テキサスのとある家族の生活を描きながら、人とは、生命とは、宇宙(世界)とは何か、また善きこと、悪しきこととは何なのか、といった哲学的な問いかけをする作品です。
家族の描写に挿入される宇宙・自然のイメージ、また荘厳な音楽が、理屈を越えて、哲学的問いへのテレンス・マリックとして答えを提示します。
これは脳みそで考える理屈や心で感じる感情といった種の答えではなく、魂で聴くような答えであったように思いました。
マリックは饒舌に語るのではなく、あくまで感じてもらうというスタンスで描いており、そのストイックさが僕は好感を持ちました。
物語の冒頭に人間には利己的に生きる人、神の恩寵を受けて生きる人がいると語られます。
作品を観ればわかりますが、利己的に生きる人はこの作品で描かれる家族の父親オブライエン(ブラッド・ピット)が、そして神の恩寵を受けて生きる人はその夫人(ジェシカ・チャステイン)がその象徴となっています。
利己的に生きる人というのは、自分の成功を願う人のことです。
そのためにはある意味、他人を犠牲にすることもあるかもしれません。
この人はある意味、今現在を生きる人と言っていいかもしれません。
現在の成功を願い、それがかなわない時には、自分を失敗者であると思ってしまう。
失敗がおそろしいのです。
これはある意味、不幸な生き方かもしれません。
神の恩寵を受けて生きる人というのは、自分の現状というものをあるがままに受け入れられる人のことを言っています。
これは受け身であり、けれども意欲がないというふうにも感じられるかもしれません。
けれどもオブライエン夫人を見ればわかるように、あるがままに受け入れることにより、自分の周りにあるものすべてを愛おしく感じられる生き方です。
オブライエンが周囲を敵・ライバルと感じているのに対し、夫人はすべてを受け入れている。
これは後者の方が愛に満たされ幸せなのかもしれません。
本作には、螺旋、樹形図といったようなフラクタルなイメージがいたるところに見られます。
フラクタル図形というのは無限に拡大していくとそこにも同じ図形が見れる数学的なパターンのことです。
これらのイメージは宇宙・自然の映像の中だけでなく、オブライエン家の描写の中にもあります(螺旋を描くステンドグラス、度々映される樹木や葉脈、血管)。
これらのイメージは大きなものを拡大してみてみると、その中にも同じようなものがあるという無限の入れ子構造を表しています。
宇宙の真理というものは、それこそ宇宙誕生といった壮大なことにも、そしてちっぽけな人の人生のなかにも等しく見ることができるということを表しています。
本作で語られる言葉の中にある「あなた」というのはキリスト教的な神のこととして言ってはいますが、マリックはそれを本来のキリスト教の神(万物を創世した神)としてはとらえていないように思います。
どちらかと言えば、仏教でいう仏に近いのではないかと。
仏教では仏はあらゆるものの中におるという考えがあります。
マリックがここで「神」として象徴しているのは、自然の「理(ことわり)」といったようなものではないかと思います。
宇宙が誕生し、地球ができ、生命が生まれ、人間が生きる、そういった大きなことから小さなことにまである自然の理が貫かれている。
僕は子供の頃、太陽系の惑星の配置の構造と、原子の構造(原子核と電子)が似ていることになにか不思議なものを感じました。
たぶんそのように感じた人はたくさんいるのではないでしょうか。
とても大きな構造と、とても小さなものの構造がそっくりであるということ、これはとっても不思議です。
さきほどあげたフラクタルな構造がここにもあります。
すべてのものごと、すべての人が、その理のもとにあるということを受け入れるか否かというのが、利己的に生きる人、神の恩寵を受けて生きる人の違いになるような気がしました。
神の恩寵を受けて生きる人というのは、自分自身の今だけを見ているのではなく、直感的に長い長い時間、広い広い空間を貫く理を理解している人なのかもしれません。
その理がすべての人に貫かれていることを知っているからこそ、「人にはやさしく」と言えるのでしょう。
「父と母がいまでも僕を支配している」とオブライエン夫妻の長男ジャックは言います。
それはすなわち利己的に生きる人、神の恩寵を受けて生きる人が彼の中でせめぎあっているということです。
善き人でありたいのに、そうでなく振る舞ってしまう自分がいる。
これはジャックに限らず、ほとんどすべての人がそうなのだと思います。
自分を中心に考えるのが自然でありながら、そこで他人を傷つけてしまう自分への罪の意識も感じてしまう。
皆、たぶんこの物語で描かれる父親と母親が象徴するものの狭間で悩み、苦しみながら生きているのでしょう。
それが人間なのですよね。
でもその苦しみから抜け出すのは、神の恩寵を受ける(神に委ねる)という生き方なのかもしれません。
こう書くとえらく宗教的な感じに聞こえてしまいますが、あるがままを受け入れる生き方と言えばわかりいいかもしれませんね。
ただ本作にある宗教的な感じ(キリスト教的というわけではない)、というかもっと魂に近い感じというのは他の作品ではあまり感じられないものでした。
その感じを表現するカメラワークも非常によろしかった。
決して主観的ではない。
かといって客観的な視座でもない。
神の視座のような俯瞰的に近いような気もしますが、それほど突き放したような視点でもないんですよね。
もっと寄り添う感じと言いましょうか。
それこそ自分の守護霊が自分のことをすぐ近くから見守ってくれているというような立ち位置という感じがしました。
本作ではマリックは言葉で饒舌に語るわけではありません。
彼はイメージで示すのです。
ですので、人によって感じ方は違うかもしれません。
僕は縷々書いてきたように感じました。
途中で書いたように脳で考えたとか、心で感じたというのではなく、魂に響いた感じで、これを言葉にするのはとてももどかしい感じがしています。
みなさんがどのように感じたのか聞いてみたい気もしますね。

最近のコメント