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2011年2月27日 (日)

「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」 アスラン王はワイルドカード

1作目、2作目と食い足りないと言ってきた本シリーズですが、性懲りもなく観にいってきてしまいました。
食い足りなさは相変わらずではなくて、さらに輪をかけて食い足りなくなってました。
「ハリー・ポッター」シリーズや「ロード・オブ・ザ・リング」以外のファンタジー映画作品のシリーズって第1作でコケて2作目が作られないというパターンが多いですが、本作はどうして続けていけるんだろう?
制作会社に意地のようなものがあるのでしょうか。

1作目は白い魔女からナルニアを救うという戦い、2作目はテルマール人との戦いという、物語として太い軸のようなものがありました。
本作はなんで冒険しているのか、逼迫した感じというのがいまいち感じられませんでした。
説明されていないわけではないのですけれど、前二作のようなナルニア国がなくなってしまうかもしれないというような危機感ではないのですよね。
だから物語そのもののドライブ感が弱いのではないでしょうか。
島々を廻っていく一行が、なんかスゴロクやって一コマづつ進んでいくような感じがしました。
これなら全然「ワンピース」のほうが面白いじゃない。

あとこのシリーズ自体が持っている物語の弱さというのは、アスラン王だと思います。
C.J.ルイスはアスラン王はキリストをイメージして書いたと言われています(本作でもアスラン王がそれを匂わせるようなことを言います)が、そうだとするとナルニア国ではアスラン王は神様のような存在なわけですよね。
神様なら何でもできるわけで、物語としてはワイルドカードとして使えちゃうわけです。
実際に過去2作も、本作もアスラン王をまさにそのように使っています。
しかしそれにより、主人公たちがいくら追い込まれてもアスラン王が救ってくれるよね、というような感じがあり、観る側にも切迫感がなくなるんですよね。
「ハリー・ポッター」のハリーにせよ、「ロード・オブ・ザ・リング」のフロドやアラゴルンにせよ、彼らは自ら決断しなくてはいけない立場に追い込まれ、そしてその決断がその後の自分自身、仲間たちの運命を左右するものになります。
だからこそ観ている側も、力が入ってしまうわけで。
そういう点から観ると、本シリーズはやはりおとぎ話的で、最後は「めでたしめでたし」となるのだろうという予定調和が端から見えてしまいます。
安心感はありますが、それは物語が緊張感を失うということにも繋がります。
まさに本作はそうなってしまっているように思います。

あと3Dですが。
「アバター」のヒット以来3D映画がたくさん作られていますが、品質がよくないものが多すぎます。
本作も3Dにする意味がわからないし、その効果もあまり感じられません。
客単価をあげたいという興行側の狙いが見えすぎてしまって、なんだかなぁという感じがします。
「いっしょにすんな!」とキャメロンが怒るのもわかります。
質の低い3Dを連発することにより、3D=高いわりに迫力ない、いうイメージがついてしまったら、客足は離れていきます。
ブームに乗りたい気持ちはわかりますが、なんでもかんでも3Dにするのではなく、きちんとした品質の作品をリリースするということを真剣に考えて欲しいと思います。

「ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛」の記事はこちら→

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2011年2月25日 (金)

「恋とニュースのつくり方」 仕事が好きだっていいじゃない?

最近の若い女性は、早く専業主婦になりたいっていう人が多いそうです。
景気もいまいちだし、先に社会に出た女性が苦労している姿を見ているからかもしれません。
キャリア・ウーマンが注目されたのは20年くらい前、男女雇用機会均等法が施行されたころでしょうか。
この数年では、女性同士での勝ち組・負け組論争みたいなものもあって、なんだか仕事をしている女性の方が分が悪い。
けど、「仕事が大好き」って言える女性も、それはそれでいいじゃないって思ったりします。
どっちがいい悪いじゃなくて、本人が心底楽しんでいられるならそれが一番。
本作の主人公ベッキーは報道番組のプロデューサー。
子供の頃からの憧れのテレビ番組制作者になってみたものの、リストラで首。
それでもめげずに再就職したテレビ局で担当するのは視聴率低迷で打ち切り寸前の朝番組。
キャスターも、スタッフも一癖も二癖もある人たちばかり。
さて、こんな状況でベッキーは問題番組を復活させられるのか・・・。
ベッキーはとってもポジティブなキャラクター。
いろいろ問題のある番組を担当して打ち切り危機に直面しながらも、基本的には前向きでがんばります。
喜んで、笑って、怒って、泣いて。
仕事で起こった出来事に一喜一憂しながらも、やっぱり仕事が好きでがんばっちゃう。
今の時代「仕事が好き」っていうのって、なんかカッコわるいことのような感じをする人もいるかもしれないですけれど、それはそれでいいと思うんですよね。
一所懸命前のめりに突っ込んでいけるものがあるってことがハッピーなんじゃないかと。
それが仕事だって、家庭だって関係ない。
「仕事が大好きっ!」て言いたい人を応援してくれる作品だと思います。
脚本家が「プラダを着た悪魔」を書いたアライン・ブロッシュ・マッケンナであるのも納得。
この人はがんばる女性を描くのはとても上手ですね。
観ている方も笑いながら、元気をもらえます。

主人公ベッキーを演じるのはレイチェル・マクアダムズ。
この女優さんは「きみがぼくを見つけた日」や「シャーロック・ホームズ」にも出演していましたが、僕は好きな女優さんの一人です。
特に本作のベッキー役では感情がくるくるとかわって非常に表情豊か。
情緒が豊かな女性っていうのはキュートですよね。

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2011年2月23日 (水)

本 「フェイスブック -若き天才の野望-」

「ソーシャル・ネットワーク」を観た当時、まったくSNSをやっていなかったのは、映画のレビューをしたときも書いた通り。
ですが、ひと月あまり経った今では、フェイスブックの持つ可能性を感じ、もしかすると世界は変容するのではないかとも思い始めていたりします。
2月に入り、仕事関係でいろいろとSNS周りのでの提案も多くなっていることから、これは体験しないとわからないなということで、ほぼ同時にミクシィとフェイスブックにアカウントをとりました。
ミクシィはハンドルネームなのでそれほど抵抗感はなかったのですが、フェイスブックは実名ということでけっこう迷いました。
しかし使い始めて思ったのは、実名主義だからこその便利さ、可能性があるということに気づきました。
使って始めてザッカーバーグのビジョンの素晴らしさに感銘を受けた次第です。
しかし、一ヶ月で、えらい変わりようです。
自分でもびっくり。
それだけ衝撃的なツールであったということでしょう。
個人的には学生の時Macを始めて使った時、そしてインターネットに始めて接続した時、に感じたこれは生活変わるなという直感に等しいか、越えているような感じでした。

この本は、ザッカーバーグがハーバード大学の寮で「ザ・フェイスブック」を立ち上げてから、今までの経緯を追ったノンフィクションです。
しっかりした取材が感じられる密度のある著書ですので、読み応えがあります。
「ザ・フェイスブック」の立ち上げから現在までを追っているので、読んでいくと「フェイスブック」がどんどんと成長していく様が、すぐわきにいたかのようにリアルに感じます。
もしかすると僕自身が、フェイスブックを使いながらその可能性に気づいていく過程と並行してこの本を読んでいたからかもしれませんが。

この本の読み方としていくつかの視点があるかと思います。
そのなかで一つここでは、「フェイスブック」というサービスの思想、というよりザッカーバーグのビジョンといったものが何なのかということについて考えてみたいと思います。
僕がこのサービスを使い始める前に思っていたのは、なぜ実名主義なのか、ということ。
インターネットではいろいろと怖いことも起こっているので、自分の名前やプロフィールを曝すのはけっこうリスクが高いのではないかと。
けれどもザッカーバーグの考えはちょっと違う。
彼は透明性がどんどん高まれば、より安全になるということです。
簡単に言ってしまえば「大勢の知っている人の面前では、人は悪いこと、恥ずかしいことはしない」ということです。
匿名主義というのは、自分自身の安全は守りやすいのですが、その反面無責任な発言の横行も招きます。
某巨大掲示板での発言はまさにそれを表しているでしょう。
けれどもそこで実名を曝すのであれば、あのような暴言をみなは吐くでしょうか。
たぶんそんな勇気がある人はそうそういないでしょう。
知っている人の前では行儀よくなるものです。

またザッカーバーグの思想にあるユニークな点は、まず人に<情報を>与えて、自分も<情報を>得るという考え方。
ここでユニークなのは、<情報を与える>の対価が<情報を得る>ということ。
それまでのメディアのモデルは基本的に<情報を与える>の対価として<お金を得る>ということでした。
情報の「物々交換」とでもいいましょうか。
このモデルのユニークなのは、<情報を与える>側にも、<役に立った>という満足感が得られるということなんです。
それが実名だからこそ意味がある。
「いいね!」というのは、「○○さん、ありがとう」と言われているのと同じような意味合いがあり、<与える>側にも満足感があります。
だからこそ皆は自分から情報を発信する。
それにより情報はさらに豊かになる、という好循環を生み出します。

ザッカーバーグのものの考え方は、エリートらしい理想主義的なところもあります。
青臭いという人もいるかもしれません。
ただ世界を変えようとしているのは、平均年齢30歳くらいの若者たちなんですよね。
年をとったオジサンたちが「青臭い」と言ってもなんの説得力もありません。
彼らが描くビジョンがどこまで実現できるか未知数ではありますが、少なからず世界を変える力は持っていると思います。
それこそ中東や北アフリカでは、地殻変動のようなうねりが現在起こっているわけです。
若者たちの理想が世界を変えるかもしれません。

翻って思うに、日本の政治家たちのなんとビジョンのないこと・・・。
ニュースを観るたびにあきれるのを通り越して、恥ずかしさすら感じ始めています

映画「ソーシャル・ネットワーク」の記事はこちら→
うーん、今もう一度この映画を観たら、感想が変わるかもしれません。

「フェイスブック -若き天才の野望-」デビッド・カークパトリック著 日経BP社 ソフトカバー ISBN978-4-8222-4837-6

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2011年2月20日 (日)

「運命のボタン」 トンデモ科学映画だったんだ!

興味はあったのですが、なんとなくスルーしていた作品です。
んー、感想としては、不思議ちゃんな映画?トンデモ科学映画?

<ネタバレしないで書けないので、ここから先は注意です>

ある日、謎の紳士がルイス夫妻に、赤いボタンがついた装置を届けます。
このボタンを押すと、夫妻は100万ドルを手に入れることができます。
けれどもそのボタンを押すと、知らない誰かが死んでしまうということ。
生活がギリギリであったりということ、誰かの死に責任を持ってしまうということで、夫婦は苦悩します。
僕はけっこうその悩みでひっぱるのかなと思ったら、けっこうあっさりとボタンを押してしまいます。
夫婦の周りで不思議なことが起こるのはそれから。
ボタンをもってきた紳士は何ものなのか。
火星探査は何か関係があるのか。
鼻血を出してメッセージを届けにくる者たちは何ものなのか。
NASAの風洞を借り切っている者たちはほんとにNSAなのか。
謎だらけの展開で、人気テレビシリーズの「LOST」を思い出しちゃいました。
この映画がとても、不思議ちゃんな感じがあるのは、これらの謎・伏線を、あまりきれいに回収していなかったりするところでしょう。
あの紳士は、宇宙人の意志かなんかで、地球人を試しているっていうことなの?
火星探査に出たということで、地球人が宇宙に進出しようとしているから?
でもって、その宇宙人(なのかどうかもよくわからない)はどうやってああいう不思議なことを起こすことができるの?
アーサー・C・クラークの「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」という有名な言葉で、説明終わりなの?
などなど・・・。
不思議なことは起こっているけれど、地球人には計り知れない高度な技術があるんだよっていうことなんですよねぇ。
心理ミステリーかと思って観始めたら、トンデモ科学ものだったのでちょっと驚きました。

最後の夫婦の選択。
夫が引き金を引いた時、別の夫婦が赤いボタンを押します。
ここの関連性もまったく説明がないのですが、そういう関連性があるとするならば、ボタンはずっと押されて続けられていたってことになります。
人間ていうのは、やっぱり他利的行動がとれないということを言いたいってことなんでしょうか。
ちょっと救いがなさすぎる感じもしますけれどもね。

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2011年2月19日 (土)

「ジーン・ワルツ」 「システム」の限界

海堂尊さんの小説「ジーン・ワルツ」の映画化作品です。
小説のレビューのときも書いたのですが、僕は(未だに)結婚もしていないし、(当然のことながら)子供も授かっているわけでもありません。
ですので「生命の素晴らしさ」なんていうことに自分が言うのはおこがましい気もします。
ただそういう自分でもやはり出産シーンでは涙が出てくるわけで、そこには理屈や立場を越えて、やはり「生命の素晴らしさ」というものがあるのでしょう。
そのあたりは小説のレビューでも触れた通り、原作でもしっかりとテーマとなっているので、映画ではそのテーマを素直に描けていたと言えるでしょう。

原作は海堂さんの作品の中でもかなりシリアスなトーンで描かれています。
扱うテーマもテーマだけに誠実なスタンスが要求されるわけで、映画もそのスタンスに立っていると思います。
僕が原作でかなり衝撃を受けたのは、ユミのエピソードだったのですが、さすがにハードな内容であったので、映画では触れられていませんでしね。
幸せな余韻が残るので、これはこれで良いかなとは思いました。
先に原作を読んでいたので、キャラクターのイメージが自分の中でできてしまっていたのですが、本作はキャスティングが良かったですね。
特にみどり役の風吹ジュンさん、それと茉莉亜先生役の浅丘ルリ子さんはとてもよかった。
イメージ通りでした。

こちらでは海堂作品の中で、たびたび出てくるテーマの一つ「システム」というものについて書いてみましょう。
この「システム」というのは、「法」や「組織」といったものと思ってもらっていいです。
本作ではそれは医療に関する法律であり、産婦人科学会の規定であったり、病院という組織であったりするわけです。
「システム」というのは複雑な事象について効率よく対応するために生まれたものだと言えます。
個別個別の処理をしていては、案件は溜まっていくばかり。
それを効率的に処理していくから、皆は幸せになっていく、そういう考え方です。
これは基本的に正しくて、そうでなければ、現代社会というのは一歩たりとも身動きできなくなってしまうでしょう。
ただそこで見過ごされやすいのが「システム」がこぼしてしまう「例外」です。
ある「システム」で90%の人が満足できる生活ができる。
けれども10%は不満足な生活を強いられる。
これは正しいのか、正しくないのか。
「システム」がなければ効率的に様々な案件が処理できず、満足できる人は多くはないかもしれない。
これは正しいのか、正しくないのか。
かなり難しい問題です。
本作では清川と曾根崎の考えが異なり、それでいてどちらが正しいとも言っていないのは、それに対する正解をまだ人は出せていないからなのでしょう。
個人的には、やはり「システム」は必要であるけれども、そこには本来のその「システム」を作る主旨・精神を活かし、必ず生じてしまう「例外」を救うセーフティ・ネット的なものを用意するということなのだと思います。
けれども一度作られた「システム」は慣性力が働き、その主旨が形骸化し、状況変化によって発生する「例外」を救えなかったりすることが現実的には多いのです。
「システム」の中にいる人(本作でいえば清川)は、「システム」に限界があることを自覚し、それでいそもそもの主旨を忘れずに「例外」を救う意志を持ち続けなくてはいけないのだと思います。

原作小説「ジーン・ワルツ」の記事はこちら→

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2011年2月17日 (木)

本 「完全なる首長竜の日」

第9回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作です。
選考評を読むとかなりみなさんの評価が高いですが、個人的には悪くもないですけれども、それほどすごいと思えるほどではなかったですね。
「このミス」と言えば、海堂尊さんの「チーム・バチスタの栄光」が受賞して注目を浴びましたが、あの作品を読んだときほどの興奮はありませんでした。
とはいえ、決しておもしろくない小説ではありません。
描かれている主題は、何が現実で、何が非現実なのかということ。
本作の中でも「胡蝶の夢」の話がでてきますが、なにが現でなにが幻なのかというのはかなりいろいろな作品で取り上げられたテーマですので、それほど個人的には発想がすごいというように感心するほどではなかったですかね。
F・K・ディックが好きな方、または映画「インセプション」が好きな方は読み、見比べてみてもいいかもしれません。
僕もこの手の作品は好きで、いろいろ読んでいたり見ていたりするので、大体途中でこういうことだろうという結論も薄々感じてしまっていて、ラストで「おーっ」っていうのはなかったんですよね。
丁寧な作りであることは間違いありません。

「完全なる首長竜の日」乾緑郎著 宝島社 ハードカバー ISBN978-4-7966-7990-9

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2011年2月13日 (日)

「サイボーグ009 超銀河伝説」 第二期テレビアニメはおもしろいよ

iTunes Storeを覗いてみたら、こちらの作品「サイボーグ009 超銀河伝説」を発見。
僕にとっての「サイボーグ009」といったら、第二期といわれるカラー版のアニメです。
小学校高学年頃だったと思いますが、けっこう好きでしたね。
特にオープニングが好きだったなあ。
あと同じ頃、「少年サンデー」で連載されてた漫画も読んでました。
子供心にけっこうシブいテーマだなあと思って読んでましたね。
アニメ、漫画と好きだったんですが、テレビ放映された頃に公開された劇場版は未見でした。
小学生だから一人で映画館には行けなかったのでしょう。

本作は全宇宙を支配しようとする敵に対し、009らサイボーグ戦士たちが戦いを決死の戦いを挑むというお話です。
ぶっちゃけ、あんまりおもしろくなかった・・・。
ただのスペースオペラだし、それを「サイボーグ009」でやる必然性をあまり感じなかったなあ。
009は「加速装置」を一回も使わなかったし・・・。
この記事を書くためにウィキペディアで調べたところ、りんたろうさんが監督をする予定だったけれども、脚本の出来が芳しくなくて降板したとか。
懸命な判断ですね。
アニメの前半とか、子供向けアニメとしてはけっこう深い内容だったと思うんですが、劇場版は陳腐な感じがしました。

懐かしい気分になったので、某動画サイトでアニメのオープニングを検索してみると、ありました。
やっぱりこの歌、かっこいいよね。
最初の「ウ、ウ、ウ、ウ」のところが好き。
子供の頃は誰が作っているかもちろん気にしていなかったわけですが、オープニングのスタッフ名観るとけっこういいメンバーです。
監督は「装甲騎兵ボトムズ」の高橋良輔監督。
そうか第二期アニメはサンライズが制作していたんですね。
キャラクターデザインは「銀河漂流バイファム」の芦田豊雄さん。
第二期アニメのソフトなタッチのキャラクターデザインは好きだったのですが、なるほど芦田さんだったんだ、納得です。
そしてオープニングアニメーションは金田伊功さん。
あらためて観てみると、オープニングの動き、金田さんっぽいですねー。
ということで、このメンバーをみると、第二期アニメがおもしろかったのも納得できました。

ん、映画の話じゃなくなっているって・・・。
だって書くほどのことないんだもん。

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2011年2月12日 (土)

「あしたのジョー(2011)」 今、この作品を作る意味

「あしたのジョー」の原作の連載が開始されたのは1968年、僕が生まれた年です。
ですので漫画はリアルタイムでは読んでません。
アニメが放送され始めたのが1970年ですから、こちらもリアルタイムで観ていたわけではないでしょう。
それでも矢吹丈と力石徹の戦いは記憶にしっかりと刻み込まれており(再放送で観たのでしょう)、やはり本作は観に行かないわけにはいかないと。
漫画の連載時は一大ブームとなったようで、力石徹が死んだ後は、ファンによりお葬式が営なわれたようです。

描かれてしばらく時間がたった漫画の映画化の場合、時代を現代に置き換えて、ということもありますが、本作は原作の時代背景をそのまま活かしています。
概ね1960年代というところでしょうか。
日本は高度経済成長の最中ではありましたが、富める者と貧しい者との差は歴然とありました。
そういう時代背景の中、貧しい者の中から出てきたジョーが自らの力のみを頼りに戦い抜いていく姿は人々の共感を得たのでしょう。
泥だらけになっても、血だらけになっても、起き上がる不屈の精神を持つジョーは、戦後の焼け野原から復興しつつある日本をも象徴していたのかもしれません。
時代の共感性があったのでしょう。
ですから「あしたのジョー」を現代で作るにあたり、時代設定を原作に準じたのは正しかったと思います。
現代ではジョーのようなハングリーさを持つような人物は、非現実的なのかもしれません。
予告編に「この時代の若者にジョーはいるか?」というコピーが入っていましたが、これはいいコピーだなと思いました。
現代の若者は打たれ弱く、また消極的とも言われています。
彼らが「あしたのジョー」を観た時にどのように感じるのか、興味がありますね。

「あしたのためにその一」
「泪橋を逆に渡れ」
「立て、立つんだ、ジョー」
漫画を読んでなかったり、アニメを観てなくても、誰でも知っているこれらのフレーズ。
本作を観て感じたのは、ほんとうに名フレーズが多い作品だなと。
これらが名フレーズであるのは、その言葉が作品のテーマを一言で言い表しているからなんですよね。
だから記憶に残る。
魂のこもったフレーズで言っていいでしょう。
それだけ人々の記憶に残っているセリフがあるわけですから、映画化する場合、これらを外すわけにはいきません。
だからこそ映画化する場合、原作からの逸脱、再解釈はしにくくなってきます。
そういう点で、本作は過去の漫画やアニメを踏襲、完コピするしかなくなってくるわけです。

完コピと言えば、伊勢谷友介さんの力石徹がやはりスゴい。
ここまでやるかというほどの肉体改造です。
力石徹と言えば、ジョーと戦うために過酷な減量をするというエピソードが印象深いわけですが、それを肉体で見事に再現をしています。
またパンチのキレも相当良く、伊勢谷さんの入れ込み度合いがわかるものです。
この力石徹は一見の価値ありですね。

完コピのベースになっているのは、やはりアニメ版でしょうか。
力石徹VS矢吹丈戦はアニメで観たようなカットが多くありました。
ジョーが力石にアッパーを喰らって中に浮かんでいるところとか。
力石が体重計に乗るところとか。
あと最後の力石と丈が握手をしようとして、力石が崩れ落ちるカットとか。
完コピしてる!と観ながら思いましたが、よくよく考えるとやはりアニメ版の出﨑統監督がスゴかったんだよなあと。
出﨑演出はドラマチックなんですよね。
だからこれも記憶に残るんです。

そういうことを考えると、漫画やアニメを忠実に実写で再現しただけの映画とも言えます。
あれを実写で作り込み、俳優たちも役になりきった演技を見せてくれたのは十分評価ができますが、作品として新しいものを何か提示できたかというとちょっと違うような気がするんですよね。
昨年末「宇宙戦艦ヤマト」が実写化され「SPACE BATTLESHIP ヤマト」として公開されました。
これは原作を活かしながらも今だから作る意味みたいなものも盛り込んでいたかなと思います。
本作については完コピを目指すあまりに、作っている人々の思いのようなものがやや薄かったかもしれないと思いました。
今、この作品を作る意味のようなものがもう少し感じられればと。
さきほどあげた予告編のコピーにはそういう気持ちが窺えたのですけれどね。

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2011年2月11日 (金)

「洋菓子店コアンドル」 直球な女

主人公なつめ(蒼井優さん)は思ったことをそのまま口に出し、そして思ったことにまっしぐらに突進していく女性です。
ど真ん中直球な物言いは、人によっては「カチン」とくるように受け止められるかもしれません。
正直、こんな子が自分の近くにいたら僕は「カチン」ときてるでしょう。
でもそれはなつめが自分の思うことにとっても正直で忠実だからなんですよね。
思えば人ってのは、いろんな付き合いがあったり、しがらみがあったりで、自分が思ったことを呑み込んでしまったりするものです。
そのまま口にしていたら、なつめが周囲をザワザワさせたように、やはり人間関係に波風がたってしまうでしょう。
でもあまりに呑み込みすぎてはないかい?とも思ったりもします。
なんとなくベールで包んだような言葉で話していると、そこには見えない壁みたいなものもできていたりするんですよね。
都会で孤独に感じる人が増えているっていうのは、そういう気を使いすぎてできている壁みたいなものがあるからかもしれません。
そういう壁をなつめはズケズケと突破して侵入してきます。
それがウザかったりするわけですが、けれど彼女自身も開けっぴろげで壁などないことがわかります。
そういう壁のなさ、みたいなものが心地よいのかもしれません。
十村も子供の事故以降、周囲に壁を作っていた人間の一人です。
なつめは彼の壁も直球で正面突破し、頑な彼の心を解きほぐすのです。

蒼井優さんは、そんななつめにぴったりの配役であったと思います。
彼女の女優としての素晴らしさというのは、他の作品でもそうなのですが、まるですっぴんのように見えるということ。
テクニカルに作り込んだ役作りというのとは違う、またその人になりきってしまうようなカメレオン系の女優さんとも違う。
うまく言えないのですけれど、彼女がある役をやっているとき、蒼井優という人の素というのはこの役なのではないかと思わせるところなんですよね。
それだけに役に自然であるということなのかもしれません。
この作品のなつめという役は、ちょっとKYな女の子で、大いに怒り、大いに泣き、大いに笑う、自分の気持ちに素直な子。
その怒っているときの表情や、泣き顔、微笑みなどがすべて、なつめという女の子がそのように感じているからしている表情っていう感じがするんですよね。
普通の女優だったら、演じているとき見られる視線というのを気にした上での、怒り、泣き、笑いの表情をするのだと思うのですが、彼女の場合はほんとにすっぴんの表情を見せているような感じなのです。
当然、演技なわけなのですが、演技っていうのを越えちゃっているように見せるというのが、蒼井優という女優のすごさなのかもしれません。

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本 「死亡フラグが立ちました!」

「このミス大賞」入選作の文庫化作品です。
文庫化にあたり、大幅にリライトしているそうです。
さてタイトルにある「死亡フラグ」、ご存知の方も多いとは思いますが、この言葉の説明を。
映画や小説などで、物語の進行中に「いかにも死にそうな人」のことを「死亡フラグが立った」ということがあります。
例えば、ホラー映画でエッチをしてしまった若いカップルは大体最初の方で殺人鬼に殺されちゃったりします。
こういうシーンを観ている時などに「あの二人、死亡フラグがたったよねー」といった感じで使うわけです。
他に「死亡フラグ」が立ちやすいのは、いかにも悪そうだった人が改心したときとか、自分では賢くふるまっているようなコウモリみたいなやつ、とかですかね。
みなさんもいろいろ思い浮かぶんじゃないでしょうか。

さてこちらの小説ですが、この作品には殺し屋が登場します。
けれどもその殺し屋は通常の殺し屋とは異なり、まるで事故のように装って殺しを請け負うというスタイルをとっています。
殺人予告が本人に送りつけられ、その24時間以内にその人物はなんらかの事故により、「偶然」死んでしまう。
それを行っているのが、「死神」と呼ばれる殺し屋であるという都市伝説が囁かれています。
その「死神」の存在を、仕方なしに追うはめになったフリーライターとその先輩、また「死神」の存在に気づき始めている刑事たちなど、複数の物語が並行して進んでいきますが、それが最後には収斂していきます。
本格ミステリーという感じではありませんが、映画や小説などのミステリーが好きな方ほど楽しいかもしれません。
著者は処女作というところで、やや粗いところもなくはないのですが、最後の方は一気に読ませてくれます。
こういうちょっと搦め手気味のミステリーは「このミス」っぽい感じがしますね。

「死亡フラグが立ちました!」七尾与史著 宝島社 文庫 ISBN978-4-7966-7752-7

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2011年2月 6日 (日)

本 「ぼんやりの時間」

社会人になってから10年くらいの頃、仕事も忙しくて、いつかは自然の豊かなところでぼんやりすることができるといいななどと思ったりもしました。
なんとなく「ぼんやり」に憧れがあったんですよね。
でもそれからまた10年くらいたった今だと、仕事の忙しさは変わらずですが、仕事もテキパキと効率的にやって、そして休日もやりたいことがいろいろあるので、それをやってとけっこうタイム・マネジメントをしているかなと。
なので今だと、田舎へいってぼんやりがいいなどと言われると、「ふーん」って感じだったりもするんですよね。
読む前はありきたりの余暇賛辞だったりとか田舎暮らし美化だったりしたらやだなと思っていました。
でも本著で言っているのは自然の中でのぼんやりももちろんなんですけれど、その人なりに居心地の良い独りの時間をとるということを説いているように感じました。
これはまさに休日の自分の過ごし方がまさにそう。
映画に行ったり、本を読んだり、ジムで体を動かしたり。
基本的に仕事のことはまったく考えずに過ごしています。
アクティブにはしてても、仕事に関してはぼんやりして過ごしてたりするわけです。
でも、たしかにそういうぼんやりしているときにいいアイデアとか思い浮かべたりもするんですよね。
僕の日常的なぼんやりタイムは朝の通勤途中の電車の中。
基本的にぼーっとしてます。
ただ眠いだけっていうのもありますが。
ぼーっとしながらも、「あー、今日はこれやらなきゃなー」とか「そろそろあの件、考え始めないとなー」とか思っていたりするのですが、そういうときにポロッといい案が出てきたりするんですよね。
机の前でウンウン唸っていても出なかったりするのに。
なんというかぼんやりタイムっていうのは、いったんいろんな課題を頭の中のバックグラウンドに置いておくような感じです。
その課題っていうのは消しちゃっているわけではないので、自分の意識にはあがってこないんですけれど、バックグラウンドで何か考えてる。
若い頃は焦ってその答えを出そうとしてましたが、最近はあえて考えずに2、3日熟成期間をおいてたりもします。
その間のぼんやりタイムでけっこう頭が動いていたりするんですよね。
この本の趣旨とはちょっとずれちゃったように思いますが、僕なりのぼんやりタイムの効用でした。

「ぼんやりの時間」辰濃和男著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431238-3

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「天装戦隊ゴセイジャー」 天使という設定の難しさ

前作の「侍戦隊シンケンジャー」が後半に怒濤の盛り上がりをみせて大団円を迎えたその翌週から始まった「天装戦隊ゴセイジャー」。
ちなみに「ゴセイジャー」はタイトルで「護星者」とも書かれているように、星を護る者、すなわち地球の守護天使という存在です。
盛り上がった最終回の後の初回というのは辛く印象を持ちがちなので、比べるのは酷なのですが本作はどうも最初からいまいち観ていてものれなかったんです。
そののれない気分のまま、最終回まできてしまったような気がしました。
ところどころ良いエピソードもあったのですが、全体通しでみるとやはりもの足りない。
工夫していたところは1年間を大きく4部構成に分け、敵の組織が3回変わり、4部めはそれら3組織がなぜ地球を狙ったのかという謎解きがあります。
その首魁となる真の敵の正体、元護星天使ブラジラであったというのは、同族同士戦うという意味で「仮面ライダー」であったり、天使じゃなくて悪魔同士ですが「デビルマン」を髣髴させるというところでした。
地球を護る役割であったブラジラが地球を滅ぼす側となるというのは、聖書で天から落ちた堕天使ルシファをも思い浮かべさせます。
そのあたり設定的にはおもしろいところはあったのですが、全般的にドラマに見ごたえがないというかそんな感じがありました。
多分に設定である「天使」というのが、難しいところであったのかなと思います。
「天使」であるわけですから、彼らゴセイジャーは人間が陥りがちなマイナス思考というのはほとんどありません(天使見習いなので悩まないわけではないのですが)。
ですので葛藤に由来するような気持ちのゆれ動きや、成長というようなものはなかなか作品中に出しにくいのですよね。
あとゴセイジャーはみな天使なわけですから、5人のキャラクターがある幅の中に収まらざるをえません。
それは地球を護るという正義感が強い人間ではありませんし、地球を愛し、人を愛するという性格は天使であるため変えられません。
スーパー戦隊シリーズというのは、「仮面ライダー」シリーズと異なり、違った性格の5人のキャラクター間の化学反応のようなものも魅力だったりするのですが、そのあたりもいつもよりは弱めであったと思います。
成長なり、キャラクターの相互作用というのは1年を通したドラマとしては、物語を引っ張る力にはなるので、そのあたりが出しにくかったのは、設定ゆえの難しさだったと思います。
今までもスーパー戦隊シリーズでは天使モチーフというのは企画としては何度もあがりつつも、なかなか実際になかったのはそのあたりがあったのかもしれません。
あえて難しいお題に挑んだという点では、チャレンジであったと思いますが、うまくいっていたかというとそうではなかったような気がします。

来週からスタートするのは「海賊戦隊ゴーカイジャー」。
シリーズ35作品目となるということですが、やはり注目点は彼らゴーカイジャーが過去34作品のスーパー戦隊の能力を使えるということでしょう。
最近では平成仮面ライダー10作品目の「仮面ライダーディケイド」が大仮面ライダー祭りになっていましたが、同じように派手な展開になるんでしょうか。
また「海賊戦隊」とあるようにゴーカイジャーは宇宙海賊という設定。
キャラクター設定をみてみると、ほぼ「ワン・ピース」のような感じ。
それはそれでおもしろそうということで、早くも次回作に期待が移ってしまいました。

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「ウォール・ストリート」 信用は回復できるか?

僕はメーカーに勤めているもので、どうも金融という商売がうさんくさく見えて仕方がありません。
実際に手に取っていただける商品として提供できるからこそ、その価値が価格に見合ったものであるかお客様に納得していただきやすいものだと思っています。
値しないと思われれば、買っていただけないわけです。
金融というのは、その手に取ってもらえる「商品」(金融業界ではそのサービスを「商品」と言いますが、いつも違和感を感じてしまいます)ではないので、どうも怪しげに感じてしまうのです。
須く商売というものは差異を利用して、お金を稼ぐのが基本です。
メーカーとて、原料に付加価値をつけ売り、そのコストとの差で利益を得ているのです。
けれどもこれはわかりやすい。
しかし金融商品というのは、株価の上下動、地域間の為替差などの差を使い、その取引を仲介することにより益を得ます。
まだここまでもわかりやすい。
そしてさらに金融業界は、もともとなさそうなところにも「差異」をあえて作るようにし、それを利用して商売をするようになります。
このところ問題となっている「金融商品」というのは素人からすれば全くよくわからない仕組みによって生み出された見えない「差異」を使っているのです。
手に取れる商品と違い、見えないわけですから、その「金融商品」を買うポイントは何かと言ったら「信用」です。
この人だったら、この会社だったら、自分の財産を任せても大丈夫という「信用」。
けれどもこの数年間、僕たちはこの「信用」をことごとく裏切られてきたような気がします。
年金疑惑、サブプライムローン問題、世界金融危機・・・。
全く自分があずかり知らぬことで、みんなの生活が影響を受けています。
「モラルハザード」という言葉が本作では何度も出てきます。
見えない商品を扱うからこそ、「信用」や「モラル」が大事なはずなのに、何故に関係者は凝りもせずに同じようなことを繰り返すのでしょうか。

そしてお金以外にもうひとつ、本作で描かれている見えないもの。
見えないけれど価値があるもの。
それは愛情です。
夫婦の間の愛情、親子の間の愛情。
それも見えないものだからこそ、「信用」が大事なのです。
金融会社が「信用」がなくなることにより崩壊していくように、人と人の関係も「信用」が崩壊していきます。
本作ではジェイコブとウィニーの夫婦も危機を迎えます。
そしてゲッコーとウィニーの親子の間はすでに「信用」がなくなり、親子関係は崩壊しています。
けれどもこれらの夫婦、親子の関係も失われたままではありません。
「信用」は努力と誠意により取り戻すこともできるのです。

金融業界は「信用」を取り戻す努力ができているのでしょうか。
僕から見ると、まだそのような努力や誠意を感じることができないでいます。

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2011年2月 5日 (土)

「ザ・タウン」 その街こそもう一人の主役

アメリカの中でも古い街の一つ、ボストンの一角のチャールズタウンは世界でも最も銀行強盗が多いと言われているそうです。
そのチャールズタウンは住民たちからはただ「タウン」と呼ばれており、その地で主人公ダグは、強盗であった父と同じように、彼もまた強盗を生業にしています。
けれども彼はそのような生活をいつかは脱し、真っ当な人生を送りたいと考えています。
そのようにダグは考えながらも、やはり強盗を生業とし続けます。
彼を縛り付けているのは、まさに「タウン」そのもの。
貧しくて強盗でもしていかなければ生きていけないような環境。
親の代からのしがらみ、幼なじみとの友情、そのような人間関係もダグを彼が送ってきた人生に縛り付けます。
「change the life」「turn the life」といったセリフがしばしばこの作品では出てきます。
「人生を変えたい」とダグがいくら望んだからといっても、街が彼を縛ります。
幼なじみのジェムは、そのような彼の人生を受け入れてしまっています。
いくら望んだとてそのような真っ当な人生を歩めるわけがないと思っているようにも見えました。
だからこそ、彼は無謀ともいえる銀行強盗を繰り返そうと思ったのでしょう。
死に急いでいるようにも見えました。
またジェムの妹のクリスタは、やはり「人生を変えたい」と思いながらも、結局は楽な方向にしか進めないというような状態です。
未来をみるのではなく、今を生きることだけを考えているというところでしょうか。
ジェムもクリスタも「タウン」に縛られていたと言えるかもしれません。
たぶんダグはクレアと出会わなければ、クリスタと同じように「変わりたい」と思いつつも、結局はそのままの状態でいたのではないかと思います。
クレアの存在が彼が前進しようという意志を持ち、行動を起こすきっかけとなったわけです。
こうみてみると主人公はダグではありながら、もう一つの主役はその街に暮らす人々を縛り付ける、やはりチャールズタウンという街そのものであるようにも思えます。
そういう点で「ザ・タウン」というタイトルは当を得ていると感じました。

本作はベン・アフレックが主演であり、監督・脚本も手がけました。
このところパッとしたところがなかったベン・アフレックですが、俳優としても脚本家としても存在感はあったように感じました。
彼はメジャーな派手な映画よりも、こういうインディーズ系のようなタッチの映画の方が性に合っているんじゃないかと思います。

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「GANTZ」 存在意義を見つける戦い

例によって原作未読ですが、「GANTZ」を観てきました。
よく考えたら今年に入ってこちらの作品が初の邦画観賞でした。
想像していたよりもずっとおもしろかったです。
小学校のときの同級生、玄野と加藤。
十数年後、偶然駅のホームで再会しましたが、そのときによっぱらいのホーム転落事故に巻き込まれ、轢死・・・。
かと思い、二人が目を開くとそこは殺風景なマンションの一室。
その部屋には見知らぬ人々と、謎の黒い玉がありました。
その黒い玉は「GANTZ」と呼ばれ、星人を抹殺するというミッションをクリアすることを、GANTZに玄野らは与えられます。
なぜここに自分たちはいるのか?
なぜ戦わなければならないのか?
玄野たちが持つ疑問を共有しながら、観客である僕たちも物語に引き込まれていきます。
本作、この物語への吸引力がとても強いです。
こんな吸引力、どこかでも経験したなとしばし考えたら、わかりました。
アメリカのTVドラマ「LOST」です。
「LOST」は飛行機墜落により謎の島に取り残された乗客がその島から脱出しようとする様を描く物語になります。
なぜその島に自分たちはいるのか?
どうして外に連絡できないのか?
さまざまな謎が物語を牽引します。
「LOST」にもあった牽引力、吸引力みたいなものが本作「GANZ」にも感じました。
なぜ、自分はここにいるのかという謎。
それが物語を引っ張ります。

その謎はもしかしたら、人が生きていく上で根源的に持っているものかもしれません。
玄野が就職活動の面接対策で暗唱している言葉、「人には役割がある」。
その役割が見つけられないと、人は生きていくのが苦しくなります。
本作でもそれについて考える登場人物が幾人か出てきます。
例えば、玄野。
彼は子供の頃、弱い子を助けることができる正義感の強い子でした。
しかし大きくなるにつれ、次第にこじんまりと社会に適応する普通の大人になってしまっていたのです。
本人も無意識にそういう自覚があったのだと思います。
けれどGANTZに見知らぬ世界に呼ばれ、星人との戦いというミッションを遂行するにつれ、彼はたぶんあちらの世界が自分が生きるべきところなのではないかと思うようになります。
弱いものを助けるという自分の役割、存在意義。
それを果たすことができるのが、あちらの世界なのではないかと。
また加藤は。
彼はすでに自分が生きる意味というのを見いだしています。
それは弟の存在であり、彼を守ることが自分が生きる意味だと彼は思っています。
そして彼はもう二度と人を傷つけたくない、誰も傷ついてほしくないと考えている男です。
そういう意味で玄野と対象的に、加藤というのは自分の存在意義というものを自覚していたと思います。
そして岸本はあちらの世界に行った時は、彼女も生きる意味を失っていました。
しかし加藤との出会いにより、彼女も生きる意味を見いだします。
それは加藤といっしょにいたいという想い。
彼女にとって、あちらの世界であろうが、こちらの世界であろうが、それは重要なことではなかったのかもしれません。
加藤といっしょにいられること、加藤を生かしてあげることが、彼女にとっての存在する意味であったのです。
彼らは理不尽な戦いの中で、おのおのが自分のレゾン=デートルを探しているように見えました。

二部構成である本作のPART2は予告を観ると「PERFECT ANSWER」というサブタイトルが付いていました。
続く物語で、彼らは自身の存在意義、その完全なる答えを見いだせるのでしょうか。

第二部「GANTZ PERFECT ANSWER」の記事はこちら→

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