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2010年10月31日 (日)

「SP 野望篇」 かなりマニアック

人気テレビドラマ「SP」の映画版がようやく公開となりました。
長かった・・・、映画化発表からずいぶん経ちましたよね。
僕はオンエア時は未見で、映画化決定後レンタルDVDではまりました。
テレビシリーズ「SP」の魅力は大きく二つ挙げられると思います。
一つはテレビドラマとは思えないほどの激しいアクション。
そしてもう一つは、シリーズ後半になって明らかになっていくそれぞれの事件を繋ぐ隠された企みの謎などのドラマの牽引力。
「SP」制作時のコンセプトは「今まで見たことのないようなドラマをつくる」ということだったようですが、そのチャレンジは成功していたと思います。
日本のドラマというよりは、アメリカのドラマや映画を観ているような気分になりました。
さて映画版でもその魅力は、引き継がれているのでしょうか。

まずはアクション面について。
映画冒頭より六本木ヒルズでの激しいテロリスト追跡劇があります。
岡田准一さんはテレビシリーズよりもさらに激しいアクションを見せてくれます。
特に大通りの停車中の車の上を走っていくシーンなどはなかなか見ごたえあります。
岡田さんはこの映画のために各種格闘技の訓練を積んだそうです。
テレビシリーズからですが、岡田さん演じる井上の体術は相手を倒すものではなく、相手をいかに早く無力化するかというのを重視しているものです。
ですのでアクション映画によくあるような相手の顔をなぐるとかいった「見栄え」のよいアクションではありません。
武器を持っている相手の腕を狙って攻撃したり、膝裏を蹴って相手を動けなくしたりといったような技を繰り出していますので、そのあたり注意深く観ているとおもしろいかもしれません。
また他のSPも含め、その格闘シーンでもそれぞれの性格が出るようなアクションを今回は考えたということです。
井上はさきほど書いたように相手を無力化することをポイントにしているので、着実な一打を効果的に打っていくという実は冷静なファイトスタイルです。
岡田さんの動きが速くてなかなかそれを観ている側がついていけないところもあるのですが、よく観ているとわかります。
対して真木よう子さん演じる笹本は、男性顔負けの熱さを持っているので、そのスタイルはメンバーの中でも一番ワイルド。
それこそ相手の頭を壁に打ち付けるなんていうこともします。
その他のメンバーの戦い方にもそれぞれのキャラクターの個性が出ていました。
惜しむらくはその工夫が注意して観ていないとなかなかわかりにくいということでしょうか。
岡田さんをはじめ出演者の方たちの訓練がかなりできているからか立ち回りがかなり早いです。
加えてリアリティ重視のためかカメラも手持ちが多かったので、なかなか彼らの動きを追うことができません。
アクションのスピードにしても、手持ちカメラにしても、リアリティを追求したためだったとは思いますが、やや普通の人にはついていきにくいかもしれません。
さきほど書いたように見栄えのいい体術ではないので、映画映えしにくいところがあったかもしれません。
もうすこしわかりやすくてもよかったかなと。

もう一つ、ドラマの牽引力について。
テレビシリーズの最後の緒方のセリフで明らかになったことにより、緒方とその仲間たちが何か企みをしているということはすでにわかっています。
そういう意味で井上らにとってのの存在が、観客に明らかになっているところで、テレビのような物語の牽引力はやや弱いような気がします。
緒方たちが何をしようとしているかは未だわかりません(とはいえ次回作の「革命篇」というタイトルから予想はできる)。
ドラマの牽引力という点は、本作だけでいうとやや弱い気はするものの、そもそも本作は「革命篇」へのプロローグ的な位置づけといったところなのでしょうから、本作のみでは判断はできないような気がします。

全体的にかなりマニアックに作られている感もあり、一般ウケするかどうかやや心配なところもあります。
「SP」ファンの僕としてはOKでしたが。

テレビドラマ「SP 警視庁警備部警護課第四係」の記事はこちら→
「SP 革命篇」の記事はこちら→

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「12人の優しい日本人」 合意へのプロセス

この映画を初めて観たのは大学生のときなので、もう20年近く前になります。
三谷幸喜、という脚本家の存在を知ったのもこの作品でした。
本作は「もし、日本に陪審員制度があったら」というIFの設定で作られた、ワンシュチュエーションコメディになります。
舞台となるのは陪審員室のみ。
シドニー・ルメットの「12人の怒れる男」をモチーフにしているというのは皆さんもご存知でしょう。
「12人の怒れる男」をモチーフにしながらも、日本人らしい、流されやすさ、事なかれ主義、仕事優先といった性格を活かして上手く組み立てられたコメディに仕上がっています。
僕はこの作品、今まで何回観たかわからないほど観ているのですが、何度観てもおもしろい。
キャラクターの性格、事件の真相、そして裁判の判決が、大小の伏線をふくめ何度も観ていると周到に組み立てらているのがわかりますが、ただ初見でも頭がこんがらがるようなことはありません。
あくまでコメディとしてしっかり楽しめます。
また評決が有罪になるか、無罪になるかという展開も眼が離せず、ハラハラとした展開も楽しめます。

さきほど、「もし、日本に陪審員制度があったら」というIFの設定で作られた、と書きましたが、今現在、これはIFではなくなっています。
裁判員制度が施行された今となっては、僕たちもいつ「12人の優しい日本人」の中で右往左往しているキャラクターたちと同様に、裁判に挑み、何かしらの答えを出さなくてはいけない立場になるかもしれないのです。
本作の中で、「私たちがこの場に集められたことには意味がある」といったようなセリフがあります。
集まっているのは、独身のサラリーマンであったり、バリバリのビジネスマン、普通のおばさん、おじさん、キャリアウーマン、品のいい紳士等々、それぞれ普通に生活をしていたら、一同に会することなどないメンバーです。
でも彼らそれぞれは別段特別な人たちではありません。
違う人生、違う生活を生きてきた人たちが集まり、それぞれの経験や知恵を活かしながら、評決にたどり着いていく様はある種の爽快感があります。
またよく出てくる「話し合いましょう」というセリフがあります。
これは日常でもよく出てきますが、ほんとに「話し合う」ということって実はあまりなくって、意見の押し付けあいになっていることがしばしばです。
腹を割り、目的意識を共有し、相手の意見を聞きつつ、最前の答えを出すというのが、「話し合う」ことの本質です。
さきほど言った爽快感というのは、この目的意識を共有し、最前の答えを出すというところにあるのだと思います。
日常でも意見が合わないというのは、まず目的意識の共有ができていないということが大きい。
これを手探りでもいいから、だんだんと共有していくのが大切なのですよね。
本作はそのようなまるで生き方もなにも違う人たちが一つの目的を共有し、そして最前の答えを出そうとあがくプロセスを見せてくれるところが、ハラハラもし、観ている側もぐっと気持ちが入っていくところだと思います。
この物語での目的とは「すべての陪審員が納得し、有罪か、無罪かを確定する」といういうこと。
その前提条件として「推定無罪」と「証拠重視」があります。
最初は陪審員の判断基準は極めて不明確でした。
けれども話し合いをする中で、次第に目的とその前提条件の確認が合意できていったのです。
この作品で描かれている合意へのプロセスは裁判に限った話ではなくて、仕事でも家庭でも学校でも、何か問題を解決しようとするときにも言えることなんですよね。
大きく言ってしまえば、国同士の関係もそうかもしれません(最近の日中のごたごたはこの合意形成をするのがとても下手であることを露呈している)。
なんかどうもうまく意見がまとまらないというときは、まずは目的意識を共有できているか、前提条件はなになのかということを再確認するべきでしょう。
「三人いれば文殊の知恵」じゃないですが、何か自分では思いもつかないような素晴らしい答えがでてくると思います。

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2010年10月24日 (日)

本 「アリアドネの弾丸」

「このミステリーがすごい!」大賞受賞で注目を集めた「チーム・バチスタの栄光」の田口・白鳥シリーズの第五弾になります。
「このミス」をとったと言っても「バチスタ」以降はミステリーではないのですけれどね。
でも本作「アリアドネの銃弾」はこのシリーズでは久しぶりのミステリー仕立てになっています。
ミステリーではありますが、ガリガリに構築されたミステリーと言ったわけではないので読みやすいかと思います。
本作で起こる事件は司法・警察VS医療・市民という構図として描かれます。
実際に医療が市民側かというと疑問もなくはないですが、司法が場合によっては事実すら改変しようとする力を持っているということを指摘しています。
本作のバックボーンには、冤罪と確定した足利事件があります。
足利事件で問題となったのは、警察と検察が自分たちで作ったストーリーに従って、事件を構築しようとし、それを実際にそうしてしまったことです。
DNA判定という方法が司法側しか行使できなかったとしたら、改ざんもしくは(意図的に)間違った解釈をされたデータを信用させられてしまうことを防げないということです。
本作シリーズではその新しい検死の方法がエーアイになるわけですが、それを司法側は自分のコントロール下に置きたくなるわけです。
先ほど本作のバックボーンには足利事件があると書きましたが、今この作品を読むと別の事件が思い浮かびます。

 捜査や司法は、真実よりも、真実らしく見える方を重視する。真実をつきとめるより、過去の事象を自分たちのストーリーに当てはめ、それに合わせて事実を改変する。

これは本作の中の一文です。
足利事件だけではなく、印象がまだ強い大阪地検の改ざん事件を思い出させます。
本作の事件を起こすのは物語を読み始めればすぐ見当がつくように、警察側です。
彼らが起こした事件がリアリティがあるかどうかは別にして、司法側の体質について、あたかも大阪地検の事件を予言したかのような題材はドキリとしますね。
大阪地検の件があったとき誰しも思っていながら口にしていませんが、「同じようなこと、今までもあったんじゃないか?」という疑問がわき上がります。
そういう疑問を払拭するためにも、司法側はやはり情報をオープンにし、できうる限り自分たちのしていることを知らせるということをしないと、彼らの組織、そして社会制度そのものの危機になるということを認識してほしいものです。
そういう意味で、本作はものすごくタイムリーなタイミングで出版されたものだなと思いました。

小説「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→
小説「ナイチンゲールの沈黙」の記事はこちら→
小説「ジェネラル・ルージュの凱旋」の記事はこちら→
小説「イノセント・ゲリラの祝祭」の記事はこちら→

「アリアドネの弾丸」海堂尊著 宝島社 ハードカバー ISBN978-4-7966-7741-7

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本 「ヤフートピックスを狙え -史上最強メディアの活用法-」

僕は入社してからほぼずっとコミュニケーションに関わる仕事に携わってきました。
デザインとか広告とかですね。
だいたい大手になると企業内で、広告・宣伝部門と、広報というのは別の組織であったりすることが多いのです。
わかりやすくいうと広告はお金を払って企業が伝えたいことを伝える機能を持っています。
広報というのはどちらかと言えば社外からのお問い合わせに答える、もしくはお金をかけずにリリースなどにより情報を発信するという機能を持っています。
けれどもインターネットの登場によりその境目というのは曖昧になりました。
従来の企業から消費者への一方的な情報発信という構図は崩れ、口コミやバズといった消費者間のコミュニケーションの比重が高まってきたのです。
今まではコミュニケーションにはお金を使ったパワーゲーム的な要素もありましたが、この二十年の景気の低迷を受け、広告費も無尽蔵に仕えるわけでもなく、広告ではないコミュニケーションへの注目度が高まってきたわけです。
僕も最近、従来の広告でもなく、広報でもない、新しい「アクティブ広報」とでも言うべき、コミュニケーションも行った方がいいのではないかと考えています。
その中で注目している一つが、本著のテーマであるヤフートピックスなどのインターネットでのニュースソースです。
特にヤフートピックスはおそろしく注目度が高い。
けれどもそこに取り上げてもらえるには、従来の広告手法、広報手法ではいかんともしがたいわけです。
その参考にと、本著を手に取りました。
感想としては、自分の考えている方向性はそれほど間違っていはいないということは確認できたかなと。
けれども実際の仕事につながるようなヒントを与えてくれたかというとやや疑問です。
本著で紹介しているのは、今まで取り上げられたヤフートピックスの分類と分析です。
それ自体は無駄だとは思いませんが、それだけで終わっているのが残念なところ。
おもしろそうなネタだけ用意して、ヤフートピックスに取り上げられたとしても、その先にどのように繋げていくのかという戦略については触れられていません。
書いている方がヤフートピックスに記事を提供している記者であるからかもしれません。
企業からみれば、ヤフートピックスも消費者への情報発信の一つのツールです。
それだけで万能であるとも思えません。
いかにこの新しいツールの役割を見極め、従来のメディアとの連携をとりながら消費者に情報を発信していくかというのが、企業が考えなくてはいけないこれからのテーマでしょう。
そこまで踏み込んだ内容ではなかったため、個人的には拍子抜けといった印象を受けました。

「ヤフートピックスを狙え -史上最強メディアの活用法-」菅野夕霧著 新潮社 新書 ISBN978-4-10-610362-9

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本 「平成関東大震災 いつか来るとは知っていたが、今日来るとは思わなかった」

「亡国のイージス」等で知られる福井晴敏さんによる、首都直下型地震が起こった場合のシミュレーション小説です。
主人公は普通のサラリーマン、西谷久太郎。
営業活動中出先の都庁で大規模地震に遭遇し、なんとか命は助かったものの、ほぼ首都は壊滅状態となり、交通網はズダズタに。
西谷は新宿から、自宅の墨田区へ徒歩で向かいます。
数年前、東京での地震を想定した徒歩帰宅マップが売れた時がありました。
東京で大地震が起これば公共交通はほぼストップ、道路は災害対策のため一般車両は通行不可になるため、住民は徒歩で帰宅しなくてはなりません。
僕が住んでいるのは東東京のため、職場から自宅に帰るためには川を渡らなくてはいけないのですが、果たして無事に帰れるのでしょうか・・・。
と思いながら、サブタイトルにあるように「いつか来るだろう」と思っていたりはするのですが、ちゃんと準備をしているかと言えばしていないというのが、実際のところです。
本著はそういう一般的な人々への啓蒙という意味合いも強いのでしょう、小説の間に首都圏で大地震が発生した場合に気をつけなくてはいけないことなどの有用情報も合わせて掲載されているので、参考にはなります(とは言いながら何もしていない自分ていうのも、なんだかなあ・・・)。
災害時のシミュレーションや、そのような有用情報だけではなくて、この作品のポイントは後半の復興部分にあるのかなと思いました。
たとえ東京で大地震が起ころうと、それはこの世の終わりではありません。
実際、東京はこの百年で大正の大震災、そして太平洋戦争の空爆などで二度も壊滅的な打撃を受けています。
けれども今ではそのあと影は感じられないほどに東京は発展しています。
この作品で書かれているように復興に大事なのは、ありきたりなのですが、やはり助け合い・互助の気持ちなのですね。
災害時は交通網ではなく、情報網も壊滅することが予想されます。
確かな情報がないとき、人間は流言などに惑わされやすくなります。
また自分や家族の生命だけを最優先に考えやすくなったりもします。
大正の大震災のときも、地震や火災と言った直接的な被害ではなく、そういうことにより命を落とされた方がいらっしゃいます。
先日起こった奄美大島の大雨による災害の復興作業が始まっていますが、島内のボランティアにより災害の多かった地域に向け衣服などが数多く寄せられているとのこと。
災害時のサバイバルというと自分の身だけを守ることばかりを考えがちですが、結局は自分だけでできることなどそれほど大きくはありません。
力を合わせてこそ、復興はできる。
災害時に意識しなくてはいけないのは、理性を保つこと、そして協力しあうということなのでしょう。
本作で西谷が経験したように、大地震が起こったとき何も失わない人などたぶんいません。
その喪失感を埋めるためにも、自分も他人も生きるために何かをする、という目的意識が大切なのかもしれません。
大災害が起こっても世界の終わりではない。
その後の希望を持てるかどうかが大事なのです。

「平成関東大震災 いつか来るとは知っていたが、今日来るとは思わなかった」福井晴敏著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276773-6

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2010年10月23日 (土)

「桜田門外ノ変」 思い入れが強すぎて空回り

「桜田門外の変」とは歴史の教科書などでご存知の通り、江戸城桜田門外で開国へ大きく舵を切ろうとする大老井伊直弼を、尊王攘夷派の水戸浪士が暗殺した事件です。
当時の日本が開国か、攘夷か大きくゆれ動いているということを象徴するトピックであると言えるでしょう。
最近は映画やテレビドラマなどでも幕末について取り上げられることが多くなり、そこでは多かれ少なかれ「桜田門外の変」については必ずと言っていいほど触れられるのは、歴史のターニングポイントの一つであったからかもしれません。
とは言いながらも、「桜田門外の変」に関わったいわゆる桜田十八烈士を中心に据えた作品というのは多くはないように思います。
その理由はこれだとは言えませんが、ひとつ想像するとすると、「桜田門外の変」というのは公平な視点で見るとテロリズム以外のなにものでもないから、ということです。
この事件の本質は、自分たちの意見を通すために、考えを異とする施政者を暗殺するということですから、いくら判官びいきの日本人でも英雄視しにくいというのはあったのかもしれません(負ければ賊軍というのもあるでしょう)。
ですから以外にもその事件自体にはスポットの当たったことがあまりない「桜田門外の変」を題材にするというのは興味深いと思いました。

この作品は茨城県で生まれた「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」という団体が故郷創世的な意味合いで積極的に動いて作られたとのことです。
井伊直弼を討ち果たしたのは水戸藩出身の武士ですから、茨城県では英雄的な扱いを受けているということもあるかと思います(十八烈士という名前もついているくらいですから)。
幕末ブームの中、なかなかスポットが当たらない十八烈士を描いた物語を作りたいという思い入れがあったのかと思われます。
しかし、その思い入れが作品にとってはあまりいい影響を与えているようには思えませんでした。
十八烈士を丁寧に描きたいという想いがあったのかと思いますが、そのために起こった出来事を淡々と追っていくという展開になっているために、物語としての盛り上がりにかけるのです。
言うなれば再現ドラマ的な作りになっています。
途中で回想シーンを入れるなど時系列を入れ替えるようなこともしていますが、これは苦肉の策でしょう。
時系列の入れ替えもしなかったら、ほんとうにただの再現ドラマです。
これが一番わかりやすいシーンが、十八烈士の七人がその罪を問われ、斬首を申し渡される場面です。
長回しでかつ固定カメラで、一人づつ「ひったてい!」「はっ!」を七回も繰り返し見せられるのは正直辛いです。
制作者サイドから見れば彼らは一人一人英雄なので丁寧に描きたいというのはわからなくはないですが、明らかにこれは映画としては冗長です。
あとで確認すると上映時間は2時間17分という長尺でした。
こんなにいらないです。
最後まで逃げた関に思い切って焦点を合わせ、2時間を割るくらいにまとめたほうが効果的であったのではないかと思いました。
映画的な見せ場は桜田門外の襲撃シーンなのですから、逆に時系列を逆転させ、その場面を映画の最後のクライマックスに持っていくというような構成も考えられるようにも思います。
思い入れが強すぎて、空回りしてしまった作品のように感じました。

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本 「沢彦」

本作の著者はNHKの大河ドラマにもなった「天地人」も書いた火坂雅志さん。
タイトルの「沢彦」とは織田信長へ彼のスローガンともなる「天下布武」の言葉を与えた僧の名前です。
言わば沢彦(たくげん)とは織田信長の思想上の師とも言えるわけです。
本作は「尾張のうつけもの」と言われていた信長に、類いまれなる才を見いだし天下統一への目標を与えたのが沢彦であったということにしています。
今川を破り、武田も滅ぼし、天下統一への階段をかけあがる師弟、沢彦と信長。
そもそも沢彦が信長に天下統一の夢を託すのは、千々に乱れた世の中を平和にするには、まずは力に因ってでも天下を統一しなくてはいけないと考えたからです。
それが「天下布武」という言葉に込められています。
けれども信長は次第に、自分こそが「天下」「神」と考えるようになっていき、沢彦すらも次第に遠ざけるようになります。
よく知られている長島一揆や比叡山での残虐な殺戮は、決して沢彦が望むものではありませんでした。
信長のそのような行いを見、沢彦は自分が恐るべき怪物を作ってしまったと戦慄するのです。
それから沢彦は自ら育てた弟子を、誅殺しようと動き始めます。

信長、沢彦と同じ時代に生きた上杉景虎、直江兼続は「義」の旗印のもと共に戦い、「信」によって結びつけられた関係として「天地人」では描かれました。
本作の信長・沢彦は、景虎・兼続の関係とは対照的な関係として描かれています。
同じ作者による戦国時代に生きた対照的な二組の関係を読み比べてみてもおもしろいかもしれません。

「沢彦<上>」火坂雅志著 小学館 文庫 ISBN978-4-09-408367-5
「沢彦<下>」火坂雅志著 小学館 文庫 ISBN978-4-09-408368-2

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「エクスペンダブルズ」 ジェイソン・ステイサムが若造に見える

ジェイソン・ステイサムが若造に見える、なんてスゴいメンバーが集結。
これはマッチョ版「オール怪獣大進撃」か・・・。
ストーリーが・・・なんて野暮なことは言いっこなし、それぞれがアクション映画の主役をはれる超級のメンバーが一同に揃っているという画を楽しむべし。
1シーンだけで、それも会話をしているだけですが、スタローンとシュワちゃんと、ブルースの三人そろい踏みのシーンは、それだけで「おおっ!」という感じです。
こんなの普通のプロデューサーや監督が言ったって実現できないでしょう。
やっぱりスタローンの筋肉人脈なのかしらん。
シュワちゃんが去り際に「I'll be back」と言ってくれるのを期待していたのは、僕だけじゃないはず。
登場するスゴいメンバーですが、それぞれが今まで演じてきた代表的なキャラクターを髣髴とさせる人物像になっているのは手堅いなと思いました。
このあたり筋肉だけではなく、じつは頭もいいと思われるスタローンならではの戦略でしょう。
スタローンが演じているのは、傭兵団のリーダー、バーニー・ロス。
バーニーは比較的無口でありながら、やるべきことはしっかりやる、熱いハートを持った持ち主。
このあたりの性格設定は「ロッキー」や「ランボー」あたりのキャラクターイメージが反映されていますよね。
ドルフ・ラングレンはやっぱり「ロッキー」のドラコや、「ユニバーサル・ソルジャー」のイメージからの引用でしょう。
やっぱりアブナイ奴っていう役柄をいい感じで演じてくれてます。
大男でパワー系のドルフ・ラングレンとバトルするシーンがあるのが、唯一の東洋系ジェット・リー。
パワーではなく、技で相手を攻略する戦いはやはりジェットの今までのスタイルが活かされています。
ジェイソン・ステイサムはスタローンに次ぐポジションで「若手」として描かれています。
もう若かないだろう、と突っ込みたくもなりますが、このあたり国会議員で50代が「若手」と言われるのと同じことだろうと無理に納得。
「若さ」は相対的なものなのです。
ジェイソン・ステイサムの「薄毛」をネタに笑えるのはスタローンやミッキー・ロークだからこそ。
他の奴が言ったら、ぶっとばされているところでしょう。
このあたりは体育会系の序列を思い浮かべてしまいます。
ミッキー・ロークのちょっと枯れちゃった感じは最近の彼の復活作「レスラー」あたりを思い浮かべてしまいますね。
ブルース・ウィルスにはぜひ「ダイ・ハード」のようにぼやいてほしかったところです。

というように80年代以降のマッチョ・アクションムービーをよく観ている方には、イベントムービーとして楽しんでもらえるのではないかと。
ストーリーを期待してはいけません。
あの最強軍団が大暴れするシーンは、やられる方が気の毒になってしまうほど。
これは敵わないだろうと。
下手に戦わず、投降した方が正解です。

せっかくだからヴァン・ダムも呼んであげればよかったのに。

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2010年10月17日 (日)

「ナイト&デイ」 正統なハリウッド・スター映画

アメリカでの興行はいまいちの結果であったということですが、僕はけっこう好きです。
わかりやすく、スピーディでかっこよく、甘くロマンティック。
まさにザ・ハリウッド映画という作品ですが、頭を使って唸りながら見るのではなくて、観終わって単純に「あー、おもしろかった」っていう映画もいいじゃないかと。
以前より、ハリウッドスターがそのネームバリューだけで観客を動員しにくくなっていると言われています。
いろいろ原因は考えられるとは思います。
例えばスターの名前だけに頼った企画を乱造したために、だんだん皆が興味を失ってきたとか。
また映画を劇場だけでなく試聴することができるようになり、観客側の眼が肥えてきているのかもしれません。
それでもスターは、スターとして輝きのある存在であることも間違いのないところであると思うのです。
それを過小評価しすぎるのもどうかと思うのですよね。
トム・クルーズ、キャメロン・ディアス、本作の二人の主役は紛う方なくハリウッドスターと言えます。

キャメロン・ディアス演じる平凡な女性ジューン・ヘイヴンズの前に、謎の男ロイ・ミラー(トム・クルーズ)が現れます。
彼はジューンと同乗した飛行機の中で、正体がわからぬ乗客・乗員たちを倒し、そのまま飛行機は畑に不時着。
その後、ジューンは得たいの知れぬ男たちに狙われます。
トム・クルーズが演じるロイ・ミラーは、軽口をたたくユーモアもありながら、何故かめっぽう強いタフガイ。
女性には優しく、けれどもミステリアスなところもあるいい男。
ジューンでなくとも女性は心魅かれる男性でしょう。
これは今までトム・クルーズが演じてきた役がごちゃっと合わさった、まさにトム・クルーズが演じる役のパブリックイメージに最も近いと言ってもいいでしょう。
またキャメロン・ディアス演じるジューンは、美人なんだけれどもコケティッシュで、どこか抜けているところもあるかわいげのある女性。
ポジティブで明るく、けれども芯が強く、実は行動力もある。
こちらも男性からしたら、気持ちを魅かますよね。
ジューンも、まさにキャメロン・ディアスの演じてきた役柄を髣髴とさせます。
初期のコメディものだったり、「チャーリーズ・エンジェル」であったり。
そういう意味では、トム・クルーズも、キャメロン・ディアスも、最も二人「らしい」役柄を今回は演じているのです。
これを「代わり映え」がしないという方もいるでしょう。
けれども二人はこういう役しか演じられない役者ではありません。
トム・クルーズにしても、キャメロン・ディアスにしてもこの数年は今までとはイメージが異なる役柄も積極的に演じてきましたし、それを評価されてもいます。
それでもあえて「らしい」役を演じれるというのは、彼らがやはり他のあまたの俳優とは異なる「スターの輝き」を持っているのではないかなと思うのですよね。
いかれた風な教祖の役をやったり、難病の娘を持つ母親をやったりしながらも、自在にキラキラ光るスターの輝きを放てる人というのはなかなかいないのではないでしょうか。
スペインの街を二人がバイクに跨がりながら疾走するシーンは文句なくカッコいいのです。
これは理屈じゃなくて、カッコいいからカッコいい。
やはり二人がスターの輝きを持っているからかなと感じました。
そういう意味で本作は、トム・クルーズとキャメロン・ディアスという二人のスターの輝きを存分に使った正統なハリウッド映画と言えると思います。

スペインの街のバイクのシーン、予告でやっていたカットがなかったような・・・。
ジューンが銃を撃ってその後、「リロード」というと、ロイがマガジンをセットするところなんですけれど、これ、すごいカッコいいなーと思っていたので残念。
はさむと流れが悪くなっちゃったのかな。

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「インシテミル 7日間のデス・ゲーム 」 疑心暗鬼はどこにでもある

「デスノート」「カイジ」などと出演が続く藤原竜也さん、もう心理ゲーム系作品の顔ですね。
藤原さんは舞台出身というところもあってか、ナチュラルな状況の作品より、こういう現実離れしたシチュエーションの作品の方が断然合っている感じがします。

高額なバイト代につられ、集められた十人の男女。
閉鎖空間の中で、彼らは心理実験に参加し、7日間を過ごさなくてはいけません。
そしてその状況の中で起こる殺人事件。
殺人者は彼ら十人の中に必ずいるはず。
お互いに疑心暗鬼となり、さらに次の殺人事件が起こる・・・。

人は他人の本当の気持ちや考えを知ることはできない。
これは人間という存在の根本的な前提です。
だからこそミステリーというジャンルが存在できるわけですが。
「疑心暗鬼」という状態はまさに、相手の心が見えないということから発生します。
それは個人レベルでも、集団レベルでも、国家レベルでも起こります。
例えば、自分の恋人が浮気をしているんじゃないか、もうそう思い浮かんでしまったらどうしようもない。
不安で不安でたまらなくなってしまいます。
また仮想敵国がいつICBMを発射するかわからない、こっちもそれに勝る数のミサイルを用意しよう。
連戦時代に米ソの間の核競争も、ようは疑心暗鬼なんですよね。
最近の尖閣諸島問題での日中の関係も同様のことがいえるかもしれません。
相手の心が見えないから恐ろしい。
見えないものの恐ろしさというのは大変なもので、それは他人の行動によって、より増幅していき、常軌を逸した行動に繋がっていくものです。
さらには情報が限られた状況、また煽動するような人物の存在は、疑心暗鬼状態の増幅に拍車をかけます。
関東大震災時の朝鮮人への仕打ちなどはまさしくこういう疑心暗鬼状態から発していると思われます。
そういう意味でいえば、本作で描かれているシチュエーションというのは、まさに人間という生き物の「心理実験」であることは間違いありません。
それでは疑心暗鬼状態を脱するにはどうすればよいか。
それはやはり結城が行ったように、自分の手の内をオープンにし、相手のことを信じようとすることしかないのでしょう。
いったん疑心暗鬼状況になったとき、相手を信じるというのはたいへん勇気がいることです。
なぜならばそこには自分の生存本能との戦いが生じるからです。
けれど理性的に考えて、一番生き残る確率が高いのは疑心暗鬼状態からいかに脱するようにできるかということなんですよね。
ただそれも人々に倫理観があるという前提なので、なかなかに難しい。
本作のように人の命を犠牲にしてもお金を稼ぎたいと思う人や、人を殺すこと自体が目的の人がいたりすると、通常の人間の倫理ではコントロールできないためにより状況は難しくなるわけです。
でもそういう状況ですら、この物語ほどに極限ではないにせよ、現実世界にはあることで。
こういう疑心暗鬼状態は、この映画の中だけではなく現実の多少の差はありつつも我々の周りにも起こりうることなのだよなと感じたりもします。

インディアン人形やその状況設定から、アガサ・クリスティーの名作ミステリー「そして誰もいなくなった」へのオマージュを強く感じます。
また「まだらの紐」(コナン・ドイル)の凶器火かき棒などのアイテムが登場し、ミステリー好きとしてはなかなか興味深い設定でした。
そういうマニア向けのこだわりだけでなく、登場人物の性格設定、状況の設定などかなり細かく積み上げて成立している物語であるなと感じました。
これは原作小説もミステリーとして完成度が高そう。
読んでみたくなってきました。

原作小説「インシテミル」の記事はこちら→

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2010年10月16日 (土)

本 「国境事変」

尖閣諸島の問題がまだ記憶に新しいときにタイムリーに読んだ本です。
今回の尖閣諸島の件で思ったのは、日本人は日本という国があるということに対して、あたりまえのようにあるということに慣れすぎているのだなと思ったということです。
それは日本が陸続きで他国と国境を接していることがないということが大きく影響を与えていると思います。
中国にしても韓国にしても、決して仲が良くない国と国境を接しているため、いつ何が起こるかわからないという緊張感がやはり常にあるのでしょう。
それゆえにその国家のナショナリズムや、国民のアイデンティティというのはより強くなるということになると思います。

本作には個人としてのアイデンティティをどこに求めるのか、ぐらぐらと揺らいでいる人物が二人登場します。
一人は在日の呉秀男という青年です。
彼は生まれた時から日本で育ち、北朝鮮にも行ったこともなく、思い入れもない。
けれどもその出自を知った人からは、なにか色眼鏡のように見られるわけで、その悶々とした思いを北朝鮮への怒りへ育ててしまいます。
彼は日本人と北朝鮮人という二つの立場の間で、自らのアイデンティティを持てないのです。
もう一人は、警視庁公安部の川尻という警官。
ご存知の通り、公安は外国や左翼や右翼などその他の集団の脅威から国家の治安を守るという役割を担っています。
そのために通常の刑事捜査では認められないようなことも行っていたりするわけです。
川尻は秀男の父親が経営している会社を内偵していたとき、その父親の自殺を目撃します。
普通の警官であればそれを止めるに間違いありません。
けれども公安である彼は、内偵がバレないようにするためにそれをただ見るだけになってしまいます。
川尻は、国家を守ることを優先する公安である立場、人を守ることを優先する警察官、なによりも人としての立場の間でゆれ動きます。
このような自分のアイデンティティを見失っている秀男と川尻が、エス(スパイ)と運営者としての関係を築いていく中でシンパシーを感じていきます。
またアイデンティティを模索している彼らに対し、警察官としてブレない考えを持った東刑事(誉田哲也さんの「ジウ」にも登場)は対象的に描かれています。

ジリジリとして展開していきますが、読み応えがある作品でした。

誉田哲也さん作品「ジウ」の記事はこちら→

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2010年10月11日 (月)

「REDLINE」 激速のチキチキマシン猛レース

「チキチキマシン猛レース」って言っても若い人にはわからないだろうなあ・・・。
でも「シシシシシ」と笑う犬のケンケンは覚えている方はいるのでは?

遠い遠い未来での宇宙最速を決めるレース、その名は「REDLINE」。
「REDLINE」はルール無用、車の改造はもちろんのこと、武器の使用も認められています。
このあたり「チキチキマシン猛レース」だけでなく「マッハGO!GO!GO!」など往年のアニメを思い出させます。
オープニングのレースシーンから、迫力があります。
大音響の音楽と手描きアニメのデフォルメしまくった画、激しい動きが、鮮やかであり陰影のはっきりした色彩の相乗効果は、まさにグルーヴしていると言っていいほど。
後半の「REDLINE」本戦になるとそれがさらにヒートアップ。
エンジンにニトロのような促進剤を投入するたびに、どんどんと映画自体が加速していく感じがかるくトランス状態にさせてくれるよう。
劇場で映画を観ているっていう感じよりは、クラブにいるといったような感じに近いかもしれません。
パンフレットをみると、評論家氷川竜介さんは金田伊功の影響を上げていましたが、確かにそれはあるかもしれません。
本作の魅力の一つは、極端とも言えるほどデフォルメしまくった画面レイアウト。
JPが愛車で急加速をするところなどが印象的です。
先に上げた金田伊功さんは「幻魔大戦」の火焔の龍などを描いていたアニメーターとして有名です。
金田さんのパースとデフォルメが効いたアニメーションは、金田調と言ってもいいくらい独特のものでした。
本作「REDLINE」を制作したのはマッドハウスで、マッドハウスは「幻魔大戦」のために作られた制作プロダクションであるのですよね。
ずっと金田さんの遺伝子が息づいているのかもしれないと思いました。
3Dアニメだと、最初にモデリングされているため仮想レンズでいくら歪ませたとて、現実離れしたパースが効いたような画はできようがありません。
また手描きであっても最近のアニメはどちらかというとフラットな印象のレイアウトだったりするので、本作のような超デフォルメした画は新鮮でした。
このような画は、理屈じゃなくて、もう描く側の感覚なんですよね。
まさに手描きじゃないとできないというか。
実際は即興ではないのですが、そういうアニメーターの感性がむき出しになっている画だから、ライブ感みたいなものを感じるから不思議です。

最近同僚に勧められて今更ながら「ワンピース」を読み始めています。
物語としてもおもしろくて、なるほど売れるのはわかるなあと思うのですが、特徴的であるなと思ったのはその画です。
バトルシーンなどで特に、パースとデフォルメが効いた画を多用するんですよね。
これが静止しているコマでありながら、なぜかスピード感、緩急といったような時間軸を感じさせてくれる。
綺麗なイラストというのではない、手描きのライブ感というのを同様に感じました。

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2010年10月10日 (日)

「TEKKEN 鉄拳」 ま、期待はしていなかったんですけれど

劇場で公開されていましたが、端っからDVDレンタルで十分だろうとスルーしていた作品。
観てみた結果としては、その判断は正しかったかなと。
有名なナムコの格闘ゲーム「鉄拳」の映画化作品なのですが、どうして日本のゲームの映画化作品というのは、出来がよくないのでしょうねえ(例外は「バイオハザード」ぐらい?)。
同じような格闘ゲームの映画化作品としては、まだ「DOA」の方が振り切っちゃっている分、おもしろかったかな(これもDVDでの観賞でしたが)。
出来がよくないのは、あのキャラクターがスクリーンの中に出てる!っていうところで観客が満足しちゃうからなのか。
それとも映画をきっかけにゲームへの流入を増やそうという意図が制作者側にあるからなのか。
どっちにしても映画としての完成度を高めようというモチベーションにはならないのですよね。
映画本来のおもしろさを追求するっていうところからちょっとずれちゃっているような感じになっている気がします。
まさにプロモーション用というか。
もちろんあのキャラクターがスクリーンに出てる!っていうのも作品の魅力の一つではあるのですけれど、それだけっていうのはちょっとさびしい。
ストーリーがありきたりなのはそれほど期待していなかったからいいのですけれど、格闘ゲームの映画化作品なのだから、アクションシーンはもうちょっと見ごたえあるものにしてほしかったですね。

とはいえ、ゲームの映画化作品はオリジナルがどんな感じで実写になっているのかというのは、楽しみどころの一つではあるわけで。
ニーナとかの衣装はゲームのイメージを持ってきながら、いい具合な感じにしていたような気がします。
クリスティの衣装はちょっとシゲキ的で目の保養にはなりました(笑)。
平八はあの髪型がリアリティがないのですけれど、あれで違う髪型だったら平八じゃないしなあ・・・という難しいところ。
どうせやるならワルノリして、ジャックとかクマとかパンダとか出してほしかった(ほとんど同じコマンドじゃん)。

まあ、「鉄拳」やったことがある人がDVDでの観賞するっていうので十分でしょう。
あんまり感想らしい感想も持たなかったので、今回は短めでということで。

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2010年10月 9日 (土)

「SP 革命篇」

しばらくご無沙汰していた映画館に行ってきました。
久しぶりに観る映画として選んだ作品は「SP 革命篇」です。
こちらの作品は昨年公開された「SP 野望篇」の続編になります。
TVシリーズが井上(岡田准一さん)の物語とするならば、映画二部作は尾形(堤真一さん)の物語であると言っていいでしょう。
井上と尾形は同じような経験を持っている人物です。
親を政治家の野望の犠牲として失いました。
TVシリーズでは井上が親を失った原因となる総理大臣への復讐心、そして人を守るというSPの誇りの間で葛藤する様子が描かれました。
井上はその中でSPの誇りに生きるという揺るぎないものをもつに至ったのです。
彼は映画の中で葛藤はありますが、そのSPの誇りに対しての疑いを持つことにはなりません。
その誇りを井上に教えたのが、他ならぬ尾形であったわけです。
その尾形も、復讐心を内に抱え、そのためにSPになり、そして日本そのものを変えようと行動を起こすのです。
もともと政治家に近づくための手段として彼はSPになったのでしょう。
けれども井上に教えたように彼の中にもSPの誇りはありました。
彼も復讐心と誇りの間で葛藤していたわけです。
井上はSPの誇りを選びましたが、尾形は復讐心を選びました。
けれども誇りそのものを捨てきれない迷いが、彼が育てた4係のメンバーを国会議事堂に配置するという行動に出たのでしょう。
尾形と井上が劇中で銃を向けあうシーンがありますが、これは尾形の内面の復讐心と誇りの葛藤を表していると思います。

アクション映画としても見ごたえがありました。
冒頭からすぐに国会議事堂の占拠という場面になりますので、かなり早い段階から緊張感があるドラマになります。
このあたりは前段の説明は「野望篇」で済んでいるので、物語の入りを早くできるんですよね。
また上に書いたように、尾形と井上の対立、すなわち復讐心と誇りの対立という構図が出てくるので、これにより緊張感が続く展開になったかなと思いました。
これも本作の見所の一つである、アクションシーンですが、「野望篇」に続き本作も見ごたえありました。
地下道での井上とテロリストの戦いは、総合格闘技の試合を見ているかのよう。
大きな体の相手に対し、井上の変幻自在の技の繰り出しは本物の格闘家のようでした。
岡田准一さんは、「SP」をきっかけに始めた武道で師範代の免許もとったとか。
それも納得できます。
あと4係メンバーと、寝返ったSPたちとの戦いのシーンも迫力ありました。
「野望篇」では路上での格闘シーンがありましたが、本作では室内。
いろいろな置物があるので、アクションシーンがかなり派手に見えました。
前作のようにそれぞれの役柄にあったアクションをあてているのは、やはり「SP」らしいなと。
4係のメンバーの山本(松尾諭さん)の「SP、強いっすね〜」っていうのは笑いました。
たぶん多くの人が心の中で「あんたもだろ」とツッコミを入れていたに違いありません。

今回の作品がFINAL EPISODEということで、「SP」シリーズもとりあえず終了。
けれども伊達議員の行く末とか、雄翔会のメンバー、あと警察の闇の部分など、明らかにされていない部分もいくつか・・・。
しばらくたったら、続編、なんてこともあるかもしれないですね。

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「けいおん!」 居心地のよい場所、贅沢な時間

2009年にTBS系で放映されていたテレビアニメです(今年第2期が放映されました)。
いつも購読している映画雑誌「Cut」で絶賛している記事が掲載されていたので、興味がわいてレンタルしてみました。
タイトルの「けいおん!」は軽音部のことで、本作は桜ヶ丘高校の軽音部のメンバー(唯、澪、紬、律、梓)のまったりとした日常を描いています。
こちらの作品は存在は知っていましたが、デザインはお目目が大きくて、アニメ声のキャラクターで、いかにも「萌え」系のアニメだと思ってました。
「Cut」では音楽がいいという話だったので(こちらの雑誌の販売元はロッキング・オンなので音楽にフューチャーするのは当然であるけれど)、確かに女子高生のバンドを描いているアニメとは思えないほどのノリのオープニングとエンディングです。
劇中で唯たちバンドメンバーが演奏する曲は、ふわふわした歌詞の女子高生っぽい曲なんですけれど、なんかそれも歌詞の割にはカッコいい感じの曲なんですよね。
何度か聞いていると、いつの間にやら頭の中でリフレインしているような中毒性があります。
またストーリーですが、まったりとした軽音部の日常を描いているだけなので、ドラマチックに盛り上がるような展開はありません。
学生バンドをテーマにした映画や漫画ってありますが、頂点目指して突っ走るとか、挫折を味わうとかやはりドラマチックな展開がありますよね。
熱いスピリッツがあるというか(それはそれで「青春」な感じでいいのですけれど)。
けれど「けいおん!」はそういう肩肘を張ったようないかめしさはなく、そのまったりとふわふわした感じがまた、中毒性があるのですよね(けいおんのメンバーは「目指せ!武道館」と言っているけれど本人たち自身も現実感を持っていないのです)。
よく考えれば、自分が高校生の頃、部活はやっていたけど部室に行ってダラダラ何をすることもなく話をして、いつも過ごしていました。
そして文化祭の時だけ燃える!みたいな。
そういう意味では「けいおん!」は普通の高校生の生活を淡々と描いているだけなんですよね。
そこでのだらだらとした会話というのが、なんというか微笑ましいというか、自分の昔の頃を思い出したりしてなにか居心地のよい場所というような感じがします。
社会人になって思い返せば、なんとも贅沢な時間であったなあと。
もっと有意義に使っていればと思わなくもないですが、ああいう過ごし方ができるのも高校生のときくらいなのかなとも思ったりもします。
そういうノスタルジックな思いみたいなものも「けいおん!」には感じてしまうのでしょうね。
結局、好きではないお目目パッチリのキャラクターも、アニメ声も最後はまったく気にならなくなってしまっていたのでした。

第二期「けいおん!!」の記事はこちら→

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2010年10月 3日 (日)

本 「納豆大全 -愛すべき伝統食品の謎を解く-」

著者の町田忍さんという方をご存知じゃない方も多いかもしれないですが、庶民文化を研究されている方です。
特に銭湯についてはいろいろと研究されていて、以前に著作を読んだことがあります(僕も銭湯が好きなので)。
町田さんは銭湯以外にも、納豆のラベルのコレクターとしてもすごいらしく(他にコレクションしている人がいないからかもしれないですけれど)、こういう本まで出しているわけです。

納豆というと以前は関西の人は食べないと言われていましたが、最近では健康的な食品として扱われるので、関西の人でも食べる方が多くなってきましたよね。
納豆というのは、ご存知の通りもともとは藁についていた納豆菌が大豆を発酵させてできた食品です。
日本は醤油や味噌、日本酒など発酵食品の宝庫とも呼べる地域ですが、納豆もその代表的な食品と言っていいでしょう。
納豆と言えば、あのネバネバの糸。
あの糸の成分はポリグルタミン酸と多糖類のフルクタンという物質です。
ポリグルタミン酸はペチプドの一種で、カルシウムの吸収を助ける働きがあります。
この本によれば、納豆をよく食べる地域では骨粗鬆症が少ないんだとか。

僕は関東の人間なので、納豆はよく食べます。
ですが少々変わった食べ方で・・・。
納豆を食べる時は普通、醤油なりたれなりをかけて(場合によっては卵など)、グチャグチャとかきまぜますよね。
僕はあれが苦手なのです。
ようはネバネバの糸がきらいなんですよね。
納豆の臭いとか味とかはまったく問題ないんですけれど。
どちらかというと箸がツルツルして食べにくいとかそんなことなんですよね。
ですので、食べる時は醤油だけ垂らして、そのままかき混ぜずに食べる。
ネバネバがなければ納豆じゃなくて、大豆食えばいいじゃんというかもしれないですが、だってあの味が好きなんだもん。
食卓には欠かせません。

「納豆大全 -愛すべき伝統食品の謎を解く-」町田忍著 角川書店 文庫 ISBN4-04-367801-0

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2010年10月 2日 (土)

「大奥(2010)」 薄っぺらい、安っぽい

謎の疫病が蔓延し、極端に若い男の数が減ってしまった江戸時代の日本。
絶対的な数の差から男女の役割が逆転し、将軍も女性となり、彼女に大奥の美男三千人が仕えるという世の中になっていました。
この設定はとてもユニークな発想で、ずいぶん前から予告もかかっていたので、けっこう期待しておりましたので、さっそく観に行ってきました。
うーむ、なんか軽い、薄っぺらい。
これは原作がコミックだからなのか、監督がテレビドラマ主体の方だからなのか・・・?
時代劇らしいどっしりとした感じがないのですよね。
「いや、古くさい時代劇のどっしりとした感じは狙っていないから」と言われるかもしれないのですが、それにしても深みがない。
こういう現実離れした設定の作品は、フィクションを自然に見せる説得力が必要です。
フィクションでありながらも地に足がついたリアリティがないと、映画の嘘がとんでもなく嘘くさく見えるんですよね。
例えば、将軍を迎えるためにずらりと大奥の侍たちが華やかな裃で待ち受けている場面。
ここの場面はもっと豪華絢爛で華やかな感じにするべき。
日本国の一番頂点の人を迎えるのですから。
彼ら大奥の侍は、色とりどりではあるのですけれど、どうも薄っぺらく安っぽい。
水野を引き立てるためなのかもしれないですが、それにしても・・・。
言ってはなんなんですが、安いキャバクラのようなイメージです。
この薄っぺらさ、軽さは他の場面でも感じます。
二宮くん演じる水野は剣の腕はなかなかのものという設定ですが、殺陣はそれほどぴしっとしているようには見えません。
殺陣の段取り通りに動いている感じに見えるというか。
時代劇っていうのはやはり所作って大切なんですよね。
水野は旗本なので話し言葉はべらんめえの江戸っ子口調ですが、これも板についている感じがしませんでした。
そのため水野という侍がそこにいるっていう感じではなく、二宮くんがカツラかぶっているに見えちゃってなりませんでした。
画面もテレビっぽく明るく深みがない印象で、映画を観ているっていう感じがしませんでした。
よほどテレビのNHKの大河ドラマの方が画作りはしっかりしています。
こういう画のテイストも映画全体の薄っぺらく軽いイメージに繋がっているかもしれません。
どうもユニークな設定をもった作品ですが、前提は時代劇であるということを、衣装・演出・撮影などの映像としてのアウトプットが咀嚼しきれていない感じがしました。
これは最初のイメージ合わせ、作品の方向性を決めるときのミスじゃないかなあ。

柴咲コウさんが演じている将軍は8代吉宗だったんですね。
白馬に乗って疾走しているシーンがありましたが、「暴れん坊将軍」を思い浮かべてしまいましたよ。
その上、町人の成りをして、市中にも忍びで出て行ったりもしてましたね。
「め組」に行くのではと思ってしまいました(笑)。
TBS製作だから、それはないか・・・。
いっそのこと「暴れん坊女将軍」でシリーズ化を・・・(爆)。

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「恋愛戯曲~私と恋におちてください。~」 人は何故に書くのか?

鴻上尚史監督の恋愛コメディ。
鴻上監督の作品を観るのは、「ジュリエット・ゲーム」以来?
えらく久しぶりです。
ちらりと観た予告編がおもしろそうな感じだったので、観に行ってきました。
観に行ってきましたが、おもしろかったかと問われれば・・・。
恋に落ちないとラブストーリーが書けない人気女流シナリオライターの谷山真由美(深田恭子さん)。
彼女の無理難題に振り回されるテレビ局プロデューサー向井正也(椎名桔平さん)。
谷山女史の脚本の中に登場するシナリオライター志望の主婦、そしてその主婦が書いている作品中の脚本家という三層構造、言わば劇中劇中劇という構成になっています。
試みとしてはおもしろいものの、劇中劇自体が安っぽくおもしろくないので、なかなかにのれません。
劇中劇がしょぼいと谷山が才能あるシナリオライターに見えないのが、一番の問題ではないでしょうか。
このあたり匙加減が難しいとは思います。
誰もが駄作だと思わせながらも、その中のよさに向井だけが気づくということにしないといけないので。
でもそれがこの作品の生命線。
それができていない時点で、この作品も評価は定まってしまったと言えるでしょう。
谷山がほんとに才能が枯渇したワガママ女に見えるだけなので。

人は何故にものを書くのでしょう。
たぶんそれは自分というものを理解してもらいたいからなのではないでしょうか。
自分でブログを書いていても思います。
映画や本の感想を書いていますが、そこに書いているのは自分がどう感じたかで、そこには自分の日頃思っていること感じているということが入ります。
実はそういうことを伝えたいという気持ちの方が強いのではないかと。
作家さんにしても同じことではないかなと思います。
そもそも私小説なんていうのはその最たるものですよね。
小説家、シナリオライターなど作家さんは読んでみるとこの人らしいという作風があるものです(ない人もいますが)。
その作風というのは題材は違いこそすれ、その底辺に流れているテーマみたいなものは共通していることが多かったりします。
そのテーマはその作家さん自身の人生や生き方に根ざしたものであったりするのですよね。
僕はそういうその人の言いたいことが底辺に流れている作家さんの方が好きだったりします(ギラギラと出過ぎている人はそれはそれで好きではない)。
本作の谷山真由美はまさに自分の経験をベースに作品を生み出すタイプの作家です。
たぶんまだ彼女は作家として若いのですよね。
経験そのままではなくて、その経験をもっとエッセンス化した自分のコア、スタイルみたいなものが見つけられると、設定がいくら変わったとて自分らしい作品が書けるのではないでしょうか。
スタイルっていうのは外側の設定っていう意味ではなく、あくまでエッセンスなのです。
谷山が陥っているスランプは外側の設定だけをユニークにしようとあがいているところからきているのでしょう。
彼女らしさを自分自身で見つけられれば、自信をもって作品を書けるようになるのでしょう。
たぶんそれは自分だけでは見つけられるものではなくて、小説家なら編集者、シナリオライターならプロデューサー、なり自分以外で自分自身をわかってくれるパートナーと巡り会えた作家というのは幸せなのかもしれません。

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