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2009年11月29日 (日)

「ニュームーン/トワイライト・サーガ」 私のために戦わないで!

「私のために戦わないで!」
これは女子だったら、一度は言ってみたい台詞なんでしょうね。

前作「トワイライト 〜初恋〜」は日本の少女コミックのような王道なラブストーリーで大ヒット、すぐに続編の制作が決定しました。
禁断の恋というのは「ロミオとジュリエット」の例を挙げるまでもなく、ラブストーリーの典型なので古くなることなくその時代のティーンはやはり夢中になってしまうのでしょうね。
そして前作の勢いを保ったまま、本作「ニュームーン/トワイライト・サーガ」はアメリカの初日の興行成績は「ダークナイト」を越えた(!)そうです。
ストーリーはというと、前作のレビューの際に予想した通り、吸血鬼エドワードと狼男ジェイコブとベラの三角関係が軸になります。
で、冒頭の台詞が出てくるわけですが、ラブストーリーものとしてはやはり王道の展開となっています。
求愛してくれる二人の間を揺れ動く乙女の気持ち・・・、これもまた古典的でありながらいつの時代でも古くならない題材です。
アメリカ映画、というより邦画までも、最近の映画は男女の恋愛を描くとすぐに一線を越えてしまいますが、本作はあくまでもプラトニック。
前作のレビューでも書いたように吸血は性交のメタファーでありますが、エドワードは愛するベラにそれを行うことを(ベラが求めるにも関わらず)避けようとします。
このあたりのエドワードが「あれ」ばかり考えている同世代の男子とは違い、ストイックなところが、女子に受け入れられているところでしょうか。
美しいからという理由ではなく、その存在こそが自分には必要だと言われたら(それも美男子に)、クラッときますよね。
というような本質的には古典的でベタベタなラブストーリーなので、男子的には恥ずかしくて見てらんない(前作はやや恥ずかしった)となるかなと予想していたのですが、思いのほか引き込まれて観てしまいました。
前作の女性監督キャサリン・ハードウィックから変わって、男性のクリス・ワイツ監督(「ライラの冒険」)になったからでしょうか。
監督が変わっても鬱々とした世界観みたいなものはうまく引き継いでいたと思います。
本シリーズはずっと雨が降っているような陰鬱な町が舞台になっていますが、だからこそ若い男女のプラトニックな愛が眩しく見えるのかもしれませんね。
すでに続編は来年公開が決定しているようです。
主演の二人が瑞々しい間に作っていかないといけないですものね。

前作「トワイライト 〜初恋〜」の記事はこちら→
次回作「エクリプス/トワイライト・サーガ」の記事はこちら→

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2009年11月28日 (土)

「2012」 良くも悪くもエメリッヒ

宇宙人に襲わせたり、氷河期を起こしたり、怪獣を呼び込んだりして、何度も都市と地球を破壊してきた男、ローランド・エメリッヒ。
本作でも今までにも増して、破壊の限りを尽くします。
タイトルの「2012」とは「2012年終末論」のことを言っていて、これはマヤ文明で使われていた暦が2012年より先の記述がないということからきている終末論の一つです。
いわゆるトンデモ学説の一つと言っていいでしょう。
そんなトンデモネタをここまで物語を膨らますのですから、エメリッヒの想像力は相変わらず豊かです。
内容はというと、壊滅的な危機に貧する地球と人類、そこで描かれる家族愛と人類愛という相変わらずのエメリッヒ節炸裂です。
次から次へと主人公たちと人類を襲う危機を、都合よく予定調和で切り抜けていくストーリー。
ローランド・エメリッヒはドイツ出身ですが、アメリカ人以上にアメリカンな感じがしますよね。
作品のテイストはジュージューと音がしている厚切りのアメリカンビーフのステーキに、たっぷりのマッシュポテトをつけ合わせたようなイメージ。
大味で見ているだけでお腹いっぱいになってしまいそうで、食べると胃がもたれるのはわかっているのですけど、やっぱり涎はでてきてしまいそうな感じがします。
予定調和とわかっていても、見入っている自分がちょっと悔しい(笑)。
本作も「お腹いっぱい!もう食べられません!」と言いたくなるほどにスペクタクル映像が満載です。
地震でメチャクチャになるL.A.とか津波に呑み込まれるワシントンDCとか、すごいことになってます。
タイムリミットとか、足下からどんどん地面が崩れていくとことか、自己犠牲とか、こういうディザスタームービーのお約束のネタとも言える演出も、これだけ派手にやられるとやはり力が入ります。
相変わらず人物の掘り下げなどは甘いのですが、エメリッヒ監督はそもそもそういうことに興味がないのでしょう。
普通の監督が人物の描写にかけるエネルギーを、スペクタクル映像にひたすら注いでいるので、やはり迫力はすごいです。
うーん、エメリッヒ作品はいつも感想がほとんど同じになってしまいますね。
それだけ自分のやりたいことがブレない監督なのかもしれないです。
今度はどうやって地球を破壊するのでしょうか・・・。

ローランド・エメリッヒ監督作品「紀元前1万年」の記事はこちら→

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2009年11月23日 (月)

本 「たまたま -日常に潜む「偶然」を科学する-」

本著は確率・統計について一般向けにわかりやすく説明している解説書です。
どうも確率や統計というのはつかみどころがない感じがあります。
一応大学は理系だったので受験には数学が必須でしたが、その中でも最も苦手だったのが「確率・統計」。
授業でとりあげられるのも受験ギリギリのタイミングでしたし、正直言ってチンプンカンプンなところがありました。
というのも関数や幾何などでは問題を解いて出た答えが、自分の感覚と照らして合っているか違っているかというのが感覚的に納得できるのですが、確率・統計についてはどうもしっくりとこないことが多かったんです。
まさにこの点が本著のテーマになります。
僕たちが日常の生活で暮らしていると実は、確率や統計が深く関わっています。
例えばコイン投げをした場合ですが、「表表表」ときたらそろそろ「裏」が出るだろうと思ってしまいがちです。
ですが、実際は4回目に裏が出る確率はやはり1/2で、最初のコイントスで裏が出る確率と変わりません。
統計の部分でいうと、いくら平均寿命が10歳上がっていると言っても、自分が10歳長生きできるなどということは言えません。
平均が10歳上がっていても、実際には全員が10歳長生きするわけではなく、平均年齢を中心にばらつきがあるわけです(これは正規分布をとります)。
高い確率で自分はその中心にいるはずですが、必ずしもそうとも言えない。
平均よりも10歳長生きするかもしれないし、逆に早死にするかもしれません。
でも平均寿命が伸びたいう話を聞くと、自分も長生きできる気分になってしまうのです。
このように実際の確率や統計の理論からすると不合理なことを、人というのは日常生活で感じたりしています。
このあたりの誤解を本著は解き明かしてくれます。
やはり感覚的にはわかりにくいところもあるのですが、いろいろと具体的な例をあげて説明してくれているのでいわゆる数学書よりは断然読みやすいと思います。

「たまたま -日常に潜む「偶然」を科学する-」レナード・ムロディナウ著 ダイヤモンド社 ハードカバー ISBN978-4-478-00452-4

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「イエスマン “YES”は人生のパスワード」 未来の扉を開く

「イエスマン」というと上の言うことをはいはいと聞く男という悪いイメージがありますが、本作のタイトルにある「イエスマン」はちょっと意味が違います。
主人公カールは、仕事や恋愛や友人関係で、なにか機会があっても基本的に尻込みをして「ノー」と言ってしまう男です。
僕自身もかなりカールに近いタイプなので、とても彼の気持ちがよくわかります。
彼はとにかく失敗することが怖いのですよね。
たぶん結婚してすぐに離婚してしまったというのが、かなり精神的なダメージが大きかったのでしょう。
挑戦しなければ、失敗することはありません。
だから彼は逃げて逃げて逃げまくったわけです。
けれどいろいろな機会をスルーしてしまっていれば、生活、そして人生は空虚なのものになってしまいます。
それはカール自身もわかっているのですが、なかなか「イエス」ということができません。

ここからちょっと自分のことを書きます。
僕が現在の部署に異動してきたとき、その部署は新設された部門でした。
経営側には何かイメージがあったのかもしれないのですが、社内の他部門も所属している僕たちも何をすればいいのかよくわからないというような状態でした(組織のミッションみたいなものはあったのですが、具体的なことまでは決まっていなかったのです)。
そのボスであり今の上司というのが、とにかく社内の仕事を受けまくるのです。
僕らからすれば何でもかんでも引き受けて仕事を増やして!という感じでした。
でもそれらをやっていくと、じわじわと僕たちの部署の社内での存在価値が上がっていったのです。
みんな今の仕事でいっぱいなので、できれば余計な仕事をしたくないということがあります。
だから「これはあっちの部署でとか」、「これはうちの管轄じゃない」なんていうのはよくあることでしょう。
けれど世の中が大きく動いている中で、既存の組織と組織の間にある仕事が実は重要性を増してきているということが実はあります。
うちの上司はそういう仕事をいくつも「イエス」と言って拾っていったわけです。
結果的にはそういうふうにしていったことが、その後起こる会社全体の危機の際、俄然僕らの部署が注目を浴びるという結果に繋がったのです。
それは依頼があったことに「イエス」と言って、仕事を受けて受けて受けまくったことにより、僕らの中に他の部署にはないスキルが蓄積されていったためだったのです。
本作を観て思い出したのは、会社でのこういう出来事でした。

なにか判断をしなくてはいけないとき、ネガティブに考えれば断っておいた方が無難だと考えがちです。
僕も基本的にはそういうところがあります。
でもそれは現状のままということにはなるでしょうが、よりハッピーに楽しめる可能性というのを捨て去るということにもなるのですよね(むろん、よりアンハッピーになり苦しむという可能性も同様にあります)。
すべてのことに対して「イエス」と言うのはなんぼなんでも難しいとは思いますが、「ノー」という言葉が喉に上がってきた時に、一瞬「イエス」と言ってみる可能性を考えたほうがより人生というのは彩り豊かになるのかもしれないですね。
たぶん「ノー」ということは良いことも悪いことも含めた多様な未来への扉を閉じてしまうことなのでしょう。
本作のポスターではジム・キャリーが大きく腕を広げている写真が使われています。
これは「イエス」ということにより、未来の扉を開いているというイメージなのではないかなと思いました。

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2009年11月22日 (日)

「天地人」 リアリズムとフィクションの間の難しさ

毎年NHKの大河ドラマは観ているのですが、自分の評価が一年おきにあたり年とそうでない年が来ています。
去年の「篤姫」が大当たりだったので、今年ははずれ年ということなのですが、やはり観終わってみるとそうだったような気がします。
「功名が辻」「篤姫」が当たりなのですが、どうも女性が主人公の作品の方がおもしろいような気がします。
大河ドラマで取り上げられる時代としては、戦国時代や明治維新が多いのですが、これはやはり激動の時代であるからでしょう。
だからこそ小説や映画、テレビでも幾多の作品が作られているわけで、ただ歴史を追っただけでは今までの作品あまり変わり映えがしません。
そういう点において、「功名が辻」「篤姫」という女性が主人公の作品は、女性の目から見た時代ということで新鮮さを感じたのでしょう。
本作「天地人」は大河ドラマとしては王道中の王道の題材で戦国武将が主人公です。
その主人公は上杉景勝の家老である直江兼継です。
兼継については前立に「愛」の文字をつけた兜を用いていた武将であることは知っていましたが、あとはそれほど詳しくはありませんでした。
ドラマでは上杉謙信以来の「義」の精神、そして兼継の兜からイメージされた「愛」が、上杉・直江のポリシーとして、激動の時代の中でも貫かれる様が描写されます。
実際には兼継の前立の「愛」は「愛染明王」からとられているという説が有力で、彼が実際に「愛」をポリシーに行動したかどうかはわかりません。
僕が最近の大河ドラマの男性主人公の戦国ものに、あまりおもしろくないと思うのは、主人公らが奉じている主義(本作で言うと「義」と「愛」)があまりリアリティを感じないことにあるような気がするからです。
それらの主義は、相手に対する建前としては成立するのですが、それですべての彼らの行動を説明しようとすると無理を感じてしまうのです。
特に本作のような上杉が中心となるドラマとなると、実際には織田から豊臣、そして徳川へ時代の趨勢が変わっていくに従い、彼らは上手く立ち回ったからこそ生き残れたわけなので、そこでは彼らにある種の変節があったに違いないわけです。
彼らの主義に対する姿勢が変化ない(それがないと物語の主人公として潔くはならない)とすると、史実上の彼らの行動との整合性をとるという無理がでてきます。
NHKの大河ドラマは歴史的史実に忠実にあろうと考証もしっかりとやっているので、余計に主義が貫かれるというロマンティックなフィクション性が際立ってしまうのです。
ですから「功名が辻」や「篤姫」の主人公の女性のようにその行動の史実がわかっていないような人物が主人公の方が、実はフィクションとして組み立てやすかったりするのではないか、だから物語として面白くなるのではないのでしょうか。
時代考証がしっかりしているとフィクション性とのバランスをとるというのはなかなか難しいというのは次の例でも言えます。
関ヶ原の戦いの真っ最中に石田三成自ら、小早川の陣を訪れ兵を出すよう督促するシーンがあったのですが、こちらには違和感を感じてしまいます。
たった一日の合戦で大将が軽く本陣を離れることはないだろうと。
物語としてはあそこで三成と秀秋の掛け合いをやりたかったのでしょうが、このあたりが先ほどのリアリティとフィクションのバランスの難しさだと思います。

主演の妻夫木聡さんというのは、悪い俳優とは思いませんが、いかんせん際立ったものを感じられないのです。
例えば松山ケンイチさんとかデ・ニーロとか、役に合わせて変幻自在に変わっていくタイプでもありませんし、また逆に本人自身にカリスマ性があり役を自分に合わせて変えてしまうというわけでもありません。
クセがないという意味では演出しやすいのかもしれませんが、際立った花がないような気がするのです。

合戦シーンで本作では意欲的な試みを行っていました。
空撮にCGを組み合わせ、戦場を俯瞰する視点というのを度々取り入れていました。
「ロード・オブ・ザ・リング」までいっているとは言いませんが、これは今まで日本のテレビドラマでここまで作り込んでいるものはあまりなかったのではないでしょうか。
俯瞰視点だと陣立てなどがよくわかり、ビジュアルとしてはかなり新鮮に感じました。

来年は福山雅治さん主演での「龍馬伝」。
男性主人公ですが、幕末ものは好きなので期待したいです。

08年NHK大河ドラマ「篤姫」の記事はこちら→

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「なくもんか」 生きるための処世術

「舞妓Haaaan!!!」の監督の水田伸生さん、脚本の宮藤官九郎さん、主演の阿部サダヲさんのトリオが再び組んだコメディです。
僕の持論として、優れたコメディは人の人生、生き方を描いているというのがあります。
ただ笑かすだけでは優れたコメディとは言えません。
コメディの笑いというのは、その下敷きにけっこう真面目な人の生き方があるからこそ笑えるのです。
人の生き方などというのは普通に描けばシリアスになるわけですが、それを笑いを通じて描くというのが優れたコメディなのだと思います。

主人公二代目山ちゃんこと下井草裕太(阿部サダヲさん)は、親が盗みを行った家に置き去りにされ、その家の主人夫婦に「なんとなく」可愛がられ、育てられました。
山ちゃんは親の行いについての償いの気持ちや、主人夫婦への恩への報いからか、町内みんなに笑顔を振りまき、いろんな頼み事にもイヤとはいいません。
ずっとよそ者だと思っているということを、劇中で山ちゃんが言いますが、笑顔の八方美人であることが彼が生きていくために身につけた処世術であったのでしょう。
山ちゃんの生き別れの弟である裕介の処世術は、笑いでした。
道化となることで、おもろいやつというポジションを得ることが彼が自分の居場所を見つける術であったのです。
たぶんこういうことは多くの人にあるのではないでしょうか。
僕は実はけっこう人見知りなのですが、たぶん処世術としては山ちゃんに近い感じがします。
日常的につき合っている人は、僕のことは比較的温厚でとっつきやすい人間だと思っているでしょう。
けれどより親しく付き合っている人は、けっこう頑固であったり熱かったりする側面、また引っ込み思案であることを知っています。
そういう取っ付きにくい点を自分が持っているのをわかっているので、それほど親しくないけれど付き合いがある人の前では猫をかぶっているようなところはあります。
それがたぶん僕にとっての処世術なのでしょう。
引っ込み思案なもので僕が本音を出せる人というのもそうそう多くはないので、ただ仮面をつけているばかりだとやはり疲れもするわけです。
本作を観て、このように自分がブログを書いているのもそのはけ口のようなところもあるのだなと改めて思いました。
こちらではかなり僕の本音を書いているので、それがストレス発散にもなっているような気もします。
山ちゃんが日曜の夜にオカマバーのママになり、そこで本音トークをして鬱憤ばらしをしているというのにも妙に共感してしまったりもするわけです。
人というのは社会の中で生きていくには、少なからず自分と社会の間のズレを調整しなくてはいけません。
社会を変えるのはなにぶん大変なことなので、調整するのは自分側になるわけですから、それがストレスになるのだと思います。
山ちゃんという人は、笑顔の裏にずっとそういうストレスを抱えてきたわけで、だからこそ本音を言える本当の家族が欲しかったのだと思います。
裕介が「兄さん」と呼んでくれ、子供たちが「お父さん」と声をかけてくれたことによって、やっと山ちゃんは家族を得ることができました。
もうたぶん山ちゃんはオカマバーに行くことはないのでしょうね。

かなり盛りだくさんの要素が入っている脚本はクドカン作品らしいところ。
下手をするとまとまりが悪くなる寸前のような気もしますが、ギリギリ持ちこたえているのは宮藤さんのセンスか、息の合っている水田監督だからでしょうか。
うまく作っているなというのはエコの話。
本筋の山ちゃんの話とは別なのですが、うまく話の中に取り込んでます。
前半に山ちゃんの女房の徹っちゃん(竹内結子さん)がエコの取り組みをしているのは、やや唐突感があったのですが、ラストでうまく回収をしています。
エコで「地球にやさしく」と言いますが、その必要性を頭で認識していても、心の奥底からそうだと思っている人というのは実はけっこう少ないのではないでしょうか。
「自分だけだからちょっとぐらい」とか「自分一人だけやってもしょうがない」という意識は多分にあるでしょう(自分もそう思うことがあります)。
なぜそういうふうに思うかというと、物語の中でも出ていましたが「やさしく」する対象が「地球」というのはあまりに大きく、またあまりに抽象的なため、なかなかその意義を「心」で感じることは難しいのです。
逆にこれが「おじいさんおばあさん」にやさしくとか、「親孝行」とかだったら、誰でもその大切さを「心」で感じることができると思います。
つまり対象があまりにマクロであると、人間はどうもつかみどころがないと感じてしまうわけです。
本作ではラストの沖縄でのシークエンスでは、エコの話と家族の話、つまりはマクロとミクロの話がクロスオーバーされて描かれています。
そのためエコが単なる抽象論ではなく、家族のエピソードを通じてより「心」で感じられるようになっていると思います。
これは本作の主題ではないと思いますが、宮藤さんの脚本の構造が上手だなと思ったので触れてみました。

冒頭にあげた本作の三人のトリオは息が合っていてとても良いですね。
またいつか三人で組んで、いいコメディ映画を作ってほしいです。

「舞妓Haaaan!!!」の記事はこちら→

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2009年11月21日 (土)

本 「悪夢のギャンブルマンション」

木下半太さんの「悪夢」シリーズ第四弾です。
でも「奈落のエレベーター」があるので、第五弾というべきか・・・。
登場するキャラクターは、「悪夢のエレベーター」「奈落のエレベーター」と生き残ったマッキー、そして「奈落のエレベーター」で登場し、最強のオカマとしてレギュラーの座をもぎとったジェニ子ことジェニファーです。
加えてジェニファーの元カレのギャンブラー輝男が登場人物として加わります。
マッキーが経営するオカマバーのお客の借金を返すために乗り込んだのは、建物の中の部屋がカジノというマンション。
入ったら最後、賭け事に勝ちながら最上階まで上らなくてはいけないという、まさにギャンブルの「死亡遊戯」か、はたまた浪速の「カイジ」か・・・。
すらすらとテンポよく読めるところは今までのシリーズと同様です。
ただ今までの初期の2作にあるような大ドンデン返しのインパクトはやや薄し。
その点ではちょっともの足りないところもあるのですが、読む自分の期待度も上がってしまっているので、致し方ないところでしょうか。
とはいえ、マッキーとジェニファーのキャラ立ちがいいので、彼ら(彼女ら?)のドタバタを追っていくだけでも楽しいです。
ほとんど反射神経と度胸だけで生きている感じが好きですわ。

木下半太作品「悪夢のエレベーター」の記事はこちら→
木下半太作品「悪夢の観覧車」の記事はこちら→
木下半太作品「悪夢のドライブ」の記事はこちら→
木下半太作品「悪夢の商店街」の記事はこちら→
悪夢のエレベーター」の続編「奈落のエレベーター」の記事はこちら→

「悪夢のギャンブルマンション」木下半太著 幻冬舍 文庫 ISBN978-4-344-41368-9

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「Disney's クリスマス・キャロル」 パフォーマンス・キャプチャーと3D

イギリスの作家チャールズ・ディケンズの古典「クリスマス・キャロル」をロバート・ゼメキスが映画化しました。
欧米では守銭奴のことをスクルージのようだと言うこともあるように、原作は超がつくほどの有名な作品であるので、こちらではストーリーには触れません。
産業革命後の貧富の差が広がってきている中、自分のことしか考えないスクルージが、己の生き方を見直すという博愛をテーマにしている作品です。
アメリカでも日本でも中国でも、格差が問題になっている中で、改めて「クリスマス・キャロル」に目を向けるというのは意味があるかと思います。

さてこちらで取り上げてみたいのはロバート・ゼメキス監督が熱心に取り組んでいるパフォーマンス・キャプチャーの話です。
パフォーマンス・キャプチャーというのは俳優の演技をコンピューターに取り込む技術。
従来から映画やゲームで用いられているモーション・キャプチャーという技術がありますが、ゼメキス監督が用いているパフォーマンス・キャプチャーというのはよりその精度をあげた技術です。
単なる「動き(モーション)」ではなく、俳優の「演技(パフォーマンス)」を取り込むという意味でしょう。
確かに本作でスクルージ等を演じているのはジム・キャリーなのですが、スクルージの姿はジム・キャリーとは全く違うのですが、その特徴のある演技からジム・キャリーであるということが伝わってきます。
なるほどパフォーマンスをキャプチャーしているのだなと感心します。
僕はこのパフォーマンス・キャプチャーで作った作品を初めて観たのは、同じくゼメキス監督の前作「ベオウルフ」だったのですが、恥ずかしながら映画の記事をアップしたときは実写だと思っていました(だってアンジーがそのまんまだったんだもん)。
あとでCGだったと知り、驚いたのですが、逆にわざわざ実写に近い映像を演技をキャプチャーしてまで、CGでやる意味などあるのだろうかとも思いました。
その疑問に本作が答えてくれているような気がします。
それは何かというと「3D」です。
ハリウッドも次は3Dが来るといくつも作品をリリースしていますし、日本の家電メーカーも3Dの技術開発を進めています。
僕もいくつか最近の3D作品を観ましたが、一昔前の作品よりも格段に進化していると思います。
最近の3D表現は「飛び出す」というよりも、「奥行き感」を感じるようにするというのが主流らしいですが、確かに奥行きを感じるようになっています。
けれども奥行きは感じながらも、舞台の描き割りが奥に向かって並んでいるような、レイヤー状の奥行き感であるような気がするのです。
そのレイヤーの距離感(奥行き感)が極端だと、なんとなくどこに焦点をあわせていいのか迷うようなことがあり、観ていて疲れてくるのです。
これは実写を3D化するとそう見えるという技術的な問題なのかどうかわかりませんが、やはりちょっとまだ普及するにはハードルが高いかなとも思ったりもします。
けれど本作は3Dで観ても、奥行き感がとても滑らかだと思ったのです。
これはコンピューターで計算した映像だからだと思いますが、今まで観た3D作品に比べてずいぶんと不自然さが払拭されているように思えました。
実写の3D映画というのは立体感を出すために2台のカメラを並べて撮影します。
その2つのカメラの差が、偏光立体メガネで左右の目に入る映像の差となり、立体感を出すのです。
ですから2台のカメラを並べておけない状況では立体感は出しようがないわけです。
けれどCGだったら物理的にカメラを2台ならべる必要はなく、コンピューターでのシミュレーションで左右の目の差を映像化することが可能です。
ただこれがいわゆる3DCGアニメなどだと、その演技はどうしても生身の人間には及びません。
生身の人間のパフォーマンスを持ちながら、自然な3D映像にする、これを解決する方法の一つがパフォーマンス・キャプチャーなのかなと思いました。
そういえば「ベオウルフ」も一部上映館では3D上映でした。
ゼメキスはそのあたりを目指してこの数年、技術に磨きをかけているのかもしれません。
本作を観ていてやや気になったのは画面の暗さ。
左右の目それぞれに向けて偏光させているので、どうしても光量が少なくなってしまうからでしょうか、ちょっと暗い印象がありました。
作品が「クリスマス・キャロル」で夜のシーンが多いので、不自然さはないのですけれど、今後より3Dを普及させていくにはこのあたりに技術開発が求められるような気がします。

3D作品の時代がこようとしている感じがある中で、やはり期待してしまうのはジェームズ・キャメロン監督の新作3D映画「アバター」です。
今まで見たことのない映像を作るために、自分たちで技術を開発してきているキャメロン監督ですから、さらにすごい映像体験をさせてくれるのではないでしょうか。

ロバート・ゼメキス監督「ベオウルフ 呪われし勇者」の記事はこちら→

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「イングロリアス・バスターズ」 料金返却してとは言いませんが・・・

本作を観てつまらないと感じ、上映開始後1時間以内に退席した観客には鑑賞料金を返却するという「面白さタランかったら全額返金しバスターズ」というロッ○リアのハンバーガーのようなキャンペーンを実施中の「イングロリアス・バスターズ」を早速観てきました。
奇をてらったキャンペーンも配給会社の自信の現れかとも思いましたし、また最近クセのある役に意欲的に取り組んでいるブラッド・ピットも観たかったですし。

えーと、おもしろかったですかね・・・?
全部観ちゃったんで料金返却してとは言いませんが、あんまりおもしろくなかったのでした。
そもそもタランティーノの作品は非常にクセがあるわけで、かなり観客の好みが分かれる映画を作る人ではありますが、それほど嫌いではないのです。
ですので僕としては趣味性爆発のタランティーノワールドを展開してくれればいいのですが、本作はやや押さえ気味だったような気がして、やや腹五分目くらいな印象でした。
タランティーノにはゲップがでるくらいのテンションを求めたいのです。
「キル・ビル」などが代表ですが、彼の作品は物語としては破綻気味であっても、彼の作品に込めたフィティッシュな熱量で押し切ってしまう強さがあると思うんですが、本作はその熱の温度が低めです。
ですので、いつもよりも物語の粗さみたいなものが浮き上がってきてしまっているように感じました。
期待していたブラッド・ピットももっと弾けているのかなと思ったのですけど、思っていたより出番は少なかったですし、これも残念(予告で流れていた「イエスイエスイエスイエス」は本編にはなかった・・・)。

ちょっと本作の主題とはずれますが、観てちょっと考えたことを書きます。
本作の舞台となるのは、第二次世界大戦下ドイツ軍に占領されたパリです。
ですので、本作の中では英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語が乱れ飛びます(字幕嫌いのアメリカ人は苦手ではなかろうか)。
なんでも英語にしてしまうアメリカの映画ではこれは珍しいかと思います。
そしてこの言葉の違いが本作の中ではキーとなります。
スパイと接触しようとするバスターズたちの正体がバレるのも微妙なドイツ語の話し方からですし、またアルド大尉も拙いイタリア語で馬脚をあらわします。
そして幾人もの登場人物たちが計画する復讐、陰謀が錯綜する中で、うまく立ち回るのがいくつもの言語を操るドイツ人SSランダ大佐であるわけです。
聖書の中のバベルの塔の話であるように、言語が違うとそこには見えない壁ができてしまいます。
その壁が争いのタネになってしまうわけでもあるのですが、逆に多言語を操ることができればそれは一つの武器になるということです。
まさにランダはその力を己が生きるために駆使していたわけです。
彼にとっては母国も母国語も何ら特別なものではなく、だからこそ戦況を見て勝ち馬に乗ろうとする行動をとれるわけです。
彼にとっては所属する国家というものはあまり意味がないものなのでしょう。
そのランダに対し、アルドはその所属にこだわります。
劇中で出身はテネシーと言っていましたが、ここは南部地域でより伝統的な価値観を大事にする土地柄です。
また本人も嘘かほんとかわからないですが、インディアンの血が入っているとも言い、そのルーツにこだわっていることも感じられます。
彼の所属へのこだわりは自分に対してだけでなく、相手にも求められます。
敵であるナチがナチをやめてしまうことというのは彼にとっては許しがたいことであり、だからこそ彼はナチをナチのまま殺すか、生きるならナチとしての印を刻まないわけにはいかなかったのでしょう。
彼がアメリカンな英語しか話せない(イタリア語は話せるとは言いながらも、あれはほとんどカタコト)というのも、ランダとの対称性を感じさせます。
とつらつら書きましたが、たぶんタランティーノがやりたかったこととは全く関係がないことでしょう。

後に残るは死体の山だけというのはタランティーノらしいと言えば、らしかったかな。

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2009年11月18日 (水)

本 「真夜中の神話」

久しぶりに真保裕一さんの作品を読みました。
「ホワイトアウト」で初めて真保さんの作品に触れ、そのあと初期の小役人シリーズはけっこう好きで、ほとんど読破しました。
真保さんの作品の魅力というのは、一般の人にあまりなじみのない分野へスポットライトをあてていることによる発見の喜び、そして主人公の(大概)男の不器用な生き方への共感、そして追い込まれた彼らが逆転を成し遂げる爽快さみたいなところがあるかと思います。
本作も基本的には同じ構造であると思います(主人公は女性ですが)。

「真夜中の神話」がスポットをあてているのは、タイトルにもあるように「神話」。
神という存在とは、その正体とは何なのかということが題材になっています。
けれども神という存在へのアプローチは宗教的、哲学的なものではなく、科学的(とはいえフィクションですが)なものとなっています。
とはいえ、それは本作の主題ではなく、ひとつの道具立てです。
人は発展し続けることにより、その過程でいくつものものを失ってきました。
利に目を奪われ、大事なものを失ってきているともいえます。
自分だけ、人類だけよければいいと考え、がむしゃらに進んできたということです。
進歩する力は人類がこうやって進化してきた源泉ではるけれど、その代償として、昨今の環境問題のような課題が起こってきています。
発展の裏には破壊があります。
守るべきものも発展の裏で破壊されていくかもしれない。
これらについて今まではよしとしてきましたが、それがよいのかということが本作の主題となるのでしょう。

作品としてはある一定レベルにはあるとは思いますが、抜群に面白い!と絶賛できるほどではありません。
初期の爽快さみたいなものが最近の作品にはなく、やや全体的に重い感じがするのですよね。
そこの重さにある課題が真保さんの描きたいところなのかもしれませんが。

「真夜中の神話」真保裕一著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-713110-4

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「笑う警官」 日本独自のハードボイルド

最近、ミステリー小説では「警察もの」というジャンルが元気がいいです。
以前に紹介した「ジウ」の誉田哲也さんや、本作の原作を書かれた佐々木譲さんもその一人。
佐々木さんの作品は「制服捜査」しか読んでいないですが、本作は人気シリーズである「道警」シリーズの一作目「笑う警官」を映画化した作品です。
ミステリーというと「私立探偵」というイメージがありますが、現実的にみれば犯罪捜査をする「私立探偵」という存在はなかなか成立しにくい。
事実上日本では警察しか捜査権を持たないわけですから、犯罪をテーマにした作品でリアリティを追求していけば、警察という存在に触れないわけにはいけません。
犯罪捜査という点で言うと、フィクションの世界でなければ「私立探偵」という存在はなかなか成立しにくいわけです。
最近はミステリーもリアリティを求める傾向が強くなっていますから、その場合は捜査の主体は必然的に警察になるわけで、だからこそ最近は「警察もの」が隆盛してきているのでしょう。
ただ現実の警察の捜査というのは、非常に組織的に行われるものであり、各捜査員がヒーローになる場面というものはほとんどないと言っていいでしょう。
主人公たる核がない物語というのは、作り上げるのは難しい。
このあたりがリアリティさとフィクションの間のバランスをとるのが難しいところだと思います。
ですから昨今の「警察もの」の特徴としては、主人公らの捜査官と警察組織の対立・反目が主題となることが多いのだと思います。
主人公たちを浮かび上がらせるためには、彼らが所属する組織についても描かなくてはいけません。
本作「笑う警官」はまさにその典型と言っていいでしょう。
また先に書いた「私立探偵」という存在は、ハードボイルドもののいくつかの作品にあるように独自の美学や正義を持ったアウトローとして描かれることが多いと思います。
このような存在を組織内にいる捜査官に求め、物語として成立させるのは、これもまたかなり難易度が高い。
組織内にいるわけですから、組織のルールに拘束されるわけで、普通は独自の美学など持ちようがありません。
そのような存在は組織から弾かれてしまうでしょうから。
けれども本作はその組織が、アウトローを弾き出そうとする力にこそにスポットを当てているところが日本ならではのハードボイルドを描いているような気がします。
組織内にいるアウトローという存在をどのように浮かび上がらせているか。
本作では主人公たちが所属する警察組織を悪として描くことにより、それを成し遂げています。
先ほど書いたようなハードボイルドの私立探偵は基本的に社会や組織の外にいるアウトローです。
だからこそ独自の美学を通せるのです。
本作では所属する組織自体を悪とすることにより、正義を貫こうとする主人公たちを組織にとってのアウトローとして浮かび上がらせています(本作でいうとリストに載せられるということ)。
さらに彼らはまたその組織に所属している存在でもあるわけですから、組織人でありアウトローであるという二重構造の立場に立たされます。
本作に登場する佐伯、津久井、町田、岩井ら捜査官はその二重の立場で揺れ動きます。
このあたりが日本独自のハードボイルドとしての特徴を出しているような気がします。
「朱に交われば赤くなる」というのは本作でも出てくる台詞です。
組織に所属していれば、次第次第にその組織の価値観に染まってくるものです。
永田町の論理とか、霞ヶ関のルールとかいうのもそういうことの一つでしょう。
組織の中で生きていくには組織のルールを身につけるというのは必要なことですが、しかしそれが悪いルールだとしたら。
染まってしまっていく自分、それに抗うことはできるのか。
大なり小なり日本という社会では、誰でもそういう立場になる可能性があります。
「染まりきれない」でいられるか、自分の美学を持ち続けられるか、佐伯らだけでなくこれは自分も直面することのような気がしました。
このあたりの組織の価値観、個人の価値観の間を揺れ動く感じが、日本独自のハードボイルドなのではと感じます。

本作では基本的に小島刑事の目線で語られています。
こちらの役を演じる松雪泰子さんが凛としていてカッコいいのです。
松雪さんというのはたいそう美人ですが、「デトロイト・メタル・シティ」の社長さん役から、本作のような凛とした感じ、また「クヒオ大佐」のような儚げな感じと役の幅がとても広いですよね。

原作小説「笑う警官」の記事はこちら→

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2009年11月15日 (日)

「ゼロの焦点(2009)」 時代の断層

今年は松本清張の生誕100年ということです。
僕はミステリー好きですが、松本清張作品は一冊も読んだことがありません。
本格推理小説に対して、松本清張のミステリーは社会派推理小説と呼ばれることがありますが、このあたりは今まで何故かあまり読んでこなかったんですよね。

この物語の舞台となるのは戦後復興を遂げ、これから大きく発展しようとする時代。
戦後世代として知識としては太平洋戦争という事実を知っていますが、そのときの社会がどのような状態であったのか感覚的に自分ではわかりません。
戦前と戦後、パラダイムシフトと言ってもいいくらいに価値観が変わったと言ってもいいでしょう。
本作の冒頭で舞台となる時代の新聞記事がフラッシュで映し出されます。
その中に「もはや戦後ではない」という見出しがあります。
これは1956年の経済白書に載った言葉で、経済復興を成し遂げようとしている日本の自信がそこには窺えます。
けれども戦争終了から、それまでの10年間はさきほど書いたようにパラダイムシフトが起こっている過渡期であり、そこに大きな時代の断裂があるわけです。
その断裂には一人の人間はあまりに無力であり、抗っても呑み込まれてしまう。
本作の背景にあるのは、時代が大きく変ったときに生じる歴史の断層あるのです。
これが松本清張の作品が「社会派」と呼ばれる所以でしょう。

<ここからネタばれ気味なので、注意>

歴史の断層を本作に登場する3人の女性が象徴的に表しています。
夫の失踪の謎を追う禎子(広末涼子さん)は言わば戦後を象徴している人物と言えるでしょう。
彼女は英語を上手に操り、社会に出て仕事もし、そしていざとなれば行動することができる女性であり、現代の女性に直結するキャラクターとなります。
彼女が本来持つ明るく前向きな性格には、未来を、夢を感じます。
夫である憲一がそう感じたように。
また田沼久子(木村多江さん)は戦前の価値観を表すキャラクターとなります。
男や社会の価値観に流されながら生きていく女性。
自分の意志を通すのではなく、甘んじてそれを受け入れていくという生き方です。
そして室田佐知子(中谷美紀さん)は戦前と戦後を繋ぐ登場人物と言えます。
戦争の傷を自分の中に抱え、けれどもそれをただ受け入れるのではなく、自分たちがしっかりと生きていくための社会を変えようとするエネルギーに転換できる力強い女性。
様々な矛盾を抱えながらも、復興をしようとしているあの時代の日本を象徴している人物なのです。
彼女のキャラクターの中に先ほど書いた時代の断層というものが表れています。
佐知子の中にある断層が最後には彼女自身を引き裂いたのかもしれません。

最後のエンドロールでは現代の日本が映し出されます。
戦争に負けたわけではありませんが、現在の(バブル崩壊後の)日本も経済危機に見舞われ、大きく生き方の価値観を変えなくてはいけない局面になっているような気がします。
何十年か経って今の時代を振り返った時、「ゼロの焦点」で描かれている時代がパラダイムシフトの時であったと感じるように、やはり価値観が転換した時であったと見るかもしれません。
今の時代に本作を作った意図というのはそういうメッセージもあったのかなと思いました。

大きくうねる荒波に面した断崖絶壁。
そしてその上に立つ犯人。
2時間サスペンスドラマの定番と言えるシチュエーションは本作がオリジナルだったんですね。
知らなかったです。

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2009年11月14日 (土)

本 「博物館の誕生 -町田久成と東京帝室博物館-」

東京上野にはいくつもの博物館や美術館があります。
国立科学博物館、国立西洋美術館、東京都美術館などが立ち並んでいる様は、アート好きにはたまらないエリアとなっています。
そのエリアの中心となっているのは、やはり東京国立博物館でしょう。
この博物館では、まさに国宝級の展示会が開催されています。
今年の薬師寺展にも多くの人が訪れたことは記憶に新しいことだと思います。
博物館というものが存在し、そこに行けば国宝を観ることができるというのは、当たり前のことと思えるのですが、そこには先人たちの苦労がありました。
本著では、国立博物館、かつての東京帝室博物館の設立に尽力した町田久成の業績をたどりながら、日本の博物館の誕生を解説しています。
町田久成は幕末期の薩摩藩の出身であり、若い頃にイギリスへ渡ったことがあります。
そこで大英博物館に接して感銘を受け、日本での博物館設立のために奔走しました。
時は明治維新。
時代が激動したときです。
開国した日本は、急速に西洋化を進めていきます。
その過程において、日本の伝統的なものへの軽視が顕著になりました。
この時多くの貴重な資料が海外へ流出しました。
昨年ドラマ「篤姫」で有名になった天璋院が嫁入り時に使用した駕籠がアメリカで「発見」されたことが話題になりましたが、明治維新時にはこのような流出がしばしば起こっていたのです。
また大政奉還により天皇中心の体制になったことにより、いわゆる廃仏毀釈の運動が起こったのもこの時です。
日本は仏教と神道が混合した独特な宗教観を築いてきました。
けれども明治期に神道を重んじるようになり、いくつもの寺が廃されることになりました。
そのときに貴重な仏像等が焼かれたり壊されたりしたのです。
歴史が激動する時、それまでの歴史を否定するようになるのはよくあることです。
けれどもそれを「なかったことにする」ということは、変革した自分たちをも否定することになりかねません。
そういう意味で、歴史を保存し、考証することは大事なことと考えます。
その機能を博物館は持っているのです。
町田久成は海外から搾取した展示品が飾られる大英博物館を観て、自国の歴史が急速に失われていくことに対する危機感を持ったに違いありません。
先に書いたように急速な西洋化が進む中での博物館設立にはいくつものハードルがありました。
その障害を越えた結果、我々の前に上野の森の博物館・美術館群があるのです。
上野の博物館には時折足を運ぶのですが、設立をした人について考えることはありませんでした。
今度訪れた時に、町田久成について想いを馳せようと思います。

「博物館の誕生 -町田久成と東京帝室博物館-」関秀夫著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430953-0

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「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」 マイケルよ、永遠に

本作は今年の6月に急逝したマイケル・ジャクソンが、その死の直前まで準備をしていたコンサートのリハーサル風景を構成したドキュメンタリーです。
当初は2週間限定の公開予定でしたが、予想以上のヒットで公開が延長されています。
洋楽には疎いのですが、さすがにマイケルは知っています。
「スリラー」「今夜はビート・イット」など本作の中では彼の超有名な曲が流れ、観ていると自然に体がリズムを刻んでしまいます。
知らず知らずのうちに彼の音楽は自分の体の中に刷り込まれているのだと感じました。
本作ではこれから永遠に観ることのできないマイケルのパフォーマンスを堪能できることはもちろんですが、彼のコンサートを作り上げることに対するこだわりを感じることができます。
素人からすれば違いがわからないほどの、ちょっとした振り付け、音の高さ、長さへ、彼はこだわりをみせます。
自分がイメージする高さへ、いかに近づけようとできるか。
妥協をしようとすればいくらでもできるはずです。
たぶん彼が普通にパフォーマンスをするだけで、他のアーティストを軽く凌駕できると思います。
けれど彼はそれに満足しない。
より高みへ、自分がイメージするレベルへ、あくまでこだわり続けます。
けれど彼がスタッフやダンサー、シンガーへ自分の意見を述べる言い方はとても穏やかです。
「キング・オブ・ポップ」としての確固たる地位を確立しているわけですから、誰も彼の発言に逆らうことなどできないはずです。
ですが彼の言葉は謙虚さ、そしてまた意志の強さを持っています。
彼を支えるスタッフやダンサーは、マイケルの「キング・オブ・ポップ」としての地位に対してではなく、彼の魂に心酔しているから彼の言葉に従うのでしょう。
彼の生き様に共感していると言っていいのかもしれません。
僕自身も強く心をうたれました。

本作を観終わると、彼のパフォーマンスが二度と観れないという現実を突きつけられ、愕然としてしまいます。
享年50歳、あまりに若い死が惜しまれます。
マイケルよ、永遠に。

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2009年11月 8日 (日)

本 「フリーター、家を買う。」

不景気がやっと底打ちしたと言われていますが、企業の求人についてはまだまだ厳しいというのが現実のところです。
考えてみれば「働く」ということの意味も、バブル崩壊以降、いろいろと変化し、多様性を持ち始めている気がします。
たぶんかつてのモーレツ社員の世代、バブル時入社世代、その後の就職氷河期世代、そして現在懸命に就職活動をしている世代は「仕事」とか「働く」ということに対しての見方というのは違うでしょうね。
本作の主人公は、一度就職したものの、何か合わないと辞め、その後フリーターでフラフラとしていた青年、誠治。
フリーターでも自宅にいれば何とか生活もしていけるということで、誠治はいつしか就職活動もせずバイトを転々とした生活を続けています。
そんなとき、母親が重篤の鬱病になってしまいます。
母親はご近所付き合いや、身勝手な夫、そしてフラフラとしてばかりいる息子に対して、自分で責任を感じて心を病んでしまったのです。
母の病気によって誠治はやっと自分の甘さを痛感します。
そして改めてしっかりと働こうと就活を始めますが、すぐに会社を辞め、バイトも転々としてきた人間に世間はけっして甘くはありません。
けれど誠治は自分のいい加減さ、甘さというのをしっかりと見つめ、就職活動を通じて次第次第に成長をしていきます。

かなり重そうな話に聞こえるかもしれませんが、有川さんのテイストだからか、それほどドスンとした重さまではいきません。
けれど誠治が自分勝手だった自分を見つめたり、甘さを痛感したりするところはやはりある種の重さはあります。
たぶん読んでいる人は少しは自分にもそういうところを感じたりすると思います。
そういうのを正面切って言われると痛かったりするのですが、有川さんの描き方はすっと心に入っていきます。
段々と誠治が成長していく様は、読んでいて頼もしく感じ、応援したくなります。
「仕事」そして「働く」ということに対し、真摯に向き合う誠治の姿は勇気も与えてくれると思います。
こういうふうに書くと、いつもの有川さんの作品ぽくないかもしれませんが、後半はいつものベタ甘系の恋愛話もありますので(笑)。
有川浩さんは出す作品がどんどん進化していくのが、実感できる作家さんですよね。
らしさは失わずに、進化していくのがすごいと思います。
次回作も期待して待っています。

「フリーター、家を買う。」有川浩著 幻冬舍 ハードカバー ISBN978-4-344-01722-1

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「PUSH 光と闇の能力者」 物語をこねくり回し過ぎ!

観終わった後、うーんとちょっと唸ってしまいました。
どうも自分には合わない・・・。
監督のポール・マクギガンの前作は「ラッキーナンバー7」で、こちらも僕としてはあまりいいとは思えなかったので、どうも相性が悪いようです。
前作もそうですし、本作もそうなのですが、どうも殊更にストーリーを複雑化しようとしているような気がしてなりません。
「驚きのドンデン返し!」とか「衝撃のラスト!」とかそういうコピーをつけたいのではと勘ぐりたくなるような感じがします。
当然エンターテイメントなのですから、ドンデン返しとかがあってアッと驚かせてほしいのはやまやまなのですが、どうも力技でそうしようとしている感じがするわけです。

<ここから先はネタばれ気味です>

本作で登場する超能力者で特にキーとなるのは「ウォッチ」と「プッシュ」です。
キャシー(ダゴタ・ファニング)等の「ウォッチ」は未来予知をする能力を持っています。
けれどもその未来は現在で起こる出来事により、変わっていきます。
彼らが見ることができるのは、今の状況のまま進んだ場合の未来なのです。
そしてタイトルにもなっている「プッシュ」は人の偽の記憶を押し込むことのできる能力を持つ超能力者です。
本作でもキラやカーバーがその能力を持っていて、本作のキーキャラクターとなっています。
「プッシュ」が人の記憶を操作できるということは、別の言い方をすれば、その人の過去を改変する力を持っているということです。
自分では気づかない力で押し込められた記憶は、その本人にとっては真実となるわけで、それは過去を変えたことに他ならないわけです。
本作ではこの「プッシュ」の力が、物語のドンデン返しを担っています。
実はこうだった、実はこうだったということが、繰り返されます。
このあたりの後だしジャンケン的なドンデン返しの強引さは「ラッキーナンバー7」でも感じたことに似通っています。
結局はすべてのことはキャシーの母親がキャシーが生まれる前から予知していた通りに進んでいたということなんですよね。
カーバーがキラの記憶を改変することも、キラが記憶を「ワイプ」される(消される)ことも。
「ラッキーナンバー7」の回想シーンも反則気味でしたが、本作も同じような感じがしました。
ポール・マクギガン監督は物語を二転三転させる方に興味があるのか、あまりキャラクターの描き方に深みはありません。
主人公であるはずのニック、またキャシー、キラといった主要なキャラクターについて中途半端な扱いであると思います。
主人公に焦点をあてるか、群像劇にするか(テレビドラマ「HEROES」などはこちら)のプランもできていないような気がします。
ですからキャラクターへあまり思い入れができません。

いろいろ書きましたが、どうもポール・マクギガン監督の物語をこねくり回すクセが、やはり僕には合わないような気がしました。

ポール・マクギガン監督作品「ラッキーナンバー7」の記事はこちら→

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2009年11月 7日 (土)

「ジェイン・オースティン 秘められた恋」 彼女の著作に触れていた方が楽しめる

最近、演技の幅も広がり多彩な役を演じているアン・ハサウェイがイギリスの女流作家ジェイン・オースティンを演じる新作を観てきました。
ジェイン・オースティンは何度も映画にもなった「高慢と偏見」等を代表作とする作家です。
僕は彼女の著作も、その映画化作品も観たことがありません。
本作については、ジェイン・オースティンの作品にいくつか触れていた方が楽しめるかもしれません。
彼女の著作は基本的に恋愛もので、本作でも語られるように紆余曲折を経て、男女が幸せな結婚に行き着くというハッピーエンドの作品が多いということです。
彼女自身は生涯独身であり、そしてその人生において唯一の恋が本作でも語られるトーマス(トム)・ルフロイだったということです。
彼女の作品に触れていた方が、著作の中で物語られるハッピーエンドと、彼女自身の悲恋の対比がより際立ってくるかもしれません。
先に書いたようにあいにく僕は彼女の作品に一切触れたことがなかったので、本作についてだけ言うと、オーソドックスな悲恋もの以上に感じられなかったのです。
本作を楽しむには、その前に彼女の作品またはその映画化作品に触れておいた方が良いかもしれません。

アン・ハサウェイは、完全に「プリンセス」を越え、実力のある女優としての地位を確立した感がありますね。
またジェームズ・マカヴォイはこういうクラッシックな役柄が良く似合います。

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本 「デセプション・ポイント」

「天使と悪魔」、「ダ・ヴィンチ・コード」のダン・ブラウンの3作目の作品です。
あげた2作品とは異なり、ラングドンシリーズではありません。
とは言いながらも、ダン・ブラウン色というのが、やはり全面的に出ている作品となっています。
ダン・ブラウンらしさとは何かというと、まず上げられるのが作品の背景にある情報量の多さだと思います。
このあたりはテクノスリラーの先駆者マイクル・クライトンにも通じるところがありますが、彼がややもすると情報過多になりすぎストーリーが停滞しやすいのに比べ、スピード感がある展開があります。
ラングドンシリーズでは宗教、記号学等がその背景にある情報でしたが、地質学や地球外生物学などの最新の科学に関する情報が多くなっています。
またダン・ブラウンの特徴の一つはそのストーリーてリングでしょう。
ラングドンシリーズもそうですが、物語が進むにつれ、指数関数的に展開のスピード感がアップしていき、読者を離さない「ヒキ」があります。
この「ヒキ」はダン・ブラウンならではで、本作も後半のドンデン返しに継ぐドンデン返しは読み応えがあります。
逆を返せば、前半はかなりノロノロと進むので、読みたくなくなるようなところもあります(文庫の上巻くらいまで)。
ただ下巻に入ると展開はスピーディになっていくので、読むのが止まらなくなります。
ですので、読む方はなんとか上巻は我慢して読むのがよいでしょう。
物語の構造としてはダン・ブラウンの作品はある種の「型」があるように思います。
その分、読みやすくもあるでしょう。

ラングドンシリーズは3作目を執筆中と、ずいぶん前に聞いた気がしますが、まだ発刊されないのですかねー。

ダン・ブラウン著「天使と悪魔」の記事はこちら→

「デセプション・ポイント<上>」ダン・ブラウン著 角川書店 文庫 ISBN4-04-295508-8
「デセプション・ポイント<下>」ダン・ブラウン著 角川書店 文庫 ISBN4-04-295509-6

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2009年11月 3日 (火)

「ワイルド・スピード」 スピード&クール

久しぶりにオリジナルメンバーが揃った「ワイルド・スピードMAX」がおもしろかったので、第一作目をDVDで再観賞しました。
改めて観てみると、ポール・ウォーカーもミシェル・ロドリゲスもジョーダナ・ブリュースターやはり若く見えますね。
「ワイルド・スピードMAX」の彼らも大人の色気が漂ってきていて魅力的ですけれども。
唯一あんまり変わっていなかったのは、ヴィン・ディーゼル。
もともと老け顔だったもんね・・・。

カーアクション映画っていうのは、本作が公開されるまで、しばらくパッとしたのがなかったんですよね。
それがロブ・コーエン監督の斬新なスピード感溢れる演出がとても新鮮で、またカーアクション映画が新しい時代がきたような気がします。
ドライバーがスイッチを押すと、画面がエンジン内でニトロが噴射されるカットになり、そこから爆発的なパワーが引き出され、急加速!といった流れるようでありパワフルな演出は、初めて見た時はととも斬新に思えました。
従来のカーアクション映画というのは、アメ車が登場することがあったということもあり、作品的にも極めてマッチョな印象のものが多いのですよね。
けれども本作は登場するのはほとんどチューンされた日本車、そしてスピード感、そしてクールさといったカッコよさが作品全体を包んでいるのが、新しい印象を与えてくれたと思います。
カッコいいということの定義がアメリカでも変わってきたというところでしょうか。

本作の見所はクールな演出だけではありません。
実はドミニク(ヴィン・ディーゼル)、ブライアン(ポール・ウォーカー)という二人のキャラクターのドラマもきちんと作られています。
ドミニクはマイノリティでありどちらかというと育ちの悪い男。
ブライアンは白人で潜入捜査官。
育ちや立場も違う二人ですが、その間には何かシンパシーのようなものがあります。
ただの友情というよりは、別の次元での価値観の共有みたいなものがあるんですよね。
二人だけで相通じる感じというのが、なにかいいんです。
ラストで無駄に語り合うのではなく、それこそ勝負で語り合うみたいなところは好きです。
この二人の関係が「ワイルド・スピードMAX」に繋がっていて、だからこそこの四作目がおもしろく仕上がっているのだと思います。

またオリジナルメンバーで(レティはいなくなっちゃったが)、また続篇を作ってほしいものです。

「ワイルド・スピードMAX」の記事はこちら→
「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」の記事はこちら→

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本 「火天の城」

先だって公開された映画「火天の城」、原作小説を読みました。
戦国時代を描く作品は数々あれど、安土城の建築を通して描いてみせるという発想はとても新鮮でした。
原作小説の方も安土城の建築、そしてその一大プロジェクトである岡部又右衛門を主人公とするところは変わりません。
けれども物語の狙いは異なっているように思いました。
映画の方は、又右衛門という頭領にかなりフォーカスを絞り込んでいます。
そして安土城建設という巨大プロジェクトを成し遂げようとする、言わばプロジェクトX的な物語になっていると、先日の映画についての記事でも書きました。
原作小説では安土城建設を描きつつも、そのテーマというのは、栄枯盛衰、諸行無常といったようなものであったと思います。
又右衛門たち宮大工が、そして織田信長が何百年もの年月を耐える城を築こうとし、それを実現した安土城ですが、皆さんがご存知の通り、信長は本能寺で討たれ、そして安土城も焼かれてしまったのです。
映画は安土城が困難を乗り越え建設されたところで終わりますが、小説では安土城が焼かれるまでを描きます。
映画はラストには達成感の余韻が残りますが、原作はある種の空しさが残ります。
作られたものはいつかは滅びる、そんなことが伝わってきます。
また映画では又右衛門とその妻田鶴の夫婦の関係が深く描かれますが、小説は又右衛門とその息子以俊の親子関係にフォーカスがあたっています。
このあたりには作られたものはいつしか滅びても、そこに込められた精神は受け継がれていくといった永遠性が語られているように思いました。
映画と小説、題材は同じでもそのテーマは異なるっていうのは、おもしろいですね。
映画をご覧になった方は、小説を読んでその違いを楽しむというのも一興だと思います。

映画「火天の城」の記事はこちら→

「火天の城」山本兼一著 文藝春秋 新書 ISBN978-4-16-773501-2

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2009年11月 1日 (日)

本 「核兵器のしくみ」

アメリカ大統領がオバマになり、世界は核軍縮に向かって一歩踏み出そうとしています。
けれども北朝鮮やイラクなどの国が核兵器を持っていたり持とうとしているわけで、その歩みは困難であろうということも予想されます。
また地球温暖化が解決しなくてはいけない問題となっているなか、これから化石燃料を使った発電ばかりに頼っていられません。
当然ソーラー発電などのグリーンエネルギーの開発は必須ですが、二酸化炭素を排出する化石燃料発電に変わる選択肢として原子力発電というのも入ってくると思います。
原子力発電というとチェルノブイリ事故の強烈な印象があり、危険なイメージが付きまといます。
かくいう僕もそうです。
けれどもなぜ原子力が危険なのでしょうか。
その問いにすぐに答えられない人が多いのではないかと思います。
新聞等の報道では、核兵器や原子力発電などに関する記事を多く見かけます。
僕らはそれを読んでいたりしますが、実はそこで語られる言葉の多くの意味を知らないのではないでしょうか。
例えば、
軽水炉、濃縮ウラン、臨界、フルサーマル、核燃料サイクル、再処理工場・・・。
報道ではみんなわかっている前提で話しているように思えるのですが、実はその内容を知らない人がほとんどなのではないでしょうか。
ちなみに僕はきちんと説明できるものは一つとしてありませんでした。
原発の問題というのは、感情論も含めていろいろなハードルを持っていると思います。
けれどもその問題を話し合うためには双方が同じような知識を持たなくてはいけません。
「原発側と住民の信頼関係が確立しない限り、原発問題は容易に解決しないということである。そのためには、一般市民ももっと原子力の知識を深める必要があると思う」
と著者は書いています。
確かにその通りだと思います。
文頭に書いた問題を世界が抱えている中で、原子力というものは避けては通れないものだと思います。
どのような選択をするにせよ、コンセンサスを得るためにはやはり著者が言う通り、一般市民も知識を深める必要があると、僕も思いました。

「核兵器のしくみ」山田克哉著 講談社 新書 ISBN4-06-149700-6

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「風が強く吹いている」 俺は強さだと思う

基本的にこういう青春スポーツものには弱いのです。
その題材があの箱根駅伝ですから。
リアルな箱根駅伝も十分にドラマチックなのに(日テレのドラマチックにしようしようとする演出には辟易しますが)、それがドラマになったら心の琴線触れまくりです。
ご存知のように駅伝という種目は、他の陸上競技が究極の個人力の戦いであることに対し、チームで襷を繋いでゆくというチームでの戦いであるということが大きな違いです。
そして本作でも台詞でありましたが、確かに駅伝はチームで戦うのだけれど、ある区間を走るのはやはり一人であるのですよね。
つまりは駅伝はチームとしての総合力、そしてやはり究極の個人力も求められる競技なんですよね。
走っているそのとき、選手は誰の力も借りることはできません。
そしてそれを見守る仲間もいくら手を貸したくても、貸すことはできません。
長距離選手に求められるものはという問いにハイジ(小出恵介さん)はこう自問自答します。
「俺は強さだと思う」
そう、必要なのは「強さ」です。
それではその「強さ」はどこからわき出してくるものなのでしょう。
それは日々積み重ねてきた地道な練習により作り上げられた肉体かもしれません。
その練習をやり遂げた自信かもしれません。
そして駅伝競技においては、やはり「仲間」の存在もその強さの源泉になるのだと思います。
こう書くとものすごくベタなのですが、ほんと「仲間」の存在というのは力を与えてくれる者なのです。
物語の中でもカケル(林遣都さん)のかつてのチームメイトが登場しますが、彼らの大学は個人同士の戦いを勝ち残ってこそやっとチームに参加できるのです。
そのチームにあるのは、仲間ではなくライバル。
その緊張感がパワーを与えてくれるのかもしれないですけれど、ほんとうの強さは「仲間」がいてくれることにより生まれると思います。
自分に襷を渡してくれた仲間、そして自分が襷を渡そうとする仲間。
大げさな言い方をすれば、繋ぎ繋ぐ彼らがいてくれるということが、襷を橋渡しするという自分の役割を自覚させてくれるのです。
人間とは弱いものです。
ああ、ダメだと思うこともしばしば。
自分だけしか関わらないことであれば、諦めても自分が辛いだけ。
でも駅伝という競技は、自分が諦めるということが、仲間たちにも諦めさせるということに繋がります。
だからこそ襷は重い。
そしてその重さを支えられる心の強さが駅伝の選手には必要なのです。
でもその重さは自分だけで支えなくてもよいものなのです。
みんなで想いの重さを支える。
支え合う。
やはりそういうことが描かれる物語を観るとジンときてしまうのです。

この題材を選んだ時点で映画としては心に触れる作品が作れるであろうと思います。
ただしっかり観ると、やや演出的には物語と素材に頼りすぎていると思われるような感じもします。
演出としては凡庸だったかな・・・。
出演者の方々は良かったですね。
小出恵介さんは若いのに包容力があり、ある種達観したようなものの見方をするハイジにぴったりとしていたような気がします。
ハイジという男はなにか迷いがない、ブレない強さみたいなものを感じるキャラクターでした。
そして天才ランナーであるカケルを演じる林遣都さんも良かった。
彼は今までもダイビングとかボクシングとかスポーツをやる役柄が多かったですが、本作でもそのランナーぷりは見事でした。
ほんとうのランナーのような美しい走り方でした。
林さんの体を動かすことのセンスには天賦のものを感じます。

今日から11月・・・。
もう2ヶ月で今年も終わりですねえ。
箱根駅伝も、もうそこまで来ているんですね。
今年はどんなドラマが展開するのでしょうか。

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