本 「リアルのゆくえ -おたく/オタクはどう生きるか-」
大塚英志と東浩紀というサブカルチャーに造詣が深い二人の批評家がサブカルチャーから政治、社会との関係性について語る7年にも渡る対談を収録しています。
正直言って、二人が語っている内容のたぶん1/10くらいも僕はわからない(特に前半)。
とは言いながら、最後まで読んでしまったのは、二人の議論があまりにすれ違うのが興味深かったから。
本のサブタイトルにあるように二人とも自身をおたく(大塚氏)/オタク(東氏)と自認して、サブカルチャーを担う世代と社会との関わりについて語っています。
ある種共通の興味、バックボーンを持ちながらも、二人の主張というのは見事なくらいにすれ違っています、ものの見事に。
それは1958年生まれの大塚氏、1971年生まれの東氏の世代差と、二人は思っているようなところもあるのですが、僕自身はちょっと違ったりします。
二人が語る細かな事象については知識がないので、よくわからないことが多かったのですが、自分自身で言うと、世代の近い東氏よりは大塚氏の主張している話に共感性を持ちました。
東氏のお話からにじみ出てくるのは、社会への関わりを持っても何も変わらないのではというような諦念のようなものを感じます。
それこそが彼がいう「ポストモダニズム」なのかもしれないのですけれど、どうもこれには心情的には納得がいかないのです。
「オタク」というある種閉じた世界で居心地よく過ごしたいというのの何が悪いのかといったような主張。
そうすることがいけないとは言いませんが、僕としてはそういうふうにしていられるのも、社会で生活できるインフラなりがあり、それは社会が誰かが提供しているということ。
そういう意味では社会と無関係でいられるはずもなく(積極的ではなくとも消極的という関係性がある)、それでいながら「タコツボ化」した外の世界を観ようとしないのは、どうしてなのだろうかと思います。
対談では東氏の主張に対し、盛んに苛立ったように大塚氏が議論をふっかけます。
大塚氏は、社会とのかかわり合いにおいてすぐに合意などはできないにしても、そこで違う意見のもの同士が議論することにより、何かしらが生み出されると言っています。
だからこそ主張の違う東氏と何回にも渡り対談を行っているのだと、大塚氏は語っています。
違う意見のものが語り合う中で何かが生まれるというのは、実感としてあるので大塚氏の主張には同意できます。
けれども東氏が語るように、若い世代というのはそういう議論を避ける傾向にあるのはそのような感じがします。
僕の会社でも若い人はこじんまりと固まりすぎているような気がしてなりません。
僕の仕事はデザインですが、若い人はえらく会社の指示に対してものわかりがいいか、逆にまったく聞いてなくて自分の好きなことしかしないと極端な気がします。
ものわかりがいいにしても、人の話を聞かないにしても共通しているのは、自分と他者との意見の食い違いを調整しようする気がないということです。
当然調整することというのはエネルギーがかかります。
エネルギーをかけてもうまくいかないこともありますし、それによりダメージを受けることもあります。
けれどもびっくりするようなコラボレーションが生まれることもあるのです。
自分だけの閉塞空間にいるということは、それ以上にもそれ以下にもなれないということ。
それ以上になるというのは希望であって、必ずそうなれるとは言えないけれど少なくとも希望はあるわけです。
なにか失うことを恐れるあまり、得ることも放棄しているような感じを若い世代には受けるのです。
「なんでもっとやらないの?」と僕が若い世代に感じる苛立ちは、大塚氏が東氏に感じる苛立ちに近いものがあるような気がしました。
僕も会社で若い世代を教育しなくてはいけないポジションになるに従い、そういう気持ちは強くなります。
けれども若い世代は、東氏のように「なんでこの人はイライラしているのだろう?」と思っているのかもしれません。
そういう意味で、この本におけるお二人のすれ違いっぷりというのは、今の時代においての世代間差のリアルを表している縮図なのかもしれないなと思いました。
「リアルのゆくえ -おたく/オタクはどう生きるのか-」大塚英志+東浩紀著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287957-6
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コメント
ゴーダイさん、こんばんは!
僕はどっちかと言えば、大塚さんに共感を覚えてしまいます。
自分ごときが何かをしても複雑化したシステムは変えられないということがニヒリズムに向かうのかもしれませんが、議論でもすればそこには何かの発見があると思うのですよね。
すぐには結果には結びつかないかもしれないのですが、自分の頭の中の整理くらいはできるかなと。
投稿: はらやん(管理人) | 2010年10月 9日 (土) 18時09分
はらやんさんこんばんは。
読みました。私もサブカルチャーには詳しくないので、オタクには了解事項的な作品もピンと来ず、第1章はかなり苦戦しました。こげトンボってなに??みたいな・・・汗
しかし本当にこの二人かみ合ってませんでしたねw。
>対談では東氏の主張に対し、盛んに苛立ったように大塚氏が議論をふっかけます。
特に第2章の言論の変容はすごかったですよね。
東さんはネットというシステムをある種のインフラ(前提)として客観視していますよね。
フーコーなんかが引用されているのも分かります。東さんの言うようにネットはある種権力のベクトルが見えづらいコード的システムですが、それは自然淘汰や重力の法則とは異なり、さりげなく特定の人間が管理していますよね。
大塚さんはその隠れた権力構造をないがしろにするのが危険なんじゃないか?って突っかかっているように思いました。
しかし東さんにしてみれば、じゃあ国家権力を考えた場合、ぼくらは具体的にはどう知ればいいんだ?って感じなんだと思います。
国家や社会をよくしていこう!とか言っても現代の社会システム自体が複雑化して私にも具体的な手立てがさっぱり分かりません・・・
昔の安保闘争みたいなことをやっても、どうにもならないと思いますし・・・
民主主義の根幹をなす言論を戦わせても、それには前提となる教養がものすごいレベルで問われると思います。
私も東さんと同じニヒリストのようです。
結果どうこうよりもとにかく行動しろってことでしょうか?
長くなりましたが(すいません)、まとめるならば大塚さんは良くも悪くもプロ(表現者)意識が強く、東さんは良くも悪くもアマチュア(消費者)意識の強いオタクなのかな?と思いました。
投稿: ゴーダイ | 2010年10月 6日 (水) 23時22分
ゴーダイさん、こんにちは!
こちらの本は対談している二人がそれなりにクセがあるので、好き嫌いがでてしまうかもしれません。
ポストモダニズムというのはあまり腹に入っていないのですが、それは僕が旧世代だからかもしれません。
なんとなく狭い世界の話をしているようには感じます。
投稿: はらやん(管理人) | 2010年8月28日 (土) 06時46分
こんばんは!
この本は面白そうですね。私は東さんはテレビで少し見ただけなのですが、面白い人だとは思っていました。
ただ小さな物語に傾倒するポストモダン思想は私も大学で美術を学んでいて違和感を感じました。
この本はぜひ機会があったら読んでみようと思います。ご紹介ありがとうございました。
投稿: ゴーダイ | 2010年8月27日 (金) 20時44分