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2010年8月29日 (日)

「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」 ティーン向けファンタジーには飽きてきた

劇場では見逃してしまったので、DVDで観賞しました。
見逃したというより、食指が動かなかったというのが大きかったかもしれません。
「ハリー・ポッター」以来続くファンタジー映画の公開にやや飽きてきているというところもあります(本作の監督が「ハリー・ポッター」第一作を監督したクリス・コロンバスというのも皮肉なところ)。
主人公パーシーはパッとしない高校生ですが、実はギリシャ神話のポセイドンと人間の間に生まれた子供(デミゴッド)です。
パーシーという名前から察せられるように、彼はペルセウスの生まれ変わりのような存在なのかもしれません。
彼が母親を救うために旅をし、その先々でメドゥーサなどの怪物と倒していくというのは、まさにペルセウスを髣髴とさせます。
このあたりは「タイタンの戦い」を先に観たので、既視感がありますね。
冴えない高校生が実は不思議な力を持っているというのは、現在公開されている「魔法使いの弟子」が思い浮かんでしまいました。

観てみれば、別段つまらないというわけではありません。
経験値が高いクリス・コロンバス監督であるというところもあるのでしょうか、見せ所をおさえるところ、飽きさせない作りというのはさすがだと思います。
けれどもやはり何か残るような強い印象があるかと言われれば、それはないと言わざるをえません。
それは上で書いたようにいろんな作品が頭に浮かんできてしまうということによるのかもしれません。
外さない作品であるかもしれませんが、大当たりする作品でもないような気がします。
わざわざ劇場まで足を運びたい、初日に観たいと思わせるようなモチベーションを起こさせない作品のような気がしました。
いい加減、この手のティーン向けファンタジーは飽きてきた、という感じがあります。

続編も作れそうなエンディングというのも、何かもういいやという感じがします。
最近のこの手の作品はみんなそうで。
当たったら続編作ろう、当たらなかったらその話はなしで、みたいな映画会社の意図が見えてしまうのがなんともイヤな感じです。

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「仮面ライダーW」 いつまでも「二人で一人の仮面ライダー」

平成仮面ライダーの第11作となる「仮面ライダーW」が、本日最終回をむかえました。
今までの10作の中でも名作は数多くありましたが、「W」は個人的には最高傑作と言ってもいいくらいの作品として幕を閉じたと思います。(思い入れが強いのでこの後ムチャクチャ長いです)

正直「W」が始まる前は不安もありました。
10作品目としての「ディケイド」が今までの平成仮面ライダーに及ばず、昭和ライダーまで登場させた究極のお祭りとして仕上がっていたからです。
ここまでに大盤振る舞いをしてしまうと、その後の作品はどうしても小粒に見えてしまうのではないかと。
だいたい今までも様々なシリーズ番組は終盤に過去のキャラクターを総登場させるというような局面がありました。
その瞬間は良いのですが、その後どうしても続く作品を作りにくくなるのです(「ストロンガー」などもそうですね)。
「ウルトラマンメビウス」はその好例で「メビウス」自体は非常にいい作品ですが、その後やはりウルトラシリーズは間が開いてしまいました(「大怪獣バトル」という捻りを加えて復活しようとしていますが)。
ですから「W」は「ディケイド」の後というのは、かなり不利な状況ではないかと思っていました。

けれども実はもともと「ディケイド」の企画は、「W」の企画が始まった後に急遽立ち上がったということです。
ちょっと寄り道ですが、「ディケイド」の役割について少し書いてみましょう。
「すべてを破壊し、すべてを繋げ」が「ディケイド」のキャッチコピーでした。
これは物語の内容を表しているものでもありますし、メタ的な意味で平成仮面ライダーにおける「ディケイド」の役割を表しているものであると思います。
平成仮面ライダーシリーズの特徴はこちらのブログで何度も取り上げているように「革新性」です。
シリーズの今までのパターンに胡座をかくのではなく、常に革新を求め進化していく。
その「革新性」が平成仮面ライダーを長寿シリーズとしてきているわけです。
その中でも一つ重要であったのがドラマ性の重視姿勢です。
かつて昭和ライダーというのは、基本的には一話完結スタイルでした。
けれども「クウガ」以降、シリーズは一年間を通しての大河性というのを重視したスタイルになりました。
それが早くも完成されたのが「アギト」ですが、それにより大人にも観賞に耐えられる作品となったと思います。
しかしその「ドラマ性」というのは諸刃の刃でもあります。
「キバ」では二つの時代を並行して描くというチャレンジを行っていますが、これによりドラマ性はかつてなくあがったとは言えますが、非常に観にくくなってしまったということは否めません。
ドラマ性が強いため、どこかで一度脱落してしまうとついていけなくなるのです。
そうなると一年間というのは非常に長い。
そういう意味で平成仮面ライダーが背負っている「ドラマ性」という枠というのは、制約にもなってきたのです。
それを破壊したのが「ディケイド」であったのではないかと思います。
ある意味究極の「なんでもあり」状態にしてしまい、それで一度平成仮面ライダーというシリーズをリセットしたという役割があったのでしょう。
それが「すべてを破壊し、すべてを繋げ」というコピーに表されていたのだと思います。

そして一度リセットされた平成仮面ライダーを引き継いだのが、本作「仮面ライダーW」です。
本作の一番の特徴は「探偵もの」をモチーフにしているということもあり、「事件篇」「解決篇」の2話セットの構成というのを終盤まで頑に守ったというのがあげられると思います。
これは先に書いた「ドラマ性」の弊害、一度乗り遅れると途中乗車しにくいという状態をなくすことに繋がります。
途中でもエントリーしやすいというのは番組としては非常に大きなアドバンテージであったと思います。
だからといって、平成仮面ライダーが持つ「大河性」が失われているわけではありません。
縦軸としてフィリップの正体、園崎家との関わり、ガイアメモリとは何かといった謎は徐々に明らかになり、また提示されていき、全体としての物語の牽引力も併せ持っています。
特にラストにかけての数話は、最終回が3回ぐらいあるような怒濤の盛り上がりをみせていました(それでも2話スタイルを堅持していたのはすごい)。
平成仮面ライダーの近年の作品は設定の複雑さに伴い、最終回近辺が広げた風呂敷をしっかりと畳みきれていないところがある作品もいくつかありましたが、「W」はそのようなことはまったくありませんでした。
このあたりの「見易さ」と「大河性」の両立が「W」は非常に上手に行われていたと思います。

また「革新性」も失われてはいません。
やはり大きいのは「二人で一人の仮面ライダー」という設定でしょう。
もともとは左右の色が異なるというライダーのデザインが先にあり、その後「二人で一人」という設定ができたということですが、この設定は素晴らしかった。
「探偵もの」というモチーフにも非常にあっていたと思います。
バディものが多いですからね。
「ハードボイルド」に憧れる「ハーフボイルド」探偵の左翔太郎。
すべての知識を閲覧できる魔少年フィリップ。
翔太郎は直感と熱い思いで行動していくタイプであり、フィリップは得られるデータを元に推理していく言わば安楽椅子探偵であり、対照的なふたりですが、強い信頼感で結ばれています。
「バディもの」にはいくつも名作がありますが、翔太郎とフィリップはそれらと比べても遜色のないコンビであったと思います。
かけがいのない相棒である二人の揺るぎない信頼と友情は、今時の関係性が薄い人間関係の社会において清々しく見えます。
特にフィリップ、そしてもう一人の仮面ライダーである照井も、翔太郎の熱い思いに引っ張られるようにしだいに人間性を持っていくのが、子供たちにも何か訴えるものがあるようにも思えました。
翔太郎、フィリップ、そして照井の間にある信頼と友情というのは、もともとの「仮面ライダー」の本郷と一文字の間の関係にも通じるものがあるようにも感じます。

実は「W」は初代「仮面ライダー」にリスペクトしている部分も多くみられます。
まずはデザインに関してですが、「W」は左右の色が異なるという斬新なデザインになっていますが、そのシルエット自体は最近の平成仮面ライダーに比べて非常にシンプルです。
マスクなどもよく見れば、1号2号のようなデザインになっていることに気づきます。
そしてグリーンとブラックを基本カラーとしているのも初代仮面ライダーに通じます。
緑のメモリが「サイクロン(初代ライダーのバイクの名前)」であること、そして舞台となるのが風都であること(初代ライダーのエネルギー源は風力であった)などももともとのライダーへのリスペクトを感じます。
劇場版のところでも書きましたが、そして最も大きな初代へのリスペクトは「正義の味方」であることでしょう。
特に翔太郎は、風都を愛し、その住民を守るために戦います。
翔太郎は確かに「ハーフボイルド」かもしれない。
けれども彼は「やさしさ」と「強さ」を持っています。
弱きを助け、悪しきを挫く、そういうかつての仮面ライダーやその他のヒーローが持っていた心を翔太郎は持っているのです。
今の時代、「やさしさ」を「弱さ」ととらえる向きもあるかもしれない。
けれどフィリップが言うようにやはり「やさしさ」は「強さ」なのです。
風都のために戦う、翔太郎やフィリップ、照井が変身した姿を住民たちは「仮面ライダー」と呼びます。
住民にとって「仮面ライダー」=「正義の味方」なのです。
「仮面ライダー」という名に誇りを持ち、人々のために戦う彼ら。
今の時代にまっすぐに「正義の味方」であろうとする彼らがとてもカッコよく見えました。
かつてのヒーローはみなこういうカッコよさを持っていたのですよね。
そういうことを「W」は思い出させてくれました。

そうそう、亜樹子にも触れないわけにはいけません。
ヒロインらしからぬヒロインという亜樹子。
山本ひかるさんのポテンシャルがあったと思いますが、かつてないヒロイン像を作り出してくれました。
彼女の存在が物語の中でもアクセントになっていました。
DVD版にだけ入っている「左翔太郎妄想日記」の「もし亜樹子が○○だったら」は亜樹子らしさが炸裂していてとてもおもしろいです。
ちなみにその後に続く出演者によるトークもけっこうおもしろい。
山本ひかるさんは関西出身で、フィリップ役の菅田くんも照井役の木ノ本くんも関西。
翔太郎役の桐山くんだけ関東なんですね。
ですので、関西組3人はトークでは大阪弁まるだしでこれがけっこうおもしろい。
山本ひかるさんは普段のノリも亜樹子っぽいですね。

最初から最後までまったく勢いを衰えさせることなかったスタッフに脱帽です。
塚田プロデューサーは、戦隊ものでも「刑事」とか「魔法」とか「カンフー」とか異なるモチーフを持ってきてうまく融合させた実績があります。
今回も設定を聞いたときは「仮面ライダー」で「探偵もの」?っていう感じでしたが、もう今ではこれしか考えられないと思えるほどにしっくりとはまっていました。
脚本も非常に良かったと思います。
メインの三条陸さんは僕はほとんど初めてでしたが、キャラクター像を作り上げるのが非常に上手だなと思いました。
特にキメ台詞系は非常によくて「さあ、お前の罪を数えろ」などはしびれますよね。
2話構成で毎回推理もの、そして仮面ライダーとしてはバトルを見せなくてはいけないというけっこうな制約の中で毎回レベルの高いお話を書いていたと思います。
もう一人長谷川圭一さんも良かった。
長谷川さんは「ウルトラシリーズ」のライターというイメージが強かったですが、「W」でのお話もとてもおもしろかったです。
「ウルトラシリーズ」を長くやっていたせいか、今までの「仮面ライダー」ぽくない不思議なお話が多かったですよね。
パペティアーの回とかはけっこう好きでした。

最終回、フィリップが戻ってきてくれて良かったです。
寂しい顔は翔太郎には似合わない。
いつまでも「二人で一人の仮面ライダー」でいてほしいです。
いつかまた二人に出会えるときがあればいいですね。

劇場映画「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ」の記事はこちら→

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「ルー=ガルー」 京極ファンとしては食い足りない

京極夏彦さんの小説「ルー=ガルー 忌避すべき狼」の映画化です。
この日は奇しくも「カラフル」に続き、小説のアニメ映画化作品を観賞ということになりました。
「ルー=ガルー」は京極さんの作品としては珍しく、未来を舞台にしています。
今回パンフレットを読んで知ったのですが、この未来設定は公募によるものなのですね。
なるほど・・・。
とはいえ、小説は虚実の境目が曖昧になるような雰囲気が他の作品と共通していて、ある種の不安定感というか不確実感みたいなものを持っていて京極さんらしいなと思った記憶があります。

さて、その映画化作品である本作ですが、京極さんの作品の持つ虚実が曖昧になる不安感みたいなものはかなりオミットされているように感じました。
悪く言うと、近未来の管理社会に対する反抗というよくあるパターンの物語になってしまったような感じがします。
もともとはバーチャルによるコミュニケーションによって人との関わりが希薄化した近未来における実体と虚像の曖昧さみたいなものを描いていたように記憶しているのですが、そのあたりは省かれているように感じました。
京極さんらしさはなくなりよくあるアニメになってしまっているというのが、観終わったあとの感想です。
キャラクターデザインもシンプルな分、そもそも実在する存在である葉月、歩未などのキャラクターも、どうもアニメキャラ感が強すぎてそれこそバーチャルな存在のようにも見えてしまいました。
「カラフル」を観たあとだったから、余計にそう感じたのかもしれませんが。
個人的にはこの物語であったら、キャラクターデザインはもう少しリアル系でもよかったのかもしれないと思いました。
ま、マーケティング的には、いわゆるアニメファンを狙っているように思われるので、いたしかたないのかもしれません。
もしくは「けいおん!」を意識しすぎたか・・・。

京極ファンとしてはやや食い足りないという印象でした。

京極夏彦さんによる原作「ルー=ガルー 忌避すべき狼」の記事はこちら→

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2010年8月28日 (土)

「カラフル」 人の心は黒いも白いも全部含めてカラフル

森絵都さんの原作は以前に読んでいました。
非常に印象に残った小説でしたが、こちらが映画化されると聞き、そしてその監督が原恵一さんだと知り、いい作品に仕上がるに違いないと思いました。
その期待は裏切られなかったように思います。

この作品で印象的だった場面は、後半の主人公真と、彼が憧れる少女ひろかのシーンです。
美術部員である真が部室に入ったとき、ひとりひろかが真の描いている途中の絵の前に、黒い絵の具を持ちながら立っています。
その絵はいぜんひろかも好きと言ってくれた絵です。
いつものような笑顔ではないひろか。
そして彼女はこう言います。
「ひろか、おかしいの。狂っているの・・・。きれいなものが好きなのに、すごく好きなのに、時々壊したくなる・・・」
また、こうも言います。
「ときどきとても残酷になる」
彼女はいじめられっこの真にも分け隔てなく明るく声をかけてくれる少女です。
たぶんそういう彼女のまっすぐさ、明るさに真は魅かれたのでしょう。
けれど彼女は年上の男性と援助交際をしてしまう側面もあります。
彼女がホテルに入っていく姿を見たことのショックがひとつは真の自殺の要因となっています。
普通の作品でいったら、彼女はとてもひどい小悪魔な少女像となると思います。
けれどひろかは先にあげたような言葉を発しました。
これはとてもよくわかる、心に響いてくる言葉でした。
少なくとも自分ではそういうふうに思ったことがあります。
人に対して酷なことを言ってしまう自分。
思わず、ふと、だとしてもそういうことを言ってしまうことがあります。
そういうとき後でとてつもない、後悔をしてしまいます。
僕は人にはやさしいと言われることがあるのですが、それには自分では違和感を感じるときがあります。
はずみでひどいことを言ってしまう自分を知っているから。
だから「やさしくはないんだよ」と言いたくなるときもあります。
そしてはずみで酷なことを言ってしまう自分がいるから、やさしくありたいとは思うわけです。
真自身も、学校の同級生のいじめや、ひろかや母親の不実を知ったことにより、自分が苛まれていると感じます。
そして生き返った後も、家族の腫れ物を扱うかのような態度にイライラとします。
けれどその真も母親への態度は決して褒められたものではありません。
息子の自殺未遂の原因が自分にあると認識している母親は、真から見れば抵抗をしない弱者です。
その弱者に対して、彼はまさしく自分がやられていたような酷なことを言うのです。
そして彼はそうしたことにより自己嫌悪に陥るのです。
たぶんひろかもそうでしょう。
いや、真やひろかでなくても、みんなそうなのかもしれません。
その自分の中の黒い部分は人にも言うことはできなくて、みんな黙っている。
けれどその黒い部分が強くなったとき、自分で自分が恐くなったり、恥ずかしくなったりするのでしょう。
言えないから押しつぶされそうになる人もいるでしょう。
本作はそういうことを隠さずに、しっかりと言ったということがすごいなと思いました。
人はフクザツで、わけわかんなくて、おかしいのだけれど、誰でもそうなんだ、普通なんだと肯定しています。
人の心は黒い部分だけでなくて、そして白い部分だけでもなくって、黒いも白いもいろいろな色も含めて全部合わせてカラフルなのだと。
だから生きることは豊かなのです。
本作はそういうことを自覚しながら生きていくことこそが大切だと言っているように感じました。

小説は真の一人称だったように思います。
真が自分自身に対して思っている暗いイメージと、他者が思っているイメージって実は異なっている、他者は真をもっと豊かなイメージでとらえている、というような意味での「カラフル」であったと感じました。
けれど映画は自分の心も「カラフル」で、それは他の人も同じように「カラフル」で、だからこそ生きていくこととは豊かであるというメッセージであったと思いました。
同じ題材でも小説と映画では受ける印象が変わりますね。

舞台となっている東京の二子玉川は以前近所に住んでいたこともあり、よく多摩川にもいきました。
本作は背景はかなり実際の場所に取材しているようで、「行ったことがある!」ところもいくつかあって何か懐かしかったです。

原作小説「カラフル」の記事はこちら→

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2010年8月27日 (金)

記事1000件目

先日こちらのブログが4周年と書きましたが、この記事で1000件目となります。
4周年のときはそれほどの感慨はなかったのですけれど、1000件の大台に突入というのは、感慨深くもなります。
約4年で1000件ですから、1年でおよそ250件の記事を書いたことになります。
そうするとだいたい3日に2件くらいのペースで書いていたわけですね。
我ながらちょっと驚くのは、途中で飽きたとか、止めようとか、苦しいとかまったく思わなかったことです。
自分的にはいい意味でのガス抜きというか、気晴らしになっているのかもしれません。
また書くということにより、自分の頭ん中や心の中を見つめるということにもなっているので、けっこう充実した気分なのですよね。
どちらかというと読んでいただくためというよりは、自分のために書いているようなところもあるのかもしれません。
それであっても読んでいただいている方がいらっしゃるのはありがたいことです。
たくさんの数を書くことを目指すわけではありませんが、いつか今度は2000件に到達する日もあるかと思います。
そのとき、今読んでいただいてる方がまだ読んでいただいていれば、たいへん嬉しいです。
今度ともよろしくお願いします。

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2010年8月26日 (木)

本 「リアルのゆくえ -おたく/オタクはどう生きるか-」

大塚英志と東浩紀というサブカルチャーに造詣が深い二人の批評家がサブカルチャーから政治、社会との関係性について語る7年にも渡る対談を収録しています。
正直言って、二人が語っている内容のたぶん1/10くらいも僕はわからない(特に前半)。
とは言いながら、最後まで読んでしまったのは、二人の議論があまりにすれ違うのが興味深かったから。
本のサブタイトルにあるように二人とも自身をおたく(大塚氏)/オタク(東氏)と自認して、サブカルチャーを担う世代と社会との関わりについて語っています。
ある種共通の興味、バックボーンを持ちながらも、二人の主張というのは見事なくらいにすれ違っています、ものの見事に。
それは1958年生まれの大塚氏、1971年生まれの東氏の世代差と、二人は思っているようなところもあるのですが、僕自身はちょっと違ったりします。
二人が語る細かな事象については知識がないので、よくわからないことが多かったのですが、自分自身で言うと、世代の近い東氏よりは大塚氏の主張している話に共感性を持ちました。
東氏のお話からにじみ出てくるのは、社会への関わりを持っても何も変わらないのではというような諦念のようなものを感じます。
それこそが彼がいう「ポストモダニズム」なのかもしれないのですけれど、どうもこれには心情的には納得がいかないのです。
「オタク」というある種閉じた世界で居心地よく過ごしたいというのの何が悪いのかといったような主張。
そうすることがいけないとは言いませんが、僕としてはそういうふうにしていられるのも、社会で生活できるインフラなりがあり、それは社会が誰かが提供しているということ。
そういう意味では社会と無関係でいられるはずもなく(積極的ではなくとも消極的という関係性がある)、それでいながら「タコツボ化」した外の世界を観ようとしないのは、どうしてなのだろうかと思います。
対談では東氏の主張に対し、盛んに苛立ったように大塚氏が議論をふっかけます。
大塚氏は、社会とのかかわり合いにおいてすぐに合意などはできないにしても、そこで違う意見のもの同士が議論することにより、何かしらが生み出されると言っています。
だからこそ主張の違う東氏と何回にも渡り対談を行っているのだと、大塚氏は語っています。
違う意見のものが語り合う中で何かが生まれるというのは、実感としてあるので大塚氏の主張には同意できます。
けれども東氏が語るように、若い世代というのはそういう議論を避ける傾向にあるのはそのような感じがします。
僕の会社でも若い人はこじんまりと固まりすぎているような気がしてなりません。
僕の仕事はデザインですが、若い人はえらく会社の指示に対してものわかりがいいか、逆にまったく聞いてなくて自分の好きなことしかしないと極端な気がします。
ものわかりがいいにしても、人の話を聞かないにしても共通しているのは、自分と他者との意見の食い違いを調整しようする気がないということです。
当然調整することというのはエネルギーがかかります。
エネルギーをかけてもうまくいかないこともありますし、それによりダメージを受けることもあります。
けれどもびっくりするようなコラボレーションが生まれることもあるのです。
自分だけの閉塞空間にいるということは、それ以上にもそれ以下にもなれないということ。
それ以上になるというのは希望であって、必ずそうなれるとは言えないけれど少なくとも希望はあるわけです。
なにか失うことを恐れるあまり、得ることも放棄しているような感じを若い世代には受けるのです。
「なんでもっとやらないの?」と僕が若い世代に感じる苛立ちは、大塚氏が東氏に感じる苛立ちに近いものがあるような気がしました。
僕も会社で若い世代を教育しなくてはいけないポジションになるに従い、そういう気持ちは強くなります。
けれども若い世代は、東氏のように「なんでこの人はイライラしているのだろう?」と思っているのかもしれません。
そういう意味で、この本におけるお二人のすれ違いっぷりというのは、今の時代においての世代間差のリアルを表している縮図なのかもしれないなと思いました。

「リアルのゆくえ -おたく/オタクはどう生きるのか-」大塚英志+東浩紀著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287957-6

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2010年8月23日 (月)

本 「楽園」

今では宮部みゆきさんの大ファンですが、初めて彼女の作品を読んだのは「模倣犯」でした。
その頃「すごい」と話題になっていたからだったのですが、みなさんもそうだったと思うのですけれど、文字通り衝撃を受けたと言っていいでしょう。
あの作品で描かれていたのは、圧倒的な悪意です。
その悪意というのは、自分を他者とは違うものとし、支配しようとする気持ち。
古今東西様々な物語では「悪」が描かれます。
けれどよくあるのは、その悪は実は彼らなりに事情があったのだというような説明。
もしくはおとぎ話的な抽象的な悪。
けれども宮部みゆきさんの作品に書かれる悪はその心根が目を背けたくなるように醜いのです。
彼ら悪人は度々自己中心的であり、他人や社会や世界は自分のために存在しているかのように振る舞います。
周りの人のことを思う気持ちなどこれっぱかしもない。
本著「楽園」の中で使われる言い回しでいうと「ろくでなし」なのです。
そういう自己中心的な悪に対抗するのは、探偵やヒーローなどではなく、一般的な庶民です。
これは「模倣犯」に限らず、宮部みゆき作品の多くに共通していることですが、悪意へ対抗できるのは、普通の人が持っている当たり前の感覚。
家族を愛すること。
周囲の人々のことを気にすること。
昔の下町では普通にあった関係性こそが、醜い悪と対抗できる手段なのです。
それを正面切って逃げずに書いたのが「模倣犯」であり、そのために読む側は圧倒されるのです。

けれどその作業は作者にとっても過酷であったのでしょう。
文庫版の解説で東雅夫さんが書かれていることに納得してしまいました。

<下記、引用>
そしてそれは同時に、本書の作者である宮部みゆき自身にとっても、必要とされるリハビリだったのはないだろうか。
一九九〇年代の後半をほぼ丸ごと費やして完成に漕ぎつけた対策「模倣犯」の執筆が、作者に多大な緊張とストレスを強いたことは、各種インタビューなどでの発言からも容易に察せられるところである。作中で滋子が洩らす苦悩や逡巡の言葉は、ときに作者自身の述懐のようにすら感じられるほどだ。
<引用終わり>

確かに圧倒的悪を描写するとき、それは作者はその悪に直面せざるをえません。
読者は宮部みゆきというフィルターを通してその悪に接しているわけなので、その過酷さは和らいでいます。
本作品で人の心を読むことができる超能力者である少年、等が、自分が意図せずに流れ込んでくる人の心の悪意に悩み、それを吐き出すために絵を描くというところがあります。
なにか宮部みゆきという人は、僕たち一般人よりも非常に感度が高く、人の悪意を感じてしまうという点で、等という人物に彼女の姿を投影してしまいます。
ですので、東さんが書いているリハビリというは非常にわかるのです。
「模倣犯」から「楽園」を書くまでなぜこんなに時間がかかったのか。
それは宮部さんの中で消化する時間がかかったからなのでしょう。
そしてなぜ、「模倣犯」の続編である「楽園」を書くのか。
それは東さんが言っているように、書くことにより宮部さんの中で「癒す」作業であったのではないかと。
物語を紡ぐ人というのは、それに対して大きなエネルギーを使います。
たぶん読者である僕たちが想像する以上に。
だから「書けなく」なる人も出てくるのでしょう。
でも宮部さんは書き続け、それでもたぶんどこかで整理したいという気持ちがあったのかもしれないなと思いました。
それが「楽園」であったのではないかと思います。

本作品を読むにはそれなりの覚悟はいるかと思います。
それだけ宮部さんのエネルギーが込められています。
そして最後にはなにか救われる気持ちになります。
それは宮部さん自身がたどり着いた「癒し」なのかなとも思いました。

「楽園<上>」宮部みゆき著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-754907-7
「楽園<下>」宮部みゆき著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-754908-4

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2010年8月22日 (日)

「劇場版 『怪談レストラン』」 今風の都市伝説

「怪談レストラン」って、子供たちの間で人気なんですねえ。
シリーズ50作(!)にもなる人気短編怪談集だそうです。
全く知りませんでした・・・。
そういえば、子供の頃って怪談というか、都市伝説系の話って盛り上がりましたよね。
僕の頃でいったら、「口裂け女」(古っ!)とか、「トイレの花子さん」とか、「人面犬」とか・・・。
いつの時代でも子供たちってこういう話題が好きなんでしょうね。
怪談集のイラストを見てみると、恐いというより、なんか味があってかわいいところもあったりして。
このあたりも子供たちにウケている点なのかもしれません(コワ面白いというのだそう)。

ということで、お話はいたって子供向けのなので、まあどうということはないといった感じでしょうか。
観に行った回は、ほとんど親子連れ(それも女の子が多い。こういう怪談ものって女の子のほうが好きなんですよね)で、大人だけっていうのは僕以外は一人、二人ってところでした。
僕は脚本が米村正二さんという「仮面ライダーカブト」とか「仮面ライダーディケイド」のメインを担当していた方だったので、ちょっと興味があって観に行ったわけです。
お話としては、さきほど書いたように子供向けのお話であったので、米村さんらしさみたいなものはほとんど感じられなかったですね。
収穫といえば、主人公の自称怪奇探偵天野ハルを演じた工藤綾乃ちゃんでしょうか。
なんでも彼女は第12回全日本国民的美少女コンテストでグランプリとモデル部門賞のダブル受賞をしたということです。
1996年生まれなので、現在14歳。
当然まだ幼い感じもありますが、さすがモデル部門賞をとっただけあって、いまどきの子っぽくスラッとしてスタイルがいい子です。
これでちょっと顔立ちが大人っぽくなったら、美人さんになるのではと、要チェックです。

この作品、前菜(アニメ)とメイン(実写)の二部構成になっています。
アニメはテレビでも放映されていて人気だとか。
そこで気になったのは「のろちゃん」と「わらちゃん」というコンビ。
のろちゃんは呪いの依頼を受けると、わらちゃん(藁人形ね)に五寸釘を打ち込むんだそう。
けどのろちゃんとわらちゃんはいっしょに呪いをかける仲良しパートナーらしい。
なんかシュールな関係・・・。
ちょっと原作を読んでみたくなりました。

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2010年8月21日 (土)

「特攻野郎Aチーム THE MOVIE」 アメリカの梁山泊

80年代の人気テレビドラマ「特攻野郎Aチーム」の映画化作品です。
人気と言いましたが、僕は日本でオンエアしているのは知っていたのですが、全く観ていなかったので、予備知識はほとんどありませんでした。
「ロッキー3」の相手役ミスターTが出ていたなあ、くらい。
故にオリジナルへの思い入れはありません。

「すっごいおもしろい?」と言われれば、それほどでも・・・って感じだし、「じゃ、つまんない?」と言われれば、つまんなくもないんだよね・・・という感じでした。
ストーリーはさほどグイグイ引っ張って没入していくほどの吸引力があったかと言われると、それほどのことはない。
テレビシリーズのある1回とみたら、おもしろいというかもしれないというところ。
でも魅力的だなあと思ったのは、やはり「Aチーム」のメンバー4人のキャラクターの強さということでしょう。
作戦担当でチームを引っ張るカリスマリーダー、ハンニバル。
にやけたプレイボーイで、調達できないものはなにもない調達担当、フェイス。
飛行機が苦手な空挺部隊員で、メカニック担当のB.A.。
ちょっとねじが外れているような奇妙な行動をとるけれども、腕は抜群のパイロット、マードック。
この一癖も二癖もあるようなAチームのメンバーのキャラがたっていて、その点は楽しめました。
個性がさまざまなメンバーですが、彼らの共通点は、タフガイであるということ。
そして皆、アメリカ陸軍のレンジャー出身であり、その出自に強い誇りを持っているということです。
ようは彼らは気持ちいいくらいの正義漢であり、アメリカ流に言えばGOOD GUYなのです。
彼らを観ていてふと思い浮かんだのは、「水滸伝」でした。
みなさんご存知の通り「水滸伝」では、「梁山泊」に集まった108人の英傑・豪傑たちが悪政をひく宋に対して、志を掲げながら戦っていくという中国の物語です。
彼ら豪傑たちは、それぞれに腕に自慢があります。
剣術、棒術、腕自慢、知略、諜報、さらには医術、砲術、馬の飼育などなど彼らのスキルは多岐にわたります。
さらに彼らは大概が問題児であり、鼻つまみものでした。
しかし「梁山泊」のリーダーになる晁蓋と宋江の世を変えたいという志のもとに彼らは集結し、時の政府と戦うのです。
彼らは「梁山泊」の一員であることに誇りをもち、そして世の正義の為に戦い、散っていきます。
Aチームというのは、まさにアメリカの梁山泊であるなあと思いました。
誇りや正義に命をかけるというのは、現実にはなかなかできないことです。
どうしても保身に入りたくなるものです。
でもそういう時代だからこそ、誇りや正義に体をはる野郎どもの姿には、なにかロマンチシズムのようなことも感じます。
「特攻野郎Aチーム」の映画化と聞いたときは、なんで今作るの?って思いました。
けれど、世界的に閉塞感があって、守りに入っている時代に、バカみたいにまっすぐに暴走する野郎どもの姿はけっこう爽快に見えるなと思いました。
そのあたりが狙いであったのかもしれません。

テーマソングがほんと一昔前のアメリカンなドラマな感じで、懐かしさがあって、なんか耳に残って離れません・・・。
これ、日本でドラマを放映するとき「特攻野郎」って邦題を最初につけた方、非常にセンスありますよね。
まさにAチームの特徴を言い表していると思います。

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2010年8月17日 (火)

「月に囚われた男」 静かなる緊張感

公開時から気にはなっていたのですが、東京では公開館が恵比寿のガーデンプレイス(行くのが面倒なんですよね)だけという状況だったため、行きそびれてしまった作品です。
DVDがリリースされたので、さっそく借りて観てみました。

いいですね、これ!
なんとなく「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号内部を髣髴とさせる月基地のセット。
そしてデイヴとHALの関係を連想させるような、宇宙飛行士サムと月基地を管理するロボット、ガーティ。
サムは三年間の契約でたった一人で、月の鉱物採掘基地に派遣されています。
話し相手はロボットのカーディだけ。
当然のことながら、観ている観客は「2001年宇宙の旅」が頭の中をよぎるわけで、なにか両者の間には緊迫感を感じてしまいます。
例によって、コンピューターの反乱かと。
けれどもそういう観客の予想を裏切り、物語は違う方向に進んでいきます。

<ここからネタバレありますので、注意>

三年の任期が近くになるにつれ、サムは幻覚を見たりし、体調の変化を感じます。
そんなとき彼は採掘作業中に事故に合います。
月面車が採掘機とぶつかる事故により、サムは大けがをしてしまいます。
そして彼が再び目覚めたとき、彼は月面基地にいました。
どうやって戻ったかもわかりません。
何が起こったのか、調べようとしてもガーティは何故か基地外に出ることを止めようとします。
このあたりガーティが何かよからぬことを企んでいるような感じをさせます。
けれどこれは観客が「2001年」を観ている前提での巧みなミスリードになっています。
ガーティの裏をかき、基地の外に出て、採掘機に向かうサム。
採掘機にぶつかっていた月面車の中で発見した人間は、サム自身でした。
混乱するサムとサム。
そして彼らは真実に気がつきます。
彼らはクローンであったと。
たぶん彼らが3年任期と言われているのは、クローンの耐久年数が3年だったということでしょう。
宇宙飛行士、クローンというと、昨年公開された邦画「クローンは故郷をめざす」を思い出させます。
あちらはどちらかというと「2001年宇宙の旅」の後半の観念的な部分に影響を受けたような、哲学的な雰囲気がありましたが、「月に囚われた男」はそこまでわかりにくくはありません。
あえて哲学的な方向にはもっていかず、基本的にはエンターテイメントであると思います。
ですので、誰でもこの物語を楽しむことはできると思います。
しかしエンターテイメントとは言っても、低予算のために派手なシーンがあるわけでも、限られた登場人物(というより基本的に一人)であるわけですのでキャラクター同士の絡みがあるわけではありません(それをサム同士の絡みでやってしまう脚本のアイデアがいい)。
「2001年宇宙の旅」を想起させるその静謐さみたいなところはインディペンデントな香りは持っていたように感じました。
それでもクローンであることに気づいたサムたちが、彼らが生きているということの尊厳をかけた試みを行おうとするところは静かながらも緊迫感を感じました。
このあたりは巧みな脚本、そして抑えた中にも緊張感を出させる演出の冴えがあったように思えます。
監督はあのデイヴィッド・ボウイの息子、ダンカン・ジョーンズ。
こちらの作品がデビュー作ということですが、才能ありますね。
次の作品に期待したいと思います。

最近の邦題って、英文そのままのカタカナだったり、まったく原題とは関係ないタイトルになっていることが多いですが、本作の邦題はとても良いですね。
この映画の本質をとらえているいい邦題だと思います。

「2001年宇宙の旅」の記事はこちら→
「クローンは故郷をめざす」の記事はこちら→

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本 「進化の運命 〜孤独な宇宙の必然としての人間〜」

進化論の論客として有名な科学者でアメリカのS・J・グールドがいます。
彼の著作で「ワンダフル・ライフ」という本の名を聞いたことがある方もいらっしゃるかと思います。
彼の言葉でよく引用されるのは、「生命のテープをもう一度再生したら、人類が存在するかどうかわからない」というものです。
我々人類がこのような状態で現在存在しているのは、様々な要因が偶然に重なった結果であって、もう一度同じように地球の歴史を繰り返したとしても、人類が存在するかどうかわからないといったものです。
ゆえに彼は「創造論」に対しては反対の立場をとっています。
「創造論」というのは、人間が猿から進化したというダーウィニズムを否定し、聖書に書かれているように人間は神が作ったということを主張している考え方です。
驚くべきことに、アメリカのいくつかのキリスト教保守が強い州では学校の授業でも「創造論」を教えているのです。

さて前段が長くなりました。
本著の作者はサイモン・コンウェイ=モリスというイギリスの科学者です。
彼のグールドの考えに反対し、「生命のテープを巻き戻しても、人間に似た生命は誕生してくるであろう」という主張です。
その際、彼が何度もあげる言葉が「収斂」です。
生命が進化するにあたっては分子的レベルから、理論的にはさまざまな組み合わせが考えられます。
そのパターンは莫大で、すべてのパターンを試してみたら、今までの宇宙の歴史があったとしても試しきれない数になります。
だからこそ「人類は孤独である」と主張する人々がいるのですが、本著の著者は実はすべてのパターンを自然は試しているのではなく、何かしらの方向性があると語っており、それが「収斂」であると言います。
地球上の様々な生物で似たような機能を別々の系統の生物が獲得するということがあります。
人間の眼と実はタコやイカの眼というのは大変似た機能を持っているということです(「並行進化」とどう違うのか僕はよくわからなかったですが)。
ここで行われているような特定の方向性を持った方向に進化するという「収斂」が起こっており、そのため人類のような生命が登場するのは必然であると言います。
グールドの説も彼の著作を読んだとき納得したのですが、こちらの説もなるほどと思いました。
確かに自然はすべてのパターンを順列組み合わせで試しているような感じはしない。
ある種の方向性があるのかもしれないなと思いました。
ここまではなるほどです。
でも最後はちょっと首をひねりました。
本著の著者はキリスト教の信者であるということで、ある種人類が必然的に誕生することへ、神の定めのようなことを書いています。
これはちょっと違う。
というより一緒に語ってはいけないのではないかと。
たぶん著者のモリスは、グールドが「創造論」を攻撃し、さらにはキリスト教的教義についても責めたてることへの不満があったのかもしれません。
グールドの学説と対抗する説を唱えるのはいいのですが、それと宗教をいっしょに語ると議論がややこしくなるだけのような気がします。
このあたり、もう少し考えてほしかったなと思いました。

この本自体はけっこう専門的で読むのにエネルギーがいります。
僕もすべてわかったような気もしてません。
ですので、上記解釈についても僕の勘違いとか思い違いもあるかもしれませんので、その点はご容赦を。

「進化の運命 〜孤独な宇宙の必然としての人間〜」サイモン・コンウェイ=モリス著 講談社 ハードカバー ISBN978-4-06-213117-9

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2010年8月16日 (月)

「ベスト・キッド(2010)」 Everything is Kung-Fu

ジャッキー・チェンは、こちらのブログでも何度か書いているのように僕の世代的には10代のときのヒーローなのですよね。
彼の映画をテレビで観たら、翌日の学校ではみんなカンフーのマネとかしてましたもん(今思えば、やはり中学男子は幼い)。
その当時よくテレビでオンエアされていたのは、「スネーキーモンキー/蛇拳」とか「ドランク・モンキー/酔拳」でした。
そこでのジャッキーは、赤鼻の師匠にしごかれる弟子役なんですよね。
ジャッキー演じる弟子は師匠に何の役に立つのかわからない特訓をさせられ、あまりの厳しさに逃げ出してしまうなんていう場面もありました。
ジャッキーの役はちょっとお調子者な弟子なのですが、これは本作にも通じるところがありますよね。
そのジャッキーが師匠役で出るというのが、本作「ベスト・キッド」。
もしや赤鼻にして飲んだくれてやしないだろうなあという期待をもちつつ(実際はしてません)、観賞しに行ってきました。
ご存知の通り、こちらは日米でヒットを記録した「ベスト・キッド」のリメイクですが、個人的にはオリジナルへの思い入れはそれほど強くないので、やっぱり「ジャッキーが師匠役」ていうほうが響きます。
オリジナルの原題は「KARATE KID」で文字通り主人公がやる武術のは空手なのですが、本作ではそれがカンフーになっています。
もともと日本の空手は、沖縄へ中国から伝わった「唐手」(唐=中国ね)が元ですから、ルーツは一緒です。
舞台も中国の北京になっておりかなりオリジナルから変わっていますが、その骨子というのは変わっていません。
いじめられっ子が師匠の教えに従い、やがて強くなる。
そして師匠と弟子の間には世代が離れた友情にも似た強い絆が結ばれるというストーリーの芯はそのままです。
オリジナルへのオマージュもたっぷりで。
箸で蝿を捕まえるっていうやつとか(このときのジャッキーは若かりし頃のユーモアを思い出させてくれます)。
日常の何気ない動きから、拳法の動きを学ぶっていうのも同じでしたね(オリジナルは有名なワックスがけ!)。
オリジナルは決め技が鶴の型でしたが、本作では蛇の型で、このあたりのオマージュ(オリジナルとジャッキーへの)も嬉しいところ。
ジェッキー・チェン演じるハンのセリフで、「Everything is Kung-Fu」というのがあります。
日常のすべての中にカンフーがある。
それは特別なこと、つまり技を習うということが重要なのではなく、日常の人の所作・動作を通じ、人間の体の特性を知るということが武道において重要であるということでなのでしょう。
そして日常のすべての動きを意識を集中して(focusとハンも言う)行うということが大事。
これは侍の所作などにも通じますよね。
このような精神はオリジナルから大切に継いでいます。
というよりオリジナルはカンフー映画からその精神を継いだのかもしれません。
それが本場に戻ってきたというのが、本作なのかもしれません。
中国は近年世界経済が低迷する中でも急激な成長を続けています。
しかし日本もそうであったように、成長の中で伝統の中で脈々と受け継がれてきた精神が消え去ろうとしているのかもしれません。
日常の中にカンフーがあるという考え方は薄くなり、変わってカンフーは勝つためのスキルとなってきているのでしょうか(いじめっ子の師匠はそういう考え方)。
武道の中心にある精神性が消え去り、その外側にあるスキルだけが残ってきているのかもしれません。
そこにあるのは人としての成長ではなく、相手に勝つことだけ。
かつて欧米のニューエイジ世代が憧れた世界と同一化するような東洋的思想はそこからは消えてきているのかもしれません。
カンフーだけでなく、自国の、また自分の利益だけを追求する姿勢を見せる中国も変貌してきていることを示唆しているようにも思えました。
ジャッキー・チェンもそういう変貌に対して、何か言いたいことがあるのかなとも思ったりもします。

ウィル・スミスの息子のジェイデン・スミス君、映画で観るのは初めてです。
さすがカエルの子はカエル、運動神経がいいですねー。
あの歳で、腹筋割れてるし・・・。
幼い頃から武道をやっていたということで、カンフーも様になっていました。
最後の武道大会もけっこう力を入れて観てしまいました。

こういう映画を観ると空手やカンフーの「型」とかやりたくなりますねー(中学生の頃から、変わってないじゃん)。
最近、スポーツジムで格闘技エクササイズ「Fight Do」にはまっているので、今週末も行ってこようっと!
こちらで「Fight Do」ブログをやっているので興味のある方はご覧になってくださいまし)

あと〜、ジャッキーの声が聞きたいので字幕版を観たのですが、吹き替え版は当然のことながら、ジャッキーの声は石丸さんですよね?
吹き替え版も観たいかもしんない。

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ブログ4周年

そういえば、昨日がこちらのブログの4周年記念日でした。
もう、1年目や2年目のような感慨深さはありませんね。
でもダラダラと続けているわけではなくって、どちらかというと自分の生活のリズムの中に組み込まれてしまったという感じでしょうか。
ご飯食べて、お風呂入って、寝る、みたいなことに、映画を観る、ブログを書くというのが自然と入っているというか。
長年ブログをやっていると、おなじみさんでもいつの間にか更新がストップしてしまったりする方もいらっしゃいます。
けっこう続けるのがしんどいということがあるのかもしれません。
僕はあんまり苦でもなくって、気負いもなくやっているのがいいのかも。
どちかというと自分の頭と心が整理できるので、効能があるかなとも思ったりもします。

その効能とは・・・。
僕は仕事ではデザインとか広告企画とかの仕事をしています。
デザインにしろ試行錯誤をしながら作るのですが、最近はいろいろやって悩むっていうことがなくなりましたね。
たぶん正解はこれかこれ!みたいな感じで経験値があるからか直感的にわかるようになってきました。
でもこの直感的にっていうのが、けっこう人に伝えるのが難しいのです。
「これいいんですよねー」というのは事務系、技術系の人ともになかなか通じない。
クリエイティブ系の人は人種が違うと言われてしまうわけです。
その上、これ好きとか嫌いとか感覚的な話をされたりして困るということもしばしばあったりします。
でもブログで映画の話を書くようになってくて、そんなことも少なくなりました。
僕のブログでは映画のことを絶賛するときも、けちょんけちょんにするときも、何故にそう思うかをなるべく書くようにしています。
どうして自分はこう感じたのかという理由を探そうとします。
大概、それは理由があったりするのですね。
そういう自分の心理を客観的に観て、それを人に伝えるという訓練がブログでできているような気がします。
なので仕事でも、自分が直感的に感じたことを、これこれこういう理屈でこういいのですよーと説明できるようになりました。
そういう話し方をすれば、デザインなどはわからないと言っている人たちも納得できます。
好きとか嫌いとか言っている人にも、「あなたの嫌いはここがポイントですよね、だったらこうしたら良くなるのではないですか?」みたいなことを言うことができるようになります。
映画とかデザインとかは直感的に感じることが最も大事ですが、それを客観的に観れることもとっても大事。
それが人とのコミュニケーションに関わる部分ではなおさらのこと。
このあたりについて、僕はブログを書くことによって鍛えられているなあと思ったりしています。

一応周年なので、今回は真面目っぽい話ということで(笑)。

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2010年8月15日 (日)

「ゾンビランド」 ゾンビが出てくる「ミッドナイト・ラン」

せっかく渋谷に行ったので、「ヤギと男と男と壁と」の後にこっちでしか観れない映画をもう一本観ようと。
ほんとは「フローズン」にしようかと思っていたんですよね(暑いし!)。
でも昨日、レザボアCATsのとらねこさんとお話ししたときに、けっこう「痛い」描写があるとお聞きして、ちょっとビビリーに。
痛い映画苦手なのです。
代わりにとらねこさんがオススメの「ゾンビランド」を観てきました。
ホラーものは苦手なんですが、「バイオハザード」が問題なければ大丈夫そうだったので、勇気をだして行ってきました!

むっちゃおもしろかったです!
「フローズン」じゃなしに、こっちにしておいて良かった〜。
恐いというより、ハラハラドキドキでかつ笑いもあり。
同じ系統のゾンビ映画では「ショーン・オブ・ザ・デッド」がおもしろかったですが、こちらもそれに負けず劣らず。
最近のゾンビは全力疾走ですからね、展開もスピーディです。
特に最後の遊園地のクライマックスはなかなか見ごたえありました。
ちなみに僕はチキンハートなので、遊園地に行ってもお化け屋敷はNG。
かつ高いところも苦手なので、ジェットコースターとかフリーフォール系はまったくダメ。
お金くれると言われても乗りたくありません。
遊園地行ってもまったく楽しめるところはないですよね〜。
クライマックスのフリーフォールでのゾンビ襲撃は、ホラーと高所という苦手のダブルパンチで自分が同じ立場だったら速攻気絶していることでしょう(笑)。

主人公はコロンバスとタラハシーの二人組。
コロンバスはチキンハートな大学生。
まったくアクティブなところはないように見受けられます、ゾンビだらけのアメリカをなぜか生き残ってきました。
その理由は臆病だから。
臆病だからこそ、32のゾンビ対策ルールを自分で定め、それを忠実に実践してきて生き残ってきたのです。
これってよくわかります。
僕も臆病者だから、仕事でもなんでも早め早めに準備するタイプ。
待ち合わせ場所には10分前に到着みたいな。
アクシデントがおっかないから、準備万端でことに挑むっていう感じです。
コロンバスと相棒になるのはタラハシーというマッチョでアメリカンな男。
こちらは全く逆の性格で、ゾンビを前にしても何も変わらない、というよりゾンビ狩りを楽しんでいるようなところもあります。
この真逆な二人のコンビがゾンビを倒していきながら、旅をしていきます。
タイプの違うふたりの掛け合いがおもしろいです。
パンフを見たら、監督が「『ゾンビランド』はゾンビが出てくる『ミッドナイト・ラン』だ」と語っていました。
なるほど!それはまさに言い得て妙です。
真逆な二人の旅、そして掛け合いというのは、「ミッドナイト・ラン」のジャックとデュークを髣髴させます。
コロンバスとタラハシーの二人に、ウィチタとリトルロックの姉妹が加わり、四人でゾンビがいないと言われるパシフィックランドを目指します。
この作品、ただのゾンビ映画ではなくって、家族を失った者たちによる疑似家族としての物語としての側面もあります。
コロンバスは、ずっと小さい頃から人間関係に消極的で、今は親元も離れているので、親の生死もわからない。
タラハシーは強気なだけのマッチョマンだと思ったら、実はゾンビによって愛息を失った経験があり、ゾンビを憎んでいます。
ウィチタとリトルロックはたぶんゾンビランドになる前も二人だけで生きてきていて、だから周りの人を騙して生きてきました。
それぞれがそれぞれの理由でひとりぼっちなのですよね。
けれどいっしょに旅をして行く中で、次第次第に疑似家族のようになっていく。
あのタラハシーが息子のことをみんなに話したのも、心を許すようになったからなのでしょう。
でも彼らは家族のようになっていくことにとても臆病です。
なぜならいつ大事になってしまった人を失ってもおかしくない状況だからです。
大事な人を失う苦しみは味わいたくないから、大事な人なんかそもそもいらないっていうことなのですよね。
コロンバスの32のルールの一つに「Don't be Hero(ヒーローになるな)」というのがありました。
誰かのためにヒーローになろうとカッコつけたら、自分の身がやばいということです。
でもコロンバスは最後に好きになりかけているウィチタの危機に、そのルールを破ります。
このあたりは一見キワモノ映画と思われそうな作品でありながら、まっとうな爽快感がありますよね。
ゾンビ映画なのに、最後はなんだか爽やかな感覚で観終えられます。

僕もこの夏のオススメ映画にしたいと思います。

「ショーン・オブ・ザ・デッド」の記事はこちら→
「ミッドナイト・ラン」の記事はこちら→
この2本もオススメです。

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「ヤギと男と男と壁と」 エスパーでソルジャーがラブでピース?

ジョージー・クルーニー、ジェフ・ブリッジス、ユアン・マクレガー、ケヴィン・スペイシー。
なんという錚々たる顔ぶれ・・・。
アメリカ軍には実際に超能力部隊というのがあったらしいです。
トンデモネタでも、アメコミでもなくって、ほんとうに。
この手のネタは僕的にはけっこうツボで、そういう彼らの(ほんとに)特殊な活動を映画化したのが本作品で、上のメンバーですから期待しないわけにはいかないでしょう。

ユアン・マクレガー演じる地方紙の記者ボブは、あるきっかけでアメリカ軍にある超能力舞台の存在を知ります。
そしてその部隊に在籍していたというキャシディ(ジョージー・クルーニー)と、偶然知り合いその取材を敢行します。
彼らは「キラキラ眼」で"遠隔視”をしたり、ヤギ(タイトルのヤギはこれ)を睨み殺したり(いわゆる「邪眼」というやつか?)する訓練を行っているといいます。
これがほんとなのか、うそなのか、映画の中ではよくわかりません。
わかるのはキャシディを含め、超能力部隊のメンバーは超大真面目っていうこと。
ちなみにキャシディはボブ(ユアン・マクレガー)に自分たち超能力部隊兵士のことを"ジェダイ"と言っています。
ここは映画ファンとしてはクスリと笑うとこなのでしょう。
そもそもその超能力部隊はベトナム戦争を経験した後、ビル・ジャンゴ(ジェフ・ブリッジス)が作り上げた部隊。
その部隊の設立の考え方には時代を映し出してか、ニューエイジ思想というか、ラブ&ピースの思想が色濃くなっています。
そもそもニューエイジ思想というのは、ベトナム戦争を経て芽生えてきたものであって、それってアメリカ軍とは基本的にものの考え方が違うんじゃないのというところのほうが、超能力部隊云々よりもトンデモで興味深い感じがします。
ニューエイジ思想っていうのは、スピリチュアルな視点で基本的に国とかを超越して、世界は一つだと考えるものですよね。
そんな中で超自然的な存在とか、超能力への憧憬みたいなものが生まれたわけです(日本でいったら雑誌「ムー」はそういう時代を背景に出版されたのだと思います)。
で、アメリカ軍ていうのは文字通りアメリカという国家の国益のために存在するわけです。
国家の軍とニューエイジ思想って真反対の考え方だと思うのですが、そのあたりを許容しちゃったりするところがアメリカという国の懐が深いところ?なのかしらん。
この作品は実在した超能力部隊のトンデモ感というより、この思想のチグハグ感を楽しむ作品なのかもしれないです。

で、楽しめたかというと。
うーむ、いまいち?
途中ちょっと意識不明になってしまったし(昨日飲み過ぎ?)。
そもそも世代的にニューエイジ思想とかヒッピーとかは知識として知っているだけで、その時代の空気を知っているわけではないので、なんとも感想を書きづらい。
その時代を生きた団塊の世代あたりの方が観たら、違う感想があるかもしれません。
ズレた超能力部隊のメンバーが醸し出すクセのある笑いがある作品か、もしくはナンセンス系の映画ともともと思っていたので、ちょっと予想と違うテイストだったのでとまどったのかもしれません。
もっと奇妙キテレツな作品かと思っていたのですが、思いのほか普通に感じてしまいました。

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2010年8月14日 (土)

「きな子 ~見習い警察犬の物語~」 教えるものと教えられるもの

普段は、動物ものと難病ものの映画は好んで見ないのです。
というのも決まって泣かされるから。
いや泣くのがイヤってわけではなくて、なんというか予定調和的に泣かされるのがちょっとイヤだったりもして。
さあ、感動しなさい!といった出され方をするのはちょっと・・・みたいなところもあったりして。(我ながら天の邪鬼だなあ)。

と言いながら、今回は「きな子 ~見習い警察犬の物語~」を観てきました。
何故かと言えば、予告編で流れていたきな子のずっこけぶりにハートをわしづかみにされてしまったからです。
そもそもきな子は実在する香川県在住の見習い警察犬。
きな子が警察犬の発表会に出たときの様子をニュースで流したら話題になったということです。
予告編で流れていたのは、ほんとのきな子の映像だったんですねー。
警察犬の訓練では、障害物をジャンプするというのがあるそうです。
映像では、きな子が障害物を越えてジャンプ!!
したと思ったら、後ろ足が引っかかって、顔面着地。
むっちゃ痛そうやん・・・。
芸人だってこんな見事にコケへんで、というずっこけぶり。
かわいいじゃないかー。

物語は、見習い警察犬きな子と夏帆さん演じる見習い訓練士の杏子(きょうこなのだが、きな子とペアなので「あんこ」とみんなに呼ばれる)の成長物語。
なにをやってもどじで失敗ばかりのきな子。
お父さんのような訓練士になりたいという気持ちは強い杏子も経験不足で空回りをしてしまいます。
失敗ばかりのきな子に、杏子は厳しい訓練をしたり、怒ったり。
それでもきな子は杏子が大好きで、いつもしっぽをふりふりしています。
杏子は自分の夢がきな子の幸せを奪っているかもと気づき、訓練士をあきらめようとします。
そんなとき、住み込みをしていた警察犬訓練所の娘、新奈が行方不明に。
きな子と杏子は、新奈を探し出せるのか・・・。

予想通りという展開でありながら、結局やっぱり泣かされてしまいました。
こういう成長もの、感動ものには弱いのです。
教えるもの、教えられるものにはやはり信頼感が必要です。
訓練士と警察犬という関係だけじゃなくって、それは人と人の関係も同じこと。
会社で言ったら上司と部下。
学校で言ったら先生と生徒。
家庭で言ったら親と子供。
教えられるものが教える人を信頼するのはもちろんですが、教える人も教えられる人を信頼しなくてはいけません。
劇中で警察犬訓練所の所長が杏子に言うセリフで、
「未熟なきな子のためにおまえがおる。未熟な訓練士であるおまえのためにきな子がおる」
というのがあります。
これはそのまんま先ほどにあげた教えるもの、教えられるものの関係にも当てはまります。
「こいつはどうせダメだ」というような思いが教えるものにあったら、人は伸びません。
教えられるものから、教えるものが教わることもあるのです。

ほんもののきな子はまだ警察犬試験に挑戦中だとか。
こんどは受かってね。
がんばれ!きな子!

ほんとのきな子はこちらで観れます。
 ↓

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2010年8月13日 (金)

「魔法使いの弟子」 一般ファミリーで観に行くには外さないセレクト

ジェリー・ブラッカイマー製作、ジョン・タートルループ監督、ニコラス・ケイジ主演という「ナショナル・トレジャー」トリオによるファンタジー・アクション映画です。
「魔法使いの弟子」っていうと、ポール・デュカスによるクラッシックを思い浮かべます(「のだめカンタービレ」でも重要な曲になっていたので、ご存知の方も多いのでは)。
本作はディズニーアニメの「ファンタジア」の中の一遍「魔法使いの弟子」にインスパイアされて作ったということです。
そういえば、ミッキーが箒に魔法をかけて掃除をさせるシーンは見たことがあるような・・・。

冒頭に書いたように長年一緒に仕事をしていて、娯楽作を作るのにも手慣れたチームなので、十分に娯楽として楽しめる作品になっています。
ちょっと手慣れすぎていて、映画ファンとしては食い足りない感はあるにはあるのですが、夏休みにファミリーで映画を観に行くときのセレクトとしては外さない作品と言えます。
ストーリーとしては複雑すぎず、映像としての見せ所も随所にいいバランスで入っているので、お子さんでも飽きずに退屈しないで観れると思います。
そういう娯楽作品としてのバランスの良さというのは、ディズニーらしいといえばディズニーらしい。
映画ファン受けするエッジはほとんどないのですが、ニッチなファン層は元々狙っていないと思われるので、こういう割り切りはありでしょう。

個人的には魔法使いの弟子デイヴの幼友達のベッキーを演じていたテリーサ・パーマーが美しくて見入っていました。
今まであんまり観たことがなかったのですが、オーストラリアの女優さんだとか。
ニコール・キッドマンといい、オーストラリアの女優さんはブロンドの美人さんが多いですよね。

最後に一言。
個人的に何度観ても、ニコラス・ケイジはロン毛は似合わないと思うのですけど・・・。
けっこうロン毛で出てくることが多いですよね。
本人は気に入っているのかな?

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2010年8月12日 (木)

本 「シンメトリー」

こちらの作品は誉田哲也さんの「姫川玲子刑事」シリーズの一冊で、短編集になります。
最近は女性刑事が主人公の作品は小説でも映画でも多いですよね。
そして女性が主人公でありながらも、起こる事件はけっこう陰惨なものであるのも最近の傾向でしょうか。
これは「羊たちの沈黙」あたりを発端にしているかもしれないですね。
「姫川玲子刑事」シリーズは「ストロベリーナイト」にしても「ソウルケイジ」にしてもその系譜に連なる感じがあります。
このシリーズの主人公、姫川は美人で警察の中でも出世も早い優秀な刑事。
気も強く、積み重ねで捜査をするというよりは刑事のカンと行動力で捜査する刑事です。
今までの映画や小説の中に登場する、女性刑事というと、女性らしい温かさを持った刑事か、逆にクール・ビューティ的な刑事(「アンフェア」の雪平夏見とか)というタイプが多かったかと思います。
姫川はどちらかと言えば後者になると思いますが、彼女の場合、その根っこはベタベタな刑事です。
手柄をあげたいという気持ち、そのために他の捜査員も出し抜こうという胆力、犯人に迫ることを生き甲斐とするギラギラとした熱意。
そういうベタベタな刑事でありながら、外見はクール・ビューティというところは実は意外にも新しいというのが、姫川というキャラクターでしょう。
今回初めて、短編集を読みましたが、どちらかというと姫川シリーズは長編の方がおもしろい感じがしました。
ある種、現代という時代の歪みみたいなものがこのシリーズでは描写されているので、それは長編の方が醸し出しやすいかなと思います。
それでもこの短編集でも姫川シリーズらしい話もいくつもあります。
表題作でもある「シンメトリー」などはそういう感じが濃厚ですね。
本シリーズ、「シンメトリー」の後は、また長編で「インビジブルレイン」がでています。
こちらも読んでみたいと思います。

「ストロベリーナイト」はフジテレビで今年の秋にドラマ化されるようですね。
姫川玲子役は、竹内結子さんということ。
小説を先に読んでいる自分としてはけっこう意外なキャスティングです。
さてどんな感じに映像化されますでしょうか。

姫川玲子シリーズ「ストロベリーナイト」の記事はこちら→
姫川玲子シリーズ「ソウルケイジ」の記事はこちら→

「シンメトリー」誉田哲也著 光文社 ハードカバー ISBN978-4-334-92596-3

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2010年8月 8日 (日)

本 「つきのふね」

原恵一さん監督で映画化される「カラフル」を書かれた森絵都さんの作品です。
彼女は十代を主人公にしている作品が多いですが、ジュブナイル小説という範疇では語れません。
大人が読んでも、いや大人が読むからこそ、心にぐっとくるものがあります。

みなさんは自分で自分が怖くなることはありませんか。
一人になるのは怖くありませんか。
なによりも、自分が人を裏切るのが怖かったりしませんか。
こう書くと何かものものしい感じがしますが、僕が言っているのはほんの小さな裏切り(約束破りと言ってもいい)です。
遊びに行くと言って行かなかったこと。
いっしょにいつかあそこに行こうねと言いながら、結局行かなかったこと。
こんな小さな約束破り。
こういうことをしたときって、大したことないさと思う反面、なにか心がチクチクするようなものがあって。
何故チクチクするかって、それは逆に自分がそうされたら、傷ついてしまうかもしれないって気持ちがあるからだと思います。
自分が一人にされるっていうことが怖いからだと思います。
中学生の頃はそういう傷つけ、傷つけられることに対してとても敏感になるときなのかもしれません。
だから人とべったりするようになるか、逆に人と距離を置きたくなってしまう。
こういう人の心の深くにある感情を、森絵都さんはこの作品で実は深く深く掘り下げているように感じます。
十代から大人になるに従い、そういう心のチクチク感に対して不感になってしまう人もでてくる。
大人になるってそういうものって思う人もいるかもしれない。
でもチクチクに不感になったとき、信用できない人が出来上がってしまうのかもしれません。
そういう人は自分はうまくやっていると思うのかもしれませんが、実は一番怖いひとりぼっちになっている、ということもあるように思います。
もし、この作品を読みながら何か心がチクチクする人はまだ大丈夫。
そんな気がします。

間違いなく、本作は森絵都さんの代表作と言っていいように思いました。

森絵都さん作品「カラフル」の記事はこちら→

「つきのふね」森絵都著 角川書店 文庫 ISBN4-04-379102-X

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2010年8月 7日 (土)

「天装戦隊ゴセイジャー エピック ON THE ムービー」 テレビと同様、平々凡々

同時上映の「仮面ライダーW」の劇場版は、平成仮面ライダーの中でも最高の出来と書きましたが、こちらの作品は最近の中では最もノレない作品となっていました。
それは劇場版がうんぬんではなく、今年のスーパー戦隊シリーズ「天装戦隊ゴセイジャー」のテレビシリーズ自体に全くノレていないということに因ると思います。
昨年の「シンケンジャー」が近年の中でも非常に盛り上がりがあったということをさっ引いても、今年のシリーズはしっくりきていないのです。
それは多分今年の戦隊のモチーフが「天使」だからなのだと思われます。
主人公たちは人間ではなく地球を護る使命を帯びた天使です(だから護星者=ゴセイジャーね)。
天使だからか、主人公たちは基本的にポジティブであり、イノセントな性格を持っているわけです。
昨年の「シンケンジャー」のキャラクターたちがそれぞれに個性があって魅力的であったのに対し、「ゴセイジャー」のキャラクターはどうしてもあるひとくくりの中に入ってしまうような気がしています。
そのためキャラにスポットをあてたエピソードもそれほど印象的なものがないのです。
そういうこともあり、ほとんど思い入れがない状態で劇場版を観ているため、やはりワクワクするようなところもなく、テレビシリーズのある回を観ているような淡白な印象だけが残ってしまいました。
このようなあまり気分的に盛り上がらない状態で、テレビシリーズも最後までいってしまうのでしょうか・・・。
昨年の「シンケンジャー」の怒濤の盛り上がりと比べるとなんとも寂しい感じがします。
ですので、「W」に比べて記事がすごく短いのは許してね。

「電王」「シンケンジャー」のメインライターを担当していた小林靖子さんが今度の「仮面ライダーオーズ」のメインをするということです。
これはちょっと楽しみ。

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「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ」 平成仮面ライダーで最高の出来映え

平成仮面ライダーの劇場版が作られるようになって10年が経ちましたが、その歴史の中で作られたいくつもの作品の中でも本作は最高の出来ではないでしょうか。
というより、「仮面ライダー」に限らず日本のヒーロー映画の中でも屈指の出来映えであると思います。
無論テレビシリーズの劇場版であるため、初見の方は設定がわからずに厳しいところはあると思いますが、これは子供たちが観ること前提の尺のため、いたしかたがないところでしょう。
しかしテレビシリーズを観てさえいれば、本作の中に溢れんばかりのサービス精神を感じることができると思います。
平成仮面ライダーの劇場版と言えば、かなりトリッキーな設定のものが多くみられました。
「龍騎」のテレビシリーズに先行しての最終回であったり、「響鬼」の時代劇であったり、「ディケイド」の昭和を含めてのオールライダー勢揃いであったり。
毎年よくこんなこと思いつくなと感心することしきりですが、これは奇手であるのは間違いありません。
その最たるものが「ディケイド」であったと思います。
奇手を打たざるを得なかったのは、劇場版と同時並行でテレビシリーズが放映されているためであるからです。
劇場版の内容がテレビシリーズに影響を与えてしまうと、テレビだけ観ている人は置き去りにされてしまいます(「電王」の劇場版はそれすら逆手にとりましたが)。
そのため奇手を打たざるを得なかったのです。
平成仮面ライダーを総括するための「ディケイド」が爆発的なお祭りを仕掛けた後の「仮面ライダーW」はいたってシンプルな構造にリセットしました(テレビシリーズについてのレビューは番組が終了してから行いたいと思います)。
「W」の劇場版は、パラレルワールドなどの設定ではなくテレビシリーズが描いている「風都」という架空の都市がある同じ世界です(劇場版で描かれる事件は風都タワーの壊れ具合から44話と45話の間に起こったと思われる)。
トリッキーな奇手ではなく、まっすぐに「仮面ライダーW」の世界観の中で劇場版は作られていました。
「仮面ライダーW」はヒーローがまっすぐにヒーローであるというところが気持ちがいいのです。
日本においてもアメリカにおいても、最近のヒーローはまっすぐではなくなってきました。
いわゆる悩めるヒーローであったり、ダークヒーローであったり。
これはマンガチックになりがちなヒーローを、人間として描きドラマを深くして、大人の目にも耐えうるようにしたという点で評価できます。
しかしこれは「大人しかわからない」ヒーローになってしまうという危険性もはらんでいます。
僕が子供の頃、ヒーローは「正義の味方」でした。
日本を、地球を、人々を守る「正義の味方」。
彼らはまっすぐに自分を犠牲にしても人々を守る。
その姿勢に子供の頃、やはり弱いものは助けなきゃというようなことを学んだような気がします。
しかし最近の悩めるヒーローは次第にイノセントに「正義の味方」であるということがなくなってきているような気もします。
これは改めてテレビシリーズのレビューでも触れたいと思いますが、本作において「仮面ライダー」という呼称は、「風都」の住民たちが自分たちを守ってくれるヒーローに対してつけたものです。
Wに変身する翔太郎もフィリップも、そして「アクセル」に変身する照井も「仮面ライダー」という名称に誇りを持っています。
彼らは人々の思い、願いを守るため、戦う。
彼ら「仮面ライダー」は「風都」の人々のために戦う「正義の味方」なのです。
このまっすぐに「正義の味方」でありたいという主人公たちの姿勢は、観ている子供たちにも届くのではないかなと思いました。
最後のクライマックスで翔太郎とフィリップが変身をする場面、バックにテレビシリーズの主題歌が流れるところなんぞは鳥肌ものっていうところを過ぎて、なんか感動して泣けてきそうになりました。
彼らがまっすぐに「正義の味方」でありたいという気持ちになんかぐっときたんですよね。

とは言いながら、子供向けの映画かというとさにあらず。
ヒーローものであるのですから、アクションシーンは見所ですが、これは今までのライダーアクションから一段レベルアップをしています。
監督は坂本浩一さんですが、彼は自らもアクションをする方で、アメリカに渡り「パワーレンジャー」(日本のスーパー戦隊シリーズを焼き直したもの)シリーズを監督していました。
そして最近では昨年末ウルトラシリーズの最新作「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」を監督したのが記憶に新しいところです。
坂本監督がアメリカで培ったワイヤーアクション、「ウルトラ銀河伝説」で取り入れたCGとのコラボ、そして盤石な高岩さんを始めとするJAEのスーツアクターの演技が、化学反応を起こして非常にスピード感が溢れ、迫力のあるアクションシーンになっていたと思います。
ヒートドーパントとWのバイクチェイスシーンなんかはすごくカッコよかったです。
しびれました。
アクションに関して言えば、アメリカの映画にも負けないんじゃないかと思えるくらいだと思いました。

三条陸さんの脚本も素晴らしいの一言。
子供向けであるために尺を短くしなくてはいけない中、物語としてはスピーディな展開でありつつも、ただ展開を追うだけではない、キャラクターの気持ちの描き込みもあって。
翔太郎とフィリップ、そして照井との間にある揺るぎがたい友情と信頼。
フィリップの記憶がない母への憧憬。
非常に高い構成力であったと思います(テレビシリーズもどの回も構成力は非常に高い)。
キメセリフの入れどころも三条さんはいいところに入れるんです。
「振り切るぜ」も「あたし聞いてなーい」もいいところで入れてくれます。
Wは「さあ、お前の罪を数えろ」はもちろんですが、それに対するエターナルの「数えきれねえなあ」は最高にイカしてました。
翔太郎の「切り札はいつも俺のところにくるのか」っていうのもカッコよかったです。
翔太郎が変身のに使うメモリ(Wの変身アイテム)が「ジョーカーメモリ」で「切り札」の記憶を持っているという設定ですが、なぜ「切り札」なのかがわかりました。
フィリップや照井(精神攻撃に耐性がある)とは異なり、翔太郎は特殊な能力はありません。
彼にあるのは「風都」の人々を守りたいという熱い思いと、そしてここぞというところでカードを切れる運を持っているのですよね。
その運、というか星回りこそが彼を「ジョーカー」たらしめているのだなと改めて思いました。
そうそう、翔太郎一人だけでの変身である仮面ライダージョーカーのときの必殺技「ライダーキック」「ライダーパンチ」は昭和世代的にはけっこうしびれました。
うーん、三条さん昭和世代のツボもわかってらっしゃる。

最後にゲストの俳優さんについて。
敵組織「NEVER」の一人羽原レイカ役の八代みなせさん、クール・ビューティという感じでいいですねー。
グラビアアイドルということですが、なんのなんのアクションとかキレキレでしたよ。
美しくてカッコいい。
「片腕マシンガール」の主演だったとか。
観ていないので観てみようかと思いました。
あと一番おいしいのは泉京水役の須藤元気さんでしょう。
泉はオカマちゃんなのですが、これが妙に須藤さんが楽しんでやっていて。
変身後にあててる声でもむちゃくちゃ須藤さんがオカマちゃんな感じをだしていてなんか良かったです。
目覚めちゃった感じかな(笑)。

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2010年8月 6日 (金)

「ソルト」 アンジェリーナ・ジョリーの起用が成功の要因

この作品、もともとはトム・クルーズ主演での企画としてスタートしたということです。
「ミッション:インポッシブル」のイーサン・ハントと同じようなスパイ役であるので、トムはイメージが固定化することを嫌いソルト役を断ったということですが、この企画は彼の代わりにアンジェリーナ・ジョリー主演として脚本が書き直されました。
主演を男優から女優へとは大胆変更でしたが、これは幸いにもいい方向にこの作品を向けたような気がします。

他の女優にはないアンジェリーナ・ジョリーの存在感については、今までもこちらのブログでも何度か触れてきました。
最近ではアクションを魅せる女優さんは多くいます。
「マトリックス」のキャリー=アン・モス、「イーオン・フラックス」のシャーリーズ・セロン、最近では「アイアンマン2」のスカーレット・ヨハンソンも華麗なアクションを見せてくれました。
けれど彼女たちのアクションは、まさに「華麗な」アクションであり、「美しく魅せる」アクションなのです。
それはそれで観ていてその美しさが気持ちがいいのですが、そこには殴られたり、蹴られたりするような痛さは感じません。
あくまでもフィクションの中でのアクションなのです。
けれどアンジェリーナ・ジョリーのアクションは、まさに痛さを感じるアクションと言えると思います。
男まさりと言いますか、タフネスと言いますか、女性でありながらまさに「グーで殴る」感覚を持っている女優さんであると思うのです。
アンジェリーナ・ジョリーは、まさにスクリーンを通してでも、肉体的なリアルな存在感を伝えることができる女優ではないでしょうか。
また彼女はアクションだけでなく、情感といった表現でも存在感がある女優であります。
彼女は本作のようなアクション映画と並行して、「マイティ・ハート」や「チェンジリング」などの強い意志を持った女性を演じてきました。
それらは女性ならではの強さをもった役柄であり、そこから彼女が肉体的な表現だけでなく、その情感的な部分でも存在感のある表現力を持っているということがわかります。
(肉体的存在感のあるアクションができる女優としてはミラ・ジョヴォビッチがあげられると思いますが、彼女はアンジェリーナ・ジョリーのような情感の表現は苦手だと思うのです)
本作のイヴリン・ソルトという役は、もともとが男性を想定していたことから、非常にクールでありまたタフネスなキャラクターとなっています。
そしてアンジェリーナ・ジョリーという主演を得たことにより、イヴリン・ソルトはそのキャラクターに心の内にある強い意志・深い情念というものが透けて見えるような奥深さを持ったような気がします。
本作の脚本は最初から最後まで停滞しない力技的な展開の早さがあります。
ややもするとこういう作品に登場する非現実的なスパイなどのキャラクターは、とかく作り物めいた感じがでてきてしまいます。
けれどもアンジェリーナ・ジョリーが演じるイヴリン・ソルトというキャラクターの奥深さ、彼女がほんとうは何を思っているのか考えているのかがわからない奥深さが、どのように話が展開していくかわからないというスリルをより強化しているように思います。
もともとは代役としてアンジェリーナ・ジョリーを主演に起用したことが、幸運にもこの作品の質を大きく引き上げることに繋がったことに、おもしろさを感じます。

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2010年8月 3日 (火)

本 「クジラの彼」

有川浩さんの「クジラの彼」が文庫でリリースされたので、さっそく読んでみました。
こちらずっと読みたかったのですが、タイミング逃してしまっていたんですよね。
有川浩さんの作品と言えば、「図書館戦争」シリーズも好きですが、初期のいわゆる「自衛隊三部作」シリーズも好き。
本著はその「自衛隊三部作」の「空の中」「海の底」の番外編も収録されているというところなので、期待です。
本著とその後の「ラブコメ今昔」(未読)は制服ラブコメシリーズと言われているらしい。
その名の通り、本著もラブコメでかつ相川さんらしく「ベタ甘」です。

やっぱり「自衛隊三部作」の番外編が読んでいて楽しいなあ。
有川浩さんの小説に出てくる登場人物って、基本的にまっすぐでかつ不器用なんですよね。
その不器用さがなんとも愛おしいというか。
「自衛隊三部作」の本編でも恋バナは展開され、基本的にハッピーエンドで終わりますが、やはり愛おしい登場人物たちのその後というのは気になるところです。
その気になるところが本著に収録されている番外編では描かれているので、ファンとしては嬉しい。

収録されている作品の中ではやはりタイトルになっている「クジラの彼」が一番好きかな。
「自衛隊三部作」の番外編ではないですが、「国防レンアイ」もけっこう好き。
「海の底」のその後の「有能な彼女」もいいなあ。
なんか全部気に入っているじゃん。
有川浩さんファンなら満足できる一冊になっていると思います。
1日もあれば読めるので、夏休み暑くて出かける気がしないという方にはオススメです。

自衛隊三部作「塩の街」の記事はこちら→
自衛隊三部作「空の中」の記事はこちら→
自衛隊三部作「海の底」の記事はこちら→

「クジラの彼」有川浩著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-389804-6

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2010年8月 1日 (日)

「ちょんまげぷりん」 現代に生きるにはエネルギーがいる

好きな中村義洋監督の作品なのでさっそく観てきました。
全く異質なものを結びあわせることにより化学反応を起こすというのは、創作においては定番の手法ですが、本作における異質なものというのは「侍」と「プリン」。
まさにタイトル通りなのですが、なんとも意外な組み合わせ。
ややもするとただのクセものな作品になりそうなところですが、さすが中村監督、上手にまとめています。

突然、江戸時代から現代の東京にタイムスリップしてきた旗本侍、木島安兵衛。
彼が現代で最初に出会ったのが、シングルマザーのひろ子とその息子の友也。
安兵衛は結局、ひろ子の家に転がり込むことになり、仕事をしている彼女に代わって奥向き(家事)を切り盛りすることになります。
時代劇の時代から現代へタイムスリップ(またその逆も)というのは、よくあるネタと言えばそうなのですが、彼が意外にもパティシエとしての才能を持っていたというのがわかってから、本作のオリジナリティのある展開になっていきます。

本作はいつもの中村監督の作品に比べて笑いが多くあったと思います。
その笑いは江戸時代の侍と、現代社会のカルチャーギャップによるものなのですが、それは笑いだけではなく、今の社会というのを浮かび上がらせてもいます。
安兵衛がひろ子宅にやっかいになっていきなり友也の遊びの相手をさせられます。
そのときの遊びがポケモンカード。
僕はまったく触ったことがないのでルールがまったくわからないのですが、どうも技を出すにはエネルギーが溜まっていないといけないらしい。
安兵衛が技を出そうとすると、友也にエネルギーが溜まっていないからダメ、とダメだしをされるシーンがあるのです。
別のシーンで安兵衛とひろ子が話しているときに、ひろ子が「いろいろとエネルギーがいるのよ」と愚痴をこぼします。
これはシングルマザーで働きながら子育てをすること、それは自分で望んだんことなのですが、会社や子供のことについていろいろと悩ましいことがあるということを言ったものです。
現代では働く意欲も才能もある女性は多くいて、けれどもそういう方が子供ができた場合、今の会社はまだまだ働きやすい環境ではないのですよね。
僕も部下で子供がいて育短(子供の世話ができるように夕方に帰っていい制度)をしている方がいます。
僕は時間が来たら遠慮なく帰っていいよと言っていますが、本人的に仕事が中途半端だったりするのはちょっと心苦しいようなところもあるようで。
また周囲の目も気になるようです(実は上司とかよりも周囲の女性の目の方が気になるらしい)。
本人も両立の意欲があり、制度はできていても、なかなかまだ働きやすい環境ではないのは確かです。
ですので働きながら子供を育てるっていうのは、周囲(旦那さんも含め)の協力が必要なのですよね。
先にあげたひろ子のセリフを受けて、安兵衛は「エネルギーが溜まらねば、技が出せないでござるか」と言いますが、これはまさに現代の社会を言い表しているように思いました。
現代の社会はルールやら制度やら、不公平がないようにするためにできていますが、結局それによりやたらにモノごとが複雑になり、かえっていろいろなことをしようとすると面倒なことになりやすい。
まわりと違うことをしようとするとやたらにエネルギーがいるわけです。
特に女性で子育てをしながら働いている方にとては、それはたいへんなことだと思います。
安兵衛がいた時代は男は外向き、女は奥向きの仕事をする、というシンプルなルールがありました。
このルールが現代において良いか悪いかはおいておいて、シンプルである分、彼の時代では生きるにエネルギーはいらないというふうにもとれると思います。
現代は人の生き方も多様化し、それにつれて制度やルールが複雑化し、何事をするにもエネルギーがいるようになってしまった時代なのかもしれません。
とはいえ、彼がいた時代もバラ色であったわけでもなく、役もないのに禄をもらって生きるという甲斐のない生き方をしなくてはいけなかったということにも触れています。
安兵衛は現代にきたことにより、彼が持っていた才能をみつけ、それを活かして生きるいう人生を送ることができたのです。
本作のラストの余韻はけっこう好きです。
ハッピーエンドではない(安兵衛とひろ子のほのかな想いは成就しない)けれど、何か希望のようなものはあるこのような余韻は「ゴールデンスランバー」とか「フィッシュストーリー」などの作品を作っている中村監督らしいなあと思いました。

最後に何がすばらしかったって友也を演じた鈴木福くんです。
演技しているんだかどうだかわからない、幼稚園児っぷりがなんともよかった。
あれが演技なのだったら名子役になるんじゃないかしらん。

中村義洋監督作品「ゴールデンスランバー」の記事はこちら→
中村義洋監督作品「フィッシュストーリー」の記事はこちら→

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