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2011年9月25日 (日)

「仮面ライダーフォーゼ」を1ヶ月観てみて

「仮面ライダーフォーゼ」が始まってから早一ヶ月。
パイロット版の監督(坂本浩一監督)が1〜4話までを担当するという異例のスタートだったが、これは作品世界を形作るのに最初が肝心という制作者の覚悟の現れであったと思う。
これは見事に成功している。
なにせ「宇宙」である。
「学園ドラマ」である。
主人公は今時リーゼントで短ランという昭和なスタイルである。
リアリティなどない。
本作に登場する美羽ではないが「ありえなーい」と言いたくなりそうだ。
これらの要素は「仮面ライダー」というプログラムにマッチングするのか、と誰しも最初は思うであろう。
けれども奇をてらったように見える要素はこれまでの4話を見るかぎり、マッチしている。
考えてみると平成仮面ライダーというものは、「リアリティ」にこだわることにより成立してきたともいえる。
それは「クウガ」に如実に現れているが、この世界(我々の暮らす世界)に「もし怪人がいたら」「もしそれらと戦う存在がいたら」ということをシミュレーションしていると言ってもいいかもしれない。
そういうことにより、「仮面ライダー」というプログラムは、いわゆる「ガキもの」から「大人の観賞に耐えうるもの」としての世間的な認識を得ることに繋がったように思う。
けれどもそれこそ平成仮面ライダーが最初の10年(ディケイド)が過ぎたなかで、同様のことを続けていても先はないかもしれないという考えに制作者は考えたのかもしれない。
そこで登場したのが、「仮面ライダーW」であった。
この作品は「探偵もの」「二人で一人の仮面ライダー」「風都という架空都市」といったように、今までの平成仮面ライダーが立脚していた我々の暮らす世界の延長というものから飛び出した設定であった。
「W」はご存知のように意欲的でありながらシンプルである物語は、次鳴るディケイドの最初の作品として評価されたのである。
その「W」の塚田プロデューサーが再び手がけるのが本作「仮面ライダーフォーゼ」である。
そもそも本作の塚田プロデューサーは、今までの作品をみても「戦隊」や「仮面ライダー」というフォーマットに新たな要素を持ち込むことにより、作品世界を活性化させた。
塚田プロデューサーが新たな要素を持ち込む時の常套手段は、その要素をひとつでなく、ふたつにするということである。
例えば「デカレンジャー」であれば、表面的には「警察もの」という要素であり、もう一つ内面的には「(プロフェッショナルとしての)誇り」という要素であった。
また「マジレンジャー」であれば、表面的には「魔法ファンタジー」であり、内面的には「家族愛」といった要素である。
「W」でいえば、「探偵もの」と「(相棒との)信頼」と言った具合である。
そもそものプログラムが持っているフォーマットに新たな(表面的な)要素を持ち込み化学反応させ、さらには内面的なテーマを描き込むというのが塚田プロデューサーの手法であると考える。
「仮面ライダー」とは異なるフォーマットをその作品世界に持ち込む際に行っているのが、「リアリティ」からの脱出であると思う。
スーパー戦隊シリーズはそもそも「リアリティ」を気にする必要はないのだが、仮面ライダーは違う。
先に書いたように平成仮面ライダーは「リアリティ」に基づいて作られているのだから。
ではどのように異質なフォーマットを仮面ライダーに持ち込むか。
それは「W」でも見られる「箱庭化」である。
「W」の舞台となった風都は、我々の暮らす世界の延長線にはないフィクションの世界とされる。
そうすることにより仮面ライダーというフォーマットに異質なフォーマットを持ち込むことを可能にしているのだ。
本作「フォーゼ」というとその箱庭は「天ノ川学園」である。
今までの4話を見る限り、その舞台となるのは「天ノ川学園」という箱庭の中である。
これはその中で怪人がでようが授業の進行に支障にならない別世界である。
今までの平成仮面ライダーの「リアリティ」上にあるとすれば、授業はたちまち中止、学校は閉鎖である。そうはならない舞台装置としての「天ノ川学園」をフィクションとして最初に成立させている。
そのために必要だったのが4話という異例のパイロット版であったと言える。
この舞台装置をしっかりと構築できたことにより、本作は成功のカギを一つ握ったと言っていい。
塚田プロデューサーの手法に照らし合わせてみると本作はどのようになるだろうか。
フォーマットとしては「学園もの」。
これは単純に日本の「学園もの」というよりは、アメリカの「ハイスクールもの」のフォーマットを持ち込んでいる。
もう一つの内面的なものをわかりやすく言うと「友情」であろう。
こう書くと身もふたもない陳腐な言葉であるのだが、たぶんそうなのである。
本日の4話を見て驚いたのは、怪人となるのが主要キャラクターの取り巻きの一人であったことである。
ちなみに「フォーゼ」では謎のスイッチ(どうも使う人間の負の感情を吸収するらしい)を使って、普通の人が怪人(ゾディアーツ)を生み出す。
フォーゼがゾディアーツを倒しスイッチを切ると、本体である人間は意識を取り戻すこととなっている。
当然のことながら、この一人は天ノ川学園の生徒であり、主要キャラクターの取り巻き(サイドキックスと言われる設定もあり)であるから今後も出演していくものと考えられる。
普通怪人となる人物というのは、一回限りの通りすがりみたいなキャラである。
けれども今後登場するかもしれないキャタクターが初期の段階で怪人を生み出す。
これにとても驚いた。
そこで生きてくるのが主人公弦太朗の口癖「オレは天ノ川学園の生徒全員と友達になる男だ」というセリフである。
このセリフ、今日の放送を見るまではそれほど重要であると思わなかったのだが、今後「フォーゼ」を語っていくにあたり重要なものになっていくような気がする。
弦太朗はフォーゼとしてゾディアーツを倒したあと、怪人を生み出した生徒に対し、「おまえも今日から友達だ」と言う。
ここにあるのは赦しである。
今、子供たちに限らず、大人の世界でも、一言やひとつの行動が命取りになることが多い。
政治家の余計な一言もそのひとつかもしれない。
それは余計であったり、誤った一言だったりするのかもしれないが、ただそれだけで抹殺されるようなものでもなかったりすような気もする。
学校だったらシカトされたりするようなことだったりするわけではないのだ。
本作で怪人を生み出してしまう生徒も一時のマイナスの感情により、余計な一言を言ってしまったのと同じようなことであると言っていい。
その一度の暴走により、その後をすべて否定されるのも何かおかしい気がする。
弦太朗は、生徒の一度の過ちを赦し、相手を受け入れる。
良いところも、そして悪いところもひっくるめて友達になると言っているのだ。
ひとつの小さな悪いところばかり目がいって、それ以外のたくさんのいいところを見ようとしない。
それはけっこう危険なことだったりするかもしれない。
「フォーゼ」が今、「学園」を舞台にすること、また「友情」をテーマにするというのは、意味があることかもしれない。
これからの展開を楽しみに観ていきたいと思う。

堅く書いてきたが、それ以外にも坂本監督らしい立体的なアクション、そして相変わらずすばらしいキャスティングは見応えがあった。
この点も今後の楽しみである。

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本 「レッドゾーン」

真山仁さんの「ハゲタカ」シリーズの第三弾になります。
映画「ハゲタカ」の原作となっており、アカマ自動車買収などが描かれていますが、映画とはほとんどストーリーは異なります。
本作は新聞連載だったようで、連載途中にサブプライムローン問題やリーマンショックなどがあったためか、それを意識したりしたのかややまとまり感がないのは否めません。
最後はかなり話が大きくなってしまってはいるので、かえって1作目、2作目のような買収をめぐるハラハラ感や、また鷲津の内面の日本に対するアンビバレントな感情というのも薄く、ややもの足りない感じもありました。
現実の出来事のほうが奇で、それに小説が振り回されているような感じもします。
現在はさらに国際経済は混迷の度を増していますが、真山さんはどのようにとらえているのか興味があります。
それをまた「ハゲタカ」シリーズで描いてほしいですね。

下巻末では真山さんと池上彰さんの対談が収録されています。
その中で、日本はルールの中で勝負をするが、アメリカはルールを作るところから勝負する。
さらに中国はルールの外で勝負をするといったようなことが書かれていました。
これはなるほどなぁと思ったところです。
日本はその国民性からか、正々堂々と勝負をするというのが美徳と考えていますが、他国は必ずしもそうじゃないんですよね。
特に中国はそのような感じもします。
中国でなくても、自分たちが考えているルールや常識で仕事をしていても、全く別次元でものを考える人が相手だったりすると戸惑います。
自分たち的には相手のやり方はどうかと思っても、必ずしも自分たちのルールにのってくるとは限らない。
ルールを作るところから始めなくてはいけません。
非常にエネルギーがかかることですが、これからはそういうことからビジネスを考えていかなければならないと思っている最近です。

映画「ハゲタカ」の記事はこちら→
シリーズ1作目「ハゲタカ」の記事はこちら→
シリーズ2作目「ハゲタカⅡ」の記事はこちら→

「レッドゾーン<上>」真山仁著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276992-1
「レッドゾーン<下>」真山仁著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276993-8

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2011年9月24日 (土)

「アジョシ」 瞳の演技

ウォンビン主演の韓国映画「アジョシ」を観てきました。
社会の片隅で静かにひっそりと暮らす男テシク(ウォンビン)。
テシクの隣に住み、彼を「アジョシ(韓国語でおじさんの意味)」と呼び、慕う孤独な少女ソミ。
過去の出来事によりテシクは人との交流を避けていましたが、やがてソミと心を通わせていきます。
しかし、麻薬の横取り事件をきっかけに、ソミは犯罪組織にさらわれ、テシクは彼女を救おうと一人戦いを挑みます。

本作もそうですが、韓国の映画はバイオレンス度が邦画に比べてとても高い。
邦画はなかなかそのあたりを思い切って見せることは少ないですが、韓国作品はそのあたりの躊躇がないと思います。
本作のラストのバトル(ウォンビンのすばらしい殺陣)は、ある意味洋画も越えています。
ただ韓国映画というのは、ただバイオレンス度が高いだけではなく、それと負けないほどに、人間の感情というものを強く描きます。
本作でいえば、テシクがソミを救うために犯罪組織に対して冷たい怒りを爆発させるようなところであったり、またその犯罪組織のトップがいやらしいまでの悪っぷりであったりするところでしょう。
感情を強く描くという点でいえば、そのような激しい感情だけでなく、テシクとソミの間の感情の交流にしても、またテシクの哀しい過去についても、切なさを強く描いています。
このように韓国映画というのは、人の感情を生々しく描くというところについて邦画に比べて非常に貪欲に感じます。
過激的なバイオレンス描写もそのような強い感情を表現するためのものと考えていいかもしれません。
荒々しい感情を描く韓国映画を観ると、邦画は温室栽培をされたようなおとなしさを感じてしまいます。

さて本作の見所はというと、ウォンビンの演技のすばらしさではないでしょうか。
僕が彼の演技を初めて観たのは「母なる証明」でした。
そのときの演技もよかったですが、本作はさらにすばらしかった。
彼の作品を観ていなかったとき、僕はウォンビンは、演技よりもその容姿で評価されていたのであろうと(ようはイケメン俳優)勝手に思ってました。
端正な顔立ちであり、スマートな印象がある俳優さんですから。
しかし「母なる証明」で、知的障害のある青年の内面の純朴さと、底知れなさを巧みに演じていたのを観て、舌を巻きました。
本作でもその演技力の高さは現れていました。
彼の演技を観ていて、何がよいのかと考えていたら、わかりました。
ウォンビンの演技で特にすばらしいのは、彼の瞳の演技であると思います。
テシクは過去の出来事により、虚無感にとらわれただ生きているだけといった状態でした。
そのときのウォンビンの瞳だけで、何の色もなくなにものもとらえていないというのが、観ただけで伝わってくるのです。
そしてソミが囚われ、組織に対し戦いを挑もうとするときの怒り。
ソミを失ったと思ったときの、喪失感。
そしてまたソミをとりもどしたときの、嬉しさ。
テシクの佇まいは基本的には静か。
これは敵に戦いを挑んだときも変わりません。
ウォンビンはこれを「目を見開く」といったようなあからさまな演技をするというのではなく、まさに「瞳の色を変える」ような印象の微妙さで演じ分けているように見えました。
もともと端正なイメージがあるウォンビンが戦っているときの瞳の色はまさに戦士の色ですし、ソミを抱きしめるときはおそらく父親の色であったのです。
そう言えば「母なる証明」のときも無垢な青年であるというのが伝わってきたのも、彼の瞳の演技であったような気がします。
韓国の男優というとその「イケメン」ぷりばかりが注目されますが、その演技というものにしっかりと注目しなくてはいけないなと思いました。

ウォンビン出演「母なる証明」の記事はこちら→

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2011年9月23日 (金)

「ワイルド・スピード MEGA MAX」 カーアクション少なすぎ

「ワイルド・スピード」シリーズの5作品目です。
このシリーズは好きなのですが、シリーズの中でも当たり外れがけっこう大きい感じがします。
僕としては、今までは1作品目:当たり、2作品目:未見、3作品目:外れ、4作品目:当たり、というところです。
で、本作はといえば、外れ、かな。
正直、このシリーズはクルマがスーパーテクでガンガンとばして、観ているほうもバンバンアドレナリンを出てくるっていうのがいいところだと思うんですよね。
スタイリッシュに、またワイルドに、クルマがカッコよく走っているところを観たかったりするわけです。
前作でいうと、燃えたローリーが横転してくる下を、ダッシュでクルマが駆け抜ける!みたいなケレン味のある画が観たいんです。
という点で観ると、クルマ映画なのに、クルマが走るまでが長過ぎる!
見せ場はオープニングと最後だけじゃん。
本作はクルマで金庫を奪うというのがミッションになってますが、それの準備やら何やらがストーリーの大半を占めています。
クライムアクション映画だったら、それでもいい。
でもこの作品を観にきてる観客が期待しているのは、やはりカーアクションでしょう。
その見せ場が少ないのはどうかと思います。
これではただのよくあるアクション映画です。
制作者がこのシリーズの本質を見誤ってるような気がします。
前作から出演陣もほぼそのままで映画としての豪華さはあるのに、もったいない。

ラストでミシェル・ロドリゲスの写真がちらり。
もしや次回作で復活か・・・。
また観に行ってしまうではないか。
今度はちゃんと「カーアクション」を見せてほしい。

4作目「ワイルド・スピードMAX」の記事はこちら→
3作目「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」の記事はこちら→
1作目「ワイルド・スピード」の記事はこちら→

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本 「風に舞いあがるビニールシート」

好きな作家の一人、森絵都さんの中編集です。
この本を手に取るまで知らなかったのですが、森さんはこの作品で直木賞を受賞したんですね。
好きな作家さんでしたが、直木賞作家だったとは知らなかった・・・。
森さんは児童小説でデビューしてきましたが、その後、少しづつ対称年齢をあげた作品も発表しています。
本作は内容的には大人をターゲットとしていますが、森さんの人を見つめる目の優しさはそのままです。
森さんの優しさというのはただ優しいっていうのではなくて、どうしようもなく厳しい現実というものを描きつつ、それに向かい合おうとする人びとへ優しい目線を送っているのですよね。
本作もいくつかの中編が収録されていますが、いずれもそのような内容になっています。
また本作に収録されている作品はどれもラストのラストでどんでん返しがあります。
これはいわゆるミステリー的などんでん返しではないのですけれども。
主人公たちはそれぞれどうしようもなく厳しい現実に向かい合っていますが、最後に彼ら彼女らはものの見方を変えることができるのですね。
厳しい現実は変わらないのだけれど、それに対するものの見方が変わる。
ようはパラダイムシフトを起こしているのですけれども、それがなんとも爽快というか、痛快。
物事も見方を変えればポジティブに見えてくる。
前向きに動こうとすることができる。
その、ふっとものの気持ちが変わることができる瞬間というのを描くのが、森さんは上手なんだと思います。
「カラフル」も大仕掛けですが、同じことですよね。
本作が直木賞を受賞するのも納得です。

「風に舞い上がるビニールシート」森絵都著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-774103-7

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2011年9月19日 (月)

「アンフェア the answer」 雪平というキャラクターの魅力

人気テレビドラマの映画化作品、第二弾です。
「アンフェア」はドラマの時から好きな作品で、その後のスペシャル、映画といずれも観ています。
このシリーズの魅力は、事件の真相が明らかになったかと思いきや、それは本当の真相ではなく、また闇の中に黒幕がいるというどんでん返しの展開です。
意外な人物が実は・・・、という展開はテレビシリーズでもいくどもあり、その度に唸らされました。
本作品の監督は、テレビシリーズでも凝ったストーリー展開の脚本を書いた佐藤嗣麻子さんです。

<ネタバレ的なことが書いてあるので観るつもりの方は注意>

元警視庁検挙率No.1刑事、大酒飲み、バツイチ子持ち、無駄にいい女。
本作は、篠原涼子さん演じるこの雪平夏見という魅力的なキャラクターにしっかりとフォーカスをした作品となっていました。
前作の映画はどちらかというと初の映画化ということもあったためか、病院占拠事件、バイオテロといった派手な道具立てとなっていました。
それは映画的ではありましたが、本作を観て改めて考えると、前作はややもすると「アンフェア」らしさというものが薄まっていたようにも感じます。
本作は原点の「アンフェア」らしさというものにもう一度立ち戻った作品にように感じました。
その「アンフェア」らしさとは何か。
誰が黒幕か、といった謎を孕む凝ったストーリー展開も「らしさ」であるとは思いますし、本作もそのような展開はしっかりと織り込まれています(とはいえ「アンフェア」を観ているので、「誰も彼も怪しい」という目で観てしまっていますが)。
やはりこのシリーズの「らしさ」というのは、雪平夏見というキャラクターそのものにあると言ってもいいかもしれません。
このキャラクターはとても強い存在感を持っています。
雪平は検挙率No1の刑事であり、女らしい愛想は皆無、ぶっきらぼうでクールで協調性なし。
警察という男社会の中で生きていく、強い女という感じがあります。
けれどもその雪平はひとりの女性としてとても弱い側面を持ち、傷つきやすい魂を持っています。
雪平は最近のハリウッド映画にあるようないわゆるマッチョな「強い女」ではありません。
彼女は幾度となく、信じた人に裏切られていく。
その度に彼女は自分の心を守かのようにクールな仮面を厚くしていく。
けれどその内側には、傷つきやすい心があるのです。
本作でも元夫である佐藤も同様のようなことを言っています。
雪平はテレビシリーズから、幾人かの男が惹かれますが、男は雪平のクールな仮面の奥にあるその傷つきやすい魂を感じ、それを守りたいと思うのでしょう。
雪平も相手の男を信じたい、という気持ちがあったと思います。
相手をほんとうに信じられたとき、彼女の魂も救われるのではないかと思っているのではないでしょうか。
けれど皮肉にも雪平が情を交えた相手は、ことごとく雪平を裏切ります。
皆、雪平に対し惹かれ愛はあったとは思いますが、それ以上に男にとって大事なもののために雪平を裏切るのです。
その度ごとに雪平は仮面を厚くし、そして見えざる闇への敵意を高めていきました。
裏切られ続ける雪平も、本作ラスト前では諦念のようなものを持つようにも感じられましたが、最後の最後には雪平らしい反撃をみせてくれました。
このあたりの強さというのは、やはり雪平らしい。
本シリーズは、この作品で終了ということですが、またいつか雪平の活躍を観てみたい気がします。

前作「アンフェア the movie」の記事はこちら→

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2011年9月18日 (日)

「探偵はBARにいる」 懐かしい昭和の香り

なんか懐かしい昭和の香りがしますね。
場末のバー、気の置けない相棒、依頼の電話、謎の美女。
そしてやはり主人公の”探偵”は一人称。
道具立てが往年の「探偵もの」に通じるものがあって懐かしい感じがします。
そういえばこのところ、こういう雰囲気のある探偵ものって久しく観ていなかったような。
大泉洋さんのキャスティングはぴったりとはまっていたように思います。
うらぶれた感じもありながら飄々としていながらも、自分のスタイルにこだわりがある”探偵”(名前が紹介されないところが往年の探偵ものっぽい)。
彼は札幌のススキノのバーを根城にして、よろず引き受けをして暮らしています。
飄々としていながらも、実は仕事にこだわりを持つ熱いところもある男です。
小説でも、映画でも最近の「探偵」はハイテクを駆使したり、理系的な論理で攻めたり、アクションしたりとか、派手な感じもありますが、やはり「探偵」という職業はうらぶれた雰囲気っていうのが似合いますよね、
なにしろ本作の”探偵”は今時携帯電話を持っていない(ただし後半に持ちますが、キーとなるアイテムになります)。
よくよく考えてみると、今の東京というのはなにかどこも明るく輝く感じになってきていて、うらぶれたところっていうのがなくなってきているのかもしれません。
以前はそういうところがいくつもあって(今もあるんですけれどね)、だいたい「探偵」っていうのはそういうところにいたものです。
でも今の東京のイメージっていうのは、そういう「探偵」と相容れないものになっているのかもしれません。
だから本作の舞台は札幌のススキノなんでしょうかね。
「探偵」も住みづらい時代になっているのかもしれません。

あと探偵ものといったら定番は「相棒との掛け合い」ですが、本作の大泉さんの”探偵”と、松田龍平さんの高田のコンビもよかったですね。
高田の無気力っぷりがなんともいい感じで、”探偵”とかみ合っていないようで、実は互いに信頼していたりして、このあたりのコンビっぷりは雰囲気ありました。
この二人でテレビシリーズっていうのも面白いかもしれないですね。

<ここからネタバレあり>

物語としては、大絶賛というところではないのですが、探偵ものの作品としては雰囲気があって好きな感じがしました。
最後の事件の真相も、意外な展開ではありました。
あのあたりのなにか物悲しい結末というのは、探偵ものの王道ですよね。
「探偵」という職業はいくつもの哀しみを背負っているのがやはりイメージです。
吉高さんをああいうふうに使うとは・・・。
思い切りミスリードされてしまいました。

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本 「ナニワ・モンスター」

海堂尊さんの新作を読んでみました。
新型インフルエンザ、改革派の府知事、大阪特捜部による厚労省官僚の摘発など、現実の事件を上手く取り入れていくのは相変わらず上手ですよね。
けれども現実とは違った展開をみせる巧みさも海堂さんならでは。
本を買ったときの帯には「新型インフルエンザが発生!」と書いてあったので、パンデミックに対する医療サスペンスかなと思って読み始めたのですが、話は想像をしていない方向に展開していきます。
今までの作品でも海堂さんの医療行政に対する意見というものが出ていたと思いますが、こちらの作品にもそれがうかがわれます。
行政どころか、医療行政から、さらには国のありようについても語られていきます。
そこで語られることは現実的ではないと思われるかもしれませんが、本作の中で彦根が語っているように、改革派でさえも現実の仕組みを変えられないと思っているからかもしれません。
既存の仕組みを根底から疑うことにより、その先の改革がある。
なかなか仕組みの根底を変えるというのは勇気とエネルギーがいるものですが、医療だけに限らずさまざまな出来事が今急速に変化している中、根本を見直すということは必要なのかもしれません。
語られることが荒唐無稽と言う前に、今ある仕組みの根底とはほんとうにそうでなくてはならないのかということを考えてみるというのがいいのかもしれません。

海堂さんの小説は、医療という堅いテーマを持っていながらも、読みやすいエンターテイメントとして仕上がっているのは今までも何回か触れてきたようにキャラクターの強さによるものが多いかと思います。
本作でも今までの作品なかでも特に個性の強い彦根、さらには敵役としての存在感がある斑鳩が登場しています。
あとあの白鳥もちょろりと顔を出すので、「桜宮サーガ」を読んでいる方は楽しく読めるのではないかと思います。

「ナニワ・モンスター」海堂尊著 新潮社 ハードカバー ISBN978-4-10-306573-9

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2011年9月17日 (土)

「世界侵略:ロサンゼルス決戦」 等身大の英雄たち

どなたかもブログで書いてらっしゃいましたが、このところ未知の宇宙人に地球が侵略されるというお話の映画(「トランスフォーマー」とか「スカイライン」とか)が多く食傷気味・・・。
映像技術が発達して、それほどコストをかけずとも迫力がある映像が作れるようになったというのが大きいのでしょうか。
そういうこともあり、それほど期待値は高くない状態で本作は観賞したのですが、思っていたよりもずいぶん良かったです。

ある日、地球の大都市が謎の異星人に攻撃され、ほぼ壊滅状態となります。
その異星人はただひたすらに虐殺・侵略をしてくるだけのため、そこに交渉の余地はありません。
攻撃されている都市の一つロサンゼルスも巻き返しのために空軍が空爆をかけようとしますが、空爆エリアに民間人が取り残されていることがわかります。
ナンツ2等軍曹ら海兵隊たちは民間人を救出するために派遣されますが、異星人たちと遭遇し激しい戦闘をすることとなります。
本作は基本的にはナンツら海兵隊員たちの周囲の出来事しか追わないというミニマムな展開をしていきます。
彼らが対応する相手は、未知の異星人であり、彼らがどのような生態であり、どのような攻撃力を持っており、どのような意図で攻撃してくるのかもわかりません。
本隊との連絡もままならぬなか、彼らは民間人を守りながら脱出を図ろうとします。
物語は海兵隊員たちの行動をひたすら追っていくという展開のため、ほぼ本編は最初から最後まで異星人との戦闘が描かれます。
臨場感のある映像、ミニマムな展開により、観ている側は彼らといっしょにいるような感覚になります。
彼らが刻々と変わる状況に、決断し行動していく様をその場でみているような気分になりました。
彼ら海兵隊員は、自分の命を捨てても国を守るということ、国民を守るということを魂に刻み込まれた人たちです。
そのために日頃より激しい訓練をし、技術を身につけ、有事に備えているわけなんですよね。
有事となったとき、そして使命感により彼らは未知の状況にも命をかけて立ち向かうわけです。
身につけた能力や技術に裏付けられた自信があるからこそ、未知の状況でもそこで決断をし、対応をしていきます。
この映画の彼らの姿を観ながら僕が思い浮かべたのは、大震災直後に原発対応を行った、フクシマの英雄とも言われるハイパーレスキュー隊員や自衛官、警察官の方々でした。
彼らも見えない危険、未知なる危険と知りつつも、使命感により現地に向かったわけだと思います。
おそらく刻々と変わる状況に合わせ、現場でいくつも厳しい決断を迫られたことでしょう。
それがどれだけ重いものなのかは、ハイパーレスキュー隊の隊長の会見の様子を観た時にひしひしと伝わってきました。
けれどもその重さを越えていくほどの使命感を持っているということなのですよね。
本作で描かれる海兵隊員たち、また現実に原発対応を行った方々の使命感の強さには頭が下がる思いです。

また本作で描かれる海兵隊員たちもほとんどが将校ではなく、現場の下士官であったというのも興味深いところでした。
このような侵略映画というのは、わかりやすいヒーローを設定することが多いですが、本作はそうじゃない。
描かれているのはロサンゼルスの海兵隊員ですが、たぶん世界各地の都市でも同様に異星人と戦っている人びとがいることなのでしょう。
実際壊滅するほどの危機的な状況が起こった場合は、ひとりのヒーローが世界を救うのではなく、何人もの等身大の英雄たちがそれぞれの使命感に基づき行動し、世界を救うのでしょう。
この映画は等身大の英雄たちのひとつを描いたというように思いました。
だからこそフクシマの英雄たちのことが頭に浮かんだのかもしれません。

ミサイルのレーザー誘導がしっかりと描かれたのは本作が初めてじゃなかろうか・・・。
ハイテク武器とかピンポイント攻撃とか言われますが、実際それができるのは攻撃対象間近まで迫ってレーザーで標的をポインティングする戦闘員がいるからなんですよね。
どれだけそれが厳しいことか・・・。
現場で命をかける人がいるから、ハイテク武器も運用できるということなのですよね。

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「もやしもん(ドラマ)」 マンガの世界を実写で上手に再現

「もやしもん」は原作も読んでいますし、アニメ版も観ました。
こちらのドラマは以前アニメ版が放映されていたフジテレビの「ノイタミナ」枠で初めての実写ドラマということです。
オンエア中は見逃してDVDに観ました。
実写版を作ってみたいというのは、単純にわかりますねー。
直保が見ている菌たちがどのような感じなのか、原作を読んでいたりすると見てみたいと思います。
このドラマを制作しているのは白組でSFXでは定評のあるプロダクションですから、直保が見ている世界の再現というのはしっかりと再現(?)していました。
あとキャスティングも原作のイメージを活かすようなものになっていました。
特に美里はもともと原作の石川雅之さんがイメージして描いていたという西田幸治さん(笑い飯)を起用。
マンガを読んでいてもこれはどう見ても笑い飯の西田さんだろうと思っていたので、原作そのままのイメージです。
その他の美女たち(一人は男子だが)、武藤葵(ちすんさん)、及川葉月(はねゆりさん)、結城蛍(岡本あずささん)、長谷川遥(加藤夏希さん)もいい感じではまっていたと思います。
原作でも存在感がないと言われている沢木惣右衛門直保は中村優一さんが演じます。
存在感がないのが特徴という、けっこう難しい役ではありましたが、思いのほかイメージは合っていたと思いますね。
原作と違って、最後は活躍の場面もありますし(笑)。
お話としては、すごいおもしろい!という感じではなかったのですが、この作品の楽しみ方としては原作のあの世界が実写で上手に再現されている!っていうところを見るという感じでしょうね。
オリゼーはあいかわず癒し系で可愛いね。

アニメ版「もやしもん」の記事はこちら→

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2011年9月12日 (月)

本 「大久保利通」

NHKの大河ドラマ「篤姫」や「龍馬伝」などを観ているうちに幕末という時代に興味がでてきました。
戦国時代もそうですが、幕末など世が大きく動く時、魅力的な人物もやはり多く登場してきます。
幕末でいえば、坂本龍馬、西郷隆盛、木戸孝允、勝海舟・・・、大久保利通もそのひとりであると思います。
とはいえ、名前は知っていたものの「篤姫」を観るまではどのような人物で、どのようなことをした人なのかは詳しいことは知りませんでした。
幕末についての本はいくつか読むようになりましたが、今回は大久保利通についての本を読んでみました。
時代が大きく動く時、それまでのルールを大きく壊し、新しい仕組みを作るということが行われます。
歴史をみていると、旧弊を壊す人が必ずしも新しい仕組みを作るわけではないということに気づきます。
戦国時代では織田信長は破壊者ではありましたが、新しい仕組みを作るまでには至りませんでした。
新しい仕組みを作るのは、豊臣秀吉であり、徳川家康であったわけです。
幕末も、倒幕を行った人物が必ずしも明治政府で活躍しているわけでもありません。
西郷隆盛はどちらかというと織田信長的であったかもしれません。
それに対して、大久保利通という人物は倒幕の中でも大きな役割をなし、その後の明治政府でも新しい仕組みづくりに貢献した希有な人物であったといえます。
本著を読むと大久保利通という人は非常に粘り強い人物だったということです。
確かに薩摩の下級武士の身分から、薩摩の改革、倒幕、開国、明治政府の樹立という道筋をたどっていく中で、大久保利通が想い描いたようにはことは進んでいきませんでした。
けれども幾度となく壁に当たりながらも、大久保はそれを粘り強く越えていく資質をもっていたようです。
大久保利通を評する徳富蘇峰の次の言葉がありました。
「最善を得ざれば次善、次善を得ざれば、其の次善と、出来る程度に於いて、出来得ることなし」
ようは諦めずに次から次へと手をうっていく、そのような粘り腰があったということですね。
これは今の政治家にも聞かせてやりたい。
今の政治家は「郵政民営化」とか「原発廃止」とかアピールしやすい目標を掲げますが、これはわかりやすいけれどもそのまんまストレートに進むなんてことはありえない。
だからこそ、次善の策、その次善の策というのを用意し、粘り強く進めていかなければいけないのだけれど、その粘り強さが今の政治家にはない。
反論をされると逆ギレするか、はぐらかすか、それだけで全く議論にならない。
大久保は漸進主義であったといいます。
一気に改革をするのではなく、少しずつでも確実に進んでいく。
それは相当に胆力がいることではないかと思います。
この胆力が今の政治家に欲しい。
今の「どじょう首相」は泥臭くやっていくと言っているので、大久保利道のような粘り腰で少しずつでも進めていくことを期待したいです。

「大久保利通」毛利敏彦著 中央公論 新書 ISBN4-12-100190-7

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2011年9月11日 (日)

本 「豆腐小僧双六道中ふりだし」

今年の春に公開されたアニメ映画「豆腐小僧」の原作小説です。
映画のほうは豆腐小僧のキャラクターはそのままながら、舞台を現代にし、お話もかなりファミリー層を意識した作品になっていました。
けれども原作のほうはまったく異なり、さすが京極夏彦さんの考える妖怪論がとてもよくわかります。
今までも「京極堂」シリーズや、「巷説百物語」シリーズで妖怪についての氏の考えを表していましたが、本著はそれが小説を読みながらとてもよくわかるようになっています。
京極さんの考えによれば、妖怪というものは人間が自分が理解できないこと、わからないことなどといった不可思議な出来事を説明するために生み出したものということなんですよね。
例えば家鳴りがするといったことが起こった時、それは現代でいったら微弱な地震が起こっているからとか、遠くの鳴動が共鳴して伝わってきているからという「科学的」な説明がされるのでしょうけれども、そういう知識がない時代においては、それはとても不思議な出来事なわけで。
人というのは過去に対する記憶や、未来に対しての展望という時間軸をもつ生き物です。
また自分と他者、環境との関係性を見いだすことができます。
これは他の動物にはない点です。
だからこそ「不安」という感情がでてくる。
それは今や先への見通しが出来ない状態ということなのです。
見通しができない状態をほっておくと「不安」がどんどん募っていく。
それでは暮らしていけません。
ですので、そういう不可思議な出来事を説明するために生み出されたのが、妖怪というわけです。
先ほどの家鳴りでいえば「鳴屋(やなり)」という妖怪がやっているのだ、というような。
不可思議な事象を納得するという点でいえば、「鳴屋」と「微弱な地震」は同じなんですよね。
人は納得して「不安」を解消したいのです。
そういう成り立ちだからこそ、本著で出てくる妖怪たちというのは人が認識しなければ存在できない。
人が説明のために妖怪を欲した時に、妖怪は出現するのです。
これは「京極堂」シリーズで、妖怪を見る人びとの心理に共通しています。
また本著は「キャラクター論」というところにも触れています。
まさにそのシンボルがタイトルにもなる豆腐小僧なのですが。
妖怪というのは、上でも書いたように不可思議な出来事を説明するための解釈そのものと言っていい。
だからその出来事が起きなければ、またその説明を人が求めなければ妖怪は存在しない。
でも豆腐小僧は違う。
なぜか。
それは説明をするための妖怪ではないから。
豆腐小僧というのは何かを説明するために生み出された妖怪なのではなく、そのキャラクターそのものの存在がかわいらしいとか滑稽であるとかいうような言わば愛玩されるために存在したものであったのです。
まさにミッキーマウスやら、ポケモンやら今ちまたに溢れるキャラクターたちと同じような存在なのですね。
豆腐小僧というのは江戸時代末期に黄表紙などでフッと現れて一時期ブームになったようなのですが、その後ふっつりと見られなくなった妖怪だそうです。
まさにそれは現代のキャラクタービジネスのキャラクターと共通しているところがあります。
というより地方公共団体の「ゆるキャラ」ですかね。
まさに豆腐小僧は「ゆるキャラ」の先駆であったのかもしれません。

本著は京極さんのミステリーの暗かったり、哲学的な感じというのはなく、一般的に読みやすい作品に仕上がっていると思います。
妖怪に興味を持っている方の入門編として良い作品かもしれないです。

映画「豆腐小僧」の記事はこちら→

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2011年9月10日 (土)

「グリーン・ランタン」 最近では珍しい王道アメコミヒーロー

アメコミ映画好きなので、さっそく観賞してきました。
マーベルのコミックは最近盛んに映画化されていて、いずれもヒットいますよね。
「キャプテン・アメリカ」、さらには「アベンジャーズ」とまだまだ勢いは止まらないという感じです。
対してDCコミックスは、ノーランの「バットマン」は大ヒットしているものの、それ以外はあまり見かけません。
そのような状況で本作「グリーン・ランタン」でDCコミックスは巻き返しなりますでしょうか。
僕自身は予告で観るまで、「グリーン・ランタン」の存在は知りませんでした。
「緑のランタン」ってううむ・・・。
知名度の低さからか初日でしたが、観客の入りはいまひとつ・・・。

最近のアメコミヒーローものは何度か記事でも書いていますように、ヒーロー自身の人間性をより深く描くというのが主流になっています。
そのほうがドラマとしてもしっかりとしたものが作れますし、なにしろ大人の観賞に耐えらます。
本作はどちらかというとそういう最近の主流の悩めるヒーローとは異なる感じで、ベタなアメコミヒーローものといった印象が強かったですね。
コスチュームもいわゆるタイツ系で、これも最近アメコミが映画化されるときは再解釈されてあまりマンガチックにならないようになっているのと、逆の方向です。
アメコミ映画の王道を目指したのでしょうか。
そもそもグリーン・ランタンたちは、その素養を認められ、宇宙の平和を守るという役務を負っている者たちなので、基本的には正義を守るヒーローという王道を歩まざるを得ないわけですが。
とはいえ、最近のアメコミヒーローものの傾向を受け、本作の主人公ハル・ジョーダンも大いなる責任を背負うことへの恐ろしさに悩む局面もあるのですが、「スパイダーマン」や「ダークナイト」ほどにはそれほど彼の人間性を深く描くところまでは踏み込みません。
これはあえてだとは思いますが、悩めるヒーローのドラマ性が好きな自分としては少々もの足りない感じもしました。

ただこの物語、これから進めるにあたってはドラマとしておもしろくなりそうな気配も感じました。
グリーン・ランタンそれぞれのメンバーは特殊な能力を持っているわけではなく、ランタンによってスーパーパワーを得ているわけです。
彼らが戦っている理由は、彼らの正義感ゆえ。
逆にその正義感が暴走してしまったら・・・。
本作でも敵となるパララックスの圧倒的な力に対し、グリーン・ランタンのリーダーの一人であるシネストロは正義の意志(グリーン・パワー)だけでは対抗できないと考え、恐怖の力(イエロー・パワー)を使おうとガーディアンに提案します。
これは恐怖に対して恐怖で対抗するという冷戦時代のようなイメージを受けました。
正義というものが絶対的な力を持つのではなく、圧倒的な悪を前にした時、正義はそのままで対抗できるのか。
正義が恐怖という強力な闇の力を使うようになった時、それは正義たり得るのか。
そんなところにいくとドラマとしては深くなるかなと。
「ダークナイト」などで描かれるバットマンは悪に対抗するために自身も闇の存在になるという選択をしているのですよね。
そのあたり「グリーン・ランタン」はどのように展開していくのでしょうか。
ラストでシネストロが手にしたイエロー・リング、なんとなく「ロード・オブ・ザ・リング」も連想してしまいました。

最後に。
ハル・ジョーダン、正体がばれないようにマスクをするのはいいけれど、一発で幼馴染のキャロルに見破られていた〜。
さすがにあれではバレるでしょ。
キャロルを演じていたブレイク・ライブリー、綺麗でしたねー。
初めて見ましたが、これから注目したいと思います。

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本 「初恋」

宮﨑あおいさん主演で映画化もされた作品です。
映画のほうは主人公みすずを演じる宮崎さんは非常によかったのですが、相手のキャラクター岸の身勝手さに対して観ていて反感をもってしまいました。
原作を読んでみると、三億円事件の犯人は実は少女であったというプロットは同じであっても、みすずや岸、またジャズ喫茶の仲間である亮らのキャラクターの背景がきちんと描かれ、また関係性も映画と異なるので、原作のほうが好きだなと思いました。
さきほど書いたように、なにしろ岸というキャラクターが映画ではナルシシズムを感じるようなキャラクターであったと思いましたが、原作はみすずとの出会い、そして彼女に惹かれていく過程などが描かれ、きちんと共感できるキャラクターになっていたと思います。
また映画のほうはみすずと岸の恋愛にしぼった物語となっていましたが、原作はみすずと実は兄妹であった亮との関係、またみすずの母への想いなども描かれ、主人公のキャラクターも豊かになっていたと思います。
また舞台背景となる60年代、なにか焦燥感のあるような時代と、彼ら主人公たちの焦燥感がシンクロしているようにも伝わってきました。
60年代というのは戦後の日本においてまさに青年期と呼べる時代。
どんどん成長していくのですが、様々な問題に面しながらも、それを見ないようにしてがむしゃらに進んでいく時代。
ただそこにはなにか不安というか、焦燥のようなものがある。
まさに10代後半から20代前半の若者が感じるのと同じような心理が社会にもあったように感じます。
そういうところも小説の空気感として伝わってきました。

映画「初恋」の記事はこちら→

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2011年9月 9日 (金)

「ゴーストライター」 真相を知ってからのほうが楽しめる?

元英国首相アダム・ラング(ピアース・プロスナン)の自叙伝を書いていた男が謎の死を遂げた。
その前任者の後を継ぎ、自叙伝を書くように依頼をされた"ゴーストライター"(ユアン・マクレガー)は書き進めていくうちにラングの周辺の不穏な空気に気づいていく・・・。
ラングの人生、その周辺に怪しさ、秘密めいたものを感じながらもその本質が見えない主人公の"ゴーストライター"と同様の状態に観客も置かれます。
怪しい、謎があるということはわかりながらも、どこに謎の本質があるかということもなかなかはっきりしないので、前半から中盤にかけてはややしんどいところ(ようは飽きる)があるように感じました。
もう少し物語にドライブをかける要素があったほうが観やすいかなぁと。
陰鬱な風景・色調や物語をストイックに抑えたところは、後半と言うかラストで真相がわかることへのインパクトがあるものにするという狙いであったと思いますが。
確かに"ゴーストライター"が後半ある人物に会ってからは物語は動き始めるので、後半は観ていても引き込まれるところはありました。
とはいえ全体的に抑制的であったかなと思いました。

<ここから先はネタバレあり>

ラストの真相は確かに「なるほど〜!」という感じがしました。
この真相を知ると途中に意味があるシーンなどがいくつもあったことに気づきます。
"ゴーストライター"がインタビューをしているときに、ラングが妻に意見を聞くことが多いというのは僕もちょっと気づいていました。
そのときはヒラリー・クリントンみたいにファーストレディーが政治に口出ししているのかなぁというぐらいにしか考えていなかったんですけれど。
真相を知ると、あの場面も意味があったんだなと気づきました。
もしかすると本作は真相を知ってから、もう一度観ると巧みに構成されていることがわかり、感心するのかもしれないと思いました。

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本 「インシテミル」

藤原竜也さん主演の映画「インシテミル  7日間のデス・ゲーム」の原作小説です。
映画のほうはけっこうハラハラとして見応えある作品でしたので、原作も読もうと思っていたのですが、やっと読みました。
映画のほうの記憶が薄れてきたところだったので、ちょうどよかったかも。
高額のアルバイト代にひかれて集まってきた参加者、暗鬼館というクローズド・サークル、参加者それぞれに渡される「凶器」・・・、など設定などは映画と同じですが、キャラクターの性格付けやストーリーの展開はまったく違うんですね。
映画のほうがキャラクターは個性があり、いわゆるキャラ立ちがある感じがしました(演じる俳優さんの存在感が大きいと思いますが)。
とはいえ、小説の方が面白くないかと言えば、そういうことはありません。
登場人物同士が疑心暗鬼になるところは文字である分、小説のほうが怖いところもあります(特に最初の殺人があったあとの晩の描写など)。
特にミステリー好きな人の方が楽しめるのではないでしょうか。
ミステリーマニアというのは、けっこう作品を読み込むことが多いような気がします。
ミステリーに耽溺するというか。
この作品のタイトルの「インシテミル」というのは解説によれば「淫してみる」、つまりはミステリーに「耽溺する」ことをさしているとのことです。
いわばミステリー好きが反応するであろうさまざまな要素、過去の作品から引用されるおなじみの凶器、クローズド・サークル、12個のインディアン人形、探偵の解決口上などを使いながらも、それを逆手にとったような展開をしているあたりが、ミステリー好きのほうが楽しめる感じがしました。
こうきたかー、っていう感じですね。
清涼院流水さんの作品などもミステリーを逆手にとっている感じがありますが、あちらはミステリーそのものの枠組みを壊すほどの破壊性を持っていますが、こちらの作品はミステリーの枠組みにありながらも、裏をかいているような感じがします。
小説を読み終えると映画のほうは、原作をベースにしながらも映画向きにうまくアレンジして、原作読了済みの人も楽しめる作品に上手く仕上げたのだなとも思いました。

映画「インシテミル  7日間のデス・ゲーム」の記事はこちら→

「インシテミル」米澤穂信著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-777370-0

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2011年9月 4日 (日)

「ライフ ―いのちをつなぐ物語―」 当たり前が続いていくということ

いろいろあって映画など観に行く気分ではなかったのですけれど、じっと丸まっててもネガティブに考えそうなので出かけてきました。
ドラマ的なものとか、能天気なのはちょっとね、という気分だったので、フラットに観れるだろうと思ったドキュメンタリーを選択。
とか言いながら、観ているといろいろとグダグダ考えてしまうわけです。

冒頭のメッセージで「生きるということは、当たり前のことを続けていく」ことといったような言葉が出てきます。
これはほんとにそのとおりで、特に今の日本は「当たり前が続く」ということが実はとても大切だということを感じた方が多いかと思うので、このメッセージは心に響きます。
生命の本質は自分と同じようなコピー(つまりは子供ね)を残していくことと言っていいでしょう。
それを当たり前に続けていくということがなんと難しいことか。
それは本作で観ることができる生き物たちの営みもしかり、自分たち人間の生活もしかり。
でも当たり前が続いていると、人間というのはその大切さをうっかりと忘れてしまったりするわけです。
生き物はそんなことを考えて生きているわけで、自分が生きる意味なんてのを考えるのは人間だけなんですけれどね。
だからこの手のネイチャー・ドキュメンタリーで生き物たちの営みを、人間的な「愛」という言葉・概念で綺麗に一括りでとらえようとするのはなんだかなーと、やや鼻白んだりしてしまいます。
んー、やっぱり今日はものの見方がひねくれてるなぁ。
とはいえ、生き物たちの営みに「愛」というものを「見れる」というのも人間だけであったりするわけです。
生き物たちにとっては「愛」でもなんでもないのですけれど、そこに「愛」が見れる人間ってのはそれはそれで素敵だったりするよね、とも思ったりもします。
実はこういう映画で人は、生き物の営みを観るという行為を通して、人間というものを見直しているのかもしれないです。

「アース」のBBCの製作だけあって、映像は観る価値のあるものがたくさんありました。
生き物というのは、どうしてこんなふうにいろいろな環境に合わせて生きていけるようになっていくのだろう。
生命というものが持つ、たくましさというものを感じました。
生命というのはどんなふうに環境に変わってもたくましく生きていけるのではないかと。
ある種が絶滅ということはあるかもしれない。
今までの地球の歴史の中で数えきれないくらいの種は絶滅しています。
けれどそれ以上にたくさんの種がたくましく生まれ、生きていくわけで(だからといって人間だけが好き勝手やっていいわけじゃないですけれどね)。
生命はたくましい。
そのたくましさが欲しいです。

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2011年9月 3日 (土)

本 「『戦争学』概論」

始めに書いておきますが、僕自身としては戦争などはやらなくていいならばやらないほうがいいし、やらないように最大限努力すべきものだと思います。
ただ、そのためにこそ「戦争」というものがどういうものなのかということを知るということは必要であるとも考えます。
どういうものか、何ものかわからないのに、それを防ごうというということはできませんから。
本著もそのような視点で、「戦争」というものはどういうものなのかということを書いており、わかりやすくまとまっていると思います。
戦争について論考しているので有名なのはクラウゼヴィッツの「戦争論」です。
この中でクラウゼヴィッツは「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」と書いています。
これは戦争の定義としては非常にわかりやすく、要点を得ている考え方であると僕も思います。
なんとなく、戦争=軍人が行うもの、政治=政治家が行うものという、ある種、戦争と政治は別もの感があったりします。
また戦争はシビリアン・コントロールをすれば防げるという論もあります。
ただ先のクラウゼヴィッツの定義にあるように戦争は政治の延長線上にあります。
太平洋戦争は軍部の暴走により引き起こされた例ではありますが、近年の戦争は政治家が判断をして戦争に突入する例のほうが多いのです。
ですので、シビリアン・コントロールをしていれば戦争が防げるというのはある意味大らかな考え方であると言えます。
そもそもヒトラーのナチス党にしても、ドイツ国民が選挙で選んだところから権力を得ているのですよね。
また某党がよく主張するように「戦争は悪、絶対に起こしてはいけない、だから自衛隊反対」というものについてはとても現実的ではない概念だけでの話になっていると思います(だから噛み合ない)。
「戦争は悪、絶対に起こしてはいけない」というのはその通りだと思います。
ただ「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」ならば、戦争というものはいくら悪だといっても起こりうる可能性を持っています。
その起こりうる可能性についてしっかりと検討することなしに、そもそも戦争について論ずることにすらネガティブな反応をするのは現実感を失っているというように思います。
ほんとうのリスク管理というものは、起こってほしくないことが起こってしまう、その最悪の事態をどうするか?どのように最小限の被害にするかということを考えておくということだと思います。
そもそもそういうリスクについて考えることを「戦争は悪だから」考えてはいけないのだというのは、ある種のファンタジーの中での論考と言っていいかと思います。
どうしても日本人は過去に自分たちがしでかしてしまったことへ忌避をする心理が働いてしまい、戦争というものに向き合うということをしていないように感じます。
地震や原発事故なども起こりうる可能性は指摘されながらも、ほんとうに起こってしまうことを前提にリスクをみて準備をしていたのでしょうか。
アジアの情勢もかなり不安定になっています。
最悪の事態を見越して、それに対処できる体制というものは検討しておいたほうがいいと思うのです。
そのためには政治家のみならず一般市民も戦争論というものを一度は考えてみることも必要な気がします。

「『戦争学』概論」黒野耐著 講談社 新書 ISBN4-06-149807-X

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