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2009年8月11日 (火)

「仮面ライダー龍騎」<平成仮面ライダー振り返り-Part3>

「仮面ライダーディケイド」の劇場版も公開され、テレビシリーズも最終回まであとわずかとなってしまいました。
「ディケイド」スタートとともに始めた企画<平成仮面ライダー振り返り>ですが、思いのほか難行ということに今更ながら気づいております。
なにせ1年間分(50話弱)を観るのですから・・・。
がんばって、ようやっと「龍騎」までたどり着きました。

「仮面ライダー龍騎」は僕の中では、平成仮面ライダーシリーズのうちで1、2を争うほど好きな作品です。
今までこの企画の中で、「革新性」こそが平成ライダーシリーズの遺伝子であると書いてきました。
「龍騎」はその「革新性」が一つの頂点に達した作品と言ってもいいでしょう。
「13人の仮面ライダーがバトルロワイヤルを行う」という設定、なんと驚くべきことを考えだしたものです。
前作「アギト」では3人の仮面ライダーを登場させるという画期的な試みを行いましたが、その次の作品「龍騎」では登場するライダーの数を一気に13人に引き上げました。
そしてその仮面ライダーたちが最後一人になるまで互いに戦い合っていきます。
すなわち仮面ライダーの敵が、また仮面ライダーであるのです。
これについてはまた後ほど述べます。
「仮面ライダー龍騎」の「革新性」が最もわかりやすいのが、仮面ライダーのデザインです。
主人公である「龍騎」のデザインを初めて見た時、非常に驚いたことを覚えています。
中世ヨーロッパの甲冑の兜のようにも見える、マスクに横に入っているスリット。
「クウガ」にしても「アギト」にしても、それまでは初代仮面ライダーから連なるデザイン上の記号を持っていました。
それは昆虫様の複眼であり、虫の顎を思わせるクラッシャーであり、触角のようなアンテナであるわけです。
それらが一見「龍騎」のデザインには見当たりません。
これではどこが仮面ライダーなのだ?と思いました。
けれども「龍騎」はやはり仮面ライダーなのです。
マスクを覆うスリットの奥には、仮面ライダー1号にも似た複眼が隠されています(劇中それが光るときがある)。
また「龍騎」とともに登場する「仮面ライダーナイト」の口元はやはり往年の仮面ライダーに通じるクラッシャーが見受けられます。
また3人目のライダーとなる「ゾルダ」の額には2本の触角のようなアンテナが立っています。
すなわち「龍騎」とは旧来の仮面ライダーの遺伝子を引き継ぎつつも、それから大きくステージを上げようとしていることがそのデザインからも受け取れるわけです。

さきほど仮面ライダーの敵が、仮面ライダーだということについて触れていきましょう。
これが何を意味するか。
「仮面ライダー」に限らず、従来のヒーローものというのは、悪の組織があり、それと戦う正義の味方がいるという勧善懲悪の物語世界でした。
そのような世界の理解はとてもわかりやすくあるものです。
けれども現実的にはそれほど世界はシロかクロか区別が簡単につくようなものではないということを僕たちは知っています。
そしてそのグレーゾーンというのは世の中が複雑化していく中でどんどん広くなっているような感じもあります。
そのようなグレーゾーンが存在するということを、ヒーローものの枠組みに果敢に持ち込もうとしたのが本作であると思います。
本作の中で仮面ライダーたちは、それぞれが叶えたい願いの為に戦い続けます。
目覚めない恋人の命を救うために戦うライダー。
不治の病に冒された自らの命のために戦うライダー。
一人の命を犠牲にしても多くの人を救うために戦うライダー。
それぞれが戦う理由は、間違っているかいないかと簡単に答えを出せるものではありません。
確かにライダーたちは己が戦う理由を信じつつも、迷い、そして足掻きながら、それでも戦い続けます。
それは簡単に白黒をつけられない現実世界に生きる僕たちが足掻いている様子の投影(これもミラーワールドという設定が暗示させます)であるように思えます。
そして唯一、戦う理由を持たなかったライダーである「龍騎」こと、主人公の城戸真司のキャラクター造形が素晴らしい。
「クウガ」の雄介、「アギト」の翔一は、ある意味現実離れした「いい人」でありました。
そういう意味では彼らは、観ている僕たちが自分を投影できる対象にはし難いキャラクターでもあります。
けれども真司は、戦いを止めようとしているライダーでありますが、ただ他のライダーたちが戦う理由も否定しきれないままに、足掻き続けます。
今でこそ「悩むヒーロー」というのは日本でもアメリカでも定番となってきた感もありますが、「龍騎」の真司は放送当時においては珍しいタイプのキャラクターであったと思います。
彼が足掻き苦しむ姿は、現実世界において、様々な選択肢を前にして迷う自分たちの姿とシンクロします。
「仮面ライダー龍騎」という作品は「善」と「悪」というわかりやすい図式ではなく、世の中の複雑さ、人間という存在の複雑さを描こうとしたところが「仮面ライダー」シリーズの中でも極めて野心的であり、革新的であったと思います。

その他にも野心的な試みはいくつか本作にはあります。
一つは「カードバトル」という設定。
本作公開当時にはポケモンなどのカードゲームが一般的になっていました。
それらを取り入れるだけでなく、物語の設定として有効に使っていたのは見事としか言いようがありません。
その後、仮面ライダーシリーズでも「剣(ブレイド)」、そして「ディケイド」とカードが重要な要素となるのはやはり「龍騎」があったからであると思います。
あと本作よりスーツアクターの存在が非常に大きくなってきたことも、仮面ライダーシリーズとしてターニングポイントであったと思います。
今でこそあたりまえですが、変身前と変身後のキャラクターの一貫性というものをとても重視したのは「龍騎」からではないでしょうか。
それまでのヒーローものというのは、言ってしまえば変身後はまるで別人格のような感じがすることもしばしばありました。
子供にとってはまったくそのようことは関係なかったので良かったのですが、本作ではさきほども書いたように描かれている物語は現実世界の投影であるわけで、キャラクターの心情のリアリティさというのは肝になります。
そこでは変身前も変身後も同じ人間であることが強く求められます。
本作のスーツアクターさんたちは、それを登場人物を演じる俳優さんたちの仕草などを上手く取り入れるようにしてキャラクターの一貫性をとりました。
そして仮面をしているのにも関わらず、そのキャラクターが泣き、叫ぶということがその演技だけで伝えることができるというのを知らしめることにもなりました。
スーツアクターという存在に、スポットをあてたという点は「龍騎」を評価するポイントの一つだと思います。
これが年々研ぎすまされ、また一つの頂点である「電王」への布石となっていくわけです。

本作についても劇場版があり、そちらは劇場版が(テレビシリーズはあと半年もあるタイミングで公開されながら)最終回であるという触れ込みでした。
これも極めて野心的な試みであり、その後の平成仮面ライダーの劇場版は数々新しい試みを行うことになっていきます。
「仮面ライダー」という作品はそのような新しい試みができるというコンセンサスを作ることができたというのも「龍騎」という作品の功績だと考えます。
劇場版よりも衝撃的であったのはラスト前の回で主人公真司が死んでしまったこと。
その時点で「劇場版」そして「テレビスペシャル版」と「龍騎」の世界は二つのエンディングを持っていました。
それはいずれも悲劇的な終わり方であり、テレビシリーズのラストもまた悲劇的であるのか、とやや残念な気持ちにもなりました(城戸真司というキャラクターに好感を持っていたということもあり)。
けれどもそれが最終回のラストで、大逆転の終わり方を「龍騎」は迎えます。
これは「劇場版」「テレビスペシャル版」を踏まえ、計算尽くされたラストであったのでしょうか。
「ああ、ほんとにこれで良かった・・・」と観終わって思える最終回でありました。

半年かかってようやく3作品を観終えました。
「ディケイド」が終わるまで振り返るというもくろみはとうの昔に潰えました。
けれどもこの企画は「ディケイド」が終わり「W」が始まっても続けますので、楽しみにされている方(いるのか?)は、またしばらくお待ちください。
次回「555」でまたお会いしましょう。

「仮面ライダークウガ」<平成仮面ライダー振り返り-Part1>の記事はこちら→
「仮面ライダーアギト」<平成仮面ライダー振り返り-Part2>の記事はこちら→
「仮面ライダー555(ファイズ)」<平成仮面ライダー振り返り-Part4>の記事はこちら→
「仮面ライダー剣(ブレイド)」<平成仮面ライダー振り返り-Part5>の記事はこちら→

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コメント

hideakifujiさん、こんにちは!

本作のプロデューサーの白倉さんはかなりチャレンジブルな企画をやっていますよね。
平成仮面ライダーの革新性は氏の力に寄るところは大きいかと思います。
デザインについては、歴史があるものほどそれにとらわれがちですが、いかに財産を残しつつ、進化していくという点では、仮面ライダーのスタッフはすばらしい仕事をしていると思います。

投稿: はらやん(管理人) | 2009年8月14日 (金) 16時10分

平成仮面ライダーは新世代のクリエイターが踏み込んでいるのかな
コンテンツとしての実験場的ニュアンスを感じます

龍騎のデザインは思い切った冒険をしていますね
あれはかろうじて仮面ライダーと言えなくもない
しかし仮面ライダーとしてくくってしまうのは辛い部分がありました。
デザイン自体企画の段階で紆余曲折している苦労は伺えるな
僕も現在個人契約でデザインの仕事をやっていて
ロボットなんだけど出来た企画にNGを出されると次はとてつもない進歩になっていたりするものです。

そんなこんなで龍騎を最初に見たとき苦心した企画としてのインパクトが伝わってきた


平成ライダーの歴史と共に進化してきたのは日本のVFX技術
ライダーにとどまらずにほんのコンテンツは世界のどこの国に出しても恥ずかしくない
日本はゲーム産業が隆盛していた時期も長かったので映画産業にも技術的恩恵の流出になっているのだろう

投稿: hideakifuji | 2009年8月12日 (水) 14時49分

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