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2011年3月26日 (土)

「漫才ギャング」 緩急自在のテンポが心地よい

品川ヒロシさん、「ドロップ」に続く監督第二作目になります。
実は「ドロップ」は未見。
評判は意外にも(失礼!)評判は良かったですが、本職じゃない方の監督作品ですし、また「クローズ」がヒットしたから二番煎じ?みたいな思いもあって、スルーしてしまいました。
ということでしたが、本作は予告編がけっこうおもしろかったので、本日観に行ってきました。
感想は・・・、おもしろい!
品川監督、いいじゃないですかー。
思えば、北野武監督、松本人志監督と、芸人を本業としている監督って巧みな方が多いですよね。
漫才をやっている方って自分でネタを書いたりするわけで、話の展開とかについて日々考えているのが仕事なわけですよね。
そういう芸人出身監督がみなさん脚本も自分で書けるっていうのは、よく考えれば納得ですよね。

品川監督が上手いな、と思ったのは編集です。
カットの切り方がテンポいい。
これは早いというより、緩急の使い方が巧みという感じがしました。
例えば、飛夫と龍平が初めて出会う留置所のシーン。
二人の会話、それにはさまる飛夫のモノローグのあたりのテンポがものすごく心地よい。
まさにここのテンポは漫才のボケとツッコミのリズムなんですよね。
単純なカットの切り替えだけではなくて、カメラの動かしなどもさりげなく工夫がありました。
ケンカなどのアクションシーンは早いカットの切り替え、そしてスローをはさむところなど緩急の付け方がうまい。
若い監督にありがちな「個性的な感じを狙った」というよりは、監督二作目にして「手慣れている」感じがしました。

お話は「漫才」を題材にしながらも、友情と成長をテーマとしていた王道のストーリーです。
言うなれば「少年ジャンプ」的なわかりやすいお話と言えるでしょう。
わかりやすく、すっと物語に入っていきやすいので、普段映画を見慣れない人も苦にならない作品です(北野監督とか、松本監督はクセがあるので)。
上記のテンポの良さというのも見易さにつながっていると思います。
主人公飛夫を演じた佐藤隆太さん、龍平を演じた上地雄輔さんの漫才シーンは、本職ではないのにも関わらず非常におもしろかったです。
このあたりは監督の指導があったのでしょうか。
それにしても見事な漫才コンビっぷりでした。
龍平のツッコミは気持ちいい!
職場の会話では、後輩がやたらボケたがるので、僕はどちらかというといつしかツッコミ担当に。
最近はツッコミのスピードも早くなったようで、先日その後輩に褒められました(どういう職場だ)。
めざせ、龍平のツッコミです。
普段、あまりお笑い番組を観ないので、芸人さんには詳しくないのですが、本作を観て気に入ったのは「シャア専用デブ」の方(秋山竜次さんとおっしゃるようで)。
一言で言って「キモイ!」んですが、なんかアレがたまらなくツボに入ってしまいました。
「シャア専用デブ」登場時のときの会話の際の、品川監督のカメラの寄り方もキャラクターがわかってらっしゃる!という感じで執拗でよかった。
「キモさ」が際立って、逆にいい感じでした。

久しぶりに劇場で大笑いできました。
世の中、こんな雰囲気なので、大笑いして気分をすっきりするのもいいですよね。
こんなときだからこそ、ぜひ劇場へ!

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2011年3月21日 (月)

「英国王のスピーチ」 友が聞いている

本作は現在のエリザベス女王の父親にあたるジョージ6世の物語。
ジョージ6世は幼い頃から吃音というコンプレックスを持ち、人前に出ることを嫌う内気な性格でした。
けれども生まれながらの王族という立場、人前を避けることはできません。
よく考えてみれば目立つことが嫌いな人にとって、始終人からの視線を気にする王族などという立場は一番避けたい仕事かもしれません。
政治家であれ、芸能人であれ、能力があり、自ら望んでそのような職務を望むのであれば、人の目を気にするのは「有名税」のようなものですから、我慢できようものですが、それが生まれたときからそう定まっていたとするのは、そういうことを望むのでなければかなり辛いことだと思います。
ジョージ6世の兄であるエドワード8世は王位につきながらも、「世紀の恋」を選び王位を捨てたということでロマンスとして語られることが多いですが、ジョージ6世から見ればそれは責任を放棄したということ以外のなにものではありません。
内気であり、また自らが高い能力であるとも思っていない彼からすれば、責任のお鉢が回ってくるというのはたいへんに重いことであったに違いありません。
けれども彼は、非常に我慢強く責任感の強い人でありました。
第二次世界大戦直前での王位につき、投げ出したくなるような責務を負わなければならない立場になるにも関わらず、彼はそれを放棄しませんでした。
悩み、苦しみながらもその責務をまっとうしようとしたのです。
その彼を支える役割となるのが、スピーチ矯正を生業とするライオネル。
彼はジョージ6世の人となりを理解し、彼の力を信じ、彼を導いていきます。
非常に責任のある立場に立った人が感じるのが孤独です。
外野はなんやかんやといろいろなことを言う。
自分の一挙手一投足をじっと監視し、言った一言ひとつひとつに批評をする。
そんな環境の中で、自分というのを保つのはどれほどにたいへんなことでしょうか。
そんな中で、ジョージ6世を支えるのが、ライオネルであり、妻であるエリザベスなんですよね。
本音を言い、それを聞いてもらえる友や家族がいるからこそ、重い責務を背負うことができる。
ジョージ6世がドイツとの開戦を国民に伝えるスピーチへ挑む前に、ライオネルは彼に言います。
「友が聞いている」と。
だれかが側にいて、彼自身のことをしっかりと見、そして聞いてくれる、それが心強さを与えてくれます。
ジョージ6世は、スピーチを進めていくうちに段々とその言葉が流暢になっていきます。
それは次第にその言葉に彼自身の思いが入っていったから。
彼はずっと彼が言うこと、それに周りがどう反応するのかがとても怖かったのでしょう。
だから自分の思いを言葉に出すことができなくなったのかもしれません。
けれどライオネルやエリザベスの支えにより、彼は自分自身の言葉で気持ちを語れるようになったのです。

この映画を観ると、現在の緊急事態下の日本において、空虚な言葉を発している責任ある人々の姿がなんとも情けなくなります。
平時はリーダーシップ、リーダーシップと言っていた野党までなんだか責任をとりたくないのか、尻込みする始末。
永田町の方は本作を観て、感想文を書いてほしい。

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2011年3月20日 (日)

「ツーリスト」 サスペンスなのにのんびりまったり

ジョニー・デップ、アンジェリーナ・ジョリーという当世きってのハリウッドスター二枚看板が主役の贅沢な作品。
さえない数学教師フランク(ジョニー・デップ)はヨーロッパの旅の途中で、謎の美女エリーズ(アンジェリーナ・ジョリー)に出会います。
彼女との出会いを境に、フランクは警察から追われ、また殺し屋たちに命を狙わるというサスペンス。

というサスペンスのはずなのだけれど、なぜかハラハラドキドキ感がない。
現代のサスペンス映画でスピード感というのは重要な要素だと思うのですが、たぶんそれがないのです。
この作品におけるスピード感のなさというのは、ストーリーの展開もそうですし、演出の仕方、アクションシーンの見せ方などさまざまなことに言えます。
敵とのチェイスシーンや、主人公二人の恋愛模様、またどんでん返しも用意されているのですが、どうにものんびりしている感じがしてしまいました。
とても古い映画を観たときに感じるようなのんびりまったり感、「古典的」な感じとでも言いましょうか、そういう感じがしました。
贅沢な主演の二人ですし、贅沢なロケですし、素材はけっこう高級なものを用意しているのですが、その調理がよくなかったという感じがします。
監督は「善き人のためのソナタ」(私は未見)で評判になったフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクということなのですが、作品とこの監督の個性が合わなかった感じがしますね。
勝手が違う作品を手がけてしまったというような。
そういう意味でミスマッチな作品であったと言えるかもしれません。
ジョニー・デップとアンジェリーナ・ジョリーが主演でなければもたなかったかも。
二人もそれぞれの達者な部分を引き出せていなかったような気がします。
ということでちょっと残念な作品でありました。

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2011年3月19日 (土)

「SP 革命篇」 復讐心と誇り

しばらくご無沙汰していた映画館に行ってきました。
久しぶりに観る映画として選んだ作品は「SP 革命篇」です。
こちらの作品は昨年公開された「SP 野望篇」の続編になります。
TVシリーズが井上(岡田准一さん)の物語とするならば、映画二部作は尾形(堤真一さん)の物語であると言っていいでしょう。
井上と尾形は同じような経験を持っている人物です。
親を政治家の野望の犠牲として失いました。
TVシリーズでは井上が親を失った原因となる総理大臣への復讐心、そして人を守るというSPの誇りの間で葛藤する様子が描かれました。
井上はその中でSPの誇りに生きるという揺るぎないものをもつに至ったのです。
彼は映画の中で葛藤はありますが、そのSPの誇りに対しての疑いを持つことにはなりません。
その誇りを井上に教えたのが、他ならぬ尾形であったわけです。
その尾形も、復讐心を内に抱え、そのためにSPになり、そして日本そのものを変えようと行動を起こすのです。
もともと政治家に近づくための手段として彼はSPになったのでしょう。
けれども井上に教えたように彼の中にもSPの誇りはありました。
彼も復讐心と誇りの間で葛藤していたわけです。
井上はSPの誇りを選びましたが、尾形は復讐心を選びました。
けれども誇りそのものを捨てきれない迷いが、彼が育てた4係のメンバーを国会議事堂に配置するという行動に出たのでしょう。
尾形と井上が劇中で銃を向けあうシーンがありますが、これは尾形の内面の復讐心と誇りの葛藤を表していると思います。

アクション映画としても見ごたえがありました。
冒頭からすぐに国会議事堂の占拠という場面になりますので、かなり早い段階から緊張感があるドラマになります。
このあたりは前段の説明は「野望篇」で済んでいるので、物語の入りを早くできるんですよね。
また上に書いたように、尾形と井上の対立、すなわち復讐心と誇りの対立という構図が出てくるので、これにより緊張感が続く展開になったかなと思いました。
これも本作の見所の一つである、アクションシーンですが、「野望篇」に続き本作も見ごたえありました。
地下道での井上とテロリストの戦いは、総合格闘技の試合を見ているかのよう。
大きな体の相手に対し、井上の変幻自在の技の繰り出しは本物の格闘家のようでした。
岡田准一さんは、「SP」をきっかけに始めた武道で師範代の免許もとったとか。
それも納得できます。
あと4係メンバーと、寝返ったSPたちとの戦いのシーンも迫力ありました。
「野望篇」では路上での格闘シーンがありましたが、本作では室内。
いろいろな置物があるので、アクションシーンがかなり派手に見えました。
前作のようにそれぞれの役柄にあったアクションをあてているのは、やはり「SP」らしいなと。
4係のメンバーの山本(松尾諭さん)の「SP、強いっすね〜」っていうのは笑いました。
たぶん多くの人が心の中で「あんたもだろ」とツッコミを入れていたに違いありません。

今回の作品がFINAL EPISODEということで、「SP」シリーズもとりあえず終了。
けれども伊達議員の行く末とか、雄翔会のメンバー、あと警察の闇の部分など、明らかにされていない部分もいくつか・・・。
しばらくたったら、続編、なんてこともあるかもしれないですね。

「SP 野望篇」の記事はこちら→

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2011年3月17日 (木)

ぜんぜん映画館に行けない・・・

2月末から、例年ないほどに忙しくて休日出勤もしばしば。
ずっと映画を観れない・・・けど、3月後半になれば仕事の山は越えるはずなので、それまで我慢と思ってきました。
そしてやっと山を越えたと思った先週末によもやの大地震発生。
当然のことながら先週末は映画に行く気分にはなれず、自宅でおとなしく過ごしました。
週が明け仕事が始まれば、地震の影響が思いのほか甚大でその対応に忙殺されています。
こんどの三連休はリラックスしようかと思い、久しぶりに映画館のサイトを観てみたら、関東は計画(無計画?)停電の影響のため休館しているところも多い・・・。
すこし息抜きしたいんだけどなぁ・・・。
もう少し我慢か。

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2011年3月13日 (日)

本 「中国経済の正体」

タイトルは大仰ではあるのですが、世界的な大不況からいち早く抜け出し、また日本にとっても重要な国となってきている中国の経済状況について書かれている本です。
書かれている内容については、新聞などで書かれているニュースのような内容でそれほど小難しくはありません。
網羅的に書かれている分、中国経済を多方面から広くとらえやすく、中国経済入門者にとっては読みやすい本になっていると思います。
逆に中国経済に詳しい方からするとちょっともの足りないかもしれません。

中国の経済とつき合うにあたっては、やはりその特殊性というものをわかることが必要なのかと思います。
ご存知の通り、中国は開放政策をとっているとはいえ共産党一党独裁なので、その経済政策、または発表される数字については、党の恣意というのは非常に強く働くということです。
いわゆるチャイナ・リスクと呼ばれるものですが、日本や欧米での経済活動とは異なるということを理解しておく必要があるでしょう。
そういう点からみても、中国経済の規模は無視できないくらいに大きくなっていますが、だからといって中国べったりとなるのではなく、リスクを承知した上で、リスク分散をはかりながら(インドなどの他の新興国との関係強化を行う)といった著者の考えは納得性が高いと思いました。

「中国経済の正体」門倉貴史著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288047-3

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2011年3月12日 (土)

徒歩で帰宅しました

昨日の地震で会社からはそうそうに帰宅指令がでました。
電車は動いておらず、車は渋滞。
帰宅手段は徒歩しかありません。
家までは15kmほど、常備していたスニーカーに履き替えて家路を急ぎました。
結局家までは2時間20分ほどかかりました。
家自体は本だなから本が飛び出していたのと、グラスが割れていたのと以外は大丈夫で、一安心でした。

このところ休日出勤が続き、映画に行けなかったいたので、今週こそは!と思っていましたが、映画館も上映中止のところも多いですし、そんな気分でもなくなっているので、今日は家でおとなしくしています。

被災地の方、帰宅途中の方、ご無事をお祈りしております。

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2011年3月 9日 (水)

本 「冷たい密室と博士たち」

森博嗣さんのS&Mシリーズの第二作目になります。
一作目の「すべてがFになる」がかなりインパクトのある作品であったので、二作目はどうなるかと思いましたが、思いのほか正統派のミステリーになっていました。
正直、一作目ほどの新鮮さは感じられませんでした。
提示されるミステリー、そしてそれを論理的に詰めていって解決していくスタイルはまさに正統派です。
その謎解きが単純・簡単というようなものではないのですが、理詰めで積み上げていく感じはある意味安心感はあります。
一作目のようなどう転ぶかわからないようなところはあまりありません。
「すべてがFになる」は読みながら見ていた世界が反転するというか、ひっくりかえるようなところがありました。
同時期に注目された京極夏彦さんの小説はその後発表される作品でも、この世界がひっくり返る感じというのをどの作品でも持っていますが、そういう点は本作ではあまり感じられません。
行儀よく座っている感じがするっていうところでしょうか。
この行儀よさというのは意識的に行ったものなのか。
それとも一作目は奇跡的に生まれたストーリーであったのか(このシリーズは何作も書き進められているので、おそらくこんなことはないかと思いますが)。
このシリーズ、読み進めなければわからないのでしょう。

S&Mシリーズ「すべてがFになる」の記事はこちら→

「冷たい密室と博士たち」森博嗣著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-264560-2

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2011年3月 7日 (月)

本 「アーモンド入りチョコレートのワルツ」

「DIVE!」「カラフル」の森絵都さんの初期の作品です。
森絵都さんは僕は好きな作家の一人。
彼女の作品の主人公は中学生くらいの男の子、女の子の場合がすごく多いですが、本著の中に収められている三つの中編も主人公は中学生です。
中学生というのは言うまでもなく、思春期のただ中にいます。
言い古された言い方だと、子供と大人の間にいるわけです。
この狭間にいる子供たちの心情を描くのが、森絵都さんはすばらしく上手い。
そして、やさしい。
子供の頃というのは、自分のごく身近な周りのことしか目に入らないですし、そして自分の人生なんて考えることもありません。
つまりはあるのは自分のことが中心で、そのことに思いをはせるのが精一杯。
けれども、思春期になるころから、いろいろなことが目に入ってきます。
それほど見たくない大人の事情とか。
それに対して、なんとなく獏とした不安をもってしまう。
いつまでも子供のままでいられないという事実に気づくことの不安とでもいいましょうか。
そういった狭間にいる子供たちの不安な気持ちというのを描き、それがふっとしみ込むように読んでいると心に入ってきます。
ああ、そう言えば、あの頃そんな感じだったかもしれないと、思い出すような。
森さんのタッチはとてもやさしいので、そういう子供たちの持つ不安も決してイライラしたような負のエネルギーを感じる描き方にはなりません。
思春期を描く作品にはそうしたイライラ感を出すものも多いですが、森さんの作品はそういうところはありません。
あくまでもやさしく、そっと見守ってくれるような感じ。
僕が本著の中で好きな一遍は「彼女のアリア」。
「彼女」も「ぼく」も獏とした不安を持ち、そんななかでなにか通じるものを感じ、行き違い、そして最終的には互いを認めて受け入れる。
やさしくて幸せな気持ちになる一遍です。
そういう二人をやさしい文体で描いてく、森絵都さんはやはりやさしい人に違いないと思うわけです。

「アーモンド入りチョコレートのワルツ」森絵都著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-379101-9

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「劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」 変わろうと思えば、人は変われる

「機動戦士ガンダムOO」シリーズの劇場版で、セカンドシーズンから2年経過した世界が描かれます。
セカンドシーズンのレビューで書いてきたように、本シリーズはファーストガンダムのエッセンスを持ちながらも、それを解釈し「OO」シリーズならではの人類の未来を描き出しています。
ファーストガンダム〜ZZまでをの富野由悠季監督の「人の相互理解」をテーマにかかげながらも、それは実際には実現不可能であるような悲観性をもっていたと思われます。
それはファーストガンダムでのララァを中心においてアムロとシャアが最後まで対立していくこと、Zガンダムではさらにその悲観性が進み、カミーユの人格崩壊といった悲劇を描きます。
ここからは富野監督自身は「人の相互理解」は現実的には難しいのではないかという考えが表れているような気がします。
「伝説巨神イデオン」では地球とバッフ・クランの接触はまさに「相互理解」のすれ違いであり、それは一度リセットしなくては、誤解は解けないというところまで達します。
そこには何か諦めのようなものを感じるのです。
けれども「OO」シリーズはファーストガンダムと同様に、「人の相互理解」をテーマにしながらも、人類の行く末をポジティブにとらえています。
まさに「変わろうと思えば、人は変われる」というのがその主題となっています。
「変わろう」という意志をもつ。
変わるにはいくつもの大きな困難が必ずある。
痛みもある。
けれども、変わろうと思えば、いつかはそれは達成されるというポジティブなメッセージを感じます。

ファーストシーズンのレビューで書いたように、本作はSF小説・映画などの影響が強く見られます。
SFではファースト・コンタクトを描いた名作がいくつかあります。
地球人が宇宙に進出した時、そこで出会う異星人、異星文明とどのように対処するのか。
戦いか、理解か。
「2001年宇宙の旅」などにあるように、人類が宇宙に進出し異星文明と接触し、その進化の行く末に「統合意識」なるものとの融合という結末にたどり着く作品がいくつかあります。
こういう結論に達する名作も多いのですが、けれどもそれは安直な結果でもあります。
個々に別れているから争いが生まれるのであり、争いをなくすためには一つになるしかない。
これは一つの考えですが、やはり安易さは感じます。
僕が「OO」シリーズを評価するのは、個々の人としての人生というものがありながら、それでも「相互理解」を成し遂げ、争いをなくすにはどうしたらいいのか、というたいへん難しいところをあえて逃げずに突き詰めているというところです。
これは非常に難しいテーマでありながらも、それにチャレンジをしたスタッフに敬意を持ちます。

人類の歴史上、未知なるものとの出会いがあるとき、そこには争いが生まれていました。
それは隣村だったり、言葉が通じない他国であったり、宗教が異なる民族だったりしてきたわけです。
人類の戦いの歴史というのは、まさに未知なるものとの出会いから生まれてきたわけです。
知らないものについては人は警戒心を持ち、自分自身を守るために戦おうとする性質を持っています。
それは本能に近いところのものですからなくすことはできないにせよ、それをいかに理性でおさえられるかが人類の成長というところになるのでしょう。
今までも人類はそういうことに直面しながらも、徐々に歩みを進めてきました。
本作品はその歩みを肯定的にとらえ、いつかは「相互理解」ができるようになるはずだという希望を描いています。
「ガンダム」の劇場版で異星生物とのコンタクトがあると聞いた時、たぶんファンであればあるほど「?」と思ったでしょう(僕もです)。
けれども本作を観れば、それが必然であったと思いました。
ファーストシーズンからセカンドシーズンの物語の中で、人類は多大な犠牲を払いながら曲がりなりにも「相互理解」を進めることができました。
刹那が真のイノベーターとなったように、人類が真の「相互理解」へ進むにあたっては、人類がまったく触れたことのない未知のものとの接触が物語として不可欠なのです。
水島監督はこの設定を発表したときは非難が巻き起こるのが覚悟の上だったとおっしゃられたようですが、それを勇気をもって押し進めたのはすばらしいと思いました。
物語の要求に答えるというのは、簡単なようでいて難しいことです。
特に歴史もあり、ファンも多いシリーズにとっては。

本作のスタッフには「ガンダム」の根幹となるテーマを真正面から受け止め、それに対してポジティブな答えを出すという非常に真摯な姿勢を感じました。
それは非常にチャレンジングな作業だったに違いありません。
人気シリーズであることに胡座をかかず、また迎合せず、素晴らしい作品を作り上げたと思いました。

テレビアニメ「機動戦士ガンダムOO ファーストシーズン」のレビューはこちら→
テレビアニメ「機動戦士ガンダムOO セカンドシーズン」のレビューはこちら→

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2011年3月 5日 (土)

「機動戦士ガンダムOO セカンドシーズン」 ファーストガンダムへのオマージュ溢れる

久しぶり「ガンダム」シリーズを観ましたが、こちら「OO」はかなりおもしろかったです。
セカンドシーズンに入ってからは、ファーストガンダムへのオマージュが溢れ、ファーストで取り上げられたテーマについて「OO」としての解釈・結論を導きだしていたと思われます。
そう考えるとファーストシーズンはそれの前振りとなっていることがわかります。

ファーストガンダムで描かれていたのは、人類が宇宙に進出するにあたり発生していく「人の覚醒」。
この覚醒というのは、ファーストでは「ニュータイプ」と呼ばれていましたが、人の意識が自分の肉体という枠を越え、他者との意識との交流をおこない、わかりあえるといったものでした。
人の覚醒が行われていく中で、「ニュータイプ」と「オールドタイプ」との間の対立、また「ニュータイプ」同士での目標とする世界観の違いによる対立が描かれているのが、ファースト、Z、ZZまでの物語であったと思います。

「OO」シリーズはファーストシーズンでは人の覚醒というところまでは描かれていませんでしたが、セカンドシーズンに入り、その点がクローズアップされていきます。
イノベーターという人類と異なり互いの意識のリンクができる人々の登場、そして人類から覚醒した「真のイノベーター」と呼ばれるものの出現。
この「真のイノベーター」というのはファーストガンダムでいう「ニュータイプ」と限りなく近い設定であると思います。
また本作においてガンダム技術のコアとなるGN粒子という設定は、ファーストガンダムでいうミノフスキー粒子を髣髴とさせますが、単にモビルスーツを出現させるための設定背景というのではなく、「真のイノベーター」発現への重要なものとなっています。
ファーストガンダムでいう「ニュータイプ」は人類が宇宙に進出するにあたり、偶然に発現した新しいタイプの人類ということになります。
これは予期せぬものであり、だからこそその発現に人類全体が戸惑い、どのように新しいステージへ「ニュータイプ」を組み込むかということが描かれています。
「OO」シリーズにおける「真のイノベーター」というのは、イオリアからすれば人類が宇宙へ進出するにあたり、「そうならなければいけない」という必ず通過しなくてはいけないステージとして解釈されています。
おそらくイオリアは人類は常に成長というものを志向する生き物であるという認識であったのでしょう。
ですからいずれ人類は地球を離れ、太陽系、そして外宇宙へ進出していくというのは自明であったわけです。
しかしながら地球上という狭い世界のなかですら争いを続けている今の状態では、そのまま宇宙へ進出したとしてもどこかで崩壊し、それは人類滅亡に繋がってしまう恐れがある。
それをイオリアは懸念したのでしょう。
そのためには人類相互が互いに理解しあわなければならない。
そういう能力をもった人々「真のイノベーター」の出現を導く必要があったのです。
そこにいくつくためのストーリーをイオリアは描いたのです。
すなわちソレスタル・ビーイングによる武力介入に対抗するために成立する世界政府、そして強権的な世界政府に対抗するための人類の相互理解力の覚醒。
ファーストガンダムではなりゆき的な発生であった「ニュータイプ」人類の覚醒が、「OO」シリーズは一つのシナリオに基づき行われてゆくのです。

セカンドシーズンはファーストシーズンの4年後の設定ということで、登場人物がその歳月を経た変化があったのも感慨深いものがありました。
沙慈とルイスの関係はファーストから大きく変わり、これはファーストガンダムのアムロとララァ、Zガンダムのカミーユとフォウといった敵味方に別れた二人の悲劇といったものを引き継いでいるように思いました。
フェルトもファーストシーズンではおとなしい引っ込み思案なところもあった少女でしたが、セカンドシーズンでは力強く他のクルーを支える女性として成長しています。
彼女はロックオンの死のダメージを乗り越え、精神的に成長している様子がうかがえました。
ファーストシーズンからセカンドシーズンへ4年間という間をおいたのは、世界が変わっていく様子を描くには必要な時間であったのと、また主要人物が成長していくのにも必要な時間であったという意味で、とても上手な設定であったと思います。
これはファーストガンダムからZガンダムへの変化をも髣髴させるものであり、やはり初期ガンダムへのオマージュを強く感じました。
ファーストガンダムからZZまでの流れというのは、人類の覚醒というものを描きながらも結果的にはそれを上手に受け入れられない人類を描いており、基本的には世界的にも、それぞれの登場人物的にもハッピーな結果となっているわけではありません。
ある意味それが現実なのかもしれませんが、観終わったときはやるせなさというのを感じたりもするわけです。
けれどもそれらファーストガンダムからZZまでのシリーズへ敬意を表しながらも、「OO」シリーズが描く人類の覚醒は非常に前向きであり、そして登場人物たちも多くは良い結末をむかえています。
とても気持ちよく観終えることができました。
未来への希望を感じたとでもいいましょうか。
その前向き感が本作「OO」シリーズの特徴ではないかと思いました。

劇場版では、なんと地球外生命体が登場するということ。
テレビシリーズをDVDで観る前にその話は耳に入っていたので、聞いたときは「???なんで」と思いましたが、全シリーズを観終え、イオリア計画がわかった今ではそれは物語的には必然であるなと思いました。
やっと人類は覚醒を迎え、そして外宇宙に進出する準備が整ってきたわけです。
その先で出会う新しい出来事に人類は対処できるのか、それが劇場版で描かれるのでしょう。
こちらについてもすぐに観てみたいと思います。

ファーストシーズンに出ていたガンダムエクシアが僕は好きなデザインだったのですが、セカンドシーズンにはいり、刹那の乗る期待がOOガンダムになってしまったので、ちょっと残念でした。
しかし、最終回にエクシアが再登場してくれたのはうれしかったですねー。
あと最終回はガンキャノン的なモビルスーツもでてきていて、本作はとことんファーストガンダムへオマージュを捧げているなと思いました。

「機動戦士ガンダムOO ファーストシーズン」の記事はこちら→
「劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」の記事はこちら→

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2011年3月 1日 (火)

本 「ダーク・タワー」

多くの映画の原作となる小説を書いているスティヴン・キング。
キングのライフワークとも言える「ダーク・タワー」シリーズをようやく完読しました。
本作はダーク・ファンタジーに分類されると思いますが、舞台設定がユニーク。
主人公のダーク・ヒーローが持つのは剣ではなく、銃。
そしてその舞台となるのは西部劇のような荒れ地。
そこで主人公ローランドは仲間に出会いつつ、彼の究極の到達地である「ダーク・タワー」をめざし進んでいくのです。
読み始めてから、読み終えるまで数年がかりでした。
キングの小説が原作となる映画は何本も観ていますが、実は彼の小説を読むのは初めて。
初めてなのにこのような大作を読むのはかなり無謀でした。
というのも、読み始めてわかったのですが、この作品はキングが書いた小説世界を繋ぐ中心となるような作品なのです。
ですので、キングのファンには自明のことでも、初心者にとっては説明不足の感もあり、なかなかに読み進めるのがしんどかったというのもあります。
逆にキング・ファンにとってはたまらない設定でしょう。
さきほど書いたように本作はキングの作品の中心にポジションするような作品です。
これはこの小説の世界のなかでの中心とされる「ダーク・タワー」ともかぶります。
本作のあとがきでキング自身が書いているように、本人はメタフィクションという言葉は嫌いなようですが、まさにそのような位置づけであるように思いました。
作品の世界観についてもう少し突っ込んで考えてみたいところですが、やはりバックボーンにキング作品の知識がないと難しいですね。
やはり本作はいくつかのキング作品を読んでから、トライすることをオススメします。

本作を手にとり、読み始めたのは本の帯の推薦の言葉が作家の栗本薫さんだったから。
栗本さんはご存知の通り、「グイン・サーガ」という大河ヒロイック・ファンタジーを書いていた(過去形になるのが悲しい)作家さんです。
「グイン・サーガ」は100巻を越えるほどの大作で、それをライフワークとしている栗本さんが、やはりスティーヴン・キングのライフワークである「ダーク・タワー」シリーズを推薦していたので興味を持ったのです。
栗本さんが亡くなって「グイン・サーガ」は絶筆してしまいました。
実は「ダーク・タワー」はキングが若い頃から書き始めた作品でしたが、しばらく物語が進まない時期がありました。
けれどもキングが交通事故に遭い生死の境をさまよい、無事生還したあと、彼はこの作品を書き終えるべく取りかかったのです。
このあたり自分の死によって物語が途絶えてはいけないといったような使命感のようなものを感じたのかもしれません。
物語を書いているのではなく、書かされているというような。
栗本さんも生前そのようなことをあとがきで書いてらっしゃいました。
本シリーズを読み終えて、語り終えられた物語、語り終えられなかった物語の、運命みたいなものに思いを馳せました。

「ダーク・タワー1 ガンスリンガー」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219339-6
「ダーク・タワー2 運命の三人<上>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219340-2
「ダーク・タワー2 運命の三人<下>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219341-9
「ダーク・タワー3 荒地<上>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219342-6
「ダーク・タワー3 荒地<下>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219343-3
「ダーク・タワー4 魔導士と水晶球<上>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219344-0
「ダーク・タワー4 魔導士と水晶球<中>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219345-7
「ダーク・タワー4 魔導士と水晶球<下>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219346-4
「ダーク・タワー5 カーラの狼<上>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219347-1
「ダーク・タワー5 カーラの狼<中>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219348-8
「ダーク・タワー5 カーラの狼<下>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219349-5
「ダーク・タワー6 スザンナの歌<上>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219353-2
「ダーク・タワー6 スザンナの歌<下>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219354-9
「ダーク・タワー7 暗黒の塔<上>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219355-6
「ダーク・タワー7 暗黒の塔<中>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219356-3
「ダーク・タワー7 暗黒の塔<下>」スティーヴン・キング著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-219357-0

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