« 2010年4月 | トップページ | 2010年6月 »

2010年5月30日 (日)

本 「甲骨文字の読み方」

甲骨文字は古代中国の殷で使われていた文字で、僕たちが普段使っている漢字の元となりました。
ひらがな、カタカナは漢字を元に作られているわけですから、日本語を表記するための文字は甲骨文字を先祖としていると言ってもいいでしょう。
甲骨文字という名称はそれが使われていた殷の時代に、主に占いをするために亀の甲羅や動物の文字に刻まれていたことに由来します。
文字はよく表意文字と表音文字に大別されますが、漢字や甲骨文字は前者にあたります。
つまり漢字はその字が指し示すものやことを表しているサインと言ってもよく、漢字の先祖たる甲骨文字はよりその傾向が強いです。
ただ甲骨文字を見るとなにやら不可思議な図形にしか見えないのですが、それは漢字の先祖なので、着目点さえわかれば比較的類推しやすくなるということです。
本著では甲骨文字の成り立ち、構造を例題をたくさん使いながら説明してくれます。
文字の構造がわかると次は文法。
これは漢語とほぼ同じルールで、英語に近い構造です。
いわゆるSVOの構造(主語・述語・目的語)ですので、なんとなくわかります。
甲骨文字を漢字に置き換えて、そしてレ点など振って読めば訳せちゃうわけですね(とはいえ、甲骨文字から漢字を置き換えるのがけっこう想像力がいりますが)。
ですので、読んでいくとなんとなく図形にしか見えなかった甲骨文字からなんとなく現代の漢字が想像できるようになるのがおもしろいです。
あらためてそうやって漢字を見てみると、なるほど深い意味があるのだなと感心してしまいました。
ただひたすら漢字の書き取りとかを子供たちにやらせるのではなく、漢字の成り立ちとかを教えてあげたらもっと興味を持ってくれるのではないかなと思いました。

「甲骨文字の読み方」落合淳思著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287905-7

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月29日 (土)

本 「警官倶楽部」

全く知らない作家さんでしたが、タイトルと帯のコピーに魅かれて買ってしまいました。
ジャンル的にはクライム・コメディと言ったところでしょうが、タイトルに「警官」とありますけれども、こちらの作品は警察小説ではありません。
ほんとの警察並みのスキルを持った登場人物がでてきますが、彼らは警察官ではありません。
警察が好きで好きで、趣味が高じて警察官のコスプレをし、警察のようなスキルを持つに至ったいわば「警察マニア」。
まさに「好きこそものの上手なれ」。
一言で警察マニアと言っても彼らの中で興味が細分化されているのがおもしろい。
鑑識マニア、盗聴マニア、尾行マニア、パトカーマニア・・・。
スナイパーみたいなのもいます(もちろん本物の銃は使いませんが)。
警察マニアたちの一人が危ない筋の借金を背負ってしまい、それを仲間たちが助けようとするお話。
でも彼らにもお金はない。
ということでこれまた怪しい宗教団体のお金を奪うことにしたわけです。
警察マニアたち、危ない筋の方々、怪しい宗教団体、そして誘拐団といった面々がお金を奪い合うスピーディな展開になります。
後半になればなるほど畳み掛けるような展開になるので、さらさらと読みすすめられます。
コスプレといってもアニメの格好をするのと違い、警察官のユニフォームや身分証を作るのは犯罪にあたっちゃうのですが、そのあたりもおおっぴらに活動しにくいところがある種の制約を生んでいておもしろかったです。
この作品は映画になってもおもしろいような気がしますねー。

「警官倶楽部」大倉祟裕著 祥伝社 文庫 ISBN978-4-396-33560-1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月23日 (日)

「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE RED ゼロのスタートウィンクル」 恋のライバルは自分

タイトル長っ!!
いつも奇手をうってくる平成仮面ライダーシリーズ、その中でも異彩を放っている作品「超・電王」シリーズの今回は、なんと2週間毎に3回連続して公開するという荒技でした。
雑誌で白倉プロデューサーのインタビューを読んだところ、平成仮面ライダーシリーズの劇場版は、通常の映画よりも最初の二週間でファンが多く観るというデータがあるようです。
確かに興行成績などを見ても、公開第1週目などは1位をとっていたりしますが、2週目以降は順位は落ち着いたりしています。
自分もそうですがファンは公開したらすぐにでも観たいので、他の映画よりも早く観客動員のピークを迎えるのでしょう。
そういう動向を考えて、今回は二週間ずつ新作を三回連続公開するという方法を試してみたらしいです。
このような奇手をうてるのも、平成仮面ライダーの中でも異色さではNo.1の「電王」からこそでしょう。
(とはいえ、公開館が東京でバルト9だけというのはややきつい・・・。ムチャ込みです)

さてその3連続公開の1作品目「EPISODE RED」は「電王」の2号ライダーであったゼロノスが主人公となります。
ゼロノスに変身する桜井侑斗を演じる中村優一くんは前からインタビューでゼロノスが主役のエピソードをやりたいと言っていたので、念願が叶った形になりますね。
今回の3連続企画は上で書いたように、一般の映画ファンというよりも、平成仮面ライダーファン、特に「電王」ファンというコアのターゲットを狙っているので、ストーリーは今までの「電王」を観ているというのが大前提。
この作品だけ観てもさっぱりわからないと思うので、このあたりは制作者の割り切りを感じます。
「電王」のテレビシリーズでは最も重要なキーパーソンとなっていた野上愛理。
本作は愛理が愛し、彼女とその未来のために自らを犠牲にして消えていった桜井侑斗の過去の桜井侑斗(ややこしいが「電王」を観た人はわかるよね)のラブストーリーとなっています。
愛理と侑斗は本編ではサブのエピソードでしたので、それほど深く描かれていませんでしたが、本作ではそのあたりをしっかりとそしてしっとり描いています。
若い侑斗は、未来の自分が愛した愛理に対してほのかな恋心をいだいています。
彼はまだ高校生くらいの年頃で、精神的にはまだ幼いところも残っています。
でも自分の過去も未来も犠牲にしながら(彼は自分の時間というものがもうない)戦ってきたというのは、未来の自分から託されたということだけではなく、やはり愛理を守りたいという気持ちがあったのでしょう。
でもその愛理の心には、未来の自分がまだしっかりと残っている。
まさに恋のライバルは自分自身。
そのあたりの切なさを描いたのが、本作となります。
ラストはほんのりと切ないながらも光を感じる余韻があってよかったのではないでしょうか。
こう書くと「電王」ぽくないのですが、脚本の小林靖子さんはけっこう人情を描くのが上手な方だと思っているので、これはぴったりのお話だと思いました。
今回主役となった侑斗の中村優一くん、野上愛理を演じる松本若菜さん、それぞれ最初のテレビシリーズから経験を積んでいることもあり、芝居も上手になってきたからこそしっかりとラブストーリーができたのでしょうね。

あと「EPSODE BLUE」と「EPISODE YELLOW」と続きます。
二週おきなので、せわしないですが、観に行っちゃうだろうなあ・・・。

最後に。
劇場に入って席に座ろうとしたとき、隣の席のおこちゃまが「あ、大人で一人で観に来てる〜」と宣いました。
すみません・・・、お一人様で(汗)。
すかさずお母さんが「大人の人も観るんだよ〜」とフォローを入れてくれていましたが(苦笑)。
確かに子供たちだけでなく、大きなお友達もたくさんきてました。
坊や、君も将来大人になっても観に来てるかもしれないぞ。

「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE BLUE 派遣イマジンはNEWトラル」の記事はこちら→
「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE YELLOW お宝DEエンド・パイレーツ」
「仮面ライダー超・電王」シリーズ「劇場版 仮面ライダー超・電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (8) | トラックバック (6)

2010年5月22日 (土)

「ボックス!」 真の親友、真のライバル

基本的に青春スポーツものに弱いのである。
若者たちが仲間のためにがんばっている姿を見るとぐっとくるんですよね。
本作もそういう青春スポーツものの一つとなります。

主人公の一人カブはボクシングに関しては天才と読んでもいいほどの才能を持っている高校生。
彼のファイトスタイルは攻め一辺倒。
相手の懐に入って、どついて、どついて、どつき倒すというのが、彼の信条でずっとそれで勝ってきました。
もう一人の主人公ユウキは、どちらかというと勉強はできるけれど何も打ち込むものが見つかっていない高校生です。
でも幼なじみのカブがボクシングに打ち込む姿を見て、彼もボクシングを始めることとなります。
彼は基本を真面目に習得し、そして相手のクセを分析しながら的確に攻撃をしかけるタイプとなっていきます。
全く異なるボクサーとなっていくカブとユウキ。

真の親友というのは、相手のいいところを互いに認め合える関係なのでしょう。
幼い頃からユウキにとってカブはヒーローでした。
弱虫でいじめられることが多いユウキをカブはいつも助けてくれました。
カブにとってもユウキは賢い自慢の友達だったのでしょう。
高校で再開したときユウキにはボクシングをするカブがとてもキラキラと輝いて見えました。
そしてボクシングを始めて学べば学ぶほどカブの強さがわかってきます。
「カブちゃんはすごい」と。
ユウキが着実にボクシングが上手になっていくのを見て、カブは手放しで自分のことのように喜びます。
よくある青春スポーツものでは幼なじみ通しがライバルとなって戦うというのはよくあります。
そこには嫉妬や葛藤などが生まれます。
でも本作のカブとユウキは戦ったとしても最後まで相手に対する友情、信頼が崩れることがないのですよね。
カブがユウキに負けて泣くのも、ユウキに負けたから悔しくて泣くわけではないのです。
自分が唯一人に勝ると思っていたことを失ったから泣いたのです。
またユウキもカブを敵視して戦うわけではありません。
彼はどちらかというと分析しながら戦うタイプです。
彼にとってカブが自分が努力して越えられるかどうかという目標なのですね。
本作が特徴的なのはこのカブとユウキが最後まで互いの友情を貫き通すということ。
それは努力して貫くものなのではなく、彼らにとって互いの友情は疑いのないものなのだろうなと感じました。
ユウキはカブにボクシングについて教わり、強くなりました。
逆にカブもユウキのトレーニングにつき合うことにより、自然とスタミナもつき、そしてサウスポーに対応するコツも身につけていったのです。
そしてカブは、想いをよせてくれていた丸野から、いままで自分にとって当たり前であったボクシングに対する想いを見つめ直すきっかけをもらいます。
どれだけ自分にとってボクシングが大事だったかということ、そして友人たちが大事であったということを。
真の親友、真のライバルというのは互いに認め合って、そして影響し合い、よいところを吸収して成長していける関係なのでしょうね。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (26)

2010年5月16日 (日)

本 「塩の街」

有川浩さんのファンと言いながら、実はデビュー作である本作「塩の街」は未読だったんです。
本作とともに自衛隊三部作と呼ばれる「空の中」「海の底」は読んでいたんですけれどね。
角川文庫で出たのを機に、やっとこさ読んでみました。
あとがきで有川さんが書いてらっしゃるように構成などで拙いところもあるにはあるのですが、なにか青臭いところがかえって彼女のいいところかなと思います。

読んでみて思ったことですが、やはり有川さんって新井素子さんの影響を受けているのではないかなと。
「図書館戦争」シリーズのレビューのときもちらっと書いたのですが、まず主人公の男女二人の不器用さ加減が「星へ行く船」のあゆみと太一郎を髣髴させるんですよね。
本作の真奈と秋庭も同じような印象を受けました。
また本作では宇宙から飛来した塩の結晶により、人間が塩化していってしまい、人類が滅んでしまう危機を向かえるという設定になっています。
この設定も新井素子さんの「ひとめあなたに・・・」に通じるものがあるなと思いました。
細かい内容は忘れてしまったのですが、やはり宇宙から飛来する隕石により世界が終末をむかえようとするとき、誰といっしょにいたいのかというお話だったと記憶しています。
かなり切ないお話でけっきょく世界は終末をむかえるわけですが、「星へ行く船」を読んでいた僕は少々驚きました。
でも本作は真奈と秋庭はハッピーエンドに終わってくれて、これは嬉しかったですね。
後日談も楽しませてもらいました。
こちらのエピソードでもあゆみと太一郎を感じたんだよなあ。

自衛隊三部作「空の中」の記事はこちら→
自衛隊三部作「海の底」の記事はこちら→

「塩の街」有川浩著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-389803-9

| | コメント (8) | トラックバック (9)

「TRICK 新作スペシャル2」 再シリーズ化?

新作映画が公開中の「TRICK」シリーズ、テレビでも久々のスペシャル版です。
映画の方も興行成績はいいようで(初登場2位)、相変わらずこのシリーズのコンテンツの強さがわかりますね。
最近は不況によってどのテレビ局もCMだけの収入だと厳しい様子(基本的に人件費が高すぎるのでそこを見直ししなくてはどうにもならないと思うのですが)なので、このような当たりが見込めるコンテンツを上手く使っていこうという流れになっているのでしょう(CXの「踊る」シリーズ再開も多分にそんな感じがします)。
CMも企業とタイアップ(麦とホップ、チキンラーメン、ガストがタイアップしてた)しているものが多かったですし、このあたりテレビ局の苦労がしみじみと伝わってきます。
というような局側の事情はさておき、ファン側としてはまたおなじみの「TRICK」が観れるのは単純に嬉しいわけで、楽しんで観ちゃうのですよね。
映画の方もそうでしたが、「TRICK」はもう型というかパターンは完成の粋に達しているので、スペシャル版についても基本構造は変わりません。
「TRICK」というと山田や上田、矢部などのアクの強いキャラクターの印象が強くなりますが(それが楽しいのですけれど)、実はお話自体は人間の業というかそういう哀しさみたいなものを描いているものが多かったりするのですよね。
今回のスペシャル版はまさにそんな感じが強く出ていて、山田と上田の二人じゃなかったら横溝正史作品かと思うような感じでした。
ま、もともと寒村で事件が起こるというのは横溝作品を意識したのだと思いますが、そのあたりが強くでていたかなと思います。

そうそう、上田が珍しくトリックを見破るところがありました。
ひさびさに物理学者らしい感じでありました。
が、サイフォンの原理を説明するときの映像はちょっとおかしいのではないかな・・・。
確かサイフォンの原理では両方の桶を結ぶホースの中は水で満たされていなくてはいけなくて、端も水の中にないといけなかったはず。
なのでホースの端から水がじゃばじゃば出てくるのは原理的におかしいような気がします(間違ってるかもしれないですが)。
画的にはこのほうがわかりやすいんですけれどね。

テレ朝的にはスペシャル版、映画の手応えをみて「TRICK」の再シリーズ化をもくろんでいるのではないでしょうか。
以前も「必殺」の再開は同じようにスペシャル版で様子をみてから再開してましたからねー。
ファン的には嬉しいのですけれど。
どんと来い!

「劇場版 TRICK 霊能力者バトルロイヤル」の記事はこちら→

| | コメント (0) | トラックバック (14)

「グリーン・ゾーン」 そんな国を誰が信用するのか

タイトルの「グリーン・ゾーン」とはイラク戦争時、首都バグダットへの侵攻後市内に設けられたアメリカ軍の駐留エリアです。
「安全地帯」とでも訳せばいいのでしょうか。
記憶に新しいように2003年にアメリカを中心に行われたイラク戦争は、元々の大義はイラクが大量破壊兵器(WMD)を保有しているという情報に端を発します。
そもそも湾岸戦争後、イラクはWMDの不保持を義務づけられています。
それをアメリカは信用せず、独自の情報により、戦争に突入しました。
現在ではWMDの存在を示す事前情報自体が怪しいということになり、アメリカ国内でも問題となっています。

先日レビューでも書いた佐藤賢一さんの小説「第二次南北戦争」でアメリカという国、アメリカ人という国民のメンタリティについて触れました。
彼らは「正義」「民主主義」ということをほんとうに純真に信じきっています。
自分たちの国のような「民主主義」(=アメリカイズム)が世界に広まれば、世界に広まれば平和になる、世界の人々も幸せになれるというように純朴に信じているように感じます。
けれどもそれを強要される側としては自国の文化や制度を破壊されることに対しての不平不満が当然のことながらでてきます。
自分たちのことは自分たちで決めたいというのは素直な気持ちでしょう。
それこそがほんとうの「民主主義」のなのですから。
でもアメリカの考える「民主主義」というのはアメリカにとって都合の良い「民主主義」なのです。
それに気づいていない青年的な無神経さというのがアメリカの国というものなのでしょう。
政府の高官はそれに気づいていると思いますが、それをあえて気づかない振りをし、自国の利益が最大化するように振る舞います。
この「アメリカ的民主主義」への盲目的な信頼、それを実現するための圧倒的な軍事力、利己的な考え方、他者への無関心というのがアメリカという国のメンタリティなのです。
力だけは有り余っていて、でも自分のことを考えるだけで精一杯という青年期のイメージです。
ただ青年と言っても、現代においては唯一の超大国であり、彼らが早く大人になってもらわないと世界はどうなるかわかりません。
どう考えてもイラク戦争は大義がなく、侵略戦争ギリギリの線だったと思います。
ラストで暗示されるように、フセインを放逐したまでは良かったですが、それ以降のイラクの行く末はまだ不安定であり、余談を赦しません。
これは少なからず今後のアメリカの重荷になっていくに違いがありません。
勝手に人の国に戦争に行き、そこでやるだけやって、このままほったらかしにして去っていったら。
劇中でミラーが言っているように「そんな国を誰が信用するのか」といった事態になりかねません。
大人になれば社会での信用が第一というのは気づきます。
まだアメリカはそのようなことにすら気づいていない社会経験の乏しい青年であるのかもしれません。

とはいえ、まだ戦時下のような状態でイラクが膠着化している現在において、このような映画を作れるアメリカという国はそれはそれで素晴らしいと思います。
国の不正を糾弾する作品を一流のメンバーで撮ることができるのはアメリカくらいではないでしょうか。
こういうところにアメリカの将来に一縷の望みを持ってしまします。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (10) | トラックバック (84)

2010年5月14日 (金)

「アリス・イン・ワンダーランド」 変な子の成長物語

何かとタイミングが合わず観あぐねていましたが、やっと観てきました。
大好きな監督の一人ティム・バートン、「不思議の国のアリス」を映画化するならこの人しかいないと思っていました。
不可思議・不条理な世界、奇人変人が出てくる世界を撮らせるなら、彼の右に出る監督はそうそういないでしょう。
特に僕はティム・バートンの初期の作品「ビートルジュース」が大好きなのです。
ああいう奇妙奇天烈なちょっと狂った世界観(「チャーリーとチョコレート工場」もそうか)はまさしく自分のツボで、それは「不思議の国のアリス」とも通じるものがあるはずだと思っていました。
変な登場人物が狂ったように弾けまくる映画かなと思って観に行ったら、思いのほかしっかりとした作りでけっこう驚きました。

ドタバタした不条理なお話(原作の「アリス」はそうだったので)を想像していたのですが、少女が大人になる成長を描いたストーリーとなっていました。
描かれる物語は「不思議の国のアリス」から十数年後、少女だったアリスは19歳となりました。
19歳それは子供と大人のちょうど境目といった年齢です。
貴族にプロポーズされるほどの大人でありながらも、まだアリスは自分で自分のことをしっかりと決められない子供でもあります。
自分って何か他の子と違って何か変なんじゃないだろうか?って子供の頃思ったりしませんでしたでしょうか。
僕は少なくともそういうことはあって。
アリスもそんな子供の一人。
想像力があって空想がちで、あまり人とつきあうのはちょっと苦手。
たぶん彼女はちょっと自分って変わっているのではと思っているので、人と付き合うのが苦手だったりするのかもしれません。
まただから自分はこうしたいと思うことを実行する勇気がなかったのかもしれません。
もっと子供の頃は想像力を羽ばたかせて自由に空想で遊ぶ無邪気さがあったのです。
けれどちょっと大人になるとそういう無邪気さも、周囲のルール等で縛られていって窮屈に感じていたのでしょう。
この作品で最初の方のアリスはずっとしかめっ面をしているのはそのせいですよね。
けど再びアリスはワンダーランドを訪れ、そこでかつて自由に想像力を広げ遊ぶことができたことを思い出します。
そしてそこでアリスは自分自身で決め、行動する勇気を手に入れます。
周囲から変わっていると言われることを気にしないで、やりたいことをやる勇気を。
子供の頃は自由に気ままにできたことを、大人になるに従い周囲の目を気にしてできなくなるということは皆あるでしょう。
変わっていると言われたくないというか、横並びでいようという意識っていうのはありますよね。
それはとても窮屈な感じというのもみんな感じているのだろうと思います。
でもやりたいようにする勇気はなかなかもてないものです。
たぶん19歳のアリスはあのままワンダーランドに行けなかったら、周囲の希望通りに流されていったかもしれません。
皆の目の前でプロポーズされて逃げ出したアリス。
同じようにワンダーランドの皆の目の前で戦士になってくれと言われたアリス。
同じような構造で描かれるのは意味があります。
プロポーズは逃げ出したけれど、彼女はワンダーランドでは自らの意志で戦士になると決めます。
彼女は自分でやりたいことを決めることができる大人にここで成長したのです。

たぶんティム・バートンも相当変わった子だったに違いありません。
でもティム・バートンは変な子だったからこそ、他の人にはないイマジネーションを持っていました。
だからこそ彼は押しも押されぬ名監督となりました。
バートンは本作のアリスに自分を重ねているんでしょう。
アリスも本作のラストでは持ち前の想像力を使って世界に羽ばたいていきます。
そういえば先ほどあげた「ビートルジュース」でウィノナ・ライダーが演じているリディアも相当変な子で、彼女も想像力豊かだけれども周囲と違うという不安感を持った子でした。
本作のアリスはリディアのその後と言ってもいいかもしれません。
そういう意味でティム・バートンの描くテーマというのは初期の頃からずっと一貫しているのだなと思います。

ワンダーランドの奇天烈な風景、美術は雑然としていながらも、きちんと気配りされたデザインをされていて、こういう世界観の作り方は相変わらず凝っているなと感心。
特にヘレナ・ボナム=カーターが演じるハートの女王が特にへんてこでお気に入りです。
普通の女優さんはこんなメイク(はたしてメイクと呼べるのか)の役は受けないでしょう。
さすがヘレナはティム・バートンとパートナーであるだけのことはあります。
変人夫婦と言いましょうか、絶対楽しい家庭に違いありません。
お宅(オタクか?)訪問したいです。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (12) | トラックバック (76)

2010年5月10日 (月)

「アーサーと魔王マルタザールの逆襲」 出来のいい中継ぎ

リュック・ベンソン監督の「アーサーとミニモイの不思議な国」に続く「アーサー三部作」の第二弾。
「ハリー・ポッター」「ロード・オブ・ザ・リング」などのシリーズの成功以来、このようなジャンルが当たると映画会社もみたのかファンタジーものが数多く作られています。
それらは「ハリー・ポッター」のビジネスモデルを見習ってか、当初よりシリーズ化第一弾!などと銘打って公開しますが、第一弾だけで消え去るもの(「エラゴン」とか「ライラ」とか)も多いです。
そんな中で本作はきちんと三部作を完結するプロジェクトとして作られています。
このあたりはプロデューサーとしても辣腕を振るうリュック・ベンソンならではでしょうか。
ただ日本では本作はかなり公開館が絞られていて、また吹き替え版のみしか公開していないです。
基本的に洋画は字幕で観たい派としては少々残念。

<ここから先はネタバレあります>

とかく三部作の二作目というのは導入とまとめのつなぎになりがちで、ややまとまらなさ加減というのがあったりします。
とはいえ二作目は一作目で主立った世界観やキャラクターについては説明が出来ているので、最初から大きな見せ場に導入することがしやすいとも言えます。
「スター・ウォーズ」の二作目「帝国の逆襲」などはその好例かもしれません(僕は「スター・ウォーズ」の中では「帝国の逆襲」が一番好き)。
奇しくも同じ「逆襲」というサブタイトルがはいった本作「アーサーと魔王マルタザールの逆襲」も二作目であることによる簡潔さ、スピード感があって、僕は一作目よりも楽しめました。
オープニングの「地獄の黙示録」などの戦争映画風の出だしもおもしろかったですし、ミニモイの街の都会「パラダイス通り」の賑やかさも楽しかったです。
なにより展開が完結で小気味よく気持ちよく観れました。
また三部作の一部としてみると、一作目は起承転結の「起」にあたり、本作は「承」「転」とあたると言っていいでしょう。
多くの二作目がシリーズ全体の中での「承」の役割だけに終わってしまうため、単体の作品としてみると退屈だったりするのですが、本作は「承」「転」に相当するので、本作だけでも物語に変化があり楽しめます。
本作の「転」はマルタザールが人間たちの世界に逆に行ってしまうというところですが、これが観ている側としては意外に盲点で、なるほどそうきたかと手を打ちました。
似たような感じでよくできているのは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の二作目です。
ご存知の通り、二作目ではマーティが未来に行き、そこで未来のビフがデロリアンを奪って過去に行ってしまうというところで終わります。
マーティが未来に行っただけでは退屈な作品で終わったと思いますが、最後の「転」で話を動かし、そしてシリーズ全体としてもうまくまとめあげるつなぎとしての役割を果たしていると思います。
これが「承」「転」を含んだニ作目としての好例でしょう。
言わばできのいい中継ぎピッチャーというところでしょうか。
先発と押さえがよくても中継ぎが良くないと物語としても盛り上がらないですから、二作目の役割も重要だと思います。
本作はその役割を果たしているように感じました。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ同様、二作目である本作のラストには三作目の予告編がかかります。
これも観る限り、けっこうおもしろそうでした。
期待して待っていたいと思います。

第一作「アーサーとミニモイの不思議な国」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (2) | トラックバック (13)

2010年5月 8日 (土)

「劇場版 TRICK 霊能力者バトルロイヤル」 いい意味で変わってなーい!

いい意味で変わってなーい!
テレビシリーズからのファンとしては変わらないのが嬉しいです。
もう最初のシリーズから10年も経つんですね。
こちら作品はオンエアされたときずっぽりがっぽりとハマっちゃったんですよね。
そういえば、堤監督という方の存在を意識したのは「TRICK」からかな。
仲間由紀恵さんの山田奈緒子、阿部寛さんの上田次郎も相変わらずで、怪しげな超能力者の謎をマルッと解き明かすという構成もそのまま。
山田と上田は、衣装すらほとんど前と同じような感じでしたよね。
もしや貧乏で、ずっと着た切り雀なのか、山田!
山田のアパートとか上田教授の部屋とかの美術も以前と印象が変わっていなかったです。
山田の部屋の安っぽいスケルトンの電話も変わっていない。
上田教授の部屋には幽霊タクシーのランプとか、まだあるし。
ガッツ石まっ虫も出てるし。
ああいう美術とか小装具は全部保存してあるのかしらん。
照喜名もまだ山田のおっかけをやってましたねえ。
変わっていたのは大家さんとジャーミー君の子供が増えてるところだけ?

演出も「TRICK」の時の堤監督っぽいテイストでした。
堤監督は器用で作品に合わせて自分のテイストを変えられる感じがありますが、本作は以前の「TRICK」の雰囲気を再現しようという意図が感じられました。
「TRICK」好きならばクスッと笑えるコネタが仕込まれているのは相変わらず。
もちろん知らなくても楽しめると思います。
「TRICK」ファンとして嬉しいのは松平健さんの出演でしょう。
松平健さんと言えば「暴れん坊将軍」。
山田は時代劇好きで、中でも「暴れん坊将軍」が好きという設定なのですよね(テレ朝系列だから?)。
「お前たちのやったことは全部マルッとお見通しだ!」っていう山田のキメ台詞(?)は時代劇好きという設定からきているわけです。
松平健さん演じる鈴木が白馬で「さらばじゃ」というところ、鈴木の机の上に「まとい」がある(「暴れん坊将軍」の「め組」ね)で笑える方はかなりの「TRICK」通と言ってよいでしょう。
あと鈴木が唱えていた呪文のような言葉。
あれ逆さ言葉でしたね。
逆に読むと「マツケンサンバ」でした。
こういうお遊びがあるのも「TRICK」らしいところです。

時折、今回みたいに思い出したように新作作ってくれないかなあ。
来週、テレビでスペシャル版もあるようですし、これもちゃんと観ないと!

テレビスペシャル「TRICK 新作スペシャル2」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (47)

本 「「般若心経」を読む」

僕のブログを読んでくださっている方は気づいているかもしれませんが、僕は宗教とか哲学にはけっこう興味があるのです。
ですので、仏教、キリスト教、イスラム教にこだわらず時折そういう本を手に取って読みます。
でも神様や仏様がいると信じてそれらに帰依しているわけではありません。
そういう存在が実在するという感覚にはなったことがないからです。
僕が興味があるのは、宗教というものを生み出した人間という存在、そして人間が世界をどのように認識しようとするとしているのかということです。
ですので同じような視点で、物理学や宇宙論といったものにも興味があるのです(そして宗教と科学はその到達点としては驚くほどに似ているところになるのです)。

「般若心経」と言えば、「ぎゃーてぃぎゃーてぃはーらぎゃーてぃ」という経をどなたもどこかで一度は聞いたことがあるでしょう。
これが「般若心経」の一説です。
また「色即是空 空即是色」という言葉も、「般若心経」の中に出てくる言葉です。
「色」というのは「物質的現象」のことです。
「空」というのは「実体がないこと」のことです。
つまりは「物質的現象は実体がない、そして実体がないということは物質的現象なのである」ということです。
えらく哲学的でとっつきにくいところです。
僕自身は目に見えることというのがすべてではないし、目に見えることがすべてでもあるととらえています。
物理学の領域で量子学というのがあります。
西洋的科学というのはモノごとを細かく分解してその仕組みを探るという手法をとってきました。
モノをどんどん分解していくと原子になり、陽子・電子になり、どんどん細かくなっていきます。
いつかは最小単位の構造にいくつくかと思いきや、あまりに細かくなり過ぎるとその実在すらが危うく見えてきます。
極めて細かい粒子はその存在を時間と場所を両方固定することができないということがわかります。
不確定性原理というやつです。
なにかこれは「般若心経」の「色即是空 空即是色」に通じるような気がするのです。
また以前紹介した福島伸一さんの「世界は分けてもわからない」という著書でもモノの仕組みを分解していっても全体の仕組みを解き明かすようにはならないということが書いてあります。
人とは世界とは何かということを問うたとき、これこれこうだからこうなるといったような認識にはならないのかもしれません。
総体としてこうなのだと認識するというのが、世界認識なのでしょう。
自分はそんな領域まで到底いっているわけではありませんが、なんとなくイメージすることはできます。
ざっくりとかくあるのだと肯定的に認識するということなのでしょう。
このように考えていること自体が「識」であり、「自」というものがまだまだあるので覚りにははなはだ遠いのですけれどね。

「「般若心経」を読む」紀野一義著 講談社 新書 ISBN978-4-06-14506-7

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年5月 5日 (水)

本 「アメリカ第二次南北戦争」

作者の佐藤賢一さんはフランスの歴史物を多く書かれていますが、最近では他の国を題材にした小説についても幅を広げています。
佐藤さんの作品は基本的にはエンターテイメントですが、歴史や文化に対する洞察がかなり深く読んでいても非常に勉強になります。
本作で描かれるのは近未来のアメリカです。
アメリカはかつてのように南北にわかれ、内戦を始めてしまっています。
全般的に軽妙に描かれていますが、テーマとしてはアメリカ人の国民性、アメリカという国のアイデンティティというものを深く掘り下げています。
この物語では北部=合衆国、南部=連合国というように「二つのアメリカ」に分かれていますが、それぞれが主張していること、その中で「アメリカ」という国の真髄を描いています。
アメリカという国は若い国であり、歴史的な成熟度が足りないということはよく言われます。
他の国は長い歴史の中で、さまざまな苦難を乗り越え、大人の国として成熟してきたという過程があります。
アメリカという国は歴史が浅い上に、大きな力を持ってしまいました。
言うなれば、若い時にたまたま事業に成功し大きなお金を手に入れてしまったというようなイメージでしょうか。
国家というのは人々の集まりでありながらも、何かしら意志のようなものを持っています。
アメリカという国は若いがゆえのわがままさ、自己の正当性への自信、けれども若いことへの引け目、また成功してしまった故の申し訳なさみたいなものが渾然一体となっているものを持っているような感じがします。
そのあたりを佐藤賢一さんはこの作品で非常にうまく活写していると思います。
戦乱状態の無秩序さあたりは同じく佐藤賢一さんがフランスの百年戦争を描いた「赤目のジャック」に近い感じがしました。
あれほど重めではないですけれど。
佐藤賢一さんの作品は登場人物をしっかりと描くのはもちろんながら、さきほどあげたような歴史や国家そのものがもつ人格のようなものも描いていて、それがおもしろいのだと思います。

「アメリカ第二次南北戦争」佐藤賢一著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-74757-2

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年5月 4日 (火)

「武士道シックスティーン」 原作ファンとしてはちょっともの足りない

原作はずっと前に読んでいて(こちらその記事→)。
そちらでも書いていたのですが、読んだときからこの作品は映画に向いているのではないかなと思っていました。
やはり同じようなことを感じていた方はいたようで、このたびめでたく映画化となりましたので、観てきました。
主人公は二人で、全く性格もその剣道のスタイルも異なる香織と早苗。
原作小説の記事でも書いていますが、香織は昔の武士のような性格で、そのスタイルは剛。
対して早苗は今時の女子高生で、そのスタイルは柔。
香織は勝つために剣道をし、早苗は負けないように剣道をします。
この二人主人公を、成海璃子さん(香織役)と北乃きいさん(早苗役)が演じています。
二人とも今まさに旬で演技も上手なので、原作ファンとしてはなかなかいいキャスティングではないかと思いました。
でもそのときはまったく逆のキャスティングだと思っていました。
原作のイメージだと香織は男以上に男らしいので、僕の中では髪型はショートのイメージでした。
で、「ラブファイト」などのお転婆なイメージもあったので、北乃きいさんがてっきり香織役だと。
また早苗は原作では日舞をやっていたというので、髪型はロングのイメージ。
成海璃子さんは凄むなどのイメージがなかったので、どちらかと言えば早苗かなと。
まったく逆でしたね。
でも違和感はありませんでした。
成海さんは声を低めにして役を作っていましたが、やはりかわいいので多少無理はありましたが(ただ気合いを入れるところはなかなか良かった)。
北乃きいさんは文句なくかわいい。
彼女は運動神経もいいんじゃないでしょうか、竹刀さばきもしっかりとさまになっていました。

原作小説は香織と早苗の一人称でそれぞれ展開していきます。
ですので、それぞれの悩み、戸惑いなどの気持ちが彼女たちの気持ちで描かれるのでとてもわかりやすいし、感情移入もできて、読んでいて盛り上がります。
映画という媒体はどうしても客観視点にならざるを得ず、そのあたりがやや盛り上がりに欠けるところでもあったかなと思います。
香織が早苗を名字ではなく初めて名前で呼ぶラストなどはもっと盛り上げても良かったかなと。
古厩監督は「奈緒子」でも感じましたが、比較的演出が淡白なんですよね。
物語は直球の青春ものだったりするので、もうベタに熱があっても良かったのではと思いました。
あと試合ももうちょっとしっかり見せても良かったような気がします。
スポーツものですから、試合の展開のドキドキする部分も欲しかったですね。
早苗が日舞をやっていたから足さばきと、間合い・タイミングを読むのに優れているという設定も残しておいてほしかったです。
原作ファンとしてはちょっともの足りなかったかな。
主演の二人がかわいかったからいいけど。

原作小説はその後「武士道セブンティーン」「武士道エイティーン」と続きます。
けっこうテレビドラマに向いているような気がするのですけれど。
どこかの局が企画を考えているに違いないです。

原作小説「武士道シックスティーン」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (25)

2010年5月 3日 (月)

本 「アマゾニア」

読み応えのある作品でした。
手に取るまで知らなかったのですが、作者の粕谷知世さんは日本ファンタジーノベル大賞受賞された方ということ。
日本ファンタジーノベル大賞出身の作家さんは好きな方が多いので、期待して読みました。

舞台となるのは、タイトルにあるようにアマゾニア、つまりはアマゾン川流域です。
時代はスペイン人が南米に進出した後、そして登場するのはアマゾニアに住む先住者です。
なかでもアマゾン川の語源ともなったアマゾネス=女人族が物語の中心となります。
アマゾン川流域は今でも地球の酸素のおよそ1/3を供給している地域です。
それだけ植物も豊かであり、また生物の多様性も誇ります。
人間から見れば危険はあれども、そこは一つの生態系として非常に豊かであるのです。
この作品に登場するアマゾニアの人々は、人間たちもその生態系の一つとして認識しており、自然に対して敬意を持って暮らしています。
我々とは違いますが、彼らのルールに従い生き、それは森全体として人間を含めた共同体として秩序を保っていました。
しかし、その秩序を壊す者が訪れます。
一つは南米に進出してきたスペイン人です。
彼らは征服することにより拡大してきました。
ヨーロッパも元々は深い森でした。
しかし人々はそれを開墾し、豊かな生活を得てきました。
けれどもそれにより、人は自然の一部としての立場ではなく、自然に対する立場となってしまったのです。
そしてアマゾニアを訪れたスペイン人の一人ケネス。
彼はアマゾニアの"泉の民"から信仰の対象となっていた"森の娘"から想い人と言われます。
"森の娘"は"泉の民"たちの共同体をずっと危険から守ってきた精霊のような存在です。
その"森の娘"が共同体よりも、自分の想いを優先して行動し始めたのです。
それは共同体を揺るがすこととなりました。
この二つの秩序の破壊は、生態系や共同体を、人間や個人の欲望や想いが凌駕していくということによって起こります。
これはまさに現代でも起こっていることであり、その寓意としてこの物語は読めます。
現代からいまさら原始の共同体のような生活には戻りようもありません。
けれども個の欲望の達成だけを思うのではなく、共同体の一部であるという認識も持たなくてはいけないのだと思いました。

「アマゾニア」粕谷知世著 中央公論 ハードカバー ISBN978-4-12-003578-6

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」 祝!大団円

うん、しっかりとフィナーレを決めてくれました。

「音楽」って、その漢字をもう一度見直してみると、「音を楽しむ」なんですよね。
のだめは元々は音と戯れて、自分が感じるがままに楽しんでピアノを弾いてきた人。
だから気分の浮き沈みに合わせて彼女の奏でる音は大きく変わってしまうし、それが良いところでもあり、演奏家としては(いつもあるレベル以上の演奏ができないというところでは)悪いところでもあります。
対する千秋の「音楽」は言わば「音学」。
彼は元々の才能もありますが、さらに学びながら上へ上へと高みを目指していく向上心があります。
千秋は楽譜を読み、そしてそこから作曲者の意図を如何に汲み上げることができるか、それを追求します。
そういう意味で千秋は音楽の研究者・追求者とも言えるでしょう。
音楽に対する態度としては全く異なる二人。
でも異なるからこそ二人は惹かれ合うのでしょうか。
のだめはいつも先に先に高みに登っていく千秋に憧れ、それに追いつこうと無理をするけれど、いつもどこかで息苦しくなってしまいます。
千秋はオリジナリティが溢れ、誰にもだせない音をだすのだめを評価していますが、そのハチャメチャ振り、また上を目指さない態度をどう扱っていいかわかりません。
二人とも相手をとても評価しているのですけれど、自分と価値観があまりに違うあまりに相手とどう合わせていいかがわからなくなります。
思えば「のだめカンタービレ」というお話はずっと二人がお互いの価値観を少しずつ摺り合わせていく過程を描いている物語だったのかもしれません。
歩みよれないところもあったり、勇み足を踏んでしまったり、いろいろとありましたが、二人は試行錯誤しながら距離を縮めていく。
相手の良いところを認め、悪いところは許容していく、そして近づき合っていくのが「のだめカンタービレ」だったのでしょうね。
ラストの「2台のピアノのためのソナタ」は良かったです。
この曲から物語は始まって、この曲で物語は終わる。
のだめは自分が感じるままに飛び跳ね、それを千秋は受け止める。
二人の関係はとても良いハッピーエンドの大団円をむかえられて、マンガからドラマからアニメからとずっと「のだめカンタービレ」に触れてきた自分としても嬉しいです。

劇中でのだめが楽譜を読んでいると(作曲者の)話が聞こえてくるという台詞がありますが、なるほどと思いました。
僕は音楽はからきしでまったくわからないのですが、仕事でずっとデザインをやっているので、同じようなことを感じます。
デザインもグラフィックでもプロダクトでも見ていると作った人の意図とか意志とかを感じることがあるのですよね。
これはどうやってわかるのだと言われるとなかなか説明しにくいのですけれど。
後付けで論理的に説明しようとすればできるんですけれど、感じちゃうというのが近いですね。
音楽をやっている人ってそういう風に音を感じるんだと、初めて納得がいきました。

劇場からの帰りに本屋に立ち寄ると、マンガで番外編がでてました。
早速買ってしまったのは言うまでもありません。

「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (8) | トラックバック (50)

2010年5月 1日 (土)

「ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-」 よくぞここまで膨らませた!

前作「ゼブラーマン」から15年後の世界、東京はゼブラシティと名を変え、毎日朝晩5時からの5分間はゼブラタイムと呼ばれ権力者が市民に対して銃を向けるなどの暴力を行っていいという特殊な社会となっていた。
かつてゼブラーマンとして地球を救った市川新市は記憶を失った状態でゼブラシティで目覚める・・・。

というところまでは本作を観る前から聞いていて、しかし前作のあのラストからどうやってこういう世界設定に繋げるのだろうかと、やや懐疑的な気持ちでいました。
「バットマン ビギンズ」みたいに別の話ということでと仕切り直すのかなと思ったりもしましたが、いや〜、見事に話を繋げましたね。
というより「白黒つけるぜ!」という前作のキメ台詞がなければ、本作はなかったわけで荒唐無稽な設定ではありますが、納得ができる流れでありました。
前作ではシマウマをモチーフとしたゼブラーマンにかけた単なるキメ台詞であったのですが、本作ではあえて白黒というのは善と悪に読み替えられています。
この読み替えの発想が見事であったと思います。
ヒーローの内なる2面性の戦いといった同様の試みは「スパイダーマン3」でもみられますが、世界設定全体にもその試みを反映させ変えてしまうという荒技を放つというのは、三池監督とクドカンならではというところでしょうか。
それを新たな話としてではなく、しっかりとした継続性をもっているところが巧みだと思います。

考えてみれば人というのは善人、悪人とばっさりと分けられるわけではありません。
一人の人のなかにも白い部分と、黒い部分があって、それがゼブラ柄のようにまだらになっているというのが、人の心なのかもしれません。
確かに社会のルールや法律というのは悪を防ぐために作られるものです。
ただそれが厳しすぎれば、窮屈になるというのもその通りです。
まさにゼブラタイムというのはそのガス抜きとして機能しているわけです。
中世のヨーロッパのギロチンにしても、江戸時代の磔獄門にしても、公開処刑であり、これは犯罪の抑止という面もありますが、なにぶん庶民のガス抜き的な役割も担っていたということに共通点を見いだすことができるかもしれません。
このあたり荒唐無稽であるように見えても、やってしまいそうな人間の社会の怖さも感じたりもします。

もともと前作を作るにあたり、シマウマモチーフを持ってきたというのは、このような善悪の物語にしようという算段があったとも思えません。
しかしそのような可能性を自分たちで、自分たちが創作した物語に発見し、怖がらずに世界設定すら変更するという冒険を行ったのはたいへん勇気があるなと思いました。
よくぞ、話をここまで膨らませた!と感心しました。
相変わらずの三池監督とクドカンのシュールなギャグ、小ネタは冴え渡っておりました。
「合体」のくだりはやけにその言葉を繰り返すので、「もしや・・・」と思ったらえらくストレートに表現していたのが三池さんらしい。
おじ樣方には大ウケでした。
普通のヒーローものだと思ってお子さん同伴の方は説明に苦慮したと思いますが・・・(なんでお布団ひいてるのー?とか言われたりして)。

最後に。
仲里依紗さんは公開前から話題になっていましたが、今までとは全く違う悪女でけっこうな迫力がありました。
衣装などばかり注目されますが、仲さんの芸域の広さは素晴らしかったです。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (42)

「ウルフマン」 凶暴なチューバッカ!?

かつてのユニバーサル映画と言えば、「魔人ドラキュラ」「フランケンシュタイン」「狼男」(「怪物くん」みたいだが)と今でもファンの多いホラー映画を送り出してきた映画会社です。
これらの作品は様々な作品で引用されたり、時折リメイクがされていたりと現代に至っています。
「狼男」もいくつも派生作品・リメイクがされていますが、本作「ウルフマン」は本家の正当なリメイクと言っていいでしょう。
と言っても作品として出来がいいかと言われれば、首を傾げざるをえません。
まずは狼男の造形ですが、オリジナルにリスペクトをしているのだと思われますが、様々な映像表現を見慣れてしまったところでいうと、「スター・ウォーズ」のチューバッカが暴れているようにしか見えないのが残念なところです。
俳優の顔に特殊メイクを施すという特殊効果はかつて一世を風靡したとはいえ、本作で観るとやや古くさく見えてしまいやや興ざめをしてしまいます。
思い切った現代風の造形解釈があってもよかったのではないかと思いました。
また良くないと思ったのは、脚本です。
物語の背骨となる物語がどうもしっかりと定まっていない気がしました。
要素はいくつも散見されるのです。
例えば、狼男となるローレンスとグエンの愛。
まさに美女と野獣ですが、そうなるとグエンがどのようにローレンスに魅かれるようになるのかが描かれないといけません。
このあたりの描き方は何故か淡白で、ローレンスが逃亡の末、グエンとキスをするシーンがあるのですが突然感があります。
グエンの気持ちを描かないと、その後の彼女の行動を動機がどうしても弱く感じられます。
またローレンスと父親ジョンの確執も題材になり得るものがあったと思います。
ギリシャ神話などにもみられるいわゆる「父親殺し」のテーマですが、そうであるならばやはり父と息子の近親憎悪をより深く描く必要があると思います。
このあたりの描写もやや弱い。
もう一つ、自分の中の獣性と、人間としての尊厳の間でゆれ動くローレンスの心の中での葛藤を描くという方向性もありますが、これも弱い。
これをやる場合はかなりローレンス目線で物語を語らなくてはいけないと思うのですが、物語の語りが主観と客観がどうも定まっていないため、このようなアプローチも中途半端です。
これまであげてきたようなアプローチの種を蒔いているように思えるのですが、そのどれかに焦点を当てきれているわけではなく、中途半端に終わってしまったのが、この作品の良くないところでしょう。
結果、観終わった後に残るのは、過度な残酷描写だけというB級のホラー映画のような印象になってしまいました。
描きようはあった素材だけにやや残念だったと思います。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (8) | トラックバック (43)

« 2010年4月 | トップページ | 2010年6月 »