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2011年5月29日 (日)

「MM9-MONSTER MAGNITUDE-」 シミュレートされたリアルさ

昨年深夜帯で放映されていた「MM9-MONSTER MAGNITUDE-」をようやく観ました。
こちらは山本弘さんの小説「MM9」を原作にしていますが、ほぼオリジナルと言っていい内容です。
原作と共通しているのは、怪獣が実在し台風や地震などと同じく災害として認識されている世界観、そして気象庁で怪獣の災害対策を行う通称「気特対」というチームの設定です。
怪獣というと、「ウルトラマン」のようなヒーローや特別チームなどが思い浮かんでしまいますが、本作はそのような「派手な」見せ場がある作品ではありません。
どちらかと言えば、災害対策を業務として行っている公務員の物語と言えます。
このあたりのテイストは、本作の脚本家伊藤和典さんに寄るところが大きいでしょう。
伊藤和典さんの代表作と言えば、押井守監督と組んだ「うる星やつら」「機動警察パトレイバー」、または「平成ガメラ」シリーズが上げられるでしょう。
伊藤さんの特徴としては、メインストリームの物語よりも、どちらかと言えば枝葉になるような話に異様に力を入れるというようなところがあります。
この作品で言うと、室町課長と久里浜部長の飲み会などがそんなところでしょうか。
ある種、シュールな感じがあるんですが、このあたりのテイストは伊藤さんが「うる星やつら」の頃から持っていたものですね。
また伊藤さんの作品は、綿密に設定された世界観(もしも○○が現代にあったら?と言ったような)を背景にしているというところがあります。
「パトレイバー」は「レイバー(いわゆるロボット)」が日常生活に取り入れられたとしたら、社会はどのような状態になるのだろうかということをシミュレートしているとも言えます。
「ガメラ」はもし今の日本に怪獣が現れたとしたら、政府は、自衛隊はどう対応するのかということをシミュレートしています。
本作では、もし怪獣がいることが普通な世界だったら、ということをシミュレートします。
このあたりのシミュレート力が伊藤さんの真骨頂でしょう。
「ガメラ」ではテレビのニュースキャスター「以下、この怪獣をギャオスと呼称します」というようなことを言い、それに妙にリアルさを感じたものでした。
同じようなシミュレートされたリアルさの感覚は、本作でも共通しています。
またクセのあるキャラクターたちというのも伊藤さんならでは。
本作の「気特対」のメンバーのクセのあるところは、「パトレイバー」の「第二小隊」にも通じるところがありますね。
切れるんだか切れないんだかわからない久里浜部長は、「第二小隊」の後藤さんを連想させますね。
やる気があるんだかないんだかわからない灰田チーフも、伊藤さんのキャラクターっぽかったです。
いろいろ書きましたが、あらゆる点で伊藤和典という脚本家の印で溢れている作品だと言えます。
「機動警察パトレイバー」「平成ガメラ」が好きな方は気に入るのではないでしょうか。

山本弘さんの原作「MM9」の記事はこちら→

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「プリンセス トヨトミ」 父親と息子

万城目学さんの作品は「鴨川ホルモー」を映画で観て、さらに原作を読みました。
本作については原作は未読の状態での観賞となりました。
「大阪全停止」「大阪国総理大臣」「プリンセス トヨトミ」というキーワードが予告でも出てきましたが、そこから予想される展開となります。
豊臣家の子孫を守るために、密かに大阪国というものがあったというわけです。
ここまでは誰でも想像つくでしょう。
僕は「鴨川ホルモー」を先に観てたので、大阪国を巡るドタバタの展開になるかと思ったのですが、本作のテーマは自分としてはけっこう意外な方向であったので、驚きました。
正直言って、映画としての出来は標準には及ばないと思いましたが、本作のテーマである「父親と息子」というのは個人的にはちょっと考えさせられるようなところもありました。

<ここから先はネタバレ気味なので注意です>

本作の大阪国の男たちは、豊臣家の子孫が危機に面したとき、立ち上がる。
父親は自分の死期を悟ったとき、大阪国の存在、いざというとき男たちがどうするかということを、息子に語ることになっています。
息子はそこで初めて自分の役割を知るわけです。
本作の劇中でも語られていますが、父親と息子というのは、子供が大人になる時期からあまり語ることは少なくなります(僕の家もそうでした)。
なんというか息子は息子で自分の生き方というのを模索し始めるからです。
息子からすれば、父親に干渉されたくない。
また父親もそれがわかるわけです、自分も嘗てそうだったから。
けれど、それでも父親から息子に引き継がれていくようなものは確かにあるんですよね。
本作では、父親が息子へ大阪国国会議事堂へいたる長い通路でそれが語られるわけです。
父親と息子が語る機会というのはそうそうありません。
けれど何か伝わるものはあるわけです。
僕もそういうことはありました(幸い、まだ父親は健在ですが)。

僕が就職が決まり、実家を出ることになりました。
父親は進路やら就職先やらに、まったく口を出さない人でした。
僕はあまり子供のそういうことには関心がない人なのかな、と思っていました。
好きにやらせてもらっていたので、それはそれで良かったのですが。
けれどあるとき、二人で夜に車に乗ったときがありました。
それほど会話が進むわけでもありません。
父親から「就職決まって良かったな」と一言ありました。
僕は「ありがとう」と答えました。
そうしたら「これで止めてもいいかな」と言いました。
その頃、父親は自営業をしていました。
けれどそれほど芳しくはなかったようです。
そういうことをあまり家では出さない人でした。
「止める」というのはその仕事を閉めるということだったのです。
父親は僕が大学を出て、就職を決め、自分で生きていけるようになるまでは、踏ん張っていてくれたのでした。
僕はそれを知り、声もでませんでした。
そしてそのときから社会に出たら、絶対に親は頼るまい、親に迷惑をかけるようなことはするまいと思いました。
もう親は自分で稼いだお金は自分のことだけに使ってもらいたい。
自分は自分でもう生きていけるからと。
言葉の少ない父親と、それほど長くはない会話でしたが、確かに何かが伝えられた気がしました。
不肖の息子で、この年にもなってまだ独り身だったりして、親の期待にはなんら応えられていないのですが、やはり何かがあるんです。

本作を観て、ふとそういうことを思い出しました。
久しぶりに実家に帰ってみようかなと。
そういうところは後味は悪くない作品でした。

「鴨川ホルモー」の記事はこちら→

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2011年5月28日 (土)

「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」 原点回帰でおもしろく

人気シリーズ「パイレーツ・オブ・カリビアン」の第4作目です。
先日久しぶりに1作目を観て、面白いなぁと改めて思ったのですが、本作は1作目の良かったところに原点回帰しているように思いました。
2作目、3作目と回を追うに従い、大作映画としてどんどん話のスケールは大きくなっていったんですけれど、本来1作目でもっていたシンプルさというのを失っていくようにも見えました。
本作は監督に新たにロブ・マーシャルを迎え、シリーズがもともと持っていたおもしろさの原点に戻したのがよかったと思います。
このシリーズの1作目もそうですし、「インディ・ジョーンズ」シリーズなどもそうなのですが、物語の基本的な構造はシンプルで、あるいくつかのアイテムを巡って、登場人物たちがそれぞれの思惑で丁々発止のせめぎ合いをするというものです。
本作でもジャック・スパロウとバルボッサなどは、共闘もしますが、お互いに裏をかこうとしていたりしてます。
ジャックと今回のヒロインアンジェリカもそうですし。
このあたりのアイテムを巡る攻防というのが、本シリーズのおもしろさの基本なのかなと思ったりします。
本作のアイテムを巡る攻防は、登場人物も多く、またそれぞれのほんとの思惑も違っていたりするので、一見複雑に感じるかもしれませんが、物語の流れに身を任せて観ていれば、それほど混乱することはないでしょう。
それはおそらく登場人物のキャラクターが個性的であること(いわゆるキャラが立っている)が大きいかなと思います。
バルボッサはもともと好きなキャラクターなのですが、またさらに魅力的になっていましたし、アンジェリカもラテンの情熱的な女性というのも作品世界に合っていたと思います。
黒ひげも徹底的にワルだったのもいいですねー。
こういう作品にははっきりとした悪役がいるとわかりやすいです(しかし、黒ひげの特殊能力は「ワン・●ース」の○○の実を食べたような感じでしたねー。ロプロプの実と言ったところ?)。
そして、やはり大きいのはジャック・スパロウ=ジョニー・デップのキャラクターの存在感でしょう。
2作目、3作目のキレが悪いのは、ティム、エリザベスの話が主になりつつも、それとジャック・スパロウというキャラクターの存在感がどうもうまくバランスをとれていなかったからではないかと思います。
本作の場合は、個性的なキャラクターがいて、下手をすると打ち消し合いそうになるのを、そういうキャラクター以上にさらに存在感のあるジャック・スパロウを物語のど真ん中に据えているというのが大きいのでしょう。
それにより物語はしっかりとした背骨を持つので、複数の場所で物語が進んでいようとも、それほど混乱をすることがなかったのかなと思います。
枝葉のサイドストーリー(ジャックとアンジェリカの関係、フィリップとシレーナの関係)などに入り込みすぎなかったのもよかったと思います。
あくまでメインストリームはアイテムを巡る攻防という割り切りが良かったですね。
この構造が構築されれば、このシリーズ、いくらでも展開可能ではないかと思いました。
あと2作は作るということらしいですし、期待できますね。
次はブラック・パール号を瓶から出すためのアイテム集めでしょうか。

シリーズをずっと観ている人にはいろいろと今までの作品を髣髴させるところもあるので、それを見つけてみるのもいいでしょう。
最初の方でジャックとアンジェリカが梁の上で剣を交えるのは、1作目でも同様のシーンがジャックとウィルの間でありましたよね。
ラストの弾丸が一発が入った拳銃だけ持たされて孤島に置き去りっていうのも、そういうシーンがありました。

例によって、このシリーズ、エンドロール後に次に繋がるシーンがありますので、最後まで席を立たないようにご注意下さい。

1作目「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」の記事はこちら→
2作目「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ チェスト」の記事はこちら→
3作目「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」の記事はこちら→

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本 「大東京三十五区 冥都七事件」

荒俣宏さんとか京極夏彦さんが好きなので、明治から昭和初期にかけての時代というのは、物語の背景として好きな時代です。
いわゆる侍の時代でもなく、現代のような社会でもない、その間のなにか西と東、古と新が混じりあったような妖しげな感じがあり、そこになぜか魅かれます。
江戸川乱歩の小説などにも魅かれるのも、そのような時代背景故かなと思ったりします。
さて本作「大東京三十五区 冥都七事件」もまさにそのような時代、明治、昭和初期を舞台にしたミステリーです。
作者の物集高音さんは僕は初めて読む作家さんでした。
時代背景の好みはばっちり合っているので、期待しながら読み始めましたが、うーんちょっと期待はずれでしたかね。
時代の空気みたいなものは出ているかと思いますが、それを背景に展開する物語そのものがあまりおもしろくない。
一応ミステリーではあるかと思いますが、ミステリー的にもあまり捻りがなく読み応えがありません。
七つの事件が短編として語られていきますが、それらを横串で貫くような事実が一番最後に明らかになりますが、それも途中でほぼ想像できてしまいます。
そのあたりがミステリー小説としては食い足りなかったかなと思いました。
ちょっと残念な作品でした。

「大東京三十五区 冥都七事件」物集高音著 祥伝社 文庫 ISBN4-396-33166-5

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2011年5月15日 (日)

「あしたのジョー(1980)」 記憶に残るカット

先月アニメーション演出家の出﨑統さんが亡くなりました。
出﨑さんは多くの作品を作られていますが、その中でも代表作と言えるのは「あしたのジョー」でしょう(あとは「エースをねらえ!」「ベルサイユのばら」か)。
今回、改めて「あしたのジョー」を観て思ったのは、とても印象深いシーン、カットが多いということです。
個人的には「あしたのジョー」は何度も何度も観たわけではないのですが、どのカットもすごく記憶に残っています。
例えばジョーと力石のクロスカウンターのシーンで、二人の汗が垂直方向と水平方向に飛び散るところとか。
ジョーと力石が握手をしようとして力石がそのまま倒れ込むシーンとか。
出﨑さんの演出は、実写ではありえないように物理法則を無視していたりする極端さがあるのですが、けれどそのカットがとても記憶に残るほど印象深いのです(「マトリックス」以降の最近のCGバリバリの実写は物理法則を無視して印象深くしていますが、元々その影響はアニメーション発の手法と言っていいでしょう。バレットタイムなどはまさにアニメ的)。
その印象的なカットは、実写というよりはどちらかといったら漫画・劇画の影響下にあるような気がします。
出﨑さんの演出だと、劇画的なタッチとか、止め絵とか、斜線を入れて焦点をはっきりさせたカットとか、すごくパースがかかったカットとかがありますが、これは漫画で言えば、見開きで大きなコマを使って表現しているような感じに近いと思います。
そういった印象深い演出により、漫画の大コマに匹敵するような、強烈なインパクトを与えるんですよね。
このインパクトが、記憶に残させるカットを生み出しているのだと思います。
こういう荒々しいダイナミックさは最近のアニメーションではなかなか見られないですね。
どちらかというと綺麗だったり、とても密度が濃かったり。
すごく手がかかっているのですけれど、「このカット」と記憶に残るようなものはなかったりします。
そういう点で出﨑さんの作品はすごいなと思います。
書いていたら、出﨑さんの他の作品も観たくなってきました。
次は「エースをねらえ!」かな・・・。

実写版「あしたのジョー」の記事はこちら→

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2011年5月14日 (土)

「ブラック・スワン」 自己抑制と開放

ダーレン・アロノフスキー監督自身が言っているように、本作は「レスラー」と対をなす作品とみていいでしょう。
かたや、かつての栄光も忘れ去られ、肉体に大きなダメージを抱えている引退寸前の中年の男のレスラー。
かたや、プリマを目指しているが、自分の殻を破れず苦悩する美しい女性のバレリーナ。
「レスラー」と「ブラック・スワン」は、人生の下りと上り、男と女、老いと若さ、プロレスとバレエと様々な点において対称的な設定となっています。
それでもテーマについてはまさしく兄妹と言っていいほどに似ています(ラストシーンはほぼ同じと言っていい)。
共通しているのは、自分がほんとうに望むものを手に入れるため、それを阻む制約を、自分の命を賭けてでも取り払うことができるのか、ということです。
「レスラー」のおいてのその制約は、ランディ自身の肉体。
若い頃からの過酷なトレーニング、そしてステロイドなどの薬物により、彼の肉体は自分が望むことを成し遂げるための大きな制約となっていました。
彼はそれでも自分が望むことを成し遂げるためにリングに立ちます。
それにより命を失うことがあっても。
本作においてのニナは才能あふれるバレリーナでありますが、その才能を開花しきれていません。
彼女自身の精神的な自制が、彼女自身の望みを成し遂げるための制約になっているのです。
「レスラー」は己の肉体が、「ブラック・スワン」では己の精神が、自分の望みを叶えるための大きな障害となっているのです。
そういう意味で、「レスラー」と「ブラック・スワン」は対称的でありながらも似通った物語と言うことができるでしょう。

ニナが抱える自己抑制という、精神的な面での制約。
これは自由奔放な性格の人から見れば、なぜそんなに苦しまなければいけないのだろうと思うかもしれません(本作のリリーなどから見たら)。
自由にやりたいようにやればいいじゃないかと。
けれど、僕自身もどちらかと言えばニナタイプなのでわかるところがあるのですが、自分がやりたいようにやれないから苦しいのです。
やりたいことはある、そういう思いもある。
けれどそれをオープンにしてしまえば、他人も傷つけてしまうし、自分自身も傷ついてしまうかもしれないというような抑制が働いてしまうんですよね。
本作でいえば、ずっと面倒をみてくれていた母親の期待を裏切ってしまうかもしれないとか、自分がプリマになることにより、尊敬する先輩を蹴落とすことになってしまったとか。
また自分自身を傷つけてしまうというのは、自分が自分自身に抱いていた自己イメージを否定してしまうことにもなりかねないということです。
これは本能的に避けてしまいたくなることです。
本作でいえば、ニナ自身はおそらくバレエ漬けで真面目な女性として生きてきたと思われます。
けれど黒鳥を演じるにあたって、その奥にある自分でも気づいていなかった自己の淫らな面もさらけださなくてはいけなくなります。
この自己イメージの否定というのは、かなり心理的には障壁になります。
自己抑制の先にあるものを開放してしまうというのは、強い人ほどやはり恐ろしいのですよね。
これを越えるといわゆる「一皮むけた」状態になるのですが。
おそらくニナにとっては心理的な障壁を越えるには、それこそ己の精神を賭ける、命を賭けるといったようなことが必要であったのでしょう。
本作はやはり「レスラー」と同じテーマを扱っている作品であるということがわかります。

主演のナタリー・ポートマンはアカデミー主演女優賞を受賞しましたが、それは納得できる演技。
肉体的にも精神的にもかなりハードな役柄であったと思いますが、演じきっていました。
本作ではニナの二面性を描くため、鏡やガラスなどにニナが映り込んでいる描写が多くあります。
映り込んでいるときのニナの表情が非常に素晴らしい。
一瞬光が当たった時に、いつもは自信がなさそうなニナの表情に、不適な笑みが浮かんでいるとかいう微妙なところもとてもうまく表現できていました。

ブラック・スワンの時のナタリーが、デーモン閣下に見えたw

ダーレン・アロノフスキー監督作品「レスラー」の記事はこちら→

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2011年5月11日 (水)

本 「マルドゥック・スクランブル」

冲方丁さんのSF小説です。
昨年映画化もされたので、ご存知の方もいらっしゃるのでは。
出版された頃から、ウィリアム・ギブスン的な文体(正確にはウィリアム・ギブスンの翻訳文体)で日本初のサイバーパンク小説として話題になっていたと思います。
SFファンとしては、その存在は知っていましたが、ずっと手にとれていませんでした。
というのいうのも、実はサイバーパンク小説というのは、苦手意識がありまして。
サイバーパンクの世界観は嫌いではないんです。
映画でもサイバーパンク的な世界観(「マトリックス」や「攻殻機動隊」のような)は好きですので、観に行ってしまいます。
ですが、小説ではサイバーパンクが苦手なのは、その文体が僕にとってはとても読みにくいものであるからです。
その文体こそがサイバーパンク的なのですが、どうもそこに取っ付きにくさを感じてしました。
ですので、それほど積極的に本作を読もうというつもりにはならないのですが、第一巻の「圧縮」を読むことになりました。
読んではみましたが、やはり強くサイバーパンクを意識した文体の冲方さんの書き方にどうにも馴染めず、読み進めるのもえらく難儀したのを記憶しています。
ですので、第二巻、第三巻まで読むのにしばらく時間が経ってしまいました。
それでようやく第二巻を書店で買ったのですが、それには「完全版」と書いてありました。
出版後10年が経ち、冲方さんが大幅に加筆修正したものになっているということです。
とはいえ、それほど内容は変わらないだろうと読み始めたのですが、かなり印象が違います。
いやストーリーや世界観はあまり変わっていないのでしょう(オリジナルと読み比べたわけではないので、定かではないですが)。
ですが、すごく読みやすくなっている。
ある種サイバーパンクというジャンルは非常にマニアックで閉じこもった感じというあったのですが(それがサイバーパンクらしいところではあるのですが)、それがかなりオープンに、というか誰ででも読みやすい感じになっています。
オリジナルは、作者の思いの丈をぶち込んでエネルギッシュに書き上げられたもので、その熱量は感じますが、それがうまく消化しきれていないというか、燃焼しきれていないというようなもどかしさを僕は第一巻で感じました。
その後第二巻から<完全版>を読みましたが、そのもどかしさみたいなものはきれいに払拭されていたと思います。
非常にマニアックな世界を描き、サイバーパンク的な風味は十分にありつつも、閉じ困らずオープンに開かれた印象を持ちました。
このあたりは作家生活を10年続けた冲方さんのスキルの充実が感じられました。
個人的には<完全版>という売り方は、ちょっとの変更でファンに二度買わせるというような商売っ気を感じて好きではないのですが、本シリーズについては<完全版>は書かれるべくして書かれたのだというふうに思いました。

「マルドゥック・スクランブル -圧縮-」冲方丁著 早川書房 文庫 ISBN978-4-15-030721-0
「マルドゥック・スクランブル -燃焼-<完全版>」冲方丁著 早川書房 文庫 ISBN978-4-15-030015-8
「マルドゥック・スクランブル -排気-<完全版>」冲方丁著 早川書房 文庫 ISBN978-4-15-030016-5

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2011年5月 8日 (日)

「プロジェクトA」 やっぱりジャッキーすごいです

先日「ラスト・ソルジャー」を観たら、無性にジャッキー映画が観たくなり、「プロジェクトA」を観賞しました。
本作については説明無用で、個人的にはジャッキー映画といえば、まっさきに上げるのが本作になるかと思います。
本作までは「蛇拳」「酔拳」などの伝統的なカンフー映画をベースにジャッキーらしいコメディさを加えた一連の作品、そしてアメリカでの作品「バトルクリーク・ブロー」「キャノンボール」などがありました。
基本的にはカンフー映画系であったわけです(「キャノンボール」はちょっと違うけど、主役じゃないし)。
本作が画期的であったのは、ジャッキーらしいカンフーアクションは楽しめるうえに、従来のカンフー映画にはないシチュエーション、ストーリーにしたということです。
それまでの香港のカンフー映画はある種の定型のようなものがあって、それをなぞるような作品が多かったように思います(日本でいえば「水戸黄門」のような超定番の枠組み)。
本作はカンフー映画を従来の定型から解き放った作品になったのだと思います。
枠組みを取っ払うことにより、今までのカンフー映画ではなかった新たなカンフーアクションのアイデアも出てきたのではなかったかと思います。
例えば、前半のホールでの縦横無尽のアクション、自転車でのチェイスシーンのアイデアなどはそれまでだったらなかなかでてこないでしょう。
特に自転車チェイスシーンは僕はすごく好きで。
ジャッキーならではのコミカルさ、アイデアが詰まっていて何度でも楽しめます。
ジャッキーの映画の魅力はやはり本人がやっているということ。
なんどこういうことができるのだろうと、ただただ感心するばかり。
この作品を初めて観たときは、子供心に凄い人だと思いました。
本作を語る上で外せないのは、やはり時計台の落下シーンでしょう。
今であったら、絶対にワイヤーか、CGを使うはず。
これを生身でやってしまうから、ジャッキーは凄いです。
生身であるということは、やはり観る側にも伝わってきます。

本作の成功によって、カンフーアクションは枠組みが取り払われ、自由な発想でアクション映画が作られていくようになります。
カンフーアクション、マーシャルアーツが様々な映画の劇中で使われるのが普通な現在、この作品の貢献は大きいのではないかと思います。

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2011年5月 7日 (土)

「岳 -ガク-」 自分の無力さに立ち向かう勇気

レスキュー隊員や、消防士、自衛隊、もちろん山岳救助隊の方々は凄い。
なぜなら人の命を救うために、自分の命をも懸けて、現場に入っていくわけだから。
そう思っていました。
けれど、本作を観て、そういう方たちはもっと重いものを背負っているのだなと、初めて気づきました。
たぶんそういう方たちが、なにより辛いのは、自分の手の中で命が消えていく場面に立ち会わなくてはいけないことなのでしょう。
それこそ映画で描かれるような命懸けで厳しい現場に入っていくヒーローといったような格好のいいものではなく、もっと実際は厳しく辛い現実に直面せざるをえないのでしょう。
本作で描かれる冬山の厳しい状況、また災害現場などは人間一人の力で太刀打ちできるようなものではありません。
そういう状況を前にして、自分にもう少し力があれば救えたかもしれないというような無力感にも彼らは向かい合わなくてはいけません。
すべての人を救えるわけではありません。
けれど、もう少し、もうちょっとでという思いに苛まれるのだろうと思います。
普通だったら逃げ出したくなる。
目を逸らしたくなる。
その自己の無力感のようなものに向かい合うというのは、それこそが勇気であったのだと感じました。
そういう辛い思いにも向かい合える気持ちこそが、彼ら命懸けで人を救う仕事をしている方々が凄いと感じさせる理由のだと思いました。

本作を観る前は、山岳救助ボランティアである三歩(小栗旬さん)を中心にした感動ドラマだと思っていました。
三歩が主人公であることはそうなんですが、ストーリーは新人山岳救助隊員である久美(長澤まさみさん)が、ほんとうのプロの救助隊員になるまでの成長物語となっていました。
久美の視点は、観ている観客の視点でもあります。
久美は純粋に人を救いたいという気持ちもあり、一所懸命さもあります。
けれど隊員として働くようになり、やるせないこと、空しく感じることにも遭遇します。
そして三歩が人の生き死に関わる状況であっても淡々といつもと変わらず大らかであることに苛立ちます。
けれど三歩がそれほど大らかであるのは、たぶん自然に対しての敬いのようなものがあるからではないかと思いました。
人間の小賢しさではどうにもならないことはある。
けれど、だからこそその人間の小さい力ができる範囲でまっすぐに限界まで力を尽くさなければならないという思いに三歩は達しているのでしょう。
彼は「がんばって生きよう」と言います。
「がんばって」というのはギリギリまで力を尽くすということです。
そこまで「生きる」ということにこだわろうと。
自分も、他の人も。
そういう気持ちになることこそ、人を救う仕事のプロになるということなのですよね。
久美というキャラクターを通して、そういう仕事をする方々の気持ちの一端に触れることができ、尊敬の念を強めました。

<追記>
三歩がしていた腕時計のSUNTO。
僕がいつもしているとの全く同じモデルで、色も同じオレンジ。
ちょっと嬉しかったです。

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本 「日米同盟の正体 -迷走する安全保障-」

北朝鮮の核武装化、中国の台頭(尖閣諸島問題含む)、ロシアとの北方領土問題などで最近周辺諸国との摩擦が増えてきています。
そういう中での政府の基本的な論調としては日米同盟堅持ですが、アメリカとの間でも普天間基地問題を始めとして積み残し課題があります。
日米同盟は日本の立場からすれば、日本が他国に攻撃された場合、アメリカが自国を攻撃されたと同じようにいっしょに戦ってくれることとなります。
尖閣諸島問題のときも、ヒラリー・クリントンは同様の発言をしていました。
けれどもアメリカが日米同盟と口にするとき、その根底にあるアメリカの戦略性を日本人がほんとうに理解をしているかということを本著は指摘します。
当然のことながら、アメリカは自国の国益を第一に考えるわけで、自国民の生命をかけてまで戦いを行うにはそれに見合ったものがなくてはいけません。
その彼らの計算(戦略)を理解しないで、盲目的に日米同盟と言うのは、リスクが高いのではないかということです。
筆者は基本的に日米同盟を支持します(僕も基本的にはそう)。
ただ彼らの意図というのを十分に考えないと、肝心な時に同盟が機能不全を起こすことなります。
本著でも取り上げられていた北朝鮮についてのアメリカと日本の考えの行き違いはなるほどと納得させられるところがあります。
本著の中盤にあるアメリカの陰謀論的な部分はちょっと眉唾感も感じますが、とはいえアメリカが大きな戦略をもって外交・軍事に挑んでいることはわかります。
それに対し、日本は自民党政権時代、また現民主党政権にいたっても、なんら戦略性をもっていないように見えます。
ある意味、初心な感じも受けます(社民党にいたっては理論ばっかりで現実をまったく見ようとしていない)。
現在のアジア情勢から考え、日米同盟は基本堅持だとは思いますが、アメリカの戦略をしっかりと観察していくというは正しい態度だと思います。
その中で、本著後半で著者が指摘していた、軍事以外での抑止力は僕としては読んでいて目からうろこではありました。
本著の中でもしばしば引用されていますが、キッシンジャーの言葉「抑制とは、得られる利益とは釣り合わないリスクを押し付けることによって、相手にある行動方針をとらせないようにする試みである」は元々は軍事についての考えでした。
相手が攻撃をしてきた場合、それ以上に強いダメージを与える力を持っているから、攻撃しない方がいいよということです。
1発殴ったら、10倍返しするよということですね。
しかし本著の提案の一つは軍事以外でもってこれを行うということです。
例えば、対中国ですが、現在中国は加速的に近代化を進めていて、中国脅威論がでてきています。
では中国が日本に戦争を仕掛けるかというとおそらくそういうことはない。
そうするほうが中国はリスクがあるからです。
というのは経済の問題です。
いまや日本と中国は密接に経済が結びついています。
もし戦争状態になった場合、当然のことながら経済交流はなくなります。
そうなると中国の輸出相手先として存在感がある日本との交易がなくなり、一気に中国経済は停滞します。
また経済制裁なども行われるでしょうから、さらに厳しくなります。
つまりは戦争をすることによって得られる小さな利益(小さな資源のない島国の領土、太平洋への入り口確保はそれなりに大きいが)よりも、背負うリスク(経済の停滞)のほうが大きいと判断されるはずなのです。
つまりは日本はアメリカが行っている軍事的な抑止策以外の手法で、抑止力を持つということができるのではないかという論です。
これはなるほどと思った考え方で、もしそれが戦略的に行われるのであれば、日本独自の安全保障となると言っていいかもしれません。
ただ先にあげた中国との関係性も戦略的に行っているわけではなく、民間の活動により結果的にそうなったということだけです。
政府が盲目的に日米同盟堅持というだけではなく、しっかりと日本らしい戦略的な安全保障に関する考えをもって行動すべき時期になっているのかもしれません。

「日米同盟の正体 -迷走する安全保障-」孫崎亨著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287985-9

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2011年5月 5日 (木)

「ラスト・ソルジャー」 犠牲になる庶民への憂い

昨日は近代の中国の歴史ものだったので、今日はずーっと時間をさかのぼり紀元前の戦国時代の中国を舞台にした作品を選んでみました。
同じ「しん」でも「清」ではなく「秦」が中国統一を成し遂げる直前の時代になります。
主演は僕の世代のヒーローであるジャッキー・チェン。
もう50歳後半なのですね・・・(自分も40代だから当たり前か)。
50後半であれだけ動けるのはスゴいです。
とはいえ、以前よりもアクションの場面は少ないですけれど。
コミカルさのあるアクションは相変わらずで、このあたりはやはりジャッキー・チェンならではという感じがあります。
すべての作品を観てるわけではないのですが、最近のジャッキー・チェンの作品はなんとなく少し哀しさとか憂いみたいなものを感じるときがあります。
全体的にはアクションを見せてくれますし、コミカルな感じというのはもちろん強いですが、ジャッキーの演じるキャラクターが何かそういう憂いのようなものを感じます。
それはジャッキーが年をとり、今の世の中を見ながら、なにかそのようなことを感じていたりするのかなとも思ったりします。
彼が生まれた香港も大きく様変わりしますし、中国という国の国民としてどう感じるか、考えるかというのが染み出ているのかなと。
元々国際都市である香港で生まれ、その後世界的なスターとして活躍している国際人であるジャッキーが現代中国をどう見ているのだろうかと考えてしまいます。
本作は基本的に歴史活劇ですが、やはりラストなどでは、国と国とが争うことの空しさ、そしてそういう戦いに否応なく巻き込まれてしまう庶民というものの哀しさを感じます。
舞台となる時代は紀元前200年頃ですから、現代から2000年以上前になります。
その頃から、中国では群雄割拠し互いに争っていますが、現在世界の至る所でもやはり紛争が行われています。
そこではやはり庶民が巻き添えを食っているわけです。
人類は2000年以上も経っているのに、まだやっていることは変わらないじゃないか、とも言っているような感じがします。
あえて中国の戦国時代を選んだのはそういう意味もあるのではないかなと思ったりしました。
ジャッキーの演じるキャラクターに憂いを感じるのは、普通の庶民への憂いが表れているのかもしれません。

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本 「前巷説百物語」

「巷説百物語」シリーズの第4作目になります。
シリーズに登場していた又市が、「御行の又市」となるきっかけとなった事前譚を描いています。
言わば「又市ビギンズ」と言ったところでしょうか。
彼が御行の格好をするようになったきっかけとなるエピソードがこの物語で描かれています。
又市が「奴(やつがれ)」という一人称を使うようになったのも、彼の影響でしょうか。
「巷説百物語」「続巷説百物語」での又市はある種クールというか冷めたようなところもありましたが、その実は情があつい人物として描かれています。
彼のクールさというのは、人間というものへの達観したものの見方みたいなものが出ていると思うのですが、彼がそういう気持ちに至った経緯が本作では描かれます。
本作に登場する又市は、まだ若く、この作品で言われている表現では「青臭い」わけです。
日陰者でありながら、情にあつく、また正しいことというものがあることを信じているのです。
彼はふとしたことから損料屋「ゑんま屋」の手伝いをすることになりますが、そこで彼は人の裏の世界を覗き込んでしまいます。
ある事件に関わる中、人びとが不条理に死んでいく様子を、そして彼の身内とも言える人びとが殺されていくのを見ていきます。
彼はその過程において、ある種の人の心の闇の部分の存在に触れてしまいました。
けれど彼がもともと持っている「青臭さ」、人間性と言ったものも実は失っていなかったのだと思います。
たぶん後に彼は自分が封印した「青臭さ」を百介に感じるのでしょう。
京極夏彦さんの作品に登場する「妖怪」。
それは実在するものではなく、言わば人の心のすき間に生じるもの。
心の闇の部分と、光の部分の間のギャップに生まれるものなのです。
そのギャップは、人びと本人ではなかなか見ることができない。
人は見たいようにしか見ることができないですから。
「妖怪」が見たいと思う心に、「妖怪」は生まれる。
又市は、本作で明るい世界から、闇の世界へ移りました。
言わば彼は、人の世界から一歩離れた、本当の意味での無宿者になったのでしょう。
ですから、彼には人の心を外から見ることができる客観性がある。
だからこそ、彼は人の心のすき間を見ることができ、それを使った「仕掛け」をできるようになったのでしょう。

「続巷説百物語」の記事はこちら→
「後巷説百物語」の記事はこちら→

「前巷説百物語」京極夏彦著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-362007-4

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2011年5月 4日 (水)

「孫文の義士団」 いわば中国の幕末もの

辛亥革命の指導者となる孫文。
彼が香港を訪れることを知った清朝は暗殺者を送り込む。
それに対して、革命派は孫文を守るための義士団が彼を守ろうと命がけの戦いを挑む。
このプロットを聞いたときは、勝手に「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」みたいな活劇になるんだろうと思っていたのですが、全然違いました(でも、予告編を観るとそう思っちゃいますよね)。
いやアクションシーンもあり、それは見所に一つでもあるのですが、どちらかというと史実を基に作った歴史フィクションでした。
そう、イメージ的には「龍馬伝」のような感じを受けました。
歴史の授業で、辛亥革命も孫文も勉強しましたが、細かいところまでは知りません。
ですので、ちょっと調べてみました。
ちょうどこの時代は、清朝末期であり、長く続いた清は汚職などの腐敗が蔓延していました。
またヨーロッパなどの外国が清に進出しており、清はそれら諸国に隷属しているような状態になっていました。
この時代の知識人は、そういう問題へ手を打てない清朝に幻滅し、また西洋の思想(民主主義など)に触れることにより、民主化への運動を高めていきます。
そのとき、彼らが見たのは近くにある日本でした。
日本は鎖国状態から、明治維新を経て、急速に国力を伸ばし、北の大国であるロシアを日露戦争で破ったのです。
そこに孫文ら革命指導者は行くべきモデルを見たのです。
つまりこの作品で描かれている時代は、日本の幕末にも似た大きく価値観が変わるときであったのです。
僕がこの作品を観て、「龍馬伝」を思い浮かべたのもあながち間違っていなかったかなと思いました。
中国において、大きく時代が動いた時であったのですね。
孫文を守るべくボディガードとなった男たち(女性もひとりいましたが)は、すべてが民主化に賛同し参加したわけではありません。
死に場所を探していた男、愛する人を守るために戦う男、信頼する人の恩に応えるべく戦う男、復讐すために戦う女。
それぞれがそれぞれの想いのために戦いへ向かう。
そして彼らの命は歴史のうねりの中で、否応なく散っていくのです。
このあたりの想いの強さ、そしてそれを翻弄する歴史のうねりのようなものが、やはり日本の幕末ものに通じるようなエネルギーを感じさせてくれました。

僕が驚いたのは、この作品が香港と中国の合作であったこと(香港も中国なのですが)。
よく中国が許したなと。
最初から思い切り「民主化」とか言っていますが、当局からはちょっかいだされなかったのかな?
ま、共産党が最も嫌う君主制を「革命」で終わらせる話だから目をつぶってくれたのかしらん。
でも、革命を経てできた現中国自体が民主化を抑えているというのは皮肉なものです。

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2011年5月 3日 (火)

「阪急電車 片道15分の奇跡」 誰かが見てくれていることの力

有川浩さんはこちらで何度も取り上げているように、好きな作家の一人なのですが、なかでも「阪急電車」はベスト5には入る作品の一つ。
この好きな小説を原作にした映画「阪急電車 片道15分の奇跡」を観てきました。
原作の細かいところは覚えていないのですが、かなり忠実に作られているように感じました。
それもそうですよね、この作品は複数の登場人物のエピソードが阪急電車という短い路線を舞台にして、ちょっとづつ影響しあっていく物語ですから、少しでもピースが崩れたら成立しません。
登場人物の一人、翔子(中谷美紀さん)の劇中のモノローグにこのような意味の言葉がありました。
「誰もが死ぬほどではないけれども小さな悩みをもっている。それは誰かに言えるようなものではなく、我慢していくしかないのだ」
またこうとも。
「こんなに大勢の人がいるのに、他の人の人生は自分の人生に影響を与えないし、自分の人生も他の人の人生に影響を与えない」(言葉は正確じゃないですが、こんな意味のことです)
本作の登場人物は、みな悩み事を抱えている。
それはちょっとした悩みではなく、本人にとってはけっこう大きな悩み事。
翔子は婚約者の浮気&婚約不履行ですし、ミサは彼氏のDV、美帆と圭一、康恵は周囲の人に馴染めないという悩み。
我慢できなくはないけれど、なんら自分は間違っていないのに、我慢しなくてはいけないつらさと言ったようなものを皆が持っています。
彼女たちは、まっすぐであり、強くもあるのだけれど、でもやっぱり辛い。
そんなとき、登場人物たちは片道15分という短い路線のなかで、人と出会い、自分の本音を話すことができます。
そういう本音を聞いてもらい、我慢しなくていいよと言ってもらえることがどれだけありがたいことか。
自分をわかってくれる人、見てくれている人がいてくれるということが、どれだけ勇気をもらえることか。
この物語が素敵なところは、自分がありがたいと感じたことを、また別の人にしてあげようとするところです。
翔子は、時江に自分の話をし、救われたと感じました。
自分のことを見てくれる人を感じることができたのです。
だから。
翔子は、ひとりでがんばる小さい翔子にハンカチを差し出しました。
またミサは、翔子が気丈に立ち向かう姿を見て、自分も勇気をもって悩みに向かい合わなくてはいけないと勇気をもらいました。
だから翔子は、電車で出会った知らないおばさんである康恵にも、ちょっとした勇気を与えてあげるのです。
人の善意が、それもちょっとした善意がすこしづつ、繋がっていく。
これがとても素敵です。
前述した翔子のモノローグは往路での話であり、復路では翔子は大きくそしてのびのびと生きています。
彼女は他人から人生に勇気をもらい、そして勇気をあげた。
奇跡というには大げさですが、ちょっとでも人の人生に力を与えることはできるのですよね。

原作小説「阪急電車」の記事はこちら→

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2011年5月 2日 (月)

「SOMEWHERE」 淡々とした生活、だが大切な日々

ヴェネチア国際映画祭で受賞したのは元カレのタランティーノが贔屓目でみたからとか言われてますが、僕はこの作品は好き。
今までもソフィア・コッポラの作品は好きなものが多いです。
本作を観る前に耳に入ってきた情報としては、最初のカットがフェラーリが延々と走っているものだということ。
これがしばらく続くということでした。
ソフィア・コッポラ監督は「ロスト・イン・トランスレーション」などでもわかるように、基本的にケレン味というよりは、ストイックさを感じるテイストもある方だと思います。
この最初のカットも意味がないわけはなく、その意味はなんだろうということを考えながら観ました。
制作会社のロゴのところからフェラーリのエンジン音が聞こえてきます。
フェラーリは周回コースのようなところをぐるぐると回っています。
1回、2回、3回・・・。
カメラは車を追うわけでもなく、ずっと固定。
観終わった後、このカットとは非常に意味があるなと思いました。
言うなれば、この周回運動は、主人公であるジョニーの人生そのものなんですよね。
ジョニーはハリウッドのスターであり、海外でも受賞されるほど。
彼は実在する有名ホテルで生活しており、おそらく一生生活するのに困らないくらいのお金はすでに稼いでいると思われます。
ですから、何をするにも不自由はない。
高い車にも乗れるし、有名ホテルでの暮らしも続けられる。
ギャンブルもできるし、出かけるのにヘリすらチャーターできる。
あくせく働く必要もない。
誰もが憧れるセレブな生活ですが、実は彼の人生は単調極まりないものであったのかもしれません。
それは彼が生活している姿をみていても、何か熱というものが感じられないからです。
飽きてしまっているような、空しさのようなものが感じられます。
そういう彼が楽しそうな笑顔を出すのが、娘のクレオといっしょにいるときです。
でもそこには映画によくあるようなドラマはありません。
再会する父と娘にある確執のようなものもありません。
どろどろとした愛情や憎しみもありません。
この父娘は普段は離れて暮らしているにも関わらず、互いに愛情を持っている仲良しな親子です。
本作ではジョニーとクレオがいっしょにいろいろなことで遊んでいる姿が、淡々と綴られています。
それこそ繰り返し、繰り返し。
二人はその生活をほんとうに楽しんでいます。
父も娘もいっしょにいることを嬉しく思っています。
まさに冒頭の周回するフェラーリのように淡々と繰り返し、繰り返し、その姿が描かれます。
けれど。
その幸せな日々は永遠に続くものではありません。
いつかは子は成長し、そういう幸せな時間が終わるときがくるのです。
本作はいずれそういうことがくる兆候を描いていません。
けれども、そういう予感を感じられるのです。
このあたりはキャスティングの妙がかなり大きく、そしてその要請に答えた俳優の演技も良かったと思います。
特に娘役のエル・ファニングはかなり素晴らしかった。
見た目はちょっと11歳にしては伸びやかで大人っぽくもありますが、精神的には子供らしい素直な精神をもった子として描かれています。
最近の映画に登場する子供によくあるような大人びた感じではなく、あくまで素直な感じというのはなかなか演技しようとしてもでないかなと思いました。
このエル・ファニングの存在が大きかったかなと思います。
こういう素直な子もいつかは大人びて、親を離れていくであろうというのは、みなわかっていること。
それは必然なのです。
だからこそ、この幸せな親子関係が、いつまでも続くわけがないという予感が起こるのです。
そしてジョニーが元妻へ泣き言からも、彼自身もそういう予感を持っているということが伝わってきます。
彼は「オレは空っぽな男だ」と言います。
おそらく毎日を周回コースを走っているような車のように単調に繰り返すだけ、そこに幸せを運んでくれる娘もいつかは離れていってしまう。
その後に残されるのは空っぽな自分だけ。
そういう空しさを彼は予感していたのかもしれません。
だからこそ、また最後のシーンに意味がでてきます。
冒頭に周回コースを走っていたフェラーリは、最後のシーンは延々と一本道を走り続けます。
どこまでも、どこまでも。
やがてジョニーはそのフェラーリを降り、自分でまた歩き始めます。
これは彼が、ぐるぐると回り続ける周回コースを降り、そしてやがて巣立っていくであろう娘との生活が終わることを覚悟しつつも、それを大切にして生きていこうという姿勢になったということではないかと思います。
淡々とした生活、ですが大切な日々。
これはセレブな生活だからというのではなく、僕たちの普通の生活にも通じるところがあるかもしれません。
惰性で進む人生ではなく、ほんとに当たり前なことを当たり前だと思わずに大切に生きていく人生にしようと思ったように感じました。
同じ生活でもそれが大切だと思って生きるのと、思わないで生きるのは、輝きが違うのだというようなことが伝わってきました。
いい映画でした。

途中でも触れましたが、エル・ファニングはいいですね。
素直そうな笑顔がいいです。
誰かに似ているな、と思って思いついたのが宮﨑あおいさん。
顔かたちはもちろん違いますが、笑い方が似ている気がします。
素直そうな笑い方が。

ソフィア・コッポラ監督作品「ロスト・イン・トランスレーション」の記事はこちら→

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2011年5月 1日 (日)

「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」 シンプルに楽しめる記念すべき第一作

今月20日、第4作目「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」が公開されるので、気分を盛り上げようと思い、第1作目「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」を観ました。
久しぶりに観ても楽しめました。
あのテーマが流れてくるとワクワクします。
この作品を初めて見たのはもう8年前になるんですね。
ちょうどその頃は、映画熱が一時的に冷めていたときでした。
確かそのときは同伴がいたので(ようはデートだ)、万人受けして、単純に楽しめるものがよかろうということでこの作品を選びました。
ディズニーのアトラクション原作だから、女性でも楽しめるだろうと。
けれど観始めたら、想像以上におもしろく、自分でもかなり楽しんじゃいました。
観る前は、「今時海賊映画?」「ジョニー・デップがメジャーで主演って大丈夫だろうか?」「ディズニーのアトラクションだから、お子様向けのヌルいお話じゃないの?」「ゴア・ヴァービンスキーって誰?」といったような不安があったのですが、そんなのは観たら払拭されました。
今はジャック・スパロウといったらジョニー・デップの一番のアタリ役とされています。
へんてこなメイク、それと無駄な動き(笑)、こんなユニークなキャラクター、あまり他にいないですよね。
一度観たら忘れられないキャラクターでしょう。
オーランド・ブルームもキーラ・ナイトレイもブレイクしたのはこの作品ですし(本作のキーラ・ナイトレイは目を見張るほど美しい)。
他のキャラクターも印象的であり、バルボッサなど敵役だったのに結局新作にも登場するほどで、レギュラー化してますよね。
海賊映画というと古めかしい印象しか当時はなかったですが、現代的にも通用するストーリー、アクションで見せてくれる映画になっていました。
脚本的には最後のどんでん返し(ジャックがあえて呪いを受け不死身になる)もなかなかのアイデアでした。
その場面での剣劇シーンも魅せてくれましたよね。
月の光があたる場所ではガイコツ、そうじゃないところでは生身になるというのを、アクションシーンの中でうまく見せたのは画期的でした。
こういう新しい表現というのも、古くさそうになりそうな海賊映画を、新しいものに見せるひとつの要素になっていたと思います。
ストーリーも複雑ではないし、キャラクターも立っているのでわかりやすく、それほど頭を使ってみる必要もない、まさにアトラクション的な楽しさもある作品です。
続く2作、さらに3作とだんだんと話しが複雑になっていって、本作の持つシンプルさがなくなっていったのは残念なところです。
今度の「生命の泉」は初心にかえり、本作のようなシンプルさを狙ったということを聞いていますので、期待したくなりますよね。
「ワールド・エンド」は期待が重すぎて、空回りした感じがありましたから、新作は監督も代わるので、シンプルに楽しめる作品になっているといいですね。

この映画のテーマ音楽ですが、ジマー節バリバリだったので、絶対音楽を担当しているのはハンス・ジマーだろうとエンドロールを観ていたら知らない名前が。
うーん、違う人だったのかーと思っていたら、テーマはやっぱりハンス・ジマーだったのですね。
その頃、忙しくてテーマだけ作曲して、それ以外のアレンジを他の人に任せたのだとか。
だからクレジットされていないということです。
2作目以降はハンス・ジマーがクレジットされてます。

第二作「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ チェスト」の記事はこちら→
第三作「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」の記事はこちら→
第四作「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」の記事はこちら→

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本 「聖ヨゼフの惨劇」

ヨーロッパの歴史を題材に小説を書くことが多い藤本ひとみさん。
本作は18世紀フランスに実際にいた人物、ヴィドックが主人公です。
ピトフの映画「ヴィドック」でご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ヴィドックは少年の頃は刑務所に入れられ、そこで闇社会での人脈を作り、その後パリの警視庁の前身となる部局の初代局長になります。
そこを引退後は、私立探偵事務所を開き、世界初の私立探偵となったという経歴の持ち主です。
映画「ヴィドック」で描かれているのは私立探偵時代の頃ですね。
ヴィドックという人物の存在はその後の探偵小説、推理小説に大きな影響を与えたと言われています。
本作はヴィドックの少年時代、刑務所に入れられていた時代の話になります。
ヴィドックが入れられた刑務所は、誰も脱獄をすることができないと言われていたところでした。
一度入ったら出てくることはない刑務所です。
その中で、ヴィドックはしたたかに生きる希望も持ち、脱獄を企てます。
そして誰も脱獄できないという理由、そしてその刑務所でかつて起きた惨劇の謎にも迫ることになるのです。
歴史ものではありながら、推理小説的な趣もある作品です。
でも藤本さんの作品らしく、耽美な感じがそこここに感じられます。
この耽美さは好きずきが分かれるところかもしれませんが、やはり藤本ひとみさんの個性と言っていいでしょう。
ヴィドックの人物像が快活でかつ野性的で魅力があります。
またこのキャラクターが登場する作品が読みたいなと思わせてくれました。

ピトフ監督作品「ヴィドック」の記事はこちら→

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