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2010年11月29日 (月)

「デイズ・オブ・サンダー」 シンプルな青春スター映画

PS3の「グランツーリスモ5」を買ったばかりなので、気分はもうレーサー(今は車は持ってないけど)。
そんな気分だったので、なにか車の映画が観たいなあということで、本作「デイズ・オブ・サンダー」をセレクト。
先日久しぶりに「トップガン」も観ましたし、トム・クルーズとトニー・スコット監督が再びタッグを組んで作った本作を選んでみたわけです。
「トップガン」を地上のレースに置き換えただけとも言えなくもないあまりひねりのないストーリーで、今からみれば珍しい直球系の青春スター映画とも言える作品ですが、実は僕はこの作品はキライじゃないのです。
ま、観たのが青春真っ盛り(!)な大学生の頃だったりするわけで、そのときの気持ちが残っているからかもしれません。
映画って、音楽もですけれど、初見のときの自分の状態というのが作品とともに記憶に残っているんですよね。
その頃は映画の見方もすれていなかったので、結構こういう素直なストーリーでも満足できていたんです。
才能ある若者が、挫折を経験しながらも、それをバネにして、友情と恋と栄光を手に入れるという物語。
すれてしまった今観たら、「そんなに甘くはないのだよ」と言いたくなるかもしれませんが、やはり若い頃というのはこういうシンプルな物語に魅かれるわけです。
そういえば、最近の映画はこういうシンプルな青春スター映画っていうのは少なくなりましたね。
今の若い子はどういうタイプの作品を好むんでしょうね。
若いうちからすれちゃうのもどうかは思いますが。

主人公のトム・クルーズはやはりかっこいいし、本作をきっかけにスターダムに登っていったニコール・キッドマンも美しい。
まさに美男美女。
二人がつき合うようになったのも、本作がきっかけですからね。
しかし、この映画から20年経っているのに、容姿が衰えない二人ってスゴいですよね。
特にニコール・キッドマンは年をとらないじゃないかと思えるくらい。

「トップガン」の時も書いたのですが、これらの作品の時代はそれほどCGは発達していなかったわけです。
ですので、ストックカーレースのシーンなども当然のことながら実車。
やはり実車でのレースシーンは迫力があります。
CGとは異なるリアルならではの手触り感のようなものがあります。
映画を観ると、また「グランツーリスモ」がやりたくなります。

トム・クルーズ主演、トニー・スコット監督作品「トップガン」の記事はこちら→

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2010年11月28日 (日)

「龍馬伝」 フィクションとリアリズムを上手く噛み合わせた

最近はとんとテレビドラマを観ることがなくなっているのですが、そういう状況の中、毎週楽しみにしていたのがNHK大河ドラマの「龍馬伝」。
最近の大河ドラマだと名作だと思ったのは「篤姫」でしたが、自分の中ではそれを越えました。
ちなみに僕の個人的な法則で、NHK大河ドラマのアタリハズレは1年ごとというのがありまして。
最近では06年「功名が辻」(アタリ)、07年「風林火山」(ハズレ)、08年「篤姫」(アタリ)、09年「天地人」(ハズレ)という評価でした。
ですので今年はアタリという年のはずなのですが、アタリもアタリ、大アタリとなりました。
それだけ今年の「龍馬伝」はよかったです。

昨年「天地人」のレビューを書いた時の記事のタイトルは「リアリズムとフィクションの間の難しさ」としたのですが、「龍馬伝」はリアリズムとフィクションをとてもうまく使いこなしたのが成功の要因だと思います。
まずフィクションという点での巧みさが最もわかりやすいのはそのキャラクター造形でしょう。
坂本龍馬を始め、彼が自分の道を進むうちに出会う人々がそれぞれに魅力的に描かれていました。
いわば「キャラ立ち」していたと言えるでしょう。
言ってしまえば時代劇臭くないとでもいいましょうか。
ある意味、坂本龍馬という人物が夢をかなえるまでの青春物語と観てもいいわけです。
幕末に生きた歴史上の人物のキャラクターをリアリティを持って描くのではなく、ある意味現代人でもわかりやすいキャラクターとして造形し直しているのが、これだけ多くの人に話題になったということに繋がっていると思います。
これは脚本の力によるところが多いと思います。
そして脚本が生み出したキャラクターにあてたキャスティングも素晴らしかった。
こちらの記事を書く前に特によかったキャスティングをいちいちあげようかと思いましたが、あまりに多くて止めました。
それでもやはり挙げなくてはいけないのは主人公坂本龍馬を演じた福山雅治さんでしょう。
福山さんは歌手でありながらも、俳優としての演技力が確かなのは今までの作品でもわかっていましたが、まさにはまり役と言えるほどに坂本龍馬にはまっていました。
本作の坂本龍馬は自分が思い立ったら、それに向かって突っ走ってしまう男です。
そしてそこで出会う人々男女限らずをその人柄から夢中にさせて(弥太郎に言わせれば人たらし)、人を集めていく不思議な魅力を持った人物として描かれています。
女性にもてる男の人、これはいる。
同性が憧れたり、慕ったりする男の人、これもいる。
けれども女性にも男性にも慕われ好かれる人というのはなかなかいないもの。
そのなかなかいない人のひとりは福山雅治さんかなあと思います。
女性からみたランキングではいつも上位が定番の位置になっていますが、パーソナリティをしているラジオ番組などでのあけすけなトークは男性からみても共感できて、けっこう男性でも好きな人は多いですよね。
そういう福山さんにあてて書いたようなのが、まさに本作の坂本龍馬であったかなと思います。
あとはやはり岩崎弥太郎を演じた香川照之さんでしょう。
最近はアクの強いキャラを演じさせたら右に出るものはいないという香川さんですが、本作も岩崎弥太郎もまさにぴったりの役でした。
最初の頃の汚さ加減は半端なく、三菱からは「あれは行き過ぎではないか」とクレームがあったとも聞きます。
それでも最後まで龍馬に対して愛憎が混じりあった感情を持ち続けた複雑な役柄を香川さんはしっかりと演じてくれたと思います。
他にも素晴らしいキャスティングはいくつもあったのですが、ちょっとだけ書いてみましょう。
吉田東洋の田中泯さん、山内容堂の近藤正臣さん、勝海舟の武田鉄矢さん、高杉晋作の伊勢谷友介さんなどは特によかったです。
どうしても幕末の時代劇は、かなり様相が激しく変わり、そして登場人物も多いため歴史が好きじゃない方は敬遠されたりします。
けれども、本作は先に挙げた素晴らしいキャラクター造形、キャスティングにより現代人でもわかりやすい物語(フィクション)になったのが人気の秘密なのでしょうね。

あと逆にリアリティにこだわったのが映像や、背景だと思います。
特に映像はハイビジョンを意識した映像になっておりました。
ある意味「よく見え過ぎる」というハイビジョンの特性をフルに生かし、肌についた汚れ、脂汗などを容赦なくアップで映すというようなことをしていました。
女優さんからするとかなり厳しい環境だったと思いますが、それでもつるつるに加工された肌ではなく、まさにそこにそういう人物がいるのだというリアリティを与えてくれていたと思います。
照明もかなり思い切っていて、夜のシーンなどは余分な光はあまり使っていなかったように思います。
通常のフィルムやビデオだと写らなかったり荒れてしまうような光量でも、ハイビジョンならば映し出せるので、そういうこともわかって撮影しているように思いました。
テレビドラマでありがちな作られた世界という感じをその試みは払拭しようとしていたように思います。
そして手持ちカメラをかなり多用していたように感じました。
それらの試みにより、観ている視聴者も幕末の時代が動き出そうとしている息吹のようなものをそこにいるかのように感じることができました。
他にもこだわりを持ってやっていた各地の方言などもリアリティを出すことに機能していたと思います。

キャラクター作りは時代劇らしくないキャラクターでフィクションとしてのわかりやすさを追求し、映像などの舞台装置や背景では徹底したリアリズムを訴求する。
これが上手に噛み合わさって今までにないタイプの時代劇を作り上げてくれたように思います。
これからの時代劇の中では一つの目標とされる作品となった気がします。

09年NHK大河ドラマ「天地人」の記事はこちら→

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2010年11月27日 (土)

本 「ストーリーとしての競争戦略 -優れた戦略の条件-」

成功した企業やビジネスモデルがあると、○○式経営だとか、○○式戦略とかいうタイトルの本がわんさか出てきます。
個人的にはそういう成功事例をあくまで事例として見るのはよいけれども、そのまんま同じことをやったとて成功するわけがないと思っています。
なぜならばある事例が成功したのは特定の環境、条件があったからであって、それが万事に効く成功パターンにはなりえないと思うからです。
けれども事例からはなにかしらのエッセンスは学べるわけです。
本著はそのあたりのエッセンスを「ストーリー」としています。
正確に言えば「話したくなるほど魅力的なストーリー」ですね。
ここでいうストーリーとは、さまざまなアクションが一つのストーリーとして論理的に繋がりあっている一貫性があること。
そしてそのストーリーには、一見して不合理な点があることを著者はあげています。
まさに一貫した流れであるというのは「起承転結」がしっかりしているということであり、一見して不合理な点があるといういことは「転」を指しています。
企業が大きくなればなるほど、業務は細分化され(いわゆる縦割り)となり、それぞれの部門が部門最適化を行うことにより、全体的にはなにか奇妙な整合性のなさがでてくるということは多々あります。
僕がいる会社もまさにそういう態なのですが、たまたま今は出向しているため外から見ていると強く感じます。
今僕が働いている会社は規模的に手頃な大きさで社員全員にひとつの意志を貫こうとした場合、非常にうまく動けていると思います。
うちはカリスマ経営者というわけではありませんが、規模がちょうどいいため関係各部署の実務責任者がそれこそ顔を突き合わせて今後の方針を煮詰めていくことができます。
そのためいったん会社として目的・意志を決めてしまえば、それが各部門の活動にかなりダイレクトに反映されます。
走りながら考える的なところもありますが、小さな失敗をしながらも目指すべき目標に向かって早めに軌道修正しながらできているかなと。
このあたりの組織内に積み上がっていく経験値みたいなものが、いわゆるスキームなどと違っておいそれとマネができないものとなっていくのでしょう。
このあたりを著者はストーリーと言っているような気がします。
我々の活動(業界の浮沈に関わるような事件を乗り越えた)、親会社も注目して参考にしたいと言ってきたりもしますが、なかなか部分的な活動を話してもそれがほんとうに理解されたかどうかはちょっとわかりません。
僕たちがやったのは、やはり業界内では無謀と言われたことでした(すみません、内容については触れられません)。
競合他社もかなり冷ややかに見ていたと思います。
けれどもそれにより、過去最大益を昨年は出すことができました(多少環境的にラッキーだったところもありますが)。
その理由は競合他社もわかるはずですが、やりたくてもできないと思います。
それをやるためには販売から、開発から、コミュニケーションに至るまで一貫した考えに基づき活動しなくてはいけないからです。
他社はほんとに目先の利益だけにとらわれ、動けません。
それが本著で書いている一見して不合理なキラーパスであると思います。
僕たちがやっている活動は道半ばなのでまだまだ成功とまでは言えないレベルなのですが、迷いはありません。
ストーリーとして正しいと思っているのと、逆にその道しか自分たちは選べないということもあります。
結局ストーリーとしての戦略というのは、己自身を知って、その上で何をゴールとしてイメージが具体的にできるかということだということなのでしょう。
単純なスキームを持ってくればいいというものではありません。
自分ならではのストーリーを描けるかどうかというのが、真の戦略なのでしょう。

「ストーリーとしての競争戦略 -優れた戦略の条件-」楠木健著 東洋経済新報社 ハードカバー ISBN978-4-492-53270-6

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「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1」 真のリーダーへの過程

いよいよ「ハリー・ポッター」シリーズも最終章を向かえました。
そして最後となる「死の秘法」は2部構成ということに。
原作もかなりのボリュームがあり、さすがに最終章ということもあって端折りにくいということもあり、2部構成は致し方ないところでしょう。

前回の「謎のプリンス」のレビューのときも書きましたが、「ハリー・ポッター」シリーズというのは、その主軸はやはり主人公ハリーの成長にあると思います。
それまでやや自分中心なところも見えていたハリーが、前作では周囲の人のことを思い自ら行動するというようなところを見せ、彼の成長が伺えました。
本作ではその彼の気持ちはさらに進み、またヴォルデモードの力が強大化していくなかで、ハリーが魔法使いたちの将来を自分が背負わなくてはいけないという使命感を強く感じ行動しています。
けれどもその中で仲間たちもどんどん失われていく。
彼は仲間たちを思い、そのため自分だけでなんとかしたいと行動します。
それ自体は仲間を思い、彼が責任感を持っているという点では彼の成長ではあります。
けれどその中で仲間たちを思ってとはいえ、仲間たちを振り切って行動してしまうところにまだ彼の至らなさが感じられます。
ヴォルデモードの分霊箱を探していく中で、彼はなかなかそれらを探す手がかりにたどり着けません。
映画としてはこのあたりあまり進展がないので、やきもきする方もいるかと思いますが、これはこれで正解ではないかと思います。
ハリーが自分がやらなくてはいけないという自覚と責任感を持って行動するのは成長の証しなのですが、それだけでは足りないのです。
ハーマイオニーやロンといった仲間たち、それ以外のハリーを思う人々の力があってこそ、それはヴォルデモードに対抗する力になるのです。
分霊箱を探し、それを破壊する旅の中で、ハーマイオニーもロンも、彼がいるからこそできるということを行います。
ダンブルドアの寵児であるハリーだけの力では圧倒的な悪には勝てないのです。
そういう仲間の気持ちを一つに集め、それをリーダーとして発揮でいるようになったときハリーが本当に成長したということになるのでしょう。
PART1はそれに至るまでのハリーの苦難を描いた作品であると思います。
ハリーが真のリーダーになれるか、それがPART2で描かれる内容であることを期待します。

例によってかなりの長尺であり、お話としてはPART1の前振りであるわけですが、長さはそれほど感じず楽しめました。
派手なシーンもそれほど多くはなかったと思いますが、それだけハリーやロン、ハーマイオニーたちの気持ちが今までよりも描かれていたということかもしれません。

個人的には双子の兄妹のジョージが死ななくて良かった・・・(原作では死んでしまう)。
原作を読んだ時は悲しかったので、これは救われました。

映画「ハリー・ポッターと謎のプリンス」の記事はこちら→
原作小説「ハリー・ポッターと死の秘宝」の記事はこちら→

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2010年11月23日 (火)

「マチェーテ」 エグい!でも爽快!

「グラインドハウス」でかかっていた偽予告編(「グラインドハウス」を観ていないので、偽予告編も観てませんが)をロバート・ロドリゲスが本当に作ってしまったというのが本作品。
主役はダニー・トレホ。
彼はロバート・ロドリゲスの従兄弟という縁から、彼の作品に多く顔を出していますが、なんと本作では初主演です。
一度観たら忘れない、見るからに悪人面で、役柄も悪党が多いダニー・トレホ、いつもは登場したそばから死亡フラグが立っているような感じですが、今回は最後まで殺しても殺しても死なない不死身さを持ってます。
顔は悪形ですが主人公マチューテは、まさに徹頭徹尾正義の人。
麻薬王、メキシコ人を排斥する自警団、悪徳政治家、麻薬でもうけるビジネスマンなどの悪人どもをバッタバッタとやっつけていくさまは勧善懲悪のわかりやすい物語。
ロバート・ロドリゲスらしい残虐描写は満載ですが、それでも正義が悪をやっつけるという物語なので不思議に爽快感はあります。
悪い奴らはとことん悪そうに描いているので、溜飲が下がるというところでしょうか。
ロバート・ロドリゲスのエグい描写ってそれだけ観てるとグッとくるのですけれど、全編ラテンなノリで貫かれているのでなにかユーモアのような明るさがあるんですよね。
さらにジェシカ・アルバ&ミッシェル・ロドリゲスという二人のラテン美人も登場するので、さらに画面は華やかです。
ジェシカ・アルバは久しぶりに観ましたが、相変わらずセクシー&キュートです。
またミッシェル・ロドリゲスはセクシー&ワイルドで、同じラテン系でありながら、違った魅力を画面に出していました。
そういえばこの作品、話はベタベタにB級ですが、出演者はさすがロバート・ロドリゲスの人脈があるからか、豪華です。
ロバート・デ・ニーロに、スティーブン・セガールが悪役っていうのも贅沢ですよね。
スティーブン・セガールも久しぶりに劇場で観ましたが、それにしても太り過ぎ!
アレじゃ動けないでしょ。

最後はワルノリで続編と続々編のタイトルが・・・。
でも本気でやるかもしれない・・・。

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2010年11月20日 (土)

「新幹線大爆破」 150分間止まらない

観たかったんです、こちら!
先日注文したApple TVが届いたので、どんな作品があるかなと物色していたら、本作を発見。
古い作品でもありますし、マニアックに評価されているので、普通のレンタルショップとかではなかなか見かけなかったのです。
すごいぞ、Apple TV!
ヤン・デ・ポン監督の「スピード」は大好きな作品なのですが、そちらの元ネタとも言われる作品です。
元ネタと言われる所以は、新幹線ひかり109号にしかけられらた爆弾が速度が80キロを越えたところでスイッチが入り、スピードが再び80キロを割ると爆発するという設定です。
まさに「スピード」のまま。
というより「スピード」の方が全然後なので、「スピード」が「新幹線大爆破」のまま、ですね。
似たような描写もありました。
「スピード」では爆弾がしかけられたバスにトレーラーを並走させて板を渡し、乗客を移らせるというシーンがありました。
本作「新幹線大爆破」では爆弾がしかけられた下りの新幹線に、上りの線路を新幹線を並走させ、爆弾解除のために必要な道具を受け渡すという場面があります。
ちなみに109号の運転士が千葉真一さんで、並走する救援車の運転士は千葉治郎さん(「仮面ライダー」の滝和也を演じた方)で、お二人はご兄弟。
特撮好き・アクション好きとしては、微笑んでしまうキャスティングでした(ちらっと志穂美悦子さんもでてた)。
このあたりはほとんどそのまんまでしたね。
「スピード」との相違点と言えば、さまざまな登場人物についてのドラマがしっかりと描かれていたところでしょうか。
「スピード」の場合はわかりやすく、サイコな犯人と、それに立ち向かうヒーロー、ヒロインという構図でした。
けれども「新幹線大爆破」は新幹線の乗員・乗客、国鉄の司令室の職員、犯人を追う刑事、そして犯人にドラマがありました。
乗客を救うことを第一義とする国鉄職員と、犯人を挙げることを優先する警察の対立。
危機にさらされている新幹線の運転士と、運転司令室長とのやり取り。
犯人グループが犯行に及んだ経緯。
犯人たちについては、最近のわかりやすい映画のような安易なテロリストとしてではなく、高度経済成長期に取り越されてしまった人々の憤りが描かれていました。
その憤りが、当時の繁栄の象徴であり、最先端の科学技術のシンボルでもある新幹線にぶつけられるということであり、社会派的な側面をもつ物語となっています。
また危機に直面している新幹線と、距離が離れた司令室がなんとか爆弾を解除しようと、打ち手を探っていく様は「アポロ13」のような緊迫感を感じました。
このように本作はいろいろな側面で語れる内容になっていると思います。
尺は150分を越える長さでしたが、少しも長いと思わせないで最後まで見せてくれるテンションを持っている作品だと思います。
まさに150分間止まらない勢いを持った作品でした。

もう35年も前の作品なので、端役などでけっこう現在では大御所の俳優さんがでているのも見所です。
それと本作は題材が新幹線の爆破なので、当時の国鉄はいっさい協力しなかったということです。
ですので、新幹線が走っている場面はゲリラ撮影か、ミニチュア撮影によるものです。
ミニチュア撮影の部分は今観ても、かなり出来がよく、一見しただけだとミニチュアだとわからないようなところもあります。
このあたりは日本の特撮の真骨頂というところでしょう。

Apple TVの使用感は非常に使いやすい。
部屋にいながら、レンタルショップで作品を選べる感覚になりますね。
付属のリモコンはApple製品共通の仕様のようで、操作すると同じ部屋にあるMacもいっしょに反応してしまうのでちょっと驚きましたが(Macのほうでリモコン設定を無効にすれば大丈夫です)。
探すのが大変な旧作も家で気軽にレンタルできるようになったのは嬉しいところです。

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本 「告白」

中島哲也監督の映画版もすごいと思いましたが、原作本もさすが本屋大賞をとるだけのことはあってよくできていると思います。
タイトルが「告白」とあるように、本作は章ごとに主要な登場人物が誰かに(直接、間接的に)語りかけているという体裁をとっています。
この「語りかけている」というのが、いわゆる一人称スタイルの小説とは違った風合いを出しているような気がします。
この作品に近い感覚としては、ジャンルは異なりますがアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」などがあげられると思います。
語っている主体が話している内容は全部事実のように感じられがちですが、これはそうとは言い切れません。
語っている内容は「まぎれもない事実」「本人が事実だと思い込んでいる事実」「本人が意識的に嘘をついている事実」だったりします。
また「あえて本人が伏せている事実」もあります。
この作品の中では語りの手法として、実際にしゃべているというのもありますが、日記やHPなどでの語りもあります。
これは直接会話ではありませんが、読み手を意識しているということでは同じです。
なぜ「まぎれもない事実」しか語らないかと言えば、それは話している主体が、話している相手に自分自身をこのように思ってもらいたいという意志が働いているからでしょう。
もしくは自分自身もこのようであると無意識的に思っていたいということもあるかもしれません。
そういうことは日常的にも自分自身の中にもあることだろうと思います。
自己というフィルターが、事実を無意識的に歪ませてしまうということが。
この作品はそれを小説ならではの手法で、見事に描いているなと思いました。

原作小説を読んだ後、改めて映画版が非常によくまとまっているなと思いました。
小説は小説ならではの技法を通じて人間の自己像への執着みたいなものを描きましたが、映画では同様の手法は使えません。
けれども作品自体のテーマや伝えたいことはほとんど変えずに、映画として再構成し直すことができた中島監督の手腕に脱帽です。

映画「告白」の記事はこちら→

「告白」湊かなえ著 双葉社 文庫 ISBN978-4-574-51344-8

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2010年11月14日 (日)

「トップガン」 「カッコいい」が詰まってる

言わずと知れたトム・クルーズの出世作。
日米ともにヒットして、日本ではMA-1のフライトジャケットを猫も杓子も着てましたね。
久しぶりに観てみたのですが、メカ好き男子としてはやはりF-14トムキャットがカッコよくてしびれます。
冒頭の発艦、そしてミグとのドッグファイト、直後の着艦シーンなどはのっけから燃えますね。
トムキャットの機載カメラからの画はなかなか観れるもんじゃないんで、注視してしまいます。
メカだけではなくて、パイロットや艦上員の仕草とかもいちいちカッコいい。
本作は米海軍の全面協力によって作られたので、ミグにトムキャットが最接近するカット以外はすべて実物の戦闘機を使った航空撮影なのです。
やはり実機は画面から伝わってくる迫力が違います。
当時はCGなどが発達していなかったので、実機を使わざるをえなかったと思いますが、それがリアルなカッコよさを生み出しています。
最近のCGは何でもできるんですけれど、現物の迫力には及ばないところはありますよね。
映像的には最近では「ステルス」なども凝っているんですけれど、「トップガン」は空戦シーンもリアルならではの緊張感があります。
パイロット目線の映像というか、そういう感じのショットも多かったですよね(けっこう太陽が眩しいというのも本作でわかります)。

そして主演のトム・クルーズも男の目から観ても文句なくカッコいいわけです。
主人公"マーベリック"は、女性がキュンとなる要素を持ったキャラクターとなっています。
男っぽいパイロットの中で一人甘いマスクでありながら、実はけっこう筋肉質でたくましかったり。
鼻っ柱が強いやんちゃさがありながら、内面はかなりナイーブであったり。
女性視点から見れば、このギャップがたまらないのではないかと。
たくましくてカッコよくて守ってもらえそうなのだけれど、あたしが守ってあげなきゃって気分にもさせてくれるような感じでしょうか。
モテ要素がつまっている感じがするので、同性としては「かないません」と言うしかありません(そもそも勝負などおこがましいが)。

そういう意味で、男子的にも、女子的にも、「カッコいい」って思える要素が詰まっているから、世界で大ヒットしたのでしょうね。

今回は、先日日本でサービスが開始されたiTunes Storeの映画配信のレンタルで観てみました。
残念ながらHD版はなかったのですが、使い勝手はいいですね。
いつでも好きなときに観れて、返却の手間もないというのは快適です。
今回は自分のMacで視聴したのですが、やはり大画面で観たいなあということで、アップルTVを衝動注文してしまいました・・・。

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「怪盗グルーの月泥棒」 ミニオン、かわいい

よい映画なのだと思う。
悪人グルーが三姉妹と出会い、次第に彼女たちに愛情を持ち始めていくお話がメインになります。
加えてグルーの仲間たちミニオンたちのへんてこなかわいらしさ。
スパイ映画を髣髴とさせる泥棒テクニック、そしてそこにあるコミカルさ。
あと3D映画を意識した映像表現(ジェットコースターのところはほんとに乗っているような気分になりました)。
要素としては子供から大人まで楽しめるエッセンスが入っていて、実際楽しめるのですが、「すごくいい」というところまで行っていないなと思うのは正直なところです。
たぶんグルーと三姉妹の関係とその他の要素のかかわり合いがもう少ししっかりと根底で結びついていればちょっと違うのかもしれないなと思いました。
ピクサーだったらもうすこしジーンと来るような仕上がりになっていたと思います。
ピクサーの場合はアニメーションを作っているという意識よりも、映画を作っているという意識の方が強い。
なのでドラマ性を重視するのです。
しかし本作はパッと見の楽しさや愉快さを重視しているような気がして、それとドラマ性の融合がまだ浅いような気がしました。
冒頭に書いたように、決して悪い作品ではないのですが、もうすこしなんとかできそうな気がしたので、惜しいなあと思ったところです。

それでもお気に入りのキャラはいて、それはなんといってもミニオンです。
この黄色いちっちゃいのはなんなんだろう?
何しゃべってんだ?
という疑問はわきつつ、どっかで説明があるかと思ったら、一切無し。
あたりまえにそこにいるっていう設定がなんかおかしい。
なんか潔いですよね。
後でパンフを見たら、ネファリオ博士に作られた生き物で、原料はバナナだとか。
だから黄色いのね。
ミニオンはそれぞれ個性がありつつも、いたずら好きでわいわい騒ぐのが好きで、なんか観ていて楽しいやつらです。
この子たちはもう少し観ていたいなあと思ったりしました。
「ミニオンズの大冒険」とかいってミニオン主役でスピンアウトとか作ってくれないかな。
そこでミニオンの誕生秘話とか、ミニオンとグルーの友情のなれそめとか語られたりして。
ちょっとおもしろそうじゃありません?

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2010年11月11日 (木)

iTunes Storeで映画配信

突然、本日AppleからiTunes Storeで日本向けに映画配信を始めたと発表がありました。
これは画期的なサービスのスタートです。
観たい時に、いつでもどこでも映画を観ることができる。
iTunes Storeで音楽配信が始まった時も、これで世の中が変わりそうだと直感しましたが、みるみるうちに音楽と生活の関わりあいは変わっていきました。
今回の映画配信サービス開始によって、やはり同様に大きく世の中は変化すると思います。

さっそくiTunes Storeを観てみましたが、直近の新作から旧作まで、洋画から邦画までかなりのラインナップとなっています(あいかわらずソニーの作品はない様子)。
価格設定はHDの新作が売り切りで1本2500円、レンタルで500円、旧作が売り切りで2000円、レンタルで300円ということです。
こちらも絶妙の価格設定です。
DVDやブルーレイを手元に持っていたいという人からすれば、2000円〜2500円というのはかなり魅力的です。
レンタル派の人からすれば、300円〜500円というのはレンタルショップと比べるとほぼ同等ですが、「貸し出し中」がないという点は大きな利便性でしょう。
また近所のレンタルショップの品揃えに不満がある人にとっても福音です。
私は最近品揃えの点から、リアルのレンタルショップではなく、楽天などのレンタルサービスを使っていましたが、このデメリットは申し込んでから来るまでにタイムラグがあるということです。
今回のAppleのサービスはそういうデメリットを払拭します。
またiPhoneやiPadを持っている方からすれば、「どこでも」映画を観ることができるという今までにないメリットを享受することができるようになります。
これはライフスタイルを変化させるだけのインパクトがあります。
こういうサービスは映画館へ行く人の数を減らすのではないかという危惧を持つ方もいるかもしれませんが、僕はそうは思いません。
「いつでも」「どこでも」映画を観れるようになれば、いままでさまざまな制約から映画に触れていない方が映画に触れられるようになります。
そうすればより大画面で観てみたいという人もでてくるはずです。
これは映画興行としてもプラスになるのではないかと思います。

マーケティング的にはAppleの発表のタイミングは絶妙でした。
iPhoneやiPadにより、スマートフォンやタブレット端末に注目が集まり、他メーカーやキャリアがこぞって参入してきたのが、この秋でした。
それらはどうみてもAppleのモノマネですが、ドコモやauは今までの戦略と同様多機能化という名の差別化を図り売り込もうとしています。
しかしそれは例によって自分のキャリアへの囲い込みをかけるかつての戦略のままであり、ガラパゴス化を押し進めるだけとなることが予想されます。
またアンドロイドがシェアを伸ばしているといっても、それは無料OSであるということでメーカーが採用しているからであり、そこで提供されるサービスは各社バラバラであり、ユーザーの使い勝手はあまりよくありません。
既存のメーカー、キャリアはなぜAppleがこれだけ躍進しているかということの本質が見えず、かつての成功パターンでこの状況を乗り切ろうとあがいているように思えます。
そしてこの秋の各社のスマートフォン周辺の新製品やサービスの話題が出きったところを狙ったタイミングでの今回の発表です。
先に書いたように今回のサービスはライフスタイルの変化を起こすインパクトがあると思います。
Appleが目指すのはライフスタイルの変化であり、目先のシェアや利益に囚われている各社と志が大きく違うように見えます。
Appleはハード、ソフトウェア、そしてサービスを三位一体で開発しているというまれに見るビジネスモデルを展開しています。
はっきり言ってこういうシンプルで王道なビジネスを見せられると、この秋のキャリア、メーカーのAppleもどきの製品の数々が小賢しく、滑稽なものにすら見えてきます。
顧客視点を堅持し、そのために三位一体の開発を行う。
これにより結果的には顧客をAppleに囲い込むということができ、そして利益を生み出すことができています。
他社はもう一度、Appleの成功の本質をしっかりと見据えなくてはいけないと思います。

そして次にくるのは出版だと思います。
例によって日本の出版社、印刷会社は内向きな姿勢は変わりません。
しかし音楽、映画ときたならば、絶対に出版もあります。
それをただ待っているのではなく、積極的にオープンにしていく姿勢がないと、旧態然とした出版業界はさらに厳しくなると思います。

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2010年11月10日 (水)

本 「謀略法廷」

久しぶりにジョン・グリシャムの作品を読んでみました。
初期の作品は「ザ・ファーム -法律事務所-」など映画化もいろいろされていて傑作も多い作家です。

ある化学メーカーの長年にも渡る泥鰌汚染で、ある地域の住民でガンなどが多発。
住民は化学メーカーを訴え、損害賠償裁判で勝利します。
しかしメーカーは最高裁に上告、そこでの逆転無罪を狙います。
けれどもそのままの状態では敗北は明らか。
メーカーは驚きの一手を打ちます。
最高裁は9人の裁判官による評決になります。
そのうち4人はメーカー側へ有利な意見を言う見込みがあり、残りはその逆。
ならば5人のうち一人を自分たち寄りの裁判官にしてしまえばよい。
そこで裁判官の選挙で、現職を敗北させ、自分たち寄りの裁判官を当選させようとメーカーは画策するのです。
裁判は裁判の現場で証拠や証言にもとづき真理を議論されるというのが、皆が認識していることでしょう。
けれども現実は裁判以外の場面で結果がコントロールされている可能性があるという問題提起をしているのが、本作になります。

後味がけっこうよくないです。
正直住民側に最後はハッピーな結果が訪れるものだと思っていたのですが、そうはなりません。
しかし、それこそが自分たちが知らないだけであって、実際にそういう裁判所外での謀略が行われている可能性があるという指摘を作者はしたかったのでしょう。
そういう意味ではかなり衝撃を受けるラストであり、問題提起という点では効果的であったと思います。
でもね、後味がよくないのはちょっと・・・という感じはしました。

「謀略法廷<上>」ジョン・グリシャム著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-240925-1
「謀略法廷<下>」ジョン・グリシャム著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-240926-8

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2010年11月 9日 (火)

本 「 「知」のソフトウェア -情報のインプット&アウトプット-」

ノンフィクションライターの立花隆さんが自分の知的活動を行うに際に、どのように情報をインプットし、アウトプットしているかについて書いた著書です。
20年以上前の著書なので、テクノロジー由来の点についての部分については、現在ではなかなかそのままでは参考になりづらい部分もありますが、その真髄の考え方の部分については十分に通用すると思います。
例えばアウトプットのところでは自分の中でインプットされた情報が熟成されるのを待つということをおっしゃっている箇所があります。
これはなるほど、自分でもわかる気がします。
経験が浅い頃というのは、アウトプットをだせるか自分に自信がないので、インプットを闇雲にして、そしてうんうん唸りながらアウトプットをひねり出すというのをやりました。
それでもひねり出したものというのは、それほどいいわけではないのですよね。
今はどちらかというと頭にいろいろな情報をインプットしたら、しばらく放っておくことがあります。
インプットした時に同時にひらめく時がありますが、これはこれで一番正解だったりします。
ただそれはひらめきであって、なかなか説明しやすいようにまとまっていなかったりします。
そこでうんうんうなって無理矢理まとめるというよりは、これをしばらく放っておくのです。
放っておくといっても、人間の脳というのはそれについて考えていないというわけではなく、言うなれば頭のバックグラウンドでずっと考えているんですよね。
それがふとしたきっかけで、例えば電車の中とかシャワーを浴びているときとかに、一気にまとまったりするわけです。
また立花さんは、あまりいわゆるコンテを書かずにものを書くとおっしゃています。
コンテを書くのは書くことへのエネルギーがかかるのと、逆にコンテに縛られてしまうからと書いています。
立花さんはいくつかのキーワードを事前にメモで書いておき、書き始めてまたひらめいたらそれをメモで書き、全体を書き進めるというやり方をしているということです。
まさに僕もブログを書いているときはそんな感じです。
一応記事の主題みたいなものはなんとなく書き始める前に考えているのですが、書き始めて興に乗ってくると実は書きながらいろいろなことを思いついたりするわけです。
そのあたりのアウトプットをしながら思考が回転していく感じというのはなかなか事前のコンテを準備したからといってできるものではありません。
やはり脳内でインプットされた情報が熟成されているからなのでしょう。
といったように本著はテクノロジーを使ったテクニックというよりは、膨大な著書を書かれている立花さんの知的生産活動の様子を伺うことにより、自分ならではのインプット&アウトプットの方法を模索していくきっかけにするというものなのでしょう。
これはビジネスでも、アート的な芸術活動でも、それこそブログなどでも通じることだと思います。

「「知」のソフトウェア -情報のインプット&アウトプット-」立花隆著 講談社 新書 ISBN4-06-145722-5

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2010年11月 7日 (日)

本 「悪夢の商店街」

木下半太さんの「悪夢」シリーズは、登場人物同士が騙し騙され、お話も二転三転何度もどんでん返しがあるのが、そのおもしろさだったりします。
本作も「悪夢」シリーズの最新刊だけあって、同じようにどんでん返しが何度かあります。
ただ今までよりは、ちょっと全体的におとなしい印象がありますね。
終わり方などはハッピーエンドで好ましいんですれど。
たぶん登場人物のキャラが、今までのシリーズに比べてややおとなしいのかな。
今までだと、オカマのマッキーとかジェニファーとかけっこうクセのある登場人物がいましたし。
そういうクセのある登場人物の一人称だったりするから、またそれがおもしろかったりしました。
本作で一人称になるのは、美人結婚詐欺師の公子、その幼友達の希凛、謎の詐欺師通称「魔法使い」。
普通の小説に比べたらずいぶんクセはあるんですけれど、今までの「悪夢」シリーズのキャラに比べるとけっこう真っ当なほうだと思いました。
そういうこともあり、全体的におとなしめの印象だったですかね。
とはいえ、勢いよく読める読みやすさは相変わらずですし、おとなしいと言ってもどんでん返しはありますから、楽しんで読める作品だと思います。

木下半太作品「悪夢のエレベーター」の記事はこちら→
木下半太作品「悪夢の観覧車」の記事はこちら→
木下半太作品「悪夢のドライブ」の記事はこちら→
木下半太作品「悪夢のギャンブルマンション」の記事はこちら→
「悪夢のエレベーター」の続編「奈落のエレベーター」の記事はこちら→

「悪夢の商店街」木下半太著 幻冬社 文庫 ISBN978-4-344-41544-7

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「ランボー」 戦争の遺産

「エクスペンタブルズ」を観て、久しぶりに80年代のマッチョ・アクションを観たくなりました。
ここはスタローンに敬意を表して、「ランボー」をセレクトしました。
単純にマッチョ・アクションを、と思ったのですが、久しぶりに観てみると「ランボー」の一作めは実はしっかりとしたテーマがあるなと改めて思いました。
「ランボー」シリーズは「怒りの脱出」とか「怒りのアフガン」のイメージが強くって、ランボーがドカドカ銃を乱射して、敵をなぎ倒していく印象が強いですが、本作ではランボーは誰も殺していないんですよね。
一人保安官が死んでいますが、あれはヘリから落ちた事故ということですし。
ランボーはベトナム戦争でグリーンベレーの精鋭としてゲリラ戦を戦ってきた歴戦の勇士。
けれどもベトナム戦争が泥沼化して末に終結し、本国アメリカに戻ってきたものの彼らベトナム帰還兵に向けられるのは白い眼でした。
彼らは国のために文字通り命をかけて戦ってきたにも関わらず、厭戦気分が高まってきたアメリカ国内では鼻つまみ者となってしまったのです。
「ランボー」シリーズに登場する主要キャラクターの一人が、トラウトマン大佐。
彼はランボーのことを「私が造った」と言います。
トラウトマン大佐が訓練し、ゲリラ戦のスペシャリストとして育てたと。
戦争というものが行われると、その終結後さまざまな問題が起こります。
その中でも大きな問題の一つが、戦争のために作られた武器の処理の問題です。
中国では今でも第二次世界大戦中に旧日本軍が作った毒ガスの処理が続いています。
内戦があったエリアでは地雷の問題があります。
日本でさえ、ときどき不発弾が見つかったりもします。
まだ戦争の遺産である武器は処理できるからまだいい。
けれどもランボーのように、戦争のために教育された人間は、戦争が終わったらどうすればいいのか。
武器のように処理をして終わりというわけにはいきません。
トラウトマン大佐が自ら言うように、ランボーら兵士はまさにゲリラ用の兵器として造られたのです。
戦争のために酷使され、使い捨てられ、そしてそれでも生き残った者はどのように生きていけばいいのか。
結局、ランボーはその後のシリーズの展開を観ている限り、戦争を厭いながらも自分の存在は戦場でしか見いだせなかったということなのかもしれません。
「ハート・ロッカー」はイラク戦争を題材にしていますが課題としてあげていることの本質はけっこう似通っていて、実は「ランボー」のテーマの後継者なのかもしれませんね。
「ランボー」はアクション映画でありながらも、帰還兵問題という社会的な課題にフォーカスを当てている作品だと思います。

「ランボー 怒りの脱出」の記事はこちら→
シリーズ最終作「ランボー 最後の戦場」の記事はこちら→

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「エクリプス/トワイライト・サーガ」 三人の行動にイライラ

1作目、2作目と観ているので、やや惰性で観ている感がなきにしもあらず・・・。
観終わってみてそれは自分だけでなくて、作っている側もそうじゃないかと思ったりもしました。
「ニュームーン」で狼男族のジェイコブにもスポットがあたり、エドワードとベラの三角関係となり、乙女チックな恋愛ものとしてさらに王道を進み始めた本シリーズ。
本作「エクリプス」では、その三角関係の間でベラの気持ちがゆれ動くという展開で、三人の関係そのものは大きく展開しません。
ですので、ストーリーてしても次回作に繋げるだけといった役割だけあり、なかなか盛り上がりません。

自分にはエドワードしかいないと言っておきながらも、言いよるジェイコブにほだされてキスをしてしまうベラにイライラ。
そういう同情的なのは返って男を傷つけるんだよ、と言ってやりたい。
さらにすぐそばにいるんだから、それをエドワードが見てしまうという可能性があるころをちょっとは考えなさいと。
ジェイコブはジェイコブで「君は僕を愛しているはずだ」「君にとって僕が一番ふさわしい」って、どんだけ自分に自信があるねん!
君は「自分好き?」って思ったりしてイライラ。
エドワードもストーカーチックにベラを見張っている感じで、吸血鬼だけにやることがやや暗くてジメジメ系。
いい男じゃなかったら、訴えられるでしょってくらいの、束縛感にイライラ。
三角関係の関係者全員にイライラしっぱなしでした。
よく考えてみれば10代っていうのは、周りに気を配るっていうことはほとんどできなくて、自分中心でモノごとを考えがちなんですよね。
あと根拠のない自身と、ハッピーな未来の勝手な想像というか、そのあたりも10代ならでは。
年齢を経た自分的には、彼らの行動はイライラするばかりですが、それは10代っていうものを非常に素直に描いているということなのかもしれません。
とは言っても、すでに共感するような年でもないので、ただイライラしているだけで終わりました。
三人に言ってやりたい。
もうちょっと大人になりなさい。

「トワイライト 〜初恋〜」の記事はこちら→
「ニュームーン/トワイライト・サーガ」の記事はこちら→

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2010年11月 6日 (土)

本 「崇徳伝説殺人事件」

内田康夫さんの浅見光彦シリーズの一作です。
2時間ドラマなどにもなっている人気シリーズで、旅情ミステリーというジャンルになりましょうか。
ですので、本格ミステリーほどの読み応えがあるわけではないのですが、その分どんな方でも読みやすいのではないかと思います。
読み応えがないとは言いながらも、さすが内田さんはベテランだけあって、読者を引っ張り込んでいく術というのは心得ているもので、飽きることなくすらすらと読めていける心地よさがあります。
地方の故事と、現代性のある事件をうまく関連づけてストーリーを進めていくのは、この方ならではの職人芸といった感じもあります。
崇徳伝説というのは、讃岐に流された崇徳天皇に関わる伝説です。
悲運のまま流刑にあった崇徳天皇は、その地で天皇家を呪いながら死んでいったということであり、その後京の都で起こる変事や怪事などは崇徳天皇の祟りだと言われたようです。
天皇家はかなりこの崇徳天皇の祟りというのを近年まで信じていたようで、その魂を鎮めるために明治時代に入ってからも京都に神社を作ったということです(こちらは本作での事件の舞台にもなります)。
こういう伝説と関連するような事件のエピソードを、いつも内田さんは基本的にプロットを作らずに、書き始めるということですから、最終的にきちんとお話が収まるのはいつもスゴいなと思います。
がっつり読むぞ!というようなときよりも、電車に乗っている時とか、時間がちょっと空いたときに読むと言ったシチュエーションに合っているシリーズかもしれません。

「崇徳伝説殺人事件」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN4-04-160761-2

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2010年11月 4日 (木)

「牙狼<GARO> ~RED REQUIEM~」 耽美なアクション

2005年にテレビ東京の深夜枠で放映されていた特撮番組「牙狼<GARO>」が3Dとなって新作劇場版として公開されました。
たぶん多くの人は、このテレビシリーズは観たことがないでしょう。
「牙狼<GARO>」は特撮界の鬼才雨宮慶太総監督のこだわり抜いたビジュアル表現、深夜枠でなければオンエアできなかったのでは思うほどのハードでダークなストーリー、横山誠アクション監督のアメリカ仕込みのキレのあるワイヤーワークなど、これが毎週のテレビで観れちゃうの?というくらいのクオリティで度肝を抜かれました。
日本でもこのくらいのことはできてしまうのだという驚きがありました。
その後スペシャル版のドラマがありながらも、しばらく間が空きましたが、満を持しての劇場版となりました。
それも3Dでの公開です。
さすが、テレビシリーズで今までにない映像表現にこだわってきた作品だけに、ただの劇場版ではないチャレンジをしてきました。
映像表現としては、やはり高いクオリティを持っていました。
雨宮監督の独特のダークな世界観は健在でしたし、横山アクション監督のアクションシーンもやはり見ごたえありました。
この二人が作り出すビジュアル表現は、ダークでありながらも美しく、また激しくありながらも美しい。
うまく言えませんが、非常に高密度なビジュアルを詰め込んだカオス状態でありながらも、なにか様式美的な秩序だった美しさもあるといった印象を受けます。
「耽美なアクション」とも言えますでしょうか。
そこに魅かれます。
本作でゲストで登場するキャラクター烈花を演じる松山メアリさんのアクションなどはまさに「耽美なアクション」といった感じでしょうね。
彼女は新体操をやっていたということですので、その体の柔軟性を活かしたアクロバティックなアクションシーンを見せてくれます。

ストーリーとしての構造は「牙狼<GARO>」としては、完成されたパターンを踏襲していて新味といったところはありませんでした。
黄金騎士「牙狼」の称号を持った魔戒騎士、主人公の冴島鋼牙が、人を喰らう魔獣ホラーと戦うというストーリーです。
テレビシリーズでは、黄金騎士としての覚悟を持って戦っていた鋼牙ですが、まだ迷いというものがありました。
それはホラーを倒さなくてはいけないという魔戒騎士としての使命と、ホラーに命を狙われた女性カオルとの愛の間にゆれ動く鋼牙の姿にありました。
けれども本作では鋼牙、同じく魔戒騎士である父、そして先人の騎士たちの遺志を継ぎ、大きく成長をした黄金騎士として現れます。
その姿には風格すら感じました。
揺るぎなく迷いのない姿です。
鋼牙は、ホラーへの復讐に燃える烈花を諭すように「所詮それがお前の実力だ」言いますが、それはかつて彼が先人たちから言われたこと。
この数年で彼は若いものたちを導く存在へ成長していたのです。
数年後、もしこのシリーズが作られることがあるならば、彼が彼の弟子を持ち、自分の後を継ぐ黄金騎士を育てる姿を見てみたいです。

スペシャルドラマ「「牙狼<GARO> 白夜の魔獣」の記事はこちら→

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2010年11月 3日 (水)

「雷桜」 二人の恋のイコン

雷桜。
それはあるとき雷に打たれまっ二つに割れてしまった銀杏の樹に、いつしか桜が根付き葉を広げていった不思議な大木。
春には薄桃色の桜の花が咲き、秋には銀杏の黄色の葉が散る。
この作品のタイトルにもなっているこの不思議な大木は、この物語の様々な側面を象徴しています。
本作の主人公の一人、雷(蒼井優さん)。
彼女は幼い頃に攫われ人里離れた山奥で、雷として自由奔放に育てられました。
雷は、実は里の庄屋の遊という名の息女でありました。
彼女は育ての父が彼女のもとを去ったことをきっかけにし、里の実家へ降りてきます。
実家の家族は遊として彼女を歓迎しますが、雷としての彼女はどうしても里の生活に馴染めません。
自由奔放な彼女の精神は、里の様々な定めに縛られた生き方がどうにも窮屈に感じたのです。
彼女のセリフの中で、「オレは遊であり、雷なのだ」というものがあります。
遊という名には、なにかたおやかなゆったりとした感じ、まさに春のような豊かさ、やさしさといった印象を受けます。
たいして雷という名には自然の厳しさ、激しさを感じます。
自然は豊かさ、そして厳しさ双方を持っています。
まさに自然そのものであるのが、遊であり雷である彼女の存在であり、それを劇中で象徴しているのが雷桜であるわけです。
また生まれも身分も違う遊と、将軍の息子である斉道(岡田将生さん)の恋も、雷桜がイコンになっています。
春の桜、秋の銀杏、まるで異なる樹が、違うが故に魅かれあうように一本の大木となっている雷桜。
それは山育ちで自由奔放な遊と江戸で暮らし様々な縛りの中でいきてきた斉道の恋のようでもあります。
身分違いの恋、異なる生き方をしてきた二人の愛というのは、「ロミオとジュリエット」の例を出すまでもなく古今東西語られてきた恋物語です。
ありふれた物語ではあるのですが、作品の中で「雷桜」という文字通り中心にどんと一本筋を通している存在があるおかげで、それが他の同じようなテーマの作品とは違う存在感を与えているような気がしました。
そしてラストで明らかになる遊と斉道の間に生まれていた子供の存在。
彼はまさに異なる出自の二人がひとつとなったことの証しであります。
二人の子はまさに二つの異なる種類の樹がひとつになった雷桜に象徴されるのです。

この象徴がしっかりと物語を貫いたことの功績は、本作の美術、そしてロケ地によるところが大きいと思います。
まさしく作品の中心となる雷桜は、当然のことながら美術スタッフの手によるものですが、これが雄大であり、力強く、そして美しい。
春に桜の花を咲かせる雷桜も、秋に銀杏の葉を散らす雷桜も、美しい。
さきほど書いたようにこの作品の物語は、イコンとなる雷桜に集約されるわけであって、この作りが貧相であると物語全体がおなじようにさびしいものになってしまいます。
それを当然わかっているからこそ、このようなイコンにふさわしい雷桜を作り上げたのだと思います。
また遊が暮らす山の風景も非常に美しい。
人が入れないほどの原野でもなく、また人の手が入っているわけでもない、ほどよい里山の自然。
豊かで優しく、人とのほどよい距離感を持っている自然を画面から感じました。
遊と斉道が出会う草原。
二人が馬で疾駆する花畑。
優しく瑞々しい緑色、華やかな黄色。
ふたりの気持ちをこれも象徴している自然の色使いであったように思います。
よくこういう綺麗なロケ地を探したなと思ったら、主に沖縄で撮ったということですね。
時代劇で沖縄というのは意外と思いましたが、いま豊かな自然があるというのは沖縄なのでしょうね。
沖縄特有の南国感は出さずに、それでも二人の恋の背景となる豊かな自然な恵みといった感じを出していたのは上手だなと思いました。
普段はあまりこういう純愛ものは観ないほうなのですが、本作はとても気持ちよくやさしい気持ちになって観れた作品となりました。

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