてくれるかなと期待に変わっていきました。
予告を観ると、飛行船が登場したり、ミレディ(ミラ・ジョボビッチ)があの衣装で華麗なアクションをみせてたりするので、期待度も高まりました。
さて、観賞後の感想ですが。
思ったより、普通でしたね・・・。
もう少しポール・W・S・アンダーソンらしいこだわり感が出てもよかったかなと。
他の監督でもこのくらいはいけるだろう、という感じがしました。
それだけ「三銃士」という題材の大きさ、重さがあったのかな。
基本的にそれぞれのキャラクターの性格や行動は、今までの作品とあまり変わらず踏襲でしたし。
ミレディが二重スパイというのは新しかったですが、それくらいかな。
ストーリーも基本的には原作、今までの作品から逸脱はしていなかったですよね。
あまり変更し難いのかもしれませんが。
また飛行船を舞台にした活劇についても、ほぼ予告編でいいところを見せてしまっていたので、本編を観た時にやや新鮮さが感じられませんでした。
ポール・W・S・アンダーソンだったら、もう少しジャンプするだろうと期待しすぎましたかね・・・。

ミラ・ジョボビッチ演じるミレディーは、「ルパン三世」の不二子ちゃーんみたいな感じでしたね。
このキャラクターはちょっと魅力的でもう少し膨らましてもよかったかなと。
ただダルタニアンと三銃士を食ってしまうか・・・。
コンスタンスを演じていた女優さんが可愛くて見入ってしまいました(あまり知らない人ですね)。

本作は3Dにしようか、2Dにしようか迷った作品でした。
結果的には3Dで観たのですけれど。
ポール・W・S・アンダーソンの前作「バイオハザードⅣ」ではうまく3Dを使っていたので、本作でもその使いこなしを期待したのですが、あまり効果的な感じがしませんでした。
飛び出し感も奥行き感もあまり感じられず。
衣装や背景に装飾が多くて、画面の情報量が多いからかな・・・。
アクションだったらなんでも3Dがいいってわけでもないですね。

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2011年11月 5日 (土)

「サラリーマンNEO 劇場版(笑)」 (笑)

NHKの異色のコント番組がまさかの映画化。
コントを一本のストーリーの流れのある映画にするということはどだい無理なところがあるので、そこは言いっこなしということで。
「NEO」ファンならば、どの人気キャラクターがスクリーンに登場するかを楽しむと言うことになるでしょう(逆に言えば「NEO」ファンでなければ、さっぱりわからないことだろう)。
セクスィー部長が当確なのは当然として、「がんばれ川上くん」の川上くん、「スケバン欧愛留」欧愛留夜叉、「大いなる新人」の早川くんとか、手堅くおさえてきてますね。
個人的には「変な感じの係長」「社内スタントマン」「ジャン」「就活一直線」あたりも好きなんですけれど、さすがに無理か・・・(ああ、「NEO」ファンでないと全くわからないであろう)。
基本的に「NEO」ファンのための映画と言っていいでしょう。

テレビの「サラリーマンNEO」がウケたというのは、日本人の多くが経験しているサラリーマンという仕事の悲哀と苦労みたいなものを笑い飛ばさせてくれるというところでしょうね。
映画でもちらりと映っていましたが、「サラリーマン川柳」と同じようなセンスが番組にあると思います。
「ああ、こういうのあるよねぇ」「そうそう、そうなんだよねぇ」というのをうまく言い当ててくれてるという感じですかね。
映画のほうは笑わせるだけではさすがに全編もちませんから、サラリーマン生活の中で感じる喜びのようなものがストーリーの縦軸になります。
それが主人公新城(小池徹平さん)を通して描かれるわけですね。
映画の中で「(ビールを)飲んでるやつには、お前らの苦労なんか関係ねえんだよ」というセリフがあります。
これは新城たちが企画した商品がいろいろな事情で発売できなくなったことに対し、新城が「みんながこんなに苦労したのに」と抗議したことへ、上司中西(生瀬勝久さん)が言った言葉です。
同じようなことを若い頃言われましたね(私もメーカーのサラリーマンなので)。
そのときは頭にきたものですが、サラリーマン生活を20年近くやってくると、今だったら同じことをおそらく部下には言いますね。
お客さんにとっては作った人間がどんだけ苦労したなんてほんとに関係がない。
買ってみたいと思ってもらえるものが作れるかどうかだけなんですよね。
「こんなに苦労したのに・・・」と思うこともしばしばありましたが、もう個人的にはそういう域は越えてます(感覚的には本作の中西課長の感覚は自分に近い)。
喜びはやはり店頭で自分が関わった商品をお客さんが手に取ったりするところを見たりすることなんですよね(そういう場面に出くわすと、「カゴに入れてくれ〜」とか心の中で言ってますからね)。
あとはやはりいっしょにやった商品開発担当から「あの商品売れてるよ」などと言ってもらったときでしょうか。
僕がやっている仕事は広告・デザインなので、そういうふうに皆でやったことの結果がでていると嬉しいものです。
これぞサラリーマンの醍醐味というところでしょうか。
そのあたりは本作ではストレートに描かれてましたね。

しかしこういう「サラリーマンNEO」のような番組を作れるNHKはやはり凄いと思います。
「NHKスペシャル」も質が高いし、報道もやはり細かく取材しています。
受信料をとっているだけのことはある。
最近民放はおもしろくないので全然見ていない・・・(って広告やっている人間が言っちゃいけないのですけれど)。
視聴率低迷→制作費減→番組質低下→視聴率低迷という負のスパイラルに入ってます。
安くない広告費をクライアントからはとっているのに・・・。
もっと民放はがんばってほしいところです。

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本 「戦国仏教 -中世社会と日蓮宗-」

タイトルから戦国武将の間に日蓮宗などの鎌倉仏教が広まっていくという内容かなと思ったのですが、ちょっと違いましたね。
仏教はそもそもは奈良時代に日本に伝わり、当時は国の安泰を願うという役割を持たされていました。
それから平安時代あたりまでは寺院などの役割も言わば国家のために祈るということであったのですが、鎌倉期法然、親鸞の登場により仏教が大衆に広がり始めます。
法然、親鸞は念仏を唱えるだけで、救われることができるととき、民衆の支持が広がっていくわけです。
こちらの本でメインで取り上げられている日蓮宗は、創始は名前の通り日蓮。
日蓮は厳格な法華経至上主義で他教を避難します。
また日蓮は浄土宗が念仏を唱えるだけで来世の安寧を約束するのと異なり、現世での利益に目を向けます。
本著によれば鎌倉末期から室町、戦国時代というのは気候は寒冷期に突入し、飢饉などが頻発した時代だということです。
そのような状況の中で、民衆が目の前にある苦難から救われたいという気持ちで日蓮の教えに惹かれていったということが書かれています。
またその時期は民衆の間でも富裕層が登場し、また武士も力をもってきている時代であり、それまでの権力側である貴族以外にも、自分たちを庇護してもらう心理的な後ろ盾を欲しくなっていた時代でもあります。
仏教側としてもそれら新興の力をいちはやく取り込む必要があったのでしょう。
そのような背景をもとに日蓮宗などは急激に民衆に浸透していくのです。
ただ日蓮の教えが広まっていくときには、他教や土着の民俗を取り入れていくことが必要であり、それによって日蓮宗も変容していきます。
同じ日蓮宗と言っても現在ではいろいろな宗派が分かれているのはそのためです。
日蓮宗が広がっていくときに、そもそもの日蓮の考えのベースにある法華経至上主義というのがしだいになくなっていくというのは、なんとも皮肉な気もします。

「戦国仏教 -中世社会と日蓮宗-」湯浅治久著 中央公論 新書 ISBN978-4-12-1-1983-7

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2011年11月 3日 (木)

「ステキな金縛り」 自分に自信をもって

今年は三谷幸喜さんは50歳になる年だということで、いくつもの舞台や映画、ドラマ、小説などが発表されるということです。
その中のひとつである映画が本作「ステキな金縛り」になります。
僕が三谷幸喜さんという人を知ったのは「12人の優しい日本人」(映画)です。
有名な俳優が出ているというわけではなく(豊川悦司さんが出ていますが当時は新人で無名だった)、またワンシチュエーションであったにも関わらず、十分にエンターテイメントしていて感心した覚えがあります。
これは脚本がよいなと思って、脚本家の名前を見た時に三谷さんの名前を初めて知りました。
その後、みなさんご存知の「古畑任三郎」があって、三谷さんは日本中に名前を知られるようになりました(僕も夢中になって観ました)。
そして満を持しての映画デビュー作「ラヂオの時間」です。
個人的にはこの「ラヂオの時間」が三谷さんの監督作品の中では一番おもしろいと思っています。
本作「ステキな金縛り」は三谷さんの監督5作品目ということで、いままでの三谷さんの作品の集大成的なものになっているような気がしました。
法廷を舞台にして、弁護士と検察官が意見を戦わせながら真実に近づいていくという様は、「12人の優しい日本人」を髣髴させます。
そもそも最初に犯人を観客に提示して、その答えにいきつく過程をストーリーで組み立てるという手法は「古畑任三郎」です(そもそもは三谷さんは「コロンボ」が好きで、そのスタイルを取り入れたものですが)。
また三谷さんの監督作品は多くの出演者が絡み合ういわゆる「グランド・ホテル」方式がとられることが多いですが、本作もその流れにあると言っていいでしょう。
三谷さんは元々舞台の脚本・演出をしている方だからか、登場人物/出演者のアンサンブルが作品にとって重要なポイントになっています。
しかし出演者のアンサンブルが重要ではありますが、それすらも三谷さんは計算して脚本・演出をするタイプかなと思います。
僕の三谷さんのイメージとしては、オーケストラの指揮者というのが近いですね。
それぞれの演奏者の特徴を知り、その個性を発揮させつつ、しかし曲の主題を理解した上で全体をコントロールするといったイメージです。
緻密に組み立てられている作品というのが、三谷作品に共通するイメージですね。
本作もところどころに張られていた伏線はきれいに回収されていますし、また登場人物もそれぞれにちゃんと役割がある。
このあたりは三谷作品らしいなと思いました。
ただ最近の三谷作品(「THE 有頂天ホテル」以降)は規模が大きくなりすぎていて、やや全体的にもっさりとした印象がある(上映時間が長いとか)のですが、そのあたりは本作もありますね。
個人的にはコンパクトなワンシチュエーション的な物語のほうが三谷さんらしさが出るような気がしてます。

それでも本作のラストはけっこう好きでした。
本作で幽霊が見える人の条件としてあげられていたのは以下の3つ。
1.最近ツイていない。
2.最近死を身近に感じた。
3.シナモンが好き。
本作の主人公宝生エミ(深津絵里さん)はこの3つの条件を満たして幽霊が見えるのですが、ラストでは一緒にがんばった六兵衛(西田敏行さん)やエミが幼い頃に亡くなった父親を見ることはできなくなってしまいます。
先の3条件のうち1を満たさなくなったからなのですが、実は1は「ツイていない」ということだったのではないかなと思いました。
本当の1つめの条件は「自分に自信がない」だったのではないかなと。
六兵衛に言われた通り、エミは失敗続きの自分に自信がもてていなかったわけです。
でもこの裁判を通じて、エミは自分に自信が持てるようになった。
ひとりで生きていくことに自信が持てた。
だから幽霊を見ることができなくなったのかなと思いました。
本作での幽霊っていうのは自分に自信がない人がバカなことをやってしまう前に踏みとどまらせるために出てくるのかなと思いました(本作で被告になる矢部は自殺を考えた時に六兵衛により金縛りに合い思いとどまったわけで)。
自分に自信が持てたエミはもう幽霊の力なしでも生きていける。
生きていくことに自信が持てたエミを、六兵衛や父親が側で見守っているということがわかる、ラスト(ハーモニカでのコミュニケーション)やエンドロールの心霊写真は、なんだか優しい気持ちになれました。

最後に。
深津絵里さんはやっぱりいいですね。
昨年の「悪人」のような役から本作のような役まで幅が広い女優さんです。
特に本作のようなコケティッシュな役は一歩間違えるとムチャクチャ嘘くさく(マンガっぽいというか)なってしまうのですけれど、そうならずにかわいらしく演じられる方はなかなかいないかなと。
美人な女優さんで演技が上手という方はたくさんいますが、深津さんでなくてはだせないカラーがあって器用で、主役も脇もこなせる女優さんというのはなかなかいない。
本作の主演で他に誰が考えられるかというとなかなか思い浮かばないのですが、それが深津さんの唯一無二な感じなのでしょうね。

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