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2010年6月26日 (土)

「孤高のメス」 命を繋ぐ、志を繋ぐ

ルールというのは難しい。
なぜならばルールを定めた時に、どうしてもどこかに線が引かれてしまうから。
ここまではOKで、ここからさきはNGというラインができてしまいます。
その線引きを人の死の定義でせよとなったら、それは医学的、生物学的な見地だけでなく、倫理的側面もあり、なかなか結論も出せないのも仕方がないこと。
ではルールがなくてもいいかというと、無秩序になるのでそうもいかない。
なので暫定的なラインを引かざるをえないです。
ただ暫定的であるがゆえの曖昧さ
この作品の舞台となるのは、現在では行われている脳死肝移植がまだ法律的には認められていなかった90年代初頭です。
法律的には認められていないけれども、目の前に救える可能性がある命があるとき人はどうふるまえばいいのでしょうか。

脳死ということについては専門的な知識を持ち合わせていないので、こちらでは触れません。
命を繋ごうと、脳死の息子の臓器提供を行おうとする母親、そしてその預かった肝臓で患者を救おうとする医師の姿は、まさに孤高というべき意志の強さを持っています。
ここで触れたいのは、その意志が周囲に与える影響、つまりは志を繋ぐということです。
外科医当麻は患者を救うというその一点のみだけを考える医師です。
彼の行動はまさにその信念によりしっかりと支えられている。
いくら周囲が騒ごうと彼の信念はまったく「ブレない」のです。
彼の「孤高」ともいうべき純粋な志は、周囲の人を動かします。
それは物語の語り手である看護師浪子であり、若手の外科医青木であり、オペのチームのメンバーであります。
彼らは当麻の「ブレない」志に触れ、その揺るぎない強さを知ることにより、自分たちも同じように「人を救いたい」という志を持っていくようになります。
そしてその志は、浪子の日記を通じて、息子の弘平にも伝わっていくのです。
脳死となった誠の肝臓が大川に移植され命を繋いでいったように、当麻の志は周囲の人々にも繋がっていったのです。
志というのは目に見えないものですが、強い志は周囲の人々を動かしていきます。
まさに志が繋がっていくのです。
この物語の登場人物は医師であり、看護師ですが、志を繋いでいくということにおいては職業は関係ありません。
人としての志、プロとしての挟持を持てれば、命が繋がっていくように、志も繋がっていきます。
これは医者でもなくても当麻の姿勢には見習うべきところがあります。
あと最近表面的な事象・発言だけを見たり聞いたりして「ブレてる」とか「ブレない」とかみなさんよく評しますが、まず表面的なものではなくその人の真意・志を見てくださいと言いたい。
ほんとに信念がある人ならば、その人の意志はまた誰かに確実に繋がっていきます。
周囲の反応に惑わされず、もの言わずに信念を貫き行っていく人が孤高の人なのでしょうね。

サッカー全日本の岡田監督なんかは孤高な感じがするなあ。
勝っているから急にみんな褒めそやすけれど、あれで負けてたらけちょんけちょんだったろうに。
でも彼の信念はチームに伝わっているんでしょうね。
岡田監督は勝っても負けてもワールドカップが終わったら、当麻のように潔く身をひくような気がします。

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本 「強いリーダーはチームの無意識を動かす」

いわゆるビジネスハウツー本のひとつでしょう。
とりあえず「積んどく」系で以前に買い求めたものを読んでみました。
なぜこの本を買ったのか、今になってみればよく思い出せないのですが、いろいろ悩んでいたのでしょう。
ようは管理職が部下のやる気をださせるにはどのようにすればよいかというテーマの著作になります。
最後まで読んでみて、役に立つかたたないかと言うのであれば、身もふたもないですが、あまり役にはたたないと言わざるをえません。
この本の最後に
「スタッフを本気で愛せればテクニックはいらない」
と書いてあります。
これは僕の今までの業務経験からの実感ベースでも、その通りだと思います。
ただ問題なのが、この本の中身に書いてあるのはほとんどがその「テクニック」ばかりなのです。
それもやや似非っぽいところも感じられ、マルチ商法とかそういうようなものにも通じるような心理操作テクニックなのですよね。
相手を自分の思う通りに動かすためのテクニックというような感じで。
これは先に上げた文章とどうもしっくりと合っているような気がしません。
申し訳ないですが、あやしげなコンサルの書いた文章という気がしてなりません。
なんだかなあ・・・。

「強いリーダーはチームの無意識を動かす」橋川硬児、石井裕之著 ヴォイス ハードカバー ISBN4-89976-074-4

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2010年6月20日 (日)

「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE YELLOW お宝DEエンド・パイレーツ」 「ディケイド」の後日談

「電王トリロジー」の最後を飾るEPISODE YELLOWの主人公は仮面ライダーディエンドこと海東大樹。
ディエンドは「仮面ライダーディケイド」の第二のライダーでしたが、まさかの「超・電王」への登場。
よく考えてみれば、「電王」は時間を自由に行き来できる設定ですし、「ディケイド」は空間を行き来できる設定なので、組み合わせればなんでもありなんですよね。
脚本はEPISODE RED、BLUEの小林靖子さんから変わり、米村正二さん。
米村さんは「ディケイド」の後半のメインライターだったので、大樹というキャラクターをよくわかっているからの抜擢でしょう。
「EPISODE BLUE」は小林靖子さんらしい感動的な作品になっていましたが、「EPISODE YELLOW」は米村さんらしいギミックがある作品となっていたと思います。
ただ「電王」と「ディケイド」をしっかり観ていないとちょっと辛いかな(たぶん観に来る人はコアなファンなので問題ないかと思いますが)。

今回のトリロジーは主人公以外のライダーをそれぞれ主人公にしています。
大樹も「ディケイド」では独特のキャラクターの強さを見せていたので、一度とことんまで活躍させてみたいということなのでしょうね。
大樹は「ディケイド」の物語で、彼自身にとって大切な「お宝」をみつけることができました。
それはともに旅をする仲間であり、彼らとの繋がりでした。
司や夏海、ユウスケとの出会いが、それまでの大樹の「お宝」の概念を変えたのでしょう。
おそらく今回の作品は「ディケイド」の物語の後に設定されています。
大樹にとっての「お宝」は見つかりました。
そうしたとき、彼が以前に奪い損ねた「お宝」のことが気になったのでしょう。
狙っていた「お宝」よりも大事な「お宝」があったということを。
でも自分にとって大事な「お宝」と同様に、あれがレイジにとっても大事な「お宝」だとわかったわけです。
だから彼は時を越え、大事な「お宝」を奪いにいきます。
司たちと旅をする前の大樹だったら考えられなかったことかもしれません。
この物語の最後で大樹と、良太郎とコハナが別れるところは「ディケイド」でも舞台になった光写真館の前。
大樹はあそこで暮らしているのでしょうか。
そこには司や夏海、ユウスケもいっしょに暮らしているのかもしれません。
そこが彼にとっての「お宝」なのでしょう。
そういう意味で、この作品は「電王」の1エピソードというよりは、「ディケイド」の後日談と言っていいかもしれません。
「超・ディケイド」、もしやあるか?

雑誌では見ていたディエンドコンプリートフォーム、やはり大画面で見ると良いですねえ。
なんとも贅沢です。
この手があったかと。
「アタックライド ゲキジョウバン!」のボイスが笑えました。
アークだけが大きかったり、コーカサスが青い花を持っていたりと、細かなこだわりもありました。
もっと活躍場面があったら嬉しかったけど。

三作観た方はどれが一番お気に入りでしたか?
僕は「EPISODE BLUE」が一番好きですねー。

「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE RED ゼロのスタートウィンクル」
「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE BLUE 派遣イマジンはNEWトラル」の記事はこちら→

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2010年6月19日 (土)

「FLOWERS -フラワーズ-」 普通の女性たち、それでも彼女たちは輝いている

予告を観たとき、「まるで『TSUBAKI』のCMみたいに豪華な顔ぶれだなー」と思っていたら、製作委員会に資生堂とADK(「TSUBAKI」の担当広告代理店)の社名を発見し、「なんだ、広告プロモーション映画じゃん!」とやや引き気味目線で観賞しました。
とはいえ、まさに花のような女優陣はやはり観る価値がありますし、また年代ごとの映像テイストを変えるところなどは興味がありましたので、観に行ってきた次第です。

といった斜めな視線で挑んだんですが、けっこうじーんときてしまいました。
物語は昭和の初めから現代までのある一家の女性たちの生き方を描きます。
改めて考えてみると昭和から平成という時代は最も日本という国が変化をしたと言えるかもしれません。
国民のライフスタイルも時代の変化に伴い、変わってきました。
なかでも女性の生き方というのは、大きく時代の影響を受けるのかもしれません。

凛(蒼井優さん)は昭和の初めまだ太平洋戦争が始まる前に青春時代を送りました。
女性が男性に従うのが当たりまえの時代に、親が決めた結婚に反発をします。
けれどもまだ時代は彼女のような進歩的な考えを受け入れられる状況ではありませんでした。
凛の娘である薫(竹内結子さん)、翠(田中麗奈さん)、慧(仲間由紀恵さん)の時代は日本は高度経済成長期です。
女性の社会進出も行われてきた時代ですが、まだまだ旧来の価値観が残っています。
翠は自立した女性を目指しがんばっていますが、女性としての幸せな結婚という選択肢の間でゆれます。
薫は愛する男性と幸せな結婚をしますが、不慮の事故で夫を亡くしてしまいます。
そして慧は結婚し、二人の子供をもうけますが、出産の際に亡くなってしまいます。
凛の三人の娘はそれぞれに自分の生き方を送っていますが、この時代が女性が生き方の選択肢を選べるようになってきたということなのでしょう。
そして現在、凛の娘である奏(鈴木京香さん)、佳(広末涼子さん)の時代。
奏はたぶん自分のやりたいことをずっとやって生きてきたのでしょう。
これは現代女性らしい生き方ですが、気がつくと自分は一人でいるということを寂しく思います。
そしてお腹には別れた恋人との間にできた子がいることを知り、その子を産むかどうかを悩みます。
佳は自分の命と引き換えに母親をなくしたという心の傷を持ちながらも、生きることに感謝しながら幸せな家庭を築きます。
現代は奏のように女性が自分の力で生きることができる時代です。
でも最近では佳のように家庭に入り専業主婦になりたいと思っている女性も増えているようです。
このあたりは女性の価値観も多種多様になったということがわかります。

そのような時代とともに変わってきた女性の生き方を、ある一家の各年代の女性を通じて描くというのはうまくいっていたと思います。
時代時代でどうしても女性の生き方は影響を受けざるをえませんが、それでも変わらないものもあります。
それは女性だけが子を産み、育てることができるということ。
たぶん自分のお腹をいためて子を産み、その成長を見るという幸せの感覚は、たぶん男性は想像することはできてもその本質はわからないような気がします。
たぶんそれはとても重く(慧が決断したように)、でもそれゆえに自分がいる意味というのを見いださせてくれるのかもしれません。
だからこそ、いつの時代は女性は強く、そして美しく輝くのかもしれません。
この物語に登場する女性たちは誰も特別な人はいません。
その時代その時代の普通の女性の代表的なイメージが彼女たちなのでしょう。
普通の女性たち、それでも彼女たちは輝いて見えるのです。

6名の美しい女優さんたち。
それぞれ異なりますが、それぞれが花のように美しく良かったです。
個人的には広末涼子さんが好みなのです。
彼女はアイドル的であった10代より、今の方がずっときれいですね。

ところどころ「椿」のインサートが入るのは、やはり資生堂がスポンサードしているからなんでしょうねえ。
ちょっとここだけ鼻につきますが。

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2010年6月13日 (日)

「告白」 人間の本質は自己中心性

ほんとすごい作品だと思う。
本作に登場する登場人物は子供から大人までほとんどが自己中心的に描かれます。
それが彼らの「告白」によって描写をされます。
彼らは自分が見たいように世界を見、そして行動する。
その行動は自分からすれば正当的なのかもしれませんが、他者からすれば残酷な仕打ちなのです。
これは本作で描かれる事件の犯人A、Bのことだけを言っているのではありません。
娘を殺され復讐を図る悠子もそうだし、自分では無自覚のまま子供や生徒をおいこむウェルテルや少年Bの母親も、そして生徒たちも。
世界はその人の目、心を通して、その人物に認識されます。
自分が見るもの感じものを同じように他人が感じるかどうかというのは幻想なのかもしれません。
程度の差はあれ、世界を知覚するというには必ず「自分」というフィルターがかかるのです。
この物語がタイトルにあるように「告白」というスタイルをとっているのは、本人が語る以外にその人物が本当はどのように感じたかというのは表現できないからなのでしょう。
ウェルテルにしても、Bの母親にしても、美月にしても、「相手の気持ちがわかる」と思っています。
それは幻想、なのかもしれません。
彼らはよかれと思って行動しているのに、それは相手にとっては辛かったり、うざいものでしかなく、それが知らず知らずのうちに相手を追い込んでいくのです。
相手が自分と同じように世界を見ている、という仮定が間違っているのかもしれません。
これについては本作ではただ一人の人物以外は無自覚であり、僕たち自身が普通に生活しているときも無自覚であるのだと思います。
事件報道の近所の人のインタビューで「そんな人に見えなかった」という答えをよく聞きます。
事件じゃなくても普段の生活で時折、「こんな奴だとは思わなかった、裏切られた」と思うこともあるでしょう。
でも「そんな人」っていうイメージは自分の中にある「その人のイメージ」なんですよね。
そのイメージと本人はまったく一緒のはずがない。
それは自分自身のイメージについても同じこと。
自分がこうであると思っている自己イメージと、他人が自分のことを思っているイメージは違います。
このイメージのギャップが本作において物語を動かす底流となっているのだと思います。
犯人Aも犯人Bも母親が自分に期待するイメージと、自分が思っているイメージ、そして周囲の反応とのギャップの中で次第次第に歯車が狂っていくように心がきしみ歪んでいきます。
周囲は何故ゆがんでいくのかが、わからない。
なぜならイメージのギャップが存在することに無自覚だから。
さきほど書いたようにそれに自覚的な唯一の人物は、主人公である悠子です。
彼女は自分がしていることに十分に自覚的です。
それが普通の基準で考えれば倫理的にもおかしいということにもわかっているのでしょう。
わかったうえで彼女は復讐を行っている。
彼女が娘を失って見ている世界は、たぶん色あせ味気ない世界なのでしょう。
彼女の周囲は「わかるよその気持ち」と言ったのかもしれませんが、たぶん悠子にとっては何の慰めにもならなかったのだと思います。
娘を失った自分が感じている世界は、他人が感じている世界とは全く違ってしまった。
たぶん、だからこそ他人が感じている世界の倫理などには囚われない、自分が感じるままに自分が正しいと思うことを行うと決めたのでしょう。
その行為が一般的な社会の基準として正しいとか正しくないと言うのは、本作の本意ではないでしょう。
「命の大切さ」を描いているのも実は違うと思います
本作が描くのは人間というのはどうしようもなく自己中心的にしか世界を見れず、そしてそれを無自覚に他人に押し付けてしまっているということなのだと思います。
これはこの映画を観ている自分たちにも言えることなんですよね。
その自己中心性というものは意識する主体である存在である限り変えることができません。
ただし自覚的になること、相手の身になって考えようとすることはできます。
たぶんそこに「救い」がある。

中島哲也監督の前作「パコと魔法の絵本」とは見た目は全く異なるイメージの本作ですが、テーマは共通していると思います。
「パコ」で役所広司さんが演じていた大貫という人物は、それは自己中心的な人物として描かれていました。
彼がパコと出会い、自分の価値観以上に大切にしたいものを手に入れるという「救い」の物語でした。
パコと出会うことにより、彼自身のフィルターを外して世の中を見ることができたのです。
それはあの作品で描かれているようにきらびやかで豊かな世界でした。
本作が「パコ」とは対照的に、かなり色を抑えたトーンで描かれるのは意味があります。
人間の自己中心性を描いている点は「パコ」と「告白」は共通していますが、本作にはまったく「救い」がない。
あくまで登場人物は自分自身のフィルターでしか、最後までモノごとを世界を見ることができません。
それが悲劇を生んでいる。
そして自分自身のフィルターを通じてしか世界を見ることができないということこそが、人間という存在の冷酷なまでの真実だと言っているようにも感じます。
中島哲也監督らしい光の使い方、計算された構図などの表現は、ファンタジー世界を描いているのではないのにもかかわらず、不思議と現実感を抑え、この物語のフィクション性を強めています。
このフィクション性はとりもなおさず、それぞれの人間が感じている世界すらも現実とは異なり、その人自身しか見れないフィクションであると表現しているようにも感じました。

原作は未読なのですが、これは読まないわけにはいくまい。

原作小説「告白」の記事はこちら→

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2010年6月12日 (土)

「プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂」 アトラクションのように楽しもう!

ジェイク・ギレンホールだったのねえ。
あれだけ散々予告編を見せられたのに、映画見始めるまで気づかなかったです。
ジェイクはどちらかといったらメジャーよりもインディーズのイメージが強かったので、ブラッカイマーの作品に出るとは思いもしなかったんですよ。
あと短髪でおとなしめ、もしくはアブナイ系のイメージがあった彼が、ロン毛でビルドアップしたヒーローになっていたんで、予告編で気づかなかったなあ。
とはいえ、本作に合わなかったというわけではなく、いい感じではまっていたと思います。
彼の特徴は人懐っこい笑顔ですが、それとアクションシーンの厳しい表情との差が、ダスタン王子というキャラクターを今までのコミック系、ゲーム系映画化作品のステレオタイプなキャラクターと差別化していたように感じます。
なかなかキャスティングの目のつけどころがよいぞ、さすがブラッカイマー。

本作の元になっているのはゲームだそうで(全然知らないけど)、だからああやってピョンピョン飛んでいくのね。
パルクールばりのアクションも新鮮でした。
スピード感もあって見ごたえがあったと思います。
アクションに時折はさまれるスローモーションは鬱陶しい手前のギリギリで抑えていて、アクション大作らしいケレン味が出ていたのではないでしょうか。
暗殺集団ハッサンシンとの戦いのシーンがいくつかありますが、これが見ごたえありました。
かれらはまるで忍者ですねえ。
このくらいのクオリティのアクションで山田風太郎の忍法帖シリーズとか「影の軍団と」とか映画化してくれないかしらん。

ストーリーとしてはアクション映画のド定番の展開。
キーアイテム(本作では短剣)の争奪戦が敵と味方の間で繰り広げられていきながらストーリーが進んでいきます。
存在感があるベン・キングズレーのニザムが最初っから怪しさ満点で、予想通りお話は進むので展開を追えなくなることはないでしょう(実際チョッと落ちたのですが、全然平気でした)。
お話は定番なので、アクションを集中して楽しめるっていう感じですね。
ほとんど期待してなかったので、思ったよりも楽しめました。
アトラクションを楽しんだ感じに近いですね。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」の初見のときの印象に近いと思ったら、そういえばあれもブラッカイマー&ディズニーでしたよね。
成功パターンをつかんでいるという感じがします。

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2010年6月11日 (金)

本 「植物図鑑」

わわわ、有川さんの作品の中でも群を抜いてのベタ甘だ〜。
このところの最近の作品は甘さ控えめでテーマも今までより手広くなっていますが、この作品は手加減なしの超スイート恋愛有川節発射!というところです。
しかしこういう作品、おもしろがって読んでる自分って・・・。
いや、男子も甘いものキライじゃないんですよ。
ほら世間では男子スイーツとか言ってるし。
甘いもの好きって言うとかっこ悪いから、あまり言わないだけで、けっこうみんな好きだとふんでるんですが・・・。
(書けば書くほど言い訳めいてくるなあ。)

有川さんのあとがき曰く、こういうのを落ち物というジャンル(?)らしいです。
「コナン」とか「ラピュタ」とかある日突然少年の前に美少女が現れるっていうパターンのお話を。
本作はその女の子バージョンというコンセプトだということです。
女の子の前にある日突然、イケメンが落ちてくる(というより落ちているだったが)ということですね。
その後は、もう説明するまでもないベタ甘展開なので読んでくださいっ!
この甘さが苦手な人は一章で投げ出すことでしょう。
好きな人は最後まで食べちゃって下さい。
甘いものは別腹ですから。

しかし樹は完璧に植物オタクなのだが、あらためて思うのは美形は得だということ。
これで不細工なオタクだったら拾ってもらえないものねえ。
いくら躾のできたよい子だったとしても(苦笑)。

「植物図鑑」有川浩著 角川書店 ハードカバー ISBN978-4-04-873948-1

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「アイアンマン2」  さらに魅力的になったトニー・スターク

前作が公開されるまで、日本人で「アイアンマン」というヒーローがいるということを知っている人はとっても少なかったのではないでしょうか(かくいう僕もそのひとり)。
蓋を開けてみれば大ヒットということで、一気に人気ヒーローの仲間入りをした「アイアンマン」の続編がいよいよ公開です。
そのヒットの要因の一つが、主人公トニー・スタークのキャラクターと、彼を演じるロバート・ダウニーJr.の相性の良さだったと思います。
シリーズ2作目となる本作では、1作目で脚本上のトニーというキャラクターをロバート・ダウニーJr.という俳優が増幅したイメージを、それが再びトニーというキャラクターにフィードバックを与え、さらにまたロバートが膨らますという好循環がみられ、より魅力的になっています。
最近のアメリカのヒーローはストイックであり、悩めるキャラクターが多いのですが、トニーは全く逆と言っていいでしょう。
劇中でも自分で"agree"しているようにナルシストで自己顕示欲が強いのが、トニー・スターク。
大概ヒーローというのはさまざまな理由によりその正体を明かしていないものですが、1作目のラストでアイアンマンであることを「公表」してしまってどのように話を繋いでいくのだろうかと思いきや、おおっぴらになったヒーローとしてうまくストーリーを作っていたと思います。
公聴会でのパフォーマンスじみた答弁を行うトニーは、今までのヒーロー像とは違うイメージを作り上げたと思います。
とはいえ、そのトニーもその内面はヒーローらしい正義感をもち、そして繊細で、恋愛に関してはピュアなところを持っているというのが、またこのキャラクターを豊かなものにしています。
自分がもう少しで死ぬかもしれないということ、そして最愛のペッパーといつか死に別れなくてはいけないという怖さを胸に秘め、表面上は飄々とカッコつけているところが、いい年をした中年でありながらも少年のような繊細さを感じます。
ほんとに好きな子の前では、かっこつけちゃう感じでしょうか。
このイメージを作り上げた一番の貢献者はやはりロバート・ダウニーJr.でしょう。
もうロバート以外のトニー・スタークは考えられないほどのあたり役となったと思います。
彼は今までのプライベートの素行からもやんちゃなイメージもありますし、それでいて繊細な役柄というのもできるというところでトニー・スタークと非常に相性がいい。
というより二作目である本作はまさにロバートにあて書きしているわけですから、前作よりもさらに不可分にキャラクターと演技者が一体化していると思います。

アクションも見ごたえありました。
そもそもパワードスーツであるアイアンマンはCGによる表現に相性がいいわけで、そのあたりが存分に活かせていました。
特にパワードスーツ対決は、肉弾戦ならぬ鉄弾戦という感じで、鉄と鉄がぶつかり合う堅さが表現できていました。
まさにこれこそガチンコ勝負っていうやつでしょうか。
アイアンマンのバージョンアップしてカッコ良くなっていくのもロボット好きとしてはうれしい。
個人的には携帯式のスリムなマーク5がお気に入り。
予告編でもたくさん流されていたガチャガチャガチャと体に装着されていく様子は、男の子魂に火をつけてくれます。
ハートをズキュンです。
うちにも一台欲しい!

アイアンマンの装着者が顔出しするシーンがいくつかありますが、ロバートとローディ役のドン・チードルは面長なのではまりがいいのですけれど、ウィップラッシュのミッキー・ロークはいかにも窮屈そうでちょっと苦笑しました。

あとブラック・ウィドー役のスカーレット・ヨハンソン。
赤っぽい黒髪はあれはウィッグかな。
見慣れたブロンドとは印象が変わって、これはこれで美しい。
それでもってラインクッキリのボディスーツ姿も美しい。
別の意味でハートをズキュンでした。

シリーズ第一作「アイアンマン」の記事はこちら→

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「ローラーガールズ・ダイアリー」 ぐいと引き上げる

ドリュー・バリモアの初監督作品「ローラーガールズ・ダイアリー」を観てきました。
題材となっているローラーゲームは日本では全くポピュラーではないですが、ルールの説明もあるので、全然大丈夫。
けっこう激しそうなスポーツなので、親でなくとも女の子がこういうスポーツやるとなったら心配しちゃいますね。

ストーリーとしては典型的な少女成長ストーリーとなっています。
ブリス(エレン・ペイジ)は田舎の街のハイスクールに通っていて、年頃の少女らしく都会にも憧れ、男の子にも興味がある普通の女の子。
でも彼女は自分でやりたいことが見つからず、お母さんの言われるままにミスコン(アメリカではけっこうこういう地元のミスコンがある様子)に出ていたりします。
そんなときふとしたきっかけでローラーゲームに出会い、彼女は恋するようにそのスポーツに魅了されます。
ブリスは小柄な体と俊敏さをいかしてチームにジャマーとして抜擢され、めきめきと才能を伸ばします。
同じ時期にミュージシャンのオリバーにも出会い、彼とも恋に落ちます。
ローラーゲームと彼氏に夢中なのは、伝統的な価値観の母親と、家庭に波風を立たせたくない父親には絶対秘密。
ティーンの頃なら誰しもこういう秘密の一つや二つはもっていますよね。
でもその秘密がいつまでもバレるわけもなく。
両親にはローラーゲームを反対され家出し、恋人には浮気をされ、親友とはケンカし、そして17歳だということもバレて試合にも出られない、とバラ色だった彼女の生活は一気に曇り空へ。
でもやはり好きなローラーゲームは止められない。
ブリスはチームメートの励まし、お父さんの援護射撃もあって、ローラーゲームも決勝戦の舞台に立ちます。
こう書くとやはり典型的な少女の成長ストーリーとなるのですが、ドリュー・バリモアがこの作品をデビュー作に選んだのが、いろいろ考えさせてくれます。
ご存知の通り、彼女は小さな頃「E.T」でブレイクしてもてはやされるも、よくあるハリウッドの名子役と同様に10代で麻薬、ドラッグ、結婚・離婚と転落人生を歩みます。
普通はそのまま消え去っていくところですが、その後見事に復活し、「チャーリーズ・エンジェル」などのプロデューサーとしても成功し、そして本作で監督デビューも果たすのです。
たぶん彼女がティーンのときも彼女が女優が本当にやりたいことなのかどうなのかという葛藤があったのだと思います。
小さい頃から演技をしているというのはそれは自分の意志で選んだということはほとんどなく、親などがやらせたということなのでしょう。
これは本作でも母親がミスコンに娘を出させたがるというところが共通していて、ブリスにはたぶんドリュー・バリモアの10代のときの気持ちが投影されているような気がしました。
ドリューは10代はいろいろありながらも結局は映画の世界に戻ってきました。
彼女は周囲からやらされるのではなく、自分がやはりこの世界が好きだと思ったから戻ってきたのでしょう。
この映画が好きという気持ちは、やはりブリスがローラーゲームが好きという気持ちに通じるものがあるような感じを受けました。
お先真っ暗な状態になったブリスを救ってくれたのはチームメートのみんな。
ドリューにも同じような仲間たちがいてくれたのかもしれません。
原題は「WHIP IT」。
「WHIP」は「鞭を入れる」という意味もありますが、「ぐいと引き上げる」という意味があるようです。
本作中でも描かれていますが「WHIP(ホイップ)」はローラーゲームの技で味方選手がジャマーであるブリスの手を引き加速させるというテクニックです。
でもタイトルはこの技だけについてだけ言及しているわけではないのですよね。
ブリスはチームメートや父親、最後は母親や親友の力も借りて、自分のやりたいことに一歩足を踏み出します。
まさに「ぐいと引き上げて」もらったわけで、そこにこのタイトルの意味が込めらているのですよね。

主演のエレン・ペイジについてですが、実は「JUNO」を観ていないので、ほとんどお初です(「X-MEN」には出ていたか・・・)。
彼女、いいですね。
1987年生まれなので今年は23歳ですけれど、ベビーフェイスなのでティーン役も十分こなせます。17歳という大人と子供の間という役をやるにはまさにはまり役だったと思います。
本作中のエレン・ペイジはとても子供っぽい表情のときもあれば、とても大人びた顔をしているときもあります。
まさにベストキャスティングと言えるでしょう。

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2010年6月 6日 (日)

本 「警察庁から来た男」

佐々木譲さんの「笑う警官」に続く、いわゆる「道警シリーズ」の第二弾「警察庁から来た男」を読みました。
前作に引き続き、道警の佐伯、津久井が登場しますが、彼らは別の事件を追い、その中でそれらが実は根っこが同じものであることが次第に明らかにされ、そしてそれは道警の隠された不正に繋がっていくことがわかってきます。
本作で津久井と一緒に行動するのは、警察庁から来た監察官藤川警視正であり、彼も道警の不正を暴こうとします。
佐伯が地元の刑事らしく、聞き込みをし次第次第に真相に近づいていくのに対し、藤川は書類、データから不正の本質に迫ります。
このあたりの二人のアプローチの違い、そしてそれぞれが真相に迫っていくのが、ほぼ並行に描かれている構成は見事です。
徐々に不正の実体が明らかになっていき、途中からはその展開が加速度的にスピードアップしていくのは「笑う警官」でも感じたのと同じ感覚です。
本作の不正は「笑う警官」で語られた佐伯と津久井が関わった過去の潜入捜査の失敗に関わっていきます。
しかし本作でもその実体がすべて明らかにはなっていません。
「踊る大捜査線」以来、フィクションではキャリア=悪いもの、ノンキャリア=いいものって構図を多く見ますが、そんなに警察の組織っていうのは簡単じゃないということなのですよね。
キャリア・ノンキャリアの制度もいいところもあり、悪いところもあり。
でも制度というのはどうしても間に隙間が空いてしまうもので、そこに不正がはびこる余地というものがでてしまうのですよね。
何か不具合があって、組織体制を変えたとしても、また別の隙間ができてしまう。
難しいものです。
同じ部署を担当し続けると不正が起こりやすいということで、必ず何年か経つとローテーションをすることになった北海道警察ですが、それはそれで捜査畑のプロが育たないというジレンマが生じているようです(このあたり同じく佐々木譲さんの「制服捜査」が詳しいです)。
そういうローテーションを越えたところにある不正の構造は目のつけどころが鋭いと思いました。

道警シリーズ第一作「笑う警官」の記事はこちら→

「警察庁から来た男」佐々木譲著 角川春樹事務所 文庫 ISBN978-4-7584-3339-6

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「書道ガールズ!!わたしたちの甲子園」 あきらめるわけにはいかない

感動した!!

観る前は、「スウィングガールズ」のヒットからあとによく作られるようになった少年・少女たちが仲間たちといっしょに成長していくというフォーマットに則った一作品と見ていました(好きなんですがそういうジャンル)。
それに「書道パフォーマンス」って、なんだかえらく軽い感じと思ってました。
歌に合わせて書道をするなんて、タケノコ族じゃあるまいし(年がわかるぞ)、と。
劇中の里子じゃないけど、書道って、なんか背筋を伸ばしてきちんとやらなくてはいけないイメージがあったので、なんだかおふざけな感じも受けて。
(「ズームイン!!SUPER」は見ていないので「書道ガールズ甲子園」の存在は知らなかったのです)。
でも、この作品を観て、猛省。
そういう固定観念にとらわれているから、今の日本はなにか停滞感みたいなものが漂っているのですよね。
かつての勝利の方程式の幻想に囚われ、何も対策を講じてこないまま危機的な状況になってきているのが今の日本。
その危機が顕在化して目の当たりにしてしまい、立ちすくんでしまっているのが大人たちなのではないでしょうか。
自分のこだわりの紙が売れない、祖父から代々受け継いだ店を閉めなくてはいけない。
それはそれで苦労はあったでしょう。
でも大人たちがあきらめてしまっても、彼らにとって先の時間はもう残りわずか。
だからあきらめられるのかもしれません。
でも。
少年少女にとって、あきらめてしまったらずっとその先の時間は淀んだままなのです。
だからこそ若者たちは今までの枠などには囚われず、自分が本当に好きだと思うことにチャレンジをする。
彼女たちは「あきらめるわけにはいかない」のです。
だってあきらめてしまったら、もう自分の好きなものが消えてしまうから。
消えたまま残りの時間を過ごさなくてはいけないから。
「あきらめる」というある意味楽な逃げ道に入っていく大人たちに対し、「あきらめない」彼女たちの姿に希望を感じました。
彼女たちは、彼女たちが好きな昔からの大事なものを大切にしたいからこそ、新しいことにチャレンジする。
何が本質的に大切なものなのか彼女たちは感じているから、伝統という枠に囚われない。
いいじゃない、踊りながら書を書いたって。
それが楽しいんだから、それで皆が喜んでくれるんだから。
書道ガールズの面々が書く文字は「再生」。
「再生」は「伝統」を守り続けることではありません。
一度死に、大切なものが受け継がれて、「再び生まれる」のです。
今の日本に求められているのもそういうことなのかもしれません。

本作の成海璃子さんは良かったです。
彼女の最近の作品は本来のパフォーマンスが出ていないように感じていました。
彼女は凛とした強さ、そしてとびきりの笑顔、この二つを兼ね備えた女優さんだと思います。
最近の作品はどちらか、もしくはこれ以外のところで勝負しようとしていたような気がするのですが、本作ではこの彼女の二つを見ることができます。

桜庭ななみさんが演じていた香奈のような女の子ってクラスにいましたよね。
「もう、男子!ちゃんとやってよ!」みたいな、男子をこっぴどくどやしつける子。
すいません、自分もどやしつけられましたので、あのヘタレ三人組の気持ちわかります(笑)。

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「コールドケース シーズン3」 より深みを増すエピソード

このドラマはアメリカには殺人事件などの重罪については時効がないということが前提で作られています。
日本も今年になって刑事訴訟法が改正され、同様に殺人罪などについては時効が撤廃されました。
これについては議論はいろいろとあるところだと思いますが、遺族の気持ち、犯罪の抑止という点では意味があるように僕は思います。
本作「コールドケース」でもしばしば描かれるように、事件直後では言えないこと明らかにできないこと(証言すると証言者の不利益になる等)が、時間が経つにつれ明らかになっていくということもあるかもしれません。
たぶん遺族にとって辛いのは、犯人が誰かということよりも、真相がわからず宙ぶらりんになった状態でずっと置かれるということなのではないでしょうか。
本作のエピソードのラストでは、遺族たちがやっとその重荷から解放される様が描かれることが多いです。
その重荷たるや想像するよりも大きいのではないかと思います。

シーズン3は今までの一話完結を踏襲、しかしリリー以外の刑事たちにもスポットを与えることも多くエピソードが深みを増していることが多い感じがします。
事件を捜査する刑事たちもスーパーマンなどではなく、悩みや過去を背負う人間であるということが感じられます。
それを過剰に描くのではなく、さっと触れるところがこのドラマの味わい深いところだと思います。
そんな中で実は存在感があるのが、リリーたち刑事の上司であるスティルマン警部補。
スティルマンは、個人的にも様々な想いや悩みを抱える部下たちにさりげなく目を配っています。
彼らが助けが欲しいときにすっと側に寄って、彼らの言葉を聞き、そして一言を与える。
ここはというところでは外部からの部下の楯にもなり、そして彼らに厳しいことも言うこともあります。
基本的にスティルマンは部下の能力を信頼して、現場の仕事は彼らに任せています。
彼はみなの理想の上司像ではないでしょうか。

そうそう、シーズン3と言えば話題になったのが、リリーが髪を下ろしたこと。
アップにしているリリーも行動的な感じがして好きでしたが、下ろすと女性的な感じがでてこれもいい。
ドラマの中では心境の変化などが描かれたわけではありませんが、どこかで描かれるところもあるのでしょうか。
AXNではシーズン4が放映される予定は内容ですが、早く次を期待したいですね。

「コールドケース シーズン1」の記事はこちら→
「コールドケース シーズン2」の記事はこちら→

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2010年6月 5日 (土)

「帰ってきた侍戦隊シンケンジャー 特別幕」 キャラクターにフューチャーは正解

今日書いた「超・電王」の「EPISODE BLUE」の記事のアクセスがいつもより多いので、アクセス先を見てみたらYahoo!のGyaoが。
「なんだろ?」と思って見てみたら、そこには「侍戦隊シンケンジャー」の特別幕のスペシャルサイトがありました。
「EPISODE BLUE」の記事で「電王」「シンケンジャー」の脚本家の小林靖子さんに触れていたため、自動でリンクしてくれてた様子。
なるほど。
そのスペシャルサイトを見てみると、抽選で特別幕のWEB試写会を実施中とのこと。
「それって当たれば無料で見れるということ?」とクリックしたところ、見事に当選!
DVDリリース前にいち早く特別幕を観ることができました。
(一応無料で見せてもらったので、Gyaoさんの宣伝ね)

さてさてその内容についてです。
毎年その年ごとに異なる世界観と設定になるスーパー戦隊シリーズ、それゆえ続編などが作られることは基本的にありません(「VS」シリーズを除くと)。
特別編とはいえ、シリーズが終了した後に新作が作られるのは初めてではないでしょうか。
それだけ「シンケンジャー」が人気があったということですよね。
とはいえ物語はテレビシリーズで一旦の決着はついているわけですから、どんな感じになるのかと期待と不安が両方ありました。
雑誌などの事前情報では、時代劇、西部劇、刑事物、学園ものなどの世界にシンケンジャーたちが行っているような様子。
設定としては贅沢でスペシャルな感じですが、お話はどうやって繋げるのだろう?と。
その理由は大概の人が想像できる○オチなのですが、そのあたりはさすが小林靖子さん、ちょいと一ひねり加えているので安易さはないかと思います。
そもそも本作はスペシャル版なので、ストーリーを楽しむというよりも、「シンケンジャー」に登場した登場人物たちのそれぞれの活躍を観れるというのがポイントなのでしょう。
「シンケンジャー」が人気が出たのも、小林靖子さんが書いたキャラクターを、また若い俳優さんたちが肉付けし、さらに魅力があるキャラクターに育て上げたためだろうと思います。
たぶん「シンケンジャー」ファンはそれぞれにあの6人の中でお気に入りのキャラクターがいるのだと思います。
本作ではそれぞれのファンが思い入れのあるキャラクターが活躍する場面が必ずあるので、ファンは必ず楽しめると思います。
お子さんが観ても、戦いの場面もたくさんありますし、喜んでみるのではないでしょうか。
映画ほど長い尺でもなく、また一回限りのスペシャル版ということでストーリーよりもキャラクターをいかに見せるかという点にフューチャーしたのは正解だと思いました。
また1年くらい経ったら「またまた帰ってきた侍戦隊シンケンジャー」を作ってくれないかな。

しかし、小林靖子さん、公開中の「超・電王」の脚本も書いてるし、多作にもほどがある!
すごいです。

テレビシリーズ「侍戦隊シンケンジャー」の記事はこちら→

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「パリより愛をこめて」 パリはハリウッドよりビター

世界的にみてアクション映画といったら、アメリカのそれもハリウッドで作られたものに席巻されていると言ってもいいかもしれません。
日本においても、ヨーロッパにおいても。
アクション映画というのは見た目の派手さというのがやはり必要で、そのためにはお金がかかる。
なのでなかなかハリウッドに太刀打ちできて世界中で公開される作品がアメリカ以外では出てこないのですよね。
そういう状況でありながら、ハリウッド以外で一人コンスタントにアクション映画を送り出しているのが、リュック・ベンソン。
最近は自身でアクション映画を撮ることは少なくなりましたが(夏の「アデル」は期待してます)、プロデューサーとして「TAXi」シリーズ、「トランスポーター」シリーズや本作の監督でもあるピエール・モレルと組んだ「96時間」などを発表しています。
「96時間」は想像していたよりもずっとおもしろかったので、リュック・ベッソン&ピエール・モレルのコンビには期待をしてしまいます。

<ネタバレあるので注意!>

ハリウッド製のアクション映画と、リュック・ベッソンがリリースするアクション映画というのはどこが違うのでしょう。
アクションや映像の圧倒的な派手さについてはハリウッド・アクションのほうが断然あるでしょう。
観ているときのカタルシスはハリウッド・アクションはやはりスゴいものがあります。
でも観終わった後の、印象の残り方というのが、どの作品も観ても同じようなところも感じます。
多くは必ずハッピーエンドになってしまうという判で押されたような構造を持っているのですよね。
どんなに二者選択の危機に陥ったとしても、主人公は世界を救うし、家族も助けて、愛を手に入れる。
こういう物語は観終わったときの高揚感があるので、これはこれでありだと思います。
でも全部が全部同じだと、かえって作品の印象が薄れてしまったりするのではないかとも感じます(マイケル・ベイの作品などはそうですよね)。
リュック・ベンソンのアクション映画は、ある種の救いのなさ感があるんですよね。
「ニキータ」しかり、「レオン」しかり。
人は愛も、仕事(任務)も両方で成功をしたいと願うものだけど、実際はそううまくいくことはありません。
その狭間で人はあがくわけです。
ハリウッドのアクション映画はその狭間を軽く越えてしまって、観客にカタルシスを与えてくれる。
でもリュック・ベッソンはその狭間をしっかりと描くんですよね。
「96時間」のブライアンは任務よりも家族(娘)を選びます。
ベッソンは「娘を救うためなら、エッフェル塔でも壊してみせる」とブライアンに言わせます。
本作の主人公ジェームズは、任務のために愛を犠牲にします。
二者択一の場面になったとき、どちらを選ぶかという葛藤、そしてその決断。
ハリウッド・アクション映画のように「どっちも」得るということはありません。
そこでなされる決断は、そのキャラクターにより答えは違いますが、いずれにしてもどちらかの答えを切り捨てることであり、そこに救いのなさが漂います。
本作もジェームズのフィアンセがキーパーソンであることが判明したところから、俄然おもしろくなります。
観ている自分は散々ハリウッド映画を観てきたせいもあり、このフィアンセも救われ、事件も解決するであろうとなんとなく期待を持ちながら観ています。
けれどもその期待はあまりにあっけなく裏切られ決着がつきます。
正しいか正しくないかを越えたこのあっけなさ、これにリアリティを感じます。
人は決断をしなくてはいけない場面、一瞬のうちに決めるものですから。
別の答えもあったかもしれない。
でもどちらの答えを選ぶにせよ、なにかしらの救いのなさ、苦さはあるのです。
この救いのなさ、ビターさがハリウッドとは異なるリュック・ベッソンの味なのだと思います。

リュック・ベンソン製作、ピエール・モレル監督作品「96時間」の記事はこちら→

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「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE BLUE 派遣イマジンはNEWトラル」 小林靖子脚本の真骨頂

まさに東映の思うつぼなのですけれど、怒濤の「電王」の3連続上映の2回目「EPISODE BLUE」に行ってきました。
それも朝一の回・・・。
何やってんだ自分、と思ったりもしますが、朝一だけあってお子様は少なく大きなお友達ばかり。
騒がしくない分よいか・・・。

「EPISODE RED」が「電王」の懐深さを見せるラブストーリーで変化球だったのに対して、「EPISODE BLUE」は「電王」らしさが強く出ていた作品だと思いました。
「電王」のメインライターである小林靖子さんは「電王」にしても「シンケンジャー」にしても年間を通しての大仕掛けをうまくまとめあげる手腕に注目されますが、キャラクターの描き方もとても深く魅力的、それゆえに登場人物たちに観る側を感情移入させるのが得意なのですよね。
その手腕はメインのキャラクターだけではなく、一回だけのゲストについても発揮されます。
テレビシリーズの「電王」も最初の方のエピソードは、ゲスト登場人物はそれぞれに過去に対する後悔や想いを持ち、それゆえにイマジンと契約してしまいます。
彼らのエピソードはなにか切なく、だからこそ観る側が感情移入してしまうのです。
平成仮面ライダーを多く手がけられている井上敏樹さんのキャラクター造形がどちらかというとアクが強い強烈なものだとすると、小林靖子さんのそれは優しく切ないイメージがあります。
「EPISODE BLUE」の主人公は、野上良太郎の孫、野上幸太郎。
幸太郎は今までの「電王」の劇場版に登場してきましたが、それはゲスト的な立場が強く、あまり掘り下げられることがありませんでした。
良太郎の孫である幸太郎も祖父と同じく運が悪い星回りだということ、けれど良太郎がそれを受け入れるのに対し、幸太郎は悪運に立ち向かうというのが二人の違うところだということがわかりました。
良太郎がすべてを受け入れるのは彼の強さであるのですが、幸太郎が悪運に逆らおうとするのもまた強さ。
二人の血がつながっているがゆえの共通点、そして違いなどはうまくキャラクター作りをしたなと感心しました。
相棒のイマジンであるテディも、他のイマジン(モモやデネブ、そしてジーク!)があまりにキャラ立ちしているため、やや存在感が薄いというところもありました。
本作ではその幸太郎、そしてテディのキャラクターを掘り下げ、良太郎とモモタロスらイマジンたち、侑斗とデネブの関係とはまた違った、二人の関係を上手に描いているなと思いました。
幸太郎とテディ、そしてゲストである美来とおばあちゃんの関係の対比も上手でした。
この二組の関係のセンチメンタルな余韻はさすが小林靖子脚本の真骨頂といったところです。
そう、小林靖子さんの脚本はトリッキーな設定も料理する腕前、魅力的なキャラクターを想像する力だけでなく、このセンチメンタルさが魅力なのではないかなと思いました。
ラストの幸太郎とテディの別れなどは、かなり切ないところがありました。
この場面は同じく「時」をテーマにしたアニメの「時をかける少女」の別れの場面にもひけをとらないんじゃないかな。

幸太郎のキャラクターが確立したことによって、なんだかまだまだ「電王」はいけるような気がしてきました。
おそるべし。
しかし、ジークは登場してきて何もしないのに印象度は高い。
おいしいキャラです。

ここまできたら当然のことながら「EPISODE YELLOW」も観に行きます。
まさに東映の思うつぼ。

「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE RED ゼロのスタートウィンクル」の記事はこちら→
「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE YELLOW お宝DEエンド・パイレーツ」

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