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2009年7月27日 (月)

本 「イノセント・ゲリラの祝祭」

海堂尊さんの田口・白鳥シリーズの第4弾です。
現在の医療についての課題をエンターテイメントに包み、わかりやすく提示してくれる本シリーズですが、舞台を桜宮市から厚生労働省に移しての展開になります。
最近の医療について思っていることは先日観た映画「ディア・ドクター」のところで縷々書いたので、こちらでは別のことを。
本シリーズは「チーム・バチスタの栄光」で宝島社の「このミステリーがすごい!」で大賞をとってから快進撃が始まったわけです。
よってそもそもはミステリーだったわけですが、最近はミステリーという枠組みを越えたエンターテイメント作品になっていると思います。
本作などは特に顕著なんですが、なにでエンターテイメントをしているかというと「論戦」なんですよね。
ディベートのようにお互いが自分の意見を主張をする。
それはただの言葉の応酬などではなく、言葉を使った果たし合いのような緊張感、そして剣豪たちの戦いを観ているようなエンターテイメント性があります。
もともと「ロジカル・モンスター」白鳥の存在により一作目からその萌芽はあったのですが、このシリーズは本作に至り、言葉でのやり取りによる丁々発止のエンターテイメントというスタイルを確立したように思います(「ナイチンゲールの沈黙」などはまだミステリーにするかどうかの迷いを感じました)。
海外の作品ではジョン・グリシャムなどが代表するリーガル・サスペンスが確立していますが、日本でも言葉による戦いをエンターテイメントで描くということのスタイルが確立していくかもしれませんね。
本作では極北市の医療事故についても触れられているけれど、先日発売された「極北クレーマー」とリンクしているのかな。
姫宮はそっちに出ているようなので「極北クレーマー」も読まないと!

小説「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→
小説「ナイチンゲールの沈黙」の記事はこちら→
小説「ジェネラル・ルージュの凱旋」の記事はこちら→
小説「アリアドネの銃弾」の記事はこちら→

「イノセント・ゲリラの祝祭」海堂尊著 宝島社 ハードカバー ISBN978-4-7966-6676-3

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本 「戦略シナリオ -思考と技術-」

こちらの著作は初版が1998年だからもう10年以上前になります。
けれどもこの本の中で書かれていることは、全く古くなっていません。
というよりも先行きが見えにくい時代だからこそ、この本のテーマである「戦略思考」というものが必要になると思います。
自分もマーケティングの周辺分野でずっと仕事をしてきたこともあり、自分なりの方法論というものを持っていますが、本作で書かれていることというのは自分でも実践していることと共通したところがありました。
本著で書かれている「戦略思考」ですが、陥りやすい思考方法として「オペレーション思考」と「ギャンブル思考」というのがあります。
「オペレーション思考」というのは、現状顕在化している状況の中でいかに問題解決をしていくかという思考スタイルです。
ある枠組みの中にいかに効率的にオペレーションしていくかというのがこの考え方です。
これは高度成長期のように世の中が右肩上がりであり、ある程度その先行きが読める状況であれば最も効率的な思考方法になります。
ですが、状況が激しく変わり続けている中では「オペレーション思考」は対応しきれなくなっています。
また「ギャンブル思考」というのは論理的に破綻している言わば「思いつき」の考え方です。
こういう事例は実はけっこう自分の会社でもあったりします。
「オペレーション思考」で行き詰まったときに起死回生とばかりに、ハイリターンを求めてしまう。
けれどもその裏にはハイリスクがあるとも考慮せずに。
これは危険な思考方法です。
世の中の情勢が激しく変化し続ける中で有効なのは本著であげられている「戦略思考」であると思われます。
「戦略思考」というのはリスクをイメージしつつ、最もリターンをあげられる道筋を考えていくということです。
「オペレーション思考」は言わばリスクばかりを気にしすぎる安全主義ですが、今まで予想し得なかった状況になったときには昨日しません。
「ギャンブル思考」はリスクを無視した考え方であり、賭けに成功した場合はいいですが、そうでない場合は組織を破壊しかねません。
「戦略思考」とはリスクとリターンのバランスをとるという思考方法なのです。
そのためには客観的な現状の把握と、そしてビジョンが必要です。
現在の立ち位置と、未来の立ち位置をイメージすることにより、その中で最もリスクとリターンのバランスがとれた道を見つけるということです。
未来の立ち位置がしっかりとしていれば、その道行きで何か突発的なことが起こったとしても、行うことのベースにはぶれることはありません。
「オペレーション思考」というのは現在しか見ていない考え方、「ギャンブル思考」とは良い未来しか見ていない考え方とも言えるでしょう。
たびたびこのブログでも触れているのですが、昨年は自分が所属する会社を未曾有の危機が襲いました。
それは予想をすることはまったくできない事態で業界全体がダメージを受けました。
けれども僕たちの会社はその対応には、全くブレなく対応できたと思っています。
それは中は大変でした。
今まで誰も経験したことがない事態でしたから。
けれども僕たちの会社は「こうあるべき」という姿のイメージが共有化されていました。
ですのでいろいろな打ち手がすばやく実施できたのだと思います。
これはいわば社員が「戦略思考」でものを考えていたのでしょう。
先行きの見えないこういう時代だからこそ、このような考え方が必要なのだと思います。

「戦略シナリオ -思考と技術-」齋藤嘉則著 東洋経済新報社 ハードカバー ISBN4-492-53049-5

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「ハリー・ポッターと謎のプリンス」 ハリーの成長が窺える

<最後にネタばれあるので、注意です。でも多分みんな知っていると思うけど(笑)>

個人的にはあまり評価は高くない前作の「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」のディビッド・イェーツが本作でも継続して監督をしています。
ですのであまり期待していなかったのですが、予想とは違いけっこう楽しめました。
2時間半くらいある長めの尺なのですが、まったく退屈することはありませんでした。
たぶん本作では、ハリーの宿敵であるヴォルデモードという存在がどのように生まれたかという謎を解くということが物語の幹にしっかりとあるからでしょう。
前作、前々作はボリュームのある原作をなんとか2時間半の時間に収めるということに汲々としていた感じがしましたが、本作はそのようなダイジェスト感のような窮屈な感じがしませんでした。
またハリーとジニー、ロンとハーマイオニーの恋が淡く描かれているのが、全体的にダークなトーンで描かれている「ハリー・ポッター」シリーズに、ほのかに花を与えているような気がします。
あとハリーがとても少年時代を過ぎ、青年になってきているというのをとても感じました。
これはダニエル・ラドクリフの見た目っていうことだけではなく、ハリーというキャラクターの成長というものが窺えます。
「ハリー・ポッター」シリーズの中盤では、ハリーは思春期の少年らしく何か苛立ちのようなものがあったように見えました。
自分の力に自信満々になってみたり、逆に妙に落ち込んでみたり。
恨みに我を忘れて暴走したり、恋に恋してはしゃいでみたり。
10代の少年にありがちな不安定さみたいなものが、観ていてちょっとイラッとしたりしました(原作は特にそうなんですけれど)。
けれども本作「謎のプリンス」では、ハリーはとても冷静で、それでいてやさしく周囲の人に目を配ることができるようになってきています。
例えば、ハーマイオニーがロンに恋心を抱いているのにも関わらず、ロンが他の女の子といちゃいちゃしている場面。
そんなロンを見ていられなくなってハーマイオニーは席を外します。
ハリーはそれを見ていて、何を言うでもなくハーマイオニーの傍らにいてあげる。
友人たちへのやさしい心配りから、ハリーの成長が伝わってきました。
彼は以前のように怒りに任せてヴォルデモードと戦おうとはしません。
自分のなすべき役割として、それを行おうとしているように見えます。
本作最後にハリーをずっと導いてきたダンブルドアが命を落とします。
これはダンブルドアがハリーの成長を認めたということなのだと思います。
それまでのハリーは危なっかしくて一人にしておけなかった。
けれど本作でのハリーは自分の使命にきちんと向かい合える大人として描かれていました。
たぶんダンブルドアはもう自分が導かなくても、ハリーは一人でもやっていけると思ったのでしょう。

次回作であり、最終作である「ハリー・ポッターと死の秘宝」は2部作になるとか。
監督は本作と同様にディビッド・イェーツが続投ということです。
本作でしっかりと「ハリー・ポッター」の世界を構築した監督が、最終作をどのように仕上げてくれるか今から楽しみです。

「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の記事はこちら→
「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の記事はこちら→
原作小説「ハリー・ポッターと謎のプリンス」の記事はこちら→

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「ディア・ドクター」 ちゃんと向き合う

ちょうど海堂尊さんの「イノセント・ゲリラの祝祭」を読んでいるところだったということもあり、本作を観て医療というものを考えてしまいました。
医療というと巨大なシステムのような感じがしてしまいます。
何か問題があった場合は、法律改正とか、組織改編だとかそういうことを変えないといけないような感じがしたりもします。
けれど一人の患者としては、そんなシステムのことなど関係なくって、医療っていうのは診てくれるお医者さんその人のことなんですよね。
総合病院などに行くと、なんだかベルトコンベアーに乗せられて診察されているような気もしてしまいます。
昔、子供の頃は風邪をひくと掛かり付けのお医者さんに連れられていきました。
町医者なわけで当然のことながらいつも同じ先生で、連れて行くほうとしても安心していられるということもあるのでしょう。
医療というのは人の生き死に関わる仕事、そこまでいかなくても生活には深く関わる仕事です。
だからこそ患者と医師の信頼関係というのが大事な気がします。
伊野は偽物の医者であったかもしれませんが、医療の根本である患者との信頼というものを築いていたように思います。
さきほど書いたように医療は人の生活、人生に関わる仕事です。
だからこそ真摯にあたらなくてはいけません。
自分の死をどう迎えるかというのは、やはりそれぞれ患者さんの考えがあると思います。
かづ子は夫の死を経験したとき、自分は無理矢理な延命をすることによって家族に負担をかけたくないと思いました。
けれども現在のシステム化された医療においては、なにもしないことにより死を迎えさせるということはさせません。
本人がどう生き、どう死にたいかということが置いていかれてしまうわけです。
当然家族はどんなことをしてでも生きていてほしいと思うでしょう。
お互いが思いやることによって生じるこのギャップ。
たぶんすべての事例に当てはまる万能の解はないのだと思います。
だからこそ医師は個別の患者のケースに正面から、ちゃんと向き合わなくてはいけないのだと思います。
伊田は、家族に迷惑をかけたくないというかづ子の思いを知り、そして娘のりつ子の母に生きていてほしいという思いも知ります。
そのギャップの中で、彼は彼なりに最善と思える行動に出たのだと思います。
そういう意味で彼は医師免許は持っていなくとも、立派な医師であったと言えるのかもしれません。
医療については問題山積で、そのしわ寄せが現場のお医者さん個人個人に重くのしかかっています。
システム化するのは悪いことではありません。
それでお医者さんの負担が軽くなるのであれば、それがまた医療の向上に繋がるからです。
けれどどうもそういう風にはなっていないような気もします。
そういう対策を考える中で、やはり現場が医師と患者とが、人間と人間として相対しているという感覚を持っていてほしいと思います。

伊野はなぜニセ医者になったのでしょう。
医薬会社のセールスマン(香川照之さん)の台詞でありましたが、やはり人の生き死にを預かっている、信頼されていると思いなんだろうと思います。
システムの中の歯車となり仕事をしていると何のためにやっているのかわからなくなったりもします。
けれどけっこうみんなの心にあるのは、いっしょにやっている仲間であったり、顔を合わせているお客さんであったりが、自分のやったことで喜んでくれるっていうことがモチベーションだったりするのだと思います。
人の役にたっていると感じられるというのは、何にも増して彼にそうさせた理由なのだろうと思います。
ここからは物語で語られていない、僕の想像です。
たぶん伊野は医者である父親の姿を見、医者になることを志したのだと思います。
けれど医大に入れなかったのか、医者になることを諦めたのではないでしょうか。
でも医療に近いところで仕事をしたいと思い、医療機器メーカーで働いていたのだと思います。
なにかのきっかけで彼は医師に間違えられたのでしょう。
たぶんその頃、彼はやはり歯車のようになっている自分がなぜ働いているのかということがわからなくなっていたのだと思います。
だから必要とされるところで、医者となることにしたのでしょう。

「ゆれる」は未見で、西川美和監督の作品は初めて観ました。
脚本も書かれていますが、とても良い構成だったと思いました。
冒頭より伊野医師の失踪という謎が提起され、それが何故起こったのかという謎解きで物語は進んでいきます。
けれどもそこで描かれるのはあくまで人物が主体であって、謎解き自体が目的ではありません。
淡々と物語が進んでいく中で、浮かびあがってくる人の思い。
これをはっきりと描くのではなく、そこはかとなく描くのが、重いテーマを扱っているのにも関わらずとても心地よい。
全体のリズムがとても心地よく、けれども物語から引きつけて話さない力を持っているように感じました。
「ゆれる」も観ようかなあ。
井川遥さんがとてもきれいに撮られていたのが印象的でした(もともときれいな人ですが)。
なんというかとてもナチュラルな感じで。
女性が女性を撮ると、男が撮るのとは違う美しさを感じますね。
西川美和監督も、パンフレットで写真を拝見しましたが、女性らしいきれいな方で。
失礼ながら映画監督っぽくない・・・。
感性に女性らしいやさしさみたいなものを感じました。

西川美和監督作品「ゆれる」の記事はこちら→

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2009年7月26日 (日)

「サンシャイン・クリーニング」 「負け組」って何?

なんで自分ばっかりこんな目に合うんだろう・・・。
隣の芝生を見れば青々として見え、自分はと言えばすっかり「負け組」な感じ・・・。
というのは誰しも一度や二度は思ったりするのではないでしょうか。
主人公ローズもそんな一人。
ハイスクール時代はチアリーダーで活躍していたものの、その後はシングルマザーとなってしまい、元恋人と不倫中。
家族はと言えば、トラブルメーカーの妹、ちょっと変わった感じのある息子、一攫千金を夢見て怪しげな商売に勤しむ父親と、やっかいごとばかり。
そして母親はローズが幼いときに自殺しているのです。
「私は強い」と鏡に向かって気合いを入れているものの、時々泣き出しそうになるローズ。
息子の学費を捻出しなくてはいけないために一念発起し始めた仕事は、犯罪現場や自殺現場のクリーニング。
当然のことながらそんな現場は実際に僕は見たことないですが、相当にたいへんなお仕事であろうというのは想像できます。
誰もやりたがらない仕事であるからそのフィーはやはり高いし、自分でいろいろと工夫をして仕事をしていくことにローズはワクワクした気持ちを持ち始めます。

ローズの家族はというと先に書いたように、世間的には変わっている人、困り者といった感じ。
ローズ自身は真面目で一生懸命に思いやりもある人だけれど、その境遇はやはりちょっと後ろめたいところもあります。
そういう点で世間的にはすっかり落伍者、言わば「負け組」な感じなわけです。
でも「負け組」って、いったいなんなんでしょう。
他の人と違っているということはなんか悪いことなんでしょうか。
そもそも誰が「勝ち負け」なんて決めているのでしょう。
それは社会が作っている雰囲気、イメージ以上のものではないと思います。
こういう生活をしているのがいいと、いつの間にか作られたイメージ。
そのイメージにそぐわなければ、なんか「負け組」にされてしまうという恐さをみんなが持っているような気がします。
実はそのイメージですら、固定的な価値観ではなく、とても移ろいやすいものなんです。
例えば、この日本ではつい最近(といっても10年くらい前)までは独身で優雅に暮らすっていうのがトレンディ(古っ!)とされていました。
けれども今となっては結婚して子供をもって暮らすっていうのが、いいとされているわけです。
だからみんな慌てて「婚カツ」に精を出すわけなんですが、これも何か絶対的な価値というよりは、世間が作っているイメージに踊らされているような気がします。
ローズ自身も家族も、世間から見たらちょっと外れている人たち。
だからといって「負け組」なんでしょうか。
たぶん「負け組」っていうのは自分で思ってしまった時点でそうなってしまうんでしょうね。
本作で重要なキャラクターはウィンストンだと思います。
彼は片腕の障害者で、あまり世間に馴染みのないクリーニング向けの卸店をやっていて、模型作りが趣味な、やはり世間から見たらちょっと変わっている部類に入りそうな人です。
けれど彼からはなにか「負け組」な臭いというのを不思議と感じません。
片腕であるということすら、自分の個性として受け入れられている強さのようなものがあるように見えます。
「負け組」と感じるというのは、世間一般の価値から外れている自分自身を貶めているということなのかもしれません。
世間と違っていたってそれはいいじゃない。
そういう強さ、前向きさがあるほうが人生は豊かなのでしょう。
変わり者の孫に、ローズの父親は「おまえは特別だ」と言います。
違っているということもそれは個性。
自分の境遇とか自分ではどうしようもないっていうことはあります。
それをウダウダ言ってただけでは変わるわけではありません。
違っていることを前向きにとらえて生きていく。
それだけで人生の見え方は違って見えるような気がします。

主演のエイミー・アダムス、いいですねえ。
この人の太陽のような笑顔が好きです。
「魔法にかけられて」で初めて知りましたが、これから注目したいと思います。

エイミー・アダムス主演「魔法にかけられて」の記事はこちら→

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2009年7月25日 (土)

「宇宙戦艦ヤマト」 センス・オブ・ワンダーが溢れている

このところ「機動戦士ガンダム」3部作を観たので、懐かしアニメシリーズということで、えらく久しぶりに「宇宙戦艦ヤマト」を観ました。
今年は「復活篇」も公開するということですし・・・。

本作のTV版が公開されたのは「ガンダム」より更に前。
「機動戦士ガンダム」の記事のとき、「アニメを変えた記念碑」と書きましたが、本作はアニメだけにとどまらず映画や漫画や、小説等様々な作品に影響を与えたと言っていいでしょう。
ですが本作はテレビ放送時は視聴率はふるわず、当初予定よりもシリーズは短くなっています(なのでイスカンダルからの帰り道はえらく早い)。
なにせ裏番組は「アルプスの少女ハイジ」でしたから・・・(僕もハイジを観てました)。
「ガンダム」も「エヴァンゲリオン」もそうですが、エポックな作品というのは世の中に受け入れられるのには時間がかかるのでしょうか。

「宇宙戦艦ヤマト」という作品は改めて観てみると、SFのセンス・オブ・ワンダーに溢れた作品であると思います。
それもそのはず、企画にSF作家の豊田有恒さんやスタジオぬえ(SF作家の高千穂遙さんや「マクロス」シリーズでおなじみの河森正治さん等が所属)が参加していましたから。
まず戦艦大和に空を飛ばせるっていうことを思いついたのが、まずすごい。
本作以降は「宇宙戦艦」という概念はとても普通な概念になっていると思いますが、「ヤマト」以前はそんなにはっきりとしたものはなかったような気もします(宇宙船という概念はあったとしても)。
エピソードで出てくる設定等もよくよく見れば、とてもSF的であるものが多いのです。
冥王星の反射衛星砲とか、ガミラス星の硫酸の海の設定など、きちんと考えられていることに今観ても唸ります。
ですが、ただハードな科学的な設定だけでなく、科学的でなくてもワンダーである要素もふんだんにあります。
宇宙戦艦であるヤマトが攻撃されてモクモクと煙を出すというのは、実際にはあり得ないのですし。
僕はガミラスの三段空母が好きなのですが、宇宙空間で滑走路なんて必要ありません。
ですが、やはりああいうのを良しとするのが、センス・オブ・ワンダーなのです。
子供心に何かを感じたのでしょう。
それこそ再放送をやるたびに一生懸命観ておりました(当時はビデオなんて便利なものはなく、放送している時はものすごく真剣に観てました)。

僕としては「ヤマト」シリーズは「さらば宇宙戦艦ヤマト」で終わっています。
それ以降はどうも「売らんかな」という作り手側の発想が見えてしまって、興ざめしてしまったのです。
冒頭に書いたように今年の年末に「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」を公開するということです。
ただ用意されているホームページを見てみてもしばらく新しい情報は発信されていません(ホームページの作りもとてもしょぼいし・・・)。
ホームページを見ると和解書なるものが掲載されていてなにやら不穏な臭いも感じます(松本零士氏、プロデューサー西崎義展氏、東北新社の間ではなんども著作権についてもめています)。
今までも新作が公開と噂があっても、何回か頓挫している「ヤマト」シリーズ。
無事に今回は「発進」することができるのでしょうか・・・。
願わくば、ファンありきで作品を作って欲しいものです。

新作「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」の記事はこちら→
「機動戦士ガンダム」の記事はこちら→

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2009年7月20日 (月)

「サマーウォーズ」 あんたならできる

口コミで次第に観客を集め、単館公開ながらロングランとなった「時をかける少女」の細田守監督の新作です。
新宿厚生年金会館での試写会で観たのですが、満席となっていました。
これだけ人を呼べるのですから、東京で4館のみの公開というのはもったいないような気がします。

仮想空間OZ(オズ)が普及し、皆がアバターを持って、パソコンやケータイを通じてショッピング、公共サービス、バトルゲーム等の様々なサービスを受けられるようになっています。
健二は憧れの先輩夏希の恋人役になってくれと頼まれます。
なんでも田舎の栄おばあちゃんの90歳の誕生日に、一族が集合してお祝いをするということ。
そのときに恋人を連れて行くと言ってしまったということなのでした。
そうして迎えた夏休み、夏希の田舎、陣内家に行った時に、健二のメールに届いた謎の暗号。
健二は数学好きということもあり、その暗号を解いて返信したところ、翌日OZは何ものかに浸食されていました。
そしてOZに多くを依存していた現実世界にも混乱が広がっていきます。
それに向かって立ち上がるのは、陣内家の人々。

世界を一人で救えるわけなんてない。
映画の中ではヒーローが世界を救いますが、みんな現実的にはそんなことできないと思っていますよね。
たぶんそれは正しくて、やはり世界を相手にするにはひとり一人の力というのは小さいもの。
けれどそんな小さな力でも、気持ちがつながって、ひとり一人がするべきことをすれば、大きな力になっていきます。
本作ではたった一人のヒーローなんていません。
世界を救うのは、自分のなすべきことをしていく陣内家のご親戚たち。
一族はみんな人のために役に立つ仕事(医者、消防士、警察官、自衛官など)をしています。
これも陣内家のDNAでしょうか。
OZの世界を浸食していくAIに対して、陣内家の皆は負けても負けても食らいついていきます。
「あんたならできる」
栄おばあちゃんは混乱の中、彼女の伝手で知っている人々に、そして健二にそう言います。
自分はやれる、絶対に負けない。
そう思う気持ちがあれば、負けることはない。
戦国時代から負け戦でも戦ってきた陣内家に脈々と伝えられてきた、この信条。
世界を救うことができるのは、折れない心と、繋がる気持ち。
そして皆の心が繋がったとき・・・。

「時をかける少女」では主人公真琴はひと夏を過ぎて、大人になりました。
本作でも健二は、ひと夏の戦いを越え、自分を信じ、他人を信じ、なすべきことをなせばいいのだということを学びました。
やはり健二も大人になったのです。

本作は細田監督が「時をかける少女」のあとにご結婚された時、奥様の長野の実家へご挨拶に行ったときのことから発想されたようです。
こじんまりと式をやるつもりが、行ってみたら親戚一同そろっての大宴会となったということでした。
そういう雰囲気がでてますよね。
親戚一同そろってのわいわいしながらの食事。
昔はそういう感じだったなあと自分の小さい頃の夏休みを思い出してしまいました。
細田監督の作品は夏の青空が似合いますよね。

細田守監督作品「時をかける少女」の記事はこちら→

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2009年7月19日 (日)

本 「ジウ」

誉田哲也さんの小説で初めて読んだのが、「武士道シックスティーン」。
こちらの作品は、性格が全く異なるダブルヒロインの爽やかな青春ものでした(ちなみに「武士道シックスティーン」は成海璃子さん、北乃きいさんで映画化されるそうです)。
本作「ジウ」も対照的な性格の婦人警官のダブルヒロインの警察小説ということで読んでみたのでしたが、けっこうハードな内容でびっくり。
確かに本作のダブルヒロインである伊藤基子、門倉美咲の性格は「武士道シックスティーン」の香織と早苗を思わせるところがあります。
けれども次々に起こる事件から明らかにされていく日本の暗部や人間の醜さみたいなもの、また事件そのものの猟奇的な側面みたいなところがあり、「武士道シックスティーン」の爽やかさみたいなものを期待して読むとしっぺ返しを食らいます。
とはいえおもしろくないというわけではなく、というよりとてもおもしろいです。
物語がどこに転がっていくかわからない展開はとても引きが強い。
人間の持つ善良な面、暗黒な面を、そしてその間をさまよう面を、美咲、ジウ(事件を引き起こす中国人の名)、基子が象徴しています。
特に基子が暗黒面に転げ落ちていく様というのは、ぶつかると思いつつもそちらに引き寄せられていくような危うさを感じて、息を詰めながら読んでいるような感じがしました。

本作は三部作でそれぞれ、警視庁特殊犯捜査係(SIT)、警視庁特殊急襲部隊(SAT)、新世界秩序(NWO)というサブタイトルがついています。
劇中で美咲はSITに、基子はSATに、ジウが(NWO)に属しています。
SITとSATというのは映画などで聞いたことがあったのですが、その属する組織も役割も違うんですねえ、初めて理解しました。
SITは刑事部に、SATは警備部の組織ということで、「踊る大捜査線」じゃないですが警察内部での組織間のせめぎ合いも描かれています。

誉田哲也さん作品「武士道シックスティーン」の記事はこちら→

「ジウⅠ 警視庁特殊犯捜査係(SIT)」誉田哲也著 中央公論新社 文庫 ISBN978-4-12-205082-2
「ジウⅡ 警視庁特殊急襲部隊(SAT)」誉田哲也著 中央公論新社 文庫 ISBN978-4-12-205106-5
「ジウⅢ 新世界秩序(NWO)」誉田哲也著 中央公論新社 文庫 ISBN978-4-12-205118-8

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「MW -ムウ-」 存在し続ける陰

実はまったく期待をしていなかったので観賞が後回しになっていた作品だったのですが、観てみたらけっこうおもしろかったです。
手塚先生の原作は未読で、事前情報も予告くらいでしか入っていなかったのが良かったのかもしれません。

<ネタばれ含みますので、注意!>

本作はカテゴリーとしてはピカレスク(悪漢もの)になるのでしょうか。
何が良いかと言ったら、主人公の結城(玉木宏さん)が徹頭徹尾悪役でブレがなかったということです。
悪人が主人公の作品というのは、古今東西たくさんあるのですが、実は善人だったとか、良心に目覚めたとか、改心したとかという結末を迎えるものが多いですよね。
例えば福井晴敏さんの「Twelve Y. O.」とか「亡国のイージス」などに出てくる悪人というのはそういうところがあります。
ちょっと脱線しますが、福井さんの作品にはキーアイテムとして「GUSOH」という毒ガス兵器がでてきますが、本作を観て思いましたがこれは本作に登場する同様の兵器「MW」の影響を受けているような気がするのですが、どうでしょう?
話を元に戻して・・・。
悪人が人間性に目覚める、改心するという展開は物語として感動的なラストとなり、気持ちよくお客さんに帰ってもらうことができます。
けれども本作は違います。
結城は作中で「モンスター」と例えられるように、人間性を著しく欠いた人物として描かれます。
彼は島での惨劇をいっしょに生き残った賀来が、結城の身代わりになったかのように命を賭けて贖罪したのにも関わらず、変化をしません。
悪人である彼が生き残り、これからも悪意をまき散らしながら生きていくというのを予感させるラストは居心地のいいものではありません。
けれどもその姿に僕は清々としたものも感じたのです。
予定調和のように悪人が改心するのではなく、そのままに悪として存在していく。
たぶん改心していたら、僕はこの作品を良いとは思わなかったでしょう。
なぜならばそこに作り手の作為を感じてしまうから。
感動させようという意図を感じてしまうから。
本作において結城は、幼い頃の経験により悪で真っ黒になった心を持った人間として、そこにいるというリアルさを持っています。
彼の行為がいい、悪いということではなく、彼は作品の中に実存しているような存在感を持っているように感じました。
口当たりのいい結末でその存在感を消してしまうのではなく、あえて苦い結末にしているのが良かったと思います。

結城という「モンスター」は、現代社会の持つ陰の部分のメタファーであると捉えられます。
権力が「臭いモノに蓋」とばかりに、何かを隠そうとすることは現実にもあるかと思います。
けれども蓋をして見えなくすれば、そこに陰が生じる。
隠し続ける限りその陰はなくなりません。
隠そうとする限り、結城がメタファーとなっている陰は存在し続けるのです。
そういう点からも、結城というキャラクターが最後まで悪であり続けたということを評価したいと思います。

その結城を演じていた玉木宏さん。
先だって観た「真夏のオリオン」の艦長役とは真逆のキャラクターでした。
線も細いしスマートだし悪役はどうかなと思っていたのですが、逆に体重を普段よりもさらに落してこの役に挑んだということ。
確かに細身の方が亡霊のように陰があって凄惨な感じが漂うので、この結城というキャラクターにあっているような気もします。
結城という名前は「幽気」のメタファーですかね。

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2009年7月18日 (土)

「アマルフィ 女神の報酬」 深みなく凡庸な出来

好きな作品が多い小説家真保裕一さんが脚本を担当されているということで、観に行ってきましたが、凡庸な作品という印象を持ちました。
思えば真保裕一さん原作の「ホワイトアウト」は織田裕二さんが主演だったので、この組み合わせは二度目になるんですね(そういえば佐藤浩市さんも出てたなあ)。
映画の「ホワイトアウト」はけっこう好きな作品ですので、ちょっと残念です。
真保裕一さんの作品で好きなのは初期の通称「小役人シリーズ」だったりします。
本作の主人公黒田も邦人保護担当特別領事というあまり聞き慣れない職務の公務員です。
このあたりの設定も「小役人シリーズ」を彷彿とさせ、期待していたのですけれども。
物語は途中にひねりがいくつかあり、このあたりも「小役人シリーズ」を思い出させてくれます。
ですのでプロット、脚本からはおもしろくなりそうな感じはするのですが、いかんせん演出が凡庸なのでしょう。
主人公黒田という人物像がどうも現実感がない感じがしました。
深みがないというか・・・。
これは演技云々ではなく、作品の中での黒田というキャラクターの立ち位置がどうもしっくりといかない気がします。
世界をまたにかけ、各地でトラブルに巻き込まれた邦人の保護をする人物。
一カ所にいられる性分ではなく渡り歩いていく男というのは、なんとなく西部劇にでてくる流れ者みたいな感じもします。
またはストイックで人を殺さないジェームズ・ボンドと言いますか。
そのあたりもうすこし個性的なキャラクター作りができればもっと魅力的に見えたような気がします。
パンフレットの真保さんのインタビューでは、監督は木枯紋次郎が好きでとりいれたということですが、もっとそういう感じをだした方が良かったのではないでしょうか。
もっとおもしろくなりそうな気がしただけに、残念な感じがしました。

しかしタイトルにある「アマルティ」。
事件の背景とは直接関係がなく、ただ時間稼ぎのために滞在するだけだったなんて・・・。
観光案内以外のなにものでもない感じがしました。
これはタイアップか何かなのかしらん?

真保裕一さん原作、織田裕二さん主演「ホワイトアウト」の記事はこちら→

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本 「ブロークン・エンジェル」

リチャード・モーガンの処女作「オルタード・カーボン」の続編。
本作は前作と同様にタケシ・コヴァッチが主人公となる正当な続編となっていますが、作品世界の雰囲気は驚くほどに違います。
前作「オルタード・カーボン」はサイバーパンクやディック、「ブレードランナー」の影響を受けた世界観でしたが、本作はどちらかというと近未来戦争を扱った作品といったような感じがします。
読んでいてイメージが浮かんできたのは「スターシップ・トゥルーパーズ」でした。
このシリーズの世界での一番のポイントとなる要素は、精神をバックアップすることができ、肉体が死をむかえてもそのバックアップを他の肉体にダウンロードすれば復活できるということです。
前作ではそれにより、ディック的なリアルな世界とアンリアルな世界の交錯みたいなものが描かれていました。
本作はこの設定により、人間がそれこそ消耗品のように戦いに投入されていく戦争が描かれます。
そういう点での人間の生命に無頓着になった戦争というところから「スターシップ・トゥルーパーズ」が連想されたのですけれども。
ただ本作においては、精神を記録しているチップすら破壊されるリアル・デスという場面も描かれており、それは死が軽くなった感覚の世界であるが故に、よりいっそう死が重くなるという作用を生んでいます。
雰囲気も前作のハードボイルド感はかなり薄れているので、そちらが好きだった方はちょっと面食らうかもしれません。
「エイリアン」と「エイリアン2」くらい違っているイメージです。
わかるかな・・・。
あまりSF初級者向けな作品ではないのですけれど、好きな方は是非。

前作「オルタード・カーボン」の記事はこちら→

「ブロークン・エンジェル」リチャード・モーガン著 アスペクト ソフトカバー ISBN978-4-7572-1359-3

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2009年7月13日 (月)

「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY」 ちょっと飽きが・・・

昨年放映されてけっこうはまった「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル」の続編が、本作「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY」になります。
前作ではありそうであまりなかった、怪獣VS怪獣の戦いをメインで見せるというところが新鮮でした。
本作は怪獣たちを操る怪獣使い(レイオニクス)たちの戦いにもなります。
つまりは前作は怪獣VS怪獣だったのが、加えて星人VS星人との戦いというのを見せてくれます。
とはいえ、それは怪獣同士の代理戦闘になるのですが。
ただ残念なのは、前作で新鮮であった怪獣VS怪獣という戦いもやはり2作目となると新鮮味がなくなっているような感じがしました。
ちょっと飽きを感じてしまいました。
また前作は主人公レイの正体はなになのか?、レイオニクスとは何なのか?という謎が物語を牽引する力となっていたのですが、本作ではそのような強い牽引要素がありません。
確かに最強の宇宙人であるレイオニクス星人の野望を挫くというのはあるのですが、それは今までのヒーローものにもよく見られる構造であるので、逆に陳腐化して見えたのも事実です。
前作ではウルトラマンが驚きの登場をしましたが、本作に絡んでくるのはウルトラセブン。
物語冒頭よりアイスラッガーがでてくるので、これは明らかですが、絡み方はちょっと踏み込んで欲しかった。
ウルトラセブンというのは、カプセル怪獣(ミクラス、ウィンダム、アギラー等)を使役するという他のウルトラマンにはない力を持っています。
実はウルトラセブンはレイオニクスだった!なんて展開であれば、もうちょっと燃えられたかもしれません。
ウルトラセブンVSレイモン(レイ)なんていうのが実現していたら、おもしろそうじゃありません?

とはいえ、本シリーズは「ウルトラマン」シリーズからのスピンアウトしたシリーズにも関わらず人気はあるようで、とうとう映画にもなるようです。
「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」というタイトルだそうです。
こちらにはウルトラマン、ウルトラセブン、そしてメビウスも出るようですね。
観に行ってしまうよなあ・・・、たぶんきっと。

前作「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル」の記事はこちら→
劇場作品「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」の記事はこちら→

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2009年7月12日 (日)

「蟹工船(2009)」 イメージせよ、行動せよ

昨年からワーキング・プアや派遣切りなどの社会的問題の影響によって、ベストセラーとなった小林多喜二の「蟹工船」。
劣悪な環境で働かされ、資本家に搾取されている労働者たち。
そういうものだと諦めていた労働者たちですが、人間的に扱ってもらうことを掲げストライキに踏み切ります。
確かに昨今は格差社会と言われていますが、「蟹工船」で描かれている労働者たちの姿は、現代の働く人々の姿とダブります。
だからこそ80年もたったのにも関わらずベストセラーとなったのでしょう。
「蟹工船」はプロレタリア文学の代表作とされますが、僕は歴史の授業で習っただけでしっかりと読んだことはありません。
ですが、今回の映画も基本的なストーリーラインは原作に忠実であるように思えました。
プロレタリア文学という言い方は、なにか資本主義に対する社会主義・共産主義といった政治的イデオロギー的な感じがします。
当然、原作の小説が書かれた時代というのはそういう政治的な意味合いも当然込められていたでしょう。
けれども本作映画が描いているのは、そういう政治的イデオロギーなものではないと受け止めました。
思想的なイデオロギーで言えば、本作が描いているのは自由主義であると思います。
こちらの自由主義と対するのは全体主義・独裁主義であると思います。
よく資本主義VS社会主義・共産主義、自由主義VS全体主義・独裁主義という言い方をするので、これらの対立軸は混同しがちですが、全く別ものです。
舞台となる時代の日本は資本主義でありかつ全体主義な国家であったわけです。
労働者たちは社会主義・共産主義を求めたわけではなく、自由であることを求めたのです。
あの時代自由であるための政治的な受け皿は社会主義・共産主義しかなく、プロレタリア文学という呼び方をされたのでしょう。
その後、理想と言われた社会主義・共産主義も全体主義化もしくは独裁化を歩み、本当の意味での自由はなくなり、その後崩壊していったというのは歴史が語っている通りです。
ソ連など東側諸国の崩壊により、資本主義が買ったと言われます。
確かに資本主義の方が現状はうまく機能するでしょう。
けれども個々の人々がほんとうに自由であるかと言われれば、現代の資本主義国家においてもそうとは言い切れないような気がします。
自由主義を標榜している国であるにも関わらず、国会議員の二世問題等がまじめに議論されていたりするわけですが、持てる者しか国を動かす立場になれないようになってしまった今の時代は、原作小説が書かれた80年前と変わっていないのかもしれません。
ただ本作映画がテーマにしているのは、自由主義をもっとパーソナルな問題にしています。
このような時勢になっているのは体制の問題もありますが、現状を是としているのは、個人が自分の人生について真面目に考えないようになっているのではないかと。
イメージせよ、と本作は語りかけます。
自分がどうなりたいか、イメージしろと。
なりゆきまかせにしない。
行動せよ、本作は言います。
なりたい自分があるなら、一歩踏み出せと。
これは政治的イデオロギーではありません。
資本主義にせよ、社会・共産主義にせよ、強要され、それに従うだけならば、自由ではないのです。
自分の行く末を考え、自分で道を選ぶ。
それがほんとうの自由主義。
大切なのは個人個人が自分の人生を選ぶという行為なのかもしれません。

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本 「日暮らし」

こちらは宮部みゆきさんの時代小説「ぼんくら」の続編に位置する作品です。
宮部さんの作品は時代小説に限らず、「魔が差す」ことにより起こる犯罪というのが描かれています。
毎日のように繰り返されていく日々の暮らしの中で、本人の気づかぬままにいつしか感情の澱のようなものがたまっていき、それあ何かをきっかけに吹き出してしまう。
犯罪までにはいかないまでも、それが爆発してしまうということは誰しも経験があるかと思います。
「ぼんくら」と同様に短編を積み重ねていき、それらが最後に収束していく構造は本作も同様です。
そこで描かれているのは、そのような感情の澱の積み重ね。
澱がたまっていけば、ほんのちょっと水を足しただけで、溢れてしまいます。
もしかすると心の中も、時々は澱を汲み上げるということをしてあげないといけないのかもしれないですね。

登場人物は「ぼんくら」から継続して変わらず。
久しぶりに会えた登場人物たちはやはり魅力的です。
こちらもまた続編はないのでしょうかね。

宮部みゆきさん「ぼんくら」の記事はこちら→

「日暮らし<上>」宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276203-8
「日暮らし<中>」宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276204-5
「日暮らし<下>」宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276205-2

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2009年7月11日 (土)

「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編」 あらためてニュータイプを考える

三週連続の「機動戦士ガンダム」観賞です。
ほんとは新宿ピカデリーで観たかったのですが、夜しか上映していないので、昼でもやっているマリオンで観ました。
やっぱりデジタル上映の方がきれいだなあ・・・。
残念。

「機動戦士ガンダム」のことを書くとなると、「ニュータイプ」という概念に触れないわけにはいきません。
こちらのテーマについては、今までも様々な方が評論しているので、今更ながらというところも、自分ごときがというところもあるのでなんなのですが、今再び「ガンダム」を観て感じたこと、考えたことを書きたいと思います。
作品中で語られる「ニュータイプ」という概念は、認識力・直観力が今までの人類よりも増している新しい人類だと言われています。
これはいわゆる超能力者(エスパー)のような存在ではありません。
人類という存在が大地に立ったそのときから、人類は重力という力によって縛られていました。
ですので、その認識力というものの基本は二次元ベースであると言っていいと思います。
この世界は三次元ではないかという異論はあるかもしれないですが、地図などを見ればわかるように世界の認識はやはり二次元的であると思います。
そして人類が宇宙に進出したとき、人類は世界を初めて三次元的に認識するようになる可能性はあると思います。
そのような三次元的な世界を見るようになったとき、同じ世界であってもその見え方は変わってくるような気がします。
見え方だけでなく三次元的空間で暮らすことが普通になった時、新たな能力の萌芽が見られるということもあるかもしれません。
それが遺伝的なものになるかどうかはわかりませんが、空間識などの認識力が高い人々が出てくるということはありえるような気がします。
僕たちが二次元的に生きながらも、三次元を認識できるように、三次元的に生きるようになった人々は時間を含め四次元的な認識ができるようになるかもしれません。
それは未来を思い描くということにより長けた人々であるかもしれません。
また本シリーズで言われるスペースノイド(宇宙で暮らす人々)は、日常的に地球を客観的に外から見ることができるようになった人々でもあります。
説明するまでもなく現在の僕たちにとって地球は足下にあるのが普通です。
それはそれこそ空気があるように当たり前のことであるわけです。
けれどもコロニーで暮らすスペースノイドにとって、大地も空気もはかなく貴重なものであるという点で大地というものの捉え方が異なってくると思います。
同じ地球でも、存在することを当たり前と思う人々、それを貴重だと思う人々、価値観が変わってくるということはこれもあり得ることです。

未来をもうすこし認識できるようになる力。
地球を今よりも客観的に見えるようになる力。
「機動戦士ガンダム」で描かれていた「ニュータイプ」というのは、今の時代にこそ必要な概念であるかもしれません。

ジオン・ズム・ダイクンが唱えた「ニュータイプ」というのは極めて概念的であったのであろうと思われます。
もともとは概念であったものが、実際に通常よりもカンの良いタイプの人間(アムロやララァなど)の出現により「ニュータイプ」が概念ではなく、具体的な力として受け止められるものに変容していったのが本シリーズで描かれる一年戦争中であったのでしょう。
ただ能力的な変化がすべての人々に同じように、同時に起こるということはありえないと考えられます。
「ニュータイプ」を「人類の革新」と呼び、以降のシリーズで「オールドタイプ」に反旗を翻すようになるシャアはそのことを認識できなかったのかもしれません。
ものの見方というのはある時期に急激に変化することはあり得ます。
革命やパラダイムシフトというのはそういう変化のことです。
けれども人類総ての肉体や能力というのはそのような急激に変化は起こりません。
概念的な「ニュータイプ」への急激な変化はあり得ても、能力的な「ニュータイプ」へ変化はあり得ません。
「ニュータイプ」と同じ言葉で語られたため、この概念と能力の差が一緒くたになってしまうところに作品中で語られる「ニュータイプ論」の危うさがあるのです。
その危うい罠に、その後のシャアもシロッコもハマーンも嵌っていったと考えられます。
対してアムロはこの概念と能力の差というのをわかっているように思われます。
彼は人類が穏やかに変化していくということを目指していたように思えます。

ふむ、「ニュータイプ」について書きながら、「Zガンダム」がけっこうキーになっているような気がしてきました。
「Zガンダム」のテレビシリーズは、観てなじめずその後の「ガンダム」から脱落していった僕はあまりいい印象がありません。
なので劇場版も未観賞。
やはりメモリアル上映で、こちらも改めて観てみなくてはいけないかな・・・。

「機動戦士ガンダム」の記事はこちら→
「機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編」の記事はこちら→
「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の記事はこちら→

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「ノウイング」 狙いが見えない

ニコラス・ケイジってなんだかこういうSF要素の入っているタイプの作品が好きですね。
そしてそれらの作品の出来は中途半端という感じのものが多いのですが、これは作品を見る目がないのか、それとも本人がこういうのが好きなのか・・・。

<激しくネタバレしております>

50年前に埋められたタイムカプセル。
その中には数字がびっしりと書き込まれた一枚の紙が入っていた。
その数字とは、埋められた当時から見ると未来の出来事であるはずの事故や惨事が起こった日時、死亡者数、そして位置を表すものでした。
それは未来予知なのか。
そしてその紙の最後には日時の後に「EE」の文字が・・・。
それは「Everyone Else」、すべての人類という意味でした。

とても中途半端な印象が残った作品でした。
いろんな人のいろんな意見を聞きすぎて、狙いが見えない作品に仕上がってしまったいう印象です。
出だしの何を表しているかわからない数字の謎、子供たちにしか聞こえないささやき声というのは、ナイト・シャマラン作品とかテレビドラマ「LOST」のような趣も感じました。
しかしその意味はあっさりとわかり、その後は今までも幾多の作品で描かれた人類の滅亡へのプロセスを描きます。
地球破滅への過程の中で多少なりとも親子のドラマ的な要素もあるのですがそれほど丁寧に描いているわけではないので、ラストの別れの場面はまったく感情的にこみ上げてくるものがありません。
このあたりの親子というテーマについてはスピルバーグの「宇宙戦争」の方がよほどぐっとくるところがあります。
地球破滅の原因も太陽のスーパーフレアという現象であり、この現象と予言で書かれている惨事についてはまったく関係がありません。
惨事についての記述は人類滅亡の予言の信憑性を高めるというだけの役割しか担っていないのです。
そして最後のささやく声の正体に至ってはあまりにも陳腐すぎて、苦笑してしまうほど。
なぜささやき声は選ばれた者にしか聞こえないのか?
どういう理由で選ばれたのか?
なぜ宇宙人(?)は未来の出来事を予見できるのか?
50年も前に起こることがわかっているのなら、なぜ人類に教えないのか?
人類を救う価値がないと思うなら、なぜ人を選ぶのか?
突っ込みどころは満載です。
実は提示した謎について作品中で説明する義務はありません。
けれどそれはその謎が作品のテーマでない限りです。
スピルバーグの「宇宙戦争」は何故火星人が地球を襲うのかを説明していないというようなことが言われていたと思います。
けれどもあの作品は親子のドラマに焦点をあてるためにあえて余計な要素をいれずに、あの親子の視点だけで通したのです。
また逆に「シックス・センス」などのシャマラン監督作品は最後にその謎が一気に解ける焦点をもってきます。
それはその謎こそが作品のテーマだからです。
テーマという点では全く違いますが、「宇宙戦争」にせよ「シックス・センス」せよ、狙いは明確であると思います。
そういう作品と比べると、本作は様々な点において中途半端さを感じてしまいます。
何がしたいのかという「狙い」がよくわからない作品に仕上がっているのです。

僕は仕事でデザインをしているのですが、商品開発に関わっているとうまくいく商品といかない商品というのが段々とわかってきます。
うまくいく商品は実現するベネフィットがシンプルで明確。
うまくいかない商品は一見複数ベネフィットがあって便利そうに見えるけれども、実はとてもわかりにくい。
狙い(コンセプト)がよく伝わりにくいのです。
こういう商品の開発過程はいろんな人がいろんな意見を言ってまとまらないケースだったりするものです。
本作にも同じような臭いを感じてしまったのです。
映画は多くの人が関わる事業であり、プロデューサーなり、監督なりが強いリーダーシップを発揮しなくてはまとまらないと思います。
本作ではそのような強いリーダーシップが発揮されているように見えない、狙いがよくわからない作品になってしまっているように感じました。

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2009年7月10日 (金)

「劔岳 点の記」 仲間たち

「何故山に登るのか?」
この問いに「そこに山があるから」と答えたのは、エベレストに挑戦し続けたイギリスの登山家のジョージ・マロリーだと言われています。
けれど本作で描かれる劔岳の登頂を目指す男たちがこの問いに答えるとしたら、「いっしょに登る仲間がいるから」と答えるような気がします。

さすが長年カメラマンを続けてきた木村大作監督だけあって、彼が映し出す劔岳は厳しく、そして美しい。
古くより崇拝の対象となっていた立山連峰。
その山々の中でも、その名の通りに刃のように鋭く人を寄せ付けない劔岳。
切れ味の鋭い日本刀が美を内包しているように、その山は人が目を見張る美しさを持っています。
その美しさ、厳しさを前にして、人はとても小さい存在に見えます。
それは人の存在など関係なく、ただその山がそこにあるという圧倒的な存在感のためだと思います。
自然を征服できるなどという人間の思いをことごとくはねつける厳しい壁。
その壁を前にして、人はあまりに小さい存在なのです。
山に功名をあげるため登る人もいるでしょう。
けれどそのような個人のちっちゃな思いでは、この山にはとても歯が立つわけはありません。
圧倒的な存在である劔岳に対して、ひとりひとりは小さい人間が思いを一つにし挑戦したとき、道は開けます。
僕が好きなシーンは、測量隊がまさに頂上に達しようとする場面です。
ガイドという裏方の立場から初登頂の栄誉を雇い主である柴崎にゆずろうとする長次郎。
けれども自分たちは仲間だと、それを長次郎にゆずろうとする柴崎。
この数年なにか世の中がギスギスし、自分さえよければという気持ちが蔓延しているような気がします。
そんな時代だからこそ、このように互いに尊敬し合う仲間たちの姿に清々しさを感じました。

ラストのタイトルロール。
そこに書かれていたのは「仲間たち」という言葉。
「キャスト」や、「スタッフ」、そして「監督」という肩書きですら、そこには書かれていませんでした。
おそらく辛い撮影だったに違いありません。
美しさと、そしてそれ以上に厳しさを持った劔岳を前にして、この作品を作る人たちは、柴崎測量隊と同じように、肩書きや立場を越えた仲間としての結束感を持ったのではないのでしょうか。
その思いがタイトルロールに表れているような気がしました。

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2009年7月 9日 (木)

本 「法華経入門」

僕自身は無宗教で、何かの宗教を信じているということはありません。
ただ宗教が生まれる背景、歴史など、つまりは人間の精神の営みというのは、テーマとしてとても惹かれることもあり、いろいろそのような本を読んだりします。
こちらのブログでも読んだ宗教を扱った本にいろいろ書いたりしていますが、今回は仏教関連。
本著、タイトルに「入門」と書いてあるし、新書でもあるし、もっとわかりやすいかなと思ったのですが、その思想についてはよくわかったとは言えません・・・。
読み始めた本は理解できずとも、最後まではがんばって読む主義なのですが、やっぱり理解できたとは言いがたいです。
わかったようなわからないような、わからないようなわかるような・・・。
「南無妙法蓮華経」という題目を唱えれば、仏になれると言ったのは日蓮ですが、この中の法華経というのは、仏教の経文の一つになります。
個人的には経を唱えるだけで仏になれるならば苦労がないと思ったりもします。
なんというかいわゆる新興宗教的ないかがわしさのようなものも感じたりもするのです。
けれど宗教というのはどの宗教もある意味、(何にもまして優先事項の一番になってしまうような)いかがわしさ的な性格は持っていますし、日蓮宗が成立した時には民衆はそのような教えに救いを求めなければならない状況であったのでしょう。
ですので個人的には「法華経」というものも、その中に書いてあることにも(知らなかったこともあり)それほど興味深いことがあるとは思っておりませんでした。
先ほど書いたように、読んでもほとんど理解はできなかったのですが、一つだけなるほどと思ったことがありました。
もともと仏教が成立したインドというのは、(今でもそういうところはありますが)身分制がしっかりとあった時代であります。
ですのでその教えにはその時代性というのがやはり色濃く残っています。
その中で「法華経」では「誰しも仏になれる」ということが書いてあるということです。
これは不平等が当たり前である時代の中で、平等をうたうという意味でかなりアナーキーな思想であったのだろうと思います。
その点は興味深いと思ったところでした。
当然「法華経」の中では誰しも可能性があると書いているだけであり、そこに至るにはたいへんな道のりがあると書いてあります。
ですので日蓮宗などで題目を唱えれば大丈夫というのは、ややコンビニエンスな感じもあり、やはり安易さは感じてしまいますが・・・。

「法華経入門」菅野博史著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430748-1

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2009年7月 5日 (日)

「レスラー」 エンジンが燃え尽きるそのときまで

80年代に活躍したレスラー、ランディ。
彼の生き様は曲がることのできない車をひたすらに運転し続けるかのよう。
途中で降りることなどもできはしません。
エンジンが焼き切れるまで、走り続けなくてはなりません。
そんな生き様には何か悲哀を感じます。
彼の生き方は決して僕自身がそう生きてみたいと思うようなものではありません。
生きることに不器用なランディは、自分の道をただ真っすぐ真っすぐ走っていくことしかできません。
それは救いのない一本道です。
最後に残るのはエンジンが焼き切れたスクラップだけでしょう。
現実の世界には「ロッキー」のようなファンタジーはないのです。
そんなことはみんな知っている。
けれど、だからこそ、彼を観に来ている観客は、彼にファンタジーを観たいと思うのでしょう。
自分にはそんな生き方はできないから。
現実はそんなに甘くはないから。
みんなどこかで簡単にスムーズに運転できる道を選んでしまうのです。
だからこそ、ずっと一本道を走り続けるランディを憧れを持って見つめているのです。
プロレスが段取りがあるショーであるということなどは関係がないのです。
観客は彼の試合を観に来ているのではないのかもしれません。
彼の生き様を観に来ているかもしれません。
観客が自分ではそんな一本気な生き方できないと、とうにあきらめているファンタジーをファンタジーだと知りつつ、ランディは背負って走り続けるのです。
彼を観にくる人々のその想いこそが彼のガソリンであるから。
それが彼が背負ってしまった荷であるから。
最後まで。
とことん最後まで。
エンジンが燃え尽きるそのときまで。
彼は、走り続ける。

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本 「カラフル」

「DIVE!!」の森絵都さんの作品を読んでみました。
彼女の作品は「DIVE!!」しか読んでいなかったので、爽やかな青春小説みたいな感じかなと勝手に思っていたのですが、ちょっと違いました。
いや爽やかさというのはあるのです。
けれど取り上げているテーマがもうちょっと重くって。
人の本質っていうのは何なんだろう?
自分が自己認識している自分。
誰かから見た自分。
自分から見た相手。
他の誰かから見た相手。
人は自分が見ていると持っている姿以上にカラフルで、多彩で。
同じ絵を見ても、人それぞれが感じ方が違うように、人も見方次第でいろんな側面が見えてくる。
本作での主人公真も、見方によって人が、人生がカラフルで豊かであるということに気づけたんでしょうね。
深いテーマですけれど、さらりと読ませる森絵都さんはいいですね。
他の作品も読んでみたくなりました。

映画化作品「カラフル」の記事はこちら→
森絵都さん作品「DIVE!!」の記事はこちら→
森絵都さん作品「リズム」の記事はこちら→
森絵都さん作品「いつかパラソルの下で」の記事はこちら→

「カラフル」森絵都著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-774101-3

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2009年7月 4日 (土)

「いけちゃんとぼく」 ずっと側にいるよ、ずっと側にいたいよ

こういうのには弱い。
それは予告を観た時から、そう思っていたのだけれど、やっぱりうるうるっときちゃいました。

「大きな器に水がたまるには時間がかかる」
劇中で清じいがヨシオのことを称して言った言葉です。
水が一杯にたまった時が、男の子が大人になるときなのでしょう。
ヨシオは毎日のように、いじめっ子にいじめられていました。
けれどヨシオは泣きません。
だからいじめっ子たちはヨシオをいじめるのを止めません。
でもヨシオも決していい子というわけでもありません。
友達にいじわるをしたり、虫を残酷に殺しちゃったりもします。
そんな自分がイヤになっちゃたりもします。
人間というのはいいところもあって、そして悪いところもあって、そして世の中もいいこともあって、悪いこともあって。
いじめっ子のいない理想郷なんて隣町に行ってもあるわけでもなく、でも今いるところもそれほど悪いところでもなく。
大人になっていく間に、そんなふうに世の中っていうのはいろんなところがごちゃまぜになっているということをわかっていくのかもしれません。
そういうのが「普通」であるということを。
でもそんな「普通」な世の中でもちょっとだけでも変えることもできるし、自分もちょっとだけでも変われるってわかることが大人になるってことなのかもしれないです。
でも変えたり、変わったりするのには、やっぱり勇気が必要で。
ヨシオにはずっとそばにいけちゃんがいてくれました。
いけちゃんがずっとそばにいてくれて、強いところも弱いところもいじわるなところも優しいところも、全部ぜんぶ受け入れてくれたから、ヨシオはがんばれたんだよね。
自分を全部受け入れてくれる人がいてくれるっていうのは、とても心強いこと。
そういう人がいてくれるとがんばれる。
晩年のヨシオといけちゃん。
ほんのちょっとしか暮らせなかったけれど、二人は互いに支え、支えられた幸せな時を過ごせたのだろうなというのが伝わってきました。
自分を全部受け入れてくれて、そして自分も相手のことを全部受け入れられて。
ずっと側にいるよ。
ずっと側にいたいよ。
お互いにそう言える人と出会えた、ヨシオといけちゃん。
とっても幸せだったのだろうな。
そういう人と出会えるといいな。

それにしても蒼井優さんは女優さんとしても素晴らしい方ですが、声優としてもピカイチです。
「鉄コン筋クリート」のときもなんて上手なんだろうと思いましたが、本作ではさらに磨きがかかっているような気がしました。
ただヨシオを見守るだけなんだけど、ヨシオのことを深く想っているというのがとてもとても伝わってきました。
ほんと素晴らしかったです。

蒼井優さんが声の出演をしている「鉄コン筋クリート」の記事はこちら→

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「機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編」 動いてこそ魅力を発揮するデザイン

先週メモリアル上映の「機動戦士ガンダム」一作目を観てしまったために、今週も第二作「哀・戦士編」を観に行ってきてしまいました。
今まで何回観ているかわからないくらいなのに、何度観てもおもしろいです。
本シリーズは、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと回を重ねるごとにおもしろくなっていくのが素晴らしいところです。
井上大輔さんの歌が流れると盛り上がってしまうという、ほぼパブロフの犬状態です。

さてニュータイプ論のような本シリーズのテーマについては来週観に行く(もう決めてる)「めぐりあい宇宙編」の時に書きたいと思いますが、今回は「機動戦士ガンダム」(ファーストシリーズね)の魅力について語ろうかと思います。
小中学生の頃にがっちりと心をつかまれた理由としては、やはり大河原邦夫さんによるメカデザイン、そして安彦良和さんによるキャラクターデザインによるところが大きかったと思います。
子供の頃はテーマ云々より、見た目のカッコよさだったりしますから。
お二人ともポスターとかを見ても一枚絵もとっても上手なのですが(そのポスターが欲しいがために前売り券を買ったのでした)、その魅力はアニメーションとして動いてさらに魅力的に見えるというのが「ガンダム」に心を奪われた理由ではないかと思います。
メカデザインとキャラクターデザインと違うのですが、両氏のデザインは動いてこそ魅力があるのです。
メカデザインでいうと例えば、ドムの黒い三連星のジェットストリームアタック。
設定のデザイン画だけではこのメカデザインの魅力は伝わりません。
ホバーでまるでスケートのように滑走するというアイデア、それを活かした演出(細かいカット割り、そしてスローモーション)のセンスは素晴らしい。
これは従来のアニメーションにはなかったセンスだったと思います(この感激はリアルタイムで観てないとわからないだろうなあ・・・)。
またジャブローでシャアのズゴックがジムを一撃で撃破するシーン。
これまたストップモーションと、スローモーションで、一際カッコいいです。
ぶっちゃけ、中学生の頃は連邦軍のガンダム、ガンキャノンより、敵対するジオン軍のドムとかズゴックのほうが好きでした。
動いてこそ魅力が出るというのが、「ガンダム」のメカデザインであったような気がします。
同じように安彦良和さんのキャラクターも動くとさらに魅力がでてくる魅力が出てくると思います。
特に安彦さんが自分で描いているカットは特にそんな感じがします。
「哀・戦士編」でも劇場版にあたりテレビ版から多くのカットが描き足されましたが、そのカットは明らかに違うんですよ。
何が違うかというと、動きが違うとしか言いようがないのですけれど。
リアルな動きというのともちょっと違うのですが、キャラクターが細かい芝居をしているんですよね。
それは仕草であったり、ほんのちょっとした瞬きなどであったりするのですが。
「哀・戦士編」でいうとセイラさんはかなり描き直されていて、今観ても魅力的に見えてしまうのです。
これはCGとかなんだとかという技術的なものではなく、安彦さん独自のアニメーションのセンスなのだと思います。
これにより平面であるはずの絵で描かれたキャラクターが、活き活きとしてくるのです。
わかりやすいのは安彦さんが描くメカのシーンで、ただの兵器として描かれる「ガンダム」のMSですが、彼が描くとそれはまるで人間の兵士のようにも見えるのです。
これはもう職人芸というべき技であると思います。
活動の場をアニメーションから漫画に移され、最近は安彦さんのキャラクターが動くのを観れないのがちょっと寂しいのですが・・・。
このように「ガンダム」というのは演出面でもそれまでのアニメ作品から一段上の次元にいったという作品であるように思えます。

先週は丸の内ピカデリー、今週は新宿ピカデリーで観ました。
丸の内はフィルムでの上映で、新宿はデジタルでの上映だったのですが、画質がけっこう違うのでびっくり。
来週の「めぐりあい宇宙編」も新宿で観ようっと。

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2009年7月 1日 (水)

本 「無音潜航」

現在公開中の「真夏のオリオン」の原案となる「雷撃震度十九・五」の作者池上司さんの作品です。
こちらは同様に潜水艦を題材にしていますが、時代は現代となっています。
日本と韓国で北朝鮮工作員によると思われる核テロが実行されます。
親善訪問中だった海上自衛隊所属「さちしお」は急遽、警備活動に入るよう呼び戻されますが、その途中に海難者を助けたあとから、北朝鮮軍の駆逐艦や、中国の原子力潜水艦に執拗に狙われます。
海上自衛隊の潜水艦はディーゼルを動力源としているため、一定時間ごとに空気を補給し、蓄電しなくてはいけません。
対する原子力潜水艦はディーゼル駆動の潜水艦と比べれば無限とも呼べるほど潜航を続ける能力を持ちます。
しかし原子炉を内蔵しているために船体は大きくならざるを得ず、また旧式のため静粛性も欠けます。
そしてもう一つ大きな弱点も持っていて、それが本作の中で「さちしお」がうつ起死回生の一撃に繋がります。
日本の潜水艦は原子力潜水艦に比べれば小型で小回りがきき、また静粛性も優れています。
このように短所長所をお互いに持った潜水艦同士の戦いは、剣豪同士の戦いのような緊張感を持っています。
その点においては本作は楽しめます。

けれども小説としてのドラマ性といった点でみると、あまり評価できません。
潜水艦同士の戦いが描きたかったにしても、その背景となる事件の決着や、冒頭の核テロを描く際の登場人物についての描写があとは全くなく、放り投げているような感じがしました。
やはり人物が描けていないのが致命的で、潜水艦戦については楽しめたものの、小説としてはおもしろいと言える作品にはなっていないように思えました。
「雷撃震度十九・五」はけっこうおもしろい印象があったので、ちょっと残念です。

「無音潜航」池上司著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-375703-9

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