「ランボー」 戦争の遺産
「エクスペンタブルズ」を観て、久しぶりに80年代のマッチョ・アクションを観たくなりました。
ここはスタローンに敬意を表して、「ランボー」をセレクトしました。
単純にマッチョ・アクションを、と思ったのですが、久しぶりに観てみると「ランボー」の一作めは実はしっかりとしたテーマがあるなと改めて思いました。
「ランボー」シリーズは「怒りの脱出」とか「怒りのアフガン」のイメージが強くって、ランボーがドカドカ銃を乱射して、敵をなぎ倒していく印象が強いですが、本作ではランボーは誰も殺していないんですよね。
一人保安官が死んでいますが、あれはヘリから落ちた事故ということですし。
ランボーはベトナム戦争でグリーンベレーの精鋭としてゲリラ戦を戦ってきた歴戦の勇士。
けれどもベトナム戦争が泥沼化して末に終結し、本国アメリカに戻ってきたものの彼らベトナム帰還兵に向けられるのは白い眼でした。
彼らは国のために文字通り命をかけて戦ってきたにも関わらず、厭戦気分が高まってきたアメリカ国内では鼻つまみ者となってしまったのです。
「ランボー」シリーズに登場する主要キャラクターの一人が、トラウトマン大佐。
彼はランボーのことを「私が造った」と言います。
トラウトマン大佐が訓練し、ゲリラ戦のスペシャリストとして育てたと。
戦争というものが行われると、その終結後さまざまな問題が起こります。
その中でも大きな問題の一つが、戦争のために作られた武器の処理の問題です。
中国では今でも第二次世界大戦中に旧日本軍が作った毒ガスの処理が続いています。
内戦があったエリアでは地雷の問題があります。
日本でさえ、ときどき不発弾が見つかったりもします。
まだ戦争の遺産である武器は処理できるからまだいい。
けれどもランボーのように、戦争のために教育された人間は、戦争が終わったらどうすればいいのか。
武器のように処理をして終わりというわけにはいきません。
トラウトマン大佐が自ら言うように、ランボーら兵士はまさにゲリラ用の兵器として造られたのです。
戦争のために酷使され、使い捨てられ、そしてそれでも生き残った者はどのように生きていけばいいのか。
結局、ランボーはその後のシリーズの展開を観ている限り、戦争を厭いながらも自分の存在は戦場でしか見いだせなかったということなのかもしれません。
「ハート・ロッカー」はイラク戦争を題材にしていますが課題としてあげていることの本質はけっこう似通っていて、実は「ランボー」のテーマの後継者なのかもしれませんね。
「ランボー」はアクション映画でありながらも、帰還兵問題という社会的な課題にフォーカスを当てている作品だと思います。
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