「大魔神カノン」 高寺作品の集大成
角川映画が大映を買収した後、元々大映のコンテンツであった「大魔神」をリメイクしたテレビシリーズです。
リメイクとはなりますが、舞台を現代にしたりなどオリジナルとは大きく変わっていますので、ほぼ新作と言っていいでしょう。
この作品は「大魔神」のリメイクというよりは、本作のプロデューサーである高寺重徳さんの一連の作品の流れの一つとして見るのが良いかと思います。
高寺重徳さんは現在は角川書店に所属しておりますが、以前は東映で髙寺成紀というお名前で「仮面ライダークウガ」、「仮面ライダー響鬼」のプロデューサーであった方です(「響鬼」は途中降板で、その後東映から角川書店へ転職)。
「クウガ」「響鬼(前半)」「カノン」と観てみると、非常に高寺プロデューサーの個性が強く出ているというのがわかります。
この三作品で共通している要素、テーマというのがいくつかありますので、あげていきましょう。
まずは敵方の設定です。
「クウガ」におけるグロンギ、「響鬼」における魔化魍、「カノン」におけるイパダタが敵方に相当するわけですが、これらに共通するのは基本的にそれらは和解のしようのない存在として描かれているということです。
グロンギはゲームと称して人間を虐殺していき、魔化魍は人間を捕食の対象としてかみなしていない。
またイパダタは人を心の底から憎んでいる。
その存在と人間の間には絶対に和解はないというものとして描かれています。
これは他のヒーローものと比べるとかなり異質です。
例えば他の平成仮面ライダー作品では敵方にも、彼らの論理があり、そこには共感性すら感じられるようになっています。
特に白倉プロデューサーの「龍騎」や「555」などでは敵方であってもそれらの行為が悪であるかどうか(逆に主人公側が正義であるかどうか)についても考えさせられる内容になっています。
そういう意味で高寺プロデューサーの作品は、非常に特徴的であると思います。
高寺作品の敵方、ある意味人間にとっては絶対的な敵対者と考えられる存在というのは何を意味しているのでしょうか。
僕の解釈でいうと、それら敵方の絶対性というのは、人が大人になり社会に出た時に直面する理不尽ともいえる現実を表しているものではないかということです。
いくら自分が正しいと思っていても、社会には理不尽で不条理なことはあります。
それについて逆らい戦ってみても、負ける時があります。
また人に裏切られることもあります。
そこで人は挫折を味わいます。
そして膝をつき、いろいろなことを諦めてしまう。
もういいやとなってしまう。
このように自分の前に立ちはだかる理不尽で不条理でどうしようもないというものが、高寺作品の敵方像に現れているのではないかと思います。
それは「響鬼」、そして本作が少年少女の成長物語になっているということからうかがわれます。
「響鬼」の明日夢、本作のカノンはそれぞれピュアな心をもった若者です。
しかし、さまざまな不条理な現実に直面することにより、夢を諦め、人間を信じる心を失いそうになります。
けれども明日夢の側にはヒビキ、カノンの側にはタイヘイらオンバケたちがいます。
ヒビキやオンバケたちは、不条理な現実に直面しても、己の信じることが揺るぎなく、また困難に直面してもそれと相対できるほどの力を持っています。
その力(心もカラダも)は持って生まれたものではなく、自分の意志で培ってきたものであるのです(ヒビキの「鍛えてますから」のセリフ)。
つまり高寺プロデューサーがさきほどあげた三作品で伝えたいメッセージというのはこういうことなのではないかと思うのです。
世の中には不条理で理不尽なことというのはいくらでもあり、なくすることなどはできない。
いつかはそういうことに出くわしてしまうことはある。
けれど、理不尽なことと直面する時に一度や二度負けたとしても、自分の中にある心は膝を屈してはいけない。
若者よ、強くあれ。
このようなことを言いたいのではないかなと思うのです。
ですので「響鬼」「カノン」は少年少女の成長譚になっているわけです(「響鬼」で高寺プロデューサーは挫折したので、それを「カノン」で成し遂げたと言っていい)。
「カノン」は高寺作品の集大成と言えるかと思います。
「クウガ」の五代雄介は明日夢やカノンが将来、成長し到達してほしいという理想の姿というように見ていいと思います。
高寺作品の弱点というと、上に書いたような大きな伝えたいことというのがあるため、テレビドラマとしては1話1話の盛り上がりというよりは、第1話から最終話までの大きな流れとしてストーリーを構成してしまうということになっているということです。
ですので特に前半部分は大きなストーリー展開はなく、また1話という単位で見ると盛り上がりのない話になってしまうことが多いのです(特に「響鬼」「カノン」はそうなってしまっている)。
ですのでテレビドラマとしてみると、なかなかに辛い。
これは現在の平成仮面ライダー、特に「W」「フォーゼ」の塚田プロデューサーの徹底した2話完結方式とは対称的であると思います。
展開が遅すぎた「響鬼」で高寺プロデューサーが降板ということになったのは、ある意味仕方がないことであるような樹もします。
「カノン」は角川書店書店という大きなバックボーンが得られたということ、また視聴率がそれほど問題とならない深夜帯でのオンエアであったということ、玩具を売るというビジネススキームではなかったことなどがあり、最後まで続けることができたのだと思います。
とはいえ、高寺さんの作品は強いメッセージ性があり、彼しか作れない作品であるので、これからも新たな作品を生み出していってほしいと願っています。
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