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2009年3月31日 (火)

本 「アイの物語」

ヒトが衰退し、それに代わってマシンが地球を支配している未来。
ヒトは小さなコロニーを作り、マシンから食料を奪って生活をしています。
そのコロニーを巡りながら、ヒトの作った物語を収拾している青年。
彼は旅の途中で、アイビスと名乗る女性型アンドロイドに捕まります。
アイビスは、彼にヒトが作った、ロボットとヒトの物語を語り始めます。

山本弘さんが自身の短編を、インターミッションを挿入して一つの物語としてまとめた作品です。
それぞれの短編の内容も個別にとてもおもしろいですが、連結された全体としての作品としてもとても良い読み心地でした。
古くからヒトとロボットの関係というのは、SFで取り上げられていました。
当初はヒトの命令を聞く召使いというイメージでしたが、コンピューターの発達に伴いその頭脳は人間を凌駕するというような内容の物語が多くなります。
そういう中で、ロボットは反乱を起こしいつかヒトを支配するという物語(「ターミネーター」や「ブレードランナー」等)という話、逆にヒトとロボットが共存する物語(「鉄腕アトム」とか)が作られています。
なぜかヒトはロボット(特にヒトの形をしたもの)に対し、不思議な感情を持つような気がします。
それは自分に似た姿のものに対しての愛情だったりもしますし、憎悪だったりもします。
この作品に登場するロボットが語っているように、似姿の存在に対してのそのような感情は、実はロボットに、ヒト自身を投影して観ているような気がします。
ロボットは論理的であり、その点においては完璧です。
対してヒトはあまりに非論理的で、場当たり的であったりします。
人々が安心して暮らすためには戦争等しない方がいいと論理的には誰しも考えますが、世界で戦争が絶えたことはない。
それは何故か、ということをロボットたちは語ります。
似ているが異なる存在というのをヒトは嫌います。
人種であったり身分であったり、それが争いのもとでした。
それが不条理であるのは知っている。
けれど争うことは止められない。
その争いを越えることができる意識とは、異なるものを許容できるということなのでしょう。
ロボットとヒト、似ているけれども異なる存在。
互いに存在していくためには許容することが大事。
本作はSFですので、ロボットとヒトの間の許容という話になっていますが、これはヒトの間でも言えることでしょう。
悲しく淋しくもありながら、なにか希望の残る物語で、非常に読後感が良かったです。
お薦めの作品です。

山本弘さん作品「MM9」の記事はこちら→

「アイの物語」山本弘著 角川書店 ハードカバー ISBN4-04-873621-3

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「釣りキチ三平」 イワナに乗った少年

今日は「釣りバカ日誌」じゃなかった、「釣りキチ三平」を観てきました。
原作の漫画は1973年から「少年マガジン」に連載されていました。
このあたりは小学生でちょうど少年漫画誌を読んでいた時期であったので、まさに「釣りキチ三平」はリアルタイム世代です。
映画の方で描かれていた「夜泣谷の怪物」のエピソードも覚えていました。
ただ読んではいましたが、それほど熱心な読者ではなかったように思います。
それは漫画がおもしろくなかったということではなく、単に釣りにそれほど興味を覚えなかったから。
子供心に釣りのような根気・練習のいるスポーツは自分には向かないとわかっていたからでしょうか。

ですので、あの名作を映画化といった惹句にもさほどひかれなかったのですが、やはり監督があの「おくりびと」の滝田洋二郎さんですから、とりあえず観ておこうと思ったわけです。
滝田監督はそれほど強い個性を押し出すタイプじゃない監督の印象がありますが、本作もやはりそういう感じがします。
どちらかというと淡々と作業をするかように撮ってしまったという印象です。
こだわりのデザイナーズ・ハウスというのではなく、建て売り住宅みたいな感じといったところです。
脚本のストーリー展開も、俳優の演技も、画面の作り方も、どれも標準的な感じがして、それほど強い印象を持ちません。
魚の映像については、「白組」が力をいれてCGで作ったようですが、これはまだピチピチとした魚を描ききれるほどではありません。
どうも作り物めいてしまっています。
漫画の方がもっともっと魚の躍動感が出ていたと思うのですけれど。
強い生命力を持った巨大イワナと、三平の戦いが、この物語のクライマックスですから、これがきちんと描けてないとどうも興ざめになってしまいます。
そのラストが三平がイワナにまたがっての捕獲ですから、どうも画として観ていると現実味がなさすぎていけません。
脚本としても奇をてらったものではなくオーソドックスな内容ですから、もっとコンパクトにできたような気がします。
この物語で2時間はちょっと長いかなあ。
もっと映像的に見所があれば印象が違ったのかもしれませんが。
名作漫画を映画化と言った割には、非常に淡白な作りで、印象に残りにくい作品となってしまいました。

滝田洋二郎監督「おくりびと」の記事はこちら→

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「BONES シーズン1」 もの言わぬ証人

「LOST」以来、アメリカのドラマをよく観るようになりました。
こちらの「BONES」もその一つです。
「BONES」は主人公の女性法人類学者テンペランス・ブレナンのあだ名です。
彼女はFBIの捜査をサポートしていて、事件現場に残された遺体の”骨”から、事件に関わる証拠を見つけることができるのです。
そのため「BONES」と呼ばれているのです。
物語は基本的には一話完結式のいわゆる捜査もの。
「骨」から証拠を集めていくという捜査を扱った物語でシリーズができるほどの話ができるのかと思っていましたが、いやいやいろいろな切り口で物語を作っています。
「骨」がまさにものを言わぬ証人で、誰も解することができないその言葉をブレナン博士がその知識で読み解いていくところがこのシリーズのおもしろさとなっています。

ブレナンのキャラクター造形が、なかなかおもしろい。
彼女は幼い頃に両親に失踪され、里子として育てられました。
両親に対する愛情、裏切られたような気持ちを持って育ったためか、そういう感情を抑えることが彼女の性癖となっています。
すべての物事を理性的に観ようとするので、相手とうまくぶつかることもしばしば。
見かけは美人なのに、事件現場では骨とそれを読み取る論理にしか興味がないような感じで、一種の変人のようなところもあります。
周囲にいてブレナンを知っている人々は、実は彼女が感情豊かであることを知っています。
不器用でそれを上手く表現できないということを。
彼女とパートナーを組むのが、FBI捜査官のブース。
彼は典型的アメリカ人男性という趣、つまりはアメリカの視聴者からすれば自分たちに最も近い人物と言えるでしょう(ブレナンの同僚はみんなオタクチックなので)。
彼は行動力もあり、それで人としての情も豊か、そして敬虔深い(ブレナンは宗教は人類学的な興味の対象でしかなく、その信義はまったく信じていない)。
まったくブレナンとは真逆の人物として描かれていています。
推理もののバディというのは、基本的に違ったタイプの組み合わせが多いので、これはその典型と言えるでしょう。
そのためブレナンとブースは対立することも多いですが、互いに認めあっている信頼があり、また男女の愛情めいたものもあるように見えます。

先に書いたようにブレナンの両親は失踪しているのですが、シーズン1のラストでそのことに関わる事件が発生します。
シーズン2はそのあたりの話を軸にしていくのでしょうか。

「BONES シーズン2」の記事はこちら→
「BONES シーズン3」の記事はこちら→
「BONES シーズン4」の記事はこちら→

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2009年3月29日 (日)

「ギャラクティカ シーズン2」 行く先、やや迷走気味?

「ギャラクティカ シーズン2」、やっと見終えました(ビデオだとタイトルは「ギャラクティカ」ですが、スーパードラマTVだと「バトルスター・ギャラクティカ」なんですよね)。
シーズン1のラストはけっこう衝撃的でした。
人類の敵となるサイロンに人型がいるのはシーズン1当初より描かれていましたが、そのサイロンの人型タイプの一つがギャラクティカの女性パイロット、ブーマーであり、彼女がアダマ艦長を撃ったところでシーズン1は終わりました。
シーズン1は謎の存在であり、また圧倒的な戦力差があるサイロンに対して、いかに人類が生き延びるかというサバイバル劇でありました。
宇宙船同士のドッグファイト等特撮シーンにテレビドラマとは思えないほどのクオリティがあり、見応えがありました。
シーズン2は対サイロンとの戦いを描くSFというよりも、どちらかというと人類の艦隊内部の政争のようなポリティカル・サスペンスのような様相になってきました。
政府を引っ張るロズリン大統領と、軍を代表するアダマ艦長の意見の相違。
途中で合流する旗艦ペガサスを率いるケイン提督とアダマの対立。
またロズリンと、彼女を補佐するはずの副大統領ヴァルターは後半、大統領の座を奪い合います。
ややドロドロとした政争劇に、シーズン1を観た後だとやや面食らう感もありました。
またサイロンの目的も次第に明らかになっていきます。
サイロンはロボットであり、死んでもデータさえバックアップがあれば再生できます。
つまりはほぼ無限に戦力が補充されるわけです。
けれども彼らは、なぜか文字通り「産む」ということに執着を示します。
それは単純なコピーではなく、まさに人類のように「産む」という行為への執着です。
それこそが戦いの目的であるように見えます。
その意図はまだ明らかになっていません。
シーズン2ではサイロンと人類の間に子供が生まれます。

シーズン2はどうもキャラクターの人間の描き方のぶれ幅がやや大きかったように感じました。
特にリーなどはそれが如実に表れていたように思えます。
リーが好意を持っている女性が、回ごとに違っていたりするようなところ、どうもキャラクターの描き方が甘いのか突然感があります。
このあたり、シーズンを通して一貫性みたいなものが保たれていないと、やや物語に入り込みにくくなっているような気がします。
特に一話完結方式でない本作のような場合は。
人物だけでなく、設定に関しても、場当たり的な展開もやや見えます。
シーズン1を通して描かれていたロズリンの死期が迫っているということもあっさりと解決してしまいますし、地球へ行くという目的すらシーズン2ではやや薄らいでいるように思えます。
アメリカドラマにありがちの(「少年ジャンプ」の人気漫画もそうですが)でも、シーズンをひっぱるための無理無理感がやや出てきているのが心配なところ。
ギャラクティカの行き先同様、ストーリーもやや迷走気味な感じがします。

本シーズンラストで、曲がりなりにも人類は安住の地を得ますが、それも安泰ではない様子です。
シーズン3も既にスーパードラマTVでは始まっているので、こちらもキャッチアップしていきたいと重います。

「ギャラクティカ シーズン1」の記事はこちら→
「ギャラクティカ シーズン3」の記事はこちら→

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「フロスト×ニクソン」 言葉の拳闘

昨日観た「ウォッチメン」にもニクソンが出てましたが、こちらの作品「フロスト×ニクソン」はタイトルにもあるようにニクソンと、彼にインタビューを行ったフロストが主人公になります。
ニクソンと言えば、ウォーターゲート事件がまずは頭に浮かびますが、中国との国交正常化を行ったり、ベトナム戦争から撤退したり等の業績も大きい政治家です。
なんとなくロッキード事件で逮捕された日本の田中角栄氏とイメージがかぶるんですよね。
同じ時期に国のトップでしたし、ともに中国国交正常化を行ったけれども、その後、疑惑のためにその地位を降りたというところも同じで因縁めいたものも感じます。
フロストという人物についてはまったく知らず、予備知識ゼロでした。
本作で描かれるインタビューは、アメリカでは伝説的らしいですが、そういうことがあったのもまったく知りませんでした。

二人の間の合計4回に渡るインタビューは、まさに決闘といった感じがしました。
決闘というより拳闘(ボクシング)の試合を見ているようでした。
1ラウンド目は、若き挑戦者が先制パンチを食らわせたけれど、その後はベテランの絶え間ないパンチを浴びているようなイメージ。
日本の政治家がテレビ番組に出て話をしているとき、いつもイライラするのです。
質問をはぐらかしたり、自分が言いたいことの方に勝手に解釈をしてダラダラと話すところが、その原因。
これはアメリカでも変わらないようですね。
本作のニクソンの話を聞いていると、途中で口が挟みにくい話し方をしているんですよね。
センテンスが終わるときに息継ぎをせず、そのまま話し続け、途中で息継ぎをするようなイメージ。
普通、口を挟む時は、センテンスとセンテンスの間を狙いますから、これは非常にインタビュアーはやりずらそうな話し方です。
これも彼が長い政治生活で身につけたスキルなのでしょうか。
フロストVSニクソンのインタビューという名の試合は、2ラウンド、3ラウンドとともにニクソンの圧勝に終わります。
まさにフロストは手も足も出せない状態になっていました。

最終ラウンドの前に、フロストは思いもかけぬニクソンからの電話を受けます。
これは多分にフィクションだと思われますが、その後のフロストの大逆転に繋がる彼ら二人の生き方というものを表している会話になっています。
ニクソンもフロストも、片や政治の世界、片やショービズの世界で、長年生き残りをかけた戦いを続けてきました。
彼らが考えてきたことは、勝ち上がっていくということです。
まさに永遠に続くトーナメント戦を戦い続けてきたという感じがします。
もともと彼らはそれぞれの世界で生きることを決めたとき、目標や夢のようなものがあったことでしょう。
けれども、延々と続く戦いの中で、いつしかその目標が、勝ち残ることに変わっていってしまったのかもしれません。
特にニクソンは政治家を志した限りは最初は国民のためという気持ちがなかったわけはありません。
しかしいつしか国民というものが目に入らなくなってしまっていました。
フロストがニクソンに「過ち(ウォーターゲート事件のこと)」について「国民に対しては?」と質問します。
これは「国民に対して謝罪の意志はあるのか?」という意味です。
そのときニクソンの答えまでしばらく間があきます。
ニクソンは、その質問によってもともと持っていた「国民のため」の職務についていた意味を、改めて思ったのだと思います。
自身が生き残らねばという強迫観念にも似た意識によって、心の隅に追いやられていた理想がそのときまたクローズアップされたのです。
そのとき大柄に描かれていたニクソンの体すら、小さく縮んだように見えました。

ロン・ハワード監督は実話をベースにした物語がとてもうまいですよね。
実話がもつリアリティのある力強さと、フィクションのもつ物語性みたいなものをうまく融合させるのが、うまいような気がします。
「天使と悪魔」もほどなく公開ですが、こちらの出来はいかがでしょうか?

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2009年3月28日 (土)

本 「レキオス」

先日読んだ「テンペスト」が思いのほかおもしろかったので、同じ池上永一さんの作品「レキオス」を読んでみました。
「思いのほか」というのはたいへん失礼な言い方なのですが、ずいぶん前に読んだ「シャングリ・ラ」がどうも合わなかったので、池上さんの作品はちょっと避けていたのです。
「レキオス」が単行本で出たのは2000年なので、「シャングリ・ラ」よりもずっと前ということになります。
読んでみましたが、やはり合わなかった・・・。
この方の作品のキャラクター造形が肌に合わないような感じがします。
なんというかとてもカリカチュアされたようなキャラクターが多く、どうも実在するようなリアル感がありません。
フィクションなので「実在するような」というのは変かもしれないですが、なんだか深みがないような気がします。
それを醸し出している要素はいろいろあると思いますが、自分としては台詞回しがかなり大きな比重を占めているような気がします。
「・・・なのよーっ」
「・・・くすくす」
といったような台詞回しは、アニメや漫画では違和感はないのですが、小説で書かれると、実在感のある人がしゃべっているよにどうにも思えず、安っぽい印象を感じます。
これは「シャングリ・ラ」でも感じたことでした。
「テンペスト」では多少感じつつも、違和感まではいかなかったので、最近はちょっと変わってきているのかもしれませんが。
あとストーリー展開も、いろいろな要素をかなり盛り込み、大風呂敷を広げて破綻寸前のような危うさを感じます。
解説を読むと、池上さんはあまり構成をしっかり組み立てるタイプではなく、書きながら物語を紡ぎだしていくタイプのようですね。
後者のタイプは物語に勢いが出るので、そういうものは感じますが、荒唐無稽の一歩手前でなんとか踏みとどまっているといった感じがします。
なにか作り物めいた(フィクションなので当然なのですが)感触というのが、読んでいて最後まで払拭できませんでした。
このあたりの感触がいまいち苦手なのです。
たぶんこの感触が好きな人も多いのでしょうけれど、僕はちょっと合いません。
「テンペスト」で苦手意識がなくなったのですが、また強くなってしまいました。

池上永一作品「テンペスト」の記事はこちら→

「レキオス」池上永一著 角川書店 文庫 ISBN4-04-364702-6

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「ウォッチメン」 風刺・比喩・象徴に富んだ異色ヒーローストーリー

しかし、よくぞこんなにカルトなファンが喜びそうな濃い作品を堂々と作ったなあ。
自分のようなヒーロー好きにはいいけど、一般受けはしそうもないのでちょっと心配。
「ダークナイト」ですら興行的にふるわなかった日本では厳しいのではないかしらん。

けれども「ウォッチメン」は一見ただのダークヒーローもののように見えるけれども、実はかなり奥が深い。
細かな映像・造形・音楽の中に、はたまたストーリーの中に、過去のヒーローものにいうに及ばず様々な映画作品に関する、記号やモチーフに溢れていています。
それはパロディ的な軽いものから、とても深い比喩みたいなものがあります。
例えば、この物語に登場するヒーローは過去のヒーローのイメージを引用してきているものがあります。
「ナイトオウル」は明らかに「バットマン」ですし、「シルク・スペクター」は「ワンダー・ウーマン」あたりでしょう。
「オジマンティアス」は「スーパーマン」「ザ・フラッシュ」的なヒーローのイメージを集約したもののように見えます。
これは「ウォッチマン」と同じ版元であるDCコミックの作品なので、外見上のイメージもキャラクター性もがかなり直接的に反映されていました。
あと「ロールシャッハ」は「ダークマン」、「DR.マンハッタン」は「シルバーサーファー」あたりのイメージでしょうか。
また小ネタ的には、本作でヒーロー(誰だか忘れた)が記者会見する場面に女性カメラマンがちらっと出てきたのですが、この人の衣装はティム・バートンの「バットマン」に登場する女性カメラマン、ビッキー・ベール(キム・ベイジンガー)の衣装とそっくりに見えました。
また映画に限らず、歴史や政治などに関する明らかな比喩、または隠喩があって、それらについては一度観ただけではすべてチェックするのは難しいような気がします。
「DR.マンハッタン」というのはその名前からも連想されるように(アメリカの核爆弾開発計画は「マンハッタン計画」と呼ばれた)、核エネルギーそして世界を支配する力を象徴した存在となっています。
タイトルにある監視者(WATCHMEN)と挿入される時計(WATCH)なども象徴的にリンクされていました。
そういう様々な意味で「濃い作品」であり、掘り下げようと思うととことんまで掘り下げられそうなところがあり、カルト的であるような気がします。

ただ濃いのはそのような点だけではなく、アメリカという国のものの考え方というのを痛烈に風刺しているように思われるところです。

「ヒーローは何のために戦うのか?」
その問いに対する、多くの答えは「正義」のためでしょう。
それでは「正義とは何なのか?」
これに日本人でぴしっと答えられる人は少ないのではないのでしょうか。
日本人は先の戦争で「国のために戦う」ことが必ずしも「正義」ではないと思い知らされました。
だから「正義」が単純に「国家」と結びつくような答え方をする人はあまり今の日本人は多くはないと思います。
なので日本のヒーローは、「平和のため」「人類のため」といった国家よりも高次でちょっと曖昧な概念(というか理念)のために戦うのです。
また日本のヒーローは攻撃・侵略してくる敵に対し、「人を守る」ために戦うのであり、あくまで「専守防衛」なのです。
このあたり日本人の考え方というのが反映されているのかもしれません。
それは日本人に限らずそうじゃないのかということになるかもしれませんが、アメリカはちょっと違うようです。
先日、映画のブログ仲間のみなさんと呑んだときに、第二次世界大戦中のアメリカの戦意高揚のためのプロパガンダ映画の話になりました。
そのとき聞いて驚いたのは、そのプロパガンダ映画でスーパーマンが日本の港まで出張(?)してきて戦艦と戦う話があるということでした。
もともとは日本に来ていたロイズを救うためだったらしいのですが、ロイズを救った後もスーパーマンは日本に残って戦っていたいうことです。
まず驚いたのが、アメリカを代表するヒーローが「一国家のために働く」ということです。
これは日本のヒーローではまずありえません。
日本とアメリカのヒーローは何か大きな違いがあるように感じます。
ヒーローは「正義のために戦う」。
そこは日本もアメリカも同じ。
違うのは、「正義」とは何か、なのです。
アメリカの「正義」は「国家」と強く結びついています。
アメリカが行うことがつまりは「正義」という意識が少なからず、彼の国にはあるように思います。
「世界の警察」という言葉がありましたが、まさにそういう意識があった(ある)のでしょう。
つまり「ウォッチメン」の舞台が冷戦まっただ中の世界であるというのはとても意味があることで、その理由はこのときアメリカという国が世界で最も明白で強いプレゼンスがあったときだからなのです。
この時は「アメリカの正義」が他の国(当然西側諸国)にとっても「正しい」ことであったのです。
当時西側では、敵=共産主義という意識が強く、そのリーダーと言える国がアメリカでした。
そのアメリカという国家にヒーローも管理され、そのために働かされているのが「ウォッチメン」の世界です。
けれどもそのような「アメリカの正義」が歪んだものであることが、この作品の中で明らかになっていきます。
まさにこれは今、現在、世界の人々が「アメリカの正義」が必ずしも「正しい」とは限らないと思い始めていることを表しています。
本作に登場するヒーローたちは様々な概念を表した存在となっています。
「ナイトオウル」は、日本のヒーローにも通じるところがあるような最もわかりやすい「正義」を象徴してといます。
また「シルク・スペクター」が表しているのは「愛」でしょう。
対して「コメディアン」はあからさまに「アメリカの正義」の象徴になっています。
彼のベトナム戦争の行為というのが、まさにそれを表しています。
本作がスゴいのは、「アメリカの正義」の象徴であるヒーローが残客非道なことを行うということ。
それは「アメリカの正義」というものが何か歪んだものであるということを表そうとしているように思えます。
つまりイラク戦争(古くはやはり「ベトナム戦争」なのだろうか)以降、当のアメリカでさえ「アメリカの正義」に対しての疑問が出てきています。
けれどもアメリカ人において、まだアメリカという国家は必ず「正義を行う」ものであるという認識にいる人は多いと思います。
そういう人にとって「コメディアン」というキャラクターの存在はショッキングであろうと想像できます。
また「オジマンティアス」の行為というのは、今の世界の枠組みを変えるにはかなりの荒療治をするしかないという考え方を表していると思います。
平和のためには犠牲やむなしという考え方は、ややもするととても危険なところにいってしまう可能性があり、観る人が感じる彼に対する危うさというのはそのようなところからきているのでしょう。
「ロールシャッハ」の結末は、個々の案件の「正義」では、全体の「正義」は達成できないと言われているようなところもありやや悲しい気持ちにもさせられます。
とはいえ、このような映画をアメリカが作るというのもやはりあの国が懐が深いと思うというところでもあります。

このように深読みしようとすればとことんできる作品であるなというのが、本作の印象でした。
ということでこの作品は、やはり非常にマニアックであり、一般受けはやはり厳しいのであろうなあという感じがします。
僕は好きですが。

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2009年3月22日 (日)

「宇宙戦争」 父親としての自覚の再生

先日原作の小説も読んだし、本作主演のトム・クルーズの「ワルキューレ」を観たし、本作でトムの息子役をやっているのは先日観た「DRAGONBALL EVOLUTION」で悟空役のジャスティン・チャットウィンだし、ということで久しぶりに「宇宙戦争」を観ました。
世間的には本作はあまり評判はよろしくないようですが、僕はけっこう好きであったりします。
たぶん評価しない意見としては、「インディペンデンス・デイ」のようなカタルシスがないということ(基本的に主人公レイは逃げているだけですから)、あと異星人が微生物にやられてしまう結末が安易だというようなところではないでしょうか。
原作を先日読みましたが、100年以上も前の作品とは思えないほどにSF的センスにあふれていて驚きました。
結末については原作とまったく同じであり、そこは安易というよりは、そもそもSF小説の元祖と言える作品をベースにしているわけで、他の作品が「宇宙戦争」の影響を受けていると言ったほうが正しかろうと思います。
余談ですが、このラストは、現在未開の地に分け入ったことによるエボラやAIDSなどの未知の病原菌の脅威に面してしまうということを予言しているようにも感じます。
映画はラストの展開は原作と同じですが、小説は100以上前のイギリスを舞台にしていて、映画は現代ですので、まったく同じストーリーではありません。
けれど小説へのオマージュがある場面もいくつかあり、このあたりは原作を読んでみて再度映画を観てみるとおもしろいです。
例えば、レイが奪った車を暴徒化した逃げる人々に奪われるシーンがありますが、原作ではこの場面は馬車を奪われそうになるというものでした(拳銃で威嚇するのも同じ)。
またフェリーに乗り込むところのパニックシーンもそうですし、あと地下室で見知らぬ男と対立する場面も原作にありました。

ただ本作は異星人との戦いを描くSF映画という捉え方をしないほうがいいような気がしてます。
ここが原作と映画が違うところだと思います。
異星人襲来は本作においては、レイ親子を危機的状況に陥らせるための道具立て以上のものではないと思います。
言ってしまえば、これは異星人襲来でなくてもよく、例えば地震とか台風とかいった自然災害でも実はストーリーの骨子にそれほど影響を与えません。
なので病原菌で異星人があっけなくやられてもそれは本質的には重要なことではありません。
台風が去っていってしまうようなものですから。
この映画は、失ってしまった親としての自覚を父親が取り戻す物語だと思います。
主人公レイは離婚した元妻に子供たちを預けている男です。
時々子供たちとは週末をいっしょに過ごすことになっていますが、お互いにそれを気まずいものとしてとらえていることがわかります。
けれども思いもよらぬ異星人襲来という状況の中で、子供たちを守りながら逃げていく中で次第にレイは親としての自覚を取り戻していきます。
異星人襲来という設定により、よく比較される「インディペンデンス・デイ」は英雄物語ですが、本作の狙いはヒーローを描くことではありません。
子供を是が非でも守りたいと思う親は、人類を救うためというお題目で絶対的に強大な敵との戦いに飛び込むよりは、自分の子供を守りながら脅威から逃げまくることを考えるはずです。
彼が戦うのは子供に脅威を与える状況になった時の目の前の相手。
人類を救うといったようなある種きれいごとの目的のためでなく、我が子のために戦うというところが僕はとても共感できるのです。
だから逃げてばかりでカタルシスがないという点は、あまりこの作品を評価するポイントではないような気がしています。
子供を守るために、どんなになっても必死にがんばるという、父親の存在感が希薄化している現在ではあまりみられない、大きな存在感のある父親の姿というものを感じる映画だと思います。

原作小説「宇宙戦争」の記事はこちら→

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「パッセンジャーズ」 映画はシナリオが命

公開館が少ないながらも、予告を観たらけっこうおもしろそうな感じを受けたので、行ってきました。
のっけからで申し訳ないのですが、その予感はまったく外れてしまいました。
あとこの記事はかなりネタばれを含みますので、観賞予定の方はお気をつけください。

あのシャマランを思わせるようなオチにするのであれば、やはり脚本の練り込み度が少ないように思われました。
最後のオチの衝撃度を増したいという意図はわからなくもないですが、それは綿密に構成されたシナリオがあってこそ。
後から見直せば、そこかしこにヒントが埋め込まれていてそれが最後のオチでパズルのピースがはまるように、収まるべきところに収まるというのが理想です。
また全体的なストーリーの雰囲気としてなんとなくこれはどちらの方向に向かっているというような示唆があったほうが観やすい。
それは観る者にある種の予感を抱かせるような感じと言っていいかもしれません。
その予感を上回った以上のラストのドンデン返しがあると観客は衝撃を受けるわけです。
本作においてはそのような予感を抱かせるようなことはありません。
というよりは物語の方向を別の方向に持っていっているような感じで惑乱させられたような印象があります。
航空会社の陰謀を扱ったような社会派なのか、心理サスペンスなのか、はたまたシャマラン風のスピリチュアルな方向なのか。
結果としては最後の方向であったのですが、どうも途中は意図的に別の方向へミスディレクションさせているような感じを受けました。
ですので最後の方は「え、こっちに行っちゃうの?」みたいな驚きがありましたが、これは「シックスセンス」で受けたような衝撃ではなく、どちらかというと「とまどい」のようなものでした。
あのラストはあまりそちらの方向性をあえて隠して最後に「実は・・・」というような後だしジャンケン的な感じを受けます。
これは観る側に対しての不誠実な印象を受けました。
本作は主人公クレアの視点だけで押し切った方が良かったような気がしています。
そうすれば観ている観客はクレアと同一の主観視点になり、彼女と同じ量の情報しか持たないわけで、オチについては不誠実さはなくなります。
この物語ではクレアの視点以外にも他の登場人物の視点が入ります。
ですので観ている者は、いわゆる俯瞰視点になるわけです。
その俯瞰視点で語られる物語というのは基本的には事実であることの方が観客に対して誠実です。
結局はそれらもすべて死後の世界(?)というか、生と死の間にある意識の中の話ということだったので、そのあたりの手法がどうも納得がいきませんでした。
あのラストに対しての衝撃度を産むために物語の方向性についてごまかしをしているような感じと言ってもいいかもしれません。
結局そこで受ける印象は「よくぞ騙してくれた」という感嘆ではなく、「ごまかしやがって」というような感じなのです。
あまりに見事に騙されるとそのテクニックに感心してしまいますが、中途半端だと逆にがっかりしてしまいます。
やはりこの手のラストのドンデン返しに賭けた作品というのは、そのシナリオのうまさというのがより際立って見えてしまうものなのですね。

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2009年3月20日 (金)

「DRAGONBALL EVOLUTION」 どこがEVOLUTION?

鳥山明さん原作の世界的にも超有名な漫画「ドラゴンボール」の実写映画化作品。
ちなみに漫画原作の連載が始まったのは1985年。
僕はその頃、高校生で「少年ジャンプ」はすでに卒業してしまっていたために、原作もほとんど読んだことがありませんので、原作に思い入れはありません。
それどころか「ジャンプ」にありがちなバトルもの、そして人気が続くかぎりそのバトルが延々と拡大再生産していく典型的な構造であるように見え、あまり食指が動きませんでした。
とはいえ、日本の人気漫画がアメリカで実写映画化ということで興味はありました。

ですが、かなり早くから劇場で流されていた予告篇を観ると、とてもヤバい臭いがしていて、とんでもない作品になっているような予感はありました。
そして公開直前の予告篇。
鳥山明さんのメッセージが入っていましたが、どうも原作とは関係ないものとして観てくれと言わんばかりのような内容で、よりいっそう不安感は高まりました。
というより、どれだけひどいか怖いものみたさみたいな気分になってきていました。
そのような状況でしたので、とてもハードルが低い気持ちで本作に挑んだのですが・・・。
そのハードルを更に下を低くいくような、あまりな出来でした。
原作に思い入れがないために、原作とはイメージが違うという気は毛頭ないのですが、そもそも映画としてのレベルがあまりにも低い。
だいたいひどい作品でもどこかしらいいところを見つけられるものなのですが、本作についてはどうにもそれが探し出せません。
制作者が何をこの作品でしたかったのかが、よくわかりません。
原作ものの場合、原作を再現するように忠実に作り込むアプローチもあれば、骨子だけ残し大胆にアレンジするアプローチがあります。
これはどちらが良い悪いではなく、そこには制作者の明確な意図があればそれが正解なのです。
けれども本作にはその意図が感じられない。
かなり作品世界は原作からアレンジしているように見えますが、そこで描かれる話やキャラクターは陳腐としか言いようのないものになっています。
わざわざ「ドラゴンボール」というタイトルをつけてやるような話には仕上がっていません。
アクションや映像も革新的なものを期待していたのですが、最近の並の作品のレベルには到底及ばず、B級C級の作品ぐらいの品質にしか見えません。
勘ぐった見方をしてしまえば「ドラゴンボール」という世界的なネームバリューを利用し、観客動員を狙っただけのようにも感じられます。
予告の鳥山明さんのメッセージを見る限り、日本サイドはあまりアメリカの制作にはタッチしなかった(できなかった?)ようですが、原作を大事にするならばチェックはしたほうがよかったのではないかと思います。
もしチェックをしていて、本作のような出来であったならば、その責は日本サイドにもあるでしょう。
先日観た「ヤッターマン」がオリジナルへのリスペクト、そして監督オリジナルの個性が出ていた作品だっただけに、超有名な作品の実写化ということでどうしても比べてしまいます。
タイトルに「EVOLUTION」とありますが、なんら進化したというものを感じることができず、残念な出来になっていました。

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「ワルキューレ」 計画を成功させるためには

本作「ワルキューレ」は実際に第二次世界大戦中にあったドイツ将校によるヒトラー暗殺計画<ワルキューレ作戦>を題材にしています。
ヒトラーはご存知のように連合軍の進撃を受け、最後はベルリンにて自決しているので、この作戦が失敗したということは観る前から明らかです。
この作戦をどのように物語るのかが興味がありました。
ブライアン・ジンガー監督なので、アクション映画のような感じに仕上げるのか。
それとも独裁者へ抵抗を試みる悲劇の男たち物語として描くのか。
実際の出来上がりを観てみると、そのいずれでもなく、第二次世界大戦の時代を描きながらも、実は今の時代の状況に通じるものがある作品のように思えました(狙ったわけでなく、偶然だと思いますが)。

計画というものは、いくら綿密に練ったとしてもそのとおりいくことはほとんどないと言っていい(だからといって、ノープランや出たとこ勝負がいいわけでは決してないのだけれど)。
綿密な計画であればあるほど、大掛かりであればあるほど、不確定要素が忍び込む機会が多くなります。
不確定要素は、偶然性などの外的要因であることもあるし、関わる人の心理的要因であったりもします。
これを100%予想することは不可能です。
では計画を達成するためにはどうすればよいのでしょうか。
先ほど書いたように計画を進めていく間に、様々な予想し得なかった出来事が起こります。
その出来事に対応をしなくてはいけないのですが、その対応を個別の部門が、反射的に対応していくと計画というのは徐々にずれていく可能性があります。
その部門にとって善かれと対応したことが、全体的に見ると些細なズレが蓄積して、本来の計画とは大きくズレていくことが起こるのです。
と言っていちいち部門が中央にお伺いをたてていては、本作で描かれているような刻々と変わっていく状況に対応できるわけもありません。
これは戦争という状況だけでなく、ビジネスの場でも同じだと思います。
特に最近のように目まぐるしく政治状況、経済状況が変化するような場面においては、中央の判断を待っている体制では対応できなくなっていると思います。
このような状況において、計画を成功させるためには、(1)各部門が計画の本来の目的をしっかりと認識し、(2)自立的に判断する力を持ち、(3)それぞれが目的を達成しようとする強い意志を持つということが必要になります。
本作で描かれる<ワルキューレ作戦>においては、上記の3つが必ずしも徹底できていたとは言えません。
作戦を指揮するシュタウフェンベルク(トム・クルーズ)はこの3つを満たす能力を持っていましたが、他のメンバーについてはいずれかが欠けているように見えました。
例えばオルブレヒト将軍(ビル・ナイ)は(2)の点についてやや弱いところがありました。
フロム将軍については(1)の目的がシュタウフェンベルクらとは異なり、自分の立身出世にありました。
主要メンバーが(1)〜(3)を持っていれば、本作戦はもしかしたら成功したかもしれません。
そういう意味では、本作は昨今の激動するビジネスにおいて、どのようにすれば計画を成功させられるかということを考える題材になるような気もします。
実は(3)というのがなかなか徹底しにくいところであったりもします。
昨年、僕が務めている会社の業界でかなり大きなピンチがあったのですが、全社の力を合わせてなんとか難局を乗り越えたということがありました。
そのときなぜ乗り越えることができたかと考えたのが上記の3つのポイントです。
作戦の結末が失敗だとわかっているだけに、どのような原因によりそういうことになってしまったのかに興味がいきました。
結果的には、失敗した原因だけが問題ではなく、プロセス・対応に問題があったのです。
戦争映画というより、「金融腐食列島・呪縛」のようなビジネスを題材にしている映画を観ているような感じがしました。
本作を観る視点としては、かなりひねった見方だとは思いますが、こういう視点もあるということで・・・。

映画として見ても、僕はけっこう楽しめました。
作戦を実行するまでのプロセスというよりは、先に書いたように実行後、関わる人々の行動により次第にズレがでてくるあたりのプロセスがリアリティがあって、ハラハラしました。
前も書きましたが、僕はトム・クルーズという俳優が好きなんです。
本作のような役柄はぴったりだなと思います。
私生活ばかりがいろいろ話題になりますが、久しぶりにトム・クルーズのはまり役という感じがしました。
周りを固める脇役陣もなかなかに渋めをそろえて贅沢でしたね。

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2009年3月15日 (日)

本 「雑誌よ、甦れ -「情報津波」時代のジャーナリズム-」

以前、仕事で雑誌広告のバイイングを担当していたことがあります。
というからではないのですが、元々本は大好きなので、雑誌も今もよく購入するんです。
本屋でも雑誌のコーナーを流して、パラパラとおもしろそうな記事を物色するのも楽しかったりします。
定期的に買っているのは、コンピューターのMacの雑誌(Mac Fan)、映画の雑誌(Cut)、情報誌(ぴあ)あと特撮関連の雑誌(宇宙船、特撮ニュータイプ、東映ヒーローMAX)、記事によって買っているのはグルメ誌(dancyu、食楽)、スポーツ誌(Number)、情報誌(Pen、東京人など)・・・。
かなり買っている特異な方だとは思います。
けれども世間一般の流れとしては雑誌の販売数は10年以上も連続で下がっています。
かなり出版社の方も苦しい状況で、最近は名門雑誌の廃刊、創刊されたばかりの雑誌の休刊などが相次いでいます。
出版不況と呼ばれて久しいですが、この原因としてよくあげられているのが、インターネットの普及です。
情報が無料で迅速に大量に手に入れることができるインターネットの普及により、確かに既存四媒体(テレビ、新聞、雑誌、ラジオ)にかけられる広告費も大きく減っており、たぶん今年中には新聞を抜きインターネットがテレビに次ぐ広告媒体となるのは確かだと思われます。
では雑誌というメディアはインターネットによりどんどん必要となくなっていくメディアとなるのでしょうか。
個人的には雑誌という媒体の良さというのは、インターネットの存在により、より明確になると考えています。
著者も同様の意見のようです。
サブタイトルにある「情報津波」という言葉は最近使われるようになってきました。
さきほどあげたように、インターネットの普及により、大量の情報が速いスピードで流れるようになりました。
けれどもそれはあまりに大量で早く、また玉石混合のため、欲しい情報がかえって手に入りにくいという状況が起きています。
検索エンジンが発達したとしても、それはキーワードの一致でしかありません。
自分の趣味嗜好のようなものというのはそこには反映されていません。
検索エンジンを使ってもどうも欲しい情報と違うという感じを受けた方も多いのではないでしょうか。
その点、雑誌というものはもともと編集という作業により、情報がある程度整理され、色づけがされています。
その色づけは雑誌の個性ともいえます。
例えば、同じ女性ファッション誌といってもCamCanとJJではちょっとテイストが違います。
男性からみるとほとんど同じでしょうけれど、どちらの雑誌を選ぶことが、すなわち自分の趣味嗜好を反映させているということなのです。
ですので自分が選んだ雑誌に載っている情報、記事は自分の欲しいものである確率が高い。
わざわざ自分の趣味に合う情報を津波のような情報の中で探さなくてもよいわけです。
これは特にマイナーな趣味嗜好を持っている方にとって、効力を発揮します。
例えば僕はWindowsに対して圧倒的にシェアが低いMacのユーザーですが、それほどコンピューターに強いわけではありません。
けれども情報は欲しい。
でも自分で探すのは面倒。
そういうときに雑誌は便利なのです。
ちなみにMacの雑誌では僕が買っている「Mac Fan」と別に「Mac People」という雑誌があります。
けれども僕が買うのは前者。
なぜかと言われると説明しづらいのですが、性に合うとしか言えません。
とりあげてくれる情報の切り口が自分の考え方、スタイルにあっているのでしょう。
これが雑誌というメディアが持っている特徴なのです。

インターネットでタダで情報が手に入れられるので、雑誌なんて買わないというみなさん、ちょっと雑誌売り場を覗いてみてください。
自分の趣味に合う雑誌が、必要な情報を整理してくれて待っていてくれるかもしれませんよ。

「雑誌よ甦れ -「情報津波」時代のジャーナリズム」高橋文夫著 晶文社 ソフトカバー ISBN978-4-7949-6740-4

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2009年3月 8日 (日)

「ジェネラル・ルージュの凱旋」 エンターテイメントを通じての問題提起

「チーム・バチスタの栄光」の続編「ジェネラル・ルージュの凱旋」、前作と同じく中村義洋監督による映画化です。
原作ではこの間に「ナイチンゲールの沈黙」があるのですが、作品の時間軸では「ジェネラル・ルージュの凱旋」とほぼ同じ時間で事件が起こるので、こちらの方を映画化したということでしょうか。
「ナイチンゲールの沈黙」はそれほどいい出来ではなかったので、懸命な選択だと思います。
原作の「ジェネラル・ルージュの凱旋」はまだ未読ですが、本作原作者の海堂尊さんが訴えようとしていたことがきちんと出ていたような気がします。
もともと海堂さんは、医療現場の抱える問題点をエンターテイメントを通して訴えたかったということです。
ですので、海堂氏の作品を読むとニュースでも最近しばしばとりあげられている医療の問題がテーマになっています。
本作のテーマは緊急医療。
緊急医療における医師不足というのはこのところ大きく問題になっています。
受け入れ拒否などいろいろと病院側の問題が指摘されますが、これはその元に様々な課題が絡み合って発生しています。
抜本的な医師不足というのもそうですし、またキツいと言われる緊急医療を志す医師が少ないとういのもあります。
また本作でも描かれているように病院経営の経済的側面からによるコストの削減というものもあるでしょう。
またたいした怪我や病気でもないのにタクシー代わりに救急車を呼ぶ患者たちの問題もあります。
このあたりの課題は最近でこそ、スポットがあたるようになってきていますが、それまでは当事者でないかぎりあまり認識できていなかった問題だったようにも思えます。
病院に行けば治療はしてもらえる。
なんとなくそれを当たり前のように捉えてすぎているような気もします。
その当たり前を支えているのが、医療制度であり、それは政府や病院側だけでなく、利用者にもそのシステムというものを理解して利用することが大事なような気がします。
それを知らないで当たり前のものと浪費するような利用を続ければ、いずれシステムは崩壊し、それはまた自分に跳ね返ってくるのです。
それを利用者がまずは理解しておくということが大事なような気がします。
また昨今実施され始めているトリアージもなかなか難しい問題だと思いました。
限られた医療資源(人的なもの、物資的なもの含め)の中、大規模事故や災害が起こったとき、すべての人を救うことはできません。
その中で助かる可能性のある人を優先させるというのがトリアージです。
このような事態が起こった場合、トリアージは実施しないとシステムが意地できないと思います。
ただそれが自分の身内に起こったとしたら、頭で理解できても、心で理解できるかというとなかなかに難しいものがあります。
これについては、日頃より一般的な理解を高め、またそのような事態が起こったとき、関係者の心のケア(これは患者身内もありますが、それを決める医療従事者も含むと思います)も準備しておく必要があると思います。
命に関わる医療というのは、緊急性があることが多いです。
ですから普段から、役所、病院、患者と共通したコンセンサスを得るようにすることが大事な気がします。
そういうためにこのようなエンターテイメントという方法で、一般的な意識をあげるというのはいいことのような気がします(当然、映画なので、それが主目的ではないですが)。

主人公田口は引き続き竹内結子さんが演じています。
原作では男性であったのを女性にしたことが「チーム・バチスタの栄光」のときは意外でしたが、だんだんしっくりとしてきたような気がします。
白鳥の阿部寛さんはこちらも相変わらずのアクの強さを出していて、田口とのペアはいよいよ安定感を増してきたという感じがします。
それらレギュラーに対して、やはり存在感を放っていたのはジェネラル・ルージュ(血まみれ将軍)こと速水を演じた堺雅人さん。
中村監督とは「ジャージの二人」に続いて組んでいますが、また違った味わいで存在感を出していてよかったです。
堺さんというのは、浮世離れした少年ぽさみたいなところを持っていますし、また「クライマーズ・ハイ」で見せたような凄みみたいなものも持っている方です。
ちょうどそれらが混じり合った速水というキャラクターはまさに堺さんのためのキャラクターというような感じがしました。

エンターテイメントでありながら、かつ問題提起を行っている、なかなかに見応えのある作品となっていました。
続編をまた期待したいところです。

中村義洋監督作品、映画「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→
中村義洋監督、堺雅人さん主演「ジャージの二人」の記事はこちら→
原作「ジェネラル・ルージュの凱旋」の記事はこちら→

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2009年3月 7日 (土)

本 「宇宙戦争」

H.G.ウェルズが生み出したSFの古典中の古典、「宇宙戦争」を読みました。
本作を原作にしたオーソン・ウェルズのラジオドラマを放送した時に、聞いた人がほんとうのことだと思ってパニックになった事件は有名な話。
またスピルバーグが数年前に映画化もしましたね。
「宇宙戦争」以降のかなりの小説・映画・漫画等は(SFは以外も)、この作品の影響を受けていると言っても言い過ぎではないでしょう。
「火星人」と言ったら、どんな姿をイメージするでしょう?
昭和生まれの人ってこんな姿をイメージしないでしょうか?
大きな頭でぎょろしとした目、胴体はなくって、たこの足のようなものが何本もうねうねと出ているようなイメージ(「ドラクエ」のホイミスライムみたいな感じ)。
これはH.G.ウェルズの「宇宙戦争」の火星人なんですよね。
その後の宇宙人イメージに大きな影響を与えたわけです。
本作読んでびっくりしたのは、今読んでも全く古びていないことです。
SF小説というのは、大概が最新の科学などを題材にしているので、十数年前の作品を読むと現在の世の中を予測しきれていないことがあり古びた印象を受けることがあります。
けれども本作はそういうことはありません。
発表されたのが1898年ですからなんと100年以上前(!)。
火星人に急襲されたロンドン市民は馬車や汽車で逃げます。
飛行機はありません。
けれども不思議と古くは感じない。
それは表面的な科学的な技術、未来予測等にフューチャーするのではなく、あくまで大災難に直面した人類というものを描いているからだと思います。
100年前ですら傲慢になりかけている人類に、ウェルズがそれを指摘しようとしているように思えます。
このテーマは現代にこそ、またふさわしいわけで、だからこそ本作が古びていない印象を与えるのだと思います。
また火星人が襲うのがイギリスだとういうのもなかなか風刺的なような気がします。
地球を襲う火星人というのは、容赦がなく人間を襲い食料にします。
主人公はそれを逃れようとしますが、彼には人類の将来は火星人の家畜になってしまうようなイメージも浮かびます。
これは世界制覇したイギリスが、侵略した地に暮らす人々へ行ったことを自らも受けてしまうということでやはりそのような行為を批判しているようにも思えます。
そういう点においても普遍的なテーマを持っているように思います。
ユダヤ人や黒人への迫害というテーマを一つのライフワークにしてきたスピルバーグが映画化しようと思ったのもここに理由があるのかもしれません。
本作を読んでみると、思いのほかスピルバーグの「宇宙戦争」が、ウェルズの作品に忠実であることがわかります。
もちろん現代に置き換えているわけで多くの設定を変えていますが、小説から浮かぶ印象的なビジュアルイメージが映画の映像に上手くなっているような気がしました。
あらためてスピルバーグの「宇宙戦争」を観直してみようかと思いました。

「宇宙戦争」H.G.ウェルズ著 東京創元社 文庫 ISBN4-488-60702-0

映画化作品「宇宙戦争」の記事はこちら→

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「ヤッターマン」 ディテールへのこだわりはあるが・・・

オリジナルのアニメが放映されていた時は小学生、思いっきり「ヤッターマン」世代です。
「豚もおだてりゃ木に登る」「ポチッとな」「全国の女子高生のみなさーん」「今週のビックリドッキリメカ」などなど、「ヤッターマン」の中のフレーズが映像とともに浮かんできます。
その「ヤッターマン」が実写映画化という情報が出たのは、もう1年以上も前ですよね。
「どんなふうになるのだろう?』と驚きましたが、監督は三池崇史さんということで、なんだかおもしろそうな作品ができるのではと密かに期待しておりました。
期待したのは早くに発表されていたキャスティング。
ヤッターマン1号ことガンちゃんは櫻井翔さん。
アニメのガンちゃんと風貌も似ているし、カッコ良くもコメディっぽくも演じられるので、これはぴったりだと思っていました。
なんといってもぴったりだと思ったのは、ドロンボー一味の一人ボヤッキーを演じる生瀬勝久さん。
キャスティングが発表されたときから、ボヤッキーの生き写し(!?)と思っていましたが、やはり本作見てみるとやはりその通りでした。
ドロンジョの深田恭子さんは若すぎるかなと思いましたが、あの衣装も似合っていましたし、映画版はガンちゃんとの絡みもあったので、思いのほか良かったように思います。
もう少し声に艶っぽさがあると良かったですけれども。

アニメ版のおなじみのシーンが、きちんと映画版にも取り入れられていましたので、子供の頃好きで見ていた自分としては、この点については満足。
「メカの素」→「解説しよう!」→「ビックリドッキリメカ」はそのまんまでしたね。
この場面はアニメ版の時から楽しくて好きなんですよ。
あと子供のときヤッターマン2号ことアイちゃんの変身のシーンはなんだかドキドキしていましたが、みなさんはそんなことありませんでした?
本作作っているスタッフもオリジナルを見ていたとき同じように感じてたと思うんですよね。
なんとなく本作でもそんなテイストでてます(笑)。
衣装や美術はアニメ版のテイストを活かしつつ、今風に実写用にリファインした感じでよかったと思います。
「キューティー・ハニー」の実写版に雰囲気似ているなと思ったら、衣装デザインは同じ寺田克也さんでした。
劇伴もアニメ版の曲を多く使い、リファインをしていました。
音楽のイメージというのは、けっこう残っているものなので、このあたり昔のアニメ版を知っている人は嬉しいんじゃないでしょうか。
本作、このようにアニメ版のイメージを上手く引き継ごうという工夫をしています。
「20世紀少年」が個性のある堤監督が自分のテイストを押さえつつ原作の完コピを目指しましたが、本作の監督はやはりクセのある三池崇史さんですが、監督の持ち味みたいなものが所々でていたように思えます。
このあたりのテイストは好き好きなので、苦手な人はいるかもしれませんが、僕は好きだったりします。
ただ全体として本作の出来がいいかというとそれほどではないような気がします。
ディテールとしてはアニメをよく観ていた自分、三池監督のファンである自分すると満足するところがたくさんあるのですが、全体としてはどうも強い印象が残らない。
三池監督は「クローズZERO」とか「龍が如く」とか漫画やゲーム等のオリジナリティのある世界観のある原作を自分の中で消化して、自分の色を付けた作品にするのが上手な監督だと思っています。
けれども「ヤッターマン」はなかなかに調理しにくい題材だったのかもしれません。
「キャシャーン」「スピード・レーサー」など、最近竜の子プロの作品は多く実写化されていますが、成功しているとは言いがたい。
「キューティー・ハニー」などもどうですね。
これらはそれぞれオリジナルがカルト的なファンを持つということが共通です。
長い間ファンを持ちつづけるということは、それだけ実は作品がディテールまで凝った作りになっていて追求すればするほど深みがあるということになると思います。
実写化する時、多くのファンがいるためそのディテールに気が回しすぎると、全体として何かが抜けてしまいやすくなるのかもしれません。
それは映画版としてのメッセージみたいなものかもしれません。
そのあたりの主張が、ディテールへのこだわりで感じられにくくなっているのが、印象の弱さに繋がっているのかもしれないです。
特にオリジナル「ヤッターマン」はそのようなディテールの非常に密度が濃い作品です。
そのディテールを実写化するための消化で息切れしてしまったような感じがします。
なかなかアニメや漫画の実写化というのは、難しいですね。
竜の子プロ作品では「ガッチャマン」も実写化予定だとか。
こちらは「ヤッターマン」以上に映画化するのは難物かもしれないです。
それでも期待してしまうのですけれど。

三池崇史監督作品「龍が如く<劇場版>」の記事はこちら→
三池崇史監督作品「スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ」の記事はこちら→
三池崇史監督作品「クローズZERO」の記事はこちら→

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2009年3月 2日 (月)

本 「天狗風 霊験お初捕物控<二>」

先日読んだ「震える岩」のお初が登場する霊験お初捕物控シリーズ、第二弾「天狗風」を読みました。
主人公のお初がいいですね。
宮部みゆきさんの小説に出てくる悪人というのは、人を思いやることのできない本当の悪人が多いですが、また良い人というのは他人の気持ちを慮ることができる人物だったりします。
お初もそういう人物で(人の心を読む力がありますが、それとは別の意味で気持ちの読める人)、人の心の底にあるどろりとした怨念が原因の事件であればあるほど、この人物像によって救われる気持ちになります。
本作で扱われる事件の原因となるのは、女性が持つ美しさというものへの憧れ、執着といったものです。
今でこそ男性も外見を気にするようになり、それで評価されることも多くなってきましたが、女性は昔からずっと外見というもので評価されがちです。
それは男性がそういう目で見るからというのは大方正しいと思いますが、女性自身も外見というものを
重視することはあると思います。
人と比較したりとか。
これが良いか悪いかということではなく、そこにばかり囚われてしまうとその気持ちが執着となり、お怨念となっていってしまうわけです。
お初が「美しさは、それを見る者の心なかにだけにあるのよ!」という台詞がありますが、これは名言だと思いました。
美しさというのは絶対的な基準があるわけではありません。
「蓼喰う虫も好き好き」ということわざにあるように、その人にとっての美しさというのは、その人だけのものなのです。
万人にいつまでも「美しい」と言ってもらいたいというのは、女性の気持ちとしてはわからなくもありませんが、誰か一人でも「それでいい」と言ってくれることに満足するのが健康的なのかもしれません。
お初と右京之介の関係は青春小説のような爽やかさでなんかいいですよね。
二人のその後を知りたいのですけれど、宮部みゆきさん、本シリーズの続編書いてくれないかなあ。

人語を理解する鉄という猫が登場しますが、こちら、宮部みゆきさんのデビュー作「パーフェクト・ブルー」の人の言葉がわかる犬、マサが思い出されますね。
お初と鉄の軽妙なやりとりもなかなか読んでいて楽しかったです。

「震える岩 霊験お初捕物控」の記事はこちら→

「天狗風 霊験お初捕物控<二>」宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN4-06-273257-2

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本 「孔子」

孔子と言えば「子のたまわく、学んで時にこれを習う、また説ばしからずや」に始まる「論語」で著名で、その後の日本を始めとした東アジアの政治の考え方の基盤となった儒学の創始者として知られます。
僕が孔子に興味を持ったのは、酒見賢一 さんの小説「陋巷に在り」でした。
この小説は孔子の弟子の中でも最も秀才と言われた顔回が主人公となっていますが、孔子も登場人物として出ています。
孔子というのは身の丈が当時の人々の中でも大きかったようで、またその偉大な知性もあわさり、知の巨人のような存在で描かれています。
「陋巷に在り」という作品は「魔術戦争<マジック・ウォーズ>」的な要素があるエンターテイメント小説ですが、実際の孔子というのはどのような人物だったのでしょうか。
本著ではそれを孔子が暮らしていた時代背景、政治情勢などから浮かび上がらせようと試みています。
なにぶん2500年くらい前の人物ですから、資料も少なく、その正確性も定かではない中での作業ですので、かなりたいへんだとは思いますが、孔子像というものが本著を読むとイメージできてきます。
儒教というと宗教っぽくなりますが、基本的に孔子の考え方というのは、宗教ではなく世の中のシステムについての思索といっていいでしょう。
また江戸時代に封建制の基盤となる考え方とされたため、上の身分に対する下の身分の服従といったイメージがありますが、これも後世の解釈でそうなっているわけです。
孔子が生きていた中国は「春秋時代」と呼ばれる時代です。
周という統一王朝が弱体化し、群雄割拠の状態となり戦争が頻発していた時代になります。
その国の君主の権力が次第に下の身分に奪われていくということ、いわゆる下克上が起こった時代でした。
孔子はそのような混乱時期に生きていたため、それを平和に保つには徳のある君主が治めるべきであると考えたわけです。
つまりは上に立つ者というのは、徳(仁・義・礼・智・信)を持たなくてはならず、ただ単純に身分制度を補強する考え方ではないと思います。
そういう意味では儒学という考え方の基本はいつの時代にも通じるものであるのでしょう。
「論語」が2500年にも渡り、様々な地域で読まれていたということにはそういう理由があるのでしょう。
今の時代、理念がない政治家、官僚、また企業などが多く、様々な混乱が生み出されていますが、それはもしかすると上に立つ者が持たなくてはいけない徳が欠けているということなのかもしれません。
今だからこそ、「論語」という書物をしっかりと読み直す時期なのかもしれないです。

「孔子」貝塚茂樹著 岩波書店 新書 ISBN4-00-413044-1

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2009年3月 1日 (日)

「ストリートファイター ザ・レジェンド・オブ・チュンリー」 買ってしまった・・・

「ストリートファイターⅡ」が大ブレイクしたときは、自分が社会人になったばっかりの頃でしょうか。
ご多分にもれずはまりましたが、もっぱらコンピューター対戦ばかり。
だって対戦台、怖いんだもん。
なんか殺気がみなぎっている感じで・・・。
ま、へたっぴだったということもありますが。

本作「ストリートファイター ザ・レジェンド・オブ・チュンリー」はゲームの中でも人気キャラの一人だった春麗(チュンリー)にフューチャーした作品。
ゲームの設定でも父を殺したシャドルーを追っているということだったですが、映画版もほぼ同様の内容でした(インターポールの刑事にはなっていませんでしたが)。
チュンリーを演じるのはクリスティン・クリック。
小柄でベビーフェイス、そして中国系の血が入っているということで、ルックスはチュンリーのイメージにぴったりですね。
空手もやっていたということですので、アクションもけっこうキレがありました。
ストーリーは予想通りの展開で、驚くようなところはありません。
「バイオハザード」のように映画作品として完成度が高くはなく、ゲームの設定を実写でやりましたという感じでしょうか。
本作はカプコンが製作ですし、「ストリートファイターⅣ」の宣伝的要素がかなり高かったのだと思います。
最近カプコンはこういう戦略(「バイオハザード ディジェネレーション」等)をとりますね。
そういう意味で映画として、ストーリー的、映像的には唸るところはほとんどないというのがほんとのところでしょう。
ただ当時「ストⅡ」にはまった自分としては、チュンリーの「スピニングバード・キック」が実写で観れたことに満足してしまいました(わかる人にはわかるはず)。
さすがに回転しながら横移動はしなかったケド(やっぱりわかる人にはわかるはず)。

蛇足ですが・・・。
「ストリートファイターⅣ」買ってしまった・・・。
ブルーレイ観るためにプレステ3を買ったけど、ゲームは持っていなかったのでつい・・・。
まさにカプコンの戦略通りに購買行動しているなあ・・・。
やってみたら「ストⅡ」とは全然別ものの感覚でまだなじめないです。
「昇竜拳」はちゃんと出せました!
まだまだいける!?

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「罪とか罰とか」 本音と建前

ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督の存在はテレビドラマ「時効警察」で知りました。
「え、ロシア人?」と思ったら、その正体は日本人でした。
それも一世を風靡したバンド「有頂天」のKERAだったのね。
演出家になっていたとは・・・。

「時効警察」は好きなドラマでした。
演出が三木聡、岩松了、園子温、ケラリーノ・サンドロヴィッチで、出演がオダギリジョー、麻生久美子ですから、今思うと錚々たるメンバーですよね。
インディーズ大集合という感じで。
ですので、その演出を手がけた一人であるケラリーノ・サンドロヴィッチ監督の最新作ということで、本作「罪とか罰とか」を観てきました。
「時効警察」であったような細かーい小技の積み重ねた笑いは、相変わらずでした。
こういう細かいネタは大好き!
本作の笑いというのは、全員がボケなんですよね。
なんだか登場人物がみんなちょっとズレている。
それぞれのズレの方向性がまた微妙に違っているので、会話やシチュエーションが展開していくうちにどんどんそのズレが大きくなって、なんだか元にいたところがわからなくなってしまうような、不可思議なおかしさがあります。
描かれているのは別世界の話ではないのですけど、話が進んでいくうちにぐにゃーって世界が歪んでいくような感じ(うまくいえないですけれど)。
本作の登場人物が持っているズレ感っていうののほとんどは、重要なことと些細なことの重みが逆転しているっていうことなのですよね。
普通、恋愛相手であっても、連続殺人犯だったら、自首すすめるし!
普通、部下が犯罪を犯したのがわかったら、隠さないし!
登場人物たちはいわゆる一般的な常識や建前といったものではなく、自分たちの都合のほうを、つまりは本音の方を優先させて動いてます。
やっぱ好きな人は捕まってほしくないしー。
やっぱ部下から犯罪者出たらやりづらいしー。
普通は人は本音より建前っていうのを優先させて生活してます。
その方がうまくやっていけるから。
みんなが建前より本音、重要なことより些細なことを優先させてしまったら、たぶんおかしな世界になってしまうのでしょう。
本作はなんだか人間が自分の本音を優先させたことによって生成される不可思議な世界を描いているように思います。
そこに生まれてくる笑いっていうのは、建前ばかりを優先させてしまっている自分たちを振り返っての苦しい笑いなのかもしれません。

脚本は非常に上手に構成されていました。
細かなギャグの積み重ねもそうなんですが、関係ないと思っていたエピソードが密接な関係を持っていたということが明らかになる後半は見事です。

「時効警察」で「多め亭」「早め亭」という食堂のおばちゃんを演じていた犬山イヌコさんも本作に出演。
「多め亭」「早め亭」のシチュエーションが大好きだったので、これは嬉しい。
犬山イヌコさんが出ていた回はケラリーノ・サンドロヴィッチ監督の担当でした。
お気に入りなのかな。
相変わらずいい味です。

鳴海瑠子さん、えらくふっくらとしていましたね。
輪郭が変わってきているような・・・。

テレビドラマ「帰ってきた時効警察」の記事はこちら→

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