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2009年4月29日 (水)

「レイチェルの結婚」 愛情と鬱陶しさと

家族っていうのは、近しいからこそ、なにかもどかしい存在であったりするものです。

バックマン家は長女レイチェルの結婚を迎えようとしていました。
あわせて次女キムは麻薬中毒の治療の施設から家に戻ってきます。
キムを迎えるのは姉レイチェルと父親ポール。
母親アビーは父親とずいぶん前に離婚し、家を出ていて、互いに再婚しています。
久しぶりに会ったにも関わらず、キムもレイチェルも、そしてポールも互いに何か気持ちがすれ違っています。

赤の他人よりも、家族というのは気持ちのすれちがいというのは起こりやすいような気がします。
他人であればしっかりと丁寧に自分が思うことというのを主張することもできるでしょう。
また逆に所詮他人と、割り切った付き合いをしてしまうこともできるでしょう。
けれども家族というのはそういうわけにもいきません。
たぶん互いに自分のことは話さなくてもわかってくれるだろうと思う、家族ならではの甘えもあると思います。
また近くにいるからこそ、ずけずけとした物言いもしにくいと遠慮というのもあります。
なによりも家族だからこそ、自然にある愛情(家族を愛するという気持ちと、愛されたいという気持ちと)というものがあるわけで、離れたままでもいられないわけです。
そのような家族ならではの甘え、遠慮、また愛情みたいなものが、バックマン家の家族には見えます。
家族というのは、互いに反抗する心と、許し合う心というアンビバレントな心情を持っているものなのかもしれません。
次女キムは10代の頃、麻薬を使っていたときの不注意で、幼い弟を死なせてしまいます。
彼女はそれにずっと罪の意識を感じています。
キムは家族も心の奥底ではずっとそのことで自分を責めていると思っています。
だから家族に対して反抗的であり、またそれでも家族の愛情と許しを求めてしまうのです。
長女レイチェルは、そんなキムのことをずっと心配し、また両親たちに気を使い、いい子であろうとしてきたのでしょう。
でもいい子であるが故に、特に父親が問題児であるキムのことばかりを心配しているのが、ずっと心の中にしこりとなっています。
父親ポールはキムを心配するあまりに彼女に対して過保護のような状態になっています。
それは保護をするという父親としての優しさもあるかもしれませんが、問題児であるキムが信用できず目をはなせられないということもあるように思われます。
実母アビーは、娘たち夫をおいてバックマン家から逃げ出してしまったいうような負い目があるように感じました。
だから彼女は娘の結婚を祝福したいという気持ちもありながらも、なにか遠慮がちです。
キムにも一定の距離感をとろうとしているようにも思えます。
家族が互いに感じる愛情と、鬱陶しさみたいなアンビバレントな気持ちが伝わってきました。
これはたぶんどなたも少なからず感じる気持ちだと思います。
映画ではそのような家族それぞれのグラグラと揺れている気持ちというのが、何か解決をするというわけではありません。
レイチェルの結婚の前後の数日を描き、そして家族はまた自分の居場所に戻っていきます。
たぶん家族というのはこうやって日々の生活の中で自分と家族の気持ちに折り合いをつけながら生きていくものなのかもしれません。
愛情と鬱陶しさを感じながら。

アメリカ映画らしくない題材な感じがしました。
なんだか山田洋次さんあたりが撮っても変じゃない感じだと思いました。
アメリカでも日本でも、家族っていうものがお互いに持つ気持ちっていうのはそんなに変わらないものなのかもしれないですね。

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2009年4月26日 (日)

「鴨川ホルモー」 濱田サイコー!

「ホルモー?ホルモン?」
とまさに登場人物と同じような反応をしてしまった不可思議なタイトル。
万城目学さんの同名小説を原作にしているらしいですが、こちらは未読です。
会社の同僚が言うには原作はおもしろいということだったので、興味が出て映画を観てきました。
ちなみに万城目は「まきめ」と読むらしい。
「まんじょうめ」と読んでしまった。

「ホルモー」というのは、式神(作品中ではオニと呼ばれる)を使った京都の四大学(京大、京産大、立命館、龍谷)の対抗戦のこと、だそうです。
式神というのは、映画でも「帝都物語」や「陰陽師」で描かれて知っている方も多いと思いますが、平安の頃陰陽師が使役したと言われる魔物です。
有名な陰陽師安倍晴明が使役した式神は京都の一条戻橋に住まわせていたと言われていますので、本作の舞台が京都というのはなるほどといった感じです。
本作の主人公の名前は「安倍 明」(山田孝之さん)ですが、これは「安倍晴明」からとったということでしょう。
また恋のライバルとなる「芦屋 満」(石田卓也さん)の名前は、これまた有名な陰陽師「芦屋道満」からとったと思われます。
伝説では芦屋道満は安倍晴明の弟子であり、そして安倍晴明を破った人物と言われています。

ストーリーはたわいもないと言えば、たわいもない。
心に残る話ではないのですが、2時間楽しく過ごしたいならまあまあお薦めできます。
おかしいのは濱田岳さん演じる高村です。
予告からしてチョンマゲ頭になっていて、なんでだろと思っていたのですが、こういうわけだったんですねえ。
本作おかしいところは全部高村絡みだったような気がします。
存在感では他の役を喰っていたような。
おいしい役どころです。
濱田岳さんというのは、こういうおとぼけな役が似合います。
チョンマゲにシャンプーハットが似合う役者さんというのはそうそういません(ほめ言葉デス)。
決して二枚目でもないですし(失礼!)、スマートでもない。
どっちかというとダサイ。
けれども何か印象に残ってしまうようなところが濱田さんにはありますよね。
これから邦画での名バイプレーヤーとなっていくような気がします。
「濱田サイコー!」

原作小説「鴨川ホルモー」の記事はこちら→

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2009年4月25日 (土)

「ゴジラ(1954年)」 神格化のプロセス

今更説明する必要などないほどに有名な日本発の怪獣映画で、国内国外を問わず数えきれないほどの人々に影響を与えた作品です。
今までに、これまた数えきれないほどのレビューが書かれていると思われる作品の評価に、自分が付け加えることなどはなにもないのですが、とりあえず観た映画については書くと決めているので、自分なりに試みてみようかと思います。
「ゴジラ」がビキニ環礁の核実験で被爆したという第五福竜丸の事件をきっかけに作られたというのは有名な話です。
ですのでゴジラは「核の落とし子」という言われ方もします。
またその後のシリーズの作品で人間の築いた文明社会に破壊の限りを尽くすという印象があったので、個人的には「自然の怒り」というイメージを持っていました。
けれども第一作の「ゴジラ」を改めて観てみると、ゴジラという存在自体には後々持ってくるようなキャラクター性というものはまだありません。
当然作品としてはそこに科学というものを無批判に信望することへの警笛、作られた当時まだ残っている戦争の生々しい記憶などというテーマはあるかと思います。
けれどもそれは作品が発しているメッセージでありますが、ゴジラという存在自体が発しているものではまだなかったのです。
ゴジラが「自然の怒り」というような人間的な感情のようなものを発しているとか、または「荒ぶる神」のような俯瞰した視点を持っているかというと、そこにはそのようなものはありません。
ゴジラが破壊を行う理由はわかるわけもなく、それは人間では抵抗できないほどに強力な災厄として描かれます。
台風や地震などの人間の力ではコントロールしようのない大災害と同じようなものと言っていいでしょう。
ただ人間というものは、そこにはメッセージ等の意味などない自然現象にも理由を付けて理解したくなるものです。
台風に風神をみてみたり、地震になまずをみてみたり。
そこに何か理由やメッセージがあるはずだという解釈を試みようとするのが、人間です。
ゴジラという存在が、その後様々な解釈を受け、シリーズ化をされながら意味を付加されていく中で、段々と「荒ぶる神」としてのキャラクターを持ち始めていくのは、なにか自然現象が神格化していくプロセスを見ているような気もします。

あえて「ゴジラ」という作品をひねった視点で観てみた次第です。
有名な作品のレビューを書くのは難しい・・・。

ゴジラシリーズ最終作品(といわれる)「ゴジラ FINAL WARS」の記事はこちら→
アメリカ版「GODZILLA」の記事はこちら→

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2009年4月24日 (金)

「バーン・アフター・リーディング」 彼らだけを笑うことなかれ

豪華な出演陣、そして彼らが演じる「痛い」キャラクター、彼らが絡むことによって迷走していくストーリー、「バーン・アフター・リーディング」の魅力はこれに尽きます。
登場人物はそれぞれ強烈に個性的。
彼らを一通り見てみましょう。

チャド(ブラッド・ピット)はジムのインストラクター。
スポーツドリンクを常に飲み、iPod中毒の彼は見るからに筋肉バカなのですが、本人は自分のことを利口だと考えている節があり。
使えぬ頭を使って、偶然手に入れたCIAの機密情報(と思しき)のファイルをネタに、一攫千金を狙ったところで事件が動き出します。
ジョン・マルコビッチ演じるオズボーンは、CIAの分析官。
彼自身は自分を一流の分析官と思っていますが、実のところはクラスはかなり下。
怒りっぽくてアル中で仕事を首になったところで、暴露本を書いていたところ、それが流出して、さあたいへん。
連邦保安官のハリー(ジョージー・クルーニー)は連邦保安官ですが、仕事をしているような感じはなく、作家の妻のヒモのような暮らし。
さらに恋愛中毒なのか、渋い見た目を使ってプレイボーイを気取り複数の不倫を重ねる暮らしっぷり。
彼と不倫を続ける女医ケイティ(ティルダ・スウィントン)は実はオズボーンの妻。
鼻持ちならない嫌味な女で、夫に辛く当たる悪妻。
オズボーンの財産を奪って、離婚を画策中。
そしてチャドの同僚で、いっしょに一攫千金を狙うリンダ(フランシス・マクドーマンド)。
幸せな生活をおくるには、自分の見た目をきれいにしなくてはいけないと頑に思い込む彼女。
全身整形の費用を稼ぐために、オズボーン脅迫をリードしていきます。

彼らが行動していくに従い、物語はどこにいくかわからない迷走状態に入ります。
なにせ強烈な登場人物がそれぞれに勝手なふるまいをしていくわけですからたいへんです。
5人の登場人物はそれぞれ「痛い」キャラクター。
彼らが「痛い」のは、彼らがそれぞれ自分自身に対して自信たっぷりでありながら、実のところ他人から見るとたいしたことがない奴らだということです。
自分のことを頭がいいと思っているチャド、複数の女性を手玉に取っていると思ってるハリー、一流のCIAマンだと思っているオズボーン。
それぞれに「痛々しい」。
彼らは自信満々で、そして自己中心的で自意識過剰。
ある意味自分は地球の中でも大した存在だと感じている。
けれどそんなことはあるわけもなく。
それに本人が気づいていないことが「痛い」んです。

けれど彼らだけを笑うことなかれ。
もしかしたら自分も彼らと同じように行動しているかもしれません。
偉そうなことを言ってみたり、自信満々でふるまってみたり。
自分が気づいていなくても、他の人から見たら、彼らのように滑稽だったりするかもしれません。
彼らが引き起こす行動のブラックな笑いはさすがシニカルな視点を持っているコーエン兄弟ならではです。
地球からズーミングしていってラングレーに至る最初のカット。
そして最後はラングレーから引いていって地球のカット。
いくら自信満々な人物も、外から見たら実際はちっぽけで滑稽な存在だということを表しているんでしょうね。

コーエン兄弟監督作品「ノーカントリー」の記事はこちら→

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2009年4月20日 (月)

本 「ガリレオの苦悩」

「容疑者Xの献身」は長編でしたが、本作は「探偵ガリレオ」「予知夢」と同じ短編集になっています。
今まで「ガリレオ」シリーズの短編は、それほど強くおもしろいと思ったことはなかったのですが、本作はおもしろかったです。
僕はテレビドラマの「ガリレオ」から入っているので、どうしてもテレビドラマと比べてしまうんですよね。
原作の湯川は佐野史郎さんのような風貌と書いてあるのですが、どうしても福山雅治さんのイメージが抜けなくて。
本作に収録されている作品は、テレビドラマになっていない話なので、新鮮に読めたからかもしれません。
というより本作は内海薫刑事も登場しているので、それほどテレビドラマとイメージが違わなかったからもしれません。
完全に福山さん&柴崎さんコンビに脳内変換して読んでました。
原作の内海薫刑事は、テレビドラマよりもかなり優秀な刑事さんでしたが。
とはいえ、物語も本作の作品はおもしろかったと思います。
特に一番最後の作品「攪乱す」は、湯川自身が狙われることもあって、他の作品よりもハラハラ感はありました。
同時刊行された長編の「聖女の救済」はまだ未読。
こちらも読まなくては。

「探偵ガリレオ」の記事はこちら→
「予知夢」の記事はこちら→

「ガリレオの苦悩」東野圭吾著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-327620-5

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2009年4月19日 (日)

本 「アマテラスの誕生 -古代王権の源流を探る-」

けっこう目からウロコの内容でした。
日本の文化というのは、何度か大きな外国文化の流入というインパクトを受けています。
第二次世界大戦直後の主にアメリカ文化、明治維新の欧米文化、律令国家成立の頃の中国文化。
当時の日本からすれば先進的な文化を受け入れ、それを変質させて独自の文化にしていく。
一言に日本の文化と言っても多層構造なわけですよね。
本著はアマテラスが何故天皇の始祖という地位についたかということを、古代における外国文化の流入とそのときの政治状況を踏まえて解明しています。
アマテラスという神が天皇家の始祖となったのは、「日本書紀」「古事記」を読み解くと実は天武天皇の頃と考えられるようです。
それまではタカミムスヒという名の神であったということです。
このタカミムスヒという神はもともとは北方遊牧民族の考え方に由来するということです。
つまり弥生以降に一度大きな外国文化の流入があったわけです。
それまでは日本は多神教的な文化でした(八百万の神というイメージ)。
それがタカミムスヒという太陽神をいただく王権的な考え方が流入してきました。
それがヤマト統一国家への力となったわけです。
ただしのこの統一国家は王家とその周囲が地方の豪族を支配するという構造でした。
王が国民を直接支配するという構造ではなかったのです。
壬申の乱以降天武天皇がさらに日本全国規模へ統一へ動くときに、タカミムスヒという伝来の神ではなく、日本で古くから親しみをもたれていたアマテラス(これも太陽神)を天皇の始祖とするようにしたというのが著者の考えです。
けっこう納得がいく説明でした。
日本というのは海で囲まれながらも大陸と行き来はできるという地政学的な位置の関係上、外国の文化の大きな流入が周期的にくるようです。
それが咀嚼され日本の文化となっていく。
我々が暮らしている日本の文化が実は地層のように重ね合わせてできているということを想像すると何かおもしろい気がします。

「アマテラスの誕生 -古代王権の源流を探る-」溝口睦子著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431171-3

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2009年4月18日 (土)

「クローズZERO Ⅱ」 集団を維持していく才覚

カラスたちのその後が見てみたい、と前作を観た時に思いました。
それだけ鈴蘭高校の男たちというのが魅力的に見えました。
これだけの人数が出てくる物語では、どうしてもキャラクターの描き方が薄くなりがちなのに、それぞれが画面から飛び出してきそうなほどの存在感がありました。
それが「クローズZERO」の魅力だったように思います。
その中でもやはり魅力的だったのが、源治と芹沢という二大派閥のリーダー。
それぞれを慕う者が集まってくるというのは、彼らがカリスマ性、求心力というものを持っていたからでしょう。
カリスマのある人間の元には人が集まってきます。
けれどもその集団を維持していくためには別の才能がいるのです。
それが本作「クローズZERO Ⅱ」のテーマとなるのでしょう。
求心力があって人を集めることができても、それを維持していくためには、下につく人々のモチベーションを維持していかなくてはいけません。
モチベーションを維持するためには、上に立つ者が下の者のことを見て、彼らの想いを組み上げてあげなくてはいけません。
既存のものをぶちこわし、新たなものを作り上げることをできる人はいます。
例えば織田信長のように。
けれども新しい体制を維持していくためには徳川家康のような才能が必要なのでしょう。
源治はまさに信長のような男。
鈴蘭のてっぺんまで一気に駆け上がった。
けれどもその先、というのは彼の頭にはなかったのでしょう。
だから大きく肩に乗っかってきた鈴蘭という看板を彼は持て余したのです。
けれども彼はそこで悩んだ。
悩んで気づいたわけです。
自分だけが頂点に立つということを考えるのはなく、自分についてきてくる連中の想いというのをきちんと見る。
彼らのことを考える。
それが自分がトップを張る集団を維持していくための才覚なのだと思います。
源治は信長にならなくてすんだんですよね。

「クローズ」名物となったケンカシーンは已然健在で見応えがあります。
ただストーリーとしては源治が悩む物語であるため、前作のようなラストに向かいどんどんボルテージが上がっていくようなカタルシスは、比べるとやや薄い感じがしました。
相手となる鳳仙の面々も出てくるため、鈴蘭のメンバーはやや存在感が薄いのが残念。
それでもケンカシーンの中でそれぞれのメンバーのキャラクターを出していたところはさすが三池監督です。
なかでも三上兄弟は前作よりキャラ立ちしていて、おいしい役でした。

本作にて源治も芹沢も卒業。
次は鈴蘭の1年トリオVS鳳仙のスーパー・ルーキーの美藤の代の戦いが描かれますか・・・。
果たして!

「クローズZERO」の記事はこちら→

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「パニッシャー:ウォー・ゾーン」 おしおきだべえ

オープニングシークエンスにて。
悪事を働くマフィア一族が集まったパーティの一室。
突然明かりが消えて、そこに現れたのは真っ黒の戦闘服に身を包んだ一人の男。
その胸にはどくろのマークが浮かび上がっている・・・。

「おしおきだべえ」

とドクロベエさまが言うかと思ってしまいました。
冗談はさておき・・・。

タイトルのパニッシャーは処刑人という意味。
”パニッシャー”は法で裁けない悪人を容赦なく始末する男、言わばアメリカ版必殺仕置人と言ったところでしょうか。
「パニッシャー」は過去にも二度映画になっているのですが、いずれも観たことがありません(トラボルタが悪人で出ていたような・・・)。
アメコミヒーロー好きとしては、観に行かないわけにはいかないと本作初日に行ってきました。
ヒーローと言っても、パニッシャーというのは特殊能力を持つわけではなく、悪を憎む気持ち、強い意志、鍛え上げられた肉体と技で、悪人を問答無用に処刑していく男です。
なのでけっこう過激な描写もあるだろうと予想してましたが、思っていた以上に生々しい、痛いシーンもありました。
予告でも流れていたオープニングシークエンス(ぶら下がってバンバン撃つやつね)は、パニッシャーの悪人に対しての情け容赦のなさがでていて、グッとバイオレンスな世界観に引き込まれます。
オープニングタイトルもなかなかカッコいい。
B級と思いきや、実は当たりか?と一瞬思いましたが、その後の展開はそれほど意外性のあるものではありませんでした。
このところ「ダークナイト」とか「ウォッチメン」とかヒーローものでも手の込んだストーリーを味わっているからでしょうか。
罰し続ける者が、いつか自分も罰せられることを望むというような描写も少し感じたのですが、それほど深堀していくことはなく。
このあたりのパニッシャーの内面みたいなところにもっと踏み込んでくれると、自分としてはけっこう好みだったのですけれど。
どちらかというとバイオレンス描写みたいなところへのこだわりの方が高かったような気がします。
そのあたりの描写はかなり作り込んでいるのですが、ある程度以上いくともうお腹いっぱいなところもあって、もうちょっとソフトにと思ってしまいました。
とっても意外だったのは、本作の監督が女性だったということ。
本作のバイオレンス描写にはまったく女性っぽさを感じなかったです。

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2009年4月16日 (木)

「おっぱいバレー」 実はノスタルジー映画

あまりにストレートなタイトルと予告を観ると、本作のストーリーがなんとなく想像できます。
で、観てみると、想像していたストーリーとほとんど変わりません。
思春期で性に興味が出てくるオバカな男子たちのドタバタコメディというところです。
意外な展開っていうのはほとんどなく、すごいお色気があるわけではないので、安心して観れるといえばそういう感じです(逆に綾瀬はるかさんのそういうのを期待していた方は残念です)。
そういえば昔(それこそ劇中で描かれていた時代)はエッチなコメディ映画というのが洋画も邦画もけっこうあったような気がしますが、最近はこういう作品は珍しい気がします。

美人の美香子先生(綾瀬はるかさん)のおっぱいを見るためだけに必死にバレーボールの練習をする六人組の男子たち。
こいつらがやることといったらバカまるだしなんですが、この年頃の男子というのはそういうもの。
自分のことを思い返しても、「11PM」とかこっそり観てドキドキしていましたっけ・・・。
試写会場でもけっこう笑いがあがっていましたが、それは(自分を含め)男性の声だったりしました。
たぶん皆さん、身に覚えがあるっていう感じですよね(笑)。

本作、エッチな中学生男子を題材にしたコメディではあるんですが、上に書いたようにさほどお色気シーンがあるわけではありません。
そういう意味ではエッチ系コメディという分類はふさわしくないかもしれません。
どちらかというと、こういう時代もあったよねというノスタルジー映画(「ALWAYS 3丁目の夕日」等)のカテゴリーに入るような気がします。
舞台となっているのは1979年の北九州。
ちょうどピンクレディーが流行っていた頃で、劇中でもキャンディーズとかツイストとか流れていました。
僕はこの5年後くらいに中学生になっていますが、ほぼ近い世代と言っていいでしょう。
なにがノスタルジックになるかというと、性に興味が出てきた中学生がエッチなものに触れようとするためにジタバタと足掻くところだったりします。
その頃というのは、なかなかにそういうエッチなものに触れるチャンスがなかったわけです。
たとえば「11PM」(今考えればお色気ってくらいな内容)を観ようとしても、そうそう簡単に観れたわけではありません。
今でこそ一人一台自分の部屋にテレビっていうのは当たり前なのかもしれませんが、僕らの時代は「お茶の間」に一台だったわけです。
さすがに親といっしょに観るわけにもいかず・・・。
親が寝静まったのを見計らい、こっそりとイヤホンつけて「11PM」観たわけで。
そりゃもう、ドキドキしましたよ(今思えば絶対親にばれてる)。
そういう思い出みたいなものが甦って、なんとなくノスタルジックな気持ちになるわけです。
でも、今の時代の若い子はたぶんこういう努力(というか?)はほとんどないんですよね。
というよりもエッチを越えたもっと過激な情報がちまたには溢れている状態です。
自分用のテレビ、パソコン、ケータイがあって、親の目や人の目みたいなものを気にせずともエッチな情報なんてすぐ手に入ります。
というより向こうから勝手にドンドン飛び込んできます(だから今の子は別の悩みがあるのかもしれないですが)。
僕らの頃っていうのは、エッチな情報を手に入れるにはそれなりにいろいろ苦労があったわけです。
だからこそ中学生の持つリビドーみたいなものが、よりエネルギーを産むっていうか(偉そうですが)。
なにかそのエネルギーみたいのを、本作に登場するオバカな六人組に感じたし、それを懐かしくも思ったりもしました。
今の子供っていうのはそういうがっついたエネルギーみたいなものすら感じられないですから。
試写会場で笑っていた男性諸氏はみなさんそういうものを感じていたのではないでしょうか。

オバカ六人組が、最後に青春するではなく、最後までバカだったのがちょっと嬉しかったです。

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2009年4月12日 (日)

本 「地球間ハイウェイ」

SFではパラレルワールドという設定はポピュラーですが、本作での使い方はかなりユニーク。
遥か昔に"創始者"が作ったとされる"輝き"。
これは無限ともいえるほどの数があるパラレルワールドを繋ぐ道のようなものです。
そのパラレルワールドには必ず地球があり、その決まった場所を"輝き"が繋いでいるのです。
それら地球それぞれに、多様な進化を遂げた人類がいるのです。
その"輝き"を発見した"人類"である"見者"は、"輝き"をたどり"創始者"を探すという事業を始めます。
百万もの地球、膨大な時間をかけ、彼らは旅を続けます。
"見者"たちは訪れる地球の独自性を尊重しながらも平和へ導くということを行います。
読み始めた時はこの設定がなかなかわかりにくかったところもありますけれども、おもしろいアイデアだと思います。
ただ物語としてはあまりこなれた感じはしなかったように思えます。
ユニークな設定の割に、キャラクターの描かれ方がやや足りなかったのかな。
特に(僕たちと同じような)地球人であるカイルとビリーはもう少し深く掘って欲しかったです。

現在放映中の「仮面ライダーディケイド」は9つの異なる地球(世界)を巡る話ですが、この作品から影響を受けたのかとも思ったりしました(たぶん違うだろうけど)。
本作の表紙のビジュアルが、「ディケイド」のキービジュアルに雰囲気が似てるんですよね。

「地球間ハイウェイ」ロバート・リード著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011466-8

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「トワイライト 〜初恋〜」 キラキラロマンティック

バンパイアものの映画というと数えきれないくらいの作品があります。
そのうちの大部分が、ホラーか、アクション、SFに分類される作品だと思いますが、こちらの作品「トワイライト -初恋-」はキラキラロマンティックな恋愛映画になっています。
あまりにキラキラしていて、男子としてはちょっと恥ずかしい感じでした。

そもそも吸血鬼というはヨーロッパに古くから伝わる伝説ですが、それがきちんと作品としてまとめられたのはご存知ブラム・ストーカーが著した「吸血鬼ドラキュラ」です。
「ドラキュラ」も何度も映画化されていますが、この作品で提示された吸血鬼という怪物は、題材としてとても魅力的でその後、いくつもの作品に使われています。
その魅力というのはなんなんでしょう?
まずは吸血という行為により、血を吸われた者も吸血鬼になってしまうという恐怖。
これには中世のペスト等の伝染病の記憶が反映されているのでしょう。
近しいものが怪物になってしまう恐怖というのは、その後「ゾンビ」もの、異星人侵略もの(「ボディ・スナッチャー」等)に形を変えて引き継がれていきます。
また外見は人間、けれども中身は血に飢えた怪物ということから、段々と時代を経るに従い吸血鬼という怪物も「人間性」を持つように描かれてきます。
人間性と獣性の狭間にある者としての葛藤を描くには、吸血鬼という題材はぴったりなのです。
バンパイアの吸血という行為は、根源的な欲望(食欲でありまた性欲)のメタファーであり、彼らが抱える葛藤というのは、本能と理性のせめぎ合いなのです。
「ブレイド」「アンダー・ワールド」といった映画や、菊地秀行氏の小説「吸血鬼ハンター"D"」はまさにそのあたりを描いています。
そして吸血鬼というのは、上記のような性質を持っているということ、そもそもブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」で反キリスト的存在として描写されていることから、”忌むべき者”として人間と相容れない存在として描かれていることが多いです。
長々と吸血鬼の話を書いてきましたが、本作はそのような人間と近い外見を持ちながらも”忌むべき存在”である「吸血鬼」という題材を上手に恋愛ものに取り入れているとは思ったからです。
恋愛ものでやはり盛り上がるのは、「ロミオとジュリエット」などで描かれているような、禁断の恋なんですよね。
その恋の障害は「ウエストサイド物語」のような対立する集団であったり、「トリスタンとイゾルデ」とか「タイタニック」のような身分差であったりしますが、男女の立場の違いであることが多いです。
本作はその障害を吸血鬼と人間という立場に設定しています。
この作品のストーリー自体にはそれほど目新しいものは感じません。
先にあげたような恋愛ものの構造をそのままだからです。
けれども欧米ではティーンズを中心にけっこう当たったようで、やはりいつの時代でも女性たち(特にガールズの)の好む普遍的な恋愛もの構造をとっているからでしょうか。
これは男子的には観ていてけっこう恥ずかしかったりするのですが、やはり女性からするとたまらないのでしょうね(お姫様願望?)。
主演のロバート・パティンソンはイケメンですし(「インタビュー・ウィズ・バンパイア」など、吸血鬼というのは何故か美形が多いのは何故?)。
あと本作の終わり方がハッピーエンドだったのも当たった原因なのかなとも思いました。
障害のある恋の物語はえてして悲劇に終わることが多いですが、本作では主人公のベラに感情移入すれば幸せな気分になれるというのが他の作品と違うところです。

原作小説は四部作だそうですが、映画の方も続編が作れそうな感じで終わっています。
こういう怪奇ものネタ好きとしては、脇ででていたジェイコブのキャラクターが気になっています。
彼の部族は「オオカミ」と言われていましが、彼らはもしかして狼男?
二作目は「アンダー・ワールド」的に吸血鬼VS狼男で、恋の三角関係になったりするのかな?

続編「ニュームーン/トワイライト・サーガ」の記事はこちら→
「エクリプス/トワイライト・サーガ」の記事はこちら→

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2009年4月11日 (土)

「レッドクリフ Part Ⅱ -未来への最終決戦-」 歴史に残るスペクタクル

「レッドクリフ partⅠ」は昨年10月に試写会で観たので、半年間も待ちました。
待ちに待った二部作完結篇です。
「partⅠ」では「赤壁の戦い」を題材にしてるのに、その肝心の水上戦がないじゃーんと肩すかしな感じを受けましたが、本作は丸々2時間「赤壁の戦い」です。
洋画でも邦画でも、時代も太古から現代まで様々なな時代の戦乱を扱ったスペクタクル映画というのは多く、映画史に残るような迫力のある名シーンというのもいくつもあります。
けれども本作「レッドクリフ partⅡ」で描かれる「赤壁の戦い」は、それら名作と比べてもひけをとらぬどころか、凌駕していると言ってもいいくらいの出来となっています。
「三国志演義」にある有名なエピソードもきっちりと映像化されていて大満足です。
孔明が船を出して敵が射かける矢を奪い取ってしまう作戦も迫力ありました。
奪い取った矢の重みで船が傾いてしまうところなどの、見せるための上手な誇張はジョン・ウーならでは。
やはり見所は「三国志演義」でも最大の見せ場である「赤壁の戦い」の「火攻め」でしょう。
この火攻めから曹操の本陣まで押し進む呉・蜀連合軍の猛攻は圧巻です。
「partⅠ」では三国志に登場する英雄たちの強さを「1対多」(まさに「三国無双」のような)の華麗な立ち回りで表現していましたが、「partⅡ」は、孔明・周瑜という天才的な軍師による情報戦、そしてクライマックスの軍団と軍団が激突する「多対多」というアクションで凄まじい迫力を見せつけました。
合戦シーンはまさに疾風怒濤の映像。
こんなに迫力がある合戦シーンはかつて見たことがありません。
楯を使ったジョン・ウーオリジナルの合戦も磨きがかかったようで、迫力あります。
「partⅠ」では鉄壁であったこの先方も、曹操軍本軍には無傷でいられないところも両軍の強さがでていて、手に汗を握りました。
思えば「partⅠ」では登場する英雄の紹介、彼らの魅力をそれぞれ丁寧に描きつつ(やや少しジョン・ウーにしてはもったりしていた感じがあった)、八卦の陣での前半のクライマックスを迎えるという構成でした。
そして「partⅡ」は人物の紹介は終わっているので、その分、物語は「赤壁の戦い」に集中できているという構造になっています。
これを1作にまとめてしまったら「partⅡ」の嵐のような迫力はでていなかったかもしれません。
これは計算づくだったのですね。
すいません、ジョン・ウー監督、お見それしました。
本作は戦乱スペクタクル映画の中でも屈指の出来、またジョン・ウー作品の中でもベストの出来と言っていいような気がします。

ジョン・ウー映画にいつも登場する鳩は「partⅠ」のラストに登場し、「partⅡ」に繋ぐアイテムとして上手に使っていました。
さすがに教会はでないだろうと思っていましたが、呉の水軍が攻めるときの合図にしていた銅鑼は教会の鐘のような音色でした。
このあたりはジョン・ウーのこだわりなのかな。

「三国志演義」と異なるところでは、「演義」では孔明は風水師のように自ら風を呼びますが、さすがにそれではファンタジーになると思ったのか、気象を読むことにより、風を予報するということになっていました。
あと呉の老将軍黄蓋が自ら鞭打たれ、寝返ったふりをして曹操軍に潜入するというエピソードはなくなっていましたね。
黄蓋は好きなのでちょっと淋しいですが、これをやったら物語の潔さがなくなってしまうので、致し方なしでしょう。

あと。小喬を演じたリン・チーリンの美しいことと言ったら・・・。
この美しさも英雄たちに負けぬくらいに天下無双です。

関係ないですが、「未来への最終決戦」というセンスのない副題はなぜにつけたんでしょうか?

「レッドクリフ partⅠ」の記事はこちら→

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2009年4月10日 (金)

「グラン・トリノ」 信念を託す

人は長い間生きてくると、その人にとって生き方の信念を持ってくるようになります。
いや、信念を持たないと生きていけないのかもしれません。
イーストウッドが演じるウォルトも、自分の生き方に信念というものを持っている人物です。
彼が信じられるのは、自分の手で組み立てられるような実質的もの。
男が男としての責務を果たすということに美徳を感じているような男です。
彼は自分の息子たち以降の世代の浮ついたような(彼から見ればそう見える)生き方を苦々しく思っています。
ウォルトから見れば、金や財産に興味ばかりある息子たちや目上の者に敬意を持たない孫たちには、とても我慢ができないのです。
けれどもその生き方のスタイルは、今の時代を生きる若い人々から見れば、逆にとても古いものに見えていることもわかっています。
彼にとって、自分の生き方の信念は揺るぎない。
けれどその生き方が古いものになりつつあることも知っています。
そこに彼は一抹の淋しさは感じていることでしょう。
それは一人、ビールを飲む彼の姿に感じることができます。
彼が感じているのは、自分の信念を受け継いでくれる者がいないという淋しさのような気がします。

僕もいい年をしてきているので、自分なりの生き方や仕事についての哲学みたいなものを持っています。
会社で働いていても、「最近の若いもんはなっていない」と思うこともしばしば。
まさにウォルトが孫たちに抱くようなイライラを感じたりもします。
また自分の見いだしてきた仕事のスタイル、信念のようなものを若い人たちに繋ぎきれていないもどかしさみたいなものも感じたりします。

グラン・トリノはウォルトの信念を表した象徴。
これもヴィンテージと呼ばれるようになって久しい古い車ですが、いつも彼は丁寧に整備し、ピカピカに磨き上げています。
大事に大事に。
グラン・トリノは彼にとって錆びることのない、自分の生き方、信念と同じようなものとなっているからでしょう。
ウォルトは自分の老い先が短いことを知ります。
そしてその信念を受け継いでくれそうな若者タオと出会います。
自分の信念を継いでもらう相手というのは、血がつながっているとかいないとか、男だとか女だとか、人種が同じだとか違うとかは関係ないのですよね。
自分の生き方にシンパシーを感じてくれる若い世代に出会えるということ、それは自分がこの世に存在したという証をを感じられることなのかもしれません。
そういう相手に出会え、そして自分が大切にしてきた想いを伝えられるということこそが、人として幸せなのかもしれません。
ウォルトはタオに出会えて、自分の信念、そしてその象徴であるグラン・トリノを、彼に託すことができました。
あの結末は彼にとっては悲劇ではなく、信じてきたものを受け継いでくれる若者を守ることができたという、彼としては満足できる幕引きであったのだと思います。
自分も自分の信念を受け継いでくれる若い世代を育てられたらいいなあと感じました。

「チェンジリング」もすばらしかったですが、本作もとても良い作品でした。
クリント・イーストウッドは監督としても俳優としても、どこまで高みに上っていくのかという感じがします。
劇中のウォルトはまさにクリント・イーストウッドそのものといった感じがしました。

クリント・イーストウッド作品「チェンジリング」の記事はこちら→
クリント・イーストウッド作品「父親たちの星条旗」の記事はこちら→
クリント・イーストウッド作品「硫黄島からの手紙」の記事はこちら→

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2009年4月 5日 (日)

「シュリ」 文化の力

こちらの作品「シュリ」は僕が初めて劇場で観た韓国映画です。
日本で公開されたのが2000年(制作されたのは1999年)ですから、もう10年も経ったんですね。
考えてみればこの10年で日本と韓国の関係というのも劇的に変わったように思えます。
それまでは互いの国民感情というのは、あまり良くはなかったような気がします。
韓国の人はなんだか日本のことが嫌いなようだし、だから日本の人も韓国のことをあまり好意的には思っていなかったと思います。
僕個人の気持ちとしては好きとか嫌いとかではなく、隣の国なのにあまり感心がなかったというのに近いかもしれません。
でも日韓ワールドカップの開催が決まったりするようなところから変化の兆しがありました。
ワールドカップの開催が決まったときも、これを契機に相互交流を、という話がでましたが、正直難しいのではないかと思っていました。
長年積み重ねてきた国民感情というのは、なかなか一朝一夕にそんなイベントでは変わらないのではないかと。
でも今思えばそれをきっかけにして、スポーツや文化等の一般レベルの交流が始まって、確実に両国の関係は良い方に変わったと思います。
そういう意味では映画も大きな役割を担ったのではないでしょうか。
韓国のテレビドラマをきっかけに「韓流」という言葉が出てきたのは2003年頃からでしたが、それよりも先に韓国映画の実力というのを見せたのが本作「シュリ」だったと思います。
それまではまったく韓国映画が大きく取り上げられることはありませんでした。
僕も「シュリ」を観た時はけっこう衝撃を受けた覚えがあります。
その頃はアジアの映画と言えば、香港映画、せいぜい台湾映画くらいしか観たことがありませんでした。
初めて「シュリ」を観た時、アメリカ映画のようなアクションに仰天しました。
また南北問題というかなりハードなテーマを扱っていながらもエンターテイメント作品として成立させているということにも驚きました。
アジア映画でこれほどのことができるのかと。
邦画でも大規模なアクションとなるとハリウッドには遠く及ばないというイメージがあったのに、隣国の韓国がこれほどの作品を作ったのだと。
なんとなくとっつきにくい国というイメージがあった韓国の印象が変わりました。
とっつきにくいという気持ちの本当のところは「よく彼らのことを知らない」ということだったのですね。
改めて今「シュリ」を見直してみると、脚本や構成、編集でかなり突然感のあるようなところがいくつかあることに気づきます。
でも当時はそのようなところを気にならないくらいの衝撃を受けました。
「シュリ」をきっかけにいくつも韓国映画が日本でも公開されることになり、それらを観れば観るほど彼らの国民性みたいなものがわかり、親しみのようなものが強くなっていきました。
同じ頃、韓国でも日本の映画や音楽が公開されるようになり、日本への印象が変わっていった時期でした。
以前は民間の文化交流くらいで国民感情なんてものが変わるわけがないと思っていました。
けれどこの10年は着実にその交流によって、両者の意識が変わってきたような気がします。
お互いに知るようになれば、次第に気持ちは近くなっていきます。
やはり文化の力は強いのですよね。

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本 「自転車入門 -晴れた日はスポーツバイクに乗って-」

数年前は一時期自転車に凝っていて、休日の度によく乗りにいっていました。
その頃は川崎に住んでいたので、多摩川沿いのサイクリングロードとかに行きました。
がんばったときは日に100キロぐらい走っていた頃もあります。
自転車に乗って加速していくとき、これはとても気持ちがいい。
足に力を入れるたびにどんどん速くなっていく。
この感覚がいいんですよね。
けっこう真面目に自転車に乗るとカロリーも消費するのですが、そのときの疲れも何だか心地良かったりもします。
でも最近はちょっとご無沙汰しているです・・・。
けれど段々暖かくなってきたので、これから自転車にはとてもいい季節になります。
久しぶりに今度乗ってみようかなあ。

さてこちらの本はタイトルに「入門」とあるように、自転車(ママチャリでなくていわゆるスポーツバイクね)に興味がある方への入門書になっています。
書いてあることはかなり基本的なことばかりなので、もう自転車によく載っている方にはちょっともの足りないところでしょう。
でも最近の健康への意識の高まりで自転車へ興味がある方も増えていると思います。
とはいえ自転車専門店に行くのはちょっと敷居が高そうと思っている方はまずこの本を読んでイメージを持つのもよいかもしれません。
今の季節、ちょうど自転車を始めるにはいい時期ですからね。

「自転車入門 -晴れた日はスポーツバイクに乗って」河村健吉著 中央公論新社 新書 ISBN978-4-12-101926-4

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2009年4月 4日 (土)

「ザ・バンク -堕ちた巨像-」 もう一ひねりほしい

原題は「The International」、こちらの方が内容にふさわしい感じがしました。
現在の世界の基本要素となっているのは国家(nation)という単位。
これはウェストファリア条約以降ヨーロッパで生まれた国民国家という概念をベースにしています。
つまりは今、僕たちがイメージする国家という概念はほんの4、500年前の生まれたものだということ。
この概念が永遠に続くわけでもないのかもしれません。
それこそ多国籍企業は国家という枠組みを越えて活動しているわけです。
一企業が倒産するかしないかで世界経済全体が浮き沈みをしてしまう現代、実はすでに国家を越えたインターナショナルな企業の方が影響力があるのかもしれません。
国家というものはある程度イデオロギーというものと関連づけられます。
自由主義とか社会主義とかいったものですね。
企業の行動原理の基準となるのは、基本的に利益になります。
そこが国家と企業が異なる点です。
企業が国家を越えた影響力を持つようになったら、社会の仕組みは今までと違ったものになるでしょう。
というより既に企業の影響度はとても大きく、だからこそ社会貢献といったものも求められるようになってきているのでしょう。
その企業が利益のみを追い続け、倫理観を失ってしまったら、ということを本作はテーマにしています。

トム・ティクヴァはクセのある監督という印象があります。
「ラン・ローラ・ラン」は好き。
「パフューム」は嫌い。
そのクセの強さからか、自分の中でも作品によって好き嫌いの触れ幅が広い監督です。
そういう点から観ると、本作はトム・ティクヴァらしくなく、クセがありません。
事前に知らなかったら彼の作品だとも思わなかったかもしれません(音楽はらしさが出てましたが)。
この監督は器用な職人監督みたくなってほしくないです。
そもそもこういう題材を選ぶところからして彼らしくないような気がするのですけれど。
上に書いたようにテーマとしては興味深いものを扱っているように見えたのですが、なにぶんあまりサスペンス性みたいなものは薄いように思えました。
「企業の陰謀」の中身が早々にわかってしまうからかもしれません。
部分的にはおもしろいところもありましたが。
美術館での銃撃戦のシーンはアクションとしても見応えありましたし、追う側と追われる側が共闘するなんてところもなかなかひねりがありました。
またIBBCの顧問をやっている元東ドイツ秘密警察大佐の背景などもそれだけで深堀できるような設定だったと思います。
ただいかんせん部分部分でしか、そのおもしろさというものが感じられません。
ナオミ・ワッツが演じているFBIの相棒のほうはいまいちキャラクターとしては効いていない感じもありました。
脚本をもっと一ひねりすればもっとおもしろくなるような気がしたので、ちょっともったいないような気がしました。

トム・ティクヴァ監督作品「パヒューム ある人殺しの物語」の記事はこちら→
トム・ティクヴァ監督作品「ラン・ローラ・ラン」の記事はこちら→

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「フィッシュストーリー」 想いはいつか誰かに届く

「アヒルと鴨のコインロッカー」と同じく、伊坂幸太郎さん原作、中村義洋さん監督の本作「フィッシュストーリー」を観てきました。
「アヒルと鴨のコインロッカー」は好きな作品なので、期待大でした。
過去と現在が絡まりながら描かれ、これらがどのように収まるんだろうと思わせ、最後にピタリとピースが嵌る感じは「アヒルと鴨のコインロッカー」を思わせるようなところがありました。
本作は「アヒルと鴨のコインロッカー」のようなびっくりするような種明かしというわけではないのですが、最後にちゃんとジグゾーパズルが完成するような気持ちよさはあります。
「フィッシュストーリー」の方がよりおとぎ話的というかファンタジー的なところがあるように思いますが、観終わった後のなにか切ないような、そして希望が見えるような、観後感は共通していたような気がします。
これは中村監督の持ち味なんでしょうね。
こういうテイストは好きです。

バタフライ効果を思わせるような、過去の些細な出来事が、ゆくゆくは人類を救うことに繋がっていきます。
些細な出来事とは、音楽に情熱をかけるバンドメンバーのささやかな想いと現状に対する抵抗がこめられたパンクロック。
彼らが曲に込めた想いはすぐには誰にも伝わらない。
けれどいつかはその想いは誰かに届くと思って彼らは演奏しました。
目先の結果がすぐにでないと、人は自分がやっていることがとても無意味に思えてしまいます。
だから段々と人は現状を打破する気持ちを失って、長いものに巻かれていくようになってしまいます。
けれど厳しい現状だと諦めてしまっては、個々の人にも、人類にも未来はなくなってしまうのかもしれません。
レコード会社に首を言い渡されそうになろうとも、歌いたい曲を演奏した「逆鱗」のメンバーの勇気。
臆病でいつも逃げてばかりいた雅史が運命の女性と出会った時に振り絞った勇気。
シージャッカーに撃たれても正義を貫こうとする瀬川の勇気。
曲に込めた想いと勇気はその形を変えながら、さまざまな人に伝わり、また勇気を生み出していきます。
些細な勇気は、いつかは誰かに伝わり、でも確実に大きな勇気に育っていく。
「フィッシュストーリー」というのは「ほら話」という意味だったんですね。
知らなかったです。
とてもおとぎ話的な「ほら話」でしたが、勇気と希望を与えてくれる「ほら話」でした。

伊坂幸太郎原作、中村義洋監督作品「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→

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