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2009年9月27日 (日)

「続・夕陽のガンマン」 生まれる前なんだなあ

「3時10分、決断のとき」、「グッド・バッド・ウィアード」と立て続けに西部劇を観て(GBWは西部じゃないですけど)、西部劇にあらためて注目しています。
映画ファンではありますが、映画をきちんと観るようになったのは80年代から。
その頃すでに西部劇全般が衰退していたわけで、観る機会がそもそもなかったわけです。
クリント・イーストウッドの西部劇と言っても観たことがあるのは「許されざる者」だけですから・・・。
ということでマカロニ・ウェスタンの中でも傑作と言われるクリント・イーストウッド主演「続・夕陽のガンマン」を観てみました。
原題は「The Good, the Bad and the Ugly」、すなわち現在公開中の「グッド・バッド・ウィアード(The Good, the Bad, the Weird)」は本作にインスパイアされて作ったものなんですね(いつもお世話になってるノラネコさんに教えていただきました)。
そのまま訳せば「良い奴、悪い奴、厄介な奴」という感じでしょうか。
タイトルのとおり登場するのはクリント・イーストウッド扮する善玉ブロンディー、悪玉エンジェル・アイ、厄介な奴トゥーコで、彼らがお宝を巡って三つ巴での争奪戦となるわけです。
ブロンディーは善玉と言っても、一癖も二癖もある感じでした。
クールで肝が太い。
ピンチになっても焦りがなく動じない。
男はかくあるべしという感じでした。
それにしても若かりしクリント・イーストウッドはカッコいい。
今も渋くていいですが、若い頃もいいですねえ。
三人目のuglyが字幕では卑劣漢となってましたが、どうもしっくりこないです。
どちらかというと、やはり厄介者、鼻つまみ者って感じですね。
「グッド・バッド・ウィアード」だとソン・ガンホが演じていた「変な奴」に相当すると思うのですが、やはりこの手の役はおいしい。
卑怯なところもあったり、コメディリリーフ的な役割もあるのですが、イーストウッドよりも印象深いような感じがしました。
そのような存在感があるキャラだから「グッド・バッド・ウィアード」ではかなりそこを膨らませたキャラクターになっていたのでしょうね。
悪玉のところに乗り込んで行くところとか、最後の三すくみのところとか、ジリジリとした緊張感があります。
特に最後の三すくみのシーンは、アップをこまごまと切り替えていくカット割りが緊張感を醸し出してます(北軍と南軍が戦うシーンも細かいカット割りでスペクタクル感がありました)。
基本的に砂漠や荒野が舞台なので、風景から伝わってくる乾いた感じが西部劇特有のジリジリ感に繋がっているのかもしれません。
本作はそれに加えてトゥーコとブロンディーの絡み(この関係はバディ・ムービーと言えなくもない)がなんとも言えずおかしいところがあります。
騙し騙されのおかしな二人の関係は、「ミッドナイト・ラン」を思い浮かべました。
緩急が丁度いいバランスで配されているので、長尺ながら飽きさせません。
この作品公開されたのは自分が生まれるより前なんですよね。
そんな前に作られた作品とは思えないほど、古さを感じませんでした。
あとテーマ音楽がとても印象的。
繰り返し流れたためしっかり刷り込まれたので、しばらく脳内で再生され続けそうです。

この秋は邦画では時代劇が4本公開されています。
出来は抜群にいいというわけでもないでしたが、それぞれに新しい切り口を提示しているように思えます。
また冒頭にあげた西部劇2作品も観て楽しめる作品になっていました。
時代劇も西部劇もジャンルとしては古いものになってしまいますが、まだまだ新しい切り口は用意できるような気がします。
こういった分野でもチャレンジャブルな作品をどんどん作ってくれないかなあ。

「3時10分、決断のとき」の記事はこちら→
「グッド・バッド・ウィアード」の記事はこちら→

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本 「奈落のエレベーター」

木下半太さんの「悪夢のエレベーター」の続編になります。
木下さんの作品には「悪夢の観覧車」「悪夢のドライブ」などがあり、これらは「悪夢シリーズ」と呼ばれたりしてますが、基本的には別の話になっています(多少のクロスオーバーはありますが)。
それで本作「奈落のエレベーター」ですが、これは「悪夢のエレベーター」の正当な続編。
「悪夢のエレベーター」のラスト直後から物語は展開します。
言うなれば「ダイ・ハード」が「ダイ・ハード2」になったという感じでしょうか。
何が言いたいかというと、「ダイ・ハード」は限られた空間(ビルの中)でのノンストップアクション、そして「ダイ・ハード2」はその限定空間というのを取っ払いながらもやはりノンストップであるところは変わらないという意味です。
本作「奈落のエレベーター」は前作のエレベーターの中だけとういう限定空間の枠組みをやはり取っ払っています。
けれどもノンストップサスペンスであるということは変わらない。
次から次へと登場人物に苦難が襲いかかり、それを知恵と勇気と偶然と、成り行き任せでクリアしていくというのはやはりページを繰る手が止まらなくなるような魅力があります。
こちらの作品はやはり前作「悪夢のエレベーター」を読んでからの方がいいかと思いますので、ご興味ある方は是非前作も読んでみてください。

前作「悪夢のエレベーター」の小説の紹介記事の時、映画になったらおもしろいと書いたのですが、やはり同じようなことを考える人はいるもので、映画化されて今度の10月から公開ですね。
監督は堀部圭亮さん。
もともとお笑いタレントで最近は「やさぐれぱんだ」を演出されています。
脱線しますが、「やさぐれぱんだ」は超おもしろいのでお薦めです(堺雅人さん、生瀬勝久さん出演!)。
この方なら「悪夢のエレベーター」の映画もおもしろいに違いありません。
期待しながら待っていたいと思います。

前作「悪夢のエレベーター」の記事はこちら→
続編「悪夢のギャンブルマンション」の記事はこちら→

「奈落のエレベーター」木下半太著 幻冬舍 文庫 ISBN978-4-344-41357-3

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2009年9月26日 (土)

「機動戦士ZガンダムⅡ 恋人たち」 ダイジェスト感が気になる

ガンダム30周年記念上映ですが、1週間しか上映期間がないようなので、Ⅰに続けて「機動戦士ZガンダムⅡ 恋人たち」を観賞です。
Ⅰのレビューで書いたように、どうも「Zガンダム」は自分と波長が合わない感じがありまして、その違和感を感じつつの観賞となりました。
「星を継ぐ者」もそういう感じがありましたが、やはりテレビシリーズをまとめた作品なので、ダイジェスト感が強いのは否めません。
ファースト・ガンダムはⅠはダイジェスト感がありながらもⅡ、Ⅲではかなり焦点を絞りあげてきた感じが合ったのですが、「Zガンダム」はⅡでも散漫感があります。
「恋人たち」というサブタイトルであったので、カミーユとフォウの出会いを深く掘り下げるかと思いきや、予想よりあっさりとしていました。
アムロとララァの関係ほどの強さも感じず、やはり何故カミーユは戦うのかが伝わってこないのはⅠと同様でした。
「恋人たち」と複数形なので、いくつかの恋愛も描かれますが、これも説明不足のところがあり、今一歩感情移入ができません。
カツとサラ、ジェリドとマウアーなどの関係がこれになるですが、登場人物の感情まで深く描かれていないので、どうも冷めた目で観てしまいます。
テレビシリーズで好きではなかったロザミアとカミーユのエピソード(ロザミアがカミーユを「お兄ちゃん」って呼ぶエピソード)はバッサリと切られていたのは良かったと思いますが、そうすると物語の中でロザミアの存在意義はほとんどないので、これも出方が中途半端。
それならばこのキャラクターについては全く出さない方が割り切りが良かったかもしれません。
観ていて思ったのですが、テレビシリーズでも場面が地球だったり宇宙だったりと転換が頻繁なのと、登場人物の出入りも激しいので、ややストーリーの流れにブツ切れ感も感じました。
テレビシリーズの映画化なので、どうしてもダイジェスト感が強くなるのはやむを得ないのですが、もう少し思い切って編集した方が良かったように感じました。

2作目まで観て、やはり「Zガンダム」には乗り切れない・・・。
30周年だし、2作目まで観たし、3作目もとりあえず観てみるか・・・。
ラストがテレビシリーズとは違うということですし・・・。

予告でかかっていた「ガンダムユニコーン」が気になりました。
これは映画になるのかな・・・?
ガンダム好きで有名な小説家、福井晴敏さん関わっているようだし、キャラクター・デザインは安彦良和さんだし、ちょっと期待したくなります。

「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の記事はこちら→
「機動戦士ZガンダムⅢ 星の鼓動は愛」の記事はこちら→

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「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」 キレやすい子供、カミーユ

お台場ガンダムは撤去されてしまいましたが、最終週ようやっと観てきました。
僕はファーストガンダム世代なので、実物大のガンダムが目の前に立っているというのは、やはり感激してしまいました。
というような思い入れが合ったため、その続編である「機動戦士Zガンダム」が作られると聞いたとき、やや微妙な心持ちであったのを覚えています。
その頃は確か高校生でしたが、「宇宙戦艦ヤマト」が続編が作られるたびにどんどんオリジナルが汚されていくような気分も知っていたので、同じようなことになるのではといった気持ちであったと思います。
とは言いつつも、やはり「ガンダム」であったので、オンエアをしっかりと観てしまっていたのですが。
そのとき感じたのはやはり違和感のようなものでした。
ファーストガンダムがオンエアされた当時、アムロというちょっと根暗な少年が主役ということが新鮮でした。
それまでのロボットアニメというのは熱血正義漢というのが定番でありましたが、ステレオタイプではないうじうじしている少年として描いたのが画期的であったのです。
今、観直してみると、それほどアムロは暗くないと思うのですが(碇シンジなどはもっと暗い)、「ガンダム」以降アニメはそういうリアルな感情を持ったキャラクターで、共感できるドラマを描くというのが、一つの定番になっていったのだと思います。
それで「Zガンダム」の話になります。
主人公のカミーユ・ビダンは親にも相手にされず孤独に暮らしており、また女のような名前をつけられたことを強いコンプレックスを持っている少年と描かれています。
親から突き放された少年という点ではアムロと共通していますが、鬱積した感情によりアムロがうちに入っていくタイプだとすれば、カミーユはそれが外側に爆発するタイプの少年になります。
このカミーユ像というのが、僕は最後まで共感できず、放送中ずっと「Zガンダム」に違和感を感じてしまっていたのです。
「女みたいな名前だな」と言われて、いきなり見ず知らずの人を殴ってしまう人に共感できるでしょうか?
まだ当時はそのような言葉はなかったとは思いますが、まさに「キレやすい子供」といった感じです。
それ以外にも「粛正してやる!」などと自分の考えに合わない人に対して、力づくで挑もうとする態度が、敵方である連邦軍にも、主人公側であるエゥーゴにも見えます。
観ている自分としては、どっちもどっちだと思ったりしました。

ぐたぐだとテレビシリーズの「Zガンダム」について当時思っていたことを書いてしまいました。
つまりはこの作品により僕の「ガンダム」離れは始まってしまったわけです。
ですから本作が「A New Translation(新訳)」というサブタイトルで公開されたときも、まったく興味がわかずスルーしておりました。
で、今更ながら何故観たのかというと、やはり今年「ガンダム」30周年ということでファースト・ガンダム3部作を劇場で久しぶりに観たこと、それと冒頭の原寸ガンダムを観たおかげで「ガンダム」熱が再び上がってきたということがあります。
高校生の頃には、いろいろわからなかったことが、今だったらわかるかもしれないと思ったりもしました。

ようやく感想です。
前段に書いた僕が違和感を感じていたカミーユというキャラクターですが、ずいぶんとソフトになっていたと思います。
知らない人にいきなり殴り掛かるシーンはカットされていました(回想では入っていたけれど)。
やはりこのシーンは評判悪かったのかしらん。
けれどもやはりカミーユというキャラクターが何故に戦っていくのかというのは、やはりしっくりとこなかったのです。
アムロが戦争に巻き込まれ嫌々ながら戦っていくうちに、次第に大人として、男として、新しい人類として目覚めていくというような感じがありません。
カミーユだけではないのですが、少年少女の登場人物がしばしば「子供だから」という言葉を口に出すのも気になります。
これが子供であることを免罪符にしている、そしてそれができるということを知っているイヤな子供の言葉に聞こえました。
たしかに変に頭のいい子供、また先ほど書いたキレやすい子供というのは現在ではいよいよ多くなってきている感じもします。
現代の人間からすると、アムロですら、素直な子供にみえます。
そういう意味では「Zガンダム」というのはそのような少年少女像というのを先んじて捉えていたとも言えるのかもしれません。

映画「機動戦士ガンダム」の記事はこちら→
映画「機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編」の記事はこちら→
映画「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編の記事はこちら→
映画「機動戦士ZガンダムⅡ 恋人たち」の記事はこちら→
映画「機動戦士ZガンダムⅢ 星の鼓動は愛」の記事はこちら→

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2009年9月23日 (水)

「ラブファイト」 グラブで話そう

シルバーウィークもいよいよ終わり。
連休前に仕事がいいところでキリがついたので、連休中はなんの憂いもなく映画三昧で過ごせました。
観たいと思っていた公開中の映画も一通り観れたので、本日はゆっくりと家でDVD観賞です。

さて本作「ラブファイト」ですが、公開中は上映館が少なかったため(たしか東京はバルト9だけだったような)、見逃していました。
こちらは林遣都さんと北乃きいさんのダブル主演ということで、なんとなく「タッチ」のような青春スポーツ恋愛ものであると思っていたのです。
十代をターゲットとした青春恋愛もののベタベタした感触の作品に食傷気味でもあったので、スルーしていました。
林さんはけっこう好きな俳優さんなので、いい機会なので観賞です。

さて感想はというと、想像していたより全然良かったです。
ジャンルとして括るとするならば、先ほど書いたように青春スポーツ恋愛ものになるのだと思いますが、ベタッとしたところはないですし、それこそいい年をとった大人が観てもけっこう共感できるところがあるのではないでしょうか。

立花稔(林遣都さん)と西村亜紀(北乃きいさん)は幼なじみ。
稔は小さい頃からいじめられっこで、それをケンカっぱやい亜紀が守るという関係がずっと続いています。
中学生になった今でも稔は不良たちに絡まれます。
美少女となった亜紀といつもいっしょにいるのでつき合っているのではないかと邪推されるわけです。
いつものようにいじめられ、それを見つけた亜紀がガツンと不良たちをやっつける。
そのあと亜紀にはいつも弱虫となじられます。
あるとき、ふとしたきっかけで稔はボクシングを始めます。
また稔を好きという同級生も現れ・・・。
稔がボクシングを始めたということを知った亜紀も、また同じボクシングジムに通い始めます。
こう書くといわゆる「タッチ」的な三角関係のドラマが展開されるかと思いますが、さにあらず。

稔は小さい頃からずっといじめられっこでずっと逃げてばかりいました。
ボクシングを始め、それが楽しいと感じるようになり、尊敬するジムの会長大木(大沢たかおさん)と初めてのスパーリングをします。
大木は稔のフットワークの良さに才能を感じていました。
けれども稔は初めてのスパーリングをしてみても、まともに相手の顔に向かってパンチを繰り出すことができませんでした。
練習でサンドバッグ相手にはしっかりとできていたのにも関わらず。
稔は人を殴る(映画の中では大阪弁なので「どつく」と言っていた)ことができなかったのです。
人を正面からどつくということは、それは相手ときちんと向かい合うということ。
稔はボクシングだけでなく、ずっと相手の思いに向かい合うということを避けてきていたのだと思います。
いつもずっと一緒にいて守ってくれた亜紀の思い。
二人ともそれは恋愛感情ではないと言いますけれど、二人とも無意識にそれを感じていたわけです。
弱虫な自分、守られているばかりの自分、亜紀といっしょにいるとそれをいつも意識してしまうのを稔は避けよう避けようとしていたのだと思います。
好きである相手を守ることができず、守られているばかりの自分。
情けない自分。
活き活きとして通っていたジムも、亜紀が来るようになってからは練習に行くのもさぼるようになってしまいました。
亜紀は直情型であり、ズバズバと何でも言ってしまい、思ったことはすぐに実行するタイプです。
たぶんずっと好きだった稔を守るためにがんばってきたのだと思います。
けれどそうがんばればがんばるほど、稔は離れていこうとし、避けようとします。
それがもどかしく、イライラとしてしまっているのです。
稔がずっと弱虫でいたならば、ずっと守っていられる。
でも亜紀も稔に守ってほしいときがあります。
けれど彼が強くなってしまったら、自分は稔に必要なくなってしまうかもしれない。
その間で亜紀の心も揺れるのです。

相手と正面から向かい合うこと、それは自分をもまた正面から見つめること。
ずっとそういうことから稔は逃げていたのです。
相手と正面から向き合う時、言葉はほんとうはいらないのです。
必要なのはじっとしっかりと相手を見て、逃げずに相手をしっかりと受け止めること。
大木はボクシングの心得として「グラブで話す」と稔に言います。
これは相手の思いをしっかりと正々堂々と受け止めることが、相手にも自分の思いを伝えられるということなのでしょう。
そういう大木も若い時に、順子(桜井幸子さん)という恋人と別れるということを経験しています。
ちょっとしたことでのすれ違い、けれども二人ともそのままにずっと過ごしてきてしまいました。
この二人の恋愛についても若い二人と並行して描かれます。
大木も順子は相手に自分の思いをぶつけるということをしてこなかった関係のような気がします。
大人なのかもしれないですけれど、ずっと自分の気持ちを正面から相手に伝えるいうことをずっと避けていたのです。
大木も順子も、稔に自分たちの姿を見たのでしょうか。
そして亜紀のまっすぐな気持ちを眩しく感じたのでしょうか。
彼らの姿を見ることにより、大木と順子も自分たちの関係もあらためて見直すことができるようになります。
これら二組の関係が複奏的に語られ、互いに影響し合いながら、自分たちの関係、そして自分自身を見直していく様子がうまく構成されていたと思います。
このあたりが、大人が観ても共感できる部分ではないでしょうか。

僕自分も稔と同じようなタイプだったりします。
なんとなく深く人とつき合うと、なんだかその思い(相手のも自分のも)みたいなものに圧倒されてしまうように感じたりします。
だから無意識的にあまり深くつき合わないように、と思っているところがあったりもするような気がしました。
そういう意味でけっこうこの稔というキャラクターに共感を持ってしまったのです。

監督は成田出さんで、前作の「ミッドナイトイーグル」はあまり僕としては評価をしていないのですが、本作はとても良かった。
「グラブで話す」というように、とても重要な場面で登場人物たちは言葉を少なく、その仕草や表情だけでの感情の交流があります。
それらを丁寧にじっくりと長回しで、やさしくすくいあげるように撮っていくところがとても心地よかったです。
具体的には、稔と亜紀と大木の公園のシーン、大木と順子の病院のシーン等ですが、長回しの中で登場人物の感情の揺れ動きというのがまるで自分がその気持ちを味わっているように伝わってきました。
とても丁寧でいいシーンだったと思います。

最後に北乃きいさんの演技は本作が初めて観たのですが、けっこう上手だったの嬉しい驚きでした。
林遣都さんもそうですが、とてもフレッシュな感じがしました。
林さんは運動神経がいいのか「ダイブ!!」などでもしっかりとスポーツシーンも演じていて、本作でもボクシングのシーンではとても上手に演じていましたが、北乃さんもなかなかのもの。
でもただ若いというだけでなく、ボクシングやケンカのシーン等でもしっかりと役になっている感じがしたので素晴らしい。
これから要チェックとしたいと思います。

成田出監督作品「ミッドナイトイーグル」の記事はこちら→
林遣都さん主演「ダイブ!!」の記事はこちら→

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2009年9月22日 (火)

本 「半落ち」

映画にもなった横山秀夫さんの「半落ち」を読んでみました。
ちなみに映画化作品は未見です。

ある時、妻を殺したと現職の警部が自首をしてきます。
緊急逮捕したところ、アルツハイマー病を患っていた妻から「人間でなくなる前に殺して」と懇願され、手を下したとのこと。
嘱託殺人であることは本人の自供などから明らか。
けれども自首は事件後二日たったあとであり、その二日間については容疑者である梶はまったく口を割らなかったのです。
殺人については全面的に本人も認めましたが、その「空白の二日間」では自供を引き出せず、完全な自白(完落ち)ではなく、つまりは「半落ち」であったのです。

小説は、この事件に関わる刑事、検事、新聞記者、弁護士、裁判官、刑務官の視点が順繰りに描かれていきます。
すなわち逮捕、取り調べ、立件、報道、裁判、収監といった事件が取り扱われていく各ステップに準じてストーリーは進行していきます。
登場人物の一人である志木刑事が言いますが「ベルトコンベアーの乗せられた」ように殺人事件の犯人である梶はそのステップを運ばれていきます。
そこには各組織の確執、隠蔽、取引等がありました。
各章の主体となる刑事や検事などの登場人物は、それらに抵抗しつつも、それらの行為に呑み込まれます。
それらは悪いことではない、けれども何か不透明なことでもある。
登場人物たちはわかりつつも、何かしらの取引をします。
そこにやましさのようなものを感じつつも。
彼らに対して、犯人であるはずの梶は清廉さというものすら感じます。
彼は多くを語りません。
けれども彼は関わる人々に対し、誠実であろうとしていたのです。
その誠実さを、刑事や検事、弁護士は、自分ができなかったこととして、梶に感じるのです。

横山さんの作品はまだ二冊目ですが、とてもその物語は重みがあり、そしてずっしりと心に迫るものがあります。
映画の方も今度観てみたいと思います。

横山秀夫さん作品「クライマーズ・ハイ」の記事はこちら→

「半落ち」横山秀夫著 講談社 文庫 ISBN4-06-275194-1

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「ココ・アヴァン・シャネル」 シャネル以前のココの視点

2010年はシャネルの創業100年ということで、今年は創業者ガブリエル・"ココ"・シャネルをテーマにした作品が次々と公開されています。
トップバッターで公開されている「ココ・シャネル」は老年のシャネルがそれまでの人生を回想していくという仕立てでしたが、本作はタイトルにあるように「シャネル以前のココ」、つまりはシャネル創業までの若き日の彼女の人生を描いています。
ちなみにアヴァンはフランス語で「前」という意味。
そういえば映画用語で「アヴァンタイトル」というのがありますが、これはタイトル前のシーンのことを言いますねえ。
フランス語と言えば、本作は全編フランス語です。
フランス人を題材にし、フランスで作られた映画ですから、当たり前と言えば当たり前なのですけれど、シャーリー・マクレーンの「ココ・シャネル」は英語だったのに比べると、やはりしっくりときます。
パリとか出てくると当然のことながらフランス語のほうが似合います。
どちらにしても字幕がないとまったくわからないのですが、耳で聞く音の感触っていうのも大事ですから。
本作でココ・シャネルを演じているのはオドレイ・トトゥ。
やはり現在のフランスを代表する女優だけあって存在感があります。
タバコのくわえ方などは写真で見る実際のシャネルのようで、これは彼女の仕草などを研究したのでしょうね。
ラスト近辺でただのココが、世界のシャネルになったとき風格が備わった感じが出ていたのはさすがです。

ストーリーとしては同じ人物を題材にしているだけあって「ココ・シャネル」と相当かぶっているところがあります。
伝記物の常として彼女の人生を追いかけていくのですから、当然同じような話になってしまいます。
ですので、後から公開する方がたいへん不利ですね。
シャネルの人生というのは門外漢の僕はまったく知らなかったので、「ココ・シャネル」を観た時に、エポックを作った人なんだと感心したのものですが、本作では二度目ということもありそのあたりについてはやや新鮮味が薄くなってしまったことは否めません。

シャネルは貧しい出自であったためか、あまり幼い頃のことについては正直に語っていないところがあると聞きます。
本作でもエティエンヌと食事をする際に少し脚色した少女時代のことを話すくだりがあります。
ということで「ココ・シャネル」と「ココ・アヴァン・シャネル」の見比べですが、このような見方ができるような気がします(かなり強引ですが)。
「ココ・シャネル」は老年のシャネルの若い時代を回想する物語。
彼女の性癖からして若かりし頃というのを多少美化してしまっているというのはあるかもしれません。
たとえば先ほどあげたエティエンヌは金持ちであり美形であり、そこには恋愛的なものもあったように描かれます。
本作「ココ・アヴァン・シャネル」ではエティエンヌは金持ちですが、美形とは言えませんし(劇中でもココの台詞でそういう場面がある)、双方ともに打算的な付き合いであったようにみえます。
この作品は若いときのシャネル自身そのものを描いているというところが、回想である「ココ・シャネル」と大きく違うところであるかと思います。
つまりはこちらの作品は若き日のココの視点で語られている物語であるのです。
どちらが真実というのではなく、見比べるならばそのあたりの視点の違いのようなところに注目するのも良いかもしれません。
言わばシャネル前のココの視点、シャネル後のシャネルの視点の違いなのでしょうか。

「ココ・シャネル」の記事はこちら→

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2009年9月21日 (月)

「しんぼる」 松本人志、それは天才的なカンを持つ男

天は二物を与えないとはよく言いますが、時々二物を与えられている人がいたりします。
お笑いタレントとして揺るぎない地位を獲得している、本作「しんぼる」の松本人志監督もそのような人かもしれません。
初監督作品「大日本人」は少々荒削りながらも、他の誰かでは思い浮かばないようなアイデアを力技で成立させた作品にしたと思います。
本作はドキュメンタリータッチであった前作とは異なり、とても緻密に構成されているように思えます。
格段に映画監督として上手になっているように見えます。
メキシコのあるプロレスラーの一家のエピソード。
そして真っ白い部屋に閉じ込められた松本人志監督自らが演じる男のエピソード。
その白い部屋はなになのか、なぜ閉じ込められているのか、そもそも男は何者なのか。
まったく関係を見いだせない二つのエピソードがどのように結びついていくのでしょう。
結果的にはものの見事にそれらのエピソードは結びついていて、前作とは格段に構成力が上がっていることがわかります。
「大日本人」と同様にテーマを深読みしようとすればできますが、そんなにはご本人は小難しくは考えてないかもしれない、けれどやっぱり考えているかもしれないと思わせる懐の深さを感じました。
インタビューなどを読んでもそれほど考えているわけではないとおっしゃっています。
松本監督は言うなれば、天才的にカンの鋭い人と言えるかもしれません。
さきほど書いたような構成力も、きちんと映画的な方法論的に身に付けた上でのものではないような気がします。
それは松本監督が天性で持っているカンなのではないでしょうか。
そもそもお笑いというのは、台本があるにせよ、どのように笑いをとっていくかというのは芸人のカンによるところが多いかと思います。
お笑いライブのように目の前にお客さんがいる場合は、その反応を見つつ、送り手も反応することも可能でしょうが、映画となるとそうはいきません。
お客さんが観る時には、作品はすでに作り上げられているからです。
ですから映画はお客さんを導いていくストーリー構成がとても大事になります。
しかし松本監督はそれを理論でクリアしているわけではないような気がします。
これはやはりストーリーを組み上げる持って生まれたカンであるような気がします。
構成力は映画の現場にずっといて作品作りに関わっていくうちに次第に身に付けていくということはあると思います。
けれども松本監督はまだ二作品目。
二作品目にしてこの構成力は持って生まれたものであるような気がします。
本作では笑いの要素も一般的にも受け入れやすいストレートさを持っているように感じました。
けれども松本監督らしいナンセンスな笑いも散りばめられています。
そしてそれらのいろいろな笑いも、いわゆる関係ないと思われていた「前振り」が効いている構成された笑いになっていたりします。
笑いの要素、ストーリーを構成する要素が次第に次第に関係しながら、そしてボルテージを上げながら、ラストにむかって昇華されている様は見応えあります。
これはやはり天才的なセンスなのでしょう。
天才的なカンなのでしょう。
ラストでツン抜けた、新たな白い世界。
結局、男はなにものであったのでしょうか。
その答えは明示されていません。
パンフレットでもそれを監督自身が解説するのはおもしろくなくなることと言っています。
観た方が感じた通りに、自由に解釈していいともおっしゃっています。
ですので最後に僕なりの答えを書いておきます。
これは新たなる天地創造を描いた物語、僕はそう感じました。

タレントが映画監督をやるとき、「主張したいこと」が全面に出ることが多いような気がします。
これは別段悪いことではないのですが、ややもすると独りよがりになっていることも多いようにも思います。
松本監督がすばらしいのは主張らしい主張がない、にも関わらずこれは松本監督以外には撮れないと思わせるような個性があるところです。
これは凡百の人では持ち得ない才能であるのではないかと思うわけです。

松本人志監督作品「大日本人」の記事はこちら→

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2009年9月20日 (日)

「正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官」 社会について考えるきっかけを与えてくれる

映画というのは純粋にエンターテイメントであるという側面もありますが、社会について考えるきっかけを提供してくれるという側面もあります。
本作もそういう作品の一つ。
舞台となるのはアメリカ、ロスアンゼルス。
邦題にあるI.C.E.というのは移民・関税執行局のことで、その職務の一つが不法滞在者の摘発となります。
人種の坩堝とも言われるアメリカは、もともとヨーロッパからの移民より始まっている国ですので、移民に対しては他の国よりも寛容です。
けれども最近はヒスパニック系やアジア系の不法滞在者も増えているということで、グリーンカード交付の審査や、取り締まりが厳しくなっているということも聞きます。
本作で描かれているのは、アメリカの現在の移民を巡る課題です。
アメリカは開かれた国であり、またアメリカン・ドリームと言われるように夢を叶えるチャンスを得られる国であります。
世界のいくつもの国や地域ではまだまだ貧しく、様々な問題を抱えているところが多いのです。
日本に暮らしているとあまり実感はないですが、それらの国に住んでいる方たちがチャンスを得るためにアメリカを目指すというのは、切実な思いであるのだろうと想像されます。
けれども移民に開かれた国であっても様々な問題もあります。
次第に増えてくるヒスパニック系やアジア系と、白人系、黒人系との文化的な摩擦や差別の問題。
不景気であるところに、安い賃金で働く労働力の増加による、失業率の上昇など。
移民問題はアメリカだけの問題ではありません。
ドイツではトルコ人移民によるドイツ人の失業率の上昇により、右翼の排斥運動等が起こっています。
またフランスではアフリカ系移民の暴動などもあったのは記憶に新しいところです。
これらの移民についての課題は日本も対岸の火事とは言っていられないかもしれません。
少子化が進んでいった時、日本は次第に労働力が不足するだろうと予測されます。
そうなった場合、移民や外国人の労働力の受け入れという方策もとるということも考えられます。
これがいいか悪いかといったことについてはここでは論じませんが、日本人にとっても人ごとではないということになると思われます。
最近ではフィリピン人親子の強制送還についてのニュースもありました。
そもそもは不法滞在であるから強制送還というのは法律に基づいた一つの考え方だと思います。
けれども本作でもパレスチナ人の親子のエピソードで描かれているように、法により親子を引き離すというのも人道的にはいかがなものかとも思います。
せめて特例で認めてあげるというのもあるかなとも思いました。
けれどそれにより法律の解釈が曖昧になり、悪いことを考える人たちが出てくる恐れ(本作でもメキシコ人の不法越境業者の存在が暗示される)があるというのも理解できます。
今、結論をだす必要はありません。
けれどよりよい答えを出すために、本件について社会的なコンセンサスをとっていこうとするのは必要な気がします。
本作で描かれているテーマというのは、いずれ日本にとっても大きな課題になると思います。

そういうことについて考えるきっかけを映画は与えてくれます。

それにしても本作の邦題はセンスがない。
作品を表していない曖昧なタイトルだと思います。
現代は「CROSSING OVER」。
だからそこここにインターチェンジのカットが入っていたのに。
この邦題だとまったく意味がわからないですよね。

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「火天の城」 戦国時代のプロジェクトX

今年は時代劇が4作公開される豊作の秋です。
他の3作品は宣伝に力が入っていたり、人気の若手俳優が出演していたりと話題が豊富ですが、本作「火天の城」はやや地味めな印象があります。
主人公は安土城の建築を指揮した宮番匠(宮大工)の頭領岡部又右衛門で、侍や忍者ではありません。
チャンバラもありません。
はっきりいって地味です。
ですが、安土城の建築にまつわる本作の物語、観ていて引き込まれました。
これは戦国時代のプロジェクトXです。

安土城はご存知織田信長が建立をした巨大な城です。
史上初めて大型の天守閣を持つ城として作られました。
焼失し現存はしていませんが、その威容は宣教師ルイス・フロイスも語っています。
当時においては巨大プロジェクトであったに違いありません。
NHKで放映されていた「プロジェクトX」が人気を誇っていたのは、そのサクセスストーリー自体というよりも、そのプロジェクトに関わった人々が困難に対し、意見を戦わせ、そして自分の役割を果たしながら協力していくという姿にあると言えると思います。
本作も時代劇でありながら、描いているのは一大事業を成功させようとする人々を描いている物語になります。
「プロジェクトX」などで紹介される事業には、無謀とも言うべきチャレンジに挑むリーダーが登場します。
従来にない発想を持ち、果敢にそれを実現しようとする人物。
本作においてはまさに織田信長がそのような人物でしょう。
現代ですと、急成長するベンチャーのワンマン社長といったところでしょうか。
前例主義や積み上げ主義では到底達することができない事業をひっぱっていくにはこのようなアクがある人でなくてはできないのでしょう。
そのワンマン社長を実務で支える技術部長的な役割なのが、本作の主人公岡部又右衛門。
卓越した知識・技術で経営者のビジョンを実現する実務肌の天才。
有名企業の創業メンバーというのもビジョンを描く夢想家と、それを実際に開発していく天才の組み合わせというのは思いのほか多いものです(アップルのスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックなど)。
夢想家はややもすると独善的になりがちですが、それでは事業は成立しえません。
実際に事業を成し遂げるには、それに関わる現場レベルの人々の気持ちをまとめあげなくては立ち行かないのです。
又右衛門はただ図面をひくだけではなく、暇さえあればいつも普請場に足を運びます。
それで現場の人々の気持ちをさりげなく組み上げていきます。
自分などもそうですが、実際に現場での仕事というのは、事業のビジョンに対しての使命感というよりも、尊敬する直属の上司のために頑張るっていうのが多いのだと思います。
事業というのはビジョンでは片手落ちで、そこに働く人の気持ちをいかに集約できるかということで決まると思います。
これがなかなかわからない経営者というのは意外と多い。
そういう経営者と現場の人をつなぐ又右衛門のような役割の人というのが活躍しなくては一大プロジェクトというのは成し遂げられないのです。

安土城を一本で支える大柱を数寸切るというクライマックスは力が入りました。
合戦シーンでもなんでもないのに、ずっと拳を握りしめてしまいました。
あの場に集まった人々は、天下随一の城を造るというために集まったわけではないのですよね。
自分たちをしっかりと見ていてくれている信頼できる上司のために集まってきたのです。
そして又右衛門もその部下たちの気持ちを理解し、彼らの力の結晶である安土城を守るための一手を打つのです。
それは合戦シーンではないですけれど、戦いでした。

本作は時代劇ではありましたが、途中からそういう気持ちでは観ていませんでした。
現代にも通じるプロジェクトを関わる人々の秘話、と感じました。
時代劇には興味がないと言うような若いビジネスマンとかに観てほしいですね。

原作は直木賞も受賞した作品ということ。
まったく知らなかったのですが、興味がでてきました。
今度読んでみたいと思います。

原作小説「火天の城」の記事はこちら→

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2009年9月19日 (土)

本 「文章のみがき方」

ブログをやっている方というのは、文章を書くことが好きなのだと思います。
自分もそうなのですが、こうやって言葉を綴っていても、どうにもうまく書けないなと思うこともしばしばあります。
自分で書いていてだめだなあと思うのは、ひとつはなんだか自分の言葉じゃないような借りてきたような文章になっているようなとき。
またはいつも同じような表現をしてしまっているようなとき。
多分ブロガーのみなさんでも同じように文章を書きながら、うーむと唸っている方も多いのではないでしょうか。
本著はそんな文章をもう少しうまく書きたいと思っている方にお薦めです。
著者は辰濃和男さんで、この方は朝日新聞の天声人語を担当していたこともあるということです。
文章を書くのがうまくなりたいという方にこの本をお薦めしますが、いわゆる文章のテクニックを紹介している本ではありません。
どちらかというと文章を書くときの心構えみたいなものを紹介している本であると思います。
ここで章のタイトルをあげてみましょう。
「書きたいことを書く」、「正直に飾り気なく書く」、「借りものでない言葉で書く」、「紋切型を避ける」などなど。
あげれば当たり前のことなのですが、これがなかなか出来なかったりするのですよね。
でも自分の文章のいたらないところについてもやもやしていたところが、わかったような気がします。
本著の一番最初の章のタイトルは「毎日、書く」でした。
この章で著者はこのように書いています。

 日々、たゆまずに書く。そのうちにきっとあなた自身の文章が形をなしてゆくはずです。

まだまだ自分らしい文章にはほど遠い気がしますが、繰り返し書いていけばいつかはそのような域までいけるかもしれませんので、(毎日とは言わないまでも)書くことは続けていきたいと思います。

「文章のみがき方」辰濃和男著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431095-2

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「カムイ外伝」 酷い、酷すぎる

「酷い、酷すぎる」
これは劇中で惨殺された村人たちを前にカムイがつぶやいた台詞でした。
本作を見終えて席を立ったときに思い浮かんだ、この作品についての僕の感想はまさに同じ言葉でした。

松竹がかなり力を入れて宣伝もしていましたし、時代劇、なかでも忍者ものというのは好きなジャンルなので、今年の時代劇秋の陣の中では最も期待していた作品でもありました。
役者としての才能を開花させている松山ケンイチさん主演ということもありましたし。
しかし、その期待ははかなく散ってしまいました。
酷い出来となってしまった本作、いくつかそのポイントがあります。
まずはストーリーの構成が壊れています。
前半の奇ヶ島のパートと後半の渡衆のパートがほぼ別物と言っていいほどに分断されていました。
後半に入ると半兵衛、スガルのエピソードにまったくフォーカスされません。
唯一スガルの娘サヤカとカムイの心の交流は後半にも続きますが、スガルが抜け忍であった話などはどこかへいってしまったかのよう。
後半のエピソードに登場する不動も、前半とはまったく関係がない人物であるために立ち位置がよくわからない。
半兵衛を捕えた藩主についても後半はほとんど登場せず、ラストに唐突に現れるだけ。
別のエピソードであるがために、登場人物の心情の描き込みも中途半端でほとんど感情移入ができません。
原作を読んでいないのでわからないのですが、もともとは別のエピソードだったのでしょうか。
けれども映画として成立させるためには、ひとつの作品として構成し直すべきであると思います。
加えて説明的なナレーション、モノローグの多用も気になりました。
これは脚本上最初からあったのか、最後の演出で入ったのかわかりませんが、これらの説明が入ることにより一気に熱も冷めてしまいます。
海底のシーンでのカムイのモノローグ「そうだ砂を掘ればいいんだ」なんていうのは、見てればわかるってと突っ込みたくなりました。

あと演出もよいとは思えませんでした。
主演の松山ケンイチさんはカメレオン俳優と呼ばれることもあるように、役になりきるタイプの俳優さんだと思います。
ですから彼が演じる役というのは、個性際立った役の方が合うと思うのです。
ですが、本作の主人公であるカムイというキャラクターはどうにもつかみようがありません。
忍びの組織に怒りを持っているのか。
渇望するように自由を求めているのか。
乾いたようなものの見方をするのか。
抜け忍という設定であるカムイというキャラクターは、いくらでも膨らましようがあるわけです。
逃亡の果てに心を閉ざしてしまっているといったようなことすら、そのキャラクターの個性になるわけです。
ですが、本作のカムイには何かそのような個性は感じられません。
なんだか普通の青年です。
これだったらあえて松山ケンイチさんを起用する必然性を感じません。

次に忍者アクションについて。
まったりとした殺陣・演出が、忍者ものに求められるスピード感を驚くほどに削いでいます。
ワイヤーを使ってのアクロバティックなアクションはいいのですが、じっくりと見せたいのかやけにゆっくりと動いているのです。
「グリーン・ディスティニー」「HERO」などワイヤーアクションを駆使した作品はいくつもありますが、これは緩急のテンポを計算したアクションになっているのです。
ですが本作はずっとまったり。
加えてやたらとスローモーションを使うので、さらにスピード感が落ちていきます。
予告編の方がテンポがあっておもしろかった・・・。

普段映画を観ている時はなにかしらいいところを拾うつもりでいるのですが、本作はまったくそれがありませんでした。
久しぶりに「デビルマン」級の作品に出会ったという感じがしました。
今年の自分的ワースト映画ランキングに入ること、決定です。

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2009年9月14日 (月)

本 「聖女の救済」

本作品は東野圭吾さんの「容疑者Xの献身」に続き、「ガリレオ」シリーズの長編第二弾になります。
前作「容疑者Xの献身」はガリレオこと湯川と、犯人との関係が主軸になっていましたが、本作では湯川はどちらかというとサポートとなっています。
本作で事件の解明をリードしていくのはは湯川の旧友である草薙、そしてその部下である新人女性刑事内海になります。
この二人の対比がおもしろい。
草薙は極めて刑事らしい刑事で、証拠を固め、犯罪の真相に迫ろうとしていきます。
けれどもいつもの草薙とは違い、彼は容疑者に恋をしてしまいます。
それが事件の解明に影響を与えるのか。
本人もうっすらとその自覚があり、あくまで刑事としての職務を貫こうとしつつも、気持ちの揺れ動く様子が丁寧に描かれます。
対して内海は女性ならではのカンから当初より被害者の妻を怪しいと睨みます。
内海は「ガリレオの苦悩」から登場したキャラクターであり、またテレビシリーズでは湯川とコンビを組む活躍をしています。
けれども小説の内海はテレビシリーズとは異なり、女性のカンというのを大事にしながらも、非常に冷静な頭脳を持った刑事です。
つまり草薙はコツコツと積み重ねて真相に達していくタイプ、内海はまず答えの目標を置き、そこにいたるアプローチを考えるという異なるタイプであることがおもしろかったです。
刑事の仕事としては内海のやり方は予断が入るので、かなり危険な手法であるとは思いますが。

タイトルにある「救済」。
この意味はラストで明らかになります。
読み終わったあと、なるほどと腑に落ちました。
ミステリーものではタイトルって大事ですよね。
「○○殺人事件」などというタイトルの作品もありますが、これはなんとも味わいがない。
ミステリーのタイトルは、読み終わったあとに、その作品の骨子を一言で言い当てているものが素晴らしいと思います。
本作のトリックはなかなかに思いつかないものでした。
女性ならではの手法といえるでしょう。
その点「容疑者Xの献身」とも対比的とも言えるなと思いました。

「ガリレオ」シリーズの長編第一弾「容疑者Xの献身」の記事はこちら→

「聖女の救済」東野圭吾著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-327610-6

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2009年9月13日 (日)

「TAJOMARU」 苦悶の先に見たものは

この秋は時代劇作品が多いですね!
先週から「BALLAD 名もなき恋のうた」、今週から本作「TAJOMARU」と「火天の城」、来週は「カムイ外伝」と続けざまに公開されます。
時代劇好きなので、これは嬉しい限りです。
それぞれ内容もアプローチもバラエティに富んでいるところも楽しみです。
本作「TAJOMARU」の監督は中野裕之さん。
「SF サムライ・フィクション」も「RED SHADOW 赤影」もそれほどおもしろいと思わなかったので、やや心配しながらの観賞でした。
どうもこの監督さんは時代劇に向かない作風のような感じがするのですが、ご本人は時代劇好きなのか、このジャンルの作品が多いですよね。

さて本作「TAJOMARU」ですが、芥川龍之介の「藪の中」を原作にした作品となります。
同じく「藪の中」を原作とした「羅生門」とは異なり、3人の立場・視点が異なることによるミステリーといった趣はありません。
大きく脚色されていてテーマも別の作品となっていると言っていいでしょう。
主人公の名前は「羅生門」にも登場する多襄丸ですが、本作の多襄丸は盗賊ではなく、妻を手込めにされてしまった侍の方になります。
人間の身勝手さ、愚かさといったところをテーマにした「羅生門」とは異なり、本作では信じている者たちに裏切られ続ける多襄丸の苦悶が描かれます。
幼き頃より一緒にいた、兄や許嫁、自分が召し抱えた者、または尊敬し仕えている将軍などにことごとく裏切られる多襄丸。
主人公を演じた小栗旬さんの、本作ではまさに慟哭とも言える苦悶の叫びを発する多襄丸に魂を入れ込んでいたと思います。
裏切られ続け傷つけられた魂から血を流しているようにも見える多襄丸の苦しみはしっかりと伝わってきました。
彼からすべてを奪った桜丸を演じた田中圭さんも終止小憎らしくていい。
悪意のある敵役を憎々しく演じてくれました。
最後の二人の立ち回りは刀を使いながらも通常の時代劇にあるような様式的なものではなく、「クローズ」を思わせるような肉弾戦で、これは迫力があったように思えました。
小栗旬さんはこういう鬼気迫るオーラを発する役というのはとても似合いますね。

これでもかと傷つけられた多襄丸がその先に見るものは何なのか。
憎しみをたたえた復讐の権化と化すのか。
その苦しみを越え、達観の域に達するのか。
僕はどのように多襄丸が変化していくのかというのが気になりながら観ていました。
けれども結局は「藪の中」で起こった事件は許嫁である阿古の愛ゆえということが明らかになり、また盗賊・先代多襄丸も憎めない人間であり、そして敵役であった桜丸も最後には改心めいた言葉を吐きます。
この収束の仕方はあまりにも予定調和的な感じがしました。
確か同じような気分を「RED SHADOW 赤影」でも味わった気がします。
多襄丸の苦悩を描くのならば、とことんまで多襄丸を追い込みその先に見えてくるものを見せてほしかったです。
本作のような予定調和的終わり方は、脚本・演出の逃げともとれるわけです。
多襄丸を追い込むことはすなわち、制作者を追い込むことにもなるのですが、そこで最後は逃げてしまったという印象を持ちました。
本作で描かれている時代は室町末期。
室町幕府の威光も衰え、この後、世は戦乱の時代に突入していきます。
いわば価値観が激変する時代になるわけです。
そのような時代性と合わせて、苦しんだ先に多襄丸が見たものをもっとしつこく描いてほしかったと思いました。
小栗旬さんの演技はとても良かっただけに、非常にもったいないと思いました。

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2009年9月12日 (土)

「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」 ありきたりのアメコミヒーロー作品

「X-MEN」3部作に登場する人気キャラクター、ウルヴァリンを主役としたスピンオフです。
3部作では記憶喪失となっていため、その過去が謎となっていましたが、それが本作で解き明かされます。
僕は「X-MEN」シリーズはけっこう好きですので、期待しての観賞となりました。
けれど、ちょっと期待通りとはいかなった気がします。
映像的な見せ場はあるのですが、最近の作品はこのレベルのSFXは見せてくれるので、ことさらにすごいという感じは受けませんでした。
その見せ場もかなり予告篇で見せていたので、驚きまでもいかない感じもありました。
ちょっと予告で見せ過ぎじゃないかなあ。
ラストのウルヴァリン・ビクターコンビとウェイドの格闘シーンは目を引かれましたが、いかんせん短かったように気がします。
「X-MEN」本編は、人類とミュータントの戦い、そしてミュータント同士の戦いを描きながら、その芯にあるテーマは「差別」であると思っています。
そのテーマがただの超能力バトルアクションではなく、このシリーズをしっかりと背骨がした作品にしているのだと考えます。
けれども本作はX-MEN結成前なので、そのようなテーマはありません。
ウルヴァリンを主人公とし、彼を中心に物語が回り、「X-MEN」シリーズほどキャラクターも登場しないのでわかりやすいとも言えますが、その分ありきたりのアメコミヒーロー作品とあまり印象が変わらなくなってしまったとも言えます。
ウルヴァリンと兄ビクターとの反目、またミュータントを兵器としてしかとらえていないストライカーとウルヴァリンの対決など深堀りできそうな要素もあったのですが、物語としてどちらにも思い切って突っ込みきれていません。
だからといってアクション、映像が他の作品よりも図抜けているわけでもありません。
ありきたりと言ってしまいたくなるような、もの足りなさ感じました。
スピンオフ作品としては今後マグニートーの若かりし時を描くという作品の企画があったように思えます。
こちらはマグニートーがなぜ人類を支配するという考え方に向かっていったかというようなところを深く描いてくれることを期待したいです。
しかし、本作も続編を作る気満々な終わり方をしていますねえ。

マーベルはディズニーに買収されてしまいましたが、次は20世紀フォックスからディズニーに配給がなったりするのかしらん。

「X-MEN ファイナル・ディシジョン」の記事はこちら→

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2009年9月11日 (金)

「サブウェイ123 激突」 ハズレのトニー・スコット作品

4度目のタッグとなるトニー・スコット監督とデンゼル・ワシントンのコンビに、キレた悪役をやらせたら存在感のあるジョン・トラボルタが加わったサスペンスです。
トニー・スコット監督の作品というのは、あの独特のスタイリッシュさがはまって緊迫感のある傑作となるのもあれば、なんだか上滑りしてグダグダでおもしろくなくなってしまう作品もあるという、作品によって落差が激しいという印象があります。
ちなみに個人的には前者が「トップガン」「クリムゾン・タイド」であり、後者が「ラスト・ボーイスカウト」「エネミー・オブ・アメリカ」だったりします。
さて、本作はどちらかと言えば、残念ながら後者、ハズレのトニー・スコット作品でした。

冒頭より変わらずのトニー・スコットのスタイルで始まります。
イギリス出身のトニー・スコットですが、ニューヨークの街の雰囲気と彼のスタイルはマッチングはいいような気がします。
彼は二人の男の対決という物語を好んでいるような気がしています(「クリムゾン・タイド」はその傑作)が、本作もデンゼル・ワシントン演じる地下鉄職員ガーバー、そしてジョン・トラボルタが扮するライダーとの激突が描かれます。
ただこの二人の対決の緊張感がもの足りません。
緊張感がないわけではないのですが、「張りつめた」緊張感まではいっていないような感じがしました。
入れ続けないとシューシューと空気が抜けていく穴のあいた風船のよう。
一見膨らんでいるように見えるんですけれど、なんかテンションがないという、そんな感じです。
途中あまり本筋には関係ないカークラッシュシーンとかを入れたり、暴走電車を挟み込んでテンションをあげようとしますが、なかなか緊張感が続かない。
たぶんこれは対決する二人の男の描き方に甘さがあるのだろうと思いました。
ガーバーは小役人的な地下鉄職員ですが、実は収賄疑惑をかけられて左遷されている人物。
彼は収賄されたのか、それとも無実なのか、そのあたりの心情をもっと描ければ深いキャラクターになっていたと思います。
また対するライダーの描き方もかなり甘い。
彼がなぜガーバーにあれほどまでに共感するのか、その心情ももっと深堀りすればおもしろくなっていったと思います。
対決する相手ながらも、何か通じるものがあると感じる男の心情。
おもしろくなりそうなのですけれど。
ライダー一味の本当の狙いっていうのが大ドンデン返しと言われていますが、それほどの驚きはありません。
今までもそのような企みを描く作品は数々ありましたし、本作の中でも伏線の張り方があからさますぎて、大ドンデン返しとまではいきません。
それよりも事件発生直後やラストでライダーがみせた「生」に固執しないという側面のほうを深く掘っていった方がサスペンスとしておもしろくなったと思います。
本来は犯人は生きてまんまと逃げおおせるということが目的なわけで、だからこそ追う側と交渉の余地が出てくるわけです。
けれども「生」に固執しない犯人であった場合、そこには交渉が成立しないわけで、捜査陣サイドはたいへんに苦労するわけです。
そこでガーバーとライダーの間で何か通じるものが形成されていく、そんな物語であったならば、もっともっと緊張感のあるサスペンスになったのにと思いました。

「デジャヴ」はけっこう楽しめたので、期待していったのですが、残念ながらハズレのトニー・スコットを引いてしまったようです。
次回作に期待!

トニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演「デジャヴ」の記事はこちら→

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2009年9月 6日 (日)

本 「WebPRのしかけ方」

こうやって趣味の映画や読書のブログをやっていたりしますが、時折急にアクセス数が上がったりする日があります。
それは以前書いた映画がテレビで再放送している日であったり、アクセス数の多い他のブログからリンクをしていただいていたりということだったりするわけです。
そこで感じるのはWebの情報発信というのは、単体だけで成立しているのではなく、他の様々なメディア(これは既存のマスメディア、そしてWebメディア含め)との関係性で語られるべきものであるということです。
というより既存メディアを含めたコミュニケーションを全体として設計していかなければならないという時代に入ったということだと思います。
IMCということが語られて久しいですが、これを実際にしっかりとできている企業は少ないのではないでしょうか。
こちらのブログを度々ご覧になっている方はご存知だろうと思いますが、僕は仕事はメーカーで広告担当をしています。
最近は既存メディアを使った広告、自社HP、インターネット広告等の手法でIMC的なこともしていますが、やはり広告という手法では消費者へのコミュニケーションが十分だと思えなくなってきています。
そこで注目しているのが、広報・PR活動です。
自分の会社を含めて、だいたい企業の広報活動というのは、問い合わせに対する対応であったり、プレスリリースを出したりという消極的な活動しか出来ていないような気がします。
けれど以前より戦略的にもっと積極的に広報をしていくというやり方があるのではないかと思っています。
でもそこそこの規模の企業であると、広告セクションと広報セクションというのが別であって、そしてまた事業セクションもからみつつ、戦略的な仕掛けがある広報というのはなかなかやりにくい状況なのではないでしょうか(経営のトップダウンが強い会社などは別だと思いますが)。
そういう中で最近注目をしているのが、こちらの本で紹介されているWebPRです。
さきほど消費者へのコミュニケーションが従来の広告だけだと不十分だと書きましたが、その一つの要因は消費者の目が肥え、広告という情報に対して昔のように丸まる信じるということがなくなったということがあります。
また世の中にあるいくつもの商品というのは消費者の基本的な満足を得るレベルにはどれもなっているということです。
ですから発売する商品というのはさらに複雑になりがちです。
消費者に提供するそのような商品を説明するには、広告という手法だけでは時間や場所が足りず、説明不足になりがちです。
まず消費者にはその商品が必要だと思えるような状況、空気というものを感じてもらう必要があります。
それを醸成するには広報という手法がいいのではないかと思えるのです。
ただ従来の広報には欠けている点があります。
それはその効果が計りにくいということです。
いろいろな仕掛けをしたとしてもそれが結果的に話題性の喚起や商品の購入に繋がっているかと判断する指標がありません。
ですのでおのずと戦略的にしかけていくということができなかったわけです。
けれどもWebという新しいグランドが出現した現在、そこでの活動は指標化しやすくなっています。
PV数やTB数、コメントなどブログをやっている方ならおなじみのこれらの数字は、企業にとっても広報活動の成果を見るための指標になります。
もちろん、既存の広告が効かないのでWebPRにするべきと言っているわけではありません。
既存メディアは今でも相当な伝達力を持っています。
それら広告活動とPR活動を戦略的ストーリーをもって全体を組み立てていくということが必要な気がしています。
WebPRという手法は、今後一度チャレンジしてみたいと思っています。

「WebPRのしかけ方」太田滋著 インプレスジャパン ソフトカバー ISBN978-4-8443-2722-6

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「仮面ライダーディケイド」 次なる10年に向けて

平成仮面ライダーの記念すべき10作目ということで制作された「仮面ライダーディケイド」。
ディケイド(decade)とは10年期という意味で、まさに10作目のライダーにふさわしい名と言えるでしょう。
現在公開中の劇場版の記事でも書いていますが、平成仮面ライダーは昭和の仮面ライダーとは異なり、それぞれが独立した世界観を持っています。
ですから昭和ライダーで時折あったように、主人公ライダーの危機に先輩ライダーが駆けつけるというイベントは本来は不可能でありました。
ですが本作「ディケイド」の製作が発表されたとき、そこに登場したのは今までの9人のライダーたち。
仮面ライダーディケイドは、それら9人のライダーにフォームチェンジするということでした。
ある種、禁断とも言えるようなイベント的な企画です。
なぜ禁断と言えるか。
さきほど書いたように平成仮面ライダーはそれぞれの作品は独立した世界観を持っています。
僕も最近こちらのブログで書いている企画(「平成仮面ライダー振り返り」)で触れていますが、その世界観は非常に作り込まれているものになっており、それが平成仮面ライダーというシリーズのクオリティの高さを知らしめ、10年も続く盤石なシリーズになったと思います。
ですので、安易な今までのライダー総登場といった企画は、それまでのシリーズの作り込まれた世界観を壊すことになりかねないと思われました。
けれどもその杞憂は第1話「ライダー大戦」を観た時にふっ飛びました。
テレビシリーズと思えないほどの圧倒的な物量を投入したオープニングからは、制作者の方々の並々ならぬ思い入れを感じました。

主人公、門矢司と夏海、ユウスケは9つのライダーの世界(結果的には9つではないのですが)を巡ります。
それぞれ訪れたライダーの世界では、いままでの9作へのあまりあるほどのリスペクト、けれどもただなぞるのではなく、そのエッセンスを取り出し見事に再構築していました。
どの世界も甲乙つけがたく好きなのですが、特にあげるとするならば、「カブトの世界」と「響鬼の世界」でしょうか。
「カブトの世界」では何といっても555アクセルフォームVSザビークロックアップの高速対決が見物でした。
本作はエピソードとしても秀逸で、オリジナルの「カブト」のエッセンスである「兄と妹」、「おばあちゃんが言っていた」などを換骨奪胎して2話に収め直すという出来のいい脚本であったと思います。
また「響鬼の世界」は観たかったほんとうの響鬼が観れたことが嬉しかった。
ご存知の方もいるかもしれませんが、「仮面ライダー響鬼」はシリーズ中盤で大きな方向転換があり、大きなテーマであった「師匠と弟子」「少年の成長」というところが薄まってしまいました。
観ていた時は明日夢に最後は響鬼を継いでほしかったのですが、それは叶わず残念な気持ちでいました。
それが本作「ディケイド」でそれが叶い、観ていて感無量なところがありました。

「通りすがりの仮面ライダーだ」
これはそれぞれのライダーの世界を訪れる時に司が口にする台詞です。
どこにも属さない流れ者。
まるで西部劇の主人公のような仮面ライダーです。
本作の白倉プロデューサーは今までもライダーのシリーズでロードムービー的なものをやりたいと言っていました(ただしロケ等で費用がかかるために断念。555の九州篇はその名残)。
これを発想の転換で、本作ではパラレル世界を巡るということでロードムービーにしてしまったところがすごい。
ロードムービーというのは旅を続ける中で、主人公が経験をし成長していくというお話です。
まさに本作で司は世界を巡りながら、仲間というものを得ていく。
まさに王道のロードムービーと言えるでしょう。
流れ者という司=ディケイドの設定に、鳴瀬シュウヘイさんのラテン調な「ディケイドのテーマ」の音楽はとてもぴったりでした。
本作の音楽は二人の方が担当していて、鳴瀬シュウヘイさんが主にディケイド関連の音楽、そして中川幸太郎さんが世界を表す音楽を担っていました。
アメリカのドラマの冒頭でよくある「previously ○○」という感じで「これまでの仮面ライダーディケイドは」というNAで流れる、中川さん作曲の劇伴「ドラマのアラスジ」はけっこう好きで、先ほどあげた「ディケイドのテーマ」とともに流れるだけでワクワクしてしまいました。
当初本作のメインライターは會川昇さんでした。
彼の書く脚本での司の青臭い台詞が好きでした。
例えば、第3話では

 「この男が戦うのは、誰も戦わなくていいようにするためだ。
  自分一人が闇に落ちたとしても、誰かを笑顔にしたい、そう信じてる。
  こいつが人の笑顔を守るなら、俺はこいつの笑顔を守る。
  知ってるか、こいつの笑顔、悪くない」

こういう真正面からくる台詞いいです。
本作はとてもトリッキーな仕掛けばかりに目がいきがちですが、本質はこのような真正面で王道のロードムービーだと言えるでしょう。
會川さんは途中で降板されますが、その後の米村正二さんでもこの真っすぐさは引き継がれていたので良かったです。

先週、最終回を迎えましたが、正直しっかりと終わったという感じはありませんでした。
ほんとの最終回は冬の劇場版でということらしいですので、楽しみに半年待っていることといたしましょう。
でもそれでも司=ディケイドの旅は終わらないのかもしれません。
次なる仮面ライダーの10年期は始まったばかりです。
また10年後再び司=ディケイドは姿を現すかもしれません。

「劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダーVS大ショッカー」の記事はこちら→
「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010」の記事はこちら→

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「20世紀少年 -最終章- ぼくらの旗」 夢見る子供じゃいられない

最近の邦画の中でもかなり大掛かりなプロジェクトである「20世紀少年」、いよいよ最終章です。

<ネタばれしてます>

僕はこの物語の登場人物よりやや下の年代になるのですが、それでも子供の頃に本やテレビなどで観た21世紀の未来図というのは、ロボットが生活の中に入ってきたりとか、エアカーが空を飛んでいたりとか、メトロポリスを貫くチューブの中を高速列車が走っていたりとか、宇宙旅行が普通になっていたりとかしたようなものでした。
漠然と大人になったらそんな世界になるんだろうなあと子供心に思っていました。
けれど大人になって久しく、そして21世紀に入って10年も経とうという時ですが、さきほどの未来図はまだまだ現実にはなっていません。
おそらく自分が生きている間はあのころ描かれていた未来図の実現は無理でしょうね。
この年になればそんなことはなかなか難しいと分別つくのですが、20世紀の中盤、あの頃は子供もそして大人たちもそんな未来がすぐ手に届くところにあると思っていたのだと思います。
そういう意味で20世紀の100年というのは、無邪気で子供のような時代であったと言えます。
それまでの人類の歴史というのは、今を生きるだけで精一杯という時代でした。
そのような時代に未来に目を向けるなどという余裕はなかったでしょう。
しかし産業革命が起こり、20世紀を向かえ、人類は今を生きることだけ考えれば十分な余力を持ち、そのため未来に目を向ける余裕がでてきたとのだと思います。
また工夫をすればするほど効率的になるという進歩というものを実感できた時代だったのだと思います。
「右肩上がり」が普通である、歴史的にみるとあまりない状態というのが20世紀であったのです。
けれども20世紀後半から徐々にその進歩はやがて遅くなり、そして21世紀に入る時には様々な課題が表面化してきます。
地球環境問題などはその一例ですが、進歩というものが必ずしも今までと同じようにはいかないということを僕たちは気づいたのです。
考えてみれば、「右肩上がり」の時代というのは20世紀だけで、そういう意味では特異な時代であったと言えるでしょう。
たぶんそのような時代の気分は、その時代に暮らす人々にも影響を与えていたはずです。
20世紀という時代は夢を見ることができ、それを実現できると無邪気におもっていた時代であったのだと思います。
けれど子供が大人になるのは、夢がそのまま叶うということはないという知るときです。
いろいろな周囲の状況、自分の実力、そんな様々なものによって、夢と現実の調整を次第に合わせ、ある意味妥協していくというのが、大人になっていくということなのでしょう。
妥協というとちょっとネガティブな感じがしてしまいますが、これは夢を捨てるということではなくて、夢と現実の間のいい具合のところを探していくといったイメージであると思います。
本作に出てくる「ともだち」という人物は夢と現実の調整をできなかった人物であると思います。
普通はどちらかといえば、夢を現実に合わせていくということになっていくと思いますが、「ともだち」は夢に現実を強引に合わせていくということを行っていきます。
そういう点で「ともだち」はずっと子供のままでいた人物であると言えます。
また大人になるということは自分のやったこと、言ったことに責任を持つということだと思います。
その意識を持つということが大人になるということです。
「ともだち」についてはこの点が一切欠如していると思えます。
けれどもそれは「ともだち」だけでなくケンヂもそうであったのでしょう。
小さい頃の万引きのこと、これをずっとだまっていたことが結局は「ともだち」を生んでしまった。
エンドロール終了後のエピソードというのはとても重要で、自分が行ったことの責任をようやくケンヂは果たしたのです。
「俺はみんなが思っているような男ではない」
とケンヂは言います。
ヒーローでもなんでもない。
自分が言ったこと、やったことの責任をとってこなかった男だと。
だからこそ、それを果たさなければ大人にはなれないとケンヂは思ったのだと思います。
20世紀、子供のように人類が夢を見た時代。
そして21世紀、夢見る子供じゃいられなくなった人類。
自分がやったことに責任をとり、人類は大人になれるのでしょうか。

「20世紀少年」の記事はこちら→
「20世紀少年 -第2章- 最後の希望」の記事はこちら→

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「BALLAD 名もなき恋のうた」 僕らが忘れているシンプルな生き方

大人も泣いたと言われる「映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」を元に実写化したのが、本作「BALLAD 名もなき恋のうた」です。
僕は「クレヨンしんちゃん」は観ていないので、比較はできません。
素直に観たときの印象を書きたいと思います。

戦国時代であろうと現代であろうと人というのは、それほど変わるものではありません。
例えば人を恋する気持ちなどというのは普遍的なのでしょう。
でも暮らしやその人たちの価値基準というものは、現代とはやはり異なり、タイムスリップして真一が訪れる戦国時代の人々というのはやはり何か違っているように見えるわけです。
僕が本作を観て、感じたのは彼の時代に暮らす人々というのは、素直な気持ちで生きていたということ。
素直というよりシンプルな生き方、感じ方をしていたということでしょうか。
廉姫が真一と同様にタイムスリップをした母親美佐子に「未来では好きおうた者同士はいっしょになれるのか?」と聞きます。
その答えはイエスなのですが、そうすると廉姫は「いい時代じゃのう」と本当に嬉しそうに言います。
実際現在に生きる僕たちはそれほどそれが簡単でもなく、また維持していくこともたいへんであることを知っていて、「いい時代」なのかどうか素直には言えません。
冒頭のシーンで川上家も夫婦の間でなにかしらわだかまりがあるのを描かれてもいますし。
けれど「好き合ったもの同士が結婚できるのはとてもいい時代」と感じられる廉姫の素直さ、シンプルさというのが、実は今の時代の人間に欠けているものなのかもしれません。
又兵衛にしても、身分の差というのをわきまえており、その点窮屈に生きているようにも見えます。
ですが、大切な人を守りたい、それが自分がしたいことであるという、とてもシンプルな生き方をしています。
又兵衛に対応するのは真一の父、暁ですが、彼はカメラマンを続けるか、否かというのを悩んでいるということも冒頭で描かれます。
やりたいことをやり続けるそういうシンプルな生き方をする又兵衛の姿は、暁にも気持ちの変化のきっかけになったような気がします。
戦国時代に比べ、現代は格段に便利になり、また平和にもなっています。
ですが、社会全体がシステマティックになり、なんとなく自分のやりたいこと生きたい生き方みたいなものが素直にできない時代にもなっています。
真一が冒頭いじめられたクラスメートを救い出せないのも、恐いだけではなくその後のクラスの中での立場みたいなものまで気にしてしまったからに違いありません。
戦国時代は身分の差などがあり一見しがらみが強く生きにくいように見えます。
けれど現代はそのしがらみは自分の心の中にあり、それが自縄自縛しているのです。
もっと素直に思ったことを言う、行うという、戦国時代の廉姫や又兵衛のようなシンプルさというのを僕たちは忘れてしまっているのかもしれません。

廉姫を演じていた新垣結衣さん、今までそれほど印象強くなかったのですが、本作はぴったりはまっていたなあと思いました。
大名の姫である意志が強そうで凛としている部分、年齢に応じた少女らしい部分というのが彼女の中でしっくりとハマっていたと思います。
今まで等身大の女子高生みたいな役が多かったような気がしますが、もっと幅を広げていくのもありでしょうね。

あと監督の山崎貴さん、さすがVFXの使い方がうまい。
どこで使っているのかがわからないところがいいですね。
最近ではVFXでございという作品はややもすると映像だけで見せたりするので、やや食傷気味のところもあり・・・。
でも山崎監督は必要なところでさりげなくVFXを使うという、使い方が上手です。
戦のシーン等はやはりライブ的な長回しをし、迫力をだし、あえてVFXをそれほど使っていないように見えました。
このあたりの使いどころのセンスというのは山崎監督はさすがです。

本作のオリジナル「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」の記事はこちら→

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