「ミッション:8ミニッツ」 量子論的な世界
<ネタバレありありなので注意です>
スティーヴンス大尉はある時目覚めると、電車の中で知らない男の体に自分の精神がある状態であることに気づきます。
そしてその電車は目覚めて8分後に爆弾テロにより爆発してしまう。
スティーヴンスはテロで死んだ男の記憶に、ある特殊なプログラムで精神を移され、その記憶を繰り返すことにより爆弾テロの犯人を突き止めるよう命令されるのです。
彼は記憶は保持をしながら何度も死までのプロセスを繰り返し、犯人に迫ります。
そしてスティーヴンスはその過程で知り合う女性クリスティーナや乗客たちをなんとか救いたいと考えるようになります。
けれどもスティーヴンスが体験している出来事はすでに起こってしまったことです。
何度も同じ出来事を繰り返しますから、タイムマシンで過去に遡っているようにも思えてしまうのですが、プログラムは過去の記憶を再生しているわけですから、リアルな世界での事実を当然のことながら改変することはできないのです。
実はスティーヴンスはアフガンで致命的な事故に合い、なんとか脳だけが生きているという状態になっていました。
彼の精神がこの死者の記憶を辿るというプログラムに適合したことにより、生かされていたわけです。
スティーヴンスはその事実を知ってからもそれを受け入れた上で、彼が何度も体験する記憶の中の人びとを救いたいと願います。
つまりは再生される記憶の中で爆弾テロを未然に防ごうとするのです。
そしてそれを成し遂げた時点で、リアルな世界で尊厳ある死を迎えたいと、このミッションのオペレーターのグッドウィンに言います。
彼は二度と戻れることのない最後のミッションの8分間に挑み、見事に爆弾テロを防ぐことに成功します。
そしてリアルのスティーヴンスの体の生命維持装置はグッドウィンによって切られ、彼は本当の死を迎えることになるのです。
しかし、死んだ男の記憶の中の精神のスティーヴンスの世界は8分を過ぎても継続していきます。
列車は無事シカゴにたどり着き、彼はクリスティーナと共に駅に降り立つのです。
これは何を意味しているか。
そのカギは最後にグッドウィンが受け取ったスティーヴンスからのメールにあります。
「このプログラムは新しい世界を作る」と言ったようなことが書かれていたかと思います。
このプログラムは死者の記憶を再生し、その中に人間の精神を送り込むというために作られたものではありましたが、別の可能性をも持っていたのです。
その記憶の中で起こした行動はその後の記憶の中の世界に影響を与えることができる。
死によってとぎれた記憶のその先をも作ることができたのです。
スティーヴンスがクリスティーナといっしょにシカゴを歩く世界はリアルな世界の中ではコンピューターの中にあるものです。
けれどもその中の世界で生きているスティーヴンスとクリスティーナにとってはそれが世界そのものなのです。
スティーヴンスの選択と行動により新たな世界が作られたものと考えていい。
これは量子論におけるマルチバースの考えに近いものです。
ちなみにラストでスティーヴンスからメールを受け取ったグッドウィンはリアルな世界でのグッドウィンではなく、再生された記憶の世界にいるグッドウィンとなります。
本作は量子論に基づいたマルチバースの考え方を本格的に映画に取り込んでいます。
これは劇中でこのプログラムを開発した科学者が「量子論的な手法で」と言っていたことから示唆されます。
このマルチバースの考え方はSFに出てくるパラレルワールド(並行宇宙)のようなものと考えてもらえると判りやすいです。
ただ量子論から考えられるマルチバースは少々難しい。
量子論によるとミクロの世界では不確定性があり、ある微粒子のある時点での位置を特定することはできません。
たいへん奇妙なことですが、微粒子は存在することはわかってもどこにあるのかは確定することができないのです。
むろん観察をすれば、ある粒子の位置を特定することができます。
しかし同様に観察しても同じ位置にその粒子を特定することはできません(有名な二重スリット実験などがわかりやすい)。
ようは観察するまでは粒子は「どこにでもある」状態で存在し、観察することにより「ある位置」に特定することができるわけです。
また有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験があります。
ある箱のなかに生きた猫とラジウムと青酸ガス発生装置を置きます。
その青酸ガス発生装置はラジウムがアルファ粒子を出すことに反応して青酸ガスを発生させます。
ラジウムが1時間でアルファ粒子をだす可能性は50%とします。
ですから1時間後に箱を開けた時、猫が死んでいる可能性は50%になるわけです。
では箱を開けていない状態のときは猫は死んでいるのか生きているのか。
その答えは「わからない」です。
正しくは「生きている」状態と「死んでいる」状態が重なりあっていると言うべきです。
箱を開けた時点で「生きているか」「死んでいるか」が確定するというわけです。
ここからマルチバースの考え方が出てきます。
あるとき箱を開けたら猫は「死んでいた」。
これは50%の確率で起こったことです。
ということは50%の確率で「生きていた」世界も生み出されるはずだと。
それで箱を開けた瞬間に世界が分岐したという風に考えるわけです。
猫が「生きている」世界と「死んでいる」世界に分岐したと。
これがマルチバースの考え方です。
マルチバースについてはこういう考え方があるということだけで、まだすべての科学者の間でコンセンサスが得られたものではありません。
しかし、人の選択や行動により世界が分岐していくというのはなにか面白いというか、夢があるような感じもします。
ニュートン、アインシュタインと科学が世界の仕組みを解明していく中で、決定論的な考え方が起こりました。
宇宙の仕組みを解き明かせば、世界の行く末は予言できる。
結末は決まっていると。
けれども量子論の出現により、世界は決定論的ではないということがわかります。
そしてマルチバースまでいくと、今自分がいる世界は人の選択と行動の積み重ねによるものであるという考えにもなります。
まさにスティーヴンスが自分の意志と行動により新たな世界を作ったように。
人間というものと世界というものの関係性をとらえる考えとしては魅力的なものの一つですよね。
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