本 「楽園」
今では宮部みゆきさんの大ファンですが、初めて彼女の作品を読んだのは「模倣犯」でした。
その頃「すごい」と話題になっていたからだったのですが、みなさんもそうだったと思うのですけれど、文字通り衝撃を受けたと言っていいでしょう。
あの作品で描かれていたのは、圧倒的な悪意です。
その悪意というのは、自分を他者とは違うものとし、支配しようとする気持ち。
古今東西様々な物語では「悪」が描かれます。
けれどよくあるのは、その悪は実は彼らなりに事情があったのだというような説明。
もしくはおとぎ話的な抽象的な悪。
けれども宮部みゆきさんの作品に書かれる悪はその心根が目を背けたくなるように醜いのです。
彼ら悪人は度々自己中心的であり、他人や社会や世界は自分のために存在しているかのように振る舞います。
周りの人のことを思う気持ちなどこれっぱかしもない。
本著「楽園」の中で使われる言い回しでいうと「ろくでなし」なのです。
そういう自己中心的な悪に対抗するのは、探偵やヒーローなどではなく、一般的な庶民です。
これは「模倣犯」に限らず、宮部みゆき作品の多くに共通していることですが、悪意へ対抗できるのは、普通の人が持っている当たり前の感覚。
家族を愛すること。
周囲の人々のことを気にすること。
昔の下町では普通にあった関係性こそが、醜い悪と対抗できる手段なのです。
それを正面切って逃げずに書いたのが「模倣犯」であり、そのために読む側は圧倒されるのです。
けれどその作業は作者にとっても過酷であったのでしょう。
文庫版の解説で東雅夫さんが書かれていることに納得してしまいました。
<下記、引用>
そしてそれは同時に、本書の作者である宮部みゆき自身にとっても、必要とされるリハビリだったのはないだろうか。
一九九〇年代の後半をほぼ丸ごと費やして完成に漕ぎつけた対策「模倣犯」の執筆が、作者に多大な緊張とストレスを強いたことは、各種インタビューなどでの発言からも容易に察せられるところである。作中で滋子が洩らす苦悩や逡巡の言葉は、ときに作者自身の述懐のようにすら感じられるほどだ。
<引用終わり>
確かに圧倒的悪を描写するとき、それは作者はその悪に直面せざるをえません。
読者は宮部みゆきというフィルターを通してその悪に接しているわけなので、その過酷さは和らいでいます。
本作品で人の心を読むことができる超能力者である少年、等が、自分が意図せずに流れ込んでくる人の心の悪意に悩み、それを吐き出すために絵を描くというところがあります。
なにか宮部みゆきという人は、僕たち一般人よりも非常に感度が高く、人の悪意を感じてしまうという点で、等という人物に彼女の姿を投影してしまいます。
ですので、東さんが書いているリハビリというは非常にわかるのです。
「模倣犯」から「楽園」を書くまでなぜこんなに時間がかかったのか。
それは宮部さんの中で消化する時間がかかったからなのでしょう。
そしてなぜ、「模倣犯」の続編である「楽園」を書くのか。
それは東さんが言っているように、書くことにより宮部さんの中で「癒す」作業であったのではないかと。
物語を紡ぐ人というのは、それに対して大きなエネルギーを使います。
たぶん読者である僕たちが想像する以上に。
だから「書けなく」なる人も出てくるのでしょう。
でも宮部さんは書き続け、それでもたぶんどこかで整理したいという気持ちがあったのかもしれないなと思いました。
それが「楽園」であったのではないかと思います。
本作品を読むにはそれなりの覚悟はいるかと思います。
それだけ宮部さんのエネルギーが込められています。
そして最後にはなにか救われる気持ちになります。
それは宮部さん自身がたどり着いた「癒し」なのかなとも思いました。
「楽園<上>」宮部みゆき著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-754907-7
「楽園<下>」宮部みゆき著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-754908-4
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