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2011年1月30日 (日)

本 「追伸」

非常によく構成された小説だと思います。
一組の夫婦の間、そしてその祖父母夫婦の間での往復書簡だけで本作は構成されています。
現代は手紙ではなく、電話、そしてツィッターやSNSなどコミュニケーションの高速度化が進んでいます。
けれどもそれによって考えなしに言葉をだしてしまったりしてこじれたりすることも。
手紙(メールもそうだけど)というのは、相手に書く前にじっくりと自分の心と対面する時間があります。
そこで冷静になって考えてみたり、書こうと思って書かなかったり。
そこには自分の思いもあり、また相手に対する想いもあり。
また手紙のやりとりは相手の手紙に対して自分が感じたことを相手にすぐ伝えることができません。
だからこそ、相手の言葉をじっくりと考える時間ができるのですよね。
そういう時間が、手紙ダイレクトにすぐに繋がるコミュニケーション手段と違うのだなと思いました。
本作はミステリーになるとは思いますが、一組の夫婦が自分たちの将来についてそのやり取りの中で、見つめていく様子が描かれています。
自分は所帯を持っていないので、なんとも言えないのですが、夫婦といえど、すべてを話しているということもないでしょう。
それよりも自分でも気づいていない自分の中の思いというのもあるのかもしれません。
本著に登場する二組の夫婦は、それぞれ相手との手紙のやり取りのなかで、自分が気づいていなかった自分の思いに気づかされます。
それぞれがその思いに対し、誠実に向き合い、そしてその上で夫婦としてどのように歩んでいくのかということを手探りながらも決めていこうとする過程が描かれるのです。
多かれ少なかれどの夫婦も、別々の人間ですからこのような思いのズレみたいなものはあり、なんとなくこんなものだと納得するか、もしくは我慢できずに別れてしまうという結論を出すのでしょう。
本作の登場人物はどのような決断を下すにせよ、互いに真摯にお互いの関係そして、自分の思いを見つめていきます。
それが何か尊敬できるというか、こうあれればいいなと思えました。

「追伸」真保裕一著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-713114-2

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「ヒックとドラゴン」 テーマは共生

昨年、公開された3Dアニメの一作。
ブロガー皆さんの評判も良かったので気にはなっていたのですが、タイミングが合わなくて結局見逃してしまいました。
iTunes Storeをのぞいてみたら公開されていたので、早速レンタルしてみました。
3Dアニメっていったら、やっぱりピクサーでしょ!って先入観もあり、なんとなくスルーしちゃっていたのですが・・・。
劇場で観ればよかった・・・。
それも3Dで観たかった・・・。
映像がとてもきれいでしたね。
3Dアニメのディフォルメされたキャラクターってそれほど好きではないのですが、本作はテクスチャの質感がかなり良く出ていたように思います。
それと背景などの作り込みもけっこう凝っていて、空気遠近法みたいな感じも出てました。
特にヒックとティースがはじめて一緒に空を飛ぶところとか、最後のドラゴンとの戦いとかは迫力がありました。
これらのシーンは3Dで観たらもっと迫力あったんだろうなあ、とすごーく後悔してしまいました。

この物語は人間とドラゴンの友情物語なのですが、バディムービー的なところもありましたよね。
尾っぽの羽を失ったティースと、バイキングらしくないヒック。
それぞれだけだとまともに戦えない二人(?)ですが、彼らが息を合わせたら誰も敵わないコンビになります。
相手がかけがえのない存在と思って、二人で力を合わせていく。
ありきたりの話と言えばそうなのですが、それがとても清々しく、またそういうパートナーを得られたヒックとティースが羨ましくもありました。
ここまで互いを信じられるっていうのはなかなかないですよね。
最後にヒックの身の上に起こったことは、子供向けのアニメとしては思い切ったことをしたなと思いましたが、それはネガティブだという雰囲気ではなく、人間とドラゴンが共生していく関係の象徴にも見えました。
子供向けの友情物語、はたまたバディームービーかと思ったら、テーマとしては共生という現代的なテーマを持っている作品になっていたと思います。
人と自然との共生。
自分たちと敵であると思っていた人たちとの共生。
このニ、三世紀の科学の進歩により、劇的に人間の活動範囲は広がりました。
そのために人と自然、人と人の軋轢も多くなります。
そんななかでいかにそれぞれの存在が共生していくかというのが、今後の社会の中で大きなテーマになっていくことでしょう。
そのあたりを本作は指摘しているようにも思いました。

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2011年1月29日 (土)

「RED/レッド」 ジジイ、頑張る

<RED>、それは・・・。

Retired(引退した)
Extremely(超)
Dangerous(危険人物)!

バンバンバーンという予告編の迫力と、出演しているメンバーの豪華さにひかれて観に行きました。
とはいえなんとなく外しそうな予感もあり、あまり期待せずに・・・。
ですが、けっこうおもしろかったです。
アクション映画ではありますが、かなりコメディ要素もあり、2時間十分に楽しめました。
<RED>の4人のメンバーは、出演者のそれまで出演してきたキャリアを何か反映しているようなところもおもしろかったです。
ブルース・ウィルスが演じる主人公フランクは、ウィルスが演じてきたヒーローの引退した姿といったような感じがあります。
ジョーはモーガン・フリーマンらしい賢者な感じがあるし、ジョン・マルコビッチのマーヴィンはイメージぴったりのイカレたジジイですし。
このあたりキャスティングが上手かったですね。
フランクが自分がかつて所属していた組織であるCIAから命を狙われるところから物語が始まり、そこから彼ら<RED>の反撃がストーリーの軸になります。
<RED>のメンバーは年はとったとはいえ、それぞれがその道のスペシャリスト。
組織力で押してくるCIAにチームプレーと個人技で完璧なまでに反撃します。
それは観ていて、かなり爽快。
「ジジイ、頑張れ」と言いたくなります。
サブストーリーもけっこう魅力的でした。
フランクのサラへの恋は少々無理があるような気もしましたが、<RED>のメンバーの一人ヴィクトリアと、旧ソ連のスパイのイヴァンの恋物語などはロマンティックでもあり、かつ主軸のストーリーに上手く絡ませていてよかったです。
フランクを殺すよう命じられる若手CIAエージェントのウィリアムが、その命令自体に次第に疑問を持っていく様子などもけっこう丁寧で、物語を厚くしていたように思いました。
本作は監督で観に行ったわけではありませんでしたが、演出はダラダラしていなくて小気味がよく、僕個人としては観ていて非常にリズムが合うなあと。
監督はロベルト・シュヴェンケで、前作は「きみがぼくを見つけた日」だということ。
この作品も好きだったんですよね。
これからこの監督の作品はチェックしようかなと思いました。

ロベルト・シュヴェンケ監督作品「きみがぼくを見つけた日」の記事はこちら→

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本 「岩崎彌太郎 -「会社」の創造-」

昨年、夢中になって観た「龍馬伝」。
その中で、坂本龍馬に次ぐ大きな役割を担っていたのが、岩崎彌太郎でした。
岩崎彌太郎はご存知の通り、現在の三菱グループの創始者であり、江戸から明治への時代の激動の中、土佐の下士から大富豪へと上り詰めた立志伝中の人物として知られています。
僕も名前は知っていたのですが、その存在を強く認識したのはやはりNHK大河ドラマの「龍馬伝」でした。
香川照之さんの見事な演技もあり、非常に印象深いキャラクターとして描かれていました。
むろんこのキャラクターは相当に創作が入っており、そもそも坂本龍馬より幼い頃より知り合いであったという事実はありません。
龍馬と彌太郎が出会ったのは、長崎の土佐商会においてです。
実は岩崎彌太郎という人物は明治の頃から、そうとうにあまり良くないイメージで語られていたようで、それに司馬遼太郎の「龍馬がゆく」のイメージも加わっていったという感じで、その中で大河ドラマのキャラクターができていったといえるようです。
本著は著者がそのような架空のイメージに岩崎彌太郎が固められる前に、一度彼の行ってきたことを整理するという意味でまとめられたものだということです。
岩崎彌太郎という人物をさらに知りたいと思う方は読んでみるといいかもしれません。

彌太郎という人物も興味深いですが、本著を読んで「ああ、そうなんだな」と思ったことが一つ。
サブタイトルにあるように「会社」というものが明治になってできたのですよね。
そこで生まれたのが「公」と「私」の区別。
現代に生きる僕たちは「私生活」というのが当たり前ですが、江戸時代までというのはそれがほぼなかったのですよね。
商人は偉くなるまではその商家で住み込みで暮らしていました。
大名は城そのものが、政務の場所であり、また私宅でもありました。
そこに「公」と「私」の区別というのはなかったんですよね。
しかし明治になり「会社」というものができ、仕事をする場と、生活をする場が分かれたとき「私生活」というものが現れます。
本著によれば、岩崎彌太郎は土佐商会の仕事をしているときに書いていた日記を2種類つけており、それが「公」の商会について書かれたこと、「私生活」について書かれていたことと分かれていたようです。
彼は日本の中でもかなり早く「公私」の区別を付け始めた人であったのかもしれません。
そのあたり、明治の変革期の生活の変化というのに興味を持ちました。

NHK大河ドラマ「龍馬伝」の記事はこちら→

「岩崎彌太郎 -「会社」の創造-」伊井直行著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288051-0

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2011年1月28日 (金)

「僕が結婚を決めたワケ」 で、そのワケは?

ロン・ハワード監督の久しぶりのコメディ作品です。
彼の昔の作品は好きだったんですけれど。
「スプラッシュ」とか「コクーン」、「バックドラフト」、「アポロ13」・・・。
でも最近はどうも「好きっ!」って言える作品がないんですよね。
ですので観に行こうか迷ったんですけれど、やっぱりハワード監督だしなあということで行ってきました。

邦題は「僕が結婚を決めたワケ」。
結婚していない自分としてはぜひとも「結婚しよう!」と思う時の気分というのを知りたいわけですので、そのあたりを重点的に観てみようと(笑)、観てみましたが・・・。
「で、そのワケは?」
と聞きたい。
そもそも物語はそういうことが主題ではなかったような。
ふとパンフレットの原題を観てみれば「THE DILMMA」とありました。
ふむ、ジレンマ、ね。
それはこの作品のテーマそのままですね。
誰なんだ、変な邦題つけた人は?

主人公ロニーはつき合っている恋人と結婚しようか悩み中で、今一歩踏み込めない状態にいます。
ようやく覚悟を決めた彼が目撃してしまったのは、学生からの大親友の妻の浮気現場。
彼は正直でありたいと思い、親友に真実を告げようか告げまいか悩みます。
言うべきか、言わざるべきか、それが問題だ、と。
まさにジレンマです。
個人的にはあまり秘密を持つことができない(隠す方がエネルギーがかかるので)ので、基本的にロニーのように正直であるほうがいいなと思っています。
そのほうが秘密を抱えるより楽だと思うんですよね。
とはいえ、すべて正直であれば皆ハッピーであるかと言われればそうではないわけで、隠しておいたほうがいいことがあるというのはわかっているつもりです。
でも本作の主人公ロニーはそうじゃないんですよね。
そういう真正直なロニーと周囲の人々の困惑、ドタバタぶりが笑いどころのコメディなのだとは思いますが・・・。
なんというか、笑えない・・・。
恋人のご両親の結婚40周年パーティでのロニーの大演説は、まさにKYだし・・・。
心理療法の場での大暴露もいかがなものかと。
正直であるという自分は満足かもしれないけれど、周囲の人は相当居心地悪いよ・・・。
もう少し「空気を読んで」ほしいぞ、ロニー。
ということでコメディ映画なのに、大笑いするのではなく、苦笑するしかなかった微妙な作品でした。
うーむ、ロン・ハワード、どうした?

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2011年1月23日 (日)

「グリーン・ホーネット 3D」 悪い化学反応

ミシェル・ゴンドリーがヒーロー・アクション映画を撮る!?
「恋愛睡眠のすすめ」や「僕らのミライへ逆回転」などどちらかというとハンドメイドなテイストがあり、どちらかといえばミニシアター系なタイプなミシェル・ゴンドリーと、ハリウッド映画のど真ん中のヒーロー・アクション映画の組み合わせは正直言って意外でした。
ま、「僕らのミライへ逆回転」では「ロボコップ」のパロディをやっていましたし、本人は好きなのかもしれませんが。
僕はヒーロー・アクション映画も好きですが、ミシェル・ゴンドリーの手作り的な雰囲気の作品も好きなんですけれど、この両者の組み合わせはどうなるか想像がつきませんでした。
インディペンデント系の監督が、ハリウッドに招かれて大作を撮り、なんだかよくわからないものになってしまう例は幾多もあります。
そういう例のひとつになってしまうのか・・・。
インディペンデントの監督がハリウッドに進出することは僕は否定しません。
いい例もいくつもありますし。
たとえばクリストファー・ノーランなどがそうですが、個性を保ちながら、ハリウッドという文化の中で化学変化を生み出し大作にはないテイストを提示できるのか・・・。
ハリウッドは映画制作システムが巨大になってしまった弊害があると言われますけれども、それだけ資金を投入できるわけですからうまくやればインディペンデントではコスト上できないイメージを表現できる可能性があるんですよね。
いい化学反応があればよいなと、期待とそして不安を持ちながら劇場へ足を運びました。

観終わったあとの感想ですが・・・、まさに不安的中・・・。
ミシェル・ゴンドリーの個性も出ていないし、またヒーロー・アクションものとしてもキレが悪い。
よくない方向の化学反応が起こってしまったようです。
ミシェル・ゴンドリーらしいイマジネーションが溢れるような場面はほとんどみられませんでした。
今までの彼の映画は観れば、彼らしいところがどこかに感じられます。
本作はそれがほぼ感じられず、他の誰かが実は撮ってましたと言われても納得してしまいそうです。
ミシェル・ゴンドリーらしいなと思ったのは、主人公のグリーン・ホーネットことブリット・リードがおよそヒーローらしくなく子供のようなところ。
彼の今までの作品の主人公はどこかしら子供のような純真さ・まっすぐさがあります。
ブリットにも子供っぽさというものは感じました。
ただそれはイノセントということではなくって、大人になっていない未成熟さのようなものに見えたのです。
ブリットの幼さには、ヒーローに求められる他人のために自らが戦うといったような大人の責任感みたいなものはあまり感じられませんでした。
よほどキック・アスのほうがヒーローらしい。
ハリウッド映画らしいアクションの派手さ、見ごたえもあるかと言えば、標準的なレベル。
決して他の作品に比べて劣っているとは言いませんが、他の作品よりも勝っているとも言えません。
ほんとに普通です。
キャメロン・ディアスも添え物だし・・・。
3Dでの公開ですが、「3Dすごーい」と思わせるような使い方をしていなかったし(+400円とられる価値を感じられなかった)。
ああ、残念・・・。

「グリーン・ホーネット」のオリジナルのテーマ曲がちょこっと本作でも使われていましたね。
そういえばこれはタランティーノが「キル・ビル」でも使っていました。
彼も「グリーン・ホーネット」に思い入れがあるに違いありません。
この作品を観たときのタランティーノの反応が知りたいなあ。

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2011年1月22日 (土)

「完全なる報復」 完全な法はない

本日公開のこの作品、あまり話題にはなっていないようですが、たいそうおもしろい。
なにが正義でなにが悪なのか。
クライドが行っていることは正義ではないですが、その心情には共感できるところもあります。
対するニック検事は法律家として間違ったことはしていませんが、まったくの正義とも言いきれないところもあります。
そのあたりの善悪がピシッと分けられないことによる緊張感、そして何を仕掛けてくるのかどこを目指しているのかがわからないクライドの報復活動の行く末などサスペンスとして見ごたえがありました。

話題にならないのはアメリカ独自の法制度である司法取引が題材になっているからでしょうか。
司法取引というのは犯罪者がその犯罪立証するために協力することと引き換えに罪状を軽くしてもらう取引をすること。
例えば複数犯による犯行であれば、誰が主導権を握ってすすめたかというようなことを犯人グループの誰かが話すなどということになります。
映画などでもたびたびこの制度が出てくることがあるので知っている方もいらっしゃいますよね。
日本ではこの制度はありません(情状酌量はあっても)。
日本にはないからといって関係ないとも言ってられないような気もします。
司法取引というのはありませんが、日本でも法律はあるわけです。
本作は司法取引というよりは法システムに対する疑義というふうにとらえたほうがいいと思います。
法律というのは、刑事にしろ民事にしろなにか事件が起こった時、つどつどルールを決めていくのは非常に非生産的であるということからできたものであると思います。
何かルールがあったほうが良いか悪いか決めるのが早くなりますから。
しかしそのトラブルの事前の準備である法律がさまざまなケースに対応するためにより複雑化していくにつれ、それを専門に扱う法律家(裁判官、弁護士、検事など)という職種がでてくるわけです。
彼らもそれが仕事になるわけですから、システムとしていかに効率的に法律を運用していくかというのを考えるようになります。
本作の検事ニックなどもそうでしょう。
これは当然のことだと思います。
けれども効率的に行うのは悪いことではないですが、もともと法律が作られたときの意図というものがシステム化、ルーティン化していくなかで失われてしまい法律が運用されていってしまうのは危険だと思います。
専門家にとってはいくつも抱える案件の一つであっても、当事者からすればその案件がすべてなわけです。
流れ作業のように処理されてしまってはガマンがならないということも出てくる危険性があります。
日本でも昨年の大阪地検による証拠偽造という事件がありました。
これも最初に描かれたスジにあわせるために証拠を偽造したわけです。
これは一度立ち止まり考え直すということをサボり、決められたスジを淡々と処理していくという法律運用のルーティン化が招いたものであるかもしれません。
完全な法はありません。
完全な方はないからこそ、法律家はその法の成立の趣旨をしっかりと理解した上で、一件一件のケースについて丁寧に取り組む必要があると思いました。

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本 「アイスクリン強し」

小説との出会いというのはいくつかありまして。
書評などで高評価だったものを読んでみたり、映画の原作本を手に取ってみたり。
僕自身ときおりあるのは、「表紙買い」「タイトル買い」っていうのがあります。
本屋さんをブラブラ流しているときに、ふと目に入って「きれいな表紙だなー」とか「おもしろいタイトルだなー」っていうふうに感じて買うときがあるんですよね。
本作は実は本著の続編の「若様組まいる」という作品がまずは目に入ったんです。
タイトルも興味深かったし、舞台は明治時代ということ。
設定に興味を持ったので、買おうかと思ったら、二作目ということがわかったので、まずは一作目である本作「アイスクリン強し」を求めたわけです。

時代は明治の後半、主人公は西洋菓子屋を開こうとする真次郎。
ですのでタイトルが「アイスクリン(アイスクリーム)」なんですよね。
真次郎の仲のよい警官であり元旗本の息子たち(若様組)、明治以降財をなした商人の娘沙羅などが登場し、明治後期の世情を背景にしながらもライトなタッチの騒動が繰り広げられます。
事件のようなものは起こりますが、ミステリーというほどのものではなく、これは物語を進めるためのようそのようなもの。
どちらかというと明治後期を舞台にした青春劇みたいな作品と言っていいでしょう。
ですので、読み心地はさわやかですらすらと読めます。
キャラクターもわかりやすいので、マンガ化とかアニメ化してもおもしろいかもしれないなと思ったりもしました。
著者の畠中恵さんの作品は初めて読むのですが、もともとは漫画家をされてたということ。
なるほどとなっとくです。
畠中さんはファンタジーノベル大賞の受賞歴もあるということです。
ファンタジーノベル大賞出身の作家さんは好きな方が多いので、畠中さんの作品についても他のものを読んでみたいと思います。
まずは続編「若様組まいる」ですね。

「アイスクリン強し」畠中恵著 講談社 ハードカバー ISBN978-4-06-215006-4

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2011年1月20日 (木)

本 「瀕死のライオン」

この小説に登場する自衛隊に組織された特殊作戦群はアメリカのグリーン・ベレーやデルタ・フォースを手本にした日本唯一の特殊部隊です。
特殊作戦群は特殊部隊ゆえにわからないことは多いですが、そのメンバーは自衛隊の中でもエリートと言われる第一空挺団の中でもさらに能力がすぐれた者にしか属することができないと言われています。
本作は隣国北朝鮮が核兵器を日本に持ち込み、それで日本ならびにアメリカを牽制しつつ、南に進行するという作戦に対し、日本の内閣調査室、そして特殊作戦群が密かにその作戦を防ごうとする見えない攻防について描いています。
作者の麻生幾さんはこの手の特殊部隊や諜報作戦を題材にしている作品を多く出されいる方で、その情報の濃さたるやいつも感心させられます。
特に後半、特殊作戦群のチームが北朝鮮に隠密裏に侵入して以降の作戦の展開はハラハラさせられるものがあります。
このあたりの諜報作戦の描写はこの作者ならではの真骨頂というところでしょう。
ただ麻生さんは今までの作品を読んでいても思ったのですが、それほど人間描写やドラマというものはあまり得意ではないような気がします。
ですので、ドラマの余韻とかそういったものはあまりなく、どちらかというとプツリと物語が終わってしまうような印象があります。
「宣戦布告」とかもそんな感じがありました。
小説としてドラマ部分にはやや不満あるとはいえ、こういう諜報戦や特殊部隊についてリアルに描写できる書き手というのはあまりいないので、そういう分野が好きな方にはたまらないかもしれません。

本作出版されたのは2006年ですが、その後北朝鮮が核兵器を保有するという事実が出てきたり、最近の砲撃事件とかのニュースを聞いたりすると、本作で描かれているフィクションが現実味を帯びてきたりしているのではないかと感じたりもします。

「瀕死のライオン<上>」麻生幾著 幻冬舎 ハードカバー ISBN4-344-01204-6
「瀕死のライオン<下>」麻生幾著 幻冬舎 ハードカバー ISBN4-344-01205-4

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2011年1月16日 (日)

「ランボー 怒りの脱出」 映画は世情を反映する

「ランボー」シリーズの第二作になります。
ちなみに一作目の「ランボー」の原題は「First Blood」でしたが、本作では「Rambo: First Blood Part II」となっています。
原題も「Rambo」になったのは、邦題が良かったからという話です。
一作目はアクション映画と思いきや、ベトナム帰還兵の問題に触れた意外にも社会派な側面を持っていましたが、二作目の本作からアクション映画としてのテイストが強くなります。
80年代のマッチョ・アクション映画の代表として取り上げられることが多い「ランボー」シリーズのイメージを決定づけたのがこの第二作になると言っていいでしょう。
この作品が作られたのは1985年、アメリカではロナルド・レーガンが「強いアメリカ」を標榜していた時期と重なります。
第二次世界大戦後のヨーロッパの凋落、後を継ぐように世界の覇権を握ったとも言えるアメリカが、その自信に揺らぎをみせたのがベトナム戦争です。
ベトナム戦争の負の遺産の一つである帰還兵問題について一作目はスポットをあてました。
アメリカが自信を失い、いくつもの問題を抱えているという時代背景があったかと思います。
しかし第二作目が公開されたのはレーガン政権時であり、アメリカ人が強気を取り戻してきたときに当たります。
それが作品の印象に色濃く反映されているような気がします。
さらにこの続編「ランボー3 怒りのアフガン」ではソ連軍に対して一人で戦争をするくらいになるわけで、このとき1988年はアメリカ人の自信は再び最高にあがってきている状態と言えます。
しかしその後、「ランボー」シリーズのようなマッチョアクション映画は急速に減っていきます。
それは日本が経済的に大きく伸長し、アメリカの自信を再びくじくのです(象徴的なロックフェラー・センター買収、ソニーのコロンビア買収は1989年)。
そうなるとアメリカの自信は映画でもしぼんでいきます。
最近では泥沼化するイラク戦争が問題視されているときにいくつかのイラク戦争テーマの映画が作られました。
それらは基本的には戦争に対しネガティブであり、アメリカ自身の自信喪失がうかがえます。
このように映画はそのときの世情に敏感に反応しているところがあり、そういう点でアクション映画というものを観てみてもおもしろいかもしれません。

1作目のヒットを受け、2作目を作る時に方向転換を図るケースがあります。
「ランボー」シリーズもそうですが、ほかにもいくつかあります。
例えば「エイリアン」シリーズ。
一作目のスペースホラーから二作目は女性ヒロイン&戦争映画になりました。
また「ターミネーター」シリーズもそう。
1作目の悪役が2作目では主役ですから。
これらすべてに関わっているのがジェームズ・キャメロン。
本作でも実はシルベスター・スタローンとともに脚本を書いています。
キャメロンは方向転換をするのが、上手なのですかね。
「好戦映画」と言われた「ランボー 怒りの脱出」を書いた人が、「反戦映画」と言われる「アバター」を撮ったというのも興味深いところです。

今回観ていて気づいたところが一点。
本作でランボーが捕虜収容所に向かうときのセリフでこういうのがありました。
「俺は捨て石だ」
この「捨て石」って英語では「Expendable」だったんですね。
「Expendable」=エクスペンダブル!
なるほど去年のスタローンの映画「エクスペンダブルズ」ってこんなところに原点があったのです。
「トリビア発見!」と思ってしまいました。

「ランボー」の記事はこちら→
「ランボー 最後の戦場」の記事はこちら→

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「機動戦士ガンダムOO ファーストシーズン」 「ファウンデーション」の影響あり?

僕はもろにファースト・ガンダム世代なのですが、その後に作られた「Z」「ZZ」と観ていくうちにどうもその世界に馴染めず、自然と離れていきました。
その後も「ガンダム」と冠した作品が作られているのは知ってはいましたが、まるで食指が動きませんでした。
「Z」「ZZ」あたりでうけた幻滅感が大きかったからかもしれません。
「ガンダム」についてはそんな感じでありましたが、映画雑誌「CUT」の記事の評判が良かったので、ちょっと観てみようという気になり、このところDVDを観て、やっとファーストシーズンを観終わったところです。
最近の「ガンダム」のファンからすれば当たり前かもしれないですが、いわゆる「宇宙世紀」の世界観とはまったく違う世界の話なのですね。
平成仮面ライダーがそれぞれ別の世界観であるというのと同じ考え方ですね。
今回観てみようという気になったのは、「ダブルオー」が今僕たちが暮らしている世界から地続きの世界を取り扱っているということ。
今の世界にある大きな問題の一つ、紛争を解決しようとするのが本作の核心になります。
そういう現実的な問題についてどのように「ガンダム」が答えを出そうとしているのかが気になりました。

観始めて最初に驚いたのは、「最近のガンダムってたくさんいるんだー」ということ。
これまた最近のファンからすれば当たり前なのかもしれませんが、ファースト・ガンダム世代としては新鮮です。
ま、平成仮面ライダーもたくさん出てきますからねー。
ガンダムヴァーチェからナドレへの変化は、「仮面ライダーカブト」のキャストオフじゃんと思ってしまいました。
キャラクターデザインがお目めパッチリ系で初めは馴染めなかったのですが、観ていくうちに次第に気にならなくなりました。
テレビシリーズは作画のレベルがけっこう差があったりするものですが、本作は毎話クオリティが高いなと感心しました。
特に最終話などはかなりのハイレベルです。

西暦が2300年代に入った地球。
人類はいまだに紛争を止めることが出来ない状態になっています。
世界は大きく3つの陣営にわかれせめぎ合いを行い、また太陽光発電の普及によるそれまでの石油依存型の世界とは異なるパラダイムとなり別の形での紛争が起こっています。
そのように争いのなくならない世界に対し、戦いにより紛争根絶をするという理念を掲げ紛争介入を図る組織ソレスタルビーイングが登場します。
ソレスタルビーイングの主力兵器となるのが、4機のガンダムであり、これらは今までの技術を圧倒する高機能・高性能を持ち、各国の軍隊のモビルスーツを圧倒します。
彼らの理念はイオリア・シュヘンベルグという天才が200年前に掲げたものであり、ソレスタルビーイングの活動はイオリアの量子コンピュータ「ヴェーダ」のシナリオに基づき行われていきます。
ソレスタルビーイングが地球各国の「共通の敵」となることにより、地球で対立する陣営を一つにまとめようとするのが、「ヴェーダ」のシナリオでした。
すなわちソレスタルビーイングのメンバーたちはそのシナリオ上、統一国家へ進む地球の歴史の捨て駒としての役割を担っていたのです。
一人の天才が未来を予見し、最適な道筋に導いていくというこの流れで思い浮かべたのが、SF作家アイザック・アシモフの「ファウンデーション」シリーズです。
「ファウンデーション」シリーズでも一人の天才、ハリ・セルダンが「心理歴史学」に基づき人類を導くために「ファウンデーション」という組織を作るのです。
予期せぬと思われるシナリオの変化も起こりますが、それすらセルダンは予期し、「第二ファウンデーション」すら用意しているというのは、本作でガンダムマイスターとはべつにトリニティなどをバックアップで用意しているイオリアとかぶりました。
本作は「ファウンデーション」シリーズを参考にしているのではないかなあ。

初めはそれほど期待しないで観始めた「機動戦士ガンダムOO」ですが、硬派なドラマであり、またアニメとしても見所のある展開で最後の方はけっこう夢中になってみました。
ファーストシーズンでソレスタルビーイングの犠牲を元に地球連邦という統一国家ができあがります。
けれどもいくつかの謎はまだ残ったまま。
こちらはセカンドシーズンで明らかになるということでしょうか。
このままセカンドシーズンも見始めようかと思います。

地球連邦が成立したところで思ったことです。
「OO(ダブルオー)」というタイトルは、ファースト・ガンダムの「宇宙世紀」の「00」と関係あるんでしょうかね。
本作の最終回ででてきていたガンダム「OO」は、ファースト・ガンダムのRX-78に似ていましたし。
何か関連性あるのかな。
それもセカンドシーズンで明らかになるのでしょうか。

「機動戦士ガンダムOO セカンドシーズン」の記事はこちら→
「劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」の記事はこちら→

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2011年1月15日 (土)

「ソーシャル・ネットワーク」 牽引するのは脚本力

現在世界最大のSNSへ成長しているフェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグを主人公としたデヴィッド・フィンチャー監督の新作です。
僕自身はSNSはミクシィもフェイスブックもやっていません。
Twitterもアカウントをとってみたものの、何をつぶやいていいのかよくわからないので、ほぼ放置。
僕は人付き合いはまめではない方なので、濃かったり、数が多かったりするSNSにはちょっと腰が引けてしまうというのが正直なところ。
ブログを気が向くまま書いているくらいがちょうどいいかもしれません(と言ってもブログを始めたのもけっこう遅かったですが)。
フェイスブックは実名登録が基本ということですので、そこでのやり取りがリアルにダイレクトに反映してしまうというわけですから、余計めんどうくさいなあと思ってしまいます。

映画のストーリーなどについて語る前にちょっと寄り道を。
本作を観てちょっと驚いたのが、あれだけ自分の生活をオープンにしたいと思っている人が多いということ。
自分が何をしている、どんな状況であるかというのをそれだけ他の人に知ってもらいたいと思っている人が多いのですよね。
個人的にはちょっとその気分がわからなくって。
ブログをやっているわけですから、自分が考えたり、感じたことを伝えたいという気持ちはわかるんですけれど、もっと細かくつまびらかに自分の生活をオープンにしたいとなかなか思えないのですよね。
繋がっていたいという気持ちが強いということなのでしょうか。
それは「ソーシャル・ネットワーク」というタイトルに表れているのかもしれません。

さて本題です。
デヴィッド・フィンチャーにしては地味な題材を選んだなと思いましたが、最後までしっかりとひっぱって見せていくのはさすがだと思いました。
この物語を牽引していく力は、脚本によるところが多いでしょうね。
巧みだなと思ったのは、主人公であるマーク・ザッカーバーグが結局何を感じ、考えたのかというのを本人に語らせていないところです。
彼のかなりエキセントリックな性格・行動が本作では描かれますが、そのときにどう彼が感じ、考えているかというのは観ている側が想像するしかありません。
彼は夢中になったら周りが目に入らなくなるオタクなのか。
彼はかなり腹黒い裏切り者なのか。
彼は夢を追いかける純な男なのか。
彼がどのような男なのかというのを観ている側が考えていくというのが、一種の謎解きのようなものになっていて、それが物語を牽引する力になります。
そしてミステリーではないので、その答えというのも映画の中では提示されるわけではありません。
だからこそ、観ている側がより考えるというような作りになっていると思います。
そういう点において、とてもよくできている脚本であるなと思います。
デヴィッド・フィンチャーはその脚本を活かすためか、いつもと違い極めて堅実な演出をしています。
スタイルを封印するという決断を自身でしたのはさすがですが、そうなるとデヴィッド・フィンチャーでなければいけなかったかどうかというのは、ちょっとわからないですね。
アカデミー賞でも有力候補と言われていますが、それほどのものであるかどうかは個人的にはちょっと疑問。
非常にタイムリーな題材であり、よくできた脚本であるとは思いますが、作品賞にふさわしいかな・・・。

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2011年1月10日 (月)

「バーレスク」 ポジティブ・シンキング

洋楽に疎い僕は本作の二枚看板であるクリスティーナ・アギレラもシェールもよく知らなかったのです。
そもそも「バーレスク」というタイトルの意味すらよくわからなかった・・・(ちなみに「バーレスク」とは女性のお色気を強調した踊りを含めたショーのこと、らしいです)。
なのでそれほど観る気はなかったのですが、今年の正月映画はこれは観なければっ!っていうのが少なかったりするので、ふらりと本作を観てみました。
予備知識ゼロでしたが、かなり楽しめました。
田舎から一念発起してロサンゼルスにやってきたアリ(クリスティーナ・アギレラ)。
彼女はロスでその才能を開花させ、ショーの主役をまかされるようになっていく・・・。
今までもいくつもの作品でみられたパターンではあります。
今までのこの手のショービズを題材にした作品だと、女の戦いのようなドロドロしたりする展開(「シカゴ」等)とか、もしくは田舎娘がその才能を開花させていく物語(「フラッシュ・ダンス」等)とかが多かったですよね。
でも本作で感じたのは、基本的にポジティブなトーン。
これはクリスティーナ・アギレラが演じるアリという主人公によるところが大きいかと思います。
アリは自分の才能に疑いをもっていません。
チャンスがあれば自分は認めてもらえることができるという自信があります。
なので誰かの力によって、シンデレラになっていくようなことにはなりません。
アリは自信があるから他人を蹴落とそうというような考えは彼女の中には見受けられないんですよね。
ですので女同士のドロドロとした戦いもありません。
けっこう脚本が巧妙だなと思ったのは、アリをスターに押し上げる力を持ったマーカスとか、ライバルでちょっと嫌みな女性ニッキなどを配置し、今までの作品から期待される予定調和的なドロドロ展開にいかせようとするそぶりを見せながらも、その方向にストーリーを持っていかないところですね。
基本的にアリの考え方はポジティブ・シンキング。
そして彼女の歌もダンスもパワフル。
八方ふさがりな状況のある世の中ですが、彼女のように自然に自分を信じて進んでいく姿というのは眩しくキラキラしているように見えます。
誰かを踏み台にとか、犠牲にっていうのではなくて、自分ががんばれば自然に成功はついてくるというとても素直でポジティブな考え方。
そういう純な精神を持っているアリという女性がとても魅力的に見えました。

クリスティーナ・アギレラは初めての演技ということですが、なかなかどうしてとても上手です。
彼女は歌手というよりは一流のパフォーマーなんでしょうね。
人を楽しませるということがしっかりとわかっている人なんだろうなと思いました。
もちろん歌も当然のことながらパワフルで聞きごたえがありました。
冒頭に書いたようにほとんど知らなかったので、じっくりと観るのははじめてなのですが、きれいな人ですね。
舞台に上がっているときのセクシーさも魅力的でしたが、普段っぽいときのキュートな感じも好きです。
このあたりの幅があるのも一流のパフォーマーというところなのでしょうか。
キュートな感じのときの表情がメグ・ライアンぽく見えたりもしました。
コケティッシュなコメディなども似合うかも。
今後もチャンスがあったらまた映画にも登場してほしいです。

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2011年1月 9日 (日)

「レッド・オクトーバーを追え!」 見えない敵との駆け引き

テクノスリラーの第一人者トム・クランシーの小説の映画化作品。
主人公の名をとり、ジャック・ライアンシリーズと言われていますが、その第一作品です。
映画で本作のあと、ハリソン・フォード主演でこのシリーズは「パトリオット・ゲーム」「今そこにある危機」「トータル・フィアーズ」と続編が作られていきますが、僕はこの一作めが一番おもしろいと思っています。
主人公のジャック・ライアンもハリソン・フォードより、本作のアレック・ボールドウィンのほうが自分の中ではイメージに近いんです。
ハリソン・フォードはやはりどうしてもヒーロー然としてしまうので、困難にあたっても解決できちゃいそうな感じがしてしまうので。

潜水艦ものというのは昔から名作が多いですよね。
「眼下の敵」「Uボート」「クリムゾン・タイト」・・・。
高い圧力の海水に囲まれた限定空間の中での緊張感、また見えない敵との駆け引き・やりとりという要素が映画をおもしろくするのでしょう。
本作ではソ連(!映画公開のときはまだ冷戦中)の新型ミサイル原子力潜水艦「レッド・オクトーバー」の艦長ラミウス(ショーン・コネリー)が原潜ごと亡命を企てます。
それを防ごうと隠密裏に軍を差し向けるソ連、またその動きを察知するCIA、米軍。
CIAのアナリストであるジャック・ライアンは、ラミウスの亡命の意志を直感し、彼と最新鋭潜水艦を傷つけずにまた平和裏に手に入れようと画策します。
映画はラミウスサイド、ジャックサイドと交互に描かれていきますが、互いに相手の意図が不明な中での駆け引きを行っていくあたりが緊張感があります。
その駆け引きも十分見ごたえありますが、また潜水艦同士の戦いも見所のひとつ。
最初の方のラミウス艦長の海溝での操船術を見せるシーンは緊張感があり、好きな場面です。
また後半の方の潜水艦同士の戦いは、水中のドッグファイトともいえるようなところもあり非常にカッコいいです。
ソ連潜水艦がレッド・オクトーバーに魚雷を撃って、それを撹乱させるために米海軍のロサンジェルス級潜水艦ダラスが割って入るところも好きなシーンなんですよね。

この映画が公開されたのは1985年。
ソ連崩壊が1991年ですから、さきほど書いたように公開時はソ連の脅威があったと言われていた時期でした。
あとから見てみると、1985年あたりで最新鋭の原潜など作れるような状況ではソ連はなかったわけなのですが、その頃は冷戦中ですから、アメリカからすればそれこそ見えない敵ではあったんですよね。
見えない中で駆け引きがあるのが政治で、そういう意味では潜水艦同士の戦いというのは政治の縮図なのかもしれません。
本作までくらいがソ連が明確な敵として映画で描かれた最後の時期ですよね。
その後は強力な敵がいなくなったおかげで、ハリウッド映画は敵探しに苦労していくということになるわけです。

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「アンストッパブル」 手に汗握ります

デンゼル・ワシントンとトニー・スコットの黄金コンビによる新作「アンストッパブル」を観てきました。
このコンビは本作で5作目となりますが、前作「サブウェイ123」は個人的にはいまいちであったなと思っていたので、やや心配なところもありました。
同じ列車ネタですし。
けれども本作はあまり余計なドラマ部分についてはそれほど掘り下げず、激走するモンスターと化した列車と、二人の鉄道員の戦いという点に焦点を当てているので、切れ味のよいアクション映画となっています。
前半はやや垂さはあったものの、特に二人の鉄道員が暴走列車を追いかけるあたりから後半は、まさに手に汗握るという感じで前のめりで観てしまう感じになりました。
この作品のベースになっているのは、実際にアメリカであった事故ということです。
つまりは暴走する列車は結局は止めることができめでたしめでたしになるということは観る側もわかっています。
結末がわかっていながらも、そこに至る過程をハラハラドキドキで繋いでいくのはなかなかにたいへんであったと思いますが、とてもうまくやっていたと思いました。
このへんは脚本の構成もそうだと思いますが、トニー・スコットらしい演出も貢献していたと思います。
特に「大曲り」のあたりは観ている側としてもハイテンションになりました。
作品によっては、トニー・スコットの激しいカットワークや手持ち風の動くカメラ、急なズームなどはわざとらしい感じがあるのですが、本作のようなタイプの作品はハラハラ感に繋がるので向いていますよね。
ちょうど一昨日、お兄さんのリドリー・スコットの「キングダム・オブ・ヘブン」を観ました。
この兄弟はそれぞれ大作映画をコンスタントに当てていくという点で共通していますが、その演出のテイストは違います。
リドリー・スコットはどちらかというとしっかりと人物のドラマを描き、その上で映画的なスペクタクルというかエンターテイメント性もしっかりとわかって映画を作っているような気がします。
じっくり見せてだんだんと盛り上げていくという感じでしょうか。
最後の方のクライマックス感みたいなものにつなげていくのがとても上手い方だと思います。
ですので、リドリー・スコットの作品は必然的に尺は長くなりがちですが、それでも見せきってしまうところがスゴいです。
彼がよく使うのはスローモーションですが、このあたりの手法も彼のじっくり見せるというスタイルにあっているのかもしれません。
対してトニー・スコットはどちらかというと勢い、スピード感で見せていくタイプかなと。
それほど人物描写は深くは描かず、そのシチュエーションで起こった出来事を矢継ぎ早に展開していく。
最初からの勢いで、最後まで引っ張っていくというのが彼のスタイルのような気がします。
ですのでトニー・スコットの作品はそれほど長尺のものは多くないと思います。
本作も90分程度ですし、これくらいが勢いで見せるにはちょうどいいのでしょう。
上で書いた激しいカット割りやカメラの動きというのもトニー・スコットのスタイルにあっているのだと思います。
多作であり、コンスタントにヒットをあてる二人の兄弟ですが、それぞれのタイプが違うという点に注目してみて観るのもおもしろいかもしれませんね。

トニー・スコット監督「サブウェイ123」の記事はこちら→

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2011年1月 8日 (土)

「キングダム・オブ・ヘブン」 完璧な人格者は感情移入しにくい

昨年末にリドリー・スコットの「ロビン・フッド」を観たので、彼の史実ものを観たくなりこちらの作品をレンタルしてみました。
舞台となっているのは十字軍によって樹立されたエルサレム王国。
そのエルサレムがイスラム勢力によって陥落させられた時代を扱っています。
十字軍というのは教科書レベルでは知っていますが、その具体的な内容については多くの日本人は詳しいことは知らないでしょう。
また遠路はるばる宗教的大義のためにエルサレムまで渡り、そこで戦いを繰り広げるというキリスト教信者の気持ちについてもなかなか共感するというか、腹に入る感じはないのではないでしょうか。
僕もそういう日本人の一人であるため、本作の時代背景がわからないため、やや物語に入り込むのに苦労をしたところがありました。
映画を観た後、エルサレム王国についてwikipediaでチェックしたところ、ほぼこの映画で描かれていた出来事は史実だったようですね(もちろん主人公バリアンなどは創作)。
ただエルサレム王ボードゥアン4世は賢王であったが病弱で早世し、彼の妹婿のギー・ド・リュジニャンが王を継ぎ、イスラムのサラディンに戦いを挑みますが大敗をし、その後エルサレムが陥落したという流れは歴史の通りのようです。
こういう歴史についてほぼ知らない状態で観たのですが、それでも145分という長尺を一気に見せてしまう手腕はさすがリドリー・スコットというところでしょう。
先に「ロビン・フッド」を観てしまったので、全体的な盛り上がりという点ではややもの足りなさを感じますが、物語を押し進めるパワーは感じます。
盛り上がりにややかけるというのは、ひとつは主人公バリアンの性格設定というところもあるでしょう。
バリアンは非常にストイックであり、正義というものに忠実で騎士であろうとします。
騎士としてのまっすぐさ清廉さが彼のパーソナリティですが、そこに一分の隙もなく、観ていて自分と共感するというのはなかなかしにくいキャラクターだなと思いました。
まさに聖者という感じなのですよね。
その点、現在公開中の「ロビン・フッド」の場合では、主人公はカリスマ性のある指導者でありながらも、人間くささもあり、だからこそ共感でき、物語のなかで描かれる戦いにも観客は入り込んで観ることができたと思います。
その点で、この作品はとっつきにくさといものがあったような気がします。
そこについては多分リドリー・スコット自身も自覚的であったと思います。
エルサレム王がバリアンを評価し、自分の妹シビラを離縁させ、一緒になるように薦めます。
けれどもバリアンはシビラに好意を持ちながらも、騎士として人として道に外れることを拒みます。
シビラ自身もバリアンに好意を寄せていましたが、結局エルサレム王の死後、夫のギーに王位を授けます。
ギーは元々イスラムとの主戦派であったため、それによりエルサレム王国は戦いに巻き込まれることはシビラもわかっていたはずです。
シビラはわかっていながら、ある意味バリアンに捨てられたという想いの中、ギーへ王位を渡すことは彼女なりの腹いせであったような気がしました。
しかしそれで起こった戦の中でもバリアンは常に騎士として、人々の命を守るため、死力を尽くして戦います。
その姿を見ている中でシビラ自身は自分の小ささというものに気づき恥ずかしさを感じたのでしょう。
髪を切り、負傷者を助けようとするするシビラの姿にそれを感じました。
ただ恋愛感情のある二人の間でさえ、シビラから観てもバリアンは高潔すぎなかなか寄り添いにくいという印象を観客に与えることは確かです。
あまりに完璧な人物というのはなかなか物語に引き込むのは難しいものなのだなと改めて思いました。

リドリー・スコット監督作品「ロビン・フッド」の記事はこちら→

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2011年1月 3日 (月)

本 「嘘つき男と泣き虫女」

ずいぶん前ですが「話を聞かない男、地図が読めない女」という本がベストセラーになりました。
「嘘つき男と泣き虫女」は同じ著者が前作の評判をうけて、出版した本になります。
前作を読んだときはずいぶん前ですが、「なるほどね」と感心したものです。
すなわち男と女というのは、もともとその生活での役割が違っていた。
男は狩りをし、女はコミュニティを守る。
そういう役割分担がされていたので、それぞれに男脳、女脳ともいうべき回路の違いがあるわけで、男も女も自分の考えるような考え方を異性がすると思い込まない方がいいと。
同じように考えると思うから、男女の間には軋轢が起こるのだということですね。
本作も同じ考え方をベースに、もう少し具体的な例をあげながら同じ論を展開しています。
ですので、こちらの本は読んでも何か新しい発見があるという感じはしませんでした。
また前読んだとき、感心した考え方もちょっとモデルとしてはめすぎてしまいすぎちゃいないかとも感じました。
前作の後、世界中での調査をしたと書いてありますが、ケーススタディはやっぱりアメリカ人のケースが多い。
これをベースにして人間全体の普遍のルールとするのもいかがなものかなとも思いました。
当然のことながら、文化背景によって人はそれぞれ違いますからね。
パートナーが自分と同じ考え方をしないというところだけ理解すればいいのじゃないのかな。

「嘘つき男と泣き虫女」アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ著 主婦の友社 ハードカバー ISBN4-07-231923-6

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2011年1月 2日 (日)

「キック・アス」 スーパーヒーローの条件

2011年の最初の観賞作品は・・・「キック・アス」!
実は年末に観に行こうと渋谷に足を運んだら、「立ち見」ですとのこと。
B級アメコミ映画だから、話題になっているとはいえマニアくらいしかこないでしょ、と高をくくっていたらスゴいことになってました。
今日は100円プラスで「予約」をして、満を持しての観賞です。

観る前はアメコミ・ヒーローのパロディかと思ったのですが、まっとうなスーパーヒーロー作品じゃないですか〜。
スーパーヒーローと言えば、スーパーマンにしろ、スパイダーマンにしろ、一般人にはない特殊能力を持っています。
バットマンは普通の人間ではないか(本作の劇中でもそういう指摘あり)という疑問はあるかもしれないですが、彼は化学の粋を集めた特殊アーマー・武装で身を包んでいて、それが可能なのは一般人にはない財力がものを言っているわけですから、特殊と言えば特殊なんですよね。
本作の主人公デイヴはヒーロー好きのただのティーンですが、あるとき一念発起し自作のコスチュームに身を包み、「キック・アス」となってみんなを助けようと活動を開始します。
あたりまえですが、彼は手首から糸を出したり、空を飛んだりできるわけではありません。
ほんとに普通のハイスクール・ボーイなんですよね。
彼は夜回りをしているときに、暴漢に襲われる男を助けようとします。
男はなんとか助け出しますが、暴漢たちにキック・アスはボコボコに。
その模様がなんとYouTubeで公開され、一躍キック・アスは注目をあびるのです。
全然強くないし、カッコよくもないキック・アスが何故みなからヒーローとして注目を集めたのか。
それはデイヴの心にスーパーヒーローの気持ちがあったからなのでしょう。
困っている誰かを守ってあげたい、そういう気持ちがヒーローになるための一番の大きな要素なんですよね。
特殊能力があるからスーパーヒーローになるのではありません。
スーパーヒーローの条件は、誰かを守りたいというその気持ちにこそあるんですよね。
「スパイダーマン」の中での有名なセリフで「大いなる力には大いなる責任が伴う」というものがあります。
これはスパイダーマン=ピーターが、スーパーヒーローとして自覚をするきっかけとなる言葉です。
この言葉をもじったセリフが本作にも出てきていて「大いなる力がなくても、大いなる責任が伴うのではないか」というものでした。
これはデイヴがキック・アスを辞めようと思った時に、彼の心に浮かんだ言葉でした。
この後、彼はほんとうのヒーローになるわけです。
特殊能力がスーパーヒーローになる条件ではない、彼のような心こそがスーパーヒーローになる条件なのですよね。
キック・アスがボコボコにやられているところを、みなが助けるわけでもなくケータイで録画をしていました。
そういう犯罪の現場に首をつっこむことはなかなかできませんが、身近なところの小さなところでも最近はみな傍観者になっているだけというのが多くなってきているような気がします。
人と関わりあいになりたくないというか。
そんな中で普通の人と変わらないのに、まっすぐに人を守りたいと思えるデイヴのような存在というのが、かえってみなの心に響いたから、キック・アスが注目を浴びたのでしょう。
そういう意味で、けっこうマジメにスーパーヒーローというものを見つめている作品に仕上がっていると思いました。

主人公のキック・アスを食っちゃうくらいに活躍していたのが、ヒット・ガール。
超絶の運動神経と、あらゆる武器を使いこなすテクニック、何事にも動じない心で、バッタバッタと悪人たちをなぎ倒していきます。
ムチャクチャ強いです。
アンジェリーナ・ジョリーかミラ・ジョボビッチくらい強いです。
11歳の少女にこんなことやらせていいのかと、教育関係者からは怒られそうですが、かなりかっとんだ設定でインパクトありですねえ。
あとヒット・ガールのお父さんのビック・ダディ役で出演しているのが、ニコラス・ケイジ。
ほんとにニコちゃん、こういうB級ヒーローがほんとに好きなんだなあ。
アカデミー賞受賞者なのに。
ムチャクチャ、ノッテます。

全米でも大ヒット、日本でも大ヒットということで本作は続編決定だそうです。
やっぱり次はキック・アスとヒット・ガールがコンビになるんですよね。
で、レッド・ミストが親のかたき討ちで敵役なのかな。
ほんと「スパイダーマン」みたくなってきそう。

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2011年1月 1日 (土)

「トランスポーター2」 3作の中で一番おもしろい

1作目と3作目は劇場で観ているのに、2作目だけは未観賞だったので、お正月休みに観てみました。
2作目を観なかったのは、1作目がそれほどおもしろくなかったから。
それでもって今回2作目を観ようと思ったのは、3作目が思いのほかおもしろかったからです。
で、結果から言いますと、「2作目が一番おもしろいじゃん!しまった・・・」というところです。

見所と言いますと、本作はやはりアクションでしょう。
前半の主人公フランク(ジェイソン・ステイサム)が駆るアウディA8を追うパトカーの追跡シーンが見ごたえがあります。
リュック・ベッソン製作のカーアクション映画というのは、いつもかなり躍動感とスピード感がありますが、本作も同様です。
フランクはプロの運び屋ですから、ドライビング・テクニックは神業的で、ただ速いというだけでなく、車自体を己の体のように扱います。
ジェイソン・ステイサムのアクションも見事でした。
特に本作は、小道具を使ったアクションがアイデアもあり、キレもあってよかったです。
このアクションを観て、ジャッキー・チェンの映画を思い出しました。
ジャッキーもその場にある小道具を使ったアクションで魅せてくれましたが、本作のジェイソン・ステイサムはジャッキーを髣髴とさせました。
アクションについてはシリーズ3作の中で最も見せ場があったような気がします。

フランクのキャラがシンプルなのも見やすいところかもしれません。
彼はプロの運び屋で、1作目にあるように自分自身にルールを定め、それをしっかりと守ることを実行しています。
アクション映画の主人公の中では珍しいストイックなタイプです。
ダークスーツにこだわり、衣服の乱れも許せないというフランクのキャラクターは明快で、本作で彼が子供を救おうとするのも自分のルールに忠実だから。
けれどもフランクはただの冷血感ではなく、彼が自分で思っているよりもやさしさを持っているいまどき珍しいハードボイルドな男なんですよね。
そういうフランクの性格を前提にして、1作目や3作目にある恋愛要素がないので、アクションに特化しているから短い尺の中でキレのある活劇になっているのでしょう。
3作目はおもしろかったのですが、本作を観るといろいろ要素が多くなっているので、作品としてのシンプルさは失われているかもしれません。
フランクが自分のルールをあっさりと破っているのもちょっと気になりますね。

とはいえ最近のアクション映画の中では、フランクが立っているキャラクターであることは間違いのないところ。
いくらでも続編を作れそうな本シリーズ、第4作目はあるのでしょうか。

「トランスポーター3 アンリミテッド」の記事はこちら→

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