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2010年2月28日 (日)

本 「サクリファイス」

最近はエコブームからか、自転車の注目度が高くなっていて、通勤等で日常的に使う人も多くなってきたと思います。
そういった日常使いの自転車とは、真逆にあるのがスポーツとしての自転車競技、ロードレース。
世界的に有名な大会は「ツール・ド・フランス」で、こちらはニュースでご覧になったことが多いでしょう。
自転車ロードレースというのはチーム競技ですが、中でも他のチーム競技と異なるのは、チームのエースを勝利するために他の選手がいるということ。
ロードレーサーともなるとその速度は自動車並みにはなるので、その空気抵抗はかなり強い。
その状態で100キロも走ればたちまち体力は失われてしまいます。
そのためチームのアシストは、エースを勝たせるために風よけとしてその前を走ったりします。
またエースのバイクがパンクした場合、自分のタイヤを提供してでも、エースを走らせようとします。
まさにアシストはエースのための「サクリファイス(犠牲)」となるのです。

本作の主人公、誓(ちかう)はインターハイでもいいところにいけるほどの陸上選手でした。
けれども周囲の期待に応え、勝ち続けなければいけないプレッシャーを厭い、自転車競技に転向しアシストとなったのです。
スポーツと言うと一番をとることが目的と思われがちですが、すべての人がそれを求めているのではないと思います。
スポーツに限らず、勉強でもビジネスでも同じこと。
僕も実はあまり一番になるのは好きではありません。
注目を浴びるのがあまり好きではないのです。
ですので、誓の気持ちというのにとてもシンパシーを感じてしまいました。
誓はエースのサクリファイスになることで、自分も達成感を感じることができました。
けれども本作で起こる事件により、自分自身も誰かの犠牲の上に立っているということに気づきます。
そしてその犠牲のために、自分も飛び出していかなければいけないことにも。
僕も仕事をしていてそういうことに気づく時がありました。
デザインのディレクターをしていても、すべてを自分でやることはありません。
デザイナーでございというほど我も強くないので、チームとしてやっていく方が好きなのです。
でもチーム外の人と何かを打ち合わせするとき、僕が背負っているものを強く感じる時があります。
いっしょにやってくれている人たちのためにも、ここは前に出なくてはいけないと思うときが。
前に出るのは好きではないのですが、自分のためだけにではなく、前にでなくてはいけない時があるんですよね。
「犠牲」は与えられた方がしっかりとそれを受け止めなくてはいけない、そういう責任があるということを、誓も学んだのだと思います。

本作、スポーツ小説としても、青春小説としても、ミステリーとしても読み応えあります。
とはいえ取っ付きにくいところもないので、お薦めの作品です。

続編「エデン」の記事はこちら→
第3作「サヴァイヴ」の記事はこちら→

「サクリファイス」近藤史恵著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-131261-3

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2010年2月26日 (金)

本 「ミステリーの人間学 -英国古典探偵小説を読む-」

最近の休日は、私事でドタバタしていて、映画を観にいけていません〜。
なのでこのところブログの記事は本の感想が続いてしまっています。
本ならば、どこでも読めますからね。

本著はタイトルにあるようにイギリスの古典探偵小説が、人間をどのように描いているかということを解説している本です。
ミステリーという分野は時代や地域によっていろいろなタイプの作品があります。
謎解きをメインとしたいわゆる「本格」と呼ばれる作品群であったり、松本清張などを代表とする「社会派」というジャンルもあります。
このようにミステリーという分野の中でいろいろな作品がありますが、そもそも「ミステリー」とは何ぞやというときに、本著の冒頭でフォースターの言葉が紹介されています。
これは「ストーリー」「プロット」について語った言葉なのですが、わかりやすいので紹介します。
フォースターは「ストーリー」とは時間の順に配列荒れた出来事と定義しました。
「王が死に、それから女王が死んだ」というのは「ストーリー」。
「プロット」とは出来事を語ったものであるが、因果関係に重点が置かれているもの。
例えば「王が死に、悲しみのあまりに女王が死んだ」となると「プロット」になります。
そして「女王が死んだ。おその理由を知る者は誰もいなかったが、やがてそれは王の死に対する悲しみのゆえであったとわかった」となると「ミステリーを含んだプロット」となります。
ポイントは「ミステリーを含んだプロット」は「それから?」「なぜ?」と問いたくなるということです。
ミステリーというと「戦争もの」とか「歴史もの」といったようなジャンルという感じを受けるかと思いますが、そもそも優れた物語というのは「ミステリー」を含んでいると言っていいでしょう。
イギリスの古典探偵小説と言えば、コナン・ドイルやアガサ・クリスティーがあがりますが、本著の著者はディケンズもこの系譜に入れています。
ディケンズの時代はミステリーが一つのジャンルとして成立はしていなかったですが、そもそも優れた小説というものが内在するものとしてミステリーがあり、それをディケンズにも感じるということです。
確かにおもしろい作品は小説にせよ、映画にせよ、「それから?」「なぜ?」と問いたくなるものが多いですよね。
起こってしまったことの因果を知りたいというのは人間が持つ本能なのかもしれません。
なかでもイギリスの古典探偵小説は、人間という存在を見つめて謎を解くというアプローチが強いということです。
確かにアガサ・クリスティーの小説は、トリックもさることながら、登場人物の人間性と関係性が作品の魅力だったりします。
アガサ・クリスティーの小説は一時期すごくはまってほとんど読んでしまったのですが、本著を読んでまた久しぶりに読みたくなりました。

「ミステリーの人間学 -英国古典探偵小説を読む-」廣野由美子著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431187-4

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2010年2月21日 (日)

本 「ボーン・コレクター」

デンゼル・ワシントン、アンジェリーナ・ジョリーで映画化もされた作品です(映画の方は未見ですけれど)。
いわゆるサイコキラーが出てくる猟奇殺人事件が題材になりますが、これがなかなかにおもしろい。
主人公ライムは元NY市警の科学捜査の専門家ですが、事件捜査中の事故により首から上しか動かせない重度の障害を持つ身となり、一線を退きます。
まさに身を動かせないロックアウト症候群の一歩手前(かろうじてしゃべれるので、毒舌は激しい)という状況のため、ライムは自殺すら望みます。
けれどもNYで猟奇殺人事件が発生し、その科学捜査の知見を買われ捜査に加わります。
ライムは文字通り自分は動かずに証拠により捜査をするアームチェア・ディテクティブそのものです。
その推理は心理学的というよりも、物理的証拠とデータベースによる緻密な積み上げ型の捜査で、海外ドラマの「C:S:I」シリーズや「BONES」の元ネタとも思えるような感じがあります。
そのライムの手足となって捜査を行うのが、アメリアという女性巡査。
彼女は行動的であり、頭もよくライムの鑑識に関する知識を吸収し、現場を捜索します。
ライムは壮年男性であり、アメリアは若く美しい女性。
ライムもアメリアも互いに魅かれ合いますが、それが男女としてか、師弟としてか、友情としてかの微妙な感じの関係性が物語に適度なテンションと、和やかさを持たせてくれます。
ライムは半身不随なので絶対に男女の関係にはならないわけですので、このあたりのプラトニック(にならざるを得ない)なところがいいです。
事件の捜査と、アメリアという存在により、ライムが生きることに希望を持っていく展開もいいです。
こういうミステリーはバディものが多く、ホームズ&ワトソンに限らず魅力的な作品がありますが、本作のライム&アメリアも非常に見事なコンビだと思います。
なので映画のアンジェリーナ・ジョリーはイメージがぴったりなのですが、ライムのデンゼル・ワシントンは少々若い感じがします。
モーガン・フリーマンくらいで丁度いいかなあ。
ミステリーとしても最後の方は非常にストーリーの展開が早く、またドンデン返しが重なって、ページを繰るのがもどかしくなるほどです。
なかなかに読み応えがあるミステリーでした。
ライム登場の作品は本作以降もシリーズ化されているので、こちらも読んでみたいと思います。

「ボーン・コレクター<上>」ジェフリー・ディーヴァー著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-766134-9
「ボーン・コレクター<下>」ジェフリー・ディーヴァー著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-766135-7

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2010年2月19日 (金)

本 「ストロベリーナイト」

最近お気に入りの作家、誉田哲也さんの姫川玲子シリーズの第一作「ストロベリーナイト」を読んでみました。
僕は誉田さんの作品は「武士道シックスティーン」から入りましたが、作品の魅力はその物語のキャラ立ち具合でしょう。
ちょっと行き過ぎるとコミックやライトノベル的になってしまうギリギリのところでキャラクターを立たせるところのが上手な方だなと思いました。
その後「ジウ」シリーズを読んでみたのですけれど、女性警官二人のダブル主役ということで「武士道シックスティーン」的な物語と思って読んだら、けっこうハードな内容で驚きました。
キャラクターの立ちは誉田さんらしくしっかりありますが、題材となる事件そのものはかなり陰惨で。
キャラ立ち具合と、陰惨な事件というとかなり食い合わせが悪い感じのような気もしますが、不思議と誉田さんの作品はそのバランスが絶妙にとれているような気がします。
本作「ストロベリーナイト」も起こる事件そのものはかなり陰惨ですし、描写としてもかなりゲッとなるところがあります。
けれども、主人公姫川玲子を始め、登場するキャラクターはそれぞれ個性的なキャラクターであり、その陰惨さみたいなものとバランスをとっていると思います。
キャラクター力と、物語力で、ストーリーをグイグイと引っ張っていく力が誉田さんの作品にはありますね。
本作はそのあたりが好評を得たようで、シリーズ化となっていて現在4作品となっています。
本作以降のシリーズについても今後読んでみたいと思います。

テレビドラマ「ストロベリーナイト」の記事はこちら→
姫川玲子シリーズ「ソウルケイジ」の記事はこちら→
姫川玲子シリーズ「シンメトリー」の記事はこちら→
誉田哲也さん作品「武士道シックスティーン」の記事はこちら→
誉田哲也さん作品「ジウ」の記事はこちら→

「ストロベリーナイト」誉田哲也著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-74471-7

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2010年2月14日 (日)

「食堂かたつむり」 倫子の「言葉」

人間には五感があります。
これはすなわち、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚です。
これらの感覚を通じ、人は周囲の環境を認識し、そしてまたコミュニケーションするのです。
人と人とのコミュニケーションにおいて、最も重要になるのは聴覚を通じた「言葉」によるコミュニケーションでしょう。
特に自分の気持ちを伝えたいと思った時は、「言葉」に頼らざるを得ません。
けれど「言葉」で全て伝えられるかというと、そうでもありません。
「言葉」というものは意味を表したものであるが故に、逆にモヤモヤしてどうにも表しにくい感情というのを伝えるにはなにかもどかしいときもあります。
まさにこれは「言葉足らず」であったり、「言葉にできない想い」というものですね。
たぶん本作の主人公倫子は、夢が破れたときの想いをぶちまける言葉が見つからず、それを呑み込んでしまい、声を失ってしまったのでしょう。
また母親のルリコは娘への溢れるばかりの愛情を持っていながらも、それを言葉で表すことができず、ついつい憎まれ口を叩いてしまったのでしょう。
親子は互いに思い合っていながらも、それを相手に伝えられない。
「言葉」というものは、便利なようであって、けれどもなんともどかしいものなのでしょう。
ですが、人と人とのコミュニケーションは何も「言葉」によるものだけではありません。
ボディランゲージなどはまさに視覚を通じた意志の伝達ですし、またスキンシップというのは触覚を通じたコミュニケーションです。
同じように味覚や臭覚もコミュニケーション手段の一つになり得るのでしょう。
倫子は「言葉」を失いましたが、そのぶん味や香りで人の心に何かを訴えることができました。
彼女はとても素直でやさしい気持ちの持ち主です。
お客さんひとり一人のことを思いやる気持ちが、その日のメニュー、その味、香りに表れてくるのでしょう。
それがお客さんの心を打つのです。
言葉がない分、一所懸命倫子は想いを料理を通じて伝えようとするのです。
料理は倫子にとっての「言葉」。
想い溢れる「言葉」が頑であったお客さんの心を開き、それが「夢が叶う」ことに繋がっていったのだと思います。
妻へ連絡をとる勇気がない熊さん、好きな人に告白できない桃、愛した人を失い沈んでいるお妾さん。
彼らは倫子の料理という「言葉」の励ましを受けて、勇気を持つことができたのです。
ひるがえり、僕たちは「言葉」という表現方法を持っていながら、倫子にとっての料理のように大切に扱っているのかとも思ってしまいます。
相手のことを思いやって、「言葉」を発しているのかと。
物語のラストでのルリコから倫子への手紙には胸を打たれます。
文章としては拙いものだったりもしますが、その「言葉」にはルリコの倫子への深い愛情が感じられます。
倫子の料理、ルリコの言葉。
相手に想いやり、それを伝えてあげることこそが、コミュニケーションにおいて大事なことだと再確認しました。

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2010年2月13日 (土)

「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」 初しんちゃん

先日、親しくさせていただいているブロガーさんの方々と飲む機会があったときに、強くお薦めされた作品です。
ご存知の通り、昨年実写作品として公開された「BALLAD 名もなき恋のうた」のオリジナル作品になります。
「オトナ帝国の逆襲」と並び、名作だという話は以前より聞いていたのですが、なにせ「クレヨンしんちゃん」そのものを一度も観たことがないということもあり、なんとなく避けていたのです。
ノラネコさん、えいさん、やっと観ましたよ。

「BALLAD」を先に観てしまっていたのですが、とてもオリジナルに忠実に作っていたのだなと確認できます。
又兵衛と廉姫の悲恋が主軸となっている物語は、実写版で結末は知っているとはいえ、やはりラストはとても切なく感じました。
本作と実写版で大きく異なる点は、やはり主人公しんちゃんの年齢でしょう。
その年齢そしてそもそもの性格の違いにより、物語での役割が違っていたと思います。
実写版の真一は小学生という年齢からくる客観的視線を持っているということ、またとても理性的な性格として描かれているので、ある意味観客と物語とを繋ぐ役割を持っていたと思います。
基本的には真一主観で、彼が観たこと、思ったことを描いている物語に「BALLAD」はなっていたと思います。
オリジナルのアニメではしんのすけは幼稚園生であり、そしてあのような性格であるがゆえに、この戦国時代の物語においては闖入者という立場になります。
けれども彼のもつある種の無垢さというものは、戦国時代のルール、すなわち人の生き方というものに率直に疑問を投げかけます。
実写版と大きく異なるのはこの点で、実写版はその疑問を真一自身が自問自答します。
それはそういう疑問を持てるほどの年齢に真一がなっているということです。
アニメのしんのすけは、そういう疑問を持つことはなく、逆に彼の素朴な一言により自分たちの生き方というものを見つめ直すのです。
その素朴な物言いは、戦国時代だけではなく、現代の自分たちにおいても、自分たちで気づかないルールに縛られているのではないかという疑問を起こさせてくれるような気がします。

あと驚いたのは、戦国時代の合戦の描写の緻密さ。
鉄砲隊・弓隊・槍隊の各隊の役割分担、攻城戦、陣触れ陣払いの描写など、本格的な時代劇でもここまでしっかりと描くのかというほどに細かかったように思います。
「クレヨンしんちゃん」でここまでやるかと思うほどにしっかりと時代考証をしていたことに驚きました。

なるほどみなさんがお薦めしてくださる意味がわかりました。
これは「オトナ帝国」も観ないといかんかな・・・。

「BALLAD 名もなき恋のうた」の記事はこちら→

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本 「マンダラの謎を解く -三次元からのアプローチ-」

日本人がマンダラと言われて思い浮かべるのは、中心に大日如来がいてその周りにぎっしりと仏たちが密集して描かれている図であると思います。
少し詳しい方はマンダラと言われるものにも、金剛界マンダラと、胎蔵界マンダラの2種があるということをご存知でしょう。
そもそもマンダラは中国から仏教と共に伝わり、その中国へはインドから伝播していったものです。
仏教を開いた仏陀自身は偶像崇拝やシンボルの崇拝は否定していたのですが、その死後仏教以前にインドにあったバラモン教を吸収しつつ、崇拝の対象を置くようになったと言われています。
日本人である僕たちはマンダラと言うと、冒頭に言った平面図しか思い浮かべられません。
けれども本著では、その期限は図ではなく、立体的な造形物であったという仮説を提示しています。
この仮説は非常におもしろい。
そもそもマンダラというのは平面図の中になにか空間的なものを表現しようとしている意図を感じます。
それがもともとからしてマンダラは三次元空間であり、それを平面に置き換えるようになったとすれば、納得性が高まります。
筆者がその仮説を説明するにあたり、仏教の発祥の地インドから、中央アジア、中国、日本と、その土地・時代で作られた建築物を通じて解き明かしていきます。
マンダラは宇宙を表していると言います。
本著はインドや中国の石窟寺院からスタートします。
石窟という多い包まれる空間は、確かにマンダラに相通じるものがあるように感じます。
建築物に込められた考えや思想が、伝播するに従い、その土地の文化を吸収し、変容して行く様は、ダイナミズムを感じます。
その東の端の終着点である日本において、仏教建築の思想が変容していく様子もなかなかに興味深いと思いました。

とても着眼点のいいアプローチで、興味ある方は一読されることをお薦めします。

「マンダラの謎を解く -三次元からのアプローチ-」武澤秀一著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287994-1

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「オーシャンズ」 強く感じるメッセージ

生物の造形というものは美しい、本作を観ながらそう思いました。
まるで弾丸のように海にダイブするカツオドリはまるで矢のよう。
ゆったり巨体を海に漂わせるトビエイの姿は、まさに優雅。
日本海ではいろいろと問題になっているエチゼンクラゲですら、シャンデリアのように見え美しい。
それぞれの生物はそれぞれの環境に最適化しながら、そのような形態に進化してきているだけで、美しくあろうなどというつもりはないとは思いますが、やはり美しい。
まさにこれは機能美と言っていいのでしょう。
人間が科学技術の粋を集めて作った機械が自然とこれらの生物のフォルムに似てくるのは、宜なるかなですね。

最近はこのような生物、地球環境をテーマにしたドキュメンタリーが多く公開されています。
本作は今までのドキュメンタリーとは多少異なるのは、ドキュメンタリーとは言いながらも、演出家の演出意図が強く出ているという点であろうと思います。
従来のこの種のドキュメンタリーというのは「記録映画」という意味合いが強かったと思います。
人間が見たことがない生物の営みを記録するということを目的とした作品です。
ですが、本作は明らかに制作者のメッセージが強く出ています。
そのメッセージを伝えるために、本作での映像があると言っていいでしょう。
つまりは演出上、狙いたい画があるということです。
ですので漫然と目の間に起こる出来事を記録するというのではなく、狙いたい画を得るために様々な工夫を行い、そしてそれが起こるのを待つという根気が必要であったと想像されます。
それが果たしてドキュメンタリーと呼べるのかというのは置いておいて、僕個人としてはありだと思っています。

個人的には地球環境保全は大事だと思いますし、そのための努力をしなくてはいけないと思います。
だからと言って、過剰なやりすぎ(例えばシーシェパードの活動や、食肉を食べることが罪悪だという考え方、また文明を否定する考え方)には賛同しかねます。
本作でも描かれているように、生物は生物を食べることにより生きています。
その行為を否定するわけにはいきません。
ようはそれを過剰にやりすぎてはいけないということです。
例えば、これも描かれていましたがフカヒレだけをとって、サメをそのまま海に放逐するという場面。
これはいけません。
生物を食べるということはその相手に敬意を持たなくてはいけないと思います。
この行為は生物の尊厳を否定しているように見えました。
調和、ハーモニーと言ってもいいかもしれませんが、やはりバランスが大切なのです。
大切なのは、本作でもしばしば触れらている「生物多様性」、つまり様々な生物がいるうちの一つの種が人間であるという感覚だと思います。
この感覚は人間も営み、そして生物も営む、その程よいバランスを見極めるということなのだと思います。

監督のジャック・ペラン(出演もしていましたが)はどこかで見たことがあると思ったら「ニュー・シネマ・パラダイス」の(大人の)トトだったんですね。
俳優さんということで、本作がドキュメンタリーでありながら、非常に演出されていたというのに納得しました。
あと劇中出ていた少年はジャック・ペランにとてもよく似ていたのですが、彼はお孫さんだったりするのかな?

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2010年2月11日 (木)

本 「虐殺器官」

ふと、タイトルが気になって手に取った本です。
帯には「宮部みゆきさん大絶賛!」とのコピーが。
作者は伊藤計劃(いとうけいかく)、ふーん、聞いたことがない作家さんだと思いつつも、僕が好きな宮部さんが推奨しているし、好きなSFだし、読んでみようとレジへ。
読み始めると、確かに凄い作品です。
僕はSF好きですが、優れたSF作品とは人間や社会の本質を描いている作品だと思います。
SFというと「スター・ウォーズ」などのいわゆるスペースオペラとか、タイムトラベルとか、なんとなく派手なアクションものという印象の方は多いかと思います。
それはそれでおもしろいのですが、SFの真骨頂は現在はない世界を作ること。
そしてそれにより人間のありようや、社会のありようをシミュレートすることだと思うのですよね。
現実にはない世界においてよりものの本質を浮かびあがらせようとすることができるのが、SFなのです。
そういう意味で本作は成功していると思います。

9・11後の世界で、テロ対策としてセキュリティのために個人情報が管理された社会。
ですが、世界各地で紛争はとぎれることはなく、それどころか大虐殺が各地で起こっています。
首謀者を暗殺するためにアメリカの情報軍が紛争地域に派遣されますが、そこにはいつもジョン・ポールというアメリカ人の影が。
なぜ彼が行くところで虐殺が起こるのか。

この作品で描かれるのはうんざりするほど重苦しい人間の身勝手な暗部です。
それを見事にSFという手法で描ききっていると思います。
ラストもかなり衝撃的でありました。
伊藤計劃さんはこれがデビュー作であるとのこと。
デビュー作とは思えないほどの、筆力だと思いました。
この記事を書くにあたって、ほとんど知らなかったので伊藤計劃さんのことを調べました。
そうしたら昨年の3月に34歳の若さで亡くなっているとのこと。
これだけのSF小説を書ける人は日本にはそうそういないので、非常に残念です。
長編ではもう一冊「ハーモニー」という作品を出されているということですので、こちらも読んでみたいです。

「虐殺器官」伊藤計劃著 早川書房 ソフトカバー ISBN978-4-15-208831-4

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2010年2月 7日 (日)

「侍戦隊シンケンジャー」 奇でありながら王道

スーパー戦隊シリーズというと、正直言ってシリーズごとの当たり外れが大きいところがあります。
本日最終回を迎えた本作「侍戦隊シンケンジャー」は最近の中でも大当たりと言ってもいいぐらいに完成度が高かったように思えます。
スーパー戦隊というのは男の子が小さい時は必ずと言っていいほど通る道なので、このシリーズはある種の型というものがあります。
例えば、5色(時に3色の場合もある)のカラフルなコスチュームに身を包む戦士たち、というフォーマット。
このわかりやすいフォーマットを守りつつも、毎年新しさを出していくというのが制作者の腕の見せ所です。
現在「仮面ライダーW」のプロデューサーである塚田英明さんが担当されていた時は、かなり意欲的に刑事もの、ファンタジーものと言ったように新しいモチーフを取り込んでいました。
最近はやや王道のわかりやすいモチーフの方(日笠プロデューサーのときは比較的この傾向が強い)が多かったですが、本作では和風モチーフを取り入れています。
今までも和風モチーフの戦隊シリーズとしては「忍者戦隊カクレンジャー」、「忍風戦隊ハリケンジャー」とありましたが、いずれもモチーフは忍者。
本作は今までなかったのは意外ではありますが、タイトルにあるように侍がモチーフとなっています。
意外ではありましたが、実は戦隊ものと時代劇というのは思いのほか相性がいい。
というのも「水戸黄門」などのいわゆるテレビ時代劇というものも、かなりフォーマット化されている番組なわけだからです。
よく考えれば、スーパー戦隊シリーズにある「名乗りシーン」というのは、まさに時代劇そのものなのですよね。
本作でも「名乗りシーン」はカッコいいですが、第1話で冒頭でシンケンレッドが登場する際の口上(「水戸黄門」の伊吹吾郎さん!)があるのですがこれがかなり決まっていました。
この口上とアバンタイトルでの迫力のある大立ち回りで、本作はいい作品になるだろうと思いました。
フォーマット化された時代劇を戦隊シリーズに持ち込んだからといって、型にはまったつまらない作品になるとは思いませんでした。
侍モチーフを持ち込むことは、戦隊シリーズとしては冒険的なことを行っているからです。
それは殿(シンケンレッド)と家来という上下関係を持ち込んだからです。
時代劇的にはある意味当然なのですが、小さい子供向けで身分差みたいなものを描くのはなかなか難しそうでした。
けれども結果的には非常にうまくいったと思います。
シンケンジャーのメンバーは1年間に及ぶ戦いの中で、身分の上下という決められた関係以上に、信頼感という強い絆で結ばれていったからです。
それを描くにはそれぞれのキャラクターの関係性をしっかりと描かなくてはいけないのですが、これはやはり小林靖子さんの脚本の見事さに負うことが大きいでしょう。
「仮面ライダー龍騎」「仮面ライダー電王」とキャラの強い登場人物が絡み合う物語を得意とする小林さんですから、本作においてもしっかりとキャラクターを描いています。
小林さんはキャラ同士を絡ませるのが得意のように見え、1年間という長丁場であるため例年少々中だるみしそうになる中盤では、キャラクターを二人ずつ絡ませるエピソードを送り出し、これがまたそれぞれおもしろく仕上がっていました。
そして後半、シンケンレッドこと志葉丈瑠が、実は志葉家の当主ではなく影武者であった(時代劇好きにはたまらない設定!)ということが明らかになるにあたり、シリーズ最初の頃になぜ丈瑠が仲間を持つことをいやがったかということがわかるという仕掛けになっており、このあたりの構成の妙には唸らされました。
影であることが明らかになり、仲間と別れて戦う丈瑠ですが、その元に仲間たちが集まります。
殿だから命を預けたのではなく、丈瑠だから命を預けたのだと。
戦隊シリーズというのはそのフォーマットゆえに「仲間」をテーマに描く物語ですが、本作は戦隊シリーズとしては異例の設定ながらもその基本テーマをしっかりと表現できたと思います。
演じる俳優陣も初めての演技という方もいたようですが、それぞれのキャラクターをうまく演じていたと思います。
特にシンケンレッドの松坂桃李さんはデビュー作であるということですが、殿という役柄に違和感を感じない堂々とした演技であったと思います。
ちなみに僕はシンケンピンクこと白石茉子を演じる高梨臨さんがお気に入りでした。
小林脚本ということで悪役キャラも魅力的であったと思います。
着ぐるみではあるのですけれど、それぞれに背景があり、活き活きと感じられるのは、やはり「仮面ライダー電王」でイマジンを人気者にした小林さんならではでしょう。
本作は年間を通して全くパフォーマンスが落ちないシリーズに仕上がっていたと思います。

来週からは「天装戦隊ゴセイジャー」。
予告を観る限りけっこうベタベタな戦隊ものになるような感じもあり(日笠さんだし)やや不安。

スペシャル版「帰ってきた侍戦隊シンケンジャー 特別幕」の記事はこちら→
「侍戦隊シンケンジャー 銀幕版 天下分け目の戦」の記事はこちら→

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「ゴールデンスランバー」 イメージに踊らされるな

伊坂幸太郎さん原作の映画化は三度目となる中村義洋監督作品。
「アヒルと鴨のコインロッカー」、「フィッシュストーリー」も良かったですが、本作でも伊坂作品との相性の良さを見せてくれます。
僕は中村監督の「チームバチスタの栄光」も「ジェネラルルージュの凱旋」も好きなので、今回も期待してしまいます。
本作で主演を務めるのは堺雅人さん。
「ジェネラルルージュの凱旋」でも中村監督と組んでいますし、息の合ったところを見せてくれそうです。
作中に大小いくつもの伏線(花火とか、二重丸とか)を張り、それをひとつずつ最後までしっかりと回収していく中村監督の手際はもはや職人芸と言ってもいいでしょう。
なるほどこれがここにかかってくるのか、と唸らされることしばしばです。

人というのは、よほど知っている人ではない限り、与えられた情報に基づいた先入観で人と対します。
それが全く関係のないテレビや新聞などで知る人のことだったらなおさら。
僕たちは無頓着に与えられた情報は真実だと疑いもなく受け入れ、そうだったんだと納得してしまいます。
作品の中でも言われているように、イメージ、なのですよね。
イメージっていう言葉もよく考えていると不思議な言葉です。
その言葉が意味していること自体がぼんやりと曖昧。
日本語にすると「印象」なのかもしれませんが、「印象」ほど「自分が感じる」といったような積極的な関与はないような感じがします。
あくまでも「受け」というか。
僕たちはそういう曖昧な「イメージ」でいかに物事を判断し、知ったような気持ちになっているということに本作を観ると気づきます。

主人公青柳(堺雅人さん)は総理大臣暗殺犯の濡れ衣を着せられ当局に追われます。
そもそもそれを仕掛けたのは当局らしい。
青柳を犯人にしようと幾重にも仕掛けられた罠。
次々と報道される作られた「証拠」。
そして青柳は逃亡中、人を信じても裏切られ、そして当局が作った「イメージ」により徐々に追い込まれていきます。
けれども、そのような中で彼の無実を信じている人々がいました。
それは彼の両親であり、友人であり、同僚でありました。
青柳と直接に付き合い、彼の人柄を「知っている」人々です。
彼らは無実の証拠を持っているわけではありません。
けれども彼の人柄を「知っている」からこそ、彼の無実を信じられるのです。
父親は報道陣に囲まれたとき、「お前たちは息子の何を知っているのか」と言い放ちます。
真実を報道する立場であるマスコミも、「イメージ」に踊らされているのです。
真実と人に言われることほど、怪しいものはないということです。
よく重大事件が起こったとき、インタビューで「そんな人に見えなかった」と答えるシーンがよくあります。
インタビューに答えた人とどれだけ実際に親しかったのか、わかるものではありません。
また冤罪事件でもいかにも犯人と報道されれば、普通の人は信じてしまいます。
冤罪だと言う人々も、犯人とされる人を見知った人なのです。
やはりその人と接して、付き合い、感じることがないと、その人をわかったことにはならないのですよね。
報道に限らず、人づての評判で人のことを色眼鏡で見てしまうことは多々あります。
なかなかそうならないようにすることはできないのですが、(自分も含めて)人は「イメージ」に踊らされてしまうということを肝に銘じておいた方がよいのでしょうね。

オープニングとラストのエレベーターのシーンはなるほどという構成でした。
このあたりの構成が中村監督の職人芸だと思います。

伊坂幸太郎原作、中村義洋監督作品「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→
伊坂幸太郎原作、中村義洋監督作品「フィッシュストーリー」の記事はこちら→

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2010年2月 6日 (土)

本 「100年予測 -世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-」

地政学という学問分野があります。
これは地理的な位置関係の国家間の政治、関係に影響を研究する学問です。
「坂の上の雲」の秋山真之が影響を受けたアメリカのマハンの海洋国家論なども地政学的な考え方と言えるでしょう。
例えば日本という国を地政学という視点で見た場合はどうなりますでしょうか。
日本とは四方を海で囲まれ、またその領土内に現代の産業に不可欠なエネルギー資源(石油や天然ガス等)や原料資源を持たない国家です。
ですから必然的にそれらの物資は国外から輸入せざるを得ないわけです。
そうなると日本にとって一番良い状態というのは自由に安全に外国と貿易ができる状態というわけです。
現在日本が平和憲法を掲げ、戦争放棄している意味、また日米安保ということにこだわるのはそこにあると思います。
けれども何かしらの原因により貿易が出来ない状態になった場合、日本は呼吸ができない状態になると言ってもいいでしょう。
それが起こったのが太平洋戦争であるわけです。
日本が満州などに進出しようとした理由の一つは資源の確保でありました。
その行為に対し列強が経済封鎖をかけてきた時、日本は呼吸できない状態となり海上の支配権を持つために太平洋戦争へと突入したのです。
とはいえ、物量的に太平洋を支配することのできない日本に対し、それができるアメリカが勝利することは必然であり、だからこそ現在において対米関係というものを政権が重要視することになるわけです。

長々と書きましたが、本著はそのような地政学的なものの見方により、今後100年の世界の趨勢を予想するというものです。
現在の中国は日の出の勢いであり、今後アメリカと中国が超大国として君臨すると予想する方は多いですが、本著では中国はそこまでの勢いはもてないと予想します。
これもなるほどと思わせるところがあります。
また21世紀中旬に日本とトルコの連合が、アメリカと戦争を行うというショッキングなことも書いていますが、それに至る論旨の組み立てはそれなりに説得力があります。
その予想が現実的であるかどうかは別にしても、ここで出てくる20世紀の制海権にというものを拡張した考え方である言わば制宙権のような考え方が出てきます。
これはおもしろい。
マハンのシーパワー論にもあるように海洋を支配できるパワー(軍事力)を持つ国が世界の覇権を握るとされます。
かつてはスペインであり、その後イギリスのであり、現在においては制海権はアメリカが持っています。
本著では21世紀においても依然として制海権はアメリカが握り続けると見ているので、アメリカの覇権時代は続くと言っています。
ただそこでさきほどの制宙権といえる考え方がでてきます。
これはすなわち宇宙空間での活動の覇権をどの国が握るかということも重要だと書いています。
確かに戦争やさまざまな国際活動は情報こそが命であり、現代のインテリジェンスにおいて、偵察衛星やGPSなど宇宙を介して得られる情報が多いわけです。
例えば僕たちが日常的に使っているGPSはアメリカの衛星による情報を利用しています。
もしアメリカと日本との関係が深刻なものとなったとき、アメリカはそれらの情報を利用させるでしょうか。
そうなった場合、日本は自前でそういう設備を持たなくてはいけないわけです。
そういうことを想像すると、宇宙での覇権が今後の地政学的なものの見方で重要だというのは正しいかもしれません。

実際に本著の予想通りに世界情勢が動くかどうかはわかりませんが、知的刺激として日々の世界各国の動きをニュースで見る時に地政学的なものの見方で眺めてみてもいいかもしれません。

「100年予測 -世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-」ジョージ・フリードマン著 早川書房 ハードカバー ISBN978-4-15-209074-4

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「インビクタス/負けざる者たち」 俺たちのチーム

タイトルにある「invictus」とは聞き慣れない英語だと思ったら、「不屈」を意味するラテン語なのですね。
本作で描かれる南アフリカ大統領マンデラも、ラグビー代表主将ピナールも、まさに「不撓不屈」といった人間として描かれていました。
アパルトヘイトというのは人種隔離政策のこと。
僕が学生の頃はまだ南アフリカはアパルトヘイトを実施していて、教科書にも載っていました。
そのアパルトヘイト政策が撤廃されたのが1991年ということですから、これは僕が社会人になった年。
つい最近です。
当時、アパルトヘイト政策が撤廃というニュースを聞いたとき、正直その後しばらく南アフリカは混乱するのではないかと思いました。
やはり人種差別の意識というのは、白人・黒人双方にとって長年お互いに積み重ねられたものがなかなか払拭されないと思ったからです。
黒人は白人に対する今までの恨みつらみがあったでしょう。
白人は黒人による仕返しに戦々恐々としていたでしょう。
そういう思いは互いに疑心暗鬼を起こすことにより、治安悪化、政情不安の懸念があったと思います。
けれどもまだまだ問題はあるにせよ、想像以上にスムーズに南アフリカの国民は克服していったように思います。

本作でも黒人、白人が互いに牽制しあうような場面がいくつかあります。
ひとつは大統領警護官たち。
黒人の警護官にとってマンデラは「自分たち」の大統領であり、黒人の手で守りたいと思います。
けれどもマンデラは前大統領の警護を担当していた白人警護官も留任させます。
彼らはプロとして仕事を果たそうという意識はあったとは思いますが、内心は複雑であったと思います。
かつては格下と考えていた黒人が自分たちの上司になるわけですから。
けれども彼ら警護官は黒人・白人に関わらず、マンデラ大統領の人格に魅せられ次第に団結していきます。
マンデラはかつて自分を何十年も閉じ込めていた白人たちを赦し、人種を越えて南アフリカという国を一つにしようとしていたからです。
劇中でマンデラはピナールにリーダーのやるべきことは何かと問います。
ピナールは自分が範を垂れることと答えます。
まさにマンデラは、人種を越えて国民がまとまるべきということを自らの行動で国民に示します。
南アフリカ国民の象徴はマンデラ自身であり、そして南アフリカラグビー代表チームであったのです。
人種を越えてまとまろうということはスローガンとしてはいくらでも言うことはできます。
けれどもそれを国民の意識にしっかりと根付かせるにはわかりやすい象徴が必要なのです。
それがラグビー代表チームだったのです。

実は僕たち日本人もこれによく似た事例を身近に知っています。
2001年の日韓共同開催のサッカーワールドカップです。
このスポーツイベントを期に、日韓それぞれの国民は互いに対する意識を劇的に変えたと僕は思っています。
それまでは歴史的な背景もあり、日韓双方の国民意識はお世辞にも仲がいいというものではありませんでした。
韓国国民はやはり戦中の日本人の仕打ちに対する恨みがあります。
また日本人はそういうことへの弱みと、いつまでも恨み続けられることへの苛立ちといったものも持っていたと思います。
2001年のワールドカップも開催が決まったとき、うまくいくのかと思いました。
けれども結果的には大成功に終わったわけです。
その実施過程の中で互いの国民が交流していくなかで、お互いの文化に対する理解が進んだと思います。
ご存知の通り、日本では韓流ブームが起こりましたし、韓国でもジャパニーズ・ポップは人気です。

マンデラ大統領の意を汲み、そして彼自身の人格にも触れ、ピナールはチームを奮起させます。
そして奇跡のラグビーワールドカップ優勝までこぎ着けるのです。
互いに反目し合っていた白人と黒人の警護官が自国のチームが勝ったときにかわす台詞があります。
 白人警護官:「勝ったぞ」
 黒人警護官:「俺たちのチームが?」
そう、代表チームは白人にとっても、黒人にとっても「俺たち」のチームになっていたのです。
彼らだけでなく、スタジアム全体、そして国民全体が、彼らを「俺たちの」チームと思ったのでしょう。
国民全体がひとつの国としてまとまっていく高揚感、に我知らず涙してしまいました。

監督は高品質な作品を次から次へと発表し続けるクリント・イーストウッド。
最近の作品はかなり重めの題材の作品が多かったですが、本作は直球勝負の感動ものです。
「チェンジリング」「グラン・トリノ」は人の暗部についても掘り下げるところがありヘビーな印象がありますが、本作は人間の善なる部分に焦点を描いているので、その点では楽な気持ちで観れると思います。
ただ直近の二作と本作で共通しているのは、人の意志の強さは何かを動かすことができるということだと思います。
「チェンジリング」の母親クリスティン、「グラン・トリノ」のウォルト、そして本作のマンデラ。
これらの人物は強固で揺るぎない意志を持ち、行動した人々でした。
強い意志を持ち続けられれば、いつか物事を動かすことはできる。
まさに不撓不屈の精神です。
これがイーストウッド作品のテーマなのだなと改めて感じました。

クリント・イーストウッド作品「チェンジリング」の記事はこちら→
クリント・イーストウッド作品「グラン・トリノ」の記事はこちら→

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