« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月30日 (日)

「ミッション:8ミニッツ」 量子論的な世界

<ネタバレありありなので注意です>

スティーヴンス大尉はある時目覚めると、電車の中で知らない男の体に自分の精神がある状態であることに気づきます。
そしてその電車は目覚めて8分後に爆弾テロにより爆発してしまう。
スティーヴンスはテロで死んだ男の記憶に、ある特殊なプログラムで精神を移され、その記憶を繰り返すことにより爆弾テロの犯人を突き止めるよう命令されるのです。
彼は記憶は保持をしながら何度も死までのプロセスを繰り返し、犯人に迫ります。
そしてスティーヴンスはその過程で知り合う女性クリスティーナや乗客たちをなんとか救いたいと考えるようになります。
けれどもスティーヴンスが体験している出来事はすでに起こってしまったことです。
何度も同じ出来事を繰り返しますから、タイムマシンで過去に遡っているようにも思えてしまうのですが、プログラムは過去の記憶を再生しているわけですから、リアルな世界での事実を当然のことながら改変することはできないのです。
実はスティーヴンスはアフガンで致命的な事故に合い、なんとか脳だけが生きているという状態になっていました。
彼の精神がこの死者の記憶を辿るというプログラムに適合したことにより、生かされていたわけです。
スティーヴンスはその事実を知ってからもそれを受け入れた上で、彼が何度も体験する記憶の中の人びとを救いたいと願います。
つまりは再生される記憶の中で爆弾テロを未然に防ごうとするのです。
そしてそれを成し遂げた時点で、リアルな世界で尊厳ある死を迎えたいと、このミッションのオペレーターのグッドウィンに言います。
彼は二度と戻れることのない最後のミッションの8分間に挑み、見事に爆弾テロを防ぐことに成功します。
そしてリアルのスティーヴンスの体の生命維持装置はグッドウィンによって切られ、彼は本当の死を迎えることになるのです。
しかし、死んだ男の記憶の中の精神のスティーヴンスの世界は8分を過ぎても継続していきます。
列車は無事シカゴにたどり着き、彼はクリスティーナと共に駅に降り立つのです。
これは何を意味しているか。
そのカギは最後にグッドウィンが受け取ったスティーヴンスからのメールにあります。
「このプログラムは新しい世界を作る」と言ったようなことが書かれていたかと思います。
このプログラムは死者の記憶を再生し、その中に人間の精神を送り込むというために作られたものではありましたが、別の可能性をも持っていたのです。
その記憶の中で起こした行動はその後の記憶の中の世界に影響を与えることができる。
死によってとぎれた記憶のその先をも作ることができたのです。
スティーヴンスがクリスティーナといっしょにシカゴを歩く世界はリアルな世界の中ではコンピューターの中にあるものです。
けれどもその中の世界で生きているスティーヴンスとクリスティーナにとってはそれが世界そのものなのです。
スティーヴンスの選択と行動により新たな世界が作られたものと考えていい。
これは量子論におけるマルチバースの考えに近いものです。
ちなみにラストでスティーヴンスからメールを受け取ったグッドウィンはリアルな世界でのグッドウィンではなく、再生された記憶の世界にいるグッドウィンとなります。

本作は量子論に基づいたマルチバースの考え方を本格的に映画に取り込んでいます。
これは劇中でこのプログラムを開発した科学者が「量子論的な手法で」と言っていたことから示唆されます。
このマルチバースの考え方はSFに出てくるパラレルワールド(並行宇宙)のようなものと考えてもらえると判りやすいです。
ただ量子論から考えられるマルチバースは少々難しい。
量子論によるとミクロの世界では不確定性があり、ある微粒子のある時点での位置を特定することはできません。
たいへん奇妙なことですが、微粒子は存在することはわかってもどこにあるのかは確定することができないのです。
むろん観察をすれば、ある粒子の位置を特定することができます。
しかし同様に観察しても同じ位置にその粒子を特定することはできません(有名な二重スリット実験などがわかりやすい)。
ようは観察するまでは粒子は「どこにでもある」状態で存在し、観察することにより「ある位置」に特定することができるわけです。
また有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験があります。
ある箱のなかに生きた猫とラジウムと青酸ガス発生装置を置きます。
その青酸ガス発生装置はラジウムがアルファ粒子を出すことに反応して青酸ガスを発生させます。
ラジウムが1時間でアルファ粒子をだす可能性は50%とします。
ですから1時間後に箱を開けた時、猫が死んでいる可能性は50%になるわけです。
では箱を開けていない状態のときは猫は死んでいるのか生きているのか。
その答えは「わからない」です。
正しくは「生きている」状態と「死んでいる」状態が重なりあっていると言うべきです。
箱を開けた時点で「生きているか」「死んでいるか」が確定するというわけです。
ここからマルチバースの考え方が出てきます。
あるとき箱を開けたら猫は「死んでいた」。
これは50%の確率で起こったことです。
ということは50%の確率で「生きていた」世界も生み出されるはずだと。
それで箱を開けた瞬間に世界が分岐したという風に考えるわけです。
猫が「生きている」世界と「死んでいる」世界に分岐したと。
これがマルチバースの考え方です。
マルチバースについてはこういう考え方があるということだけで、まだすべての科学者の間でコンセンサスが得られたものではありません。
しかし、人の選択や行動により世界が分岐していくというのはなにか面白いというか、夢があるような感じもします。
ニュートン、アインシュタインと科学が世界の仕組みを解明していく中で、決定論的な考え方が起こりました。
宇宙の仕組みを解き明かせば、世界の行く末は予言できる。
結末は決まっていると。
けれども量子論の出現により、世界は決定論的ではないということがわかります。
そしてマルチバースまでいくと、今自分がいる世界は人の選択と行動の積み重ねによるものであるという考えにもなります。
まさにスティーヴンスが自分の意志と行動により新たな世界を作ったように。
人間というものと世界というものの関係性をとらえる考えとしては魅力的なものの一つですよね。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (21) | トラックバック (82)

2011年10月29日 (土)

「カウボーイ&エイリアン」 タフガイは一人、街を去っていく

「プレデター2」のラストで、プレデターの宇宙船の中で古い拳銃が映るんですよね。
これは昔からプレデターが地球に訪れていたということを表していると思うのですが、僕はそれを観た時、西部劇の時代でガンマンとプレデターが戦うっていうのを映画にしたら面白いんじゃないかって思ったんですよね。
残念ながら、「プレデター」の続編はそっちの方向にはいきませんでしたが、本作「カウボーイ&エイリアン」はまさに西部劇の時代でガンマンとエイリアンが戦うというのをやってくれて嬉しいです。

主人公ロネガンは記憶を無くして、砂漠で目を覚まします。
腕にはなにやら得体の知れないブレスレット状のものが。
近くの街に行くと、自分はどうやらお尋ね者のようだとロネガンは知り、そして保安官に捕まってしまいます。
護送されるそのときに、街にエイリアンの飛行機械が飛来し、住民たちを攫っていくのです。
ロネガンを演じるのは「007」で新しいボンド像を作ったダニエル・クレイグ。
イギリス人の彼がカウボーイを演じるのはどうかとも思いましたが、なかなかどうして西部の男として堂々として見えます。
ダニエル・クレイグって元々スティーブ・マックイーンにも似てるなと思っていたので、西部の男がさまになるのもわかります。
ロネガンは、まさにタフガイという呼び方が合う男です。
寡黙で、揺るぎなく、強い。
現代ではなかなか見当たらない、あの時代にはいた男の中の男という感じですよね。
こういうタフガイを描こうとする場合、現代では現実感がなくなるからかなかなか厳しくて、どうしても西部劇とかになっちゃいましょね。
日本でいったら時代劇。
こういう男の中の男というのは、フィクションの中にしかもう存在しないのかな。
また街を支配する男ダラーハイドでハリソン・フォードも出演しています。
キャラクターとしてはダラーハイドは性格も奥深くて好きでした。
最初は街を支配する悪党的な雰囲気で、またネイティブアメリカンへの差別感を持っている男という印象でした。
けれどもネイティブアメリカへの気持ちはかつて自分のために部下を殺されたという悔恨の念の現れであることがわかります。
また実の息子と一緒に育てたネイティブアメリカンの男ナットへは、息子と同様の愛情を持っていることもわかってきます。
最後の決戦でのナットとダラーハイドのやり取りはジンときてしまいました。
本作の監督は「アイアンマン」シリーズのジョン・ファブロー。
「アイアンマン」から注目され始めた監督ですが、はずさないというか、エンターテイメントとして盛り上げるツボを押さえていますよね。
演出的に別に特殊なことをしているわけではないのですけれど、物語の世界に入れてそのまんま最後まで引っ張ってってくれる感じがします。

一件落着して、ロネガンは一人で街を去っていきます。
馬に乗ったタフガイの背中が本作のラスト。
やはり西部劇はこうでなくっちゃという感じですよね。
西部劇とSFアクションを一度に味わえちゃう映画ですね。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (53)

本 「明日香の皇子」

「浅見光彦」シリーズでよく知られる内田康夫さんの初期の作品。
こちらの作品はいわゆる探偵もの(「浅見光彦」シリーズではない)ではないのですが、ちょっとミステリー風味のある伝奇ものといった感じでしょうか。
ただ内田さんのその後の作品「浅見光彦」シリーズのなかでも「伝説」シリーズなどにも通じるところがすでに感じられます。
内田さんは作品の底層に現代の中央(政府や政治家、官僚など)への憤りというものがあるように感じます。
それだから地方を舞台にし、それぞれの地の題材を使ったミステリーを書いてきたのだと思います。
初期の作品ということで、話はややご都合主義的なところもあり(基本的に内田さんの作品はそういうところはありますが)、また語られるメッセージもかなり青臭いところも感じます。
さきほど書いたような中央への著者の憤りがかなりストレートに本作ではでていると思います。
主人公は広告代理店の営業マンですが、内田さんも専業作家になる前は広告代理店に勤めていました。
主人公は物語が進むにつれ、現代の日本に憂い、志を持っていくのですが、それは内田さん自身を投射しているのかなと感じました。

「明日香の皇子」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN4-04-160706-X

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月24日 (月)

本 「TOKYO BLACKOUT」

首都圏へ電気を送る鉄塔が相次いで爆破され、倒壊。
真夏を迎えた東京は電力の供給を絶たれます。
電力会社は輪番停電を実施し、電力の復旧を図る。
そして爆破事件を起こしたテロリストたちは、彼らの本当の目的を達成しようと動いていた・・・。

この作品が書かれたのは、2008年。
まだ日本の国民の大多数は輪番停電という言葉も、その意味も知らなかったでしょう。
そして今年、テロではないですけれど災害により、本当に東京の電力が断たれるかもしれないという危機に直面したわけです。
タイトルのブラックアウトというのは、電力供給が停止してしまった状態のことを言うそうです。
この作品を読むとわかりますが、電力というのは需要と供給が同時に行われるものです。
基本的に電力は溜めることができません。
だからこそ需要予測が大事なのです。
また電力設備というものは一度停止すると再起動するのがたいへんだということがわかります。
だからこそ一旦止めるのではなく、輪番停電のような状態でも稼働させておくことも重要なのです。
作者の福田和代さんは、もともと電力会社のSEだったとのこと。
だからこのような背景について非常に深く細かく書き込まれています。
正直、春の輪番停電のときもそれほど電力会社からわかりやすく情報提供があったとは言いがたいです。
本著のように細やかな説明があれば、もっと国民の理解が得られたかもしれません。
福田さんは本著を書くきっかけを、当たり前のことを当たり前に提供していくために名も知れぬ普通の人が懸命に働いていることを描きたかったためと言っています。
確かに今回の震災で当たり前のことが当たり前ではないということがわかりました。
当たり前のように供給される電気。
当たり前のように動いている電車。
当たり前のように並べられているスーパーの食材。
これらは毎日提供している人たちがいるからこそ、当たり前のように享受できるわけです。
震災の時にも思ったことを、また再確認させてくれる作品です。

クライシス・サスペンスとしても読み応えあります。
単なる電力テロというだけではなく、それを引き起こすテロリストたちの心情、そして現在の日本という国が持っている冷たさのようなものにも触れています。
先日の中国での少女のひき逃げ見てみぬふり事件も同じようなものを感じます。
福田和代さんは「迎撃せよ」が初めて読んだ作品で、そのときも思いましたが、本作も女性とは思えない力強さを持った作品だと思います。

「TOKYO BLACKOUT」福田和代著 東京創元社 文庫 ISBN978-4-488-41711-6

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ランゴ」 個性あるカメレオン俳優

「カメレオン俳優」という言葉があります。
役柄そのものになりきってしまうタイプの役者さんは「カメレオン俳優」というように呼ばれます。
カメレオンは背景色に合わせ、自らの体色を変化させる能力を持っていますんので、このような比喩で使われるのでしょう。
役者さんには大別すると3つのタイプがいるような気がします。
1つはこの「カメレオン俳優」タイプで、役になりきってしまうタイプです。
逆にその俳優さん自身の性格は実はよくはわからないタイプの人で、日本人だと松山ケンイチさんなどはこのタイプであるかなと思います。
2つめは「スター」タイプで、その俳優自身の個性に役のほうを近づけるような役者さんですね。
昔のハリウッドスターなどはこのタイプであるのではないでしょうか。
まれに1つめと2つめのタイプを兼ね備えた役者さんもいます。
役柄になりきっているのですが、スターの輝きを放っているような方。
これが3つめで、まさにジョニー・デップというのはこのタイプであるのではないかと思います。
クセのあるキャラクターから、シリアスな二枚目まで演じ分けつつも、ジョニーらしさというのはなぜか感じてしまう。
個性あるカメレオン俳優と言っていいかもしれません。

本作の主人公は「ランゴ」と名乗るカメレオン。
彼はカメレオンとしての習性からか、なにかになりきること、演じることを趣味として楽しんで生きてきました。
彼は元々はペットでしたが、ひょんなことから西部のさびれた街を訪れることになります。
そこで彼は持ち前のなりきりっぷりと偶然で、なぜか保安官の任についてしまうのです。
街は水不足により人びと(動物だが)がどんどんと離れていこうとしていきます。
けれども、そこにはある陰謀が・・・。
ランゴはヒーローとして活躍することを住民に期待されますが、お調子者がそれにのってやっていくうちに化けの皮がはがれてしまいます。
彼は何かを演じることだけで生きてきました。
けれど、彼はそもそも何ものなのか。
ほんとうは何をしたいのか、ランゴはアイデンティティの悩みにぶつかります。

ジョニー・デップという個性あるカメレオン俳優が、カメレオンを演じるというのがおもしろい。
本作はアニメーションで、エモーション・キャプチャー(パフォーマンス・キャプチャーとも呼ばれる)という技術を使っています。
先日の「猿の惑星:創世記」の記事でも触れた技術です。
本作はこのエモーション・キャプチャーを使っているので、ジョニー・デップ自身が映像に出てくるわけでありません。
作品に出てくるのはジョニーの声と、そのパフォーマンスのみ。
それでも、カメレオンのランゴを観ていると、ジョニー・デップの姿が浮かんでくるというか、ランゴがジョニーに見えてくるような感じがありました。
ジョニー・デップは「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロウ役などで特徴あるパフォーマンスを見せていますが、これはやはりジョニーの個性、らしさなんですよね。
エモーション・キャプチャーはそのジョニーのパフォーマンスを記録し、アニメーション上で見事に再現しています。
姿形はカメレオンでも、それを演じているのはジョニー・デップというのが一発でわかります。
ランゴのこのような表現はただのCGだけでやろうとするとやはり限界があるわけです。
俳優の演技というものがあるからこそ、このような表現ができる。
CGと生身の演技というのは対立するように考えられがちですが、このように共存するというか、さらに高めるようなことができるのだなと思いました。

お話自体はけっこういろいろな要素を詰め込んでいるので、やや窮屈な感じもありましたかね。
登場人物もけっこう多いですし、やや駆け足感があったような気がしました。
監督はジョニー・デップと「パイレーツ・オブ・カリビアン」でも組んだゴア・ヴァービンスキー。
最近は実写の監督がアニメーションをやってみたり、アニメーションの監督が実写をやってみたり(「ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル」のブラッド・バートとか)、クロスオーバーが多いですね。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (8) | トラックバック (33)

2011年10月23日 (日)

「一命」 武士の面目と武士の情け

戦国時代が終わり泰平の世が訪れた徳川時代初期、浪人たちの間で"狂言切腹”なるものが流行ったと言います。
大名家のお取り潰しが相次ぎ、街には浪人が溢れました。
生活に困窮した浪人が大名家に切腹をするため(むろん本人はその気はない)場を借りたいと申し入れ、面倒を嫌った大名家が職や金を与えたというのが"狂言切腹”です。
下克上で力と運がある者が一国一城の主になれた時代はとうに過ぎ、泰平の世となったため、身分が固定化し始めたのが江戸初期ということなのでしょう。
浪人になってしまうと、才覚があったとしても任官することも覚束ない。
けれども武士という身分であることは変わらないので、武士たる面目は保たなくてはいけないという縛りがあります。
それなのに大名家は代々世襲で継がれていく。
彼らは安穏と暮らしているのに、武士の面目を問う。
「武士は食わねど高楊枝」ということわざがあります。
これはいくら貧しくて食べられなくても、食べたかのように楊枝を使って満腹を装うという意味で、武士の面目や挟持を表しています。
武士という身分はいくら貧しくても面目を保たなくてはいけないという苦しさを持っているものなのですね。
「武士に二言はない」という言葉もあります。
武士というものは、一度口に出したことはいかなることがあっても撤回しない、やり遂げるということです。
それだけに武士という身分のものが口にする言葉は重く、また口にする責任感を武士たるものは持たなければいけないということでしょう。
とかく武士というものは、面目や体裁に縛られてしまうものなのですね。
先の二つの言葉は本来は、武士たるものの心得、つまりは上に立つものとしての挟持や責任について語ったものであったのではないかと思います。
けれども世が泰平となり、武士の中でも身分が固定化していく中で、その言葉の意味も次第に形骸化していったのではないでしょうか。
そこに込められた心得みたいなものはなくなっていき、形式だけが残っていくといったような。
そこには心というものがなくなっていったのではないかと思います。
「武士の情け」という言葉もあります。
これは相手の心情を慮り、相手に敬意を払うということだと思います。
しかし本作で登場する沢潟らの侍はいくら"狂言切腹”を行おうとする相手であるからといっても、敬意というものはありません。
確かに沢潟らの言い分にも筋があります。
言い分は正しいと言っていい。
でもだからこそそれを曲げても「情け」をかける余裕といったものがあってもよかったのかもしれません。
何かそこには社会全体が固定化され「冷たさ」のようなものを持ってしまったことが現れているように気がします。
翻って現代を見てみると。
まさにこの作品で描かれているような状態になっているような気もします。
政治家や文化人は二世、三世が幅をきかせています。
若者はいくら才能があっても就職できなかったりということが起こっています。
格差社会と言われてずいぶん経ちますが、社会が次第次第に固定化されているような気がします。
そして沢潟らの言動に見えたような「冷たさ」のようなものも感じます。
筋は通っているけれど、冷たい。
そこに「情け」はない。
本作は時代劇でありながらも、現代のことを風刺している作品に思えました。

本作、構成もよくできていたと思います。
冒頭での瑛太さん演じる求女は”狂言切腹”を行う愚かな侍に見えます。
沢潟らのほうの言い分のほうが正しいと感じます。
けれどもその背景が半四郎(市川海老蔵さん)に語られるに従って、そのイメージは次第に変わっていきます。
このあたりの真相が判っていく様は、質のよいミステリーを観ているような感じもありました。

三池監督は「十三人の刺客」「忍たま乱太郎」に引き続き本作で時代劇三連チャン。
時代劇でありながら(「忍たま」を時代劇とみるかというのはあるのですけれど)、まったくテイストは異なります。
つくづく器用な人だと思ったりするのですが、共通しているところがありました。
三池監督という人は、基本的に容赦がない、手加減をしない監督なのですよね。
「十三人の刺客」では延々と続く立ち回り、これでもかと思えるほどの剣劇でした。
また稲垣吾郎さん演じる殿様の残虐非道ぶりも手加減がありませんでした。
「忍たま乱太郎」では子供には見えるのはどうかという人もでるのではないかという、下品なギャグを連発(でも子供は好き)。
本作でも瑛太さんの切腹シーンは、観ている自分が痛くなりそうなほどの執拗さでした。
これはすべて三池監督が容赦をしない表現者であるということを表しています。
普通はなにかしらのリミッターを監督やプロデューサーがかけてしまうもの。
三池監督はメジャー監督でありながらも、そのあたりを容赦をしません。
それがさまざまなジャンルを手がけ、そのテイストを大きな振り幅を持っていながらも三池印というものがそれぞれの作品に刻まれているという訳なのかもしれません。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (37)

2011年10月22日 (土)

「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」 豊かなるシーザーの表情

オリジナルの「猿の惑星」はあまりにも有名なので解説する必要はないでしょうね。
あのラストシーンで驚きの事実が明らかにされるわけですが、本作はそうなってしまったきっかけを描いている作品になります。
「猿の惑星」シリーズの4作目(未見です)は同様の話だったようですが、それのリメイク的なところもあるのでしょうか。
オリジナルの「猿の惑星」は時代的な背景からも、人種差別のメタファーとして見ることができます。
本作でも人間の差別観というものを描いていると言っていいでしょう。
この作品を観て多くの人が共感するのは人間に対してではなく、知能をもったチンパンジーのシーザーにでしょうね。
その感情移入しやすくするのは、やはりシーザーの心が伝わってくるかどうかなのですよね。
それをパフォーマンス・キャプチャーとシーザーを演じるアンディ・サーキスの演技が見事に成し遂げていると思います。
パフォーマンス・キャプチャーの技術というのは、言うなれば人の演技を記録し、それにCGの画像を貼付けていくようなもの。
「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラム(これもアンディ・サーキス)で注目され、「アバター」で大きく進化した技術です。
本作はそれがさらに進化していると思いました。
一からCGで作る場合は、どうしても動きや表情の不自然さというのが残ります。
テクスチャーなどは最近はどんどんクオリティがあがっているのですが、表現がリアルになればなるほどその不自然さが気になってしまいます。
いわゆる不気味の谷というものです。
それを解決するひとつの方法がパフォーマンス・キャプチャーという技術です。
俳優の演技を記録するわけですから、動きには不自然なものはありません。
ただ表情についてはなかなか細かいところまでキャプチャーしきれなかったのが今まででしょう。
本作ではパフォーマンス・キャプチャーの弱点が大きく克服されていて、シーザーの表情があまりに豊かで驚きました。
シーザーは話せないわけですから、彼の気持ちを伝えるのはその表情が大きな役割を負います。
アンディ・サーキスの演技と、それを洩らさず記録するパフォーマンス・キャプチャーにより、シーザーの心が観ていても痛いほどに伝わってきました。
特に目の表情がすばらしかったです。
「目は口ほどにものを言い」ということわざがありますが、シーザーの目の表情で彼の気持ちがわかるんですよね。
シーザーが悲しみ、怒り、そして決意する。
その心の動きがひしひしとその目の表情から伝わってきます。
CGというのが不得意なものとしてあげられるのは、毛のようなもの、そして目でしょう。
特に目は難しく、今まで不気味の谷を越えられなかったのは、ここによるところが大きいかなと思います。
いくらきれいでも、そこに表情がないと、それだけで作り物めいて見えてしまうのです。
本作はCGで描かれていても、そこにアンディ・サーキスが演じているシーザーの魂のようなものを感じることができました。
これは「アバター」のときよりもかなり進化をしていると思います。

ストーリーとしては予告を観ていれば予想できる範囲内と言ったものでした。
全く悪い出来ではないのですが、やはりオリジナルの「猿の惑星」の衝撃とは比べてしまうんですよね。
ティム・バートンの「猿の惑星」よりはよかったです(笑)。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (79)

本 「理性の限界 -不可能性・不確定性・不完全性-」

論理学を中心に、人間の理性というものの限界について解説してる本です。
とりあげられるのは、アロウの不可能性原理、ハイゼンベルクの不確定性原理、ゲーデルの不完全性定理を中心に語られています。
ハイゼンベルクの不確定性原理というのは何度か本で読んだことがありましたが(理解しているとは言いがたいですが)、アロウの不可能性原理、ゲーデルの不完全性原理というのは初めて聞いたような気がします。ハイゼンベルクの不確定性原理というのは、聞いたことがある方もいるかもしれませんが、ミクロの世界(原子核よりももっともっとミクロの世界)になると粒子は波でありながらも、粒子であるという状態になります。
これは二重スリット実験などでも観察されていることなのです。
簡単に言うとミクロの粒子は、「観察するまでは」その粒子がどこにあるのかを特定することはできないということです。
粒子は粒子の状態であり、また波のような状態で存在していると考えられています。
人が観察することによりその粒子が観察され、観察しない状態のときはあることはわかってもどこにあるかはわからないということが、わかっています。
観察するときは光をつかって観察します。
光の粒子は観察する粒子に当たってしまうわけでそれにより、観察する粒子はあまりに小さいので影響を受けてしまいます。
どうしても観察することが、もともとの状態に影響を与えざるをえないのです。
これが不確定性原理です。
これは観測技術の精度があがっても変わりません。
これはある種の理性の限界といっていいかもしれません。
ハイゼンベルクの不確定性原理は物理学ですが、論理学などの分野のアロウの不可能性原理、ゲーデルの不完全性定理などで理性の限界を解説しています。
これらはけっこう驚くべきことで、なんとなく科学や論理学などというのはどんどん進化していき、そうすればわからないことというのはいつかは解き明かされるということを思っていましたが、それがそうではないということを証明してるものなのです。
人にはわからないものが論理的に存在するということを証明しているわけですね。
アロウの不可能性原理、ゲーデルの不完全性定理にしてもかなりややこしいものです。
僕も「???」というところがありました。
それでも本著はそれをとてもわかりやすく解説しています。
本著はさまざまな人がパネラーとしてシンポジウムを行っているという体裁をとっています。
その中には一般市民の学生、社会人もいれば、専門家もいるという設定です。
彼らが話し合いながら、先の人の理性の限界について話すというものになっています。
ですので、誰かにわかってもらうための説明の仕方になっているので、難解な学問を題材に扱っている割には読みやすかったです。
理性の限界というものがあるというのはとても驚きで、それをわかりやすく読みやすく書かれているのでエンターテイメントのような興奮を覚えました。
難解な学問の初心者向けの解説書としてはよくできている本だなと思いました。

「理性の限界 -不可能性・不確定性・不完全性」高橋昌一郎著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287948-4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月16日 (日)

本 「謎解きはディナーのあとで」

たまたまですが、一つ前の本レビュー(「神様のカルテ」)に引き続き本屋大賞第1位の作品を読みました。
2冊続けて読んで解りましたけれど、本屋大賞って選ばれる傾向がありますね。
基本的に読みやすい本が選ばれるような気がします。
いつも本を読んでいるような読書マニアみたいな人向けというよりは、あまり普段小説などを読まない人向けと感じがしますね。
さらさらっと読みやすい。
あとは登場する人物のキャラクターがはっきりしていてわかりやすい感じがします。
あまり内面が複雑ではなく、読書慣れしていない人でもキャラがつかみやすいというような印象です。
本作も主要な登場人物はとてもキャラ立ちがはっきりしています。
主人公宝生麗子は大富豪の娘ではありますが、その素性を隠して刑事をしている超お嬢様。
それでもってそのお嬢様の執事兼運転手が影山という男で、推理力が抜群で麗子が持ち込む難事件もその話を聞いただけでいとも簡単に解いてしまう人物です(いわゆるアームチェア・ディテクティブってやつですね)。
影山は執事らしくとても慇懃なのですが、実はけっこうな毒舌家。
丁寧な口調でありながら、雇い主麗子に毒舌を浴びせます。
「この程度の真相がお判りにならないとは、お嬢様はアホでいらっしゃいますか」
「お嬢様の目は節穴でございますか」
こんな毒舌を吐いてから、事件の真相を解くというのが、パターンです。
事件そのものはそれほどミステリー的には難易度は高くないので、ミステリー小説というよりはさきほどの登場人物のキャラで読ませるタイプの作品ですね。
そういう意味ではとてもテレビドラマ的。
と思ったらテレビドラマ化ということで、今週から麗子を北川景子さん、影山を櫻井翔さんでオンエアだそうです。
櫻井翔さんの影山ははまりそうな気がします。
思えば「神様のカルテ」「謎解きはディナーのあとで」と連続で櫻井さん主演作品の原作を読んだことになるなぁ。

テレビドラマ「謎解きはディナーのあとで」の記事はこちら→

「謎解きはディナーのあとで」東川篤哉著 小学館 ソフトカバー ISBN978-4-09-386280-6

| | コメント (0) | トラックバック (10)

「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」 生まれながらのヒーロー

来年の「アベンジャーズ」に向け、次々に作品をリリースしていくマーベルが、最後の仕上げにと公開したのが本作「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」です。
個人的には数あるマーベルヒーローの中では今の時代に映画化するのは一番難しいのではないかと思っていました。
なにせ名前が「キャプテン・アメリカ」です。
なにせコスチュームが星条旗です。
アメリカ的な正義に疑問があげられているこの時代に、アメリカの正義を象徴するかのようなヒーローは下手をすると反発を招くのではないかと。
ヒーローものですので、当然敵は登場することになるかと思いますが、その敵の設定いかんによっては、アメリカの正義を押し付けるように見えるのではないかと懸念をしたんです。
アメリカのナショナリズムが臭いだすような作品であると、観ていてつらい映画になるような気がしていました。
そういう意味で、「キャプテン・アメリカ」は難しい作品になるのではないかと思っていたのです。

そういう心配をしながら観賞したわけですが、蓋を開けてみると極めて王道かつシンプルなヒーローものに仕上がっていたと思います。
最近のヒーローものはヒーロー自身の悩みなどが描かれますが、本作はそういう路線ではなく、どちらかというと「インディ・ジョーンズ」のようなエンターテイメントに仕上がっていたかなと感じました(時代設定からくる印象も多いと思いますが)。
最近のマーベル作品で「アベンジャーズ」に関係しているものと言えば「アイアンマン」と「マイティ・ソー」があげられます。
じつはいずれの作品の主人公(スタークとソー)は登場時は、ヒーローという役割(人びとを守る、正義を守る)を自分自身で自覚しているわけではありません。
彼らの物語の中では、彼らが自分の役割を自覚し、受け入れる過程が描かれます。
ヒーローになるまでの成長を描く物語と言っていいでしょう。
このヒーローへの成長というのは、最近のヒーローもののトレンドである言えますね。
けれども本作のキャプテン・アメリカことロジャースは、そもそもからしてヒーローとしての気質を持っていた男でした。
人を守る、正義を守るということに心の底から思っている男がロジャースでした。
そういう意味で、本作はヒーローへの成長を描く物語ではありません。
ロジャースは元々ヒーローの気質を備えた人物であったわけです(だからこそスーパー・ソルジャーとして選ばれた)。
ヒーローらしいヒーローと言いましょうか、昔であったら当たり前であるそのようなヒーロー像は、今のトレンドにおいては、逆に珍しいタイプと言っていいかもしれません。
生まれながらのヒーローですね。
彼は正義のために戦うことに迷うことはありません。
しかし、この「正義」というのがやっかいで、冒頭に書いたように「正義」が「アメリカの正義」と受け止められるような描き方をすると、「正義とは何か?」というかなり難しい隘路に入っていってしまいます。
この作品はそれを時代設定を第二次世界大戦時にすることにより、巧みに回避しています。
あの時代のナチスドイツというのは、やはり非道なことを行っていたというのが皆の共通認識で、それは「正義」の逆にあると言えます。
さらに本作ではナチスよりもさらに危険な思想を持っている「ヒドラ」という組織を設定しているので、これは「悪」として観る側も共通して納得できるでしょう。
ですのでそれに対抗するキャプテン・アメリカが寄る「正義」は「アメリカの正義」というものではなく、「人類としての正義」と読むことができます。
そういうことでアメリカのモチーフがたっぷり入ったキャプテン・アメリカであっても、「アメリカのために戦っている」という印象にはならずにすんだのだと思います。
これはやはり時代設定の妙であったと思います。
もしキャプテン・アメリカが冷戦の時代にいたとしたら、何と戦ったのでしょうか。
ソ連と?
現代で、冷戦時代を舞台にしキャプテン・アメリカがソ連と戦ったら、非難囂々でしょう。
ですからキャプテン・アメリカは本作のラストでしばらく眠りについたわけです。
ではキャプテン・アメリカが現代で甦ったら?
現代は価値観も多様化し、さらに正義も多様化しています。
さらにはそれにより悪も多様化しています(まさに少し前にレビューをした「リトル・ピープルの時代」ですね)。
敵を外に設定することができないかもしれません。
キャプテン・アメリカは何のために、誰と戦うのか?
その答えは次回作の「アベンジャーズ」で出されるのでしょうか。
正義にために戦うことに迷いがなかったキャプテン・アメリカは現代を舞台にした「アベンジャーズ」で、初めて悩むのではないかと思います。
正義とは何かと。

本作では「アベンジャーズ」に向け、今までのマーベル作品のリンクがそこかしこに見られましたね。
アイアンマンことトニー・スタークの父親(ハワード)が出てましたし(キャプテン・アメリカの装備を作ったのはスタークの父親だったんだ!)。
ヒドラが手にした神の力はオーディンのものと言っていましたから「マイティ・ソー」とも関連づけられました。
それをハワードは回収してましたから、これがアイアンマンのエネルギー源(胸のところにあるやつね)になるのかもしれません。
本作の最後に「アベンジャーズ」の予告編がくっついていましたが、やはり実際にあの顔ぶれを見ると興奮しますね(ウルトラ兄弟や歴代ライダー勢揃いみたいな〜)。
「マイティ・ソー」に出ていたロキもちらりと出てましたから、彼が敵になるのかな?
なんにしても「アベンジャーズ」、期待して待ってます。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (8) | トラックバック (54)

本 「神様のカルテ」

この夏、櫻井翔さんと宮﨑あおいさん出演で映画化された「神様のカルテ」の原作を読みました。
ご存知の通り、本作は2010年の本屋大賞に輝いた作品です。
先に映画を観てしまっているので、どうしても比較になってしまいますが・・・。
小説のほうは、信州の青年医師栗原一止が日々の医療活動を通して出来事を、ひとつづつエピソードとして紹介しているような感じですね。
映画のほうはそれらを大きな流れとしてストーリー上に配置していて、その幹となっているのが一止の意志としての悩みであるのですよね。
ですので映画のほうが一止の苦悩のようなものが強く出されているような感じがしました。
またそんな一止を包み込むように支える妻ハルの存在も、映画のほうが大きいように思いました。
このあたりは主演の二人によるところも大きいかなと思います。
小説のほうは、どちらかというと苦悩というよりも、優しさというものを感じました。
一止自身もそうなんですけれど、患者である安曇さんの優しさであったり、男爵の学士さんへの優しさであったり。
小説は一止の一人称になっていますが、それも夏目漱石を意識した古風な言い回しですので、そのあたりも全体的に優しい印象を醸し出しているような気がします。
扱っている題材は人の生き死にではあるのですが、深刻さ辛さというよりも、もっとそれを越えた優しさというものを感じさせる作品でした。

映画「神様のカルテ」の記事はこちら→

「神様のカルテ」夏川草介著 小学館 文庫 ISBN978-4-09-4-8618

| | コメント (0) | トラックバック (9)

2011年10月15日 (土)

「電人ザボーガー」 B級テイストそのままリメイク

「『電人ザボーガー』 リメイク!」という話を聞いたのは、去年でしょうか。
紹介記事を読んで「おおっ!」と驚いたものの、「こんなマイナーな作品知ってる人いるのか?」とすぐに疑問が・・・。
知らない方のために解説を。
「電人ザボーガー」は1974年にテレビで放映されていたピー・プロダクション制作の特撮番組です。
主人公は秘密刑事の大門豊で、相棒ザボーガー(大門の弟の遺伝子を持っている)とともに、悪の組織シグマと戦うとお話です。
ザボーガーはバイクに変形することもできるロボットで、大門がヘルメットのマイクからの指示で戦います。
そもそもピー・プロダクション(略してピープロ)自体がマイナー・・・。
特撮を詳しくない方でも「ウルトラマン」は円谷プロダクション、「仮面ライダー」は東映というのは知っているとは思いますが、ピープロは知らないですよね。
ピープロ制作の特撮番組で他の有名なもので言うと「スペクトルマン」とか「怪傑ライオン丸」などがあげられます。
なに、これも知らない?ううむ・・・。
ちなみに僕は「電人ザボーガー」は当時小学生低学年でドンピシャ世代でありました。
とはいえ「ウルトラマン」や「仮面ライダー」のように何度も見直したわけではないからあまりに覚えていないのですよね。
覚えているのはロボットがバイクに変形するということくらいですかね。
ピープロの作品というのは、子供心にも円谷や東映と比べると、さらにマイナーっぽいというか、B級っぽい感じがしたのはなんとなく覚えていますね。
「電人ザボーガー」のリメイクは井口昇監督が担当。
世界的にマニアの間では超有名になっても、「片腕マシンガール」や「ロボゲイシャ」などB級道をひた走っている監督ですので、「ザボーガー」とのシンクロ率も高そう。

ここ数年、アメリカでも日本でも昔のヒーローもののリメイクというのが多く作られています。
子供の頃にそれらを観て育った世代が、親になったり、また制作者になったりというのが影響しているのでしょうね。
それらのリメイクものは、そのままというよりは、ストーリーもデザインも現代風な解釈をされ、大人の観賞にも堪えられるようにすることが多いですよね。
本作についていうと、テイスト自体はオリジナルの雰囲気を多く残しています。
このあたりはさすが井口監督で、あえて昔のピープロの持つダサさ、野暮ったさみたいなのを残していてくれました。
特にザボーガーそのものはほとんど印象が変わらない。
へんにスマートになったり、スタイリッシュになっていないのが、良いです。
もちろんCGなどもかなり使っているのですけれども(ザボーガーがバイクから人型へ変形するところはいいですね)、へんに今っぽくなってません。

本作は二部構成となっており、第一部は大門が青年期の話でオリジナルを踏襲するような展開、第二部は大門が熟年期になった時を描いており、これは本作で初めて描かれる話です。
第一部の大門はやたらと熱い正義漢で、確かに昔のヒーローものの主人公というのはこうだったよな〜と思いますが、現代の目線でみると暑苦しい感じもしなくもない。
この温度差というのが懐かしさを出しているのかもしれません(このあたり若い人たちはどう感じるのかな)。
第二部の大門は逆に社会の片隅で落ちぶれたような存在になっています。
正義を行うということにも挫折した様子・・・。
大門は熱い正義漢ですが、第一部の最後で自分が信じる正義を貫こうとしても、それを受ける人びとがそもそも守るに値する善良な人ではないということに矛盾を感じながら戦います。
さらには悪の組織の女サイボーグ(ミスボーグ)を愛してしまう。
いわば大門は守るべき社会に裏切られ、そして悪を行う愛する女(サイボーグだが)守ろうとしてしまうわけです。
けれどもそれにより、正義を守るために共に戦うと誓った相棒であるザボーガーを裏切ってしまうということになってしまったのです。
ザボーガーは大門の指示を受け入れなくなり、ミスボーグを倒し自爆するのです。
第一部は正義を行うというあまりにまっすぐな思い(理想)が、現実の社会において無惨にも敗れ去る姿を描いています。
第二部はその挫折からの再生を描いています。
現実にはいろいろとあるけれども、だからと言って諦めてはいけない。
そして立ち直るっていうのには、遅過ぎるっていうことはないということでしょうか。
ま、井口作品であまりテーマ性を深堀しなくてもいいかと思いますけれどね。

抑えめではありましたが、井口監督らしい描写はそこかしこに。
ただのヒーローものとして子供を連れてきた親御さんは後悔したかもしれません(笑)。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (17)

本 「令嬢テレジアと華麗なる愛人たち」

フランス革命時に実在したテレーズ(テレジア)・カバリュスという女性を題材にした藤本ひとみさんの小説です。
テレジアは大商人の娘として生まれ、幼い頃より美女として注目され、フランスの社交界入り。
若くして結婚し、その後離婚結婚を繰り返していきます。
彼女はその美貌、そしてセンスからフランス社交界のファッションリーダーと目されていました。
また「テルミドールのクーデター」にも関わり「テルミドールの聖母」とも言われます。
その男性遍歴から「悪女」的なイメージがもたれているテレジアですが、本作はフランス革命前後という激動の時代をまさしく「女の武器」を駆使して、たくましくしたたかに生き抜いていくテレジアのたくましさを描いています。
12歳で男性を知り、16歳で結婚をし、さらには幾人もの男性と関係をもつというテレジアですので、最初の方は官能小説かと思うほどの描写が多く驚きますが、後半はそこで培った(?)女の武器を使い、巧みに男性を操り、価値観がひっくり返るようなフランス革命をテレジアが生き残る様子を活き活きと描写し、引き込まれます。
テレジアは若い頃より、自由な生き方をしてきたため、その時代の女性としては珍しく、自由に対する意識が強い女性として描かれています。
そのために自由のためになされたフランス革命が次第に変節し、ロベスピエールの独裁体制になっていくフランスに対し、戦いを挑むのです。
しかしそれは女性ならではの戦いとして。
テレジアは彼女の女の魅力を駆使し、フランス革命当局の力のメンバーを籠絡し、アンダーグラウンドで自由を虐げられる人びとを救います。
彼女の生き方は自由そのもの、奔放そのもので、倫理的には眉をしかめる人がいるかもしれませんが、つきぬけた自由さは、読んでいても爽快な感じすらしますね。
著者の藤本ひとみさんはフランスの歴史を題材とした小説を多く書かれていますが、緻密な取材に基づいているので、臨場感がありますね。
ほんとうにフランス革命の裏側でこのようなことがあったのではないかと思えるほどです。
テレジアの人生はまさに波瀾万丈と言っていいものであったのかもしれません。

「令嬢テレジアと華麗なる愛人たち」藤本ひとみ著 集英社 文庫 ISBN978-4-08-746158-9

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月14日 (金)

「幸せパズル」 アルゼンチンの女性観

TOHOシネマズデイだったので、会社帰りにシャンテで観賞。
アルゼンチンの映画はあまり観たことないですね。

主人公のマリアは一般的な主婦。
冒頭は彼女がホームパーティの料理を準備しているシーンから始まります。
それからたくさんの人が集まったホームパーティのシーンへ。
家族や訪問者が食べたり飲んだり騒いだりしている中、マリアは一人で料理を出したり、食器を片付けたりしています。
驚いたのはそのパーティでの出来事です。
マリアは冷蔵庫から自作のケーキを出します。
そのケーキには「50」の形をしたロウソクがあり、それにマリアは火をつけます。
誰かの50才の誕生日パーティだったわけです。
僕はこの時点で「旦那さんの誕生日会だったんだな」と思いました。
驚いたのは、その後で、なんとそのロウソクをマリア自身が吹き消したのです。
実はそのパーティはマリアの誕生日パーティだったんですね。
自分の誕生日なのに、その人が一番働いているなんて・・・。
それをパーティの訪問者も不自然に見ていないようですから、それはアルゼンチンにおいては普通のことなんしょうか。
欧米や日本だったら「ありえなーい」扱いで驚きました。
アルゼンチンという国はけっこう男尊女卑なのね・・・(かつての日本もそうだったが)。

マリアは日々、家族のために料理を作り、家事をします。
でも旦那はマリアに愛情はあるようですが、扱いは家政婦のような感じで、大事なことには「女は口を出すな」的な感じ(これまたかつての日本のよう)。
息子たちは、「オレは独立するんだ」と言って家を出て行こうとしたり、ベジタリアンの彼女にかぶれてへいこらしていたり勝手きままにふるまっています(これは今の日本のようだ)。
なんだか割を食っているのはマリアだけのよう・・・。
そのような中で、マリアはふとしたきっかけでジグゾーパズルを手にとり、それに強く興味を持ちます。
パズルにのめり込んだマリアは、パズルの大会のパートナーとしてある独身紳士ロベルトと出会います。
ロベルトは彼女にパズルの才能を見いだし、そして伸ばし、協力して二人はパズルの大会で優勝するのです。
この作品は、抑圧された女性が自らの才能を発見し、そしてそれにより自身を持ち、イキイキと生きようとし始める物語と言えます。
こういうタイプの映画は、洋画でも、邦画でもよくあります。
けれど本作のラストは、冒頭のシーンと同じくけっこう驚きました。
アメリカ映画だったら、自らの才能を見いだした女性主人公は、その才を活かし強く自分の力で立ち上がろうとするでしょう。
邦画であったら、才能を見いだしつつも、家族への愛情を再確認し、愛する人びとのもとに戻るというような展開もあったかもしれません。
本作はそういう自分が見慣れた展開とも違ったので、驚いたのです。
マリアは世界へ旅立つわけではありません。
また家庭に戻っても、夫や子供たちへの愛情を今までよりも強く再確認して生きていくというわけでもないんですよね。
マリアは家庭に戻っても、大会のことはいい思い出として、ひとり淡々とパズルをやっていくわけです(旦那や息子たちとも淡々とした関係のままなのだろう)。
女性が観た時にここにカタルシスを感じるのかなと思いました。
本作を観た日本の女性にも感想を聞いてみたいし、またアルゼンチンの女性にも聞いてみたい。
その国(また時代)によってさまざまな女性観はあると思いますが、それによって本作というのはどうとらえられ方が異なるのかに興味を持ちました。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (15)

2011年10月10日 (月)

「はやぶさ/HAYABUSA」 はやぶさくん

「宇宙キター!」(これをわかる人は一部であろう)
最近、テレビや出版物でも宇宙について取り上げられることが多くなってきている。
そのきっかけはまちがいなく、「はやぶさ」であるでしょう。
日本の宇宙開発は、他の先進国よりも遅れていました。
それは予算がつかないということもありますが、もう一つの要因としては国民の関心がそこには向いていなかったということも大きかったかと思います。
なんとなく日本の宇宙開発技術というのは、先進国特にアメリカNASAなどからみれば遅れているようなイメージがあり、なかなか関心が向かなかったのでしょう。
けれども「はやぶさ」による世界で初めて月を除く地球外から物質を持ち帰ったという偉業により、日本の技術もすごいのだということが改めて認識されたのですよね。

「はやぶさ」ブームにより、本作を含め映画もいくつか製作されています。
「はやぶさ HAYABUSA BACK TO THE EARTH」はドキュメンタリーでした。
今後公開される「はやぶさ 遥かなる帰還」は予告を観るとプロジェクトメンバーそのものにスポットをあてた「プロジェクトX」的な感じに見受けられます。
で、本作はというとまたそれらとは違うアプローチをしています。
「はやぶさ」がブームになったというのは、日本の科学技術の高さを知らしめたということもひとつあるでしょう。
しかし、それ以上に大きかったのは、「はやぶさ」という探査機自体に、みなが何か人格のようなものを見たということが大きかったのだと思います。
7年もの年月をかけて宇宙を旅し、満身創痍の状態でありながらもミッションをやりとげ、地球へ帰還しました。
その姿(?)に何か困難に立ち向かい、成し遂げた人間のようなものを見たのだと思います。
現在の日本の状況は決していいものではありません。
けれども困難の中でも諦めずに乗り切るという勇気をそこに日本人は見いだしたのではないでしょうか。
だからこそ皆が機械の固まりである探査機を、愛情を込めて「はやぶさくん」と呼ぶわけです。
プロジェクトメンバーへももちろんですが、少なからず擬人化された「はやぶさくん」へのエールというものがあったのだと思います。
僕は「はやぶさ」ブームというのは、このような「情」というものがとても大きなものであったような気がします。
本作ではそのような「はやぶさ」の擬人化をそのままストレートに作品の中に取り入れています。
絵本などではよくある手法ですが、「はやぶさ」の擬人化により、観客ははやぶさくんと一緒に旅を送っているような気持ちになれるのです。
また架空のキャラクターである水沢(竹内結子さん)の導入により、プロジェクトメンバー内にも観客側の目線を入れることを行っています。
実際の出来事を再現するというのではなく、ある種のファンタジー化をすることにより、作品への思い入れを強くすることをはかっています。
彼らプロジェクトメンバーとはやぶさくんは困難にあって挫けず、自分のなすべきこと、やりたいことをやっていき、プロジェクトを成功させます。
その中に自分もいっしょにあるような感覚になれたのではないかと思います。
僕はけっこうこのあたりでツボを刺激されまくって、泣きまくりでした。

渡辺謙さん主演の「はやぶさ 遥かなる帰還」のほうは、王道のプロジェクトもののアプローチになりそうな感じがします。
同じ出来事を違う視点でどのように描くのかというのを比べて観てみるのもおもしろいかもしれませんね。

「はやぶさ 遥かなる帰還」の記事はこちら→

「おかえり、はやぶさ」のレビューはこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (41)

2011年10月 9日 (日)

「ツレがうつになりまして。」 病気になってわかること

宮﨑あおいちゃんファンなので、さっそく観に行ってきました。
「神様のカルテ」でも役名はハルさんだったけれど、本作の役名もハルさん。
ともに夫を支える妻役ですけれど、まったく逆のタイプですよね。
でもそれぞれにいい奥さんだよなぁと思わせられるところが宮﨑あおいちゃんのいいところです。
「篤姫」以来の堺雅人さんとのコンビも良いですね。
この二人の組み合わせはなにかほっこりします。
原作は細川貂々さんの「ツレがうつになりまして。」で、ベストセラーになったので読んだことがある方も多いかもしれませんね。

で、普通だったらこのまま映画のレビューとなるわけですが、今回は大幅に脱線します。
本作の題材にもなっているうつ病についてです。
こちらのブログでも前に何回か書いたことがありますが、僕もうつだったときがあります。
病気のことは僕はカミングアウトしているので、周りにも全く隠していません。
ただそういう状態だった時どれだけ辛いのかというは骨身に染みているので、本作を観て思い出したらいやだなぁとか思いながら、観に行きました。
あとうつ病といういろいろと誤解されやすい病気が変な風に描かれていたらいやだなぁというのもありました。
映画を観た後の感想でいえば、後半の懸念はまったく杞憂でした。
原作が優れていたからかもしれませんが、うつ病とその患者の状態についてとても丁寧に正しく描かれいたと思います。

僕の場合も、ある日会社に行けなくなるということが起こりました。
ほんとうに身動きできない状態になるのです。
パソコンがフリーズしてしまったような。
会社に行かなきゃ、という気持ちはあるにも関わらず動けない。
まさにツレと同じ状態です。
僕はそういう状態になった時、すぐさま産業医から面談に来るようにといわれました。
状態を話した後、産業医の先生は「明日から会社を休みなさい。うつ病だと思う」と言いました。
僕は「へ!?」という感じでした。
もちろんうつ病という病気は知っていましたが、まさか自分がそうなるとは思ってもいなかったわけです。
確かにずっと眠れない、お腹が痛くなる、頭が痛いというのはありました。
ツレと同じように「でも仕事があるし、みんなに迷惑かけるし・・・」とささやかに抵抗してみましたが、産業医の先生は「そんなの気にしないで休みなさい」と一蹴。
ほんとに次の日から休みになりました。
実はうつ病が辛いのはここからです。
まず病気の正体が自分でよく分からない。
「これはサボっているということではないではないのか」という罪の意識にとらわれたり、まさにツレのように「自分なんかいなくたって仕事は回っている。自分は必要はないのではないか」と考えたり。
まさに「申し訳ない・・・」という感じです。
どちらかというと休み始めてからのほうが症状が重くなったのではないかと思うほどでした。
気力がなくて動けない状態がほぼ1ヶ月。
劇中でもツレが言っていましたが、世間から取り残されている感じ、また先が見えないという不安で辛い状態です。

映画の中のお医者さんも言っていましたが、こういう状態から脱するための治療は3方向のアプローチがあります。
薬物療法、認知療法、環境療法の3つ。
お薬は医師の指示通りにもらって飲めばいいだけですし、環境は少し状態が良くなってからの話です。
自分で自覚的にできるのは認知療法です(お医者さんやカウンセラーのご指導受けてね)。
これは自分が今どのような状態であるかというのを自分で正しく認知し、それを受け入れるということです。
うつが苦しいのは自分の現在の状態と、自分のあるべき姿(と自分が勝手に決めている)もしくはそうあるべきと周囲に要求されている姿とのギャップにあります。
自分はそのままでいいのだと受け入れるようになることが認知療法の第一歩です。
そのためには自分の心と、対話をするということが大事になります。
心と対話って?と思うかもしれません。
これは自分の心がどういう状態にあるのかというのを、頭で理解するということです。
映画の中でもツレが日記を書くことを薦められます。
これは日記を書くことにより、自分の気持ちを吐き出し、それを改めて読み直すことにより、自分はこう思っていたんだと理解するということをすることなのです。
自分の心なんて自分のことだからわかっているよ、という人もいるかと思います。
けれど、実は自分の心いうのは、意外と自分ではわかっていなかったりするものです。
ハルさんの母親が「(娘の夫が)病気になって初めて心のことを考えた」といったようなことを言いますが、まさにその通りで心の働きを普段意識することはないでしょう。
自分が嬉しかったり悲しかったりする。
それ以上のことがあるの?という感じですよね。
心を働きを認知するというのは、嬉しかったり悲しかったりする自分というのがいて、それを客観視している自分がいるようなイメージなります。
自分はなんで嬉しいのだろう、なんで悲しいのだろうと考えられるクセがつくと言いますか。
悲しい時、辛い時、なんでそうなのだろうと考えて理由がわかれば手の打ちようがあります。
うつの大きな原因のひとつは先行きが見えないことに対する不安ですから、理由がわかれば対応しやすくなるわけです。
僕は元々内省的なところがあるので、このクセを習得するのは今思えば早かったように思います。
3ヶ月で職場復帰、半年後には普通に仕事ができるようになりました。
ただこれも映画の中で言われているようにこの病気は完治というものが見えにくいものです。
そもそも何をもって完治なのかということもありますし。
ツレも言っていたように、これは一生つき合っていくものなんだろうなと僕も思っています。
ただつき合い方さえわかっていれば、それはコントロールできます。
映画の中のツレの状態は、まさしく以前の自分のそれで、観ていて苦しいところもありましたけれど、そううのも冷静に客観視できている自分というのも確認できました。
うん、自分の心を把握できてる、という感覚です。
僕が病気になってわかったことは、やはり「心の働きとそのコントロールの仕方」でしょうね。

あとツレが「病気になっていたことを恥ずかしいと思った」というのも、この病気になった人の本心を言っているように思いました。
僕もそうでしたから。
でも今は自分から積極的には言いませんが、そういう病気であったことを隠すつもりもありません。
自分自身を受け入れられるようになったからかなと思います。

よく考えてみるとこうやって長い間ブログを続けているのも、ツレが日記を書いているようなものなのかもしれません。
自分が映画を観たり本を読んだりして、こう感じたというのを書くことにより、自分の心をモニタリングしているのかなと思ったりして。

・・・なんてすみません、全然映画の話から脱線してしまって。
普段は全然元気ですからねー!ご心配なく。
でもこの病気で苦しんでいる本人も周りの人も多いので、ちょっと自分の体験を書いた次第です。

こういう内容の記事を書くと、スパムのTBとかコメントくるんだよなぁ・・・。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (44)

2011年10月 8日 (土)

「とある飛空士への追憶」 ファンタジー版「ローマの休日」

神聖レヴァーム皇国、帝政天ツ上という東西の大国が対立する世界。
傭兵である飛空士シャルルは、神聖レヴァーム皇国の次期皇妃となるファナを王都へ送り届ける役目を命じられました。
ファナがいるサン・マルティリアは王都まで飛空機(この物語に登場する飛行機)でも3日ほどかかる距離ですが、シャルルが駆る飛空機は高性能であるものの兵装は機銃一門のみで、王都まで行くにはそれで敵中突破をしなくてはいけないという過酷な任務です。
3日という旅路の中で、ファナとシャルルは身分を越えて互いに惹かれあっていきます。

パンフレットを見ていたら本作の脚本を担当している奥寺佐渡子さんがこの作品を「ファンタジー版『ローマの休日』」目指して作ったとおっしゃっていました。
これを読んでなるほどな、と。
次期皇妃と、一介の飛空士の恋、まさに「ローマの休日」ですね。
「ローマの休日」も主人公は王女でしたから、本作のファナについて見てみましょう。
ファナは貴族であり、その美しさで皇国の王子に見初められ、プロポーズを受けました。
冒頭のそのシーンではファナは美しいのですが、表情に乏しく、親の命令に従順に従う女性のように見えました。
けれどもシャルルとの命をかけた旅の中で、明らかにファナは変わっていきます。
というよりも元のファナに戻っていったと言ったほうがいいでしょう。
実はシャルルとファナは幼い頃に会っており、シャルルの回想シーンにあるファナは快活でかつ慈悲深い少女でした。
おそらく親の厳しい躾により、ファナは従順な女性として生きていかなくてはいけなくなったのでしょう。
彼女にはそうあるべきであるという諦めのようなものがあったのかもしれません。
女は自ら決断し行動するものではなく、そのように生きるものなのだと。
しかしシャルルとのまさに命懸けの敵中突破の中で、ファナは目の良さを活かし敵機をいち早く発見するという才能を発揮します。
彼女にとって誰かのために「役に立つ」ということを初めて感じたときではなかったのではないでしょうか。
またファナは本心から自分を命懸けで守るという意志を持ったシャルルの心にも触れます。
「二人でなら敵中突破もできるはずだ」とシャルルは言います。
ファナの目、シャルルの腕でかろうじて二人は敵の包囲を破っていきます。
この誰かと「共に」何かを成し遂げるという体験も彼女にとって初めてであったのだろうと思います。
もともとは慈悲深い心を持ち、快活であった女性です。
彼女の本当の魂がこの旅の中で再び甦ってきたのです。
このような体験のあと、シャルルが負傷したとき、おそらくファナは自分がシャルルに惹かれているという心を自覚します。
そこから彼女は大きく変化します(髪を切った時ですね)。
彼女は今までは感じたこと思ったことを口に出すということはしなかったのでしょう。
しかし、髪を切ったあとのファナは思いを口にし、行動します(このあたり画の表現も上手で、特にファナの目力が明らかに変わって見える)。
ファナとシャルルは3日間の敵中突破後はやはりそもそもの身分としているべき場所に別れていきます(このあたりもまさに「ローマの休日)。
しかしこの旅の中で甦ったファナの凛として慈悲深い本質は、その後の二国間の争いを終わらすために大きな役割を担うということが最後に語られます。
そのような王妃を誕生させたのも「とある飛空士」との出会いであったわけですね。

この物語、ファナが両国を平和に導き、その後老いて孫に自分の若い頃の思い出話を聞かせているというような感じがしますね。
「おばあちゃんはね、とある飛空士さんと旅をしてね・・・」

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (3) | トラックバック (20)

本 「リトル・ピープルの時代」

けっこうなボリュームの本なので、これを評するというのは自分の能力的にちょっと難しいのでやや散文的になってしまうので、ご勘弁を。
タイトルにある「リトル・ピープル」というのは村上春樹さんの小説「1Q84」の中に出てくる言葉らしいです。
らしいというのは僕自身は「1Q84」を読んでいないから、確認できてません。
そもそも村上春樹さんの小説は一冊も読んだことがありません。
「ノルウェイの森」なり「1Q84」なり、普段小説を読まない人も手に取るくらいの作品ですが、それだけベストセラーになってしまうと、ひねくれ者の自分としてはかえっていいや、って感じになっていたわけです。
じゃ、なんでこの本を手に取ったかというと、表紙のデザインに初代の仮面ライダーの写真が用いられていたから。
パラパラと本をめくると中には平成仮面ライダーに関する論が展開されていたわけで、興味を持って買ってみたわけです。
読み始めると、いきなり村上春樹論になっていて面食らってしまいました。
この本は、村上春樹、仮面ライダーなどの特撮もの、その他ロボットアニメやゲーム、さらにはAKB48などのポップカルチャーを題材にしながら、現代の文明・文化論を展開するというものでした。
タイトルにある「リトル・ピープル」という言葉に対し、本著では「ビック・ブラザー」という言葉が登場します。
これは僕も知っています。
「ビッグ・ブラザー」というのはジョージ・オーウェルの小説「1984」に登場する独裁者の名です。
これは全体主義の管理国家を人格として表したものとして受け止められるのが一般的です。
近代以降、60年代までは国家というものを人びとは人格化し、ビック・ブラザー的にとらえていました。
その強大な力の管理に対し、反抗するというのが特に戦後から60年代までの世界的な流れでした。
対抗、反抗ということはそこにある種、外と中という区分をつけ、そことの関係性に物語を見いだすということになります。
けれどもそのビック・ブラザーも、著者によればすでに壊死していると。
それにより現代は外と中という区別はなくなり、さらには物語性も失われているというのが著者の論旨です。
その背景にはグローバル経済化ということ、またはインターネットの発展による情報革命があげられています。
つまりはビック・ブラザーというのは国家の人格化であったのですが、その国家というものの上位にグローバル経済化と情報革命により、市場(一般的な狭義の市場というのではなく、もっと広いネットワーク的なものととらえる)というものが位置している。
その市場はそれぞれの個人=リトル・ピープルで構成されている。
今までは国家の外と中なり、国家と個人という関係性・物語性があったのが、それらの区分があいまいになっているというか、壁がなくなっているというのが、「リトル・ピープルの時代」ということです。
内と外という区分がなくなる中、以前は外に対し悪を求めていましたが、外がない時代、悪というものを見るには内に求めなくてはいけない。
著者によれば、村上春樹はビック・ブラザーが存在しないということについては認識しているが、リトル・ピープルの時代になった今を把握しきれていないのではないかと論じています。
対して平成仮面ライダーシリーズというのは、そもそもの同族同士での戦いという基本設定の中に、外の世界のない現代というものをとらえるヒントがあると論じています。

文化論的には、うーむ、なるほどこういうふうに見る見方もあるのだなというように思いました。
グローバル経済、ネットワーク化により外のない世界というものになっているというのは確かにおもしろい考え方です。
ただしそれを説明するために用いている平成仮面ライダーシリーズやロボットアニメの解釈については、著者の考え方に合わせるように解釈しているように感じるところもなきにしもあらずでした。
村上春樹さんについては読んでいないのでなんともいえないですが、もしかしたらそういうところもあるかもしれません。
ただ補論で掲載されていた「ダークナイト」の論評はキレ味が鋭くなるほどと感心することしかりです。
AKB48についてもなるほどと思いました。
この視点で現代文化を見てみるといろいろな発見があるような気がします。
全体の文化論は興味深く、個々の作品評も鋭いのですけれど、それを繋げようとするところにいくつか無理矢理な印象を少し感じました。

ああ、それと現代文化を仮想現実(VR)ではなく、拡張現実(AR)として見るという捉え方はとても面白く興味深かったです。

「リトル・ピープルの時代」宇野常寛著 幻冬舎 ハードカバー ISBN978-4-344-02024-5

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「大魔神カノン」 高寺作品の集大成

角川映画が大映を買収した後、元々大映のコンテンツであった「大魔神」をリメイクしたテレビシリーズです。
リメイクとはなりますが、舞台を現代にしたりなどオリジナルとは大きく変わっていますので、ほぼ新作と言っていいでしょう。
この作品は「大魔神」のリメイクというよりは、本作のプロデューサーである高寺重徳さんの一連の作品の流れの一つとして見るのが良いかと思います。
高寺重徳さんは現在は角川書店に所属しておりますが、以前は東映で髙寺成紀というお名前で「仮面ライダークウガ」、「仮面ライダー響鬼」のプロデューサーであった方です(「響鬼」は途中降板で、その後東映から角川書店へ転職)。
「クウガ」「響鬼(前半)」「カノン」と観てみると、非常に高寺プロデューサーの個性が強く出ているというのがわかります。
この三作品で共通している要素、テーマというのがいくつかありますので、あげていきましょう。
まずは敵方の設定です。
「クウガ」におけるグロンギ、「響鬼」における魔化魍、「カノン」におけるイパダタが敵方に相当するわけですが、これらに共通するのは基本的にそれらは和解のしようのない存在として描かれているということです。
グロンギはゲームと称して人間を虐殺していき、魔化魍は人間を捕食の対象としてかみなしていない。
またイパダタは人を心の底から憎んでいる。
その存在と人間の間には絶対に和解はないというものとして描かれています。
これは他のヒーローものと比べるとかなり異質です。
例えば他の平成仮面ライダー作品では敵方にも、彼らの論理があり、そこには共感性すら感じられるようになっています。
特に白倉プロデューサーの「龍騎」や「555」などでは敵方であってもそれらの行為が悪であるかどうか(逆に主人公側が正義であるかどうか)についても考えさせられる内容になっています。
そういう意味で高寺プロデューサーの作品は、非常に特徴的であると思います。
高寺作品の敵方、ある意味人間にとっては絶対的な敵対者と考えられる存在というのは何を意味しているのでしょうか。
僕の解釈でいうと、それら敵方の絶対性というのは、人が大人になり社会に出た時に直面する理不尽ともいえる現実を表しているものではないかということです。
いくら自分が正しいと思っていても、社会には理不尽で不条理なことはあります。
それについて逆らい戦ってみても、負ける時があります。
また人に裏切られることもあります。
そこで人は挫折を味わいます。
そして膝をつき、いろいろなことを諦めてしまう。
もういいやとなってしまう。
このように自分の前に立ちはだかる理不尽で不条理でどうしようもないというものが、高寺作品の敵方像に現れているのではないかと思います。
それは「響鬼」、そして本作が少年少女の成長物語になっているということからうかがわれます。
「響鬼」の明日夢、本作のカノンはそれぞれピュアな心をもった若者です。
しかし、さまざまな不条理な現実に直面することにより、夢を諦め、人間を信じる心を失いそうになります。
けれども明日夢の側にはヒビキ、カノンの側にはタイヘイらオンバケたちがいます。
ヒビキやオンバケたちは、不条理な現実に直面しても、己の信じることが揺るぎなく、また困難に直面してもそれと相対できるほどの力を持っています。
その力(心もカラダも)は持って生まれたものではなく、自分の意志で培ってきたものであるのです(ヒビキの「鍛えてますから」のセリフ)。
つまり高寺プロデューサーがさきほどあげた三作品で伝えたいメッセージというのはこういうことなのではないかと思うのです。
世の中には不条理で理不尽なことというのはいくらでもあり、なくすることなどはできない。
いつかはそういうことに出くわしてしまうことはある。
けれど、理不尽なことと直面する時に一度や二度負けたとしても、自分の中にある心は膝を屈してはいけない。
若者よ、強くあれ。
このようなことを言いたいのではないかなと思うのです。
ですので「響鬼」「カノン」は少年少女の成長譚になっているわけです(「響鬼」で高寺プロデューサーは挫折したので、それを「カノン」で成し遂げたと言っていい)。
「カノン」は高寺作品の集大成と言えるかと思います。
「クウガ」の五代雄介は明日夢やカノンが将来、成長し到達してほしいという理想の姿というように見ていいと思います。

高寺作品の弱点というと、上に書いたような大きな伝えたいことというのがあるため、テレビドラマとしては1話1話の盛り上がりというよりは、第1話から最終話までの大きな流れとしてストーリーを構成してしまうということになっているということです。
ですので特に前半部分は大きなストーリー展開はなく、また1話という単位で見ると盛り上がりのない話になってしまうことが多いのです(特に「響鬼」「カノン」はそうなってしまっている)。
ですのでテレビドラマとしてみると、なかなかに辛い。
これは現在の平成仮面ライダー、特に「W」「フォーゼ」の塚田プロデューサーの徹底した2話完結方式とは対称的であると思います。
展開が遅すぎた「響鬼」で高寺プロデューサーが降板ということになったのは、ある意味仕方がないことであるような樹もします。
「カノン」は角川書店書店という大きなバックボーンが得られたということ、また視聴率がそれほど問題とならない深夜帯でのオンエアであったということ、玩具を売るというビジネススキームではなかったことなどがあり、最後まで続けることができたのだと思います。

とはいえ、高寺さんの作品は強いメッセージ性があり、彼しか作れない作品であるので、これからも新たな作品を生み出していってほしいと願っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「スリーデイズ」 ドン・キホーテの見る世界

無実の罪で妻ララが殺人犯として逮捕されてしまった、大学教師ジョン(ラッセル・クロウ)。
妻の無実をジョンは信じますが、裁判でも判決は覆らず、ララは収監されてしまいます。
絶望の中で、ジョンはララを救い出すべく、脱獄計画を練り始めます。
しかし計画途中でララが別の刑務所に移送されることとなり、それは3日後であることがわかります。
タイムリミットはあと3日・・・。
このように映画の内容を書くと、タイムリミット・サスペンスだったり、完全犯罪ドラマであったりするように感じられますが、この記事では別の側面で見てみたいと思います(とはいっても後半脱獄計画を実施しはじめてからのハラハラ感は完全犯罪ドラマとしても見応えはあります)。
考えてみたいのは主人公ジョンの心理、そして彼がどのように世界を見ているかということです。
妻が逮捕されるまでは、幸せな家族であり、ジョンは良き夫、良き父親でした。
それが妻の逮捕により崩れてしまうのです。
けれどもジョンが妻を愛する気持ちはとても強く、周囲が何を言おうとも彼女を助け、救おうとします。
そして妻が罪を犯していないことについてみじんも疑いを持っていません。
しかし周囲の人びと、そして家族でさえも、しだいに妻の罪は「確定」したこととして扱おうとします。
それは当事者本人以外にとっては自分たちの日々の生活があるわけですから、裁判などのある種の判断がされた場合はそれを事実として認識して生活を送るということは致し方ないことではあるのです。
けれどもジョンにとっては妻の無実が真実であるわけです。
ここでジョンが見ている世界と、ジョン以外の人物が見ている世界がずれてくるのです。
ジョンは大学で教えている教科は文学であり、ちょっとだけ彼の講義シーンがありますが、ここで取り扱っている作品が「ドン・キホーテ」であったのです。
これは意味があって、ご存知の通りドン・キホーテは風車に竜の姿を見て戦いを挑むという場面があります。
普通の人間がそこに風車を見るにも関わらず、ドン・キホーテは別の世界(自分の妄想)を重ねて見たわけです。
このドン・キホーテの姿がジョンに重なるわけです。
このようにジョンが異なる世界を見ていると気づいていたのは、彼の父親だけで彼が言った言葉として「あいつは異世界に生きている」というセリフがあげられます。
ただし、真実を見ているのはジョンであり、他の人は確定したと認識される事実を見ているというのが、ドン・キホーテとは逆ですが。
けれども真実を見ている=正しいというわけではないということがこの作品からはわかります。
さきほども書いたように「正しさ」というのは「多くの人にそれが事実であると認識される」ということによるのです。
それが真実であるかどうかは実は関係なく、多くの人の間でコンセンサスが得られてしまえばそれが「正しい」ということになってしまうのです。
そのずれがジョンと他の人びとの間で見る世界の差になっているわけです。
このずれは皮肉なことにジョンとララの間でも生じるのです。
ララは長い収監生活の中で、自分が罪を犯していないと知りつつも(当然本人だからそうなのですが)、ある種受け入れるようにもなっています。
これは実際冤罪を受けた人もそういう心理になるということも聞きます。
ですからジョンが脱獄を幇助するため刑務所にきた時、ララは拒否反応を起こします。
ジョンが救い出しにきてくれて嬉しいというのではなく、拒否をするのです。
それはララがようやく受け入れた世界認識(たとえ真実とは違っていたとしても)を、ジョンがひっくり返そうとしようとしたことに対する危機感であると思います。
さらに逃走途中で、ジョンにとり妻を救い出すということ自体が目的化してしまっている(ほんとうにララを救い出したいという気持ちからジョン自身も気づかずに乖離し始めている)ことに気づき、突発的に車から身を投げようとするのです。
ジョンとララが見ている世界が決定的に異なってしまっているのがわかる場面でした(このシーンはけっこう印象深く好き)。
彼らは子供とともに首尾よく逃走することができますが、おそらくいずれ彼ら夫婦の間には破局が来るような気がしてなりません。
ララはジョンの見ているある種偏執狂的な世界に違和感を感じていますが、それは子供への愛情ということでかろうじてつながっている状態であるかと思います。
おそらくララの愛情はジョンではなく、息子に向かっていくでしょう。
そのようなララに対し、妻に対する愛情の深いジョンは思いの通じなさを感じてしまうような気がします。
ジョンが見る世界、ララが見る世界はどこかで決定的にずれてしまった。
それは元には戻らないのではないかと。
よく考えれば、自分が見ている世界と人が見ている世界が同一なんていうのも幻想だったりするわけですよね。
普段生活しているときはそこにずれがないことを前提に生きています。
けれども時折、自分の思いと人の思いが微妙に食い違うことに違和感を感じることもあるわけです。
根本的に人は同じものを見ているようで、自分が見たいように見ているということを認識させられた作品でした。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (2) | トラックバック (45)

2011年10月 2日 (日)

「DOG×POLICE 純白の絆」 定石通りの手堅い作り

警備犬と警察犬というのはそもそも違うものなんですね、知らなかった。
捜査で犯人を追っていくのは警察犬で、鑑識に所属。
で、爆弾を探したり、救助を行ったりするのは警備犬で、警備部に所属。
そもそも所属する組織が違うんですね、勉強になりました。

本作は警察ものとしては常道のバディ・ストーリーの変形としてみることができ、それほどの驚きがある話ではありません。
とはいえ、手堅く作っているので、面白くないというわけではないのですけれども。
加えて動物もの的な感動要素も入っていたりするわけで、まさにはずさないという感じ。
市川隼人さんは、やんちゃで直情的な正義漢をやらせたら右に出るものはいない俳優さんですし、この配役も手堅い。
4係の他のメンバーもある意味、定石通りのキャラクター配置です。
ぼんやりしているようで、実は切れ味がある理想の上司。
美人で聡明であり、男まさりの女性の同僚(やはり反発しあいながらも惹かれあう)。
他のメンバーも実力もあり冷静なメンバーのリーダー、コンピューターに強いオタク、温情のあるムードメーカーなどこのあたりも定番な構成。
さらに犯人はちょっとサイコな感じという。
なので登場人物が出そろうと、だいたい展開は読めてしまい、それどおりお話は進んでいくわけです。
ですので驚きもないのですが、へんに裏切られることもないわけで、安心感をもって観ていられますね。
コアな映画ファンにはちょっともの足りない、「たまには映画でも観てみよう」っていうような普通の人には気軽に観れて安心な作品になっているかな。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (24)

2011年10月 1日 (土)

「モテキ」 恋の一喜一憂

「モテキ」、それは人生において突然、異性に持てる時期、らしい。
そんなもんあるんですか?一度も経験したことないんですけど(爆)。

例によって原作もドラマも未見で観賞でしたが、全然大丈夫でした。
恋愛コメディのジャンルになるかと思いますが、けっこう笑えました(劇場内も爆笑がいくつかありました)。
恋愛コメディというと、特に洋画とかだと笑いもスマートな感じがあるのですけれど、本作はどちらかといえば恋愛の「みっともない」ところをネタにしているという感じですよね。
誰しも恋愛をしているとき、あとで思うとそうとう「みっともない」と思えることをした経験があると思うんですよね(「ない」という人は幸せです)。
恋愛のポップソングを聞いて告るとか、泣くとか(劇中での「弱っているときに聞くアイドルソングは麻薬ですよ」というセリフはけだし名言)。
るみ子の「悪いところがあるなら直すから」というセリフもありましたが、それに近いことは言ったことがあるなぁ・・・(遠い目)。
当然のことながらもとに戻ることはありませんでしたが(爆)。
そういう話って、後で思い出すと顔から火がでるくらい恥ずかしくカッコわるかったりするので、他人にも話さなかったりするものですが、本作はそのあたりの恋愛の「みっともなさ」みたいなものをストレートに描いて、笑い飛ばしているようなところが潔いというか。
恋愛時のドタバタというか、煩悶するこというのは、結局は人間というものは相手の気持ちのほんとうのところを見ることはできないからなんですよね。
本作でも主人公の幸世がベッドの上でのたうち回っていたりしますが、心情的にはこれは極端なことではなく、相手の気持ちがわからなくて苦悶というのは恋愛ではよくあることです。
相手の気持ちは、その言動や行動を通じてしか想像するしかないわけです。
その言動や行動の意味は想像力で補うしかない。
その想像力がときにはポジティブに、ときにはネガティブに振れたりするから、恋愛というのは始末が悪い。
本作でも幸世が相手のアクションからいろんなことを妄想するのをモノローグで語ってたりしますが、そういうことはみんな少なからず自分でもやっているはず。
その中での妄想の展開というのは恥ずかしくて誰にも言えないものですが、本作はそのあたりを開けっぴろげに描いているので、たぶん観ている人は「こういうことってあるよなぁ」ということで笑いのツボに入ったりするのだろうと思います。
相手がこんなことを言ったから自分に気があるのかも?とハッピーな気持ちになったり、こんなことをしたから自分のことは嫌いなのかもしれない・・・とどよ〜んとなってみたり。
実際相手の本当の気持ちなんて聞いていないので、ハッピーになったりどよ〜んとする根拠もないのですけれど、恋愛中というのは相手の一挙手一投足に、一喜一憂してしまうものなんですよね。
一喜一憂した上に、そしてさらにそのときの気持ちがうわずって行動してしまったり発言してしまうと、けっこう「みっともない」ことになってしまったりするわけです。
ただね、こういう「みっともない」ことはそれはそれで人間らしいと思ったりもするんですよね。
いいじゃん、みっともなくたって。
なんか格好つけてスマートに振る舞ってみてあとで「こう言っておけばよかった」と後悔するくらいだったら、「みっともなくても」行動したほうがのちのちはいいかなと。
失敗したときは死ぬほど苦しむんですけれどね。
行動しなかったことの後悔はあとで効いてきます。
と、恋愛のことを冷静に書いていたりしますが、一ヶ月前はそんな気持ちの余裕もなかったわけで、よくぞ立ち直ってきたなぁと思ったりもします(笑)。

本作の長澤まさみさんは、確かに最終兵器的にかわいかった。
脚をだす衣装が多かったのは、監督の趣味?
観ているほうは目の保養となりましたが。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (38)

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »