« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月31日 (日)

本 「警官の紋章」

佐々木譲さんの道警シリーズの三作目になります。
本作で描かれるのは3年前の洞爺湖サミットです。
そのとき北海道警はかつてない規模の厳戒態勢で警備に挑みます。
その中で、このシリーズの登場人物である佐伯、津久井、小島はそれぞれの立場でそれぞれの任務を果たそうとしますが、それはやがてある一点に収束されていきます。
それは「笑う警官」で描かれた北海道警「最悪の一週間」で曝された不正ですら、その一部であるさらなる警察の暗部でした。
「警官の紋章」というタイトルは、警官の誇りという意味にとっていいでしょう。
佐伯たち現場の警官はそれぞれに自分の職務に誇りをもって挑んでいます。
けれどもそういう現場の警官を統べるキャリアというのは、それとは全く異なる思考でものを考えている。
それは自分の立身出世であったり、そのための組織防衛であったりするわけです。
佐伯たちも青二才のようにただまっすぐに正義とかそういうことを言っているのではありません。
けれども絶対に譲れない一線、警官の誇りということについては愚直といえるほどまっすぐです。
本来、公的な仕事をする人びとというのは、そのような誇りがあってこそやっていける仕事のはずです。
けれどもなぜかそういう誇りを持つ現場の人を統率するのが別次元のものの考え方をする人びとなのです。
今は警察のキャリアというのは、警官である前に役人なのですよね。
この題材というのは「踊る大捜査線」「SP」などのドラマでポピュラーなものとなっていますが、本シリーズはそれをしっかりと描いている作品であると思います。

道警シリーズ第1作「笑う警官」の記事はこちら→
道警シリーズ第2作「警察庁から来た男」の記事はこちら→

「警官の紋章」佐々木譲著 角川春樹事務所 文庫 ISBN978-4-7584-3475-1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月30日 (土)

「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」 折れない心

「ハリー・ポッター」シリーズ、ついに完結しました。
結局第一作から本作まで10年に渡るお付き合いとなりました。
「賢者の石」を観た時に、まさかここまで続くとは思いませんでしたよね。
本シリーズにより世界的に起きたファンタジーブームで、いくつもあやかろうとした作品はありましたが、それらはほとんどが途中で打ち切りとなり、結局最後まで完走することができたのは本家のこのシリーズだけで、それはすごいことであると思います。
でも「ハリー・ポッター」シリーズも決して順風満帆ではなかったかなとも思います。
個人的には「アズガバンの囚人」、「炎のゴブレット」あたりはあまり出来はよくなかったと思っていまして、原作をダイジェストにまとめているというような感じもして、あまり関心を持てない時期もありました。
けれども本作の監督も務めるデイビッド・イェーツが担当するようになってから(「不死鳥の騎士団」以降)は、ドラマ的な盛り上がりが出てきて楽しめるようになりました。
このあたりから物語としてもハリーたちが成長し、ヴォルデモードとの因縁も次第に明らかになっていき、全体的にシリアスになっていく時期ではあったのではありますが。
とはいえ、息切れ感があったシリーズを立て直したデイビッド・イェーツの手腕は評価されるべきでしょう。
原作の最後の巻である「死の秘宝」を2部作にしたのは英断であったと思います。
シリーズの最後の最後を2部作にするという話を初めて耳にしたときは、2度おいしいという商売っ気を感じたりもしましたが、本作を観てみると必然であったかなと感じました。
やはりこのシリーズにつき合っている観客は最後の最後は大団円を迎えてほしいと思っている人ばかりだと思います。
それを時間の制約でダイジェスト的なまとめ方をしてしまってはやはり不満がでるかもしれません。
最後だからこそ、丁寧にしっかり描きたいという考えが到達したのが、2部作という結論であったのであろうと思います。
PART1はハリーやロン、ハーマイオニーという3人の仲間の葛藤、そしてそれぞれがどうするべきかという答えを出すところまでが描かれます。
派手なシーンはPART2に比べて少ないですが、その分3人の心情というのは深く描かれていたと思います。
そして本作ですが、こちらでは主人公たちの気持ちの整理は揺るぎないほどについているので、それを成し遂げるまでの彼らの行動が描かれます。
ある種、心情的な深堀りは済んでいるので、シリーズ全体の映画的なクライマックスパートを本作2時間強の時間で描こうというはっきりとした意図を感じます。
ですので本作は最初から最後まで見所ばかりと言っていい状態になっています。
特にヴォルデモードの強大さは圧倒的であり、ハリーたちは絶対的に弱い立場となっています。
それを逆転し彼を倒すためにはいくつかの関門(分霊箱を探し破壊する)を突破していかなくてはいけません。
その過程で描かれるのは、ハリーたちの折れない心、望む気持ち、求める気持ちです。
圧倒的な力の差を感じつつも、だからといって諦めない。
その心の強さこそが、本当の強さであるということ。
とてもオーソドックスなメッセージではありますが、だからこそ普遍的であり、子供たちにもわかってほしいものでもありますよね。
その強さは、ハリーだけでなく、ロンもハーマイオニーもそうですし、またホグワーツの生徒たちも彼らが暮らした学園生活の中で、しっかりと心の中に実を結んだというのが伝わってきます。
特に個人的に注目していたネビル、彼は当初はいじめられっ子でしたが、本作ではある意味ハリーよりも英雄的な活躍をします。
決して能力があるわけではない彼は最後に起死回生の活躍を見せてくれるのです。
能力があるから英雄になるのではなく、強い心、望む心を持っているからこそ英雄になれるのでしょう。
あとスネイプ先生のこともしっかりと描いてくれていたのも嬉しかったです。
ダンブルドア以外にはその気持ちを死ぬまで明かすことはできず、人知れず愛に生きた男。
死んだ後であっても彼の気持ちをハリーにしっかりと伝わったのは、スネイプ先生にとっても救いであったと思います。
スネイプ先生もハリーの傍らでずっと彼を見守っていることでしょう。
原作ではけっこうなボリュームを割いていたダンブルドアの家族の話をばっさり切ったのは、これもイェーツ監督のすばらしい判断。
切ることにより物語がシンプルになり、PART2は「死の秘宝」のクライマックスという役割だけでなく、シリーズ全体のクライマックスという役を果たすことができたと思います。
いろいろ書きましたが、ほんとにいい大団円をむかえることができました。
お見事です。

「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1」の記事はこちら→ 

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (67)

「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」 前作の反省を踏まえたバトルシーン

人気シリーズの第三作になります。
一作目は観たこともない映像に驚喜しましたが、二作目はドラマパートの味の薄さとあまりに激し過ぎる映像についていけなくてちょっと印象はよくありませんでした。
ですので、本作については期待と不安が半分半分という感じで観賞しました。

まずはやっぱりマイケル・ベイという監督は人間を描くってことにはほんとに興味がないのだなと再確認しましたね。
新ヒロイン、カーリーは「華」扱いで、そこにキャラクター性というものはほとんど見いだせません。
前作でミーガン・フォックスが女性をセクシャルなシンボルとしてしか描いてないとコメントして、マイケル・ベイとの仲が険悪になったというのもわかります。
主人公のサムですら、人物の描き方としてはかなり浅い。
サムとカーリーの間の愛情、サムとバンブルビーの友情、オプティマスの失意など、感情を描く要素としては盛り込まれていますが、ほとんどさらりと触れるだけ。
この監督に人間ドラマを求めても仕方がないのでしょうね。
そこは割り切って観るべきでしょう。

やはりこの監督が一番興味があるのは映像なのですよね。
そういう点では、本作は最後のシカゴの決戦に突入してからの映像についてはかなり見応えがあります。
CGもいままでもかなり表現の豊かさがでており、背景や人物は自然光の中での合成、また激しくカメラが動く演出にもかかわらず、まったくロボットたちは違和感なく画面に溶け込んでいました。
今回はこういうリアルな空気感の中に、ロボットたちがいるという現実感にこだわっているような気がしました。
ロボット同士のバトルの演出についても前作の反省を踏まえていたように思います。
前作「トランスフォーマー/リベンジ」はたくさんのロボットが乱れ飛んでいる中で激しく動き、変形し、
戦うということを描いていました。
一作目で一つのロボットが変形するということだけで驚いていた観客を、物量で圧倒しようとしたのだと思いますが、これは逆効果で、観客はあまりにも画面に映し出される情報量の多さとスピードの速さに、処理が追いつかなかったというのが実情であったと思います。
正直僕はそうで、なんだか画面でごちゃごちゃといろんなもんが動いていてせわしないという印象をもちました。
ひとつひとつのパーツはものすごくこだわっているのだと思うのですが、全体でゴチャゴチャになり伝わらないといった感じです。
その点、本作は演出上の配慮がありました。
先ほど、「リベンジ」は情報量の多さとスピードの速さにより情報処理が追いつかなくなったと書きましたが、本作はこのうちのスピードの速さをコントロールしてました。
ここぞという瞬間にはスローモーションを使うということです。
例えば、サムを乗せたバンブルビーが変形し、爆発する車を避けながらサムを放り出し、またサムを回収し、また車の状態に戻るというところを本作ではスローモーションで見せてます。
見せ場をスローモーションで見せるというのは、香港のアクション映画でも古くからとられていた手法ですが、これが効果的でした。
ロボットのバトルシーンでは画面の情報量はやはりかなり多い。
ですがスローモーションにすることにより、観客の情報処理が追いつかなくなるということを回避しています。
情報処理が追いつくことにより観客は「おお、すごい!」と思う余裕ができるんですよね。
前作では「???何が起こってるんだ???」という感じでしたから。
もうひとつ懸念していたのは3D化でした。
つらつら書いてきたように本シリーズはものすごい情報量を処理することを観客に求めます。
そこに奥行き情報のような空間認識まで3Dで求めるとさらにわけがわからなくなるのではと。
その点も実は考慮されているような気がしていて、3Dにはなっているのですが、あまり派手に3Dにはしていなかったように思いました。
あくまで自然に、という感じの印象です。
ですので、よくある3D映画の観にくさというのはそれほど感じませんでした。
このあたりも配慮があったのでしょうか。

本作はストーリーとかドラマとかをはなから期待せず、映像のすごさだけを楽しみに行くスタンスで観賞するのが良いかなと思います。
そう考えると、前半はもう少しコンパクトでもよかったかな。
どうせドラマを描くつもりはないんだったら。

「トランスフォーマー」の記事はこちら→
「トランスフォーマー/リベンジ」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (12) | トラックバック (82)

2011年7月26日 (火)

「神様のカルテ」 迷え、悩め

昨日、完成披露試写会に行ってきました。

栗原一止(櫻井翔さん)は松本の地方病院に勤める内科医です。
この病院はそこそこの規模ではありますが、緊急外来を受け付ける24時間体制であり、患者の数に比べ、圧倒的に医師の数が少ない状態になっています。
一止を含め、医師たちは何日も徹夜で診療をするという過酷な現場を毎日過ごしています。
そのような中、一止は最新鋭の設備を持つ大学病院からその才能を認められ、研究をしないかと誘われます。
大学病院ならば最新鋭の医療技術を研究することにより、将来多くの患者を救えるようになると。
同じ時、一止の元にある末期ガンの女性が訪れます。
その女性はどの病院でも治療はかなわないと匙を投げられ、その最後のときを迎えるにあたり、一止の病院を訪ねたのです。
救う方法のないその女性と向かい合う中で、一止はひとりの人間が満足な人生であったと感じてもらうことも医療にとって大事ではないかというようにも思います。
最新の研究をすることにより、将来多くの人の命を救おうとすること。
今、目の前の患者に、その人にとって満足な人生であったと感じてもらおうとすること。
これはどちらが正しいとか間違っているとかの問題ではありません。
どちらも正しいのです。
だからこそ一止は迷います。
悩みます。
「僕はどっちに行ったらいいですか」
一止と思わず言います。

劇中で、ある仏師の話がでてきます。
その仏師は見事な仁王像を彫り上げます。
そのすばらしさに感嘆した人がその仏師に「見事な仁王像を彫り上げたものだ」と言います。
しかしその仏師は、「この仁王はすでに木の中にいたのです。私はそれを掘り出しただけです」と言ったということです。
この話は以前も聞いたことがあり、確か運慶の話だと思います(違うかもしれません)。
また自分がどうしていいか悩む一止と末期ガンの女性の間での会話でもこのような言葉を女性は一止にかけます。
「あなたの中にもう答えはある」
これは先の仏師の話に通じます。
自分が、自分にとって進むべき道というのは、実はもうすでに自分の中にあるのでしょう。
仁王像がすでに彫り上げる前の木の中にあるように。
迷い、悩むという行為は、木の中から埋まっている仁王、つまりは自分の中にある自分の進むべき道を掘り出すために必要なものであるような気がします。
目の前にある原木を見、どのようにノミをいれたらあるべき仁王を掘り出せるか。
人は自分の中から、自分の道を掘り出すために悩むのです。
「一度、止まると書くのね」
と老女は、一止の名前について触れます。
がむしゃらに前に前に進むことばかりがいいことではないのかもしれません。
一度止まってみて、自分の進むべき道について悩む。
考える。
それは必要なことではないかなと思いました。

僕自身も一度すごくどうしていいかわからなくて立ち止まったことがありました。
そこでほんとに死ぬほど考えました。
悩みました。
悩み抜いた上で、自分の生き方というか、進み方みたいなものが見えたと思ったのです。
そうしたらまた前を向いて進めるようになりました。
なんとなく自分の進む道みたいなものがイメージできたのですよね。
そりゃまだまだ日々細かいところは迷うことはたくさんあります。
でも悩むこと自体はあまり恐れなくなりましたね。

一止を支える妻、榛名(宮﨑あおいさん)もよかったです。
あからさまに支えるという感じではなくて、ずっと榛名は一止のことを見てあげている。
悩める一止のことを無条件に受け入れてくれる。
彼にとって榛名がいてくれる場所があるということ、毎日かえっていける場所があるということがとても大きなことであったに違いありません。
ふたりの間でかわされるちょっと古風な言い回しが素敵でした。

原作小説「神様のカルテ」の記事はこちら→ にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (40)

2011年7月24日 (日)

本 「メディアと日本人 -変わりゆく日常-」

僕の仕事は広告などの企業コミュニケーションです。
ですので、この10年のメディアの変容については目の当たりにしているわけで、そのあたりがこの本ではうまくまとめられていると思いました。
インターネットの広告費がついに新聞を抜き、テレビ広告に次ぐ広告媒体となりました。
新聞、雑誌の部数や広告費の落ち込みは顕著です。
ただそれにより、時々言われるような「インターネットに広告を全面的にシフト」等ということが正しいかというとそれはないと思っています。
この本でも書かれているのは、インターネットというメディアは情報の発信・受信場所として新しい窓口が開いたということであり、そこで流されている情報の多くは既存のコンテンツの転用であったりするわけです。
僕の最近の広告メディアの戦略にはメディアの多様性とそれぞれの特徴を理解し、適切なタイミングでそれぞれのメディアに合った内容を、発信していくというのが基本の考え方にあります。
テレビ広告にはその良さがあり、また新聞広告にはその良さがあり、そしてインターネットによるコミュニケーション(あえて広告と言いませんが)にも良さがある。
その良さをすべて兼ね備えているメディアは今のところ存在せず(インターネットでさえ)、ですからメディアミックスを基本にしなくてはいけないと考えています。
ただこのメディアミックスを行うには、さきほど書いたようなそれぞれの特徴を理解していなければなりません。
新聞広告は使えないと世間で言われて久しいですが、うちの会社ではひとつの大きな柱となっており、実際に効果があることが証明されてます。
これはどの会社にもそのまま使える戦略では当然のことながらありません。
それぞれのコミュニケーション担当者がメディアを理解し、自分たちの伝えたいことを伝えるにはどのような方法を駆使すればいいかをそれぞれが考えなければいけないでしょう。
そのためにメディアの現状を理解するには、本著は役に立つと思います。
「これからはインターネットの時代」とか「いやマスメディアはまだまだいける」とかいろいろな意見はありますが、それらをフラットにデータから見たメディアというものを冷静に見たうえで、どのように使っていくかを考えるべきだと思います。

「メディアと日本人 -変わりゆく日常」橋元良明著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431298-7

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月23日 (土)

「忍たま乱太郎」 三池流子供向け映画

ロングランのテレビアニメがあるというのは知ってました。
ただし観たことはありません。
忍者のたまごだから「忍たま」なのですね。
本作は子供向けのアニメの実写版ということなので、普通だったらスルーするところ。
しかーし、監督に三池崇史の名前が!
三池監督ラヴァーとしては観に行かないわけにはいきますまい。
ということで初日から行ってきました。

観終わった感想としては、おもしろかったです。
基本的には子供向けではあるんですけれど、十分楽しめます。
というより、三池監督流に子供向けということにこだわったという感じがしました。
子供向けの映画というと、なんとなく「清く、正しく」なければならないという感じがあります。
けれどもそれは大人が子供に見せたいものということで、それを子供が観たいかというと別のことだったりします。
本作は三池監督が「子供ってこういうの好きだよね」っていうのを素直に考えて、そのまんま撮っているという感じでした。
その点において余計なリミッターをつけていない、やり過ぎと言われるくらいやってしまうというのが、三池監督らしさがでていて良かったです。
変に題材になびかないところが三池さんらしい。
具体的には「好きだよね」っていうのはどこかというと、まずは「うんち」ネタ、「おなら」ネタ等、きったないものネタです。
ぶっちゃけ子供(特に男子)というのは「うんち」ネタ、「おなら」ネタが好きなんですよね。
自分も子供の頃、そういう話を学校でゲタゲタ笑ってましたもんね(女子には白い目で見られましたが)。
「うんち」は思いっきり大画面に映していて、三池監督のその潔さに驚きました。
PTAや教育委員会からは「子供に見せたくない映画」として選ばれそうですが、そんなことは気にせずに「子供が好きなもの」っていうのに素直に考えているんですよね。
あと子供が好きなのは、繰り返しネタですよね。
子供っておなじことを何度やっても、ツボにはまってしまえば、何度でもケタケタ笑うんですよね。
今回で言うと、八宝菜が笑ってひっくり返るネタ、土寿烏(どすからす)の浣腸ネタなどなど。
これも自分が子供の頃のことを思い返すと、「8時だよ!全員集合」のドリフのネタなんて毎回同じことやってたのに、それがおかしかったりしたんですよね(そう言えば「全員集合」も子供に見せたくないテレビ番組としてやり玉にあがってましたねぇ)。
基本的に子供は繰り返しネタは大好き(特にお下品なのは)。
このあたりも三池監督、しつこいくらいにやってます。
つまりはこの映画は三池監督が真剣に子供を笑わせてやる、喜ばせてやるということを考え、真摯に取り組んだ作品ではないかと思うのです。
親や先生のことなんか関係ない、子供がゲタゲタ笑えばそれでいいというような感じではないでしょうか。
子供向けだからといって、ソフトにしたりというような妥協をせず、いつものように過剰なまでの演出をするのが三池監督らしくて嬉しかったです。
さすがにみなさんにお子さんといっしょに是非どうぞとはオススメしませんが(笑)。

「十三人の刺客」、本作「忍たま乱太郎」、カンヌのコンペに出品した「一命」と、このところ三池監督は時代劇づいてますよね(本作を時代劇と呼ぶかというのはありますが)。
時代劇でありながら、それぞれテイストが違い、でも三池監督の刻印がちゃんと押されている。
すごいですよね。
「一命」も早く観たいです。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (8) | トラックバック (25)

「コクリコ坂から」 淡々と物語がすすんでいく

「ゲド戦記」の宮崎吾郎監督の久しぶりの作品。
前作品から5年ほど経っていることになります。
以前鈴木プロデューサーのインタビューを読んだ時、ジブリは元々は宮崎駿監督の作品を作るために立ち上げたが、今は大所帯にもなり、作品を作り続けなくてはいけない、そのためには次世代の監督にも作品を作っていかなければならないといったようなことをおっしゃっていました。
それが昨年の「借りぐらしのアリエッティ」の米林監督であり、本作の宮崎吾郎監督であるのでしょう。
米林監督は大抜擢でしたが、宮崎駿監督とは異なる個性を出したところで評価が高まったのはみなさんご存知のところです。
そしてもうひとりの次世代監督である宮崎吾郎さんですが。
以前「ゲド戦記」のレビューを書いたときも、どうもこなれていない感じ、熟成されていない感じという印象に触れたのですが、本作についても同様の印象を受けました。
物語が淡々と進んでいく。
それを観ている我々も淡々と観ている。
そして終わり、といったような感じ。
なんというか感情に触れる、感情が揺さぶられるということがどうもなかったんですよね。
たとえば空と俊がたがいに惹かれるところ、そして二人の親がいっしょで兄妹かもしれないとわかったところ。
ここは登場人物に感情移入していれば、もっと胸がキュとなってもいいところです。
けれどもそれを外から淡々と眺めているというような感じなのです。
「借りぐらしのアリエッティ」でもアリエッティと翔はたがいに恋愛のような感情を持ちますが、そのあたりはなんだか共感できたのですよね。
あまりに物語を客観的に描くあまりにどうもキャラクターへ感情移入することなく、物語が進んでいってしまったという感じがしました。
このあたりのキャラクターのエモーションをうまく伝えられないというのは、けっこう監督としては厳しいところがあるのかなと思いました。

「ゲド戦記」のレビューはこちら→
「借りぐらしのアリエッティ」のレビューはこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (75)

2011年7月18日 (月)

本 「バウドリーノ」

「薔薇の名前」のウンベルト・エーコの作品です。
ウンベルト・エーコはそもそも記号論の学者です。
「薔薇の名前」は学生の時に読んだのですが、シンボル、メタファーなどが満載だったりしたため、かなり難解で読み進めるのにかなり難儀した記憶があります。
その後、「フーコーの振り子」も読みましたが、「薔薇の名前」ほどではないにせよ、読むにはそれなりにエネルギーがいる作品だったように記憶してます。
本作「バウドリーノ」は久しぶりのウンベルト・エーコの小説ですが、先の二作品の印象が強かったので、読むのにもそれなりに覚悟が必要でした。
けれども読みはじめると、それほど読むのがしんどいというところはありませんでした。
どちらかと言えば、本作の方がより小説らしいというか、登場人物がイキイキとしているように思いました。
当然、エーコですので歴史的な要素や象徴・シンボルのような点は出てくるのですが、それほど前作ほど難解ではありません。
それこそ流して読んでも問題ないかなと。
本作は、伝説や言い伝えられて真実だと思われていることは、誰かの捏造である可能性があり、始めは嘘であったことも、いつしかそれは信じられることにより、真実と化していくということを描いていると思いました。
記号論の専門家であるエーコということを考えて読むと、シンボルというものは意味を与えられてこそそれは機能する、さらにはそれは信じられてこそその機能は持続するということでしょうか。
いまでもヨーロッパの教会などにある聖遺物なども、そもそもは誰かの捏造である可能性が高い。
けれどもそれらは信じられることによりまさに聖遺物となるわけです。
そのものがどうこうという話ではなく、それにまつわる意味合いが信じられることこそがその存在価値になるわけです。
まさにものに込められたストーリーということでしょう。
このあたりは現代で言えば、ストーリー・マーケティングということになるのかもしれません。
そう考えるとこういうことを人間はかなり昔から繰り返しやってきたということなのでしょうね。

「バウドリーノ<上>」ウンベルト・エーコ著 岩波書店 ハードカバー ISBN978-4-00-024427-5
「バウドリーノ<下>」ウンベルト・エーコ著 岩波書店 ハードカバー ISBN978-4-00-024428-2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月16日 (土)

「スカイライン -征服-」 大作を気取った独りよがりなインディペンデント

異星人による地球侵略というのは、それこそ「宇宙戦争」の頃より続く映画の定番題材と言ってもいいでしょう。
「E.T.」の影響からか一時期は友好的な異星人が隆盛となり、一時期は異星人侵略自体が古典的な題材に見えた時期もありましたが、特殊効果をふんだんに使って迫力のある映像を見せた「インディペンデンス・デイ」のヒットにより、現代でも通じる題材であることを再認識され、いくつもの同様のテーマの作品が作られました。
スピルバーグの「宇宙戦争」、侵略ではないですが「第9地区」とか「クローバー・フィールド」もその範疇しに入れてもいいかもしれません。
他にもあまたの似たような作品があります。
けれどもやはり「インディペンデンス・デイ」のインパクトは相当に強く、どうしてもその亜流と思われるようになりやすいのも確かです。
大都市の上に巨大UFOというビジュアルはそれだけセンセーショナルだったのですよね。
スピルバーグの「宇宙戦争」や「クローバー・フィールド」などは異星人との攻防の全体を描くのではなく、登場人物周辺の出来事というミニマムな描き方をすることにより、亜流となることを巧みに避けてます。
本作も予告やポスターなどで用いられたメインビジュアルは大都市の上の巨大UFOでした。
これはわかりやすい記号ではあるのですが、やはり「インディペンデンス・デイ」のイメージが甦ります。
ただ本作も亜流とならないような工夫はされており、侵略者のUFOは機械ではなく生物であるということ、侵略の方法も都市を破壊するという物理的攻撃ではなく、人を捕獲(「宇宙戦争」とかぶるけど)となっています。
また基本的には主人公周辺で起こる出来事を追っている形式になります(これはおそらく予算的な側面が大きいと思いますが)。
そのように工夫は見受けられるのですが、結果的にはどっちつかずのまとまりのないお話になっているというのが残念なところです。
個人的にはまったくもっておもしろくなかった作品でありました。
まず主人公中心のミニマムな話にするならばそのようにすればいい。
「インディペンデンス・デイ」を思わせるようなビジュアルを使ったためか、ミニマムな話なのか、それとも大きなスケールの話に展開するのかがよくわからないまま最後までいってしまいます。
このあたりは「宇宙戦争」などは徹頭徹尾、侵略者がどうこうという話を描かない分、潔さを感じます。
予算がなくてミニマムな話にしなくてはいけないなら、「クローバー・フィールド」のようにわりきってそうすればよろしい。
それでもおもしろい作品は作れます。
ミニマムな話にするには登場人物たちが、それほど魅力がないのが厳しい。
またこの作品はへんに侵略者側の設定を描こうとするあたり(特に最後の方)が余計で、作る側の狙いがよくわかりません。
今までの侵略ものとは異なる設定を説明したかったのかもしれないですが、それであるならば徹底的に異星人側を描かなければ中途半端です。
他にも主人公が特殊能力を持ちそうだか持たないんだかよくわからない中盤、そして侵略者に囚われてからの最後も、なんだか話をどちらに持っていきたいのかがよくわからない。
いや展開は読めなくてもいいのですけれど、ある程度空気のようなものが通じてこないとどこで盛り上がりを感じるべきなのかがわからないんですよね。
なんか独りよがりの自主映画を見せられている気がしました。
ラストなども「へ、これで終わり?」って感じです。
ジャロッドが異形になりながらも恋人の命を守ろうとするヒーローものになるような、シフトチェンジ。
何がこの映画はテーマなのだろうと思ってしまいます。
なんとなく今までの侵略映画とは異なるアイデアが浮かんできたのを無理矢理くっつけたというような違和感を感じました。
インディペンデントの割にがんばって特殊効果をやった作品ということなのですが、どうも大作を気取った独りよがり感が強くてどうも僕は馴染めませんでした。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (32)

本 「長崎殺人事件」

内田康夫さんの浅見光彦シリーズの一冊。
いつも通りと言えば、いつも通りの旅情ミステリーとなっています。
今までも書いていますが、内田康夫さん作品の特徴というのはするすると読める読みやすさでしょう。
がっつりとしたミステリーファンにはあまりにも歯ごたえがない作品だとは思いますが、本を読み慣れない方が、それこそ旅行のついでに乗り物の中で読むにはちょうどいい本かとは思います。
行きと帰りくらいで読み終えてしまうような感じですから。
個人的にはやっぱりもの足りないんですけれどね。
内田さんは推理小説作家としては珍しく、プロットを決めずに書き始めることで有名です。
それで一応最後は帳尻を合わせるところは、職人芸と言えるでしょう。
本作の場合で言うと、犯人についてはやや突然感があったのは否めません。
また最初の方で重要そうだと思っていた人物が後半に存在感がなくなってしまうことがあるというのも内田作品ではよくあります。
このあたりは流れにまかせて書いているというところもあるのでしょうが、もの足りないと感じる一因かも知れません。

「長崎殺人事件」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN4-04-160741-8

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月15日 (金)

「127時間」 自分と向きあった127時間

正直、観ようか観まいか迷った作品です。
「スラムドッグ$ミリオネア」のダニー・ボイル作品ですから見たいという気持ちはあったのですが、僕は痛いシーンがある映画を観るのがとっても苦手で・・・。
主人公アーロンは誰にも告げずに荒野のトレッキングに向かいます。
そこでアクシデントにより腕を岩にはさまれて身動きできない状態になってしまいます。
水や食料も次第に尽きていくなか、アーロンは大きな決断をする・・・。
っていうのが、予告で流れていた内容ですが、「大きな決断」ってやっぱりあれだよね。
ああしちゃうんだよね・・・。
それって痛いよね・・・。
っていうことでずっと二の足を踏んでいたのですけれど、作品自体は評価は高いのでやっぱり観ようと意を決して観に行きました。

観始めてしばらくして後悔し始めました。
痛いっていうことだけでなく、けっこう観ていてアーロン同様にけっこう精神的に追い込まれます。
暑いからではなく、脂汗が出始めました。
おもいっきりアーロンに感情移入して観てしまいました。
アーロンが岩に腕をはさまれてから、どうしようもない状況に彼には様々な感情がわき起こります。
戸惑い。
怒り。
冷静。
呆然。
自嘲。
そして、諦観。
それは自分でもアーロンと同じような状況になったらたどると思われる感情の流れでした、
ですから観ていてけっこうキツかったのですが、眼を離せないというかそんな感じがありました。
そしてアーロンは一人岩にはさまれた状況の中で、いくつかフラッシュバック、そしてビジョンを幻視します。
それは幼き頃の家族とのこと、恋人とのことであったりします。
けれども家族や恋人や周りの人との関わりよりも、彼は個人でいること、自分らしく生きるということを優先して生きています。
これは少なからず自分にも当てはまるようなところもあり、このあたりがアーロンに感情移入をしたことに繋がったのかもしれません。
しかし、身動きできず誰とも接触できず、誰にも知られないまま死んでしまうかもしれないという恐怖と向き合った127時間は、彼に自分自身と、その人生そのものに向き合う時間を与えてくれました。
よく考えてみれば自分自身と向き合う時間というのは、普段の生活でそうそうあるものではありません。
正直言って自分でもありません。
いつの間にやら、独りでいることも慣れてしまったり、それが快適であったりと感じたりするわけです。
けれどいつかは弧であることを後悔するときが来るのかもしれません。
アーロンは自分と向き合う時間の中でそれを感じました。
しかし、自分の生き方を振り返る中でこうなったは自分のせいという思いから、さらにはこうなったのはある種の運命と感じるようなります。
そこでいったん諦めの境地にいくのですが、さらに彼は過去への思いだけでなく未来への思いのほうに心が動いていくのです。
その幻視の中で見えたビジョンが、彼自身と少年が遊んでいる様子でした。
それは生き抜けば将来得られるかもしれない息子の姿であると彼は感じたのでしょう。
自分自身はいつまでも弧ではない、いつか愛情を注げる者を手に入れられるのだというふうに感じたのですよね。
だからこそ、彼はああいった決断ができたのでしょうか。
例の痛いシーンはやはり僕としてはかなりキツかったのですが、それよりもやはり自分自身に向き合わされる感じのほうがキツかった。
いろいろ考えてしまいますね・・・。
このままじゃいけないとか。

本日夜に観賞したのですが、アーロンがバキッといくところで、まったくぴったりのタイミングでグラリときました。
一瞬、自分自身が映画のアーロンに感情移入しすぎて、自分が目眩をしたのかと思ったら、劇場が大きく揺れていました。
地震だったんですね・・・。
ちょっと動揺しましたよ、あまりにタイミングがあっていて。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (13) | トラックバック (63)

2011年7月10日 (日)

「ガメラ2 レギオン襲来」 主人公は怪獣ではなく、人間

平成ガメラ三部作の中でどれが一番好きかと言われたら、迷わずこちらの作品「ガメラ2 レギオン襲来」と言います(ちなみに次は一作目の「ガメラ」で、3作目の「イリス覚醒」はあまり好きじゃない)。
一作目は先日の記事でも書いたように衝撃的であって好きなのですが、やはり一作目であるがゆえに世界観の説明にはある程度要素と時間を割かないわけにはいきません。
その点、二作目である本作はそのような世界観の提示は必要ありませんので、怪獣映画としての見せ所がしっかりたっぷりとあります。
余計な説明なく冒頭からレギオンは襲来しますし、札幌、仙台、前橋とレギオンVSガメラの戦いがたっぷりと堪能できます。
けれども。
本作「レギオン襲来」の見所と言えば、レギオンVS自衛隊(というか人間)でしょう。
怪獣映画と言えば、自衛隊や防衛軍というものは、どれだけ怪獣が強いかを示すための、いわゆるやられキャラ。
そして怪獣から逃げ惑う人びとは背景でしかありません。
けれども平成ガメラシリーズでは自衛隊はしっかりと仕事をしてくれます。
先般の「ガメラ 大怪獣空中決戦」の記事でも書いたように、脚本の伊藤和典さんは実際にこの日本に怪獣が現れたらどのように対処するのかと点についてシミュレートをします。
本作では特に自衛隊がどのように怪獣に対して行動を行うかというのが描かれます。
というよりも怪獣という存在に対して、日本人はどう対処するかというのが描かれていると言ってもいいかもしれません。
相手は宇宙怪獣ですから、自衛隊の装備ではいかんともしがたい。
しかしそれでも自衛隊をはじめとして登場人物たちは、なんとか対処しようとします。
彼らがあるのは現代の普通のテクノロジーしかないのですが、その中で対応しようとする振る舞いが非常にリアルに感じます。
どうしても怪獣映画では、主人公以外の人間という存在は矮小化されてしまうものですが、本作ではそういうことはありません。
ある種、本作はガメラやレギオンといった怪獣ではなく、人間というか日本人が主役であるような気もします。
ガメラやレギオンといった存在は普通の人間ではどうしようもない、いわば災害のようなもの。
それに対して前向きに対応しようとしている人間を描いているような気がします。
レギオンの襲撃により本作では仙台市が壊滅します。
それはなにか今年の震災のようでもあり、本作でレギオンの襲来に対応しようと努力する姿、またガメラ復活を祈る姿は、そのまま震災への対応、そして復興への努力をする日本人の姿に重なります。
特に一度はレギオンに倒されたガメラが人びとの祈りで復活する様は、今観るとまた別の印象を受けますね。
そういう意味で本作は怪獣映画でありながら、人間が主役という映画と言っていいでしょう。
映画としては永島敏行さん演じる渡良瀬や、水野美紀さんの穂波が主人公なのでしょうが、彼らはレギオンに対処している人びとを切り取っただけとも言えますね。
人間を描いているという点で好きな場面は、今は亡き小林昭二さんの空自の武装担当の自衛官のシーンですね。
「今度こそ守ろうや」のセリフは泣けます。
渡辺裕之さん演じる陸佐が、レギオンを撃退した時に見せる笑顔のシーンも好きです。
この登場人物は一作目にも登場して、ギャオス迎撃の指揮をとりますが、ギャオス撹乱により放ったミサイルで東京タワーを破壊してしまいます。
おそらく彼はそれを悔やんだことでしょう。
だからこそレギオンを撃退できたときに重荷がとれたように笑顔を浮かべたのだと。
こういった場面はほんのワンシーンですが、先に書いたようにやはり本作の主人公は人間ということが現れているのではないかと思います。
最初に「イリス覚醒」があまり好きじゃないのは、話が大きくなってしまったため、人間というものがやはり矮小化されてしまって描かれているためでしょうか。

もちろん本作でも樋口特撮は冴えに冴えまくってます。
やはり大好きなシーンは群馬の防衛ラインをレギオンが突破しようとしたときにガメラが飛行形態から着地、横滑りしながら火球を連続発射するところですね。
ここは鳥肌がたつくらいにかっこいい。
飛行形態のガメラが一瞬ビルの陰に隠れ、姿が見えると着地していて横滑りし、そのまま火球を発射。
これは1カット。
唸ります。
横滑りしたガメラが止まるところは、それまでの横慣性があるので上半身が揺らぐなんていう細かい演出もされてたりして。
このシーンはそれまでの特撮にはなかった類いのもので、かなりアニメ的なセンスで作られた場面だと思います。
これは特撮、アニメの影響をハイブリットに受けた樋口特撮監督ならではのセンスでしょうね(このああたり「エヴァンゲリオン」の庵野監督もいっしょ)。

うーんやはり「ガメラ2」はいいなぁ。

「ガメラ 大怪獣空中決戦」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (2) | トラックバック (4)

2011年7月 9日 (土)

「アリス・クリードの失踪」 愛と嘘と疑心暗鬼

いやいや、圧巻でした。
ミニマムな作りながらも、全編まったくたるむことなく、最後まで緊張感がある作品です。
これを長編デビューの新人監督が撮っているというのが驚きです。
緊張感といっても過剰感があるものではなく、どちらかと言えば抑制された、低温度な緊張感がずっと続くといった感じでしょうか。
物語がどのように展開するかわからないといった油断できない感じがあります。
これは同じイギリス人監督のダニー・ボイルにも通じるようなところもありますね。

登場人物は、誘拐犯の中年の男と若い男、誘拐された(やさぐれ感のある)令嬢のみ。
三人の関係性は誘拐犯と誘拐された女というものであったのですが、これが物語の中で大きく変容する箇所が二カ所ほどあります(これを買いてはネタバレになってしまうので書きませんが)。
その登場人物の関係性の変容に伴い、この物語が見られる角度もまたぐっと変わるんですよね。
このあたりが、映画自体はミニマムながらも、ダイナミックな感じを受けました。
派手な設定、有名な出演者でダイナミックさをだすアメリカ映画とは違う、イギリス映画の強かな感じが出ています。

登場人物はそれぞれに「愛」という言葉を口にします。
しかし、その言葉に反した行動もします。
それは己自身を守るという生存本能ゆえであったり、また欲であったりもします。
実は「愛」という言葉を口にしたときの気持ちはそれぞれに本心であったかもしれません。
けれども、どの気持ちがそれぞれの登場人物の本心なのか、結局は観ている側もわかりません。
「愛」は本心なのか、それとも「嘘」なのか。
登場人物たちが、他の人物に対して抱く疑心暗鬼と同じものを、観客たちも感じます。
もしかすると登場人物たち本人も、自分自身の気持ちのどれが本当なのかわからないのかもしれません。
さらに言えば、人というものは自分の本心とは何なのかわからなかったりするのかもしれないなとも思ったりします。
結局は人は多かれ少なかれ疑心暗鬼というものを持たないわけにはいかず、それを極端に表現したのが本作なのであるのかもしれません。
このあたりの人の本質に触れているところがあるからこそ、本作は油断のなさ感をずっと孕んでいるのかもしれないですね。
それにしてもこれを監督デビュー作で作ってしまうJ・ブレイクソンはすごいですね。
期待の新人だと思います。
次回作はクリストファー・ノーランの脚本を映画化するのだそう。
うーん、早く観てみたい気がします。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (33)

2011年7月 8日 (金)

「マイティ・ソー」 普通の人になった超人

続々映画化されるマーベル・コミックの映画化作品の一つ。
アメコミはなかなか馴染みがない作品もあったりもしますが、「アイアンマン」とか「X-MEN」とかおもしろい作品が作られたりしているので、見逃せなかったりします。
日本人に馴染みがないアメコミ作品の中でも、本作は一段と馴染みがないでしょうね。
かくいう僕もそのひとり。
アメコミにしては珍しく、北欧神話をベースにしている作品です。
北欧神話というと、「サイボーグ009」の宇宙樹篇とか、「ファイナル・ファンタジー」で出てくるオーディンなどを通じてしか知らない・・・。
本作の主人公はソーという雷神ですが、知らないなあ。
と思っていながら原題を見たら「THOR」と。
日本語読みすると「トール」・・・、そう言えば「ファイナル・ファンタジー」にトールって召喚獣がいたような。
そう言えば雷属性だったよな、と納得。
本作の監督は意外なことにケネス・ブラナーを起用。
マーベルの映画化作品は、けっこう思い切った人選をしてきて、それが当たったりするので、ちょっと期待もしたりしました。
北欧神話をベースにしてるあたりは今までコスチュームものをいくつも手がけてるケネス・ブラナーに合っているかもしれないなと思いました。

かつて氷の巨人から地球を救った神々は人類の記憶の中に北欧神話として残っていました。
かれらは巨人を撃退した後、神々は遠く離れたアスガルドという王国に暮らしていました。
ソーは、アスガルドの王オーディンの息子であり、その後継者とみなされていました。
けれどもソーは血気盛んな若者であり、アスガルドを襲ってきた氷の巨人たちのヨトゥンヘイムを仲間たちと襲撃します。
しかし、これが平和をめざすオーディンの逆鱗に触れることとなり、ソーはミッドガルド=地球へ、その能力も奪われ追放されてしまいます。
アメコミに限らず、多くのヒーローものは<普通の人間→超人>という変身・変化があります。
「スパイダーマン」や「ハルク」などはまさにそうですし、「アイアンマン」はテクノロジーによるものですが、超人化と言っていいでしょう。
最近のヒーローものは変化することによる、ヒーローの内面を深堀することでドラマとしても見応えがあるものになっていたと思います。
「スパイダーマン」は特別な能力を持つ者の義務をピーターが自覚していく過程がドラマとなっていますし、「ハルク」は野獣化する己へのブルースの恐れを描いています。
すなわち普通の人間が超人化し、特別な能力を手に入れたことによる戸惑い、恐れ、また傲慢という気持ちにさらされた主人公が、またいかに普通の人間としての気持ちを持つことができるかというのが大きな流れであったと思います。
本作「マイティ・ソー」がユニークだなと思ったのは、先に上げた作品とは異なり<超人→普通の人間>という逆の過程を描いているということです。
この過程の中で、神としての能力を奪われたソーが、自身の慢心を自覚し、より超人として、王としての自覚に目覚めるということが描かれます。
作品の構造としては興味深いと思ったのですが、作品としてそれがうまく表現できているかというと実はそれほどうまくいっていないです。
地球に追放されたソーが、能力を失い、ジェーンという女性に出会い、変わっていく過程が、それほど深く描かれていないんですよね。
ここはもっと深く掘ったほうがよかったのではと思いました。
確かにソーを演じるクリス・ヘムズワースは、前半の子供のようにやんちゃなところから、ジェーンに出会い気持ちを許したときのとてもやさしい眼、そして力を持つものとしての自覚が目覚めたあとの表情などとうまく演じていたと思います。
ただそれをもっと丁寧に拾ってあげてもよかったかなと思いました。
あまり慣れていないからかケネス・ブラナー監督によるアクションシーンもアメコミ映画としてはそれほど迫力あるものではなく、アクションとしての見応えはいまいち。
ならばやはりソーの変化をしっかりと描いてほしかったなと。
題材としてはおもしろいものではあったと思うのですが、どうも未消化感を感じました。

マーベル作品恒例のエンドロール後のおまけ映像もありますので、席は立たないように。
2作目も作る気満々ということかな?
劇中ででてきたデストロイヤーというロボットみたいなものを見て、シールドのメンバーが「あれはスタークのか?」「いや、聞いてない」と言うのがちょっとおもしろかったです。
あんなロボット見たら、アイアンマンのシリーズかと思いますよね。

あ、あとこの作品も3Dでなくていいです。
通常版も公開して選べるようにしてほしい・・・。
なんでもかんでも3Dっていうのはいかがなものかと。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (10) | トラックバック (71)

2011年7月 3日 (日)

本 「トランスパーソナル心理学入門」

タイトルの「トランスパーソナル心理学」の「トランス」とは超えるという意味です。
すなわち「トランスパーソナル」とは個人としての自分を超えるということです。
人生の悩みというのは「自分探し」「自己実現」という言葉からもわかるように、ほんとうの自分とは何かというところが根源だったりします。
「トランスパーソナル」という考えは、そもそもの「自分」というものに執着するのではなく、「自分」が他のもの、それは人であったり、ものであったり、それこそ地球や宇宙だったりするのですが、そういうものと繋がっているということを認識するということだそうです。
この著書の中でも触れますが、仏教の「色即是空 空即是色」にも近い考え方ですね。
個人的には理屈というか、論としてはわかるのですが、何と言いましょうか、感覚的にはしっくりいかないようなところもあります。
自分と地球は一体といったことというのは、思想としては理解できますが、感覚的には感じられないというようなところですね。
ただ、自分というものに執着しないほうがいい、また「自分探し」といったようなものというのは、あまりしないほうがいいかというのはわかります。
「自分」というものに執着するから苦しむというのも。
これは個人的な体験からしてで。
自分そのものを、外側からみる自分(本著ではBig I(ビッグ アイ:アイは自分))が、「自分は今こういう気持ちなのだ」「自分は今これで悩んでいるんだ」と認識することは大事です。
それによって自分自身を理解でき、そうすることにより様々な悩みに対して向き合えるというのはあります。
個人的にはいままでけっこう辛い時期もあって、そういう中でもがいた中で手に入れた視点ではあります。
ある種、自分を客観視できるような視点なのですが、これがあるとけっこう楽になります。
なんだかわからなくて悩むよりは、悩んでいることを理解して悩むほうが圧倒的に楽。
こういう視座をさらに進むと「トランスパーソナル」な感じになるのでしょうか。
ただ自分はそこまでいかないような気もします。

「トランスパーソナル心理学入門」諸富祥彦著 講談社 新書 ISBN4-06-14965-1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

仮面ライダーフォーゼ!

「仮面ライダーOOO/オーズ」もいよいよ佳境になってきましたが、次の新ライダーが発表されました。
それは「仮面ライダーフォーゼ」。
平成仮面ライダーは毎年そのデザインの初見のときは驚くのですが、今回も驚きました。
これはスカイゼルでは?
(ちなみにスカイゼルとは「宇宙鉄人キョーダイン」という石ノ森章太郎原作、東映製作の特撮番組に登場する主人公キャラクター)
フォーズの頭の格好はロケットのよう。
それもそのはず、今回の「仮面ライダーフォーゼ」のひとつの切り口が「宇宙」ということなので、そこから「ロケット」モチーフが出てきたのでしょう。
あと今回の「仮面ライダーフォーズ」は学園ものとなるということ。
本作の東映のプロデューサーは「仮面ライダーW」を大ヒットさせた塚田秀明さん。
「W」では探偵もの、その前のスーパー戦隊シリーズでは「デカレンジャー」で刑事もの、「マジレンジャー」でファンタジーもの、「ゲキレンジャー」でカンフーものと、一見異質の題材を「スーパー戦隊」「仮面ライダー」というフォーマットに取り込んでいくのは、実績のある方です。
ですので、今回の学園ものという切り口もおもしろくなるに違いないと、期待したいですね。
「フォーゼ」という名前は「メタモルフォーゼ」からきているのでしょうか?
そうするとフォームチェンジもいろいろありそうですね。
またベルトがコンパネ風になっていて、4つほどレバーなどがついているので、4=フォーとも関わりがありそうな気も。
4つくらいは最初からフォームチェンジが用意されていそうな気がします。
ロケット風にフォームチェンジして飛んだりしそう。
あとメイン監督が坂本浩一監督であるのも見逃せません。
坂本監督は「W」の「運命のガイアメモリ」で怒濤のアクションを見せてくれました。
テレビシリーズでアクションも一段次元の高いものが期待されます。
坂本監督なので、キャストの生身のアクションにもこだわるような気がします。
脚本のメインは劇団☆新幹線の中島かずきさん。
中島さんは「W」でも脚本をいくつか担当していますが、「仮面ライダー」に新風を注いでくれそうな気がします。
こちらのブログで何度も書いているように「平成仮面ライダー」は変革こそがエネルギー。
大胆にチャレンジするこの姿勢で新しい「仮面ライダー」を作ってほしいです。

2号ライダーはぜひグランゼルモチーフで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ジュリエットからの手紙」 愛は決して遅すぎることはない

このところ出演作が相次ぐアマンダ・セイフライド主演のラブストーリーです。
「赤ずきん」の記事では彼女の作りな顔立ちはああいうファンタジー的な物語によく合うと書きましたが、こういう現代劇でもいけますね。
イタリアのヴェローナ市には「ロミオとジュリエット」の「ジュリエットの墓」があります。
こちらには多くの観光客が訪れ、そしてそこにジュリエットへメッセージを書き残す人がいるということです。
そしてヴェローナ市のボランティア団体は、そのメッセージを書いた方にジュリエットとしてメッセージを送るそうです。
なんとも粋な計らいですよね。
ジュリエットの墓へメッセージを書く人は、おそらくそれぞれが悩みや苦しみを抱えているのでしょう。
メッセージを書くということは、そういう気持ちに向かい合うきっかけになり、癒しに繋がります。
日本だったら個人情報が云々ということで、到底同じようなことはできないと思いますが、さすがイタリア人情緒がありますね。
本作はこのジュリエットへのメッセージが元になってます。
そうそう原題は「Letters to Juliet」で「ジュリエットへの手紙」なんですが、邦題は「ジュリエットからの手紙」になってますね。
なんででしょう?

主人公ソフィは婚約者との旅行でイタリアの街を訪れます。
そこでふとしたきっかけで「ジュリエットの手紙」を各ボランティアと出会い、そして50年前にジュリエット宛に出されてメッセージを発見します。
メッセージにはクレアというイギリス人女性が、イタリアで出会い愛し合ったロレンツォという男性といっしょに駆け落ちしようとするが、勇気がなくてイギリスへ帰ってしまうことの悩みが綴られていました。
ソフィは、クレアにジュリエットの秘書として手紙を送ります。
そして数日後クレアは孫のチャーリーと共にヴェローナを訪れ、ソフィはいっしょにかつてクレアが愛した男ロレンツォを探す旅をすることになります。
とてもロマンティックな話でしたね。
脚本のセリフが良かった(日本語訳も良かった)です。
特にロレンツォのセリフは気が利いたものが多かったです。
「愛は決して遅過ぎることはない」
これは再会を果たしたクレアにロレンツォが言う言葉です。
クレアはまさに再会をしようとする時、自分が年をとり、ロレンツォを失望させてしまうのではないかと思います。
けれどロレンツォはクレアに対し「君は美しい」と50年前に彼女へ贈った言葉を言い、さらに「愛は決して遅過ぎることはない」と語りかけます。
確かにお互いに年をとったクレアとロレンツォですが、なぜか若々しく瑞々しく見えるから不思議です。
人は愛するということで、外見は年をとったとしても心はいつまで若くいられるということでしょうか。
ロレンツォの結婚式のスピーチで「朝に老人として馬に乗っていったが、10代の少年となって帰ってきた」いうのもありましたが、これも粋なセリフです。
さすがイタリア人、こういうセリフを言ってもさまになります。
ソフィがクレアに送った手紙の中の言葉も良かったです。
引用すると長くなるので省きますが、「もしあの時・・・」っていうのは誰しも思うことですよね。
そのときもう少し勇気があれば・・・と。
傷つくのが恐くて踏み出しきれなかったりしたことがあったりしますが、踏み出せなかったことでまた長い間後悔してしまう。
まさに本作のクレアがそうなのですけれども。
そしてクレアだけでなく、その言葉を書いたソフィ自身もその勇気があるかどうかを試されます。
ソフィは自分の言葉で勇気を与えられ、そして行動したクレアを見て、ソフィもまた勇気をもらったのです。
今は勇気がなくても。
ほんとうに愛があるのならば、また勇気をもって行動できることができるはず。
ロレンツォが言うようにやはり「愛は決して遅すぎることはない」ということなのでしょうか。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (45)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »