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2009年12月30日 (水)

本 「刑事 雪平夏見 殺してもいい命」

「アンフェア」としてドラマ化・映画化された「推理小説」の主人公雪平夏見刑事の人気シリーズの久しぶりの続編です。
小説はテレビ・映画とは違う展開なのですが、読んでいても雪平のイメージは篠原涼子さんになってしまいますねえ。
このシリーズはいつも事件そのものが意外性がありますが、本作もまさにその通りとなっています。

年末のある夜、多摩川河川敷で男性の遺体が発見された。
男性は胸を一刺しされており、その口には「殺人ビジネス始めます」と書かれたチラシが詰め込まれていた・・・。
そして殺された男性は、雪平の元夫であった。

本シリーズで起こる事件の意外性、センセーショナル性というのは、人間の命に対する軽さ、無感覚さみたいなものが根底にあるような気がします。
犯行を行う者たちは、ある種の無感覚さを持っており、それが生命を生命として尊重しない事件となるわけです。
その無感覚さ、人間としての情のなさというのは、捜査する側での雪平自身にも窺えます。
それが犯人の雪平へのシンパシーとなり、それが事件を進展させてしまうということになります。
この無感覚さは小説の中だけでなく、現実でも時折起こされる事件にも見えてくる感じがします。
そういう意味でこのシリーズは現在というものを描いている作品であると思います。

冒頭、犯人を暗示する件がありますが、さすがのこれはフェイクであろうと思いましたが、なかなか凝った作りになっています。
著者の狙いにまんまとはまりました。
ま、ミステリーというのは著者のトリックにヤラレタと思うのも楽しいんですけれど。

事件は解決しますが、雪平はどうなった?
美央ちゃんはどうなった?
謎は残っているので、このシリーズは続いていくのでしょう。
早く新作出して。

シリーズ一作目「推理小説」の記事はこちら→
シリーズ二作目「アンフェアな月」の記事はこちら→

「刑事 雪平夏見 殺してもいい命」秦建日子著 河出書房 ハードカバー ISBN978-4-309-01943-7

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2009年を振り返って<映画>

さてさて今年も一年の映画の総括の時期になってきました。
今年は例年に比べて良作が多かった気がします。
ですのでベスト5はほとんど悩まずに決められました(その中での順位は悩みましたが)。
悩みどころはベスト10に入れるか入れないかのラインあたりでしたね。
他の年だったら確実にランクインしそうな作品もありましたが、運がなかったということで。
今年の劇場での観賞本数は133本で、昨年よりもまたまたアップ。
どんだけ劇場へ行っているんだか・・・。
ちなみにランクの対象は劇場で観た映画になっています。
2009年公開でも僕がDVD等で観た作品は選考外にしていますので悪しからず。
では今年のベスト10の発表です。

 1.「アバター」
 2.「母なる証明」
 3.「ヱヴァンゲリヲン劇場版・破」
 4.「グラン・トリノ」
 5.「スラムドッグ$ミリオネア」
 6.「グッド・バッド・ウィアード」
 7.「3時10分、決断のとき」
 8.「沈まぬ太陽」
 9.「サマーウォーズ」
 10.「ウォッチメン」

 次点(観賞順)
 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」
 「チェンジリング」
 「レッド・クリフPart2Ⅱ 未来への最終決戦」
 「バーン・アフター・リーディング」
 「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」

まずは1位の「アバター」。
年末最後になって一気にごぼう抜きしてしまいました。
ランキングに近いタイミングでの観賞であったことはあるのですが、やはり今までの映画表現から別次元に達してしまったキャメロンのイマジネーションに脱帽です。
本作は確実に今後の3Dや映像表現において他のクリエイターの目標になることは間違いないかと思います。
また映像だけではなく、シンプルながらも観客に感情移入させ物語に引き込むストーリーという基本をはずさないのも見事なものでした。

2位の「母なる証明」は、「アバター」を観る前は1位にしようかと思っていました。
ミステリーとしても見応えありましたが、人間ドラマとしても人間の闇の部分に踏み込んでいるところに凄まじさを感じました。
ポン・ジュノ監督の演出も、また母親役のキム・ヘジャの演技もまさに鬼気迫ると言っていいほど。
また母親とは対照的なウォンビンの無垢さがまた別の意味で鬼気迫っています。
作品から受ける圧力にたじろぎました。

3位の「ヱヴァンゲリヲン劇場版・破」は作品というものは監督の心理をやはり反映するものなのだなあということを確認できた作品です。
明らかに以前のエヴァとは異なり、ポジティブな志向がある本作、今だからこそできた作品と言えると思います。
以前のエヴァと比べてどうこうというのではなく、今の時代の「ヱヴァンゲリヲン」だと思いました。
もちろん映像としても驚くほどの迫力でほぼ前のめりでの観賞となりました。
基本的に同じ作品を二度劇場で観ることはないのですが(それだったらもっといろいろ観たいため)、唯一今年2回観に行ったのが、本作です。

4位「グラン・トリノ」はこちらもずっと夏までは今年NO.1だと思っていました。
円熟と言っていいほどのイーストウッドの演技と演出。
ウォルトの生き方にイーストウッド自身が重なって見えます。
年をとっても自分の信念を持って生きていくというところは、彼自身の姿ですよね。
来年もイーストウッド監督の新作が公開されますが、そちらも期待したいです。

5位の「スタムドッグ$ミリオネア」はアカデミー賞受賞作品だけのことはあり、期待に違わぬ出来でありました。
特筆すべきはその脚本の構成力だと思います。
予定調和という意見もあるかもしれませんが、どちらかというとこれは計算され尽くした脚本であると言えましょう。
ハッピーエンドで終わり、観賞後も後味がいい作品でした。

6位「グッド・バッド・ウィアード」。
「母なる証明」に引き続き韓国映画がランクイン。
韓流ブームは過ぎたと言われていますが、韓国映画はエネルギーを持っているということを確認させてくれる映画です。
今年はいわゆるハリウッドのアクション映画もたくさん公開され、そのうちかなりを観ていますが、それほど印象に残る作品は少なかったのです。
映像的にはすごいのですけれど残らないのは、やはり人を感じないからではないかと。
その点、本作などは俳優たちの存在感が圧倒的で、彼ら自身がやっているアクションはやはりCGとは根本的に質が違います。

7位の「3時10分、決断のとき」はやはり主人公二人の男の生き様の美学にしびれました。
ラストのユタ駅での銃撃戦、そこでのダンとウェイドの魂の交流には涙を誘われました。
男というものは自分の信念をかけて戦わなければならないときがあるのですよね。
ダンの魂を息子は必ず引き継いでくれるでしょう。

8位は「沈まぬ太陽」です。
最近は邦画全盛と言われていますが、個人的には安易な企画が多くて観客動員はできても作品としてはどうかと思うことがあります。
観客動員はテレビの続編、笑える、泣けるといった「わかりやすい」ものが多いためだけであって、あまり作品として心に響いてきません。
そういった「わかりやすい」邦画が氾濫しているなかで、あえてインターミッション付きの大長編「沈まぬ太陽」は意味がある作品であったと思います。
この作品が描く時代は今よりも前ですが、今でこそ日本で暮らす人々が実感できる問題や課題を提示していると思います。
このような社会派の作品がきちんと作られていくということが邦画にも大事なことだと思います。

9位は「サマーウォーズ」。
アニメはジブリだけじゃない、と存在感を発揮している細田監督。
細田監督の作品はいつも「青春」の香りを感じます。
青い空に白い入道雲というビジュアル、何かとても素直な心というものをその作品には感じ、観ていてなにかほっとします。
それでもエンターテイメント作品としても一級品でもあります。
本作で細田ブランドが確立したと思いますね。

10位は悩みに悩んだ末、「ウォッチメン」に。
すごいボリュームと情報量で、またヒーローものらしからぬストーリーに観た時はただ圧倒されました。
本作観た後に、分厚い原作のグラフィックノベルを読みました。
読み終わってわかったのは、驚くべきことにその分厚い原作の内容を、映画にほぼすべて表現しきっていること。
ザック・スナイダー、すごいです。

10位は悩みに悩んだと書きましたが、次点は上記の通りです。
「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」を入れようかと思いましたが、これはやはり映画というよりマイケル自身の生き様によることが大きいので、惜しくもランク外としました。

また恒例のワースト5を。
 1.「DRAGONBALL EVOLUTION」
 2.「カムイ外伝」
 3.「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」
 4.「ハイキック・ガール」
 5.「ラスト・ブラッド」

4、5は映画として脚本の出来が散々なので、いたしかたなしでしょう。
1、2、3は安易に原作やオリジナルのネームバリューに頼りすぎているのが良くないです。
もともとのファンへの誠意はあまり感じなく、やはりビジネスに寄っているのではないかと勘ぐってしまいます。
こういう作品作りはやめて欲しいところです。

と言ったところで2009年の総括を終えたいと思います。
来年も良い作品に出会えることを期待したいです。
それでは来年もよろしくお願いいたします。

2008年を振り返っての記事はこちら→

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2009年12月29日 (火)

「ジュリー&ジュリア」 理想の夫婦

ボナペティ!

2009年、最後の劇場観賞はこちら「ジュリー&ジュリア」です。
予告を観たときから、観たいと思っていた作品でした。
僕はこうやってブログも書くのも好きですし、こうみえて料理をするのも好きだったりするのです。
ブログも料理ももっぱら休日など時間があるときになってしまいますケド。
本作を観て、改めて思ったのですが、ブログとお料理って共通点がありますよね。
まずはどちらも自分で書く、作るという楽しさがあるところ。
書いてみて、作ってみて、「よくできたな」と思う時もあれば、「うーん、いまいち」って時もあります。
自分なりの工夫などしながら、少しずつでも上手くなっているのが実感できたりするのが楽しいですね。
そしてそれがすぐに結果がわかるも似ているかもしれません。
ブログだと自分の個性が出てうまく書けた記事ができれば、アクセス増えたりとか、コメントいただいたりすることが多くなりますし。
お料理はやはりできて自分で食べてみて、「おいしい!」と思えるとやはり嬉しい(「おいしい」と言ってくれる人を作らなくてはいけないのですけど)。
あとブログも料理もけっこうその時の気持ちっていうのが表れますよね。
イライラしているときは、ブログの記事も刺々しかったりしますし、逆に本作のジュリーのようにそんなとき料理をしておいしいものができたりすると、ちょっとハッピーな気分になったりもします。
ブログも料理も自分の感情を吐き出すガス抜きになるのかもしれないですね。
本作観て、料理ブログってのもおもしろそうかも、と本気で思ってしまいましたよ。

さて本作の主人公ジュリー(エイミー・アダムス)とジュリア(メリル・ストリープ)ですが、二人ともとってもチャーミングな女性です。
僕的にはけっこう理想像に近い女性ですね。
感情的に豊かな女性はとてもカワイイと思いますし、やりたいことをやっている女性というのは輝いて見えます。
特にちょっとドジなところもあるジュリー役のエイミー・アダムスは、自分としてはど真ん中ゾーンで旦那さんが羨ましくなりましたよ。
ジュリーの夫婦も、ジュリアの夫婦も旦那さんがとても肝要で、奥さんの魅力をとても理解しているがよいですよね。
この二人の旦那さんも、自分としてはこうありたいと思う姿です。
本作の二組の夫婦は二人といっしょにいるときとても楽しそうだもの。
年をとってもずっと楽しく暮らせる気がしますよね。
理想の夫婦という感じがしました。

2009年の最後は本作でハッピーな気分で終わることができそうです。
さて明日は恒例の年間ランキングの記事をあげたいと思いますので、乞うご期待。

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2009年12月27日 (日)

「劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4」 その後の劇場版の道筋を作った

「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010」が劇場で公開されていますが、最近は季節ごとに「仮面ライダー」の映画が楽しめるということで、ファンからすれば嬉しい限りです。
平成仮面ライダーが始まり、劇場版に先鞭をつけたのが、本作「劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4」です。
この作品の成功により、その後、毎年夏から秋にかけて「仮面ライダー」の劇場版公開が定番化していきました。
そういう点で本作の役割は大きかったと言えるでしょう。

平成仮面ライダーの劇場版は、テレビシリーズのパラレルワールドであったり、後日談・前日談であったりと変化球が多いですが、本作はテレビシリーズの外伝とも言える位置づけです。
仮面ライダーを複数登場させるという試みを行ったは「仮面ライダーアギト」が最初で、当然のことながら主人公ライダーはアギトなわけです。
本作はどちらかとういと、G3を操る氷川たちG3ユニットが中心となって物語が動きます。
これは複数ライダーという設定を上手く使ったいいアイデアではないかと思います。
またサブキャラクターであるG3を中心におくことにより、並行して放送されていたテレビシリーズへの影響を極力抑えたという効果もありました。
平成仮面ライダーの劇場版はテレビシリーズがオンエア中に公開されるので、その位置づけがなかなか難しいところですが、いつもあの手この手で上手にそれを乗り切っているなと感心します。
それがパラレルワールドだったりする設定だったりするわけです。
それが「電王」ではテレビシリーズとの相互乗り入れをしてみたり、「ディケイド」ではパラレルワールドであるという設定自体を物語に取り込んだりと、かなりトリッキーなことも試みています。
テレビシリーズが中心にありながらも、その設定を別の角度で切り取るという平成仮面ライダーの劇場版の位置づけというのは、初めての本作からあったといっていいでしょう。
それはテレビシリーズと矛盾を起こさないという意味で必然ではあるのですが、それにより作品世界がより豊かになるという効能があるような気がします。
そのような効能を発見できたという意味で、その後の劇場版へ布石をつけた本作の役割は大きいと言えるでしょう。

公開中の「仮面ライダーディケイド 完結篇」で、仮面ライダーJを倒すためにディケイドがかついでいた四連装のミサイル「ギガント」は本作の中でG4が武器として使用しているものです。
興味がある方は、本作でご確認ください。

テレビシリーズ「仮面ライダーアギト」の記事はこちら→
「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010」の記事はこちら→

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2009年12月26日 (土)

「アサルトガールズ」 日本実写映画の限界と制約

押井守監督で今まで短編で制作されていた「ASSAULTGIRL」、「ASSULTGIRL2」に引き続く世界観を持つ「アサルトガールズ」を観てきました。
押井守監督のアニメーションの作品は好きなのですが、どうも実写になるとどうも相性がよくないのです。
本作冒頭にも押井守監督らしい設定の講釈があるのですが、アニメーションではあまり気にならないのに、どうにも鬱陶しい(字幕がほとんど見えなくてよくわからないというのもありました)。
また押井監督作品には独特の間があるのですが、これも実写だとちょっと間延びしている感じを受けてしまいます。
アニメーションだと背景にまで描き込みがされているから画面の密度・情報量があり、間が持つのかもしれません。
押井監督の実写作品は予算が限られている中で撮られているものが多いので、どうにも画面から受ける空疎な感じが際立ってしまうのです。
雑誌に載っていた押井監督のインタビューを読むと、今までのようなあまり観念的な難しいことは考えず美しい女性を撮りたかったということが書いてありました。
確かに登場する三人は美しく、また強いので、その意図は伝わってきました。
とはいえ十分に美女が活躍するアクション映画として振り切っているかというと、実はアクション場面はそれほど長いわけでもなく、フラストレーションを感じてしまいます。
また人物の掘り下げはほぼなくドラマがやや薄い。
アクションのフラストレーション、ドラマ部分の引きの弱さといったところから、それほど実際はそれほど長い尺ではないのにも関わらず、とても長い印象がありました。
これは前日観た「アバター」が3時間近くの尺にも関わらず、長いと思うことはなかったのと好対照です。
人間が異なる世界(本作の場合はアヴァロンというバーチャル世界)で別人となって戦うというのは、「アバター」と通じるものがあるのですが、スケール感(そしてかける費用)としては圧倒的に引き離されているところは気の毒な感じがします。
どうも日本での実写映画という枠組みは押井守監督のイマジネーションを表現するには、大きな制約となっているような気がします。
なかなか邦画の実写で莫大な費用をかけるというわけにはいかないと思うので、やはり押井監督のフィールドはアニメーションであるのが現実的であるかもしれません。
押井守監督は才能がある方なので、願わくば「アバター」級の製作費と技術を与えてあげれば、世界を唸らせる作品ができるのではないかなと思ったりもします。

「ASSULTGIRL2」も短編の一つとして入っているオムニバス作品「斬 〜KILL〜」の記事はこちら→

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本 「笑う警官」

先日映画で「笑う警官」を観たので、原作小説も読んでみました。
佐々木譲さんの作品は二冊目ですが、本作もなかなかおもしろい。
もともと本作のタイトルは「うたう警官」だったそうで、映画化が決定し、文庫化となったときに改題したということです。
旧タイトルの「うたう」とは「歌う」ではなく、白状してしまうといった意味です。
道警がずっと行っていた捜査費流用などの暗部を、警官が公的に認める証言をしてしまう、このことは警察組織としては「裏切り」に近い行為であり、「うたう」ということは警察からすれば忌むべきこととなるわけです。
映画と同様に、その証言を行おうとする津久井巡査を、道警幹部が殺人犯として陥れ射殺命令まで出してしまう、そして津久井の無実信じる佐伯ら有志の刑事が真の謎を解こうと動くというのが本作です。
映画よりもより、現在の警察組織に現場レベルでは反感と恥ずかしさをもっているというのが、小説では強く描かれているように思いました。
警察全体の腐敗を指摘するというよりも、現場で懸命に捜査活動をしている人を尊う作者の気持ちが伝わります。
ラストの真犯人などについては映画と大きく異なります。
映画はあまり救われない終わり方のような気がしますが、まだ小説は少し希望を感じます。
映画のラストを観ると映画については「笑う警官」でよいと思いますが、小説版は「うたう警官」のほうがしっくりする気がします。
映画を観て、小説を読んだ方はわかるとは思いますが、「笑う警官」は真の犯人(もしくは警察という組織)であり、「うたう警官」は津久井なのです。
すなわち小説の方が良心ある警察を主としていることが明確であり、そこに救いを感じるような気がしました。

地道な捜査で証拠を固め、真犯人に迫っていく様子は派手さはないですけれども、探偵小説とは違うまさに警察小説というべき抑制されしっかりとした読み応えがある作品でした。

映画「笑う警官」の記事はこちら→
道警シリーズ第二作「警察庁から来た男」の記事はこちら→

「笑う警官」佐々木嬢著 角川春樹事務所 文庫 ISBN978-4-7584-3286-3

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「アバター」 キャメロンは映画業界の牽引車

3D映画元年と言っていい2009年のオオトリを飾る3D映画はジェームズ・キャメロン監督の「アバター」です。
今年はさまざまなアプローチから3Dというものに取り組んだ作品が立て続けに公開されました。
また最近では表現方法も、従来からの実写、アニメに加え、3DCG、パフォーマンス・キャプチャーなどの最新の技術がより洗練されてきているように思えます。
けれども3DCGなどの表現は、リアル志向のアプローチはたびたびこちらのブログで書いているように「不気味の谷」を越えられなかったり、シンプル化志向のアプローチはどれも似たり寄ったりのテイストになってしまうというようなことがあり、まだ未成熟なところもあります。
また実写の方もCGを取り入れ、従来ではしたくてもできなかった表現を実現しつつありますが、まだCGの表現の可能性を存分に切り開いているところまで至っていません。
このように最近は3DCGサイド、実写サイド、また異なる切り口(3DCGのトゥーン表現や、パフォーマンス・キャプチャー等)から今までにない表現を求めて様々な取り組みがされていますが、やはりまだ発展途上であるという感じは否めませんでした。
それら意欲的な表現を試みている数々の作品と比べて、一歩進んでいるというより、遥か向こう側に飛んでいってしまっているのが、本作「アバター」であると思います。

「アバター」を観てしまうと、実写映画であるとか、アニメ映画であるとか、CG映画であるとかいうカテゴリー化というのが、あまり意味がないものであるというように思えます。
たぶん少なくともキャメロン監督の中にはそのようなカテゴリー化はないでしょう。
彼にとってそれらの手法は、彼のイマジネーションを表現するための手段でしかないのです。
それほどまでに本作で描かれる惑星パンドラの魅力的な自然や生き物、そこに暮らすナヴィの存在は今まで観たことがないようなイマジネーションに富んでいて、そしてそれにも関わらず、それらの存在が人間と同じ地平にいるということにまるで違和感を感じない実在感を持っているのです。
まさにファンタジーとリアルが見事に融合しているようです。
この世界の存在感には観ていてただただ圧倒されるばかり。
そしてさらに3Dという表現が、その世界に僕たち観客をも取り込んでいくということに強く寄与します。
今年観た3D映画の中でも「アバター」は抜群にその品質が優れていると思います。
以前の3D映画はいわゆる「飛び出す」映像というのが、ウリでした。
ですが、最近の3Dは「奥行き」感をいかに表現するかというのを目指しています。
本作はその奥行き感がかなり自然に表現できていたと思います。
その優れた奥行き感により、スクリーンに映し出されている映像は平面でありながらも、僕たちを包み込むような印象を与えてくれます。
つまりこれは僕たちも惑星パンドラにいるような感覚に近くなるような感じと言えましょう。
3Dというのは今までの作品では、3D映画であること自体だけでセールスポイントになるというようなところがありました。
これは手段が目的化しているというところでしょうか。
けれども本作での3Dは極めて必然的であると言えます。
惑星パンドラという異世界に、観客も存在しているという感覚にすること、そのために3Dという表現が選択されているような気がしました。
本作の主人公ジェイクは、ナヴィのアバターを操り、足に地の感覚を得、そこにリアリティを感じていきます。
同じように本作の3Dという表現は、僕たちもジェイクに近い感覚を体験させてくれます。
そもそもアバターという設定も別世界を分身により疑似体験させるということであり、それがメタな視点でも3Dという技術による疑似体験ということとクロスオーバーするように感じます。
物語としても人類よりも徐々にナヴィの方に感情移入をしていくような組み立てになっており、その点でも観客は徐々にパンドラの住民であるような感覚になっていくような気がします。
物語の最後の方では人類が「自分たち」を襲ってくる「侵略者」に見えてしまうほどです。
まさにキャメロン監督の「世界創造」に立ち会ったという感覚があります。
本作はただの映像だけの作品かというと物語もしっかりと作り込まれています。
プロットとしてはそれほど複雑ではありません。
ですが、さりげない描写が後半に繋がっていたりという細やかな工夫がされており、きちんと脚本も組み立てられています。
またアクションシーンなども非常に見応えあります。
バンシーを駆るナヴィと武装ヘリの空中戦、サナターとAMPスーツの格闘戦なども、作り込みが凄まじく目を見張るばかりです。

なんというか、いろいろな作家が新技術を使って試行錯誤をしている中で、キャメロンはぽーんと一人遥か彼方に飛んでいってしまっている印象を受けました。
「ターミネーター2」などを初めて観たときも同じ印象を受けましたが、後から追いかけていく人々は彼のやったことを目指し、それに追いつこうとしているのですよね。
でも皆がやっと追いついたときには、キャメロン監督はもっともっと先に行っていることでしょう。
キャメロンは自らの中に湧き出てくるイマジネーションを表現するために、新しい表現方法を生み出すことを厭わない監督です。
そういう意味でキャメロン監督は映画という世界の牽引車なのかもしれません。

余談ですけど、作品が始まる前のCMでエニックススクエアのファイナルファンタジーがこれも3Dでかかっていました。
これはもしや次回作のFFは3Dでやるという前振りなのでは・・・。
そのあと流れていたフジフィルムの眼鏡なしで3Dが撮れるというカメラの技術があればあながち無理とも言いがたいし・・・。

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2009年12月23日 (水)

「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」 憧れと反発

漫画、アニメ、TVドラマと人気のコンテンツ「のだめカンタービレ」の実写版映画の前編が公開です!
先日、原作漫画の方は完結しましたが、ちょっと盛り上がりに欠ける終わり方だったので、ややのだめファンとしては不完全燃焼気味・・・。
映画の方は、前編・後編の2部作になっているので、大団円となって幕引きして欲しいものです。
一昨年放映されたTVシリーズのスペシャル版はヨーロッパロケを敢行していていましたが、本作も引き続き海外ロケを行っています。
やはりセットとかCGではなくて、大画面で観る実物の持つ存在感というのはやはり違うなと思いました。
そしてのだめと言えば、クラッシックですがこれも劇場のちゃんとした音響で聞くのはやはり迫力が違いますね。
家でテレビで聞くのとは大違いです。
大画面かつ、高品質の音響という点で、のだめの最終楽章を劇場で公開するのは意味があるなと思いました。

改めて本作のキャストを観てみると、若手有望株の俳優たちが名を連ね錚々たるメンバーです。
けれどテレビシリーズが始まった時は、みなさんそれほど有名じゃなかったですものね。
のだめをきっかけに、みなさんキャリアをアップしてきて、それぞれが主演をはったりするようになっているので、当初より観ていた自分としてはなんだか嬉しいですね。

映画はさきほど書いたように二部構成になっています。
前編はどちらかと言えば、千秋が主体となっている物語でしょうか。
千秋というのは、理詰めで、自分にも周りに対してもストイックさを要求し、また才能もあるけれども努力型のタイプです。
対して、のだめは感覚的で、気分屋で、天才肌のピアニスト。
たぶん互いに自分にない部分に憧れて、魅かれているのでしょう。
けれどもその自分にはない部分というのが、逆に嫉妬の対象になったり、自分の中の譲れない部分に抵触したりして反発し合うということにもなります。
真面目な千秋にすれば、のだめの自由奔放さというのが羨ましくもあるけれども、彼女の向上心のなさみたいなものにイライラとすることがあります。
のだめからすれば、何でも器用にハイレベルでこなす千秋は憧れの対象でありますが、けれどもそういう彼の姿は自分が小さく見えてしまうことになるのかもしれません。
千秋ものだめも自分にないものを持つ相手に憧れ、そしてそれを持つがゆえに相手に反発するという関係なのですね。
「のだめカンタービレ」という物語の面白さというのは、二人がどちらかが相手に歩み寄ろうとすると、相手は反発したり、避けたりして、それがまた逆の立場で繰り返されるところです。
「近づこうとすれば遠ざかる」
と以前、家出したのだめに千秋はそう言いました。
「(自分だけ先に行ってしまって)ずるい・・・」
本作では常任指揮者となってコンサートでタクトを振り皆の歓喜を受ける千秋にのだめはこう言います。
後編はおそらくのだめが主体となる物語となり、彼女が再び千秋のいる高みに近づこうとするストーリーとなるでしょう。
そして願わくば二人の関係もより近く、今度こそはずっと一緒にいられるような大団円を迎えるように願いたいと思います。

テレビシリーズ「のだめカンタービレ」の記事はこちら→
テレビドラマスペシャル版「のだめカンタービレ in Europe」の記事はこちら→
「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」の記事はこちら→

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2009年12月22日 (火)

本 「エビと日本人」

僕が勤めているのは食品会社であるということはこのブログでも触れていますが、扱っている商品の中でもエビを使った商品は売れ筋トップ5の中の多くを占めます。
どれだけ日本人はエビが好きなのか、と思ったりしていたので、本著を手に取りました。
本著のテーマは、エビという食材を通じて日本と世界の関係、なかでも経済関係を解こうというものです。
出版されたのが1988年とずいぶん古いので、中で触れられるデータはそのまま現在の状況を表すものではありませんが、食と世界経済というのを理解するのには役立ちます。
現在、加工食品で使われているエビはほぼ輸入です。
これは、日本で消費されるエビを日本での生産だけではまかなえない、つまり国内品だけでは需要と供給に追いつかないというのが大きい理由です。
また国産品は量が少ないため、高価であるというのも理由の一つです。
手頃な値段で皆が食べられるためには、輸入食材というのは欠かせません。
昨今の食品にまつわる事件のおかげで、輸入品は安全ではないというイメージがついていますが、これは正しくはありません。
手前味噌にはなりますが、僕の会社の輸入原料の生産現場の品質管理は尋常じゃないほど徹底しています。
下手な日本国内での品質管理よりも徹底していると思います。
なんとなく安心だから国内品がいいという気持ちはわからないわけではないですが、それは国内品だから安全だということにはなりません。
ようは国産だろうが、輸入品だろうが、関わっている企業がどれだけ消費者の安心・安全に力を入れているかということで判断するべきなのです。
国産だけは到底、日本の食を支えることはできません。
国内自給率を高めることは、リスク回避上大切なことですが、一足飛びに国産品だけで賄うことはほぼ不可能であると言っていいでしょう。
もう日本もそして世界もグローバル経済として密接に結びついているため、それを断ち切ることはできないのです。
日本が輸入をやめれば輸出先の労働者は大ダメージを受けます。
本著でも語られるように買う側の強い立場で、生産者を無用に搾取したり、環境にダメージを与えることを行ってはいけません。
ようは相手側にも無頓着にならず食の生産に関心を持つことが大事なのだと思います。

本著の中で著者が、エビの輸入が増えたのは国と商社と食品会社と流通の仕掛けというようなことを書いていますが、この意見には賛成できません。
グローバルの流通網が発達し、またその国の経済が成長すれば、より滴価で良いものを求めようとするのは至極当然なことなのです。
これは日本に限ったことではありません。
経済が発展すればするほど、より深く世界各国は結びついていくのです。
だからこそ、自分の国だけでなく、相手の国のことも考える、想像できるということが大事なのです。
輸入品はよくないと言う人がいますが、そういう人の中でどれだけそれらの原料を生産している方々のことを知っている人がいるでしょうか。
どれだけその方たちが真面目に取り組んでいるということを。
表面的なイメージだけでなく、その本質を見極める目が消費者にも必要になってきているのでしょう。

「エビと日本人」村井吉敬著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430020-7

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2009年12月20日 (日)

本 「タイムスリップ水戸黄門」

完全に中身を見ずに、タイトル買いをしてしまいました。
水戸黄門が?
タイムスリップ?
どんなお話なのだろう?

まさに中身は文字通りのお話なんですが。
中身を確認しなかったせいなのですが、こちらはシリーズだったようで。
他には「タイムスリップ森鴎外」とか「タイムスリップ明治維新」とか「タイムスリップ釈迦如来」とかあるようです。
シリーズとはいいながら、お話はとてもゆる〜い感じなので、問題なく読めました。
ジャンル的にはライトノベルの類いになるのでしょうか。
帯にはミステリーとありましたが、さほどミステリーな感じはありません。
設定としては奇をてらっていますし、テレビの「水戸黄門」をパロディ化しているところなどクスリとしてしまうところもあるのですが、やはり軽すぎて読み応えはあまりないですねえ。
題材に最近ホットな八ツ場ダムなどの公共事業の話が出てくるので、タイムリーと言えばタイムリーなのですけれどね。
他の巻はたぶん読まないかなあ・・・。

「タイムスリップ水戸黄門」鯨統一郎著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276507-7

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本 「トヨタモデル」

数年前、不況と言われ各社が苦しんでいる中でトヨタの利益が1兆円を超えたとき、トヨタの経営モデルが話題となりました。
ちなみに勤めている会社は売上がやっと1兆円を超え、やった!となっていたときだったので、彼我の差にがっくりきた覚えがあります(比べるなっていうの)。
トヨタと言えば、「カイゼン」と外国語にもなっているように、日々の細かな取り組みにより、より効率的な業務フローを作り上げていくというのが、ひとつのスタイルです。
その時、勤めている会社でも経営のサイドから、トヨタをモデルにいろいろと考えるようにいうような話がありました。
そのとき買っていたのが、本著です。
でも読まぬままずっと「つんどく」になってました。
一世風靡したトヨタも昨年来の世界的経済の冷え込みを受け、昨年の利益は赤字に転落しました。
あの頃、みなが賞賛した「トヨタモデル」とはいかなるものなのか、ちょっと気になり本著を手に取りました。
トヨタの経営の理念の一つは「カンバン」方式に見られるような徹底的な効率化でしょう。
そして社員にそれを徹底する風土作りもあると思います。
この会社ほど経営と社員が一つの会社としてまとまりがあるのも珍しいかと思います。
どちらかというと社員がかなり会社に(言い方は悪いですが)取り込まれているような感じもあり、一時期話題になった日本的経営の典型とも言えます。
社員が会社のために知恵を絞り、それを汲み上げる仕組みができています。
またかなり技術オリエンテッドな風土があるようにも見えます。
もともと技術者が立ち上げた会社ですから、そのようなDNAがあるのかもしれません。
この日々の「カイゼン」、そして技術開発力は、今でもトヨタの力であると思います。
今年に入り、プリウスを始めエコカーが他社に比べても好調で、回復の兆しを見せているのはやはりトヨタの底力でしょうか。
しかし、輸出に頼っているというトヨタのビジネスモデルは、世界経済が回復しているとは言い切れない状況の中で、まだ危うさは含んでいると思います。
本著を読んで、トヨタの文化の中で一点気になったのは、さきほど少し触れた「物わかりの良い社員」です。
トヨタが史上最高益を出した時も、組合はベアゼロ要求であり、また会社も賃上げを認めませんでした。
当時、僕もこれは少々以外ではあったのです。
まだ先行き不安だということだったのかもしれません。
けれどもふりかえってみれば当時は戦後最長の好景気と呼ばれた時でした。
しかし生活者からすれば景気実感みたいなものはほとんどなく、バブル崩壊後の不況感がずっとありました。
この差はなんなのでしょう。
これは好景気で会社が利益を出していても、グローバル競争という点ではまだ不安があり、人件費を抑制したということであるのだと思います。
ですが、そのために生活者は消費を控えることが習い性になっていってしまったのだと思います。
現在輸出が振るわない中、内需拡大が課題となっています。
けれどもずっと節約をしてきた消費者からすれば、いまさらモノを買えと言われても欲しいものなんかないという感じではあると思うのです。
トヨタは日本経済の中でも最も大きな影響力のある会社です。
途中で触れた史上最高益時のベアゼロというのは、他の会社の姿勢にも影響を与えました。
そのため好景気なのに賃金抑制というへんな状態になってしまったのです。
そのゆがみが今になって大きく影響が出ているのだと思います。
「トヨタモデル」というのは1社だけをみる場合には優れたモデルだと思います。
けれどもそれが国全体にとって最適であるかどうかはやや疑問があります。
日本でも最大級の規模を持つトヨタは自社だけでなく、日本の経済自体にも責任があるということを自覚する必要があるかと思います。

「トヨタモデル」阿部和義著 講談社 新書 ISBN4-06-159784-7

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2009年12月19日 (土)

「パブリック・エネミーズ」 男は視線で女を殺す

ジョニー・デップと言えば、おかっぱ頭のチョコ屋さんだったり、目の周り真っ黒の船長だったり、白髪の理髪師だったりと見かけも中身も奇妙キテレツな役ばかりが印象に残りますが、本作は見かけはかなり正統派のクールな役柄。
派手な化粧がない分、余計にジョニー・デップ自身の存在感というのを感じました。
なんというか目ヂカラがすごいのですよね。
ジョン・デリンジャーというキャラクターが前しか見ない男であったということもあるのでしょうけれども、しっかと前だけしか見ないという視線の力を感じました。
普段から女性の映画のブロガーの方は、ジョニー・デップのファンが多いような気がしているのですが、それもなるほど頷けます。
こんな視線でじっと見つめられたら、一発で女性は射止められてしまうでしょうね。
本作でも初めて会ったビリーにかなり強引に迫りますが、やはりあの視線はもう女性を殺す武器ですね。

さきほど書いたようにこの作品のデリンジャーは、彼の価値観で前だけしか見ていない揺るぎなさを感じますよね。
犯罪者ではあるのですけれど、芯がしっかりとある男なのです。
これは男から見ても、魅力的な男です。
このときもアメリカは大恐慌後の不安定な時代です。
本作で描かれているように犯罪界も組織化が進み、昔ながらの銀行強盗なども流行らない時代となっています。
電話を使って荒稼ぎをするマフィア(現代の経済ヤクザを彷佛させます)と比べ、デリンジャーのスタイルは次第に古くなってきています。
けれども彼の価値観は揺るぎない。
現代もかなり不安定な時代ですけれど、そんな中で揺るぎない自分というのを持つ男というのは魅力的に見えますよね。

「あなたのこと何も知らないのに」
とビリーに言われて、すかさずデリンジャーはこう言います。
「好きなものは野球、映画、良い服、速い車、そして君」(Baseball,Movies,Good Cloths,Best Cars,・・・and You)
予告でもこの台詞が流れてましたが、ジョニー・デップのこの台詞のテンポがカッコいいのです。
こんなにスマートに言えるのってジョニー・デップだけですよね。
うーん、憧れます(決してこうなれないですけど!)。
たぶん世の女性の大半は「そして君」っていうところで、ズキューンとハートを撃ち抜かれているに違いありません。

監督のマイケル・マンは男くさい物語を作りますが、本作もまさにその通り。
「ヒート」なども評判高いですが、僕は個人的には全体的に冗長でどうもテンポが合いません。
本作も同じような印象で、もう少し切り詰めればデリンジャーの生き様の疾走感みたいなものが出たのではないかなと思います。
でもジョニー・デップのファンの女性からすれば、尺が長いほうが少しでも長く彼の姿を見られるので、このほうがいいかもしれないですね(笑)。

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「戦場でワルツを」 恐怖で歪む記憶と事実

ドキュメンタリーでありながら、アニメーションという手法が話題になっているのが、本作「戦場でワルツを」です。
アリ・フォアマン監督が友人と話をしているうちに、自分が10代の頃イスラエルのレバノン侵攻の際に従軍していたときの記憶がぽっかりと抜け落ちていることに気がつきます。
そして監督の頭にあるイメージがフラッシュバックします。
自分と友人が海岸にいて、そして夜空に照明弾が上がり、それを彼らは見上げている・・・。
監督が自分自身の従軍時の記憶の欠落を探る道程が本作で語られます。
これが本作がドキュメンタリー映画であると言われる所以です。
監督は従軍中の友人・知人にインタビューを重ねていきます。
その中で語られる戦争中の出来事については、もちろん実映像はありません。
だからこそアリ・フォアマン監督はドキュメンタリーでありながら、その表現にアニメーションという手法を選んだのでしょう。

そういう物理的な事情だけではなく、本作におけるアニメーションという手法は、人間の「記憶」の不確かさ、そして人間が「事実」をどのように見ているかということを語っているような気がします。
作品中での心理学者へのインタビューにあるように、人間は心理的に強いインパクトのある出来事に直面すると、その記憶に蓋をすることがあります。
たぶん実際に起こった出来事の、生々しい鮮度の記憶を持ったままでいると、人は生きてはいけないということなのかもしれません。
意識がずっと過去に縛られ、身動きできなくなってしまうのでしょうか。
そして「記憶」は決して「事実」ではなく、さらには「真実」であるかは本人ですらわからないのです。
本作で語られるレバノン侵攻の際の虐殺事件は「事実」ではありますが、本作で語られる映像のままの出来事であった、すなわち「真実」であるとは言えません。
このあたりの不確かさというのが、アニメーションという手法で表現されていると思います。
これは「スキャナー・ダークリー」の表現にも通じるような気もします。

心理的インパクトがあった出来事の記憶へだけではなく、意識への蓋というのはリアルタイムで起こりえます。
極限までの恐怖にさらされたときの思考停止状態=パニックがそれでしょう。
パニックの時には、理性や道徳などよりも、自己保存本能が勝ってしまうのかもしれません。
本作でも描かれる侵攻時に襲撃されたイスラエル軍の兵士たちの様子がこれにあたると思います。
恐怖に駆られ引き金を引く。
強い恐怖にさらされた思考停止状態は個人だけではなく、集団にも起こります。
これは本作で描かれる虐殺を行ったファランへ党もそうだったのかもしれません。
またナチスですらそうだったかもしれません。
その恐怖は実体がないものかもしれませんが、恐怖を感じるものからすればそれは「真実」になってしまうのです。
恐怖で歪んだレンズで見る世界も、アニメーションでなければ描けなかったかもしれません。

心理学者が従軍カメラマンの話をする場面があります。
悲惨な現場にいても何故カメラマンは精神的に大丈夫なのかと。
カメラマンはレンズを通して見るから、目の前で起こっている出来事のリアリティがなくなる、だから大丈夫なのだと。
これはなんだかわかる気がします。
僕は旅行に行ったときなどにあまりカメラを持っていったりしません。
何故かというとファイダー越しに観ていると、それをしっかりと観ることができなくなるからです。
「後で写真で観れるから」と真剣に観ることがなくなるような気がするのです。
なるべくその時の感情とともに記憶に刻み込みたいのです。

なにか人間の「記憶」や「意志」というものの曖昧さ、また「真実」の不確かさみたいなものを本作を観ていて感じました。

本作のラストで家族を殺され嘆き悲しむパレスチナ難民の様子が、いきなりの実写で映し出されます。
これはまぎれもなく「事実」です。
どうしても人間は恐怖に直面した場合に、思考停止状態=パニックになってしまいます。
そのとき人が観ている世界は恐怖で歪んだレンズで観ていることになります。
それならばそのような場面にならないよう事前に理性を発揮するべきなのでしょう。
本作の意味合いは恐怖にとらわれた時の人間の様子、そしてその後に起こってしまう出来事を冷静に直視することにより、平時に理性を持ち、恐怖そのものをなくす努力が必要であると考えさせてくれます。

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2009年12月13日 (日)

「日本沈没(1973年)」 日本人を描く

実はこちらのブログの記事の第1回目は草彅剛さん、柴咲コウさん出演の「日本沈没(2006年)」でした。
これはこれで僕は楽しめたのですが、実はオリジナルの「日本沈没」は観ていなかったからかもしれないです。
ローランド・エメリッヒ監督のディザスタームービー「2012」が公開中ですが、やはり日本のディザスタームービーの傑作と言われる本作を観ないといけないと思い、以前録画していた本作を観てみました。
ううむ、やはり傑作と言われることだけはあります。
2006版も、また「2012」もそうですが、災害シーンの特撮などを目玉にしがちです。
ですのでややもすると人間ドラマが薄い、もしくはステレオタイプだったりしてしまいます。
本作も製作された1973年という時代においてはかなり手の込んだ特殊効果を使っていますので、そのような特撮は見応えあります。
けれども本作が描いているのは、国が消滅するということが起こった場合どのようになるかというシミュレーションと、そして日本人、日本民族とは何かということだと思いました。
まずはシミュレーション映画として観ると、本作は非常に良くできています。
一つの国家が消滅するという事態が起こった場合、日本政府はどのように対応するのか。
国際社会はどのように対処するのか。
ハリウッド映画にありがちなわかりやすいアクションに逃げるのではなく、淡々と脱出計画が練られて行く様、また外交交渉の様を描いていきます。
1億数千万の人間が難民化した場合、人道的には支援しなくてはいけないけれども、それを抱えるということのリスク(単純なコスト上の問題、国家内国家化し自国民と対立する問題等)もあるという他国のジレンマにも触れられます。
このあたりの緻密なシミュレーションは、平成「ガメラ」を彷彿させました。
たぶん「ガメラ」は本作の影響を受けたのではないかと思われます。
そして本作のテーマという点で見てみると、それは日本民族とは何かということです。
本作では日本という国土を失った日本人のその後は描かれていません。
けれどもその前途は多難であることは想像されます。
世界を見回してみても、ユダヤ人にしてもパレスチナ人にしても、国土を失った民族は長い間艱難辛苦を味わっています。
本作の中で日本政財界の影のフィクサーである箱根の老人が、日本人は幼いというような意味の台詞を言っていたと思います。
海洋に隔てられ、日本民族というほぼ単一の民族は、居心地のいい揺りかごのような4つの島で暮らしていた子供です。
近代化して侵略戦争を行ったのも、外界を知らぬ子供ならではの暴挙であったのでしょう。
その後、再び日本人は居心地のいい我が家の中に戻りました。
けれども国土を失うという事態になったとき、日本人はイヤでも大人にならなくてはいけなくなったのです。
国際社会という本当の「社会」に出たとき、子供は大人にならなくてはいけないのです。
本作が作られて36年、日本人は大人になったのでしょうか。
たぶんまだなれていません。
バブル期、戦争という手段ではなく、経済という手段で日本は対外進出を盛んに行いました。
けれどもやはりそこには子供ならではの慢心があったのでしょう。
結局はまた日本人は揺りかごの中に戻っているというのが、現在ではないでしょうか。
ただ日本民族の幼さだけを描いているのでもないと思います。
例えば、淡々と国民が脱出するためにプロジェクトを遂行しようとするメンバーたち。
この姿には日本人の実直さというのが表れていたと思います。
また脱出する人々の姿にはパニックといったようなものはあまり見られません。
「2012」等を観ると、我先にとか、自分だけ良ければという行動が見られましたが、皆思いのほか秩序だった行動をしています。
これも日本人ならばさもありなんという感じがします。
そして丹波哲郎さんが演じる山本首相の有事にあたってリーダーシップには感銘を受けました。

このような点からみると、2006年版がどうしても薄っぺらいものに思えてしまいます。
リメイクをするならば、何十年か経った時代に生きる者として日本人を捉えようとしても良かったのかなと思いました。

最後に。
最初の方であった日本海溝での潜水艇のシーンがあります。
深い海中なので無音で潜水艇が進んでいくカットがあります。
こちらを観ていて「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号のポッドのシーンを思い出しました。
宇宙と海中と異なりますが、とてもよく似ているのですよね。
「2001年宇宙の旅」の公開は1968年なので、本作は影響を受けているかもしれません。
「2001年宇宙の旅」の原作者であるアーサー・C・クラークの初期の作品には海中を舞台にしたSF小説がいくつかあります。
クラークは宇宙と同様に、海にも謎とロマンを感じていたと言われています。
なにかそのあたりも繋がっているような気がいたしました。

「日本沈没(2006年)」の記事はこちら→

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「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」 旧作の粗悪コピー

体力の限界に挑む一日3本観賞の3本目は「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」です。
日本のアニメーション、SFを変えたと言っても過言ではない「宇宙戦艦ヤマト」シリーズが久しぶりに復活をいたしました。
しかしそれを諸手をあげて喜べないところもあります。
一作目、二作目は大好きなのですが、それ以降の「ヤマト」はいただけません。
製作者が金のなる木とみて、惰性で作り続けているように見えたのです。
ですので実は「完結篇」は僕は観ていません。
本作も作るという話を聞いてからも、著作権関連で東北新社、松本零士氏サイド、西崎義展氏サイドでいざこざが続いておりました。
このあたりのいざこざはファン不在としか言いようがありません。
とはいえ、久しぶりに復活した「ヤマト」です。
どのような物語になっているか、この目で確認しないわけにはいきません。

同じ日に観賞した「仮面ライダー」シリーズ、「ウルトラマン」シリーズが、その歴史とブランド力に胡座をかくことなくチャレンジを続けるという姿勢を明確に出しているのに対し、本作「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」は旧作(第一作、第二作)の構造をほぼ踏襲していると言っていいでしょう。
その物語の構造になんら変化がありません。
加えて、登場するキャラクター像は旧作に比べて個性がなく、魅力に欠けます。
キャラクターデザインは「伝説巨神イデオン」等を担当していた湖川友謙氏が担当したので期待をしていたのですが、松本零士氏のキャラクターにひきづられ湖川氏のデザインの良さが半減していたような気がします(あおりカットは健在でしたが)。
キャラクターを描く従来型のセル画チックな表現と、戦闘シーンでのCGシーンもテイストがかなり異なり全体として違和感を感じました。
CGを使うのだったら「Zガンダム」くらいにはトーンのマッチングはとるべきでしょう。
また本作の中で語られるメッセージも説教くさく、心に響くことがありません。
きれいごと、建前ばかりを言っているような感じを受けるのです。
それを言っているのが、ファンを置き去りにした利権争いをしていた製作者ですから、余計に聞く気をもてません。
そしてそのような要素を入れ込みすぎているためか、もともと旧作が持っていたたった一隻の船が、地球を救うというカタルシスすら失っているように思えるのです。

正直言って、本作については旧作の粗悪コピーとしかいいようがありません。
「ヤマト」というブランドは巨大です。
それから生み出される利益はたいへん大きなものでしょう。
しかし、そればかりを製作者がみていたら、ファンはどんどん離れていきます。
本作の最後に「復活篇 第1章 完」とありました。
まだ続編を作る気なのか、と驚き、かつ飽きれました。
たぶん「第2章」は観に行かないでしょう。
もうつきあいきれません。

あ、山崎貴監督の実写版は観に行くと思いますけど。

第一作目「宇宙戦艦ヤマト」の記事はこちら→

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「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」 ネクスト・ジェネレーション

さてさて「仮面ライダー」に引き続き、「ウルトラマン」です。
我ながら物好きな・・・。
本作はBS・CSで一昨年、昨年と放送された「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル」「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY」の続編になります。
こちらご覧になっていない方も多いかと思いますので、このシリーズの概略を。
舞台となるのは未来で、人類は既に宇宙へ進出した時代です。
実は遥か昔、宇宙最強と言われるレイオニクス星人という宇宙人がいました。
レイオニクス星人は、バトルナイザーという道具を使い、怪獣を操ることができました。
やがてレイオニクス星人は滅びますが、その遺伝子はいくつかの星人の遺伝子に蒔かれました。
地球人でありその遺伝子を持つレイが、本シリーズの主人公です。

「大怪獣バトル」シリーズは予算が限られていることもあり、ロケはほぼなく(一作目はゼロ)すべてスタジオ内で撮影されました。
屋外のシーンはほとんどグリーンバックで撮影され、背景は合成です。
けれどもそのストーリーは後をひくものもありましたし、また怪獣同士のバトルがなかなか見応えがあたったため、好評となり、とうとう映画化となったわけです。

テレビのシリーズではウルトラマン、ウルトラセブンがそれぞれ1作目、2作目にちょっとだけ登場します。
それにより本シリーズと「ウルトラマン」シリーズのリンクは明らかだったのですが、本劇場作品ではM78星雲にあるウルトラの星が舞台の一つになり、ウルトラ兄弟も含め多くのウルトラマンが登場します。
ウルトラの星は「ウルトラマンタロウ」で描かれたことがありましたが、本格的に描かれるのは本作が初めてでしょう。
「タロウ」当時よりは映像技術的にアップしているからこそできることだと思います。
本作ではウルトラマンの誕生の秘話が語られます。
かつてウルトラの星で暮らす人々は、地球の人間のようであったが、太陽がその力を失ったとき、彼らは人工太陽を作りました。
その人工太陽のエネルギーを受け、ウルトラの星の人々はウルトラマンになったのです。
そして彼らはその力を宇宙の平和のために使おうと決心したのです。
実はこの秘話は(僕の記憶が正しければ)内山まもるさんの漫画「ザ・ウルトラマン」で描写されていた内容と同じです。
ようやくこの設定が映像化されたということですね。

監督は坂本浩一氏。
坂本監督はアメリカ(最近はニュージーランド)で「パワーレンジャー」(日本のスーパー戦隊シリーズをアメリカ向けに翻案したシリーズ)のアクション監督していた方です。
従来の「ウルトラマン」シリーズは、円谷プロ伝統の着ぐるみ操演、ミニチュア、光学合成などを駆使してアクションシーンを撮っていました。
着ぐるみ操演はある種の重量感を感じるので、これはこれで味わい深いものがあると思います。
しかし現代では、洗練されたハリウッドのアクション映画や東映の「仮面ライダー」シリーズに比べると、やややもっさりとした感じというのは否めず、やや古くさい印象があるのも確かです
(平成「ガメラ」3部作や、「ゴジラ FINAL WARS」は着ぐるみでありながらスピード感のあるアクションを目指していました)。
またミニチュアなどはコストや手間という面ではかなりの負担になるのは明らかです。
そのようなこともあり、最近の「ウルトラマン」は劇場版の「ULTRAMAN」あたりから「超時空要塞マクロス」の「板野サーカス」で有名になった板野一郎氏が参加し、CGを使ったアクションにも挑み始めます。
「ウルトラマンメビウス」の劇場版などはそのCGアクションをうまく活かした好例でしょう。
ただCGというのはやや着ぐるみ操演に比べると、かなり軽い感じになってしまいます。
着ぐるみ操演部分と、CG部分では、重量感がアンマッチになってしまうのです。
本作ではその間を取り持つスピード感のあるアクションを坂本監督が担っています。
先ほど書いたように坂本監督は長い間アメリカでアクションをしていたため、ワイヤーアクションそしてCGとの合成について熟知しています。
その技術を「ウルトラマン」に注入したわけです。
その結果として本作はかつてないスピード感、そして重量感のある「ウルトラマン」になったと思います。
今後新生円谷プロの重要コンテンツとして更なる進化をしてもらえればいいなと思います。

最後に本作で登場した「ウルトラマンゼロ」。
二刀流のアイスラッガー、これはカッコいいですねー。
是非こちらはテレビシリーズ化していただきたい(たぶん狙っていると思うけど)。

いずれにしても「ウルトラマン」シリーズも新しい時代に入ったという感じがします。
「仮面ライダー」にしろ、「ウルトラマン」にしろ、ほぼ同じときにネクスト・ジェネレーションに入るというのは感慨深いものがあります。

「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル」の記事はこちら→
「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY」の記事はこちら→

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2009年12月12日 (土)

「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010」 終わりと始まり

幼い頃、「仮面ライダー」と「ウルトラマン」という番組に出会ったのは、その後の僕の趣味嗜好を大きく決定づけることとなりました。
その2大シリーズが40年以上経った今でも新作シリーズが作られ続けていることは、特撮ファンとしてはたいへん嬉しいのです。
そしてこれらのシリーズの新劇場版が公開されるのもさらに嬉しい。
そして、悩ましい・・・。
2作品(加えて「宇宙戦艦ヤマト」も加えると3作品)が、すべて本日12/12同時に公開とは・・・。
どれも思い入れのあるシリーズなので早く観たいのですけど、どれから先に観ようか・・・。
しばし悩んだあげくに一つの結論に達しました。
初日にすべて観る!
ということでこれら3作品を一カ所でやっている数少ないシネコンの一つ、豊洲ユナイテッドシネマに朝一から駆けつけました。
まずは「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010」からスタート!

今回の「仮面ライダー」の劇場版は「MOVIE大戦2010」と銘打ち、3部構成になっています。
第1部は平成仮面ライダーシリーズ10周年の節目で制作された「仮面ライダーディケイド」のほんとのほんとの完結編。
第2部は現在好評放映中の「仮面ライダーW」の誕生秘話を描く「ビギンズナイト」。
そして第3部はディケイドとWのストーリーがクロスオーバーするというストーリーになっています。
この3部構成はなかなかトリッキーな構造をしているのですが、「ディケイド」と「W」はプロデューサーとメインライターが異なるのにも関わらず(監督は一緒ですべて田﨑竜太監督)、たいへん上手にまとめられていました。

まずは第1部の「仮面ライダーディケイド 完結編」からみてみましょう。
テレビシリーズ「仮面ライダーディケイド」の記事でこのシリーズの特徴、内容には触れたので、こちらではちょっとメタな話を。
「全てを破壊し、全てを繋げ」
これはテレビシリーズの予告で流れるキャッチコピーですが、これが平成仮面ライダーシリーズにおける「ディケイド」という作品の役割を言い表していると思います。
また本作劇場版でも「創造は破壊からしか生まれない」という台詞があります。
拙ブログでも不定期で記事を掲載している「平成仮面ライダー振り返り」でもしばしば触れているのですが、平成仮面ライダーシリーズのそのエッセンスを一言で言い表すとすると「革新性」だと思います。
「昭和仮面ライダー」シリーズ、「ウルトラマン」シリーズは基本的にその世界観を引き継ぎ、発展してきました。
「仮面ライダー」で言えば○号ライダー、「ウルトラマン」ではウルトラ兄弟というように。
けれども平成仮面ライダーシリーズは、新しい作品ごとに異なる世界観を提示し、毎年チャレンジを行って発展してきました。
この試みは仮面ライダーというシリーズを陳腐化させることなく活性させ、さらに上へさらに上へと自らハードルを設けながらそれを越えていくというサイクルを生み出しました。
その一つの到達点が「ディケイド」であると思います。
けれども一年ごとにがらりと変わる世界観は「仮面ライダー」というシリーズにとっては諸刃の剣でもあります。
毎年リセットされる世界観は活性化にも繋がりますが、ややもするとシリーズの継続性を失わせることに繋がります。
これは「ディケイド」の白倉プロデューサーが雑誌等のインタビューでよく触れている点です。
いわく、今の子供というのは10年前の「クウガ」をもう知らない。
今までの10年間の平成仮面ライダーはその親が(昭和の)「仮面ライダー」を知っていた世代であり、だからこそ親も懐かしがって盛り上がってきた。
けれどもこの後10年間は親が「仮面ライダー」に触れていない世代である(昭和から平成にかけて本シリーズがしばらく制作されない期間があったため)。
なので今後「仮面ライダー」はつらい時期に入るのではないか。
そのためには「仮面ライダー」をブランドとして確立しなくてはいけない、というのが白倉プロデューサーの考えです。
番組をブランドとして捉え、マーケティング的な分析をしたこの発想はまさに慧眼だと思います。
平成仮面ライダーのDNAである「革新性」を持ちつつ、ブランドとしての「継続性」を持たせるか、これが課題であったのです。
そのためには一度「平成仮面ライダー」とは何なのか?ということを総括、棚卸ししなくてはいけない。
その役割を担ったのが「ディケイド」であったわけです。
まさに「全てを破壊し、全てを繋げ」です。
10年目のお祭り的な側面だけで「ディケイド」を捉えてはいけません。
「ディケイド」という作品を通じ、過去の平成仮面ライダーをもう一度一つの作品群として視聴者の記憶に植え付けるという試みを行っているのです。
「仮面ライダー」のブランド化、これこそが「ディケイド」で製作陣がやろうとしたことでしょう。
「ディケイド」を作ると決めたとき、東映は「仮面ライダー」シリーズを半永久的に育てるという決意を示したと言ってもいいかもしれません。
物語の中でディケイドは全ての世界を一度破壊しました。
そしてまた再びライダーの世界は復活しました。
「俺たちの世界は旅の中にある」
ラストで司はこう言いました。
これは、これからもずっと「仮面ライダー」を作り続けるという制作陣の決意表明であるとも捉えられます。
これからもスタッフには革新的な「仮面ライダー」を生み出し続けていただきたいと思います。

さて次は第2部「仮面ライダーW ビギンズナイト」です。
「ディケイド」という前代未聞のイベントの後だけに、「W」が放映前はどうしても小さく見えてしまうのではないかという心配をしていました。
けれど蓋を開けてみれば、これがなかなかにおもしろい。
今までの(昭和仮面ライダーに通じるような)「仮面ライダー」的な要素も持ちながら、新しい要素をつけ加えていく「革新性」は依然として持っています。
舞台となるのは架空の都市、風都。
そして仮面ライダーWになるのは私立探偵コンビである翔太郎とフィリップの二人の主人公。
これは十分に革新的です。
ですがテレビシリーズは基本的に「事件編」「解決編」の2話構成というポピュラーなフォーマットに則っています。
これはとてもわかりやすくシンプルな構成であり、シリーズ途中からでも入りやすいという利点があると思います。
とはいえ、一年間のシリーズを縦軸で繋ぐ謎などは提示されているので、それが物語にドライブをかけます。
その謎の一つ、「仮面ライダーWはどのように生まれたのか」という問いに答える、言わばテレビシリーズの前日譚となるのが本作です。
メインプロデューサーは初めての「仮面ライダー」メイン担当となる塚田英明氏(サブでは以前担当していました)。
塚田プロデューサーはメインではスーパー戦隊シリーズを担当していました。
「特捜戦隊デカレンジャー」では刑事もの、「魔法戦隊マジレンジャー」ではファンタジーもの、「獣拳戦隊ゲキレンジャー」ではカンフーものと、他のジャンルのエッセンスを既存の戦隊シリーズに上手に持ち込むセンスがある方です。
彼が「仮面ライダーW」で持ち込んだジャンルは「ハードボイルドもの」。
ようはレイモンド・チャンドラーとかそういう感じですね。
はじめてこの話を聞いた時は、特撮ものに馴染むのかと思ったのですが、始まってみれば思いのほか相性がいい。
この世界観についてはいずれテレビシリーズが終了した時の記事で触れたいと思います。
今回触れておきたいのは出演者についてです。
まずは主人公の一人、左翔太郎を演じている桐山漣さん。
ハードボイルドになりきれない半熟ぶりもテレビシリーズではぴったり、本劇場版では翔太郎が負っている心の傷も上手く演じていました。
彼は手足の細かな動きがカッコいいのですよね。
もう一人の主人公フィリップを演じる菅田将暉さんは本シリーズがデビュー作ということですが、全くそんな感じがしません。
演技の天才かもしれません。
菅田さんは声もいいのですよね。
そして鳴海亜樹子役の山本ひかるさん。
亜樹子は今までの仮面ライダーのヒロインではなかったような役ですが、ぴたりとはまったコメディエンヌぶりが素晴らしい。
キャラクターは大阪からやってきたという設定ですが、ご本人も大阪出身ということで、関西ノリがいい具合に出ています。
この三人のアンサンブルが観ていてとても気持ちいい。
そして本劇場版では、鳴海荘吉役の吉川晃司さんに触れないわけにはいかないでしょう。
まさにハードボイルドを体現している男の中の男を、非常にカッコ良く演じてくれています。
荘吉は、もう吉川さん以外は想像できません。
それこそフィリップ・マーロウが言うような台詞をしっかりとキメてくれるので、ぐっときました。
これからテレビシリーズも盛り上がっていきそうなので、この後の展開も楽しみにしたいです。

最後に第3部ですが、第1部の「ディケイド」と第2部の「W」の世界がクロスオーバーします。
先に触れたようにこの構成は非常に巧妙で、「ディケイド」の最終回としても「W」のエピソードとしても破綻なくよく練られていると思います。
最後のオールファイナルフォームのそろい踏みは、やはりライダーファンとしてはしびれます。
Wのファイナルフォームライドなども「なるほど!」と手を打ちたくなるようなアイデアで、さすがです。

今までの10年の総括、そしてこれからの10年のスタート。
終わりと始まり。
これからも「仮面ライダー」シリーズが大きく発展していくであろうと確信した作品でありました。

テレビシリーズ「仮面ライダーディケイド」の記事はこちら→
「劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」の記事はこちら→

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本 「武士道エイティーン」

「武士道シックスティーン」「武士道セブンティーン」に続く、第三作です。
自分たちそれぞれの道を歩み始めた香織と早苗、彼女たちの高校3年を描いたのが、本作になります。
それぞれ東松学園、福岡南の代表として全国大会で再び相見えるという場面をクライマックスに持ってくるかと思いきや、これは中盤くらいにはその場面を迎えてしまいます。
あら、拍子抜けというところもなくはないのですが、よく考えてみると、前2作で二人はおのおのの進むべき道というのを見つけ出しているんですよね。
だからまた本作で葛藤したり、対立したりというのはないわけで。
逆に二人が距離を離れていても、お互いに強く結びついているというのがしっかりと伝わってきます。
本作はどちらかというと今までの二作の脇に登場していた魅力的な登場人物の、その背景についても多くを割いて描いています。
イメージでいうと「図書館戦争」シリーズの2作目「図書館内乱」に近いかもしれません(わかる人にしかわからないか)。
そこでフォーカスがあたるのは・・・。
すなわち早苗の姉、緑子。
香織の師匠である桐谷玄明。
早苗の所属する剣道部の顧問吉野先生。
香織と早苗の後輩である田原美緒。
彼ら彼女らのパートは、それぞれの主観視点で語られているので、今までわからなかった登場人物の背景や気持ちがよくわかるようになっています。

美緒のエピソードで紹介される「守破離」という考え方は、とてもよくわかりました。
自分自身の体験を顧みてもその通りだなと。
「守」というのは、まずは教えられたやり方というのを徹底的に守る、身につける。
「破」は、その教えをあえて破って、はずれたやり方をしてみる。
これは基本があってこそできることなんですね。
そして「離」はそのようにはずれたところを経験した上で自分なりのオリジナルの方法論を生み出すということなのだそうです。
まさしく僕は今、この段階。
ずっと所属していた会社から出向して、自分としては新しい会社(でも業務内容は同じ)で、日々悪戦苦闘しています。
でもその中から、今までとは違った自分なりの方法論を生み出しているのです。
そういう目で元いた部署をみると、いろいろと改革せねばならない点が見えてくるのです。
まさに「破」「離」して見えることなのだと思います。
「守破離」は剣道の教えですが、これは生き方にも通じることだなと思いました。

「武士道シックスティーン」の記事はこちら→
「武士道セブンティーン」の記事はこちら→

「武士道エイティーン」誉田哲也著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-328320-3

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2009年12月 6日 (日)

「消されたヘッドライン」 抑制された作りに好感

劇場公開時見逃してしまった本作、ようやくDVDで観賞しました。
本作はジャンルとしてはポリティカル・サスペンスになるのでしょうけれど、非常に抑制された作りで好感が持てました.
最近のサスペンス映画というのは、サスペンスと言いながらも、見た目に派手なアクション要素を安易に盛り込みがちなところがあります。
映像も楽しませる要素であるので、それについては否定はしませんが、うまくやらないと肝心のサスペンス部分の緊張感がふっ飛んでしまったりもするのです。
アクションというのは幅広いお客さんに受け入れやすいので、そうしたくなるのはわかりますが、それが向かない作品もあるのです。
例えば本作で言うと、カル(ラッセル・クロウ)が銃を持った追っ手に追われるシーンがありますが、ここでカルが手に入れた銃で応戦などしたりしたら、一気に興ざめしてしまったことでしょう。
特にポリティカル・サスペンスというジャンルはさも実際に起こっていそうな感じというのが大切ですから、そこで007のようなアクションシーンを見せられてもちょっと違うと思うのですよね。
その点、本作はそのようなアクションは禁欲的に抑えているところが良かったです。
実際のシーンではカルは息を潜めて逃げ回っているだけでありました。
わかりやすいアクションがないからといって、本作のストーリーとして緊張感がなくなっているわけではありません。
主人公が記者ですので、記事の締め切りが迫るという点ではタイムリミットサスペンスの要素もありますし、二つの事件が次第次第に絡み合っていく展開は目を離させません。
観始めたときから、あの人物は怪しいとはなんとなーく思っていましたけれど、どう怪しいかは最後までわからなかったんですよね。

自宅でDVDで観賞したので、緊張感を欠きながらボケラーッと観ていたのですが、話が展開していくに従いだんだんと二つの事件が絡み合ってきて、ちょっと自分の頭の中が「???」という状態になったので、態度を改めて最初から観直しました。
そうするとちゃんと前半の方に伏線とか張ってあるのに気づきます。
こういうサスペンスっていうのは、観る方も緊張感を持って挑まないといけないですねえ。

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本 「秋田殺人事件」

学生の頃はよく読んだ内田康夫さんの浅見光彦シリーズ。
小説は読んだことがない方には、2時間サスペンスドラマなどの映像化作品のほうがおなじみかもしれません。
2時間ドラマとしては最適の原作本だと思いますが、逆に言うとややミステリー小説としてのもの足りなさというのを、いろいろミステリーを読み始めると感じるようになってきてしまいます。
そんなことでしばらく浅見光彦シリーズからは縁遠くなっていたのですが、久しぶりに本作「秋田殺人事件」を読んでみました(BOOK OFFで100円だったので)。
久しぶりの浅見光彦シリーズでしたが、予想に反して(失礼!)けっこうおもしろく読めました。
すらすらと読める心地よさは相変わらずですし、今回扱っている事件のテーマが少し社会派的であったからかもしれません。
浅見光彦以外のキャラクター、副知事の望月世津子が魅力的であったことも要因の一つでしょう。
うん、久しぶりの浅見光彦シリーズとしては良かった。
他にも読んでみようかな。

浅見光彦シリーズ「浅見光彦殺人事件」の記事はこちら→

「秋田殺人事件」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-160772-5

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2009年12月 5日 (土)

「カールじいさんの空飛ぶ家」 3Dを見据えたピクサーの取り組み

先日、3Dアニメーション映画「Disney's クリスマス・キャロル」を観たときに、オリジナルボイス(つまりは字幕)で3Dは難しいのかなと思ったのですが、ディズニー&ピクサーの本作「カールじいさんの空飛ぶ家」は3D字幕版もあるということで、迷わずそちらを選択。
3Dで字幕っていうのは、最初は画面と字幕の距離感にちょっと戸惑いますね。
途中から慣れてきましたけれど。
CGアニメーションで3D映画という共通点はあるものの、「クリスマス・キャロル」と本作は映像の考え方が全く違います。
「クリスマス・キャロル」はレビューでも触れたようにパフォーマンス・キャプチャーという技術であくまで俳優の表現力にこだわります。
つまりは実写サイドからの表現力の拡張なのです。
本作をはじめ、ピクサーの作品はディフォルメしたキャラクター、そして動きを表現するという点では今までのアニメーションの流れを汲んだ正統派です。
3DCGアニメーションはドリームワークスなど様々なプロダクションが作っていますが、やはりピクサーはそれらとは一段違う表現力を持っていると思います。
ピクサーのアニメーションはあくまでディフォルメなのですが、その質感についてはリアリティを追求しているのです。
「トイ・ストーリー」ではプラスチックの質感、「カーズ」ではピカピカの金属感、「WALL・E」では錆びた金属の質感などをリアルに表現してきました。
またピクサーの作品は今までおもちゃや車や魚やロボットなど人間でないものを擬人化して描いてきましたが、本作の主人公はまんま「人間」。
今回のピクサーの質感におけるハードルは人間の肌感であったと思います。
物語の始めにカールじいさんが冒険を始めるとき、家のてっぺんから数えきれないほどの風船が大きく広がります。
そこで、ふわりふわりと風船につられた家を逆行の位置でカメラが捉えるカットがありました。
色とりどりの風船から透かして見える光が透明感があり、ほんとうの質感が感じられたのでした。
この透明感がポイントであると思います。
人の肌というのは、CGで表現する場合ややもするとのっぺりとしたプラスチックのような感じになってしまいます。
ではリアルに毛穴まで表現すればいいかというとそれはそれで実はリアリティはありません。
なぜかというと実際に人間が見る場合、目を凝らして肌の表面のテクスチャーを見ることはないからです。
そこで重要なのが肌の透明感ではないかと思います。
どこかの化粧品の広告コピーのようでありますが、これは実は的を得ている表現なのだと思います。
人の肌はプラスチックや金属のようにその物質自体、またはその表面に色がついているようなものではありません。
肉の色、血の色、肌の色が多層的に重なって、人肌をなしているのです。
ですので、表面的な色づけだけだと人形のような嘘くさい表現になってしまうのです。
今までピクサーが人間を主人公にしてしなかったのは肌が表現できなかったからでしょう。
でも本作はそれがまったく違和感がなく表現できています。
カールじいさんが冒険を終えた頃、よく見ると彼の顎のあたりには髭が生えています。
これも一本一本髭を植え付けたような表現をしているのではなく、うっすらとした青髭状態なのですね。
これがとても自然なのです。
この透明感の表現というのは、人肌だけではなく、風景の遠近感などにも活かされていたと思います。
本作はピクサー作品で初めての3D映画です。
最近のトレンドは一昔前の「飛び出す」3Dではなく、自然な奥行き感です。
その本作の奥行き感はパース表現やレイヤー表現だけでなく、手前から奥にいたる間の空気の透明感を描き出すことによっても表現されています。
いわば水墨画での遠近感にも似たような感じです。
この透明感の表現力が、ピクサーが3Dへ舵を切る上で、一つの課題と位置づけ本作でチャレンジしたことではないかと思います。

さてストーリーについてもちょっと触れましょう。
ちょっとしか登場しなかったのですが、カールじいさんの奥さんエリーがとても魅力的な女性に見えました。
カールじいさんはずっとエリーの子供の頃の夢を叶えてあげられなかったことを悔やんでいたのでしょう。
でも最後にアルバムでみるように、エリーにとっては南米に冒険の旅に出て行けなくても、カールといっしょに過ごせた時間こそが夢のような日々であったのでしょう。
ワクワクドキドキするような人生ではなかったかもしれません。
でもほんわかとあったかく満ち足りた人生であったのだろうと思います。
くどくどと説明するのではなく、そのあたりをじんわりと伝わってくるのはこれもピクサーのテイストなのだなと思いました。

ピクサーの前作「WALL・E/ウォーリー」の記事はこちら→

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「キャピタリズム〜マネーは踊る〜」 怪物の見えざる手

昨年のアメリカのリーマンショックに端を発した世界の金融・経済の混乱は、やや落ち着いてきたと言われつつも未だ先行きに不透明感が漂います。
マイケル・ムーア監督の新作は、その世界経済の混乱の震源地ウォール街です。
資本主義=キャピタリズムというのは基本的な考え方はシンプルです。
人や企業はモノ(サービスも含む)を作って、それを売ります。
モノを作るには原価(設備投資や人件費など含む)があり、その原価と売値の差額が利益になるわけです。
労働者も労働力という商品を企業に売っていると考えることができるので、基本的には同じです。
人や企業は、その利益をなるべく多くしようと行動するというのが、その考え方のベースにあります。
また売買は需要と供給のバランスがとられ、適正な価格が決まります。
欲しがる人が多ければ、その商品の価格は上がり、誰も欲しがらなければ、価格は下がります。
それをアダム・スミスは「神の見えざる手」と呼びました。
けれども現代はそのような古典的な資本主義の考え方から、かなり複雑に変化してきています。
上記のようなシンプルな構造に現代の金融・経済はなっていません。
その中で変わらないのは利益を最大限にしようとする人や企業の行動です。
複雑化した金融・経済の構造はもうほとんど素人だとわからない状況になっているのだと思います。
古典的な世界のようにモノを作って、売るというシンプルな状態ではないのです。

僕はメーカーに勤めていますが、日常の会社の活動はよりよいモノを作り、それを適正な価格で売るということに尽きます。
やはりお客様が喜んでくれるモノは売れるわけで、そのための企業努力をしているわけです。
ただいいモノは原価もかかりますし、それをなんとかコストダウンをし利益を出そうと皆がんばっているわけです。
けれども昨今の金融・経済の混乱があると、そのように涙ぐましい努力をして生み出した利益もたちまちふっ飛びます。
ファンドマネーが動き原油価格が上がったり、円高・円安になったり、そんなことで努力が水の泡になるのです。
そんな現代の金融・経済の構造に怒りを感じたりもします。
リーマンショック以前、「金融工学」がもてはやされた時期がありました。
これは何かというと金融における様々なリスクを計算し、バランスよく投資を行い利益を出すと理論です。
金融投資というのは、安く買って高く売るというのが基本です。
リスクが大きい案件は利益も大きいし、リスクが小さい案件は利益も小さい。
これをリスクを最小化し、利益を最大化するために、どのようにバランスをとって管理していくかというのが、「金融工学」なわけです。
ただここで肝心なのは、ここで出てくる利益は無から生み出されたものではなく、そのマイナス分、言わば損をどこかで誰かがかぶっているということなのです。
その多くは実は一般の庶民なのかもしれないのです。
「金融工学」を駆使し莫大な利益を生み出した銀行等の金融界ですが、それらが破綻をしてしまえば経済への影響は計り知れません。
そこで公的資金を注入するわけですが、それは国民の税金なのです。
金融・経済を安定化するために公的資金の注入がやむを得ない場合もありますが、けれどもそこで責任者が責任をとるということは絶対に必要です。
そうでないと金融システム自体への信頼が崩壊し、そもそもの資本主義という仕組みが崩れていくことになるからです。
今のところ資本主義に変わる仕組みは見つかっていません。
現在において最良と考えられる資本主義を維持するためにも、この混乱を引き起こした責任者が何かしらの責任をとらなければいけないと思います。

製造業はモノを作るということで新たな価値を生み出します。
けれども金融業というのはそこに新たな価値を生み出すとことはありません。
マイケル・ムーアが切り込んでいるウォール街はそれら金融の仕組みを知っている側です。
ルールを知っているのは彼らだけ、普通の人々はそのルールをよく知らないまま生きていて知らぬ間に搾取されていたりするわけです。
本作でムーアはそれを金融業界の責任と厳しく追及していますが、ほとんどその通りと思うのですけれど、一点こうも考えたりもします。
リーマンショック、その後の混乱を見ていると、そのルールを知っていると自負していたウォール街の人々でさえ、事態がまるで怪物のように暴走するということをコントロールできなかったのではないかとも思います。
冒頭にあげた「神の見えざる手」は、人間の知らぬ間に「怪物(モンスター)の見えざる手」になっていたのかもしれません。
無から利益を生み出すように見えた「金融工学」は、いつの間にか「怪物」を育て上げていたのだと思います。
僕たちはまだその「怪物」の掌の上でもがいています。
その「怪物」を制御できるように果たしてなるのでしょうか。
「マネーは踊る」のではなく、「マネーに踊らされている」のではないかと思います。

マイケル・ムーア監督作品「シッコ」の記事はこちら→

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2009年12月 4日 (金)

「理想の彼氏」 アラフォー女と草食男子

2008年の流行語年間大賞は「アラフォー」。
2009年の流行語トップテン入りしたのは「草食男子」。
強い女性に、弱い男性という最近のトレンドは日本だけだと思っていたら、この映画を観るとアメリカも同じような感じなのかもしれないと思ったりもします。

主人公サンディ(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は二児の母親。
大学院卒という高学歴で、もともと活動的な彼女ですが、子供ができてからはずっと専業主婦をやっていました。
それでも幸せな生活をおくっていると思っていたところで、夫の浮気が発覚!
サンディは夫に三行り半を叩き付け、二人の子供の手を引いて、単身NYへ。
もともと才女である彼女はテレビ局の仕事につきますが、悩みどころは二人の子供たちの世話です。
そんなとき、アパートの1Fのコーヒーショップで働くアラム(ジャスティン・バーサ)に出会います。
アラムは「草食男子」という形容がぴったりの青年。
彼は人にやさしぎるくらいにやさしいのが欠点です。
永住権を目的に結婚し、すぐに逃げていったフランス人の女性を、国外追放になるからと離婚できないくらいにやさしい。
サンディはアラムにベビーシッターを頼み、そんなことが縁で二人は互いに惹かれ合っていきます。
二児の子持ちでバツイチのアラフォーの女性。
親にパラサイト中で定職がない20代の草食男子。
世間的には釣り合わない二人。
それでも二人は互いに深く深く惹かれ合います。
しかし、たぶんサンディはずっと引け目と不安を感じていたのだと思います。
彼女から見ればキラキラと輝かしい未来を持っている若いアラムに対し、自分に老いを感じています。
一時の熱情で彼と結婚、そして子供を授かることがあっても、彼が老けていく自分を見放すというのではないかという不安をずっともっていたのでしょう。
一度夫の浮気によって痛い目にあっているサンディです、その不安は自分では気づかないほどに深いものであったのでしょう。
そんなサンディに対し、アラムは若いということもあるのかもしれないですが、二人の将来をとても楽天的に考えています。
それこそ男が偉くて、女は従うという古い価値観というのが彼にはありません。
好きな女性との間に子供ができることを素直に喜んでくれる。
けれどそんなアラムの様子でさえ、サンディから見ればロマンチックな「世間知らずのお坊ちゃん」に見えてしまうのです。
結局二人は別れてしまいます。

結婚というのは「勢いとタイミングだ」というのをよく聞きます。
自分は経験していないのでほんとのところはよくわからないのですが、そういうのを聞けばなるほどね、と思います。
本作でもサンディに別れを切り出されたアラムは「タイミングが合わなかっただけさ」と言います。
でも本作のラストで5年後に再び出会ったサンディとアラムは、多くを語るわけでもなく、そっと手を握り合います。
こういうのを観ると「勢いとタイミング」だけではなくって、互いに深く結びつく愛というのもあるのだよな、と思ったりもします。
やっぱりこんな考え方はロマンチックすぎ?

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