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2010年12月31日 (金)

「宇宙戦争(1953)」 SF映画たちのルーツ

超有名なH.G.ウェルズの小説「宇宙戦争」を原作としたSF映画です。
SFファン、特撮ファンを自称しておきながら、この作品を初めて見てみました。
念のためですが、スピルバーグ&トム・クルーズ版じゃないですからね。
とはいえ、スピルバーグは本作にオマージュを捧げているのがわかりました。
火星人のマシーンからニョロニョロっと出てくる探査器の形状は本作での同様のもののデザインを踏襲したものだったんですね。
スピルバーグ版でトムとダコダちゃんが家の地下で探査器をやり過ごそうとするシーンがありますが、本作でも同じような場面があります。
スピルバーグは自分が本作を観たときのドキドキ感を再現したかったのかもしれません。
たぶんスピルバーグは正体不明の火星人に襲われたときの恐怖感をテーマにしたかったのでしょう。
ですので、主人公の家族の視点に焦点を絞ったのは頷けます。
ラストのオチはまったく同じですね。
あっけないといえばあっけない。
スピルバーグは異星人侵略を描きたいわけではなかったのですから、選択としてはありでしょう。
異星人の侵略により破滅しそうになる人類の戦いというのをテーマにしたのは、ご存知「インディペンデンス・デイ」です。
「インディペンデンス・デイ」は「宇宙戦争」を原作にしているわけではありませんが、その影響は明らかです。
圧倒的な科学力を前になすすべもなくやられてしまう人類というのは本作を踏襲しています。
世界各国が同時多発的に狙われ各国軍隊もかなわないというのも本作と同じです。
ですがそのあとはまったく違います。
アメリカ人以上にアメリカンなエメリッヒ監督は英雄的なリーダーの活躍により異星人を撃退させます。
同じ作品からインスパイアされていても作る人により、スポットライトを当てるところが違うという例ですね。
あと日本でもおそらく影響を受けたと思われるのが、円谷プロに「ウルトラ」シリーズでしょう。
今回本作を観て思ったのが、特撮部分について類似点が多いです。
おそらくこの作品を観て当時の日本のスタッフは感化されたに違いありません。
類似点としては特撮の合成やオプチカルの処理などが初期の「ウルトラ」シリーズと似ているように思いました。
また効果音なども非常に雰囲気が似ています。
あと音楽も「ウルトラQ」や「ウルトラマン」のBGMが本作のそれいに影響を受けているのではないかと思いました。
その後、世界から注目されることになる日本の特撮技術のルーツがこの作品にあるのかもしれないなと感じました。
円谷プロは「ウルトラ」シリーズでこのような劇場でしか観られなかった特撮を「毎週」お茶の間に届けることになるのです。

上にあげた例以外にも本作から直接間接的に影響を受けた作品は数知れないでしょう。
このように本作はその後のSF作品に大きな影響を与えたルーツとも言える作品なのかもしれません。

「宇宙戦争(2005)」の記事はこちら→
原作小説「宇宙戦争」の記事はこちら→

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本 「悪人」

今年2010年の僕の選んだベスト10の映画の中にもランクインさせた「悪人」、原作小説を読みました。
ストーリーの展開はほぼ映画と同じですが、やはり小説と映画の違いは当然のことながらありました。
小説の方が登場人物が多く、そして彼らの祐一や光代、佳乃に対するそれぞれの見方というのが独白で入ってきます。
他人がその人をどう見ているかというのは、その人自身のものの考え方や、こうあって欲しいというフィルターを通して見るわけなのでそれが正しいかどうかはわかりません。
いろんな人に聞けばそれぞれ違った人物像というのが出てくるものです。
小説はそういう人が人を見るときのどうしようもない壁の存在というのを感じさせてくれました。
祐一と光代はそれを越えようとしますが、結局は魅かれあう二人でさえそれを越えることはできません。
その壁は、人間である限りどうしようもないものなのかもしれません。
それでも小説は親切で、祐一がとった行動にあった彼の気持ちというのが、祐一と光代の独白により直接的ではないにせよ想像をすることができます。
それは僕が映画のレビューのところで書いたものと同じものだと思います。
逆に映画はそれすらほんとうにそうだったのか確信が持てない終わり方だったわけです。
それはいけないというわけでなくだから良かったのではないかと。
所詮、人は他の人がどう考えているかというのはほんとうにはわからない。
それは小説でも伝えようとしていたことではないかなと思います。
映画はそれをセリフなどによる語りではなく、妻夫木さんの表情のみで伝えようとしていました。
それを観客はどういうふうに考えているのかを読み取ろうとする。
人はその表情や行動しか見えないのですから。
そういう点で、人というものが持っているどうしようもない壁を、小説は小説らしく、映画は映画らしく、伝えようとしているのが「悪人」であったと思います。

映画「悪人」の記事はこちら→

「悪人<上>」吉田修一著 朝日新聞出版 文庫 ISBN978-4-02-264523-4
「悪人<下>」吉田修一著 朝日新聞出版 文庫 ISBN978-4-02-264524-1

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2010年12月30日 (木)

2010年を振り返って<映画>

恒例ですので、今年劇場で観た映画の振り返りをしたいと思います。
今年は劇場で観た映画の本数は109本で、前年の133本から大きくダウンとなりました。
春頃、忙しくてあまり劇場に足を運べなかったのが響きましたかね。
さてベスト10を発表しましょう。
昨年は10本に絞り込むのに困りましたが、今年は10本を選ぶのに苦労しました。
観た本数が少ないからか、それとも今年はあまり当たり年ではなかったのか・・・。
ですので、今年は次点はなしです。

1.「告白」
2.「第9地区」
3.「インセプション」
4.「悪人」
5.「ハート・ロッカー」
6.「借りぐらしのアリエッティ」
7.「ゾンビランド」
8.「(500日)のサマー」
9.「ラブリーボーン」
10.「トロン:レガシー」

自分でベスト10をあげてその作品名を改めてみてたときの最初の感想は「重いな・・・」でした。
今年は人の内面の迷路にかなり奥深くに入り込んだ作品に心魅かれたような気がします。
いつもだともう少し映像系であったり、派手めなハリウッド映画がもう少し入ってくる感じがしますが今年はベスト10に入るほどピンとくるのがあまりなかったような気がします。

1位は「告白」です。
こちらの作品は自分の中では文句なく堂々の1位です。
人間という存在がもってしまう自己中心性というものを淡々と客観的に見つめている視線にとても心を揺さぶられました。
今までは演出も映像も派手であった中島監督が、あえてドラマッティックにしすぎず、クールな視線で描くおかげで、事件の生々しさの奥にある本質というのがかえって浮き上がってきたかと思います。
とはいえドキュメンタリーのような感じでもなく、映像は非常に計算し尽くされていました。
中島監督の新境地とも言える代表作になったと思います。

2位の「第9地区」はSFという手法が、フィクションだからこそ、物語の中に現代社会を描写することができるということを確認させてくれた作品でした。
これを新人監督がとってしまうというところがスゴいです。
新人監督にまかせたピーター・ジャクソンもスゴいです。

3位「インセプション」はクリストファー・ノーラン監督の力量がふんだんに出ている作品。
入れ子のような物語を観るものに混乱させることなく伝える構成力、イマジネーション溢れるこだわりが感じられるビジュアル。
それらにすべてノーラン印を感じることができます。
作家性もあり、かつエンターテイメントとしても優れている作品をとれる監督はそうそういません。

自己中心性というテーマという点では「告白」にも通じるところがあるのが、4位の「悪人」。
これは主役二人の俳優の演技に圧倒されました。
映画を観たあとに原作を読みましたが、映画の方が何倍もいいです。
物語を二人に収斂しているが焦点が絞りこまれていいのですが、それを受け止めた妻夫木さん、深津さんの演技に脱帽です。

5位の「ハート・ロッカー」は観たのがずいぶんと前のような気がしますが、今年でしたね。
女性監督とは思えない骨太な演出を見せたキャスリーン・ビグロー。
全編を通して感じられるジリジリとした緊張感は、主人公と同化して現場にいるような落ち着かなさと興奮を感じました。
こういう派手ではないけれども見せきる演出ができる人はなかなかいないですよね。

6位「借りぐらしのアリエッティ」は今年ではランクインした唯一のアニメーション。
本作デビューとなる米林宏昌監督が非常に丁寧に作っていることがわかる作品でした。
偉大な宮崎監督を越えようとする気負いは感じられず、素直に作っているのに好感が持てました。
ご本人はもう監督はやらないとおっしゃっているようですが、師匠の宮崎監督も何度もそう言っているので、米林監督にもぜひ次回作を期待したいです。

7位の「ゾンビランド」は普段だったら絶対観に行かない映画。
ホラーが苦手ですから。
でもこちらの作品はホラーと言っても、どちらかというとバディ・ロードムービーに近いです。
主人公二人の掛け合いや旅の同行者との掛け合いが楽しく、名作「ミッドナイト・ラン」をさせてくれました。

8位「(500日)のサマー」は主人公にムチャクチャ感情移入をしてしまった作品。
たぶんトムに共感する男性は多いのではないでしょうか。
「インセプション」にも出演しているジョゼフ・ゴードン=レヴィットが主役。
彼はこれからの注目株です。

9位以下は非常に悩みました。
考えた末に「ラブリーボーン」を9位にしました。
ジリジリとした緊張感があり、非常に思いテーマでありながらも、なにか希望が感じられるラスト、そして主人公を演じるシアーシャ・ローナンの素晴らしさでランクインです。

10位の「トロン:レガシー」は最近観たばかり。
やはりこちらは映像でしょう。
昨年の「アバター」でも感じましたが、観たことのない映像を作りたいという気概が感じられます。

恒例のワースト5も発表しちゃいましょう。
順位はなしです。

・NINE
・シャッター アイランド
・エアベンダー
・ジェニファーズ・ボディ
・GAMER

いつもはB級映画が並ぶところですが、今年は巨匠による大作も3本ほど入ってしまいました。
期待度も大きかったぶん、がっかり度も大きかったというところでしょうか。
過剰な広告はマイナス効果を生むという例です。
後に2作品は期待はしていなかったですが、やっぱりなという感じでした。

全体的にはいつもより不作?だったのかな。
見た目の派手さというよりも人の内面の描写の深さを感じさせてくれる作品が、今年は気になりました。
スカッとする派手な作品も見たいところなんですけれどね。
来年もいい作品に出会えるでしょうか。
来年もよろしくお願いいたします。

2009年を振り返っての記事はこちら→

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2010年12月29日 (水)

本 「坊っちゃん」

夏目漱石の小説を時々読むようになってきていますが、こちらも有名な一冊「坊っちゃん」です。
漱石の小説が今も読み継がれているというのは不思議なものですが、本作を読むとその理由がわかったような気がしました。
主人公"坊っちゃん"は直情径行の熱血漢、そして人にあだ名をつけるのがクセになっています。
それがみなさんもご存知の、山嵐、赤シャツ、野だ、狸、うらなりになるわけです。
それらのキャラクターが現代でも、こういう人いるよなーというような人物なのです。
赤シャツは、理屈ばっかりをこねて、表面上はいい顔をしながら、裏では策を弄する人物です。
ですので他人からの評価は思いのほか高く、裏の顔を知っている人からすれば腹立たしくてならない。
また野だはそういう赤シャツにお追従を言って、お先棒を担ぐような太鼓持ち。
権威を笠に着るようなヤツですが、これはこれで頭にくる。
狸は狸で、いろんなことが起こっているのに、無関心な事なかれ主義。
どうか騒ぎを起こしてくれるなっていう感じです。
それぞれ、とってもいやーなヤツなのですが、こういう人物というのはこの時代のこの小説の中だけではないなとふと思うわけです。
というよりこういうヤツはやっぱり現代でもそこらへんにいるわけです。
たぶんこの作品を読んでいる人はそれぞれに、それぞれの身近にいる赤シャツや狸が頭の中に浮かんでいるんではないかと。
そういうイヤなヤツにぎゅーっと言わせたいと思ったりしても、なかなか現実にはできないものです。
本作の"坊っちゃん"はそういうヤツに、後先考えずにぽかりとやってしまう。
それが読んでいると溜飲を下げ、読者が"坊っちゃん"に共感するのでしょう。
いつの時代にも赤シャツみたいなヤツはいて、そういうのにぽかりとやりたいという気持ちがあるから、「坊っちゃん」は読み継がれているような気がしました。
とはいえ、ぽかっとやってしまったらお役御免になるわけで、"坊っちゃん"も辞表を叩き付け、東京に戻ってきます。
なかなか今の時代、辞表覚悟でそういうこともできないですよね。
やっぱり小説の中で溜飲を下げるしかないのかもしれないです。

夏目漱石作品「こころ」の記事はこちら→
夏目漱石作品「我輩は猫である」の記事はこちら→

「坊っちゃん」夏目漱石著 新潮社 文庫 ISBN4-10-101003-X

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「トレマーズ」 あっけらかんとしたモンスター映画

世にB級のモンスター映画は数あれど、個人的には抜きん出ておもしろいと思っているのが、こちら「トレマーズ」。
何回観たかわからないくらい観てます。
お金の掛け方はB級かもしれませんが、そのストーリーは下手な大作でも及びません。

アメリカ西部の、人口十数人の田舎町パーフェクション。
そこでなんでも屋をバルとアールが主人公。
この二人、もと海兵隊とか、もとレンジャーなんて設定はありません。
ほんとにただの西部の田舎者。
パーフェクションではあるときから、異常な死に方をした人々が見つかりますが、その原因はわかりません。
バルとアールは田舎町の暮らしに嫌気がさして町を出て行こうとしたときに、その原因である怪物=グラボイズを目撃します。
その怪物は地中を高速で移動し、音や振動で獲物を探知し襲うという見たことがないような怪物です。
二人は住民と協力し、町を出て行こうとしますが、次から次へと危機に見舞われます・・・。

基本的に構造としてはよくあるモンスター映画の定番となっています。
周囲から孤立した場所で、正体不明のモンスターに襲われるというもの。
基本的に主人公たちは、次々と仲間を失いながらもモンスターの正体を次第に明らかにしつつ、そこから脱出しようとするというのが定番ですよね。
本作は、この次から次へと危機に見舞われる展開がスピーディで、一度乗ったら降りられないまさにジェットコースタームービーとなっています。
またその危機や、それを乗り越えるためのアイデアの伏線が、事前にさりげなく張ってあるんですよね。
そのあたりの脚本の出来映えが非常にしっかりとしています。
脚本は割り切りもよく、モンスター=グラボイズの正体がなんであるのか、まったく謎解きをしません。
「古代生物?宇宙生物?軍の生物兵器?なんてことを襲われている普通の人々が考えるかっーの」って天晴な割り切りをしています。
そういう謎解きに時間をとられることないので、さきほどのスピーディな展開がなされるわけですね。
またモンスターと生き残りの戦いを交えるのは、冒頭に書いたように普通の人々なんですよね。
元軍人とか、天才科学者とか出てこない(銃オタクはでてきますが)。
普通の人々が知恵と度胸と行動力だけで、モンスターと戦うっていうところに爽快感があります。
またこちらの作品の舞台が、太陽が燦々と輝く砂漠の町だからか、モンスター映画特有の暗ーい感じとは無縁です。
例えば「エイリアン」などは暗闇の中からいつ怪物が飛び出してくるかわからないというところに恐怖があります。
モンスター映画というのは閉所感みたいなところにも恐怖があるんですよね。
けれども本作は真っ昼間のお話なので、モンスターが出てきてもそのような閉所感というのはあまりないのです。
切羽詰まった状況ではあるのですが、ある種の楽天的な開放感があります。
なんというかあっけらかんとしているんですよね。
この空気感はこの作品特有で、この雰囲気が他の数多のB級モンスター映画と差別化しているのかもしれません。
このあっけらかんさがあるから何度も観たくなるのかもしれません。
「エイリアン」など閉所感がある作品は観るのにもエネルギーがいりますからね。
こういう年末年始のだらっとしたときには「トレマーズ」は最適です。

本作、気に入っている方は僕だけではないようで、カルト的な人気があります。
ですのでさりげなくシリーズ化されていたりもします。
けれどもシリーズものの定めか、シリーズが進むにつれどんどんパワーダウンしていきます。
本作を観て気に入った方は、他のシリーズ作を「観ない」ことをお勧めします。

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2010年12月28日 (火)

「最後の忠臣蔵」 男の忠義、女の愛情

そろそろ2010年も終わりです。
やはり年末は忠臣蔵で、ということで「最後の忠臣蔵」を見てきました。
今年の振り返りをぼちぼちしようかなと鑑賞作品のリストを見てみましたら、今年は時代劇が多かったですね。
僕が観たのはこちらの作品で8本め。
「座頭市 THE LAST」「必死剣鳥刺し」「十三人の刺客」「大奥」「桜田門外ノ変」「雷桜」「武士の家計簿」そして本作「最後の忠臣蔵」。
王道あり、新しいアプローチもあり、バラエティに富んだ時代劇が観れました。
今年は時代劇の当たり年だったのかな。

「忠臣蔵」と言えば、忠義。
主君の名誉のために耐え忍び、そして戦い、果てる。
その行為自体が現代的ではないとしても、信じられる人物のために働きたいというのは、今の時代にも通じるものです。
そこに特に男性はロマンといったものを感じるのですよね。
自分が存在している意味、存在している理由、レゾン=デートルみたいなものをしっかりと感じ、残していきたいという気持ちはたぶん誰でも持っているのではないでしょうか。
本作の孫左衛門は仕える大石内蔵助より、吉良邸討ち入りの直前に、ひとつの使命を授けられます。
それは内蔵助の内縁の女性と二人の間に生まれる子を守っていってほしいということ。
内蔵助たちが討ち入りを果たせば、彼らは天下の大悪人になってしまいます。
その身内と知れれば、二人はどれだけ世間から迫害されるか想像できます。
孫左衛門は臆病者、死に損ないと誹りを受けることを承知の上で、内蔵助の命を受けます。
孫左衛門にとって使命を果たし、その上で内蔵助に殉じることが彼のレゾン=デートルであったわけです。
その使命を果たす16年間、内蔵助の娘、可音を育てていく間に、たぶん孫左衛門の中にもうひとつのレゾン=デートルが育ってきたのではないでしょうか。
可音がすくすくと育っていく様は、子のいない孫左衛門にとって、まるで自分の子のようにも思えていたでしょう。
我が子の成長を見守り、そしてやがて一人前となって巣立っていくことを見届けるということも彼にとっての人生の意義であったのだと思います。
可音を嫁がせた後、孫左衛門の中では葛藤があったのだろうと思います。
一つめのレゾン=デートルである忠義に従うか、子の末を見守りたいという親のような気持ちか。
それでも武士である孫左衛門の答えは忠義であったのですね。
男というのはどうしてもどちらかを選ばなければいけないときというのがあります。
現代でも「仕事が大事なの?私とどちらが大事なの?」とかをパートナーに言われる男性も多いかと思いますが、そのとき「仕事」を選んでしまうメンタリティを男性は持っていたりするんですよね。
たぶん男性は自分の存在理由を、そういうものでしか残せないからなのかもしれません。

そういう男性に対して、女性のメンタリティについても本作は描かれていました。
長年にわたり、孫左衛門と可音の世話をするゆうが言っていたセリフがありました。
「男の命を繋ぎ止められるのは、女の黒髪だけ」
まさにこれは至言で、男性は理屈っぽく忠義だ、信義だということを語らないと自分の存在意義を示せないのに対し、女性は理屈を越えた愛情があるということだけで存在理由を見いだせる。
そしてその愛情で、男性の存在理由を「作ってあげる」ことができるということなんですよね。
男が自分の中の信義に存在理由を求めるのに対し、女性は男性をも包み込む存在意義を持っているということでしょうか。
可音についてもそうです。
物語の前半は彼女はずっと子供からずっと育ってきたように孫左衛門と一緒に暮らしたいと言っています。
けれども彼女は突然嫁ぐことを決心します。
それはずっと自分が孫左衛門といたいという気持ちを押し通せば押し通すほど、孫左衛門は可音を守るという使命に縛られ続けなくてはいけないということに気づくからです。
彼女はここで無邪気な子供から、大人の女性に脱皮したのです。
自分自身のための愛情ではなく、さらに広い愛情(いわゆる男女の愛情という狭いものではなく)が、男性を生きさせる。
この可音の変化は女性のメンタリティをとてもよく表現しているなと思いました。

こういう男、女それぞれの存在意義についてのメンタリティを、繊細にかつ情感深く描いた脚本、演出は素晴らしいなと思いました。
監督は誰かと思ったら「北の国から」の杉田成道監督でした。
納得です。

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本 「史上最強の内閣」

本作の著者のこともほとんど知らなくて、「タイトル買い」をした小説になります。
現在の民主党政権については期待をしていた分、いまの体たらくでがっくりきていたりとか、野党でわいわい騒いでいる自民党は、かつての自分たちがやっていたことを棚に上げて何を言っているとフンガイしたりと、個人的には政治的な関心は高まれどフラストレーションがたまる感じを感じてます。
日本を取り巻く状況はそれこそのっぴきならない状態であるはずなのに、政権と野党が実のない話ばかりをしている状況で、もっとしっかりと日本という国を運営して欲しいなあと思っているのは、僕だけじゃないはずです。
そんなとき、この本のタイトルを見て思わず買ってしまったのですね。
読んでみましたが、ある種の痛快さはあるものの、正直言ってこの作品は政治をネタにしたギャグです。
もっとシミュレーション的な要素があるのかなと思ったのですが、この作品で描かれている「史上最強の内閣」がとる戦略は、根底にある考え方はべつにいいのですが、荒唐無稽すぎてただの笑いにしかなりません。
作者の意図としては本来そうだったのでしょう。
僕が期待していたこととは違っていました。
ただ笑いをとる作品にしては、その笑いもちょっと微妙でしたし、キャラクターの設定も実在の人物をベタベタでカリカチュアされているだけで深みはありません。
昔の新聞に載っていた時事の政治ネタの風刺画くらいな感じで軽めに受け取っておくくらいがいいかもしれません。

でも一つとても共感できたところがありました。
以下引用です。
「テレビ画面では社倫党代表の宮城美津穂が首相と防衛大臣を相手に議論している。
小松はこの宮城美津穂の話し方が苦手だった。中学校の優等生でこんな口調の女子がいたような気がする」
「社倫党代表の宮城美津穂」というのが実際のどなたをイメージしているのか、おわかりですよね?
僕もこの方のしゃべり方というか、考え方が苦手で。
本人は自分は正しいと思ってらっしゃるのかもしれませんが、それは原則論でしかなく現実的に様々な政策を行うにはリアリティのある柔軟な考え方を持たなくてはいけません。
自分の言いたいことだけ言って、何も聞かない、何もしない。
そんなこと続けていると、だんだんと相手にされなくなりますよ、福島さん。

「史上最強の内閣」室積光著 小学館 ソフトカバー ISBN978-4-09-386290-5

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2010年12月26日 (日)

「SPACE BATTLESHIP ヤマト」 ファンとして堪能させていただきました

昨年末よりずっと完成を待ちわびていた「ヤマト」の実写版、ようやく観てきました。
多くの方が思い入れがある作品なので、いろいろご意見・ご感想があるかもしれませんが、僕としてはこの作品は「アリ」です。
ファンとして堪能させていただきました。
基本的に本作はテレビシリーズの「宇宙戦艦ヤマト」のストーリーをベースに作られています。
西暦2199年、地球は宇宙から謎の敵ガミラスの遊星爆弾の攻撃を受け、地上は放射能で汚染され、人類は地下へ避難をしていました。
けれどもガミラスからの攻撃は止むことがなく、人類は滅亡を目前をしていました。
そのときイスカンダルという惑星からメッセージカプセルが届き、そこに空間をジャンプできる能力を持つ波動エンジンの設計図と、イスカンダルの座標、そしてそこに訪れることができれば放射能除去装置を渡すというメッセージが込められていました。
人類は放射能除去装置を手に入れるために、最後の宇宙戦艦であるヤマトを最後の希望としてイスカンダルへ送るのです。
このようにストーリーの骨子はオリジナルと基本的に同一です。
とはいえ設定的には大きな改変がいくつかあります。
大きいのはやはり森雪のキャラクター設定でしょうか。
彼女のキャラクター設定は、航海士からエースパイロットへ変更となっています。
これは現代風の自立し行動する女性であるという変更なので「アリ」でしょう。
作劇的にもずっと司令室に座ってばかりよりは、パイロットの方がお話も動かしやすいという判断なのでしょうね。
女性エースパイロットというところは、VFX的にも参考にしたと考えられる「BATTLESTAR ギャラクティカ」のスターバックの影響もあるかもしれません。
あと佐渡先生が女性になっているのも、最初はとまどいますが、あのアニメのビジュアルは実写にできなかったのだろうなあと思ったり(個人的には男性だったら笹野高史さんあたりはどうかと思いました)。
あとはガミラスの設定ですね。
ネタバレになっちゃうので書きませんが、さすがに青塗りの人間を出すわけにはいかなかったのだろうなあと。
とはいいながらデスラーの声を伊武雅刀さんがやってくれていたのは嬉しかった・・・。
あとアナライザーの声を緒方賢一さんが演じてくれていたのもファン冥利につきます(最後あんな形で登場するとは思わなかったですけれど)。
そのほか、ガミラスとイスカンダルが連星というのを、本作ならではの解釈をしたのも、なるほどそうきたかと腑に落ちました。

いろいろと実写化という制約、時代性による変更などはありつつも、基本的にはオリジナルへのリスペクトに溢れる形で作ろうという意志が感じられてよかったです。
最初からして「無限に広がる大宇宙・・・」のナレーション、そしておなじみの「ヤマト」のテーマ・・・。
これだけでファン的にはハートをわしづかみです。
ヤマト発進から、巨大ミサイル迎撃(オリジナルは主砲でしたが、本作では波動砲で)までは、これが実写で観れるなんて・・・感動です。
「ターゲットスコープオープン!」
「出力120%!」
「全艦、対ショック、対閃光防御!」
「波動砲発射10秒前、5、4、3、2、1、発射!」
という波動砲発射シークエンスもそのまんま。
嬉しい・・・。
ドリルミサイル(みたいなの)も出てきましたし。
最後は「なにもかも懐かしい」ですし。
山崎監督、ファンが欲しいと思っているところのツボがわかってらっしゃる(たぶん世代的にご自身もファンなのだと思いますけれど)。

キャスティングも古代を木村拓哉さんにしたのは正解だと思います。
基本的に古代というキャラクターはアニメ的であり、非常に「クサい」セリフも言わなければいけない役回りとなっています。
これをアイドル系のイケメン俳優さんがやるとあまりに嘘くさくなりすぎますし、逆に演技派の若手だと作品自体がかなりフィクションなのでアンマッチとなってしまう気がします。
以前、書いたことがありますが、木村拓哉さんはその存在自体がフィクション的であるという気がしています。
「キムタク」という人を演じているというか。
それは自然にやっているのかもしれないですが、カリスマ的な人を惹き付ける要素を木村拓哉さんという存在がもっているような気がしています。
それは演技力といったものとは別の次元の話です。
木村拓哉というタレントのフィクション性といったようなものが、古代というキャラクターと非常にマッチをしていたように感じました。
その他の俳優さんも本作は非常にオリジナルのキャラクターとマッチングはよかったと思います。
あえて変えた森雪と佐渡先生は除外して考えると、沖田艦長も真田さんも、徳川機関長も、古代守も非常によかったですね。

VFXについてはかなり力が入っているのが伝わってきました。
ハリウッドのSF作品、なかでも異色のSFテレビシリーズ「BATTLESTAR ギャラクティカ」を相当意識しているように見えますが、遜色ないできとなっていると思います。
これはそのまま海外に出しても恥ずかしくないなといった感じがしました。
ここまで日本のVFXもきたかと。
ガミラス星にコスモゼロが自由落下しながら敵の攻撃兵器にマーキングして、そのあとヤマトも続いて自由落下しながら破壊、その後地表に激突する前にワープで逃れるという戦法がありました。
この戦法は「BATTLESTAR ギャラクティカ」のシーズン3の最初にギャラクティカがおこなった戦法と同じでした。
これはやはり参照したのかな、それとも偶然?

人物描写としては、古代がリーダーとして成長していく様を描いていくのもよかったです。
リーダーとして一人で背負わなくてはいけない重圧。
それは経験したものでなくてはわからない。
多くの人の運命を命をかける決断を、リーダーは一瞬のうちに判断し、行動しなくてはいけない。
兄を見捨てられたと思っていた古代は、初めは沖田艦長を敵視します。
けれども彼は沖田艦長の代理を務め、いくつもの重要な決断をしていくことにより、リーダーが背負わなくてはいけない責任を身をもって学んでいきます。
そういう意味で第三艦橋のエピソードはたいへん重要なものとなっています。
この決断により古代はリーダーとしての十字架を背負い、それがあるからこそ、最後の彼の行動に繋がるのです。
彼の最後の行動は「さらば宇宙戦艦ヤマト」をなぞらえているだけにも見えますが、本作の人物の描写としては必然的にあのような行動を古代はしなくてはいけないのです。

今回の記事は個人的に思い入れがある作品なので、とても散文的にまとまりのつかないものになってしまいました。
それだけ語りたいことがある映画となっていたということで。
いつもは続編を期待と書くところですが、本作に限っては作品を大切にすればこそ絶対に続編を作らないでくれと言いたいです。
日本のVFXの進化を確認できたので、山崎監督には次はぜひ「マクロス」を実写化していただきたい。
よろしくお願いします。

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本 「酒の話」

東京農大で醸造学の鞭をとっていた著者が酒にまつわる歴史、化学、文化、生理学などについてまとめた本になります。
初版が1982年とずいぶん前なのですが、お酒にまつわる蘊蓄がこの本で一通り知ることができます。
とはいっても、1982年からお酒に関しても世の中としてはいろいろ変化がありました。
バブルの頃のワインブームがあったり、その後の日本酒復権、本格焼酎ブーム、そして最近ではハイボールへの再注目など、時代時代で注目されるお酒も変わってきました。
日本という国は、この国にいながらにして様々な種類のお酒を楽しめるっていうことでは酒飲みにとっては天国かもしれません。
僕自身はそれほどたくさん量を呑むということはありませんが、苦手なお酒はないのでいろいろ呑めるほうが楽しいですね。
酒というのはそれを生んだ国や地域の歴史、文化、気候風土などの要素が反映されているものです。
様々なお酒を楽しめる日本で、それを呑む時にそれを生み出した国について考えてみるというのも一興かもしれません。

お酒の醸造法や化学的な点についてもいくつか章を割いて書かれていますが、新書でありその他の点についても書かれているためそれほど詳しくは書いていません。
読みやすさみたいなことも鑑みるとマンガの「もやしもん」などはお酒や発酵についてはけっこう勉強になります。

「酒の話」小泉武夫著 講談社 新書 ISBN4-06-145676-8

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「大脱走」 周到と柔軟と大胆と

チャチャ、チャチャーラチャチャ、チャチャーチャチャーラチャチャ。
映画を観たことがない方でも、この大脱走マーチを聞いたことがない人は少ないのではないでしょうか。
第二次世界大戦中、ナチスドイツ軍に捕虜になった連合国兵士による実際にあった大脱走をベースにした名作中の名作です。
3時間にも及ぶほどの長尺ですが、さすが語り継がれる名作だけあって飽きさせることなく最後まで見せてくれるエンターテイメント作品になっています。
捕虜になった兵士たちは前線で戦う母国の軍隊のために、後方撹乱を図るため収容所から250名に及ぶ前代未聞の大脱走を企てます。
しかし収容所はドイツ軍の厳重な監視下におかれており、彼らの目を盗みながら脱出計画を進めていけなくてはいけません。
彼ら連合国兵士たちを束ねるのが、作戦担当バートレット、通称「ビッグX」。
そして一匹狼のように行動し、単独で脱走を企てるのがヒルツ。
この二人が脱出計画のキーマンとなりますが、その他のメンバーも一人一人が大きな役割を担っています。
情報屋、トンネル屋、測量屋、偽造屋、仕立て屋などなど。
本作はエンターテイメント作品として純粋に楽しめますが、別の視点で組織やプロジェクトの運営といった視点で観てみるのもおもしろいかもしれません。
目標を明示し、それを実現するための周到な計画をたてるリーダー。
その元で自分のスキルを十分に発揮するプロフェッショナルたち。
そのプロフェッショナルたちもただ言われていることをやるのではなく、その目標を共有化しているため、なにか不測の事態が起こったとしても自分たちの判断と柔軟に行動することができます。
彼らの間において、情報共有はしっかりとできていて、役割ごとの縦割りによる壁はありません。
そういう点で、彼ら連合国捕虜たちの脱走組織は理想的な組織だと言え、現在でも組織としてモデルにするべき点は多く見いだせます。
またヒルツは一匹狼的ですが、機に応じて敏に動くという大胆さを持っています。
状況は常に変化し、想定したようには周囲の環境は動いてくれません。
その際に大胆に計画を変更し、状況に対応していくという判断が必要になるときもあります。
ヒルツにはそのような大胆さを感じることができます。

話はずれますが、この作品で描かれるナチスドイツ軍とヒルツの関係というのは、スピルバーグって影響を受けているのでしょうかね。
「インディ・ジョーンズ」などにそれが表れているような気がするのですがどうなのでしょう?

この時代の作品はエンドロールが短くて(というよりほとんどなくて)よいですね。
最近の作品は10分弱っていうのも多くて、なんとかならないでしょうか・・・。

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2010年12月25日 (土)

「ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国」 うかがえる大人の事情

昨年末公開された「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」に登場した新しいウルトラ戦士、ウルトラマンゼロ。
何かしらシリーズ化となるのだろうとは登場時から思っていましたが、映画のシリーズとなっての登場です。
ちょっと心配であったのは、このところウルトラシリーズの制作会社である円谷プロの経営母体がよく変わること。
CM制作を行うTYOの傘下になったと思ったら、今年からパチンコ機器製作販売のフィールズのグループ企業になりました。
初めてこの話を聞いた時「なぜにパチンコ屋さんが?」と思いましたが、パチンコもいまや一大コンテンツ産業ですから、パチンコ機器会社としたら円谷プロのコンテンツはぜひとも欲しかったということなのでしょうか。
本作は前作「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」の後日談となっていますが、いままでのウルトラシリーズにはなかったマルチバースの考え方が導入されています。
前作でウルトラ戦士の敵となったウルトラマンベリアルは逃げ、マルチバースの別の世界で反撃の機会を狙っており大軍団をそろえて、再び光の国を襲おうとします。
けれども彼らがいるのは別の宇宙。
光の国の科学をもってしても、そこに送り込めるのは一人だけ。
その戦士としてウルトラマンゼロが名乗りをあげます。
ゼロが向かった宇宙では、ウルトラ戦士とは異なる超人がベリアルに対して戦いを挑んでいました。
彼ら(と言っても一つはロボットですが)こそ、ミラーナイト、グレンファイヤー、ジャンボットです。
往年の円谷特撮ファンからすればすぐに察しがつくかもしれませんが、これらのヒーローは「ミラーマン」(1971年)「ファイヤーマン」(1973年)「ジャンボーグA」(1973年)を現代風にアレンジしたものとなっています。
「帰ってきたウルトラマン」が1971年ですから、まさに1970年前半は円谷プロの黄金期。
その頃、3〜5歳だった僕はこれらのヒーローに夢中になりました。
現代風にアレンジされた彼らを観るのは久しぶりであったので、やはりトキメキましたね。
特に「ジャンボーグA」は好きだったので、嬉しかったです。
これらの円谷ヒーローが一つの世界で繋がるというのは、アメリカのマーベル・コミックの最近の映画化作品の戦略を手本にしているような気がします。
大人な視点で観ると、この動きにはいろいろな思惑が働いているような気がします。
正直、現在の円谷プロにとって価値があるのはウルトラマンのコンテンツだけと言ってもいいでしょう。
特撮関係では「仮面ライダー」の東映は配給会社も抱える大手であり、また新しいことにもチャレンジすることによりコンテンツの力をアップしてきました。
制作だけの円谷プロでは敵いません。
40年も前のウルトラマンという資産におんぶに抱っこというのが最近の円谷プロであり、だからこそ経営が安定しないのです。
そのような状況の中、目をつけたのが黄金時代の他のコンテンツなのではないでしょうか。
これらを掘り起こし、単体でも客を呼べる、商品が売れる状態にすれば、いいのではないかと。
これはまさにマーベルがとっている戦略です。
現在の円谷プロは51%がフィールズ、49%がバンダイナムコの資本比率です。
両社ともにコンテンツで食べている会社なので、その対象としてのヒーローが増えてくるのは歓迎するところでしょう。
そのような大人な事情が本作の背景にあったのではないかと思われます。
最後はゼロを含めた4人のヒーローが新宇宙警備隊「ウルティメイトフォース」を結成します。
「ファンタスティック4」みたいで、まさにマーベル戦略そのまんま。
ゼロ、自分の宇宙に帰らなくていいの?

そんな大人な事情を盛り込んだ本作は非常に要素が多く、まとめあげるのに非常に苦労したのではないかと思います。
意欲は感じるのですが、非常に展開が早くて忙しい。
ウルトラマンとしては久しぶりに人間と同一化するという設定でしたが、もうひとつ踏み込みが浅くなってしまうのはもったいないところ。
変身時間に制限があるとか、以前のウルトラマンらしい設定も復活させ、ハラハラ感を出すなど意欲的な試みはいくつもありましたが、いかんせん詰め込み感はありました。
また話が宇宙規模になってきてしまっているので、ウルトラマンVS怪獣という構図ではなく、ゼロと仲間たちVSベリアル軍団となり数で勝負となってしまい、ウルトラマンという存在自体が矮小化されてしまっているような気がしました。
ウルトラマンは銀色の巨人と言われていたように「巨人」であること、それが「神」にも通じるようなイメージであります。
そこが東映系の等身大ヒーローとは異なる独自性であるので、そういった点が失われていくのを観ると、ウルトラシリーズの本筋を外していきつつあるような気がしました。

途中、ウルトラマンノアまで出てきたのはちょっと驚き。
ウルトラシリーズの中で異質であった「ウルトラマンネクサス」ともリンクが出たということですね。
本作はウルトラシリーズ45周年記念ということで、ナレーターが石坂浩二さん(「ウルトラQ」「ウルトラマン」でナレーションを担当)であったのも嬉しいところ。
あと二次元人の声は、ミラーマンに変身する鏡京太郎を演じていた石田信之さんがやっていたのも嬉しい驚きでした(気づく人はよほどマニアックだけれど)。

「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」の記事はこちら→

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2010年12月23日 (木)

本 「すべてがFになる」

新世代のミステリー作家と言われている方のひとり、森博嗣さんのデビュー作「すべてがFになる」を読みました。
森さんのミステリーは、登場人物が理系だったり、作者ご本人が工学博士であったりということから、理系ミステリーと言われることが多いです。
確かにミステリーの謎解きのところではコンピュータを使ったトリックであったり、理路整然とした論理であったりといったところは理系の趣はあります。
ただ論理自体は理系的でもなんでもなかったりするので、これで理系というのもどうかと思ったりもしますが。
森さんを個性的にしているのは、たぶん人間の関係性の捉え方が現代風なのだからかなと思いました。
ミステリーというのは、そもそも起こる事件というのは欲であったり、情愛だったりと言った人間の感情が根っこにあります。
それこそドロドロとした人の感情があるわけですね。
でも森さんのミステリーではそういう情念といったものはあまり感じません。
本作でも登場人物に”天才”と呼ばれる人が登場します。
その人は”天才”であるがゆえに一般的な人間の感情や考え方から自由なんですね。
その行動には感情といったものはあまり感じない。
というよりは感情といったものを探しているようにも見えます。
主人公の一人犀川はどちらかというと人と接触することを厭う感じがあります。
彼は「情報化社会の次に来るのは、情報の独立、つまり分散社会だと思うよ」と言います。
また「自分にとって都合の良い干渉とでもいうのかな、都合の良い他人だけを仮想的に作り出してしまう」とも言います。
これは人が他人に干渉し、されることすらなくし、それぞれが自分にとって都合の良い仮想的社会で独立して生きるかもしれないということです。
この作品が書かれたのは1996年なのでずいぶん前ですが、現代の状況をみると犀川が言っていた社会の方向性に向かっているような気もします。
けれども他人と干渉しあわなくなったとき、そこには感情の軋轢がなくなるわけですから、そもそもミステリー小説といったものが成立しなくなっていくような気もします(そういう「干渉」に憧れて読むということはあるかもしれませんが)。
森さん自身も小説家はいずれ辞める、人知れず地味に静かに消えたいという発言をされているようです。
このあたりの感覚は本作の犀川にも通じるものがあり、このキャラクター自身に作者が反映されているような気がします。
読んでみて、確かに気になる作家さんであると思いましたので、これからすこしづつ作品を追っかけていきたいと思います。

S&Mシリーズ「冷たい密室と博士たち」の記事はこちら→

「すべてがFになる」森博嗣著 講談社 文庫 ISBN4-06-263924-6

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「アーマード 武装地帯」 完全犯罪というより場当たり犯罪

マット・ディロン、ジャン・レノ、ローレンス・フィシュバーンと顔ぶれが豪華で興味を持っていたのですが結局劇場では観れなかった作品、iTunesの映画配信で観賞しました。
監督は「プレデターズ」のニムロッド・アーントルです。

弾丸もはじき返す装甲を持った現金輸送車、そこに積み込まれた大量の現金をそれを守るべき警備員が強奪する・・・。
予告では「完全犯罪」と言っていましたが、全然「完全」じゃないじゃん・・・。
というは「行き当たりばったり」な犯罪。
守る側と奪おうとする側の駆け引きなどがしっかりと描かれるか、もっとドンパチが激しい映画かと思ったら、あまりに中途半端な感じがしてしまいました。
現金が詰まっていて、すべてを防ぐ装甲(アーマード)の現金輸送車に閉じ込められた警備員タイ。
強奪者たちは金が詰まっている装甲車を開けたい。
タイは出て行きたいが、出て行った瞬間に自分は殺され現金も奪われる。
まさに雪隠詰めの状態の中、攻めるものと守るものの攻防が緊張感を生む、といった視点でけっこうおもしろくできそうな設定ではあったのですけれども、まったくそうはなっていません。
タイの人物設定に深みがなく、それほど主人公然としていないのがいまひとつである要因でしょう。
例えば、「ダイ・ハード」などでは主人公がジョン・マクレーンという今までにない個性を持った人間なので、あれだけおもしろくなったわけです。
また悪役側も敵にしてはおそまつな計画のなさで観ていて張り合いがないのですよね。
場当たり的に強奪し、目撃者を殺すといった行動は、「完全犯罪」というよりは街のチンピラみたいな感じで。
やはりこういう設定での緊張感は、壁一枚を通しての敵味方の攻防であって、その場合は主人公も敵もそれなりに賢くなければ成り立たないのです。
状況設定を活かしきれない、キャラクター設定にしてしまったため、物語がグダグダになってしまっているような気がします。
うん、500円での観賞で十分です。

ソニーピクチャーズの映画がiTunesでも配信されるようになり、選択の幅が増えて嬉しい。
さすがにソニーも自分のとこだけでやるっていうのは難しいと思ったのですかね・・・。

ニムロッド・アーントル監督作品「プレデターズ」の記事はこちら→

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2010年12月18日 (土)

本 「無痛」

現役医師でミステリー作家というと、「チーム・バチスタの栄光」の海堂尊さんがあげられると思いますが、本作の著者である久坂部羊さんも現役医師でミステリー作家です。
医療を題材にしたミステリー(海堂さんはミステリーじゃない作品も多いですが)という点では共通点がお二人にはありますが、そのテイストはかなり違っています。
海堂さんの作品はミステリーというよりはエンターテイメントというところにあります。
題材は現代医療に関する諸問題を扱っていますが、その読み口は軽快で読みやすい作品となっています。
ある種、快刀乱麻を断つ的な爽快感もありますので、医療などについて不案内でもまったく問題はないでしょう。
どちらかと言えば、医療問題をエンターテイメントのオブラートに包み、楽しみながら医療に関する課題に視線を向けられるといった感じでしょうか。
対して久坂部羊さんの作品は扱っている題材自体が医療に関する問題の中でもとても重いものを扱っていますし、ところどころショッキングな描写で読んでいる本を置きたくなるようなところもあります。
ですが、どのように物語が転がっていき、どのような結末が訪れるのかがわからないので、読むのを止められないといった感じがあります。
本作が扱っている題材は刑法三十九条で、これは「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」と言った内容です。
よく裁判でも残酷な事件であったりすればするほど刑法三十九条が持ち出されることが多いのは、ニュースなどで知っているかたも多いでしょう。
法律の狙い自体は弱者保護なのですが、本作ではそれを悪用しようとする者がでてきます。
つまり精神障害を装い、重大事件を起こそうという輩です。
情報化社会となった今、今までの判例やこういった病気の症例もすぐに集めることができます。
そういうことを勉強し、装うことができたとしたら、それは見破ることができるのか。
そもそも正常者と異常者の境界線とはどこなのか。
非常に難しい問題を扱っているため、読んでいるときの感覚は非常にヘビーです。
また医療者の治療することによる自己満足のようなことに触れており、著者も医療者でありながら非常にシニカルな視線を持っていることが感じられます。
このあたりは海堂さんと大きく違う感じがします。
終わり方としても海堂さんのようなスッキリとした終わり方ではなく、もやもやとしたものが残るところがあります。
これはすっぱりときれいに切ることができない現代医療の複雑さというのを表しているのかもしれないと思いました。

「無痛」久坂部羊著 幻冬社 文庫 ISBN978-4-344-41198-2

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「仮面ライダー×仮面ライダーオーズ&ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE」 前作に比べバランス悪し

昨年の冬に公開された二世代の仮面ライダーによるクロスオーバー企画「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010」のヒットを受け、今年は「W」と「オーズ」による「MOVIE大戦CORE」が公開されました。
「MOVIE大戦2010」は、「ディケイド」のライダーの世界を渡り歩くという設定による特別企画であったと思っていたので、今年もクロスオーバー企画を行うというのは意外でした。
どのように二つのライダーの世界を結びつけるのか・・・。

「MOVIE大戦2010」を観る前はお祭り感があり映画に向いている「ディケイド」編に対して、「W」編がこじんまりしてしまうのではないかという危惧は持っていましたが、蓋を開けてみると思いのほか「W」編はドラマがしっかりとしていて見ごたえがありました。
お祭り的な「ディケイド」とドラマがある「W」が最後にクロスオーバーして、最後はかなりテンションが高い展開になっていたと思います。
「W」のドラマ性を引き出した一つの要因は、主人公左翔太郎の師匠である鳴海荘吉の存在であったと思います。
テレビの第一話ではその後ろ姿だけしか観ることができませんでしたが、映画では荘吉を吉川晃司さんが演じることにより、一段ドラマ性が高まったように思えました。
存在することで男のハードボイルドを具現化できる人というのはなかなかいません。
今年の「MOVIE大戦CORE」の「W」編ではその荘吉を主人公とした物語になっています。
かつて荘吉が相棒マツとコンビを組み探偵をしていた時代。
そして荘吉が仮面ライダースカルとなった背景が本作では描かれます。
「さあ、お前の罪を数えろ」というWのキメ台詞は、翔太郎とフィリップが荘吉から受け継いだものであるということは昨年の「MOVIE大戦2010」で明らかになっていますが、その荘吉がこの言葉を発するようになった理由がこの物語で語られます。
「MOVIE大戦」の企画は全部で90分程度ですから、「W」編の正味は30分程度。
その中で荘吉が仮面ライダーになった理由、あのキメ台詞を言うようになったわけが語られますが、決して忙しいわけでもなく、それでもストーリーとしては荘吉らしいハードボイルド感が漂い、そしてドラマとしても盛り上がる良いできになっていたと思います。
このあたりは脚本を担当している三条陸さんの力が大きいのだろうなと思います。
吉川さん自身も荘吉の役柄には思い入れが強いようで、例のキメ台詞の背景についてはこだわりを持って脚本へリクエストしたようです。
また少年の頃の翔太郎が荘吉に憧れの念を持つ場面、またシュラウドが荘吉の幼なじみであったという設定が明らかになるあたりはテレビシリーズからのファンはうれしくなるところでしょう。

ドラマ的に見ごたえがあった「W」編に対して、「オーズ」編はややもの足りない感がありました。
そもそもテレビシリーズも設定やシステムが複雑なのでなかなか切り取って一つの作品にするというのは難しいところなのかもしれませんが、やや番外編的な位置づけに感じました。
テレビシリーズの脚本家小林靖子さんが本作は担当せずに別の脚本家(井上敏樹さん)が担当している
ためか、微妙にキャラクターの感じが違う印象がちょっと気になりました。
特に主人公の映司は、ただのお人好しっていう感じだけに見えてしまいました。
テレビシリーズでの映司は若いうちからさまざまな経験を積み、こだわりのないお人好しに見えながらも内面では「人を守りたい」という強いパッションが感じられるキャラクターになっています。
それが本作ではあまり感じられなかったのが残念なところでしょうか。
やはり脚本家が異なっているというのが大きいかな。
また物語としても、大きな欲望を持っているノブナガという存在が中心になるので、仮面ライダーがどちらかというと脇にまわっている感じがありました。
そのあたり「W」編のスカルに対しても、オーズの存在感が薄かったかもしれません。
様々なフォームを見せなければいけないというオーズの設定ゆえとも言えますが、とっちらかっている感じは井上敏樹さんらしいと言えばらしいです(好ましくない方の)。

クロスオーバーする3部も前回に比べて求心力がありません。
前作は世界を破壊する「ディケイド」と究極の悪の組織であるスーパー大ショッカーという存在により、クロスオーバーする必然性というのが強く出されていましたが、そのあたりの求心力が本作では乏しい感じがしました。
仮面ライダーコアという共通の敵が登場しますが、かなり無理矢理な感じは強い印象を受けました。
そのため前作のような圧倒的なラストのカタルシスを得られるわけではなく、ちょっと不燃感のようなものを感じました。
正直言えばわざわざクロスオーバー企画にするのではなく、単体で「スカル」の映画をじっくりと観たかったような感じがします。
「オーズ」についはこちらもしっかりと尺をとって描いた方が、「W」に比べて複雑な物語構造である分、よいのではないかと思いました。
前作の「MOVIE大戦2010」と比べるとやや全体的にバランスが悪いなという印象です。

本編終了後、例によって予告編がありました。
春の「電王」の予告です。
むむむ、次は昭和ライダーまで巻き込んだ「ディケイド」的なお祭り映画になりそうな感じ・・・。
それはそれで楽しみになってきました。
そしてさらにパンフレットをみていたら、さりげなく「急告」の文字が。
「W」の二号ライダーアクセルが「仮面ライダーアクセル」として、また夏の「W」劇場版での敵であったエターナルが「仮面ライダーエターナル」としてそれぞれVシネでスピンオフのDVDが来年リリースされるようです。
監督は「運命のガイアメモリ」の坂本浩一監督なので、こちらも大期待です。

「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010」の記事はこちら→

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「ハゲタカ(テレビドラマ)」 「再生」には確固たるビジョンが必要

映画を観て、小説を読んで、ようやくテレビドラマを観終えました。
テレビシリーズと小説は共通の部分もありながらも、異なる部分もあります。
鷲津のキャラクターの背景がまず異なります。
小説の鷲津のキャラクターが、テレビドラマでは鷲津と西野という二人のキャラクターに分解されていたように思いました。
これは小説版では鷲津の心の中の葛藤が、テレビドラマでは二人のキャラクターの対立とシンパシーが混在した行動というところに表れているかなと思いました。
芝野については小説よりも、テレビドラマの方がより迷いのある人間味のある人物として描かれ、視聴者としては一番感情移入がしやすかったかなと思います。
テレビオリジナルでは三島という女性記者がいますが、こちらは上記の三人を結びつける役割として機能していたと思います。
そういう意味で、小説版をテレビシリーズとして観やすくわかりやすくするためにキャラクターを分解し、上手に再構成し直した作品になっていると思いました。

右肩上がりで先に見えるのはバラ色の人生だった高度経済成長期を過ぎ、最後の急上昇のバブルを経て、大失速して急降下した日本。
「失われた10年」と言われて久しく、すでにもう「失われた20年」にならんとしています。
その間に政府や企業や国民が何もしてこなかったとは言いませんが、今ですらその将来は混沌とし、日本の行く末ははっきりとしたビジョンが見えません。
本ドラマに登場する主要な人物は、人生において大きな障害、挫折に行き当たり、脱落者となります。
けれども彼らはそこから数度這い上がり、自らの人生を「再生」していきます。
しかし彼らの「再生」とは自然に「治癒」されるものではなく、そこには強い意志があります。
どん底の状態から、どのように自分を変えていくか、それが間違っているにせよ正しいにせよ、何かしらのビジョンを持って「再生」に挑むのです。
本シリーズで描かれる題材は「企業再生」です。
危機に陥った企業は今までの成功体験にしばられ、環境変化に気づかず(気がついていたとしても手を打てず)、いつの間にか苦しい状況に陥ってしまいました。
環境というものは変化するものであり、そこに対応しなくては人であれ、企業であれ生き残れません。
環境の変化に対応するには、それまでの自分を変える意志をもつことが大切です。
とはいえそれは並大抵のことではなく、多くは危機に陥ってから気づくというのが本当だと思います。
そして危機に陥った時。
やはり「再生」へ踏み出すというのに必要なのは、やはり意志であり、ビジョンなのです。
この20年の日本はずっと迷走していました。
そこには確固たるビジョンがなかったのです。
一見ビジョンを持っていたように見えた現政権も、蓋を開けてみればそこには空疎なお題目だけであったということがわかってきてしまいました。
言葉だけのリーダーシップではもう乗り越えられません。
強い意志、確固たるビジョンを持ったリーダーが求められる時期なのだと思います。
「日本再生」するためのビジョンが今こそ必要なのです。

原作「ハゲタカ」の記事はこちら→
原作「ハゲタカⅡ」の記事はこちら→
映画「ハゲタカ」の記事はこちら→

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「トロン:レガシー 3D」 先達者が再吸収する映像新技術

前作「トロン」が制作されたのは1982年。
28年も前の作品となるわけです。
タイトーの「スペースインベーダー」が登場したのは1978年、ファミコンが発売されたのは1983年。
その頃はビデオゲーム(テレビゲーム)はようやく皆がゲームセンターなどで遊ぶようになってはいましたが、まだ家庭にまでは入ってきていない時代です。
そんなとき、全面的にCGを映画に取り入れた作品として登場した「トロン」はエポックメイキングな作品と言ってよいでしょう。
テレビゲームのモニターの中の世界を実写化し、CGっぽさをテイストとした「トロン」の映像感覚はそれまでにないものであり、その後の作品に大きな影響を与えたように思えます。
主人公がコンピューターの世界に入っていくという設定は、いまでこそバーチャルリアリティという言葉が一般的になったように映画ではありふれたものとなっていますが、その点においては先駆であったと言えます。
「マトリックス」シリーズなどは本作の影響を直接に受けているように感じます。
また80年代にSF小説で一大ムーブメントになったサイバーパンクも本作の影響下にあると思います。
サイバーパンクにもうひとつ影響を与えたと思われる「ブレードランナー」が公開されたのも「トロン」と同じ1982年というのもこれらの作品がエポックであったことを指し示しているように考えます。
ビデオゲームの影響を受け生み出された「トロン」は、その斬新なイメージがさまざまな映画、小説、テレビゲーム、はたまた実際のコンピューターの研究にも影響与え(組み込みOSとして現在も使われている純国産のOSは「トロン」という名称)てきたわけです。
映画でCGというものが使えるという実験は本作により現実味を帯び、現在の実写、アニメを問わずにCG技術の隆盛に繋がるスタートとなったと言えます。
また映像世界に入り込むというバーチャルリアリティ的な感覚というものは、仮想現実を扱う幾多の作品に影響を与えていますし、そもそもその映像への没入感は現在の3Dという映像手法へ繋がっていくとも思えます。
そういう意味で30年近くの年月を経て、現在「トロン」の続編である「トロン:レガシー」が公開されたというのはおもしろいなと思います。
成熟度を高めてきているCG技術、映画の中に入り込む感覚を観客に持たせる3D技術。
「トロン」がビジョンを指し示したとも言えるこのような技術が、さまざまなメディアの作品を経て技術的にも物語的にもこなれてきて、再びオリジナルに戻ってきたというのが興味深かったです。
本作の映像としては非常にセンスよく仕上げらていたと思います。
前作の持っていたビデオゲームのようなCGっぽさのセンスを持たせながらも、洗練させたデザインと映像。
これはやはりこの30年間の技術の高度化を感じさせるに足るものだと思いました。
前作でやはり印象の強いライト・サイクルも再登場し、現代的にアレンジさせたチェイスシーンがありました。
このあたりのデザインセンス、映像センスは非常に好きでしたね。
このうような派手なシーンだけでなく、この数年に発展したCGの技術は一見地味めなところにも効果的に使われていました。
ジェフ・ブリッジスは前作の主人公ですが、本作では年相応に老けたジェフ・ブリッジス=フリンと、年をとらない30代の若々しい姿のジェフ・ブリッジス=クルーが登場します。
クルーのほうはジェフ・ブリッジスではありますが、これらはすべてCGとなっています。
表情をキャプチャーする技術(フェイシャル・キャプチャー)により現在のジェフ・ブリッジスの表情を取り込み、30代のころの若々しいジェフ・ブリッジスをCGで再現しているわけです。
このあたりはこの数年発達してきたモーション・キャプチャー、パフォーマンス・キャプチャーの進化系でありますが、そもそもこれらの技術はテレビゲームから開発されたわけで、そのあたりが前作「トロン」がビデオゲームで発達したCGを取り入れたのとかぶり、興味深くもあります。

前作もストーリーについては映像の斬新さとは異なりあまり評価できるようなところはなかったのですが、本作についてもストーリーはそれほど斬新でもひきこまれるものではありません。
そのあたりも前作「トロン」の遺伝子を引き継いでいるようなところもあるように感じました。
基本的に映像を堪能する作品であると思います。

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2010年12月12日 (日)

「キス&キル」 渡る世間は敵ばかり

この手のロマンチック・アクション映画は好きなジャンルだったりします。
最近だと「ナイト&デイ」とかもそんな感じでしたが、肩肘張らずに気軽に楽しめたりしますので。

平凡なお嬢様ジェンは旅先で恋の落ちたイケメンの男性と結婚しました。
二人は幸せな生活をおくっていましたが、夫には妻に言えない秘密がありました。
それは彼が政府組織の殺し屋であったという過去・・・。
夫が殺し屋だったという設定は「Mr.&Mrs.スミス」なども思い浮かんじゃいますね(あちらは「両方とも」でしたが)。
自分を愛してくれる夫・恋人だけど、なにか隠している秘密があるっていうのは、定番のドキドキですよね。
このドキドキっていうのは「吊り橋効果」じゃないですが、ロマンティックな恋愛要素によるものでもあり、サスペンス由来のものでもあり、アクション由来のものでもあるわけです。
同じドキドキ気分にさせられるので、ロマンティックとアクションという要素は相性がいいのでしょうね。
邦題の「キス&キル」っていうのも、このあたりをストレートに表現したタイトルなので、わかりやすいかなと思いました。
映画を見始めると原題は「KILLERS」と出てきました。
直訳すれば「殺し屋たち」。
うーん、Vシネみたいな殺伐としたタイトルだなあというのが初めの印象でした。
それに何故に複数形・・・?
観終わって気づきました。
この複数形にこそ意味があったんですねえ。
ここはネタバレになっちゃうんで書きませんけれども。
この記事のサブタイトルから察してください。
本作はラブコメっていうよりも、実は殺し屋だらけっていうほうがコメディのメインの要素だったのかな。

もともと肩肘張らずに観に行ったので、けっこう楽しめました。
気軽に映画を観たいっていう気分のときは向いている作品だと思います。
デートムービーなどにもね。

余談です。
夫のスペンサーが、妻になるジェンに仕事は何かと問われた時、彼は「企業のコンサルタント(エージェント?)」と言います。
彼が所属する組織はCIAで、これは通称「ザ・カンパニー」と呼ばれます。
スペンサーのセリフは訳では「企業」となってましたが、英語では「company」って言ってましたね。
ジェン、スペンサーは正直に言ってたので、怒らないであげて。

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本 「明治維新 1858-1881」

明治維新というのは、世界でも類をみないほどの社会的構造変化を成し遂げた出来事であると思います。
世界史をみても、社会的にも経済的にも高度な文化・文明と接触し衝撃を受けた側というのは、それらに呑み込まれるか(植民地化)もしくは、そのインパクトにより内政が不安定化し、内戦のような混乱状態に陥ることはしばしばで、それは現代でも世界各地で見受けられることです。
けれども、明治維新というのは鳥羽伏見の戦いといった内戦はあったにせよ、比較的スムーズに社会の統治システムが変わったという希有な事例であると言えます。
この本は何故そのようなことが可能であったのか、その理由を明治維新を担った諸藩の体制・構造、それらを主導した人物たちのネットワーク、また変化を受け止められるだけに成熟した江戸時代の社会というところにスポットをあて解説をしています。
詳しいところはこの本を読んでいただくことが一番なのですが、その目のつけどころが興味深かったと思いました。
一つキーワードとして出てくるのが柔構造です。
他文化からの衝撃を受け、社会を近代化することになった国で比較的成功している例としては韓国もあげられると思いますが、彼らは一時期は独裁体制をひき、それによる強引な開発で国を富ませていきました。
独裁体制にはさまざまな問題はあり、それらは現在の東南アジアの諸国でも同じようなモデルがみられます。
けれども日本の場合は明治時代はそのような独裁体制をひくわけでもなく、どちらかと言えば民主化というのをそもそも目指し、さらには富国強兵というものも同時に目指していました。
それらの目標は時によっては対立することもままあったのですが、それらの対立を柔軟にその時折の状況により優先順位を上げ下げして対応していったのです。
またそれらを成し遂げるために国を運営していたのは一人のカリスマではなく、何人もの政府首脳でした。
彼らは時によっては対立し、または連携し、とはいいながらも共有化されている目標にむかって邁進していったのです。
そういう柳のような柔構造が明治維新を成功させたと、この本は説きます。
こういう視点は、僕にとっては新しく、とてもおもしろく読めました。
先日終了した「龍馬伝」はひとりのヒーローが明治に繋がる時の流れを作ったという視点でしたが、こちらの本はまた別の視点で語られています。
明治維新に興味を持った方はこういった別の視点で、あの時代をみてみるのもおもしろいかと思います。

「明治維新 1858-1881」坂野潤治+大野健一著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288031-2

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2010年12月11日 (土)

「ロビン・フッド(2010)」 伝説の男ができるまで

ご存知の通りロビン・フッドは実在の人物ではなく、イギリスで語り継がれている伝説上の人物です。
シャーウッドの森に住むアウトローであり、ジョン王の暴政に反抗した人物として描かれていることが多いです。
ちなみにアウトロー(out law)というのは「無法者」という意味でとらえられることが多いですが、本作の場合では「法の保護外の者」という捉え方が合っているでしょう。
つまり君主や領主は人々を「法の保護内」に入れることにより他国の侵略や盗賊などから守り、その代償として「税」を集めるというシステムであったわけです。
税を納めなければ、それは「法の保護外の者」であり、施政者の保護は受けられず自分たちで自分を守らなければいけないわけです。
つまり「税」と「領民の保護」は施政者と民の契約であるわけです。
本作で登場するジョン王は実際にも失地王とも言われ、フランス領内で持っていたイギリス領を失い、また教皇にたいして屈服し、さらに国内では悪政をひいたことでとかく評判が悪い王です。
本作でもジョン王は、王へ税を納めるのは民の義務であると述べ、王に無条件で忠誠心を捧げるのは当然であると言います。
しかし、さきほどの施政者と民の契約という点で考えると、ジョン王の認識は間違っていると言わざるをえません。
この作品ではフランス軍が海を渡りイギリスに攻め込む場面がありますが、そういうときにこそ施政者は領民を守るために戦う「義務」があるのです。

そして契約という側面以外にも、人が人のために戦う、何かをしたいという場合、その動機として「義務化した忠誠心」というものを求めるのも間違っていると思います。
社会がシステム化してきた場合、当然のことながら上位の者が下位の者を指揮するという命令系統はしっかりしていなくてはいけません。
そうでなければシステムは動きません。
けれどもそういうシステムを越えたところで、人を引っ張る力というのは、引っ張る人自身の人物力といったものも大きいかと思います。
それはどういうところから得られるかというとやはり「有言実行」ということしかないと思います。
ジョン王は臣下や民に求めるばかりで自分では行動をすることはありませんでした。
対して、本作のロビン・フッドは自ら民のために動き戦いました。
その行動を見る中で人々というのは忠誠心というものを持っていくのだと思います。
忠誠心というのは求めるものではなく、相手にそういう気持ちを持ってもらえるよう自分が行動することによって得られます。
そこで得られた忠誠心はやがてその対象となる人がいなくなったとしても、憧憬として残り、やがて伝説化していくのでしょう。
現代であってもカリスマ経営者が亡くなっても、その方の意志が会社に残っているということはよくあります。
ロビン・フッドという存在も、そのような伝説化するような人がかつて存在し、いくつかのそのような物語が混ざりあってできたものなのでしょう。
本作はロビン・フッドが伝説の男になるまでを描いた物語と言えます。

さすがリドリー・スコットだけあって、骨太なストーリーで140分という長尺でありながら一気に最後まで見せてくれました。
ラッセル・クロウ演じるロビン・フッドも堂々としており、まさに言葉は多くありませんが、静かなるカリスマといった風情がでていました。
最後の方の波打ち際でのイギリス軍とフランス軍の激突シーンも迫力があり、見入ってしまいました。

本作を観た後に、最近の日本をひっぱっていかなければいけないリーダーたちの「ぶれる姿」「決断しない姿」を見ていると、情けなくなりますね・・・。

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2010年12月 5日 (日)

「ビートルジュース」 ティム・バートンの原点

こちらは僕が初めてティム・バートンという奇妙な監督に触れた記念すべき作品。
もう一度観ただけで、一目惚れといった感じでした。
あれから何度観たことか・・・。
今でこそティム・バートンはメジャーでドル箱な監督ですが、初めて観たときは、なんというか、他の誰とも違うユニークなセンス、世界観にノックアウトでした。
奇妙奇天烈で、怖いんだか、おかしいんだか。
僕がこの映画で一番好きなのは「バナナボート」の曲がかかるシーン。
本筋とはほとんど関係ないのですが、ここだけでもけっこう観てます。
何故と問われると困るのですが、好きなものは好きなんですよね。
このあたりのシーンを入れてきちゃうティム・バートンのセンスに惚れてしまったわけです。
ビートルジュースが暴走し始める後半も好きですね。
不条理ギャグという感じか、このあたりのセンスもハートをわしづかみです。
作品によって濃淡がありますが、こういう不条理なユーモアっていのはティム・バートンの世界観の根っこには必ずあるんですよね。
ですので「不思議の国のアリス」を監督するならティム・バートンってずっと思ってました。

本作の主人公は事故で死んでしまったアダムとバーバラの夫妻。
ゴーストとなってしまった二人は、自分たちの家に住もうとするNYの家族を何とか追い出そうとしますが、上手くいかない。
そこで呼んではならない、バイオ・エクソシスト、ビートルジュースを召喚しちゃうわけです。
ティム・バートンの多くの作品に共通してあるのが、世の中から奇妙なものとして扱われる弱者の目線というのがあります。
奇妙であることの哀しさを持ち、けれどもそのこと自体を愛せるようになるというような視線です。
そこが一番わかりやすいのが「シザーハンズ」ですね。
「チャーリーのチョコレート工場」も、「アリス・イン・ワンダーランド」でもそういう視線を感じることはできます。
本作は初期の作品ですが、その後のティム・バートン作品に共通するこの視線はすでにあります。
普通の物語であれば、人間を恐れさせるゴーストというのは強者です。
けれどもアダムとバーバラはゴーストでありながら、人間に排斥される弱者。
そして越してきた家族の子リディアもそういう奇妙な人物としてみれます(リディアはアリスがマイナスになった姿とみることもできます)。
最後にアダム、バーバラそしてリディアはそれぞれが奇妙な存在であるということを互いに受け入れます。
奇妙だって、奇天烈だっていいじゃないっていうのはティム・バートン自身にも言えるかもしれません。
結局、そういう個性があり、それを踏まえた作品を作り続けているからこそ彼は評価されているのであるんですよね。
そういうティム・バートンの原点がみれる作品であると思います。

ティム・バートン監督作品「アリス・イン・ワンダーランド」の記事はこちら→

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2010年12月 4日 (土)

「武士の家計簿」 できることをちゃんとやる

「願いましてーは!」
なんか懐かしい。
母親が珠算教室をやっていたもので、本作の語り手成之のように算盤を習わされました。
けれども、そういうのが向く性分ではなかったようで、ほどなく脱落・・・。
それからは基本的にどんぶり勘定です。
とはいえ帳尻合ってるからいいんだもん(直之には怒られそうだが)。
母親は算盤をやっていたので当然のことながら毎日家計簿をつけてました。
家計簿をつけるのが当たり前だと思っていたら、世間はそうでもないのですよね

本作は、神保町の古書店で発見された幕末から明治にかけての加賀藩のある武士の家の家計簿からヒントを受けて作られています。
幕末から明治というのは、時代が大きく動いたときで、そこには数々のドラマがあります。
ですから「幕末もの」と言われるくらいいくつもの映画や小説などが作られてきたのでしょう。
けれどもそのような激動の時代を切り開く偉人たちについてはさまざまな記録は残されていますが、それ以外の普通の人々についてはあまり多くの記録はありません。
それはしごく当然です。
ですが、本作で注目した武士の家計簿。
家計簿はその家のお金の出入りを記録したものですから、そこにはその家族が過ごした時というものが記録されているとも言えるわけです。
偉人たちのように世界を、日本を動かすようなドラマはないかもしれない。
みんながみんな坂本龍馬のようには生きられないのです。
けれどもそこにはその家族としてのドラマはあるわけです。
嫁を向かい入れたり、子が産まれたり、親が亡くなったり。
もっと日常的なところでは、日々購入する食材の値からもドラマや世の中の変化をうかがい知ることはできるかもしれません。
まさに家計簿とは、その家の記録、年表とも言えるかもしれません。
本作の主人公は幕末を生きた人物ですが、歴史を動かすようなことをするわけではありません。
けれども激動する時代で、自分のやるべきことを淡々と行うということを通じて、自分の家族をしっかりと守ってきたわけです。
よく考えれば今の時代も後世からみたら、激動の時代になるかもしれません。
日本も世界もその仕組みを変えようとしているようにも感じます。
けれどもその時代で生きている僕たちの生活は日常として淡々と続いていくわけです。
そこでできるのはやっぱり自分ができることをちゃんとやるっていうこと。
もしかすると直之も激動の幕末を生きるなかで、自分ができることをしっかりやるということだけを考えて生きたのかもしれません。

前半で直之が発見した藩の御蔵米の不正。
いつの時代にも「埋蔵金」はあるのだなあ、と思った次第。

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本 「三匹のおっさん」

有川浩さんの作品は好きですが、こちらは読んでいませんでした。
有川さんと言えば、ラブコメ、それもベタ甘ラブコメですので、主人公はやはり若い男女ということが多いです。
その有川さんの作品で、主人公がアラ還(アラウンド還暦)の三人の老人(っていったらこの三人が怒るに違いない)っていうのは珍しいですよね。
でも読み始めてしまえば、やはり紛うことなき有川作品というのがわかります。
さすがにアラ還の三人のベタ甘話はありませんが、三匹の清一の孫の祐希と、もう一人の則夫の娘の早苗の関係はいつもの通りのベタ甘系ですしね。
あと有川さんの作品ていうのは、憎まれ口を叩き合う男同士っていうのもよくでてきます。
「海の底」とか「図書館戦争」もそうかもしれませんが、そういう関係に本作であたるのが清一と裕希なのですよね。
年齢が離れているので変則的ですけれども。
またこの二人の関係というのは祖父と孫という関係ですが、有川さんのベタ甘恋愛カンケイ的な要素もありまして。
清一が裕希の頭をなでようとするところなんてのは、そんな感じがします。
おっさん三人が主役ではありますけれども、爽快で読み心地もハッピーでいつもの有川さんの作品の良さに溢れている作品だと思います。
扱う題材が違うけれども、自分のテイストが出せるっていうのもスゴいですね、有川さん。

「三匹のおっさん」有川浩著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-328000-4

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2010年12月 3日 (金)

「GAMER」 ノイジーでオーバーフロー気味

近未来・・・、世界中の人々があるネットゲームに熱中していた。
それは「スレイヤーズ」といい、実際の人をプレイヤーが操作し殺し合いをさせるサバイバルゲーム。
ゲームで操作されるキャラクターたちは、死刑囚たちでそのサバイバルゲームでの死は、本当の死につながります。
主人公ケーブルは「スレイヤーズ」で最強の戦士と言われている男。
「スレイヤーズ」で30回戦いで生き残れば、釈放されるというルールであり、ケーブルはあと3回生き残れば30回に到達するというところまできていました。

こちらの作品はけっこう期待度高めでした。
設定としては、とても面白くなりそうな気配があります。
予告で観た映像もかなり迫力があるものに見えました。
そして監督は「アドレナリン」シリーズのマーク・ネヴェルダイン&ブライアン・テイラーのコンビです。
「アドレナリン」シリーズはかなりぶっ飛んだ内容でしたが、映画から勢いが感じられる作品であったので、さきほどの設定もこの監督コンビなら活かされそうだと思ったわけです。

しかし観終わったあとの感想としては、まとまりつかずに空中分解してしまっている印象が残りました。
まず登場人物の感情、背景などの描き方がとても甘い。
さまざまなおもしろそうな人物が出てくるのですが、ちらりと触れただけであまり踏み込んで描きません。
端っからあまり触れずに記号的な登場人物としていればまだフラストレーションは起きないのですが、さらっと触れるだけに欲求不満が起こります。
例えば、悪役であるキャッスルの行動原理がいまいちよくわからない。
支配欲が強い男なのか、ただのお子様のような愉快犯なのか。
ケーブルのプレイヤーであるサイモンと、ケーブルの間には何かドラマが発生するかと思いきや、そこにはほとんどそのようなものはありません。
そのため、ラストでのサイモンの役割も不明確なのですよね。
またキャッスルに対抗する”ヒューマンズ”たちもあっさりとやられてしまいますし。
あとキャッスルがケーブルに対抗して投入するヒールのハックマンも強いんだか弱いんだか・・・。
魅力がでそうな背景やキャラクターの設定であるのにも関わらず、脚本がそれらを未消化のまま、映画を作り始めてしまったような感じがします。
また映像としても、非常にノイジーで観ていて疲れます。
ゲーム的な加工された感じの雰囲気を持ちながら、手持ちカメラを使い長回しを行ったリアリズムさも出した映像。
ところどころには激しいカット割りなども観られて、「アドレナリン」シリーズにも感じられた勢いはあると思います。
けれどもあまりに作り込んでいるために、その映像の忙しさ、クセの強さが、映画自体に入り込むのを妨げるような印象がありました。
目に入ってくる映像がすべてが過剰であるというか、そんな感じです。
もともとこの監督コンビは「アドレナリン」シリーズでも「勢い」で勝負していたところはあります。
ただあちらは物語としては主人公を中心にしている展開でいたってシンプルであるのに対し、本作は設定自体が非常に凝ってます。
なのでそれを勢いだけで持っていこうとすると、どうしても丁寧な説明が欠ける分、なにか入ってくる情報(設定も映像も)ばかりが多くてオーバーフローしているような印象を持ちました。
長さは90分と非常にコンパクトなのですが、この設定でしたら丁寧に2時間くらいで描いてもよかったように思います。
そのくらいの時間をとってもそれほどだれないと思うのですよね。

もっとおもしろくなりそうな印象があっただけに、ちょっと残念でした。

「アドレナリン」の記事はこちら→
「アドレナリン:ハイボルテージ」の記事はこちら→

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