「レイチェルの結婚」 愛情と鬱陶しさと
家族っていうのは、近しいからこそ、なにかもどかしい存在であったりするものです。
バックマン家は長女レイチェルの結婚を迎えようとしていました。
あわせて次女キムは麻薬中毒の治療の施設から家に戻ってきます。
キムを迎えるのは姉レイチェルと父親ポール。
母親アビーは父親とずいぶん前に離婚し、家を出ていて、互いに再婚しています。
久しぶりに会ったにも関わらず、キムもレイチェルも、そしてポールも互いに何か気持ちがすれ違っています。
赤の他人よりも、家族というのは気持ちのすれちがいというのは起こりやすいような気がします。
他人であればしっかりと丁寧に自分が思うことというのを主張することもできるでしょう。
また逆に所詮他人と、割り切った付き合いをしてしまうこともできるでしょう。
けれども家族というのはそういうわけにもいきません。
たぶん互いに自分のことは話さなくてもわかってくれるだろうと思う、家族ならではの甘えもあると思います。
また近くにいるからこそ、ずけずけとした物言いもしにくいと遠慮というのもあります。
なによりも家族だからこそ、自然にある愛情(家族を愛するという気持ちと、愛されたいという気持ちと)というものがあるわけで、離れたままでもいられないわけです。
そのような家族ならではの甘え、遠慮、また愛情みたいなものが、バックマン家の家族には見えます。
家族というのは、互いに反抗する心と、許し合う心というアンビバレントな心情を持っているものなのかもしれません。
次女キムは10代の頃、麻薬を使っていたときの不注意で、幼い弟を死なせてしまいます。
彼女はそれにずっと罪の意識を感じています。
キムは家族も心の奥底ではずっとそのことで自分を責めていると思っています。
だから家族に対して反抗的であり、またそれでも家族の愛情と許しを求めてしまうのです。
長女レイチェルは、そんなキムのことをずっと心配し、また両親たちに気を使い、いい子であろうとしてきたのでしょう。
でもいい子であるが故に、特に父親が問題児であるキムのことばかりを心配しているのが、ずっと心の中にしこりとなっています。
父親ポールはキムを心配するあまりに彼女に対して過保護のような状態になっています。
それは保護をするという父親としての優しさもあるかもしれませんが、問題児であるキムが信用できず目をはなせられないということもあるように思われます。
実母アビーは、娘たち夫をおいてバックマン家から逃げ出してしまったいうような負い目があるように感じました。
だから彼女は娘の結婚を祝福したいという気持ちもありながらも、なにか遠慮がちです。
キムにも一定の距離感をとろうとしているようにも思えます。
家族が互いに感じる愛情と、鬱陶しさみたいなアンビバレントな気持ちが伝わってきました。
これはたぶんどなたも少なからず感じる気持ちだと思います。
映画ではそのような家族それぞれのグラグラと揺れている気持ちというのが、何か解決をするというわけではありません。
レイチェルの結婚の前後の数日を描き、そして家族はまた自分の居場所に戻っていきます。
たぶん家族というのはこうやって日々の生活の中で自分と家族の気持ちに折り合いをつけながら生きていくものなのかもしれません。
愛情と鬱陶しさを感じながら。
アメリカ映画らしくない題材な感じがしました。
なんだか山田洋次さんあたりが撮っても変じゃない感じだと思いました。
アメリカでも日本でも、家族っていうものがお互いに持つ気持ちっていうのはそんなに変わらないものなのかもしれないですね。
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