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2010年9月28日 (火)

本 「ベイジン」

今、尖閣諸島の問題で日中の関係がぎくしゃくとしています。
日本人からすると、今回の中国の強引な対応にはとても違和感を感じます。
「そこがへんだよ、中国人」と言いたくもなります。
けれども中国人、というより中国という国の視点から見ればまったく正当だと思っているわけです。
そこにある異質感がありますが、彼の国とつき合っていくためには彼らに対して非常識だと叫んでもあまり効果があるわけではなく、彼らのメンタリティをわかった上で上手につき合うということが必要なわけです。

という中国の話題がタイムリーなときに、真山仁さんの「ベイジン」を読みました。
この作品は北京(ベイジン)オリンピック開催時に中国で世界最大の原発を作ろうとする日本人技師と、中国人共産党幹部の物語。
中国発展を全世界にアピールする場とオリンピックをとらえる中国政府、彼らはその技術レベルが世界を凌駕するということを誇示しようと世界最大の原発を建設し、その電力で”鳥の巣”を照らし出そうとするのです。
しかし、利権にまみれた受注、ずさんな工事、労働者のサボタージュなど幾度もその建設は壁にぶち当たります。
日本人が中国人に感じるであろう異質感をうまく表していると思います。
彼らは面子を重んじ、外面と内面が大きく異なります。
権力におもねるところも強い割りに、見えないところでは強かに生きる人々。
非常に個人主義的で利権志向が強い国民性。
個人主義ではありますが、それでも一度集団がある方向性を持つと、暴走的な力を発揮する性格もあります(最近の日系企業でのスト、尖閣諸島問題でのデモを見ればわかるように)。

ここでちょっと脱線を。
ちょうどオリンピック直前に僕は仕事で中国に行きました。
自分たちの会社の中国の工場の撮影をするために、日本からスタッフと機材とともに中国に渡ったのです。
もちろん機材や訪中の目的については中国大使館に申請済み。
それでも空港を出ようとしたら、通関で機材を渡してくれません。
どうもオリンピック直前だったということで、外国からのカメラが入っていることを警戒していたようです。
それでも事前に申請しているのだからと言ってもまったくとりあってくれません。
そのときの係官曰く、いつもカメラ機材の持ち込みは中国のどこでも禁止しているんだとの一本槍。
そんなわけはありません。
その一ヶ月前は別の空港で同じ装備で通関できたのですから。
日本の中国大使館やその省の役所まで言ってもまったくダメ。
結局機材は受け渡されませんでした(帰りに返してくれましたが)。
いろいろ手を使って中国で機材を手配し、撮影はなんとかできましたが・・・。
その後、そのとき一緒だった同僚が再び同じ空港で同じように通関した時は、まったく荷物検査などはなくスルーだったそうです。
手荷物を開くこともなかったそう。
そんときの係官は、オリンピックのときの係官と同人物だったとのこと。
同僚はなんちゅう国民だとあきれてました。

本作では日本人と中国人というまったく異質な価値観を持つ主人公二人が、異質感は異質感として持っていながらも、それを越えて信頼感で強く結ばれ、世界最大の原子力発電所の運開、そして未曾有の事故に立ち向かう姿を描いています。
国民性としてはとても違和感がある中国の人々ですが、個々人を見てみると当然のことながらいい人もいるわけです。
たぶん一括りに日本人とか、中国人とかラベルを貼ってしまうのではなく、彼らとつき合うには個人と個人の尊敬・信頼を持てる関係作りをしなくてはいけないのでしょうね。
会社で中国にしばらく滞在していた方に聞くと、実際、彼らと酒を酌み交わし信頼関係を築ければ非常に心強いということです。

冒頭に書いた事件で騒がしい今、本作を読むと、真山さんは非常に中国人というものをよく分析しているなあと感心してしまいました。

「ベイジン<上>」真山仁著 幻冬社 文庫 ISBN978-4-344-41468-6
「ベイジン<下>」真山仁著 幻冬社 文庫 ISBN978-4-344-41469-3

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2010年9月27日 (月)

本 「失われた町」

ちょうど一年ぶりくらいに三崎亜記さんの作品を手に取りました。
以前に読んだのはデビュー作であり、代表作でもある「となり町戦争」でした。
三崎さんの作品は久しぶりに読んだのですが、この方はこの人特有の小説世界を持っているように思います。
前作もそうでしたが日本のどこにでもありそうな「町」(街でないのがポイント)を題材に描いているのですごく日常的なのに、設定は非日常。
非日常であるかといってSF(サイエンス・フィクション)でもないし、ファンタジーでも、不条理でもない。
「となり町戦争」と本作を読んで思ったのは、うまく表現できないのですが、この日常感のある非日常というのが、三崎亜記さんの特徴ではないかということです。
この雰囲気は他の方の作品ではあまり感じたものではなく、この雰囲気こそが三崎さんらしさ、オリジナリティなのかもしれません。
「となり町戦争」の時は、自分でどんなことを書いたのか、読み直してみたところ・・・

>「戦争」へのリアルな感覚のなさを「となり町との戦争」という極めて日常的な次元に下ろした

と書いていました。
一年前も同じようなことを感じていたようです。
日常と非日常が倒錯しているというテイストを持っている作家さんというのは何人かあげられるのですけれど、三崎さんのように日常と非日常が自然に混じりあっている世界を持っている人は珍しい感じがします。
非日常でありながらもなにか日常感のある雰囲気によって、登場人物たちの思い自体は切実に読むものの心に届く感じがします。

日本によく似た(けれども確かに日本ではない)この物語の世界では。
30年に一度くらいの周期で町が「消滅」する。
町自体はそこにある。
けれどもそこに住む住人たちがある日いなくなるのである。
誰もそれを止めることはできない。
大切な人がその町にいて、否応なくそれを失ってしまった人。
「消滅」はその世界において禁忌であり、失われた人々のことを思い嘆くことも許されない。
失われた町にたった一人残された「消滅耐性」を持つ少女。
同じように「消滅耐性」を持ち忌避される存在でありながらも、町の消滅を食い止めようとする女性。
いくら大切な人でも、いやおうなく理不尽に失われる。
その嘆き、その哀しみ。

この作品では町が失われる理由は説明されません。
それはたぶん、僕たちが「何故人には死が訪れるのか」ということを説明できないのと同じことなのかもしれません。
現実にも人は死によって、理不尽にもいつかは失われます。
残された人々は大きな哀しみを感じます。
けれどもその哀しみに呑まれるのではなく、人は願いや希望を繋いでいこうとします。
そこに救いがあります。
最初に書いたように三崎さんは日常感のある非日常を描くことにより、疑いようもなくすべての人に訪れる死と、残された人々の哀しみ、そして希望を描写しているように感じます。
この語り口が三崎さんのオリジナリティなのでしょうね。

三崎亜記さん作品「となり町戦争」の記事はこちら→

「失われた町」三崎亜記著 集英社 ハードカバー ISBN4-08-774830-8

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2010年9月26日 (日)

「十三人の刺客(2010)」斬って斬って斬りまくれ!

300人対13人、まさに多勢に無勢。
現実的には、この戦力差を逆転することはほとんど無理でしょう。
けれどもそれをやってしまうのが映画的なカタルシス。
「七人の侍」やオリジナルの「十三人の刺客」だけでなく、古今東西(「300」とか「水滸伝」等もそうですよね)少数が多勢に対して、知略と卓越した技量、そして不屈の精神、仲間への信頼で戦いを挑み、そして勝利し果てるという物語には、男は魂を揺さぶられるようなロマンを感じるわけです。
後半の落合宿での大チャンバラ、無理を承知をまさに命を賭けての大勝負に挑む13人の侍たちの活劇に、観ている側としては大きく溜飲を下げるといった快感を得ることができます。
稲垣吾郎さん演じる斉韶を救いようもないほどに極悪非道にしたのは正解で、相手が真っ黒であるからこそ「斬って斬って斬りまくる」ことへのカタルシスが生まれるわけです。
人によっては登場人物の描き方が浅いという方もいるかもしれませんが(特に十三人側)、これはそれをわかっていて割り切ったのだと思います。
たぶんそれをやってしまうとそれこそ「七人の侍」級の長さになってしまう、それでは割り切って後半の大チャンバラに焦点を合わせようという考え方ではなかったかと思います。
このあたりの割り切りの判断はよかったのではないでしょうか。
それだけに後半のチャンバラはまさに手に汗握るという表現がぴったりの大迫力でした。
まさに「斬って斬って斬りまくれ」という新左衛門の言葉のもとに、十三人が三百人を相手に大立ち回りを演じます。
このあたりの活劇はさすが「ジャンゴ」や「クローズ ZERO」などの大人数でのアクション映画を手がけてきた三池監督だけあって迫力ありました。
この大殺陣を楽しみ、映画的カタルシスに浸るというのがこの作品の正しい見方でしょう。
実際の世の中では大悪がばっさり成敗されるということなどはあまりないですから、映画の中だけでもそういうカタルシスに浸りたいものです。

僕は89年の「将軍家光の乱心 激突」という東映の時代劇がけっこう好きで、この作品も将軍家に少数の侍が戦いを挑むという話でした。
こちらの作品はJAC(現JAE)がメインとなったアクションがかなり見ごたえありました。
そちらでは松方弘樹さんが、本作でいう半兵衛と同じように主君を守る側で、好敵手である刑部(緒形拳さん)と対峙するというした役でした。
今回は逆の役回りというのが因縁めいてました。

泰平の時代に戦うことを職業として侍という存在というのは、アイデンティティを保つというのはたいへんであったのかもしれませんね。
新左衛門も「ずっと死に場所」を探していたと言います。
彼にとって、侍として命を賭けるに値するものを見つけられるかということが命題であったのでしょう。
新左衛門が見つけたのは、民草を苦しませないようにするために戦うということがその答えであったわけです。
同じく半兵衛もそうで、彼は「主君への義」こそが命を賭けるに値するものだと思ったわけです。
また斉韶にしても、「侍とは」という言葉を何度も口にします。
彼は歪んだ精神の持ち主ではありましたが、彼なりに「命を賭けるに値するもの」を探していたとも言えなくもありません。
もちろん戦はないほうがいいに決まってます。
そうであるとすると、戦う力を持っている人というのは、いかにその力を自分の中でコントロールし、制御しきれるかというのが大切になってくるということなのでしょうね。
刀はむやみやたらに抜けばいいというものではない。
抜くというそのときをいかに判断するか、そして抜く時は躊躇いなく抜けるか。
武士が、武士道といった精神性の高い考えを育んでいくというのはそのような時代的な素地があったからなのかもしれません。

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「TSUNAMI-ツナミ-」 一瞬の決断に生き様が集約される

韓国で制作されたディザスター(災害)ムービーです。
タイトルにある「TSUNAMI」は日本語の「津波」のことで、これは英語など国際語にも多く取り入れられているというのは有名な話です。
日本海で海底地震が発生、それによって生み出されたメガ津波が韓国の沿岸都市プサンを襲う。
メガ津波の高さは100mにもおよび、その速度は時速800kmにもなり、一瞬のうちにプサンを呑み込みます。

ディザスタームービーというのは、ある日突然にそれまでの日常が人間が抗いようのない力によって破壊されてしまうというのが基本にあります。
それは本作や「日本沈没」「ディープ・インパクト」のような天災であったり、人災であったり(「タワーリング・インフェルノ」等)、異星人の侵略であったり(「インディペンデンス・デイ」等)であったりします。
そこで描かれるのは、今まで当たり前だと思っていた生活が一瞬のうちに失われてしまうとき、人は何を思うか、どう行動するかということ。
ある一瞬、待つことのできない時間の中で人は決断を迫られます。
愛する人に対して、反目していた人に対して、何を言うのか。
何のために命をかけるのか、何をおいても生き延びようとするのか。
その一瞬の決断には、その人物の生き方、生き様のようなものが集約されているのかもしれません。
本作においても前代未聞のメガ津波が町に襲いかかる前には、そこに暮らす人々の生活が描かれます。
嵐の中の事故で父を失った娘ヨニ、その死に責任を感じている男マンシク、二人は魅かれあっているもののヨニの父の死が二人の間にわだかまりとして残っています。
地震学者でメガ津波を予測したキム、その元妻でキャリアウーマンとして活躍しているユジン、そして二人の娘のジミン。
マンシクの弟で海難救助隊のミンギ、彼に救われた鼻っ柱の強い名門女子大の学生ヒミ。
それ以外の登場人物を含め、登場人物たちの関係性が前半は丁寧に描かれます。
このあたり丁寧なところはいいのですが、やや丁寧すぎるきらいもありました。
やや前半は退屈なところもあるのですよね。
ただ他のディザスタームービーと違い扱っている題材が、町を「一瞬」のうちに呑み込む津波ですから、災害シーンを長時間にわたり描きにくいというところはあったのかもしれません。
前半の人物描写が丁寧な分、後半の災害シーンでのそれぞれの登場人物の決断の重みが出ていたということに繋がっているとは思います。
ディザスタームービーというのは、ハリウッド映画にしても邦画にしても、ややもすると一人のヒーローに集約してしまい、災害を取り巻く物語自体を矮小化してしまうことがありますが(「2012」とか「252 生存者あり」とか)、本作は徹頭徹尾、災害を前にした普通の人々のそれぞれの決断を描いているという点は好感が持てました。
津波のシーンはなかなかに迫力ありました。
CGで作り上げた津波のシーンもさることながら、実際の水を使った撮影のあたりはやはり迫力あります。
このあたりは日本の「252 生存者あり」あたりよりも出来はよかったんじゃないかな。
ある種、韓国映画にありがちな俳優さんたちの派手めな演技というのは、この種のディザスタームービーには合っているような気がしました。

東京で公開されているのはすべて日本語吹き替え版なんですよね。
韓国ドラマに親しんでいる人を取り込みたいという狙いなのでしょうか。
基本的に字幕派である僕としては、ちょっとでもいいから字幕版も公開してほしかったです。

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2010年9月20日 (月)

「トイレット」 自分らしく生きたほうがいいんじゃない?

荻上監督の「かもめ食堂」のスマッシュヒット以来、邦画では同じようなテイストの言わば「癒し系」的な作品がいくつか作られています。
たしかに「かもめ食堂」や「めがね」はまったりとした雰囲気を持った作品であることは間違いありません。
映画としてその中で大きな物語のうねりがあるわけではありません。
だから「まったりとした癒し系」と言われるのかもしれません。
けれどもそれが荻上監督の本質だったり、先に上げた作品がヒットした理由と考えると間違えると思います。
荻上監督の作品に共通しているのは、「自分がやりたいように生きるのがいい」ということなのですよね。
それは「かもめ食堂」でも「めがね」にしてもそうなのです。
今の日本人は何か成し遂げなければ立派な生き方ではないとか、忙しくしているようにしていないと生きているとは言えないといったような風潮にあるかもしれません。
そういう生き方もありだとは思いますが、そうでない生き方もまたありなのです。
ですから今までの「かもめ食堂」にしても「めがね」にしても、あえてスローで生きるという生き方を肯定しているのです。
でも荻上監督は「スローで生きなさい」と言っているわけではなく、「自分らしく生きたほうがいいんじゃない?」と言っているんですよね。
それは本作でわかります。
本作で登場する3人兄妹はそれぞれが個性があります。
一人はパニック障害で引きこもったピアノ奏者の兄。
一人は堅実できちんとしすぎているきらいのある、プラモオタクな弟。
そしてもう一人は勝ち気でほれっぽい妹。
個性の違う3兄妹はばーちゃんを媒介にして、それぞれに自分で自分らしさというものを認め、そしてまた兄妹のそれぞれのらしさも認めることができるようになっていきます。
本作は今までの作品よりもドラマ的要素があり、その点では今までのような「まったり感」は少ないかもしれません。
逆にコアな映画ファン以外の人にも楽しんでいただける作品になっているような気がします。
でもそれだからといって、本作はやっぱり荻上監督らしい作品なのですよね。
それは先ほど書いたように「自分らしく生きたほうがいいんじゃない?」という監督の作品に共通したメッセージがあるからです。
いわゆる「癒し系」作品とは一線を画すところが荻上作品はあるなと再確認しました。

荻上直子監督作品「かもめ食堂」の記事はこちら→
荻上直子監督作品「めがね」の記事はこちら→

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2010年9月19日 (日)

本 「トロイメライ」

こちらの作品は池上永一さんのヒット作「テンペスト」と同じ世界観を共有する物語です。
「テンペスト」のキャラクターもチラチラと登場してくるので、前作が好きな方はそのあたりはお楽しみということになるかと思います。
池上永一さんの作品はいくつも読んではいるのですが、いつもどうもいまいち自分としてはしっくりとこないところがあります。
それでも「テンペスト」は楽しんで読めたので、本作も期待をして手に取ったのですが、やはりどうも僕には合わないという感じがしてなりません。
今までも池上さんの作品のレビューでも何度か書いているのですが、やはりキャラクターが軽いというか、薄いというかそういう感じを受けます。
このあたりの食い足りなさが、僕があまりしっくりとこないというところなのかもしれません。
題材の選び方は、興味深いところを突いていると思うのですけれど。
本作は日本の時代で言うと江戸時代末くらいになって、主人公は本土で言うところの岡っ引きである筑作事の武太(むた)。
そのころの沖縄王朝は、中国の清と日本の薩摩藩の間で絶妙なバランスをとりながら生きながらえていました。
そのために法やルールも清そして薩摩の両方の顔色を窺いながら運用していかなければなりません(そのあたりは「テンペスト」で描かれている)。
そういう状況の中での、市井にいる岡っ引きの取り扱う事件とは、それはまた江戸の捕物帳とはまた違ったものになるような気がします。
けれども、実際読んでみると武太の役回りは狂言回しのような立場であり、また取り扱われる事件も捕物帳的なおもしろさはありません。
謎の人物も登場してきますが、その謎も回収されぬままに終わってしまう。
今後連作をしていくつもりなのかもしれませんが、これはちょっと厳しいかなと思いました。

池上永一さん作品「テンペスト」の記事はこちら→

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「仮面ライダー剣(ブレイド)」<平成仮面ライダー振り返り-Part5>

今回の平成仮面ライダー振り返りは・・・って、半年以上も放置していましたこの企画ですが、突然思い出したようにアップします。
なぜこれほどまでに遅くなったかというと、とりもなおさず僕が「ブレイド」をあまり好きではないため、見るスピードが極端に遅くなったということに尽きます。
平成仮面ライダーシリーズはそのほとんどが好きなのですが、「ブレイド」は嫌いではないのですが、それほど自分にとって大きなポジションをとる作品ではなかったというところですね。
「ブレイド」は番組的にも視聴率と玩具の販売も低迷、その後の「響鬼」と合わせて平成仮面ライダーの苦難の時期と言えるかもしれません。

では何故そのようなことになってしまったのでしょうか。
それは偏に制作者サイドの平成仮面ライダーが何故ヒットしてきたのかということに対する解釈が間違っていたと言えると思います。
平成仮面ライダーは「クウガ」に始まり、「アギト」で未だに破られていない平成仮面ライダー最高視聴率を早くも達成、その後「龍騎」「555」とヒットを続けてきました。
その理由はこの平成仮面ライダー振り返りの記事で指摘しているように、今までの概念を常に破り続ける「革新性」であったと思います。
それは例えば、イケメン俳優の起用であったり、年間を通した大河ドラマ性であったり、物語が進むに従ってヒーローが進化していくフォームチェンジであったり、ライダー同士が戦いあうという設定だったりするわけです。
それらの「革新性」はそれ以前になかったということにおいて「革新性」であるのです。
平成仮面ライダーは新シリーズが始まるたびに「こんなの仮面ライダーじゃない!」という声が聞かれます。
けれどもそういう声があがるということこそが、平成仮面ライダーなのです。
しかし、「ブレイド」に関して言えば、そのような「革新性」を感じることはありませんでした。
トランプをモチーフとした四人のライダーが戦いあうという設定、カードを使ったバトルであるという設定は「ブレイド」の前々作である「龍騎」で用いられた設定と同様であり、新味を感じることはありませんでした。
また話題作りになるイケメン若手俳優を配することにより人気を獲得したいという意図も如実に感じられます(シリーズ前半のオープニングはその意図が強く出ていました)。
「仮面ライダー」が職業であるという設定は新しいとは思いましたが、第1話から早々に仮面ライダーが所属する組織である「BOARD」が壊滅してしまうわけですから、設定を活かしきれているとは言えません。
これらの「革新性」のなさは、当時の制作者が平成仮面ライダーのヒットの要因を分析しそこなったということによるのではないでしょうか。
「ブレイド」ではそれまでプロデューサー補、プロデューサーとして腕を振るっていた白倉さんから、それまでスーパー戦隊シリーズを多く手がけていた日笠プロデューサーにバトンタッチされています。
そこで平成仮面ライダーのヒットの要因の読み違いがあったのではなかったかと思います。
僕が思うに、ヒットの要因をその表面的にしかとらえなかったのではないかと。
例えばイケメン俳優の起用であったり、カードバトルであったり、ライダーバトルロイヤルであったり。
けれども平成仮面ライダーのヒットの要因は何度も言うようにその「革新性」です。
常に進化し続けることがヒットの要因なのです。
今までの平成仮面ライダーで出てきたことばかりを表面上再現していているだけでは、「革新性」を出すことにはなりません。
「ブレイド」はヒットし続けたことによる、ある種のマンネリ化の道へ入り込もうとしていたのです。
「ブレイド」以降、「響鬼」での大きな揺り戻しによる混乱、その後の作品での「革新性」の定着による盤石化へ平成仮面ライダーシリーズは進んでいきます。

個別の部分で、僕が「ブレイド」がそれほど好きではない原因をいくつかあげてみたいと思います。
一つは前半のメインライターの今井詔二さんの脚本が好きではなかったということです。
今井さんは「ブレイド」が初めての特撮番組への参加ということでした。
その点については「革新性」を狙ったのかもしれませんが、僕は今井さんは特撮番組とはこんなもんだという思い込みがあったように感じました。
それはセリフがとても正直言ってクサいということ、展開が乱暴であるということです。
特に最初の理由は特撮だから非現実的であったりしてもいいというようなイメージがあったのではないでしょうか。
僕が非現実的といっているのは、そのキャラクターがしゃべりそうにないことを言わせているということです。
特撮番組だから設定が非現実的であるのは当たり前です。
その設定を前提にしてそのキャラクターがあるセリフを言うことにリアリティがあるかということが問題なのです。
今井さんの本はそれが曖昧のように感じました。
だからキャラクターがぶれて見えるのです。
本作でいえば、主人公である剣崎一真、相川始はまだましでしたが、橘朔也、上城睦月については物語の進行の中で大きくブレているように感じました。
橘、睦月についてはシリーズ中盤大きくドラマの要素を担うのですが、こういうキャラクターなのでどうも物語がしっくりとしません。
今井さんはシリーズ中盤で降板しますが、それは同じような判断が製作側でもあったのかもしれません。
またよろしくないと思ったのが、俳優の演技力です。
特に申し訳ないですが、剣崎、橘は正直言ってつらかった。
正直言ってこのシリーズはキャスティングはあまりうまくいかなかったと言っていいでしょう。
「ブレイド」以降、「カブト」の水嶋ヒロさん、「電王」の佐藤健さんなど今では若手の急進株として注目される演技力を持った俳優を起用していますが、年間を通したドラマのレベルを保つにはある一定レベル以上の演技力は必要でしょう。

シリーズ後半のメインライターは會川昇さんが担当。
會川さんはクサいセリフを書く方(「ディケイド」の士の語りモードのところとか)ですが、それは物語の中では違和感がないようにすることが上手だと思います。
担当された後半は重い展開になってきている中、會川さんが「ブレイド」をしっかり支えたと思います。
特にラスト近辺の剣崎、始の間の友情にも似た交感の表現は會川さんならではかなと。
最終回はとても意外な展開でありアンハッピーエンドでありますが、それでも何か希望を感じるような余韻がありました。
この最終回はすごく好きです。
あと、アンドットデザインを担当した韮沢靖さんはその才能は素晴らしかったです。
「アギト」のアンノウン、「555」のオルフェノクと同様、怪人デザインがその世界観を表現するという仕事をしっかりとしていました。

このように「ブレイド」は平成仮面ライダーが成功してきた故に、陥りそうになるワナにはまってしまいかけた作品であると思います。
先に書いたように、その後「響鬼」で大きく揺り戻し、その後再び本質的な「革新性」を得るという展開を平成仮面ライダーシリーズは歩んでいきます。
また次は「響鬼」の振り返りでお会いしましょう。

今月より始まった「仮面ライダーOOO(オーズ)」、なにか「ブレイド」の最初の頃のような印象を受けてしまいます。
何か「電王」「W」の成功の表面上でしか追いかけていないような・・・。
まだ3話なのでなんとも言えないのですが、今後もっとワクワクするような展開になってくれることを期待したいと思います。

「仮面ライダークウガ」<平成仮面ライダー振り返り-Part1>の記事はこちら→
「仮面ライダーアギト」<平成仮面ライダー振り返り-Part2>の記事はこちら→
「仮面ライダー龍騎」<平成仮面ライダー振り返り-Part3>の記事はこちら→
「仮面ライダー555(ファイズ)」<平成仮面ライダー振り返り-Part4>の記事はこちら→

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2010年9月18日 (土)

「悪人」 無表情の感情

深津絵里さんがモントリオール世界映画祭で主演女優賞を受賞しましたが、作品を観ればそれが納得できます。
主演の妻夫木聡さんも受賞こそなかったものの、深津さんに負けず劣らずの迫真の演技でありました。
本作の主人公である祐一と光代は、俳優に高いハードルを要求する役柄であったと思いますが、主演のお二人はそれを高いレベルでクリアしました。
祐一と光代は作品の中の多くの場面で「無表情」であることが多いのです。
けれどもそれは感情がない「無表情」ではありません。
彼らの生活は自宅から職場への往復を繰り返す毎日です。
そこには出世や結婚のような、人生に華やかさを与えるようなものはありません。
彼らは増尾や佳乃とは異なり要領よく人生を生きていくことができない不器用さがありますが、根は真面目であり優しい人物であろうと思われます。
けれども真面目で優しいからといって、幸せな人生を送らせてくれるわけではありません。
うまくいっていない人生の何かどん詰まりのような閉塞感を二人は感じています。
その閉塞感を破ることはできないであろうという諦めが彼らの「無表情」に現れているのだと思います。
けれどもそのような閉塞感の中でも、怒りや悲しみや、希望といった感情は彼らの中では表面に現れないまでも、確かにあるのです。
その「無表情」の中に透けて見える感情を表現することを、祐一と光代という役は、俳優に要求しました。
俳優としては、感情を豊かに表現するほうがやりやすいに違いありません。
けれどもこの主人公二人はそれを許さないのですよね。
その難しい役柄を、妻夫木さん、深津さんのお二人は見事に演じたと思います。

本作で重要なモチーフとして登場するのが灯台です。
ご存知の通り、灯台は闇夜で航行する船の針路を指し示す役割を担います。
そしてまたその役割のために、海に張り出した岬など、土地のどん詰まりに灯台は設置されます。
本作で灯台は二つの意味を持つ存在となっています。
祐一と光代が初めて出会ったとき、祐一が海の近くに住んでいるということを知り、光代が「いいな」と言います。
それに対して祐一は、「目の前が海だと、その先にもう何もない感じがする」といったようなことを言います。
二人が逃亡の果てにたどり着いた灯台は先に広がるのは広い海だけなわけで、彼にとってまさにもうその先に何もない場所であり、先が見えない祐一の人生そのものを象徴していると言えます。
けれども先に書いたように灯台は、闇夜で針路を指し示す存在でもあります。
祐一は「人を殺したとき、善いとか悪いとか感じなかったが、光代と会って初めてその重さに気づいた」といったことを告白します。
彼は先に希望を持てない人生、他人からないがしろにされる人生に対する憤懣が爆発し、思わず人を殺してしまいました。
たぶん彼にとって、それからの時間はまさに真っ暗闇を航行している船のようなものであったに違いありません。
けれどもその闇夜に差し込んでくる光があります。
その光こそが彼にとっての「光代」であるわけです。
光代は祐一にとって、混乱から抜け出すための一筋の光、まさに灯台であったわけです。
逆に光代にとって祐一は同じく、先行きの見えない人生を照らしてくれる存在でありました。
灯台は、絶望の場所でありながら、希望の場所でもあるのです。
二人はお互いに、自分にとっての相手が大切な人であることを感じられたわけなのですよね。
ラストで灯台で朝を向かえる二人の顔を朝日が照らします。
そのとき浮かべる二人の笑顔が、それまでの「無表情」とは異なり輝いて見えるのです。
それまでの透かしてしか感情を見せられなかったのも、このラストの表情のためであったような気がします。

ラスト前で祐一は光代の首を絞めたところで、警察に逮捕されます。
彼が自分で言うように「オレはおまえが思っているような人間じゃない」ないのでしょうのか。
光代が自分に納得させるように「彼は悪人なんですよね」と呟くように、祐一は悪人なのか。
祐一の感情表現が乏しいことから、悩むところですが、あれはやはり祐一は光代のことを思ってああしたのだと思いたいです。
彼は自分が逮捕されるのは時間の問題だと思っていました。
けれども光代は自分のことを待っていると言います。
それでは光代の人生を無駄にしてしまうと思ったのではないでしょうか。
それが彼の優しさであったような気がします。
祐一はその点では「悪人」ではなかったのだと思いました。

※ほぼ書き上げたところでシステムエラーでぶっとんで、書き直し・・・。
 最近のMacは落ちにくいので油断していた・・・。
 がっくし。

原作小説「悪人」の記事はこちら→

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本 「複数の「古代」」

日本の古代について書かれている書物としては「古事記」「日本書紀」だと教科書で習ったかと思います。
「記紀」と並び称されるようにこの二つの書物が(多くのフィクションを抱えているにせよ)、日本の古代の歴史をひも解く上で重要であるということは変わりありません。
けれどもこの二つの書物が指し示す「古代」というのが同じものであるかどうかというのは、実はそうとも言い切れないと、本著では言っています。
なるほど言われてみればそうかもしれません。
そもそも歴史解釈というのは立場によって異なるものですし、史書というのは書かれた時代の施政者にとってその正当性を裏付けるという機能を持っています。
なんとなく「古事記」「日本書紀」が指し示す古代は同一のものと思いがちであり、そしてこの二つの書物の記述上での食い違いはどちらかが記述ミスなどの間違いと解釈されていましたが、そもそもそれは書いた側の意図が反映されたものであるかもしれないのです。
ですので、著者は現代の人間が先入観をもって見ている「古代」ではなく、これらテクストから忠実に当時の人々が、彼らにとっての「古代」をどう見ていたかということを考えなくてはいけないと言っています。
現代の僕たちから見れば、神武の時代も、奈良時代も一括りに「古代」なのですが、「記紀」が書かれたときの人々にすれば、奈良時代は現代であり、神代の時代こそが「古代」なのです。
「記紀」に記述された内容の食い違いは、それぞれの書物が書かれた意図による彼らの「古代」の歴史解釈なのですね。

視点はかなり新鮮でおもしろかったです。
ですが、やはり「古事記」「日本書紀」への造詣がそれほどないので、ちょっと難しいところもありました。

「複数の「古代」」神野志隆光著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287914-9

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2010年9月13日 (月)

本 「後巷説百物語」

京極夏彦さんの「巷説百物語」シリーズの3作目となります。
前作の舞台となっていた幕末から時は流れ、本作では時代は明治の開花の世となっています。
このシリーズの語り手であった山岡百介は一白と名乗り、かつて江戸であった東京の隅で静かに余生を過ごしていました。
そこへ不思議な事案について喧喧囂囂となった四人が古今の不可思議な出来事について詳しい一白に助言を求めにやってきます。
そこで語られるのは、一白が百介であったころ、小股潜りの又市たちと共にであった不可思議な物語です。

ちょっとこの作品の感想とは異なってしまうのですが、読んでいてふと思ったことを。
京極夏彦さんとともに、大沢オフィスに所属する作家に宮部みゆきさんがいます。
お二人とも僕が好きな作家であり、作品中に「不思議な出来事」が起こることが多いのが共通しています。
宮部さんで言えばそれは「超能力」であったり、京極さんであれば「妖怪」であったりするのです。
けれどもその「不思議な出来事」に対するお二人のスタンスというか、扱いは全く違うものであることがおもしろいなと思いました。
宮部さんのミステリーはしっかりと理屈立てされている本格的な(本格派ではない)ミステリー作品です。
基本的には現実的なミステリーなのですが、そこに「超能力」といったかなりミステリーとは違和感のある要素を宮部さんは持ってきます。
けれどもその超能力でさえ、作品中では現実的に消化して、きちんとミステリーと仕上げるところが宮部さんのすごいところです。
宮部さんが描くのは現実的な世界を舞台にしたミステリーです。
けれども「超能力」のような「不思議な出来事もあるかもしれない」という扱いをしているんですね。
対して京極さんの作品は「妖怪」などの「不可議な出来事」が起こるように見えながらも、そこには何も「不思議な出来事などない」というスタンスなのですね。
「妖怪」などの「怪し」は人が自分の心のなかに「妖怪」を観てしまうことにより、「起こったように感じる」としているのです。
「不思議な出来事」に対するスタンスは違えど、それによってお二人が描くのは人間の心の闇と光の部分です。
お二人の作品にはほぼ非常に黒い心を持った人と、純な心を持った人が登場します。
宮部さんの作品では「超能力」=「不思議な出来事」は純な心を持った人に由来することが多いのに対し、京極さんの作品では「妖怪」=「不思議な出来事」は黒い心を持った人に帰することが多いのですよね。
この辺りの対比はおもしろいように感じます。

えらく脱線してしまいました。
本著の解説で小野不由美さんが、本作が「巷説百物語」シリーズと「京極堂」シリーズを繋いでいるということを書いていました。
確かにそうかもしれません。
「巷説百物語」「続巷説百物語」は「いると思っていた妖怪」が「実はいない」んだよという構造。
裏にはからくりがあると。
「京極堂」シリーズというのは「いないと思っていた妖怪」が「実はいる」ように見えて、「やっぱりいない」という構造です。
2回ひねっているんですね。
そこにあるのは江戸から昭和という時代の変化であり、その間には大きな時代の変化が二つあります。
一つは明治維新であり、もう一つは太平洋戦争です。
この二つの出来事はそれまでの日本人の価値観を大きく変えたしまった出来事です。
太平洋戦争の影響は「京極堂」シリーズで語られていますが、もう一つの大きな出来事である明治維新については本作で語られました。
江戸、明治、昭和と日本人の価値観がひっくりかえる変化を本作が繋いだとも言えます。
よく考えれば京極さんの作品の「妖怪」はその人物の価値観がひっくり返る瞬間の狭間に出現します。
まさに本作が明治を舞台にしたのは必然であったのかもしれません。

京極夏彦作品「続巷説百物語」の記事はこちら→
京極夏彦作品「前巷説百物語」の記事はこちら→

「後巷説百物語」京極夏彦著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-362004-3

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2010年9月12日 (日)

「片腕マシンガール」 やっぱ、無理・・・

劇場版の「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモ」で敵役の中の紅一点羽原レイカ役でキレキレのアクションを見せていた八代みなせさん。
八代さんが主演した本作「片腕マシンガール」でアクションもできるということでのキャスティングであったとのことでしたので、一度観てみようと。
しかし・・・。
苦手なスプラッター系なのだよなあ。
そっちが好きな人にはカルト的な人気があるようなのですが、やや及び腰・・・。

観てみると・・・。
あー、こういうのやっぱ無理・・・。
血がドバドバ、グショグショは苦手なのですよ。
とはいえ、最後までがんばって観ましたが。
DVDだと本編が始まる前に、拍手喝采しながら、笑いながら観てくださいとの観賞の手引きがありました。
そんくらいの気持ちじゃないと受け付けられません。
アメリカのグラインドハウス的な作品なのでしょうか。
低予算な映画なので、グロいカットもいい具合に作り物めいているので(笑いをとる狙いか)、多少救われます。
本作は海外の資本が入っているということで、外国人が喜びそうなトンデモ日本描写がそこかしこに。
日本人はこのあたりは笑い飛ばしてくれということでしょうね。
低予算なところもありましたが、印象的なカットがあったり、スピーディな演出などは日本人らしくない感じがしました。
井口監督、センスはいいかも。
こういうのはタランティーノが好きだろうなあ。

・・・。
でもやっぱり苦手な分野なので、いつもみたいに饒舌に語れない・・・。
井口監督の作品はもう観ることないだろうなあ・・・。

そうそう当初のお目当てであった八代みなせさん。
本作は2007年製作なので、「W」の時の印象よりも幼い感じ。
笑顔がかわいいです。
でも血まみれアクションシーンになると、目つきが別人のように、怖いほどに鋭くなります。
演技は拙いところもありますが、目力はスゴいなと思いました。
アクションはやはりすごくキレがあるし。
この方は自分で動けるアクション女優として売り出していってほしい・・・。

「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ」の記事はこちら→

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2010年9月11日 (土)

「BECK」 確かに「ケミストリー」はある

ハロルド作石さんのヒット漫画「BECK」の堤幸彦監督による映画化作品です。
原作は読んでいませんが、何故に観に行ったかというと水嶋ヒロさんと佐藤健さんの2ショットが観たかったからに他ありません。
こちらのブログでも書いているように、僕は「仮面ライダー」の大ファンでありまして。
水嶋ヒロさん、佐藤健さんは、それぞれ「仮面ライダーカブト」、「仮面ライダー電王」の主演でブレイクをし、その後一気に若手俳優の中でも人気もまた実力もトップクラスまで駆け上がっていきました。
オダギリジョーさん以来、平成仮面ライダーシリーズは若手俳優の登竜門と言われるようになっていますが、最近の中ではこのお二人は頭一つ抜きん出ている感じがします。
その二人の共演ですから、ライダーファンにはたまりません。
と思ったら、「新・電王」シリーズでNEW電王であった桜井通さん(コユキを苛めている同級生)、「電王トリロジー」でG電王を古川雄大さん(ヨシキ役)も出演していて、「あー、仮面ライダーばっかりじゃん」と思った次第でした。
我が強く身勝手な「オレ様」気質のある竜介は「カブト」で水嶋ヒロさんが演じていた天道総司を髣髴とさせますし、気弱で引っ込み思案なところもありながらも芯は実は強いコユキは「電王」で佐藤健さんの役であった野上良太郎を思い出させてくれました。
そういう意味ではお二人の今回の役柄は、イメージ通りと言っていいかもしれません。
桐谷健太さんの千葉なども彼の演じてきたキャラクターを感じさせるところがあり、本作はキャスティングが俳優が持っているイメージにかなり忠実であったのではないかなと思います(ま、佐藤健さんは非常に演技が上手なのでどんな役でもいけますが)。
あ、中村獅童さんは最近こういう役ばっかりな気もしますが・・・。

ストーリーとしては極めて王道なものでありました。
個性のあるバンドメンバーが集まり、その中で次第に「BECK」というバンドが育っていく。
育っていく間には、メンバーの確執もありながらも、それぞれが互いにかけがいのない存在であることを認識していきます。
複数の人間が集まりものを作っていく場面には、竜介が言うように確かに「ケミストリー」があるように思います。
違った考え、異なる感覚を持つ者が集まれば、そこには反発もあるでしょう。
それでもそれを乗り越えたところには、確かに個々の能力を越えた爆発的な化学反応があるのですよね。
音楽ではないですが、デザインや広告の仕事をしていたりすると、やはりそのような「ケミストリー」がある時っていうのが何回かあって。
これは自分だけじゃできなかったよなあと思うこともあります。
たぶんバンドをずっとやっている人というのは、やはり自分の能力を越えちゃったところに行ってしまった気分を味わっちゃったんですよね。
それをもう一度味わいたいっていうところがあるのかもしれません。

先にも書いたように物語としては非常に王道で、ラストのライブに向かっての感情の盛り上がりも十分にありましたし、出来が悪い作品ではありません。
でもちょっと不満足なところはあるのですよね。
堤監督という人はたぶん非常に器用な人なのだと思います。
「TRICK」みたいなクセのある作品も撮れますし、元々のイメージが重視される原作ものもそれを損なわずに映像化してくれます。
本作などもそういう作品なのだと思いますが、器用すぎてしまってある種まとまりすぎている感じがしてしまいました。
堤監督らしい感じがもっとあってもよかったかなと。
贅沢なことを言っているのかもしれませんが、やはりそこまで期待してしまいます(とはいえ人気コミックをイメージ通りの映像化するだけでも普通の監督にはできないことなのかもしれませんが)。

コユキの歌の部分だけ、ある種ごまかしているのは気になりました。
これはなかなか難しかったところだとは思いますが。
原作ではコユキは天性のヴォーカリストと言われているということ。
それこそその歌を聴いたときメンバーは自分たちがステージに上がっている姿の啓示を受けたわけですから。
これは生半可な歌では表現できません。
佐藤健さんは起用な方なので、歌も十分にこなせると思うのですが(「電王」でも挿入歌を歌っていてうまいと思った)、原作ファンから初めて映画を通じてこの物語に触れる僕みたいな人まですべてを納得させるのはハードルが高いという判断ではあったのでしょう。
仕方がないのかなとは思いつつも、コユキが歌う場面だけ「イメージ」になってしまうのは、映画を観ている側とすると断絶感があったんですよね。
最後のライブくらいは実際に歌ってもらっても良かったんじゃないかなと思います。
うまい下手というよりも、コユキの「伝えたいこと」が伝わる歌であればよかったと思うから。
ここはちょっと残念だったところです。

水嶋ヒロさん主演「仮面ライダーカブト」の記事はこちら→
佐藤健さん主演「仮面ライダー電王」の記事はこちら→

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2010年9月10日 (金)

「オカンの嫁入り」 この人しかいないと思えるキャスティング

映画を観終わると、この役にはこの人しか考えられないよなー、と思うときが時々あります。
本作はまさにそのような感じでした。
それも主演の二人ともに。

月子(宮﨑あおいさん)は母親陽子(大竹しのぶさん)と二人暮らし。
月子は同僚にストーカー被害を受けたことにより、会社を退社。
それ以降電車に乗れない(パニック障害かな)ようになってしまいます。
たぶん生来はしっかりもので明るい女性だったと思いますが、なにか哀しそうな表情をしている場面が多いです。
対して母親陽子は天真爛漫。
明るくておしゃべりで、名前のようにまさに太陽のような女性ですね。
月子と陽子はとても仲のよい母娘であったのでしょう。
あるとき陽子は突然結婚すると宣言します。
それも親子ほどに年齢が離れた若い男と。
月子にとっては寝耳に水の話で、とまどい、そして怒ります。
母親の気持ちがわからなくなり混乱する月子は、家を飛び出します(といっても隣の大家さんのところですが)。
しかしあるとき母親の余命が一年ほどであることを知りました。
陽子は自分の余命が少ないことを知り、自分は最後まで好きな人、そして好きな娘と一緒に幸せに暮らしたい、そして幸せな生き方を月子に見せることにより、人生に前向きではなくなっている娘に生きる力を与えたいと思っていたのでした。
なにか「天然」な天真爛漫さだけに見える陽子ですが、その内面では苦しんでいる娘を見ていたたまれなく思い、自分がいなくなった後も娘が幸せな人生をおくることができるようにしっかりと考えている女性でした。
そういう性格の陽子という役に、あっけらかんとした明るさを持ち、それでいながら人の内面の機微みたいなことも表現できる大竹しのぶさんはぴったりであったと思います。
また月子は今の状態でいることがよくないということは承知の上でも悶々と過ごしてしまう心に傷を持った女性です。
でもたぶん彼女は母親ゆずりの明るさを本来は持っている人なのだと思います。
宮﨑あおいちゃんは、周囲の人々を明るくする笑顔を持っている女優さんだと思っています。
けれど本作ではずっといらいら、悶々とした表情をしています。
それが月子の内面の苦しみを表していました。
でもだからこそ、後半で母親と和解し、そして母親との生活を楽しんでいる彼女の笑顔はとても眩しく見えました。
陽子が自分を思いやってくれる気持ちを理解し、そしてまた自分も陽子のためにいっしょに生活していくことを楽しんでいこうとするのが十分に、宮﨑あおいちゃんの笑顔で伝わってきました。
天真爛漫さの内側に娘を思いやる優しさを持っている陽子。
暗い影をもった表情の中に実は生命力のある明るさを持っている月子。
この二人の登場人物は対照的に見えながらも、ともに感情の懐が深い役柄であったと思います。
それを大竹しのぶさん、宮﨑あおいちゃんという、それぞれやはり演技力のある女優さんが演じ、この人しかないなというはまり方をしていたと思います。

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2010年9月 5日 (日)

「NECK ネック」 日本的怖さ

本日は「BECK」・・・じゃなくて、「NECK ネック」を観てきました(「BECK」は来週予定)。
こちらの作品は「胸キュン♥ホラー エンターテイメント」と銘打っていますが、観てみればなるほど・・・と納得できますね。
正直期待度はそれほど高くない状態で観に行っただけ(相武紗季ちゃんを観に行っただけとも言う)だったからか、思いのほか楽しめました。
それほど予算をかけている感じはない(というよりあまり予算はかけられなかったのでは)のですけれど、脚本はけっこうよくできていたように思いました。
ところどころに張られていた伏線も、上手に回収していましたし。
物語の中心となる4人の四角関係もなるほど「胸キュン」という感じでラブコメっぽくなっていました。
「ネック・マシーン」という設定が怪しげというか安そうな感じではあるのですけれど、それさえ受け入れてしまえば十分に楽しめるように思えます。

こちらのブログでも書いていますが、僕はホラーものは大の苦手。
好んで自分からは観たり読んだりしません。
いわゆる海外のスプラッター系、痛い系も苦手ですし、ジャパニーズ・ホラーもダメです。
まさに本作の越前魔太郎なみにこわがりかもしれない・・・。
今でもトラウマ的に記憶に刻み込まれているのは、小学生の頃うっかり読んでしまった「恐怖新聞」とか「うしろの百太郎」(ともにつのだじろう氏)などのマンガ。
これはほんとに怖かった。
つのださんの作品は昔から日本にある「怪談」に原点を求めることができると思います。
日本の「怪談」の怖さというのは、日常生活のすぐそこにある恐ろしさを描いているところにあると思います。
毎日繰り返す何気ない日常の中の隅っこの方に目をやると、そこには恐ろしげなものが・・・みたいなのが日本の「怪談」の怖さですよね。
もう二度と単純な日常が過ごせなくなるという感じ。
こういう怖さっていうのは、うしろを振り返ったらそこにも!みたいなところがあって、海外作品のイベント的な怖さよりも恐ろしいかもしれません。
海外のホラー映画っていうのは、非日常的な世界での非日常的な怖さですから。
本作の冒頭で杉奈が魔太郎に語るでまかせの怪談ゴム手袋も、日本的な日常の中の怖さを持っているように思えます。
ゴム手袋ってそれだけ聞けば、とても日常的なものなのですけれどそれが何故か怪談話の中では恐怖の対象になってしまう。
ベッドの下、布団の中っていう日常的な場面で出てくる怪奇現象。
こういう、もしかすると自分の周りでもありえるかもって考えさせちゃうっていうのが、怖いのですよ。
子供の頃にトラウマになった「恐怖新聞」は便所で用を足して(大きい方ね)水を流すと便器の中に人の顔が!っていう話でした。
大人になった今だったら「なんじゃ、それ!」とツッコミを入れるところですが、子供の僕はしばらく夜にトイレはいけませんでした・・・。

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2010年9月 4日 (土)

「バイオハザードIV アフターライフ」 ポール・W・S・アンダーソンの3D実験

3年ぶりの「バイオハザード」シリーズの新作です。
一作目の監督でもあり、またミラ・ジョヴォヴィッチのパートナーでもあるポール・W・S・アンダーソンが再びメガホンをとりました。
本作は「バイオハザード」シリーズでは初の3Dでの公開になります。
この作品はポール・W・S・アンダーソンにとって3Dであることに意味があって、だからこそ自ら監督を務めたのではないかと思います。
正直言ってストーリーは今までの3作よりも弱いと思います。
もともとポール・W・S・アンダーソンはストーリーで見せるというよりはケレン味のある映像で見せる監督ではありますが。
Ⅲで明らかになったアリスのクローンの存在、東京にアンブレラの支部があるという事実についてはオープニングのアクションシークエンスで速やかに一掃されます。
またⅡ、Ⅲでアリスが人間離れしたアクションを行う理由としてあったTウィルスの影響ですらあっさりと無効にされてしまいます。
悪く言えばご都合主義なシナリオではあるのですが、そもそもポール・W・S・アンダーソンがやりたかったのはストーリーを描くことではなかったのではないかと思います。
監督は3Dという表現方法でどんなことができるのかというのを自分の手で確かめたかったのではないでしょうか。
ですので、今回の作品には3Dを意識した描写がいくつもあります。
まずはオープニングの雨、そして後半のシャワールームでのアクションでの水しぶき。
スローモーションで動く水滴の表現は3D効果を意識したものでしょう。
またバレットタイム的な表現も随所にありましたが、これも同様でしょう。
観客に向かって放たれる手裏剣、弾丸、斧、ガラス片。
これらもすべて3D的な見え方を意識したもの。
最近の3Dはどちらかというと奥行きを意識したものが多いですが、ポール・W・S・アンダーソンは昔ながらの手前に飛び出す的な表現を重視していたと思います。
飛び出す的3Dを重視したのはケレン味ある演出のポール・W・S・アンダーソンらしいというような気がしました。
とはいえ、これらについては今までの映画でもあった表現を3Dでやってみたというような感じはします。
ですので、僕はこの作品がポール・W・S・アンダーソンの3Dにおける表現の実験なのではないかと思うのです。
もしかするとコロンビアの親会社であるソニー、またゲーム大手のカプコン(「バイオハザード」シリーズ)にとっても今後の3D表現の実験という意味合いがあったかもしれません。
3者の思惑があってこの作品ができたというような感じがします。

アリス役のミラ・ジョヴォヴィッチですが、微妙に出番が少ないような・・・。
特殊能力がなくなったということがるからかもしれないですが、今までのシリーズに比べると存在感がやや薄いように思えました。
後半のでかいゾンビとのアクションは見せ場なので、今までであったらクレアではなくてアリスがやりますよね。
出産後だったから激しいアクションはやれなかったからかな。
エンドロールでは続編が示唆されますが、その場面でアンブレラ社の武装部隊を率いるリーダーが言うのは「レッドフィールド兄妹をとらえること」が「アリス計画」よりも重要事項になっているんですよね。
勘ぐってみてしまえば、このシリーズをアリスから、徐々に原作ゲームの重要キャラクターであるレッドフィールド兄妹に移していこうという意図もあるようにも思えます。
うまく主人公を代替わりさせていくことにより、ドル箱シリーズを続けていこうというようなことを考えているかもしれません。
個人的にはそれはそれで悪いことだとは思いません。
意図をもってやっているのだったらマーケティング的にはありかと。

実験を行ったポール・W・S・アンダーソン監督、「Ⅴ」ではびっくりするような映像表現を期待していますよ。

「バイオハザードⅢ」の記事はこちら→

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本 「ブレイズメス1990」

「ブラックペアン1988」に続く「桜宮サーガ」の過去に連なる物語です。
舞台になる時代はタイトルにあるように1990年。
日本はバブル真っ盛りの時代ですが、もう20年も前になるんですね。
本作で登場するのは天才とも言うべき心臓外科医の天城医師。
彼は金がある患者と金がない患者がいたら、金がある患者を選ぶということをはっきりという医師です。
普通の医者の倫理感からしたら、金があろうがなかろうが関係ないと答えることでしょう。
けれども天城は、すべての人を救うのは物理的に不可能であり、それならば金がある者を救いその報酬によりより充実した医療をおこなうべきだという考えを持っています。
そう言われると確かにそういう考えもあるかもしれないとも思います。
医療というのは、人の命を救うという尊い仕事です。
けれどもその医療には金がかかるというのも事実。
現在の医療現場はその歪みが出ていると言ってもいいかもしれません。
医者が医療を神聖と見過ぎることにより、そこに関わるコストについて頓着しないことにより、やがて役人による医療改革といったものにより、医療現場が混乱しくということをこの作品では予感させます。
天城のような極端な考え方が正しいか正しくないかはおいておいて、医者も金を醜いものとして見ないということでなく、厳然として金がいる、それをどう運用していくべきなのかという意識が必要であると言っているような気がしました。
この作品の中で触れられているスリジエ・ハートセンターですが、その後の「桜宮サーガ」では登場していないような気がします。
ということは、天城の志もどこかで頓挫するということなのでしょうか。
本作は続きのあるような終わり方ですので、いずれそれも語られるということでしょう。

海堂尊作品「ブラックペアン1988」の記事はこちら→

「ブレイズメス1990」海堂尊著 講談社 ハードカバー ISBN978-4-06-216313-2

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