「仮面ライダーオーズ」 夢と欲望とハッピーエンド
平成仮面ライダーシリーズ第12作「仮面ライダーオーズ」が本日最終回を迎えました。
前作の「仮面ライダーW」が相当高いレベルであったため、本作は出だしの頃は観ていてやや不安なところもありました。
理由の一つとしては、設定の複雑さですね。
オーズは3枚のメダルをベルトにセットして変身しますが、そのメダルは5系統あり、そのメダルの争奪戦を主人公側と怪人側、その他の組織で行います。
メダルの組み合わせによりオーズのフォームも非常に多く、それを見せていくだけでも大変ではないかと。
また主人公火野映司の相棒のアンクは元々は敵側(グリード)であるという設定で、そこには確執があり、それを含んだ相棒であったわけです。
このあたりは「電王」の良太郎とイマジンたち、また「W」の翔太郎とフィリップの相棒関係の発展系であるとは思いますが、やはり複雑さはあるなと。
あとは「欲望」というテーマですね。
これはなかなかに深く、子供番組でやるには扱いが難しいかなと。
今回の東映側のプロデューサーは「キバ」を担当した武部プロデューサーでした。
「キバ」の時も2つの時間軸に沿って物語を進めるという新しい試みを行いましたが、ややその設定が複雑でうまく最後まで処理しきれなかったという感がありました。
本作も野心的な試みをしているのはよいとは思うのですが、設定に振り回されて物語が破綻するかもという不安がありました。
1クール目はどうしても複雑な設定を説明していくという段階で物語はややスロースタートのようなところもありました。
どうしても前作の「W」がフォーマット化されていてわかりやすかったというと比べるとそういう印象を持ちます。
しかし中盤からのストーリーが動き始めたところからはかなり盛り上がりながら最終回までなだれ込んでいったと思います。
このあたりはさすが脚本の小林靖子さんかなと思いました(それでも中盤くらいはやや苦しんでいるのではないかと思うところもありましたが)。
武部プロデューサーはずっとキャスティングをやっていただけあって、今回のキャスト陣はとてもよかったと思います。
主人公火野映司を演じた渡部秀さん、よかったですね。
飄々としたところもある映司は、「クウガ」のときのオダギリジョーさんにも通じるような明るさがあってよかったです(ただ後半映司の中にも、深い苦しみがあることが明らかになりドラマが深くなりますが)。
アンク役の三浦涼介さんもよいです。
主人公側で憎まれキャラというのは新しく、憎まれつつも嫌われないという加減をうまく演じていたと思います。
最終回に向けて話が動く中でのアンクの表情の変化はそれまでの1年の積み重ねがあったからこそ印象深いと思いました。
あと比奈役の高田里穂さんはこの1年ですばらしく演技がうまくなったように見えます。
こちらも最終回までにむけた動く話の中で、比奈の感じる切なさを上手に表現していたのではないでしょうか。
「オーズ」のテーマは「欲望」。
これはかなり本質的なテーマであり、かなり重い。
これをどうやって見せ、どうやって物語として結論づけるのだろうか、かなりのチャレンジであったと思います。
平成仮面ライダーシリーズでこのような重いテーマを扱ってきているで、パッと浮かぶのは「仮面ライダー龍騎」です。
「龍騎」は「正義とは何か?」というものを考えさせる作品でした。
「正義」とは誰のためのものなのか、それはその主体であるものによって変わってしまう。
「正義の味方」と考えられた「仮面ライダー」という存在がその「正義」というものをテーマにするというのはかなりチャレンジな作品であったと思います。
「龍騎」はそのような重いテーマもしっかりと受け止め、最後はひとつの作品としての回答を出したと思います。
この脚本は見事という他はなく、それをメインで担当していたのは本作「オーズ」も担当している小林靖子さんでした。
普通に考えると「欲望」という言葉からくるイメージというものはネガティブなものです。
他人のことを犠牲にしても手に入れようとするというような、いけないことというようなイメージ。
「龍騎」のときの「正義とは何か?」という主題が正義の側(つまりはライダー側)の存在そのものに対するテーマであったのに対し、「オーズ」の「欲望とは何か?」という主題は悪の側(つまりはグリード側)の存在に対するテーマであり、この2作品は対称的になっていると言ってもいいかもしれません。
ネガティブな印象のある「欲望」ですが、本作ではそれを生きるためのエネルギー、進化するための意志というようにとらえました。
確かに「欲望」というものは言い換えれば「夢」であり「希望」であるとも言えるでしょう。
たぶん「夢」が「欲望」になるのは、自分のために他を犠牲にするというところが境になっているのでしょうね。
なので本作は「欲望」そのものは否定しない。
それを否定したらそれ以上進めなくなってしまうから。
本作では「暴走」というキーワードもよく出てきました。
たぶんそれは「夢」を求める気持ちがあまりに大きくなり過ぎ、それをコントロールできなくなった状態のことを言うのでしょう。
でも「夢」自体は否定しないのです。
その「夢」に向き合える気持ち、その「夢」を持てるだけの度量(本作では「器」とも言ってますね)というものが必要なのでしょう。
「欲望」が「暴走」することはいけないから、自分の「欲望」そのものを否定するということを登場時の主人公映司はしていました。
そしてアンクは他者を犠牲にしても「欲望」を叶えることこそが生きる目的だと考えていました。
しかし二人はお互いに戦い、暮らしていく中で、二人とも正しくはなく、その間が正しいことに気づいていくのです。
「欲望」は生きるためのエネルギー、しかしそれを自分自身でコントロールしてこそそれが「夢」になるというわけです。
本作で登場するグリードたちは己の「欲望」に呑まれ自己破滅していきます。
けれどそれはグリードたちだけでなく、実際の人間の生活においてもそういう道を進んでしまう人は多いわけです。
「夢」としてコントロールできるか、「夢」を持てる度量を持てる人間になるようにならねばならないということでしょうか。
考えさせられる作品ではありました。
「W」のような明快さとは違ったアプローチでしたが、「オーズ」は平成仮面ライダーの初期のような考えさせられる作品に仕上がっていたと思います。
ラストはハッピーエンドでよかったです。
これは武部プロデューサーの希望かな。
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