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2009年6月28日 (日)

「機動戦士ガンダム」 アニメを変えた記念碑

エヴァの新劇場版があまりに良かったので、その流れのまま、今年がガンダム30周年ということで有楽町でメモリアル上映をやっていた「機動戦士ガンダム」を観に行きました。
ご存知の通り、エヴァと同じように、というより最もその後の文化に影響を与えたロボットアニメが「機動戦士ガンダム」です。

小中学生の頃の観たり読んだりして、その後の自分の趣味指向に大きく影響を与える作品(映画や小説など)があります。
僕の場合は、本作「機動戦士ガンダム」であり、「スター・ウォーズ」であり、「仮面ライダー」「ウルトラマン」であり、「ドラえもん」であったわけです。
特に「ガンダム」はその頃の小中学生でいわゆる「ガンプラ」に手を出さなかったヤツはいないのではないかと思えるほどに、社会現象化していました。
今回久しぶりに劇場で「機動戦士ガンダム」を観ましたが、ほとんどの台詞を空で言える自分に驚きました。
どんだけ繰り返し観たことか・・・。
記憶力の良い時に覚えていたからでしょうか。
その記憶力を英単語にしておけば、苦労をしなかったのに。

本作が何故社会現象化までいったのかというのは、それこそ「ガンダム論」みたいなものが当時からプロから素人まで論議をしていたのであえてここで書くのもなにかなと思います。
安彦良和さんが描くキャラクターの魅力、大河原邦夫さんのメカのかっこよさ、それまでのロボットアニメにはないリアルな設定等、いろいろその原因をあげることはできます。
でもやはりこの作品が社会現象化となったのは、その物語が持つ解釈の懐の深さであろうかと思っています。
当時の人でもあまり知らないとは思いますが、「Animec」というアニメ誌がありました。
大手出版社ではない(「ラポート」という会社だった)ので(たぶん今は「ふぁんろーど」は生き残っている)アニメブームが沈静化したときに廃刊になってしまった雑誌です。
そこでは読者が「ニュータイプ論」など「ガンダム」の世界について、まじめに語り合っていたのです。
これらはけっこうきちんと書いてある評論が多く、それまで子供向けと言われていたロボットアニメが様々な解釈を持たれ、議論をされる題材になりうる懐の深さを持っていることを示したという点でエポックであったと言えます。
そんな「ガンダム」(あと多分に「イデオン」)の影響をアマチュア時代にもろに受けたのが「エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督だったりするわけで、あの作品がさらに様々な解釈を生んでいる話になっているのは、そういう影響があるからだと思われます。
かくいう自分もこちらのブログで書いているレビューが、その物語世界の構造といったものに多く言及してしまうのは、「ガンダム」のときに身に付いてしまった「作品の見方」があるような気がします。
そのように深読みしようとすればかなり読み込める作品というのは「ガンダム」がほとんど最初であり、日本のアニメーションの一つの方向性を作ったと考えられます。

「ガンダム」劇場版三部作のあと、次第に僕はアニメーションから段々離れていきました。
「ガンダム」も「ZZ」以降はまったく観ていません。
けれど久しぶりに本作を観て、あのときのあれほどまでに熱中した気持ちというものを思い出しました。

「機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編」の記事はこちら→
「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編」の記事はこちら→
「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の記事はこちら→
富野由悠季監督作品「伝説巨人イデオン<接触篇><発動篇>」の記事はこちら→

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2009年6月27日 (土)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」 Beautiful World

素晴らしかった!
久しぶりに映画を観て、鳥肌がたつ経験をしました。
公開前はマリという新キャラクターが登場するということくらいしか情報がなく、大きく物語はオリジナルから変わっていくであろうと予想していました。
マリは本作冒頭から登場し、この物語が以前の「エヴァンゲリオン」とは異なるというサインにはなっていたと思います。
ですので全く異なるストーリー展開になるかと思いましたが、本作の中で語られるエピソードは旧作「エヴァンゲリオン」の中でも印象深いものが活かされていました。
宇宙空間からネルフ本部を目指して落下してくる使徒を、シンジ、アスカ、レイの三人で撃滅するエピソード。
エヴァ参号機が使徒化してしまうエピソード。
綾波レイの特攻攻撃のエピソード。
ただし一見同じように見えるエピソードも新劇場版の新しいストーリー、新しいメッセージのために巧みに再構築されています。

新劇場版が旧作と異なる最も大きな点は、シンジ、アスカ、レイという三人のキャラクターの「世界」へのスタンスです。
旧シリーズでは彼らエヴァンゲリオンのパイロットの少年少女は、それぞれに世界・世間からの疎外感、そして孤独感を感じています。
シンジは父親に捨てられたという孤独感。
アスカは自分の力のみしか頼れないという孤独感。
レイは人とは異なるものとしての孤独感。
旧シリーズのキャラクターは激しいほどの「世界」への拒否感が感じられます。
それがあの最終回に繋がるわけです。
しかし新劇場版の三人も旧シリーズ同様の疎外感・孤独感を持っていますが、彼らは彼らなりに自分以外の人間とコミュニケーションをとろうと行動をしようとする気持ちをもっています。
アスカやレイのためにお弁当をつくるシンジ。
シンジのために慣れない料理をしようとするアスカ、そしてレイ。
旧シリーズにはないこれらのエピソードが、新劇場版の三人の世の中へのスタンスが変わっていることを如実に表しています。
誰かを好きになる気持ち。
その誰かを守りたいという気持ち。
「ありがとう」と言える気持ち。
そういう気持ちを三人は持って、そして自ら戦いの場にでていくことを選択するのです。
レイとシンジを思いやり、参号機のテストパイロットに志願するアスカ。
シンジを守るために自爆を選ぶレイ。
そしてレイを守るために、一度降りたヱヴァンゲリヲンに搭乗することを選ぶシンジ。
誰かに命じられたからというのではなく、彼ら自身が選んだのです。
旧シリーズではアスカの「気持ち悪い」という台詞が印象的でした。
これは人と繋がることが自分を侵されるような気持ちになるということであったのでしょう。
けれども本作ではレイの「ポカポカしてくる」という台詞がとても心に残ります。
人と気持ちが通じ合うこと、それがとても幸せな気持ちであることということを言っているわけです。
旧作から新劇場版へ、彼ら三人はコミュニケーションを拒否するのではなく、繋がろうと大きく変わっているのです。

「大人になれ」とゲンドウはシンジに言います。
自分の願いを叶えるためには誰かを利用することを厭わない。
それほど強い覚悟がなければ、自分の願いを叶えることはできないとゲンドウは言いたかったのでしょうか。
確かに「世界」は理想論で語れるほど優しいものではありません。
過酷であると言ってもいいでしょう。
だからゲンドウの言うことも一理あるかもしれません。
そのような大人たちの存在があるからか、旧シリーズではシンジの「大人になること」への拒否感というものを強く感じました。
けれどもずっと子供でいることを世の中が許してくれるわけはなく、それをわかっているからこそシンジは「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」と繰り返し唱えながら戦っていたわけです。
新劇場版では子供たちは、旧シリーズのように子供のままでいようとするのではなく、ゲンドウたちのような旧世代の大人ではなく、新しい時代の大人になろうとしているように思えました。
自分の願いとともに、相手を想うことができる、そんな大人に。

旧シリーズにおける「人類補完計画」。
人間と人間は究極的には理解し合えない。
人は傷つけ合ってしまう存在である。
すべての人が幸せになるためには、個というものを捨て去り、一にならなければならない。
これが碇ゲンドウが考える「人類補完計画」です。
けれども新劇場版においてはそのような大人の考えを越え、子供たちは必死で想いを繋げていこうとします。
自分も幸せになり、相手も幸せになる。
ゲンドウが推進する「人類補完計画」とは異なる答えを、彼らが導きだそうとしているように思えました。

本作最後のタイトルロールでは前作に引き続き、宇多田ヒカルさんの「Beautiful World」が流れます。

 もしも願い一つだけ叶うなら
 君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ
 Beautiful World
 迷わず君だけを見つめている

これはまさに新劇場版の主題そのものを歌っている歌詞です。
そのテーマをこのように表現した宇多田ヒカルさんも素晴らしいし、だからこそ庵野監督も再びこの歌を主題歌にしたのでしょう。

彼ら三人は想う人の隣で幸せに過ごせる世界を目指しています。
彼らの「Beautiful World」が新劇場版の最後で実現することを、僕も願いたいと思います。

本作でのアスカには衝撃を受けてしまいましたが、予告で出ていたのでちょっとホッとしました。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」の記事はこちら→

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2009年6月21日 (日)

「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」 彼らとの旅で得るもの

シリーズ第三作にして完結篇の本作、3時間を軽く超える長尺にちょっと観てみようというにはなかなかヘビーなんですよね。
今日は朝から雨で、出かける気が失せてしまったため時間ができたので、ゆっくりと家で本作を観賞です。

過去二作品のレビューでも書いたのですが、ピーター・ジャクソン監督の中ツ国という世界を構築しようとする試みはさらにさらに繊細かつ大掛かりになっていると思います。
小さな小道具から、背景に見える世界まで、監督のこだわりが隅々まで行き届いているように思えます。
本シリーズの成功後、雨後の筍のようにファンタジー映画が作られましたが、未だに本作を越えると納得できるような作品が現れていないのは、やはりオタクと言われるピーター・ジャクソン監督のこだわりのためでしょうか。
今後越えるとしたら、ピーター・ジャクソン製作、同じくオタク監督と言われるギレルモ・デル・トロ監督の「ホビットの冒険」ですかね。

また本シリーズが他のファンタジー作品との違いを際立たせているのはそのテーマ性でしょう。
「指輪」が象徴する人間の心に存在する悪の側面。
独占欲、支配欲、猜疑心、嫉妬等、人間の心にはこのような悪意が間違いなく存在します。
心の悪しき側面は、安易さ、強大さゆえに軽々と人を呑み込もうとします。
本作に登場するキャラクターは多かれ少なかれ、これらの悪意と良心とのせめぎ合いに苦しみます。
それは「指輪」によるということではなく、そもそも人の心がそのような心を持っているということなのでしょう。
また人間というものは、この人は悪人、この人は善人と簡単に割り切れるものではありません。
「指輪」に取り憑かれたゴラムが多重人格になっているのもそのことを象徴しています。
ひとりの人間にも悪しき心と良き心がせめぎ合い、戦っているのです。
まるで本シリーズで描かれる善と悪の戦いのように。
良き心を全うするのは、力と覚悟が必要です。
成り行き任せでは善の道を歩くことはできません。
その道を歩くという決心がいるのでしょう。
フロドが指輪を捨てにいく旅で、アラゴルンが王に至る旅で、彼らは良きことを成そうとする決心をしているのですよね。
安易に流れない覚悟を彼らは心の中に抱くのです。
彼らの旅は決して楽なものではありませんでした。
3回にわたる本シリーズ、彼らといっしょに旅をした10時間で、観ている僕たちも良き心を全うする困難さを体験します。
けれども重荷を背負いつつ旅したその先には、なにか簡単には得難いものがあることも知ることができます。
彼らの旅から自分でも良き心を持つことへの勇気をもらうことができるシリーズでした。

「ロード・オブ・ザ・リング」の記事はこちら→
「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」の記事はこちら→

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2009年6月20日 (土)

本 「東京バッティングセンター」

最近のお気に入りの作家の一人、木下半太さんの新作です。
人気の「悪夢」シリーズは関西が舞台ですけれど、本作は東京が舞台になります。
主人公は、吸血鬼でありながらホストをやっているタケシ。
彼はもともとは不細工な面相だったために、美女の生き血にありつくために苦労を重ねたため、美容整形をして金城武似になったということでタケシという通り名に。
そういえば何故か映画や小説等で描かれる吸血鬼というのは美青年が多いですよね。
人間も美形は得ですが、吸血鬼も同じというのは、世知辛い感じです。
木下半太さんの小説の魅力は、登場するキャラクターのおもしろさによると思います。
先にあげたタケシも、吸血鬼ですが、真面目で押しが弱い巻き込まれキャラ。
他に登場するのは、「復讐屋」を営む元キャバクラ嬢で雪女の雪美、まるで人の心が読めるような弁護士土屋など、一癖も二癖もあるキャラクターたち。
これらの登場人物の掛け合いが楽しく、読み口も軽いのでサラサラと読み進められます。
連作短編のような作りなので、「悪夢」シリーズのようなドンデン返しはそれほど激しくありません。
最後のオチはあちらのシリーズを読んでいるとちょっともの足りない感じはありましたけど。

一カ所「悪夢」シリーズとのリンクがありました。
あちら読んでらっしゃる方はどこにあるか探してみては。

木下半太さん作品「悪夢のエレベーター」の記事はこちら→
木下半太さん作品「悪夢の観覧車」の記事はこちら→
木下半太さん作品「悪夢のドライブ」の記事はこちら→

「東京バッティングセンター」木下半太著 幻冬舍 ハードカバー ISBN978-4-344-01671-4

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「トランスフォーマー/リベンジ」 もうお腹いっぱいです

最近どうもハリウッドのビックバジェットの作品が楽しめない。
けっこう評判のよい「スター・トレック」にしても「ターミネーター4」にしても、「そこそこ楽しめる」というくらいで、「すんごいおもしろい!また観たい!」って感じにならないのです。
どうもこの手の作品に個人的に飽きがきているからなのか、どうなのか・・・。
少し前まではこういうのすごく好きだったんですけれどね。
さて、そんなハリウッドのビックバジェット作品の一つ「トランスフォーマー」の続編「トランスフォーマー/リベンジ」を観てきました。
前作「トランスフォーマー」はあっという間に変形するロボットのギミックに度肝を抜かれ、前のめり状態で頭から終わりまで観入ってしまった作品です。
前作を観終わったときに「これは続編がまた観たいぞ」と思ったら、すぐに続編製作が決定して、その公開を心待ちにしていたのでした。
ただ、冒頭に書いたように最近この手の作品をあまりおもしろいと思わないことが多いので、ちょっと不安もありました。

観終わった感想はというと、うーん?という感じ。
相変わらずのロボットアクションはさらに派手になっていますし、でてくるロボットの種類も数も前作よりずっと多い。
目を見張ったところもいくつかあったのですけれど、でもなんだか前作で受けた衝撃を超えるほどは感じられませんでした。
トランスフォーマーたちと人類の因縁みたいな要素が入ってきたからか、ややもすると話の焦点がぼやけ気味のように感じました。
特に中盤までがそのような感じが強いように思います。
サムは前作では典型的な巻き込まれキャラだったと思うのですが、本作ではいつの間にか運命の男的に扱われていて、そのあたりもしっくりしません。
もともとマイケル・ベイの作品にキャラクターの深みというのは期待をしてはいけないのですが、話が散漫になって、よりキャラクターも薄くなったため、ドラマ部分が弱い感じがするので、なかなか話に引き込まれません。
アクションパートはパワーアップしていたと思いますが、薄味のドラマパートとの落差が非常に大きい。
アクションもさらに画面の密度とスピード感がでていたので、観ているほうとしては情報処理量を超えてしまっているようなところもあり、ちょっと疲れてしまいます。

アクション映画といえども、新しい映像で驚かせられるのはやはり一回きりなのかもしれません。
それ以降はやはりキャラクターがしっかりと描かれ、ドラマが語られなければ作品としてもたないのでしょう。
もしアクションだけを見せるという踏ん切りがついているのなら、もっともっと短く2時間弱ぐらいでコンパクトにやったほうがおもしろい気がします。
今回はとてもとても長く感じました。
もうお腹いっぱいなのに、さらにこってりラーメンを食べてしまったときみたいです。
本日は二本くらい映画を観ようかなと思っていたのですが、お腹いっぱいな気分になったので、本作だけにしました。

不満点はいろいろあるのですが、オプティマスが、追加パーツをつけて空を飛べるようになったにはちょっと燃えました。
やはりロボットものは追加パーツで空を飛ぶのは定番ですからね。

前作「トランスフォーマー」の記事はこちら→

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2009年6月17日 (水)

本 「アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ」

1901年にギリシアで引き上げられた沈没船の積み荷が引き上げられました。
古代の彫刻や器などの中に、奇妙な装置が混じっていました。
それは精密な歯車を組み合わせた装置で、時計のように見えます。
けれどもヨーロッパで機械式時計が作られたのは14世紀。
それよりもはるか昔のギリシアで精密な時計が作られていたのか。

20世紀の初めに発見されたアンティキテラの機械は、当初は何であるのか誰もわかりませんでした。
けれどもX線写真や、断層写真などの技術の進化に合わせて、その機械の謎が次第に解明されていく様子がおもしろいです。
様々な説が出され、それが技術の進化に伴い、検証され否定され、そして新たな説が生まれていく。
結局のところ、アンティキテラの機械は惑星の運行や食を計算することができるという代物のようです。
日付を入力すれば、そのときの天空の状況がわかる。
いわば星の動きをシミュレートする機械であったわけです。
そのような古代にそのような技術と知恵があったのは驚くべきことです。
そしてその知識は、現在の時計に繋がっているものなのかどうなのかという謎もあります。
この本で書かれている説は以下の通り。
アンティキテラの技術はギリシアからローマに時代が移るにつれ、その地では次第に失われていった。
けれどもその知恵と技術はイスラム文化圏に伝わり、そして伝承された。
それが再びヨーロッパに伝わり、その後の機械式時計の発明に繋がったとされています。
これはまだ文献等の検証も十分にできていないため、確かかどうかは言えません。
今後イスラムの古文書などが分析されていけば、その答えが発見できるかもしれません。
生まれた知恵が人から人へと伝わっていき、1000年を経て花開く。
何かロマンのようなものを感じます。

「アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ」ジョー・マーチャント著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-371430-1

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2009年6月16日 (火)

「ウルトラミラクルラブストーリー」 究極の愛

なかなか解釈に悩む作品であります。

<ですので、これ以下で核心に迫ろうとがんばりますので、観ていない方は注意>

町子先生(麻生久美子さん)は東京でつき合っていた人を事故でなくし、青森にやってきました。
それは恋人を失い傷ついた心を癒しにというからではないように思えます。
いや、彼女は喪失感は持っていました。
けれどそれは愛する者を失ったといった種類の喪失感ではなく、なぜ彼が自分といっしょにいたのかという疑問が永遠にわからないという意味での喪失感であると思います。
いっしょに暮らしていたけれども、彼が何を考えていたのかわからない。
もしかしたら自分もどうして彼といっしょにいたのかもわからないと、町子先生は思ったのかもしれません。
男女がつき合うとき、愛情があるからということは当然ありますが、なにかしら打算みたいなものがないとは言えません。
最近の流行語である「婚活」なんていうのもそうかもしれません。
つき合っていた方がいいだろう、結婚しておいた方がいいだろうみたいな気持ち。
そういう気持ちが自分にも当たり前にあるから、ほんとうに相手が何を考えているのか、感じているのかがわからないということはあると思います。
その不純さみたいなものはほとんどの人の気持ちには多かれ少なかれあることでしょう。
けれども陽人(松山ケンイチさん)はその不純さみたいなものを一切もたない人間です。
己の感じる気持ちにただただ素直に生きている青年。
町子先生が好き、いっしょにいたいから結婚したい。
てらいもなく、ストレートに感じたままを口にだし、行動するのが陽人です。

本作はかなり突飛なエピソードが突然に提示されて、観ていてドギマギするところがあります。
心臓が止まっても、町子先生を想いながら、普段通りに暮らしていく陽人。
頭がないけれどもえらく自然に話す、町子先生の元恋人の要。
やっとシンパシーを感じた陽人の脳みそを、熊に放ってしまう町子先生。
観たすぐ後は、これをどう受け止めるのが良いのか唸りました。
そしてしばし唸ったあと、こう思いました。
本作で陽人が体現している究極の愛情というのは、心が宿るとされた心臓とか、意識が座す脳みそとか、観念的な心にあるということではありません。
そういう物理的観念的な枠の中にあるのではなく、ただただそこにあるという純粋な愛情が、究極の愛。
打算などはそもそもそこにはなく、肉体や精神といったしがらみすらない。
それが陽人が象徴している究極の愛なのだということだと思いました。
町子先生は元恋人がなぜ自分といっしょにいたのかということを思い悩みます。
けれども陽人の愛情というのはそういう考えや思いを超えています。
いっしょにいたいから。
両想いになりたい。
ただ純粋な想い。
愛情を超えた(ウルトラ)愛情が、生み出す奇跡(ミラクル)。
タイトルはストレートにそのメッセージを伝えていたのでした。

と解釈を垂れてみましたが、それがそもそも不純なのかもしれません。
ただ感じるというのが、本作の正しい見方なのでしょう。

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2009年6月14日 (日)

「真夏のオリオン」 理想の上司

本作の原案となっている池上司さんの小説「雷撃震度十九・五」はずいぶん前に読みました。
太平洋戦争末期にアメリカの巡洋艦と日本のイ型潜水艦の攻防を描くお話だったと思いますが、ほとんど忘れてしまっていて・・・。
けれどそのとき読んだときのおもしろさは覚えています。
「眼下の敵」を思わせるような、巡洋艦の船長と、潜水艦の船長の相手の心を読もうとする緊張感のある攻防は読み応えありました。
潜水艦を題材にした小説の中でも傑作と読んでいい作品だと思います。

本作「真夏のオリオン」は「雷撃震度十九・五」を福井晴敏さんが脚色した原作をベースにしています。
原案作品の詳細を覚えていないので、どこか同じでどこが違うとは指摘できないのですが、巡洋艦と潜水艦の緊張感のある攻防は踏襲しているように思います。
福井晴敏さんが脚色しているので、「ローレライ」のような中途半端な恋愛が入ってきたらやだなあと思っていましたが、そのあたりは思ったよりも薄めでした。
水上と水中の行き詰まるような攻防戦はなかなか良かったと思います(「ローレライ」より見応えあったと思います)。
ストーリーとしては驚くべきところはないのですが、丁寧で素直な作りになっているので安心して観れます。
魅力があるなと思ったのは、イ-77潜水艦の艦長倉本(玉木宏さん)というキャラクター。
若い艦長だなと思ったのですが、太平洋戦争の頃は20代から30代の艦長も多かったとのこと。
戦争後期は人材不足という面があったのかもしれないですね。
たぶん倉本からすれば、航海長や水雷長、機関長(吉田栄作さん渋くていい)は経験も豊富で年齢も上。
また下士官は少年のような年頃の子も多く見えます。
倉本にとっては、自分よりも上の年齢の人から、まだ子供のような頃の人までを部下に抱え、彼らをまとめあげなくてはいけないのです。
倉本という人物は、部下たちへの言葉遣いが丁寧で、とても物腰が柔らかい。
年上の部下をリスペクトしているという気持ちがあるから、彼らに対しても「ありがとう」という言葉が自然に出てきています。
また若い部下たちへの目線もとても細やかに見えます。
そして部下たちは倉本に対して、階級が上だからというのではなく、人間として尊敬の念と信頼を寄せています。
これは急場ですぐにできるようなことではなく、普段から倉本が部下と丁寧に接してきたということがわかります。
倉本は「理想の上司」の姿と言ってもいいかもしれません。
僕もこういう上司の元で仕事をしてみたいと思いますし、部下からはこういうふうに見てもらえるようになりたいなあと思います。

福井晴敏さん原作の潜水艦映画「ローレライ」の記事はこちら→

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2009年6月13日 (土)

「ケータイ捜査官7」 明日の未来

こちらは昨年4月から今年3月までテレビ東京系のゴールデンタイムで放送されていた30分のドラマです。
あまり知っている方は少ないかもしれないのですけれど、シリーズ監督はあの三池崇史監督、そして押井守、金子修介、小中和哉、湯川邦彦などの錚々たるメンバーも参加している作品です。
そして製作は海外でも評価が高いアニメーションプロダクションのProduction I.G、そして「たまごっち」を生み出したWiZという、実はかなり強力な布陣なのです。
ジャンル的には特撮になるのでしょうけれど、そもそも現在は4クール通しのドラマはNHKの大河ドラマと戦隊シリーズ、そして「仮面ライダー」シリーズしかないのですから、けっこう冒険的な企画でした。
かくいう僕もオンエアしはじめた時はまったく気づかず、ビデオがリリースしてから追いかけたという感じです。

作品の設定としては・・・。
インターネット、そして携帯電話が爆発的に普及してきている現在、ネットを使った犯罪が多発しているけれども、警察はそれに追いつけていない。
ネット犯罪を防ぐため、「アンダーアンカー」という民間組織が秘密裏に作られた。
「アンダーアンカー」のエージェントは「フォンブレイバー」という携帯電話型のロボットとともに、犯罪に立ち向かう。
「フォンブレイバー」は高度なAIを積んでいるため、あたかも人間のような性格を持ち、エージェント
とバディ(コンビ)を組む。
といったところです。

この「フォンブレイバー」、ほんとにケータイに手足が生えたようなデザインで最初見た時はトホホと思うのですが、実はけっこう味わいがあり、観ていくうちに次第に愛着がでてきます。
また「フォンブレイバー」はそれぞれが違う性格を持っているために、人間以上に人間的に見えます。

 ※「フォンブレイバー」はこんなヤツ

主人公はある出来事をきっかけにエージェントとなった高校生の網島ケイタ。
ケイタと彼とバディを組むのが「フォンブレイバーセブン」。
本作はケイタとセブンのバディものなのです。
ケイタが子供以上大人未満の高校生であるということはシリーズ後半になるほど意味がでてきます。
ネットワークが発展する社会。
それに危機感を感じる大人たち。
彼らは世の中を理屈で考え、自分の理想とする姿にしようと試みます。
彼らの理想はそれぞれに「正しさ」を持っています。
大人であるが故の分別がそこにあります。
けれどケイタは違います。
頭でっかちの理屈ではなく、それが間違っているか間違っていないかということを、不器用ながらも素直な感情でわかろうとします。
そして若い故に新しいもの、異なるものに対しての、柔軟性を持っています。
その素直さ、柔軟性が、ネットワーク社会における大きな変化を、人類の危機ではなく、人間の新しいタームだと受け取ることができるのです。
彼にとっては、意志や心を持っているように見えるロボットであるセブンも、心から自分の相棒と呼べるのです。
彼が感じているのは楽観的な未来なのかもしれない。
けれど悲観する未来は先細りするしかなく、やはり変化を前向きにとらえていかなれば明日の未来はありません。

1年間という長期にわたっているシリーズなので、その中のエピソードもバラエティがあって楽しめます。
特に押井守さんの脚本・監督の回は、いまや伝説的な「うる星やつら」のエピソードを彷彿とさせる暴走ぶりなので、押井さんが好きな方は要チェックです。
三池監督は初回、そして折り返し点、そして最終回という肝の部分を監督されているので、ここも注目です。
特に第1話はテレビシリーズ?と思えるほどけっこう力が入って作られています。
設定だけ聞くとそれほどおもしろいのと思う方がいらっしゃるかもしれませんが、そんなことないので、だまされたと思ってまずは第1話を観てみてください。

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「ターミネーター4」 ハードルが高いのは間違いないが・・・

久しぶりのシリーズの続編「ターミネーター4」を初日に観てきました。
初日と言っても対策は最近は先行上映されることが多いので、もう観た方も多いでしょうね。
前作の「ターミネーター3」はあまりのおもしろくなさにがっくりきてしまったので、あまり過剰な期待はしないようにと自分に言い聞かせながら、劇場に向かいました。

んー、確かに映像は迫力あります。
予算があんまりなかった一作目「ターミネーター」と比べれば、この映像は隔世の感がありますよね。
けれど、1作目、それに続く「T2」で受けた衝撃を記憶している自分としては、もの足りない感じを受けました。
「3」ほどおもしろくない!とがっくりするほどではないのですが、やはり1、2作目と比べるとどうも食い足りない感があります。
シリーズのファンというのは貪欲なもので、作を重ねるに従ってもっともっとと要求するものです。
その期待度ほどには残念ながら「4」はいっていなかったように思えます。
やはりスゴかったのは「T2」です。
1作目が「激突」のようにいくら振り払っても追いかけてくる不気味な敵から逃げるというサスペンスフルなアクションだったのを、「T2」ではそのプロットを踏まえつつ、コナーとT-850との友情を折り込みラストに感情移入できる盛り上がりを用意したことでしょう。
つまりシリーズ続編でありながらも、さらにステップアップした物語性を提供することに成功しているのです。
キャメロン監督は「エイリアン2」でも同様なことにチャレンジして、こちらもたいへん評価の高い作品に仕上げました。
さてだからこそ本シリーズの続編については、ただの続編では満足できないほど期待値は高くなってしまいます。
その期待値に本作が答えられているかというと、やや及ばないと言わざるを得ません。
本作では今までの未来から過去を変えるためにやってくるターミネーターというプロットを採用せず、ジョン・コナーが反乱軍のリーダーとして戦っている未来を舞台にしています。
これは過去3作と同じような設定でやってしまうと、どうにも過去の作品を越えられないという判断があったのでしょう。
これは間違いではないと思います。
そして新しいプロットとしては己を人間だと思っているターミネーター、マーカスの登場。
これは予告でもバレバレなので書いてしまっています。
このプロットは「ターミネーター」シリーズにおいてはやや微妙。
本シリーズにおいては新しいような気がしますが、人間でない存在が人間であろうと悩むというのは、今までの様々な作品で描かれている内容なので、それほど新しさを感じません。
また本作は二人主役のように描かれているためか、マーカスの心情を描ききっているようにも思えません。
どうせやるなら軸足をコナーからマーカスに振り切ってしまったほうがドラマチックだったかもしれません。
また未来を舞台にしていながらも、対ターミネーターバトルは、今までの作品で観たような感じがしてしまいます。
夜の工場、溶鉱炉、溶けた鉄・・・。
映像としては技術的に進化しているかもしれませんが、既視感を持ってしまいます。
もう少し新しいアイデアはなかったのでしょうか。
このシリーズの続編はハードルが高いのは間違いがないのですが、やはりそのハードルを越えて欲しかったというのが観終わった時の感想でした。

いくつか気になったところが。
ジョン・コナーは少年の頃T-850と会っているはずですが、マーカスを見て「今までに見たことがない新しいタイプ」と言いましたが、これは何故なんでしょう・・・。
あとスカイネットはマーカスのような人間と間違うほどの人間性を持ったターミネーターを開発できたのに、その後リリースするT-800、T-1000などは感情を一切持たないタイプになっていますけれども、この理由もよくわかりません。
「スター・トレック」みたいに今までのシリーズとは違うパラレル・ワールドとは言わないですよね。

「ターミネーター」の記事はこちら→

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本 「海の底」

有川浩さんの作品で通称「自衛隊三部作」と呼ばれている作品の一つです。
「塩の街」(未読)が陸上自衛隊、「空の中」が航空自衛隊、そして本作「海の底」が海上自衛隊を題材にしているということでそう呼ばれているようです。
三部作と言ってもそれぞれのお話は独立しておりますが。
有川浩さんは「図書館戦争」から読み始めたので、あのベタ甘な感じ(笑)が印象づいていましたが、本作は甘さは控えめでした(夏木と望のぶきような感じは有川テイスト)。
本作読んで思い浮かべた映画は「ガメラ2 レギオン襲来」でした。
レガリスはまさにレギオンのイメージでしたね。
平成「ガメラ」シリーズは、現在の日本に実際に怪獣が表れた場合、国はどのように対応するかというシミュレーションを行った作品でした。
「空の中」もそうでしたが、本作も同じように同様に生物災害が発生した場合のシミュレーションを行っています。
特に本作では警察の描き方がなかなか真に迫っています。
怪獣らしきものが出たとして、よくある怪獣映画のようにいきなり自衛隊を出動することはたぶんできません。
現行法制ではさまざまな縛りがあるためです。
そのような場合、国はどのようにするかというと、警察の警備部(機動隊など)でなんとか耐えることしかないでしょう。
もともと警察は警備が任務であるために、攻撃するための装備は持っていません。
圧倒的不利の中で、警官たちは自分たちの仕事に誇りを持ち、立ち向かいます。
このあたりの任務に対しての責任感というものは、有川さんの作品において共通して描かれているところです。
このあたりのまっすぐさをストレートに描いてくれるところは有川さんの作品を読んでいて気持ちがいいいところですね。
警察や自衛隊のシミュレーションを行っているといっても、本作はそれだけではありません。
レガリスによって占拠された海上自衛隊基地内の潜水艦に閉じ込められた自衛官二人と見学にきていた子供たちのドラマも並行して描かれます。
大きな視点だけでなく、小さな視点でも描かれているために、このシミュレーション小説の深さがでて、かつ感情移入もしやすくなっていると思います。

「三部作」で残りは「塩の街」だけ。
こちらも読まないと。

有川浩作品「塩の街」の記事はこちら→
有川浩作品「空の中」の記事はこちら→

「海の底」有川浩著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-389802-2

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「重力ピエロ」 自分で考えろ

遺伝か、環境か?
劇中でも語られていたように、ある人の人間性を形成するのは、遺伝因子なのか、それとも環境因子なのかという問いに対して諸説あります。
本作を観ていて、もう一つの問いが浮かびました。
人生を決めるのは、運命か、意志か?

伊坂幸太郎さん原作の映画(「アヒルと鴨のコインロッカー」や「Sweet Rain 死神の精度」、「フィッシュストーリー」)は過去の出来事がその未来の出来事に影響を与えているということを、時間軸を巧妙に構成して描き、その因果を解き明かしていくストーリーが一種のミステリーのようであるところが共通しています。
これらの作品の過去と未来の因果というところだけに注目してしまうと、人生というのは運命であると語っているように思えます。
けれど実は伊坂作品のテーマは、人生というのは運命ではなく意志である、ということだと思います。
「Sweet Rain 死神の精度」の死神千葉にしても、「フィッシュストーリー」の雅史にしても、彼らが意志で運命を選択しているのです。

本作「重力ピエロ」はまさに、人生を決めるのは意志であるということを描いています。
自分の人間性が遺伝に因るものだけだとしたら、人生というのは運命論になってしまいます。
泉水も春は実の兄弟ではありません。
けれども大きな愛情を持って育ててくれた両親により、家族の強い絆を持っています。
ただ彼らそれぞれの心にとげのように刺さっているのは、春の出生に関わる過去の悲劇です。
家族とは、血によるものなのか、それまでの積み重ねてきた愛情によるものなのか。
つまり家族は、遺伝に因るのか、環境に因るものなのかという冒頭の問いに繋がります。
春は傍から見たら忌まわしい「運命の子」のように見えるのかもしれないですが、家族にとっては正志と梨江子という両親の意志によって生まれ、愛情深く泉水とともに育てられた子供なのです。
そして春がとっていた不可解な行動も、道徳観の欠如した本当の父親の遺伝によるものではなく、彼が自分の出生、そして家族のことを考えに考えた末、春が自分の意志で決定したことであるということがわかります。
彼らの父親である正志は、春が生まれるときに「どうしたらいいか」と神に問うたと言います。
その問いに神は「自分で考えろ」と言ったと彼は語ります。
ほんとに神が言ったかどうかというは問題ではなく、正志が自分の運命を彼の意志で選んだということが重要なのです。
自分の意志で選ぶということは、その先の人生に対して責任とともに、愛情というものが芽生えるのだと思います。
人生への愛情は、やはりそれを豊かにするのでしょう。
いかに過酷であろうとも、人生を運命だとへんに物わかりよく納得してしまうのは、投げ出してしまうことなのかもしれません。
考えて自分の意志で選んでいるからこそ、人生は受け入れられるのかもしれません。
意志を持つということは、彼らの家族を見ていればたいへん厳しいものであることは伝わってきます。
けれどもとても満ち足りたものであることも伝わってきました。
タイトルにある「重力」というのは、人を縛りつけるもの(血や遺伝、運命など)を表しているのでしょう。
そのようなしがらみから自由になれるのは、なりゆきにまかせない強い意志であり、それに裏打ちされた愛情なのですよね。
映画を見終わってそのタイトルが包含している意味合いがわかりました。

原作小説「重力ピエロ」の記事はこちら→
「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→
「Sweet Rain 死神の精度」の記事はこちら→
「フィッシュストーリー」の記事はこちら→

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2009年6月 7日 (日)

「ハゲタカ」 世の中は金、でも金だけでもない

原作も未読ですし、TVドラマも未見なのですが、世界規模の経済危機に陥っている今にち、タイムリーな題材なので興味があって観に行ってきました。
個人的には仕事でも経理関係の精算とか請求書とかの仕事はあまり好きではないのですよね(ようは細かいのが苦手)。
さらにややこしい金融関係となるとちょっとお手上げだったりするのですので、内容についていけるかとちょっと不安もあったのですが、大丈夫でした。
というより想像以上におもしろく、今度は原作もドラマにもチャレンジしたいと思います。

ここ数年の経済・金融の状況というのは、ほんとに激しく変化が起きています。
1年前に大きな売上・利益をあげていた企業が、一転して大赤字になっていたりします。
有名な企業でもなかには倒産しているところや買収されているところもあります。
現実の世界は、物語よりもよほどドラスティックに変動しています。
昨年、リーマンショックなどがあったりしているので、本作も結末についてはかなりシナリオをいじったということを聞きました。
それだけ現実世界は短期間で様変わりしているということでしょう。
「世の中は金」という主人公、鷲津の台詞があります。
これは経済が世界規模に大きく絡み合っている現在において、間違いのないことだと思います。
これは単なる目に見える紙幣といったものではすでになく、ありとあらゆるものの価値付けだと考えられます。
お金というものはそもそもそれを発行している国家の信用によって保証されるから価値があるわけです。
そのお金を単位としてあらゆるものが価値付けされ、それすらも金融商品として取引される。
そもそも実体がないものをさらに実体がないものにしているというのが、今の経済になると思います。
つまり「金によって裏付けられている信用」というものが、世界を動かしているとも言えるかと思います。
だからその信用がぐらついたとき、今までの構造は一気にもろくも崩れてしまうのです。
僕はメーカーに勤めていますので、やはり企業が売上を稼ぎ利益を得るためにするべきことというのは、お客様がお金を出していいと思われる価値を持つ商品を作ることだと考えています。
ですので本作の中で柴野(柴田恭平さん)が言っていたように、社員にしろ株主にしろ、その会社を愛する気持ちというのはとても大事だと思っています。
このような気持ちは戦後の日本の高度経済成長を支えたものであったと思いますが、90年代の大不況でそのような日本企業の文化というものは否定されました。
欧米流の評価主義、契約主義というものが労使関係にすらとりいれらてやっと日本も進歩したと思われたものですが、結局現在のようにお手本としたアメリカ自体がその仕組み自体に破綻を見せている中、同じように日本も不況に喘いでいます。
結局お金には換算しにくいものまで評価として数値化してしまい、そしてその数字はいつの間にか実体とはかけ離れたものに変貌していってしまうのです。
消費者はアンケートで数値化されたデータになってしまい、そこに本当はあるはずのひとり一人の顔が見えなくなっているような気がします。
経済活動というのは無論お金を稼ぐということが最も基本的なエネルギーになるのは間違いないのですが、実際はそれだけではないのだと思います。
だからこそ企業で働く人はその会社を愛し、誇りを持って働くことが大事なのです。
その誇りがあるからこそ、お客様にも誇れるものを売っていきたいと思うわけです。
柴野も言っていましたが、これはきれいごとかもしれません。
ですが、きれいごとこそが大事なのです。
それを忘れてしまった企業は(この数年いくつもの企業が消え去っていったように)いずれ淘汰されていく運命なのです。
僕の勤めている会社もこの2年くらいは周囲の環境変化が激しくかなり辛い時期もありました。
それでもなんとか赤にはならず踏ん張ってこれたのも、社員が一丸となってその苦境と戦ったこと、それによって生み出された商品がなんとかお客様に支持されて購入していただいたことによるものです。
経済活動はほんとうはお金というものだけでは動いているものではないと思います。
世の中は金、でも金だけでもない。

原作小説「ハゲタカ」の記事はこちら→

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2009年6月 6日 (土)

「ハイキック・ガール!」 映画ではない、デモンストレーションだ

先週観たタイのアクション映画「チョコレート・ファイター」が想像以上におもしろかったのでした。
「マッハ!」と同じく生身アクションなのにも関わらず、主演の一見可憐な少女のジージャーが、繰り出す技が迫力がありたいへんに見応えがあった作品でした。
細身の少女がバッタバッタと自分よりも大きな男たちを倒していくという、この落差が迫力あるんですよね。
そして今週、ふと「ぴあ」を見ていると、「ハイキック・ガール!」なる日本のアクション映画が公開中であることを発見。
掲載されている写真は、空手有段者の女子高生が、悪党にハイキックをお見舞いしている画柄。
なかなかに決まっていて、カッコいい。
「チョコレート・ファイター」の感激再び!と、いそいそと本作を観に行ってきました。

最近テレビであまり放送していないので、ご無沙汰なのですが、総合格闘技は好きなんですよ。
でもってやはり好きな技はハイキックとか、回し蹴りとかの蹴り技。
ミルコ・クロコップとか好きなんですよね。
なんで好きかというと、技が美しいから。
やはり格闘家がハイキックとか決めた時っていうのは、「強いっ!」っていうより、「美しいっ」て思っちゃうんですよね。
微動だにしない下半身から、ピンと一直線に高い位置まで蹴り上げられた脚というのは一枚絵のような感じがしたりするのです。

ちょっと脱線しました。
で、勢い込んで本作を観に行ったのですが、映画館を出てくる時はゲンナリしてしまいました。
あまりのひどい出来に。

<ここから珍しく悪態モードに入りますので、ご注意>

それほど映画として期待していたわけではありません。
でも、本作は映画としてお金をとるほどのレベルに仕上がっておりません。
確かに出演者は実際に格闘技の経験者、プロを集めているようで、個々の技などは美しい。
実際に技も当てているので、その辺りは迫力はあるとは思います。
けれどもアクションシーンの演出は、段取りを決めた空手の組み手を観ているよう。
よほど当てていることを見せたいのか、何度も同じシーンをスローモーションで見せてくれます。
この手法は香港のカンフー映画や、先にあげた「マッハ!」などでも見られますが、一つの作品の中でもかなり大きな技や仕掛けがあった場合に限られます。
本作のようにいちいちスローモーションをはさまれては、アクションの流れがとまっているように思えます。
なんだか観ていて、格闘技のデモンストレーションフィルムを観ているような気がしてきました。
またアクションシーンに限らず、カットの繋ぎがモタモタしていて非常にテンポが悪い。
撮ったフィルムを全部見せようとしているかと思えるくらいに編集が悪いです。
さらに出演者が、演技者というよりも格闘技経験者を集めているためか、演技についてはお粗末としか言えません。
つまりは興行してお金をとる映画としてのある品質レベルまでにいっていないように思えます。
映画監督しか映画をとっていけないわけではありません。
別にタレントでも、アクション畑の人でも作品を作ってもいいのです。
けれども作品を作り興行をはる時点で、その人はプロの映画監督となるわけです。
だからある一定のレベルの作品を提供する義務があると思います。
そのレベルにこの作品はなっていません。
久しぶりに叫びたくなりました。
「金返せ!」と。

「チョコレート・ファイター」の記事はこちら→

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「おと・な・り」 音からにじみ出るその人らしさ

「インスタント沼」を先日観賞したので、本日はまたまた麻生久美子さん主演の「おと・な・り」を観てきました。
あちらの変な感じの麻生さんも好きですが、本作のような正統派の麻生さんもいいですねえ。
今日から「ウルトラミラクルラブストーリー」も公開ですが、こちらも早く観ないと!

「基調音」という言葉は初めて聞きました。
「普段は意識していないけれど、いつもそばにあって、それがないとなんとなく寂しくなる音」のことだそうです。
確かにこういう音はあるかもしれませんね。
電線の上で啼く雀のチュンチュンという鳴き声だったり、ザワザワとした人の喧噪だったり、冷蔵庫のブーンという音だったり。
長く同じところで暮らしていると、「自分の場所」の音というイメージがいつの間にかできてくるのでしょうか。
そんな「基調音」にはいつの間にか、親しみのような感情を持ってしまうのかもしれません。
また声音や人がたれる音っていうのは、たとえ言葉を話ていなくても、その人の人となりやその時の感情というのが伝わってくるものですよね。
オフィス等でもその人の姿が見えていなくても、靴音だけで誰だかわかったりすることありますから。
同じ人の歩き方でも、慌てているとき、のんびりしているとき、やはりなんだか違う感じがします。
音というのは、その人の個性や気持ちが知らず知らずの表れてるものなのかもしれません。
だから音というのは、人の性格が合う合わないみたいなことがあるように、相性があったりしますよね。
キーボードの叩き方とか、貧乏揺すりのカタカタした音とか。
同じような音だったとしても、微妙な違いで全然気にならない人もいれば、すごい気に障ったりする人もいて。
これはもう相性なんでしょう。

本作の七緒と聡はアパートでおとなり同士。
安普請なのか、二人の部屋でたてる音はけっこうおとなりさんにも聞こえてしまっています。
けれどお互い、相手がたてる音が何故かとても心地いいと感じています。
聡にとっては、七緒がフランス語を練習しているときの声や洗濯物を干している時の鼻歌が。
七緒にとっては、聡がコーヒー豆をミルで轢いている時のゴリゴリといった音が。
それぞれに年齢が三十にさしかかり、自分がやりたいことと、今の現実との折り合いに悩むことが多いのですが、自分の部屋に帰って「おとなりさん」のたてる音を聞いていると、なんだか癒されてしまう。
それぞれ相手のたてる音から、自分と同じような感覚を持っているということを感じたのでしょうね。
やさしさであったり、ひたむきさであったり。
見かけで入ってしまう恋は裏切られることも多いけれど、音からにじみ出てくるその人の本質に恋してしまったら、裏切られることもあまりないのかもしれません。
劇中、七緒と聡はたがいに気になる存在になりながらも、すれちがってばかり。
最後はどうにか二人を会わせてやってくれと思いました。

とてもやさしい余韻を残してくれるラブストーリーでした。
エンディングで二人の幸せな先行きを、音だけで案じさせるのも、なかなか気が利いていました。

麻生久美子さん主演「インスタント沼」の記事はこちら→

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「お買いもの中毒な私!」 そろそろボーナスですが

最近、物欲があまりないんですよね。
そろそろボーナスの時期だったりもしますが、今年はこれを買おう!っいうのもあまりないなあ・・・。
根が臆病者だから、もともと高級品とか買う方ではないんですけれど。
これはほんとにいるのか?とか考えちゃうんですよね。
社会人になって初めてカードを使った時は、ドキドキしました。
気をつけないと、借金まみれになってしまうー、みたいな(笑)。
ま、あまり物欲がないのも、内需拡大せねばならないこういう経済状況ではあまり良くないのかもしれないですが・・・。

主人公レベッカはファッション誌のライターを夢見る女性。
それでもって「買いもの依存症」とも言えるぐらいのお買いもの大好き人間。
いけない、いけないと思っていても、ショーウィンドウに飾られているキラキラした洋服を見てしまうと、思わずカードを切ってしまって、いつしか借金が増えてしまい、回収業者に追いかけられてしまいます。
なんでそこまで買いものしてしまうの?と思ってしまいますが、このレベッカという人は自分の気持ちに素直なんでしょうね。
自分のやりたいことにストレートというか。
そうだから彼女の書く文章っていうのが共感性があったりするのでしょう。
けれども際限なく買い物をしてしまうっていうのは考えものなんですけれど。
レベッカの場合は「お買いもの」ですが、度を越して依存するっていうのは、何か満たされたいという気持ちがあるのでしょう。
劇中でもレベッカが言っていましたが、買った時は幸せだけど、一晩経つとそうでなくなる。
だからその喪失感を満たすために、また買ってしまう。
アルコール依存等もそうですよね。
現状から抜け出したい気持ちがあって、でも抜けられなくて、だから一瞬でも抜け出した気持ちになるものに深入りしてしまうっていうのが依存なのでしょう。
そこから抜け出すには、たぶん現状を見つめる自覚っていうものがなくてはダメで。
安易に頼れるものや行為におぼれるんではなくて、もっと前向きに進んでいけるような目標みたいなものを持たなくてはいけないんでしょうね。
とはいえ、本作はそういうことを感じさせながらも大上段に訴えるのではなく、「プラダを着た悪魔」のように華やかなファッショナブルさを持った軽いコメディに仕上がってます。
けっこう笑えるところもあって、僕はハンガーに隠れて一生懸命手紙をとろうとするレベッカがツボでした。
レベッカを演じていたアイラ・フィッシャーは初見でしたが、コメディセンスはいい女優さんだと思います。
アン・ハサウェイくらいにかわいかったら、もっと良かったですが。

女性は洋服とかアクセサリーとか、そのものが欲しいということもありますが、お店で買い物をするという行為が好きなんですね。
店員さんとあれがいい、これがいいと言っているのが、楽しいのかな。
僕は苦手なので店員さんが寄ってくると、こそこそ逃げ出してしまいます。

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2009年6月 3日 (水)

「インスタント沼」 意地なんて、蛇口をひねってジャー

このところ「おと・な・り」「ウルトラミラクルラブストーリー」と出演作が相次ぐ麻生久美子さんの主演作です。
監督は「時効警察」でも組んで息があっている三木聡さん。
その他の出演者にもふせえりさん、岩松了さん、江口のり子さんなどおなじみの「時効警察」メンバーが多数出ていたので、ファンとしては嬉しかったです。
しかし麻生久美子さんは最近いろいろな監督と組んでいますよね。
それだけ他の女優さんにはないものを持っていると評価されているんでしょう。
「時効警察」以来本作のような風変わりな女性を演じることが多いですが、こういう役をできる女優さんは他に名前をあげようとしてもなかなか浮かびません。
また恋愛ものなど正統的な女性像というのも上手だったりしますよね。
宮﨑あおいさんとか蒼井優さんとか若手でとても上手な女優さんも多いですが、ここまで役柄が幅広い若手の女優さんはいないのではないでしょうか。
このような役柄の幅の広さやどちらかというとインディーズ系の方に出演されることが多いので、なんとなく女性版オダギリ・ジョー、浅野忠信といったようなポジションを確立してきているような感じがします。

さて本作では麻生久美子さんは「時効警察」の三日月しずかを思わせるようなキャラクター、沈丁花ハナメを演じています。
ハナメは出版社に勤めているも担当していた雑誌が休刊で退職、想い人は後輩に奪われ、おまけに母親は河童を探しに池に行ってはまって意識不明の重体に、とすべてのことが下降線というジリ貧OL。
まさにずぶずぶと底なし沼にはまっていくような人生。

三木聡さんの脚本は相変わらずキャラクター通しの会話がテンポがよく、かつ不思議なくらいに噛み合ない。
「時効警察」もそうでしたが、この噛み合なさ加減が絶妙なんですよね。
これは好き好きあるでしょうが、僕はけっこうこのテイストが大好きなんです。
麻生久美子さんはこういうのが得意なのがわかっていましたが、共演している松坂慶子さん、風間杜夫さんも三木さんの間をつかんでいてとても心地よかったです。
さすがベテラン。

それなりに人生を生きていると、自分のスタイルとか主義とか出てくるものです。
いつしかそれは自分にとって絶対的な価値基準となって、変えることができなくなってしまいます。
それは意地だったり、恐れだったりするのですけれど。
そういう意地をはっているうちに、気づかぬうちにジリジリとドン詰まりに向かっていってしまう。
「ああ、マズいなあ」と思っても今更変えられないみたいな感じになってしまったりします。
これはハナメでなくっても、誰でも時折思うことじゃないかなあと思います。
毎日いつも通りそれなりにやっているんだけで、「あれ、こういうことだったっけ?』みたいに思ってしまうこと。
けれどそういうような自分の主義というのは、他の誰かが縛っているのではなくって、自分で自分を縛っていることなんですよね。
つまんない意地など、時々蛇口をひねってジャーッと洗い流すことも必要なのかもしれません。
ラストは突拍子もなかったけど、妙に感動したりして。
落ち目のOLハナメは端から見るとけっこうたいへんそうだけど、妙に本人は前向きだったりするので、細かいことは気にしないポジティブな気持ちをわけてもらえる感じもします。

なんだかシオシオミロがおいしそうだったぞ。
こんどやってみようかなあ。

麻生久美子さん主演「おと・な・り」の記事はこちら→

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