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2009年10月31日 (土)

「母なる証明」 ミステリーとして、人間ドラマとして第一級

ミステリーとして、そして人間ドラマとして第一級の作品として仕上がっています。
ミステリーの醍醐味というのは、誰が(Who?)どうして(Why?)どうやって(How?)行ったのかという事件の謎を解き明かしていく過程にあります。
読む者、観る者の予想をいかに裏切り、その結末にて事件の全貌を明らかにできるのか、ミステリーの評価になると言っていいでしょう。
かつてコナン・ドイルやエラリー・クイーンなどの時代においては、事件の種明かしのプロセスの一番の注目点は、「How?」でした。
そう、「トリック」ですね。
普通だと成立しない事件(密室とか、アリバイがあるとか)の謎を徐々に解き明かしていくプロセスにミステリーの魅力がありました。
しかしミステリーというジャンルができてから、様々な人が数々のトリックを考えてきたため、「トリック」の種明かしというだけでは、読者や観客に驚きを与えることができなくなってきたのです。
本作もミステリーと言っていいと思います。
誰も殺人事件の記憶がないほどに小さな町で女子高生が殺害される事件が起きます。
その犯人として、トジュンという青年が拘束されます。
彼は知的障害があるのか無垢と言っていいような心の持ち主。
現場の近くにいたという状況証拠があり、また自白を本人が認めたため、犯人として逮捕されます。
トジュンを溺愛する母は息子が犯人ではないということを証明するために、独自に真犯人を探そうとします。
本当にトジュンが犯人なのか?
そうでないならば、真犯人は誰なのか?
どうして被害者は殺されたのか?
いくつもの謎が提示されます。
トジュンの母が真犯人を探す過程で、次第にその謎が明らかにされていきます。
ここの過程で明らかにされていくのは、さきほど書いたような「トリック」ではありません。
明らかにされていくのは、人間というものの内面、それは自分でも気づかないような奥の奥にある記憶。
そのプロセスにおいて、犯人の内面、被害者の内面、そして犯人を追うトジュンの母の内面が、タマネギの皮が剥けていくように一枚一枚はがされその芯が明らかにされていきます。
かつてのミステリーの探偵(シャーロック・ホームズなど)はある意味、部外者であり、事件に対しては超越的な視点持っていました。
ミステリーという物語においては、探偵はミステリーを解決する「装置」と言ってもいいのです。
本作においては、謎を明らかにしていこうとする者は、自分の内面に抱えているものも解き明かしていくのです。
つまりは本作においては謎を明らかにする者は「装置」などではなく、確かに「人間」として描かれているのです。
そういう意味で冒頭で書いたように本作は第一級の「ミステリー」であり「人間ドラマ」であると思うのです。
さすが、ポン・ジュノ監督といったところでしょう。
ミステリー好きにも、ヒューマンドラマ好きにもお薦めできる作品です。

主演のキム・ヘジャは韓国では有名なベテラン女優さんとのこと。
僕は初めて観ると思うのですが、一見普通のおばさん(失礼!)に見えるのですが、やはり存在感が違います。
またトジュン役のウォンビンの作品も観るのは初めてでした。
ただの甘いマスクで韓流おばさまの好きなイケメンだと思っていたのですが(これまた失礼!)、かなり難しい役柄をとても上手に演じていました。
これから要注目したいと思います。

ポン・ジュノ監督作品「グエムル -漢江の怪物-」の記事はこちら→

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「パイレーツ・ロック」 おかしなおかしな反乱者

イギリス人というと、クイーンズ・イングリッシュを操る格式のあるノーブルなイメージというのがあったりしますが、これはイギリス人の一側面でしかありません。
一億総中流社会の日本と違って(最近はちょっと変わってきていますが)、イギリスは貴族や資本家などの上流社会と、庶民層との間に文化も含めた違いがあるんですよね。
後者の庶民階級というのは上流社会に対する反骨精神みたいなものを持っていて、それがいわゆるイギリス流のブラック・ユーモアや諷刺、そしてロックやパンクなどを生み出してきたわけです。
本作を観るとそのようなイギリス人の特性というのが、よくわかりますよね。

何といっても「ラジオ・ロック」のDJたちとその仲間が、個性豊かで楽しいです。
画面に映っているのはボロ船の船内ばかりなのですが、なんだかとてもカラフルな印象が残ります。
やはりこれは登場人物の多彩さによるものなんでしょうね。
「Fワード」を電波に乗せようとするノリノリのアメリカ人DJ、ザ・カウント。
生き方そのものがロッカーなカリスマDJ、ギャヴィン。
太めで美男子でもないのに何故か女性にモテモテのDJ、デイヴ。
やたらと人が良くて真実の愛を求めるDJ、サイモン。
DJなのに無口な(!)マーク。
くだらない発言(本人はウケると思ってる)がウリでイジラレ役のアンガス、などなど。
彼らの絡み、掛け合いが観ていてとても楽しい。
「ラジオ・ロック」ではなんだか年がら年中、学園祭をやっているようなハイテンションです。
みんなで一緒にばか騒ぎというのは、なんとも言えない高揚感がありますよね。
学生時代のノリを久しぶりに思い出しました。
彼ら「ラジオ・ロック」の面々はノリだけで生きているような感じもありますが、音楽を愛していること、それについてはみんな揺るぎない信念を持っています。
これが冒頭に書いた庶民の反骨精神、そしてロック精神と共通していて、イギリスならではの映画だなあと思いました。
音楽を題材にした作品ですから、洋楽に疎い僕でも知っている曲が多く流れています。
激しいのから、切ないのまで音楽も多彩で楽しいです。
好きな方は尚のこと楽しめるのではないでしょうか。

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2009年10月25日 (日)

本 「ハゲタカ」

テレビ、映画と映像化された「ハゲタカ」、ようやっと原作本を読みました。
テレビ版は未見なのですが、映画はたいへん印象に残っていたので、すっかり鷲津=大森南朋さん、芝野=柴田恭平さんのイメージで読みました。
読んでいて違和感もなかったのは、ぴったりのキャスティングだったのでしょうね。

外資ファンドというとなんとなく悪者の印象があったのですが、本作を読むとちょっとイメージが変わりますね。
ファンドをハゲタカ云々というよりも、ずっと経営がガラス張りになっていなかった日本企業というのも問題あったのかなと。
この作品で書かれているバブル崩壊からの「失われた10年」というのはまさに社会人になってリアルタイムで経験してきたことなので、自分としてはとても真に迫って感じました。
もちろんフィクションだとは思いますが、あの時、日本企業というのは戦後ずっと溜まってきた膿が一気に吹き出したということだったのでしょう。
それまでは世界を買うとまで言っていた日本が凋落するとはバブルの頃は誰も思っていなかったのですよね。
もしかすると鷲津のように海外から日本を見た方が、その危うさを感じられたのかもしれません。
日本の経営者というのは、経営のプロっていう人は少ないような気がします。
だからといってMBAをとれば経営のプロになれるわけもありません。
この作品では華麗でかつ獰猛なマネーゲームが描かれますが、それは本作のエンターテイメント性の一面であるかと思います。
本質は経営というものがそのような戦術論的なものではなく、明確なビジョンを提示できているかということを語っているような気がします。
経営理念というのはどこの企業でも持っているかと思いますが、それを社員にしっかりと根付かせてこそ、本当の経営と言えるのでしょう。
鷲津と芝野は手法は違いながらも、経営というものの本質については同じような考え方を持っているような気がしました。
とはいえ、そのような経営論的な話ばかりでなく、単純にエンターテイメント小説として読めるところが素晴らしいですね。

続編「ハゲタカⅡ」の記事はこちら→
映画「ハゲタカ」の記事はこちら→

「ハゲタカ<上>」真山人著 講談社 文庫 ISBN4-06-275352-9
「ハゲタカ<下>」真山人著 講談社 文庫 ISBN4-06-275353-7

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「沈まぬ太陽」 サラリーマン必見

上映時間3時間30分、途中休憩あり。
途中休憩がある映画を観たことがあるのは、「七人の侍」のリバイバル上映のときだけ。
あまりの長尺に観る前は怯みもありましたが、観終わってみても全くその長さを感じさせない作品となっていました。
骨太の人間ドラマとなっています。

「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ〜」と歌ったのは植木等さんでしたが、サラリーマンという仕事をしている方は、その仕事がお気楽などとはほど遠いということを知っていらっしゃることでしょう(かくいう自分も)。
自分の持つ志と、会社の組織の論理、
理想と現実。
その狭間に立ち、日々闘い、苦悩している方も多いでしょう。
自分の志など捨ててしまい、会社人間または出世の鬼になってしまえばそんな苦悩とはおさらばできるのでしょうが、そうなればなったで自分が何のために仕事をしているのか、自分の生き方とは何なのかという本質にも目を背けなくてはいけません。
知らず知らずのうちに段々と流れに流されていき、いつしか自分の思考も会社の論理になってしまう。
サラリーマンという仕事は組織の中にありながら、己というものを持ち続ける闘いだと言ってもいいのかもしれません。
本作の主人公、恩地仁(渡辺謙さん)はまさにそのような生き方をした男です。
観ていて恩地という人物にとても共感し、彼のようにありたいと思いました。
僕自身は現在、就職した企業から、その関係会社に出向しています。
会社の外に出たのは初めてだったのですが、外から見ると自分の所属していた会社、組織が企業の論理で動いているように感じます。
別に本社が悪いことをしているわけではありませんが、何か官僚的と言いましょうか、そこで働いている人たちの顔が見えないのです。
僕が現在所属している会社は本社に比べて小さいですが、その分働いている人同士の顔が見え、いっしょに働いていてやりがいがあります。
本作でも恩地が組合委員長をやっていた時の写真を、八木(香川照之さん)が見て「輝いていた」というシーンがあります。
苦しいながらも皆が団結しているときに感じる一体感。
その一体感こそが輝きなのです。
今はそういう一体感を働けるので、たいへんながらも楽しいんですよね。

企業は商売ですから、当然お客様を相手にします。
当然お客様第一ですし、また働く社員のモチベーションというのは大事であり、そのように皆経営者も言います。
けれどややもするとそれは「お客様」や「社員」といった顔のない概念だけで捉えられる傾向があるようにも思えます。
お客様もひとり一人違いますし、社員もひとり一人違います。
それぞれがそれぞれの思いを持って生きている。
本当の顧客第一主義というのは、概念ではなく、ひとり一人の人を見るということなのだと思います。
実際それができるのかと言われれば、完全にはできないでしょう。
けれどもひとり一人の人を見ようとする意識こそが大事なのです。
恩地は、自分の会社の仲間たちや、墜落事故の犠牲者にも一人の人間として向かい合います。
それが人として企業として最も大切な「信頼」に繋がるのです。
本作でも恩地が誠意を持って犠牲者家族に向かい合う場面が多く描かれます。
家族は始めは恩地を「国民航空の人」という見方をしていたでしょう。
けれども最後の方では彼を「恩地さん」と呼ぶのです。
それは恩地と犠牲者家族の間に確かに人と人との信頼関係が結ばれたことを表すものです。
これは一見簡単そうに見えるこのことができてないことが多いんですよね。
お客様の思いを大事にしようとすると、それは短期的に見ると会社の利益と相反することも多々あります。
けれどもその短期的な視野で対応したことが、いつしか会社の信頼を損なうダメージなって返ってくるということを知らなくてはいけません。
短期的に利益を出すためにコストカットをし、安全に関する配慮をなくすような企業はいつか厳しい審判をくだされます。
本作で描かれる「国民航空」は日航をモデルとしていると思います。
その日航も今現在、経営が危機的な状態になっています。
昨年の原油の値上がり、また最近の景気悪化などの影響が多分に強いとは思いますが、その背景として「親方日の丸」的な甘えがあったのも間違いないでしょう。
またJR福知山線の事故とその対応なども、経営者が真にお客様を見ていないということの現れだと思います。
それは自分の時だけよければという短期的な感覚が、いつかひどいしっぺ返しになるということを企業で働く人間は肝に銘じておくべきでしょう。
自分自身も会社がそのような方向に動こうとしたとき、恩地のように何かを言えるようにありたいと思います。
それはとても勇気がいることでしょう。
けれどその勇気をなくしたら、そこにあるのは空虚感なのだと思います。
たぶん行天(三浦友和さん)はその空虚感を埋めるために出世の鬼となったのだと感じました。
「智に働けば角が立つ 情に棹せば流される 意地を通せば窮屈だ」
漱石のこの言葉はけだし名言で、思いを通すというのはやはりたいへんなことです。
けれどそれをせねば、やはり残るのは空しさだけ。
すべきことをする、そのための勇気を与えてくれる作品でした。

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2009年10月24日 (土)

「きみがぼくを見つけた日」 原作を巧妙にまとめている

最近、小説を読んで映画になったらいいのにと思っていたら、その通りになることが多いのです。
本作もその一つ。
原作は「タイムトラベラーズ・ワイフ」という小説(映画の原題はそのまま「The Time Traveler's Wife」でした)で、ほぼ原作のイメージに忠実に映画化されていたと思います。
主人公のヘンリーは自分でも予想できない場所、時間へ飛んでいってしまう能力があります。
いつ飛ぶのか、それをヘンリーは自分でもコントロールできない。
やっかいな病気のようなものです。
そのヘンリーが少女であるクレアと出会います。
二人は運命の糸で結ばれているのか、そしてクレアが成長していくにつれて、若かったり、年をとった姿でクレアの元を訪れれることになります。
そして二人はいつしか惹かれるようになり、やがて結婚します。
けれどもいつヘンリーは時を飛んでいってしまうかわかりません。
二人でいっしょに居られれば何よりも幸せなのに、ずっとそういられるわけではないことも二人はわかっています。
それが切ない。
ヘンリーはクレアと出会うまで、時間を飛んでしまうという自分の特殊事情からずっと人と親しくなることを避けてきました。
いつかきっと別れがくること、そしてそれを止めることはできないことを彼はわかっているからです。
クレアもヘンリーが特殊能力を持っていることを知っていました。
ずっといっしょにはいられないということも。
けれどもいっしょに過ごせる時間を大切にしたいということからなのでしょう、彼女はヘンリーと結婚するという決心をしました。
いつか別れるということを知っているからこそ、いっしょの時間を大切にしたいという想いが切ないです。
またクレアがヘンリーの子を宿すことにこだわったのも、いつか去っていってしまうだろうヘンリーと過ごした時間の証としてなのですよね。
ヘンリーからすれば自分の遺伝子を引き継いだ子も、時間を越える力を持っている可能性が高く、そうすればまたクレアを悲しませてしまうかもしれないという思いで、子供を作ることには消極的なのです。
それぞれ相手を思いながら、すれ違う気持ちというのも切ないです。
ラストは原作とはちょっと違いますが、映画は前向きな感じがある終わり方なので、これもまた良しでしょう(原作の終わり方も好き)。
ヘンリーのエリック・バナ、クレアのレイチェル・マクアダムスというキャスティングも原作イメージによく合っていたと思います。
レイチェル・マクアダムスはあまり知らない女優さんでしたが、10代から30代までのクレアをうまく演じていたと思います。
原作はそれぞれの年代のクレア、ヘンリーの視点から語られます。
二人の年齢、そして絶対的な時間の流れが錯綜するので一見ややこしそうなのですが、この二つの視点をうまく使うので、あまり複雑な感じもうけずにすらすらと読める作品です。
このあたり小説ならではのストーリーテリングなのですが、映画ではむずかしいので、どうまとめるのかと思いましたが、違和感なくできあがっていました。
そのあたり映画だけ観た方はそのあたりのまとめ方に苦労を感じないと思いますが、原作を読むと映画の脚本が原作のおもしろさ、巧妙さを残しつつうまくまとめたと感心できると思います。
本作を観て興味が出た方は、是非原作もお読みください。

全然本作の内容には関係ないのですが、最近の邦題って「きみ」とか「ぼく」とか「私」とか「あなた」とかが入っているのが多くて、なんの映画かわかりにくい気がしません?
流行りなのかもしれないですけれど、みんな右へ倣えで同じようなタイトルばかりだとかえってマイナスなような気がするのですが・・・。

原作小説「タイムトラベラーズ・ワイフ」の記事はこちら→

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2009年10月18日 (日)

本 「MM9」

巨大生物、いわゆる怪獣が実際に存在したら人間はどのように対応するのか。
政府は、自衛隊は、怪獣が来襲した場合にどのように行動するのか。
有名な「平成ガメラ」3部作はそのシミュレーションを劇中で行っている点で画期的でありました。
本著「MM9」も、実際に怪獣が来襲する世界を舞台に怪獣出現に対するシミュレーションを行っています。
この世界では、怪獣は毎年のように日本を襲ってくる台風や地震等と同じような"災害"と捉えられています。
その"災害"を未然に防ぐための政府のセクションが、気象庁特異生物対策部、略して「気特対(きとくたい)」です。
気特対は怪獣出現を察知し、その対象の特徴をつかみ、その進路を予想し、迎撃する自衛隊にアドバイスを行うと同時に住民への避難勧告を行うというのが、その任務となります。
ちなみにタイトルにある「MM」というのはモンスター・マグニチュードの略。
地震の規模を表すと同じ考え方で、怪獣の規模を表す数字になります。
ちなみにMM9というのはかつて存在が確認されていないほどの大きさということです。

「MM9」はSFファン、特撮ファンからしたら、マニア心をくすぐられる作品となっています。
出現する怪獣は様々ですが、第1話の「シークラウド」は「ガメラ2」のレギオンを彷彿させますし、第2話の巨大少女は「ウルトラマン」のフジ隊員が巨大化したエピソードを想起させます。
第3話の放射能怪獣からは、形態は「ガメラ」のギャオス、放射能という点ではゴジラが思い浮かびます。
たぶん作者の山本弘さんは元ネタわかってこれらを登場させているでしょう。
ただパロディのように出しているのではないところが素晴らしい。
ちなみに山本弘さんは「と学会(いわゆるトンデモ本を品評する会)」会長ですから、その方面の知識も豊富だと思います。

ではこの物語で描かれる世界、何故に怪獣が存在しているか。
僕たちが今暮らしている世界に巨大生物というのは存在できるでしょうか。
特撮番組などで描かれる巨大生物は現実には存在できません。
なぜならば・・・。
巨大生物は、その体長が2倍になった場合、体重は8倍になります。
体重は体積に比例しますから、縦×横×高さで2×2×2=8になるわけです。
けれどもその自重を支えるのは骨格の断面積と言ってよく、これは面積ですから、縦×横、すなわち2×2=4になるのです。
つまり体長が2倍になると体重は8倍になりますが、それを支える骨格の断面積は4倍にしかならないということで、いくら骨格が強固になっても大きさの増加には限界があるわけです。
つまり通常の物理法則下では巨大生物は存在し得ないのです。
その問題を本作ではどのようにクリアしているか。
本作では「人間原理」を持ち出しています。
「人間原理」とは簡単に言ってしまえば、世界を観察する人間がいなければ、その世界は存在しないも同じことだということです。
つまり僕たちがそこにあると思っている世界も物質も、僕たち人間がいるからこそ存在しているという考え方なのです。
そして本作ではそれを発展させ「多重人間原理」という考えを提示しています(大いなるフィクションですけれど)。
このあたりはさすが「と学会」会長の面目躍如でしょう。
「多重人間原理」とは僕たちが認識する物理法則が支配する世界(ビックバン世界)と重なるように別の原理が支配する世界(本作では「神話世界」と呼んでいる)があるということです。
怪獣は通常の物理法則では存在し得ない。
だから怪獣は別の原理による世界に所属するものだ、というわけです。
かつて人間が世界認識をできるようになる前は、世界は「ビックバン世界」と「神話世界」とがごっちゃになっていた。
けれども人間が物理法則をベースに世界を認識するようになった以降、「神話世界」に所属するものたち、すなわち神や怪獣、妖怪などはその存在自体がなくなってきてしまっている。
そして現在はほぼ「神話世界」が消滅しようとしているそのときであり、最後に怪獣だけが「神話世界」の名残として残っているということです。
トンデモな設定がいいです、さすがです。
そしてこの論の先がまた振るっています。
人間が世界を「ビックバン世界」として認識しきったとき、「神話世界」は消滅する。
そのとき起こるのは歴史の改変です。
つまりは神や怪獣は人間の想像上の産物とされてしまうということです。
この設定はなかなかにおもしろい発想です。

<この先ネタばれ注意>

最後の決戦で登場する怪獣は9つの頭を持つ龍であることから、その呼称を「クトウリュウ」と名付けられます。
これは明らかにラブクラフトの「クトゥルー(クトゥルフ)」のもじりでしょうね。
ラブクラフト神話では「クトゥルー」は「旧神」とも呼ばれる超古代の神と言われています。
「クトウリュウ」が滅ぼされ怪獣がいなくなったとき、その存在は伝説の中に封じ込められます。
それがラブクラフト神話になったという意味でしょうか。
このあたりのメタな世界設定がSF好きには堪らないのです。
あと「気特対(きとくたい)」ですが、これも「科特隊(かとくたい)」のもじりですよね。
科特隊とは「ウルトラマン」に登場する対怪獣チーム、科学特捜隊の略称です。
怪獣がいなくなった世界、そこでは怪獣に対応するセクションも存在しません。
怪獣と同様に、その存在もフィクションの中に閉じ込められる。
それが科特隊なのかもしれません。
うーん♥、トンデモでメタな設定。
堪りません・・・。

山本弘さん作品「アイの物語」の記事はこちら→

「MM9」山本弘著 東京創元社 ソフトカバー ISBN978-4-488-01812-2

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「ホノカアボーイ」 恋せよ乙女

昨日観た「プール」もそうでしたが、「かもめ食堂」以来癒し系ムービーとも言えるジャンルができてきていますね。
本作「ホノカアボーイ」もそのような系譜に位置づけることができると思います。
とはいえ、荻上監督の「かもめ食堂」「めがね」はこれといった物語上の事件が起こらないですが、本作は物語としての起伏をつけるストーリーラインはしっかりしています。
そういう点では、より観やすい作品かと思います。

最近活躍が目覚ましい岡田将生さんが、本作では初めて主演(レオ役)を務めています。
彼は「天然コケッコー」「重力ピエロ」等でもそうでしたが、作り込んでいない自然体であるように見える演技がいいですよね。
作品の雰囲気によく合っていたと思います。
それよりも何よりも、倍賞千恵子さんが演じるビーがとても可愛らしい。
ビーのレオへの想いは恋のようなものでもあるのでしょうか。
彼女は若い時に愛する夫を亡くして以来、ずっと一人で暮らしています。
時がゆっくりとゆっくりと流れているハワイ、ホノカア。
彼女の時間もゆっくりとゆっくりと流れてきていたのでしょう。
「人のために料理を作るのは久しぶり」
と初めてレオに食事を振る舞ったとき、ビーは言います。
それから彼女はレオのために毎日食事を作るようになるのです。
レオは野菜嫌いなようですから、健康のためにビーがいろいろ工夫をします。
誰かのために料理をするっていうことが、彼女の生活に充実を与えているように見えます。
レオが来る時に、きれいな服を買ってみたり。
レオに彼女らしき女性ができたときに、意地悪をしてみたり。
ビーは年齢的にはおばあさんという年ですけれど、まさに恋する乙女のように活き活きとして見えます。
老けていくというのは当然肉体的なものが大きいのですが、精神的なものも大きいですよね。
肉体が老けていくことはどうにも止められないですが、人を恋するとか、誰かのために働くとか、そういう充実感を与えてくれる気持ちというのを持ち続ければ、若々しく見えるのでしょう。
ビーを観ていてそう思いました。
年をとってもこうありたいものです。
ホノカアで過ごした1年間はレオにとっても意味がある時間であったと思いますが、ビーにとってもかけがいのないものであったのですよね。

冒頭に書いた癒し系ムービー、舞台となるのは日本以外の場所なんですよね(「めがね」は沖縄ですが、異国みたいなものです)。
「かもめ食堂」はフィンランド、「プール」はタイ、「ホノカアボーイ」はハワイ・・・。
日常から離れたゆっくりと流れる時間というものを描くのは、日本ではだめなのでしょうね。
なんだか癒し系ムービーを観ていると、逆に日本という国のせわしなさというものを感じてしまいました。

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「ATOM」 手塚治虫のテーマを引き継ぐ

漫画の神様と言ってもいい手塚治虫先生の代表作「鉄腕アトム」がアメリカで3Dアニメとして映画化!
かなりなニュースだと思うのですが、公開館も少ないですし、世間的にも話題としてもあまり盛りあがってないような・・・。
予告で観ましたが、アトムをはじめ、手塚キャラもオリジナルに似ているようで似ていないという微妙な感じがありました。
何やらイヤな予感です。
アメリカで日本の漫画を映画化!というと、最近では「ドラ○ン・ボー○」の悪夢が思い出されます。
もしや第二の「ド○ゴン・○ール」になっているのでは・・・と戦々恐々とした気持ちで、劇場に足を運びました。

やはりキャラクターデザインは手塚キャラに慣れ親しんでいる僕としては、少々馴染みにくいように思えました。
3Dにしたからか、やはりアメリカのタッチが入っているからか、似てそで似てない微妙な感じはしました。
ではストーリーはどうでしょう。
第二の「○ラゴン・ボ○ル」になっていないでしょうか・・・。
結果から述べさせていただくと、しっかりと手塚イズムは引き継がれていたように思います。
もちろんストーリーはオリジナルからは改変されていますが、その骨子、精神というものは尊重しているように思いました。

「鉄腕アトム」というと、アニメ版の主題歌にある「心やさしい科学の子」というイメージがあります。
その言葉から思い浮かぶのは科学が発達した未来に関するとてもポジティブなイメージです。
けれども「鉄腕アトム」では、そのような科学のポジティブな面だけではなく、ネガティブな面も描かれます。
それがわかりやすいのが、発達した科学から発明される兵器、そしてそれらを使用した戦争です。
最新の科学技術(兵器を含む)を使って、人間であるトビオを模して作られたアトムは、言わばロボットと人間の境界にある存在です。
彼は人間にとっての善、ロボットにとっての善の狭間にいるのです。
科学技術は万能ではなく、やはりそれを使う人間の資質によるのです。
そして悲しいかな、人間はまだ善良と呼べるほどには成長しきれていないのです。
手塚先生は「鉄腕アトム」では科学技術のポジティブ面、ネガティブ面を描き、また「ブラックジャック」では医療技術について同じような両面を描きます。
技術が持つそれらの両面は、すなわち人間がそもそも持っている善悪の両面に対応しています。
それを描くのが手塚治虫先生のテーマの一つであったように思っています。
そのような手塚先生のテーマを本作「ATOM」もしっかりと引き継いでいるのが嬉しかったです。

観賞したのは字幕版でした。
吹き替え版のアトムの声は上戸彩さんということですが、オリジナルのアニメの印象と違って作品に入り込めないといやだったので、字幕版にしました。
そうしたらびっくり、英語で声をあてているのは錚々たるメンバーでした。
フレディ・ハイモア(アトム)、ニコラス・ケイジ(天馬博士)、ビル・ナイ(お茶の水博士)、ドナルド・サザーランド(ストーン大統領)・・・。
すごいメンバーです。
コーラを演じていたクリスティン・ベル(テレビドラマ「ヴェロニカ・マーズ」主演)は好きな女優さんなので、これも嬉しい。
特徴がある声なので一発でわかりました。
字幕版にしておいて良かった・・・。

あと一言書いておきたいのはハム・エッグ。
太ってて全然似ていナーイ!
もっとひょろっとさせてほしかった。
本作に登場した場面ではいい人な感じだったので、こんな善良なのハム・エッグじゃないやい!と思っていましたが、結果的にはいけ好かない小悪党でした。
やはりハム・エッグはこうじゃないと!
ついでにアセチレン・ランプも出しといてほしかった。
ヒョウタンツギは出てましたねー。
本作オリジナルキャラでは「トラッシュ缶」がかわいかったです!

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2009年10月17日 (土)

「プール」 サチエへの共感、京子への反発

小林聡美さん、もたいまさこさん、加瀬亮さんという出演者で、まったりと癒し系な予告だったので、てっきり「かもめ食堂」「めがね」を手がけた荻上直子監督の作品かと思っていたのですが、違っていたのですね。
本作の脚本・監督は大森美香さん。
大森さんは最近では脚本家としての活躍が目覚ましく、「デトロイト・メタル・シティ」、「ヘブンズ・ドア」、「カイジ 〜人生逆転ゲーム〜」などの作品の脚本を担当されています。
オリジナルのエッセンスを残しながらも、映画として再構築し直すのが上手な脚本家さんというイメージがあります。
大森さんの監督作品を観るのは本作が初めてなのですが、強烈な個性があるという印象は持ちませんでした。
良くも悪くも予告で感じた通り、荻上監督風な感じがします。
ただ「かもめ食堂」で小林聡美さんが演じたサチエに感じた共感性を、本作で同じく小林さんが演じる京子にも感じたかというと、それほど強いものは感じませんでした。
二人ともやりたいように自由に生きるというスタイルは同じなのに何故なのだろうと思い、ちょっと考えました。
やはり二人の違いで大きいのは、独り身でいるか、家族、特に子供を持っているかということでしょう。
やりたいように自由に生きる、そうできるのが望ましい。
けれど現実にはしがらみみたいなものはあるわけです。
だからこそ「かもめ食堂」のサチエには、憧れのような共感性を感じるのです。
では本作の京子も自由に生きているに、何故それほど強くは感じないのだろう。
やりたいように生きるというのは、京子から見れば、そうなのでしょう。
でも娘のさよからすれば、それはやはり身勝手に見えてしまう。
本作は基本的にはさよの視点で描かれているので、観ている側としては京子の自由な生き方への共感というよりも反発の方を強く感じてしまうのですね。
サチエへの共感、京子への反発。
この違いは、それだけ家族を持つということというのは、重いものを背負うということを表しているのでしょうか。

本作でいいなと思ったのはバックグラウンドの音。
リリリ、ツツツといった虫の声。
モーモー、ブーブー、コケコケ言っている牛さん、豚さん、鶏さんたちの鳴き声。
サワサワサワという風にそよぐ葉の音。
固定長回しの多いカメラワークでしたが、背景には自然の奏でる音がずっとしています。
それが何やら包まれているような心地よさというものを与えてくれます。
しばらくこういう自然の音というのを聞いていないなあと、ふと思いました。
いつもの生活で聞こえてくるのは、ザワザワという人ごみや、ガチャガチャとした都会がたてる、人工的な騒がしい音ばかりです。
こういう作品を見ると、やはり都会は癒されないなあと、たまには自然に包まれゆっくりしたいなあと思ったりします。
とここまで書いて、一息入れてみると、窓の外から秋の虫の声が聞こえてきます。
東京でもしっかり虫さんたちは生きて鳴いているんですねえ。
自然の声が都会暮らしだから聞こえてこない、ということではなく、実はちゃんと虫は奏でているのに自分が聞こうとしていなかっただけかもしれません。
自然にゆっくりと包まれたいというよりも、まずは忙しない心根を見直す方が肝要かもしれないです。

「かもめ食堂」の記事はこちら→

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本 「吾輩は猫である」

「吾輩は猫である。名前はまだない。」
との著名な書出しで始まる本小説、実の所今の今まで読んだことはない。
それは国語や歴史の授業で登場する本作であるからして、その存在を認知していなかったとは毛頭言う気もない。
試験等にもその一部分はでたかもしれないが、定かではあらぬ。
ただそれは知識として知って居るのであつて、読んだことがあるという実績にはほど遠い。
ただ吾輩もこのブログにおいて、小説の感想などを書いていると言って居るのであれば、古典についても経験がないというのは甚だ格好が悪い。
このような理由により本著を手に取った次第である。
とは言っても古典と言ふものは、取っ付きにくい印象があるのは仕方がないものである。
それは何故かと問われれば、先にも触れたやうに、授業などでお仕着せで読まされたという印象から来ている物と思はれる。
人間、意志とは関係なくやらされる事には、とかくあまり良い印象を持たないのが真理であるのである。
多分にそういう者もいるであろうと吾輩は類推する次第である。
実を申せばかくいう吾輩もそうである。
しかし本著を手に取り読み始めて驚いた。
面白いのである。
確かに文体は古くさく、またペエジにみっちりと文字が埋め尽くしているので読みづらいところがあるのは否めないであろう。
けれども奇妙な登場人物の珍妙な会話と、語り部であるところの猫君の人間観察が、絶妙な滑稽さを生み出しており、それがおもしろいのである。
諸君にも一読することをお薦めしたい。
また読んでみて、どこかで読んだことがあるやうな気分にもなったのである。
それは年少の折の授業で読んだ記憶では無論ない。
つい々々最近の事である。
なんであろうと首をひねった所、やつと閃いた。
夏目漱石氏の文章は、吾輩が好む作家の一人である京極夏彦氏の文体に似ているのである。
というよりも京極氏が似ているという方が正確であらう。
考えてみれば京極氏の京極堂シリイズという作品群は、やはり奇妙キテレツな人物の会話の面白さというのが魅力の一つである。
吾輩が思うに、京極氏は本著を始めとする夏目漱石氏の著作にインスパイアされておったのではなかろうか。
確かに文体もレトロな雰囲気が漂つて居る。
登場人物を比べてみれば、京極堂シリイズに現れる榎木津探偵は、言動も行動も突飛なこと甚だしいが、これは「吾輩が猫である」の迷亭の性格にそつくりである。
また作品中で神経衰弱と揶揄される関口先生においては、本著の猫の主人をモチイフにしているのではないかと思はるる。
その他にも京極堂シリイズに登場する人物の原型が、本著にも散見されているのだ。
京極堂シリイズを好んで読書する諸兄は、夏目漱石作品に触れてみるのも一興だと思ふ。
吾輩もこの後、読破しく所存であるので、またこちらでレビュウをするので、其の時はまたおつき合い頂きたい。

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上でも書きましたが、本著を読んでみて京極夏彦さんが夏目漱石氏の影響を受けたのではないかと思いました。
ユニークな登場人物や軽妙な会話、文体はまさに「吾輩は猫である」と共通しているように思われます。
オマージュを捧げていると言ってもいいかもしれません。
ですので、今回は僕も夏目・京極風の文体で記事を書いてみました。
不慣れな文体なのでどうかとも思いましたが、書いてみるとけっこうおもしろかったです。

夏目漱石作品「こころ」の記事はこちら→
夏目漱石作品「坊っちゃん」の記事はこちら→

「吾輩は猫である」夏目漱石著 岩波書店 文庫 ISBN4-00-310101-4

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2009年10月14日 (水)

「ギャラクティカ シーズン3」 人類の自分探しの旅

「ギャラクティカ」のシーズン3は、冒頭では人類はようやく発見した安住の地「ニューカプリカ」で暮らし始めています。
しかしそこを敵であるサイロンに発見され、たちまち占領されてしまいます。
そしてその後はバルターを傀儡政権の大統領としたサイロンが人類を支配する政治体勢となってしまいます。
サイロンに逆らうものは投獄され、またサイロンと戦うためのゲリラも組織されます。
からくもギャラクティカ、そしてペガサスが大救出作戦を展開し(ペガサスはその際に失われてしまう)、犠牲を出しながらもニューカプリカの人類を救い出し、再び地球を探す旅を始めます。

シーズン3はスペースオペラというよりも、限定された船団という中での空間に住む人間同士の諍い、確執などが主に描かれます。
いわゆるSF作品というよりは、そのような設定をベースにしたポリティカル・サスペンスといったような趣もあります。
サイロンとの戦いというものがほとんど描かれない代わりに、人間と人間との間のぶつかり合いが主に描かれます。
アダマ総督と、息子リーとの間にある信頼と確執。
裏切り者であるバルターに対する裁判。
ここでは正義とは何なのかというテーマが掲げられます。
またシーズン3で描かれるのはサイロンとは何なのかということです。
ただの機械とは到底思えなく、ある種の感情を持っているように見える人型のサイロンたち。
愛情や執着といったような人間らしいものを彼女たちは持っているように見えます。
人間を超えた完璧さというよりは、人間と同じような弱さ、醜さを彼女たちは持っています。
まさに人型サイロンは、鏡に映し出された人類の姿と言っても良いかもしれません。

シーズン3のラストはシーズン1にも劣らない衝撃のラストが待っていました。
これが意味するものは何なのか。
それは人類とは何なのかという、人類がずっと追いかけてきた謎に直面するということに繋がるような気がします。
かなりシーズン4は哲学的な領域にも踏み込んでいくのではないのでしょうか。
まさにギャラクティカの地球への旅とは、人類の自分探しの旅とも言えるでしょう。

「ギャラクティカ シーズン1」の記事はこちら→
「ギャラクティカ シーズン2」の記事はこちら→

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2009年10月12日 (月)

本 「帝国としての中国 -覇権の論理と現実-」

世界経済が低迷している中、いち早く回復の兆しを見せている中国。
相対的にアメリカの影響力が下がっているのに対して、存在感を増しているのが中国です。
中国は今や日本にとってもアメリカと並ぶ貿易相手国となっていますし、安全保障という点からも決して無視できない存在です。
それでは自分たちが中国をどれくらい知っているかというと些か心もとないところがあります。
今、彼らが何を考えているのか、報道などを見ても今ひとつわかりにくいところがあります。
当然のことながら、現在の中国は共産主義であり、報道規制も多いことから、彼らの方針というのが見づらいということもあります。
けれどもそういった現在の事象よりも、彼らのものの考え方というのが、何か西洋人の、または日本人の考え方と何か違うようなことがあるような気がします。
それを本著は、中国という国の成り立ち、そして周辺国との関係性の歴史をひも解くことにより、中国という国家の考え方に迫ろうとしています。
当然、現在の中華人民共和国と、かつての秦、漢、宋、明、清などの統一王朝とは制度も異なります。
しかし秦以来の統一王朝の周辺各国との接し方は驚くほどに変わっていません。
中国という国の伝統的な世界観を、本著ではベトナムと中国、日本と中国、朝鮮と中国、そして北方と中国といういくつかの関係性を対比させ分析していきます。
それらをここで書くと長くなるので省きますが、そこで展開される中国の世界観というのは、現在のそしてこれからの世界の構造を予想するにあたり、考えにいれておかねばならないように感じました。
中国、そして我々も含めたアジアの国というのは、本音と建前という言葉で表されるように、ダブルスタンダードというものを上手に使って関係性を構築してきました。
けれども西洋的価値観が入ってきた現在、そのダブルスタンダード性というのが、欧米諸国からはわかりにくいと思われているのでしょう。
またそのダブルスタンダード性というのは、中国の対アメリカ政策、そして対日本政策にも当てはまります。
中国は巧みにスタンダードを相手によって使い分けてきているのです。
それがいい悪いではなく、そういうこともあるということを念頭に置いておいたほうがいいのでしょう。
対中国政策について、同盟国であるアメリカと歩調を合わせることは大事ですが、ただアメリカ任せにするのではなく、日本としての対応の仕方も考えておく必要があるのでしょう。

学者さんが書かれた本なので、難解な言い回しが多くて読みにくいのが、難点。

「帝国としての中国 -覇権の論理と現実-」中西輝政著 東洋経済新報社 ハードカバー ISBN4-492-21147-0

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「ラーメンガール」 脚本家が一番わかってない

東京にいる恋人の元へやってきたアビー。
けれども恋人は彼女を捨てて去ってしまいます。
彼を失い、仕事にもやりがいを感じず、ぽっかりと心に穴が空いたような状態のアビーが出会ったのは、一杯のラーメン。
小さなラーメン屋の主人が作るラーメンに体も心も暖められたアビーは、ラーメン職人になろうと決心をします。

もっとトンデモニッポンになっているかと思いきや(ところどころあったけど)、意外とまともに描かれていました。
お話としては定石通りの展開で、驚きもなければ感動もないというのが考えものですけれども。
それでも見れるくらいには作品を救っているのは、西田敏行さん、余貴美子さんを始め、思いのほか豪華だった日本のキャストでしょうか。
これが無名の日本人エキストラ、もしくはカタコトの日本人風だったらダメダメでしたでしょう。
西田さんの頑固オヤジは安心感ありますねえ。
池中弦太が年をとったらこんな感じというイメージですかね。
泣かせることができる贅沢なキャストでしたが、心の琴線に触れるというまでにはいたらなかったです。
その理由はやはり脚本でしょう。

師匠の一挙手一投足を観察し、それを懸命に学ぼうとするアビー。
けれども師匠には魂が入っていないと言われてしまいます。
魂を一杯のラーメンに込めようと、アビーが新しい恋人と別れる気持ちを内に秘めながら、がんばった作ったラーメンを常連さんが食べるシーンがあります。
そのラーメンを食べたお客さんたちは悲しい気分になり、さめざめと泣き始めます。
これはアビーの気持ちがお客さんに伝わったということを表現したいのだと思いますが、これは師匠が言った魂を入れるということとはちょっと違う。
ラーメンに魂を込めるというのは、自分の気持ちを相手に伝えるということではなく、相手の気持ちをくんで給するということなんですよね。
「みんなマイセルフ(自分らしい)て良いやがって」
と師匠は頑固なアビーに言います。
あくまで大切にしなくてはいけないのは、自分自身ではなくて、相手なんです。
茶の湯でも一期一会と言うように、一度限りという気持ちで相手にもてなしをする。
それが魂を込めるということなんです。
本作では庶民の食べ物ラーメンというものを通じて日本人が大切に思っている心根を描いてくれるのだと思っていました。
でもこの場面で脚本家が一番その心をわかっていないというのを露呈してしまって、一気に冷めてしまいました。
日本人キャストは良かっただけに、ちょっと残念な感じです。

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本 「武士道セブンティーン」

誉田哲也さんの「武士道シックスティーン」の続編です。
「武士道シックスティーン」の記事を書いたときに、続編が出たようだから今度読んでみようと書きながら、ずっとほったらかしにしてました。
いつの間にやらさらに続編の「武士道エイティーン」まで出ているようで・・・。

前作がどちらかというと香織が早苗に出会い、今までの自分の剣道に対する考え方を見つめ直すというお話でしたが、続編であるこちらの作品は早苗が香織と別れることにより、自分の剣道を見つめ直すというストーリーになっています。
早苗は転校した先の学校で、香織のスタイルとも自分自身の考え方とも違う剣道に出会います。
それはスポーツ競技化された剣道。
試合で点をとって勝つという目標に究極にチューンされた剣道であり、それに早苗は違和感を感じます。
早苗はどちらかというと柔らかであり、機を見るということに長けた才能を持っています。
その機を見つけ、一本をとるのが早苗の剣道。
そこには美学というか、単に点数をとるということとは違う心の修練という側面を持っていました。
ここは早苗も香織もいっしょなのです。
だからこそスタイルこそ違えども、心には通じるものがあり、彼女たちは友人になれたのです。
本作では「武士と武者は違う」という話がでてきます。
武者は戦いを生業とする者。
武士は戦いを収める者。
戦いのための戦いをするのが武者で、戦いを終わらせるのが武士。
なるほど、と思いました。
戦うということは、子供のケンカから国同士の戦争まで、たぶんなくなることはないでしょう。
けれど戦いと勝利が目的化した場合、その先には未来はないかもしれません。
戦いを通過点としながらも、その先には未来を見る。
これが武士道なのかもしれません。

でもそんなことより、香織と早苗に再び会えたことのほうが嬉しい。
彼女たちの真っすぐな気持ち、そして友情を感じられるとすがすがしい気持ちになります。

「武士道シックスティーン」の記事の時に「映画に向いているのでは」と書いたのですが、ほんとに映画になりますね。
「悪夢のエレベーター」といい、見る目あるぞ自分(自画自賛)。
主演は成海瑠子さんと北乃きいさん。
瑠子ちゃんが香織で、きいちゃんが早苗ということ。
キャスティングを聞いたときは、逆の配役かと思ったのですが(きいちゃんは「ラブファイト」のイメージがあったから)、これはこれでありかもです。
二人とも演技上手ですから。
来春公開ということですので、期待したいと思います。

前作「武士道シックスティーン」の記事はこちら→
続編「武士道エイティーン」の記事はこちら→

「武士道セブンティーン」誉田哲也著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-327190-3

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「悪夢のエレベーター」 映画を先に観るか、小説を先に読むか?

木下半太さんの原作は大好き!
先日、この作品の後日談となる「奈落のエレベーター」も読みました。
小説の記事を書いた時、下記のようなことを書いていました。

>映画にしてもおもしろいかもしれません。

見る目あるじゃん、自分。
で、監督がまたまた自分が好きな「やさぐれぱんだ」の堀部圭亮さん。
これは期待してしまいます。

しかーし、本作は逆転また逆転というそのトリックと突発事項にあたふたするキャラクターにこそおもしろさがあるわけで、それを先に知っているとどうもいまいち驚きが少ないのです(当たり前なのですが)。
さらに「奈落のエレベーター」まで読んじゃっているわけで、その後のキャラクターの行く末も知ってしまっているし。
純粋に楽しむことはできなかったです〜。
本作は原作を読まずに、最初に映画を観ることをお進めします。
小説が好きな方は映画を観ずにまず小説から。
一発ネタのようなところもあるので、小説と映画のどちらかしか楽しめないんですよね。
僕はどちらかとういうと小説の方がおもしろいと思います。
ミステリー小説のトリックの中で、叙述トリックというのがあります。
本作でも三郎はミステリーのファンということで、アガサ・クリスティーの名がでていますが、彼女も叙述トリックの名作を残した人の一人です。
叙述トリックというのは文章中の記述の仕方にこそ、トリックが仕掛けられているという手法。
興味がある方は先述のアガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」をお読みください。
驚愕すること請け合いです。
叙述トリックというのは文章である小説だからこそできるトリックとも言えます。
この手法を使う小説はだいたいが文章は一人称で書かれていることが多いんですよね。
本作「悪夢のエレベーター」もそういう部類に入るかもしれません。
もしくは「薮の中」か。
ですので、小説ならではの仕掛けというのがいくつかあるので、やはり文章の方がおもしろいかもしれないです。
映像化されてしまうと見えなくていいものまで見えてしまいますからね。
なかなか難しいところです。

この日は「クヒオ大佐」も観ていたので、図らずも内野聖陽さんデーとなっていました。

原作小説「悪夢のエレベーター」の記事はこちら→

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2009年10月11日 (日)

「クヒオ大佐」 笑いの中に人生の哀しさあり

「私は相手の望むことをやっただけだ!」
ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐と名乗る結婚詐欺師(堺雅人さん)が逮捕されるときに言った台詞です。
恋愛で相手を愛する、そして愛されたいと思うことには、実はそこに自己愛の側面があったりします。
今の自分を愛していると言われることにより、相手に自分という存在を認めてほしいという気持ちです。
これは男女に関わらず誰でも少なからず持っている気持ちだと思います。
つけっ鼻に、カタコトの日本語、不自然なアメリカの軍服と、端から見れば怪しさ満点なクヒオ大佐ですが、次々に女性を騙していきます。
モデルとなった実在の人物がいるそうですが、見るからに怪しそうなのに、なんで騙されてしまうの?と思うかもしれないですが、やはり人間というのは自分のことをきちんと聞いてくれて、それを肯定してくれる人には無意識に心を開いてしまうものなんですよね。
自分の存在を認めてくれたら嬉しいというのは、人にとって基本的な感情ですから。

クヒオ大佐に関わる女性は三人。
若い頃から両親の残した弁当屋を継いで一生懸命働いてきたしのぶ。
たぶん苦労も多くて、男性ともあまりつき合ってきてこなかった彼女。
社員や出来の悪い弟のために責任感が人一倍の彼女は、ずっとずっとがんばってきたのでしょう。
でもふと気づくと自分はたった一人、愛してくれる人もいない。
そんな気持ちの隙間にクヒオ大佐はスルッと入っていったのでしょう。
彼女はクヒオ大佐の怪しさに気づいていたのかもしれません。
けれど自分を認めてくれると(思わせてくれる)たった一人の男性をどうしても失いたくなかったんですよね。
二人目は、まだ若い春。
彼女はいい加減な恋人との付き合いにも嫌気がさした時に出会ったクヒオ大佐に心を動かされます。
クヒオ大佐は自分の気持ちを言い当てる、自分をわかってくれると思います。
でもそれは彼女が自分自身で表している彼女の気持ちを、クヒオ大佐はおうむ返しに返しているだけなんです。
それは三人目の女性である銀座のNO1ホステス未知子とクヒオ大佐との会話でもわかります。
百戦錬磨のホステスである未知子は、クヒオ大佐の手に引っかかりません。
それどころかクヒオ大佐もコントロールされそうになります。
彼女は相手が望むことを口にしながら、条件のように自分のしてほしいことをうまく乗せていきます。

ようはクヒオ大佐の手口とは相手が望むことを、そのまましてあげることによって、相手にとって自分のことをわかってくれる唯一の人だと思わせることなんですよね。
そして相手の女性も、自分が彼にとっての唯一の人だと思ってもらいたいと思い、貢ぐわけです。
自分自身を認めてもらいたいという気持ち、そして自己愛という感情を、クヒオ大佐は上手く利用しているのです。

物語の中で、彼の子供の頃に少しだけ触れられます。
彼も小さい頃からなりたい自分がありました。
それは誰も気づいてくれないし、いつまでも手が届かない夢みたいなものでした。
でもそうなりたい、そうなりたい、そうなりたいと彼は望んでいるうちに、いつの間にか自分自身も騙してしまうようになってしまったのでしょう。
クヒオ大佐というのは、彼自身がなりたいと思っていた理想の姿であったのだと思います。
何にも邪魔されず自由に大空を飛んでいけるという理想の姿。
彼が天性のように女性たちを騙すことができるというのは、すなわちそれがずっと自分自身にも使っていた手口であったからなのです。
必死に取り繕うクヒオ大佐の行動に笑いどころがたくさんある作品ですが、根底に哀しさのようなものがあったように感じました。
いつかなれる、いつかなれると思っている人の気持ちを手玉にとるというのは、許されないこと。
でもなりたい自分になれる人が実際には少ないのもまた事実。
多くの人は現実と妥協しながら生きていくわけです。
そうしながら、自分とはなんなんだろう?、こんなことで良いのだっけ?、といったような疑問が時折浮かびあがってくるのを必死に封殺して、生きていたりするんですよね。
封殺しないと生きていけないわけです。
何かそういう人生の哀しさ、みたいなものを感じました。
それでも、しのぶは幸せだったのかな・・・。

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「カイジ 〜人生逆転ゲーム〜」 逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ

観ていて、胃がギューっとなるような緊張感がずっとありました。
手に汗握るとか、心臓がバクバクといった作品は数多くありますが、胃がギューっとなる映画というのはそうそうありません。
僕が胃がギューを経験するのは(会社の仕事でもかなり重要なプレゼンの前とかになったりするのですが、それはまさに勝負時といったときの合図だったりするわけです。
逃げ出したいけど、逃げるわけにはいかないそんなときなんですよね。
ちなみにうちの会社ではこれをイギューと呼んでまして、「今日、俺イギューなんだよ」「そうか頑張れよ」なんて使い方をします(どーでもいいか)。

こちらのブログでも何回か書いていますが、僕は「勝ち組」「負け組」っていう言葉が大嫌いです。
何を持って勝ちなのか、負けなのか、それでもって勝手にそんなの決めんなという感じがしています。
ですので、本作冒頭の利根川の言い分にはカッカときてしまいました。
ただ利根川の歪んだものの見方にも、ひとつしっかりとしたことを言っているところがあります。
お前らはチャンスを前にして逃げて逃げてここまでやってきたんだという件です。
人生の中で勝負時というのはいくつかあります。
それこそ胃がギューっとなって、裏表がひっくり返りそうな気分になる時が。
もちろん逃げることもできます。
ただ逃げてしまえば、いろんなリスクも背負います。
挑戦しても、簡単に勝てるわけではありません。
それ相応の準備、そして折れない気持ちが必要です。
さきほど書いたように誰かが決めた価値観で「負け組」と言われるのはまっぴらごめんです。
けれど「負け組」と自分で思ってしまっている人もかなり多いのではないかとも思います。
胃がギューっとなる場面で、回れ右をしてしまう。
そしていつの間にやら、こんなことに・・・というように。
偉そうなことを書いているかもしれませんが、僕自身もやはり勝負時に何度か逃げ出したことがあります。
けれど逃げたということは自分自身が一番よくわかっているんですよね。
それはずっと心の中に溜まって、自分自身を劣等感で苛みます。
いつからか僕はあまりそれに背を向けないようになってきました。
勝負時のイギューに比べて、逃げ出したあとの劣等感の方が苦しかったから。
勝負をかけるときはやはりこわい、足が震えるくらいこわい(まさについ2、3日前に仕事であったのでした)。
けれど逃げ出さず向かい合う時、結果云々とは別の高揚感はあります。
劇中でカイジが言っていたように「生きてる」という実感なのでしょうか。
逃げ続けていてはこの「生きてる」って感覚を味わえないのですよね。
またカイジが言っていましたが、その勝負をかけるとき大人になった時、実は背後に背負っているものが多い。
それは仕事をいっしょにしているパートナーであったり、仲間であり、部下であり。
逃げ出したいと思いますが、それを心の中での彼らの存在が押しとどめます。
いっしょにやってきた仲間を裏切るわけにはいかない、だからこそ勝負をかけるのだと足を踏ん張るわけです。
観ていて胃がギューっとなると書きましたが、劇中の中のカイジはまさに僕自身でもありました。
久しぶりに客観的に映画を観るというよりは、カイジ自身になりいっしょに戦っていた気分になりました。

なんというか凄まじいまでの存在感を放っていたのは、利根川を演じた香川照之さん。
感情移入できるような隙間がないほどに憎たらしい相手でした。
上から目線、自分が相手より優れているという優越感と傲慢さ、組織を背景にしたパワー。
これほどにイヤな奴をほんとにいやらしく蛇のように演じた香川さんがいなくてはこの映画は成立しなかったでしょう。
また主演の藤原竜也さんもよかった。
彼の芝居はもともと舞台出身ということもあり、映画としては大仰なところがあるのですが、本作はそういう感じがまさにぴったりでした。
カイジと利根川の対決シーンは本当にぴりぴりとした緊張感が伝わってきていて、結果を観ずに逃げ出したくなるほどでした。
他にも山本太郎さんとか、松尾スズキさんとか小憎らしかったですねー。
まさに友情出演といったところの松山ケンイチさんもいい感じでした。

先に書いた僕のイギューな案件の相手も、利根川ほどとは言いませんが、上にへいこら言いつつ下にはタカピーな自分より上のクラスの社内の人間。
先日からある案件で勝負をしかけ、勝算は五分五分といったところでしょう。
ま、勝つにしろ負けるにしろ、今月中には結果が見えることになると思います。
立場的にはこちらは、「Eカード」で言うところの奴隷側になるでしょう。
捨て身で皇帝を倒せるかどうか・・・、がんばります。

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「ワイルド・スピードMAX」 スピード&セクシー

都内に住むようになってから、車は持たずに公共交通に頼って生活しています。
車を持っていたときはマニュアルでというこだわりもあったのですが、いまではすっかりペーパードライバー。
だって都内は駐車場代が高いんだもん。
でもやはりカーアクション映画を観るのは大好き!
男の子ですからねー、スポーツカーがスピード感が体感できるこの手の映画はたまりません(PSPの「グランツーリスモ」も買っちゃった・・・)。
このところ仕事関係でイライラ感が募っていたので、スカッとしたいと思って本作「ワイルド・スピードMAX」を観てきました。
一作目の「ワイルド・スピード」は久しぶりにカーアクション映画で燃えた作品でしたし、期待度が高くなります。
でも、その後のシリーズは次第に失速、3作目の「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」に至っては、エンスト状態になっていたので、一抹の不安もありました。
でも、久しぶりのオリジナルメンバー勢揃いですし、やはり期待度MAXで挑んできました。

アヴァンタイトルのタンクローリー強奪シークエンスはかなりの迫力。
ドミニク(ヴィン・ディーゼル)もレティ(ミシェル・ロドリゲス)はアメリカを離れ、ドミニカでガソリン強奪を行っています。
電車のようにタンクを数個連結させて走っているタンクローリーが彼らのターゲットです。
高速で車体を半回転させて、高速バックでローリーに強引に連結。
ローリーの連結部分を破壊して、そのままタンクを奪ってしまう。
破天荒だけれど、こういう派手なカーアクションはアドレナリンが出ます。
またブライアン(ポール・ウォーカー)はFBI捜査官となり、麻薬組織を追っています。
なんとその麻薬組織に潜入していたレティが組織に殺害されます。
8年前に別れたドミニクとブライアンの運命がまたこの事件を機会にぶつかります。

本作は一作目の正統な続編と言ったところでしょうか。
ですので、ストーリーという点では一作目ほどの新鮮味はないというのは正直なところ。
ただ「X3 TOKYO DRIFT」より、全体的にしまって見えるのは一作目をきっかけにブレイクしたヴィン・ディーゼルとポール・ウォーカーの存在感のおかげでしょうか。
「X3」の出演者とはやはり、格が違う感じがします。
キャラクターの説明は無用なので、安心感を持って観ることができます。
追う者と追われる者である立場の違いはありながらも、互いにシンパシーを感じているドミニクとブライアンの関係がしっかりと軸になっているからでしょう。

本シリーズは日本車が活躍してくれるのも嬉しいんですよね。
ブライアンの駆るブルーのスカイラインGT-Rはやはりカッコいいなあ。
この後のスカイライン、またGT-Rのデザインはあまり好きじゃないんですよ。
インプレッサもキビキビちょこまか動いていて、日本車らしい機動性が出てました。
そうそうグラン・トリノも出てましたね。
派手にぶっ壊れていたけど。
ウォルトが泣くぞ。

カーアクション映画というのはカッコいい車も見所ですが、セクシーな魅力の女優陣もやはり楽しみなところ♥
ミシェル・ロドリゲス(早々の退場が残念!)もジョーダナ・ブリュースターも美しいですが、今回登場したジゼル役のガル・ギャドットの美しさにやられてしまいました。
終わり方としては続編作る気満々とみたので、次回作にも出演してほしいところです。

「ワイルド・スピード」の記事はこちら→
「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」の記事はこちら→

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2009年10月 4日 (日)

本 「人のセックスを笑うな」

人を好きになる時、自分では説明できないけれどとても愛おしいと思うことがあるのではないでしょうか。
その人が客観的にきれいだってことではなくて、それでもなんだか可愛くて、愛おしくて、そして切ない気持ち。
ずっとくっついていたいと思うような気持ち。
そんな気持ちが、この作品に溢れています。
最近はこんな気持ちになることがめっきりと少ないのだけれど(非常に問題なのだが)、そういう気持ちであった時のことが、本作を読んで瑞々しいまでに甦りました。
文字だけの小説で、そんなふうに人の気持ちを揺らすことができるのは、とてもすごいことです。
たぶんこの作品を読んだ人は、磯貝くんに共感して切なくなるのではなく、自分自身の昔の感情を思い出すので切ない気分になるのではないでしょうか。
自分がずいぶん前にすごい好きだった人がいたときがあります。
会っていて幸せだったのですが、ある日ご飯を食べていた時に泣けてきたときがあるです。
こうやって書くとバカみたいなのですが、それこそこんな幸せなのがずっと続くのだろうか、続かなくなったらどうしようとふと思ったら、ぽろっと泣けちゃったんですよね。
自分でも驚いちゃったりしたのですけど、何か本作で磯貝くんの物語を読んでいて、そのときの気分を思い出しちゃったんです。
結局その人とはうまくいかなくなってしまい、相当落ち込んだ日々を送り、自分の中では忘れたいことトップ10に入っていて封印していたのですけれど、思い出してしまいました。
けれど今では痛いとか辛いとかいう感じではなくて、うまくは言えないのだけれど、切ないという気持ちなのですね。
本作も冒頭は磯貝くんが、かつての相手ユリのことを思い出すということから入ります。
そのときに磯貝くんが思っているであろう気持ちと、自分の気持ちがシンクロしちゃったんですね。
不思議なものです。

松山ケンイチさんが主演した映画化作品は未見なのですが、今度観てみようかな・・・。

「人のセックスを笑うな」山崎ナオコーラ著 河出書房 文庫 ISBN978-4-309-40814-9

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「アドレナリン:ハイ・ボルテージ」 悪ノリ上等!

前作「アドレナリン」ではアドレナリンを出し続けていなければ死に至る毒薬をうたれてしまった殺し屋チェリオス(ジェイソン・ステイサム)。
続編である本作はそのラストからストーリーは始まります。
地上4km上空のヘリからのダイブを敢行しても死ななかったチェリオスはその強靭な心臓をある中国マフィアに奪われ、代わりに人工心臓を移植されてしまいます。
チェリオスは意識を取り戻し脱出するも、その人工心臓は充電を続けなくてはその機能を停止してしまうという代物。
かくてチェリオスは様々な手段を使いながら「充電」をしつつ、自分の心臓を取り戻すためにまた暴走を始める!

前作も相当トンデモな設定でしたが、本作ではさらに輪をかけて悪ノリ度が上がっています。
けれどこれはこれで突き抜けていていいのです。
悪ノリ上等!です。
充電し続けないと死んでしまうなんて設定、普通の人じゃ思いつかない。
この発想を思いついた時点で、この映画は成功ということじゃないでしょうか。
とんでもなくB級ですが、B級であることに衒いがないという感じがします。
やるならトコトンまでやってやるというB級映画魂を感じます。
そんなのありえねーという常識的な方にはお薦めしません。
直接自動車のバッテリーからチャージするなんてまだまだ普通。
電柱の上の高電圧器からとか、それこそタイトル通りにハイ・ボルテージになっていきます。
その割に「摩擦でも電気が起こせる」なんて言って競馬場での所行・・・。
そりゃそうだけど、それでできる電気なんて微々たるものでしょう。
発電するそばから、消費しちゃっているような気も・・・。
・・・なんてことは言いっこなし。
前作の衝撃(笑撃?)シーンをさらにエスカレートさせて、観客の期待に応えようとするサービス精神に感服します。
ジェイソン・ステイサムは「トランスポーター」シリーズの無口でクールでスタイリッシュな運び屋も似合っていますが、本作のような口の悪い走り出したら止まらない暴走機関車のような男も似合いますねえ。

ラストは例によってお目目パッチリ。
まだまだ続ける気、満々?

前作「アドレナリン」の記事はこちら→

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本 「ゴールド・フィッシュ」

森絵都さんのデビュー作「リズム」の続編になるのが、本作です。
主人公さゆきは中学3年生になっていました。
先生も親も、友達もだんだんと受験モードになっていくとき、さゆきは何かその流れに乗り切れないところがありました。
たぶんずっと憧れていた従兄の真ちゃんが言った「自分のリズムを大事にしろよ」という言葉が残っていたのでしょう。
自分のリズムとは何なのか?そういうぼんやりとした疑問がさゆきの心の中にあったのだと思います。
その言葉を真ちゃんも、彼の夢であったバンドが解散してしまい、彼自身もゆくえがわからなくなったということをさゆきは知り、ショックを受けます。
きらきらとした夢。
でも儚く崩れてしまう脆さをもっている夢。
そんな夢もまだ持てていない自分。
夢などをもたず現実的になれという大人たち。
そういう言葉に流され、また逆らい、けれど自分というものがないような気がしていく。
中学生という年頃、自分自身を振り返って夢を持っていたかというとそれほどはっきりとしたものは持っていないような気がします。
絵を書くのが好きだったし、映画を観ることが好きだったし、小さい頃は漫画家とかアニメを作る仕事とかやりたいなと思っていたけれど、中学生になれば自分の実力とかその道の厳しさみたいなものも知ってくるわけです。
キラキラとした夢を追うのか、現実的になるのか。
僕はぼんやりと、モノを作る仕事、何かを伝える仕事をしたいというぼんやりとした目標を持っていました。
今やっている仕事は天職だと思えるほどですが、それも最初っから目指していたわけではありません。
自分も変わるし、世の中も変わる。
最初からすごい夢を持たなくてもいい。
いつかは夢を持てるようになろうという夢でもいいじゃない?

「あたし、テツや真ちゃんみたいに立派な夢はないけど、そういう小さなこと、ひとつひとつやっていきたいの。いちいち楽しみながらね」

これはさゆきが言った言葉です。
中学生だったらこれでいい。
自分の可能性をまだ縛らなくていい、いろんなことをやって段々とやりたいことを感じていく、そういうことが大事なんですよね。

森絵都さん作品「リズム」の記事はこちら→

「ゴールド・フィッシュ」森絵都著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-379107-1

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本 「原理主義とは何か -アメリカ、中東から日本まで-」

原理主義というと、なんとなくイスラム原理主義→テロといったイメージがあります。
しかしそうではなくキリスト教(特にアメリカ)にもキリスト教原理主義というのはありますし、こちらの本で紹介されているのは、インドのヒンドゥーや、日本にですらそういうことはあると論じています。
原理主義とはそもそもなんなのか?
それは聖書やコーラン等に書かれていることを文字通りすべて真実として受け止める考え方です。
日本人からすると驚くべきことですが、アメリカでは進化論を否定し、学校で教えない州もあるということです。
このようなことから、原理主義という思想がただ昔に戻りたいという懐古的な考え方であるかというとそうではありません。
この本を読めばわかるように、原理主義というのは近代だからこそ、その考え方がより鮮明になってきたというふうに言えるでしょう。
原理主義を研究するプロジェクトで「シカゴ大プロジェクト」というのがあるようなのですが、彼らは
原理主義のイデオロギー的特徴として以下の点を挙げています。
・近代化による宗教危機に対する反応
・選択的な教義の構築
・善悪二元論的な世界観
・聖典の無謬性の主張
・週末論的世界認識と救世思想
また組織的特徴としては以下の四点を挙げています。
・選民思想
・組織のウチとソトとの明確な区別
・カリスマ的な指導者の存在
・厳格な規律、行動規範
ようは旧来的に守っていた考え方が、近代化により破壊される、また切り捨てられるということに対する危機感が原理主義という動きを生み出しているのです。
彼らには追い込まれているという考え方、被害者意識のようなものがあるように感じます。
いわゆる原理主義の中でも過激的な組織のリーダーというのは、意外にも高等教育を受けていた方も多いのです。
だからこそ、彼我の差や差別的な視点といのも実感しており、そこでの閉塞感が原理主義、そして武力闘争へ向かっていってしまうのでしょう。
窮鼠猫を噛むといった状況になっているのかもしれません。
この状況を変えていくためにはやはり対話しかないかと思います。
武力闘争はお互いの感情をより頑にするだけであり、解決には結びつかない気がします。
ブッシュ時代は明らかにキリスト教原理主義が強まっていました。
あのままイスラム原理主義者との戦いを続けていたら、さらに大きな事件が起こったかもしれません。
アメリカの大統領がオバマになり核廃棄を訴え、新しい日本の総理大臣は「友愛」を掲げています。
そのまま彼らのめざすビジョンが実現できた時、原理主義という考え方も衰退していくかもしれません。

「原理主義とは何か -アメリカ、中東から日本まで」小川忠著 講談社 新書 ISBN4-06-149669-7

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2009年10月 3日 (土)

「機動戦士ZガンダムⅢ 星の鼓動は愛」 「ガンダム」と「イデオン」の狭間で

もともとの「Zガンダム」のテレビシリーズも乗り切れず、映画版のⅠ、Ⅱともこれまたあまりはまれませんでした。
ですので強い期待をせずに、30周年のご祝儀と言った感じでⅢを観に行ってきました。
Ⅲでは、エゥーゴとティターンズとの戦いに、ザビ家の忘れ形見ミネバを擁立するアクシズが参戦し、三つ巴の戦いが描かれます。
3つの集団が、それぞれの意図を持ちながら、敵対し、また連携し、戦争が動いていく様子はテレビシリーズの時を観ていた時ですら複雑怪奇であったため、映画で100分程度と尺に限りがある本作では、やはり展開が忙しい感じは否めません。
そのあたりの権謀術数については説明するのを諦めているのか、Ⅰ、ⅡよりもよりMS戦などの戦闘シーンに時間をさいているような感じも受け、これは潔い割り切りだなと感じました。

「Zガンダム」はファースト・ガンダムほど強いテーマ性というのは感じないのですが、3作を連続して観てみて感じたのは以下のようなことです。
エゥーゴ、ティターンズ、アクシズという3つの集団はそれぞれに主張があります。
いずれかが正しいのかということは別にして、それらの集団、そしてそれを率いる者たちは自分の主張を心底正しいと思っています。
いずれも自分たちこそが地球、そして人類の未来を考えていると思っているわけです。
正義は我にあり、と考えているわけです。
それはイデオロギーと言ってもいいかもしれません。
それらイデオロギーが正しいと信じている者たちは、それを実現するために障害となるものを取り除くこと、それも正義なのです。
本作で描かれる三つ巴の戦いは正義と正義と、そして正義のぶつかり合いなのです。
けれども指揮者たちが正義だという戦いの、現実の現場にはそこには人がいます。
「Zガンダム」で描かれているのは、正義の名のもとに、個人の思いや人生が簡単に翻弄され踏みにじられていく様子です。
カツとサラの間の感情。
ヘンケン艦長のエマへの想い。
またレコアがエゥーゴからティターンズに寝返ったのは、イデオロギーというよりは自分が必要とされる場ということを実感したかったからでしょう。
そういった個人それぞれにとって大切な思いがいかに簡単に、正義によって散っていってしまうのか。
正義とは何なのかということを語っているように思います。
シロッコは、その正義というなの不正義を表したキャラクターであろうと思います。
これは富野監督は「伝説巨神イデオン」で試みているテーマでもあります。
「イデオン」で人類の業を一人の人間として象徴したのが、ドバ・アジバでした。
ドバの存在をイデオンのゲージは赤い光点で指し示していましたが、Zガンダムでシロッコの登場するジ・Oが赤いライトを目印としていたのに共通点を感じます。
「イデオン」ではその人間の業、すなわち主義にとらわれ戦いをやめることができず、そして自滅していくという業の象徴である、ドバもろとも人類をリセットすることにより、新しい世代がよりよい人類として再生することが描かれます。
テレビシリーズの「Zガンダム」は「イデオン」の映画公開後に作られています。
「イデオン」がまだ最後の最後に人類への希望を残していたのに比べて、テレビの「Zガンダム」はドバと同様に人類の業の象徴であるシロッコを倒したあと、カミーユも人格崩壊を起こし、より悲劇的な結末になっていました。
このあたりは監督の人類感の変化があったのかもしれませんが、僕としてはあまり好きなラストではありませんでした。
本作の新訳版ではこのラストが180度変わり希望の残るものに変化しています。
これ自体は歓迎したいと思っています。
ただ何故Zガンダムが人の心を乗せて力に出来るマシンであるのかという説明は映画でも一切なく、ややもするとご都合主義的なものになっている感じも受けます。
ファースト・ガンダムのアムロはニュータイプとは言っても、一人で戦争の行く末を決められる力を持っているわけではありません。
だからこそ物語はホワイトベースの乗組員たちの物語になっていて、人類の業と言ったものは物語の全面に出てきているわけではありません。
逆に「イデオン」は人類全体を含んだ壮大な叙事詩となっています。
それだからこそ人間の感情、そして生命をとりこんでより強大な力をもっていく”イデ”という存在も違和感なく成立するのです。
「Zガンダム」はファースト・ガンダムと「イデオン」の狭間に陥ってしまい、どっち付かずになってしまった居心地の悪さのような感じがします。
もしかすると玄人受けする「イデオン」がそれほど一般的には受け入れられなかったため、よりメジャーである「ガンダム」という素材で同じテーマをやりたかったのかもしれません。
ですが、それは「ガンダム」の世界観とマッチングするテーマであったのかどうかというのは疑問が残ります。
「Zガンダム」という作品は、この一作を観て評価をするというよりは、他の富野監督作品の中での位置づけという点で評価してみるというのがおもしろいかもしれません。

「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の記事はこちら→
「機動戦士ZガンダムⅡ 恋人たち」の記事はこちら→
「伝説巨神イデオン<接触篇><発動篇>」の記事はこちら→

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