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2009年2月22日 (日)

本 「ジャーナリズムの可能性」

メディア、ジャーナリズムというものには権力を監視するという役割が求められます。
ややもすると国家権力というのは、その体制というものを守るために、奉仕すべき国民を犠牲にするということがあります。
それに対し、監視の目を光らし、権力を監視するという役割をジャーナリズムがもたなくてはいけないということに異論はありません。
けれども、その役割自体、そしてその役割を担う力をメディア、ジャーナリズムに関わる人々が勘違いをし始めることには問題があると思います。
「報道の自由」、「表現の自由」、「知る権利」。
これらは、度々体制側がメディア規制をしようとした場合に、メディアサイドが錦の御旗のように掲げるものです。
これらの権利は侵害されていいものではありません。
けれどもこれらの権利によって、基本的人権が侵害された場合はその限りではないと思います。
基本的人権というのは、基本的というだけあって、一番の基盤になる人としての権利です。
最近、行き過ぎた報道による問題が多数発生していますが、これは「報道の自由」「表現の自由」ということを主張する前に、まずメディアサイドが基本的人権を守るということを前提としていなければ、その活動は支持されるわけがありません。
これを最近のメディアは忘れているような気がします。
そもそも「報道の自由」というのは一般市民の「知る権利」をメディアが代行しているようなものです。
最近はメディアの報道自体がある種の偏向、行き過ぎ、不十分さを持っているために、直接市民が資料公開等を求めることもでてきています。
強まるメディア規制に対してメディアは危機感を持っているように思えますが、思ったほどそれに対して市民の共感性は得られていないように思えます。
それはメディア自体が、自分たちが「力」を持っていると勘違いしているということに気づいていないことによるのだと思います。
その勘違いをたださない限り市民の支持は得られず、メディア規制は強まり、そして市民自体も体制側の情報が得られなくなるという悪い状況になってしまうのです。
メディアはまず市民を味方に付ける(媚びるのではなく)ことをしなくてはいけません。
そのためには基本的人権をしっかりと遵守した報道というものを徹底するべきでしょう。
事実を報道するために、法を超えるようなことも躊躇してはならないということを著者は書いています。
一面においてはこれは正しいと思います。
例えば、政治家の汚職や戦争になる事態など国家レベルとしての問題について、市民は「知る権利」があります。
それらを報道するためにある種の超法規的なことを行わなくてはいけないこともあるでしょう。
ただし報道するためにすべてのことが許されるわけではないということをメディアは改めて自省するべきです。
映画「誰も守ってくれない」にもありましたが、行き過ぎた報道による被害というものが出てきています。
これが続いていけば、どんどんメディアに対する市民の信頼は落ちていきます。
メディアが自分たちを守り、そして「知る権利」の代理人としてしっかりと機能するためには、このことを肝に銘じて活動して欲しいと思います。

「ジャーナリズムの可能性」原寿雄著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431170-6

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