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2009年2月28日 (土)

本 「南極(人)」

「ナンセンスギャグ漫画というのは存在しているが、ナンセンスギャグ小説というのは存在していない!」という義憤(?)にかられたかどうかは知らないですが、こちらはあの京極夏彦さんが書いたギャグ小説「南極(人)」です。
京極夏彦さんというと「京極堂シリーズ」が有名で、その分厚さ、作品の中の情報の濃密さといったとても濃いイメージがあるかと思います。
本作は別の意味で「濃い」。
「京極堂シリーズ」しか読んだことがない方は本作のテイストは意外かと思いますが、京極さんは今までも「どすこい。」では同様のギャグ小説に挑んでいます。
「どすこい。」は電車の中で読んでいて笑いをこらえるのがたいへんなほどおかしい小説でした。
「京極堂シリーズ」においても榎木津が出てくるシーンは、けっこう彼がとるナンセンスな行動に、京極さんのこういうギャグに対する思い入れを感じることができます。
オバカなギャグといっても、小説でそれを行うのは実はけっこうたいへんです。
本作のラストの「巷説ギャグ物語」でも京極さんは書かれていますが、漫画と違い小説は文字だけでそのおかしさを伝えなくてはいけません。
漫画では「ドカーン」とふっ飛ばされる画が一つあれば説明できてしまうようなシーンでも、小説はきちんと説明しなくてはならないのです。
ただこれをいちいち細かい文章で説明すればギャグ漫画にあるようなテンポの良さは失われてしまいます。
これを小説でやろうとするのですから、なかなかに京極さんはチャレンジャーです。
とはいっても小説が全く不利かというとそうでもありません。
画で説明しなくても、文字でもともと読者の中にあるイメージを想起させてしまえばいいということもあります。
それぞれの読者が思い描く具体的イメージは厳密には異なりますけれども、最も適切なイメージを思い浮かべてくれるわけですから実はそれでいい。
例えば、「理想的な美女」という描写があった場合。
人によっては派手な顔つきのグラマラスな女性を思い浮かべるでしょうし、また別の人は幼い顔のスレンダーな人を思い浮かべるかもしれません。
けれど読者にとっての最も適切なイメージが惹起されるわけですから、それはそれで文字での表現というのは便利なものだったりもするのです。
そのような漫画、小説という表現方法の違いをわかったうえで、京極さんはギャグ小説を書こうと試みています。
なにぶん実験的なところも多いので、すべてが成功しているとは言いがたいですけれども、僕はとても楽しめました。

「南極(人)」京極夏彦著 集英社 文庫 ISBN978-4-08-771274-2

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「オーストラリア」 物語る本能

「物語は人と人を繋ぐもの」
作品中でアボリジニの少年ナニが独白で語る言葉です。
本作「オーストラリア」は一組の男女と一人の少年の物語。
この作品の中には、主人公サラとドローヴァーとの間の男女の愛の物語、サラとナニの親子の愛の物語、アボリジニと入植した白人との物語、さまざまな物語が織り込まれています。

本作でアボリジニのものの考え方に触れ、いろいろ考えることもありました。
とかく現代では、環境問題などがあるために、人間VS自然といった対立構造でとらえることが多いと思います。
けれども人間と自然というものは本来は対立するものではなかったんですよね。
あたりまえのことなんですが、人間も自然の一部とでも言いましょうか。
でも現代人は人間が自然の中から生まれてきたということを忘れているかもしれません。
アボリジニは、人間も動物も無機物の自然も区別なく同列にとらえているような気がします。
そもそも人間と自然の対立構造というのは、人間が自然に対抗できるという思いがある考え方でもあるのかもしれません。
そういう不遜な考え方ではなく、人間という存在も自然という存在も、同じレベルでここにあるということを素直に受け入れるということが本来の正しい姿なのかもしれないです。

また本作を観て、「物語」ということについても、あらためて考えました。
思えば「物語る」ことというのは、人にしかできない所為です。
人が何かを感じ、それを伝えたい残したいと想う気持ちから物語は紡ぎだされてくるのでしょう。
それは愛する人に感じる気持ちであったり、大いなる自然に包み込まれるような気持ちであったり。
自分が感じたことの素晴らしさを伝えたいというのは人の持つ本能なのかもしれません。
その気持ちが詩(うた)になり、物語になる。
それは伝えるために紡ぎだされている言葉であり、だからこそアボリジニたちは詩が遠く離れた人にも届くと信じていたのでしょう。
自分を感じる、世界を感じるということは人だけが持つ力。
その力に素直にアボリジニたちは生きていたのかもしれません。
逆に今の僕たちはそのように素直に生きることというのができていないのかもしれません。
自分がこんなにも映画を見たいと思うこと、そして感じたことをこのようにブログに書いたりしているということ、これは人の思いを感じ、また人に伝えたいという、人の根本的に持っている欲求に発するものなのかもしれません。

本作は男女のラブストーリーととることもできるし、親子愛を描いた話とも、近代オーストラリアを描いた歴史もの、またはかつて白人のアボリジニに対する扱いを描いた社会ものともとれます。
そういう意味で、複層的に物語が重なっているのですが、それが複雑になるのでもなくとてもバランスよくまとめあげられているように思いました。
まさに複数の物語が織りなされているという感じ。
織り上げられた物語はとても絹のように肌合いがよいため、クセのある映画に比べるとやや印象が薄くなってしまうかもしれません。
ですので、本作はたぶん評価はそれほど高くないような気がします。
どうしてもザラリとした多少の不快感があるような作品の方が、印象に残りやすくなってしまいますから。
でも本作のようにきれいにまとめあげるというのは、とても脚本と編集の優れたバランス感覚がなくてはできないと思いました。
今年に入って公開される作品は、本作も含め長尺ものがかなり多いような気がします。
例えば「ベンジャミン・バトン」や「チェンジリング」等がそうなのですけれど、これらの作品はただ長いのではなく、きちんとも「物語る」ということを行っているため、観ていて長いという印象にはなりません。
その長さは「物語る」ために必要な長さなのです。
一時期映像のインパクトだけで見せる映画が多くなり、またシリーズ・リメイクなどが多く作られることとなり、「ネタ切れか」と言われているアメリカ映画ですが、ここにきて「物語る」という基本に立ち返った作品が多くなってきたような気がします。
培ってきた映像技術をベースに「物語」の力が増してくれば、また再びアメリカ映画が隆盛してくるのではないかという気がします。
翻ってやや流行ったネタに追従する感のある邦画は、調子がいいということにあぐらをかいて「物語」の本質を忘れてしまうと、また邦画離れに繋がるのではないかとも思ったりもします。

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2009年2月22日 (日)

「カメレオン」 何をいまさら

藤原竜也さんが演じる主人公伍郎が、在りし日の松田優作さんが演ったらぴったりだろうなあと思って観ていたら、元々松田優作さんのために書かれていた脚本だったんですね。
どおりで・・・。
現代向けに大幅に書き直されたということですが、どうもどこかで観たようなという印象を持ってしまいます。
ディテールは直しているとしても、基本的には物語の構造は変わっていないということでしょうか。
以前はその凶暴さで恐れられた男が足を洗い静かに生きていたところで、ある日ヤバい事件に巻き込まれ、仲間や愛する人を傷つけられる。
男はその相手に怒りを爆発させ、復讐を行う。
言ってはなんですが、脚本の丸山昇一さんが書くこのストーリーというのは、彼の十八番とも言えるような筋立てです。
というよりこういうのしか書けないのかと言いたくなるほどに、ワンパターンではないかと思います。
何をいまさらという感じがしなくもありません。
構造としてはシンプルな割に主人公が「復讐」に至るまでがあまりに長く、バランスがとても悪い。
「復讐劇」はやけにあっさりしていてカタルシスが得られません。
藤原竜也さんもほとんど自分でアクションをこなしたということで、がんばっているとは思いますが、やはり松田優作さんのイメージがチラつくわけで、どうしても比べてしまいます。
早くに亡くなったこともあり強烈なイメージを残している松田優作さんの存在感というのは、なかなか現在活躍している俳優さんも真正面からは越えづらいのではないでしょうか。
阪本順治監督は初期の作品(「鉄拳」とか「王手」とか)は好きなのですが、最近はちょっとパッとしない印象があります。
もっと初期の作品は阪本監督の個性というかスタイルが出ていたと思うのですが、最近はどうにも作ることに慣れてしまったような器用さが気になります。
もっと監督の「らしさ」みたいなものが出して欲しいのですけれども。
脚本、演出について、なぜ今これを作らなければならなかったのかといったようなものを感じられない作品でした。
そういうものがない作品は、観る側にも何も伝えられないような気がします。

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本 「あなたの魂に安らぎあれ」

人はなぜ存在するということを問う。
宗教も哲学もその問いへの答えを探る学問だと思います。
けれどそういう一般化された学問とまではいかなくても、自分自身について何のために存在するのかということを考えたことがない人はあまりいないでしょう。
本作の登場人物はそれぞれに自分自身のレゾンデートルについて疑問を持ち、問い続けます。
まるで別人になったかのようなリアルな夢にうなされる男。
自分がアンドロイドではないかと疑う少年。
己自身も病んでいるのではないかと思う心理カウンセラー。
普通に生活をしていれば自分自身が存在していることは、自分にとって十分にリアリティがあること。
けれどその実在に疑問が生じたとき、リアルと空想の間の境界が曖昧になっていきます。
その疑問を持っているとき、その精神はとても安定性を欠けたものになります。
だからこそそうならないように、人は自分が何のために存在するのかということを知りたいと思うのでしょう。
この実在に対する不安感というものは神林長平作品に通奏低音のように響いているもののように思います。
本作冒頭の部分はフィリップ・K・ディック原作の映画「トータル・リコール」を思い出しました。
やはり神林長平とディックは何か通じるものがあるような気がします。
神林氏の作品はディックほど破滅的な感じはしないですけれど、先に書いたような現実感に対する不安みたいなものは感じます。

神林長平作品「敵は海賊・A級の敵」の記事はこちら→
神林長平作品「ライトジーンの遺産」の記事はこちら→
神林長平作品「ルナティカン」の記事はこちら→

「あなたの魂に安らぎあれ」神林長平著 早川書房 文庫 ISBN4-15-030215-4

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本 「ジャーナリズムの可能性」

メディア、ジャーナリズムというものには権力を監視するという役割が求められます。
ややもすると国家権力というのは、その体制というものを守るために、奉仕すべき国民を犠牲にするということがあります。
それに対し、監視の目を光らし、権力を監視するという役割をジャーナリズムがもたなくてはいけないということに異論はありません。
けれども、その役割自体、そしてその役割を担う力をメディア、ジャーナリズムに関わる人々が勘違いをし始めることには問題があると思います。
「報道の自由」、「表現の自由」、「知る権利」。
これらは、度々体制側がメディア規制をしようとした場合に、メディアサイドが錦の御旗のように掲げるものです。
これらの権利は侵害されていいものではありません。
けれどもこれらの権利によって、基本的人権が侵害された場合はその限りではないと思います。
基本的人権というのは、基本的というだけあって、一番の基盤になる人としての権利です。
最近、行き過ぎた報道による問題が多数発生していますが、これは「報道の自由」「表現の自由」ということを主張する前に、まずメディアサイドが基本的人権を守るということを前提としていなければ、その活動は支持されるわけがありません。
これを最近のメディアは忘れているような気がします。
そもそも「報道の自由」というのは一般市民の「知る権利」をメディアが代行しているようなものです。
最近はメディアの報道自体がある種の偏向、行き過ぎ、不十分さを持っているために、直接市民が資料公開等を求めることもでてきています。
強まるメディア規制に対してメディアは危機感を持っているように思えますが、思ったほどそれに対して市民の共感性は得られていないように思えます。
それはメディア自体が、自分たちが「力」を持っていると勘違いしているということに気づいていないことによるのだと思います。
その勘違いをたださない限り市民の支持は得られず、メディア規制は強まり、そして市民自体も体制側の情報が得られなくなるという悪い状況になってしまうのです。
メディアはまず市民を味方に付ける(媚びるのではなく)ことをしなくてはいけません。
そのためには基本的人権をしっかりと遵守した報道というものを徹底するべきでしょう。
事実を報道するために、法を超えるようなことも躊躇してはならないということを著者は書いています。
一面においてはこれは正しいと思います。
例えば、政治家の汚職や戦争になる事態など国家レベルとしての問題について、市民は「知る権利」があります。
それらを報道するためにある種の超法規的なことを行わなくてはいけないこともあるでしょう。
ただし報道するためにすべてのことが許されるわけではないということをメディアは改めて自省するべきです。
映画「誰も守ってくれない」にもありましたが、行き過ぎた報道による被害というものが出てきています。
これが続いていけば、どんどんメディアに対する市民の信頼は落ちていきます。
メディアが自分たちを守り、そして「知る権利」の代理人としてしっかりと機能するためには、このことを肝に銘じて活動して欲しいと思います。

「ジャーナリズムの可能性」原寿雄著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431170-6

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2009年2月21日 (土)

「チェンジリング」 苦さの意味

クリント・イーストウッド監督の作品というのは、観賞後にかなりビターな口当たりが残ります。
「ミリオンダラー・ベイビー」がその代表格ですが、その重さのために何度も観たいという作品にはならないのですのですけれども、一回の観賞で強烈な印象を残します。
本作「チェンジリング」にもイーストウッド監督作品の持つ苦さというのを感じました。
彼の作品には共通するもの(たぶんこれは監督自身の中に持つ気持ちなのでしょうけれど)を感じます。
一つは体制や世間一般の常識に対する不信、それに対する反骨精神。
もう一つは個人の強い意志への信頼、そしてそこからくる希望です。
官僚組織等の体制というのは、もともとは市民のためにあるものです。
でも組織というものは、それができてから組織自体が生命体のようになって自己保存本能みたいなものを持ち始めます。
またできあがった組織というのは、異例というものを受け入れられなくなります。
いわゆる前例主義というのがまかり通るようになるのです。
また世間の常識というのも、前例主義みたいな側面を持っています。
年をとったら宇宙飛行士なんてできるわけがない、女のボクサーなんて遊びみたいなもの、みたいなことですね。
クリント・イーストウッドという人は、いつの間にか作られてしまった常識や前例というものに疑問をいつも投げかけています。
彼が問題提起をしているのは、それを作っている組織体や世間といったものではなく、それに対してなんの疑問を持たずに従ってしまう人々に対してです。
僕たちは知らず知らずのうちにそういう流れに身をまかせてしまいます。
ちょっと疑問を持つことがあっても、あえてそれに逆らわない。
なぜならその大きな流れに竿を指すというのはとてもエネルギーがかかることだから。
強い意志が必要なことだから。
だからこそイーストウッドは、つかみどころのない組織や常識、前例といったものに、強い意志で戦いを挑む人々を描くのだと思います。
本作もまさに同じテーマで描かれていると言えるでしょう。
主人公クリスティン・コリンズはシングル・マザーです。
体制側からすれば取るに足らない一般市民です。
その体制に対して、疑問を提起するということはとても強い意志というのがなければできません。
我が子に対しての愛情がその力になったとは思いますが、それでもその戦いを何年にも渡り続けるというのは並大抵のことではないでしょう。
イーストウッド監督は果敢に戦いを挑む強い意志を持った人々を描きますが、その物語は安易なハッピーエンドにはなりません。
漠然とした組織や常識と戦う人々は、強い意志を持っていたとしても、その戦いの中で傷ついてしまうものなのです。
その戦いは個人としてはとても分が悪いものなのです。
その厳しさをイーストウッドはしっかりと逃げずに描きます。
そしてそれをしっかりと観ることを観客にも求めます。
だからイーストウッド作品は観た後に、とても苦い後味が残ります。
常識や前例に安易に流されてしまった方が、楽に違いありません。
けれど安易に流されてしまった先には、実はより大きな悲劇があるということをイーストウッドは言っているように思えます。
アメリカもそうですし、かつての日本もそうでしたが、戦争というものは、大概そのような大きな流れをいつしか止められないものにしまってから起こります。
その流れを止めるには、常に個人個人が批判的精神を持つことが大切なのでしょう。
そうすることがとても苦いものだったとしても。
それをイーストウッドは伝えるために映画を作っているような気がします。

クリント・イーストウッド作品「父親たちの星条旗」の記事はこちら→
クリント・イーストウッド作品「硫黄島からの手紙」の記事はこちら→
クリント・イーストウッド作品「グラン・トリノ」の記事はこちら→

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2009年2月15日 (日)

「少年メリケンサック」 好きです!あおいちゃん!ほんとです!

「篤姫」で文句なく国民的女優となった宮﨑あおいさん主演、そして押しも押されぬ人気脚本家宮藤官九郎さんが脚本・監督の「少年メリケンサック」を観てきました。
昔から宮﨑あおいちゃん、好きなんですよ。
最近は若手の女優さんでも演技のうまい方が多いですが、宮﨑あおいちゃんは図抜けていると思うんです。
かわいいし。
10代の頃はインディーズ系の作品で陰のある役などが多かったですが、最近では「陰日向に咲く」や「篤姫」ではコメデセンスがあるところも見せていて、演技の幅が広いなと感心していました。
本作では全編、宮﨑あおいちゃんのコメディエンヌ振りが堪能できます。
あおいちゃんが演じるのは、レコード会社の契約社員かんな。
首がかかった新人発掘プロジェクトのために動画サイトで発見したのが、絶叫パンクバンドの「少年メリケンサック」。
到底デキるOLには見えないかんな役をあおいちゃんが好演しています。
とっても表情が豊かなんですよね。
勝地涼さんとのバカップルぶりもなかなかさまになってます。
宮藤監督の演出なのか、あおいちゃんの芝居は本作ではかなりオーバーアクションなのです。
なんかクネクネしてるし(笑)、表情も笑う時は思いっきり笑う、悲しい時は思いっきり泣く。
ちょっとそのあたりの芝居はマンガチックではるのですけれど、稚拙には見えないということなのかな。
コメディとしての誇張をしつつ、どの程度までは見え方としてOKなのかがわかっているような気がします。
このあたりの芝居の計算は、コメディ作品に出ている時のメグ・ライアンとか、ジョディ・フォスターとかに通じるようなものがあるような気がします。
とか偉そうに書いていますが、観ている時は表情豊かなあおいちゃんを観て、「ほんと、かわいー」と思っていただけですけど(爆)。
普段着姿のかんなも良かったですが、デキるOL風のときのスーツ姿もかわいかったです。

そう、演技の幅と言えば、佐藤浩市さんもさすがです。
最近では「誰も守ってくれない」で心に傷を抱える刑事役が印象深いですが、本作ではいつまでも不良の心を持つパンカーをクセだしまくりで演じていました。
「ザ・マジックアワー」のデラ富樫とか、「ジャンゴ」の平清盛とか、キレている役も佐藤さんは上手ですよね。

宮藤官九郎さん脚本というところで、笑わせてくれるところは多数。
特に宮﨑あおいちゃんとユースケ・サンタマリアさんの会話は漫才かと思えるような早い切り返しでなかなかおかしかったです。
ただ部分的におかしいところは多数あるのですが、映画全体としてまとまりがあるかというとそうではない感じがありました。
もう少しコンパクトでも良かったかもしれません。
部分としてのおかしさを、繋いでいったような感じと言いましょうか。
宮藤さんは脚本家としてはぴか一ですが、演出家としてはどうなんだろう?とは思いました。
とても楽しく作っている、ということは伝わってきます。

音楽それほど詳しくないので、メタルとパンクがどう違うかもちょっといまいちわからないのですよね。
どちらも、大きな声で言っちゃいけないことを歌っているという印象しか・・・。
あ、「デトロイト・メタル・シティ」がDVDが出たなあ。
買わなきゃ。

宮﨑あおいさん主演の大河ドラマ「篤姫」の記事はこちら→

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2009年2月14日 (土)

「フェイク シティ ある男のルール」 きりっと辛口

いろいろな人種の混血のためか東洋的にも西洋的にも見える端正な顔立ちのキアヌ・リーブス。
そのためか「地球が静止する日」ような宇宙人とか、悪魔とか、人間染みていない役柄も多いですよね。
そういうのもいいんですけれど、僕はキアヌ・リーブスがタフガイっぽい役柄を演じるときが好きだったりもします。
「ハートブルー」とか「スピード」とか。
けっこうこういう役の時のキアヌ・リーブスもカッコ良いと思います。
本作「フェイク シティある男のルール」の役柄もどちらかというと、そのようなタフガイ路線ですね。
しかしキアヌ・リーブスという人は「スピード」の頃からあんまり変わっているように見えないのですけれど、そういうところが人間染みていない感じはします。

原題は「Street Kings」、邦題と全く違います。
実は原題をみると、この物語の本当の黒幕の正体に、序盤でほとんどの人は気づいてしまうと思うんですよね。
だから邦題では変えたのでしょうか。
刑事物のストーリーとしても、テーマとしてもそれほどひねったものではありません。
というよりありがちだという意見を持たれる方のほうが多いのではないでしょうか。
そういう点からすると、辛口で評価する人は多いかもしれません。
けれども、その黒幕の正体が想像できたとしても、観ていてそれほどドラマの緊張感が途切れることはなかったと思います。
主人公であるトムが次第に追い込まれていく感じは、緊迫感があったと思います。
トムは悪人に対しては容赦がなく(この手の刑事物の主人公でありがちな甘さはほとんどない)、それゆえ銃撃戦等もかなりハードなタッチで描かれます。
このあたりも全体の緊張感に繋がっていたのではないでしょうか。
お酒でいうと、ペタッとした甘さではなく、きりっとした辛口といった口当たりでした。
とはいえ、1800円払って観に行きましょうと皆に言えるような抜きんでたところがある作品かというとそうでもありません。
本日はTOHOシネマズデイで1000円で観てきましたが、まあ、そのくらいかなあというところ。
またお酒のたとえですが、ちゃんと座って飲むお酒というより、立ち飲みでピッとひっかけるという感じのお酒です。
あんまり期待しすぎないでいくのが、吉でしょう。
そうすれば案外楽しめます。

でている俳優さんは渋めでいい感じ。
フォレスト・ウィテカーはいい人も、悪い人もやれるので、今回のような役柄は最適の俳優さんだと思います。
あとビッグス警部をやっていたヒュー・ローリーもいい味が出ていました。
ほとんど観たことのない人なのですが、海外ドラマの「Dr.HOUSE」で主演をやっているそうです。
こちらのドラマ、以前ケーブルテレビでちょこっと観たときおもしろそうだと興味は持っていたんですよね。
レンタルしてるのかなあ。

キアヌ・リーブス主演「地球が静止する日」の記事はこちら→

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2009年2月11日 (水)

本 「螺鈿迷宮」

最近ハイペースで作品を発表している海堂尊さんの作品。
海堂氏は現役のお医者さんということですので、この発表ペースには驚嘆してしまいます。
「チーム・バチスタの栄光」と同様に架空の街、桜宮市が舞台となっていまして、あのロジカルモンスター白鳥が本作でも活躍します。
ただし白鳥とコンビを組むのは田口センセではなく、あの「氷姫」こと姫宮となります。
姫宮は「チーム・バチスタの栄光」と「ナイチンゲールの沈黙」では名前だけ作中に出ておりましたが、本作で満を持しての登場になります。
海堂さんの作品に登場するキャラクターは一癖ある人物が多いですが、この姫宮も同様でした。
やはりあの白鳥とコンビを組むにはこのくらいのクセがないとダメでしょうね。
海堂氏が小説を書き始めたきっかけというのは、現在の医療の現場の問題をエンターテイメント小説という表現を通じて訴えたいということだそうです。
本作では終末期医療に関する問題が提起されています。
確かに医療に関する問題というのはなかなか自分の身に降り掛からないと難しくて考えなかったりするものですが、このような小説を通じてだとわかりやすく問題を認識することができます。
現役の医師で医療をテーマに小説を書いている方では久坂部羊さんもいますが、作風はまったく対照的なのがおもしろいです。
久坂部さんの小説も読むと医療に関しての問題について考えさせられます。

テレビドラマの「チーム・バチスタの栄光」も好評だったようですし(観逃した・・・)、映画「チーム・バチスタの栄光」の続編「ジェネラル・ルージュの凱旋」も公開されますし、しばらく海堂尊氏の進撃は止まらなそうですね。
しかし、映画化で「ナイチンゲールの沈黙」が飛ばされたのは、やはり作品的にはいまいちだったからだろうか・・・。

海堂尊作品「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→
海堂尊作品「ナイチンゲールの沈黙」の記事はこちら→

「螺鈿迷宮<上>」海堂尊著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-390901-8
「螺鈿迷宮<下>」海堂尊著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-390902-5

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「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 自分の人生の肯定

時間というものは不可逆性の流れを持っています。
今のところ物語の中でしかタイムトラベルは行われませんし、時間の逆行もありません。
この不可逆性はエントロピーの増大とも言うことができます。
これは、異なる液体が次第に混じり合っていくように、時間が経つに従い均質化していくということです。
ただこのエントロピー増大の法則が当てはまらないものがあります。
その一つが生物という存在で、生物が成長していくということは組織化が進むということで、この点においてはエントロピーは減少していきます。
科学的に正しいかどうかわからないのですが、なんとなく生物というものは受精してからエントロピーを減少させ、そのピークを迎えてから死に至るまではエントロピーを増大させてているようなイメージがあります。
一生の中で生物は「(受精)エントロピー大 → エントロピー小 → (死)エントロピー大」というサイクルになっているような気がします。
その生物にとってエントロピーが極小化したところから、エントロピーが増えていく過程が老化といったものなのだと思います。

前段が長くなってしまいましたが、本作の主人公、ベンジャミン・バトンはその肉体は通常の人間とは全く逆のプロセスで生きるという数奇な人生を歩んだ男です。
観る前はブラッド・ピットの老けメイクとその人生を特殊技術で再現した映像面に注目しようと思っていましたが、観ているうちにベンジャミン・バトンの不思議な人生を食い入るように観入ってしまいました。
ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェットの各年代における演技もすばらしいし、それをサポートする映像表現も不自然さはなく文句がありません。
でもそれよりも現実にはありえないベンジャミンの人生に引き込まれてしまったのです。
3時間近くもある長尺に観る前はちょっとひるみましたが、物語の中に入ってしまったためその長さはまったくといっていいほど気になりませんでした。
ケイト・ブランシェット演じるデイジーは僕たちとまったく同じ時間の流れを生きています。
若いうちは夢や野望があって、いつしかその夢は儚く潰え、心の中に失意を抱えて生きていく。
人というものは多かれ少なかれこういう失意は持っていて、「あのときああすれば良かった」「もっと若ければこうできたのに」といった思いにかられることもあるでしょう。
けれども時間というは最初に書いたように不可逆性のものであり、どんなに強く思っても自分が若くなることはありません。
それがわかっているから人は後悔するのだと思います。
主人公ベンジャミン・バトンは生まれた時から、他の人間とは異なる人生を歩むことを運命づけられています。
けれども彼はそれを受け入れています。
その奇妙な運命から若いとき(?)から彼は人の死というものに立ち会うことが多くなります。
だからか彼はその人生に対して抵抗せず、けれども前向きに生きていきます。
この彼の人生に対して肯定的な感じというところに、人として魅力を感じました。
誰もが自分の人生ってこんなものかという諦め、逆にこんなもんじゃないという足掻きみたいなものを持っていると思います。
それは自分の人生を受け入れきれないというところがあるからなのでしょう。
けれどもベンジャミンは自分の人生を丸まる受け入れ、その上で前向きに生きていきます。
「遅すぎるということは何もない」という台詞がありましたが、これは自分の人生を肯定的に受け入れた上で、活き活きと生きるための信条なのでしょう。

今までハードでスタイリッシュな作風の印象があったデビッド・フィンチャー監督。
本作は彼の大きな転換点であり、そして代表作となるような気がします。

デビッド・フィンチャー監督「ゾディアック」の記事はこちら→

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2009年2月10日 (火)

「炎神戦隊ゴーオンジャー」 王道ロセン

前作「獣拳戦隊ゲキレンジャー」関連の玩具の売れ行きがあまり芳しくなかったせいか、本作「炎神戦隊ゴーオンジャー」は子供ウケしそうなヒーローものとして非常にわかりやすい作りになっていました。
すなわち「正義ノミカタ」と「悪ノソシキ」といった単純明快な構図です。
思えば、自分が子供の頃の特撮番組というのは(特に東映作品)はほとんどこの構図でしたが、飽きもせず見ていたものでした。
大人ウケした平成仮面ライダーの成功もあってか、戦隊シリーズも最近はドラマとしても、年間を通しての仕掛けとしても複雑化してくる傾向にあったのは確かです。
最近の本シリーズ玩具売り上げの漸減傾向に歯止めをかけるべく、子供ウケする王道路線に戻ったのでしょうか。
この路線については、個人的には自分が子供の頃見たようなやや古くさくもあり、当初はやや乗り切れないところもありました。
アニメチックな炎神たちのキャラクター等がちょっとあまりに子供に媚びている感じもしなくもなかったので。
この声優を使ったキャラクターたちには、「仮面ライダー電王」の成功に乗っかってきているような安易な臭いもちょっと感じたりもしました。
けれども回を重ねるごとに、次第にレギュラーのキャラクターの個性が確立してきて、ワイワイとしたノリが楽しくもなってきました。
作品全体を通している基本的に明るめなこのトーンは、子供たちにとっても観やすい作品に仕上がっていたと思います。
特にこのトーンを引っ張っていったのが、敵の組織「ガイアーク」のヨゴシュタイン、キタネイダス、ケガレシアの三大臣たち(ネーミングが秀逸)。
なんともいえず憎めないこの三人(?)は、主人公のゴーオンジャーよりも強い印象を残したように思えます。
さきほどあげた「電王」でもあったことですが、一年間を通したシリーズというのは、シナリオから生み出されたキャラクターが実際に役者の演技(この場合はスーツアクターと声優のコラボ)によって血と肉を持った存在となり、それがシナリオにフィードバックされるというようなことが起こります。
キャラクターが成長していくんですよね。
本作もそのようなことが起こっていたように思えます。
脚本家の筆が三大臣の場面ではノっているのが伝わってきました。
なんだか悪の組織のキャラクターなのになんだか思い入れができてしまい、ラスト前の回のキタネイダスとケガレシアの行動には思わずジーンときてしまったり・・・。
子供たちも同じような思いを持ったのではないでしょうか。
ラスボス総裏大臣ヨゴシマクリタインのもなかなかいい味のキャラクターでした。
必殺技の「正義カイサン」、「強行サイケツ」はこれまた秀逸のネーミングで笑わせていただきましたよ。

次回作はメインライターを「電王」の小林靖子さんが務めます。
小林さんは久しぶりの戦隊シリーズ登板なので、こちらも期待したいと思います。

劇場版「炎神戦隊ゴーオンジャー BUNBUN!BANBAN!劇場BANG!!」の記事はこちら→
「獣拳戦隊ゲキレンジャー」の記事はこちら→

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2009年2月 8日 (日)

本 「ターミナル・エクスペリメント」

たびたび本ブログで紹介しているロバート・J・ソウヤー。
彼の作品の魅力について今までいろいろ書いてきましたが、本著の解説で瀬名秀明さんがとてもわかりやすく書いていらっしゃっいました。
ソウヤーの作品が読者をとらえている理由として三つほどあげています。
ちょっと引用します。

 「SFファンと一般の小説好きを同時に満足させるエンターメイント性」
 「徹底的なスペキュレーションとシミュレーション」
 「読み終えると必ず疑問が湧いてくる」

一番目の理由は、これは読んでいただくとすぐわかります。
SF小説というとマニア向けという感じがあってとっつきにくいところがありますけれど、ソウヤーの作品はそういうところはなく、一級のエンターテイメントとして読めます。
だからといって、SFファンから見ても読み応えはあってこの二つの異なる読者に答えられる作品になっています。
二番目は僕も今までの記事で書いていますが、その荒唐無稽な発想のユニークさ、そしてそれを突飛なものにせずにその設定での考えられたシミュレーションを行っていることです。
瀬名氏も指摘していますが、そのアイデアの元は異星人とか恐竜とかタイムトラベルとか、今までのSF小説で使われているおなじみのもの。
けれどそれらを上手に組み合わせて、とてもユニークなアイデアにしているところがソウヤーならではなのです。
三番目の理由はわかりにくいですけれど、二番目にも関わるのですが、瀬名氏によればそのアイデア、その結末に何か穴が開いているように思えることだということです。
何かそこに疑問が生じるから、誰かと話したくなる、そこが人気を広げるということですね。

二番目の理由にあげられている、本作におけるユニークなアイデアの組み合わせのスペキュレーション、シミュレーションは、臨死体験と人工生命、そしてコンピューター上の人格の複製についてです。
特に臨死体験といった多少オカルティックなもの(今では科学的に研究される題材にはなっているけれど)、とSF小説や映画では使い古された感のあるコンピューター上の人格複製といったものの組み合わせはソウヤーならではの味付けがなされています。
三番目の理由にあげている疑問みたいなものも、やはりわき上がってくるのですが、それでも最後までおもしろく読むことができます。
瀬名氏があげた第一の理由にあるように、SFに苦手意識のある読者でもOKの作品なので、興味のある方は本作を手にしてみてはいかがでしょうか。

ロバート・J・ソウヤー作品「占星師アフサンの遠見鏡」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「さよならダイノサウルス」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「イリーガル・エイリアン」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「フラッシュフォワード」の記事はこちら→

「ターミナル・エクスペリメント」ロバート・J・ソウヤー著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011192-8

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「純喫茶磯辺」 愛おしい不器用さ

最近はお洒落なカフェが隆盛で、純喫茶と言っている店はめっきりと少なくなりました。
もともと大正時代から広まってきた「カフェー」は女給さんがいてお酒も出したりするお店ですが、それに対して種類を扱わないお店を「純喫茶」と呼ぶようになったようです。
現在は「純喫茶」はすっかり死語になっているような感もありますが、この言葉からはなんというか昭和の香りみたいなものを感じますね。
今の時代に「純喫茶」と言っているお店というのは、頑固にそれを守っているというよりも、時代の流れに無頓着なのか、なんかいつの間にか周りが変化してしまっていたという感じがします。
それは遅れているといったネガティブな感じというのではなく、時代に合わせるような器用なところがない印象があって、なんだかそれが微笑ましい感じもするんです。

本作の中で登場人物がよく使っている言葉があります。
それは「アレ」。
「いや、その、アレだよ・・・。」
「実はアレなんですよね・・・。」
みたいな使い方。
よく考えてみると「アレ」って言葉はなんとも言えない、いい加減さと便利さというものを持っているような気がします。
言いたいことがあるんだけれど、なんとなくはっきりと言いづらいようなこと。
「ちょっとそこのところ察してくれよ」みたいな時に使ってしまう言葉のような気がします。
この察せるか察せないかというのも微妙なところなんですけれどね。
察するにはそれなりに相手のことをわかっていなくてはいけない。
言っている方は察してくれるだろうみたいなところもあるけれど、それを聞いているほうは「?」となたりもしたりして。
「アレ」って言葉を使う時っていうのは、自分がこの相手だったらわかってくれるだろう、わかってほしいという時に使うものなのかもしれませんね。
こちらがそれなりに親しいと思っている(期待している)関係のときしか使わない言葉なのかも。
親しいけれど、言いづらかったり、なんかかっこ悪そうなときに使ってしまう、照れ隠しの便利な言葉。
なんていうか、この言葉とっても不器用な感じがするんですよね。
微笑ましい不器用さ。
「純喫茶」という存在にも通じるような不器用さ。
このなんとも言えぬ不器用な感じはこの作品全体の雰囲気にもよくでていて、なんか登場人物がとてもどうしようもないほど人間くさく、愛おしく感じてしまいました。

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本 「「依存する人」を「変化を起こす人」にどう育てるか」

こういうマネージメントのハウトゥー本というのを時々買ったりはするのですけれど、そのまま「つんどく」になっていることも多いのですよね。
買うきっかけみたいなものはあって、この本を買ったときは部下などが初めてできたときだったので育て方などを考えていた時だったのでしょう。
何冊か買って読んだりしていました。
そういうのを時々思い出したように読んでみることもあるのですが、こちらもそんな感じで読んでみました。
読んではみましたが、率直な感想としてそれほどためになったということはありませんでした。
それほど新しさとか「なるほど」と発見があるということでもありません。
それはこのニ、三年で自分自身が本を買った時よりも成長したということもあるのかもしれません。
でも書いてある内容は最近のこの手の本では当たり前な内容であるということはあると思います。
当たり前が悪いわけではないのですが、マネージメントをそこそこやった人からするともの足りない感はあるでしょう。
これからマネージメントをやらなくてはいけない人にはいいかもしれません。
この手のハウトゥー本は、やはり自分にとっての旬に読むべきですね。

「「依存する人」を「変化を起こす人」にどう育てるか」内田和俊著 日本実業出版社 ソフトカバー ISBN4-534-04115-2

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「ヘブンズ・ドア」 自分の死に向かい合うその時に

「鉄コン筋クリート」のマイケル・アリアス監督の初実写作品です。
オリジナルはドイツ映画の「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」で、こちらは残念ながら未見です。
「鉄コン筋クリート」は大好きな作品なので、その監督がどのように実写を撮るのかとても興味がありました。
アニメも実写の両刀使いというと押井守監督、庵野秀明監督などがあげられます。
お二方ともアニメでも実写でも強烈な個性、スタイルを出しますよね。
同じようにマイケル・アリアス監督の実写作品も彼の作品の持つ空気感というものが出ていたと思います。

突然に余命数日と宣告された28歳の男、青山。
幼い頃よりずっと入院していていつ死ぬかわからない少女、春海。
本作は、死というものを間近に感じる二人が、海を目指すロードムービーです。
映画や小説等の作品で死がとりあげられることは多いですよね。
けれど普段生活としていて、自分の死というものを実感しながら生きているかというとそうではありません。
当然、知っている人の死というのはあったりするので、それが悲しいとかそういう気持ちは味わうこともあります。
けれど、自分の死というとなぜかとたんにリアリティがなくなってしまいます。
なんとなく普段の生活では自分の死というものはフィクションのような気もしてしまいます。
多くの人がそうではないでしょうか。
だから病気などで死に向かい合っている方からすると、気持ちを本当に理解してもらっているとはなかなか思えないのかもしれません。
28歳の男と14歳の少女、普通に暮らしていれば話す場面などそうあるわけではありませんし、そこに共感などもあまりないでしょう。
けれど青山と春海は、二人とも自分の死というものに向き合っている。
生へのあきらめ、死というものに対しての恐れ、そのような彼らの本当の気持ちをわかってくれるのは、やはりそれに向き合っている人たちだけなのかもしれません。
だから普通はない、シンパシーのようなものを二人はお互いに感じたのでしょう。
青山は、観ている僕たちのように毎日をいつもどおりに過ごしてきていたのに、突然、自分の死というものに直面します。
夢も潰え、人生をもうあきらめていると思っている時に、直面する自分の死。
たぶん彼は海への旅を始めたときはまだそれをリアリティのあるものとは思っていなかったのでしょう。
けれども彼の人生のゴールとも思える、海に近づいていく中で、段々とそれはリアリティを増していったのだと思います。
海の近くの自分の生家の前で青山は「死にたくねえ」と口にします。
彼はそのとき自分の死というものに初めて直面したのだと思います。
そのとき春海は「大丈夫だよ」と母親のように彼の肩を抱きます。
彼女にとってたぶん死というものはいつもそばにあるものだったのでしょう。
春海はずっと死というものをリアリティのあるものと感じていたのだと思います。
だから青山の死への恐れというものを彼女は本当にわかることができた。
それがわかったうえで、それをむかえようとする青山の心を、静かにやさしく包み込んだのです。
春海によって青山は天国のドアをくぐるときを、とても安らかな気持ちで迎えることができたのだと思います。
いつか自分も、自分の死というものに向かい合う時がくるはずです。
その時に彼らのように安らかに迎えるようになれたらいいなと思いました。

音楽を「鉄コン筋クリート」に引き続き、Plaidが担当。
これがとてもいい。
なんとも言えぬ空気感が、マイケル・アリアス監督の作風にとてもあっているような気がします。
久しぶりにサントラが欲しくなりました。

マイケル・アリアス監督作品「鉄コン筋クリート」の記事はこちら→

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2009年2月 7日 (土)

「マンマ・ミーア!」 かしましガールズ

大ヒットしたミュージカルの映画化作品。
昔はあまりミュージカル映画は得意ではありませんでしたが、最近は「シカゴ」とか「ヘアスプレー」等いい作品が多いこともあってよく観に行くようになりました。
話題性もあったので期待して観に行きました。

なんというか・・・、男としてはちょっと入っては行けないところに入ってしまったような感じなのですよね。
女子高校の昼休みの教室とか。
会社の給湯室とか。
近所の井戸端会議とか。
入ったことないけど。
女の人同士の会話ってああいうかしましい感じってあるのでしょうね。
娘ソフィとその仲間たち、母ドナとその仲間たち。
会話がハイテンションに次ぐハイテンション!
ABBAの曲もそんなのが多かったですし。
男はポツネンと置いてきぼり・・・みたいな感じというか。
娘だらけの家のお父さんの肩身の狭〜い感じ。
ああいうハッピーで賑やかな雰囲気は女性は楽しめるのでしょうねえ。
女の子だけのパーティみたいな感じで。
男としてはちょっと気後れしてしまいます・・・。
この作品はたぶん男の人と女の人で感想はわかれるような気がします。

演出は舞台出身の女性監督ということです。
そのせいか、ミュージカルの演出がえらく舞台っぽいんですよね。
というより古くさいミュージカル映画のような感じもあって。
昔のミュージカルというのは突然歌いだす不自然さみたいなものに馴染めなかったりしたのですが、最近の作品はこのあたりの不自然さを感じさせないようにするのがとても上手くなってきているような気がします。
本作の今時っぽくない昔のミュージカル映画的な演出は狙いかとも思ったのですが、これは舞台出身の監督ということもあって現代的なミュージカル映画の撮り方ができなかったのでしょうね。
あとミュージカルだとやはり歌が聞かせどころだったりすると思うのですが、本作の出演者はそれほど上手には思えなかったんですよね。
特にピアース・ブロスナンはいまいちでした。

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2009年2月 1日 (日)

本 「新帝都物語 維新国生み篇」

人気シリーズ「帝都物語」の前日談であり、江戸時代を舞台にして加藤重兵衛保憲と平田篤胤らの戦いを描いていたのが、「帝都幻談」。
そのあとの時代、ちょうど江戸時代から明治時代になろうとする維新のときを背景にしているのが、本作「新帝都物語」です。
「帝都物語」は明治以降の物語ですから、本作がちょうど「帝都幻談」と「帝都物語」を繋ぐミッシングリンクになっています。
本作で日本を滅ぼそうとする加藤と対決するのは、平田篤胤の娘おちょうとその夫平田銕胤、そして新撰組の土方歳三。
「新帝都物語」というタイトルの通り、読んでいる時の印象はまさに「帝都物語」の明治篇を読んでいるかのようです。
依代としての力を持つおちょうは「帝都物語」の辰宮由佳里と目方恵子を併せ持ったようなキャラクターですし、平田銕胤は幸田露伴、寺田寅彦をあわせたような感じがします。
まさにその後、明治時代に繰り広げられる戦いを予見したかのような加藤とのオカルティックでマジカルな死闘が本作でも繰り広げられます。
このあたりは「帝都物語」が好きな方には満足いくのではないでしょうか。
本作を読んで改めて「帝都物語」を読みたくなってきました。

「帝都幻談」の記事はこちら→

「新帝都物語 維新国生み篇」荒俣宏著 角川書店 ハードカバー ISBN978-4-04-873715-9

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「チェ 39歳別れの手紙」 ドキュメンタリー以上に乾いた視線

やっぱりソダーバーグ監督とは相性が良くないというのを再確認したという感じがします。
予備知識がそれほどない中での、その語り口はややもすると睡魔を誘い出してくるようなところがあり、本作でも前半はなかなかに辛かった。
「28歳の革命」でもそうでしたが、ハリウッド映画にある過剰な演出、エンターテイメント性を拒否しているかのような、淡々とした語り口で本作は描かれています。
そこからはゲバラの歩んだ道を追体験しているような感じを受けました。
革命、内戦といった状況は現代日本で暮らしている自分からするとかけ離れた世界ですが、本作を観ているとその中を生きている者にとって、生きるか死ぬかといったことも日常化し、淡々と過ぎていくように見えました。
ソダーバーグ監督はゲバラの思想、人物像について、自分の解釈を語ると言ったようなことはしていません。
英雄と言われる彼を祭り上げたり、逆に真実の姿はこうだったといったような新解釈を展開しているわけではありません。
偉人の伝記物のようにこんなにすばらしい人だったと言っているわけでもありません。
あくまでゲバラの人生を、客観的な目線で追いかけていくということをソダーバーグは行っています。
ドキュメンタリーでも作り手の意志、解釈などはでてきますが、本作はそれをなるべくやらないようにしているのではないかと思えるほどです。
ゲバラという人物が、一人の解釈で説明できるスケールではないということなのかもしれません。
個人的には、何故ゲバラが革命を成功したキューバを去ったかというところのゲバラの真意を知りたかったので、そのあたりをあっさりと描いたのはちょっと残念でした。
僕はゲバラは、ひとつひとつの国という枠を越えて、彼の理想とする世界(これはあくまで彼の理想なので、正しいかどうかとは別)を実現するということを考えていたような人なのかなと思いました。
人はなかなか国という枠組みを越えてものを考えることというのはできないですが、ゲバラはコスモポリタン的な性格を持っている人物だったのかもしれません。
ゲバラの真意など本人以外はわかるものではなく、監督としてはあくまで客観的な出来事だけを追っていくという考えだと思われるので、真意がゲバラの言葉で描かれていないのは仕方がないですけれど。
このあたりドキュメンタリー映画以上にドキュメンタリーな乾いた視線を感じました。

本作を観て思ったのは、ゲバラという傑物でも、自分の成功パターンというのを越えるというのは難しいものなのだなということでした。
ゲバラは、庶民を救うための革命は、武力闘争を持って初めて成功するという考えを持っていたように見受けられます。
その手法でキューバ革命は成功しました。
けれどその手法がボリビアでは成功しなかった。
それはゲバラも途中で気づいたのではないでしょうか。
けれども自分の成功パターンから外れたことはできなかった。
それにより仲間たちは一人、また一人と倒れていき、次第に彼らは追い込まれていくわけです。
成功者ほど自分のパターンに束縛されてしまうという例という見方もできるような気がします。

「チェ 28歳の革命」の記事はこちら→

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