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2010年1月31日 (日)

「ターミネーター:サラ・コナー・クロニクルズ シーズン1」 「T2」の呪縛

「ターミネーター2」のその後を描いたテレビシリーズです。
ジョン・コナーはハイスクールの学生となっており、そこへ未来のジョンが彼を守るために再びターミネーターを送り込んできます。
基本的にプロットは「ターミネーター2」と酷似しているため、それほど新鮮味がありません。
「ターミネーター2」でサイバーダイン社の開発者ダイソンが死んだために「審判の日」は一度は回避されたものの、また未来ではスカイネットが開発されることになることがわかります。
それをサラとジョンは再び阻止しようとするのが、物語の骨子でう。
新味がある点と言えば、ジョンを守るために送り込まれてくるのが美少女ターミネーターであるということ。
女性型ターミネーターというのも「ターミネーター3」で一度トライアルはしているので、新味というところまでいきませんけれども。

シーズン1はアメリカのテレビシリーズとしては短めの全9話。
その割に全体的に物語をドライブしていくパワーが希薄であるような気がしました。
VFXが発達してきているため、以前は映画でしかできなかったようなことがテレビシリーズでできるというのはあるのでしょうが、それにしてもストーリーが「ターミネーター2」と似すぎているというのが問題でしょう。
そしてテレビシリーズであるがゆえに、だらだらと引き延ばされているような感じを受けます。
またT2とT4の間を描いているという点も、物語のドライブ力を保てないことに繋がっていると思います。
視聴者はもう「審判の日」が起こってしまうことを知っています。
本シリーズでタイムパラドックスの話をしてしまうと、到底整合性はとれなくなってしまうので、その点には触れません。
けれどドラマとしては、「審判の日」を阻止できるかどうかが最大のポイントになりますし、それが起こること(視聴者から見れば)は決まっているのだとしたら、そこで描かれるコナー親子の戦いもやや空しく見えたりもするのです。
けっこう作品と作品の間を狙うという難しいことにチャンレンジしているので、整合性を保つためにかなり小さくまとまっているような気がします。
そのため冒険できずヒットした「T2」の焼き直しとなってしまっているように思いました。
あまり「T2」の呪縛にとらわれずに自由に作った方が良かったのではないのでしょうか。

アメリカではシーズン1は好調だったものの、「シーズン2」は大コケらしく打ち切りが決定したようです。
二匹目の泥鰌はいなかったということでしょうか。

映画「ターミネーター」の記事はこちら→
映画「ターミネーター4」の記事はこちら→

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「ラブリーボーン」 死により生を描く

これは、私が天国に行ってからのお話。

日常の生活で生きていることを素晴らしい、と感じながら過ごしている人というのはそう多くはないのでしょうか。
かくいう自分もいつものとおりの日常を、忙しいとは言いながらも淡々と過ごし、その毎日は明日も明後日も、明々後日も、その先もずっと続くとなんとなく思っています。
けれどその日常は無限に続くものでは絶対にありません。
人には死というものがあるから。
死は日常の断絶であり、その断絶は本人だけでなく、その周囲の人々の人生にも一つの断層を作ります。
近しい人の突然の死によって、日常が永遠に続くものではないという真実を人は突きつけられます。

冒頭の映画のキャッチコピーにあるように、本作はスーザン・サーモンという少女の死によって始まります。
けれども本作は、よくあるサスペンススリラーにあるように死へ至る道を描くのではなく、彼女の死によって逆説的に「人の生」というものを描いています。
スーザンの人生は14年というほんの一瞬のような短い間です。
けれども短いからといって、その生が意味がなかったということではないのです。
彼女がこの世に生まれ、そして去っていったこと、それは家族や周りの人々にしっかりと刻み込み、影響を与えます。
それに人の生の意味があるように感じました。
彼女の死は、家族や友人の人生、生き方に少なからず影響を与えます。
特に家族は喪失感に苛まれます。
父親はスーザンを殺した犯人探しに妄念と言っていいほどの想いで没頭していきます。
母親は娘の死を受け入れられず、逃げるように家を出て行ってしまいます。
妹は父親や母親の動揺をみたからか、姉の人生の分まで生きようかとするがごとく勉強やスポーツに打ち込み、急速に大人になっていきます。

スーザンの死によって、家族は呪縛されます。
そしてスーザン自身も自分の死を受け入れられず、生と死の間をさまよい続けます。
ずっと憧れていた男の子にデートにさそわれたときの嬉しい気持ち。
まさに人生がキラキラと輝いているその時に人生を強引に断たれた無念はいかばかりでしょう。
この物語において、人は天国へいくには自分の死を受け入れなくてはいけないようです。
そのためには自分の死というものを追体験しなくてはいけないのです。
スーザンにとって、それはまさに死ぬほどの恐怖であり、またキラキラと光る自分の人生を失ったことを認めたくないという気持ちもあったのでしょう。
けれどスーザンは彼女の死によって、大好きな家族がずっと呪縛され続けている姿を見ているうちに、自分の死を家族にも受け入れてほしい、そして自分も受け入れなくてはいけないと考えます。
死ぬほどの恐怖にもう一度、向かい合わなくてはいけない。
けれどその恐怖を越えさせるのは、やはり愛なのです。
愛という言葉は陳腐すぎて、個人的にはあまり軽々しく使いたくないのですが、これを説明するには愛という言葉が最も適切だと思います。
家族がスーザンの死に縛られているのも、彼女に対する愛ゆえ。
だからこそそれを解き放つのもスーザンの家族に対する愛なのです。

本作は少女連続殺人事件を題材として扱いながらも、ミステリーでも、スリラーでもありません。
犯人は最初からわかっています。
確かに並のスリラーよりもサスペンスとしての出来もいいですが、それが本質ではないと思います。
やはりこれは人の生について語った物語であると思うのです。

幻想的でメタファーに満ちたスーザンの天国は、さすがピーター・ジャクソンならではで豊かなイメージに溢れた世界でした。
彼女がいた生と死の間の世界にあるメタファー(ゴムまりやむぎわら帽子など)はラストで犯人に殺害された女性たちが登場するときに、彼女たちを象徴するものであるということがわかります。
スーザンと同様に彼女たちも、自分の死を納得する旅を終えてきたのでしょうか。
そんな彼女たちが笑顔で天国に向かうのにちょっとは心が安らぎます。
また映画の中でモチーフとしてよく登場したのが扉です。
金庫の扉、犯人の家の扉。
地下室の扉、スーザンが自分の死に向かい合う時に開ける扉。
開かない扉、開く扉。
自分が死を迎える時もそういう扉を開けることがあるのでしょうか。

スーザンを演じたシアーシャ・ローナンは初めて観ましたが、彼女しかいないと思えるキャスティングであったと思います。
少女と大人の間の微妙な歳であり、最も輝いているその一瞬をフィルムによくぞ抑えたと思います。
彼女が無邪気に笑う姿は誰が見ても輝いて見え、それを理不尽に断った暴力に憤りを感じます。
けれど殺人でなくとも、理不尽な出来事により、人が突然に死を迎えるということはあります。
愛する人の死は衝撃ではあると思いますが、それを受け入れ、そして自分の中に取り入れることこそ、その人が生きている証となるのでしょう。
これもまた陳腐な言い方なのですが、「自分の心の中に生きている」ということなのでしょうね。
そういう使い古された言葉について、正面から誠意を持って作り上げた作品であると思いました。

ピーター・ジャクソン監督「ロード・オブ・ザ・リング」の記事はこちら→

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2010年1月30日 (土)

本 「ハゲタカⅡ」

真山仁さんの「ハゲタカ」の続編になります。
やはりこのシリーズは鷲津と芝野という二人のキャラクターの魅力に尽きると言っていいでしょう。
鷲津は「ハゲタカ」と呼ばれる外資ファンドのトップであり、「ハゲタカ」として世間には振る舞おうとします。
彼自身の内面にある熱い思いであったり、葛藤であったり、そういうものは彼の行動だけをみている世間には伝わりません。
鷲津は時に大胆に、そして多少の非情な手段を持ちいって行動します。
けれども彼の周りにいるアランやリン、サムなど周囲の者には、鷲津の大胆な行動の裏にある、とても壊れやすく繊細な心を感じ取っているのが、小説を読んで伝わってきます。
芝野は鷲津の反則手とも言えるような行動に対して、とても正攻法に企業再生を行っていきます。
彼は非情に理知的であるため、断固としたリストラなども厭いません。
会社は個人のものではなく、ステークホルダーのものという信念に基づき、行動します。
彼の行動も下から見ればクールに見えるかもしれませんが、やはり熱い心情を彼の中に感じることができます。
そして彼も完璧な人間ではなく、自分のためにアルコール依存症になってしまった妻を抱え、途方に暮れることもあるのです。
鷲津と芝野は、強い信念をもち、それに基づき行動できる意志を持っている強い男ですが、完璧な人間ではなく、弱いところも持っています。
このあたりが彼らに感情移入をさせやすくしているのでしょう。
一作目の「ハゲタカ」では鷲津と芝野は互いに鍔迫り合いをするライバルのような関係ですが、本作では正真正銘のハゲタカであるアメリカのファンド、プラザに対し、手を組みます。
それまでのライバルが大きな敵に対し共同戦線を張るというのは、よくある話ではあるのですが、やはり読んでいても熱くなります。
鷲津と芝野というライバル同士の二人は切磋琢磨しながらも、互いにリスペクトしている。
この関係性がオーソドックスでありながら、思い入れを深くして読んでしまいます。
結局、本作の冒頭でアランを殺した犯人は謎のままに。
それは東洋系の女性らしい。
ここから次回作「レッドゾーン」に繋がっていくのでしょうか。
こちらも読んでみたいと思います。

前作「ハゲタカ」の記事はこちら→

「ハゲタカⅡ<上>」真山仁著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-275687-7
「ハゲタカⅡ<下>」真山仁著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-275689-1

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ご訪問者の皆様へ

すみません、ココログがメンテをしたところ、TB・コメントのフィルタリングがかなりきつくなったようでして、一部の方のTB・コメントがスパム扱いになっているようです。
一通り見て気がつき次第に復活させますので、申し訳ございませんがよろしくお願いします。

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2010年1月28日 (木)

本 「続巷説百物語」

タイトルに「続」とあるように京極夏彦さんの「巷説百物語」の続編となります。
京極さんと言えば「京極堂」シリーズですが、こちらの「巷説百物語」シリーズは江戸時代末期を舞台とした時代小説となっています。
数編の短編が語られ、それが実は一つに繋がっているという構造ですが、こちらは京極さんの盟友である宮部みゆきさんの時代小説でも多くみられるところです。
時代小説と言っても京極さんの作品ですから、登場してくるのはやはり妖怪。
ですが、本シリーズで語られる妖怪も「京極堂」シリーズと同様に実際に存在するというものではなく、人間の心の隙間や仕組みの中に潜むとらえどころのないものとして扱われています。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ」
とは京極堂が小説の中でよく口にする言葉ですが、本作も同じ考え方に立脚しています。
「京極堂」シリーズにおける京極堂の役割を果たすのが、本作では「小股潜りの又市」になります。
本作の語りは山岡百介ですが、こちらが「京極堂」シリーズの関口にあたりましょうか。
京極さんの作品らしく、本作もかなり分厚く読み始めるまでは躊躇しますが、読み始めてしまえばあれよあれよと読み進んでしまうのは、やはりさすがです。
決してライトノベルのように読みやすいわけではないのですが、それでも読ませてしまう物語の力が京極さんの作品にはあるように思えます。
本作もそれぞれの短編も読み応えがあり、それぞれの作品の又市の仕掛けに喝采をあげますが、全体としても大きなドラマチックな流れがあり、その点も読み進めさせる力かもしれません。
このあたりは宮部みゆきさんの作品もそうですね。
「巷説百物語」を読んでからずいぶんたって本作を読みましたが、本シリーズはあと「後巷説百物語」「先巷説百物語」とリリースされていますので、こちらも読んでみたいと思います。

京極夏彦作品「後巷説百物語」の記事はこちら→
京極夏彦作品「前巷説百物語」の記事はこちら→

「続巷説百物語」京極夏彦著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-362003-6

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「パーフェクト・ゲッタウェイ」 ネタバレしないと語れない

<ネタバレしています!というよりネタバレしないと語れません>

地上の楽園と言われるハワイ。
日本からもハネムーンで行く方々も多いかと思いますが、アメリカでもそのようですね。
主人公クリフとシドニーはオアフ島で結婚式をあげ、カウアイ島へ新婚旅行へ向かいます。
ハワイの大自然の中をトレッキングをしながら数日過ごそうという趣向。
けれどもオアフ島では新婚カップルを殺した男女が逃走するという事件が発生しており、彼らはどうもカウアイ島へやってきたらしい。
トレッキング途中に出会う、ニックとジーナ、ケイルとクレオという他の二組のカップル。
これら3組のカップルの中に、殺人犯が紛れ込んでいるのか・・・。
ハワイのジャングルと言えば海外ドラマ「LOST」を思い浮かべますが、想像していたよりかなり出来のいいサスペンス・スリラーとなっていました。
ぶっちゃけミステリーやスリラーというのは、「最も犯人らしくない人間が犯人」だったりするので、誰が犯人かということは、この手の作品を見慣れている人は見当をつけることはできるでしょう。
とわかっていても後半に入り、視点がぐるんと180度変わるという手際はかなり見事なものになっていました。
作り手も「最も犯人らしくない人間が犯人」であると観客が思うであろうことも予測済みであるように感じます。
この観客の外側目線をわかりつつ、作品内世界の目線に持っていく手際が上手だと思いました。
クリフがニックをカヌーで沖に出ようと誘います。
観ている側は、悪い予感でざわざわとした気持ちになります。
このあたりから視点がじょじょにクリフ&シドニーからニック&ジーナにスライドし始めます。
そしてジーナが、クリフたちの結婚式のビデオを何気なく観たとき、一気にぐるんと視点が変化します。
悪い予感が当たってしまった時のような感覚。
ここで観客はニック&ジーナに感情移入をしてしまうのです。
ここからは一気に次から次へと彼らを危機が襲います。
観客としてはニック&ジーナと同一目線になっているので、いっしょにハラハラドキドキしてしまいます。
当初の「最も犯人らしくない人間が犯人が犯人じゃないの〜」と外側目線で観ていた観客も、このあたりからサスペンスを「自分ごと」のように感じるようになります。
このあたりの感情移入のさせ方が見事だなと思いました。

ミラ・ジョヴォビッチ以外は、出演者もスタッフもほぼ知らない人ばかりだったのですけれど、思いかけずにいい作品にあたりました。
一点だけ難をあげればフラッシュバックのところですかね。
ちょっとモタっとした感じがありました。
ここだけもうちょいさっくりといけたら完璧でした。
とはいえ、いい仕上がりのサスペンス・スリラーだと思います。

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2010年1月24日 (日)

「Dr.パルナサスの鏡」 テリー・ギリアムの物語の作り方

主演のヒース・レジャーの突然の死によって完成が危ぶまれていた本作ですが、鏡の世界の中だけ彼の代役にジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファネルを起用するという起死回生のアイデアにより、公開に至りました。
このアイデアは、鏡の中は客のイマジネーションの世界であるという設定、そしてトニー(ヒース・レジャー)の正体とも相まってもともと代役をたてることが折り込み済みのようにピタリとはまっていたと思います。

本作は「バンデットQ」や「バロン」を彷彿させるような、まさにテリー・ギリアムの色が強い作品となっていました。
彼が好む不条理な異世界、そして物語というのは、かなり好みが別れるところだと思います。
この不条理さというのは、ギリアムと同じイギリスの作家ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」あたりの影響を強く受けているような気がします。
本作のキーアイテムも鏡であることから、そのように想像したりします。
「不思議の国のアリス」と言えば、春に公開されるティム・バートン監督の「アリス・イン・ワンダーランド」がありますね(こちらにもジョニー・デップが出ています)。
不条理な異世界を好むという点では、テリー・ギリアムとティム・バートンには共通点があるような気がします。
けれどもその作品の骨格は驚くほど異なります。
ティム・バートンはその見た目やキャラクターの不条理さに惑わされそうになりますが、その物語には意外にも家族の愛情といったポジティブなテーマを描いています。
そのような普遍的なテーマがあるからこそ、ティム・バートンの作品は途中がしっちゃかめっちゃかになっているようでありながらも、着地点はしっかりしているため、観終わった後の観後感が悪くないのです。
対してテリー・ギリアムというのは、人間に対してどこかシニカルなものの見方をしているような感じがあります。
このあたりイギリス人らしい見方であり、アメリカ西海岸生まれのティム・バートンと対照的であるような気がします。
テリー・ギリアム作品は彼のシニカルなものの見方があるため、どうも物語がどこにいくかわからない感じ、それが観客になにかしら尻の座りが悪い落ち着きのなさというのを感じさせるような気がします。
これは良い悪いではなく、テリー・ギリアムの個性であるのかなと思います。
ですので、テリー・ギリアム作品はその個性に乗れるか乗れないかということで大きく好みが分かれるところに感じます。
本作も話がどのように転がっていくのか、よくわからないところがあります。
もちろんヒース・レジャーの死によるストーリーの書き直しというのはあったとは思いますが、それがなかったとしてもテリー・ギリアムが語る物語はどこにいくかわからない感じはあったと思います。
ここから先は想像なのですが、彼の物語の作り方というのは積み上げ型ではないかという気がします。
物語というのは結末があってそこにどのように着地させるかといった作り方があります。
伏線を張りまくった作品というのはこのような作り方にしないとどこか破綻が起こります。
それとは異なり、連載小説や連載漫画のような物語というのは、スタートを決めておきその後、キャラクターが走り始めて物語を紡いでいくというやり方もあります。
これは連載が長期に渡るためにそうならざるを得ないというところがあると思います。
映画はどちらかというと前者のやり方が多いのではないでしょうか。
ですが、テリー・ギリアムはどうも後者のようなスタイルをとっているような気がします。
本作でも「選択」が題材として扱われます。
人生、だれでも「選択」しなくてはいけない場面があります。
その時はどちらかしか選べないことが多いと思います。
やり直しは出来ないことがほとんどですから。
映画という作品は脚本の段階でああでもないこうでもないと、様々な選択肢を検討し、物語として最良の流れを決めていきます。
ですが、テリー・ギリアムは人生と同じく物語が進むがままにその都度「選択」をし、物語が作る自身の流れに身を任せて作っているような気がするのです。
それがどこにいくかわからない、奇妙な不安感というのを与えるのだと思います。
この収まりの悪さが受け入れられないとテリー・ギリアム作品は口が合わないでしょうね。
とはいえ、このスタイルだからこそ、ヒース・レジャーの死ですら物語として許容できたのだと思います。
テリー・ギリアムでなければ、完成には至らなかった気がします。

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2010年1月23日 (土)

「ソフィーの復讐」 妄想ガール

これまではどちらかというとクール・ビューティな役柄が多かったチャン・ツィイーが初めてコメディに挑戦した「ソフィーの復讐」を観てきました。
エヴァ・ジンという女性監督の初作品ということもあったので、それほど期待度は高くなかったのですが、これが意外にも(失礼!)おもしろいのです。
意志の強いキリッとした表情のイメージが強いチャン・ツィイーですが、本作では泣いたり、笑ったり、怒ったり、落ち込んだりとクルクルと豊かに表情が変わっていくのがとびきりキュートでした。
チャン・ツィイーはけっこういけます、コメディも。
圧倒的な美貌を誇る女優さんで、アクションもでき、さらにこういうコメディエンヌの才能もあるとなると、ほぼ無敵ですねえ。

本作はジャンルとしては王道のラブコメです。
漫画家ソフィー(チャン・ツィイー)は結婚寸前の恋人に突然ふられてしまいます。
というのも彼には新しい恋人ができてしまい、その相手はと言えば今売り出し中の美人女優。
ソフィーは泣き寝入りするのではなく、そんなの我慢ならないと、なんとか元カレを振り向かせて謝らせようとリベンジ作戦を開始します。
ソフィーは漫画家だからか、ちょっとエキセントリックなところもあって、思い込んだらすぐ行動というタイプ。
感情の浮き沈みも激しい彼女は、そんでもって妄想癖があったりします。
森ガールならぬ、妄想ガールですね。
このソフィーの妄想シーンがけっこうおもしろいのです。
コメディというのは動きも表現も極端な方が笑えますよね。
そのあたり、本作はチャン・ツィイーの芝居もエヴァ・ジンの演出(吸血虫のシーンはけっこう好き)もけっこうトンデいて良かったです。

冒頭より彼にふられて落ち込んで漫画も手につかず、部屋は散らかり放題でだらだらと過ごしてしまうソフィーが描かれます。
なんだこれ、どこかで観た感じ、既視感が・・・。
あ、これ「のだめ」じゃん!
リベンジ作戦につき合わせている男友達ゴードンに飯を作らせているとこなども、千秋に飯をねだるのだめみたいです。
ソフィーの妄想は、まさにのだめの「変態の森」かも。
ソフィーに振り回されているゴードンは、のだめに振り回されている千秋みたいだし。
「のだめ」好きな人には、本作はけっこうお薦めですよ。

お客さんはラブコメなのにおばさま比率高し。
なんでだろう?と思ったら韓国の俳優さん(ソ・ジソプ)が出てたからなんですね。
やはり韓流ファンはイケメン韓国俳優がいるところにはどこでも出かけますね。
とはいえ、チャン・ツィイー目当てで観に行っている自分も人のことを言えた義理ではないですが(爆)。

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「サロゲート」 突き抜け感がない

なんとなーく、なかったことにされてしまっている「ターミネーター3」の監督、ジョナサン・モストウの最新作です。
僕としても「ターミネーター3」は「なんだかな〜」という感じだったので、本作についても過剰な期待はしていませんでした。
それでもこういうSF的な作品は好きなので、初日に行ってきました。

で感想と言えば、やはり「なんだかな〜」という感じがしました。
これは「ターミネーター3」も同じような感覚になったのですが、言うなれば「突き抜けた感じがしない」ということなのですよね。
ロボットが身代わりになって成立している社会。
これは設定としてはおもしろいとは思うのです。
ネットの普及によって、痛みも伴う直接的な関係よりも、バーチャル的な関係に耽溺してしまう人が増えていくというのは、現代社会の諷刺となっています。
またサロゲート(身代わりロボット)を操るオペレーター(人間)は入れ替わっても、見た目はわからないというのもおもしろい。
このあたりの材料はそれぞれストーリーを膨らませる余地はあると思うのです。
例えばサロゲート=オペレーターではない可能性があるという設定は、見かけと中身が違うという点で良質のミステリーとして組み上げられそうです。
また先ほどあげた社会諷刺的なところもより深められそうです。
そしてアクション。
バランスを重視しようとしたのか、これらの材料の良さが活かしきれていません。
この中のある題材を突き抜けてフューチャーした方がよりおもしろい作品になったのではないのでしょうか。

「サロゲート依存症」についてはさもありなんと思いました。
確かに突っ込もうと思えば、生理的な行為(食事や排泄など)はどうしてんだとか、出産・育児はどうすんだとか、いろんなポイントはあります。
そのあたりは諷刺であると大目に見ることにして。
アルコールにしても、クスリにしても、依存症というのの、きっかけは現実逃避だと考えられます。
あまりに日常生活が辛いから、それをまぎらわすためにそのようなモノに手を出してしまう。
それを使っている間は楽しい気分でいられるけれども、その効果はやがてきれ、また痛々しい現実に戻らされてしまいます。
なまじハイな気分を味わってしまうために、さらに現実は辛いものに感じられてしまうのでしょう。
それがたぶん依存症のサイクルであると思います。
そう考えると、「サロゲート依存症」というのはそういうテクノロジーがあるならば、そういうこともありえるであろうなとは思いました。

そういうことを考えるとこういう社会的なテーマももう少し深堀りできたのではないかと、やはり思ってしまいます。
残念だなあ・・・。

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2010年1月20日 (水)

本 「わかりやすく<伝える>技術」

本著の著者はNHKで長年「週刊こどもニュース」のお父さん役を務めていた池上彰さんです。
ご存知の方も多いとは思いますが、「週刊こどもニュース」というのは、その週に起こった出来事を子供たちにもわかるようにわかりやすく解説してくれるという番組です。
でも子供向けだとあなどることなかれ。
この番組は大人が見てもかなり勉強になる番組なのです。
新聞やテレビのニュースなので、さりげなく報道されている言葉。
当たり前のように出ているため常識となっているように思われますが、「それって何なの?説明してよ」と言われると実は「えーとね」と口ごもってしまったりすることってあると思うのですよ。
「通常国会」「臨時国会」「特別国会」って説明できます?
これを「週刊こどもニュース」はとてもわかりやすく説明してくれるのですよね。
その番組で長年お父さん役を務めていた池上さんは、もともとは記者でそれからキャスターになり、そしてこの番組を担当するということになったと言います。
もともと記者ですから、知識は十二分に持っている方ですが、ニュースキャスター、そして「こどもニュース」を担当することになり、人に「伝える技術」というのを考えるようになったということです。

最近はどんな職種でもプレゼンテーションということが求められます。
営業だと得意先に商品のプレゼンテーションもあるでしょうし、理系の方だと学会での発表などもあるかと思います。
僕の会社でアンケートをとったところ、営業で最も求められるのはプレゼンテーション力の向上だということでした(僕は個人的にはそんなことより得意先にもっと顔を出した方がいいとは思いますが)。
僕はデザイン・広告を業務としているのでプレゼンはもういつものことで、若い頃から試行錯誤して自分なりのスタイルを作ってきました。
また逆に売り込み等で様々な会社の方のプレゼンを聞くこともあります。
いいプレゼンもあれば、まったくダメなプレゼンもあります。
本著で池上さんが書かれている「わかりやすく<伝える>技術」というのは僕の経験からしてもまったくその通りと思われることが書かれています。
例えば「図解をする」ということ。
僕はプレゼン資料を作るとき、概念の整理をよく図にします。
これはぱっと見でわかるということで非常に優れています。
そして何よりも図解をする作業を行っているうちに、自分の頭の中も論旨が整理できるんです。
最近よく聞く「マインドマップ」という作業もこれに近いと思います。
またリハーサルをするということも、その通りだと思います。
書類上はうまくまとまっているように見えるものも、実際プレゼンテーションをするとうまくいかないことがあります。
それは実は書類上の見かけでうまくまとまっているように見えるだけで、実はストーリーがしっかりと出来ていないケースがあるのです。
それをチェックするにはプレゼンを実際に口に出してやってみるということが大事です。
口に出してみると、言いにくいとか話しがひっかかる箇所があることに気づきます。
それは実はプレゼンテーションのストーリーに齟齬があるということなのです。
またくどい部分や足りない部分も気づいたりもします。

そのような池上さんが実際のキャスター、「こどもニュース」のお父さん役の中で培ってきた「伝える技術」が本著にはいろいろと紹介されています。
プレゼンテーションスキルがもっと欲しいという方は一度手に取ってみてはいかがでしょうか。

「わかりやすく<伝える>技術」池上彰著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288003-9

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2010年1月18日 (月)

本 「ひかりの剣」

「夢見る黄金地球儀」に続いて、海堂尊さんの作品「ひかりの剣」を読んでみました。
医療を題材にした作品を書かれることが多い海堂さんですが、本作の題材は剣道。
なぜ、剣道と思ったのですが、海堂さん自身が医大生の頃、剣道をやられていたということで納得しました。
剣道が題材とは言え、本作も海堂作品ワールドの一つとなっており、「ジェネラル・ルージュの凱旋」の速水と「ジーン・ワルツ」の清川が二人主人公となっています。
最近読んだ中では剣道というと「武士道シックスティーン」のシリーズがありましたが、本作も同様に速水と清川という二人のまったくタイプが異なる剣士の成長を描いています。
先に「ジェネラル・ルージュの凱旋」と「ジーン・ワルツ」を読んでおくと、そこでの速水や清川の性格や行動原理がどのように形作られてきたかというのが、本作を通じてわかるのがおもしろいところです。
剣道と医療がどのように結びつくのかな、と読む前には思いましたが、読んでみるとこの二つというのは実はよく似通っているということがわかります。
医療というのは緊急の患者を前にその人の生命をかけた一発の勝負です。
それはまさに剣道の勝負に似たものでいかにその一瞬の勝負にかけ、勝利をできるかという点において似ているのですね。
「ジェネラル・ルージュの凱旋」で速水が大胆かつ獅子奮迅の活躍をし、そして強いリーダー・シップを発揮できるのは医大生時代の修練によるものであるということがわかります。
速水、清川の性格を見抜き、それぞれを導くのが、のちに東城大学病院長になる高階であるところがなかなか気が利いています。
この人、昔からタヌキだったんですね。
あと田口・白鳥シリーズの田口もちらりと登場します。
いよいよ「桜宮サーガ」の世界観も時間軸、空間軸ともに広がっていきますね。

海堂尊作品「夢見る黄金地球儀」の記事はこちら→
海堂尊作品「ジェネラル・ルージュの凱旋」の記事はこちら→
海堂尊作品「ジーン・ワルツ」の記事はこちら→

「ひかりの剣」海堂尊著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-327270-2

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2010年1月17日 (日)

「板尾創路の脱獄王」 怪優板尾創路を板尾創路が撮る

お笑い出身の方が映画監督に進出するというのは、北野武さん、松本人志さんなど最近は多く見られますが、板尾創路さんもとうとう本作で監督デビューをしました。
板尾創路さんと言えば、現在はお笑いだけではなく、個性派俳優として様々な映画作品で怪演しフィールドを広げているので期待も高まります。
ただややもすると映画出身でない監督の方は、自分の個性を前に出そうとする傾向があり、どうも映画としてのストーリーや構成が独りよがりになることがあります(それがいい方に転ぶこともあります)。
さて、板尾監督の場合はいかに?と思って観にいきましたが、思いのほかきちんとされていたシナリオ、構成で、デビュー作にしてはしっかりしているという感じを受けました。
これは映画監督の山口雄大さんが脚本に参加していることも大きいのでしょうか。

何度も捕まってはその度ごとに脱獄し、そしてまた捕まるということを繰り返す謎の男、鈴木雅之(板尾創路さんが主演も務める)。
彼はいつしか「脱獄王」と呼ばれることになります。
看守長金村(國村準さん)は脱獄を繰り返す鈴木に興味を持ちます。
なぜ鈴木は脱獄を繰り返し、そしてわざわざまた捕まりやすい逃走ルートを選ぶのか。
鈴木は何から逃げているのか。
まさに金村の疑問は観客である僕たちが物語から感じるものと同じであり、それがストーリーを引っ張っていきます。
そういう意味では、本作は非常にオーソドックスな作りであると思います。
けれども鈴木を演じる板尾さんは、一言も話さずあまり表情を表さない役柄にも関わらず、あいかわらずのシュールな怪演を見せてくれます。
板尾さんが演じる役というのは何か日常からズレているような不穏な感じを与えます。
それが微妙な居心地の悪さ感を引き起こし、映画全体に不思議な雰囲気を纏わせるのです。
その点は板尾さんは希有な俳優であると言っていいでしょう。
そして本作は俳優板尾創路のことをよくわかっている、監督板尾創路が撮っているということで彼自身が持つ不穏な雰囲気が作品にもよく出ていると思います。

<ここからネタバレなので注意>

「鈴木!お前、何から逃げているんだ!」
金村はずっと気になっていたことを後半に、鈴木本人に問いかけます。
けれどもそれに鈴木は答えません。
その後、挿入される回想で、鈴木は受刑者の母を持ち、刑務所で生まれ(母は自分を産み死んでしまいます)、また父親も警察に追われる犯罪者であったということがわかります。
そのため養護施設で育てられ、折檻されて物置等に閉じ込められることもしばしば。
たぶん彼にとって、いわゆるシャバの世界の方に自分の居場所を見いだせなかったのでしょう。
母は死に、父は行方不明、そして周りは敵意のある目で彼のことを見たのでしょう。
唯一彼が世界と繋がっている部分は、どこかで生きているであろう父の存在。
たぶん父は警察に追われていたので、どこかの刑務所に収監されているであろうと彼は考えたのでしょう。
彼にとってシャバこそ牢獄であり、そして牢獄の中こそが家族と繋がることができる唯一の場であったのでしょう。

最後のオチは笑いました。
このあたりお笑い出身監督らしい見事な落し方でした。
板尾監督には今後も活躍してくれることを期待したいと思います。

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2010年1月16日 (土)

「かいじゅうたちのいるところ」 心の中のかいじゅう

マックスはとても不機嫌でした。
彼はまだ9歳の男の子。
年の離れたお姉ちゃんは(たぶん)仲良く前はいっしょに遊んでくれていたのに、最近は友達づきあいが忙しくあまりかまってくれません。
お母さんはお仕事で忙しいし、自分よりも好きな男のひとが出来た様子です。
僕のことをだれもかまってくれない。
お母さんやお姉ちゃんが大好きなのに大嫌い。
マックスは自分の心の中で荒れ狂う感情に翻弄されているようです。
それはまさにかいじゅうが心の中で暴れているよう。
マックスはある日、母親とケンカをして家を飛び出してしまいます。

マックスがたどり着いた見知らぬ島。
そこには不気味な風貌をしたかいじゅうたちが暮らしていました。
ちょっとした嘘からマックスは彼らに「王様」として扱われます。
彼らかいじゅうは人の心のなかにいる激しい感情のメタファーです。
なかでもキャロルはマックスの心の中で荒れ狂う感情そのものを具象化したよう。
寂しがり屋であり、そしてかまいたがってもらいたがりであり、そして思ったように扱ってもらえないと癇癪を起こす。
これはマックスに限らず、子供というものはそもそもそういうものなのです。
子供は成長するに従い、社会と接する中で「分別」というものを身につけて大人になっていくのです。
9歳児の頃、自分はどのように感じていたのか、あまり覚えていません。
けれどたぶん大人から見れば、少なからずわがままであったり、突拍子もなかったりしたと思うのです。
マックスのお母さんがしかった時に「uncontrollable!(手に負えない子!)」と言います。
それにショックを受け、マックスは家を飛び出したのですが、またマックスはイライラ虫で仲間たちに迷惑をかけるキャロルに同じように「uncontrollable!」と言ってしまいます。
たぶんこのとき初めてマックスは自分の中のかいじゅうを意識したのではないのでしょうか。
心の中のかいじゅうというのは、実は大人になったからといっていなくなっているのではないと思います。
普段の生活では「分別」という蓋をして、そのかいじゅうを押さえつけていますが、何かショックを受けた時とかに怒りや悲しみに心がすっかり覆われてしまうようなことは誰しもあると思います。
大人も心の底にはかいじゅうがいるのだと思います。
心が怒りや悲しみで圧倒された後というのは、がっくりと呆然としたような感じがあると思います。
普段は自ら気づくことはありませんが、それほどに心の中のかいじゅうというのは圧倒的なパワーを持っているのです。
小さい子供の頃の気持ちというのは今でははっきりと思い出せませんが、たぶんそのような自分でも制御できない「uncontrollable」な激情に毎日のように翻弄されているのかもしれませんね。
「分別」というのは、そんな感情の嵐から抜け出すために身につける、自分の心のなかのかいじゅうに対する方策なのかもしれません。

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2010年1月11日 (月)

本 「夢見る黄金地球儀」

海堂尊さんの作品の中では医療が題材でない作品は珍しい。
とはいえ、海堂さんの作品の世界である「桜宮市」が舞台となっていて、田口・白鳥シリーズの「ナイチンゲールの沈黙」にも登場している浜田小夜、牧村瑞人が登場していて、一連の作品群とリンクしています。
最近の海堂さんはミステリーというジャンルに囚われずに作品を書いていますが、本作はクライムコメディといったところでしょうか。
ただしそれがうまく言っているかというと、ちょっと首を傾げたくなります。
海堂さんの作品は良質の作品が多いですが、やや出来不出来の差があるような感じがします。
田口・白鳥シリーズでも「チーム・バチスタの栄光」や「ジェネラル・ルージュの凱旋」はおもしろさのですが、「ナイチンゲールの沈黙」はそれほどでもなかったり。
これは多分、設定のありえなさの匙加減によるような気がします。
小説なので、設定や人物像というのはフィクションであったり、ディフォルメされていたりするわけです。
海堂さんの作品はやや突拍子もない人物を出しながらも、題材としては現実の問題を提示しているところがあります。
このありえなさと現実の問題の提示という点で本作はややバランスが悪いかと。
するするっと読める良さはあるのですけれど、そのまま最後までするっといってしまうというか。
あまりひっかかりがないのですよね。
文庫の帯に「超弩級ジェットコースター・コンゲーム」とありましたが、それほどの勢いは感じなかったというのが正直なところです。

海堂尊さん作品「ナイチンゲールの沈黙」の記事はこちら→

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「マッハ!弐」 ジャッキー映画へのオマージュ溢れる

久しぶりにトニー・ジャーの新作がやってきました。
それも今回は彼自身による監督作品です。
知っている方もいるかと思いますが、トニー・ジャーについて解説を。
彼はタイの映画「マッハ!」で彗星の如く登場したアクション俳優です。
ノーCG、ノーワイヤー、ノースタント、ノー早回しで作られた「マッハ!」でのトニー・ジャーのまさに体を張ったアクションは、CGやワイヤーに慣れてしまった観客の度肝を抜きました。
ほんとに膝に火を纏っての、ファイヤー膝蹴りはすごすぎました。
生身にこだわるアクションはジャッキー・チェンの最盛期を思わせるものがあります。
確かに「マッハ!」はジャッキー・チェンへのオマージュが溢れていて、「ポリス・ストーリー」や「プロジェクトA」を彷彿させる、街中での身体能力を活かしたアクロバティックな追跡とか、道具を使ったアクションなどにそれを感じることができます(あとエングィングのNG集も)。
本作「マッハ!弐」は、「弐」と言いながらも「マッハ!」の続編ではありません。
描く時代も現代ではありませんし、なにしろ物語が全編とてもシリアスなところが「マッハ!」とは大きく異なります。
アユタヤ王朝に滅ぼされた国の王子であるティン(トニー・ジャー)の復讐劇でありますから、よりバイオレンス色が強くなっています。
それでもやはり本作についてもジャッキー・チェンへのオマージュに溢れているように思えます。
「マッハ!」がさきほどあげたジャッキーの監督時代の作品へのオマージュであるなら、本作はジャッキーが主演をし始めた頃のカンフー映画に対するオマージュであると言えましょう。
ジャッキー・チェン初期の主演作である「蛇拳」も「酔拳」も基本的には復讐劇ですから。
そして何よりも、今までムエタイにこだわってきていたトニー・ジャーが中国拳法に挑んでいますから。
さきほどあげた蛇拳、酔拳、虎拳、蟷螂拳などジャッキーのカンフー映画で観た中国拳法をトニー・ジャーが披露しています。
コミカルな要素もあったジャッキーのスタイルと違い、本作のトニー・ジャーは荒々しいスタイルですが。
中国拳法だけでなく、日本の居合であったり、三節棍であったりといった道具を使った武術も今回は観れます。
しかしこういう身体能力が高い人はどんなスタイルの武術もこなせてしまうのですねえ。
間合いとか呼吸とかずいぶん違うとは思うのですけれど、やはり恐るべき才能です。
お話としては初期のジャッキー作品と同様に別段凝ったところはありません。
やはりトニー・ジャーのアクションを瞠目して観るというのが、正しい見方でしょう。
東京では一館のみの公開だからか、初回を観たのですけれども、かなりお客さんが入っていました。
けっこうトニー・ジャーファン多いのですねえ。

トニー・ジャー主演「マッハ!」の記事はこちら→

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2010年1月10日 (日)

「(500)日のサマー」 心の傷にしみる・・・

アタタタタ・・・、心の傷がうずきます。
本作「(500)日のサマー」は冒頭にあるように、ボーイ・ミーツ・ガールの物語。
そしてハッピーエンドではない物語。
主人公トム(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)は、新しく同僚となった美人でちょっと変わった性格のサマー(ズーイー・デシャネル)に一目惚れ。
ちょっとしたきっかけで二人はつき合い始め、そして別れます。
好きな女性とつき合い始めた時の、まさに歌いたくなるほどに浮き浮きした気持ち。
彼女が自分から離れていこうとしているのではないのかというときの不安な気持ち。
そして彼女と離れてしまうということが決定的になったときの奈落に突き落とされるような気持ち。
誰でも人を恋して、別れて、その間に感じた甘くて苦い気持ちがとても素直に語られています。
物語は終止トムの視点で語られます。
サマーという女性についてはトムが見たままの姿でしかわかりません。
実際つき合っている相手については、自分から見た姿、というより自分の心の中にある相手のイメージしか見えないわけですよね。
それがとてもリアルに感じます。
トムにとってサマーは突拍子もなくて、気ままで自分本位な女性に見えます。
でもサマーに限らず、恋愛しているときの相手なんて、自分からしたらまさにそんな感じ。
相手のささいな言葉や仕草に一喜一憂したり。
相手の笑顔や声がとても愛らしくて大好きだと思うことがあれば、それらがいらいらしてしまう対象になって大嫌いになってみたり。

自分自身でもむかーし同じようなことがあって、そのときの気持ちが甦ってきてしまいました。
そのときの相手の女性も、まさしくサマーのような人でした。
向こうからのアプローチでなんとなくつき合い始めて、それから好きになって、本気になったらフラれた・・・(泣)。
なんで?と問うても、結局は明確な答えらしいものをもらえず、問いつめるとそのまま逆ギレされて終わり・・・。
そのときは最悪・・・。
つき合っていた時はまさしくバラ色で、そしてふられたときは真っ暗闇です。
まさにトムと同じで、本作ではトムに感情移入しまくりでした。
トムがサマーと出会って別れて、そして立ち直るまで500日。
んー、僕の場合はその日数を遥かに過ぎていますが、また(1)から始められるのでしょうか・・・。

サマー役のズーイー・デシャネルはかわいい人ですね。
かわいいだけにサマーの仕打ちは、男子にはきついです。
ズーイー・デシャネルは、テレビドラマ「BONES」でテンペランス・ブレナンを演じているエイミー・デシャネルの妹さんなんですね。
そういえば、目元とかは似ているかも。
これから活躍が期待されますね。

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2010年1月 9日 (土)

本 「零の発見 -数学の生い立ち-」

岩波新書のロングセラーの本書「零の発見 -数学の生い立ち-」を読んでみました。
初版は1936年ということですから、80年以上も読み継がれていることになります。
僕が書店で購入したのは、第102刷(!)というものでした。
新書というのは、書かれた当時から周辺環境の変化や社会や科学の進歩などにより、たちまち内容が古くなってしまいがちですが、これだけ長い間読まれているということはその内容が本質をついているからこそでしょう。
タイトルの「零の発見」にある「零」とは、これは文字通り数字の「0」のことです。
僕たちが当たり前に使っているこの「0」という概念は、インドで名もなき人々により作られました。
それまではギリシャにおいてもエジプトにおいても数学はありましたが、「0」の概念はなかったのです。
わかりやすいのは、漢字で大きな数を書いてみましょう。
「四億五千二百三万千七百五十一」。
これをアラビア数字で書くと「452,031,751」となります。
数字で書くと10万の桁に「0」がありますが、漢字にはありません。
これは古代ギリシャ、エジプトにおいても同様でした。
ここで「0」の表記により、何が起こるかというと、計算のしやすさが違います。
想像してみてください。
「四億五千二百三万千七百五十一」足す「三億五百四十九万二千七百七十」は?
すごく計算しづらいことがわかるでしょう。
これをアラビア数字で書くと

  452,031,751
+ 305,492,770
------------------------
  757,524,521

と断然計算しやすくなるわけです。
これがかけ算や割り算だったら、どれだけたいへんかは想像に難くないでしょう。
なぜアラビア数字は計算が楽であるかというと位取りがあっているからです。
位取りを合わせるためには「0」の概念が必要でありました。
何を当たり前のことをと考える方もいるかと思いますが、これは画期的な発見でした。
アラビア数字は「計算数字」、それ以前の数字表記は「記録数字」ということができます。
人類は「計算数字」を手に入れたことにより、より複雑な計算をすることができ、それが科学の発展の礎になっていくのです。
本著はこのような「零の発見」の話以外にも、数学にまつわる様々なエピソードが掲載されています。
数学の本ではありますが、それほど難しい内容ではないので、興味がある方は手にとってみてもよろしいのではないでしょうか。

「零の発見 -数学の生い立ち-」吉田洋一著 岩波書店 新書 ISBN4-00-400013-0

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2010年1月 7日 (木)

「仮面ライダー対ショッカー」 すべての始まり

現在公開中の「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイドMOVIE大戦2010」で完結編を迎えた「仮面ライダーディケイド」は平成仮面ライダーのみならず、昭和仮面ライダーまで巻き込んだ壮大なるメタフィクションとなっていました。
完結編では、歴代の敵組織の怪人たちが登場していていますが、その中でさりげなく登場していた懐かしの怪人がひとり。
その名はザンジオー。
ザンジオーは、仮面ライダーシリーズの第一作「仮面ライダー」の記念すべき初めての劇場作品に登場した劇場版オリジナルの改造人間なのです。
このあたり、「ディケイド」のメタフィクション的なこだわりがうかがえます。
子供の頃の僕はご多分に漏れずライダーカードを集めていてその中の写真でザンジオーは知っていましたが、それが物語の中で動いている姿は観たことがありませんでした。
なぜならその頃はDVD、というより家庭用ビデオデッキですら存在しない時代であったので、劇場に行かなければその作品を観ることができなかったのです。
本作は(ある年齢以上の方はご存知のはずの)「東映まんがまつり」の中の一作品として公開されたため、再映はほとんどありえまんでした。
テレビシリーズについては再放送、再々放送などがあり、ほとんど観たことがあるのですが、劇場版はビデオが普及するまでは観たことがありませんでした。
そういう意味では、子供の頃の僕にとってザンジオーは「幻の怪人」であったのです。
そのザンジオーが登場する作品のタイトルが「仮面ライダー対ショッカー」でありました。
昨年夏に公開された「ディケイド」の「劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」というのは、そのタイトルからわかるように「仮面ライダー」シリーズ初めての劇場版へのオマージュであったわけです。

「オールライダー対大ショッカー」はタイトルだけでなく、内容でも本作へのオマージュが散見されます。
劇場版第一作の「仮面ライダー対ショッカー」では初めて「仮面ライダー」シリーズがダブルライダーとして二人が揃いぶみの姿がみられました。
これは当時の子供たちにとっては大興奮の出来事であったに違いありません。
そもそも仮面ライダー1号、2号という設定はもともと想定されていたものではありません。
有名な話ですが、仮面ライダー1号本郷猛を演じていた藤岡弘さんが、撮影中に重傷を負い、シリーズを続けることが不可能になるというアクシデントが起こりました。
そこで苦肉の策として、物語の中では1号は海外のショッカーを倒しに海を渡り、代わりに仮面ライダー2号一文字隼人が登場するということになったのです。
アクシデントに端を発するこの設定ですが、本作、そしてテレビシリーズの桜島編でのダブルライダー共演により、作品世界を広げるという可能性を見いだしたのです。
1号、2号という設定は、その後の「V3」へ繋がり、連綿と繋がる「仮面ライダー」の系譜のすべての始まりとなるのです。
ライダー共演はその後の「V3」「X」とシリーズが展開される中で継承されていき、ときおりイベント編として「ライダー揃いぶみ」が行われることになります。
平成仮面ライダーになり、それぞれの世界観が独立しているが故にこのような「揃いぶみ」が観られることはないかと思いましたが、「ディケイド」の荒技とも言うべきアクロバティックな手法により、「ライダー揃いぶみ」を実現することができたのです。
これは確かに「仮面ライダー」シリーズ劇場版第一作の「仮面ライダー対ショッカー」のダブルライダー登場のときに感じた胸の興奮を再現したことになっていたと思います。
「仮面ライダーディケイド」という作品は平成仮面ライダーの総括ということのみならず、昭和仮面ライダーまでを含めた「仮面ライダー」シリーズのいったんの総括となっているのです。

ちょっと脱線しますが、特撮ヒーローの総括という点では「ウルトラマンメビウス」がやはり「ウルトラマン」シリーズの総括を行っていますが、この作品は物語を収斂させてしまっているがゆえに、その後のシリーズの存続を困難なものにしています。
たぶんそのために「メビウス」以降は新しいウルトラマンを生み出すことはできず、いったんの休止期間に入ってしまったと考えられます。
「ウルトラマン」については円谷に新しい血が入り、苦肉の策として「大怪獣バトル」とのクロスオーバーというこれもまたアクロバティックな技により、シリーズを続けるエネルギーを得ようとしています。

その点、「ディケイド」は総括をしつつも、収斂はさせていないため、まだその「仮面ライダー」の物語世界は拡大する余地を含みつつ終了しました。
現在放映中の「仮面ライダーW」は想像上の都市、風都を舞台とし、よりその世界を広げつつあります。
新たに発展するエネルギーを得た「仮面ライダー」シリーズはさらにさらに物語世界を拡張し、発展していくことでしょう。

「劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」の記事はこちら→
「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイドMOVIE大戦2010」の記事はこちら→

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2010年1月 4日 (月)

これは観たくなる予告編-1 「NINE」

こちらのブログでは映画については観賞後に感想を掲載してきました。
先日思いつきで、今年年末(10年冬ね)に公開される「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の予告についての記事を書いたところ、思いのほかアクセスがあってちょっと驚きました。

そこで、ふと思いました。
映画好きの方は、どうやって観る映画を決めているのでしょう?
雑誌記事やテレビCM?
ホームページやブログ?
自分を顧みると、劇場で観る予告編で、「観たい!」と思うことが圧倒的に多いのですよね。
たぶん劇場に足を運ぶ映画好きの方ほどそうなのではないでしょうか。

ということで新年も始まりましたし、新企画ということで「これは観たくなる予告編」というのをやってみたいと思います(計画性なく思いつきなのですけど)。
予告編というのは単純に本編のいいところを繋げばいいってものではないと思います。
いかにその映画のコンセプトや雰囲気をコンパクトに、かつ印象的に伝えるか?
おもしろそうに見せなければいけないけれど、全部見せちゃいけない。
僕も自分の会社の広告を担当しているのでわかるのですが、これはけっこう難しいのです。

と前段はここだけにして。
今回ご紹介するのは、「NINE」です。
「シカゴ」のロブ・マーシャル監督で、ダニエル・デイ=ルイス、マリオン・コティアール、ペネロペ・クルス、ジョディ・リンチ、ニコール・キッドマンなど錚々たるメンバー出演のミュージカルです。

予告編は2分30秒ほどですが、中盤からついている音楽はスローなテンポで入り、それが激しく情熱的に変わります。
ミュージカル映画らしく予告編も曲にあわせた絶妙な編集をしているので、曲の調子にあわせて映像も激しく展開されます。
音楽が盛り上がるとともに豪華な出演者たちのカット、きらびやかなセット、またダンスシーンが畳み掛けるように映し出されこの映画がドラマチックになることを予感させてくれます。
予告編の最後、音楽がジャジャジャン!と終わるところで、「NINE」とタイトルが出ます。
観たいぞ、これは!と思ってしまいます。
これぞ「これは観たくなる予告編」ですね。

英語版の予告編も観てみましたが、全く編集は同じですね。
日本語版は字幕を入れ、キャスティングやコピーを入れているだけ。
やはりミュージカル映画で編集のセンスが問われますから、編集はきちんと大元で作ったものを全世界的に使っているのでしょうか。
こちら英語版の予告編です(埋め込みできないのでYouTubeでご覧ください)。

こんな調子で本企画、やっていきたいと思います。
僕が気に入った予告編を観た時にということになりますので、不定期になりますが、よろしくお願いします。

これは観たくなる予告編-0 「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の記事はこちら→
↑「ヤマト」については0番にさせていただきました。

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本 「シアター!」

お正月休みなので、読書も進みます。
さて今日ご紹介するのは、有川浩さんの最新作「シアター!」です。
有川さんの人気シリーズ「図書館戦争」はメディアワークスからハードカバーが出版されていますが、そのメディアワークスが文庫を創刊するということで、有川さんが文庫で新作を書き下ろしています。

本作で舞台となるのは小劇団。
春川巧が主宰する「シアターフラッグ」はそこそこ人気があるのですが、資金繰りに困り解散の危機に。
そこで巧は兄の司に援助を乞いますが、司はそうする代わりに二年間で貸した金300万を返済できなかったら劇団を解散せよと条件を出しました。
さてさて「シアターフラッグ」は無事借金を返せるのか・・・。

「シアターフラッグ」の面々は、「図書館戦争」を思わせるような豊かなキャラクターが揃っています。
有川さんの作品はキャラクター同士の絡みが面白かったりするので、小劇団という題材はぴたりとはまっています。
有川さんの作品では、性格が真反対のキャラクターが二人重要な位置を占めることが多いのですが、それを本作で担うのは司と巧の兄弟です。
本作は多くの部分が司の目線で語られているので、司が主人公扱いなのかな?
この司がけっこういいのです。
クールで冷徹で、ばっさばさと劇団の無駄な経費を切っていくので、「鉄血宰相」と劇団員からあだ名をつけられますが、その実、けっこう弟思いであり、他の劇団員にも目を配れるやさしいところも持っています。
本人はそういう面を出すのを嫌いますが、不器用なキャラというのは有川作品では定番ですよね。
何が気に入ったって、司が怒ったときに相手にいう威嚇の文句。
「おまえ、吊るす!」
吊るすってどこに!?と突っ込みたくなりましたが、これが僕的には非常にはまってしまって。
密かに自分の中では流行しそうです。

無事に「シアターフラッグ」は公演をちょっとながらも黒字にすることができました。
けれども司への借金はまだほとんど残っているという状況。
二年の間に完済できるのでしょうか?

これシリーズ化しますよね?
メディアワークスだからポスト「図書館戦争」を狙っていると思うのですけれど。
ファンをしては願ったり叶ったりなので、早く続編をよろしくお願いいたします。

有川さん作品としてはややベタ甘度は低め。
ただし、司と千歳とかややその方向に発展しそうな雰囲気もあり。
牧子の想いも巧に通じてうまくいくといいですねえ。

「シアター!」有川浩著 メディアワークス 文庫 ISBN978-4-04-868221-3

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2010年1月 3日 (日)

「よなよなペンギン」 りんたろう監督らしい映像と音

好きなアニメーション監督の一人、りんたろうさんが久しぶりに監督するということで観に行ってきました。
りんたろうさんと言えば、「銀河鉄道999」や「幻魔大戦」という作品があがるかと思いますが、僕は「カムイの剣」という作品が好き。
こちらについてはいずれこちらのブログでご紹介したいと思います。

さて本作「よなよなペンギン」についてです。
こちらの作品は日仏合作で14億円もの製作費で作られた3DCGアニメです。
本作は亡き父親が言ったペンギンも空を飛ぶことができると信じているココが、ひょんなことからゴブリンの国を訪れ、そしてその世界を救うというおとぎ話です。
それほど新味のあるストーリーではありません。
どちらかというとどこの国にもあるおとぎ話です。
世界観も和洋折衷のような感じであり、日本でもフランスでも子供たちに受け入れられることを狙っているのかもしれません。
ややそういう意味では個性が強くない作品に思えました。
3DCGアニメは、アメリカでも日本でも何本もの作品が作られている中で、映像技術的には本作が群を抜いてすばらしいわけでもありません。
テクニカルな部分ではピクサー作品の方が数段上という印象を受けました。

僕はりんたろう監督の優れた点というのは、光と音の使い方だと思っています。
セルアニメの時、透過光というテクニックがありました。
これはセルを撮影するときに光を透過させて、べた塗りの部分とは異なる光を表現する手法です。
この使い方が非常に上手い監督でした。
例えば「銀河鉄道999」の999の機関車上部のライトの表現とか、「幻魔大戦」でのベガの登場シーンとか爆発シーンの部分とか。
基本的にデジタルアニメではセル撮影がないため透過光というテクニックは使えませんが、やはりりんたろう監督は光の使い方についてはこだわっていたと思います。
あと音については、監督は音楽や音のサウンド系と映像のシンクロについてはこだわりを持っていると思います。
「カムイの剣」での竜童組の音楽と映像のシンクロは一見一聴の価値ありです。
本作もほとんどのシーンは背景音楽があり、映像だけでなく音で物語を語っているということがわかります。
ストーリー上も音は重要なファクターとなっていましたね。

作品としてはちょっともの足りない印象を持ちましたが、やはりりんたろう監督の作品であるなと、らしさを感じたりもしました。

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本 「世界の中心で、愛をさけぶ」

はい、いわゆる「セカチュー」です。
僕は純愛ものとか、難病ものっていうのはちょっと偏見を持っていまして・・・。
お涙頂戴的な企画というのは、観客や読者にわかりやすい分、とても安易ではないかという不純さを感じてしまうのですよね。
ですので、映画の「世界の中心で、愛をさけぶ」も公開時には観なかったのです。
で、たまたまDVDで観たら、号泣してしまいまして・・・。
なんというかとても良かったんですよね。

でも相変わらず、純愛・難病ものアレルギーみたいなものはありまして。
原作小説もやはり避けていたのですが、今回読んでみました。
結果的には、やはり良かったのです。
映画は大人になったサクが、あの頃を思い出すという構成でしたが、原作小説はサクとアキのその頃をほぼリアルタイムで描いています。
片山恭一さんの文体は、とても映像的でその情景が目に浮かぶようです。
それもリアルさというよりは、なんだか輝かしい青春時代を観るようなキラキラしたイメージなのですよね。
だから是定監督も、青春時代を思い返すという構成にしたのかもしれません。
サクがアキを、アキがサクを、心の底から思い合い必要としていることが伝わってきます。
それは少年期・少女期だからこその純粋さなのかもしれません。
けれどそれはほんとうに思い合うと大事なときで、この経験を経たことというのはサクの人生をとても意味あるものとしているように思います。
また本作は人の死というものに、想像していたよりも真摯に向き合っていることに感銘を受けました。
サクがアキを失い、未来への希望を失っている時に、サクの祖父がこう言います。

「好きな人を失うのはなぜ辛いのだろうか。それはすでにその人のことを好きになってしまったからではないかな。別れや不在そのものが悲しいのではない。その人に寄せる思いがあるから、別れはいたたまれなく、面影は懐かしく追い求められる。また、哀惜は尽きることがないのだ。すると悲哀や哀情も、人を好きになるという大きな感情の、ある一面的な現れに過ぎぬとは言えないかな」

愛と死というのは様々な物語で語られますが、この一文は真正面にこのテーマに向き合っているという気がします。
「愛」という言葉は、あまりに使われすぎていて、その本当の意味に比べとても陳腐なイメージを持っているような気がします。
ですので、「愛」とかタイトルをつけている作品はどうもうさんくささを感じてしまうのです。
けれども「世界の中心で、愛をさけぶ」というド真正面なタイトルをつけたというのは、「愛」と「死」に真摯に向き合おうという著者の意志の表れであったのかなと読み終えて思いました。
いわゆるお涙頂戴ものと思っていたのが、たいへん失礼だったなと反省する次第です。

「世界の中心で、愛をさけぶ」片山恭一著 小学館 文庫 ISBN4-09-408097-X

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2010年1月 2日 (土)

「SPACE BATTLESHIP ヤマト」<予告>

予告編について記事を書いたことがないのですが・・・。
いつもやりとりさせていただいているSOARさんに教えていただき、実写版「宇宙戦艦ヤマト」の予告がテレビで流れていると知りました。
今日、シャンテシネに行ったら、劇場でも予告がかかっていました!
昨年末のアニメの「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」はけちょんけちょんに書いてしまいましたが、実写版は山崎貴監督が作るということで期待していたのです。
木村拓哉さんの古代進のキャスティングが発表時には話題になりましたが、これがけっこういいんですよ。
もともと木村拓哉さんていう方はキムタクというキャラクターを演じているようなところもあるので、アニメのキャラクターである古代には、実は親和性が高いのではないかと思いました。
あの派手なユニフォームもちゃんと着こなしてしまうところが、さすがキムタク!
グローブを口にくわえながら険しい顔をして上着を羽織るシーンが予告で流れるのですが、これがきまっています。
他のキャスティングも発表されていますが、イメージ合いそうな人が多いです。
山崎努さんの沖田艦長は予告でも流れていましたが、けっこういい感じ。
あと真田さんを柳葉敏郎さん、徳川機関長を西田敏行さんなど、イメージまんまじゃん!という感じです。
メカニカルな部分もなかなか良さそう。
波動エンジンなんかもアニメのイメージが活かされていてカッコ良い!
宇宙戦もちょっとだけしか予告では流れていませんでしたが、「ギャラクティカ」のような感じがしました。
もしや「SPACE BATTLESHIP ヤマト」というタイトルは「SPACE BATTLESHIP GALACTICA」(「ギャラクティカ」の英文タイトル)をものすごく意識してる?
意識しちゃって下さい!
あちらのBATTLESHIPに負けないくらいの作品を期待しております。

ところでスターシャは出てくるのかな?
出てくるとしたら誰が演じるのだろう?
あとデスラー総統は顔を青塗りした伊武雅刀さんでお願いしたい!
素顔で「ヤマトの諸君」と言ってもらいたいのですけど(お笑いになっちゃうか・・・)

そういえば山崎貴監督は「ジュブナイル」で香取君、「BALLAD」で草彅君、今度の「ヤマト」でキムタクと組んでるんですよね。
もしやSMAPコンプリートを目指してるのかしらん。

「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の公式サイトはこちら→

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「ヴィクトリア女王 世紀の愛」 一方聞いて沙汰するな

昨年の最後の観賞はシャンテでしたが、今年の最初も同じくシャンテで。
「エリザベス」とか「ブーリン家の姉妹」とかイギリスの歴史物も最近は観るようになり、ちょっとは彼の国の歴史にも詳しくなったかな・・・。
と思っていたら、本作も最初の方は時代背景や人物背景に知識がなかったので、やや催眠状態に・・・。
ですが、ヴィクトリアとアルバートが結婚してからは俄然目がパッチリとしました。
パッチリとしたのは二人の愛ということだけではなくて、観ながら統治システムということについて考えたからでした。
権力が集中している王政というのは、その頂点に立つ王が賢明であるならば優れたシステムと言えます。何故ならば様々な決断をするに際し、その決定のスピードが速いということ、そしてその推進力が強いということがあります。
一昨年の自民党末期をみればわかるように、議会制民主主義というのはあのような状況になると空転し、様々な重要なことが決まらないまま、時が過ぎていくという事態となります。
けれども王政は王が暗愚であったり、また経験が少ない場合にはこのシステムは悪い方向に振れます。
それは権力が集中しているだけあって、社会に破壊的なダメージを与えます。
そういう点で、権力者にはすべての情報が等しく入らなくてはいけませんが、結局は側近にいいように情報操作されてしまうわけです。
これは本作でもヴィクトリアが王位に就いたときの様子で描かれています。
本作を観ながら、一昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」を思い出しました。
篤姫の場合は女王ではなく、どちらかというと本作でのアルバートのような立場ではありますが。
「篤姫」の物語の中で、彼女の母が「一方聞いて沙汰するな」ということを篤姫に教える場面があります。
対立する意見の両方をの言い分をきちんと聞いて判断せよ、ということなのですが、これが実際にはなかなか難しい。
統治者本人がそういう気があったとしても、双方の意見をきちんと聞ける状態にできるかどうかというのが難しいのです。
本作ラストではヴィクトリアとアルバートが共同統治を行ったと出ます。
女王一人の判断ではなく、重要な懸案についてはアルバートと共に解決の方法を見つけ出したということでしょう。
こちらも「篤姫」での将軍家定と篤姫の関係を思い出しました。
この統治システムというのは、王政の問題だけではなくて、現在の会社組織などにも言えるでしょう。
ワンマン社長の会社というのは王政と同じようなところがあります。
いくら優れた社長でもすべての情報を把握するのは難しい。
公平に情報を集める仕組みを作る、そしてできれば同等に意見を交換できるボードメンバーがいるということが望ましいですね。

全然、本作のテーマとは異なる視点で作品を観てしまいました。
こういう見方もあるということで・・・。

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本 「マグマ」

「ハゲタカ」の真山仁さんの作品です。
全く別の物語ですが、「ハゲタカ」でも出ていたゴールドバーグ・キャピタルという外資ファンドはこちらでも登場します。
本作が題材としているのは「地熱発電」。
真山さんは「ハゲタカ」もそうでしたが、現在日本の社会について一般の僕たちがよく知らないことを深くえぐり、そしてまた一級のエンターテイメントに仕立てあげる力がある作家さんだと思います。
本作では地熱発電を通じて、日本のエネルギー政策について切り込んでいます。
地熱発電とはどのようなものか知っている方はいらっしゃいますでしょうか。
基本的に発電というものは、水力であろうと、火力であろうと、また原子力であろうと、基本的には水または水蒸気でタービンを回して電気を起こすということは変わりません。
水力はダムに貯水された水の位置エネルギーを電気に変えます。
火力・原子力はそのエネルギーによりいったん熱エネルギーを発生させ、それによりエネルギーを持った水蒸気の力でタービンを回し、電気エネルギーに変換します。
実はこの方式は熱エネルギーすべてが電気エネルギーに変換されるわけではありません。
火力でだいたい3割強しか電気エネルギーにはなりません。
7割の熱エネルギーは無駄になっているわけです。
この熱エネルギーは火力発電の場合は、ご存知の通り石油を燃やして得るわけです。
つまりは7割の石油は無駄になっているわけなのですね。
地熱発電も基本的には同じで、その熱エネルギーを地熱に求めるのです。
地球は地下にいけばいくほど温度が上昇します。
そこには熱水層(温泉などもそう)があり、その熱せられた水のエネルギーでタービンを回すのです。
地熱についてはもともと地球内部の熱エネルギーを利用しているわけで、二酸化炭素排出や放射能の危険などはないエコで安全なシステムです。
また日本は火山国であり、熱源には事欠かないので、日本に向いているシステムとも言えましょう。
ただ原子力発電に比べ投資効率が悪い(設備投資が必要だが生み出すエネルギーは少ない)ために、あまり顧みられなくなったのです。
本作は、効率ばかりを気にして環境や安全などに力を入れてこなかった電力会社の体質について課題を提起しています。
それでは地熱発電に代替しきれるかというとなかなか難しいかとは思います。
本作で提起されているプラン、すなわち原子力発電については第三者機関による安全性のチェックを高め、現在の火力発電分について地熱発電に置き換えは、よい考えだなと思いました。
地熱発電は初期投資はかかりますが、海外の燃料に頼ることがないので、エネルギー安全保障という点からしても優れているような気がします。

つらつらと書いてきましたが、決して本作は小難しい話ではありません。
地熱発電にかける人々のマグマのように熱い想いもしっかりと描かれ、エンターテイメント作品としてもきちんと出来上がっていますので、ご興味ある方は是非一度読んでみてください。

真山仁作品「ハゲタカ」の記事はこちら→

「マグマ」真山仁著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-394309-8

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「仮面ライダー555(ファイズ)」<平成仮面ライダー振り返り-Part4>

「ディケイド」放送をきっかけに平成仮面ライダーを総括しようと始めた企画「平成仮面ライダー振り返り」ですが、一年間でやっと4シリーズ目「仮面ライダー555」を観賞をし終えました(555はファイズと読みます)。
一年で4シリーズですから、これは3年以上にも及ぶ企画になりそうです。
長い目で見てやってくださいね。
そして平成仮面ライダーが終わったら昭和仮面ライダーにいきますから!
いつになるのだろう・・・(遠い目)。

前回の「龍騎」のときに「1、2を争うほど好きな作品」と書きましたが、実はその相手というのが、本作「仮面ライダー555」になります。
この企画を書いてきた当初より平成仮面ライダーのポイントは「革新性」と「継承性」という相反することだと書いてきましたが、本作はまさにそれが出ていると思います。

「革新性」について一番大きな点は「誰でも変身できる」という点でしょう。
本作では変身するためには「ファイズギア」「カイザギア」と呼ばれる変身ベルトを装着し、専用の携帯電話に変身コード(ファイズなら555、カイザなら513)を入力し、ベルトに装填するという手順を踏みます。
それを行えば、誰でも変身できるのです。
正確に言うと「誰でも」ではなく、その素養があるものだけなのですが、そのことが本作のストーリーに大きく関わります。
昭和仮面ライダーも含め、それまでの仮面ライダーは改造手術なり、何かしらの力を与えられたなりということで、ライダー=主人公という図式がありました。
けれどもそれが本作ではなくなり、それが故に前半のベルトの争奪戦みたいなものが大きくストーリーを動かします。
前作「龍騎」が13人ライダーという飛び道具を持ち出しましたが、同じ路線を行くのではなくそれとは異なった点で再びライダーの常識を破るという試みを本作では行っています。
そのときのファイズが誰だかわからないというのは、仮面の中の人間がわからないということになり、登場するキャラクター同士に疑心暗鬼を起こし、ドラマに緊張感を持たせることに成功しました。
そしてこのアイデアを成功させた一つの要因としてはスーツアクター高岩成二さんの力も大きいかと思います。
スーツアクターとは仮面ライダーに入り演技をしている俳優さんです。
本作の場合は前述したとおり、見た目は同じファイズでもストーリー上は別の人間であるというシチュエーションがなんどもあります。
ですのでスーツアクターには、見た目は同じだけれども別の人間に見えるという演技力が必要になるのです。
高岩さんはそれぞれの俳優、キャラクター性を取り入れ、同じビジュアルにも関わらず見事に演じ分けを行いました。
例えば主人公、乾巧(いぬいたくみ)がファイズになっているときの、キック前のポーズや手を振る仕草等は高岩さんの工夫だと思います。
スーツアクターの演技力というのはその後の平成仮面ライダーでは、そもそものプロットを考える際の必須事項となっていて「電王」などではそれが究極に達しました。

あと「革新性」という点では、敵方についてもとても細かく描くということがあります。
昭和仮面ライダー、そして「クウガ」「アギト」までは敵といのは問答無用に人類では敵でした(「龍騎」は相手も仮面ライダーなので違う)。
本作での敵方というのはオルフェノクという怪人ですが、彼らは普通の人間が死に際し、甦った者たちなのです。
彼らは普段は人間として生きているのです。
巧に対して置かれているキャラクターとして、オルフェノクになりながらも人間として生きたいと願っている木場勇治については、主人公と同様に深く描かれます。
つまりは敵だから倒さなくてはいけないというヒーローものの基本構造自体を本作は揺るがす作りになているのです(これは「ウルトラセブン」の名作「ノンマルトの使者」にも通じるかもしれません)。
そして主人公、乾巧自身もオルフェノクであった事実が判明した中盤で物語は俄然ドラマチックになります。
この点は「革新性」であると同時に「継承性」であるとも言えます。
そもそも最初の「仮面ライダー」というのはショッカーに改造された男、本郷猛の物語です。
彼は脳手術を受ける前に脱走したために人間の心を持っていますが、彼が戦う相手というのは改造人間で、いわば彼の同族なのです。
同族同士が戦い合うというプロットというのは石ノ森作品には多く出てくるものですが、「555」という作品はその意味で石ノ森作品を「正統に」継承していると言えます。
最初の「仮面ライダー」では描かれなかった同族同士で戦い合うことへの、悩み・葛藤というものが本作では深く描かれます。

本作で出てくるキーワードとして「夢」という言葉があります。
乾巧は物語に登場してきたときは、あてもなく旅を続けている青年と描かれます。
自身の夢を語る真理や啓太郎に対して、非常にシニカルな態度をとるヒーローものの主人公としてはあまりいないタイプの人間として描かれます。
けれどその態度というのは、中盤で語られるように自身がオルフェノクであるという事実に基づいたものであるのがわかります。
自分がいつ人間を襲うようになってしまうかもしれないという恐怖、人間でなくなってしまうという恐れ、そのために巧は「夢」を持つ資格がないと思っているのです。
けれども巧は真理や啓太郎、木場などと交流し、さまざまな戦いを経るうちに、彼自身の夢を持つようになります。
最終回のラストシーンはとても切ないながらも、とても暖かい気持ちになれるものであったと思います。

本作は年間50話分を、井上敏樹さんがたった一人で脚本を手がけています(加えて劇場版も担当)。
一年間に及び一人のライターでシリーズを書き上げるというのはなかなか例がないと思います。
もともと井上さんはそういう馬力のある方ですが、一人で書き上げたからこそキャラクターにブレがなく、まれに見る名作に仕上がったのだと思います。
また台詞も素晴らしいものがいくつもありました。
第8話で乾巧と木場勇治がそれぞれに「夢」について語る台詞がすごく好きなんです。

 巧「おい、知っているか。夢を持つとな、時々すっごい切なくなるが、時々すっごく熱くなる、らしいぜ。俺には夢はない。だけどな夢を守ることはできる」

 木場「知っているかな、夢っていうのは呪いと同じなんだ。途中で挫折した者は、ずっと呪われたまま、らしい。あなたの罪は重い」

夢を持っていなかった巧が語る言葉、そして夢を失った木場が発する台詞、それぞれの夢についての想いが表れ、その後の二人のスタンスを暗示している名台詞であると思います。
ご本人も本作は気に入っているのか、後に小説版をオリジナルで書いています。

次はシリーズ第5作「仮面ライダー剣(ブレイド)」を取り上げます。
さてさて次はいつに記事にできることやら・・・。

「仮面ライダークウガ」<平成仮面ライダー振り返り-Part1>の記事はこちら→
「仮面ライダーアギト」<平成仮面ライダー振り返り-Part2>の記事はこちら→
「仮面ライダー龍騎」<平成仮面ライダー振り返り-Part3>の記事はこちら→
「仮面ライダー剣(ブレイド)」<平成仮面ライダー振り返り-Part5>の記事はこちら→

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2010年1月 1日 (金)

「スティング」 粋なカッコよさ

久しぶりに「スティング」を観ました。
本作は時折、思い出したように観るのですが、何度でも楽しめます。
ずいぶん古い映画(1973年)なので若い方ではご覧なっていない人も多いかもしれませんですが、テーマ曲の「The Entertainer」は聞いたことがあると思います。
本作はマフィアを相手にした大掛かりな仕掛けを使った詐欺師たちを描く物語で、この種の作品の常道で何度かドンデン返しがあります。
こういう詐欺師ものは、そのドンデン返しを知ってしまうと二回目以降は楽しめなかったりするものですが、本作は違います。
もちろんそのドンデン返しは最初観た時は、「おおっ、やられた」と思います。
ですが、タネを知ってしまっても、そしてだからこそ本作は楽しめます。

まずはジョージ・ロイ・ヒル監督の丁寧な仕事ぶりが楽しみの一つ。
最近の映画は勢いだけで見せきってしまう作品とか、ゲージツ的なのか観念的でわかりにくい作品など
が見受けられますが、本作はとてもオーソドックスに作られています。
ドンデン返しというのも、きちんと前振りというか、布石を打っているからこそ(本作だと革手袋の殺し屋とか)、それが生きてくるわけであって、本作はそういう監督のきちんとした仕事が観られます。
映画の中の詐欺師たちの手口としても列車の中のポーカーから布石を打って最後のとどめの一撃に繋がるというストーリーを描いていますが、映画としての構成もきちんと組み立てられています。
本作は章立てで進みますが、これはその映画の構成がしっかりしているからこそ。
若い方で映画を作ってみたいっていう人もいるかもしれませんが、「スティング」のようにオーソドックスだけれどもきちんと構成されている映画を観るのも勉強になるかもしれません。

あと楽しめる点としては、映画の中で描かれている雰囲気。
舞台となるのは30年代のシカゴ。
そして映画が公開されたのは73年。
この二つの時代の雰囲気が映画の中に出ていて、なんだかカッコいいのです。
言ってみれば「粋」なんですよ。
伊達男を気取った若い詐欺師フッカー(ロバート・レッドフォード)、渋めのベテラン詐欺師ゴンドーフ(今は亡きポール・ニューマン)が、それぞれにカッコいい。
これはキメキメでカッコいいというの(例えば「パブリック・エネミーズ」のジョニデとか)とも違うんですよね。
なんだろ、余裕のあるカッコよさというか、親しみのあるカッコよさとでも言うのかな。
つまりは「粋」なんですよ。
彼らの「粋」な、その雰囲気を観ているのが楽しいのです。

また何年かして、思い出したように観るのだろうなあ・・・。
若い頃のロバーロ・レッドフォードって、やはりブラピに雰囲気似てますねえ。

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「BONES シーズン3」 際立つキャラ立ち

正月休みということで、録りためていた「BONES シーズン3」を一気に観ました。
シーズン3は今までのシーズンと異なり全15話とかなりボリュームが少ないですが、これは2007〜8年のアメリカの脚本家協会のストのためによるものです。
ご存知の通り、アメリカのテレビドラマというのは、人気があるとシリーズが作られ続けます。
これは少年ジャンプの連載漫画と似通ったシステムと言えるかもしれません。
視聴者としては人気シリーズがずっと楽しめるのは嬉しいことですが、ジャンプの漫画と同様に作品によっては当初もっていたエネルギーを失ってしまうことも多々あります。
けれども「BONES」はシリーズを経る毎にどんどんとおもしろくなっていくのが素晴らしい。
シーズン2の記事で触れたように、基本的には一話完結の構造だから話を作っていきやすいというのが、理由の一つとしてもちろんあると思いますが、もう一つの要因としては主人公二人とそしてその周辺のキャラクターの魅力がますます出てきているということがあると思います。
いわゆるキャラ立ちしてきているということだと思います。
主人公のブレナン、ブースという対照的な二人については、こちらもシーズン2でも触れました。
シーズン3はさらにその二人の個性が際立ってきているような気がします。
ブレナンは明晰な頭脳そして論理的な思考ゆえの、変人ぷりに磨きがかかっています。
美人で頭がいいブレナンの一般人とずれた対応がしばしば物語の中での笑いをとったりするまでになっています。
けれどもブレナンも機械のように冷徹な女性というわけではなく、というよりも彼女はとても感情豊かであり、彼女自身が自分の感情に驚きとまどっている様子に、観ていて感情移入してしまうのですよね。
赤ちゃんのエピソード(第55話「悲しき子守歌」)とかシーズン3の最終話の冒頭などはブレナンの豊かな感情がよく表れていると思います。
相棒のブースはいわゆる典型的なアメリカ人男性という感じですが、あまりにアメリカンな振る舞いがやはり苦笑を誘います。
彼が好きなものと言ったら、スポーツ、ビール、葉巻、ミートパイ・・・、まさに典型的なアメリカ人です。
それがアメリカ人自身をカリカチュアしているようでもあります。
そして典型的なアメリカ人から見ると変人だらけに見えるのが、ジェファソニアン研究所の面々。
それぞれが得意分野で類いまれなる能力を持つプロフェッショナルなのですが、一癖も二癖もあります。
ブレナンの親友であるアンジェラは、主に骨から生前の顔を復元するのが仕事で、コンピューターにも長けている女性。
アーティストであることもあり、非常に情が豊かである女性です。
どちらかというとオタクで周りが見えなくなるタイプが多いジェファソニアンの中で、彼女は一人思いやりを持って周りに接しています。
でも感情に流され、暴走気味になることもしばしば・・・。
またアンジェラの恋人であり、死体につく虫や鉱物の専門家がホッジンズ。
彼は陰謀論主義者であり、ある意味最もオタク的な男です。
けれども実は大富豪という側面もあるユニークなキャラクターです。
そしてブレナンのサポートを務めるザック。
ブレナンが認めるほどに骨の鑑定については卓越した能力を持っていますが、ずっと勉強してばかりいたからか、かなり世間知らずな男に描かれています。
その他にも彼らの上司であり、肉体組織鑑定の専門家サローヤンや、ブレナンとブースの心理分析を担当するセラピストスイーツも、ある意味変わっていてそれが味になっています。
ときどき登場するジュリアン検事の憎まれ口もいいです。

シーズン3は最後の最後に衝撃の事実が出てきて、ぶっ飛びました。
これからどうなるんだろう・・・?
シーズン4のDVD出ているようだし、借りようかな・・・。

「BONES シーズン1」の記事はこちら→
「BONES シーズン2」の記事はこちら→
「BONES シーズン4」の記事はこちら→

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本 「こころのモヤモヤを解き放つ 魔法の質問」

これはいわゆる自己啓発本でしょうか。
以前、Amazonで表紙買いをしたのですが、そのまんまにしておりました。
薄い本なのですが、内容も薄い・・・。
1時間もあれば読めてしまいます。
年末の時間がある時にと思って読みましたが、時間つぶしにもなりません。
もともとはメルマガでそれを出版したということなので、そのためだとは思われますけれども。
書いてある内容自体は、それほど違和感はありません。
けだしその通りという感じです。
けれどもわざわざお金をとって出版する内容かしらん・・・。

「こころのモヤモヤを解き放つ 魔法の質問」マツダミヒロ著 サンマーク出版 ソフトカバー ISBN4-7631-9713-4

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