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2011年6月25日 (土)

「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」 真摯に、ひたむきに

すみません、ドラッカーの「マネジメント」も「もしドラ」も読んでません〜。
ついでにAKB48も、前田敦子さんもよく知りません〜。
そういう要素を除いてみると、本作は今時珍しいくらいの直球の青春スポーツものとなってます。
気持ちがバラバラだった野球部が、互いに認めあい、志を共に持ち、いっしょに戦い、勝利を収める。
まさに王道。
王道だからこそ涙腺に刺激がきちゃうというところはありますね。
バラバラだった野球部をまとめるきっかけとなるのが、新しい女子マネージャー川島みなみ(前田敦子さん)と、そして彼女が勘違いで購入してしまったドラッカーの「マネジメント」なわけです。
本作の中で引用されているように、マネージメントとは別に企業特有のものではなく、非営利団体にも適用することができます。
「もしドラ」はベストセラーになりましたが、どうしても「マネジメント」のようなビジネス本というと、なかなかとっつきにくいところがあり仕事のツールという感じがありますが、それを高校の野球部に適用して、解説するというのはなかなか眼のつけどころがいいと、本作を観てあらためて思いました。
顧客とは何か?
組織目標とは何か?
というのいは仕事をする上で考えなければいけないものですが、どうしてもそれはビジネス上として自分の肌感とは違った脳みそを使っていたりするものです。
それをもっと自分の肌感に近い感じで受け取らせるという意味で、「もしドラ」のアプローチはあるなと思いました。
本作でいいなと思ったのはビジネス理論の中で、やはり「人」というものにしっかりと重きをおいて描いたところです。
ちまたのビジネス本はハウツーとか、スキルとかそういう技術について書かれているものがありますが、それを実行したところで実際の現場では上手くいかないことは多々あります。
それはやはりそこで働く人というものの存在をあまりみれていないからではないからと思います。
ドラッカーの「マネジメント」で書かれていることだと思いますが、本作でもキーワードとなっている「真摯さ」というのは、理論とは別次元のことですが、とても重要なことです。
仕組みに心を入れるということだと思います。
その心がないとなかなかビジネスというものは回らない。
ビジネスの真髄というところにきちんとおさえているところが良いなと思いました。
あと、それほど強く描かれていないですが、「育成」というところについても描かれているのも良いですね。
組織というものの目標は短期的なもの、長期的なものとあります。
本作での程久保高校が甲子園を目指すというのは、大きな目標ではありますが、単年度の目標です。
けれど甲子園行きを一回限りで終わらしてしまってはいけません。
組織として考えれば常に甲子園に行けるような体制を維持するということもひとつの長期的な目標です。
そういう意味で、エラーが続いた祐之助をあえて外さず、使い続けるということは組織を常に目標を達成できる状態にしておくという「育成」観点で重要だと思います。
祐之助はこの試合で得たことを必ず自分でも実にし、そして後輩にも伝えていくことでしょう。
それが持続的な組織を作ります。
短期的な目標しか見えないマネージャーであれば、今期の実績さえいけばいいと思い、来年度にも影響を与えしまうような施策をうってしまうかもしれません。
それではほんとうのマネージャーとは言えません。
持続的な組織を作ることこそがマネージャーの仕事です。
そういう点で、みなみはしっかりとしたマネージャーの仕事をしているなと思いました。
実際仕事ではこの長期的視野を持てていないマネージャーがけっこう多いのです。
自分さえよければいいというような。
みなみの爪のあかでも煎じて呑ませたい・・・。
やはり、つまるところ「真摯で、ひたむき」なマネージャーでいられるかということなんですよね。

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本 「しかたのない水」

普段はあまり読まないタイプの小説です。
なんとなくタイトルの雰囲気に不思議なものを感じたので手に取りました。
本作はあるフィットネスクラブに集まる男女の恋というか、情事にまつわる短編連作集です。
登場人物の生き方や考え方へはなかなか全面的に共感しにくい部分もあるのですが、ある一部の黒い部分については心のどこかにはあるのかもしれないと思いました。
そういうふうに行動するかどうかは別にして。
そういうところは文庫の巻末にある解説にあるように大人の小説と言えるかもしれません。
登場人物はそれぞれ自分の中にある黒い部分について自覚はあるものの、それをどうしようともしません。
できないのか、しないのかというところも、彼ら彼女らにはあいまいなのかもしれません。
それがタイトルの「しかたのない」という言葉によく出ているなと思いました。
このようになってしまった自分、このようにしてしまう自分、そうなってしまったのも「しかたのない」と。
「水」という言葉も、「低きに流れる」ではないですが、自分の中の黒い部分に抵抗するわけではなく、なんとなくそれに従って生きてきて、今の自分になってしまったというようなニュアンスがでているなと思います。
その二つの言葉があわさって「しかたのない水」となると、また違った種類の言葉の反応みたいなものが起こり、不思議な雰囲気がでています。
秀逸なタイトルの付け方だなと思いました。

「しかたのない水」井上荒野著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-130252-2

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2011年6月24日 (金)

「SUPER8/スーパーエイト」 スピルバーグLOVE過ぎ

若い人はスーパー8って言っても知らないだろうなぁ・・・。
スーパー8というのは8mmフィルムの規格のことで、本作でも主人公たちがやっているように、その昔、自主映画といえば、スーパー8で撮っていたものです。
実は僕も・・・。
とはいえフィルムも現像もけっこう高かったりしたので(ちょうどフィルムからビデオに変わる時代であったということもあり)、撮影するのにもけっこう覚悟が必要でした。
うーん、懐かしい。

本作は舞台となっているのは、1979年。
「E.T.」が公開されたのが、1982年なので、ほぼ同時代と言っていいでしょう。
本作は至る所にJ.J.エイブラムスの「E.T.」へのリスペクトが感じられます。
久しぶりに観る「アンブリン」のロゴからして。
街をMTBで走る子供たち。
高台から郊外住宅地を見下ろす何ものかの視線。
初めのうちはなかなか姿を現さない宇宙人らしきもの。
街を突如封鎖する軍。
まさに「E.T.」を想起させるところがいくつもあります。
ただ「E.T.」と異なるのは、その宇宙人が人を襲うということ。
姿を見せずに人を襲うというところは、「ジョーズ」あたりへのオマージュでしょうか。
というところで、エイブラムスのスピルバーグLOVEが随所に感じられてしまいます。
けれどもそのLOVEが強過ぎるせいか、「これ、誰の映画だっけ?」と思ってしまったりもしました。
どうもスピルバーグ風にするということをエイブラムスが意識しすぎているように感じ、新鮮さを感じなかったのです。
リスペクトはするにしてもエイブラムスのらしさというものをもっと出してほしかったなというところがありました。
ストーリー的にもかなり秘密主義で撮影していたわりには、割と普通なお話でした。
もっと捻りがあってもよかったかなぁ。

この映画を観る目的のひとつは、「SOMEWHERE」で存在感をしめしたエル・ファニングを観ること。
やはりこの娘はいいですね。
まさに天才子役と言っていいでしょう。
子供たちが最初に映画のシーンを撮るところでの、エル・ファニング演じるアリスがセリフを言うシーンがあります。
ここは男の子たちが一瞬のうちにアリスに恋してしまうが、わかるほどでしたよね。
すごいです。
宇宙人に襲われていた時のエル・ファニングの悲鳴は、かなりの高周波でした。
ここは「宇宙戦争」に出ていた時のお姉ちゃんのダコタ・ファニングに似てるなぁと思ってしまいました。

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2011年6月19日 (日)

「ガメラ 大怪獣空中決戦」 特撮の時代の区切り目

言わずと知れた平成ガメラ三部作の一作目です。
特撮ファンと言いながらも、実は昭和ガメラはまともに観たことがありません。
いや、観たことはあるのでしょうけれど、子供ゴコロにどうも「ゴジラ」や「ウルトラマン」と比べるとどうも「格下」に見えていたのかもしれません。
どうも子供の頃を思い返すと、特撮作品で子供に媚びたような展開(子供を助けるためにガメラがやってくるとか、少年ライダー隊とか)があまり好きではない変な子でした。
「ち、子供だからってそれで喜ぶと思うなよ」
ていう感じだったのかもしれません。
そういう子がガメラを好きなるわけはなく、ずっと「ガメラ」は視野外でした。
それから時が経ち、「ガメラ」が再映画化されるという話が聞こえてきました。
その頃は「ゴジラ」シリーズもマンネリ化し、「なんだかなぁー」というところだったので、「ちょいと観てみるか」くらいな感じで観に行ったと思います。
そして観に行ってみたら、ノックアウトされました。
「なんなんだ、ガメラ!ゴジラよりかっこいいじゃないか」と。
気に入った理由の一つは、基本的にリアリティというものを制作されていたということ。
怪獣映画=子供向けという図式を破った、大人の観賞にも耐えうる作品になっていたと思います。
それもそのはずで脚本は伊藤和典さん。
今までも書いたことがあるように、伊藤さんは「機動警察パトレイバー」などの作品でもわかりますが、「もし○○が現実の社会にいたら、どう社会は変わるか」というシミュレーションが精緻でかつ、ユニークなんですよね。
本作はもし今の日本に突然、怪獣が現れたらどうなるか、というシミュレーション的要素があるかと思います。
あとはやはり樋口真嗣特技監督による特撮でしょう。
久しぶりに改めて観てみるとやはり特撮はすばらしい。
それも日本らしいミニチュア特撮が。
今の時代、特撮と言えばほとんどCGになっています。
そのほうが自由度は高いし、また安くもできるし、あとで修正もできるし、と使う方としてはいいことづくめなのでしょう。
ですからこれからの特撮はCGになっていくのは間違いありません。
けれどやはりミニチュア特撮は、その質感に独特のものがあり、これはこれで捨てがたいんですよね。
自身も特撮に思い入れのある樋口真嗣さんらしく、ミニチュア特撮の良さをだしたカットがいくつもあります。
ミニチュア越しに遠目で戦う、ゴジラとギャオスとか。
夕陽(特撮ファンにとっては夕陽というのは特別なの。メトロン星人とか、新マンとか)をバックにした東京タワーの上のギャオスのシルエットとか。
痺れます。
平成ガメラ3部作はそれが本格的に味わえる最後の作品になるのかもしれません。
新たに生まれ変わったガメラは、結果的に熱狂的に受け入れられその後に3部作となったのはみなさんが知っている通りです。
ある意味この作品はエポックというか、一つの区切り目であったように思います。
雰囲気のあるミニチュア特撮から、CG特撮への。
平成ガメラシリーズはひとつの時代の最後に大輪を咲かせたという感じがあります。
本作が作られたのは1995年、もうずいぶん経っているんですね。
その後、平成ガメラ3部作以降、「これはいい!」と言える怪獣映画は作られていないんですよね。
そろそろ、すごいのを観てみたいと思うこのごろです。

「ガメラ2 レギオン襲来」の記事はこちら→

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本 「敵は海賊・正義の眼」

神林長平さんの人気シリーズ「敵は海賊」の7作目になります。
本作にはおなじみ海賊課のラテル、アプロ、ラジェンドラといった面々も登場するのですが、彼らが主役というよりは、彼らが追う海賊の中の海賊匋冥という人物の存在にスポットを当てた物語と言えます。
とはいえ匋冥がこの物語の多くの場面に登場するというわけではありません。
匋冥から謎の球体というアイテムを授かったモーチャイの行動、そして彼に球体を渡した匋冥の意図は何なのかというところから匋冥という人物の片鱗を窺わせるという展開になっています。
匋冥は何よりもヒトやモノやコトからの束縛を嫌います。
彼の自由を奪おうとするものとは徹底的に戦い、相手を破滅させます。
彼にとって悪や善という概念もなんら縛りになりません。
究極の自由者であり、だからこそ何にもとらわれない海賊であるわけです。
先に書いたように善意や正義といったものも彼にとっては自分を縛るものであり、それが自分が束縛するものであるならば、彼はそれを破壊します。
ただその正義に伴う行動が、その人物の自由意志であるならば、匋冥は正面から戦いを挑むだけでしょう。
しかし、正義というものは曖昧な観念であり、かつ誰も反論しにくい概念でもあります。
ある種「錦の御旗」的な概念であります。
それに対し、自身も何の疑念も持たず、そしてまた他人にもそれを求める行動こそに匋冥は腹をたてるわけです。
自由な意思による正義ではなく、煽動された正義。
そこにはほんとうの意志はないのではないかと、匋冥は言っているように思います。
匋冥にとって正義なんて意味はない、意味があるのは自由であるかどうか。
正義という概念は人を縛る。
その縛りをとったらどう人間は行動するのか、それを観てみよと匋冥はモーチャイ自身に突きつけるわけです。
確かに正義という名のもとに、人類歴史上さまざまなことが行われてきました。
それが正しいか正しくないかというのではなく、それを自分自身が選びとったのかという疑問を匋冥は突きつけているように思いました。

「敵は海賊・A級の敵」の記事はこちら→

「敵は海賊・正義の眼」神林長平著 早川書房 文庫 ISBN978-4-15-030893-3

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2011年6月18日 (土)

「さや侍」 松本人志に泣かされた

「大日本人」「しんぼる」と奇作を発表している松本人志監督。
新作は時代劇、それも主人公は刀を持たない侍で、それを演じるのは誰だかわからんおっさん(松本さんの番組に出てた方のようですね、バラエティ見ないので知らなかった)ということなので、また変化球でくるかと思ってました。
確かに本格時代劇とは違って、チャンバラがあるわけではないですし、松本さん監督らしい笑いなどはあるのですが、物語はしっかりとした父と娘になっていて、最後の坊主が読む手紙のところでは泣かされてしまいました。
まさか、松本人志さんに泣かされるとは・・・。
松本さんの今までの作品は奇妙奇天烈な設定、世界観がありました。
本作は「30日の行」という奇妙な設定がありますが、それ以外はまっとうな時代劇の設定です。
奇妙なのは世界というよりも、主人公である野見自身です。
彼は侍でありながら、さやしかもたない男で、何かから逃げ続けているように見えます。
劇中しばらくは彼は一言も話さないので、正直何を考えているのかわからない男です。
捕らえられ「30日の行」という不条理な役割を負わされても、彼は淡々とそれを受け入れます。
というより抵抗する力がないというような感じでしょうか。
彼は妻を流行病で失ったという事実が途中で明らかになります。
そして、刀を捨てたことも。
これは描かれていないですが、野見は侍としての大事なお役目をしていて、その中で大事な妻を失ってしまったのではないでしょうか。
彼はその当時は侍としての自負を持っていた男のように思います。
しかし妻を失うことにより、侍として生きてきた自分自身にも疑問をもってしまったのかもしれません。
そういう彼を、娘のたえは「侍らしく生きてくれ」もしくは「侍らしく死んでくれ」と言います。
おそらくたえは昔の父から「侍らしく生きること」を教わったのではないのでしょうか。
けれどその父は、母を失ってからは逃げていくことしかしない。
たえからさえも逃げようとしている(オープニングのシーンから)。
それをたえは父が変わってしまったというように思っていたのでしょう。
けれど野見の中で、侍の心が全くなくなったわけではなかったのです。
刀身はなくとも、さやという刀の一部は大切にしているということ。
不条理とはいえ、与えられた役割を淡々と行っていくということ。
そして憐れみ、施しを受けるくらいであれば、誇りを持って死ぬということ。
彼が最後に死を選んだのは、やはり侍としての誇りを守るためであったのでしょう。
たえが意味じくも言ったように、あのまま殿様の憐れみを得、生きたとしても、それはもう侍という存在ではありません。
野見は「30日の行」をたえと共に行うことにより、次第に侍としての誇りを再び心の中にともしていったのだと思います。
すばらしかったのは、たえを演じた子役の熊田聖亜ちゃん。
初めて見ましたが、とても演技が上手で感心しました。
うだつのあがらない野見にむかって厳しい言葉をはく前半の演技。
淡々と役目をこなしていく父をサポートしようとする健気さ。
何よりも個人的にやられたのは、最後野見が切腹に向かうシーンです。
オープニングからわかるように、距離感のあった父娘の距離が縮まり、野見がたえの手を握る場面です。
このシーンのたえが、ほんとうに嬉しそうで。
ずっと頼りにならない父を励まし、支えて気丈にしていたたえが、このときばかりは本当に幼い娘になり父親といっしょにいることが心底嬉しいという笑顔に見えました。
まず、このシーンで泣かされ。
そして最後の手紙のシーンで泣かされ。
奇妙奇天烈な時代劇になるんじゃないかという当初の予想は外れ、思い切りまっすぐな父娘のストーリー、そして男の誇りについての物語にやられました。
うーん、やっぱり松本人志という男は一筋縄ではいかないですね。

松本人志監督「大日本人」の記事はこちら→
松本人志監督「しんぼる」の記事はこちら→

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本 「論点思考 -BCG流 問題設定の技術-」

4年ほど前に読んで感銘を受けた「仮説思考 -BCG流 問題発見・解決の発想法-」の著者の本になります。
「仮説思考」と対になる本とみていいでしょう。
仮説思考が「問題の解決についての考え方」について書いてある本だとすれば、こちらは「問題の設定の仕方」について書かれたものと言えます。
本著でも最初に触れられていますが、仕事では受験勉強のような明確な問題が設定されているわけではなく、問題そのものを自分たちで設定しなくてはいけません。
いくら解決方法がしっかり考えられたとしても、問題設定が間違っていればそれはその答えは意味がなくなります。
本著はその問題設定をするときの考え方について書かれています。
書かれていること自体は、読んでいてほんとうにその通り、というものでした。
基本的にはいろいろな視点を切り替え、さまざまな方向性からほんとうの論点は何なのかと検討をする。
与えられた論点はそもそもそれほど重要ではなく、その根本の大論点こそが大事だということもあるということが書かれています。
これはまさにその通りで、自分自身もデザインや広告をやっていますが、依頼先のオーダーの中にある課題がそれ自体が課題なのか、その根本にはもっと大事な論点があるのではないかというのは考えるようにしています。
考えていくと、広告を担当していながらも、それは広告で解決できる問題ではないのではないかと言うこともたまにあります。
今の部署にきてから、コミュニケーション戦略を広くみるという役割を与えられたおかげで、大所高所からの視点ができたのかもしれません。
自然とこの本に書かれてるような論点思考をしなくてはいけなくなったということでしょうか。
そういう意味で、本著を読んだ後、納得性は感じましたが、「仮説思考」を読んだ時に感じたような興奮のようなものはなかったかなと思います。
少しは自分も成長したということでしょうか。
本著にも書いてありますが、この論点思考というものはやはり自分で実践することを通じてしか身につけにくいものです。
研修などではなかなか厳しい。
これをどのように若手に身につけさせていくかというのは、これからの課題になりますね。

「仮説思考 -BCG流 問題発見・解決の発想法-」の記事はこちら→

「論点思考 -BCG流 問題設定の技術-」内田和成著 東洋経済新報社 ハードカバー ISBN978-4-492-55655-9

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2011年6月17日 (金)

「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」 正しいスピンオフ映画

「X-MEN」シリーズの最新作であるこちらの作品は、プロフェッサーX、マグニートーの若き日を描いた物語になります。
監督をするのは「キック・アス」のマシュー・ヴォーン。
「キック・アス」に続く作品がアメコミ映画のど真ん中「X-MEN」ということですから、大抜擢ですね。

プロフェッサーX、若き日の名はチャールズ・エグゼビア。
マグニートー、若き日の名はエリック・レーンシャー。
同じミュータントでありながらも、その価値観により対立をすることとなった二人ですが、かつては共に戦った仲間でもありました。
本作では彼らが出会い、共に戦い、そして袂を分かつようになるまでを描きます。
今までのシリーズでも描かれているように、プロフェッサーXはミュータントでありながらも、人類と共存をしていくことを模索していく人間です。
自分たちがミュータントであることにより人間から厭われることを理解しつつも、自分たちの仲間を捜し出し、彼らが人間とともに生きていけるように、彼らの特殊技能を活かせるように教育をしています。
対してマグニートーは、異なる存在であるミュータントを人類が受け入れることはありえないというスタンスにたち、それならば自分たちが支配する側に回らなければいつか滅ぼされてしまうと感じている男です。
二人に共通してる考え方は、自分たちは人間とは違う存在であるということ、そしてそれにより厭われるであろうということです。
そこから先の考え方は異なり、プロフェッサーXは「共存」を志向し、マグニートーは「支配」を目指します。
彼らがどうしてそのような考えの違いになったかというのは、彼らの育った環境、そしてその能力に大きく影響されたと思いました。
チャールズは大きな屋敷に住み、名門大学に進むといういわゆる上流家庭に育ったようです(ただ母親の愛情は感じなかった様子)。
そういう点では彼はあまり苦労を知らず、恵まれた環境の中でいい意味でとても理想というものを心に持ちながら育つことができたのであろうと思われます。
そして彼の能力はテレパス。
彼は人の心を読むことができる力を持っています。
人を感じることができる能力により、チャールズは人への共感性がとても高い人間に育ったのでしょう。
彼の能力の根幹は「人を受け入れる力」と言っていいでしょう。
それにより、人間だから、ミュータントだからという線引きをするのではなく、万人を受け入れようとする彼のスタンスにつながっていきます。
対してエリックは、幼い頃にユダヤ人として差別を受け、さらには母親を殺されてしまいます。
彼はそもそもからしてユダヤ人としての差別、さらにはミュータントとしての実験材料として育ち、人間を信じる気持ちなどは持ちようがなかたのでしょう。
彼の能力は磁力を思いのままに扱う力。
その能力は本作でも描かれているように潜水艦すら持ち上げてしまうほどです。
彼の能力の基本は「他へ働きかける力」すなわち、「他を支配する力」なのです。
幼い頃の体験による人間への不信、そして彼の能力の根本が「他を支配する力」であるがゆえに、彼はその後、人類を支配しなければならないという思想に傾いていくことになるのです。
それはそもそも彼を苦しめたナチス、そして本作で彼の母親の敵となるショウのものの考え方と皮肉にも似通ったものになっていくのです。
今までのシリーズではあまり掘り下げられなかったプロフェッサーXとマグニートーのキャラクターの描き方は興味深いものでした。
特にプロフェッサーXはあまりに人格者だったため、なかなか感情移入しくい人物でもありましたが、本作で描かれる若き日を観ると、彼がどうしてあのようになったのかが腹に落ちました。
マグニートーについても同様ですね。

細かくはあげませんが、今までのシリーズへリンクもいくつもあって、それらについても今までのシリーズを見直して確認してみるのもおもしろいかもしれないですね(なぜプロフェッサーXは車いすなのかとか、マグニートーは何故あのヘルメットをかぶっているかなど)。
特にミスティークは今までほんとにミステリアスに描かれてきたので、なぜ彼女があのような行動をとっているかも納得がいきました。
「X-MEN」ワールドを上手に広げていく正しいスピンオフ映画となったと思います。

「X-MEN ファイナル ディシジョン」の記事はこちら→

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2011年6月16日 (木)

「赤ずきん」 ダークなおとぎ話

誰でも知っている童話「赤ずきん」。
グリム童話にも収録されていますが、そもそも童話というのはダークな側面があるというのは、最近よく言われていることです。
本作はそのような童話のダークな側面にスポットをあて、かつ赤ずきんの少女を妙齢の女性とするという大胆な改変で、男女のロマンスを描きます。
こちらの「赤ずきん」の監督したのは、「トワイライト 〜初恋〜」のキャサリン・ハードウィック。
ダークな雰囲気、そして三角関係のロマンスという題材は「トワイライト 〜初恋〜」と共通点も多く、ぴったりの起用と思いました。
と言いつつも、個人的には「トワイライト」シリーズは、少女漫画的なロマンスが強すぎてあまり好きなシリーズではない(惰性で全部観ているけれど)ので、ちょっと不安もありました。
赤ずきんちゃん=ヴァレリーを演じる主演はアマンダ・サイフリッド。
大きな眼、ブロンドの髪っていう容姿が、おとぎ話的要素を持つ本作にはぴったりだと思いました。
派手な顔立ちなので、「赤ずきん」というアイテムにも負けない感じがありましたね。
そういえば、以前は「セイフライド」と表記されていることが多かったですが、「サイフリッド」の方が英語の発音に近いようですね。

上に書いたように、それほど期待はしておりませんでした。
「トワイライト」的なベタベタロマンスだとイヤだなぁと。
確かに三角関係的なエピソードもあるにはあるのですが、「トワイライト」よりはやや薄い。
どちらかというと、村の人びとを襲う「人狼」の正体は誰か?というミステリー的な要素が強くて楽しめました。
人狼の正体は誰か?
幼なじみで、ヴァレリーが恋心を寄せる男友達か。
ヴァレリーに求婚する男か。
はたまたヴァレリーのおばあちゃんか(「赤ずきん」だからね)。
あんまりお金をかけられていないのか、多くのシーンが森深い村のセットの中でというのが多く、出だしはクオリティ的にはややもの足りないところもあり「やっぱりハズレかな?」と思ったのですが、狼の正体は誰か?という話になってからは俄然話に引き込まれました。
ヴァレリーが魔女ということにされてからは、彼女の周りの人びとで態度が変わる人、変わらない人が出てくるあたりは、人間の本性を見せてられているようなところもありました。
またそういうことでヴァレリー自身も疑心暗鬼にとらわれるというあたりは、心理描写的にも引き込まれました。

そもそもの期待度がひくかったせいか、総じてたのしめました。
真っ白な雪に、真っ赤なずきんというヴィジュアルは印象的で、効果的に使われていましたね。

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2011年6月12日 (日)

「アジャストメント」 きれいにまとめてこじんまり

ちょっと集中力がない状態で観賞してしまったので、評価が適正かどうかが自分的にも甚だ自信がないです。
フィリップ・K・ディックの短編小説(未読)を原作とした本作でしたが、ディックらしい話でした。
自分の人生で自分が決めてきたと思い込んでいたことが、実はそうではないという物語。
この感覚はディックの小説のいくつかに共通しているものです。
これだけは絶対に確実だと思える自分の記憶や体験、決断が、実は誰かのお仕着せだったかもしれないという危うい感覚。
これは現実感の崩壊といったもので、幻覚を見たと言われるディックらしい感覚と言えます。
映画化された作品で言えば「トータル・リコール」「マイノリティ・リポート」「ペイチェック」「スキャナー・ダークリー」なども同じような感覚を持っていると思います。
これらの作品は、主人公がなんらかの組織などから記憶を書き換えられる、もしくは現実の自分とは異なる自分として扱われてしまうというプロットが共通しています。
本作では、自分で決めたと思っていた運命が、実は別の者たち(調整局)によって決められていたということを知る上院議員候補のデヴィットが主人公になります。
ちなみに邦訳の「運命」は映画の中では「fate」を使っていました。
「destiny」じゃないのですね。
「fate」は「天命」というより神に近い感じがあるようなので、そういう意味では本作としては適切な言葉だったのかもしれません。
小説のディック・ワールドというのは混迷の中で救いがなかったりもするのですが、映画化された作品はやはり何かしらやはり人間は自分の力で生きていけるといったような、救いがあったりします。
本作もまさしくそうで、運命は誰か(神・天使?)に操作されているが、それでも人間は運命立ち向かえるんだ、といったようなまとめ方をしています。
またまたちなみになんですが、調整局の面々は序列がしっかりとあるようで、このあたりは天使にも通じるものかなと思いました。
一般的な鑑賞者としては安心する結末なのですが、ディック好きの自分としてはある種の現実の崩壊感というか、座りの悪さ感のようなものが感じられなかったので、ちょっとなという感じでした。
ディック的な座りの悪さでいうと「スキャナー・ダークリー」が一番ディックらしいと思います。
きれいなまとめ方をしてしまったためか、なんとなく全体としてこじんまりとした印象を持ってしまいました。
中盤でもデヴィットがその運命をけっこう淡々と受け入れてしまっているので、切迫感が少ないかなと思ったりしました。
切迫感は「マイノリティ・リポート」のほうがあったような気がします。
ディック作品はある種の破綻した感じというのが良さだったりもするのですが、本作はそのあたりがきれいに整えられてしまっている感じがしました。
それによって、かえってこじんまりした印象になってしまったのかもしれません。

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「けいおん!!」 去りゆく楽しかった日々

ブレイクした「けいおん!」の第二期シリーズになります(!が2つになっている)。
本シリーズはかなりの人気だそうで、今年の12月には劇場版も公開決定だそうです。
第二期は第一期の続きとなり、唯たち軽音部のメンバーが高校3年生になってからが描かれます。
あいかわらずたわいもない話で、高校3年生でテーマとしては必ず上がってくる「受験」もそれほど大きくは扱ってません(進路などはさすがに悩んだりしているけれど、あっさり受験は終わる)。
本作は軽音部のメンバーたちの日常というのを描いていますが、第一期と違うのは梓の視点が強く出ているところでしょうか。
梓は、高校3年生の先輩たち、唯、律、澪、紬の唯一の一つ下の後輩になります。
梓はけっこうマジメなタイプなので、どちらかとグダグダと過ごすことが多い軽音部の先輩たちにもう少し真剣に練習をしてほしいと思っています。
けれど、5人で過ごす時間も非常に楽しく、また大事に考えている娘です。
本作が唯たちが高校3年生であるということは、本人たちよりも梓の視点で強く意識されています。
唯たちが卒業してしまったら、梓はひとりぼっちになってします。
もう楽しかった日々は得られなくなってしまう。
そういう予感を梓は感じています。
なので、「けいおん!!」にはそこはかとない寂しさというものも漂っているように感じました。
決して派手ではない日常だけれど、そこには何かとても大切なものがあって。
そこからいつかは卒業しなくてはいけないという現実があるということを。
去りゆく楽しかった日々。
これはみなさんも高校時代を思い返す時になにか心に残っていることがあると思うんですよね。
相変わらずのグダグダ、キャピキャピの軽音部ですが、そういう梓の視点で見直してみるのもおもいしろいかもしれません。

主題歌は途中で変更になりましたが、2曲とも人間離れしたキー、速さで、よく歌えるなぁと感心するばかり。
唯役の豊崎愛生さんは声優さんですが、ライブもやったりするようで、その実力を見せつけられました。

第一期「けいおん!」の記事はこちら→

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2011年6月11日 (土)

「ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦」 祭りだ、祭りだ!

現在放映されている「海賊戦隊ゴーカイジャー」で、「スーパー戦隊」シリーズは第35作になるということです。
今まで放映されている「戦隊」と前年の「戦隊」が共演するいわゆる「VS.シリーズ」がVシネマでリリースされ、さらには一昨年くらいから劇場作品として作られることになりました。
それだけ人を呼べるコンテンツとなったということでしょうか。
考えてみれば35作品ということは、親と子供で両方ともに「スーパー戦隊」シリーズを子供時代に観ていたということになるんですよね。
個人的には「仮面ライダー」シリーズのほうが断然「スーパー戦隊」シリーズより好きでして、「VS.シリーズ」はDVDでも劇場でも観たことはありません。
「スーパー戦隊」シリーズはとてもおもしろいときもあるのですが、まったくおもしろくないこともあり、当たり外れがあるかなと。
あとやはり「秘密戦隊ゴレンジャー」は子供の頃、熱心に観てましたが、「バトルフィーバーJ」で巨大ロボットが出たところで、子供のくせに「こんなのガキが観るもんだ」と思い込み観るのを止めてました。
自分としては「スーパー戦隊」には長い間空白期間があったわけです。
復活したのは「平成仮面ライダー」を観るようになった頃。
ついでに30分前に「ライダー」の前座として観るようになりました(失礼だなー)。
「忍風戦隊ハリケンジャー」でしたが、これが意外にもおもしろくそれから観ることになったわけです。
ただ依然として「VS.シリーズ」は観ることはありませんでした。
現在放映されている「海賊戦隊ゴーカイジャー」は35作品記念ということで歴代34戦隊が作品中に登場するというのがひとつの売りとなっています(いわば戦隊版「仮面ライダーディケイド」というところでしょうか)。
先に書いたように「スーパー戦隊」については空白期間があまりに長く歴代戦隊についても思い入れはないので、観に行こうか迷ったところですが、やはり原点である「ゴレンジャー」が出てくるということで観に行ってしまいました。
アカレンジャーを演じていた渡さんも出演されるということですし。
ゴセイジャーとゴーカイジャーというのは、キャラクターの性格、また戦うための意義がかなり違います。
これをどう整合性をとるのかと思いましたが、本作をみる限り非常にうまく脚本を作ったと思います。
それぞれの戦隊が、その意義をぶらすことなく上手く物語で整合性をとったと思います。
途中、ゴセイジャーとゴーカイジャーのメンバーは、三組に分かれて戦います。
マーベリック(ゴーカイレッド)とアラタ(ゴセイレッド)組、ジョー(ゴーカイブルー)・ルカ(ゴーカイイエロー)・アグリ(ゴセイブラック)・モネ(ゴセイイエロー)組、ハカセ(ゴーカイグリーン)・アイム(ゴーカイピンク)・エリ(ゴセイピンク)・ハイド(ゴセイブルー)組です。
この「組分け」もけっこう考えられていて、それぞれのキャラクターを活かしつつ、相互に相手を認めあうあたりはうまく描けていたかなと。
特にルカとモネが通じあうところはよかったです。
また物語としてはこういう記念作品でありがちなマニアックな方向に走り過ぎるわけでもなく、あくまでも子供たち目線にたっていた王道な見せ方であったのもうまくいったところだと思います。
同じようなコンセプトである「仮面ライダーディケイド」に比べ、いわゆるバトルシーンがかなり多い。
子供たちが喜ぶのはやはりバトルシーンだと思うので、これはよい判断だと思います。
その上で、それぞれの戦隊のキャラクターがそれぞれの持ち味を活かした描き方をしているので、マニアックな楽しみ方もできることでしょう。
ピンク祭り(ピンク戦士だけで戦う)、イエロー祭り、レッド祭りなども用意されていて、これだけ多いと壮観ではありますね。
作品世界が違うのに無理矢理くっつけるのはどうかという意見もあるでしょうが、祭りと割り切って楽しんでしまうのがよいでしょうね。
特撮ファン以外にはまったく薦められませんが、そっちが好きな方は一見の価値はあるかと思います。

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2011年6月 9日 (木)

本 「県庁おもてなし課」

有川浩さんは好きですが、この作品は中でもかなり好きの部類に入ると思います。
個人的にツボに入るところがいくつもあって、好きの3乗くらいです。

まずは高知県が舞台ってところが好き!
別に高知県出身ではないのですが、僕は高知が好き。
僕は基本的に旅行などは好きではない典型的な出不精なのですが、なぜか高知県には一人旅を3度も敢行しているのです。
四駆の車を持っていた頃、リアにキャンプ道具を詰め込み、夜に東京発のフェリーに乗り込んで、そのまま四国へ。
宿などはとらず、それこそ河っぺりでキャンプをしながら、旅をしたのです。
本作でもなんども触れられていますが、高知は川がいい。
四万十川ももちろん、仁淀川もいい。
四万十川は源流から河口までを走破するということもやってみました。
(これも本作で書かれてますが、四国の川沿いの道はくねくねしている上に細い!対向車とすれ違うときはそのまま崖下に落ちるんじゃないかと思いました)
ほんと自然はありあまるほどあり、誰にも気遣うことなく過ごすことができます。
適当にほったらかしにしてくれる塩梅などは心地よく、本作の「おもてなし課」が気づいたところはまさにその通り!というところでした。
ただ、これも触れられていますが、やはり情報がとりにくいというのは難点。
キャンプ場などの情報がもっと集約的に見れるといいなーとはずっと思ってました。
これからの「おもてなし課」に期待です。

好きなところ、その2。
やはり有川浩さんらしい、甘めな恋愛でしょうか。
ちょっと不器用な登場人物の不器用な恋愛がやはりいいです。
読んでて微笑ましいです。
ベタ甘ってほどではないけれど、それこそ甘酸っぱい感じがやはりいいです。
多恵ちゃんは可愛いです。
近くにいたら惚れます。
うらやましいぞ、掛水。

好きなところ、その3。
これは意外にも仕事にも使える本だったりします。
「おもてなし課」が行っているのは、まさにマーケティング。
素材はある。
けれどそれをどうやって売っていいかわからない。
これこそマーケティング。
「おもてなし課」が最後にたどり着くのは、「ストーリー戦略」です。
そのもの(本作でいえば高知という土地の自然)を売るだけではなく、それを消費する過程をも楽しませるということ。
どちらかというとそのものよりも、その過程を楽しませるというか。
商品で差別化が図れなくなりつつある現在、「ストーリー」でものを売るというのは、注目される手法です。
このあたり自然とマーケティング、つまりは消費者への「おもてなしマインド」を学ぶには格好の素材でしょう。

まったく違う「好き」の切り口でしたが、それぞれの切り口で楽しめる作品でした。
素晴らしいです、有川浩さん。

「県庁おもてなし課」有川浩著 角川書店 ハードカバー ISBN978-4-04-874182-8

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2011年6月 7日 (火)

「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」 守るべきものは何なのか

海外出張の帰りの飛行機の機内で観賞(行きは映画を観る気持ちのゆとりがなかった〜)。
太平洋戦争末期のサイパン島の戦いにおいて、数十人の日本兵を率いてゲリラ戦を展開し、アメリカ軍を翻弄した大場栄陸軍大尉。
彼はその戦いぶりから、アメリカ軍から「フォックス」と呼ばれ、恐れと敬意をもたれていました。
本作はそういう実話を基にした作品です。
この作品は、大場大尉を英雄として描く物語と観ることもできますし、また日本人らしいまっすぐさ、潔さを描いた物語と観ることもできると思います。
本作は年配の人の評価が高かったということで、おそらく多くの方がそのような見方をしているのだろうと思います。
今では失われてきている日本人らしさ、美徳のようなものが描かれているというような。

僕はちょっと違う見方をしてみたいと思います。
それは「守るべきものは何なのか」ということです。
多くの民間人も暮らしているサイパン。
そこへ圧倒的な軍事力を持つアメリカ軍が攻撃をしてきました。
サイパンはアメリカ軍にとって日本本土を爆撃するのにどうしてもほしい戦略的な場所であったのです(B-29はサイパンからなら日本本土へ爆撃ができた)。
つまりサイパンは、日本の死活がかかっているというほど重要な島であったわけです。
では圧倒的な戦力差があるそのような状況化で軍人は、何を守るために戦うのか。
目の前にいる民間人たちの生命なのか。
それとも日本という国家、国体なのか。
これは二者択一するものではないのですが、そうせざるを得ないこともあります。
本作でいえば、大場大尉がアメリカ軍より投降要請を受けたときがそれになると思います。
日本人としての誇りを守るため死ぬまで戦うのか。
民間人の命をさらさぬよう投降するのか。
大場大尉の選択は、国家への忠誠、誇りを持ちつつも、民間人を守るために投降するというものでした。
大場大尉の部下である木谷は、そのような行為に賛同できず、投降をせずに誇りを持って戦うという選択肢を選びました。
現代人の僕からみれば、軍人はやはり民間人の命を守るべきだろう、と思いますし、本作で描かれる状況は遥か数十年前の太平洋戦争時という特殊な時代を背景にしていたのであって、あまり今は関係ないだろうと考えがちです。
はたしてそうでしょうか。
本作を観ていて思い浮かべたのは、最近の大震災以降の政府や東電のゴタゴタのことです。
震災の現場で、人びとを助けるために働いている自衛隊や警察官、また東電の社員の方、それ以外の様々の方はやはり人の命や生活を助けるために懸命に働いているのだと思います。
これは本作の「兵隊さん」たちが民間人を助けるために戦った行為となんら変わりません。
けれどそのような現場でがんばっている人びととは違う中枢にいる人びと、たとえば報道される国会議員たちのゴタゴタを観ていると、この人たちはそこに暮らす人びとのことを考えて何かしようとしているのかと思えないのです。
何を守ろうとしているのだろうと。
本作の大場大尉のように民間人の命を守り、かつ国家への誇りを失わない、そういう苦しい戦いをしているように見えないのです。
なにかよくわからない、党や会社というものを守るために、動いてるように見えるのです(そうであってはいけないと言いませんが、それだけっていうのはいけない)。
僕たちが本作での木谷の行動を観るとあの時代の帝国軍人として致し方なかったのかと思いますが、それはあの時代特有のものではなく、いまでもこういう精神は残っているわけです。
某党の「造反したら厳正な処分」というのには戦前戦中の精神論に近い臭いを感じました。
ほんとそれが「民主」的なのかと。
何を守ろうとしているのだろうか。
本来は普通の人びとを守るための組織であり、国家であるはずなのに、どこかでそれの重要度が逆転してしまう。
本作で描かれているような状況は現代社会でも十分ある、というより実際あると思えるわけです。
戦中の出来事とみるのではなく、現代にも通じるものがあると観てもいいと僕は思いました。

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2011年6月 4日 (土)

本 「「超」整理法 -情報検索と発想の新システム-」

僕の会社の机の上は、自分で言うのもなんなんだが、きれいではありません。
というより散らかっている(ように見える)。
書類が、まさにタワーのように積み重なっているわけです。
じゃ、探し物をしたりしたりすると、いかにもたいへんだろうと思われるのですが、あまり探し物に時間がかかることはないわけです。
誰かが「この件なんですがー」と来たときも、タワーの中の地層の大体この辺だろうとアタリをつけてスッと書類を引き出せたりするわけです。
大概の人はこんなに散らかっていて、なんですぐ出てくるんですかと言うのですけれども、「超整理法だからー」などと言ってました。
と言いながら、野口さんの「「超」整理法」は聞きかじっただけで読んだことはなかったので、改めて読んでみました。

野口さんの言う「超整理法」というのは、分類するのではなく、時間軸にそって書類などを管理するという手法です。
人間の記憶というのは時間軸ではかなり正確です。
これは僕が書類タワーの中からスッと書類を引き出せるという実感ベースでもその通りだと思います。
野口さんは書類を封筒にいれ、それを縦に並べて管理する手法を紹介しています。
封筒を左から右に向かって新しい順に並べます。
なにか必要なことがありとりだした書類の入っていた封筒は一番左に入れます。
これを繰り返していくと、並んだ封筒の左側は利用頻度の高いものが集まります。
逆に右側はほとんど使わない書類になります。
これはしばらく使わなければ廃棄の対象になるわけです。
僕の机の上の書類タワーで言えば、上の方が利用頻度が高いもの、下の方が低いものになります。
書類整理はまずは分類だろうというのは、よく言われることです。
僕もときどき分類して整理します(社内の文書廃棄キャンペーンのときなどに)。
書類がなくなるのは、だいたいこの時です。
つまり時間軸は覚えられても、人間はどこに分類したかというのはたちまち忘れてしまうものなのです。
みなさんも経験はないでしょうか。
野口さんはいわゆるこういう分類の問題点をいくつか指摘しています。
まずは「こうもり問題」。
これはどこに属するかわかりにくい境界線上にある案件などです。
またいくつかの分類に属する同一の書類を作ったはいいが、片方は更新し、片方は更新しなくてどっちが正しいかわからなくなってしまう問題(ドッペルゲンガー・シンドローム)。
分類整理したという記憶はあるのですが、どこに分類したか忘れてしまう、というのはよくあることです。

こちらの本では「超整理法」を実施するにあたって、コンピューターの力を大いに使うべきだと説いています。
この本が書かれたのはもう20年くらい前なので、書かれている手法はとても古くさいものではあるのですが、考え方は今でも活かせます。
というより今でこそ活かせます。
仕事のコンピューターの中は、僕はファイルはフォルダごとに分類しています。
けれどここでよく「こうもり問題」「ドッペルゲンガー・シンドローム」が発生します。
特にやり取りをしたファイルなどはどれが最新なのかがわかりにくかったり、どこにしまったかがわからなくなったりします。
僕はそういうときはファイルの作成日でのソートをかけたりするのですが、違うフォルダにしまい込まれていた場合はそれも効かない。
Windowsは全ファイル検索をしようとすると途方もない時間がかかるので、なかなか「超整理法」も使いにくい。
難しいところです。
その点、アップルのコンピューターは、Spotlightというかなり強力な検索機能を持っているので、「超整理法」実施には向いているかもしれません。
プライベートはMacなのですが、最近は書類の分類をしなくなりました。
基本的には「書類フォルダ」に突っ込んだままで後から検索で見つけます。

自分自身の経験的にも「超整理法」はうまく機能するなと思っています。
(ただし共有する書類には向きません。あくまで個人のファイリングとしてです)
決して、机の上が散らかっていることの言い訳ではないですから(笑)。

「「超」整理法 -情報検索と発想の新システム-」野口悠紀夫著 中央公論 新書 ISBN4-12-1-1159-7

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