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2011年8月28日 (日)

「シャンハイ」 底が知れない街

太平洋戦争開戦前夜の上海、そこは「魔都」と称されることが多いように、欧米列強と日本、そして中国が
面をつき合わせ、陰謀が繰り広げられる街でした。
友人である情報部員が殺害された事件の真相を追う、同じくアメリカ情報部員であるポール(ジョン・kyキューザック0。
彼はカギを握るのが日本人娼婦のスミコ(菊地凛子さん)であると突き止めます。
そのスミコの足取りを追うなかで、出会うのが日本の情報部大佐であるタナカ(渡辺謙さん)であり、上海の裏社会のボス、アンソニー(チョウ・ユンファ)、彼の妻であり抗日レジスタンスを行っているアンナ(コン・リー)です。
まさに国と国がつばぜり合いをしている状況に加え、彼ら登場人物の間の愛情が交錯して、物語は展開していきます。

なんとも豪華な出演陣です。
歴史サスペンスというところなのかもしれないですが、思いのほか登場人物間の関係が複雑で、かつ舞台設定となる歴史的背景をあまり知らないとやや忙しく感じるかもしれません。
駄作っていう感じはないですけれど、「これはいい!」っていうほどでもないという感じでしょうか。
どちらかというとサスペンスを楽しむというよりは、ノワール的な雰囲気を楽しむ作品かもしれません。
展開についてゆけず「あれ、これどうなってんだっけ?」と考えるよりは雰囲気を味わうほうがいいかと思います。
そういう雰囲気が味わえるのは、最後のほうの雨のシーンですかね。
渡辺謙さんの目力はやはり凄いですし、チョウ・ユンファが拳銃を撃つところ(!)もやはりカッコいい。
この二人が同じシーンで、存在感を出しまくっているところはいいですね。
物語的にもこのタナカもアンソニーも自分の愛を貫こうとしながらも、そして大事なものを失っていく、この感じがノワール的な悲哀を感じます。
そういう悲哀を演じさせたら、やはりこの二人は格が違う。
残念ながら、ジョン・キューザックはこの二人に食われてます(とはいえ、ジョン・キューザックはいい役者だとは思いますが)。
タナカにしてもアンソニーにしても、ずっと後半までどちらかと言えば無表情であり、職業的な行動をとっているように見えます。
観ていると彼らが単に任務や役割のために動いているだけのように見えますが、その裏には彼らそれぞれの愛というものがあり、それを面には出さないというだけなんですよね。
このあたり「何を考えているのかわからない」というような欧米人から見たときのアジア人の雰囲気を表しているのかなと思いました。
底が知れないというような感じ、それは上海という街にも通じるものだったのかもしれません。

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「仮面ライダーオーズ」 夢と欲望とハッピーエンド

平成仮面ライダーシリーズ第12作「仮面ライダーオーズ」が本日最終回を迎えました。
前作の「仮面ライダーW」が相当高いレベルであったため、本作は出だしの頃は観ていてやや不安なところもありました。
理由の一つとしては、設定の複雑さですね。
オーズは3枚のメダルをベルトにセットして変身しますが、そのメダルは5系統あり、そのメダルの争奪戦を主人公側と怪人側、その他の組織で行います。
メダルの組み合わせによりオーズのフォームも非常に多く、それを見せていくだけでも大変ではないかと。
また主人公火野映司の相棒のアンクは元々は敵側(グリード)であるという設定で、そこには確執があり、それを含んだ相棒であったわけです。
このあたりは「電王」の良太郎とイマジンたち、また「W」の翔太郎とフィリップの相棒関係の発展系であるとは思いますが、やはり複雑さはあるなと。
あとは「欲望」というテーマですね。
これはなかなかに深く、子供番組でやるには扱いが難しいかなと。
今回の東映側のプロデューサーは「キバ」を担当した武部プロデューサーでした。
「キバ」の時も2つの時間軸に沿って物語を進めるという新しい試みを行いましたが、ややその設定が複雑でうまく最後まで処理しきれなかったという感がありました。
本作も野心的な試みをしているのはよいとは思うのですが、設定に振り回されて物語が破綻するかもという不安がありました。
1クール目はどうしても複雑な設定を説明していくという段階で物語はややスロースタートのようなところもありました。
どうしても前作の「W」がフォーマット化されていてわかりやすかったというと比べるとそういう印象を持ちます。
しかし中盤からのストーリーが動き始めたところからはかなり盛り上がりながら最終回までなだれ込んでいったと思います。
このあたりはさすが脚本の小林靖子さんかなと思いました(それでも中盤くらいはやや苦しんでいるのではないかと思うところもありましたが)。

武部プロデューサーはずっとキャスティングをやっていただけあって、今回のキャスト陣はとてもよかったと思います。
主人公火野映司を演じた渡部秀さん、よかったですね。
飄々としたところもある映司は、「クウガ」のときのオダギリジョーさんにも通じるような明るさがあってよかったです(ただ後半映司の中にも、深い苦しみがあることが明らかになりドラマが深くなりますが)。
アンク役の三浦涼介さんもよいです。
主人公側で憎まれキャラというのは新しく、憎まれつつも嫌われないという加減をうまく演じていたと思います。
最終回に向けて話が動く中でのアンクの表情の変化はそれまでの1年の積み重ねがあったからこそ印象深いと思いました。
あと比奈役の高田里穂さんはこの1年ですばらしく演技がうまくなったように見えます。
こちらも最終回までにむけた動く話の中で、比奈の感じる切なさを上手に表現していたのではないでしょうか。

「オーズ」のテーマは「欲望」。
これはかなり本質的なテーマであり、かなり重い。
これをどうやって見せ、どうやって物語として結論づけるのだろうか、かなりのチャレンジであったと思います。
平成仮面ライダーシリーズでこのような重いテーマを扱ってきているで、パッと浮かぶのは「仮面ライダー龍騎」です。
「龍騎」は「正義とは何か?」というものを考えさせる作品でした。
「正義」とは誰のためのものなのか、それはその主体であるものによって変わってしまう。
「正義の味方」と考えられた「仮面ライダー」という存在がその「正義」というものをテーマにするというのはかなりチャレンジな作品であったと思います。
「龍騎」はそのような重いテーマもしっかりと受け止め、最後はひとつの作品としての回答を出したと思います。
この脚本は見事という他はなく、それをメインで担当していたのは本作「オーズ」も担当している小林靖子さんでした。
普通に考えると「欲望」という言葉からくるイメージというものはネガティブなものです。
他人のことを犠牲にしても手に入れようとするというような、いけないことというようなイメージ。
「龍騎」のときの「正義とは何か?」という主題が正義の側(つまりはライダー側)の存在そのものに対するテーマであったのに対し、「オーズ」の「欲望とは何か?」という主題は悪の側(つまりはグリード側)の存在に対するテーマであり、この2作品は対称的になっていると言ってもいいかもしれません。
ネガティブな印象のある「欲望」ですが、本作ではそれを生きるためのエネルギー、進化するための意志というようにとらえました。
確かに「欲望」というものは言い換えれば「夢」であり「希望」であるとも言えるでしょう。
たぶん「夢」が「欲望」になるのは、自分のために他を犠牲にするというところが境になっているのでしょうね。
なので本作は「欲望」そのものは否定しない。
それを否定したらそれ以上進めなくなってしまうから。
本作では「暴走」というキーワードもよく出てきました。
たぶんそれは「夢」を求める気持ちがあまりに大きくなり過ぎ、それをコントロールできなくなった状態のことを言うのでしょう。
でも「夢」自体は否定しないのです。
その「夢」に向き合える気持ち、その「夢」を持てるだけの度量(本作では「器」とも言ってますね)というものが必要なのでしょう。
「欲望」が「暴走」することはいけないから、自分の「欲望」そのものを否定するということを登場時の主人公映司はしていました。
そしてアンクは他者を犠牲にしても「欲望」を叶えることこそが生きる目的だと考えていました。
しかし二人はお互いに戦い、暮らしていく中で、二人とも正しくはなく、その間が正しいことに気づいていくのです。
「欲望」は生きるためのエネルギー、しかしそれを自分自身でコントロールしてこそそれが「夢」になるというわけです。
本作で登場するグリードたちは己の「欲望」に呑まれ自己破滅していきます。
けれどそれはグリードたちだけでなく、実際の人間の生活においてもそういう道を進んでしまう人は多いわけです。
「夢」としてコントロールできるか、「夢」を持てる度量を持てる人間になるようにならねばならないということでしょうか。
考えさせられる作品ではありました。

「W」のような明快さとは違ったアプローチでしたが、「オーズ」は平成仮面ライダーの初期のような考えさせられる作品に仕上がっていたと思います。
ラストはハッピーエンドでよかったです。
これは武部プロデューサーの希望かな。

前作「仮面ライダーW」の記事はこちら→

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2011年8月21日 (日)

本 「真夏の方程式」

東野圭吾さんの「ガリレオ」シリーズの最新長編です。
「容疑者Xの献身」もそうなのですが、このシリーズというのは哀しさというものがありますよね。
当然ミステリーなので、作品の中で殺人が起こり、その殺害者、犯人も存在するわけです。
でもその犯人・協力者が、そして事件そのものがなにか哀しい。
本格ミステリーのようなパズルのような謎解きを読ませる作品ではありません。
主人公であり、探偵役でもある湯川は物理学者であり、彼が事件の謎へむかう姿勢は徹頭徹尾論理的なアプローチです。
でも湯川は事件が成立するための論理を構築する力だけでなく、その背景に潜む人への洞察力をも持ち合わせてるいる人物なのですよね。
「容疑者Xの献身」にしても、本作にしても湯川自身は事件の本質に誰よりも早く到達しているようにみえます。
けれども、それによって哀しい出来事が起こるかもしれないということまでも見えているんですよね。
だからこそ自分が気づいた事件の本質を実証し、事件の行く末が解らなければ、友人である草薙にすらその内容を話すことはありません。
本作においても、事件そのものよりも、その事件に関わる人びとの行く末に湯川は心を砕きます。
事件解決を職務とする警察官が主人公であればそうはならないのですが、いち民間人である湯川は事件の本質を理解することと並んで、大きなものは人の行く末なんですよね。
事件に関わった人びとの哀しさが彼にはわかる。
湯川自身はぶっきらぼうであり、とっつきにくいところのある人物でありますが、彼の本質は非常に情に厚い人物であることがわかります。
その人物像がこのシリーズの魅力なのかもしれません。

「容疑者Xの献身」の記事はこちら→

「真夏の方程式」東野圭吾著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-380580-1

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2011年8月20日 (土)

「うさぎドロップ」 子供との時間も、自分の時間だから

芦田愛菜ちゃんが反則的にカワイイ。

僕自身は結婚もしてないし、(当然のことながら)子供もいないし、なので子育ては未経験です。
でもだからこそけっこうダイキチ(松山ケンイチさん)の視点にすごく共感をしてしまいました(子育てもしてないのにわかったように言わないで、なんて言わないでね)。

「今まで私がどれだけ自分を犠牲にしてきたのか何にも知らないくせに!」
とダイキチの母親が言いますが、これはほんとにそうだと思います。
子供を育てるっていうことは、仕事にしても、自分のライフスタイルにしても、子供中心にならざるをえないでしょう。
自分が我慢しなくちゃいけないこともたくさんあるかと思います。
特に女性はまだまだそういうところはありますよね。
正直、自分も子供ができ今のライフスタイルを変更するようなことはやっていけるのだろうかと思ったりもします。
でも、ラストでのダイキチのモノローグにあるように「世の中、父親や母親ばっかりだ」なわけなんですよね。
たぶん子育てというのは自分を犠牲にしなくてはいけない部分はたくさんあるのだろうけど、それ以上に子供から得るものも大きいのでしょうね。
人から仕事をして疲れて家に帰って子供の寝顔をみると、ほっとするという話をよく聞きます。
今までは「そういうものなのかなぁ」という感じで聞いていましたが、本作を観るとその気持ちがよくわかりました。
芦田愛菜ちゃんが演じるりんがダイキチに対して、無邪気な笑顔で微笑みかけてくれる時、また不安に思ってしがみついてくる時、彼はりんにとって唯一守ってくれる存在だと思ってもらえていると感じたのですよね。
これは何にも増して得難い気持ちなんでしょう。
たぶんこれがあるから、人は子を産み、育てていくわけなんでしょうね。
ダイキチの同僚の女性が「子供との時間も、自分の時間だから」と言います。
これを聞いて、「ああ、そうなんだよなぁ」と自分の中で現実味のない子育てというものがふっと腑に落ちました。
自分の時間を子供にとられているというふうに思ってしまうと「自分を犠牲にする」という気持ちになってしまいますが、子供と過ごす時間も自分にとって大事な自分の時間と考えられるというのはとても素敵だなあと。

ダイキチが暮らしていた部屋はりんが来るまではシンプルなデザインの部屋でした。
けれどりんが来てからはいろいろな飾りが増えてきて、とてもごちゃごちゃとして、けれどとても楽しいイキイキとした様子に変わっていきます。
同僚の女性も子供ができてから「部屋がごちゃごちゃしてたいへん」と言いますが、それはそれでもしかすると楽しいことなのかもしれません。

りんと、友達のコウキが行方不明になった時、ダイキチがこう言います。
「親になるというのはもっと強くなるということだと思っていた。でも違ってた。親になるっていうことは臆病になるっていうことなんだ」
これもすっと入ってきたんですよね。
子供というのがかけがえのない存在になっていた時、つまりは子供と過ごす時間が自分の生きる時間と同じと感じられている時、それを失うっていうことは自分自身を失うに等しい感覚なのでしょう。
今までいくつもの映画や本で親の子に対する愛情というものを観たり読んだりしましたが、このダイキチのセリフが、子育て未経験の自分にはすっと入ってきたんですよね。
まさにダイキチがりんを失うかもしれないっていう恐ろしさが伝わってきたというか。
子育てには自分の多くのものを費やさなくてはいけないもの。
でも他のことでは得難いものがそこにはあるんでしょうね。
子供、欲しくなりました。
その前になんとかしろよ、というツッコミが聞こえてきそうですが・・・。

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2011年8月19日 (金)

「小川の辺」 藤沢作品、粗製濫造気味じゃないですか?

山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」以来、映画化されることが多くなった藤沢周平作品。
こちらの「小川の辺」もそのひとつとなります。
確かに山田監督の時代劇三部作は良かったのですが、その後に作られた藤沢作品の映画は凡庸なものも多いような気もします。
粗製濫造というか・・・。
藤沢作品が客を呼べるということで、柳の下の泥鰌を狙っていないかと思ったりもするわけです。
確かに藤沢作品は、上意という命令に従うことを余儀なくされる下級武士を描くことが多く、それは現代のサラリーマンの姿に通じるものがあり、共感をよびやすいというのはあります。
ただ、それはしっかりと登場人物を描くということが前提となるわけで、それなしで共感を呼べると思ったら間違いでしょう。
山田監督の三部作はいずれも、上意に従う武士としての使命と、愛する人を想う気持ちの間で揺れつつも、それを決して表面には出さない主人公の潔さを丁寧に描いていました。
またそういう主人公を愛する女性の苦しさそして凛とした強さも描写されていました。
だからこそ共感を得られたのですよね。
本作はそのあたりがちょっと浅いかなと思いました。
主人公は朔之助はある意味武士として成熟していて、覚悟も決まっているため、妹の夫を切るということに対し迷いはありません。
そういう点で、朔之助は「立派なお侍さん」であり、日本のサラリーマンの共感は得にくいかなと思いました。
藤沢作品的な上意と愛の狭間に置かれるのは、朔之助の従者である新蔵なのですが、彼については途中描写があるもののそれほど踏み込むことはありません。
思い切って新蔵にスポットをあてた方が共感はよべるのではないかと思いました。
また女性側にしても田鶴についての心情についての描写はほぼ無く、その点も登場人物の掘り下げが浅いという印象につながったような気がしました。
田鶴については新蔵に対する想い、それを捨てて嫁に行ったときの気持ち、またそして結ばれた夫への愛情など丁寧に描こうと思えばいくらでも描けそうな感じがしました。
このように脚本の構成に難があり、もっと登場人物に共感したいのにしにくいというもどかしさを感じた作品に思えました。

主人公の朔之助の東山紀之さんは相変わらずちょんまげが似合います。
凛としたお侍にはぴったりですよね。
それに対し、田鶴役の菊地凛子さんは、申し訳ないが和装が似合わない。
時代劇で和装が似合うか似合わないかというのは、重要な要素だと思うのですよね。
なんでこういうキャスティングになったんだろう。
兄の朔之助に切り掛かる田鶴の鬼気迫る様子は菊地凛子さんははまっていたように思いましたが、ここだけだったかな・・・。

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2011年8月16日 (火)

「幸せの始まりは」 本音を話す、本音を聞く

リサはアメリカ代表にもなったことのあるソフトボール選手。
けれども30代になったということで、次のチームメンバーに選考されないことになり、落ち込みます。
ふと我に返れば、自分にソフトボール以外は何もないことに気づきます。
20代というのは社会に出て、無我夢中で仕事をして、それで評価をされてもらったりしると、さらにがんばって、あっという間に時間が過ぎていきます。
そうしているときは、大変だけれど充実感あって、そのときの生活に不満足なんかはなかったりします。
けれど30代になり、立ち止まらなければいけない状況になったとき、「あれ、自分て仕事以外に何やってたんだ」と思うことはあると思うんですよね。
これは女でも男でもあるような気がします。
でも特に女性のほうがそう感じることがあるかもしれませんね。
周りを見渡すと、同世代の女性は結婚していたり、出産していたり。
それを見下していたところもあったりしたけれど、自分は世間一般の女性の幸せも得られていないなんて。
そんな落ち込み状態のときにリサがであったのは、二人の男性。
一人はメジャーリーガーで能天気なプレイボーイであるマティ。
彼の天性の能天気さは、リサが落ち込んでいても、それを忘れさえてくれるようなところもあり、彼女も救われる気持ちになります。
もう一人は青年実業家のジョージ。
とは言っても彼は不運続きで、会社も追われてしまい、先行きがまったく見えない男です。
最悪な状況のリサに輪をかけて、最悪な状況なのですよね、ジョージは。
けれども、ジョージはリサが感じているいろいろな不安や不満を、ただ聞いてくれます。
それで何かが解決するわけではないのだけれど、聞いてくれるという思いやりにリサは心を魅かれていきます。
男女ともに若い時に仕事をがんばる人ほど、弱音なんかはけないって思ってしまいますよね。
それが好きな人の前だったら尚更。
やはり好きな人にはしっかりした人、ちゃんとした人と見てほしいわけです。
で、好きな人の前でもがんばっちゃう。
でもそういうがんばりってどこかで無理がでてしまったりするものです。
まずは自分自身が安らげない。
好きな人といるはずなのになんだか安らげない、みたいなことになってしまうんですよね。
どこかで本音というか自分のほんとうの姿を出したいのに、そのタイミングを逸してしまったような感じ。
こういうのは自分個人的にはあったりするわけで。
自分が正直に本音を話せる、そして相手もそれを聞いてくれる。
逆もそうで、相手が本音を話してくれる、自分もそれを聞いてあげる。
それが一番自分にも相手にも居心地がよく、安らぐ関係だったりするんですよね。
僕なんかは相手が本音を話してくれてるのがわかったりすると、グッと惹かれたりしますね。
心を許してくれる感じがするからでしょうか。
自分もなかなか本音を最初から話す方ではないのですが、自然と話せちゃったりするような人も確かにいます。
互いに本音を話せて、本音を聞ける関係。
このあたりはやはり相性、ってことなのかもしれませんね。

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2011年8月15日 (月)

本 「笑わない数学者」

森博嗣さんのS&Mシリーズの第三作になります。
前作の「冷たい密室と博士たち」のレビューでは、1作目ほどには「世界がひっくり返る」ような感じがしなかったと書きましたが、本作は「世界がひっくり返る」感じがします。
まさに「コペルニクス的」なトリックになります(この表現は読んだ方はわかるかと)。
森博嗣さんは最近よく言われる理系ミステリーの代表作家としてあげられます。
主人公が理系のキャラクターであったり、論理的に構成されたミステリーだったりする作品が理系ミステリーと呼ばれることが多いですが、これも決まった定義があるわけではありません。
論理的にしっかりと組み立ててられていてもそれが理系的であるかというと、どうかとも思います。
理系、特に数学や物理学はどちらかと言えば、究極は複雑化ではなく、どちらかというとシンプルさをめざしていたりもすると思うのですよね。
そういう意味で森博嗣さんのミステリーというのは、その謎解きは恐ろしくシンプルなことが多いです。
けれど、森さんのシンプルさということは、自分が思っている「世界」というか「前提」もひっくり返るような謎解きであることがあるんですよね。
ものの見方を、常識とは違う見方で見ることにより解決をするという感じです。
本作もそうですが、ものの見方には前提となる定義があります。
ミステリーでは物語の前提として語れることが多いですが、当然そこには書かれなくても読者を含めた自分たちが普通に持っている常識も前提になります。
森さんの作品はその前提となるものごとの見方の定義を変えるというところにトリックがあったりするのです。
まさにこれが「コペルニクス的」ということで、そういうところからして森博嗣さんの作品を理系ミステリーと呼ぶことができるかなと思います。

S&Mシリーズの第二作「冷たい密室と博士たち」の記事はこちら→

「笑わない数学者」森博嗣著 講談社 文庫 ISBN4-06-264614-5

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2011年8月14日 (日)

「ツリー・オブ・ライフ」 万物の理

テキサスのとある家族の生活を描きながら、人とは、生命とは、宇宙(世界)とは何か、また善きこと、悪しきこととは何なのか、といった哲学的な問いかけをする作品です。
家族の描写に挿入される宇宙・自然のイメージ、また荘厳な音楽が、理屈を越えて、哲学的問いへのテレンス・マリックとして答えを提示します。
これは脳みそで考える理屈や心で感じる感情といった種の答えではなく、魂で聴くような答えであったように思いました。
マリックは饒舌に語るのではなく、あくまで感じてもらうというスタンスで描いており、そのストイックさが僕は好感を持ちました。

物語の冒頭に人間には利己的に生きる人、神の恩寵を受けて生きる人がいると語られます。
作品を観ればわかりますが、利己的に生きる人はこの作品で描かれる家族の父親オブライエン(ブラッド・ピット)が、そして神の恩寵を受けて生きる人はその夫人(ジェシカ・チャステイン)がその象徴となっています。
利己的に生きる人というのは、自分の成功を願う人のことです。
そのためにはある意味、他人を犠牲にすることもあるかもしれません。
この人はある意味、今現在を生きる人と言っていいかもしれません。
現在の成功を願い、それがかなわない時には、自分を失敗者であると思ってしまう。
失敗がおそろしいのです。
これはある意味、不幸な生き方かもしれません。
神の恩寵を受けて生きる人というのは、自分の現状というものをあるがままに受け入れられる人のことを言っています。
これは受け身であり、けれども意欲がないというふうにも感じられるかもしれません。
けれどもオブライエン夫人を見ればわかるように、あるがままに受け入れることにより、自分の周りにあるものすべてを愛おしく感じられる生き方です。
オブライエンが周囲を敵・ライバルと感じているのに対し、夫人はすべてを受け入れている。
これは後者の方が愛に満たされ幸せなのかもしれません。

本作には、螺旋、樹形図といったようなフラクタルなイメージがいたるところに見られます。
フラクタル図形というのは無限に拡大していくとそこにも同じ図形が見れる数学的なパターンのことです。
これらのイメージは宇宙・自然の映像の中だけでなく、オブライエン家の描写の中にもあります(螺旋を描くステンドグラス、度々映される樹木や葉脈、血管)。
これらのイメージは大きなものを拡大してみてみると、その中にも同じようなものがあるという無限の入れ子構造を表しています。
宇宙の真理というものは、それこそ宇宙誕生といった壮大なことにも、そしてちっぽけな人の人生のなかにも等しく見ることができるということを表しています。
本作で語られる言葉の中にある「あなた」というのはキリスト教的な神のこととして言ってはいますが、マリックはそれを本来のキリスト教の神(万物を創世した神)としてはとらえていないように思います。
どちらかと言えば、仏教でいう仏に近いのではないかと。
仏教では仏はあらゆるものの中におるという考えがあります。
マリックがここで「神」として象徴しているのは、自然の「理(ことわり)」といったようなものではないかと思います。
宇宙が誕生し、地球ができ、生命が生まれ、人間が生きる、そういった大きなことから小さなことにまである自然の理が貫かれている。
僕は子供の頃、太陽系の惑星の配置の構造と、原子の構造(原子核と電子)が似ていることになにか不思議なものを感じました。
たぶんそのように感じた人はたくさんいるのではないでしょうか。
とても大きな構造と、とても小さなものの構造がそっくりであるということ、これはとっても不思議です。
さきほどあげたフラクタルな構造がここにもあります。
すべてのものごと、すべての人が、その理のもとにあるということを受け入れるか否かというのが、利己的に生きる人、神の恩寵を受けて生きる人の違いになるような気がしました。
神の恩寵を受けて生きる人というのは、自分自身の今だけを見ているのではなく、直感的に長い長い時間、広い広い空間を貫く理を理解している人なのかもしれません。
その理がすべての人に貫かれていることを知っているからこそ、「人にはやさしく」と言えるのでしょう。

「父と母がいまでも僕を支配している」とオブライエン夫妻の長男ジャックは言います。
それはすなわち利己的に生きる人、神の恩寵を受けて生きる人が彼の中でせめぎあっているということです。
善き人でありたいのに、そうでなく振る舞ってしまう自分がいる。
これはジャックに限らず、ほとんどすべての人がそうなのだと思います。
自分を中心に考えるのが自然でありながら、そこで他人を傷つけてしまう自分への罪の意識も感じてしまう。
皆、たぶんこの物語で描かれる父親と母親が象徴するものの狭間で悩み、苦しみながら生きているのでしょう。
それが人間なのですよね。
でもその苦しみから抜け出すのは、神の恩寵を受ける(神に委ねる)という生き方なのかもしれません。
こう書くとえらく宗教的な感じに聞こえてしまいますが、あるがままを受け入れる生き方と言えばわかりいいかもしれませんね。
ただ本作にある宗教的な感じ(キリスト教的というわけではない)、というかもっと魂に近い感じというのは他の作品ではあまり感じられないものでした。
その感じを表現するカメラワークも非常によろしかった。
決して主観的ではない。
かといって客観的な視座でもない。
神の視座のような俯瞰的に近いような気もしますが、それほど突き放したような視点でもないんですよね。
もっと寄り添う感じと言いましょうか。
それこそ自分の守護霊が自分のことをすぐ近くから見守ってくれているというような立ち位置という感じがしました。
本作ではマリックは言葉で饒舌に語るわけではありません。
彼はイメージで示すのです。
ですので、人によって感じ方は違うかもしれません。
僕は縷々書いてきたように感じました。
途中で書いたように脳で考えたとか、心で感じたというのではなく、魂に響いた感じで、これを言葉にするのはとてももどかしい感じがしています。
みなさんがどのように感じたのか聞いてみたい気もしますね。

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2011年8月13日 (土)

「復讐捜査線」 正義の揺らぎ

メル・ギブソンの久しぶりの主演作です。
「サイン」以来だとか。
有楽町でもやってましたが、あっという間に終わってしまったので、久しぶりに新宿歌舞伎町のミラノまで行ってきました。
歌舞伎町もずいぶんと映画館の数が減りましたね〜。

娘を目の前で殺された刑事の復讐の物語ということですし、メル・ギブソンなのでなんとなく「マッドマックス」のようにガンガン復讐していくのかと思いきや、けっこう深い物語なのでした。
ボストンのベテラン刑事クレイブンは、久しぶりに戻ってきた娘エマを家に迎い入れたのもつかの間、目の前で愛娘を射殺されてしまいます。
当初、それは刑事であるクレイブンを狙ったものと考えられましたが、彼が独自に捜査を進めていくと、それはエマが勤めていた企業ノースモア社に原因があるようだということがわかってきます。
ノースモア社はある不正を行っており、それを告発しようとしたエマの口封じを行ったらしい。
この物語で語られるのは「正義」。
邦題から連想するとすぐに父親の復讐劇となってしまう感じがしますが、本作はそうはならない。
クレイブンは刑事だけあって、エマの死の真相をつかむためひとつづつ堅実に事件の真実の姿をさぐっていきます。
彼は刑事であり、彼がなさなければならない「正義」の執行のために、基本的には復讐心では暴走しません。
ただ彼はこの事件により、ひどく自分の「正義」というものに揺らぎが生じたのではないかと思います。
エマは彼がおそらく男手ひとつで育ててきた愛娘。
彼女も父親と同様にとても正義感の強い女性に成長したのだと思います。
ですので、ノースモア社の所行を知っても知らないふりをしている者たちもいるなかで、彼女は告発という手段を実行しようとします。
しかし、そのために彼女は殺されてしまうのです。
クレイブンはひどく悔いたでしょう。
彼の性格からして、娘に「正義」というものを守ることがいかに大事であるかということを教えたに違いないのです。
自分の信じる「正義」は間違っていないと思いつつも、それを娘にも教えたことを悔い、苦しんだのではないかと思います。
ノースモア社は軍需産業であり、政府と深い繋がりがあります。
ですので関係者は、みな自分自身が危険に曝されることを恐れ、口をつぐみます。
クレイブンの同僚ですらそうです。
ノースモア社の幹部や、弁護士、政府の役人、国会議員たちは、国家のための「正義」をふりかざし、極秘の活動のために人の命を奪うことも平気で行います。
本作で主人公クレイブンの他に、存在感のある人物が登場します。
ジェドバーグという男ですが、どうも政府の企みを隠蔽するプロフェッショナルのようです。
彼はその任務のためには躊躇なく人を殺すことができます。
けれども彼は映画の中によく出てくる諜報機関の暗殺者のステロタイプではなく、基本的には必要でない場合には人を殺しません。
ジェドバーグは政府の役人からこの事件に関わることを隠蔽するように命じられ、そのために行動しますので、立場としてはクレイブンと対立する存在になるわけです。
けれども彼はクレイブンを殺すチャンスはありながらもそうしません。
クレイブンを殺すことにより事件がセンセーショナルになり、政府にとってはより秘密を守りにくくなるというのが、彼のプロとしての判断であったのでしょう。
けれどもそうだけとも言えないかと思います。
ジェドバーグも彼が信じる「正義」のために戦ってきた男なのでしょう。
それは国家を守る=正義という図式であったのだと思います。
けれども本作で描かれる事件を通じて(実はそのまえからずっとかもしれない)、その国家を動かす人びとたちがいかに愚劣であるかというのを見てしまい、自分を信じている「正義」の正当性について、彼も揺らいだのではないかと思います。
ジェドバーグは立ち位置こそ違い、クレイブンが「正義」を貫こうとする姿に、共感を感じたのではないでしょうか。
クレイブンにしても、ジェドバーグにしても自分の信じる「正義」について、揺らぎながらも、最後まで(文字通り人生の最後まで)それを貫き通したのですよね。
このジェドバーグという登場人物がいるおかげで、この作品は単なる復讐劇ではなく、「正義」を貫くことということについて考えさせられる作品になったと思います。
ラストシーンは悲劇ではあるのだけれど、父と娘が手をつないでいく姿になにか救われるような気持ちになりました。

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2011年8月11日 (木)

本 「読書の方法 -なにを、どう読むか-」

読んではみたものの、まったく歯が立たないという感じでした。
こちらは吉本隆明さんの本に関するインタビューや、小文をまとめた本になります。
吉本隆明さんは、評論家であり思想家であり、詩人でもある方であるのはご存知の通り(よしもとばななさんの父親でもある)。
そんな人の本は、まずは敷居が高くってまずは読んだも解らんだろうと、手を出していなかったのですが、本に関する本ということでちょっとは読めそうかと読んでみたのですが、やはりハードルが高かった・・・。
この方の本を読むには、まずは古今東西の主だった古典やら思想家の本をとりあえずは読んだ経験がないとダメですねぇ。
自分ではマダマダです。
ただひとつだけ「そうだよね」と共感できたところが「あとがき」にありまして(「あとがき」くらいです、理解できたのは)。
ちょっとそこだけ引用します。

本を読むとはどういうことか。この本の中にもそれにふれた文章が幾つかあるが、一口に言ってしまえば、日常生活の必要上よりも少しでも蒙る心身の負荷も軽い負荷になるように本を読む行為のことだ、というのがわたしの考え方の中核にあるような気がする。生活の平準値よりも重い負荷になっても、職業にまつわる良心から本を読み、調べることは有りうる。むしろその場合の方が多いかもしれない。だがわたしは、そういう場合には読書と呼びたくないらしいのだ。
(中略)
文献として読んだり、調べたりする本ではなく、読書のために読む本は、文献とは逆に、千差万別で、良い悪いの価値も、差別が多用にあると思う。

僕自身も勉強のために本を読むことが嫌いで(笑)。
仕事がらみの本を読むときは義務感なんですよね。
特に上司から薦められた本などは。
正直、読書というのは自分が興味をもったものを読まないと実にもならないし、楽しくもない。
そういうとこは吉本さんが「あとがき」に書いてらっしゃるところはそのとおりだなぁと。
すみません、本文の方は理解が追いつかなかったので、「あとがき」にのみ触れました。

「読書の方法 -なにを、どう読むか-」吉本隆明著 光文社 ソフトカバー ISBN4-334-97321-3

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2011年8月 7日 (日)

「海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE 空飛ぶ幽霊船」 こっちのほうが楽しめた

「オーズ」の劇場版はあまり面白いとは思いませんでしたが、同時上映の「ゴーカイジャー」の劇場版の方がテレビシリーズと同様に楽しめました。
劇場版というより、通常のシリーズの1エピソードといったような感じですが。
このシリーズはそもそもの設定が記念作品的でキャッチーなので、劇場版だから特別にといったキャッチーさを用意しなくてもいいというところはありますよね。
時間もほぼテレビの1回分の長さですし、あまり凝ったことをするとストーリーが忙しくなってしまいます。
それほど劇場版だからといった力が入っていない割り切りが良いです。
とはいえ、劇場版的なサービスはいくつかあって。
まずは「ゴレンジャー」世代としては、野球仮面の登場が嬉しい。
声もね、昔と同じ永井一郎さんでした。
怪人もなんだかお間抜けで、コミカルなところはやはり「ゴレンジャー」風で懐かしかったです。
あとは今回ロボ戦は、かなりの割合をCGでやってましたね。
はじめてモーションキャプチャーを取り入れたということです。
なるほどいままでの戦隊のロボ戦とは違った見え方をしますね。
このあたりは劇場版ならではの試みと言えるでしょう。
アクション監督はテレビシリーズとは異なり竹田監督(「仮面ライダーキバ」等)が担当。
テレビの石垣監督とも、またテイストが違っていて楽しめました。
アクションが立体的な感じがしましたね。
短いながらもキャラクターも描けてました。
特に今回はゴーカイジャーの中心のマーベラスにスポットをあててましたよね。
実はテレビシリーズは他のメンバーのエピソードのほうが多く、マーベラスが中心なる話というのは少ない。
マーベラスというキャラクターはキャプテンということで揺るぎない自信家ということもあるので、あまり悩むとか迷うとかいったこともないわけなので、どうしてもバタバタと動き回らせるというような使い方はしにくい。
けれど劇場版では、自分の望みを叶えるアイテムを手に入れても、躊躇なく仲間を救うという選択肢を選ぶというのはとてもマーベラスのキャラクターがでていたと思います。
このあたりはうまくキャラクターを活かした脚本になっていたと思いましたね。
観賞したのは2Dであったんですけれど、随所に3Dを意識した演出も多く、これは3Dで観た方がたのしかったかなと思った次第です。

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「仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル」 ストーリーからの必然性がないサプライズばかり

昨年の「仮面ライダーW」の劇場版「運命のガイアメモリ A to Z」が歴代の仮面ライダーの劇場版の中でも屈指の出来であったので、今年の「仮面ライダーオーズ」の劇場版は僕の中ではハードルが高めに設定されてました。
さりありながら。
それでも今年の「オーズ」の劇場版の出来はよろしくない。
今まで平成仮面ライダーの劇場版の中で個人的にワーストは「響鬼」であったのですが、それと負けず劣らず良くない。
確かに「仮面ライダー」の劇場版は難しい。
テレビシリーズは同時期にストーリーが続いているので、それと劇場版がどうスタンスをとるのかが悩ましいのです。
特に「W」以降はテレビシリーズのクライマックスとほぼ同時期で、劇場版が公開されるので特に難しい(その点、去年の「W」はとても上手にさばいていた)。
今までの平成仮面ライダーの劇場版はテレビシリーズとのかぶりをうまく避けていました。
基本的に多い手法としては「パラレルワールド」設定ですね。
「最終回を先に劇場で公開!」と銘打った「龍騎」で初めてこの手法を使いましたが、その後の作品「555」「剣」「響鬼」「カブト」「キバ」等ほとんどの作品がこの手法をとっています。
テレビシリーズと同じ設定内で劇場版を作ったのは「アギト」「電王」「ディケイド」「W」となりますね。
「電王」と「ディケイド」は時間や時空を移動できるという離れ業をもっているので、同じ時空間での劇場版というのは厳密に言うと「アギト」と「W」になるわけです。
「アギト」は同じ時空間でありながら劇場版の中心をアギトではなく、G3チームにしているのでうまくテレビシリーズとのかぶりを回避しているんですよね。
そういう意味で、テレビシリーズと同じ設定内で劇場版をやるのは難しいということがわかります。
なぜ難しいかというと、劇場版は劇場版としてのサプライズというか、セールスポイントがないといけません。
しかしテレビシリーズと同じ時空間でそれをやってしまうと今度はテレビシリーズの方のクライマックス感が薄れてしまう。
テレビシリーズと劇場版をそれぞれにニュースとサプライズを与えるのはなかなか難しいのは確かです。
本作は基本的にテレビシリーズと同じ時空間で、伊達がバースを辞める前の時点ということになっています。
今回の劇場版でのサプライズポイントというのはいくつかあります。
・仮面ライダーオーズと暴れん坊将軍が共演!
・劇場版のみのコンボ登場!
・すべてのコンボがそろいぶみ!
・新番組「仮面ライダーフォーゼ」登場!
と言ったところでしょうか。
それぞれにキャッチーであるとは思うのですが、それがストーリーの中に素直に組み込まれているかというとそういうわけでもない。
どちらかというとそういうサプライズポイントを繋げるためにストーリーがあるといったような感じがありました。
「W」の劇場版が、一つの作品として完成度が高く、そして劇場版としてのキャッチーさ(AからZまでのガイアメモリ、劇場版だけの新フォーム、最凶最悪の悪役仮面ライダー登場)を物語に必然的に組み込んでいました。
その完成度に比べると、今回の「オーズ」の劇場版はつぎはぎ感が感じられます。
暴れん坊将軍が登場するというのは東映60周年記念ということで、また相当キャッチーなのはわかるのですけれど、やはり無理矢理感は感じられます。
劇場版だけのコンボ、ブラカワニも最強というわけではないところが微妙(テレビシリーズとの兼ね合いでプトティラが最強ですからね)。
そういう意味で、昨年の「W」の「サイクロンジョーカーゴールドエクストリーム」は風都の人びとの願いが込められているときだけなれるという点で物語として必然性があるんですよね。
すべてのコンボそろいぶみも「おおっ!」と思いましたが、テレビの本筋でもやればいいじゃんということになるわけで。
テレビシリーズと同じ時空間ということなので、テレビのクライマックスに関係する、映司やアンクのそれぞれのキャラクターや関係性を深く掘り下げるわけにもいかないので、どうしても目先の派手さみたいなところで映画を引っ張らざるをえない。
なのでストーリーからの必然性ではなく、ストーリーが様々な要素にひっぱり回されているような状況になっているのです。
確かにほぼ同時期にクライマックスを迎えるテレビと並行での公開する劇場版は難しい。
けれど昨年はうまくできていたので、なんとか今回もがんばってほしかった。
テレビシリーズがさすがの小林靖子脚本で盛り上がってきているだけに残念な感じがしました。

仮面ライダーフォーゼはかっこよかったです。
あのパートは「フォーゼ」のメインの坂本浩一監督が撮ったということですがやはり見せ方が上手。
にほんブログ村 映画ブログへ Vシネの「仮面ライダーアクセル」で、アクセルブースターがバーニヤを吹かして空中に浮遊している感じをワイヤーアクションで行いましたが、その経験をうまく活かしてます。
先般坂本監督のインタビュー記事であれは監督が好きな「機動戦士Zガンダム」のモビルスーツがバーニヤで制動をかけたりするところをイメージしたと言ってました。
早くも「フォーゼ」への期待度が高まります。

「オーズ」の劇場版についてはボロボロに言いましたが、テレビシリーズの方は盛り上がってます。
そちらについては放映終了後にレビューします。

「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ」の記事はこちら→

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本 「弧宿の人」

久しぶりに宮部みゆきさんの作品を読みました(多くの作品を読んでしまっているため)。
本作は宮部さんの作品の中でも評価が高い作品ですが、読んでみて僕もそのように感じました。
舞台は江戸時代で、宮部さんが今まで手がけてきた時代ミステリーとして分類されるとは思いますが、下彼女の現代ミステリーにも通じるものがあります。
宮部さんの作品には、強いカラーがあって、どうしようもないほどな悪と、とても純粋無垢な善の存在というものが描かれます。
これらはしばしば悪も善も双方ともに少年少女というキャラクターとして形をとられます。
本作でいえば、ほうという少女は純粋無垢な存在として位置します。
ただ彼女は善かというとそういう存在ではなく、劇中で舷洲という医者が彼女を「純粋無垢な穢れなき目で」と評しますが、まさにそういう悪とか善とかではないニュートラルな存在として描かれます。
それに対し、宮部作品で登場する悪というのは、今までは純粋無垢な悪としてキャラクターとして少年少女という形をとることが多かったです(「模倣犯」など)。
しかし本作は純粋無垢な悪の存在は感じられますが、その存在が明示されることはありません。
本作では様々な事件が起こりその背後には、何か悪意のある存在がいます。
琴江を殺した美弥は悪意のある人物として姿を出しますが、それだけではなくは丸海藩の跡目争いの陰にいるものなどは姿が最後までみえません。
ただそこには加賀様という存在を隠れ蓑に上手く利用して自分たちの望みを叶えようとする者たちがいることは感じられます。
そういった悪意が増殖し、そしてそれがいつしかまた悪意を隠すための嘘がいつしか実体化し、最後のほうでは集団パニックのような状態になり丸海藩に大きな悲劇が訪れます。
悪意が増殖し、その悪意の元ですらコントロールできずにそのもの自体すら滅ぼそうとするような状態になってします。
このような状態はなにも小説の中だけはなく、現実にも起こりえますし、起こっています。
なんとなく現在の原発事故以降の混乱などにも通じるような気がしてます。
原発事故自体は、本作でいう加賀様であり、それ自体は大変な問題。
けれどそれを解決しようとする裏には、政権争いとか、東京電力という会社の問題とか、役所の問題とかが絡まりあって、どんどん自体は悪化のほうに進んでしまう。
見えないエゴや悪意というのが増殖化していく過程というのが本作にも通じるような気がしました。
そういう意味で冒頭で時代ミステリーという枠には収まらないと書いたわけです。
なんというかそういうような大きな流れというのは止めようもないことなのかもしれません。
けれどほうや宇佐のように自分の手の届く範囲で自分のできる善という行いをするということは小さいことながらも大事なのではないかと考えたりしました。

「弧宿の人<上>」宮部みゆき著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-136931-0 「弧宿の人<上>」宮部みゆき著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-136932-7

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2011年8月 6日 (土)

「カーズ2」 切り口を見事にシフトチェンジ

出せば当たるピクサーの新作であり、ヒット作品「カーズ」の続編がこちら「カーズ2」です。
ピクサーを引っ張るCOOのジョン・ラセターが満を持して監督した作品であって、やはり期待に違わず見応えありました。
ピクサー作品でシリーズものとなったのは「トイ・ストーリー」がありますが、単純に同じことを繰り返す続編となっていないところがピクサーのすごいところです。
「トイ・ストーリー3」などはまさにその例と言っていいでしょう。
本シリーズの1作目は、天才レーサーマックイーンが田舎町でふと立ち止まって、焦りながら進んできた己中心の考え方を見つめ直し、人(車だけど)との繋がりの大切さに気づくというお話でした。
2作目にあたる本作は「カーズ」のその後を描きながらも、そのまんまの続編にはなっていません。
主人公はマックイーンではなく、その親友のメーターと言っていいでしょう。
そして本作は「007」を思わせるようなスパイアクション映画(!)に仕上がっています。
アバンタイトルからして「007」にひけをとらない見応え感があります。
車を人間以上にイキイキと描くことについては前作で実績がありますが、まさかスパイアクションまで車が見せてくれるとは。
イギリススパイのマックミサイルがほんとジェームズ・ボンドに見えましたもん(マックミサイルがアストンマーチン風なのもいいですよね)。
敵地への潜入、スパイ活動、脱出までをコンパクトかつ派手なアクションで見せ、一気に作品に引き込むのは「007」シリーズの常套手段ですが、それを見事に本作でも見せてくれました。
僕の中でのボンドカーの最初の記憶はロータスエスプリが潜水艦になるというものなのですが、それを本作でもやってくれたのは非常に嬉しい。
まさにつかみはOKで、これで本作は前作とは違ったスケール感、テイストを持つ作品だとわからせてくれます。
前作はマックイーンの内面について描くことをしていましたが(車を使ってその内面を描くというのはそれはそれですごい)、本作はキャラクターの内面というよりも3DCGでアクション映画を作るというところに重きをおいた感じがしました。
その狙いは見事に成功したと思います。
ヒット作の続編というのは前作を越えるというハードルをすでに設けられています。
それを越えるにはさらに前作の方向性を大規模に派手にするかか、または違う切り口で見せていくかということになります。
前者の方法は単純ですが、意外にうまくいかないことが多いです。
観客の期待のレベルが制作者よりもかなり高いところまで上がっている可能性があるからです。
後者の成功例は冒頭にあげた「トイ・ストーリー」シリーズであり、「エイリアン」「エイリアン2」、「ターミネーター」「ターミネーター2」あたりがあげれらるでしょう。
本作も後者の方法論に当てはまる例だと言えます。
当たった作品のシリーズの切り口をシフトチェンジすることは勇気がいることだと思いますが、さすがピクサー、躊躇なく別の切り口を提示してくれました。

スパイアクションを見せるということに重点を置いているとはいえ、ストーリにも深いところもあります。
本作で描かれる企みを行うのは、映画の中の車社会でポンコツと差別をされてきた車たちです。
社会的に差別されたものたちの社会への復讐なのですよね。
オンボロ車であるメーターが本作の主人公であるということは意味があります。
彼は企みを行った車たちとは違い、ボロであること自体にひけめを感じてはいません。
というよりも車体の傷のひとつひとつは彼の思い出がつまったものであり、それを彼は大切にします。
自分の不幸を誰かや社会のせいにするのではなく、それを受け入れた上で、前向きに生きるということが大切であるということをメーターが表しているように思いました(彼はそんなことを考えずにピュアに生きているだけだと思いますが)。

映像的には他のプロダクションよりもやはり数段上の技量をもつピクサーなので、文句のつけどころはありません。
やはり日本での描写はなかなか力が入っていて良かったです。
でもやっぱりトンデモニッポンなのね。
やはりウォシュレットは外人さんには驚きなのですねぇ。

「カーズ」の記事はこちら→

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2011年8月 2日 (火)

本 「木島日記 乞丐相」

「多重人格探偵サイコ」(読んでないけど)等の漫画の原作者として知られる大塚英志さんの小説「木島日記」の続編です。
昭和初期を舞台にして、正史の裏にある偽史を題材にしているところは、荒俣宏さんの「帝都物語」等を思い浮かべます。
また(時代はちょっと違いますが)古本屋を営む博識な仕分け人が出てくるあたりは京極夏彦さんの「京極堂」シリーズが連想されます。
昭和初期という時代はこういう伝奇小説で描かれるときはなぜか耽美であったり、倒錯的であったりするのですが、本作もそういう感じが漂います。
江戸川乱歩の作品などがそういう時代感みたいなものを出していると思いますが、どうもこの時代はある種の熟して、熟しすぎちゃって臭い始めている時代のようなものを感じますね。
正直先に上げた「帝都物語」の方が博学的であるし、エンターテイメントとしても盛り上がるし、「京極堂」シリーズの方がミステリーとしても読み応えがあるし、哲学的でもあります。
そういう点では本作は時代の雰囲気というか、今の時代の我々があの時代にか感じる妖しさのようなものはよく出ているとは思うのですが、先の二作品と比べるとややもの足りないところがある感じがしました。

「木島日記 乞丐相」大塚英志著 角川書店 文庫 ISBN4-04-419118-2

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