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2009年5月31日 (日)

本 「ジェネラル・ルージュの凱旋」

海堂尊さんの人気シリーズの第三弾、映画を先に観ていましたが、原作の方をやっと読みました。
第二弾の「ナイチンゲールの沈黙」とほぼ同じ時期を舞台にしていて、この二作が絡まりながら進んでいきます。
ですので、田口センセは次から次へといろんなところに呼び出されて大忙しです。
原作の方は映画と違い、殺人事件のような大きな事件は発生しません。
発生するのは収賄疑惑のみ。
ですので「チーム・バチスタの栄光」のような謎解きミステリーの要素はほとんどありません。
だからといっておもしろくないわけではなく、謎解きがないのにハラハラとして先をドンドン読みたくなる感じがあります。
ハラハラするのは、幾度となくある会議の場面。
海堂さんの作品ではけっけうわかりやすい比喩を上手く使うところがありますが、会議の場面は相手の言葉を受けて、カウンターで攻撃するといった決闘のような趣きがあります。
普通は会議のシーンなんて退屈そうに思えるのですが、まったくそんなことはありません。
僕は「ナイチンゲールの沈黙」よりは断然こちらの方が好きです。

ひるがえって映画の方を考えてみると、この原作をベースにして変えるべきところは変え、変えてはいけないところは変えないといったのをうまくやっているなと思いました。
原作は「ナイチンゲールの沈黙」とリンクしている(それが原作のおもしろいところの一つですが)ので、そちらとかぶっているキャラクターがいるのですが、映画はそのあたりをばっさりと切っています。
逆に一本の映画として成立させるために、殺人事件という要素を加えています。
これはややもすると原作本来のポイントをずらしかねないと思いますが、この要素をとてもうまくとりこんでいると思いました。
映画では速水と花房の最後のシーンが好きだったのですが、原作でもそこはちゃんとありました。
映画の方は原作に登場する如月というメインキャラクターを登場させていないので、かえって二人の関係というのが浮かび上がってきていて、うまく最後のシーンが活かされていたと思います。
原作と映画、それぞれのメディアの特性を活かした物語の作り方になっていると思います。

映画「ジェネラル・ルージュの凱旋の記事はこちら→」
小説「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→
小説「ナイチンゲールの沈黙」の記事はこちら→
小説「イノセント・ゲリラの祝祭」の記事はこちら→
小説「アリアドネの銃弾」の記事はこちら→

「ジェネラル・ルージュの凱旋<上>」海堂尊著 宝島社 文庫 ISBN978-4-7966-6767-8
「ジェネラル・ルージュの凱旋<下>」海堂尊著 宝島社 文庫 ISBN978-4-7966-6769-2

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「スター・トレック(2009)」 友情の始まり

「スター・トレック」の第一作が公開されたのは、「スター・ウォーズ」が大当たりをしてSF映画のブームが起こった頃で、僕は小学生でした。
アメリカでは「スター・トレック」のコアなファンがいて、それをトレッキーと言いますが、日本では「スター・ウォーズ」ほどには一般にまでは人気の裾野が広がらなかったような気がします。
僕も同じく「スター・ウォーズ」ほどには夢中になりませんでしたが、SFものには興味が出てきていた頃だったので。ちょうどその頃やっていた再放送はよく観ていました。
だもので、カーク船長とか、ミスター・スポックとか、ドクター・マッコイとかいう名前が出てくるとワクワクはしてしまうんですよね。
好きだったのはミスター・カトウ(「HEROES」でヒロのお父さん役をやっているジョージ・タケイが演じていた)だったのですが、この呼び名って日本版だけだったんですねえ。
本作で東洋人のパイロットがスールーと呼ばれていて、「あー、ミスター・カトウじゃないんだー」と思ったら、もともとオリジナルではスールーという名だったようです。

本作は宇宙船USSエンタープライズが建造され、若き頃のカークやスポックらおなじみのメンバーがはじめてそろう時代の話で、「スター・トレック ビギンズ」といった感じです。
描いている世界はオリジナルとはちょっと異なるパラレルワールドといった設定のようです(ある人物でリンクはしていますが)。
バルカン人は論理を重んじる文化を持っており、バルカン星出身のスポックはやはり冷徹なまでに論理的に思考する人物です。
彼は実はバルカン人と地球人のハーフであり、だからこそよりバルカン人らしくあらねばならないと思ってきたと考えられます。
まらカークは、自らの命と引き換えに乗組員を救い英雄と評された父親の血を受け継ぎ、直情的であり、ルールに縛られない直感を大事にする男です。
カークとスポックはまさに対照的な人物なのです。
以前の映画シリーズではカークとスポックは、船長とその補佐という立場を越えた強い絆で結ばれているように描かれていましたが、本作ではその二人が互いに認め合い友情を感じるようになるまでを描いています。
人というのは完璧ではありえないわけで、自分が持たないものというものが必ずあります。
世に名コンビと言われる間柄では、「似た者同士」というのもありますが、まったく対照的な二人のコンビというのもありますよね。
お互いに自分にないものを相手に見て、互いに補う関係というのは長く続くものなのでしょう。
本作でも年老いたスポック(オリジナルでスポックを演じたレナード・ニモイ!)が、カークとの友情について話すところがありますが、そこの場面では役柄を越えたカークへの想いみたいなものすら感じました。

本作で監督を務めるのは「LOST」「クローバー・フィールド」のJ.J.エイブラムス。
この2作をあげるとややトリッキーな仕掛けばかりに目がいってしまいますが、「M:I:3」のようにハリウッド映画らしくオーソドックスに展開するような作品もそつなくこなします。
本作はどちらかというとこちらの系統になりますでしょうか。
今回のスポックは、観ている途中で気づいたのですが「HEROES」のサイラーを演じているザッカリー・クイントでしたね。
途中からサイラーにしかみえなくなって困りました(笑)。

最後に。
何度観てもUSSエンタープライズ号のデザインは美しい。
「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号と並んで、映画に登場する宇宙船の中では美しさでは白眉ですよね。

<ややネタばれ>

ほんとにこれで最後。
老いたスポックがカークに「時は変えればいいというのを君に学んだ」と言うのは、「故郷への長い道」を踏まえた台詞ということなのでしょうか。

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本 「多神教と一神教 -古代地中海世界の宗教ドラマ-」

文明が発祥したメソポタミアやエジプトの宗教は多神教でした。
そこから一神教であるユダヤ教、キリスト教が生まれ次第に広がっていきました。
本著では、多神教から一神教への流れというのを、遺跡や古文書の解析からというよりも、古代人の精神という点からアプローチしていきます。
なんとなく僕たちは古代人も自分たちと同じように感じ、考えていたように思えます。
なので古代の文献を読むにしても、自分たちの精神をベースにして考えてしまいがちです。
それを古代人の精神から見るというのはとても新鮮でした。
それは古代人が世界をどう見ていたかということで、それは彼らの宗教観に繋がっていきます。
古代ギリシアの文献でもまた聖書でも、あたかも神がそこにいて語りかけているように書かれています。
現代人である僕たちはそれを非現実的なフィクションととらえ、何かの暗喩と考えます。
けれどもほんとうにそうでしょうか。
実体としての神が存在しなくても、古代人の精神には神という領域があったのではないかと著者が書いていますが、おもしろい考え方ではないかと思いました。
よく考えてみるとそもそも神というものは、人間が世界を認識するために編み出したもののような気がします。
脳なのか精神の中になのか世界を認識するというパートがあって、それが神の領域だったのかもしれません。
けれども人間が言葉を手に入れ、そして論理というものを手にしたとき、世界を認識する術を得、かつて神の領域だったものが、科学の領域になったのかもしれません。
最近観た「天使と悪魔」でも宗教と科学の対立というのがテーマになっていましたが、それらはそもそもは同じ根源(世界はどうしてこうあるのかという人間の根源的疑問)を持つものなのかもしれません。

「多神教と一神教 -古代地中海世界の宗教ドラマ-」本村凌二著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430967-0

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2009年5月30日 (土)

「ラスト・ブラッド」 ひたすらどこかで観た感じ

本日、美女アクションもの連続観賞ということで、「チョコレート・ファイター」に続いて「ラスト・ブラッド」を観てきました。
主演は「猟奇的な彼女」のチョン・ジヒョン。
相変わらず美しい彼女が三つ編みセーラー服というのはコスプレのようで、日本のアニメかゲームのような感じだなあと思ったのですが、原作は日本のアニメだったんですねえ。
知らなかったです。
セーラー服の美女が刀を振り回わしてオニを倒すという設定は、B級の香りがたっぷりです。
ウエスタンビキニの美女がゾンビを倒す「お姉チャンバラ」を思い出しましたよ(これ第二弾作ると言っていたがどうなったんだろ?)

「チョコレート・ファイター」でスッキリストレス解消したので、こちらでも!と思って観たのですが・・・。
かえってストレスたまっちゃいました(泣)。
おもしろくないぞう!
孤独で戦う美少女戦士。
そんな彼女にも親友が。
そして戦う敵とは運命的な繋がりがあった・・・。
こんな感じのお話なのですが、なんというかもう何度となく見せられたありふれたストーリーで、ひねりもなにもあったもんじゃないです。
映像的にも段々飽きも出てきたワイヤー&CGアクションで、こちらもどこかで観たような印象があります。
しかもちょっと安っぽいCGでちょっと興ざめしてしまいます。
またシーンは同じようなところが多く、セットの数が少ないのもわかってしまいますし。
予算が少ないのは仕方がないとは思いますが、同じような低予算B級映画でいうと「お姉チャンバラ」などはマニアックな熱意が感じられたものですが、本作はそのようなものも感じられなません。
ひたすらどこかで観たようなストーリー、映像が続いてしまいます。
制作者は本作で何がやりたかったのだろうか・・・。
いまいち狙いがわからない。

「お姉チャンバラ」の記事はこちら→

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「チョコレート・ファイター」 ストレス解消にはもってこい

GW明けから仕事がモーレツに忙しくてやや疲れ気味・・・。
ここはいっちょ気合いが入りそうな映画ということで、「チョコレート・ファイター」を観てきました。
疲れている時はスカッとするアクション映画がやっぱりなによりの薬なのです。
プラッチャヤー・ピンゲーオ監督には「マッハ!」の超絶生身アクションで度肝を抜かれたのですが、本作でもそのフルコンタクト精神は健在でした。
最近のワイヤーアクションやCGに見慣れていると、こういう生身アクションというのは迫力が別次元に感じられます。
本作の主人公はゼンという少女。
少女だからといって、ピンゲーオ監督の生身アクションに妥協はありません。
ゼンが次々と繰り出すハイキック、ヒジ撃ち、ヒザ蹴りのコンビネーションは華麗と言っていいほど。
それもそのはず、ゼンを演じるヤーニン・ウィサミタナン(愛称ジージャー)はテコンドーの黒帯を持っていて、バンコクでのユース大会で金メダルを取ったことのある経歴だとか。
強くって、しかもかわいい。
小野真弓さんとか池脇千鶴さん系の、そこらへんにいそうだけど実はなかなかいない素朴な感じのかわいらしさがある方ですね。
実はゼンという役柄は、先天的に脳に障害がありながらも、卓越した運動能力、一度観た技を習得できるという能力を持つという難しい役。
自閉症のような演技が必要とされていましたが、ジージャーは新人とは思えないほど非常に上手に演じていました。
演技力もあって、しかもかわいい(くどい!)
一気にファンになってしまいました。

ジージャーの方に話がいってしまいました。
本作はアクション映画としても見所満載です。
ゼンはパワーでは圧倒的に男性に比べて負けるというハンデを、小柄な体ならではの俊敏さ、女性ならではの柔軟さで埋め合わせます。
トリッキーな動きを織り交ぜるアクションはジャッキー・チェンを彷彿とさせますが、彼よりもより華麗でシャープな感じがありますね。
アクションの見せ場としては大きく4つのパートがありますが、どこも見応えあります。
特に最後のビルの壁面でのアクションは、ジャッキーアクションの進化版といった感じがあります。
階段を上ったり、壁をつたって降りたり、ジャンプしたりといった壁全面をフルに使ったアクションはクレイジークライマーか、ドンキーコングかと(古いなあ)思ってしまいました。
特にお気に入りの技は、背中から看板にあたってその跳ね返りを利用してキックを決めるというもの。
こういうトリッキーな技というのは決まるとかっこいいですよねえ。
そういえば「ストリート・ファイター」のガイルのムーンサルト・キックみたいな技もやっていたなあ。

ばっちりストレス解消できました。
プラッチャヤー・ピンゲーオ監督、そしてジージャーheart01、ありがとうございます!
続編お願いします!

プラッチャヤー・ピンゲーオ監督作品「マッハ!」の記事はこちら→

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本 「最後の陪審員」

つい先日施行された日本の「裁判員制度」。
一般の国民が裁判に参加することになったこの制度ですが、国民が裁判に参加するという点ではアメリカの陪審員制度があります。
日本の裁判員制度とは異なるところもありますが、映画や小説等で陪審員制度を知っている方は多いでしょう。
リーガル・サスペンスの名手ジョン・グリシャムの「最後の陪審員」は、その陪審員をテーマにしています。
ただ陪審員についてだけではなく、アメリカ南部にある差別の意識や、法というものは何かといったグリシャムらしいテーマが盛り込まれています。
「法律事務所」や「ペリカン文書」のような大きな陰謀みたいなものがあるわけではないので、エンターテイメント性はやや落ちるかもしれませんが、それでもとても流れが良いので、リーガルものの割にするすると読めます。
栽培員制度がらみでは、上巻の方で殺人事件について判決を下すあたり、そして量刑を決めるあたりの陪審員の気持ちの描写などは、もしかすると自分もそういう立場になるかもしれないと思って読むと、考えさせられるものがあります。
本作では陪審員たちは恐喝、買収などにもさらされますが、日本の裁判員は誰がどの事件を扱っているか公にされないと言われていますが、それもどの程度しっかり秘密にされるかやや不安なこともあり、ちょっと怖いところもありますね。
裁判員制度については人ごとと言ってられないかもしれないので、興味がある方はこういう小説から裁判の空気等を感じるのもいいのかもしれません。

「最後の陪審員<上>」ジョン・グリシャム著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-240923-7
「最後の陪審員<下>」ジョン・グリシャム著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-240924-4

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2009年5月24日 (日)

「BONES シーズン2」 シーズン1よりおもしろさアップ

アメリカのTVドラマというのは、少年ジャンプの連載漫画のように人気があればドンドン延長し、逆に人気がなければすぐに打ち切られていきます。
好きなドラマがずっと観られるのはファンとしてはいいのですが、その弊害としてどうしてもドラマが当初持っていたテイストが失われていくことが多々あります。
ドラマがパターン化して単調になってきたり、引き延ばしとしか思えないような無理なストーリー展開があったり。
ファンとしては緊張感がなくなるよりは、早く決着をつけて欲しいと思うこともあります。

さて人気シリーズの「BONES」のシーズン2を観ましたが、嬉しいことにシーズン1よりもおもしろさがアップしているように思えます。
一つは扱われる事件の謎がシーズン1よりもかなり凝ったものになっているということ。
このシリーズは、法人類学の視点から事件の謎を解き明かしていくミステリーですが、タイトルが「BONES」ですから毎回死体を題材にしていかなればならないという縛りがあります。
いつかはネタ切れを起こすのではないかと思っていたのですが、シーズン2を観る限りそういうことはないようです。
毎回物語の構造としては、タイトル前に謎の変死体が提示され、その謎を解き明かすという作りになっています。
その死体がそこにあるということは、その人には死に至るそれぞれの人生があるわけです。
その人生は画一的なものではなく、そこに数々の物語が生まれます。
彼らの人生をブレナンたちは、死体というものから浮かび上がらせていきます。
ブレナンの論理的な思考、ブースの捜査官のカンともいえる洞察も対照的で、それらが組み合わさり、謎を解き明かしていく様は、ネタ切れなど起こさないようなバリエーションを生み出していきます。
基本的にはこのシリーズは1話完結のスタイルですが、シーズン2に入りシリーズを縦に繋ぐような仕掛けというのも施されていました。
1話完結スタイルの作品は、それまでの放映を踏まえていないことがあったりします(並行して作られることが多いので仕方がないところもあります)が、シーズン2では各話の繋がりをかなり意識しているように思えます。
カミールとブース、ブレナンとサリーの恋愛話、ブレナンの両親の話なども描かれますが、これも複数回にまたがって縦糸のように語られていきます。
このようなシリーズを繋ぐエピソードとなり、またキャラクターの深みを増すことに貢献しているように思えました。
シーズン3も楽しみになってきました。

「BONES シーズン1」の記事はこちら→
「BONES シーズン3」の記事はこちら→
「BONES シーズン4」の記事はこちら→

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「ミッドナイト・ラン」 バディムービーの傑作

バディムービーというのは数々ありますが、その中でも僕がとても好きな作品の一つが本作「ミッドナイト・ラン」です。
この作品でのバディというのは、賞金稼ぎジャック・ウォルシュ(ロバート・デ・ニーロ)とマフィアの金を横領して慈善事業に寄付してしまった元会計士"デューク"(チャールズ・グローディン)の二人。
二人は追う者と追われる者という関係ですが、ジャックがデュークをつかまえたあとN.Y.からL.A.まで移送する際、様々な連中に追われ図らずもバディのような関係になっていきます。
彼らを追うのは、デュークが横領した金の持ち主のマフィア、そのマフィアの犯罪を解き明かすために証人として確保したいと考えるFBI、そしてジャックと同じ稼業の商品稼ぎ。
隙あらば逃げようとするデュークと逃がさないとするジャック、そして彼らを追う者たちが時には共闘し、裏をかいていくので、物語の展開からは目が離せません。
非常に良くできている脚本だと思います。
本作はシリアスな物語ではなく、どちらかというとコメディといったテイストで、登場人物たちの会話がとても軽妙で、そのあたりのやり取りもとても楽しい。

バディムービーの見所というのは、やはりそれぞれのキャラクターの魅力と、その相互作用。
ジャックは元警察官で、マフィアにはめられて今はうらぶれた賞金稼ぎとなっています。
そのためか、その態度は非常に粗野で乱暴で、人の話はあまり聞かないタイプのように見えます。
けれども状況状況に合わせて瞬時に判断できる明晰さを持っていて、かつ行動力を持った男です。
かたやデュークは会計士という職業からか、万事にきめ細かく、やや神経質そうに見えるタイプです。
弱音を吐いたり、ぶつぶつ言ったりするところが、ジャックのカンに触るらしく彼をイライラさせてしまいます。
対照的に見える二人ですが、物語が進むにつれ、段々と彼らの本質は似ているということがわかってきます。
ジャックは汚職を見逃すことができず、警官という職を追われてしまった正義漢です。
またデュークもその風貌からは想像できないほど意志が強く、頭の回転もよく、そして行動力が伴った男でした。
そうでなければマフィアの裏金を横領しようとすることなどできません。
アメリカを横断していく旅の中で、ジャックとデュークは次第に互いにシンパシーのようなものを感じていきます。
それでもデュークは逃げたいし、ジャックは逃がしたくないという事情があり、そのあたりの緊張感と互いのシンパシーというのが絶妙に表現されています。
ラストはほろりとさせられるところもあって、とても観後感がよい作品になっていると思います。
「See You Next Life」(来世で会おう)
と二人が別れるとき、互いに言います。
彼らは多分二度と会うことはないのでしょう。
けれども一週間という短い期間であり立場も違う間ではありましたが、唯一友と呼べる存在となることができたのですよね。
とても爽やかな印象が残りました。

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2009年5月23日 (土)

本 「名探偵はもういない」

新本格ミステリーと言われるジャンルの作家の一人、霧舍巧さんの作品です。
ちなみに新本格というのは、もともと推理小説が持っていた謎とそれを論理的に解いていくというおもしろさを追求した作品群になります。
霧舍巧さんの<あかずの扉>研究会シリーズ等もそういう楽しみが味わえるシリーズでした。
こちらの作品「名探偵はもういない」もそういう新本格に分類されるような作品になると思います。
<あかずの扉>シリーズもそうですが、ミステリーマニアでなくても読みやすい作品になっていると思います。
それはまずはキャラクターの描き方も文体も、どちらかといえばわかりやすい感じになっています。
また本格ミステリーというと、そのトリック、そしてその答えというのが、複雑になっていきがちですが、それをきちんと読み手がわかりやすいように整理をしながら、書いています。
ですので、ミステリー初心者でも、どれが謎で、どうして謎なのかというのが、わかりやすく、なのでその謎解きのおもしろさというのを感じることができると思います。
またミステリー好きからすると、「雪山の山荘」とか「密室」とか、おなじみのミステリー素材がでてくるのが楽しい。
それをどう新しく霧舍さんが料理するかが、読みどころと言えるでしょう。

本作に登場する後動というキャラクターは<あかずの扉>シリーズの後動と同じ人物なのかな?
時代的にはちょっと違う感じもしますが、どうなんでしょう?

霧舍巧作品「マリオネット園<あかずの扉研究会首吊塔へ>」の記事はこちら→

「名探偵はもういない」霧舍巧著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276323-3

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「鈍獣」 2倍速ぐらいがちょうどいい

主演の浅野忠信さんがいつもとは全く違うタイプのキャラクターである「凸やん」を演じていましたが、意外にもこれが妙に合っています。
そもそも凸やんというキャラクターが、そうそう見かけないタイプですが。
凸やんは言わば究極のKY男といったところでしょうか。
彼の幼なじみである江田っち(北村一輝さん)、岡本(ユースケ・サンタマリアさん)がどんなに凸やんの存在を煙たがっていたとしても、それが本人には全く通じない。
凸やんというのはそういう機微にも鈍感なのですが、さらに肉体的にも鈍感。
幼なじみ二人が凸やん殺害を企てますが、毒を飲ませようが車で牽こうが全く凸やんは死なない。
殺されようとしているのにすら気づかない。
このあたりのクセのあるキャラクター造形は、クドカン脚本ならではです。
浅野忠信さん以外の出演者である、北村さん、ユースケさんは相変わらず濃いキャラクターが似合います。

というところでキャラクターとか、設定ではかなりおもしろくなる要素を持っていた作品でした。
ではおもしろかったかというと、あんまりおもしろくないというのが正直なところ。
そこは何故かというとテンポの悪さだと思います。
最近邦画などでは「ユルい」タッチの作品が多くなってきていると思います。
三木聡さんとか、ケラリーノ・サンドロヴィッチさんとかなどの作品は独特の間の笑い、ナンセンスなユーモアみたいなものがあり、不思議なおもしろさを持っています。
けれどもこの「ユルさ」というのをコントロールするのはかなり難しいような気がします。
これをコントロールする術は天性のものと言っていいかもしれません。
本作についても凸やんの空気の読めなさみたいなところを間で表現し、おかしくしようとしているように見えるのですが、これが「ユルい」感じではなく「ダルい」感じに感じられるのです。
また物語の進行も全体的にモタモタしている感じがありそれも「ダルい」という印象に結びついてしまうような気がしました。
ナンセンスなキャラクターが生み出す笑いが、とてももたついているような感じを受けます。
クドカンのこういうクセのあるキャラクターは「ユルい」テンポで描くのではなく、例えば「舞妓Haaaan!!!」のような疾走感のある描き方をした方が合っているような気がします。
予告で観た時の印象の方がおもしろかった。
それはコンパクトだったからでしょうか。
本作は2倍速ぐらいで見た方がテンポがあっておもしろいかもしれません。

宮藤官九郎脚本作品「舞妓Haaaan!!!」の記事はこちら→

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2009年5月17日 (日)

本 「のぼうの城」

直木賞ノミネート、09年本屋大賞2位の時代小説です。
本作がデビュー作の和田竜さんは1969年生まれだそうですから、僕とほぼ同年代。
このくらいの年の作家で時代小説を書く方は珍しいような気がします。
そういう若い感覚が反映されているからか、時代小説にありがちな堅苦しいところはありません。
わかりやすいカタルシスみたいなものがあって、帯にある「ハリウッド映画の爽快感!」という惹句も納得できます。
歴史物を読み慣れていない方の入り口として、入りやすい作品に思えます。

舞台となるのは戦国時代、豊臣秀吉が小田原の北条攻めを行っているとき。
小田原包囲網を行っているさなか、秀吉の重臣石田三成は、北条についている成田氏の居城忍城を攻めます。
押し寄せる石田軍は二万、対して城を守るのは百姓たちも入れてたった二千。
タイトルにある「のぼう」というのは、「でくのぼう」のこと。
石田三成との戦いのときの城代成田長親は、風采のあがらない男ということで「のぼう」と呼ばれていたのです。
長親は武芸もさっぱりで、何故か農作業が好きで手伝いにいくのですが、根っからの不器用のため役には立たず百姓たちにも「のぼう」様と呼ばれる始末。
けれども幼子のように純真な長親は、百姓たちや武士たちの心をつかんでおり、それが石田軍との戦いの中で力となっていくのです。
圧倒的な石田軍に対し、武でもなく知恵でもなく、ただその「人望」だけで乗り切る長親の姿、そして彼についていく武士や百姓たちの想いに、爽快感を感じます。
功名心や損得感情でもなく、また義など頭でっかちな思想でもない、素直な長親はとても新鮮に思えました。

「のぼうの城」和田竜著 小学館 ソフトカバー ISBN978-4-09-386196-0

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2009年5月16日 (土)

「ブッシュ」 政治コメディだったのか!?

「史上最悪の大統領」と呼ばれることもある、ジョージ・W・ブッシュ前アメリカ合衆国大統領。
そのブッシュ前大統領を、今までも「JFK」「ニクソン」と大統領を題材にした作品を作っているオリーバー・ストーンが本作「ブッシュ」で描きました。
ちなみに原題は「W.」で、これはパパブッシュと区別するためでしょうねえ。
辛辣なオリバー・ストーン監督なので、どれだけ辛口になるかと思っていたら、ちょっと違った雰囲気でした。
もう怒る気すらなくなって、あきれてしまって、笑ってやろうということになったのかも。
ブッシュが閣僚をひき連れて自分の牧場を散策している時に迷ってしまい、「ハーッ、道を間違えたようだ」とブッシュが言うのはあまりにブラックで笑ってしまいました。
イラク戦争で怪我を負った兵士のお見舞いに犬のTシャツを持っていく、KYでオバカな感じも苦笑してしまいます。
ブッシュ前大統領は、父親のジョージ・H・W・ブッシュ(まぎらわしいなあ)へのエディプスコンプレックスに苛まれていたというのは新鮮な見方だなあと思いました。
確かにすべてにおいて自分が越えることができない父親がいるというのは、息子としてはなかなか辛いことでしょう。
だったら別の道を目指せばいいような気がしますが、何故か政治家の息子は政治家を目指しますよね。
日本もアメリカも二世問題というのは、同じなのでしょうか。

ブッシュ前大統領を演じたジョシュ・ブローリンはほんとにブッシュに見えました。
素顔はそれほど似ているとは思わなかったんですけれど、さすがに俳優さんです。
チェイニー副大統領(当時)、ライス補佐官(当時)、パウレル国防長官(当時)もとってもそっくりさんです。
よく見たらチェイニーはリチャード・ドレイファスじゃないですか!
あの憎たらしい感じはチェイニーにしか見えなかったですよ。
この方たち、「ギララの逆襲」で歴代首相そっくりさんをやっていた「ザ・ニュースペーパー」みたい。
実はこの作品は政治コメディだったのか!?

作品としては旬なうちに作ろうとしてあまり詰めている時間がなかったのか、やや乱暴なところもなくはなく。
オリバー・ストーン監督の作品は長いものが多いですが、まとまりのなさが本作は顕著でした。
もう少し短くていいですよ、ブッシュさんはネタとしてはいろいろあるのでしょうけど。
プレツッェル喉詰まらせ事件はもうちょっと顛末を知りたかったぞ。

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「天使と悪魔」 驚くほど前作と同じ印象

大ヒットした「ダ・ヴィンチ・コード」を受けて、ダン・ブラウンのラングドン教授シリーズ映画化です。
ラングドン教授役はトム・ハンクス、監督はロン・ハワードと、ほぼ前作と同じスタッフで作られています。
原作は時系列としては「天使と悪魔」の方が前ですが、映画の方は公開と同じく「ダ・ヴィンチ・コード」の方が前ということになっているようです。

「ダ・ヴィンチ・コード」は大ヒットしましたが、個人的には格別におもしろいと思わなかった作品でした。
「天使と悪魔」の原作小説についての記事でも書いたのですが、基本的に謎解きが一直線の構造(ひとつヒントを解くと、さらにヒントが与えられさらに解いていく)なので、シナリオががっちりと決まっている(映画なので当たり前なのですが)RPGのような感じを受けたのです。
謎はあるのですが、一つづつ解決していくので、それほど凝った印象を受けません。
いくつもの伏線を張っていて、最後に大回収というような驚きはないのですよね。
そういう意味では観やすい作品であることは間違いありません。
本作「天使と悪魔」も驚くほどに「ダ・ヴィンチ・コード」と印象は変わりませんでした。
淡々とひとつづつ謎を解決していくプロセスから、さほどハラハラした感じを受けませんでした。
ラングドン教授側の視点が多いためか、同じような一直線の構造になっていました。
前作が大ヒットしたので、その要因を分析してこうなったのだとは思いますが、ちょっともの足りなかったです。
原作小説の方は、ラングドン教授以外の人物についてもけっこう深く描いているので、「ダ・ヴィンチ・コード」よりはおもしろく読めたのですが、そのあたりのキャラクターの深みについては映画ではやや薄い印象です。
ラストのクライマックスに驚きのピークを向かえるためだとは思いますが、人物の深みはもう少し欲しかったです。
ロン・ハワード監督はそういうのは得意だとは思うのですが、このシリーズはらしさがでていないような気がします。

人間というものは、自己という認識がでたとき、自分以外の「世界」というものを同時に認識したと思います。
そこから人は「自分とは何か?」という問いと同時に「世界とは何か?」という問いを持つようになったのでしょう。
「宗教」にしても「科学」にしても実のところ、「世界とは何か?」という問いに答えを求める行為なのだと思います。
「宗教」も「科学」も究極は「世界がどのように生まれたのか」という「創造」の謎に行き着くように感じます。
本作でもキーとなる反物質もビックバン直後の宇宙の様子、そして現在の宇宙がこうなっている理由を解き明かす大事な役割を持っています。
そのような「科学」的なアプローチとは別に、「宗教」というものも世界創世の謎というものに答えを出そうとした営みであると思います。
「宗教」と「科学」というのは本来的には対立するものではないのかもしれません。
「宗教」にしろ「科学」にしろ、宇宙創世の謎を解き明かしたとき、それらは一つに融合しているのかもしれませんね。

原作小説「天使と悪魔」の記事はこちら→

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本 「バリアフリーをつくる」

バリアフリーという言葉は最近よく聞かれると思います。
特に住宅関係などでは「バリアフリー住宅」等といって、段差の少なくしたり、車いすでも大丈夫なスロープにしたりといった設計が見受けられます。
95年に総理府が出した「障害者白書」には1.物理的な障壁、2.制度的な障壁、3.文化・情報での障壁、4.意識上の障壁をあげています。
僕もパッケージデザインの仕事をしているので、10年くらい前からバリアフリーについていろいろと考えてきました。
デザインの世界では最近では一歩進んで、ユニバーサルデザインという考えが主流になってきています。
バリアフリーというのは障壁をなくすというもので、それによって作られたプロダクトは障害者専用になってしまいがちです。
それが一般の人にとって使いやすいかとういうとそういうわけでもなかったりします。
ユニバーサルデザインというのは、健常者にも障害者にも使いやすいデザインというのを目指します。
とても有名なのが、シャンプー・リンスのボトルのギザギザパターン。
これは目の見えない障害者にとってはもちろん使いやすい。
けれどもシャンプー等をしていて目をつむっている健常者にとっても使いやすいのです。
これはユニバーサルデザインの好例でしょう。
すこしの握力でもつかみやすいボトルというのは、障害者はもちろん、子供や老人、女性にとっても使いやすいのです。
最近のトレンドはこういう考え方です。
なかなか工業製品は大きく変えることはできないのですが、それでも少しずつできることから取り組みを始めています。
みなさんの周りにある商品にも小さな工夫のあるパッケージがあるかもしれません。

「バリアフリーをつくる」光野有次著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430572-1

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2009年5月10日 (日)

「CASSHERN」 若さゆえの身勝手さ

現在公開中の「GOEMON」の紀里谷監督の劇場作品のデビュー作です。
「GOEMON」は思いのほかおもしろいと思ったのですが、それも本作「CASSHERN」のときの印象があまり良くなかったからでしょう。
巷で言われているほど、ゲームのCGのような映像表現はそれほど気にはなりませんでした。
宇多田ヒカルさんのPV「traveling」などもこういうテイストでしたから、ある種人工的な空間・空気というのが紀里谷監督のカラーなのでしょう。
本作を劇場で観た時は日本でもCGでこのくらいのことはできるのだなと感心したぐらいです。
「CASSHERN」を観たときに気になったのは、映像というよりは物語、具体的には構成と脚本とキャラクターの描き方でした。
これは今回改めて観直してみても同じ印象を持ちました。
作品のテーマは「CASSHERN」も「GOEMON」も実はほとんど同じ。
人間同士が戦うこと、憎しみの連鎖の無意味さみたいなものをテーマにしていると思います。
ただ「GOEMON」はそういうテーマがありながらも、エンターテイメント性の比重を高め、より一般の観客にも観やすい構成になっていると思います。
しかしながら、「CASSHERN」はそのテーマを作品のど真ん中に置いてしまったためか、それがとても「青臭く」見えるのです。
特にキャシャーンやブライキング・ボスが口にする台詞にとてもそういう臭いを感じてしまいました。
言っていることはとても正しいことなのですが、それを大上段にかまえて言われるとなんだか鼻につくという感じでしょうか。
感覚的には学生の作った映画や舞台を観ているような感じがするんですよね。
「真っすぐな想いはわかるんだけど、青いんだよね」、みたいな感じと言いいましょうか。
もう少し大人になると、そういう高邁な想いをもっとわかりやすく伝えるという術を身につけるものなのですが、そのあたりがやはり「CASSHERN」には欠けているように感じます。
「GOEMON」の時にも書いたのですが、そのような想いを一生懸命伝えようとするというよりは、「わかるやつだけわかればいい」的な、若さゆえの身勝手さみたいなものをこの作品では感じます。
本当に伝えたいならば相手に伝わるようにどうすればいいかを考えるのが、大人というものです。
説明すべきことをあまり説明せず、イメージみたいなものを積み重ねていくような感じにはわかりにくさも感じました。
数分のPVは映像と歌でメッセージをイメージで伝えればいいのですが、映画というものは2時間くらいの尺があるわけで、それを飽きずに観客につき合ってもらうためには、別のテクニックが必要になります。
映像だけでは2時間は持たないのです。
それが物語性だと思います。
そういう点で、「GOEMON」はエンターテイメント映画で想いを伝えるためにはストーリーをきちんとしなくてはいけないと監督が考えるようになったと思いました。

紀里谷監督作品「GOEMON」の記事はこちら→

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本 「悪夢のドライブ」

木下半太さんの「悪夢」シリーズ(いつの間にシリーズに?)の第三弾。
「悪夢のエレベーター」「悪夢の観覧車」はどちらかというと密室を題材にしていましたが、本作は密室系のお話ではありません。
売れないお笑いコンビの片割れ。
その友人の元プロボクサーで、多重人格症のあやしい「運び屋」。
ペテン師志望の16歳の少女。
美貌の詐欺師。
大阪では有名な暴力団の組頭、などなど。
これら一癖も二癖もある人物たちが、ある事件に絡み、それをどんどんややこしくしていってしまいます。
今までの2作品よりも、物語の疾走感みたいなものがパワーアップされていました。
お笑いコンビの片割れと多重人格症の友人が主人公みたいなところもあるのですが、なんだかこのあたりの会話が読んでいておかしい。
おもわず声をあげそうになってしまいます。
細かい伏線を張っておいて、二転三転する物語のなかで、きちんと回収していいくうまさは相変わらずです。
前の二作を読んでいる方は是非読んでみてください。
前の作品にでている登場人物もちらりと本作に出てきます。
まさに「悪夢」ワールドとして世界が繋がってきました。

一作目の「悪夢のエレベーター」は映画化されますね。
監督は堀部圭亮 さん、これはナイスな人選です。
タレントとしても活躍されてますが、監督としてはDVD「やさぐれパンダ」を作っています。
これが僕は大好きでありまして、チープな笑いの間というか、そういうのがいい味を出してくれているんです。
このあたりの雰囲気がぴったりではないかと。
脚本は「アヒルと鴨のコインロッカー」の方ですし。
これは期待していいかも?

木下半太著「悪夢のエレベーター」の記事はこちら→
木下半太著「悪夢の観覧車」の記事はこちら→

「悪夢のドライブ」木下半太著 幻冬社 文庫 ISBN978-4-344-41203-3

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2009年5月 6日 (水)

「DEATH NOTE デスノート <前編>」 「正義」という名のもとに・・・

「デスノート」ですが、アメリカのワーナー・ブラザーズが実写映画化権を手に入れたということです。
本作も「デスノート the Last name」「L change the WorLd」もアメリカの興行はまずまずというところで、ハリウッド映画化になったのでしょうか。
この話はアメリカでも受け入れやすいでしょうね。
なにせ死神ですし。
アメリカ版の脚本を担当するのはチャーリー&ヴラス・パーラパニデス兄弟という方たち。
まったく知らないので、やや心配・・・。

こういうニュースを聞いたので久しぶりに「デスノート<前編>」を観賞し、記事を書いてみました。
もちろん公開時劇場で観ましたが、そのときは映画ブログはやってなかったので。
そういえば松山ケンイチさんがブレイクしたのも本作の"L"役からでしたね。
とはいえ、<前編>はどちらかというと夜神月が中心に描かれています。
はじめ月がデスノートを手に入れたときは、悪を見逃せないという純粋な正義感を持っていたのでしょう。
デスノートが持つ力というのは、人間では防ぐことができない圧倒的な力なわけです。
その力を「正義のために使う」と月は思いますが、そもそも「正義」というのは非常に危ういものです。
「デスノート the Last name」の記事の時も書きましたが、「大きな力は人を狂わす」のです。
何を基準にするかによって「正義」というものは大きくぶれてしまいます。
そしていつしかその力を使う目的であった「正義」すらこぼれ落ちて、その力を使うことが目的になってしまいます。
夜神月はどこかである一線を越えてしまいました。
「自分だけ」が「正義」を行使できると傲慢にも思ってしまったとき、そのときが一線を越えた瞬間だと思います。
ちょっと話が飛びますが、この「大きな力」を持ち、自分たちが直接ダメージを受けることなく、「自分だけが正義を行使できる」というものの考え方というのは、アメリカという国の態度や行為にしばしば現れるものに思えます。
「正義=Justice」でこれはよくアメリカが口にする言葉です。
本作、アメリカでリメイクされるとき、本作のテーマの一つである「Justice」をアメリカ人としてどのように解釈するのかが、興味深いです。

続編「デスノート the Last name」の記事はこちら→
スピンオフ作品「L change the WorLd」

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2009年5月 5日 (火)

「しあわせのかおり」 見えない心配りがしあわせの材料

おいしい料理というのは、とてもしあわせな気分にしてくれるものです。
そしておいしい料理というのは、見えないところに細やかな気遣いがあるものなのです。
貴子(中谷美紀さん)が王さん(藤竜也さん)に料理を教えてもらい始めたときに、まず言われることは「同じ大きさに切りなさい」ということ。
これはお料理を習い始めるとまず教えてもらう基本中の基本。
同じ大きさに切ることによって、すべての素材にまんべんなく熱を入れることができます。
とても細かいことなのですけれど、これで料理の仕上がりが違ったりするものです。
また本作では料理の下ごしらえの場面がとても丁寧に描かれます。
料理をテーマにした映画は数々ありますが、こんなに下ごしらえをきちんと描いているのはあまり他にはないような気がします。
王さんのお料理のおいしさのベースになるのは、特製のスープ。
それは鶏のひき肉から丁寧に丁寧に作ります。
少しずつ水を入れながらしっかりとひき肉をこね、肉の4倍量の水をいれたところでやっと火にかけて作るのです。
食べてくれるお客さんのことを思って、丁寧にお料理の下ごしらえをするからこそ、王さんのお店のお料理はおいしいのでしょう。
有名な料理人が作っているから、高級な食材を使っているからお料理はおいしいのではなく、細やかな心配りがあるからこそ、そのお料理はおいしく、そしてしあわせな気持ちにしてくれるのです。

たぶん人と人の関係も同じことを言えるのかもしれません。
見えない心配りやがんばりがしあわせな関係を作ってくれる。
王さんが、貴子のために児童相談所の担当に怒ってくれたこと。
貴子が一生懸命料理を学ぼうとして努力していること。
それは人に見えるものではないのですが、その想いは確実に相手に伝わっています。
見えない心配りがしあわせの材料なのかもしれません。

なにしろ、本作で映し出されるお料理がどれもおいしそう!
王さんのお店の全メニューを食べてみたい!
僕は食品メーカーでずっと広告やデザインの仕事をしているので、それこそお料理を映す・写すことについてはかなり経験を積んでいるのですが、そういう目で観てもかなり上手にお料理を映していると思いました。
特にあの「玉子とトマトの炒め物」がおいしそうなことといったら!
玉子のふんわりとした感じが絶妙です。
映画というのは映像と音だけでお料理のおいしさを伝えなくてはいけないのですが、それこそかおりと味が伝わってくるようです。
中華風の玉子の炒め物って自分でやると上手くいかないんですよね。
貴子が最初うまくできなかっったように、炒り卵みたくなっちゃうんですよ。
あれは強い火でしっかりと熱を与えたたっぷりの油と、手早くいため上げる手際良さがいるんですけれど、なかなか上手にできません。
それでも自分で料理をして上手くできたなというときは、ほくそ笑んでしまいます(料理本を見ながらじゃないとできないですけどね)。
本作でおいしい料理を食べたときの登場人物は「おいしい!」とか「うまい!」とかグルメ番組のようなことは野暮なことは言いません。
実際おいしい料理を口にいれたときっていうのは、じんわりと笑みをうかべてしまうものなんですよね。
「ああ、おいしいなあ」って心の中でつぶやきつつ。

最後に余談です。
「何か食べたいものある」って言われると、僕は大概「中華がいいなあ」と言います。
ラーメン・餃子などのB級グルメから、飯店系まで、中国料理はなんでも好き。
以前仕事(中国料理視察というとてもおいしい仕事でした)で1週間ほど中国に行ったことがあるのですが、当然のことながらずっと中国料理。
でも全く飽きることはありませんでした。
中国料理って油っぽいというイメージがあって毎日食べるのはちょっとという方もいらっしゃると思いますが、胃もたれするなどということはありませんでした。
よっぽどフランス料理のほうがもたれます。
どっちかというと体調が良くなったと感じたほどです。
さすが「医食同源」、漢方の国だ、と思ったのでした。

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2009年5月 4日 (月)

「スラムドッグ$ミリオネア」 文句なしの構成力

やられた!
この作品の完璧とも言えるほどの構成力に舌を巻きました。
さすがアカデミー賞を8部門とるだけのことはあります。
受賞したのは<作品賞><監督賞><脚色賞><撮影賞><編集賞><録音賞><作曲賞><主題歌賞>
ですが、どの部門についても文句なしです。
本作を観る前は、他にもいい作品あったのにと思いましたが、観てみたら納得してしまいました。

<大きくネタばれしますので、ここから先はご注意>

「彼がなぜミリオネアになれたのか?」
 A.「インチキだった」
 B.「ついていた」
 C.「天才だった」
 D.「運命だった」

これは本作の冒頭に提示されるクエスチョン。
舞台となるのは最近、中国やブラジルと並んで経済成長の著しいインドで、題材となっているのは日本でも放映されていた「クイズ$ミリオネア」というクイズ番組です。
主人公であるジャマールは、このクイズ番組に出場し、億万長者になろうとしていました。
ジャマールはスラム街で生まれ育った無学の少年。
その少年がなぜ、いくつもの問題で正解を導きだし、巨額の賞金を獲得しようとするまでになったのでか。
それが最初に提示されるクエスチョンです。
クイズショーを題材にした作品というと、ロバート・レッドフォードが監督をした「クイズ・ショウ」が思い浮かびます。
これはまさに先のアンサーの「A.インチキだった」を題材にした作品でした。
本作のジャマールは果たしてなぜ正しい答えを導きだせたのでしょう。
彼が一問一問答えを出していく現在のパートと、それに合わせて描かれる彼の生い立ちのフラッシュバックでこの物語は構成されています。
彼はインチキをしていたわけではありません。
彼はとても真っすぐで正直な気持ちを持った少年でした。
ただのラッキーボーイでもありません。
彼は自分の人生をあきらめ、運に任せるような弱い心の持ち主ではありません。
あきらめず、彼が想う人のために一心不乱に生きていける強い少年でした。
そして彼は天才でもありません。
ジャマールが正しい答えを得られたのは、そう、やはり運命だったのです。
彼が必死に生きてきた人生の中に、クエスチョンのヒントがありました。
本作で描かれるインド、そしてそのスラム街というのは、幼い少年が暮らしていくにはあまりに過酷な環境でした。
貧困、暴力、犯罪、宗教の対立などの厳しい環境はジャマールと彼の兄サリーム、そしてジャマールが慕うラティカら子供たちにとってあまりに辛い。
(ジャマールの家族はイスラムらしい。インドはヒンズー教が大多数なので迫害されているのかもしれません。インドとイスラムであるパキスタンが仲が悪いのは宗教的対立も一つの理由)
多くの子供たちが犯罪の被害者になり、また加害者にもなっていってしまう中、それでもジャマールだけは真っすぐで強い気持ちを持ち、たくましくそしてひたむきに生きていきました。
彼が欲しいのは富ではなく、自分の想う人ともう一度会いたい、いっしょにいたいということだけ。
その純粋な気持ちを神様が観ていてくれて、奇跡を起こしてくれたように思えました。
苦しい生い立ち、劣悪な環境の中で、彼だけが純粋で居続けられたこと自体が奇跡なのかもしれません。
彼の真摯な生き方が、希望をくれるような気がしました。

クイズの進行と、それに伴い明らかになっていくジャマールの生きてきた人生。
この構成がほとんど文句なしと言えるほどに完成度が高い。
細やかな伏線もすべてきちんと収集できています。
フラッシュバックという手法は下手をするととってもわかりにくくなるのですが(最近観た「デュプリシティ」はまさにそう)、本作はそんなことはまったくありません。
そして舞台となるインドが持つカオスとそれが持つ逞しい生命力がフィルムに焼き付けられていて(映像も、そして音楽もすばらしい)、そのエネルギーに圧倒されます。
この作品からわき出してくるエネルギーは、今までのダニー・ボイル監督にはなかったもののような気がします。
今までの作品は少々わかりにくい感じもあるものが少なからずありましたが、ジャマールの真摯な生き方みたいなものが、とても真っすぐなわかりやすさを本作ではでていたように思えました。

「ムトゥ 踊るマハラジャ」風のラストもなかなか良かった。
インドの映画って突然踊りだしますよね。
そういえばインドは世界で一番映画が作られている国なんでしたよね。

ダニー・ボイル監督「サンシャイン 2057」の記事はこちら→

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2009年5月 3日 (日)

「GOEMON」 監督のスタイルが強く表れている

一般的にはあまり評判の宜しくない「CASSHERN」の紀里谷和明監督の最新作です。
「CASSHERN」は個人的には世間で言われるほど悪い作品ではないとは思っています(アニメ版をほとんど観ていないということもありますが)。
紀里谷監督は写真家であるので映像に対して並々ならぬこだわりがあることは評価できるでしょう。
ただその分、ストーリー展開がやや強引であるということ、キャラクターの描き方が浅いというところは確かにあると思います。
紀里谷監督はインタビューなどを読むと、いかにもアーティスト然としたところ、平たく言えば「君たちにはわかんないと思うけど」的な物言いをすることがあるので、そのあたりが反感をもたれやすいような気がします。
「GOEMON」のインタビューなどを読んでもちょっとそういうところあるので、これは損していると思うんですよね。

さて本作「GOEMON」ですが、前作でのストーリー展開における強引さみたいなものはずいぶん改善されていると思いました。
とは言っても途中かなりダレる時間帯があり、このあたりはまだまだ演出家としては未成熟な感じを受けました。
またキャラクターの深みみたいなものもまだ少なく、特に主人公石川五右衛門についてはその内面をもう少し描いてもよいのではないかと思いました。
どうしても作り込んだ映像なので、キャラクターまで作り物感が出てしまうので、このあたりの匙加減は必要でしょう。
脚本のアイデアとしては、有名な五右衛門の「釜茹での刑」を新たな解釈をしているのがなかなかにおもしろかったです。
このシーンの霧隠才蔵をやっている大沢たかおさんの演技もかなり良かったです。
脚本におけるキャラクターの深みは足りない感じがありましたが、大沢たかおさん、また奥田瑛二さんの演技でかなり救われるところもあったように思えます。

さて映像についてですが、これはなかなかに見応えあります。
紀里谷監督の提示する戦国時代の世界というのがかなり独特なので、これを受け入れられるかどうかというのがそもそもありますが、写真家として独自のスタイルのある世界観が出ているので、これは個人的には問題ないように思えました。
これはさまざまな文化のごった煮のような世界観で、「ブレードランナー」のような感じにさらに時間的にも色々な時代が混ぜ合わされたような感じがします。
ハイコントラストの映像は、作り物めいていて安っぽいと感じて好き嫌いが分かれるような感じがありますが、これも監督のスタイルなのでよしでしょう。
全編このスタイルを押し通しているので、これは監督のこだわりなのだと思います。
アクションシーンはかなりスピード感があるリズムがよい演出でした。
このあたりはハリウッド的でもあり、なかなか他の日本人の演出家にはない個性だと思います。

良くも悪くも紀里谷監督のこだわりとスタイルが出されている作品で、これが好きか嫌いかというところで評価が分かれる作品だと思います。

紀里谷監督作品「CASSHERN」の記事はこちら→

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2009年5月 2日 (土)

「仮面ライダーアギト」<平成仮面ライダー振り返り-Part2>

さて「仮面ライダーディケイド」放送に合わせて、平成ライダーを振り返ってみようというこのコーナー(?)。
今回は「仮面ライダーアギト」です。
「ディケイド」の方は、今週公開の「超・電王」に合わせて「電王編」に突入していますが、毎回毎回描かれている話はかなりの高密度で驚くばかりです。
9つの世界を巡るということでしたが、それぞれの世界はオリジナルのエッセンスをうまく活かしながらも異なるものとして描かれています。
先日オンエアした「アギト編」もオリジナルのエッセンスを上手にとりいれていたと思います。

さて「クウガ」の時も書きましたが、平成ライダーシリーズというのは、新しい作品を作るごとに常に掟破りとも言える革新的な要素を取り入れて、それが以降のシリーズでは定番となっていく「自己進化」を行っています。
「アギト」におけるその革新要素というのは、やはり3人ライダーが物語の中心にいるということでしょう。
それまでも昭和においては「V3」の「ライダーマン」なども同じ作品中に登場しますがこれはあとで「仮面ライダー」としておくり名されたようなものですし、また過去ライダーが単発的に登場することはありましたが、概ね仮面ライダーというのはその作品中で一人というのが基本でした。
これは仮面ライダーが改造人間であるということを背景に、孤独を持つキャラクターであるというのが基本属性になっていたからだと思われます(また同じ東映作品の「戦隊シリーズ」が集団ヒーローであったため差別化という視点もあったかもしれません)。
そういう孤高のヒーローであった仮面ライダーが、複数登場するというのは「アギト」当時はインパクトがあったように思います(今はそれが当たり前になっています)。

「既に仮面ライダーである男、アギト」=津上翔一
「仮面ライダーになろうとする男、G3」=氷川誠
「仮面ライダーになってしまった男、ギルス」=葦原涼
これはスペシャル版の時に使われたコピーですが、3人の仮面ライダーをよく言い表していると思います。
この3人のキャラクター設定が絶妙で、これが今までの仮面ライダーの継承とこれからの仮面ライダーへの発展というのをよく表しています。
これませの仮面ライダー像というのを表しているのが、ギルス=葦原涼とG3=氷川誠です。
ギルスとなる葦原涼というキャラクターは、3人の中でも最もこれまでの仮面ライダーらしいキャラクターと言っていいでしょう。
わけのわからない力で人間ではない別の存在になってしまい、親しい人々から受け入れられなくなり孤独に生きる男。
愛する人々をアンノウン(本作での敵)に殺され、復讐を誓う男。
この男は昭和の頃より孤独を運命づけられた仮面ライダーという存在を表しています。
そして普通の人間でありながら、自らの意志でアンノウンと戦う氷川誠は、「正義のために自ら戦う」というこれもまた仮面ライダーのエッセンスを体現しているキャラクターだと思います。
つまり葦原、氷川というキャラクターはそれまでの仮面ライダーの二つの側面をそれぞれ継承しているキャラクターと言えます。
そして主人公であるアギト=津上翔一は、これからの仮面ライダー像というものを表しているキャラクターだと思います。
「クウガ」の五代雄介も明るいキャラクターでしたが、それにも増して翔一という人物はポジティブな考え方をする人間として描かれています。
その明るさがややもすると軽さに繋がりそうなのですが、彼の楽天的なものの見方というのは、未来というのが明るいものと感じさせる力があります。
まさに「仮面ライダーアギト」というのは「進化」、そしてその先にある「希望」というものを描いている作品であり、それを体現しているのが津上翔一というキャラクターなのだと思います。
当時としては驚きとともに受け止められた3人ライダーですが、結果的には「進化していく」平成ライダーシリーズというものの道筋をつけたように思えます。

「クウガ」から取り入れられた大河性ですが、本作「アギト」はそれがさらに進化しています。
平成ライダーシリーズの中でも一、二を争うほどによく構成されている物語だと思います。
先にあげた3人のライダーは、物語の中でニアミスを起こすものの、それぞれの正体というのに気づくことなく物語は中盤に至ります。
また「不可能犯罪」を引き起こすアンノウンたちが何故そのようなことをするのかという謎、なぜ津上翔一と葦原涼が変身できるという謎、「あかつき号」の謎、最初より登場し人間という存在に大きな影響力を持つ男の謎、様々な謎が物語を牽引していきます。
謎が明らかにされ、さらに新たな謎が提示されという展開は、「LOST」のような海外ドラマを思わせる中毒性がありました。
そして敵の力が強大になるにつれ、終盤に至り今までがなかった3人ライダー(正確には加えてアナザーアギトの4人)がそろい踏みする46話で物語のカタルシスは頂点に達します。
4人のライダーが並んでいる画というのは、感動的ですらありました。
この大河性のある物語の脚本を紡いでいったのは井上敏樹さん。
途中の1話を除いて50話分を一人で書き上げました。
井上さんはその後「555」は全話や「キバ」もほとんど一人で書いています。
井上さんがメインのシリーズはややもすると大風呂敷を広げて収集がつかなくなることもあるのですが、「アギト」についてはきっちりと最後まで物語を回収したという感じがします。
井上さんの脚本はちょっとひねたクセのある登場人物が出てきますが、本作でその役を担うのは北条透というキャリア警察官。
これがまた嫌味なヤツですが、味がある人物で物語でも重要な役回りとなっていました。

本作よりメインプロデューサーとなり、その後も多くの平成ライダー作品でもその任をまかされる白倉伸一郎氏の個性も本作で強く出ているように思えます。
「クウガ」の高寺プロデューサーは、どちらかというとリアルさにこだわった方だと思います(「響鬼」もしかり)。
仮面ライダーという存在が現実にいたら、というシミュレーション的な描き方をしていたと思います。
そして一人の男の生き方というものをこだわっていたように思います(五代雄介であり、ヒビキであり)。
白倉プロデューサーというのは、仮面ライダーというものをもっと自由に捉えているように思えます。
主人公の生き方というよりも、作品世界そのものが提示するテーマというところに興味があるように思えます。
「アギト」で言えば、「進化」と言ったところでしょうか。
まさにそれぞれの世界が題材となった「ディケイド」も白倉さんがプロデュースの作品。
「ディケイド」の世界は何を語ろうとしているのでしょうか。

次回は「仮面ライダー龍騎」の予定です。
「アギト」で初めて複数ライダーとなりましたが、「龍騎」は一気に13人に増加となりました。
なかなか全話を観ていくというのは思いのほかたいへんで(笑)。
夏くらいまでには「龍騎」の記事を載せられればと思います。
「ディケイド」終了までに全平成ライダーシリーズレビューはすでに苦しくなってきてます(爆)。

「劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4」の記事はこちら→
「仮面ライダークウガ」<平成ライダー振り返り-Part1>の記事はこちら→
「仮面ライダー龍騎」<平成ライダー振り返り-Part3>の記事はこちら→
「仮面ライダー555(ファイズ)」<平成仮面ライダー振り返り-Part4>の記事はこちら→
「仮面ライダー剣(ブレイド)」<平成仮面ライダー振り返り-Part5>の記事はこちら→

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「劇場版 仮面ライダー超・電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」 やはり帰ってきた!

「さらば」と言ってほんとうに「おさらば」したシリーズというのはなかったりします。
「宇宙戦艦ヤマト」しかり(あ、本作に戦艦がでるのはそういう深い意味もあったりして)。
前作「劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン」で最終作と言っていましたが、やはり「電王」は帰ってきました。
それも「超・電王」シリーズとなって!
「超・電王」シリーズはパンフレットによれば<少年が時の電車に乗り、仮面ライダーとなって自分を見いだし、列車を降りるまでの冒険物語>ということ。
仮面ライダーというフォーマットから踏み出し、ジュブナイルとして新たなフォーマットを模索し始めているようです。
これはこれで新しく果敢な取り組みのように思えます。
最近は特撮番組が隆盛しているとはいえ、実は古くよりあるブランドを上手に新陳代謝させ存続させているのが実情です(これを東映は非常にうまくやっている)。
つまりは「仮面ライダー」「戦隊シリーズ」「ウルトラマン」と肩を並べられるような、新しい特撮のフォーマットというのはまだ育っていないということです。
いつまでもこれらのブランドが生き続けられるとは限らない。
だからこそ特に「仮面ライダー」シリーズは、毎回新しいチャレンジングな試みを行いブランドの強化を行っています。
「電王」、「ディケイド」のプロデューサーである白倉氏は特に危機感が強いらしく、「ディケイド」でも驚くべき平成ライダー登場という荒技を行っていますが、これも「仮面ライダー」ブランドがあと10年続くためのブランド強化であるという認識のようです(「東映ヒーローMAX」記事より)。
けれどもそればかりではだめで新しい柱を建てるということも必要です。
ただ一から新しい番組ブランドを建てるのはエネルギーもかかるし、時間もかかる。
そこで「仮面ライダー」シリーズから派生した「電王」を新たなジュブナイル特撮分野として確立し、新しい柱にしようとしているような感じがします。
たぶんいくつか試行錯誤はあるでしょう。
最終的に「電王」としてブランド化するかどうかはわかりませんが、東映としてこのようなジュブナイル特撮を一つの柱としようとしている感触は見えます。

本作は野上良太郎として佐藤健さんは出演していません。
けれども彼とスーツアクターの高岩氏が作り上げた良太郎、モモタロスのキャラクターは健在。
このキャラクターはもうひとつの型ができてきているので、誰が演じても(本作では子供になった良太郎の溝口琢也くんと、ディケイド役の井上正大さんが演じる)、M良太郎に見えます。
溝口君は普通の良太郎としてみても佐藤健さんに似ていました(かなり勉強したのかな)。

物語としては要素としてはあいかわらずのてんこ盛り状態で、ややもするとぐちゃぐちゃになりそうなのをさすがの小林靖子さんの脚本はきちんと整理をしています。
さらには小林さんの脚本らしくほろりとさせる要素もあってなかなか見せてくれます。
特に本作の主人公とも言うべきユウと、デネブの本当の関係には驚かされつつ、ジンとさせられました。
少年ユウを演じたのは沢木ルカさんという女の子。
男の子にしか見えないのですが、よく見ると将来美人(加藤夏希さんに似ている)になりそうな感じもあるので、これから注目。

敵役ライダーの一人シルバラを演じていたのは柳沢慎吾さん。
死ぬ時に「あばよ」と言っていましたが、このギャグに反応できたのは、お父さん世代だけでした(あたりまえか)。

さてさて新たな東映特撮の柱として「超・電王」シリーズ定着しますか、期待したいところです。

最後に夏の「ディケイド」の映画の予告がかかっていましたが、なんと「オールライダーVS大ショッカー」だそうです。
そうきたか!
平成ライダーだけでなく、昭和ライダーも登場のようです。
バンダイのアーケードゲーム「ガンバライド」では昭和ライダーは平成ライダーと共闘しているので、言われればなるほどなのですが、これまたかなりの荒技!
これは絶対観ないわけにはいきますまい。

「劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!」の記事はこちら→
「劇場版 仮面ライダー電王&キバ クライマックス刑事」の記事はこちら→
「劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン」の記事はこちら→
テレビシリーズ「仮面ライダー電王」の記事はこちら→
「仮面ライダー超・電王」シリーズ「「仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE RED ゼロのスタートウィンクル」の記事はこちら→

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本 「アメリカナイゼーション -静かに進行するアメリカの文化支配-」

最近では反米主義やアメリカナイゼーションに対する危機感のようなものが盛んに言われています。
個人的にはアメリカ文化が全世界的に広がり単一化しはじめているということに対する懸念みたいなものは持っていますが、ただだからといってアメリカ文化をとりいれることがすべて悪く、日本は純粋に日本文化を守るべきという論調にも賛同できません。
本著は14人の研究者の共著です。
この本は「アメリカナイゼーション」をテーマにそれぞれの著者が書いているために、書いてある意見も様々です。
自分としても読んでいて、「これは極端な考え方だなあ」とか「これはその通りに思う」などいろいろ感想が持てました。
そういみ意味で様々な意見が読めるということから、アメリカナイゼーションというものがまだきちんと整理されず、その功罪についてはっきりしていないものであるということがわかります。
また様々な意見があるので、自分はどのように考えるのかという手助けにもなるような気がします。

個人的には文化というものは、いくつかの文化が段々と混じり合っていくものであり、それは止められないと思っています。
純粋な日本文化というものはありえず、それは歴史的に南方海洋民族、北方騎馬民族の文化、朝鮮文化・中国文化、そして明治維新後・第二次世界大戦後の欧米文化などが何度かの波となって日本文化に影響を与えているわけです。
戦後の欧米文化の浸透は今までにない激しさと早さをもっていますが、それがいけないということにはならないと思っています。
ただそれが多様性を消し去るものであり過ぎた場合は、警戒する必要はあるかもしれません。
それでも個人的には文化というのはよほどの事(強制的に移住させられてたり、言語を変えられたり)するようなことがなければ、従来文化と移入文化というのはある緊張関係にあるために一方的な色にすぐに染められるということはないと思います。
外見だけ同じでもその中身は現地化するようなことが起こってくると思います。

編者の一人の浜名恵美さんの考えが最も私とイメージが近かったので、引用させていただきます。

「アメリカナイゼーションの要素をそれぞれのローカル文化に合うように再解釈し、従来の文化を再構成する。たとえば、アメリカ的な自由や個人主義を、日本の和と集団主義の文化に合うように再解釈すると同時に、和と集団主義にも行き過ぎはあるのだから、日本の文化を変化させてもいく。アメリカナイゼーションの進行によるさまざまなな変化に、私たちの一人ひとりが行動主体として積極的に対応し、組み変え、変化を起こしていく」

まさにこういうことなのだろうし、こういうことが起こっているのだろうと思いました。

「アメリカナイゼーション -静かに進行するアメリカの文化支配-」津田幸男、浜名恵美共編 研究社 ソフトカバー ISBN4-327-37693-0

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2009年5月 1日 (金)

「デュプリシティ 〜スパイは、スパイに嘘をつく〜」 脚本家が演出をする弊害

原題の「DUPLICITY」というのは、「裏表二心あるということ」という意味だそうです。
元CIAのクレア(ジュリア・ロバーツ)。
元MI6のレイ(クライヴ・オーウェン)。
二人は情報機関の元スパイで、そして今は激しく競い合うトイレタリーメーカー(B&Rとエクイクロム)の産業スパイ。
そしてまた二人は3年前から浅からぬ縁がある関係でもありました。
男女の恋愛というのは、かけひきがあり、騙し騙されることがあるもの。
そして現代の企業間にも激しい情報戦があると言われています。
恋愛と企業諜報が絡み合って、かけひきと騙しが見せ場としようとしているのが本作です。

とはいえ、どうも本作は話を複雑にしすぎているような気がします。
主人公の二人が恋愛においても、いっしょに組んでの仕事においても、互いに本当のことを言っているのか、嘘を言っているのかわかりません。
このあたり、お話としてはおもしろくなりそうな気がします。
これだけだったらまだわかりやすいのですが、これに互いが潜入している(これも二重スパイのようになっていて複雑)企業同士の情報戦などがあいまって、ついていくのがたいへん。
クレアもレイもほんとにどれが本音なのかが最後までよくわかりません。
さらにクレアとレイの過去のフラッシュバックが絡んでいくので、さらによくわからなくなっています。
一通り事件が終わってみても、なんだか整理できないような、取り残されたようなもやもや感が残ります。
さらに最後に大ドンデン返しがあって、これがまた後だしジャンケンのような感じなので、どうもすっきり感がありません。
「ユージュアル・サスペクツ」のような「してやられた!」というような感じがないのです。
どうも脚本家が話をこねくりまわして複雑にしてしまいすぎ、観客を置いていってしまっているような気がします。
何か観客サイドがよりどころとなれる視点があればまだ大丈夫なのですが、誰もどれも信用がならない感じを出しすぎていて、拠り所がありません。
どうも観ていて落ち着けない感じがあります。
それも脚本の狙いなのかもしれませんが、どうにもテクニックに走りすぎたように感じました。
普通は脚本がひねりすぎてわかりにくければ、監督や編集が整理するものですが、本作においては脚本家が演出家であるために、そのあたりのわかりやすさ対するケアが徹底できていないような気がします。
これは脚本家が演出をするときの弊害のように思えました(優れた脚本家であり、演出家である方もたくさんいますが)。

オープニングタイトルでB&Rとエクイクロムの社長がつかみ合いのケンカをしているところ(予告でも流れていた)はなかなか良かったので期待をしたのですが、残念な出来でした。
でもポール・ジアマッティは相変わらずいいキレ方をしてくれます。

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