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2009年8月30日 (日)

「プライド」 雑草と薔薇

一条ゆかりさんの漫画「プライド」の映画化作品。
声楽家を目指しアルバイトをしながら音大に通う萌(満島ひかりさん)。
そのアルバイトの一つであるハウスクリーニングで訪れた豪邸に、社長令嬢の史緒(ステファニーさん)がいました。
史緒もオペラ歌手を目指している音大生で、萌も同じ目標を持っているということでプラチナチケットのオペラ観賞に誘います。
けれどもそこで萌は、自分の育ってきた環境とは全く違う上流社会に圧倒されつつも、そこまで這い上がる決心を固めます。

好きな金子修介監督の作品でありながら、公開時なぜ観なかったかというと、やはりベタな(と僕は思っていた)少女漫画チックな設定のため。
昔の大映ドラマ(「スチュワーデス物語」とか)じゃないけれど、女同士の嫉妬や争い、イジメっていうのはちょっと苦手なんですよね。
本作も、少女漫画によくある設定、ちょっと意地悪でプライドの高い金持ちの息女と、貧乏でありながらも緒あふれる才能がある少女といった「ガラスの仮面」的な作品だと思っていたのです。
ですが、公開時も他の方のブログを覗いたりすると、けっこう評判も良かったようなので、気になっていたのではありました。
観始めて最初はやはりステレオタイプ的なキャラクターなのかなあと思ったりしたのですが、史緒のお父さんの会社が倒産してから以降はけっこう物語にぐいぐいと引き込まれていきました。
萌が這い上がると決心してからの意地悪っぷりがなかなかで。
満島ひかりさんは童顔ですが、かわいい顔をしながらもけっこうキツいことをしたりしていて。
「私、辛いことがあると、力が湧いてくるの」
という台詞がありましたが、踏まれも踏まれても伸び上がるまさに雑草人生。
ただ萌も成り上がりを目指すだけの少女ではなく、恋をするし、相手の真の才能を認める目もあります。
対して史緒もよくある意地悪でプライド高いお嬢様というキャラクターとは一味違っていました。
タイトルにある「プライド」を持つ女性ですが、これは悪い意味ではなく、良い意味での「誇り」を持っているように見えます。
「気高い」と言ってもいいかもしれません。
劇中でも例えられていましたが、史緒は大事に育てられた一輪の薔薇。
この「気高さ」が萌から見ると「お高くとまってる」ように見えてしまうのですが。
二人ともによくあるステレオタイプのキャラクターから微妙にずらしているところがおもしろかったです。
二人はライバルでありながらも、互いの才能には感じるところがあります。
中盤とラストの二人のデュエットのあたりは聴きごたえもありました。
歌いながら段々と才能と才能がぶつかりさらに上のものに昇華していくという感じがでていました。
ステファニーさんは歌手ですし(その分演技はお世辞にもうまいと言えない)、満島ひかりさんも沖縄アクターズスクール出身ですから歌はお手の物です。
よくあるこの手のドラマのようにライバル同士が気持ちを通じ合い親友となるみたいな安易な展開にならないところもポイント高し。
萌と史緒は結局、生き方、人生に対するものの見方が違うわけです。
それを慣れ合うわけではなく、それぞれの生き方を通し、そしてステージの上でまた二人の才能が激突することを予感させる終わり方は良かったのではないかなと思います。

それにしてもミッチー、こういう役をやらせたら敵う人はいないですね。

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「グッド・バッド・ウィアード」 3極の見事なバランス

まさに痛快大活劇!
次から次へと繰り出される乱戦、乱戦、大乱戦!
こういう振り切ったエンターテイメント、そういえば久しぶりかもしれません。
冒頭の列車強盗から、グッドガイ=ドゥオン、バッドガイ=チャンイ、なんだかわからないガイ=ユン・テグが入り乱れての大銃撃戦。
その後の闇市での縦横無尽の銃撃戦もアイデアに溢れて見応えありましたし、ラストの3ガイに加えて馬賊、日本軍も参戦した追跡劇も迫力十分。
活劇の間のコメディチックな部分(主にソン・ガンホ担当)も、箸休め的に楽しめました。
潜水服を使った銃撃戦は緊迫感がありながらもおかしいという絶妙なバランスです。
出し惜しみをしないサービス精神に溢れた映画でした。
「キル・ビル」と同じ挿入曲を使っていたのでタランティーノが思い浮かびましたが、彼の作品ほどフェティッシュではありません。
タランティーノの作品はハマる人にはハマるという感じがありますが、本作はもう少し楽しめる人の範囲は広いのではないでしょうか。
シナリオもひねりを利かせたアイデアで見せるというよりは、個性ある3ガイをうまく配置して、彼らの3すくみ状態で緊張感を持たせながら物語を引っ張っていく見せ方なので、それほどストーリーは複雑ではありません。
この3人のキャラクターを配置したところが、この作品の成功のカギであったであろうと思います。
いいもん、悪いもんという勧善懲悪的な物語というのはわかりやすくはありますが、ある意味結末が見えている(いいもんが悪いもんに勝つ)ので、ステレオタイプ的になりやすいのです。
右か左か、みたいな単一の対立軸というのは物語としては単純であり安定的なのですよね。
それが3人になると、右か、左か、上か、みたいな感じで複数軸で物語は構成され、構造は急に不安定になります。
それが物語全体に緊張感をもたらします。
緊張感をもたらすこのバランスはけっこう危ういので、シナリオと演出の実力が求められますが、その物語の要請にキム・ジウン監督はしっかりと答えていると思います。
このバランスをきちんととるには3人のキャラクターがそれぞれ個性的にしっかりと立っていけないといけません。
3人のキャラクターは設定としてもきちんと個性を際立たせていますし、そしてそれを演じる俳優陣もそれをしっかりと表現していたと思います。
グッドガイ(パク・ドゥオン)を演じるのはチョン・ウソン。
ドゥオンは賞金ハンターであり、クールでありながらも、何か過去にあったような陰みたいなものも持っています。
そういう役柄に甘いマスクの二枚目であるチョン・ウソンはぴったり。
正統派の西部劇ヒーローといった出で立ちも非常にわかりやすい。
馬に乗りながらショットガンを操るところ(撃った後クルッと銃を回して弾を装填するやつね)なんかは、えらくカッコいいです。
バッドガイ(パク・チャンイ)はイ・ビョンホン。
先に公開されている「G.I.ジョー」でも悪役でしたが、断然本作の方がいいです。
なんていうか、向こう側にイッチャッてる感じ(目が本当にアブナイ)が凶暴的で。
女性には人気のあるイ・ビョンホンなのですが、僕は個人的にはそれほどいいと思ったことはないのですが、本作はとてもいいです。
チャンイもナイフを振り回すアブナイ奴ですが、まさにむき身の刃物といった感じが彼のシャープな風貌にしっくりとハマっていました。
そしてウィアードガイ(ユン・テグ)は、数々の作品で様々な役を演じてきているソン・ガンホ。
チョン・ウソンもイ・ビョンホンも良かったですが、本作のソン・ガンホは他の二人の更に上をいく素晴らしさ。
さきほど言ったようにグッド・バッドの対立軸とは別次元の軸となる人物になるわけなので、このキャラクターは物語の中での重要性はとても高いのです。
コメディリリーフのように見えますが、実は物語の求心力となっているキャラクターなのです。
この役にはシリアスもコメディも幅広く演じられるソン・ガンホはまさにうってつけです。
特にユン・テグの過去が明らかになるラストの表情の変化はソン・ガンホならではです。

本作、韓国では大ヒットとのこと。
お話としては続編も作れるのではないかなあ、ちょっと期待したりもします。
それにしても日本は公開館が少なめですねえ。
韓流ブームは過ぎたとはいえ、そういうのとは別に楽しめる作品だと思うので、もっといろんな人に見てもらいたいのだけれど。

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2009年8月27日 (木)

本 「となり町戦争」

「となり町戦争」はハードカバーで出版された時も、映画化された時も気になっていたのですが、読んでいませんでした(映画も未見)。
本作は三崎亜記さんのデビュー作です。
僕はずっとこの方は女性だとずっと思いこんでいたのですが(「アキ」という響きから)、男性だったんですね。
本作は日本のような日本でないようなところが舞台になります。
主人公北原が住んでいる舞方町はある日、となり町と戦争事業を始めると発表します。
そして北原は職場がとなり町にあるということから、町より偵察を任命されるのです。
「戦争」は現在でも世界のどこかで行われていて、そのことはメディアやインターネットなどを通じて知ることができます。
そういう意味では「戦争」の情報は昔よりは身近であると言っていいのかもしれませんが、肌感としての「戦争」は実は遠くなっているような気がします。
本作でも主人公が、となり町と行われている戦争事業に対して感じる違和感が述べられています。
その違和感は大概の一般の人々が感じるものであるでしょう。
けれどその違和感が何なのかと言われると実はうまく説明できないものなのです。
本作でも語られる「戦争」のイメージ。
巨大なきのこ雲、黙々と行軍する兵士たち・・・。
そういうイメージは何かステレオタイプであります。
それがリアルであるのかどうかわからないまま「戦争」とはそういうものと疑いなく思っています。
この物語の中で遂行される「戦争」はあまりに粛々とシステマティックに行われているため、ほんとうに「戦争」をやっているのかというふうにも思えます。
けれども確実にその「戦争」により、死者は出ている。
何かその粛々と行われている「戦争」のリアルさのなさ、みたいなものが余計にリアルな感じを受けます。
僕たちは、「戦争」に関しての情報を今までで一番知りやすい時代に生きていますが、けれどもその「リアルさ」は知っていないのだと感じます。
悲惨で陰惨な部分も「戦争」の一部分。
けれど「粛々と」行われている部分も、「戦争」であり、それは日常的になってしまうところが恐ろしい感じもします。
そういう「戦争」へのリアルな感覚のなさを「となり町との戦争」という極めて日常的な次元に下ろしたことによって、表そうとする三崎亜記さんの目のつけどころがいいと思いました。
これから三崎さんの作品、いろいろ読んでみようかと思います。

「となり町戦争」三崎亜記著 集英社 文庫 ISBN978-4-08-746105-3

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「ホッタラケの島 〜遙と魔法の鏡〜」 父娘の物語

誰でも小さい頃はとっても大事にしていたのに、いつの間にかその在処がわからなくなってしまっているモノはいくつかあるはず。
ふと気がついたときに、どこを探しても見つからない。
あんなに大事にしていたから、捨てるはずなどないのに・・・。
そういうホッタラケにされていたモノは、もしかすると狐が持っていてしまっているのかもしれません。
ホッタラケにされているモノ、それは幼い頃の記憶と言っていいかもしれません。
人は大きくなっていろんなことを経験していくに従い、幼かった頃の記憶を忘れていってしまいます。
けれどもその記憶は消えてしまっているのではありません。
たぶん脳の中に記憶がしまわれている場所がわからなくなっているのだと思います。
だから誰かとの会話などをきっかけに、不意に幼い頃の記憶が甦ったりするということはありませんか。
自分本人もあまり意識していなかった記憶。
「ああ、そういえば・・・」と甦る記憶。
たぶんそういうホッタラケにされてしまっている記憶というのは、脳のどこかに溜まっていたりするのでしょう。
それを象徴的に表したのが、本作の「ホッタラケの島」なんではないでしょうか。
遥が冒険する「ホッタラケの島」は遥の記憶の蓄積。
人の記憶というのは雑然とごちゃごちゃとしていて、脈絡がない。
そういう感じがあの「ホッタラケの島」がよく表しているように思います。
遥が探そうとしている形見の手鏡は亡くなった母親の記憶の象徴、そして冒険で出会うぬいぐるみコットンは父親の記憶の象徴でしょう。
お話としては手鏡を探す冒険が主軸になっていますが、僕はじつはコットンとの出会いの方が遥にとってより深い意味があるのだと思います。
遥にとって母親は忘れられない記憶であり、もう届かない失われた存在なのです。
失われたからこそ、その記憶は鮮明であり、遙はお母さんとの思い出は忘れられないものなのだと思います。
けれども父親はいつも一緒にいて、そしていつも忙しそうで、勝手でというイメージが遙にはあります。
幼い頃、どれだけ父親を好きだったとしても、いまはなんだか煙たい存在。
けれど冒険の旅の中で、ずっと忘れていたコットンに出会います。
コットンは父親からの誕生日プレゼントだったのです。
そしてコットンは、遥を守るために自らを犠牲にします。
それはあたかも父親が、母親を失った遙を思い(自分の喪失感もあるにも関わらず)遥を守り育てようとしていたこととクロスオーバーします。
遥はコットンを通じて、父親がいかに自分のことを大事に思ってくれていたか、そして今もそう思っているかということを理解するのです。
ですので、本質的には本作は母娘の物語というよりは、父娘の物語ではないかと思うのです。
そう考えると、もう少しシンプルにしたほうがわかりやすかったのかなと思います。
手鏡、コットン、そしてテオというアイテムやキャラクターはややもすると相殺し合ってしまっているような気もします。

アメリカではアニメと言ったら3DCGが既に主流。
本作では全編3DCGで制作されています。
ただやはり気になるのは「人間」の描写です。
本作ではテオやコットン、その他ホッタラケの島やその住民たちというのは、3DCGによって活き活きとした生命力を感じさせてくれます。
ただし「人間」に関してはその表情、動きに関してやはり「CGっぽい」違和感を感じるのです。
それは人間だからこそ、細かいところが気になってしまうということだと思います。
そういう意味ではまだまだ人間を3DCGで描くには何かが不足しているということなのでしょう。
活き活きとした人間らしさという点では、手描きのアニメや、ディフォルメされたピクサーのアニメーションのほうがよほど感じてしまうのです。
ピクサーがあえて人間を主人公にしない(しても相当ディフォルメする)のは、その加減がわかっているのからだと思います。
本作の遙もあえてリアルな頭身にこだわらなくても良かったのではと思ったりします。

主人公遙の声は、同じ名前の綾瀬はるかさんが担当。
最近女優さんが声を担当することも多いですが、思いのほか上手でびっくりしました。
彼女の声はもしかしたらアニメーションなどに向いているかもしれません。
コットンの声は、小学生でありながら数々声優の仕事をしている松元環季ちゃん(「電王」のコハナ、「20世紀少年」のユキジの子役)でした。
小学生とは思えないくらいに上手でした。
本作でぐっときたのはやはりコットンが身を挺して遙を守ろうとしたところなのですが、表情がないぬいぐるみに声をあてているにも関わらず、気持ちが伝わってきましたから。
この子は要注目です。

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2009年8月23日 (日)

「南極料理人」 究極の単身赴任

今回のサブタイトルは、本作「南極料理人」の予告の中で使っていたコピーです。
もうこれが本作を的確に言い表してますね。
本作の舞台となるのは、南極の観測基地である「ドームふじ基地」。
南極の基地といったら「昭和基地」しか知らなかったのですが、なんと「ドームふじ基地」は南極の内陸部にあり、その地点の標高は富士山よりも高いということ。
基地の外の平均気温はー57度。
平・均・気・温ですからねー、最低気温はどんだけになることやら・・・。
本作観ていて驚いたのは、食品・食材が基地の外に置いてあること。
エー、外なの、悪くなっちゃうじゃないと一瞬思いましたが、この気温は冷凍庫よりも低いですからね。
細菌もウイルスもいないということですから、腐りようがありません。
僕が勤務しているのは冷凍食品会社なので、冷凍倉庫にも何度か入ったことがあります。
普通の家庭用の冷蔵庫についている冷凍室は−18度くらい。
冷凍倉庫の室温というのはー30度くらいなんです。
防寒具つけながら入りましたが、10分くらいで我慢できなくなりました。
ほんとー57度なんて想像もつかないです。

主人公の西村は海上保安庁に勤務していたが、ドームふじ基地に調理担当として派遣されました。
その他にもこの基地には7人の男たちが、家族から1年半も離れた場所で暮らすわけです。
ホームシックになっても、仕事がイヤになっても、逃げ出すことができません。
まさに「究極の単身赴任」です。
そんな過酷な環境の中での楽しみと言えば、麻雀、卓球、ビデオなどなのですが、やはり毎日の食事もストレス発散には大事な要素。
おいしいものというのは、心を豊かにしてくれるんですよね。
逆に好きなものを食べられないと、ストレスが溜まっていくもの。
料理もどこかのおいしいお店で食べるのもいいんですけれど、知っている人が自分のために作ってくれる料理っていうのも格別です。
西村が作ったラーメンを食べる時のタイチョーの嬉しそうな顔といったら。
またみんなが作ってくれた(胃もたれしそうな)唐揚げを食べた時の、ぽろりとこぼれる西村の涙。
料理っていうのは、作る人と食べる人の気持ちを繋げるものなんですよね。

映画なのに何かありそうで、何も起こらない。
けれどなんだかおかしくて、なんどかほろりとさせられます。
伊勢エビのエビフライのくだりは笑わさせていただきました(ちょっと食べてみたいぞ)。
西村と娘さんのやり取りにはジーンとさせられました(あれは娘さんからはお父さんが見えているけれど、お父さんからは見えないんですよね)。
笑いとほろりが絶妙なバランスで、いい気分にしてくれる映画でした。
本作のメガホンをとったのは、まだ若い(32歳!)沖田修一監督。
いい感じの作品を作ってくれたので、今後も期待したいです。
主人公西村を演じるのは堺雅人さん。
予告を観ていた時から、ぴったりのキャスティングだと思いましたが、やっぱり堺さんはいいですね。
次の「クヒオ大佐」も期待しています。

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2009年8月22日 (土)

本 「宮本武蔵」

学生の頃から、ちびりちびりと日本酒を飲むように吉川英治さんの作品を読んできました。
「三国志」「新・平家物語」「私本太平記」など・・・。
やっと「宮本武蔵」も読み終えました。
こちらの作品は若い人にとっては「バカボンド」の原作というほうがピンとくるかもしれませんね。
吉川英治さんの作品は文体が好きなんですよね。
本作は戦中に書かれた作品ですが、読みにくいってことはありません。
むしろスルスルと読めていく、心地よいリズムがあります。
またところどころにある最近ではあまり使われなくなった言葉の数々。
講談社の文庫版では巻末に言葉の解説などがついていますが、この言葉がとても風情があるのです。
読みやすい文体、そして風情のある言葉・・・。
情景が浮かんでくるような文章です。
僕もこうやってブログで文章を書いていますが、吉川英治さんの文章はある意味、理想とするようなところであったりします(おこがましいけれど)。

佐々木小次郎との対決に向かう武蔵には、戦いを前にしながらも静謐と言えるような境地に達しているように見えます。
その境地に自分が達することなどできそうにもないのですが、そこに至った武蔵の姿には憧憬の心を持ってしまいます。
そういえばマリナーズのイチローは、現代の武蔵とも言えるような求道者に見えますね。
イチローに対して僕たちが想う気持ちというのは、あの時代の人々が武蔵を想った気持ちに似ているのかもしれません。

「宮本武蔵(一)」吉川英治著 講談社 文庫 ISBN4-06-196514-X
「宮本武蔵(二)」吉川英治著 講談社 文庫 ISBN4-06-196515-8
「宮本武蔵(三)」吉川英治著 講談社 文庫 ISBN4-06-196516-6
「宮本武蔵(四)」吉川英治著 講談社 文庫 ISBN4-06-196517-4
「宮本武蔵(五)」吉川英治著 講談社 文庫 ISBN4-06-196518-2
「宮本武蔵(六)」吉川英治著 講談社 文庫 ISBN4-06-196519-0
「宮本武蔵(七)」吉川英治著 講談社 文庫 ISBN4-06-196520-4
「宮本武蔵(八)」吉川英治著 講談社 文庫 ISBN4-06-196521-2

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「96時間」 オヤジ、頑張る

先週の「トランスポーター3 アンリミテッド」に引き続き、リュック・ベンソン製作のアクション映画「96時間」を観てきました。
主演はリーアム・ニーソン。
彼はあまりアクション映画のイメージがなかったので、意外なキャスティングと思ったのですが、観てみるとぴったり。

主人公ブライアンは元工作員で政府のために家庭を顧みずに働いていましたが、別れた妻の元にいる娘の近くで見守っていたいと引退しています。
けれど娘が旅行で行った先、パリで行方不明となってしまいます。
娘は誘拐されたらしく犯人からの電話の特徴から分析、誘拐したのは人身売買をする組織だとわかります。
娘を救うタイムリミットは96時間!
ブライアンはパリへ渡り、一人で娘を救出しようと決意します。

「娘を救うためなら、エッフェル塔でも壊してみせる」
これはブライアンが言った台詞です。
我が子を救うためには鬼にでもなる、どんな犠牲も厭わない。
僕は子供がいないので実感としてはないのですが、親が子を想う気持ちというのは、正義とかそういうものを超越したところにあるのかもしれません。
鈴木光司さんの「リング」でもそういう部分がありますが、我が子と正義を選べというならば、我が子を選ぶというのはあるのでしょう。
そういう鬼気迫る父親をリーアム・ニーソンは見事に演じていました。
逆にただの肉体だけのアクションスターではこうはいかなかったかもしれません。
演技派のリーアムだからこそ、娘を守るという決意、焦りみたいなものがひしひしと伝わってきました。
アクションスターではないからといって、アクションシーンが見応えがないわけではありません。
いい年齢のオヤジがパリの街中を走る、走る、暴走する!
それができるのも娘を想う気持ちがあるからこそなのでしょう。

本作でも冒頭のシーンであるように、父親というのは特に年頃の娘からすれば、ちょっと煙たい存在。
あれはダメ、これはダメとうるさいことばかり言って、ちょっとウザイ存在に見えるかもしれません。
それもわからないでもありません。
でも、ちょっと待って。
それでもお父さんは、仕事をして社会とある意味戦いながら、家族を守ろうと、養おうとがんばっているんですよ。
本作のブライアンのように、本当に命を賭けるという場面はないとはいいながらも、世間の荒波の中、気持ちは家族を守るために命を賭けて働いているかもしれませんよ。
時々は、声をかけてやってくださいね。
それだけでオヤジにはパワーになるのですから。

リュック・ベンソン製作、ピエール・モレル監督作品「パリより愛をこめて」の記事はこちら→
リュック・ベンソン製作「トランスポーター3 アンリミテッド」の記事はこちら→

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本 「世界は分けてもわからない」

かなり売れていた「生物と無生物のあいだ」を書いた福岡伸一さんの新しい著書です。
福岡さんは分子生物学という分野を専門とする博士ですが、文章が非常に上手だと思います。
いわゆるロジックが通った文章は当然理系の方なので書けるのですが、とても詩的というか文学的な表現もなさる方です。
ですので、理系のガチガチの文章が苦手な方も読みやすいと思いますので、だから「生物と無生物のあいだ」はヒットしたのではないでしょうか。
本著も同じように福岡さんの語り口というのは健在です。

「世界を分けてもわからない」というのはどういう意味でしょうか。
科学というのが、人間が世界を理解するための方法とするならば、人間はどのようにそれを行うのでしょうか。
科学というものが発達して数世紀、人が行ってきた方法というのは、調べたい知りたいという対象をいかに分解してその機能を理解するかという手法でした。
たとえばある障害を持った細胞をなんとか分離し培養し、健全な同じ細胞と比較し、その違いを比べるとかいったようなことです。
これは生物学でも物理学でも基本的には同じことです。
同じ条件の中で、一点だけ異なるもの同士を比較し、その作用を観察するということです。
ようは世界の一部を単一の機能を持っている単位に分け、その機能を理解する。
その一部分についての理解を積み上がっていけば、最後には全体を理解できるという考え方です。
この考え方で科学は発展し、人は世界の理解を深めてきました。
けれども果たして、それだけで世界は理解できるのかというのが、本著のテーマであると思います。
福岡さんは専門である生物の分野についてこの話を本著でひも解いています。
前作「生物と無生物のあいだ」でも度々でてきた「動的平衡」という言葉。
これがポイントになります。
生物も、たぶん世界も、機械のようにある決まった機能をもった一部分を足し算していって全体があるというような単純な仕組みにはなっていないのです。
生物であれば細胞と細胞、タンパク質とタンパク質、アミノ酸とアミノ酸といったものが相互に情報をやりとりしあって一つの個体というものを作っています。
細胞レベルで観察すれば細胞は死に生まれすごい勢いで変化をしているのですが、全体を俯瞰すればなんら変わりがないという状態に観えます。
つまり観察をするということはある瞬間、ある部分を取り出し、そのときの状況を観るということであって、そのダイナミックな活動というのは見逃されがちであるのです。
部分の観察が意味がないと言っているのではありません。
全体のダイナミズムという視点もなくては間違えてしまうということなのだと思います。

多少本著と違う話ではあるかもしれないですが、僕自身の仕事の中で同じようなことを感じたりします。
僕の仕事は食品のパッケージデザインなのですが、その精度を上げるために調査をやりたいという話になりました。
食品パッケージデザインというのは、企業ブランドロゴ、商品名ロゴ、商品の写真、キャッチコピー、その他表示等に分解できます。
それぞれのパーツを評価し、最高スコアをとったものを組み合わせればいいデザインになるのではないかということでした。
デザインをやっているものとすれば、こんなことはナンセンス以外のなにものでもありません。
けれども調査をどうしてもやりたいということだったので、やってみてデザインまでやりました。
結果は散々でした。
当たり前です。
デザインというのは先に上げたパーツを絶妙なバランスで組み上げなければ成立しないのです。
すべてを大きく目立つようにしたところでそれは情報過多で見苦しいデザインにしかなりません。
当然目立つように各パーツの調整はしますが、それとともに全体としてのバランスの調整を行わなくてはいけないのです。
そのバランスというのはとても微妙なもので、数値化などはできるものではなく、やはりそこにはセンスというものが入ってきます。

僕は本著を読んで感じたのは、各パーツの働き、そして全体のバランスそれが、ひとつのものを作っているというイメージでした。
これは自分が日頃仕事をしているデザインにも相通じるものがあり、それはこの世界というものがそのような動的平衡というような状態でバランスをとっているという理解には共感できました。
いわゆる分解して世界を理解するという手法はほんとにこの数世紀に発展してきた方法です。
この後はこんどは全体のバランスというものを科学していくというステージに上がっていくのかもしれません。

福岡伸一さん著作「生物と無生物のあいだ」の記事はこちら→

「世界は分けてもわからない」福岡伸一著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288000-8

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2009年8月21日 (金)

「宇宙へ。」 ステップ・バイ・ステップ

本日公開の本作、今日明日観ると500円ということで早速観てきました。
宇宙をテーマにしたドキュメンタリーだと最近では「ザ・ムーン」がありました。
人類が月へ、宇宙を目指すという点で同じテーマを扱っている二作品ですが、その視点は異なっています。
「ザ・ムーン」は月を目指し、そして月に立った宇宙飛行士にスポットを当てていました。
彼らが月に立った時の気持ち、そしてそこから地球を眺めた時に感じた気持ちというものを、彼らへのインタビューを通じて伝えていました。
それに対し本作「宇宙へ。」は、かなり客観的な視点で語られているドキュメンタリーであったと思います。
そういう意味では、本作にはドラマチックさというものはなく、淡々と語りは続いていきます。
本作品にメッセージ性を期待して観て、退屈と感じた方もいらっしゃるかもしれません。
どちらかというと本作は「記録フィルム」を観る人にわかりやすく編集をしたという作品に見えました。
「ザ・ムーン」の語り口が文系的あるとすれば、「宇宙へ。」は技術屋的と言えるでしょう(本作をIHIがスポンサードしているのは観終わって納得)。
本作では月への道のりが淡々と語られていきます。
チンパンジーの弾道飛行に続き、有人の弾道飛行の実施。
その後ジョン・グレンが地球の周回飛行を行い、続いてエドワード・ホワイトが宇宙遊泳を実施します。
そして二人乗りのジェミニ計画、アポロ計画と続いていきます。
それらは無計画に実施されているのではなく、月に人類を立たせるための技術を蓄積・確立するためにステップ・バイ・ステップで実施されているわけです。
月に行くには一人の乗組員だけでは無理だから、複数の人間でのミッションをまず周回軌道上で試す。
月への着陸、また帰還には、ランデブー技術やドッキング技術が不可欠だからそれをテストする。
月へ立つという目的のためにクリアしなくてはいけない関門を一つ一つ着実に越えていくというのが、これらアメリカの宇宙計画であったのです。
関門の突破は時として失敗もあります。
アポロ1号の火災、本作で触れられていませんでしたが「アポロ13号」のトラブル、またスペースシャトルチャレンジャー号の事故など・・・。
けれどもそれらの失敗も検証し、克服してさらに一歩を踏み出してきたわけです。
これらの計画、そしてその遂行は極めて理性的なプロセスです。
本作が描いているのは人の科学的な理性というものではないかと思いました。
この理性的な検証→実践→検証というサイクル(ビジネスではPlan Do Seeサイクルと言われたりもしますが)を学ばせ教えるには良い教材であるような気がします。
そのため淡々とした感じになるのはやややむを得ないことではないかと考えます。
「私にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」
という言葉は有名なアームストロングの言葉ですが、技術という視点で言えば、何事も小さな事を積み重ねていくしか解決はありません。
その実践→検証の繰り返しを続けることが、大事なことなのです。
一足飛びに答えを求めがちな人もいます。
「1%のひらめきと99%の汗」と言ったのはエジソンです。
ひらめきはとても大事なのですが、それを実現するにはやはりステップ・バイ・ステップで検証をしていく作業が必要なのです。
暗記ばかりで理科は嫌いという子供たちも多いと思いますが、理科や技術というのはそもそも暗記していく学問ではないのです。
そういうことを教える事が大事なような気がします。
本作を学校の授業等で見せるのほうが、単純に教科書を読んでいるよりは、子供たちもよほど興味をもってくれるかもしれません。

「ザ・ムーン」の記事はこちら→

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2009年8月19日 (水)

「ボルト」 幸せな結婚

一時期、不調和となっていたディズニーとピクサーの関係は、2006年ディズニーがピクサーを買収する形で決着がつきました。
アメリカのアニメーションは最近は3Dが主流になり、ピクサー、ディズニー、ドリーム・ワークスがしのぎを削っています。
この3スタジオの中では個人的にはピクサーの作品群が他の2社よりも、映像のクオリティ、またストーリーてリングに対して、圧倒的な品質の良さを持っていると思っています。
ピクサー以外の2社でも、正直言ってディズニーの3Dアニメはあまりいいと思うように感じるものは少ないという印象があります(というより、是非観たいという食指が動かない)。
ですので、ディズニーがピクサーを買収することによって、ピクサーの作品が変わっていくのではないかという懸念がありました。
けれども昨年の「ウォーリー」を観ると、やはりピクサーはピクサーらしく高い品質の作品を作ってくれたのでホッと胸を撫で下ろしました。
逆にディズニーはピクサーを傘下に収めましたが、ピクサーで名作を生み出してきたジョン・ラセターがディズニーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーになったことで、ディズニーのアニメーションがどのように変わるのかを注目していました。
本作「ボルト」を観る限り、ピクサーのスタイルがディズニーに良い影響を与えているように思えました。
ピクサー作品は今までも、おもちゃや、虫、魚、車、ロボット等人間ではないものを使いながらも、極めて人間的な友情や愛情などをテーマにした王道の物語を作ってきました。
テーマはありがちで普遍的なものだったりするのですが、人間以上に人間らしい感情移入しやすいキャラクターによって、ピクサー作品は観ているうちに心をうたれてしまうんですよね。
このような人でないものを人間的に描くというのは、いわゆる「不気味の谷」を回避する上手な方法であると思います。
本作の主人公(主犬公?)は、映画の中の世界を本物だと信じ込まされているスター犬、ボルト。
遠く離れた飼い主ペニーを慕って戻ろうとしますが、その道の途中で自分の信じていた世界が偽物であることを知り、そしてペニーの愛情ですら演技ではなかったのかと思い悩みます。
健気にペニーを想うボルト、愛情を失ったと思った時のボルトは、ほんとうに人間以上に人間らしく見えます。
このあたりの気持ちの描写は、心がないはずのロボットで愛情深い物語を描いた「ウォーリー」にも通じる豊かな表現であったかと思います。
このような豊かな愛情の表現(これは映像表現も、ストーリーテリングも合わせて)は、今までのディズニーではなかったような気がします。
ディズニー作品というのは描くのはあくまでおとぎ話のフィクションの世界。
そこで描かれる感情もやや物語的なのです(これを逆手にとったのが「魔法にかけられて」)。
けれどもピクサーの作品というのは、主人公たちは人間にあらざるものですが、描いている感情は極めて普遍的で人間的なものなんですよね。
そういう点で、ピクサーを中に取り込んだディズニーはそれにより、自身も大きく変わろうとしているような気がします。
そしてピクサーからすれば盤石の資金、配給体制を確保し、安心して作品を作れる状態になったわけです。
まさに両者の関係は幸せな結婚と言えるのではないでしょうか。

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2009年8月16日 (日)

「トランスポーター3 アンリミテッド」 やはり「制約」があるほうがおもしろい

ジェイソン・ステイサム主演の人気シリーズの第三弾です。
1作目は観たのですが、それほどおもしろいという印象はなく、続編はスルーしてしまいました。
じゃなんで3作目である本作を観たの?っていうことになると思うのですが、予告を観たときにおもしろそうって思っちゃったんですよね。
僕は以前からアクション・サスペンス映画というのは「制約」がないとおもしろくならないというのが持論です。
タイムリミットサスペンスなんていうのはその典型。
その他にも「新幹線大爆破」や「スピード」等はある速度以下になったら爆発するという「制約」を上手く設定しています。
そうそうジェイソン・ステイサム主演の「アドレナリン」は興奮していないと死んじゃうというトンデモな設定がなかなかおもしろい怪作でした。
「ディスタービア」では家から離れると通報されてしまうので、家から離れなれないという制約がありました。
本作「トランスポーター3 アンリミテッド」は主人公フランクが自分の車から離れてしまうと爆発してしまうというブレスレッドをつけられてしまいます。
この「制約」がなかなかサスペンスの盛り上げに効いています。
このような「制約」というのは、シナリオを考える脚本家は相当の足かせになると思います。
だからこそ考え抜いてひねり出したアイデアは、オリジナリティ溢れおもしろくなります。
黒澤明監督の作品は複数の脚本家で書いてあるものが多々ありますが、これは誰かが危機を作っていかにそれを登場人物が切り抜けるかというのを、他の脚本家が頭をひねるということをやっていたというのを聞いたことがあります。
本作でも愛車から離れられないフランクが車ごとダムに水没してしまう場面があります。
まさか実は潜水艦機能もついていたなんて、「007」みたいな話にならないよね?と思ったんですが、そんなことはなく、なるほどという危機脱出を行っています。
このあたりはやはりうまく「制約」を越えるアイデアになっていると思います。
全編スピード感溢れ、思いのほか楽しめた作品でありました。

ジェイソン・ステイサムはだいたい出演作では上半身裸をやりますねえ(イ・ビョンホンも)。
確かに鍛え上げられた筋肉は見事ですけど、ちょっとナルなところがあるのかな。
リュック・ベンソン作品には赤毛の女というのがよく登場する印象があるのですけれど、これはやはりベンソンの趣味なのかしらん。

前作「トランスポーター2」の記事はこちら→
ジェイソン・ステイサム主演「アドレナリン」の記事はこちら→

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2009年8月15日 (土)

ブログ3周年

本日はこちらのブログの3回目の誕生日です。
我ながらけっこうこまめに更新しているなあと感じたりもしますが、本人的にはそれほど苦にもなっていないんですよね。
義務感とかではなしに、勝手気ままに自分のペースでやっているからでしょうか。
記事を書くのも、なんか以前ほど力まなくなってきましたね。
昨年の2周年のときの記事を見てみると、ちゃんとしっかり記事を書かないと!というような気負いのようなものを感じますが、最近はあまりそんなことも考えなくなりました。
スルスルと好きな映画を観て、自分が思ったことをサラサラと書いていくといった感じになってきているようです。
以前はけっこう文章の構成とか唸りながら書いていたのですが、最近はほぼ心に思い浮かぶままに書きなぐっているだけ。
まさに本ブログのタイトルを引用した吉田兼好の「徒然なるままに・・・」という気分に達しているのかもしれません。
これからもあまり気負うことなく、つらつらと書き連ねていく所存でございますので、今後ともよろしくお願いいたします。

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「3時10分、決断のとき」 心に誇りを

昨日観た「ココ・シャネル」の会場はおばさま比率が非常に高かったですが、本作「3時10分、決断のとき」はおじさま比率が高かったです。
今時珍しい正統派の西部劇だからでしょうか。
物語も男濃度の高い、骨太なドラマとなっていました。
正直、前半はやや退屈してしまったのですが、ラストは男心がビリビリ痺れるような終わり方でした。

小さな牧場を持っているダン(クリスチャン・ベイル)とその家族は、水がすくない荒れた土地で暮らしているため、生活が苦しく借金を背負っている。
そしてダンは南北戦争で片足をなくしてしまっている傷兵であったのです。
債権者はそんなダンへいやがらせを行いますが、それに対し強く対応しないダンに妻も息子もやや失望のような感情を持っています。
そんなとき彼は逮捕された無法者ウェイド(ラッセル・クロウ)を護送するという仕事を請け負います。
ウェイドは仲間たちを率い、駅馬車などを襲ったりなどの無法を繰り返していた男でした。
相手にももちろん、ドジを踏んだ仲間にも容赦のない血も涙もない人物として恐れられていたのがウェイドです。

ウェイドは護送されているのにも関わらず、余裕綽々といった様子です。
それは仲間たちが助けにくるという自信、そしてダンたちがただの牧場主でいざとなったら気弱になると見下しているようなところもあったのでしょう。
ウェイドは人の善意や信念というものをハナっから信じていません。
生まれの悪さということだけではなく、その根っこには母親に捨てられたという思いが鬱屈してあるのでしょう。
所詮、人は自分のことを守るために、善意や信念など放り投げてしまうものだと。
物語の後半、まさにウェイドの人間観とおりに、大金につられた荒くれ者たちは無法者を護送する者たちに銃を向け、そして守るべき法があるにも関わらず保安官たちは逃げ出します。
護送の依頼者自身も抜け出す中、ダンだけはとどまり最後まで任務を完了しようとします。
ウェイドはダンもいつかは逃げ出すのかと思っていたのでしょう。
けれどもダンは立てこもっているホテルから逃げ出すそぶりすら見せません。
ダンは
「誇れるものなど何もない」
と言います。
ダンは彼の妻や息子たちに、そして自分自身に対しても今まで生きていた中で、自分が誇れるものをもってこれなかった。
けれどもこの護送という任務を成し遂げたとき、それは家族にも自分にも誇れるものとなるであろうと思ったのです。
それは名誉とかそういうものではなく、自分が生を受けて何か残し得たものを持ちたいという気持ちでしょう。
そしてその生き様を自分の子供たちに見せ、理解してもらいたい。
これは男性ならば少なからず共感できることなのではないでしょうか。
ダンが語るのはさきほどの一言くらいです。
それでもウェイドにはその気持ちというものがわかったのではないでしょうか。
なぜなら親から伝えてもらう生き様のようなものこそが、ウェイドが欲していながらも、手に入れることができなかったことであるからです。
ウェイドは自分が護送され刑務所に入れられれば死罪にになってしまうことはわかっていたはずです。
けれども彼はダンに協力するかのように、自ら護送車に向かって疾走します。
彼自身も、ほんとうはダンのように自分が誇りに思うことを受け継ぐ者へ伝えたいと思ったのかもしれません。
駅に向かって走り始めるとき、ダンにも、ウェイドにもそれぞれに決断があったのだと思います。
命に変えても、自分が受け継ぐ者に残していける誇りを持ちたい。
ダンは息子へ、そしてウェイドはダンを通じて、心に誇りを持ちたかったのでしょう。
ラストのウェイドが手にしかけた誇りを失ってしまった時の喪失感、そして怒りみたいなものが激しく伝わってきました。

全編、いわゆるハリウッドチックな派手な見せ方はほとんどなく、非常にストイックな作りとなっていましたが、それがとても男っぽい。
西部劇ですが、ハードボイルドな感じも漂っていました。
演技巧者のラッセル・クロウとクリスチャン・ベールも抑えめの演技ながら、激しく鍔迫り合いをしているような緊張感があり、とても良かったです。
二人とも良く考えてみたら、アメリカ人じゃないんですね。
それでも西部の男がとてもよく似合っていました。

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2009年8月14日 (金)

「ココ・シャネル」 自分らしくあれ

先日「ブランドの条件」という本を読んだところ、シャネルについて書いてあって興味が出てきたので、観に行ってきました。
もともとブランドものというのは違いがよくわからないのですが、本を読んでいて予習をしておいたので、お話にはついていけました。
予想はしていましたが、劇場は女性が多かったですね。

「ブランドの条件」に書いてあったのですが、シャネルというブランドはルイ・ヴィトンやエルメスなどのラグジュアリー・ブランドと異なる点があります。
ルイ・ヴィトンやエルメスというブランドはその創業をナポレオン三世の時代までさかのぼりますが、シャネルはこの映画でも描かれているようにココ・シャネルという女性が立ち上げたブランドであるということ。
そして先に上げた他のブランドが伝統性・貴族性というものに重きを置いていることに対し、シャネルは常に革新性そして使用する人の目線に立ったということが違うのです。
シャネル以前のハイクラスの女性のファッションは、コルセットなどでギューギューに絞られ、いろいろな絢爛な飾りをつけた、実用的とは言いがたいものでした。
今から考えると驚きますが、それらは一人で着れるような代物ではなかったわけです。
そしてそれらのファッションは着る女性のためというより、女性を愛でる男性のためのものであると言ってもいいくらいでした。
ある意味、その時代の女性は、きついコルセットと同じように、男性が決めたルールに縛られていたということなのかもしれません。
けれども時代は進み、女性も社会へ進出を始めます。
この背景には戦争があり、男性が戦地に言っている間、女性たちが国にとどまり日々の活動を行わなくてはいけなくなったのからなのです。
当然働く女性にとって、ごちゃごちゃ飾りがついていたり、床につくようなスカートは邪魔にしかなりません。
けれどもただ実用一点張りでは女性は満足できないのです。
女性は美しくありたいという願望があり、そして活き活きと自分らしくありたいとも思うようにもなりました。
世の女性の願望を、そしてなにより同じように思う自分自身の気持ちを大事にし、デザインをしていったのが、ココだったのでしょうね。
女性の自立なんて難しいことは考えてはいなかったと思います。
服に人間を合わせるのではなく、その女性が最も輝く服を提供したいという気持ちだったのでしょう。
それまでのルールに縛られることなく、自分らしくあるために果敢に挑戦し続ける彼女の生き方がそこには表れているような気がします。
ビジネスパートナーがいくら制止しても、ココはコレクションを止めようとしません。
一度失敗しながらも、挑戦し続ける彼女の姿は活き活きと輝いて見えました。
「自分らしくあれ」と彼女は言っているような気がします。

老年のココ・シャネルを演じたシャーリー・マクレーンはまさにぴったりという感じがしました。
若き日のココはバルボラ・ボブローヴァという初めて見る女優さん。
本物のココ・シャネルの若い頃に面影が似ているような気がしました。

オドレイ・トトゥ主演で「ココ・アヴァン・シャネル」という作品も今度公開されるようですね。
同じ人物を描いているこちらの作品と本作はどんな視点の違いがあるのでしょうか。
こちらも観てみて、比べてみたいと思います。

「ココ・アヴァン・シャネル」の記事はこちら→
本「ブランドの条件」の記事はこちら→

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2009年8月13日 (木)

「ナイト ミュージアム2」 子供ももちろん大人もしっかり楽しめる

楽しい映画でした!
スマッシュヒットとなった前作「ナイト ミュージアム」がさらにパワーアップした続編がやってきました。
前作はニューヨークの自然史博物館が舞台でしたが、本作は所をワシントンのスミソニアン博物館に移しています。
スミソニアン博物館・・・、一度行ってみたいところです。
前作の記事の時に博物館好き、それも特に国立科学博物館が好きと書きましたが、そういう僕としてはスミソニアン博物館は憧れの場所。
古代から現代までの歴史や、人間の営みが生み出したものが、それこそ宝の山のようなものが間近に見れるのですから。

さて、映画の話です。
主人公ラリーは夜警の仕事を辞めて作った発明品が大ヒット、たちまち会社の社長となってしまっています。
警備員を辞めても、時折自然史博物館を訪ねていたラリーですが、ある日訪れたとき、展示物である仲間たちがお払い箱になり、スミソニアン博物館の倉庫に移送されることを知ります。
それを止めようとするラリーですが、それもままならず諦めていたところ、あの石盤がいたずら大好きなお猿のデクスターによってスミソニアン博物館に持ち込まれたという連絡を受けます。
あの石盤が持ち込まれたら、膨大な博物館の展示品がまたもや動き出してしまう!
ということでラリーはスミソニアン博物館へ潜入を試みます。

前作ではダメダメなお父さんであったラリー(ベン・スティラー)ですが、あの夜の経験によるものか、しっかりとした男になっています。
というか、かなりカッコ良く見えました。
特にスミソニアン博物館に潜入するところなどは、スパイ映画かと思うほど。
とはいえ、コメディである本作、笑いどころもたくさんありました。
一番のツボだったのは、本作での一番の敵役カームンラーのキャラでした。
カームンラーはかなり尊大で傲慢な男ですが、なんか大仰で子供っぽいところもあるんですよね。
「ここから手を出したら殺してやる」とか言っていたあたりのカームンラーとラリーの掛け合いは間がなんとも言えずおかしかったです。
ひとりで勝手にどんどんエキサイトしていくカームンラーがおかしいのなんのって・・・。
くつくつと笑っていたら、近くにいた男性もとてもウケていて大笑いしてました。
そうそう、スミソニアン博物館には映画関係の展示物もあるんですよね。
スー、ハー、スー、ハーの黒いあの人も出てきたのは、映画ファンへの大サービスでした。
アル・カポネとその仲間たちだけ白黒ってのもなるほど!と思いましたし、「勝利のキス」の使い方もよく考えてましたよね。
前作は子供向けという感じが強かったと思いますが、本作は子供ももちろん大人も楽しめる作品になっていたような感じがしました。

前作ではノンクレジットで出ていたオーウェン・ウィルソンもジェデダイア役でもちろん出演。
前作登場の他のキャラクターにもきちんと見せ場を作ってくれていたのは嬉しいところです。
さらにスミソニアン博物館のキャラクターも加わりますから、映画はとっても賑やか。
女性で初めて大西洋を飛行機で横断したアメリア・イヤハート役にはエイミー・アダムス。
彼女はこういう役はぴったりハマりますねえ。
キュートな感じが僕はけっこう好きです。
最近は出演作も多く、ノリにノっている感じがします。

前作よりさらに賑やかになった「ナイト ミュージアム2」、家族みんなで楽しめる作品に仕上がっていると思います。
こうなったらこの勢いで「3」も作ってほしいなあ。
次は大英博物館はどうでしょう?

前作「ナイト ミュージアム」の記事はこちら→

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2009年8月12日 (水)

本 「阪急電車」

僕の好きな作家の一人であります有川浩さん。
有川浩さん好きの他のブロガーさんが最も好きな作品と書いていらっしゃったのを読んで、本作「阪急電車」を読んでみました。
阪急今津線を舞台にして、停車駅でのエピソードが、いくつも引き継がれながらいく構成がとてもおもしろかったです。
小さな出来事が、すれ違ったときの何気ない一言が、なにか別の人に影響を与え、そしてまたその人の行動が影響を与え・・・。
バトンタッチをしていくように物語はガタゴトと進んでいきます。
往路のエピソードで登場した人物の、半年後のエピソードが復路でまた語られていきます。
そのエピソードには甘い話、苦い話といろいろな味があります。
苦い話もあっても、有川さんの作品に出てくる登場人物というのは、基本的に素直で真っ当な人々なので、読んでいてもなにかほっこりとさせてくれるところがあります。
彼ら彼女らは真っ当というよりは、そう、極めて常識的な人たちなんですよね。
常識的な人々が出てきて物語になるっていうことは、それだけ非常識な人も多いってことかもしれませんね。
本作にも登場する非常識な人々というのは、自分でも「いるいるそんな人!」と言いたくなるようなタイプの人でした。
しかし、この物語に登場する非常識な人っていうのは日常的に見かけるけますが、本作の征志とユキのような運命の出会いは日常的にはほんとないなあ・・・。
東京の通勤のギューギューの満員電車じゃ、そんな出会いは望むべくもないか・・・。

「阪急電車」有川浩著 幻冬舍 ハードカバー ISBN978-4-344-01450-3

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2009年8月11日 (火)

「仮面ライダー龍騎」<平成仮面ライダー振り返り-Part3>

「仮面ライダーディケイド」の劇場版も公開され、テレビシリーズも最終回まであとわずかとなってしまいました。
「ディケイド」スタートとともに始めた企画<平成仮面ライダー振り返り>ですが、思いのほか難行ということに今更ながら気づいております。
なにせ1年間分(50話弱)を観るのですから・・・。
がんばって、ようやっと「龍騎」までたどり着きました。

「仮面ライダー龍騎」は僕の中では、平成仮面ライダーシリーズのうちで1、2を争うほど好きな作品です。
今までこの企画の中で、「革新性」こそが平成ライダーシリーズの遺伝子であると書いてきました。
「龍騎」はその「革新性」が一つの頂点に達した作品と言ってもいいでしょう。
「13人の仮面ライダーがバトルロワイヤルを行う」という設定、なんと驚くべきことを考えだしたものです。
前作「アギト」では3人の仮面ライダーを登場させるという画期的な試みを行いましたが、その次の作品「龍騎」では登場するライダーの数を一気に13人に引き上げました。
そしてその仮面ライダーたちが最後一人になるまで互いに戦い合っていきます。
すなわち仮面ライダーの敵が、また仮面ライダーであるのです。
これについてはまた後ほど述べます。
「仮面ライダー龍騎」の「革新性」が最もわかりやすいのが、仮面ライダーのデザインです。
主人公である「龍騎」のデザインを初めて見た時、非常に驚いたことを覚えています。
中世ヨーロッパの甲冑の兜のようにも見える、マスクに横に入っているスリット。
「クウガ」にしても「アギト」にしても、それまでは初代仮面ライダーから連なるデザイン上の記号を持っていました。
それは昆虫様の複眼であり、虫の顎を思わせるクラッシャーであり、触角のようなアンテナであるわけです。
それらが一見「龍騎」のデザインには見当たりません。
これではどこが仮面ライダーなのだ?と思いました。
けれども「龍騎」はやはり仮面ライダーなのです。
マスクを覆うスリットの奥には、仮面ライダー1号にも似た複眼が隠されています(劇中それが光るときがある)。
また「龍騎」とともに登場する「仮面ライダーナイト」の口元はやはり往年の仮面ライダーに通じるクラッシャーが見受けられます。
また3人目のライダーとなる「ゾルダ」の額には2本の触角のようなアンテナが立っています。
すなわち「龍騎」とは旧来の仮面ライダーの遺伝子を引き継ぎつつも、それから大きくステージを上げようとしていることがそのデザインからも受け取れるわけです。

さきほど仮面ライダーの敵が、仮面ライダーだということについて触れていきましょう。
これが何を意味するか。
「仮面ライダー」に限らず、従来のヒーローものというのは、悪の組織があり、それと戦う正義の味方がいるという勧善懲悪の物語世界でした。
そのような世界の理解はとてもわかりやすくあるものです。
けれども現実的にはそれほど世界はシロかクロか区別が簡単につくようなものではないということを僕たちは知っています。
そしてそのグレーゾーンというのは世の中が複雑化していく中でどんどん広くなっているような感じもあります。
そのようなグレーゾーンが存在するということを、ヒーローものの枠組みに果敢に持ち込もうとしたのが本作であると思います。
本作の中で仮面ライダーたちは、それぞれが叶えたい願いの為に戦い続けます。
目覚めない恋人の命を救うために戦うライダー。
不治の病に冒された自らの命のために戦うライダー。
一人の命を犠牲にしても多くの人を救うために戦うライダー。
それぞれが戦う理由は、間違っているかいないかと簡単に答えを出せるものではありません。
確かにライダーたちは己が戦う理由を信じつつも、迷い、そして足掻きながら、それでも戦い続けます。
それは簡単に白黒をつけられない現実世界に生きる僕たちが足掻いている様子の投影(これもミラーワールドという設定が暗示させます)であるように思えます。
そして唯一、戦う理由を持たなかったライダーである「龍騎」こと、主人公の城戸真司のキャラクター造形が素晴らしい。
「クウガ」の雄介、「アギト」の翔一は、ある意味現実離れした「いい人」でありました。
そういう意味では彼らは、観ている僕たちが自分を投影できる対象にはし難いキャラクターでもあります。
けれども真司は、戦いを止めようとしているライダーでありますが、ただ他のライダーたちが戦う理由も否定しきれないままに、足掻き続けます。
今でこそ「悩むヒーロー」というのは日本でもアメリカでも定番となってきた感もありますが、「龍騎」の真司は放送当時においては珍しいタイプのキャラクターであったと思います。
彼が足掻き苦しむ姿は、現実世界において、様々な選択肢を前にして迷う自分たちの姿とシンクロします。
「仮面ライダー龍騎」という作品は「善」と「悪」というわかりやすい図式ではなく、世の中の複雑さ、人間という存在の複雑さを描こうとしたところが「仮面ライダー」シリーズの中でも極めて野心的であり、革新的であったと思います。

その他にも野心的な試みはいくつか本作にはあります。
一つは「カードバトル」という設定。
本作公開当時にはポケモンなどのカードゲームが一般的になっていました。
それらを取り入れるだけでなく、物語の設定として有効に使っていたのは見事としか言いようがありません。
その後、仮面ライダーシリーズでも「剣(ブレイド)」、そして「ディケイド」とカードが重要な要素となるのはやはり「龍騎」があったからであると思います。
あと本作よりスーツアクターの存在が非常に大きくなってきたことも、仮面ライダーシリーズとしてターニングポイントであったと思います。
今でこそあたりまえですが、変身前と変身後のキャラクターの一貫性というものをとても重視したのは「龍騎」からではないでしょうか。
それまでのヒーローものというのは、言ってしまえば変身後はまるで別人格のような感じがすることもしばしばありました。
子供にとってはまったくそのようことは関係なかったので良かったのですが、本作ではさきほども書いたように描かれている物語は現実世界の投影であるわけで、キャラクターの心情のリアリティさというのは肝になります。
そこでは変身前も変身後も同じ人間であることが強く求められます。
本作のスーツアクターさんたちは、それを登場人物を演じる俳優さんたちの仕草などを上手く取り入れるようにしてキャラクターの一貫性をとりました。
そして仮面をしているのにも関わらず、そのキャラクターが泣き、叫ぶということがその演技だけで伝えることができるというのを知らしめることにもなりました。
スーツアクターという存在に、スポットをあてたという点は「龍騎」を評価するポイントの一つだと思います。
これが年々研ぎすまされ、また一つの頂点である「電王」への布石となっていくわけです。

本作についても劇場版があり、そちらは劇場版が(テレビシリーズはあと半年もあるタイミングで公開されながら)最終回であるという触れ込みでした。
これも極めて野心的な試みであり、その後の平成仮面ライダーの劇場版は数々新しい試みを行うことになっていきます。
「仮面ライダー」という作品はそのような新しい試みができるというコンセンサスを作ることができたというのも「龍騎」という作品の功績だと考えます。
劇場版よりも衝撃的であったのはラスト前の回で主人公真司が死んでしまったこと。
その時点で「劇場版」そして「テレビスペシャル版」と「龍騎」の世界は二つのエンディングを持っていました。
それはいずれも悲劇的な終わり方であり、テレビシリーズのラストもまた悲劇的であるのか、とやや残念な気持ちにもなりました(城戸真司というキャラクターに好感を持っていたということもあり)。
けれどもそれが最終回のラストで、大逆転の終わり方を「龍騎」は迎えます。
これは「劇場版」「テレビスペシャル版」を踏まえ、計算尽くされたラストであったのでしょうか。
「ああ、ほんとにこれで良かった・・・」と観終わって思える最終回でありました。

半年かかってようやく3作品を観終えました。
「ディケイド」が終わるまで振り返るというもくろみはとうの昔に潰えました。
けれどもこの企画は「ディケイド」が終わり「W」が始まっても続けますので、楽しみにされている方(いるのか?)は、またしばらくお待ちください。
次回「555」でまたお会いしましょう。

「仮面ライダークウガ」<平成仮面ライダー振り返り-Part1>の記事はこちら→
「仮面ライダーアギト」<平成仮面ライダー振り返り-Part2>の記事はこちら→
「仮面ライダー555(ファイズ)」<平成仮面ライダー振り返り-Part4>の記事はこちら→
「仮面ライダー剣(ブレイド)」<平成仮面ライダー振り返り-Part5>の記事はこちら→

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2009年8月10日 (月)

「GODZILLA(アメリカ)」 自然とのスタンス

悪名高きアメリカ版ゴジラ。
監督がアメリカ人よりもハリウッド映画が大好きなドイツ人監督ローランド・エメリッヒなので、大味なのは仕方がないところでしょう。
文句を書こうとするといくらでも書けてしまうので、ここでは別の視点で見てみたいと思います。
本作を観ると、「ゴジラ」という怪獣を通じて、日本人と欧米人のものの見方が異なるということがわかります。
以前「ゴジラ(1954年)」の記事でも書いたように、ゴジラという存在は「荒ぶる神」というイメージがあります。
ゴジラを前にしては、いかに抗おう努力をしたとしても、その勢いを止めることはできません。
もともと日本古来の神は、自然現象を神格化したものです。
「荒ぶる神」というのは、台風や地震等を神格化したものであり、その神々はふいに人々を襲い、それに対しては人はただただ無力で頭を下げてそれが行き過ぎるのを待つしかありません。
そして人はその「荒ぶる神」に畏れと敬いの心を持つのです。
その心は日本人の中に脈々と続いてきていたものであると思います。
だからこそ「ゴジラ」という存在が日本で生まれ、育っていったのだと思います。
それに対して、アメリカ版「ゴジラ」(ここからGODZILLAと表記します)はあくまでも生物であります。
核実験の放射能により生まれたという意味では日本のゴジラと同じですが、それはあくまで突然変異した「生物」なのです。
そしてGODZILLAは物語の中で「生物」としてその生態を解析されていきます。
いわく魚を主食とするのでそれを餌にしておびきだせばいい、両生類の突然変異なので卵を産むのでそれを阻止しなくてはいけない。
つまり、いくら巨大で異質であっても、GODZILLAは「理解可能な存在」であるということです。
そして理解可能であれば、犠牲を払うことになろうとも、必ず克服できると考えるわけです。
これは自然に対しての欧米人の考え方であろうと思います。
自然は解析可能であり、解析できればそれはコントロールできる。
人間の知恵への信望であり、また傲慢でもある考え方。
それが「GODZILLA」という作品には感じられます。
日本人が本作を観たとき、何か違うと感じるのは、やはり自然への見方の違いがあるからだと思います。
日本のゴジラは自然を表した「荒ぶる神」であり、人間はそれをコントロールできるわけがないという精神風土。
そこには自然への敬いがあるのだと思います。
本作でも「GODZILLA」という名前の中に「GOD(神)」とありますが、欧米人の「GOD」とは唯一神であり、日本などの八百万の神という概念は理解しにくいと思います。
放射能の影響によってトカゲが突然変異して生まれたという設定は同じである「ゴジラ」と「GODZILLA」。
けれどもここまでにその存在、つまりは自然への人間のスタンスが違うというのは、やはり民族文化の違いなのでしょうね。

「ゴジラ(1954年)」の記事はこちら→

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2009年8月 9日 (日)

「斬 〜KILL〜」 チープ感があり、いたたまれない

先日テアトル新宿に行ったときに押井守監督の実写映画の予告編が流れていました。
荒野で黒木メイサさんが対戦車ライフルのようなものを持ってドラゴンに向かってぶっ放している。
菊地凛子さんが黒い羽をまとった天使(?)のような姿になっている。
押井さんの趣味が出ているなあと思ったその作品のタイトルは「ASSULT GIRLS」。
どっかで聞いたことあるぞ、と思い出したのが、本作「斬 〜KILL〜」。
本作は押井守さんが総監修のいわゆるソードアクションを題材にしたオムニバス映画です。
その中で押井さんが監督しているのが、「ASSULT GIRL2」という作品です。
今度の「ASSULT GIRLS」はこちらの短編の発展形なんでしょうか。

本作については劇場公開時はスルーしていたのですが、レンタル屋さんでニューリリースされていたので借りてきました。
ソードアクションはやはり好きなので。
押井さんが総監修だし、と少しは期待して観たのですが、うーん、これはどうなんだろう?
剣劇を題材にしているという割には、オムニバスのどの作品も肝心のその部分がまったく見応えがないのです。
アクションにキレがないし、編集もテンポがいまいちあわない。
予算はないのだろうけど、ちょっとチープ感が漂い、いたたまれない感じがします。
これだったらキワモノっぽい「お姉チャンバラ」の方がよほど突き抜けていておもしろいです。
田原実監督の「妖刀射程」という作品は設定はおもしろいと思ったのですが、さきほど書いたようにアクションのテンポがいまいちキレがないのです。
本作に登場するアイテムである妖刀は古来から封印されていた二本の刀で、銃の要素も取り込んで現代に復活するというもの。
すなわち一本はライフル銃のようなアクション、もう一本の脇差しはオートマチック拳銃のようなアクションをとりいれているのです。
ソードアクションとガンアクションの融合ということをやろうとしている心意気は感じるのですが、その発想に表現がついていっていません。
もったいない・・・。
押井さんが見いだして商業映画初監督を任せたということで、センスは感じるのですが、まだまだもの足りないと言ったところです。
一番おもしろくなかったのが深作健太監督の「こども侍」。
これは褒めるところがありません。
大学生が撮る自主映画以下です。
どうしてこんな作品にしてしまったのでしょう・・・?
押井守監督の「ASSULT GIRL2」はさすが他の監督とはレベルが違うクオリティ。
カットの構図のセンス、編集のテンポはやはりいいです。
足技だけでの二人のヒロインの攻防というのはなかなかおもしろいと思ったのですが・・・。
え、これで終わり?というくらいに短い。
これは欲求不満がたまります。
劇場で観ていたとしたら、これは怒っているだろうなあ。

ということで正月公開予定の押井守監督の新作「ASSULT GIRLS」を期待して待つということといたしましょう。

押井守監督「アサルトガールズ」の記事はこちら→

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本 「いつかパラソルの下で」

「リズム」とか「DIVE!!」など少年少女向けの作品のイメージが強い森絵都さんが、初めて大人を主人公にした作品です。
でも森さんの心地よい文章は変わりません。

主人公柏原野々は厳格な父の教育方針に嫌気がして家を飛び出します。
それからフリーターなどをして暮らしていますが、家を出て5年経ったところで父が突然事故で死んでしまいます。
そして厳格な父と不倫をしていたという女性が現れ・・・。
こう書くとドロドロとしたような物語、という印象を持つかもしれませんが、森さん特有の爽やかさというのは健在です。
けれどもいつもの爽やかさに加え、少し苦いところもあるのが、本作が大人を主人公にした作品であるからでしょう。
父親の不倫の話というのは、物語のきっかけでしかありません。
森さんの書く作品というのは、特別な人々の物語ではなく、何か自分のことを書いてくれてるような気持ちにさせてくれます。
物語の登場人物たちが経験することそのものが自分と同じというのではなく、生きていて感じること、思うことというのが、登場人物たちの気持ちとシンクロする感じがあるのです。
「DIVE!!」の3人の主人公のいずれかには誰も自分の姿を投影することができるのでしょうか。
本作も同じ感じがします。
家から独立したけれど、なかなか家に寄り付かないということ。
帰ってみても気をつかってもらうのが少々居心地悪く、早々に戻ってしまうこと。
そんなのがちょっと心苦しいこと。
ちょうど帰省する時期に読んだからか、そういう自分の気持ちに触れるところがあったんですよね。
そういう人の気持ちの琴線に触れるようなところが、森さんの作品にはあるような気がします。
何かしら前向きな感じで終わるところも、森さんの作品の良いところです。
それほどボリュームがある作品でもないですし、夏休みに読んでみるにはいい作品かもしれません。

森絵都さん作品「リズム」の記事はこちら→
森絵都さん作品「カラフル」の記事はこちら→
森絵都さん作品「DIVE!!」の記事はこちら→

「いつかパラソルの下で」森絵都著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-379105-7

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2009年8月 8日 (土)

「侍戦隊シンケンジャー 銀幕版 天下分け目の戦」 観るなら3D

この何年の中の戦隊シリーズの中でも、かなりおもしろい「侍戦隊シンケンジャー」の劇場版です。
本作は国内初のフルデジタル3D映画ということだそうです。
僕が観に行った劇場は残念ながら、普通の2Dでの上映でした(調べていかなかったのがいけないのだけれど)。
上映時間も短いせいか、ストーリーはいたってシンプル。
劇場版というよりは、テレビシリーズの一つのお話といったくらいな位置づけでしょうか。
戦隊シリーズの劇場版はいつも上映時間が短いので、これは賢明であったと思います。
短い時間の中に詰め込みすぎると、話の展開が急すぎてしまいがちになるというところもありますし、また肝心の映画ならではのアクションが窮屈になってしまうからです。
本作は3Dというところあるからか、いつもの戦隊シリーズの劇場版よりもアクションパートを見せるという意図を感じました。
これは正解であったと思います。
やっぱりこちらの作品は3D上映館で観ることをお薦めします。
一つ注文があるとすれば、名乗りのシーンはいつもの通りにピシッと決めてほしかった(本作では騎馬のアクションの流れの中であった)。
もともと名乗りは時代劇から来てるところありますからね、侍モチーフの本作はとても相性がいいと思うんです。

今年の戦隊シリーズはメンバーである出演者が非常にいいですね。
演技も上手だし、特にみなさん目ヂカラがあるように感じます。
僕のお気に入りはシンケンピンク=白石茉子役の高梨臨さん。
ほんとかわいいです・・・。

テレビシリーズ「侍戦隊シンケンジャー」の記事はこちら→

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「劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」 超特大のお祭りムービー

こちらのブログによく来てくださる方はもうご承知のとおり僕は特撮好き、中でも「仮面ライダー」については幼い頃から観ていて、自分の血となり肉となっているものなので、さっそくに公開初日の初回を観てきました!
よく「仮面ライダー」をご存知ない方へのフォローをさせていただきますと、現在オンエアしている「仮面ライダーディケイド」は平成仮面ライダーの記念すべき10作品目です。
「ディケイド」はそれまでの9人の平成仮面ライダーを登場させるという果敢な試みをしている作品です。
なぜこれが果敢かというと、平成仮面ライダーはそれぞれが独立している世界観を有している別個の物語であり、それぞれのライダーが同じ物語世界に登場するというのは本来ありえません。
例えば「ウルトラマン」であればウルトラ兄弟という同じ世界観であるわけなので、「メビウス」の劇場版で試みたようなことは可能なわけです。
けれども平成仮面ライダーの場合は違う。
それをアクロバティックな設定で成立させてしまうのはかなりの力技であり、それをまた成功させているところに「ディケイド」のその凄さがあります。
本作はその「ディケイド」の最新劇場版であり、最終回とも言える作品です。
そしてその劇場版には、僕が幼き頃に夢中になった昭和の仮面ライダーたちも登場するということ。
平成仮面ライダーだけでも相当すごいのに、どんなふうになるのだろうと観る前よりボルテージが上がります。

本日初回に行ったのですが、劇場(TOHOシネマズ錦糸町)は上映時間間際になっても入場させてくれません。
どうなっているんだ?と思っていたらようやく開場。
それでシアターの前に行くと、そこには「ディケイド」(他に1号とシンケンレッドもいた)が立っておりました。
かなりきれいなスーツだったので、多分あれはアップ撮影用の本物に違いない・・・。
大人げなく握手してもらっちゃいました(スーツアクターの高岩さんじゃないよね、そうだったら嬉しいのだけれど)。
その後、シアター内ではクイズに答えた子供たちのポラロイドの撮影を実施してました。
クイズは三問あったのですが、最後のクイズは「1号のベルトの風車はなんという名前?」というものでした。
今の子供たちには難しいだろーと思いつつ、手をあげそうになってしまいましたよ(答えは「タイフーン」です)。

ということもあり、テンションが高いまま「劇場版 ディケイド」を観賞しました。
さきほども書いたように世界観の違うライダーを登場させるという、かなり難易度が高い設定なのですが、よくまとめていたと思います。
監督は平成仮面ライダーを数多く手がけている金田治さんです。
金田さんはジャパン・アクション・エンタープライズ(昔のJAC)の現社長であり、ご自身でもスーツアクターやアクション監督をやってきた方。
やはりアクションは見せてくれます。
オープニングより「アマゾン」VS「響鬼」の異色ライダー対決なんて、ファン垂涎です。
その後は、V3・スーパー1・BLACKの昭和ライダーチームVSクウガ・ディケイド・ディエンドの平成ライダーチームのタッグバトル。
昭和チームはそれぞれ名乗るのですが、V3は宮内洋さんを意識してちゃんと「ブイスリャアーッ」と言ってくれるので、またまたマニア的には感涙(特撮ファン以外はほとんどの人はわからないであろう・・・)。
仮面ライダーたちが戦う相手はその名も「大ショッカー」。
それぞれのライダーの世界の悪の組織が大同団結した究極の悪の組織です。
このあたりは村枝賢一さんの漫画「仮面ライダーSPIRITS」のバダンを彷佛とさせますね。
やはりガラガランダとかイカデビルとか出てくると燃えてきます。
CMでも映っていたキングダーク(「仮面ライダーX」での首領)が登場するのはわかっていたので、巨大化する「仮面ライダーJ」はその相手として登場するとは思っていましたが、まさかのディケイドのファイナルフォームライド。
むむむ、そうきたか、びっくりしましたよ。
そしてやはりオールライダーそろい踏み、そして全員でのライダーキックは鳥肌ものです。
あ、あと「ダブルライダーキック」も。
これが再び観れることになるとは・・・、感慨深いですねえ。

テレビシリーズの驚愕のオープニング、ライダー大戦での夏海の意味深な言葉「世界の破壊者 ディケイド・・・」の謎も本作で明らかにされます。
なるほどそうだったのか・・・。
ディケイド=門矢司の高飛車な性格から考えると、ぴったりとした謎解き。
さすがと唸る巧みさでありました。
この設定は「ディケイド」の企画の当初から考えていたんですかね。
プロデューサーの白倉さんは今までの平成仮面ライダー(「555」など)でもロードムービー的なものをやりたかったということを聞いたことがあります。
これはコストがかかるので、なかなか成立しなかったということですが、それを異なる世界を旅していくという設定にし、見事に主人公、門谷司のロードムービーにしたと思います。
本作では司の世界で彼の妹が登場したこともあり、司が「寅さん」に見えました。
まさに「通りすがりの仮面ライダー」です。
司はこれからも旅を続けていくということですので、また20回目の記念作品で「ディケイド」の登場を期待して待っていたいと思います。
超特大のお祭りムービーでした。

そうそう、劇場にたくさん来ていたちびっ子たちですが、昭和ライダーが出てきても「アマゾンだ!」「V3だ!」と言っていました。
当然のことながら彼らはオンエアなどは観ていないはずなのですが、よく知っているなあと感心してしまいました。

ちらりと「ディケイド」に続く平成11代目の「仮面ライダーW(ダブル)」も登場します。
事前に雑誌等の情報で二人で変身するというのは知っていましたが、一人のライダーの中で二人が会話するっていうのは、まさに「バロム1」ですねえ。
と言っても若い人にはわからないとは思うけど。
さあ、検索、検索!

テレビシリーズ「仮面ライダーディケイド」の記事はこちら→
「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010」の記事はこちら→

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2009年8月 7日 (金)

本 「鴨川ホルモー」

今年の4月に公開された「鴨川ホルモー」の原作小説をようやく読みました。
万城目学さんの作品は初めて読みます。
映画を先に観ていたので、小説を読んでいてもキャラクターの姿は出演されていた方々に脳内変換されていました。
それだけ印象的であったということでしょうね。
京都にある四つの大学がオニを使役して「ホルモー」を戦うという大筋はいっしょでした。
映画の方はやはりメディアの特性上、小説では伝えにくい大勢のオニの合戦とか、高村のチョンマゲ!などのビジュアル的な押し出しを強くしていますよね。
それは正解ですし、印象的になっていたと思います。
原作は主人公安倍の一人称で展開されていくので、彼の内面に関わるところをきちんと書いていて意外でした。
基本的には破天荒な設定「ホルモー」を中心にした、おかしな風合いな小説であることはそうなのですが、安倍が独りよがりな気持ちで始めてしまった「十七条ホルモー」をやっていくに従い、仲間の気持ちに気づくという感動的なところもあったりします。
あと小説の方が凡ちゃんこと楠木ふみがよりいっそう愛らしい感じがします。
なんか恋愛に不器用な理科系女子といったところがなんとも言えず、愛らしい。
ヒロイン的には異色なんですけれど、とことん恋愛に不慣れなところがいいですね。
京大にはこういう子が多いのかしらん。
本作の作者万城目学さんも京大出身ですよね。
同じ京大出身の森見登美彦さんの作品の登場人物もそうなんですが、出てくる学生がなんとも貧乏ったらしく、ダサいんですよね。
こういうのを、いか京(いかにも京大生)というらしいです。
なんとなく京大出身の方は自虐的なところがあるのでしょうか(笑)。
偉そうな感じがする(あくまでイメージ)の東大生に比べて、なんとなく京大生の方が親しみ度は高い感じがしますねえ。

映画「鴨川ホルモー」の記事はこちら→

「鴨川ホルモー」万城目学著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-393901-5

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本 「ブランドの条件」

仕事がデザイン・広告関係をやっているもので、日頃から「ブランド価値」とかいったことを考えています。
商品名やマークにいかに価値を感じてもらえるようにするかというのが、仕事といってもいいかもしれません。
ブランドとは、広義で言えば、商品名、企業名、産地(魚沼産こしひかりとか)などそれこそあらゆる差別化できる単位に適用できると言っていいでしょう。
ブランド価値を作るとはいかに他者と差別化し、独自のポジショニングを得れるかということに他なりません。
世間一般的に狭義でブランドという場合は、いわゆる「ブランドもの」(ルイ・ヴィトンとかシャネルとか)を指すことが多いかと思います。
本作のタイトルにある「ブランド」とはまさにこのようなファッション・ブランドのことです。
冒頭にデザインを仕事としていると書きましたが、恥ずかしながらファッション・ブランドについてはあまり詳しくはないのです。
これはシャネルのマーク、これはエルメスのマーク、とかいった感じで区別がつくようになったのはつい最近・・・。
正直言ってファッション・ブランドというのは浮ついたイメージだけで高値をつけているというようなマイナスイメージすら持っていたところもあります。
何故そこまで女性がブランドものにこだわるが理解できなかったというのが、本音でありました。
本著では、そのようなファッション・ブランドがどうのように成立したのかというのを、その歴史を振り返ってひも解いていきます。
門外漢の自分としてはこれはけっこう目からウロコの部分がありました。
ルイ・ヴィトンはルイ・ヴィトンとして、シャネルはシャネルとしての歴史とコンセプトというのが脈々と続いているということがわかりました。
自分が日常やっている「ブランド価値」の向上という仕事でも、機能的な価値に加えそのブランドに込めるストーリーというのを重視します。
実は日用品でこそ、機能的な価値訴求だけではブランドにはなり得ないのです。
ファッション・ブランドというのは、そのストーリー性というものを伝説という域にまで高めているのだということを感じました。
特におもしろいと思ったのはシャネルでした。
シャネルはそれまでのラグジュアリー・ブランドとは全く考えが違うところから発しています。
その考え方の詳細はここで説明しきれないのでご興味がある方は本著を読んでいただくのが一番良いとは思いますが、一つ言えるのはそれが創業者であるココ・シャネルの先見性に負うことが多いと思われます。
世の女性は彼女の伝説にお金を払っていると言ってもいいと思うくらいです。
いいタイミングでこの伝説化した女性を映画にしたそのものずばりの「ココ・シャネル」という映画が公開されます。
まったく興味がなかった方面なのでスルーするつもりだったのですが、俄然興味がでてきました。
明日から公開なので、どこかで観に行きたいと思います。

映画「ココ・シャネル」の記事はこちら→

「ブランドの条件」山田登世子著 岩波書店 新書 ISBN4-00-431034-2

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「G.I.ジョー」 荒唐無稽、一気呵成

「G.I.ジョー」というと、兵隊さんのお人形というイメージ(古っ!)があるのですが、本作はアメリカのアニメ版が元になっているんですね。
玩具を販売しているハズブロ社が製作に参加していますが、「トランスフォーマー」のヒットでおもちゃが売れると二匹目の泥鰌を狙ってきたのでしょうか。
監督は「ハムナプトラ/失われた砂漠の都」のスティーブン・ソマーズ。
「ハムナプトラ」は「インディ・ジョーンズ」のバッタもんじゃないかと期待していなかったのですが、思いのほかおもしろく、それでスティーブン・ソマーズの名前を覚えました。
本作も「ハムナプトラ」と同様に、期待していないで観に行ったら意外とおもしろいという作品だったと思います。
前半は人物の紹介もあるのでやや退屈なところがありました。
やはりハズレだったかと思い始めたところ、パリでの戦闘シーンになったあたりからアクションからアクションへ怒濤のごとく展開される、いわゆるノンストップムービーとなり、最後まで一気呵成にみせてくれたと思います。
僕が好きだったのはやはりパリでのハイパー・スーツでのカー(?)チェイス。
こういうロボット系にはやはり弱い。
単純にカッコいい!と思ってしまうんですよね。
パリの街中をぶっ壊しながらの派手なチェイスシーンは、「G.I.ジョー」って秘密部隊ではなかったっけ?すごく目立っているんですケド!」という素朴な疑問を持たせる暇も与えないくらいな勢いで展開されます。
潜水艇があんなに機動性あるわけないだろーとか、モスクワからワシントンまで一気に飛べないだろーとか突っ込みどころは満載なのですが、アニメ原作なのであまり細かいところは気にせず、荒唐無稽なフィクションに乗っかっていくというのが正解でしょう。
スティーブン・ソマーズという監督はサービス精神が旺盛な方のような気がします。
マイケル・ベイもサービス精神たっぷりですが過剰すぎてちょっと疲れるところもあるんですが、スティーブン・ソマーズくらいが自分としてちょうどいい塩梅ですね。
最近のコミック原作のヒーローものの主流となっているような人間ドラマもそれほど厚いわけでもないですが、それはもう確信犯ということで。
「人間ドラマは他の映画で観てくれよ、スカッとしたいだろ?」というような作り手の狙いが伝わる、超わかりやすい映画だと思います。
こんだけ暑いと、テーマが重い映画だと胃もたれしそうですしね。
こういうスカッとしそうな映画はやはり夏向けです。
最近ハリウッド系のブロックバスタームービーはあまり乗り切れないところがあったので、久しぶりに単純に楽しめました。

スティーブン・ソマーズ監督作品「ハムナプトラ/失われた砂漠の都」の記事はこちら→

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2009年8月 2日 (日)

「ゆれる」 「檻」の囚われ人

「ディア・ドクター」の記事を書いたとき、同じ西川美和監督の「ゆれる」を未見と書いたら、みなさまから「良いよ!」とお薦めいただいたので、さっそく観てみました。
みなさんがお薦めしてくれるのがわかりました。
本作、とても良かったです。

「ディア・ドクター」を観たときにも思ったのですが、西川監督は物語の登場人物の気持ちについて、台詞やNAなどでいちいち細かく説明をしないんですよね。
「ディア・ドクター」の時にrose_chocolatさんからもコメントいただきましたが、何気ない情景描写で登場人物の心理をさりげなく暗示しているんです。
なのでその登場人物が何を思っているのか、感じているのかというのを、観ている僕たちが想像する余白があるんですよね。
なので本作は登場人物についていろいろな解釈ができるように思えます。
本作で深いキャラクターだと思ったのは、主人公猛(オダギリジョーさん)ではなく、その兄の稔(香川照之さん)でした。
真面目で、やさしくて、正直で、と誰にも言われる稔。
彼が何を思い、どうしてそのような行動をしたのか、僕なりに想像しました。

<ラストに触れるところがあるのでここから先は注意です>

稔と猛の生まれ故郷は、山梨のそれほど大きくない町。
家業のガソリンスタンドは稔が継ぎ、猛は飛び出すように家を出て東京でカメラマンをやっています。
猛はその町がいやでいやしょうがなかったのでしょう。
ずっとつまらない人生を送ってしまいそうな気がして。
けれどもそれは兄の稔が、家を継いでくれたからこそできたことでもあったわけです。
稔もそのような変化のない人生を好んで歩みたいと思ったわけではないように思われます。
時々、うちに秘めた不満が爆発するかのようなところからそれが窺われます。
けれど惰性だったり、踏ん切りがつかなかったりといったことがあって、仕方がないと思って人生を歩んできたように思いました。
なんとなく期待される「いい人」であらねばならないと思ってきているような感じがしました。
そんなときに起きた「事件」。
猛の視点で、稔の事件の裁判が語られて、猛の兄を思う気持ちとその生き方を否定する気持ち、そして自分自身の罪の意識と保身の意識との「ゆれる」気持ちを描いていきます。
けれど稔からすればその「事件」は千載一遇のチャンスであったのではないかと思いました。
彼は「檻」に囚われた人であったのです。
その「檻」とは生まれ故郷であり、家業のガソリンスタンドであり、老いが見え始めている親であります。
もっと別の可能性もあったかもしれないのに、いつの間にか「檻」に囚われている。
稔からすれば、その「檻」から早くに脱出した弟は、憎しみの対象ですらあったかもしれません。
けれどこの「事件」は稔を囲っている「檻」から脱出するための鍵となります。
自分をつなぎ止めていた鎖は、「事件」によって断ち切られる。
故郷との鎖も、家業との鎖も、家族との鎖も。
自分が犯していない罪を償うために7年間監獄の中で暮らすということも、実は稔にとってはどうということもなかったのかもしれません。
なぜなら収監されなければ、ずっとこれからも自分を閉じ込めている「檻」から脱出できなかったであろうからです。
いつの間にかその「檻」に閉じ込められたまま、老いて死んでいく。
たった7年間という気持ちであったかもしれません。
ラストで稔がバスに乗り込む時の表情がとても印象深く思えました。
やっと自由になれるという喜びがそこには感じられました。

なんというか、こういう風に想像させさせてくれる余白を持たせてくれる西川美和監督は素晴らしい。
こうなったら「蛇イチゴ」も観なくては。

西川美和監督作品「ディア・ドクター」の記事はこちら→

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「ヴェロニカ・マーズ シーズン1」 ツンツンキャラ、ヴェロニカ

「マトリックス」等を手がけたジョエル・シルバー製作のテレビシリーズです。
主人公ヴェロニカ・マーズはネプチューン・ハイスクールに通う女子高校生。
父親は元保安官で現在は私立探偵をしていて、ヴェロニカもその手伝いをしています。
ネプチューンという町はビバリーヒルズ近郊にあり、そこに通う生徒たちは超セレブの子息から普通の家庭に育った生徒までおり、少なからずトラブルが起こります。
そのトラブルの解決をヴェロニカは請け負います。
またヴェロニカの親友リリーは何ものかに殺害されています。
この真犯人を探す捜査の中で保安官であった父親は真犯人を探そうとして、職を追われます。
このリリー殺害事件がシリーズを貫く縦軸となります。

あまり期待をせずに観始めた本シリーズですが、これがかなりおもしろいです。
まず主人公ヴェロニカのキャラクターがとてもいい。
もともと学校ではセレブのお友達のグループに所属していましたが、父親が名家でありヴェロニカの元カレであったダンカンの家を真犯人として疑ったために、イジメにあいます。
でもヴェロニカはそれに泣き寝入りするようなやわな性格ではありません。
そういうイジメに対して仕返しをしたりするところが痛快。
主演のクリスティン・ベルが始終不機嫌そうな表情がなんかいいんですよね。
言わばツンツンキャラですね。
ちなみにクリスティン・ベルは「HEROES」にシーズン2から電撃の力を持つ能力者として出演しています。
もともとクリスティン・ベルちっちゃくてかわいらしい感じなのに、生意気で不機嫌で、皮肉屋なところが、またかえってかわいらしい感じもします。
ヴェロニカの来ているファッションもカジュアルで活動的な若者らしいスタイルで、女の子はとても参考になるのではないでしょうか。
そんな彼女も恋にも悩むし、また出生の秘密もからんできて、ドラマは盛り上がります。

ミステリーとしてもなかなか見応えあります。
基本的に学園の事件が一話完結で展開していきますが、それにシリーズをつなぐリリー殺人事件が絡んでいきます。
徐々に真相に近づくにつれ、彼女の恋、そして彼女の出生の秘密にも絡んできていて、一話ごとに目が離せません。
事件の真相はけっこうびっくりするようなところでしたが、なかなかこれも良かったです。
ヴェロニカの恋のゆくえもこれまた意外な展開でしたが、良かった。
ラストシーンは彼、ですよね?

ちなみに殺されるリリー役は「マンマ・ミーア!」で主演をしたアマンダ・セイフライドでした。
まだ無名の頃なのかな。

さっそくAXNでシーズン2が放映開始。
こちらも追いかけていきます。

「ヴェロニカ・マーズ シーズン2」の記事はこちら→

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2009年8月 1日 (土)

本 「リズム」

居心地の良い環境もいつか変わっていってしまいます。
主人公のさゆきは中学一年生。
まだ子供と言っても良い年頃です。
さゆきは「変わらないものが好き」と言います。

 風みたいに、
 空みたいに、
 月みたいに、
 変わらずにいてくれるものが好き。

こういう文章がありました。

でも彼女が「第二の我が家」と呼ぶおじさん夫婦も離婚してしまいます。
またさゆきの大好きな従兄の真ちゃんも東京に行くと言います。
いつまでもずっとそのままでいてくれると思っていた環境も、いつしか変わっていってしまう。
思ってもいなかったその変化に、さゆきは翻弄されてしまいます。
そんなさゆきに真ちゃんは
「自分のリズムを大切にしろよ」
と言います。
生きていれば、周りは変化していってしまいます。
けれどそれに翻弄されるのではなく、自分のリズム、自分の好きなことややりたいこと、自分らしさを大事にしていく。
そうすればしっかりと生きていけます。

森絵都さんの文体はとても優しいですよね。
本作は森さんのデビュー作で講談社児童文学新人賞をとった作品です。
少年少女向けに書かれているので特に本作は優しさを感じます。
上で引用したような、中学生が書きそうなちょっと拙いけれど透明な感じの文章が、とても心地よい感じがしました。

本作の続編「ゴールド・フィッシュ」の記事はこちら→
森絵都さん作品「いつかパラソルの下で」の記事はこちら→
森絵都さん作品「カラフル」の記事はこちら→
森絵都さん作品「DIVE!!」の記事はこちら→

「リズム」森絵都著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-379106-4

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「セントアンナの奇跡」 枠組み思考の悲劇

印象深いシーンがありました。
登場人物が神に祈りを捧げているシーンです。
アメリカの黒人兵、イタリア人たち、ドイツ人捕虜がそれぞれの場所で、同じ神に祈りを捧げています。
けれども彼らは敵対する間柄なのです。
同じ信仰を持っているのに、なぜ人は互いに殺しあうのでしょう。

ナチスだからといってすべての人がひどい人間なのではありません。
生き残った赤ちゃんですら冷酷に射殺する将校もいれば、虐殺を生き延びた子供を逃がそうとする兵士もいます。
同じ町に暮らすイタリア人でもファシストを支持する者、パルチザンとして戦う者。
パルチザンの中でも、祖国のために戦う人間、裏切りに走る人間とがいます。
アメリカ人兵士でも白人将校と黒人兵。
黒人兵の中でも、黒人の将来のことを考えアメリカのために戦う必要があるというスタンプス、何か冷めた目で達観しているビショップなどがいます。
僕は本作観る前は、スパイク・リー監督なので、第二次世界大戦下での黒人兵の扱いを通じて黒人差別を描くというお話かと思っていました。
確かにそういう要素もありましたが、たぶん言いたいのはそういうことだけではないと感じました。
前にもブログで書いたことがありますが、僕たちは人をある枠組みでとらえようとする傾向があります。
例えば、人種という枠組み。
宗教という枠組み。
イデオロギーという枠組み。
この枠組みは物事を大きく捉えるときにはとても役立ちます。
けれどもその枠組みを個人に適用するとおかしなことが起こります。
この人種はこうだとか、この宗教はああだからとか。
昨年はやった血液型というのも同じようなことだと思います。
血液型がA型だから、真面目だとか(話のネタとしてはいいけれど)。
「ここにいると俺が俺でいられる」
という台詞がありました。
僕たちはどうしても普段、個人をその個人ではなく、枠組みをはめて見てしまいがちです。
彼らは祖国アメリカでは、個性ある個人としてではなく、「黒人」という枠組みの中の一人という捉えられ方しかされていなかったのでしょう。
実はこのような捉え方が差別意識のベースになっているわけです。
スパイク・リーはその差別意識のベースになっている、枠組み思考みたいなものを描きたかったのではないでしょうか。
個人を見ずに枠組みだけしか見れなくなったとき、悲劇は起こるのです。
ナチスのユダヤ人虐殺しかり。
アメリカの東京大空襲しかり。
本作で描かれたセントアンナの大虐殺しかり。
そこにいるひとり一人を個人としてとらえずに、枠組みでしかとらえられなくなることが問題なのだと思いました。

本作2時間半越えのかなりの長尺。
前半はかなりスローペースで物語が進むためやや睡魔に襲われるところもありましたが、後半のいたたまれなさには眠気も飛びました。

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本 「東京下町殺人暮色」

こちらの作品は宮部みゆきさんのかなり前の作品ですが、その後彼女の作品の中で繰り返し扱われる要素がやはり出ています。
ひとつは罰せられなければ何をやってもいいという意識を持つ者たちの存在です。
特に彼女の作品では少年が未成年だから罰せられないという意識で、残酷な犯罪を行うということが描かれることがあります。
彼らは恨みが募ってとか、やむにやまれずというような感情ではなく、相手のことに対する意識すらなく人を殺します。
本作の中では、それは想像力の欠如という言い方で指摘されています。
こういうことをしたら相手は痛いだろうとか、いやな思いをするだろうというあたりまえの想像力が欠如している。
だからこそ残虐なことでも易々とできてしまう。
このような悪があるということを度々宮部みゆきさんは描いています。
またひとつは賢者の存在です。
これは大概、彼女の作品では年老いた老人という人物として描かれます。
本作ではハナがそれにあたるでしょう。
彼らは特別な人生を歩いていたわけではありません。
平凡な人生を生きてきながらも、長年生きてきた中で、人の気持ちを斟酌する術を身につけてきた人たちです。
だいたい穏やかな人として描かれます。
また宮部さんの作品のなかでしばしば舞台になるのが下町。
本作もそうですが、下町というのはそれこそ江戸時代から続く町であり、暮らす人と人というのが今よりもずっと親密であったところです。
現代的な感覚で言うと他人のプライバシーのところまで踏み込んでいたり、おせっかいであったりするのかもしれませんが、逆に困った時にでも助けられる間柄とも言えます。
そこにモザイクのように新規の住民たちが入ってくる。
昔ながらの共同体に新しい人々が入ってくる。
彼らはお互いに顔の見えない人々であります。
互いに顔を見えないということは、相手の考えていることもわかりにくくなるのは当然です。
そういう環境がもしかしたら最初に書いたような、相手のことを想像する力のない若者を生み出してきているのかもしれません。
本作は1990年に発表された作品ですから、それからもう20年近く経っています。
報道される陰惨な事件を見るにつけ、想像力のない人々が着実に増えてきているような気がして、恐ろしくもあります。

「東京下町殺人暮色」宮部みゆき著 光文社 文庫 ISBN4-334-71944-9

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