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2010年3月28日 (日)

「噂のモーガン夫妻」 プライドと期待

今週末は映画を観れないかと思いましたが、用事が早く済んだので行ってきました!

夫婦がそれぞれに仕事をしっかりと持っていて、自分の仕事に生き甲斐を感じている。
子供はいないため、稼ぎは二人とも使えるので、生活には困ることはない。
いわゆるDINKSですが、アメリカに限らず日本でも増えていますよね。
鎹となる子供もいなくって、自分の稼ぎで暮らせていける時、夫婦でいる意味っていうのは、互いに持ち合う愛情だけなのでしょう。
その愛情に疑問符を持つようになってしまったら、夫婦でいられるのか・・・。
自分の相手に持っている愛情が冷めてしまったのだったら、まだいい(相手には悪いが)。
でも自分の愛情はあるのに、相手の自分に対する愛情に疑いを持ってしまったら・・・。
また自分の価値観と、パートナーの価値観のずれが埋めきれない場合もなかなか難しいところがあるのかもしれません。
これは互いに歩み寄るしかないとは思うのですが、それぞれに自分のスタイルがあればあるほどその擦り合わせというのは難しくなってくるのでしょうね。
コメディというのは笑いの中に人生というものを描くものだというのが持論だったりするのですが、まさに本作は現代の夫婦を描いていますよね。
NYに限らず、こういう夫婦は東京などでもいると思います。
相手との価値観の擦り合わせだけではなく、夫婦それぞれが自分の心の中で、自分のプライドと相手への期待値の擦り合わせをしなくてもいけないのでしょう。
たぶんそれにはそれぞれに努力が必要で、いっしょに話せるような場を普段から意識して持つようにしなくてはいけないのかもしれません。
昨日まで読んでいた誉田哲也さんの「ソウルケイジ」の中でも夫婦というものに触れている箇所がありました。
登場人物の一人がいう台詞で「夫婦とは違った色をした丸い粘土をくっつけて、丸くすること」というようなのがありました。
それぞれの色の粘土の形は夫婦それぞれによって違います。
ちょうど半分ずつ面でくっついている夫婦もいれば、どちらかが包み込んでいる夫婦もいるでしょう。
また色が完全に混じり合っている夫婦もいるかもしれません。
でもそれぞれがうまく相手と擦り合わせをして夫婦という丸い玉を作れれば、そのペアはずっとうまくやっていけるのでしょう。
まあ、一人ものの自分が言うのもなんだかですが。

監督は「ラブソングができるまで」のマーク・ローレンス。
前作でヒュー・グラントと組んでいるので息はぴったりです。
やはり彼はダメ男が似合います。
これからもずっとダメ男を演じていってほしいです(笑)。

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本 「ソウルケイジ」

好評だった「ストロベリーナイト」の姫川玲子刑事シリーズの第二弾です。
前作はかなり陰惨で生々しい事件が題材ではありましたが、本作はどちらかといえばしっとりとした情感がある作品になっています。
「ストロベリーナイト」は人間性が欠落したことによる事件でしたが、本作の事件は人の善意、人間性ゆえに引き起こされる事件となっています。
出だしの少年の一人称は「ストロベリーナイト」の冒頭を彷彿させるところがあり、またこの少年が悪意にさらされ歪んだ犯罪に向かっていってしまうのではないかという悪い予感を持ちます。
けれどもこの少年は、父親代わりとなる男に愛情を注がれ真っすぐに育ちます。
前作は人の悪意に端を発する犯罪と言えましょうが、本作は人の善意がきっかけになるというところは対称的であると言っていいかもしれません。
ですから派手さという意味では前作に及ばないところがありますが、なにか哀しい、しかし暖かい気持ちにもなれる情感があるように思えます。
そういう点で姫川シリーズというのは懐が深い作品群であると言えると思います。
前作も本作も少年少女が事件に関わります。
けれどもそれは彼らたちに真の原因があるわけではなく、周りの大人たちがそのきっかけを作っているように見えます。
少年犯罪が増えてきていて問題となっていますが、けれどもそれは大人たちがしっかりとした範を若者に見せられていないからかもしれません。

姫川玲子シリーズ「ストロベリーナイト」の記事はこちら→
姫川玲子シリーズ「シンメトリー」の記事はこちら→

「ソウルケイジ」誉田哲也著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-74668-1

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2010年3月26日 (金)

本 「1968年」

タイトルの「1968年」が自分が生まれた年であったので、それだけの理由で手に取ってみました。
内容は日本の新左翼についての話で、1968年という年がその思想・活動においての分水嶺であったということ、そしてその考えが現代の日本にも影響を与えているというような内容でした。
正直言って、僕自身はあまり新左翼といった内容については詳しくはありません。
大学が千葉であったため、成田も近いせいか、大学時代にもヘルメットをかぶった中核派は構内にいましたが、ほんと2、3人でシュプレヒコールをあげているだけであったのを、冷めた目で見てたような感じです。
世の中的にはバブル期でもあったわけで、あまり誰もそのような活動に興味を示さなかった時代なのでしょう。
本著では1968年を気に、日本の新左翼の思想、行動が変わったということが書いてあります。
しかしどうもしっくりとこない。
その時代に活動をしていた方には申し訳ないのですが、その頃の新左翼の熱狂については彼ら自身のナルシシズムを感じてしまうのです。
戦後のアメリカに押し付けられた民主主義への反発、社会が固定化されていくことへの若者らしい反発といったものはわからなくもないですが、なにかとても子供ぽさも感じます。
本著でも1968年の新左翼で革マル派が華青闘から「革命ごっこ」と指摘され、その後過激化していく様子が書かれていますが、このあたりについてもなんとも「ガキっぽい」。
以前これも1968年に起こった三億円事件を題材にした「初恋」という映画の記事を書いたとき、主人公みすずの相手役岸に同じようなナルシシズムを感じたということの述べました。
まさにこの時代の青年というのは頭はとても知識を詰め込んでいますが、以前の60年安保のような華々しいこともできず、行動が伴わない、変えられないというもどかしさがあったということなのでしょうか。
それは自暴自棄のような行動、過激な行動へ進んでいくというきっかけになったのかもしれません。
これは先日読んだ奥田英朗さんお「オリンピックの身代金」にも通じるものがあるような気がします。
冷めた目でみればそれ自体が非常に「ガキっぽく」、僕としてはまるで共感を持つことができません。
しかし戦後の日本という社会がまだ青年期であったということなのかもしれません。
その後の日本は高度経済成長期を謳歌し、バブル期で頂点へ、その後は現在に至る低迷の道に入っています。
まさに人生に例えると老年期なのでしょうか。
現在就職活動をしている世代は非常に安定志向だということ。
若者をみているとその時代性というのが表れているのかもしれません。

映画「初恋」の記事はこちら→
奥田英朗「オリンピックの身代金」の記事はこちら→

「1968年」絓秀実著 筑摩書房 新書 ISBN4-480-06323-4

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2010年3月22日 (月)

「スパイアニマル・Gフォース」 ホジ ホジ ホジ ホジ ホジ ホ Gフォース

まったく観る気はなかったのですが、予告編やCMで流れる「Gフォース Gフォース G4フォース、ホジ ホジ ホジ ホジ ホジ ホ Gフォース」という歌がどうも頭から離れなくなったので、仕方なしに(笑)観に行ってきました。
あんまりバラエティとか観ないんで知らなかったのですが、こちら吉本興業のユニット「紫SHIKIBU」の歌なんですねえ。
エンディングに流れるのかと思っていたら流れなかった・・・。
さすがにディズニーで吉本の歌はないか・・・。

ということで完全に侮りモードで観に行ったのですが、けっこうおもしろく楽しんじゃったりしたのです(爆)。
子供向けプログラム(子供が好きなうんちネタとかあり)かと思いきや、しっかりちゃんと作っています。
さすがジェリー・ブラッカイマーのプロデュース。
コーヒーメーカーが変形したり、巨大なロボット的なものも出てきたりするのは、やはり「トラ○スフォー○ー」をパロっているんでしょうねえ。
そしてディズニーの映画ということで、さすが3D映像の見せ所がわかっているアトラクション的な楽しみ方もできますので、ファミリーで観に行くには向いているのではないでしょうか。
ストーリーとしても子供向けだと思いきや、悪事の黒幕が「彼」であったりするところなどは、なかなか凝っていてよくできていると思います。
このあたり暗喩として深読みしようとすればできるのですけれど、こちらの作品の本意ではないと思いますので、やめときましょう。
悪事自体も買った家電に仕込まれているチップによって、知らぬうちにいつの間にかネットワークされてしまうなどというところなどは今日的でした。
マ○クロソ○トやイ○テルがやっていたらひとたまりもありません。

四日連続での映画鑑賞だったので、ラスト日はお気楽な作品で楽しく締められました。
来週からまたドタバタするので、しばらく映画観れないかも・・・。
SEE YOU!

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2010年3月21日 (日)

本 「犯人に告ぐ」

映画にもなりました「犯人に告ぐ」の原作小説を読みました。
読んでみると映画がかなり原作に忠実に作っていることがわかります。

ミステリー小説や警察小説は事件を解決することがひとつの物語の帰着点になります。
その過程において、犯人側の感情や動機などに語られますが、本作は犯人に対する描写が驚くほど少ないのが特徴です。
主人公巻島が以前担当し、取り逃がしてしまった誘拐事件の犯人ワシ。
そしてこの物語で巻島が劇場型捜査を行う男子殺害犯バッドマン。
彼らがなぜ犯行にいたるのかという心情というのは描かれません。
犯人像がつかめずに捜査を続けている捜査陣と同じように、読む側である読者も犯人に対する情報は持っていません。
本作は警察小説でありながらも、事件の解決が主題ではないのだと思います。
過去の自分の至らなさにより、重い十字架を背負ってしまった男を描くのが主題なのです。
若い頃の功名への欲、縄張り意識、組織の一員としてのしがらみにより、犯人の最接近していたにも関わらず取り逃がし、一人の少年を死に至らしめてしまったという悔恨を巻島は背負っています。
バッドマン事件では、巻島自身がバッシングを受ける立場になるにも関わらず、彼は黙々と捜査を続けます。
彼は何も言わず、その十字架を背負って歩くのです。
バッドマン事件は解決しました。
そして巻島は、以前解決できなかったワシ事件の被害者の少年の母親と会います。
そこで巻島から初めて口に出る思い。
淡々と冷静に劇場型捜査を続けていた巻島とは異なり、苦悶と悔恨に満ちた「すみませんでした」という言葉。
彼がずっと背負っていた十字架の重みを感じました。
読み応えのある作品だと思います。

映画「犯人に告ぐ」の記事はこちら→

「犯人に告ぐ<上>」雫井脩介著 双葉社 文庫 ISBN978-4-575-51155-0
「犯人に告ぐ<下>」雫井脩介著 双葉社 文庫 ISBN978-4-575-51156-7

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「シャーロック・ホームズ」 人間くさいホームズ

世界で最も有名な探偵と言っても過言ではない、シャーロック・ホームズ。
改めて説明するまでもないのですが、彼はコナン・ドイル卿が創作した私立探偵で、短編「ボヘミアの醜聞」で登場しました。
その後、この私立探偵は人気を博し、作品は作られ続け、「シャーロック・ホームズ」愛好家は「シャーロキアン」とも呼ばれるようになりました。
コナン・ドイルはあまりこのシリーズは好きではなかったようで、「シャーロック・ホームズ最後の事件」で宿敵モリアーティ教授とともに滝壺に落して殺してしまいましたが、その後ファンの要望で復活させたのは有名な話です。
それだけ世界各国で今でも読まれているシャーロック・ホームズは今までも映画やテレビドラマ等で数々映像化されてきました。
彼のイメージは、インパネスコートに鹿撃ち帽、そしてパイプという服装、イギリス紳士らしいたたずまいのような感じですが、これらは挿絵や映像等で作られてきたものです。
本作でロバート・ダウニー・Jrが演じるシャーロック・ホームズはそういうイメージを覆す新しさ、または違和感を感じる方も多いでしょう。
賭けボクシングに興じる肉体派的なところ(オープニングからしてホームズが疾走しているシーン)を見せたり、また自宅で数々の実験を行うマッド・サイエンティスト的なところを見せたり、躁鬱の傾向ががるのではと思えるほどむらっ気があったり。
けれども原作小説をほとんど読んでいる僕としては、これこそホームズらしいと思ったりもします。
僕はホームズの映像作品はほとんど観たことがなく、触れているのは原作小説のみで、僕のホームズのイメージは小説により醸成されたものです。
原作ではホームズはボクシングの名手と言われていますし、常識人のワトソンからみればホームズは「変人」のように描かれているのです。
ホームズの卓越した人に対する観察眼の鋭さもうまく描かれていたと思います。
冒頭のシークエンスで相手の服装からどんな人間かを見抜き、相手の出してくる手技まで読み切るところなどは、ホームズらしさをうまく描いたなと思いました。
本作でホームズのキャラクター性に追加となったのは、周囲の人への愛情深さでしょう。
原作では積み上げたロジックで事件を解き明かしていく探偵という立ち位置からか、どちらかというと事件の外に身を置くことが多かったと思います。
そのためホームズ自身を描くということはそれほどなかったのですが、本作では異なります。
友人であるワトソンが婚約して同居していたベーカー街のアパートを出て行くのをいやがったり、いつもだまされてしまうアイリーン(峰不二子みたいだよね)への想いは捨てきれなかったり、人間くさいホームズが描かれます。
超人っぽさ、変人っぽさ、人間くささを併せ持った本作のホームズに、ロバート・ダウニーJrは適役であったと思いました。

本作でホームズの敵役となるのはブラックウッド卿。
黒魔術を操り、ロンドンを恐怖に陥れ、イギリスの支配を狙おうとします。
ホームズはブラックウッド卿の黒魔術が、種のある仕掛けによるものだと看破し、彼を追います。
これは事件をロジカルに解き明かすホームズらしい話の展開だと思います。
コナン・ドイル自身は晩年は降霊術など神秘的なものに傾倒していったのはよく知られた話ですが、神秘主義的なものが流行ったのは産業革命が進み一気に社会が変わっている19世紀末のロンドンの社会の反動なのかもしれません。
敵がブラックウッド卿ということで、ホームズファンとしては「モリアーティ教授じゃないんだ〜」と思っていましたが、しっかりと出ていましたね。
次回作はあるのかな。
ぜひホームズVSモリアーティをやってほしい。
場所はやはり滝の上で。

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2010年3月20日 (土)

「NINE」 遅すぎた成長

死んだジャンルと思われていたミュージカル映画を見事復活させ、活況にしたきっかけはロブ・マーシャル監督の「シカゴ」だと思います。
僕自身もそれまではミュージカル映画というのは、劇中で突然歌いだしたりするのが不自然な感じを持っていて、どうも苦手でした。
というよりそういう先入観で、食わず嫌いだったと言っていいでしょう。
ですが、「シカゴ」はそのような不自然さを感じることはなく、逆にミュージカルシーンは役の心情を表現する格好の演出として使われていて、曲と歌と演技の相乗効果に魅せられました。
その後、ミュージカル映画が公開されると楽しみに観に行くようになりました。

さて本作、「シカゴ」のロブ・マーシャル監督ということで、ずいぶん前から予告も流れていて楽しみにしていました。
出演者も錚々たるメンバーです。
ダニエル・デイ=ルイス、マリオン・コティヤール、ペネロペ・クルス、ケイト・ハドソン、ニコール・キッドマン、ジュディ・リンチ、ソフィア・ローレン・・・。
ほんとに豪華なメンバーですよね。
冒頭のシークエンスで主要メンバーが全員出てきますから、なんともゴージャスです。

主人公グイド・コンティーニ(ダニエル・デイ=ルイス)はイタリアでは知らぬ者がいないほどの有名映画監督。
彼は自身9作目となる映画を撮ろうとしていますが、その脚本が撮影寸前になっても最初の一行すら仕上がりません。
のしかかってくるプレッシャーからグイドは逃げようとします。
彼の逃げ込み先は女。
グイドは愛する妻ルイザ(マリオン・コティヤール)がいるにも関わらず、女性関係がそうとう激しいようです。
彼にとって女性は自分を癒し、やさしく包んでくれる存在です。
それは度々劇中でもママ(ソフィア・ローレン)が重要な役柄として描かれるように、女性は彼にとって自分を庇護してくれる存在なのでしょう。
そしてまたグイドにとって女性は、欲望の対象でもあります。
その象徴となるのが、幼い頃に出会った娼婦サラギーナ(ファーギー)です。
彼は女性を引きつける魅力を備えている上に、自身の欲望に忠実な男です。
彼の名のグイドはGREED(欲望)にかけてるのでは?と思ったほどです。
つまり彼にとって女性は自分を守ってくれる逃げ場であり、そして同時に征服欲を満たす狩り場でもあったのです。
そういう意味でグイドは非常に精神としては幼いままにずっと生きていた男であったと言えるでしょう。
大人への成長が遅すぎたのです。
逃げ込む先を確保しながら、心に浮かぶ欲望のままに生きてきたグイドは、それらを満たすようになり己の中に伝えたいものが何もないという事実に愕然としたのでしょう。
映画に限らず、何かを作り出す衝動というのは誰かに伝えたいものがあるという欲求に発します。
彼の欲求はいままで誰かから(愛を)奪うことのみでした。
伝えたい、与えたいという欲求がないということに彼はおののいたのだと思います。
けれども唯一グイドが特別に想いを伝えたいと思っているのは、妻であるルイザであるのでしょう。
しかし彼は想いを伝えるということをしてこなかったため、相手の気持ちを思いやることができません。
けれどもルイザとの別れを経験し、グイドはやっと大人になりました。
2年振りに新作映画を撮ろうとするグイドのバックには彼が今まで出会ってきた女性たちが並び揃います。
彼女たちは過去の存在でありますが、彼を大人にした存在でした。
そしてルイザは想い出の彼女たちの中にはいらず、舞台の影からグイドを見守ります。
これはルイザだけはグイドにとって過去の存在ではなく、現在・未来と愛する存在であり続けるということを表しているのでしょう。

ミュージカルシーンはやはり見応えがありました。
特に「Be Italian」の曲が流れるシーンは、緩急がきいたテンポ、躍動的な肉体の動きにやはり魅せられました。
しかし、ミュージカルシーン以外のところはややテンションがさがり、もたもたした感じがあったような気もします。
このあたりのメリハリがつきすぎているところがやや残念な感じもしました。

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「プリンセスと魔法のキス」 ウキウキワクワクがディズニーのDNA

ディズニーがピクサーを買収し、ピクサーのジョン・ラセターがクリエイティブ・オフィサーとしてディズニーに乗り込んでくることとなったとき、戦々恐々としたのは従来型の手描きアニメ部門ではなかったでしょうか。
アメリカのアニメは主流は3DCGアニメに映ってきており、それを推進してきたのがピクサー社であったのですから。
けれどもジョン・ラセターはすぐに手描きアニメ部門のてこ入れを開始しました。
そこでできた作品が本作の「プリンセスと魔法のキス」です。
本作はディズニー伝統でお家芸となっている「プリンセス」ものの一つになるでしょう。
けれども主人公ティアナは正真正銘のお姫様ではなく、ニューオリンズに住み将来自分の店を持とうと夢見て働いている貧しい女性です。
本作は良い意味でディズニーが連綿と継承してきた、ディズニーらしさというものを引き継いでいます。
ミュージカル仕立てでテンポの良い映像は観ていて、ウキウキワクワクしてきます。
このウキウキワクワク感というのは、ディズニーランドに行ったときに味わうようなもので、ストーリー性というよりは現実を離れて、しばし夢の世界に浸るといったようなものだと思います。
最近、仕事でディズニーの方とお話しする機会があったのですが、彼らが大事にしているのは、物語性・世界観です。
創作された世界に観る者、触れる者がいかに浸れるかということを考えているというところに、感銘を受けました。
このあたりは数あるキャラクタービジネスを行っている会社とは大きく異なるような感じがしました。
とはいえガチガチではなく、物語性・世界観をきちんと守っていれば、思いのほかチャレンジャブルであるということも他にはないところだと思います。
チャレンジャブルと言えば、本作でもニューオリンズが舞台になっているため、音楽はジャズベースが多くそのあたりは今までの作品とは異なるような感じがします。
けれどもそれにより作品自体がテンポがアップしていてウキウキ感が高まります。
思わず音楽にあわせてステップを踏みたくなるような場面がいくつもありました。
この辺がやはりディズニーワールドへの没入感なのでしょう。
カエルの王子に王女がキスをしたら魔法が解けて人間に戻るというおとぎ話は有名でよく知っていましたが、本作はうまくアレンジをしていましたよね。
王子にキスをしたらキスをした本人もカエルになってしまったという設定が秀逸でした。
日頃ディズニーはあまり観ない(特にプリンセスもの)僕としては、この場面を予告で観ておもしろそう!と思いました。
ラストも気が利いていて、ハッピーな気分で終われたので良かったです。
こういうウキウキワクワクな映画を、ディズニーには作り続けてほしいですね。

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2010年3月16日 (火)

本 「バグダッドの秘密」

先日「ミステリーの人間学」という本を読んで、久しぶりにアガサ・クリスティーのことを思い出して、本作を読んでみることとしました。
アガサ・クリスティーについては学生の頃、がっつりとはまってしまい、ポアロもの、マープルもの、その他有名な作品は読破してしまっているので、読んでない作品を探すのはたいへんであったりするのですが。
読んでいない作品の中の一つ、こちら「バグダッドの秘密」はミステリーというよりはスパイものになるかもしれません。
とはいえ、主人公が異国の地で出会う殺人事件に端を発し、その事件を解決していくというのはアガサ・クリスティーの典型であると言っていいでしょう。
異なると言えば、ポアロやマープルは探偵役であるが故に事件の傍観者にならざるを得ませんが、本作の主人公ヴィクトリアは事件に巻き込まれながら、その謎を解き明かすという役回りになっています。
とはいえ、アガサ・クリスティーのテイストは同じように出ているので、アガサファンの方は楽しんで世でいただけると思います。
アガサ・クリスティーの作品というのは古典と言ってもいいほど前に書かれたものですが、今の時代に読んでも人物は活き活きと描かれ、わくわくとしながら読めるというのはやはりすごいと思います。
ミステリーは好きだけど、古典には手が伸びないという方はぜひアガサ作品に一度手を触れてみてください。
おもしろいこと、請け合いですよ。

「バグダッドの秘密」アガサ・クリスティー著 早川書房 文庫 ISBN4-15-130088-0

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2010年3月14日 (日)

「時をかける少女(2010)」 いろんな意味で懐かしい

仲里依紗さんという女優を始めて知ったのは2006年のアニメ版「時をかける少女」の時。
仲さんは真琴という喜怒哀楽の激しい現代っ子を元気溌剌に演じていて印象的でした。
その後、みるみるうちに様々な作品に出演して今となっては注目される若手女優になっていますよね。
その仲里依紗さんが実写版の「時をかける少女」の新作の主演を務めるということですので、観に行かないわけにはいきません。

物語はアニメ版の実写ということではなく、原田知世さんの「時をかける少女」の後日談というところでしょうか。
仲さんが演じるのはオリジナルの主人公芳山和子の娘、あかり。
和子は研究者となっていて、自主研究として密かにタイムリープの薬を作ろうとしています。
あの時の深町との約束のために。
薬ができたとき和子は交通事故にあってしまい、娘のあかりがタイムリープをし、深町にメッセージを伝えようとします。
1972年に飛ぶ予定が、間違ってあかりがたどり着いたのは1974年。
あかりは少ない手がかりを元に、その時代の深町を探し出そうとします。
舞台となるのは1974年、僕がちょうど小学生に入った頃でしょうか、描かれる時代はなにかしら懐かしい気がします。
この作品を観て思ったのは、この「懐かしい」という印象です。
それは描かれている時代が僕の子供の頃の時代であるということもそうなんですが、作品そのものの作り方が何か昭和の頃のようなテイストを感じるのです。
薬師丸ひろ子さんや原田知世さんが主演をしていたころの80年代角川映画のテイストです。
本作の監督の谷口昌晃さんはこちらがデビュー作で生まれは1966年とことなので、まさに角川映画の洗礼を受けた世代だと思います。
その影響が出ている感じがしますね。
ストーリーもオリジナルとは異なりますが、記憶はなくなっても心の中に大切な人の存在が確かに残っているという骨子は全く同じなので、あの時の切なく感じたものを同じように感じました。
時間というルールの間で裂けられなくてはいけない淡い想いの切なさというのはオリジナルから引き継いでいたように思います。
忘れてしまっても、確かにあかりの心の中に涼太は残っているわけなんですよね。
フィルムを観ながらほろりと涙を落す仲さんにはこちらもほろりと来てしまいました。
母親の芳子の心にも深町が存在してその後の薬学研究者への道へ導いたように、もしかするとあかりは将来映画制作の道に歩むのかもしれないなとも思ったりしました。

もう一つ、懐かしかったのが8ミリのカメラと編集機。
本作に登場する涼太と同じく、僕も大学時代は8ミリで映画を撮っていました。
僕らが撮っていたとき既に代々受け継いできていた年代物でしたが、ああいう手回しの編集機で編集していたんですよねえ。
これも無茶苦茶懐かしかったです。

仲さんはクォーターということで非常に整った顔立ちをされているのですが、けっこう顔を崩す演技(ヘン顔)をしたときの表情がかえってかわいいんですよね。
アニメの真琴は元気イッパイで泣く時も「ワーン!」という感じでしたが、こちらの作品のほろりとした涙も良かったです。

アニメーション映画「時をかける少女(2006)」の記事はこちら→

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2010年3月12日 (金)

本 「アメリカの論理」

本著は2003年に出版されているので、内容が言及しているのはブッシュ政権までです。
現在のオバマ政権が誕生しているということには触れていません。
ブッシュ政権当時は批判がありつつも、9・11以降は国民の支持率が高かったということを念頭に読むべきでしょう。
僕個人としては、ブッシュ政権の単独主義(例えば京都議定書離脱とか、イラク戦争とか)というものに対しては違和感を感じて、なぜアメリカはそのような自分勝手なことをするのだろうかと思っておりました。
けれどもそれを理解するにはタイトルにあるように「アメリカの論理」というものを理解しなくてはいけません。
アメリカ以外の国が感じている違和感と同様のものをアメリカは感じているわけではなく、彼らの論理に基づき彼らは行動しているのです。
著者も冒頭で「視点をワシントンDCに置いて、アメリカ人的な思考で世界を捉えること」が大事であると述べています。
これはまさにその通りで、アメリカの行動を理解するには、僕たち日本人の論理で考えるのではなく、アメリカ人の論理で考えるべきなのです。
そうすれば彼らの行動の理由(正しいか正しくないかは別にして)が理解でき、そうすれば彼らが次にどのように行動するであろうか予想もつくわけです。
相手側の視点に立ってまずは理解するというのは、国家戦略に限らず、すべてのことにおいて大事だと思われます。
ビジネスにおいても、得意先、または競合相手がどのような論理で考えているかということをまずは把握するのが、次の1手に繋がるのだと思います。

「アメリカの論理」吉崎達彦著 新潮社 新書 ISBN978-4-10-610007-9

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2010年3月10日 (水)

本 「オリンピックの身代金」

これはよくできた作品です。
最近映画では昭和ノスタルジーものといった感じの作品がよく作られています。
高度成長期の昭和という時代に対するノスタルジー、つまりは美化みたいなものを感じたりもしますが、本作はそれだけでなく、あの時代より前、そして現在まで続く日本人の性質みたいなものを描いているような気がします。
本作では犯人はオリンピックに関わる場所へ爆弾をしかけ、それにより政府より大金をせしめようとします。
物語は犯人と、それを追う警察、そして犯人の関係者という複数の視点で展開していきます。
その中で浮き彫りになってくるのが、「もはや戦後ではない」と言われ高度成長を謳歌した日本という国の明るい部分と暗い部分の格差です。
現在において東京と地方の「格差」の問題にフォーカスがあたっています。
あの時代は国民総中流化と言われ、格差がなかったかのように思われますが、本作でも描かれているように東京と地方の格差は今よりもずっとずっとあったわけです。
僕が生まれたのは東京オリンピックよりもすこしあとなのですが、思い返せば当時は風呂は石炭で湧かしていました。
たぶんびっくりする方も多いかもしれませんが、当時は全然普通だったりするのです。
日本という国は、みんな同じレベルと思いがちなのですが、実はずっと前から「格差」というものはあったということなのです。
また本作が浮き彫りにしているのは、日本人という国民の対応力・適応力の高さでしょう。
これはいい意味でも、悪い意味でもです。
戦後の焼け野原から15年でオリンピックを開催できるまでに力をつけた日本というのは、戦前の社会システムから大きく変化があったにも関わらず見事に適応し、国力をつけてきました。
これは明治維新時の適応力も同様だと思います。
またバブル景気以降の「失われた10年」で日本人は低成長とういうものを受け入れ、それに適応したとうのは海外からみても驚くべきことと言われています。
日本人という民族は社会の激変に対し、それになんとか社会全体がうまく対応してしまうというのが性質であるように思います。
ですので、日本においてマルクス主義的な「革命」というのはなかなかに難しいと感じるわけです。
本作の犯人島崎というのは、先の「格差」においては東京と地方の狭間におり、また国家から市井の国民、果てはヤクザまでが東京オリンピックを賛辞する状況において、唯一その実施に疑問をもつ人物でもあります。
島崎は、ある種の右へ倣え的な性質を持つ日本人という民族のアウトサイドに立つ人物として描かれているように思います。
彼の存在が、日本人の性質をより明確に浮き彫りにしていると思います。
以上のことがこの作品がよくできていると評するポイントなんですが、もちろんエンターテイメント小説としても完成度は高いと思います。
作品としてはボリュームがありますが、読み応えのある小説と言っていいでしょう。

「オリンピックの身代金」奥田英朗著 角川書店 ハードカバー ISBN978-4-04-873899-6

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2010年3月 9日 (火)

本 「嗤う伊右衛門」

本作映画化(こちらは未見)もされましたが、有名な四谷怪談を元にした京極夏彦さんの作品です。
四谷怪談といえば、こちらも数々の映像作品にされている物語で、貞女お岩が夫伊右衛門に裏切られ、毒薬に顔を醜くされた上、死に至り、その後伊右衛門のところに祟って幽霊として出てくるというストーリーになります。
本家の物語は伊右衛門は自分の欲を優先し他人を不幸にする悪人として描かれています。
けれども、本作では伊右衛門はストイックすぎるぐらいにストイックである男として描写され、また岩もただの貞女ではなく、誇り高い激情の女として造形されているところが新しいところとなっています。
オリジナルと異なり、伊右衛門も岩も互いに相手のことを愛しているのにも関わらず、彼らが元々持っていた価値観、性格によって、相手に対する愛情表現を上手にすることができず、たがいにすれ違い、愛情があるゆえにわだかまりが大きくなっていく過程を描いています。
欲望に支配されているのは、逆に彼らの周りに登場する人物たちであり、彼らの思惑により伊右衛門と岩の間の溝も大きく広がっていってしまいます。
本家の四谷怪談は江戸時代ならではの夫婦の関係をベースにしている物語で、その時代においてはリアリティがあったと思います。
本作は舞台は江戸時代に置きながらも、岩の性格を現代女性のように自我が強い人物として描いたことにより、現代にも通じる物語になっているようになっていると思います。
伊右衛門と岩は互いに情があるにも関わらず、相手へのコミュニケーションの術を知らないという二人であり、これは現代の人々にも当てはめることができるでしょう。
ですので、伊右衛門と岩の感情がすれ違い、しだいにずれていく様は妙にリアリティがあるように感じました。
四谷怪談を大胆に翻案し、現代に通じる物語によく仕上げたなあと感心した作品でした。

「嗤う伊右衛門」京極夏彦著 角川書店 文庫 ISBN4-04-362001-2

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2010年3月 7日 (日)

「コララインとボタンの魔女 3D」 ヒトリボッチの世界

昨年末の「アバター」は3D映像をコンピューターを駆使することによってすごくナチュラルに描きましたが、本作は3Dといってもコンピューターとは正反対のアナログなストップモーション・アニメーションで作った作品です。
コンピューターによる表現がいかに進んだと言っても、苦手とするところはテクスチャー表現です。
髪の毛や布地はなかなかコンピューターでは難しい。
髪の毛は一本一本描くというよりは、それらしくテクスチャーを貼付けて表現せざるをえません。
本作は人形を使ったストップ・アニメーションであり、冒頭からわかるように布で作った「人形」が一つのファクターになるわけですから、このあたりのコンピューターが苦手とする質感はしっかりと出ていたように思えます。
ストップモーション・アニメーションならではのちょっとカクカクした動きって好きなのですよね。

主人公のコララインは新居に引っ越してきたばかりの少女。
両親は共に園芸誌のライターで仕事がとってもいそがしくて、かまってくれません。
近所に住んでるワイビーという少年はなんだか意地が悪そうだし、きれいに花で飾ろうとした庭もほったらかしのまま。
なんもかんも思うようになっていない状況にコララインはいらいらとしてしまいます。
このあたりなんだか「かいじゅうたちのいるところ」を思い浮かべてしまったりします。
そんなとき新居の壁に塞がれた小さなドアを、コララインは発見します。
興味津々でコララインがそのドアをくぐっていくと、そこには理想的な我が家が。
自分をやさしく世話をしてくれる別のお母さんと別のお父さん、やさしい別のワイビー、きれいな庭。
とても居心地がよく、ずっとここにいたいとコララインが思ったとき、別のお母さんはある条件を出してきます。
それは目をボタンに変えること。
そう、その世界はボタンの魔女がコララインを自分のところにつれてくるための罠だったのです。

僕は主人公のコララインよりも、このボタンの魔女に興味を持ちました。
吹き替えをしていた戸田恵子さんが上手かった
そういえばコララインの声の榮倉奈々ちゃんとは以前ドラマ「ダンドリ。」でも親子役でしたね。
コララインが越してくるまでは、ボタンの魔女はあの世界でどのように暮らしていたのでしょう。
以前に連れてきた子供たちはすでに幽霊となり、他にはだれもいない世界。
ヒトリボッチの世界。
それは想像すらできない寂しい世界に違いがありません。
嘘をついて、自分の思い通りにしてしまうボタンの魔女は悪役には違いはないですが、なにかしら憎みきれない切ない感じを彼女は持っています。
ずっと寂しい世界に一人きりでいて、どんなに誰かと一緒にいたい、どんなに人を愛したいと思ったでしょう。
けれどそれはずっと叶えられることなく時はすぎていく。
だからこそボタンの魔女はあんなにも意地悪で、嘘つきになってしまったのでしょう。
それは寂しさの裏返し。
だからこそコララインがやってきたときはほんとに嬉しくて、別のお母さんになってかいがいしく自分の子供として世話をみたのだろうと思いました。
おとぎ話としては最後はめでたしめでたしなんですけれど、あのヒトリボッチの世界でまたずっと一人でいなくてはいけないボタンの魔女がちょっとかわいそうになりました。

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2010年3月 6日 (土)

「ハート・ロッカー」 戦争の負の遺産

いやはやえらい久しぶりの映画鑑賞です。
こんなに劇場に行かなかった期間が長かったのは久しぶり・・・。

さて今回観賞した作品は「アバター」のジェームズ・キャメロンと元夫婦同士でアカデミー賞を争っているキャスリン・ビグロー監督の「ハート・ロッカー」です。
キャスリン・ビグローと言えば、僕が好きな「ハートブルー」を撮った監督ですが、並の男性監督も叶わない、女性とは思えないほどのハードボイルドな雰囲気が特徴です。
ジェームズ・キャメロンはどちらかというととてもロマンティックというか少年の心を持ち続けている監督のように思えますが、キャスリン・ビグローはとても現実主義者という感じがします。
彼女の作品はとても男性的に見えますが、それは女性のリアリストから客観的に観た現実の姿なのかもしれません。
男性は戦争と言っても、映画ではロマンを求めてしまったりするところがあるような気がします。
「アバター」の戦争シーンのヴァーチャル感と、本作のリアリティ感の差を比較してもおもしろいかもしれません。

邦題が「ハート・ロッカー」を聞いて、僕はてっきり「ハート=heart」、「ロッカー=rocker」と思っていたら、正しくは「ハート=hurt」、「ロッカー=locker」だったんですね。
日本人は「r」と「l」の発音が区別できないという典型です(悲)。
「hurt locker」とは軍隊のスラングのようで、「行きたくない場所=棺桶」という意味があるということです。
本作においては、「hurt locker」は先行きの見えないイラク戦争まっただ中のバグダッドのことを意味します。
物語の中心にいるのは、イラクに派兵されている爆発物処理部隊であるブラボー中隊です。
物語冒頭にブラボー中隊の班長が処理中の事故により殉死し、新しく赴任してきたのはジェームズ軍曹。
米軍に対する爆破テロが頻発するバグダッドは、ブラボー中隊にとってはまさに常に死と向かい合わせになっている場所です。
毎日のように不発弾の処理や、仕掛けられた爆弾の解体作業があります。
彼らは日常業務として毎日爆弾を処理し続けます。
日常的に行われる作業であっても、それは爆弾の解体作業であり、何か不手際があればそれは死に直結するというストレスが彼らにのしかかります。
本作は2時間越えの尺ですが、全編を彼らが感じているストレスと同じようにずーっと通奏低音のように緊張感が持続していて、長いと感じることがありません。
まさにその作品を貫く緊張感は彼らブラボー中隊が感じているストレスを疑似体験しているように思えます。
生死にかかわるようなストレスを常に感じ続けなくてはならないブラボー中隊の面々は、その影響を受け、エルドリッジ技術兵は精神的に不安定になっていますし、またサンボーン軍曹は規律を非常に重んじ行動します。
そのような彼らに対し、ジェームズ軍曹は大胆であり、一人で防護服をつけずに爆弾の解体作業を行うということをやってのけます。
彼は英雄と賛辞されますが、それに本人は戸惑っているような様子もあります。
彼はスタンドプレイヤーでは決してなく、ただその生死を分けるような緊張感のただ中にいるということが彼にとって生きているということを感じているように思えます。
結果ではなく、それを行うスリルこそが目的というのは「ハートブルー」でパトリック・スウェイジが演じたボーディと通じるものを感じます。
とはいえジェームズが非人間的な戦闘マシーンのようであるかというとそうでもありません。
彼は妻と離婚している(と本人は言っている)ということですが、妻子のことを思っていないわけではありません。
また基地の近くでDVDを売っているイラク人の少年との交流もします。
彼がただの冷血人間ではないということがわかります。
戦争が行われている場所は、生と死があまりに自分の近くにあるためにそこからくるプレッシャーに、何かしら人間は対応しようとします。
エルドリッジはそれがうまくできずに不安定になり、サンボーンはそれを規律に求めます。
けれどもジェームズはそのストレス自体を受け入れ、それ自体をあまり感じないようにするということで対処したのでしょう。
僕が「ハート・ロッカー」を「heart rocker」(心に鍵をかける人)だと思っていたのも、あながちずれていないような気もします。
ジェームズは戦場ではない場所でそのストレスがない状態のとき、彼は「生きている」ということを感じにくくなっていたのだと思います。
任務明けで妻子のいるアメリカに帰国したとき、たくさんの商品が並ぶスーパーマーケットで彼が呆然と立ちすくむ姿はそれを表していました。
物語の冒頭に「戦争は麻薬と同じである」といったような意味の言葉が出ますが、まさにこの物語はそれを表現していると思いました。
ジェームズは再び志願をして、戦場に赴きます。
彼自身が生きているということを実感するために。
イラクへの派兵が終結したとき、生死が密着した場ではないと生きていることを実感できない彼はいったいどうするのでしょうか。
これも戦争の負の遺産なのかもしれません。

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