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2011年9月11日 (日)

本 「豆腐小僧双六道中ふりだし」

今年の春に公開されたアニメ映画「豆腐小僧」の原作小説です。
映画のほうは豆腐小僧のキャラクターはそのままながら、舞台を現代にし、お話もかなりファミリー層を意識した作品になっていました。
けれども原作のほうはまったく異なり、さすが京極夏彦さんの考える妖怪論がとてもよくわかります。
今までも「京極堂」シリーズや、「巷説百物語」シリーズで妖怪についての氏の考えを表していましたが、本著はそれが小説を読みながらとてもよくわかるようになっています。
京極さんの考えによれば、妖怪というものは人間が自分が理解できないこと、わからないことなどといった不可思議な出来事を説明するために生み出したものということなんですよね。
例えば家鳴りがするといったことが起こった時、それは現代でいったら微弱な地震が起こっているからとか、遠くの鳴動が共鳴して伝わってきているからという「科学的」な説明がされるのでしょうけれども、そういう知識がない時代においては、それはとても不思議な出来事なわけで。
人というのは過去に対する記憶や、未来に対しての展望という時間軸をもつ生き物です。
また自分と他者、環境との関係性を見いだすことができます。
これは他の動物にはない点です。
だからこそ「不安」という感情がでてくる。
それは今や先への見通しが出来ない状態ということなのです。
見通しができない状態をほっておくと「不安」がどんどん募っていく。
それでは暮らしていけません。
ですので、そういう不可思議な出来事を説明するために生み出されたのが、妖怪というわけです。
先ほどの家鳴りでいえば「鳴屋(やなり)」という妖怪がやっているのだ、というような。
不可思議な事象を納得するという点でいえば、「鳴屋」と「微弱な地震」は同じなんですよね。
人は納得して「不安」を解消したいのです。
そういう成り立ちだからこそ、本著で出てくる妖怪たちというのは人が認識しなければ存在できない。
人が説明のために妖怪を欲した時に、妖怪は出現するのです。
これは「京極堂」シリーズで、妖怪を見る人びとの心理に共通しています。
また本著は「キャラクター論」というところにも触れています。
まさにそのシンボルがタイトルにもなる豆腐小僧なのですが。
妖怪というのは、上でも書いたように不可思議な出来事を説明するための解釈そのものと言っていい。
だからその出来事が起きなければ、またその説明を人が求めなければ妖怪は存在しない。
でも豆腐小僧は違う。
なぜか。
それは説明をするための妖怪ではないから。
豆腐小僧というのは何かを説明するために生み出された妖怪なのではなく、そのキャラクターそのものの存在がかわいらしいとか滑稽であるとかいうような言わば愛玩されるために存在したものであったのです。
まさにミッキーマウスやら、ポケモンやら今ちまたに溢れるキャラクターたちと同じような存在なのですね。
豆腐小僧というのは江戸時代末期に黄表紙などでフッと現れて一時期ブームになったようなのですが、その後ふっつりと見られなくなった妖怪だそうです。
まさにそれは現代のキャラクタービジネスのキャラクターと共通しているところがあります。
というより地方公共団体の「ゆるキャラ」ですかね。
まさに豆腐小僧は「ゆるキャラ」の先駆であったのかもしれません。

本著は京極さんのミステリーの暗かったり、哲学的な感じというのはなく、一般的に読みやすい作品に仕上がっていると思います。
妖怪に興味を持っている方の入門編として良い作品かもしれないです。

映画「豆腐小僧」の記事はこちら→

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