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2010年4月29日 (木)

「タイタンの戦い<2010>」 記憶に残りにくい作品

1981年公開のレイ・ハリーハウゼン作品「タイタンの戦い」のリメイクになります(オリジナルは未見です)。
レイ・ハリーハウゼンと言えば、ストップ・モーションの人形と俳優の剣劇などのダイナメーションが有名ですが、その限界をCG技術を駆使することにより突破し、改めてギリシャ神話の世界を映像として表現しようとしたのが狙いでしょう。
その点、映像表現としては確かに迫力のあるものに仕上がっています。
メデューサやクラーケンとの戦いなどはやはりCGならではのカメラワークがあり、見ごたえはあります。
ただこれが今までに見たことのない映像かと言われれば、そうでもないと言わざるをえません。
やはりピーター・ジャクソンの「ロード・オブ・ザ・リング」の衝撃以降はレベルの差こそあれCGを駆使した表現というのは当たり前のものとなってしまっているのです。
現代の映画はCGで表現するということだけでは既に目新しさはなく、今で言えば「アバター」級までいかなければ観客の度肝を抜くというところまでいかないというというのが、現状でしょう。
映像だけでは観客を驚かせられないとすれば、やはり重要なのがストーリーです。
ただし本作についてはギリシャ神話をベースにしたオーソドックスな英雄譚となっており、正直言ってストーリーにも新味はありません。
元々のギリシャ神話を繋ぎ合わせるためにかなり改変はしているものの、構造はシンプルな英雄譚なのですよね。
なにかしら物語としてギリシャ神話に新しい解釈を与えているかというとそういうこともありません。
例えば「300」などはペルシア戦争を描いていますが、歴史物というよりはアクションバイオレンスものとしてどう見せるかというシャープな割り切りを見せていて、それが新しさを生んでいたのです。
本作はシンプルな英雄譚を、CGで見せるというところだけになってしまっているような気がします。
そういう意味で本作は映像も物語も悪いわけではないのですが、かといって抜きん出たものもないというえらく標準的な作品となってしまったように感じます。
素晴らしい名作も、そしてとんでもない駄作も記憶には残るのですけれど、本作は記憶に残りにくい作品だなと思いました。

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「LOST シーズン5」 フラッシュあっちこっち 

「LOST」も次のシーズンでファイナルシーズンとなります。
シーズン4では「フラッシュフォワード」という手法で描いていましたが、本作ではさらに複雑になっています。
「オーシャニック6」脱出した島では、ベンが島の危機を救うため島を「動かし」、「フラッシュ」という現象が起こりはじめます。
島に残されたソーヤーやジュリエットは「フラッシュ」という現象が起こるとタイムトラベルを起こすようになってしまったのです。
そしてそれは体にも強い影響を与えるらしくその中でシャルロットは倒れてしまいます。
ロックは脱出した「オーシャニック6」を島に連れ戻すしか、その状態を回避することが出来ないと知り、彼も島を脱出します。
タイムトラベルという要素がでてきたため、「フラッシュバック」「フラッシュフォワード」といったところではなく、時間軸があっちこっちと行ったり来たりするところもありややこしくもあるのですが、それはやはり「LOST」で物語を牽引する力は相変わらず強いです。
全シーズンより登場している新キャラクターたちも、実は島と浅からぬ因縁があるということがわかっていきます。
そしてその存在が示唆されていたジェイコブという謎の人物が初めてシーズン5で登場します(あのビデオの男、ドクター・チャンも登場。それもけっこうキーマン)。
本シーズンでは登場人物たちは偶然に墜落した飛行機に乗り合わせたわけではないということが明らかになります。
そのキーとなるのがジェイコブ。
しかしそのジェイコブも・・・。
その後の展開がどうなるかやはりまったく読めない「LOST」。
次のファイナル・シーズンが気になります。
いくつか謎は明らかになってきていますが、まだまだたくさんの謎が残っています。

そもそもジェイコブとは何者なのか?ああいうことになり島の行く末はどうなってしまうのか?
導くものとしてしばしば登場するジャックの父は何者なのか?そもそもあれはジャックの父親なのか?
いなくなったクレアはどうなっているのか?アーロンはどうなるのか?
ハーリーの数字は何か意味があるものなのか?
「別の者」はなぜ島にいるのか?その目的は?

ああ、まだ謎がいっぱい!
ファイナル・シーズンでは全部明らかになるのかなあ。
本シーズンのラストも相変わらず大きな謎を残してくれますし。
ファイナル・シーズン観ないわけにいかないですよね。

しかしソーヤーとジュリエットの関係はかなり切ない・・・。
ジュリエットはファイナル・シーズンで再登場しないかな。
またそれ以外のキャラクターにも。
「LOST」ならそれもありだと思ったりするのですが。
期待したいですねー。

「LOST シーズン4」の記事はこちら→
「LOST シーズン3」の記事はこちら→
「LOST シーズン2」の記事はこちら→
「LOST シーズン1」の記事はこちら→

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2010年4月28日 (水)

「座頭市 THE LAST」 抜きたくない剣を抜かされる

久しぶりに試写会に行ってきました!
「座頭市」と言えば勝新太郎さんのイメージが強いですが、近年は北野武監督の「座頭市」や綾瀬はるかさん主演の「ICHI」などユニークな解釈をされているシリーズになります。
「THE LAST」というタイトル、また僕の好きな阪本順治監督なので期待して行ってきました。

阪本監督は僕は特に初期の作品が好きなんです。
「鉄拳」とか「王手」とか。
物語としては荒削りなところもあるのですが、それすらもエネルギーとしてしまうようなパワーを作品が持っていたと思います。
それは張りつめた緊張感とでも言いましょうか。
最近は熟練してしまったところもあって、阪本作品はややまとめすぎな感じがあるのも否めないのですけれど。
試写会では出演者の上映前に出演者の方々の舞台挨拶があったのですが、みなさん口々に撮影時にとても緊張感があったとお話しされていました。
観る側もそうですが、出演される方々も緊張感を感じるからこそ阪本順治監督の作品にはある張りつめた感じというのがあるのでしょうね。
本作はこのところ変化球の多かった「座頭市」シリーズにおいて原点回帰的な話でもあり、また阪本作品としても初期の作品に通じるようなストーリーであったと思います。
「座頭市」というシリーズは、本来は社会的弱者であり被差別者である側が、その中でももっとも差別されやすい視覚障害者である座頭市という存在を通して、差別者に痛撃を与えるという爽快感にあると思います。
しかし市というキャラクターは社会的弱者でありながらも、居合いの達人と意味では強者であるという点でひどく矛盾した立場に立つのです。
「七人の侍」などでも描かれるように、実は弱者は弱者なりにたくましく生きる術をみつけていく。
多少の犠牲を払いながらも頭をひっこめても結局生き延びるたくましさを持っています。
しかし市は強者であるという側面もあり、彼の存在自身が戦いを呼び込んでしまうのです。
彼自身は戦いたくないと思いながらも、戦いを彼が呼び込んでしまう。
抜きたくない刀を彼は抜かされる。
この悲哀が座頭市というキャラクターの真髄でしょう。
座頭市の物語と阪本監督は親和性が高いと思います。
初期の「鉄拳」などはまさしく現代の座頭市とも言える物語とみることができます。
主人公は元才能であるボクサーでありますが、事故により指を義手にします。
そういう障害を持ちながらも彼は再起を目指しますが、障害者を目の敵にする集団に付け狙われます。
彼の大事な人々もその集団に襲われ、彼は戦わざるを得なくなる。
彼が拳を振るうとき義手であるため、それには激しい痛みを伴います。
それでも大切な人を守るためすべてを犠牲にして拳を振るう。
これは哀しみながら人を斬る市というキャラクターに通じるように思えました。

これまで述べたように物語としては阪本監督との親和性がものすごくあると思います。
随所に出演者がお話ししていたような緊張感は感じました。
しかし初期作品にあるような荒削りなテンションはやはり感じなかったのも確かです。
あれは若さ故とも言えるのですが、ややそのあたりはもの足りなかったところでもあります。
また座頭市を演じていた香取慎吾さんは随所に非常にいい演技の場面もありました。
ただ彼の持つポジティブさ、明るさというのがどうしても拭いきれず、市というキャラクターが持つ悲哀といったところとの乖離があったように見えました。
このあたりは非常にもったいなかったと思います。
香取さんの演技がどうこうというより、キャスティングで彼を選択したというところでやはり市というキャラクターとの距離感をどのようにするのかといったところがやや曖昧になったような気がしました。
物語と阪本監督の親和性が高そうであっただけにやや残念です。

綾瀬はるかさん主演「ICHI」の記事はこちら→

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2010年4月25日 (日)

「ピンクパンサー(2006)」 ダンバーガー!?

「ピンクパンサー」と言えば、クルーゾー警部。
クルーゾー警部と言えば、ピーター・セラーズ。
役と役者が分ちがたい例はいくつかありますが、クルーゾー警部とピーター・セラーズもそのうちのひとつと考えられるでしょう。
ピーター・セラーズの死後、作られた新シリーズが本作で、クルーゾー警部をスティーブ・マーティンが演じています。
役と役者が強く結びついている場合、続編なりリメイクというのはなかなか難しいものです。
本作もそういうケースの一つかと思いきや、これはこれでなかなかにおもしろい。
本人はいたって正義感が強く真面目に捜査をしているのだけれど、やることなすこと、行く先々で騒動を巻き起こしてしまうクルーゾー警部。
ピーター・セラーズのマネというのではなく、これがスティーブ・マーティンとしてのクルーゾー警部としてうまくはまっていたと思います。
舞台はほぼフランスですが、劇中は英語。
ですが、なんとなくフランスなまりっぽい英語をアメリカ生まれのスティーブ・マーティンがなんとも上手に演じていました。
英語を話してもどうしてもフランス語っぽい発音になってしまう「ハンバーガー」ネタが、僕にはかなりのツボでした。
「ダンバーガー!」「ハンバダー!」
日本語訳の方も悩んだところでしょう。
劇場で観たときも大笑いしましたが、改めてDVDで観ても爆笑。
(観てない方には何がおもしろいのかと思うでしょうけど。是非ご自分で確認してください)
いやー、スティーブ・マーティンは芸達者ですね。
この「ハンバーガー」ネタがただのその場限りの笑いとりではなくって、ピンクパンサーがどこにあるのかっていう謎にも絡んでいたりするから、構成も侮れません。
こちらの作品の続編である「ピンクパンサー2」は劇場で見逃してしまったのだけれど、今度DVDで観てみようかな。

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「ダーリンは外国人」 夫婦はカルチャー・ギャップの擦り合わせ

人気の漫画エッセイの映画化です。
原作の存在は知っていましたが、まだ読んでいません(早速映画鑑賞後買ってしまいましたが)。

外国人と結婚したことでわかるカルチャー・ギャップを描くロマコメかと思いきや(そういう側面もありますけど)、結婚ということをけっこう真面目に描いている作品でしたね。
未婚者には勉強になります。
国際結婚だけに限らず、今まで育ってきた環境が異なる二人がいっしょのところで暮らすということは、少なからずカルチャー・ギャップというのはあるのでしょうね。
本作でも触れられていた朝食が和食か洋食かといったようなところから。
そういえば以前テレビで女性タレントが実家は風呂を出たらみんなハダカでスタスタ歩いているというのを聞いて驚いたことがあります。
ずっとそういう生活習慣だとそれが当たり前ですよね。
たぶん結婚というのはそのような家ごとの生活習慣の違い、カルチャー・ギャップがでてくるんでしょう。
最近は離婚も多いと聞きます。
離婚の理由の多くは価値観の違いだとか。
ずっと違う生活をしてきたから価値観の違いというのは当然ありますよね。
でも昔から結婚というのはあって、家々でのしきたりとかは違っていたと思うのですが、昔はその違いをどうにか合わせるということを(多分に女性の方が)してきたのでしょう。
最近は夫婦それぞれが相手と無理に擦り合わせようとしなくなってきたから離婚が増えてきたのかもしれません。
無理に、がいけないのですよね。
違いは違いで許容するくらいの余裕があったほうがいいのかもしれません。
さおりの母親が言っていたように、夫婦で価値観の違いや生活習慣の違いというのはあって当たり前。
その違いを我慢ならないというより、許容したうえで、自然と相手と摺り合わせよう、摺り合わせたいと思っていける関係であればうまくいくんでしょうね。

なーんて偉そうなことを書いてしまいましたが、そんなこと言ってる前に自分の相手を探せよ!という声が聞こえてきそうな気がします。
さおりとトニーの夫婦は仲が良くて憧れますです。

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2010年4月24日 (土)

本 「エデン」

非常におもしろかった近藤史恵さんの「サクリファイス」の続編です。
前作はスポーツ小説と、青春小説と、ミステリー小説がいいバランスでとられていた良作でした。
本作は自転車レースの本場であるヨーロッパ、それもグラン・ツールを舞台としています。
前作の良いところを継承しようとする意識が強かったのか、やや前作ほどの感動がなかったような気がしました。
舞台は大きくなっていますが、作品としてのスケールはこじんまりしてしまったように感じました。
たぶん大きな要素としては、主人公、誓の成長という視点が前作に比べて薄かったからだと思います。
スポーツ小説としての自転車レースの駆け引き、ミステリー的要素も前作のようにあります。
ただ青春小説としての要素が弱くなっているのです。
これは仕方がないことでもあります。
前作で誓は事件をきっかけに自分の生き方をみつけました。
そういう意味では誓は一人の大人として成長したわけで、本作では前作のようなあがくような成長というのは描きようがありません。
その分の要素を、ニコラという新しい登場人物に背負わせようとしているのだと思いますが、本作は一人称の作品であるため、前作ほどの感情移入をさせられるにいたりません。
このあたりは仕方がないところなのかもしれません。
本作を読んで、改めて前作「サクリファイス」のバランスの良さを再認識しました。

前作「サクリファイス」の記事はこちら→
第3作「サヴァイヴ」の記事はこちら→

「エデン」近藤史恵著 新潮社 ハードカバー ISBN978-4-10-305252-4

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「シャッター アイランド」 「騙される快感」がない

マーティン・スコセッシ&レオナルド・ディカプリオの名コンビが挑むミステリー。
あおりが効いた予告編にミステリー好きの血が騒ぎ、期待していたのだが・・・。
・・・ううむ、これはちょっといかがなものだろうか・・・。

<ここからはネタバレ&辛口モードなので注意>

まずはこの作品は予告編がいけない。
両端が割れた2本の平行線。
片方の線は先割れが内側に、もう片方の線は先割れが外側に。
同じ長さだが、長さが違って見えるという有名な錯視の例をあげ、見えるものを信じるなという趣旨の予告でした。
そして本編上映前にも丁寧に、見えるものが真実ではない、謎が解けるかという挑戦状めいた前振りがありました。
これはミステリーとしてあおりたいという気持ちが表れているのだと思いますが、こういう予告だと観客ははなからすべてを疑ってしまうわけです。
つまりはディカプリオ演じるテディ保安官の言うこと、見ることを額面通り信じるわけがないのです。
カンがいい人だと「シークレット ウインドウ」と同じ仕掛けかなと、わかるんではないでしょうか。
実際にその通りでしたが。
優れたミステリーというのは、読む人、見る人に気づかないようにミスリードを巧妙に行ったうえで最後に種明かしをすることにより「ヤラレタ!」と思わせるのです。
このとき観客はその手際がよいほどに「騙される快感」に浸れるのだと思います。
本作は「だますぞ、だますぞ」と最初から言うものだから、観る側は警戒心をもって観てしまうのです。
これによって「騙される快感」を奪っているような気がしてならないのです。
そういう意味で本作の予告編やプロモーションは誤っているような気がします。

またミステリーとしても中途半端なところを感じました。
「ツイン・ピークス」のような虚実が一緒くたになって現実と非現実が混ざり合って混沌としているわけでもなく。
「シックス・センス」のように精巧に組み立てられた大仕掛けがあるわけでもなく。
こういう物語自体が仕掛けとなるタイプのミステリーは精密機械のように組み立てられた構成か、もしくは現実と非現実の入り交じったカオスかといった極端なものしか成功しないような気がします。
そういう意味で本作は中途半端であった気がします。
テディの見る幻想・夢に現れるイメージと、テディが体験している(と思っている)現実の共通点を見ていくと真実というのは早々に想像できます。
姿が見えないレディス=テディであるというのは事前のあおりによりだいたい想像できるので、そうなると細かい伏線はだいたい読めてしまうわけです。
逆にあおりがない状態で見た場合、前半はテディの現実と夢・幻想が断片的に積み重なっているだけなので、実は脈略がない感じにも見えるような気がします。
僕がずっと批判的に書いているあおり予告も、実際のところそういう風にしないと観客がわけがわからん状態になってしまうことへの対策ではないかと思えるほどです。
最初にテディが怪しいという疑いを持って観てもらえれば、伏線を探そう探そうと集中して観てもらえるのではという思惑があったという感じがしなくもありません。
話題になっている超訳日本語版もそういうわかりにくさへの対処ではないでしょうか。
そういう意味でミステリーとしてはあまり出来がいい作品とは思えませんでした。

騙すなら、見事に騙してほしかった。
うーん、辛口。

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2010年4月20日 (火)

本 「宇宙から恐怖がやってくる! -地球滅亡9つのシナリオ-」

マイケル・ベイやローランド・エメリッヒやその他多くの監督や作家によって、地球は何度も滅亡の危機にさらされてました。
特に宇宙からやってくる隕石やらブラックホールやら敵対的な異星人やらに襲われることが多いですよね。
でもこれは所詮物語だから・・・と安心していいのでしょうか。
本著は様々な映画や小説などで描かれた地球滅亡のシナリオの可能性を科学者が最新の研究をもとに解説しています。
よくあるノストラダムス本的な似非科学本ではありません。
サイエンス・ノンフィクションではありますが、堅すぎて投げ出したくなるようなところはありません。
それどころか著者のフィリップ・プレイトは「博士」といったお堅いイメージとは異なり、かなり軽妙な語り口なので読み進むのは苦になりません。
本著は地球滅亡のシナリオを科学の目で検証していますが、この解説を読んでいくと、地球や宇宙の成り立ち、その行く末といった宇宙論について知らず知らずのうちに理解を深めることができます。
宇宙論なんて難しそうと思う方も多いかもしれないですが、この本だと科学アレルギーみたいなものを起こさずに読んでいけるのではないかと思います。
楽しく読みながら、最新の科学について理解を深めることができる、なかなかにいい本だと思います。

「宇宙から恐怖がやってくる! -地球滅亡の9つのシナリオ-」フィリップ・プレイト著 NHK出版 ハードカバー ISBN978-4-14-081418-5

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2010年4月16日 (金)

「ヴェロニカ・マーズ シーズン2」 止められない止まらない

録画しっぱなしで、溜まりに溜まっていた海外ドラマを現在一気見中。
「ヴェロニカ・マーズ」もシーズン2をようやく見終えました。
このシリーズ、シーズン1もおもしろかったですが、シーズン2もかなりおもしろいです。
「ヴェロニカ・マーズ」の巧みさというのは、シリーズを通しての大きな事件の謎(シーズン1はリリー殺害事件、シーズン2ではスクール・バス爆破事件)とヴェロニカの恋愛(ダンカンかローガンか他の誰かか)という2つの大きな流れと、各話ごとの学園で起こるミステリーがちょうどいい塩梅にバランスがとれているところでしょう。
シーズンを通しての大きな流れは次回を早く観たい!と思わせるヒキになります。
ただこういうひっぱりすぎる謎ばかりだといつまでも終わらない感じがして、ついてこれない人がいる(「LOST」から脱落していくように)のも確かなのですが、そういうところを一話完結的なミステリーでリズムよく見せるといういいバランスになっています。
見始めると止まらなくなります、「ヴェロニカ・マーズ」は。
まさに止められない止まらない、といった感じです。

シーズン2では、シーズン1でのラストでの相手がローガンだとわかったのもつかの間、何故かヴェロニカとダンカンとよりがもどっているという展開。
何故?と思っているのもつかの間、ヴェロニカをターゲットにしたように見えるスクール・バス爆破事件が起こります。
何人ものクラスメートが亡くなり、ヴェロニカはショックを受けます。
そして重傷者の中にはヴェロニカの友人であり、ダンカンの元カノであるメグも含まれていました。
果たしてスクール・バス爆破事件の犯人は誰なのか?
本当にヴェロニカを狙ったのか?
この謎解きがシーズン2を引っ張っていく物語の幹になります。
話が進むにつれ、怪しい人物は何人もでてくるのですが、シーズン2の最終回まで誰だかまったくわからず。
シーズン1同様、思ってもいなかった人物が犯人でびっくり。
これだから「ヴェロニカ・マーズ」から目が離せないのですよ。
シーズン2の初回のオープニングを観たとき、シーズン1と異なっていたところに「あれ?」と思ったのですが、なるほどそういうことだったのねえと納得。

とってもおもしろい作品なので、見て損はさせません。
お薦めです!
観るならシーズン1からね。

AXNではシーズン3も放送決定!
ハイスクールを卒業したヴェロニカは大学へ進学。
そこでもまた事件の気配?
女子大生ヴェロニカの活躍に期待したいと思います。

「ヴェロニカ・マーズ シーズン1」の記事はこちら→

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本 「ブラックペアン1988」

桜宮サーガとも呼ばれる一連の海堂尊さんの作品群の中で物語の時代の中では古い時代になる作品となります(最も古い時代を扱っているのは「ひかりの剣」)。
「田口・白鳥」シリーズでは狸親父っぷりを発揮している高階院長の若かりし頃が描かれています。
高階院長の若かりし時代については先にあげた「ひかりの剣」でも描かれていますが、彼が手練手管に富んだやり手になっていくというきっかけというのは本作で描かれた佐伯教授との出会いが大きかったのであろうと思われます。
「田口・白鳥」シリーズでは高階院長はすべてを見通しながらも、飄々としているイメージがあり、決して熱い男として描かれているわけではありません。
けれども本作の高階は才気あふれる若手として描かれ、少なからず自分の才への自信を感じている男として描かれています。
けれど本作で描かれる事件を通し、彼は医療というものの奥深さを痛感したように感じます。
それゆえに彼は「田口・白鳥」シリーズに描かれている男になっていったのでしょう。
確実に彼は、佐伯教授の意志を継いでいると言えます。
ある意味、桜宮サーガというのは高階という男の人生を描いているシリーズとも言えるかもしれません。
高階院長以外にも桜宮サーガに登場する、キャラクターが随所い顔を出します。
「チーム・バチスタの栄光」の田口が手術嫌いになったわけも描かれますし、「ジェネラル・ルージュの凱旋」の速水も才気あふれる若者として登場します。
ラストのブラックペアンの謎が解き明かされる場面は、初期の「チーム・バチスタの栄光」を彷佛させる緊迫感があり、ページを繰る手が早まりました。
このあたりの見せ方というのは海堂さんはやはり上手ですね。

本著の続きとなる「ブレイズメス1990」の記事はこちら→
海堂尊作品「ひかりの剣」の記事はこちら→
海堂尊作品「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→
海堂尊作品「ジェネラル・ルージュの凱旋」の記事はこちら→

「ブラックペアン1988<上>」海堂尊著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276525-1
「ブラックペアン1988<下>」海堂尊著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276526-8

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2010年4月15日 (木)

「HEROES シーズン3」 求心力をとりもどした

もともとシーズン1でしっくりと終わっていたのに、強引にシリーズを延命させたためか、全体的にややおぼつかない印象が残るシーズン2だった「HEROES」。
物語がどんどんインフレーションを起こしていく状態(僕はこれを「(少年)ジャンプ化」)と呼びますが)を是としてシーズン3は展開します。
個人的にはジャンプ化という展開はあまり好きではないのですが、シリーズ2の迷いを越え、ある種「いくところまでいってしまえ」といったような割り切りをシーズン3には感じました。
「LOST」のように長いシーズンを通じて細かい伏線や整合性をとるということを諦め、やや強引な辻褄合わせも用いながら(ピーターが能力を失うこととか、ケンセイの退場とか)も物語の展開を加速させていくという方向に舵をきったのかもしれません。
シーズン3が思いのほかおもしろかったのは、シーズン1での敵役であったサイラーを復活させ、主役級の扱いにしたことでしょう。
サイラーは物事の仕組みを解析する力を持つ能力者。
その能力により他人の能力を奪っていくことができる殺人鬼として描かれました。
シーズン3は彼の人の力を奪うという能力故、そして己の過去を知らないという事実によるアイデンティティの喪失、発見の物語となっています。
この世界においてのヒールをほぼ主役として扱うことはかなりのチャレンジであったと思いますが、それにより物語の求心力ができたと思います。
何人もの超能力者が登場し、各所でさまざまな出来事が並行して進行し、それが最後は収束するというのが「HEROES」のシーズン1の見事な構成であったと思います。
シーズン2ではそれが散漫となり、物語としては中心を失った状態になっていました。
本シリーズではその中心に「HEROES」の中でも最も個性の強いサイラーを置くことにより、求心力を再び得ることに成功したと思います。
サイラーの求心力を高めるために、同じように他者の能力を得ることができるピーター、時空を操れるヒロはその能力を大きく制限されます。
これは物語としては仕方がないところだったと思いますが、やや強引であり辻褄合わせ的なところは感じました。
その他にもマヤはどこに行ったのかとか、マットはあっさりダフニーのこと忘れちゃうしとか。
しかし物語全体としては力を持つことになったのでよしとしましょう。
シーズン3の終わり方はけっこう意外かつ衝撃的なものとなりました。
続くシーズン4もサイラーが中心となって動いていくのでしょうか。

「HEROES シーズン1」の記事はこちら→
「HEROES シーズン2」の記事はこちら→

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2010年4月14日 (水)

本 「心とろかすような」

宮部みゆきさんのデビュー作「パーフェクト・ブルー」で登場した元警察犬マサが語るミステリーの続編になります。
短編集になりますが、宮部みゆきさんの作品は長編であっても短編の積み重ねで構成されているものも多く、この方はこういう短中編も上手な方だなと改めて認識します。
この短編集に収められている作品はもう20年くらい前のものが多くまだ若いときの宮部さんの作品なのですが、それでもどれもおもしろく、デビューしたての頃から才能があふれる方なのだなと思います。
また宮部さんの作品によく登場する、他人に対し人として思いやる気持ちのない人(特に若者に多い)という登場人物もすでに登場します。
基本的に宮部さんの作品というのはこのような人と善良な人々を対比的に描くことが多く、本作の作品もそのようなかたちのものが多いです。
初期より宮部さんには書きたいものがあり、ある種の型がもうできていたのでしょうね。
マサは人間の言葉を理解することはできるが、それを人間には伝えられない(言葉を話せないので)という制約というのはなかなかにおもしろいと思います。
いわゆる神の視点と、探偵一人称のちょうど間といったところかもしれません。
元警察犬マサの一人称という特殊な視点は読んでいても新鮮ですので、また続編を読みたい気にもなります。

「心とろかすような」宮部みゆき著 東京創元社 文庫 ISBN4-488-41102-9

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2010年4月10日 (土)

「第9地区」 自覚がない差別

南アフリカの都市ヨハネスブルグに、巨大UFOとともにエイリアンが現れてから20年、彼らは”第9地区”と呼ばれる地域に隔離されている。
何らかの原因で彼らはUFOを動かすことができず、この地域を離れることができないのだ。
彼らは南ア政府の保護を受けて生きざるをえず、”第9地区”はスラム街となっていった・・・。
次第に治安が悪くなり、犯罪が増加したため、国民からの反発もあり、政府とエイリアン対策を委託されている企業MNUはエイリアンを別の地域に移住させようとする。

南アフリカが舞台となる珍しいSF映画ですが、その理由はかつて彼の国で実施されていたアパルトヘイト政策をモチーフとしているからでしょう。
たびたび優れたSFは社会を諷刺するということを、こちらのブログで書いてきましたが、本作もその一つにあげられると思います。
MNUエイリアン移住の担当ヴィカスは普通の一般人でありながらも、移住の際のエイリアンに対する侮蔑とも言える発言を行います。
彼は温厚そうに見えますし、また差別的発言ではそこに何ら悪意といったものは感じられません。
これにより本作で描かれているエイリアンへの差別的意識というのは、この社会においてより一般的であり常識的であるということの証左となります。
”エビ”と蔑まれるエイリアンは見かけも醜悪で、犯罪も行います。
彼らに対する差別的意識というのは、納得できそうなところもなくもありません。
けれどそこでちょっと考えなくてはいけません。
見た目が醜悪で、犯罪も行う、これはかつて南アやアメリカにおいて、白人から見た黒人のイメージではなかったか。
日本において、朝鮮人や中国人へのイメージではなかったか。
今では外見や文化によって人間を差別するというのは非常識とされています。
けれどもかつてはそれが常識的であったのです。
そう考えると、本作で描かれているエイリアンに対する差別もなんらこれらと変わりがないということがわかります。
意識にすらあがってこない常識的な差別と言えましょうか。
これは差別をしている側には自覚がないというのが、怖いところです。
物語の途中でヴィカスはウィルスにより、次第にエイリアン化していきます。
自分が無意識に差別をしているエイリアンそのものになっていくことにより、ヴィカスは差別される側になっていきます。
それがいかに過酷であるということをヴィカスとともに、観客も感じることになります。
まさに身を以て知るということです。
差別もそうだし、いじめもそうですが、する方はそれほど意識をしていなくても、される方はとても辛いわけです。
自分がその身になって考えるということが、そういうことを防ぐよい方法ではありますが、想像力が必要です。
本作はSFという舞台立てを利用して、そのような差別をされる側に立って考えてみるということのきっかけを与えてくれる作品となっていると思います。

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2010年4月 9日 (金)

「マイレージ、マイライフ」 しがらみと絆

出張好きな人っていますが、僕は好きではありません。
というより旅行自体が億劫であまり行きたいと思わないのです。
海外は行ったことがありますが、それは仕事で行かなくてはいけなくなったときだけ。
プライベートではありません。
そんな僕とは真逆のような主人公ライアン(ジョージ・クルーニー)は一年のうち、ほとんどを出張で過ごしているビジネスマンです。
彼は飛行機こそホームと言い、ホテルのほうがくつろげるというくらいで、自分の家は必要最低限のものしかない殺風景な部屋となっています。
彼は、妻や子供などの背負ってしまう人間関係は重しでしかなく、それから自由であることが真の人生だというのが信条です。

ライアンの言う通り、人間関係というのはしばしばしがらみになります。
特に家族というのは、他人と違って無視するわけにもいかない存在ですから、それ自体が重しとなってずっしりと自分の人生を縛ってしまうものでもあります。
長いこと独り身でいると実感しますが、確かに一人というのは気楽なところも自由なところもあります。
何をするにも自分がやりたいように決めればいいわけですし、その点では自由と言っていいでしょう。
この状態に慣れすぎるのもいけないとも思いますが・・・。
周りの妻帯者は、いろいろ自由でやれていいなあと言ったりもしますが、けれど独りというのは、自由である反面、いろいろな問題や苦境を一人で背負わなくてはいけないということでもあります。
そういう時は、心細くもなりますし、辛くも寂しくもなります。
たぶんそういう時に家庭がいる人は、その絆が励みにも力にもなるのだと思います。
それは独り身だと得られないもので、羨ましくもあります。

ライアンは独身主義者ではありますが、決して冷血な人間ではありません。
リストラ宣告人(こういう職業があるのにびっくり)であり、その業務をクールに実行しますが、相手の人間性への配慮は欠かしません。
たぶんライアンは人間性はとてもある男で、劇中でアレックスとの関係のイタイ結末を何度も味わったのだろうなと思いました。
そのうちに人と距離をおく生き方をするようになったのだと思います。
これはなんとなくわかるんですよね。
人との絆は欲しいけれど、それが自分を傷つけることが恐いというような気持ち。
ライアンに同行する新人ナタリーに限らず、最近の若者はなんでもメールで済ますというのは最近よく聞きます。
これもたぶん人との関係で傷つくのが恐いということなのでしょう。
物事へのアプローチで反発し合うライアンとナタリーが、それでもシンパシーを感じるのはこの人間関係への臆病さなのかもしれません。
本作ではしばしば"grow up(成長しなさい)"という言葉が出てきます。
印象的なのはラスト近くでアレックスがライアンに言う場面ですが、アレックスにとってはしがらみも絆もない「割り切った関係」を許容するのが大人になることであるのでしょう。
ライアンはそういう関係を許容できるという意味では大人ではなく、ナタリーに近い純粋さを持っていたのでしょう。
そういうライアンにもいつかいい相手が見つかることを・・・。
そして自分自身にも・・・(爆)。

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2010年4月 8日 (木)

本 「金正日の正体」

よくニュース番組で北朝鮮関係の事件の際にはコメンテーターで出演されることが多い重村智計さんの金正日総書記に関するレポートです。
重村氏は長年毎日新聞の記者として北朝鮮関連の取材を続けてきた方です。
金正日については週刊誌などで、「影武者説」などが時折掲載されていますが、重村氏は独自の情報網でこれの真偽について考察しています。
実際、国家元首の影武者というものがありうるのかというのは、その真偽は僕自身はよくわかりません。ただ国家元首がその正体がよくわからないというのは、そもそも問題なような気がします。
国家と国家というのはやはり信頼感が醸成されない限り、正常な国交というものは成し遂げられないと思います。
彼の国がそのあたりを認識し、しっかりと正直にいられない限り、周りの国は疑心暗鬼に囚われるのみでしょう。
それが彼の国の狙いなのかもしれないですが、現状維持こそすれ、これ以上の関係改善というのはなかなか見込めないのではないでしょうか。
人と人との付き合いも信頼ですが、国家と国家の関係もやはり信頼なのです。
本気で周辺各国との関係を修復したいと思うのならば、まずは正直に誠意を持って各国と接するということをしなければならないのでは、と思います。

「金正日の正体」重村智計著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287953-8

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2010年4月 4日 (日)

本 「キケン」

有川浩さんの新作です!
タイトルの「キケン」は、物語の舞台となる成南電気工科大学機械制御研究部(略して機研=キケン)のことですが、「危険」とのダブルミーニングとなります。
この機研で、有川さんらしいキャラがドカンと爆発して暴れまくる(?)ので、この悪ノリをただひたすら楽しみましょう。
この物語で描かれる大学生活、なんか懐かしいです〜。
僕はデザインを勉強してましたが、美大系ではなく、出身学部は工学部なのです。
工学部なのにデザイン学科がある変わったガッコだったわけなんです。
デザイン学科なのに、一応理系だったもので、だからこそ本作の舞台の成南電気工科大学のように、女子少なっ!って感じで、まんまこうでした。
学年で2、3人でしたねー、女子(またみなさん性格きついし)。
かつ僕は映画制作サークルなんてとこにいたもんで、小道具とかのモノ作り、SEなどの音探しなんてのを知恵を絞っていたわけで、まさにこんな感じ。
悪ノリしちゃったりしてねー。
学祭の前になると、立て看を描くのは自分らデザイン学科担当なわけで、必死に描くわけですよ。
並行して自主映画の編集しながら、かつデザインの課題やりながら。
学祭前のバタバタなんかは今思えば、何もかも懐かしい・・・。
本作で機研とPC研の争いが描かれていますが、そういえば僕の所属していた新興映画サークルと、昔からの映研は部室を巡って覇権を争っていましたねえ。
うちらは(気持ち的には)ハリウッド的な悪ノリエンタメ映画を志向していましたが、映研はありがちな作った奴しかよくわからない系で、作風はまったく逆。
そりゃ気は合いません。
できたばっかで部室なくて、隙あらばサークル会館の部屋を狙ってましたからねー。
今考えるとバカっぽいなあと思ったりしますが。

かつての男子大学生的には、大いに懐かしくて楽しんじゃいました。
でも全体にはやや散文的でバラバラしていたので、やや不満がちょっと残りました。

「キケン」有川浩著 新潮社 ハードカバー ISBN978-4-10-301872-8

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「ソラニン」 夢を追うこと、止めること

自分の夢を追い続けられるか。
追い続けて後戻りできなくなったらどうしよう、と怖くなることは誰でもありますよね。
夢を追い続けるのがよいのか。
それとも現実をみて、諦めるのがよいのか。
これはどちらがよいのかなんて、誰も、他の誰かに言うことなんてできるわけがありません。
そのとき自分でそう思ったことが、たぶん正しいことなのだと思います。
後悔してしまうことも含めて。
たぶん誰でも生きていくうちに、本作の種田や芽衣子のように、どこかで同じような決断をし、また悩んでいるのでしょう。

僕は記憶がある小さいときから絵を描くのが好きでした。
小さい時は漫画家、ちょっと大きくなったらアニメーター、そしてまたちょっと大きくなったらデザイナーとなりたいことは変われど、なにかずっと絵を描く仕事をしたいと思っていました。
けれど僕はクラスに一人くらいいるちょっと絵が描ける子ぐらいだったもので、漫画家やアニメーターになれるほどの技量があるわけではありません。
小さい頃ながら、自分の才能みたいなものがそれほど卓越したものではないというのに気づいていたような気もします。
なので、早々に漫画家などという夢は見切りをつけていたので、こういう夢を追う若者の物語というのは観ていて、自分が夢から逃げ出したようなちょっと刺がささったような気持ちと、それと裏腹に羨ましい気持ちとがわき上がってきます。
幸い、今はメーカーのデザイン担当で自分で絵を描くことはないものの、表現することにかかわれるような仕事が楽しくできているので、自分の判断は間違っていなかったとは思っています。
けれど本作に登場する若者たちを観ていると、ちょうどそう、本作でARATAさんが演じていた沢木がラストで芽衣子たちのライブを観ていたのと同じような気持ちになります。
まっすぐにそのときの自分の気持ちを歌うこと、悩みながらもそれをしている若者の眩しさ。
たぶん若者は、どこかのタイミングで、自分の夢とどう向き合うかという決断をしなくてはいけないのかと思います(決断をしないという決断もあると思う)。
僕も一時期デザインの仕事を離れていたときがありました。
それは自分にとっては全く不本意で、しんどくて、「これが自分がやりたかったことなのだろうか?」と悩んだりもしました。
今思えば、それは今の自分のやっていることの糧としてしっかりと活きているのですが、そのときはほんとに会社を辞めようかと思ったりもしました。
でもそのとき続けていてよかったな、と思ったりもします。

夢は持ち続けるにしても、止めるにしても、どちらにしても向き合うことこそが大事なのでしょう。
向き合える夢を持てることこそ、「好き」と言えるものや人がいることこそが、大切なのですよね。

昨今の若者はとても安定主義だということです。
そもそもこういう厳しい世の中だから夢などみれないのかもしれない。
けれどだからこそ夢をみてもらいたいとは思います。
こわくって怖じ気づいたりするかもしれないけれど、それはたぶん大事なことだから。

宮﨑あおいちゃんが好きなので、観に行ってきました。
「少年メリケンサック」では夢を追い続ける男どもを脇で見ている役でしたが、本作ではあおいちゃん自身が舞台の上へ。
ミュージカルもやっているので、歌うことは初めてではなかったとは思いますが、最後のライブのシーンはよかったです。
歌がうまいとか下手とかいうようなことではなくて、陳腐なんですが、響いてくるというか、気持ちが伝わってくる感じで。
大きく口をあけて、想いを吐き出している感じが、そのときの芽衣子の気持ちをとてもよく伝えてくれました。
さすが名女優だと、再確認しました。

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2010年4月 3日 (土)

本 「重力ピエロ」

伊坂幸太郎さんが原作の映画はよく観ているんですが、実は原作を読んだことがあるのは「アヒルと鴨のコインロッカー」だけ。
本作を読んでみて思ったのは、伊坂さんの文章はとても気が利いているんですよね。
これはセンスがいいというのともちょっと違うんですけれど、登場人物、特に泉水と春との会話などでそういうことを感じます。
二人の会話はたわいもない掛け合いに見えながらも、そこには二人の繋がりというものがそこから伝わってくる、そういう感じがします。
説明的な台詞は無粋なものですが、そういうところはいっさいありません。
物語としては非現実的であるのですが、会話のやりとりからなにか登場人物の人生、人生観みたいなものがにじみ出てくるんです。
そしてその中で、ポンと印象的な台詞が出てくる。
これが気が利いていて、極めて印象的なんですよね。
それは春の言葉であったり、父親や母親の言葉であったりするのですが、ちょっとありそうでない一言であったりするのに、その意味合いというのがすっと心にはいってくるというか(うーん、上手く表現できないのですが、わかってくれる方いらっしゃいますよね・・・?)
こういうところが伊坂さんの言葉のセンスがいいところかなと思ったりします。
扱っているテーマはかなり重いのに、読後の印象がそれほど口当たりが悪くないのはこの伊坂さんの言葉のセンスによるところが大きいと思います。
改めて伊坂さんの作品の良さに気づいたので、他の作品も読んでみますね。

映画「重力ピエロ」の記事はこちら→

「重力ピエロ」伊坂幸太郎著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-125023-6

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