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2010年7月31日 (土)

「ジェニファーズ・ボディ」 肉食系女子。

肉食系女子。
たぶん多くの映画ブロガーさんが同じようなタイトルをつけると思いますが、やはりこの作品はこういうタイトルにしたくなるでしょう。
というか、ほんと食ってるし。

作品としてはとりたててすごいというというところはないのですが(ミーガン・フォックスとアマンダ・セイフライドの○○シーンはちょっとドキドキしたけど)、こういう作品が作られる時代性みたいなものを考えてみたいと思います。
脚本家は「JUNO/ジュノ」(残念ながら未見)でアカデミー脚本賞を受賞したディアブロ・コディ。
現代のティーンを女性の視線でうまくとらえたことが評価されましたが、本作も題材は違えど同じようなスタンスと言えましょう。
以前はホラー映画やサスペンス映画といったら、襲いかかるワルモノは必ず男だし、彼らと戦うヒーローも当然男性。
そしてそのヒーローに守られるのはかよわく美しい女性、というのが典型でした。
その後ジェームズ・キャメロンやリュック・ベッソンの作品あたりから、「戦う女性」が主役になることも出てきました。
それでも彼女たちが戦う敵は、基本的には男性的な存在のもの(ターミネーターなど)であったと思います。
しかし本作「ジェニファーズ・ボディ」においては、敵となる存在も女性であり、それと戦う存在も女性。
その構図にはまったく男性は存在しておらず、男性の役割は補食されるもの、もしくは守られるべきものという役割になっています。
本作においては、いままでの作品にあるような男性が守り女性が守られるという構図が、まったく逆転しているのです。
というより男性が介在しなくても物語は成立してしまったりするのです。
ここにおいてずいぶん前は映画では女優は綺麗な華以上の役割はないというようなことを言われていたのと、まったく逆の現象が起きているわけです。
ミーガン・フォックス自身が「トランスフォーマー」でバイクに横たわるセクシーポーズをとることがイヤだったと言って物議をかもしましたが、そういう点においては彼女の意趣返しになっているかもしれません。
まさに「男女逆転」(ああ、そういう意味で今度公開される「大奥」にも通じるものがあるのかも)。
全世界的に男性が弱くなり、女性が強くなるという傾向が顕著になってきているのかもしれないですね。

変わりつつある時代性を反映した作品であるなと思いつつも、変わらないところもあるのかなと思いながら観ていたところもありました。
それはジェニファーとニーディの関係。
二人は親友でありながらも、相手のことを妬んだり、快く思っていないところがある関係。
男だと嫌いな奴、気に入らない奴とは基本的に友人としてつきあわないもの(上下関係とか、仕事関係は別よ。我慢してつき合うわけです)なのですけど、このあたりの女性ならではの関係というのは普遍的なものだったりするのかなと思いました。
このあたり男性である僕はなかなか心情がわからないのですが、けっこう女性間ではドロドロっとした心情があるというのを聞いたりします(特に女子校などはいろいろあると聞きます)。
このあたりは以前も、今も変わらないのかな。
ここらへんは女性の方に聞いてみたいところです。

今回ニーディ役のアマンダ・セイフライドはイケてない子を演じていましたが、海外ドラマの「ヴェロニカ・マーズ」では、本作のジェニファーばりにイケイケの子を演じていました。
その子も殺されてしまいましたが。

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本 「<中東>の考え方」

ニュースで「中東」という言葉はよく聞きます。
また最近、映画の中でも「中東」が舞台になるものも多くなってきています。
そして9.11以降、「中東」=「テロ」みたいなイメージも多くもたれるようになっています。
じゃ、「中東」って何なの?と言われると実ははっきりと「こうだ」と答えられる人は実は多くはないのではないでしょうか。
本著はなんとなくみんなが持っている「中東」というエリアを、その歴史的背景、国際社会との関係性の中から明確に浮かび上がらせてくれるところが、「中東」理解のガイドとなってくれる良本だと思いました。
こういうテーマの本は読みにくいと思われる方は多いと思いますが、普通の人でも十分読みやすい本になっていると思います。
著者の方は映画が好きな方なのか、ところどころ「中東」を舞台にした映画の話も出てきます。
例えば、今年公開された「ハート・ロッカー」についても触れらているところがありました。

(以下引用)

あくまで主人公は、「違う宗教と違う文化、考え方を持った、理解不能な人々」に囲まれて、途方にくれる米兵である。イラクという場所、そこに住む人々は、ただの背景でしかない。最初から、同じ立場の、理解しあうことのできる相手としては、扱われていない。
著者がモヤモヤするのは、このようなところである。最初から後景に追いやってしまって、「わかる」もへったくれもないじゃないか、と思う。これこそ、わかろうとする努力の法規の最たるものではないか?文化が違うから、信仰が違うからと言う以前にまず、戦争と占領に振り回された人々の立場に目をつむっては、わかるものもわからない。
イラクで起きていることは、イラクの人たちを主人公に描かない限り、理解できないのではないのだろうか。中東が「わかりにくい」と思われてしまう原因は、中東で生きる人々を主人公として考えないことにある。

(引用終わり)

ちょっと長い引用でしたが、確かにそのとおりだなと思いました。
外側からみただけではそこのエリアの特性を理解できないのはその通りです。
僕たち日本人も、今になっても映画など海外からは「トンデモ日本」のイメージで観られることに辟易していると同じことかもしれません。
いまの「中東」を理解するには、今の状況だけを見てみても理解できません。
本著は「中東」とヨーロッパがかかわり合うようになった時代から、その変遷を追うことにより、どのように現在の「中東」になっていくかというのを解説します。
また「中東」と一括りにされやすいこの地域は、イランやイラク、サウジなどいろいろな国や地域があるわけで、その各エリアの特性の違いを丁寧に書いています。
またさきほどの引用にあるように、政治的背景だけではなく、そのエリアに住む人々の姿、つまりは「中東」の実際の主人公である一般の人々の意識についても触れています。
そこに暮らす人々は当然のことながら、全員がテロリストであるわけもなく、彼らの暮らす日常に触れるころにより、彼らへの理解に繋がるような気がしました。
イラン出身の女性作家原作を原作にした「ペルセポリス」についても本著の中で触れていますが、あの作品で描かれているような市井の人々の意識の理解が、現在このエリアがかかえる問題の解決に繋がるのではないかと思います。
「中東」にちょっと興味があるけれど、どこから手をつけていいかわからないという方には向いている本だと思います。

「<中東>の考え方」酒井啓子著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288053-4

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2010年7月28日 (水)

「プレデター2」 シリーズ展開の道筋を作った

先日「プレデターズ」を観たあと、無性にこちらの作品が観たくなりました。
「プレデター」シリーズは好きですが、「2」はシュワちゃんが活躍する一作目よりも好きなんです(理由は後ほど)。

舞台となるのは1997年のL.A.。
今からするともう13年も前の時代設定ですが、この作品が作られたのは1990年なので、作られた当時からすれば近未来ということになります。
作品中の1997年のL.A.は、温暖化の進行のためか40度以上という熱帯並みの気温となり、また南米コロンビア、カリブのジャマイカからの麻薬組織が進出し、警察と三つ巴で争っている状態になっています。
まさにそこは戦場であり、またコンクリート・ジャングルでもあるわけです。
南米のジャングルでプレデターに襲われた特殊部隊を描いた一作目のエッセンスを大胆に解釈したこのアイデアが僕は好きなんですよね。
いわくプレデターは人間同士が争う戦場に出没し、強い戦士を狩ることが彼らの名誉となっていて、地球にも何度も訪れている。
これがその後シリーズが展開していく上での基本原則となります。
「プレデター2」でこの原則を見いだしたことが、主演俳優やシチュエーションに縛られず、シリーズを自由に広げられることに繋がったと思います。
つまり「プレデター2」はシリーズ展開の道筋を作ったと言えるでしょう。
あとやはり「2」が好きなのはプレデターが圧倒的に強いこと。
というより人間側がそれほど強くないことかな。
「プレデターズ」でも書きましたが、それにより主人公までも最後に殺されてしまうかもしれないという緊張感が生まれます。
一作目でいうと、プレデターは強いのですが、主人公がシュワルツェネッガーのため、映画的に負けないだろうという予測がついてしまうのが、やや緊張感を薄めているように思います。
その点、本作はバットエンドも十分ありうるわけで、そこが物語のテンションをあげています。
中年のダニー・グローバーだとプレデターに勝てそうもないもんね。
圧倒的に不利でありながらも、最後には逆転をするというのが、このシリーズの醍醐味なのだと思います。
それは公開中の「プレデターズ」にも引き継がれているように思いました。

超有名な話なのでご存知の方も多いでしょうが、ラストのプレデターの宇宙船の中に、人間の骨と並んで「エイリアン」の骨らしきものが飾れているのが見えます。
これが公開当時から話題になり、その後アメリカのコミックで「エイリアンVSプレデター」が出版され、その後映画にもなりました。
ちょっとしたお遊びが、その後のシリーズに影響を与えるっていうのはおもしろいですよね。
あと主人公のハリガンにラストにプレデターの長老が1715年製の銃を渡す場面があります。
ようは昔から何度もプレデターは地球に来ているということを示す場面なのですが、その後やはりアメリカのコミックでこの銃の持ち主はバミューダ海域で失踪した海賊が持っていたものと判明しました。
ぜひ「パイレーツVSプレデター」をやってほしいのですが、いかがでしょう?

「プレデター」の記事はこちら→
「AVP2 エイリアンズVS.プレデター」の記事はこちら→
「プレデターズ」の記事はこちら→

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2010年7月25日 (日)

「エアベンダー」 どうした?ナイトシャマラン!

どうした?ナイトシャマラン!

「シックスセンス」があまりに強い印象を残したために、その後なにかと「どんでん返し」ばかり期待されてしまうようになってしまったナイトシャマラン監督。
最近の作品にいろいろ意見がある人も多いとは思いますが、僕個人としてはナイトシャマラン監督の作風は嫌いじゃない。
確かに出来不出来はあるけれど、他の監督にはないこういう作風の人がいてもいいとは思っているんですよね。
そのナイトシャマラン監督の最新作は、東洋的香りの漂うファンタジー。
「どんでん返し」はありません。
目指すは東洋版「ロード・オブ・ザ・リング」なのでしょうか。

あまりに「どんでん返し」ばかりを言われるのに監督は嫌気がさしてしまったのでしょうか。
大衆受けしそうな正統派のファンタジー(味付けは東洋風だけど)も撮れるということも証明しないと、その後のオファーが厳しいと判断したのかと勘ぐりたくなります。
その試みはうまくいっているとは言いがたい。
ファンタジーというと中世ヨーロッパをベースにした世界観を持つ作品が多いですが、それらに対して東洋的な世界観を作ろうとした試みは評価できます。
ただそれを存分に描ききれていたかというとどうもそうはうまくいってない。
ナイトシャマランが作った話はもっともっと長く壮大であったのだと想像できます。
それを映画の中に無理に収めようとしたのか、どうもブツ切れ感、ダイジェスト感を感じてしまいます。
このブツ切れ感が、壮大な叙事詩となることを阻害しているような気がします。
また登場する人物についても描き込みが足りないのも、この世界へ入り込みにくくする要因であると思います。
「ロード・オブ・ザ・リング」はその世界観を迫力のある映像として表現したことだけが評価されているわけではありません。
フロドにしても、アラゴルンにしても、彼らの人生が描かれているからこそ、ファンタジーでありながらそこにリアルな感情を感じることができ、観ている僕たちがあの中ツ国に入っていくことができたわけです。
本作では、主人公のアンについては彼がアバターの役割を受け入れるかどうかの葛藤とその運命に向かい合うまでの心情はもっと深く描くべきです。
火のベンダーであるズーコ王子が父王に遠ざけられることへの不満、それでも期待に応えようとする気持ちについてももっと語らなくてはいけません(「ロード・オブ・ザ・リング」のファラミアのように)。
水のベンダーのカタラにおいては、ただの道先案内人というか、「語り」でしかありません。
物語にしても、登場人物にしても、描き込みが中途半端であったため、作品として非常に締まりのないものとなってしまいました。
一般ウケするものも撮れるということでチャレンジしたと思われる本作、ナイトシャマランはやはり自分らしさを追求した方がよいのではないかと確認する作品となってしまったと思います。

土のベンダーは出てこなかったなーと思ったら、ラストはああいう終わり方。
もしや続編を作る気、満々か?
無理じゃないかなあ・・・。
「エラゴン」や「ライラ」の二の舞になるような気がします。

最後に。
もともと本作は「アバター」というタイトルにしたかったらしいです。
でも先にあちらの「アバター」が公開されるということが判明し、タイトル変更したようです。
本作を観てみると、「そりゃ『アバター』にしたかったろうなあ・・・」と納得するわけです。
残念、ナイトシャマラン。

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2010年7月24日 (土)

「インセプション」 ノーランのイマジネーションが溢れ出ている

クリストファー・ノーランのイマジネーションが溢れ出してきている作品です。
他の誰がこのような物語が考えられるであろうかと思います。

<最後の方はネタバレっぽいところありますので、注意>

コブ(レオナルド・ディカプリオ)たちは、人の夢に侵入しその潜在意識に働きかけ、アイデアを盗む仕事を行っています。
あるとき彼らは日本人実業家サイトー(渡辺謙さん)から、ある依頼を受けます。
それはライバル会社の次期社長の夢に侵入し、アイデアを盗むのではなく、ある「考え」を植え付ける(インセプション)ことでした。
相手が夢だと気づいてしまうと潜在意識に働きかけられなくなるため、この依頼は難易度が高く、そのため夢の中で夢を見させ、そしてさらに夢を見させるという三段がまえの作戦がたてられます。
言わば夢の入れ子構造となっているわけです。
この夢の入れ子構造で思い出すのは押井守監督の「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」ですが、「インセプション」はそれよりも数段複雑で凝った構造になっていて、そしてエンターテイメントとしても見ごたえがあり、またスリリングでもあります。
通常は夢の世界で死を迎えると目が覚めるということなのですが、この作戦は入れ子構造のため通常よりも強力な鎮静剤(夢への導入・共有に使う)を使用しているため、夢の中で死を迎えるとそのまま意識が目覚めないということになります。
また夢の世界はリアルよりも時間の流れが遅いという設定になっています。
夢で何時間も過ごしても、現実ではたった数秒ということになります(これは実際そうらしい)。
さらに入れ子構造になった中の夢はその上層の夢よりもさらに時間の流れが遅くなり、これがこの映画に独特なスリリングさを与えています。
広義のタイムリミットサスペンス(本作ではサイトーが死ぬまで、またバンが川に落ちるまで)と言えるかもしれませんが、この発想は今までにみたことがない斬新なものであると思いました。
各階層で登場人物の動きリンクし、時間の流れの違いが今までに感じたことのないスリルを味わせてくれます。
確かに前半ややたるいところもあったのですが、これは後半の畳み掛ける展開を観客に理解してもらうための設定の説明であるので、これは必要なものだったと納得できます。
そうそう、この作品は相当編集が苦労したと思われるのですが、どうなのでしょう。
第1階層から第4階層までの出来事のタイミングを合わせるのはかなり難易度高いと思います。
仕上がりはまた絶妙で、これは編集賞とかいけるんじゃないでしょうか。

また本作で提起している現実と夢の区別がつかなくなるという題材は、そのままリアルとバーチャルの境目がますます曖昧になっていくという現代の時代性をもつかまえています。
こういうリアルとバーチャルの境界の崩壊といったような今日的な話題を、いわゆるコンピューターの仮想世界といった使い古された手段で描くのではなく、「夢」という原始的で馴染み深いもので描くというのが、ノーランらしいリアリティへのこだわりのようにも感じました。

また本作はそういうトリッキーな構造や、理念的なテーマだけに終わりません。
バーチャルに溺れていくモル(マリオン・コティヤール)と、彼女をリアルに戻そうとしながら結果的に彼女を死なしてしまうことになったコブの物語は、本作に切なくなるような心の痛さを与えています。
本当に失いたくないものを失うことに手をかしてしまった悲劇。
ノーランの作品はトリッキーな構造に目を奪われがちですが、人間を描くことにも抜かりがありません。

最後はコブは生還できたのか。
あれは夢なのか現実なのか。
議論はあるかと思います。
個人的には海岸に流れ着きサイトーの城(?)に向かったところから「夢」であったと思います。
こういう含みがあるラストはいいですね。
現実と非現実の境目がなくなるという点では、ディカプリオ主演の「シャッター アイランド」と比べてしまいたくなりますが、本作の方が段違いにいいです。

本作のこの入れ子構造はさきほど書いた三段がまえ(実際にはもう一段下層に降りた)に加え、もう一段ありました。
本作のエンドロールの最後にかかる音楽は、劇中でコブたちが覚醒するときの合図にしていた「音楽」と同じもの。
つまりは観ている我々も映画という「夢」の中に入っていったのだというわけです。
よく考えてみれば映画というのは監督や脚本家が「夢見た」ものを観客が観れる形で提供してくれたものと言えます。
つまり映画は「夢を共有化する装置」とも言えるわけです。

クリストファー・ノーラン監督作品「ダークナイト」の記事はこちら→

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2010年7月19日 (月)

「私の優しくない先輩」 思いのほか深かったりする

カルピスウォーターなどCMでもよくみかける川島海荷ちゃん。
実は出演作はたぶんほとんど観てなくて、彼女の作品は初めての観賞になります。
何故観に行ったかというというと、けっこう予告がおもしろかったんですよね。
かわいらしい海荷ちゃんと、顔にインパクトのあるはんにゃの金田哲さん(お笑いまったく疎いのですがコントの方なのですね)の止め画でのやり取りがなんかおもしろくて。
アニメっぽいなあと思ったら、監督はアニメ畑の方で、初実写作品とのことです。
なるほど。

川島海荷ちゃんが演じるのが西表耶麻子という女子高校生。
彼女は幼い頃から心臓に病を抱えていて、ずっとぼんやりと自分は長くは生きられないのかなーと思いながら生きてきた女の子です。
そういう耶麻子を「ヤマネコ!」(名字が西表じゃそりゃ呼びたくなるわな)と呼ぶ、不破先輩を演じるのが金田さんになります。
この不破先輩は、耶麻子が劇中で「クサい!ウザい!キモい!」と毛嫌いするように、なんというかムチャクチャ暑苦しいキャラなのですよね。
彼は80年代の青春ドラマからやってきたような熱血男。
あの時代に生きてたら熱い男と褒められていたかもしれないけれど、今の時代ではウザいだけ。
これを金田さんがすごいはっちゃけて演じているので、すごくいい。
この先輩に振り回される耶麻子のドタバタラブコメディかと思ったら、実は思いのほか深かったりするお話でした(とはいえラブコメとしてみても全然問題なし)。
耶麻子は心臓病を患っているので、彼女は若いうちに死ぬかもとずっと思ってきました。
だから彼女は生きることへの執着がそれほどないのですよね。
劇中でも彼女のモノローグにあるように、自分が今この地球にいるのはほんの一瞬の間で、すぐに好きなものとも別れなくてはいけないと思っています。
だから彼女は短い生なのだから、きれいなもの、幸せなものしか見たくないって気持ちがあって、現実のイヤなとこ、嫌いなことから避けて夢見がちな空想癖のある子となっています。
そういう耶麻子にとって熱く生きることや努力することを語る不破先輩はウザいだけじゃなくって、自分の生き方、感じ方を否定されるような気がして苦手だったんでしょうね。
彼女からしたらがんばったってすぐ死んでしまうのだもの、という感じなのでしょう。
現実っていうのはきれいなもの、幸せなものだけがあるのではなく、汚いものや不幸せなこともたくさんあります。
それは自分以外のこともそうですが、自分の心にもきれいな心と汚い心があるのですよね。
耶麻子は南先輩が好きっていう自分の中にあるきれいな心をずっと感じていたいのですが、それに伴って生じてくる友達へのヤキモチや意地悪などという自分のイヤなところを感じつつもそれから目をそらそうとします。
彼女は自分が暮らす小さな島が心地よい場所と最初のころ言っていますが、自分の心の中にある暗い部分に気づいたとき、その心地よい場所もとても気持ち悪い場所に感じてしまいます。
このあたりの耶麻子の気持ちはテレビシリーズ(新劇場版のほうじゃなくて)の「エヴァンゲリオン」のシンジやアスカにも通じるところがあるかなと思いました。
「気持ち悪い・・・」ってやつです。
人とふれあいたいという気持ちはあるけれど、そうすることにより見たくない汚いものまで見えてきてしまう。
汚いものは見たくないから、人とはふれあいたくない。
そういう何か世界と接触点をもちづらい10代特有の潔癖性みたいなものがでていたと思います。
耶麻子が不破先輩に「クサい!ウザい!キモい!」って言うのに対し、「おう、生きてるんだからクセーよ!」と切り返せる先輩はある意味すごい。
昔より今の時代は人や世界との接点が非常に狭くなってきています。
それこそ「エヴァンゲリオン」じゃないですが、「ヤマアラシのジレンマ」で接点が広くなることによって得られることより、傷つく方を気にしてしまうというか。
その割に他人が自分のことを見る目をとても気にしてしまったりもしています。
脱線しますが、通販のニキビケアのCMで男の子が「最近きれいになったって言われて嬉しい」って言っていたのを見て非常に驚きました。
最近は男の子でも一目を気にしてニキビケアするのね。
そこまで人目を気にするんだ・・・。
脱線から戻して。
生きていくということはきれいなものも感じて、汚いものも感じて、それをひっくるめて生きているっていうことなんですよね。
それは世界に対しても自分自身に対しても。
「どこからがリアルなんですか」と耶麻子が不破先輩に問いますが、彼は
「お前の感じることが全部リアルだ」と答えます。
ああ見えて、不破先輩けっこう哲学的です。

タイトルロールは川島海荷ちゃんによる「MajiでKoiする5秒前」がかかります。
30代、40代の方は反応しちゃうかと思いますが、こちらの曲は広末涼子さんがアイドル時代に歌っていた曲のカバーですね。
80〜90年代のアイドルPVのような作りで、ちょいと懐かしい気分になっちゃいました。

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2010年7月18日 (日)

本 「霧のソレア」

第11回に本ミステリー文学大賞新人賞受賞作品です。

アメリカから日本へ向かうボーイング747の荷物室でテロリストの仕掛けた時限爆弾が爆発。
それにより数人の乗客とともに機長を失ってしまいます。
機体には穴が開きながらも破壊は免れ、また女性副操縦士の適切な操縦により、飛行機はなんとか成田に向かって飛び続けます。
けれどもその飛行機の乗客には、ある国際的陰謀の重要な役割を持った人物が登場しており、そのため747の周囲では、妨害電波が張り巡らされ、飛行機は地上と一切連絡が出来ない状態となってしまいます。
そして彼らを受け入れる成田新東京国際空港は、濃密な霧で滑走路が覆われていました。

次から次へと747に降り掛かる問題はページを繰るスピードを速めてくれます。
著者は記者で航空関係に詳しいということで、その辺の描写は読み応えがあります。
ただ本作は群像劇であるのと、初めての著作ということで人物の描き込みの深さが甘めなのが気にはなりました。
ちょっと登場人物がステレオタイプなのですよね。
どこかで見た感じがするというか。
もう少しスポットをあてる人を絞りこんで、その背景とかも描ければ良かったかもしれません。
ただそうするとパニック小説としての流れが滞るかな・・・。
難しいところです。
とはいえ、するすると読め、ハラハラするところは請け合いです。

「霧のソレア」緒川怜著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-74743-5

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「借りぐらしのアリエッティ」 小さな小さなアリエッティが持つ大きな大きな生命力

スタジオの名前自体がブランドと化しているアニメーションスタジオが日米にそれぞれあります。
アメリカがピクサー、日本がジブリ。
それぞれピクサーアニメ、ジブリアニメとも称されるようにスタジオが作品の品質保証をするくらいにブランド化しているのです。
夏休みに入るにあたり、ピクサーが「トイ・ストーリー3」、ジブリが本作「借りぐらしのアリエッティ」を公開するのはともに親子で行っても大人の視点、子供の視点それぞれで楽しめるというブランドとなっているからでしょう。
ピクサーですが、公開する作品がほぼハズレなしというのは驚異的なこと。
それが一人の監督の作品ではなく、複数の監督によって行われていることが驚異的なのです。
ピクサーは一人の監督の才に頼るのではなく(当然ジョン・ラスターの存在は大きいけれど)、スタジオとしてのクオリティコントロールができています。
対してジブリはどうでしょうか。
宮崎駿監督作品についてはほぼ当たると読めますが、実は他の監督の作品については微妙な評価のものが多かったりするのです。
悪くはないけれど、宮崎作品と比べるとやはりどうしても見劣りがするという感じがあるのです。
今でこそ、ジブリアニメと呼ばれますが、僕の世代的には「宮崎アニメ」なんですよね。
ジブリの悩みは宮崎駿監督の後継者を育成しきれていないという点にあるかと思います。
そのこと自体はたぶんジブリ自体も感じていて、もうこの10年くらい新人監督を起用することがいくつかあります。
けれど偉大なる人物がそばにいるからか、どうも萎縮しているか、もしくは無理して背伸びしているような作品が見受けられます。
特に「ゲド戦記」などは背伸びしている感じがものすごくあるんですよね。
前置きが長くなりましたが、本作「借りぐらしのアリエッティ」もジブリの米林宏昌監督のデビュー作となります。
米林監督は若干37歳ということ。
僕はこの作品を見て、監督の年齢を知り、けっこう驚きました。
37歳とは思えないほど非常に落ち着いた演出をしているなと思いました。
派手さはありません、でもとても物語に誠実に作っている感じを受けたのです。
「今まで見たことのない画をとってやろう」とか「宮崎監督を越えてやろう」という余計な力みや背伸びを感じなかったのですよね。
「借りぐらしのアリエッティ」という物語を紡いでいくのには、どういう画を見せていくのが適切なのかということを丁寧に検討していたと思います。
米林監督はとてもきちんと作品を作れる人なのだなと思いました。
このようにジブリでも宮崎監督以外でもきちんとしたクオリティを作れる監督がもう2、3人でてくると、ジブリの将来は安泰なような気がします。
逆にそのような監督を育成していかないと少々厳しくなっていくと思います。

「君たちは滅びゆく種族なんだよ」
と翔がアリエッティに言うシーンが予告で流れていました。
予告だけを観るとこのセリフは非常に人間の傲慢さが現れているように感じましたが、本編を観るとまったく意味が異なりました。
翔は産まれたときから、心臓に病を抱えている子供でした。
そして心臓の手術をひかえて安静にするために、一週間ほど親戚の家を訪れます。
そこで彼はアリエッティに出会いました。
翔はずっと病と暮らしてきたため、生きることへの執着心がない子となっていました。
手術を前にしても、これで良くなるという希望を持つのではなく、たぶんダメなんだろうなと思ってしまうような子です。
だから先にあげたセリフはアリエッティに対して言ったセリフであるのですが、実は自分自身に言っている言葉でもあるのです。
この世に生を受けたけれど、滅んでいってしまうのは仕方がない。
自分で何か抗ったってよくなるわけなんかないという諦めが翔の心にはあったのでしょう。
けれどアリエッティと出会い、彼女が困難を前にしても挫けず、生きていきたい暮らしていきたいという生命力に触れたとき翔の心は変化したのでしょう。
自分の何十分の一しかない小さな小さなアリエッティが、自分よりも大きな大きな生命力を持っている。
懸命に生きようとしている。
自分も生きていけるのではないか。
「アリエッティ、君は僕の心臓の一部だ」
と翔は最後に言いますが、これはアリエッティから心臓と比喩される生きる力を得たということでしょう。
よく自然の中での生命の営みに触れると生きる力を得られるといいます。
アリエッティたち小人はフィクションではありますが、生き物たちの営みは自分たちの周りにどこでも見ることができます。
ふとそういう営みに目を向けたとき、生きる力を得られるかもしれません。

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2010年7月17日 (土)

「ユニバーサル・ソルジャー:リジェネレーション」 ヴァン・ダムの背中が哀しい

第一作目の「ユニバーサル・ソルジャー」は世界を破壊し続ける男ローランド・エメリッヒのハリウッドデビュー作です。
そのころから細かいことは気にしないエメリッヒ節で大味でいかにもB級といった感じの作品に仕上がっておりました。
マニアならいざしらず、作品としてもことさらとりたてるところもないものなので、「ユニバーサル・ソルジャー」の続編が作られると聞いてびっくり。
何をいまさら!
とは言いながら、ジャン=クロード・ヴァン・ダムも、そしてドルフ・ラングレンも出るということで、これは観に行かなければならないと。
ドルフ・ラングレンの演じていたスコット、前作のラストでコンバインでミンチになってなかったっけ?なんて疑問も湧いたりして。

もともと第一作もB級だったけど。
続編である本作はその下をくぐってC級、D級でした。
脚本もグダグダ、演出もグダグダ。
脚本のあら探しは書くときりがないので書きません。
スコットがなぜ冷凍保存してあったのか、潔いくらい説明はありません(それともあまりのダラダラ感に耐えられずしばらく気を失っていた間にあったのかな)。
セットやロケもちゃちいのです。
ずっと廃工場での展開で、これが元原子力施設にはどうやって見えないのだなあ。
日本のテレビの特撮番組の方がよほど凝っていると思います。
アクションも見せ場なし。
ヴァン・ダムもドルフ・ラングレンのVSもけっこうあっさりなのですよ。
何を観に行ったかって、これが目的だったのに。
二人のアクションが動けない感が漂っていてなにか哀しいのです。
二人とも動きが鈍いのよ、哀しいけれど。
激しいシーンは吹き替えっぽいし。
(マッチョ祭りの「エクスペンダブルズ」はちゃんとアクションしているよね?ちょっと心配)

ということで珍しいくらいまったく見所なしの映画にできあがっていて、かえってびっくりです。
いつもは何か良いところみつけようとするのですが、見つからなかった。
残念ながら。

ラスト、なんだか知らないうちに敵を倒して、爆弾も止めて去っていくヴァン・ダムの背中が何故か哀しく見えるのは、僕だけ?
この映画を観た後に「その男、ヴァン・ダム」を観ると、さらに年老いていくことの哀しさが味わえるのでそういう気分になりたい方はどうぞ(いるか、そんな人!)。

「ユニバーサル・ソルジャー」第一作の記事はこちら→
「その男、ヴァン・ダム」の記事はこちら→

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「トイ・ストーリー3」 自分のおもちゃ、どこにいってしまったのだろう?

子供の頃、遊んでいたおもちゃはどこにいってしまったのだろう。
畳の縁を道路に見立てて遊んでいたミニカー。
好きだったウルトラマンや仮面ライダーのソフビ。
想像の中だけで空中戦をやっていた超合金。
大人になって、あれどこにやったのだろうと押し入れを見てみても、それらはいつの間にかなくなっている。
壊れてしまったので親に捨てられてしまったのか、もう子供じゃないという気分で自分で捨てたかのか。
どうやっていなくなってしまったのかも記憶にないくらい。
この映画を観ると、そうやっていつの間にか別れてしまったおもちゃに何か申し訳なくなってしまったりするのです。

映画ファンでなくても知らない人は少ないであろう「トイ・ストーリー」シリーズのひさしぶりの第三作めを観てきました。
言うまでもなく、「トイ・ストーリー」は世界初の長編の3DCGアニメであり、この作品の登場がその後の映画に与えた影響は計り知れません。
その後の、3DCGアニメの隆盛はみなさん、ご存知のところ。
しかし「トイ・ストーリー」は目新しい技術によってのみ注目されたのではありません。
3DCGアニメで作られたウッディやバズなどのキャラクターが、なにか血の通った存在に思えるような温かいストーリー、そしてハラハラドキドキする展開、まさに映画としての魅力が十二分にあった作品だから皆が心引かれたのであろうと思います。
子供時代、おもちゃで遊んでいるとき、それらはこの作品のおもちゃたちと同じようにイキイキとしていたように思い出されます。
誰しも感じていたそういう懐かしい気持ちをこのシリーズは思い出させてくれます。
ピクサーのアニメーションがどれもヒットするのは、その手法はコンピューターというデジタルな機器を使って表現するものであっても、作り手がその物語に温かい人間性を描こうという思いをずっと持ち続けているからだと思います。
本作もそういう「トイ・ストーリー」から始まるピクサーの精神を引き継いでいる傑作となっています。
ウッディたちのハラハラするような冒険は、今までの二作品のようにそれだけで見ごたえがあります。
保育園の大脱走とか、最後の焼却場とか。
でもそれ以上に引き込まれたのは17歳になったアンディと、ウッディたちとの別れでしょうか。
前作から十年経って作られた本作。
アンディも高校生に成長しています。
大人になったらいつかおもちゃでは遊ばなくなります。
それは僕もそうですが、意識せずなんだか知らぬ間にそうなってしまいます。
子供っぽいのはイヤという気持ちもあったのでしょうか。
でも大人になってくると、ふとそういったものが懐かしくなったりするのですよね。
子供の頃はおもちゃにも、固有の性格を感じていたのでしょうか。
それは本作のウッディたちのようなイキイキとした人格であったのかもしれません。
知らないうちに別れてしまった友人たちに対するちょっと切ない感じが、本作に強い共感性を持たせているのでしょう。
ピクサーの作品はこういった強い共感性を持っているというのが、ヒットしている理由なのでしょうね。

この記事を書いていくうちに思い出してきました。
冒頭に書いた自分のミニカーの、行き先を。
そういえば遊ばなくなったミニカーは親戚の子にあげたのでした。
まさに本作でアンディがボニーに与えたように。
ミニカーたちはその後大切に遊んでもらえたのでしょうか。
自分のおもちゃの消息を思い出せただけでも、ちょっと嬉しかったりもします。

そうそう、ボニーの家にいたのはトトロですよね。
ピクサーと宮崎駿氏は親交もあったような気がしますから、これは友情出演かしらん。

あとピクサー映画好例の冒頭の短編「デイ&ナイト」。
これは傑作!
アイデアがぴか一です。
シンプルながらもアニメーションならではの表現性があり、またコンパクトなストーリーも良かった。
これなんかは手塚治虫氏が観たら、絶賛だったんではないかな。

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2010年7月14日 (水)

「レポゼッション・メン」 ご利用は計画的に

タイトルにあるレポゼッション・メンとは人工臓器回収人のこと。
作品中で描かれる近未来では人工臓器が普及し、一般の人もそれを利用しています。
ただしその人工臓器は非常に高価であり、その費用の返済が滞るとレポゼッション・メン、通称レポメンが有無を言わさず(ようは殺してでも)臓器を回収しにくるのです。
作中の主人公のモノローグにもあるように、この未来では人々は住宅や高級車を買うのと同じようにローン払いで人工臓器を買うのです。
僕個人は根が臆病者なので、高額商品を買うときはけっこう考えてしまうほうです。
払えるかどうかやはり心配ですから。
たぶん多くの日本人は、特に家や車などといった特に高い商品の場合は、自分の給料で払えるかどうか月々の返済額や金利など計算してから買いますよね。
でもアメリカ人はどうも違うようです。
一昨年くらいから問題になったサブプライムローンも、つまりは通常のローンでは信用がない人々に家を買わせる仕組みでした。
からくりとしては、好景気の場合は購入した家がどんどん価値があがるので、その含み益を前提に貸し付けているというものでした。
しかし景気悪化により、地価や住宅価格は下落し、見込んでいた含み益はなくなりそれが不良債権化したのがサブプライムローン危機なわけです。
日本人の感覚で言うと、地価が上がりそうという見込みをあてにしてローンを組むというのは非常に危険な感じがしてしまうのですが、どうもアメリカ人はそうは思わなかったようです。
そもそもアメリカは消費者の購買意欲は旺盛で、消費者も企業もその右肩上がり神話を前提に経済を発展させてきたとも言えます。
本作で描かれる人工臓器のローンというのは、よく考えれば無理があると言えます。
住宅の場合は転売可能ですので、住宅価格上昇を期待することができますが、人工臓器はたぶん個人のカスタマイズが必要であるはずですから、そうそう簡単に転売できないように思います。
となると購入したものを転売することによる差益は期待できず、購入価格を自分で返済するしかありません。
そうなれば購入後の自分の年収などを考えれば、返済できるか否かは簡単に計算することはできるでしょう。
たぶんアメリカ人というのは今を楽しみ、たいへんなことはなるべく先に、という思想があるのでしょう(日本人のようにまずはたいへんなことを片付けて、楽しみは老後にというのは安全ですが、それはそれでちょっと寂しい)。
クレジット払いというのも、将来手に入る賃金を期待して購入しているシステムですから。
右肩上がりというのが現実的でなくなってきた現在、アメリカでもそれまでの大量消費では立ち行かないという危機感が本作の背景にはあるのかもしれません。
やはり「ご利用は計画的に」でしょうか。

ヒロインのベス役を演じていた女優さん、どこかで観たことあるなーと思ってパンフを見たら、アンシー・ブラガという方。
フィルモグラフィを観たら「プレデターズ」とありました。
そうか昨日観た「プレデターズ」のスナイパー役の人か、と納得。
どこかで観たことあるわけだ。

原作の「レポメン」を書いたのはエリック・ガルシア。
この名もどこかで聞いたような・・・と思ったら、小説「さらば、愛しき鈎爪」の作者でした。
「さらば、愛しき鈎爪」は恐竜が主役のハードボイルド小説という、これだけ聞くと「???」な感じの作品ですが、とてもおもしろいのです。
ご興味ある方は是非読んでみてください。
「人工臓器回収人」なんて突拍子もない発想だなあと思ったのですが、エリック・ガルシアなら納得という感じでした。

エリック・ガルシア著「さらば、愛しき鈎爪」の記事はこちら→
「プレデターズ」の記事はこちら→

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本 「キャラクターとは何か」

日本発のアニメやマンガが海外で評価されていることを受け、「キャラクター論」についての本を多く見かけるようになりました。
ただし本著の冒頭で指摘しているように、それは文化的な側面からのアプローチか、またはビジネス的なアプローチのみでしか語られてきていませんでした。
本著はその双方のアプローチを試みているという点で新しいと思いました。

タイトルにあるように「キャラクター」というものは結局のところなんなのか。
僕もこのブログで「キャラクター」という言葉を多く使いますが、実のところその定義とは何かとはあまり深く考えず、曖昧に使っていたというのが正直なところです。
著者の整理によると、キャラクターは「意味」「内面」「図像」で構成されてます。
これはシンプルでありながら、的確な指摘で、僕個人としてはなるほどと納得した次第です。
まず「意味」というのはそのキャラクターが象徴している概念と言っていいでしょう。
本著ではアメリカの象徴であるアンクル・サムをあげていますが、企業などのマスコットキャラクターというのもそういう意味合いがあるかもしれません。
「内面」というのはそのキャラクターの持つ性格ですね。
そして「図像」はその外見です。
「意味」「内面」「図像」がそろっていなくてもキャラクターは成立しますが、そのキャラクターが浸透するにつれ他の要素も充実していきます。

また本著では冒頭にあげた文化的側面、ビジネス的側面からキャラクターを分析しています。
中でもアメリカ的な考え方、日本的な考え方についての分析はなるほどと思いました。
僕は仕事柄、著作権などについてもケアしなくてはいけないので、普通の方よりは多少詳しいですが、これはけっこうナーバスな問題を持っています。
以前仕事でディズニーさんとお仕事をしましたが、ここはかなり厳格なルールを持っています。
ただしそのルールは非常に洗練されているので、いっしょに仕事をする際、そのルールをしっかりと理解していればとてもやりやすいビジネスパートナーでした。
彼らは地方のちっちゃい看板などに彼らのキャラクターが無断で使われるのを発見した場合でも、きちんと抗議をすると聞いています。
それだけの管理をするからこそディズニーのキャラクターワールドがしっかりと守られているのだと思います。
その点、日本のキャラクターについていうと、やや属人的なところが多いというのが印象です。
先方と通じ合ってしまえればけっこう融通はききますが、逆に心象を損ねるとなかなかうまくいかない。
ルールはありますが、けっこう運用で解釈されるためある意味案件ごとの調整が必要になります。
シンプルにルールを守っていれば問題ないというディズニーさんのスタイルとは異なる印象があります。
ただ日本的な曖昧さというのが、日本のキャラクターがこのように隆盛している要因とも言えます。
本著でも触れている同人誌、またガレージキットなどの二次創作については、アメリカでは絶対NG
でしょう。
しかしながら日本においてはこの二次創作分野についてはある程度ファン活動的な意味合いで黙認されてきたというのが実情です。
キャラクター権者にとっては口コミで宣伝してくれているという効果を、そして出版社などについてはそこで活動している人が新たなるクリエイターの卵と見えるわけです。
つまりは二次創作分野は著作権的にはグレーゾーンでありながらも、ファン的にも、キャラクタービジネスを行う企業にとっても都合のいい場所であり、そのために日本のキャラクターが発展してきたと言えるわけです。
このあたりの著者の分析は、目のつけどころが非常によく、日本のキャラクタービジネスの発展の構造を上手に解き明かしていると思います。

久しぶりに勉強になった!と思える本でありました。

「キャラクターとは何か」小田切博著 筑摩書房 新書 ISBN978-4-480-06531-5

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2010年7月13日 (火)

「プレデターズ」 今度はアウェイ!

今度はアウェイ!

傭兵、暗殺者、スナイパー、ヤクザ、暴行犯、特殊部隊員・・・、いずれも高い戦闘能力を持った者たちが目覚めた場所は見知らぬ惑星でした。
アーノルド・シュワルツェネッガー主演の第一作から始まった「プレデター」シリーズは、今までずっと地球上が舞台でした。
プレデターは高度な科学文明を持ちながらも野獣のような性格で、人間狩りのを楽しむために地球を訪れていました。
そこで彼らが狙うのは特に戦闘力の高い人間。
獲物が強ければ強いほど、狩ったプレデターの名誉になるからです。
本作は舞台を地球ではない見知らぬ惑星になりました。
プレデターたちは全体が猟場となったこの惑星に人間を送り込み、そこで再び狩りを楽しもうとしたのです。
プレデターのライバル(?)「エイリアン」はシリーズが進むにつれ、舞台が地球に近づいてきましたが、「プレデター」シリーズは逆に離れていくのがおもしろい。
今までのシリーズでもプレデターは人間に比べて圧倒的な戦闘力と科学力を持っていました。
それに加えて本作は戦闘フィールドが見知らぬ星であるわけです。
まさにアウェイでワールドチャンピオンと戦うようなもの。
人類、ますますピンチです。

<しばしばネタバレあるので注意です。でもそれほどでもないか・・・>

僕は「プレデター」シリーズは一作目からのファンなのです。
特に「プレデター2」は大好き。
「AVP」もなかなかよろしい。
でも「AVP2」はがっかりな出来であったので、正直言って本作はまったく期待感ゼロでありました。
それが、蓋を開けてみるとこれがおもしろい!
舞台は見知らぬ惑星になっていますが、そこは一面のジャングルなので一作目の雰囲気が出ています。
特に狩られる側になっているというあの緊張感!
この緊張感が「プレデター」シリーズの真骨頂ですね。
またこの作品で緊張感を高めているのが、人類側も7人であるということ。
彼らもまた普通の人間の中においては、猛獣のような人間であり、捕食者(プレデター)であるわけです。
彼らは一癖も二癖もあるに違いなく、彼らの中でもなにか緊張感のようなものが常に漂っています。
これが従来の狩られる側としての緊張感に加えられるので、物語は最初からたるさはなくピンと張りつめたようになっています。
シリーズを重ねている本作なので一作目のようにプレデターの正体は何なのかというようなことで物語の緊張感を保つわけにはいかず、この登場人物の間のテンションがそれに代わり前半をひっぱります。
プレデターに襲われ仲間を失っていきながらも、だんだんとまとまっていく彼らですが、忘れた頃にドンデンがあったりするので、気を抜けません。
戦闘シーンも迫力ありました。
プレデターはやはり圧倒的に強くなければいけません。
絶対勝てないと思わせたところで、乾坤一擲の一撃で大逆転というのが「プレデター」シリーズの醍醐味ですから。
今回のプレデターは強かった。
全滅、ゲームオーバーで終わるかと思いましたもん。
「プレデター」シリーズは相手があまりに強いのでハッピーエンドではなく、全滅という選択肢もあるから観ていて予断を許しません。
そこがこのシリーズの特徴、おもしろさであると思います。
このあたりのシリーズのおもしろさのエッセンスをさすがプロデューサーのロバート・ロドリゲス、わかってらっしゃる。

最後のスーパー・プレデターとの戦いに勝利するところはかなりカタルシスあり。
なんかアウェイで絶対予選敗退と思っていたサッカー全日本が決勝に進んだような快感がありましたよ。

「プレデター」の記事はこちら→
a href="http://harayan.air-nifty.com/blog/2010/07/post-f06e.html">「プレデター2」の記事はこちら→
「AVP2 エイリアンズ VS. プレデター」の記事はこちら→

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2010年7月10日 (土)

「必死剣鳥刺し」 現代のサラリーマンの姿とかぶる

「たそがれ清兵衛」以来、藤沢周平作品が数多く映画化されるようになりました。
小説の藤沢作品は読んだことがことがないのですが、映画化された作品を観ると多くの共通点があることがわかります。
多くの物語は江戸時代、架空の藩海坂藩を舞台に描かれます。
物語で主に描かれるのは侍ですが、彼らは大名などではなくその多くは下級の武士。
江戸時代というのは歴史の中でも珍しく二百数十年に渡り安定した時代です。
そのため戦国時代には戦闘職として活躍した武士も、言わば官僚組織に組み込まれた生活を行っています。
下級の武士は、上へ絶対の服従をし、そして与えられた命を忠実に果たすことが求められます。
本作もそうですが、主人公の多くは必殺の剣を身につけた男です。
平和の時代でありますから、武士のほとんどは刀をぶら下げながらも、戦国時代ほどの戦闘力を持った男はそうはいなかったのかもしれません。
ですからこと有事となったとき、その役務を主人公たちが背負わなくてはならなくなるのです。
彼らのような特殊な能力を持つものはおらず、代わりはいないのですから。
そしてその役務はしばしば自分の命ですらさしださなくてはいけない厳しいものなのです。
絶対的な命令、そして彼らが残すであろう愛する者との間の狭間に彼らは置かれます。
また彼らの中にある正義、そして自分が所属している組織である藩が内包しているかもしれない悪の狭間にも彼らは置かれます。
けれど彼らはその役務を命令だからやらされるのではなく、自分の中の正義に従い自分でそれを選びます。
死するにせよ、生きるにせよ、彼らの選択は厳しいながらも、そこには潔さを感じたりもします。
今の時代これだけ藤沢作品が映画化されるのは、時代の要請があるのかもしれません。
下級武士が汲々として命に従って、板挟みにあっている様子は、現代の企業で働くサラリーマンの姿とかぶります。
官僚化した組織という点では昔の藩も今の企業もあまり変わらないかもしれません。
その硬直化した組織の中で上意を受けながらも、自分なりの答えを出し、それに誠実に従い生きようとする藤沢作品の主人公は、現代の僕たちがこうありたいと思う姿なのかもしれません。
息苦しい時代に生きる現代人にとって、彼らの潔い生き方はこうありたい姿として憧れとなるから、こうやって映画が作られているような気がします。

監督は平山秀幸監督。
ベテランの監督ですので、あえて奇をてらったようなスタイルはとっておらず、極めて王道の時代劇にしあがっています。
本作の主人公兼見三左エ門は、特命を行いそして詰め腹を切らされるわけですが、現代も往々にそういうこともあったりするわけで、サラリーマンとしては観ていて切なくなります。
とはいえ最後に一刺し突くのはまたサラリーマンとしては爽快であったりもします。
今度しっかりと藤沢作品を読んでみようかな。

サラリーマンの姿とかぶると言いながらも、僕が観た回はおじいちゃんばかりでした・・・。

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本 「マドンナ・ヴェルデ」

今度映画化される「ジーン・ワルツ」と表裏一体となる作品になります。
舞台となるのは産婦人科医院マリアクリニック。
本作の主人公となるのは「ジーン・ワルツ」にも登場する産婦人科医であり、「クール・ウィッチ」という異名をもつ曽根崎理恵の母、山崎みどり。
みどりは実は、体外受精によって理恵の子を身ごもっています。
つまりは彼女は娘の代理母となっているのです。
今現在、代理母は日本では法律では認められていません。
産婦人科医の理恵は日本のそういった制度について反対であり、自らの子供を体外受精し、実の母親で代理出産をすることにより、まっこうからその制度へのアンチテーゼとしようとします。
「クール・ウィッチ」と異名を持つだけあって、彼女の行動は論理的ではありますが、冷徹であり、そこに母親の意志、そして生まれでる子供の将来ということを考えるというところが欠如しているように見受けられます。
たぶん彼女のキャラクターは医療について論理的に考えようとすることの、擬人化でしょう。
それに対するみどりは、感情として人の生を考えるということのキャラクター化であると考えれられます。
情に流されては解決できなことがある。
また論理だけでは納得できないことがある。
冷徹なまでの論理と、温かな感情は時に対立をします。
その間に現実に生まれでる子供という存在がいたときに、どこに着地点を求めるのか。
本作は代理母が良いか悪いかということの結論は出していません。
議論はこれからもしばらく続いていくのでしょう。
けれど著者が提示しているのは、その議論の際に、生まれでてくる子供の将来についても考えてほしいという希望なのでしょう。
そんな気がしました。

海堂尊作品「ジーン・ワルツ」の記事はこちら→

「マドンナ・ヴェルデ」海堂尊著 新潮社 ハードカバー ISBN978-4-10-306572-2

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本 「こころ」

以前も書いたのですが、小説はたぶん普通の人よりもたくさん読む方だと思うのですが、実はいわゆる教科書に載ったりするような文学作品的なものはほとんど読んだことがありません。
ま、人から勧められる本を読みたくないという天の邪鬼なところがあるからなのですが、どうも敷居が高い感じがあったのも確かです。
で、ちょっと前にふとしたきっかけで夏目漱石の「我輩は猫である」を読みました。
これが意外なほど(文豪に対して大変失礼なのですが)おもしろく読めたのです。
そこで描かれる明治の人々は、平成の世に生きる僕からみても同じような悩みや思いをもって生きている。
そのおかしさ、かなしさみたいなものが猫の目を通して描かれているのがたいへんおもしろかったのですね。
そのようなことがあり、夏目漱石という作家に改めて興味がでてきたのです。

そして今回読んでみたのが、「こころ」となります。
こちらの作品も読んでいて非常に共感性というものを持ちました。
人というのは明治・大正も今も変わらないのだなと。
1部と2部の主人公の「私」と、3部の「先生」は物語の中で1人称で、自分の心の奥にわだかまる思いを吐いています。
彼らが語っている嫉妬や猜疑心、独善性、優越感、そしてそういう不遜な思いを持ってしまうことに対する自己反省のような気持ちが実はとても共感できるものであったのです。
聖人君子でないならば、少なからず人はそのような自分中心で自意識過剰な心もちを持っていることだと思います。
特に3部の「先生」の語りなどは人の心にある醜い部分について連綿と自己分析をしていきます。
これは読んでいても辛いところでもあるのですが、それは自分の中にも少なかれそういう部分があるということを曝されているような気がするので辛い感じがするのです。
「先生」自身が恋をする「お嬢さん」の気持ちに対する勘ぐり、「親友がその「お嬢さん」に恋をしていると告白されたときの驚きとそれを利用してしまおうとする狡さ、「お嬢さん」の母親を取り込もうとする計算高さなど、たぶん多少なりとも同じように感じたり行動してしまったことはあるのではないでしょうか。
たぶん漱石自身もそのように感じたことがあり、彼は正直に自分の内面を吐露しつつ、この作品を書いたのでしょう。
このあたりを書くのは辛いとは思うのですが、それを書くことが出来るというのが文学者として偉大なところなのかもしれません。
またそういうのを書かずにはおられないほど彼の中に鬱屈したものがあったのかもしれません。
明治維新以降、海外から「個人」という考えが入ってきて、日本人の「自意識」というのは急速に肥大してきたのだと思われます。
それまではどちらかというと「個」よりも「家」や「国」が大事であるという社会的な共通認識があったゆえ、「自意識」ゆえに苦しくなるということは少なかったのかもしれません。
明治になり、人々が自己をしっかりと持つようになり、だからこそ実は人と人との間になにか越えがたい谷のようなものができてしまったのかもしれません。
自己、自意識、自尊心を守るために嫉妬や猜疑心、独善性といった心は現れます。
近代化された個人意識の中に産まれたそういう醜い面について漱石は鋭い視線を向けていたのかもしれません。
こういう自意識・自尊心の肥大は現代においてさらに強くなっていると思われます。
いわゆるストーカーやクレーマー、モンスター○○みたいな存在はまさに自意識・自尊心が過剰に大きくなってしまったことの例であるような気がします。
「こころ」の「先生」のようにそのような自分の心の負の部分に自覚的でないであるということが現代はさらにたちが悪い。
もしかしたら本作は現代において改めて読んでみるには良い作品なのかもしれません。

夏目漱石作品「我輩は猫である」の記事はこちら→
夏目漱石作品「坊っちゃん」の記事はこちら→

「こころ」夏目漱石著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-101013-7

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2010年7月 9日 (金)

「アデル /ファラオと復活の秘薬」 ベッソンの好きなもの詰め合わせ

この作品はたぶんダメという方が多いでしょうね。
その理由は想像がつきます。
ストーリーにまとまりがない。
要素やキャラクターが多くて、それぞれが深く描ききれていない。
設定(なぜに翼竜?、死者を蘇らせる秘法?)が突拍子もなくて、いまいち物語に入りづらい。
シュールな笑いが笑えない、などなど。
これは他の監督だったら僕もそう指摘すると思います。
でもリュック・ベッソンならありかなと思います。
彼は基本的にストーリーをきちんと収めるべきところに収めるということにあまり重きをおいていないのではないかと思っています。
いわゆるハリウッド映画はアバンから始まっての展開という脚本の構成がしっかりと作られているものが多いのです。
ですのでハリウッド映画は映画マニアでなくてもスッと物語の中に入っていきやすい、つまりは人を動員しやすい作品になっているのです。
そういうのに対し、基本的にリュック・ベッソンはそのような映画的構成よりも、自分がやりたいこと(というより観たいもの)を詰め込んでいくという作り方をしているような気がします。
今までの監督作品、脚本作品をみてみても、たぶんカーチェイスがやりたいために作っている映画とか、海が好きだから作っている映画などもありますよね。
好きなものを詰め込んでいくので、彼の映画はストーリーや設定が破綻しやすいと思います。
でもそれはそれでいいんじゃないかと思ったりもします。
この作品でいうと、パリの街の上空を翼竜が飛んでいるというシーンをベッソンは撮りたかったのだろうと。
ミイラがパリの街を歩くという画を撮りたかったのだろうと。
そういうように自分が撮りたい画を撮っていくというのは、映画少年であったベッソンがずっと持ち続けているもので、素晴らしいのではと思います。
映画少年であった監督は多くいますが、どこかでマーケティングに自分の撮りたいものが負けていくという方もいると思います。
たぶんベッソンはアメリカで作った映画のいくつかはそういうふうになったのだと思います(彼のアメリカでの作品はディレクターズカット版とオリジナルはけっこう違ったりします)。
だから彼はフランスに戻り自分で会社を立ち上げ、自分が作りたいものを撮れる体制を作ったんですよね。
ベッソンがもう監督をやらないと言っていたのも、プロデューサーとしていくつも成功する映画を作り、ヨーロッパ・コープの映画は売れるという実績を作るための時間ではなかったかと思ったりもします。
監督では作れる作品は限りがありますが、プロデューサーとしてならもっと多くの作品を出すことができますから。
最近ベッソンが再び自分で監督もするようになってきたのも、やっと自由に作品を作れる体制(経済的基盤も含めて)ができたと判断したからではないかと思います。
そういう意味で本作はベッソンのやりたいことがいろいろ詰め込まれていてイキイキと作っているのが伝わってきて、僕は嫌いではありません。
前半がかなりもたついていることは気になりましたが、まあ本作は導入編ということで仕方がないかなと。
終わり方を観ても次回作をやる気は満々のようですので。
もっと次は活劇が多くなるかもしれません。
もう映画は撮らないと言っていたのを聞いて寂しく思っていた僕は、撮ってくれるだけでもありがたいです。

アデルというキャラクターはまだ消化不良な感じがあるのは否めませんが、魅力的な存在であると思いました。
思い立ったら周りを気にせずまっしぐら。
パリを駈ける暴走特急女ですね。
演じるルイーズ・ブルゴワンは初めて観る女優さんですが、なにか「ニキータ」のアンヌ・パリローに似た雰囲気を感じました。
見た目は全然違うんですけどね。
こういう見た目は綺麗な女性だけど、実は勝ち気で男まさりなタイプがベッソンのタイプなのかしらん。
そういう意味で、ベッソンは好きなものを映画に詰め込む監督だと思います。

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2010年7月 4日 (日)

「宇宙ショーへようこそ」 SWと比べるのは酷か・・・

アニメーション映画においてキャラクターデザインというのはその作品世界に入り込めるか否かを決める一つの要因であると思います。
のっけから何を言っているのかというと、この作品のキャラクターデザインは自分には合わなかったということ。
おっきな目をした女の子のデザインは今風なのかもしれないのですが、どうもマニア向けっぽい感じがしてしまいました。
じゃなんで観に行ったんだということになるのですが、それは最近日本のアニメーションはいくつもオリジナルの作品で良作が出来ているからなのです。
興行的には小規模でも良い作品は作られている。
そういう作品はやはり観に行って応援しないと、という感じはあったのです。
昨年の「サマーウォーズ」なんかがそうですが、予告を観た時に同じようなにおいを感じたんですよね。
しかしそれが災いしたかもしれません。
どうしても「サマーウォーズ」と比較してしまいます。
「サマーウォーズ」は昨年見た映画の中でも自分の中ではかなり上位にある作品です。
それと比べるのは酷かもしれません。

普通の子供が異世界に行く。
これは「不思議の国のアリス」の例を上げるまでもなく、ファンタジーの定番です。
その異世界のイマジネーションを描くには、日本においてはアニメーションは最適の方法。
「サマーウォーズ」の電脳空間OZしかり、「ホッタラケの島」しかり、これらのアニメーションでは異世界を描くのにアニメーションの手法を使っています。
ジブリアニメもまさしくそうですね。
そういう意味では本作は日本のアニメーションのド定番のストーリーとして仕上がっているのです。
田舎の村川小学校の子供たちが夏休みに行う定番の合宿。
子供たちだけで過ごす1週間に意外な闖入者が現れます。
それは犬型異星人のポチ。
彼は地球に植物の研究にきた宇宙人でした。
ポチは助けられたお礼にと、子供たちを月まで連れて行ってくれます。

子供たちが夏休みに異世界に冒険に行くというストーリー。
まさに日本のファンタジーアニメーションの定番の物語です。
ただそれゆえに目新しさを感じないのです。
月の裏側にある「グレートビギナー」の様々な異星人たちが行き交い、カラフルで賑やかな街並は楽しませてくれるのですが、どうしても「サマーウォーズ」等の先に上げた作品のイメージとかぶり新味を感じられないのです。
制作したA-1 Picturesというアニメーションスタジオは最近良作を作っている会社だと聞きますが、その割に斬新さという点では食い足りない感じがしました。
物語としてはド定番であり、キャラクターデザインはあまり好きなタイプではなかったので、少々作品に入り込みにくく、結局そのまま最後まで過ぎてしまったという感じでした。
とはいえ、表現技術などはマッドハウスなどの老舗と比べても遜色無い感じがしましたので、A-1 Picturesには今後注目したいと思います。

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2010年7月 3日 (土)

「ザ・ウォーカー」 信じるものは救われる、信じないものは・・・

<今回はネタバレ含みますので、観ていない方はご注意!>

原題は「THE BOOK OF ELI」。
「ELI」・・・、エリ?何それ?
ということで観終わった後、調べてみました。
「ELI」は英語では「エリ」ではなく「イーライ」と読むそうです。
そう、これはデンゼル・ワシントン演じる本作の主人公の名前です。
しかしそれだけでなく「ELI」はヘブライ語では「エリヤ」となり、これは旧約聖書に登場する預言者の名前となります。
「預言者」、つまりは神の言葉を人に伝える人のこと。
これが本作のラストに大きく意味を持ちます。
逆にキリスト教の知識のバックボーンをもっていないと、ややラストにぴたっとはまる感じはしないかもしれません。
舞台となるのは世界戦争が行われた後の世界。
その戦争ではおそらくオゾン層が破壊され、地球に降り注ぐ紫外線量が増加、それにより多くの人が死にました。
戦争を生き延びた人々も限られた物資の奪い合いとなり、「マッドマックス」や「北斗の拳」のように暴力が支配する世界となっています。
そのような荒んだ世界を西へ西へと一冊の本を抱え、一人歩んでいくのが主人公イーライ。
その本は、世界戦争の原因になったとも言われたため、戦争後焚書され、残されているのはイーライが持つ一冊だけとなっています。
物語の中で如々に明らかになっていきますがその本は聖書であり、世界戦争は宗教戦争であったと想像されます。
その本を狙うのはある街の支配者カーネギー(ゲーリー・オールドマン)。
かれは暴力で街を支配していますが、人の心を癒す言葉が載っている聖書を手に入れることにより、人々の不満をそれによりそらそうとします。
つまりはカーネギーは、聖書=宗教を政治に利用しようとしているわけです。
さきほど書いたように詳しく描かれていませんが、世界戦争は宗教戦争であったと想像され、再び宗教を政治に利用しようとすればまた破滅の道を歩むかもしれないと暗示させています。
イーライは宗教を再び政治に利用されないよう、それを守り続け、それを信じる者たちに届ける役割を負っているように見えます。
冒頭に書いたように主人公が「イーライ」である理由はまさにこれで、彼は「神の言葉を伝える者」、まさに預言者なのです。
このあたり常識的にキリスト教のバックボーンがある欧米人と日本人では受け取り方が大きく違うと思います。
しかし、キリスト教を信じているわけでもなく、またその文化をよく知らない自分としてはこの物語がしっかり腑に落ちる感じがしないのです。
イーライはその本を護るためには、襲いかかる者たちを容赦なく討ち滅ぼします。
襲いかかる者たちがいくら蛮人のような者であろうと容赦なく殺すのは、キリスト教の本来の教義には反するのではないかと。
いや、違うかもしれません。
キリスト教、そして聖書において平等とされるのは、「キリスト教を信じている者」の間において、なのです。
それ以外の異端者は救われないとされているわけです。
ですのでキリスト教を信じていない者たちは容赦なく討ち滅ぼされても仕方がない。
信じるものは救われる、信じないものは救われない。
これはキリスト教の持つ偏狭性を表しているような気がしました。
キリスト教だけに限らずイスラム教も含めた一神教はこのような排他性を持っています(ならびたつ神がいるわけがない唯一神なので当たり前)。
しかしそのような排他性が、争いを産みやすくするわけです。
宗教対立が世界戦争を起こしたと思われるのに、結局は争いの種を繋げただけではないかと。
キリスト教の立場としては、唯一残る宗教とするならばそれは是であり、イーライは「聖者」となるのかもしれませんが、他の宗教を信じているものにとってはどうなのか。
一般的な日本人と同様に僕自身は宗教については寛容(というよりどれも信じているわけではない)であるため、本作で語られるイーライの行動についてはそれほど強い共感性を持てるわけではなかったのです。
上記のような宗教的・文化的背景をあったとしての理解はできますけれども。
ですので、本作は観客の宗教的な立場によって、観終わった後の感想が大きく異なるのではないかと思いました。

イーライが盲人であり、運んでいるのは点字の聖書であるのはトリッキーな設定でちょっと驚きました。
途中、他の人間が屋外に出るとき必ずサングラスをしている(たぶん紫外線照射が強いため)のに、イーライがしていないのに気づき、なんでだろうと思っていたのですが、最後にやっと納得がいきました。

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「踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!」 懐かしい面々にまた会えた

「踊る大捜査線」シリーズ、久々の新作です。
1997年にテレビシリーズ開始され大ブレイク、その後映画化、そしてスピンオフドラマやスピンオフ映画が作られるなどしてきましたが、青島(織田裕二さん)が登場するのは2003年の「MOVIE2」以来ですから、7年振りになりますね。
思えば1997年と言ったらもう13年も前になります。
当時お台場と言ったらフェリー乗り場以外は何もないただの埋め立て地であったんですよね。
その頃お台場に車で行ったことがありますが、走っているのは長距離トラックだけでここはどこ?という感じでした。
そのときは雨が降っていたときだったのですが、道路が冠水して危うく立ち往生しかけました。
東京のど真ん中なのに・・・。
今はフジテレビもでき、そして「本物の」湾岸署もでき、ガンダム(去年ね)も立ったりと、一大観光名所と化していますが、隔世の感があります。

「MOVIE2」は未だに邦画の興行収入歴代1位ですから、当時のその人気振りが伺えます。
かくいう僕もドラマオンエア時にはまった口でありました(最終回の一つ前の10話は号泣)。
青島のコート(M-51というアメリカ軍の軍用コート)が欲しくって、アメ横の中田商店まで買い求めにいきました(影響されやすいなあ)。
さすがに今は着ることがなくなりましたが、まだクローゼットにあります。
今でこそ警察小説や映画というのは、警察を組織として良い面も悪い面も描くのが定番となっていますが、その先鞭となったのは「踊る大捜査線」であったと思います。
それまでの警察ものというのはやはり「正義の味方」という側面でしかとらえられていなかったですから、新鮮でした。
青島は元々サラリーマンで脱サラ(もともとコンピューター会社の営業だったため、コンピューターには詳しい。本作でもそういうのを伺わせる場面があります)して刑事となったという異色の存在です。
ですので会社組織のように警察組織を見るという切り口があり、それがおもしろかったんですよね。
またそれよりもなによりも登場人物たちのキャラクターがそれぞれにクセがあり、印象的であったのもこのシリーズの魅力の一つ。
だからこそテレビシリーズが終わってからも次々とスピンオフが作られ続けたのだと思います。

さてさて本作ですが。
「MOVIE2」から7年も経っているので、主人公青島は昇格し係長になっています。
「お、青島、偉くなったなあ」と思ったりもしますが、そういう自分もドラマ放映時のただのヒラから今では管理職になっていたりするので、過ぎ去った歳月をしみじみ感じてしまいます。
お台場も大発展を遂げているわけで、湾岸署も今までの建家では収まらず、新庁舎への移転が行われます。
それに合わせてたかのように事件が勃発し、青島以下強行犯係は引っ越し作業と並行して捜査を進めます。
「踊る大捜査線」は今まで書いてきたように大ファンなのですが、正直言って今までの劇場版はあまり評価をしていないのです。
それぞれのキャラクターがたっているのと、事件が同時多発するというストーリーだったりするので、ややとっちらかっている感じが否めません。
「交渉人 真下正義」「容疑者 室井慎次」などのスピンオフの方がシンプルな分、見易いと思ったりもします。
本作もいままでの2作と同様、いろんな要素が詰め込まれていてとっちらかっている感は同様でした(ま、引っ越しなのでとっちらかっていて当たり前だけど)。
と言いながら、性懲りもなく初日に観に行ってしまうのは、やはり懐かしい湾岸署の面々に会いたいからというところがあるのですよね。
「踊る大捜査線」シリーズはとっちらかっていて、てんこ盛りな感じも魅力だったりするのかもしれません。
本作に限って言うと、映画としての出来不出来というよりも湾岸署のメンバーに会えるってだけで嬉しくて評価したくなってしまいます。
またいつの日か湾岸署のメンバーに会えることを期待したいです。

「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ!」という名セリフを吐いた青島ですが、本作でも良いセリフがありました。
「俺には部下はいない、いるのは仲間だ!」
ほんとそのとおり!
自分も管理職になった今、しみじみ心に響きます。

「踊る大捜査線」スピンオフ映画「容疑者 室井慎次」の記事はこちら→

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