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2009年1月31日 (土)

「20世紀少年 -第2章- 最後の希望」 「つなぎ」になるのは仕方がない、か・・・

原作をビジュアル的に完コピしきった第1章から半年経って、第2章が公開されました。
第1章で特に驚いたのは、原作漫画のキャラクターがそのまんま実写になったかのような絶妙なキャスティングでした。
第2章になり新たなキャラクターも登場しますが、そのあたりは引き続き、完コピできたでしょうか。

まずは第2章の主人公としての位置づけになるカンナ。
こちらを演じるのは平愛梨さん。
僕はほとんど知らない方だったのですが、ビジュアル的にはかなり原作のイメージに近かったように思えます。
ただ残念であったのは、まだ演技がおぼつかないところがあったような気がします。
周りを錚々たるメンバーが固めているので、ややそれが目立ったように感じました。
本作の新登場人物で最も完コピ度が高かったと思ったのは、小泉響子役の木南晴夏さん。
表情(ひーっとか言う表情)とか、その動きまでも原作の漫画そのまんま。
これはクリソツです。
その他だと高須の小池栄子さんも。
顔はそれほど似ていないですが、動きはやはり原作通りでした。
キャスティングの点では、原作ファンとしては満足度は高かったです。

ただし・・・。
作品的にはやや厳しかったですね。
3部作の真ん中なので、どうしてもつなぎ的なストーリー展開になってしまうのはいたしかたないのですが、やはり登場人物も増え、話が拡散してしまっている印象は持ちました。
これはこの作品がというよりも、原作に忠実に則って作っているからでしょう。
最近の浦沢作品は、中盤は複数の登場人物がいるそれぞれの場所でそれぞれの物語が進んでいくのをパラレルに描くことが多いのですよね。
それらの個別エピソードは大きな謎のピースであって、それらがラストにビシリピシリと嵌っていくような流れになっています。
これはリニアで時間が流れる映画というメディアにとっては甚だ構成しにくい物語だと思います。
それをよくまとめたとは思いますが、原作読んでいない方にはやや厳しいところもあったような気もします。
本作についてはつなぎとして割り切って観るのがいいのかもしれません。

本日は雨が激しかったので、地元で歩いていける劇場で観賞。
ただ地元の小学生、中学生が多くて、上映中話すわ、ボリボリ音をたてて食ってるわ、貧乏揺すりするわで最悪の観賞環境でした。
途中でどなたかが注意していましたが、僕ももう一息で言おうかと思っていたところでした。
そのためなかなか作品に集中できず、上記のような感想になってしまいました。
あしからず・・・。
うー、とても損した気分なのです。

「20世紀少年 -第1章-」の記事はこちら→
「20世紀少年 -最終章- ぼくらの旗」の記事はこちら→

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2009年1月30日 (金)

「誰も守ってくれない」 守ること、守られること

皆があたかもそう言っているかのように一方的に書くメディア。
他人の中傷ばかりをするネット上の一部の人々。
あたかも自分に正義があるかのようにふるまうこのような人々に対して言いたいことはありますが、ここでは書きません。
自分が悪くないのに、理不尽につらい境遇にあってしまうことというのは自分の身にも起こってしまうかもしれないことです。
それらに対して個人としては、なんら抵抗の手段を持てないという状況。
そんな時、人はあきらめに近い気持ちをもってしまうかもしれません。
「誰も守ってくれない」と。

15歳の少女として幸せな日々を送っていた沙織は、ある日、兄が殺人者として逮捕されたことにより、理不尽な好奇の目にさらされます。
それら不特定多数の人々に対して抵抗する手段もなく、逃げる中で、母親や、信じている人をも失います。
けれど沙織は動揺しパニックになりながらも、心が折れない何かを持っているように見えます。
ああいう状況であれば、安易に逃げ出したい、楽になりたいというふうに考えてもおかしくありません。
その沙織を警護する役割を与えられた刑事、勝浦は以前に殺人を目の前で止められなかったという過去を持っています。
彼は「守れなかった」という悔やみに、三年経った今でも苛まれています。
勝浦が言うように「人の苦しみを受け止めるのはとても辛いこと」です。
だから、辛いから人に対して距離を置いたり、無関心であったりするほうがいいというふうに考えてしまいがちです。
けれど他人を「守る」ということは、その行為が自分の存在を肯定するということに繋がっているのように思えます。
沙織は逃避行の中でずっと兄のことを心の中で守っていました。
彼女は兄が心で助けてと叫んでいた時に、それに気づきながらも手を差し伸べることができなかった。
沙織も勝浦と同じように、「守れなかった」人なのです。
たぶんそれでも沙織は今度こそ兄を「守ろう」と思ったのでしょう。
辛い状況でも、その心が自滅の一歩手前で彼女自身を支えていたように見えました。
人を「守ろう」とすることによって、自分も「守られる」のかもしれません。
勝浦も沙織を守り続けることで、彼自身が救われているようにも感じられました。
「誰かを守ってあげる」こと、それをしようとする強い心は、「自分を守る」ことにもなるのでしょう。
そのためには人の苦しみを受け止め、自分のことのようにそれを感じられる心というものが必要なのだと思います。
そしてそのように「他人を守る」ということは、自分も「誰かに守ってもらえる」ことに繋がっていくような気がしました。
自分の弱さを隠し、ただひたすら攻撃し続けることによって「自分を守ろう」とする人々は、結果として「誰も守ってくれない」のだとも感じました。

君塚良一監督作品「容疑者 室井慎次」の記事はこちら→

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2009年1月26日 (月)

「仮面ライダークウガ」<平成仮面ライダー振り返り-Part1>

いよいよ始まった平成ライダー第10作「仮面ライダーディケイド」。
第1話はオープニングからして、劇場版か?と思えるほどに気合いが入った迫力で、平成ライダーがわんさかでてきてサービス満点でした。
平成ライダーシリーズは、それぞれが独自の世界観を持っています。
「ディケイド」では別々の世界である過去の9作品をパラレルワールドとして描き、それをディケイドが旅していくという趣向のようらしい。
これから、それぞれの世界で、それぞれのライダーと出会っていくのでしょう。
なかなかに力技が必要な設定ですが、平成ライダーらしい意欲的な試みですので、これからの1年間を期待したいところです。

さて「ディケイド」で平成ライダーが出てくるということなので、いい機会なので平成ライダーを振り返ってみようと、実は昨年末から「クウガ」から見直しているところです。
平成の「仮面ライダー」は、昭和の「仮面ライダー」とは違い、上記のようにそれぞれの作品で、全く別のそれぞれの世界観を持っています(「アギト」では当初「クウガ」とのリンクと思しきところもありましたが)。
作品中で「ライダー」という呼称が出てこない作品の方が多いくらいです。
けれどもそれらの作品が「仮面ライダー」らしいのは、何か「仮面ライダー」らしい共通項があることからなのでしょう。
また平成ライダーというのは、毎回作品を作るたびごとに、今までの「仮面ライダー」らしくないところ、それまでのファンからすれば「掟破り」的なことにも果敢に挑んできたような気がします。
それは裏っ側にはマーチャンダイジング的なこともあるでしょうが、そのチャレンジャブルな姿勢こそが、毎回進化していくという平成ライダーの遺伝子「革新性」となっているような気がします。
そこで今までの平成ライダー9作品を振り返る事によって、そのような共通項と革新性を見ていきたいと思っています。

まずはとちあえず見終えた平成ライダー第1作「仮面ライダークウガ」。
実は僕はこの作品はリアルタイムでは見ていません。
ちょうどその頃は、すこし映画や特撮などから離れていた時で、あまりその存在を気にしていませんでした。
けれどもオダギリジョーさんのブレイクなどもあり、世間で話題になっているうちに次第に気になってきました。
リアルタイムで平成ライダーを観始めたのは、「龍騎」からなので、ちょうどそのころDVDを借りて一気見たのでした。

「クウガ」はそのデザインは、昭和のライダーのフォーマット(複眼、クラッシャー等)に沿ったものでした。
これは「BLACK RX」からずいぶん間が空いてからの登場であったので、皆のイメージにある「仮面ライダー」らしさというものをしっかりと出そうという狙いであったのでしょう。
「仮面ライダー」の資産というものを、しっかりと使っていこうという意図があったように感じます。
けれども物語としては、昭和ライダーにはない「革新性」に満ちあふれていました。

まず全体的な構成として1年間を通した大河ドラマとして描かれているということ。
現在では平成ライダーとしてそれは当たり前ですが、「仮面ライダー」、というより特撮のテレビシリーズとしては革新的だったと思います。
それまでは子供向け(とされる)特撮番組は1話完結が基本。
これは複雑な物語で1年間は子供がついていけないと(勝手に)思われていたからでしょう。
けれども「クウガ」ではその大河ドラマ性というのを取り入れました。
それにより子供だけでなく、大人のファンも獲得することができたのだと思います。
現在では1年間オンエアする大河ドラマ性を持ったシリーズは「仮面ライダー」とNHKの大河ドラマくらいです。

「クウガ」で革新的であったのは、その徹底したリアル志向でもありました。
このあたりのリアルな世界観の組み立ては高寺プロデューサーの個性のような気がします(「アギト」から担当する白倉プロデューサーはどちらかというと非現実的な世界観を好んでいるような気がします)。
現実の世の中でもし「仮面ライダー」に登場するような怪人が出現したらといったシミュレーションを本作では行っています。
そのような状況でまず対応するのは警察でしょう。
登場する怪人(グロンギ)は、警察から未確認生命体、通称未確認と呼ばれ、警視庁には「未確認生命体対策室」が作られる。
そしてその怪人も「悪の組織」などという現実的にはあまり考えられないものとしては描かれていません(ま、怪人自体が非現実的ではあるのですけれど)。
殺戮だけをゲームのように楽しむことを目的とする殺人集団として描かれています。
これは殺伐とした今となっては実はけっこうリアリティのある話でもあると思います。
現実、理由もなく行われる殺人が増えてきています。
作中、グロンギであるバラのタトゥーの女が「リント(人間のこと)も変わったものだな」という台詞がありますが、彼女の言う通り現在人間はより殺伐とした存在、グロンギに近くなっているのかもしれません。
このように「クウガ」は実はかなりハードなテーマを扱った作品でありました。
これを最終回まで押し通したのは感心するばかりです。

上に書いた「仮面ライダー」が持つ共通項というのは何かと言ったら、僕は「強さ」であると思います。
そんなのヒーローものだから当たり前じゃないかというかもしれませんが、この「強さ」は単に怪人との戦いに勝つといっただけの「強さ」ではありません。
仮面ライダーという存在は、「ウルトラマン」とは違い、その本質は一人の人間です。
一人の人間がある事情により、特殊な能力を持つ「仮面ライダー」になることができるようになる。
そして彼らはその能力を、敵との戦いに使おうとするわけです。
そこには戦いに向かわせる意志や覚悟といったものがあります。
それが「強さ」なのではないかと思っています。
平成ライダーはそれぞれが、それぞれの「強さ」を持っているように思えます。
では「クウガ」、その主人公五代雄介(オダギリジョーさん)の「強さ」とはなんなのでしょう。
僕は彼が持つ「強さ」とは、その「楽天性」にあると思います。
彼は「みんなの笑顔のために」戦います。
けれども彼からは表面的には悲壮感といったものは感じません。
クウガであり続けることは彼が真の闇に囚われる危険がありました。
それでも彼は戦い続けた。
たぶん彼は「明るい未来」というものを信じ続ける「強さ」があったのでしょう。
困難が目の前にあったとき、誰もそれから逃げ出したくなります。
けれどそれで未来をあきらめることというのが、本当は真の闇に囚われることなのかもしれません。
信じ続けることというのは、それだけの「強さ」を持たなくていはいけないのです(雄介の先生のエピソード、また蝶野という人物のエピソードからそういうものを感じます)。
そして「明るい未来」をかなえるために、決して逃げず向かい合う雄介の姿勢は周りの者にも勇気を与えてくれます。
立ち向かう心が、皆に「強さ」を分け与えるのです。

いつもよりもとても分量が多い文章になってしまいました。
それだけ平成ライダーには思い入れがあるということで(笑)。
次回は第2作目「仮面ライダーアギト」の予定です。
全シリーズ見終えるのはいつになることやら・・・。
「ディケイド」が終わるまで達成できるかなあ。

「仮面ライダーアギト<平成仮面ライダー振り返り-Part2>」の記事はこちら→
「仮面ライダー龍騎<平成仮面ライダー振り返り-Part3>
「仮面ライダー555(ファイズ)」<平成仮面ライダー振り返り-Part4>の記事はこちら→
「仮面ライダー剣(ブレイド)」<平成仮面ライダー振り返り-Part5>の記事はこちら→

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本 「震える岩 霊験お初捕物控」

引き続き宮部みゆきさんの本を読みました。
こちらもミステリーですが、時代劇です。
いわゆる捕物帳ですね。
探偵役となるのは短編集「かまいたち」で登場したお初。
お初は岡っ引き六蔵の娘ですが、人の見えぬ物を見る能力、つまりは超能力を持っています。
ミステリーで超能力というと、なんでもありになりそうでどうかと思う方もいるかもしれませんが、おなじ宮部みゆきさんの「龍は眠る」や「クロスファイア」などでも超能力を扱っているので、このあたりの道具立ての使い方は非常に上手です。
タイトルにある「震える岩」というのは、「耳袋」にある「奇岩鳴動の事」という記録をベースにしています。
ちなみに「耳袋」というのは江戸時代の町奉行根岸鎮衛が書いた奇妙な話をまとめたものです。
その「奇岩」があるのが、あの忠臣蔵の浅野内匠頭が切腹した庭にある岩ということです。
「耳袋」に書いてある「奇岩鳴動の事」という記録は十行程度の記述なのですが、それを宮部みゆきさんは赤穂浪士の討ち入りと絡めたミステリーに見事に仕上げています。
このあたり作家というものは少ないきっかけからよくもこんなに想像力を広げる事ができるものだと感心してしまいます。
超能力を持つお初と数学が好きな変わった侍右京之介のコンビ振りもなかなか。
「霊験お初捕物控」はシリーズになっていて、本作の次が「天狗風」という作品。
こちらも今度読んでみたいと思います。

本作の続編「天狗風 霊験お初捕物控<二>」の記事はこちら→

「震える岩 霊験お初捕物控」宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN4-06-263590-9

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2009年1月25日 (日)

「バイオハザード ディジェネレーション」 やっぱり越えられない不気味の谷

公開している劇場が一つしかなく、かつ期間が2週間程度だったので、見逃していた作品。
プレステ時代のゲーム版は1、2、3とやりましたし、ミラ・ジョボビッチの実写版も好きなので、興味はあったんですけれど・・・。
ただ本作はゲーム原作でフルCGアニメだということで、「FF」の悪夢があるため躊躇もありました。
で、なんで今頃観ているのかというと・・・。
プレステ3を買ってしまったんですねー。
そう、これでおうちでブルーレイが観れるということになりました。
わかりやすく映像の綺麗さがわかるかもということで、こちらの作品で初ブルーレイ観賞です。

「FF」のときよりもCG技術の進歩もあるでしょうし、ブルーレイってこともあり、映像は文句なく綺麗。
特にテクスチャの表現がきめ細かく、素材の質感などよくでていたように思えます。
キャラクターの皮膚の細かいシワまで作り込んでいるのがわかります。
日本のCG表現はかなりのところまできています。
画を構成するパーツとしては。
動きもモーションキャプチャーでとっているということなので、自然なはずなのですけれど、画を全体として見るとどうもそう見えない。
なぜなのでしょう?
パーツ一つ一つは実写と見まごうぐらいに作り込まれている。
また動きは実際の人間の動きを取り込んでいるので、自然なはず。
CGを構成する要素をそれぞれ作り込んでいるはずなのに、どうも作りものめいて見えます。
これは実写に似せよう似せようと努力すればするほど、リアルな人間との細かい差異が余計に気になってくるような気がします。
ゲームの中の動画として観ている分にはいいのですけれど、映画として観るとやはりちょっと気になります。
わざとアニメっぽいキャラクターにする「アップルシード」みたいなやり方、またはピクサー作品のようなディフォルメみたいなやり方だと、実際の人間と違っても気にならないような気がします。
リアルという方向性を押し進めていくならば、構成要素をリアルにしていくという積み上げ式では限界があるのかもしれません。
構成要素をリアルにしていくだけではなく、総体としての自然さみたいなものを考えなくてはいけないのでしょう。
どうも不気味の谷というのはなかなかに越えがたいものなのかもしれません。

肝心のストーリーもそれほど目新しさは感じませんでした。
ゲーム版の後日談といったところですが、今までと同じような話に感じました。
前半の空港のシーンなどは原作ゲームをやっているようなハラハラ感(いつくるか、いつくるか、やっぱ来たー!といった感じ)を感じたのですけれども、後半の方はそういう「バイオハザード」らしさみたいなものは薄れてきて、普通のアクション映画を見ているような気がしました。
例によって、続きそうな終わり方ですが、次回作作る予定があるのかな・・・。
それともゲームの方に続くのかしらん。

劇中、レオンが「無駄撃ちするな、弾がなくなるぞ」みたいなことを言っていました。
いつもゲームではビビって無駄撃ちして、弾切れで死んでました・・・。
レオンさん、すみません。

実写版「バイオハザードⅢ」の記事はこちら→

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本 「淋しい狩人」

宮部みゆきさんのミステリーは、市井の人々を探偵役にしているものが多い。
本作では古本屋の店主であるイワさんという老人がその役回り(ワトスン役は孫の稔)。
古本屋の店主と言っても、某シリーズの中野の古本屋のように博覧知識で事件を解決するのではありません。
宮部さんに登場する年配のキャラクターというのは、その人生で学んできた人間を見る眼、人間性の良いところも悪いところもわかっている、つまり酸いも甘いもわかっているというところがあります。
その人間を見る慧眼によって、イワさんは事件を解決していきます。
宮部さんのミステリーには、悪意というものの固まりのような犯人が登場することがよくあります。
自分のために他人を犠牲にすることを厭わない人間が。
若いと、まだ理想主義的なところがあり、そこまで他人を傷つける人など本当にいるのかと思ってしまいがちですが、イワさんはそれも人間の側面としてもっているということを知っているように思えます。
人間というものはきれいごとばかりではないということを。
本作でも「うそつき喇叭」というエピソードはそういう側面を、ぐっとえぐっているような気がします。
また孫の稔が夜中に出歩くようになったときイワさんはこう言います。
ちょっと引用します。

「おまえのことは信用しているよ」と、イワさんは辛抱強く言った。「だがな、おじいちゃんも、おまえの父ちゃんもおっかさんも、いざという時、なにか良くないことがある時には、おじいちゃんたちがおまえに寄せる信頼なんかふっ飛ばされてしまうような勢いで、事が起こるってことを知っている。そういう瞬間風速の前では、家族の信頼なんて脆いもんだ。それくらい、世の中というのは何が起こるかわからないところなんだよ」

若いと信用してくれとか、してくれないとかそういう白黒をはっきりしたようなものの感じ方をします。
たぶん世の中というものをとてもシンプルに見ているのでしょう。
けれど実際の世の中というのはそれほどシンプルであるわけもなく、割り切れるものではありません。
それをイワさんは知っているように思えます。
けれどもそれを頭ごなしに孫に言うのではなく、噛んで含めるように説明するところがまたこれは年配者の知恵なんだろうと感じました。
宮部さんの小説には陰惨な事件も多いですけれど、こういうキャラクターが出てくるから何故か安心して読めます。

「淋しい狩人」宮部みゆき著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-136917-4

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本 「宗教vs.国家 -フランス『政教分離』と市民の誕生-」

政教分離というと、戦後の日本で暮らす僕たちにとっては、当たり前の大原則のような気がします。
確かに総理大臣の靖国参拝が賛否両論を巻き起こすことはありますが、それも政教分離が原則として皆に認識されているから。
けれどもこれは世界全体で見ると、共通した原則であるかというとそうではありません。
例えば先日就任したオバマ大統領の宣誓を見てもわかるように、歴代のアメリカ大統領というのはそのとき聖書に手を起きながら行います。
宗教の自由が保証されているアメリカではありますが、この宣誓式は政教分離という視点からいうと不思議なものがあります。
またアメリカでは聖書の考えに基づき、進化論を否定した教育を学校で行っているところもありますし。
ヨーロッパで見ると、イギリスは国教会ですから、王と国境の最高指導者が同一となっているわけです。
そういう例をみると政教分離という考えはそれほど一般的ではないというのがわかります。
その中で最もその考えが根付いているのが、フランス。
もともとフランスはカトリックの国でした。
そのためユダヤ教徒やプロテスタントはしばしば迫害をうけました。
けれども市民というものが次第に台頭し、やがて王権に対しての革命を起こします。
これは人間が自由に考え、そしてその考えに基づき行動することを求める運動と言ってよいでしょう。
それは既存の王権に対してだけでなく、宗教的権威、すなわちカトリックに対しての運動でもありました。
これは後の社会主義国家にあるような無宗教ということではありません。
カトリックが国教であったときのフランスは、国と宗教というものが不可分のものでした。
国の政策のベースにあるのはカトリックの教えです。
例えば教育などもそうです。
フランス革命後、フランスが模索したのは宗教からの自由です。
けれどもある種、そこでは不自由さを伴うものでした。
つまりは今までカトリックの教育を普通に行っていた学校では、その宗教教育を行うことを制限されていきました。
これはある種の不自由さです。
これをライシテ原則というそうです。
日本では政教分離という概念は戦後完成された形で持ち込まれたため、その意味合いを深く考えることはあまりありません。
けれどもそれは普遍化された概念というわけでもなく、ほんとに最近になって作られたものであることがわかります。
靖国問題などを論じる時に、政教分離という概念を作ったフランスの歴史を学ぶということは一つの方法のような気がします。

「宗教vs.国家 -フランス『政教分離』と市民の誕生」工藤庸子著 講談社 新書 ISBN978-4-06-149874-7

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2009年1月24日 (土)

「007 慰めの報酬」 新「ボンド」スタイルの確立

前作「カジノ・ロワイヤル」でリニューアルとなった「007」シリーズ、初めて観たときは違和感を感じましたが、すっかりこの新しいジェームズ・ボンド像に慣れました。
完璧なヒーローとしてのジェームズ・ボンドではなく、心に深い悲しみと痛みを持つ一人の人間としてのジェームズ・ボンド像というのは、ドラマに深みを与えているように思います(何をいまさら!と言わないで・・・)。
特に本作では「カジノ・ロワイヤル」で最愛の女性を失い、心に傷を持った男としてボンドが描かれています。
前作のストーリーをそのまま引き継いで作られるのは「007」シリーズでは初めてですよね。
つまりこのシリーズに初めて時系列というものが持ち込まれたわけです。
「カジノ・ロワイヤル」ではエージェントに成り立てでやや無鉄砲さといった若さを持っていたボンドが、「慰めの報酬」では悲しみを胸に秘めているために一段、大人の男としての渋みを持ったような気がします。
この時系列の導入によって、ボンドが成長していくということを描くことが可能になりました。
変化していくということによって、より人間としてのボンドを深く表現することができるようになったのです。
本作ではボンドはほとんどその表情に感情を表しません。
それは冷徹なスパイとして経験ができたということもあるのでしょうが、深い喪失感に重い蓋をしているためでもあるのでしょう。
悲しみや怒りというものは、あるレベルを超えると、それは表情にすらでなくなるものです。
それだけボンドが負った傷が深いとういことが伝わってきます。
このあたりは以前のシリーズが通して持っていたエンターテイメントとしての明るさではなく、ハードボイルドのような印象すら感じます。
この渋さを体現しているダニエル・クレイグがなんとも言えず格好がいい。
とはいえエンターテイメント、アクション映画としての見せ所も非常にあります。
オープニングシークエンスのカーチェイスシーンや、前回以上に上下左右に激しく動き回るアクションシーンなどは見応えがあります。
リアリティがありながら、見せるアクションは新しい「ボンド」アクションとして一つのスタイルを築いたような気がします。
「カジノ・ロワイヤル」はやや全体的に冗長な感じを持ちましたが、本作は長さとしてもコンパクトですし、テンポもいい。
感情を持ち、成長をしていく人間ジェームズ・ボンドを描く深みを持ちながらも、エンターテイメントとしての歯切れよさみたいなものも持っているような感じがします。
新しい「ボンド」スタイルが本作で確立されたように思えます。
心の中の深い悲しみを越えることができたボンド。
次回作ではどのような人間ジェームズ・ボンドを描くのか、期待したいと思います。

「007 カジノ・ロワイヤル」の記事はこちら→

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「クローンは故郷をめざす」 SFを通して行う「人間とは何か?」という思考実験

予告を観てどうしても観たくなった作品。
僕はSF好きなのですが、こういうテーマの作品は特に好き。
日本で特に映像作品でSFというと、宇宙を舞台にとか、タイムトラベルとか、特撮的・SFX的な表面的な映像表現ばかりに注目がいってしまいがちですが、本来的にはSFはそのような表層的なものではないと思っています。
SFとは皆さんがご存知の通り、サイエンス・フィクションの略です。
つまりSFとは科学を題材にし、どのような思いもよらぬ世界や未来を空想・仮想できるかというところがそのおもしろさなわけです。
そしてそのような仮想=ifの世界を通せば、人間というものとは何かという哲学的な問いを発し、考えることができます。
なぜならそういう仮想世界を設定することにより、人間というものを構成する要素で変わるもの変わらぬもの、というものを、つまりは人間の本質というものを認識しやすくなるからです。
つまり、SFというものは「人間とは何か」という問いについてのシミュレーションを行うための、便利なツールになるのだと思います。
このような映画で有名なものだと「2001年宇宙の旅」などはまさにそういう作品だと言えるでしょう。
こちらでは人間の進化そしてそれが行き着く先、それをコンピューターという人工的な精神との対比によって描こうとしています。
本作「クローンは故郷をめざす」ではクローン技術というものがシミュレーションを行うためのツールになっています。
再生された肉体、そして死ぬまでの記憶を持つクローンは、生前の人間と同一なのか、否か?
そこで発せられるのは人間とは何か?という問い。
これは人が自己というものを認識した時から、つまりは人間として覚醒した時から、自らに問うている命題でしょう。
宗教や哲学といったものは、その問いに答えるための思考によって生み出されたものだと思います。

人間の本質とは?
それは僕たちが触ることができる肉体なのか?
それともこのように思考している精神なのか?
思考を宿している脳なのか?
その脳に記録されている記憶という情報なのか?
いや、肉体や精神活動とは異なる霊魂のようなものなのか?
人間の本質と言っても、それがどこにあるのか、何ものなのかという答えは今までも様々なものが提示され続けました。
本作の中でもこれらの問いへの明確な答えはありません。
宗教や哲学などの精神的な学問と、いわゆるハードな現代的な最先端の科学というものは全く別方向に向いているようなイメージがあります。
けれども物理学や生物学などの学問が発達すればするほど、人とは何か?世界とは何か?という問いにいきつくような気がします。
究極の物理学がたどり着く先は宇宙創世の謎ですし、生物学が発達し本作のようなクローン技術が開発されたとき、それは生命倫理に至ります。
けれどそこまでは現実的には達せていません。
上記のように、まだ成立しない空想的な科学を用いてifの世界を描こうとするSFというジャンルは、哲学するための思考実験なのかもしれません。
日本の実写の映像作品で、このような人間を問う思考実験のようなタイプの映画は少ない気がしていますので、本作は貴重だなと思いました。

監督の中嶋莞爾さんはまったく存じ上げない方だったのですが、このような作品を作る方がいるとは嬉しかったです。
一般的に受ける作品だとは思えませんが、押さえた色調の映像、淡々とした長回しは、先に書いたような哲学的な思考を邪魔しない淡々とした語り口でした。
音や音楽の使い方も非常に神経を使っていたように感じ、不思議な情感が感じられました。
中嶋監督には今後もこのような作品を撮っていっていただきたいです。

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2009年1月18日 (日)

「仮面ライダーキバ」 物語のインフレーション

放映される前に雑誌でそのデザインを観たとき、かっこいいーと思った「仮面ライダーキバ」。
ライダーの基本デザインフォーマットに沿いながらも、ゴシック風というか、中世ヨーロッパ風のデザインがセンスが良かったです。
最近のスマートなライダーとは違い、どちらかというとタフネスというイメージがあるデザインだったと思います。
「侍ジャイアンツ」の番場蛮のハイジャンプ投法(知っている人がいるのか?)のようなライダーキックもケレン味があってこれも好きでした。
けれども数話いったところで、すぐに恒例のフォームチェンジが導入され、シンプルなキバフォームが観れなくなったのは残念。
後半はほとんどエンペラーフォームでしたし。
これはゴテゴテしていて、デザインがインフレーションを起こしていて、あまり好きではありません。
玩具を売らなくてはいけないのはわかるのですけれど、頻繁なフォームチェンジは次第についていきにくくなります。
「キバ」についてはデザインだけではなく、物語もインフレーションを起こしているような気がしました。
そもそも平成ライダーシリーズというのは、今までありえない革新を毎回取り入れていることが、シリーズを長く続けているエネルギーになっていると思います。
今までも「アギト」で複数ライダーの登場、「龍騎」で13人ライダーバトルロワイヤル、「響鬼」で中年ライダーなど新しい試みを行っています。
「キバ」でもその精神は引き継がれていて、2つの時間軸が並行して描くという今まであまり他のドラマでもやっていないことをやっています。
これは1年にも及ぶ放映期間があればこそできる試みでもあります。
ちなみに1年連続のドラマは現在はNHKの大河ドラマと、東映のスーパー戦隊シリーズ、仮面ライダーシリーズと数少ない(あと三池崇史監督がシリーズ構成を担当している「ケータイ捜査官7」も)。
この2つの時間軸を描くというチャレンジはなかなか興味深くもありました。
シリーズ全体の脚本は井上敏樹さんで、こういうチャレンジができるのはこの人くらいだろうという気もします。
けれどやはり井上さんらしいところでかなり中盤くらいまで物語と登場人物を膨らませてしまい、次第にそれぞれの人物の描き方が薄くなるといういつもの悪い癖がでてきてしまっているような気がします。
物語としては最後は力技でまとめあげるのですが、どうも昨年の「電王」のような強烈な印象をキャラクターが残せていない。
まさに物語がインフレーションを起こしているような感じで、どうも収拾がつかないような感じを受けました。
なので当初は世界観が好きだったのですが、中盤以降はなんとなく乗り切れない感じがありました。
これは「響鬼」の後半の印象に似ています(こちらも井上氏脚本。こちらはピンチヒッターだったから仕方がないですが)。
後半になればなるほど物語に入り込んでいけた「電王」とは好対照な感じがしました。

次週からは平成ライダー第10作目「仮面ライダーディケイド」が始まります。
なんと驚くことに今までの平成ライダー9作品のライダーが登場するということ。
今までの常識をくつがえすという平成ライダーの伝統は生きています。
作品の世界観も全く違うこれらをどのようにまとめあげるのかが見物です。

これもあって平成ライダーを「クウガ」から見直し中。
やっと「アギト」に入りました。
「ディケイド」が終わるまで全作見直せるか・・・?

「劇場版 仮面ライダーキバ 魔界城の王」の記事はこちら→
「劇場版 仮面ライダー電王&キバ クライマックス刑事」の記事はこちら→
テレビシリーズ「仮面ライダー電王」の記事はこちら→

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「感染列島」 今、そこにある危機

ずいぶん前から劇場で予告がかかっていた本作ですが、こういう邦画大作は外すことが多いので(昨年末の「252」などはそうでした)、期待しすぎないようかなり警戒しながら(笑)観に行きました。
こういうウィルスの脅威を題材とした作品には古くは「復活の日」とかありますし、最近のサスペンスものでは悪役テロリストの常套手段としての細菌兵器など取り上げられることが多いですよね。
本作もそのような使い古されたような題材を使い、どこかで見たような描かれ方をするのではないかという危惧を持っていました([L Change the WorLd」などはまさにこれ)。
誰か一人の人間が人類を救うとか、はたまた泣かせのドラマを展開するのではないのかという予想をしていたのです。
けれども蓋を開けてみると、思いのほか骨太でリアリティのある作品に仕上がっていました。
数年前アジアでSARSが大流行して以来、新型インフルエンザとか、パンデミック(感染爆発)などという言葉は最近ニュースでもとりあげられることが多く、このようなウィルス感染はとても今日的な問題です。
交通手段の発達によって人が行き来するスピードが飛躍的にあがり、感染者が発症する前に遠くの場所に移動し、知らないうちに感染者を増やしていくという危険性が増えています。
また本作でも触れられていますが、今まで人類が到達していない場所へも進出することによる未知のウィルスとの接触の危険性も増大しています。
そのような今日的な背景を押さえた上で、本作はもし日本でパンデミックが起こったならどうなるか、ということをシミュレーションしている作品になっています。
未知のウィルスに対し、人間はあまりにも力はありません。
アクションドラマにあるような注射をしたら瞬時に感染が治癒するような都合のいいワクチンなどありません。
それでも医師や看護士は、対処療法であろうとも目の前で苦しむ患者を救おうと戦います。
それでも患者は死んでいく。
救おうと戦っている医師や看護士たちも。
僕たちが暮らしている現実の日本でも、パンデミックが発生したら本作で描かれているような事態が起こる危険性は十分にあります。
その危険性を映画で描くにあたり、たった一人で人類を救うというヒーローという安易な解決策に逃げなかったのを評価したいと思います。
パンデミックの発生にも、その対応についても、あくまでもリアリティにこだわっています。
そういう事態に対応するのはヒーローではなく、人を救いたいと思いその責務を果たそうとする思いのを持つ人々。
武器を持たないまま戦っているような彼らが感じる無力感みたいなものがひしひしと伝わってきました。
また当初原因となったと考えられた鶏舎の経営者の家族や、最初の患者の家族、また看護士の家族などをめぐるドラマも、泣かせを狙う演出ではなく、あくまでも淡々と現実に起こりうるような描き方をしていたように思います。
それらはとても残酷と思えるほどのリアリティ(鶏舎家族への脅しや居なかった家での略奪など)で描かれますが、それによりこういう事態が現実に起こりえるという感覚にさせられます。
国や自治体、そして企業などではこのような事態への対策も検討していると報道されています。
これは映画の中で描かれるだけの事件ではなく、現実的にも十分にあり得る「今、そこにある危機」と言えるのでしょう。

「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える」
本作で引用されていたこの言葉、知らなかったのですが、東欧の詩人ゲオルグという人の言葉らしいですね。
目の前に絶望的な状況があったとしても、それでも未来を信じて行動するということを表しているのでしょうか。
まさに本作のひとりひとりの登場人物の行動を言い表していると思います。

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本 「悪夢の観覧車」

前作「悪夢のエレベーター」がかなりおもしろかったので、再び木下半太さんの作品を手に取ってみました。
前作と同じように「悪夢の」とついていますが、続編ではありません。
観覧車という「密室」を使ったミステリー、復讐がテーマという点では同じですけれど、筋立てはまったく違います。
本作もこれでもかというほどの意外な展開の連続。
全体のトーンは大阪ノリの軽いタッチなのですが、ミステリーとしては実はしっかりと考えられています。
最初から伏線がかなり張られているので、この作品の中身についてほとんど話すことができません・・・。
とはいってもいろいろなことを覚えておかなければいけないような肩肘を張ったような複雑さを持っているわけでもないので、サクサクと読めます。
笑えれる部分もありますし。
それでいてラストはアッと言わせてくれます。
前作のレビューのとき、映画にしてもおもしろいかもと書きましたが、本作の方が映画向きですね。
この悪夢シリーズ(?)、次回作もすでに刊行されていますよね。
次は「悪夢のドライブ」というタイトルだとか。
これも期待度が高まります。

木下半太作「悪夢のエレベーター」の記事はこちら→
木下半太作「悪夢のドライブ」の記事はこちら→

「悪夢の観覧車」木下半太著 幻冬社 文庫 ISBN978-4-344-41129-6

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2009年1月17日 (土)

本 「ミラー・メイズ」

ジェイムズ・P・ホーガンのポリティカル・スリラー。
ホーガンは「星を継ぐもの」などの代表作があるSF作家なので、こういうジャンルは珍しいと思います
この作家は大学生の頃から好きで、ほとんどの作品を読みました。
その中、唯一読んでいなかったのが、本作でした。
ちょっとホーガンのポリティカル・サスペンスというところにあまり惹かれず・・・。
彼の作品はハードSFに分類されると思いますが、この作家の好きなところとはと言えば、科学に対する楽観的な姿勢でしょうか。
20世紀も最後の20年くらいからは、それまでの科学の発展に伴い、人類の繁栄がなされるといったような楽観的な見方が薄れてきました。
その頃のSF作品などをみても、サイバーパンクなどにあるようにダークな印象のある未来が描かれています。
けれどもそれよりも前の時代、例えばアーサー・C・クラークやアイザック・アシモフが活躍していた頃のSFというのは、もうすこし未来はバラ色だったように思えます。
当然科学は万能ではなく、様々な問題をはらんでいるのですが、技術ではなくそれをコントロールする人間というものの理性を信じていたような感じがあると思います。
そういう理性を信じる姿勢というのを、ホーガンは継いでいるような気がしています。
本作のテーマもまさにその通りで、理性や自由というものを信じている姿勢が出ていると思います。
けれども小説としておもしろいかというと、どうもポリティカル・サスペンスというのはホーガンにはあまり合わないような気がしました。
やはりSFのほうが彼のセンスが活きるような気がします。
それよりもこの数年彼の新作を見かけないのですけれど、邦訳されていないのですよね。
東京創元社さん、よろしくお願いします。

「ミラー・メイズ<上>」ジェイムズ・P・ホーガン著 東京創元社 文庫 ISBN4-488-66313-3
「ミラー・メイズ<下>」ジェイムズ・P・ホーガン著 東京創元社 文庫 ISBN4-488-66314-1

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「ザ・ムーン」 それでも人類は月へ行くべき

僕が物心ついた時には、人類はすでに月に到達していました。
アポロ11号のアームストロングとオルドリンが人類史上初めて月の地に立ったのが1969年。
ちなみに「2001年宇宙の旅」が作られたのが1968年。
僕が子供の頃は、大人になるころには、月に行くことくらいはできるようになっているように思っていました。
けれどもアポロ17号から37年も経っていますが、その間、人類は一度も月に降り立っていません。
本作の中にもあるケネディの演説から10年も経たないうちに月に到達したのに比べ、この40年間は月探査に関しては目立った成果をだせていないのが現状です。
その原因としては米ソの冷戦に関連した宇宙開発競争が、アポロの成功によりアメリカの勝利として一定の決着がついたこと、またその勝者アメリカもベトナム戦争の泥沼化により、莫大なコストがかかる宇宙開発へ資金を回すことができなくなったことなどがあるでしょう。
その後、アメリカは80年代に不景気に突入し、宇宙開発への資金の振り分けは更に少なくなります。
また宇宙開発自体も純粋な研究という視点よりは、より実利のありそうな地球周辺での開発に主軸が移っていきました。
そのために月の探査というものはしばらく顧みられなくなったのです。
ブッシュ政権は再び月基地の建設というものを目標に掲げましたが、政権が変わったこと、また世界的な経済の悪化という状況からして、これもどうなるか不透明と言えるでしょう。
僕が子供のころというのは、科学というのは万能でなにかキラキラしたようなイメージがありました。
未来都市とか、宇宙ロケットとか、ロボットとか。
科学というものには人間の知恵がつまっていて、進歩というものは人間社会を豊かにしていくというイメージです。
けれども現代において、科学技術というものはプラスというよりもマイナスなイメージが多いような気がします。
それはやはり地球温暖化や環境問題が取りざたされたりする中、それの引き金となっている人類の科学というものへの不信感というものがあるのだと思います。
けれども、そういう不信感がありながらも、やはり僕は科学技術というものを信用したい。
それを培っていく中で、人間はよりよく生きるための知恵を編み出すと思うから。
月への探査も、単なるコスト視点や、科学技術へのマイナスイメージで排除されてはいけないと思います。
なぜなら月に人間が立つということは、初めて地球を客観的な視点で眺めることができるからです。
本作の中でも月に行った宇宙飛行士が言っていました。
そこから地球を見るととても小さく見えると。
別の宇宙飛行士は「いやな天気がなくなる」とも言っていました。
たぶん外から見た地球はとても儚げに見えるのでしょう。
そしてそれらがとても愛おしく思えるのでしょう。
そういう地球を客観的に多くの人が見ることができるようになったら、もっともっと地球のこと、人類全体のことを大切に思えるようになると思うんですよね。
だからこそ、人類は月を目指さなくてはいけない、とそう思っています。

本作をご覧になって、人類の月への歩みに興味が出た方へのお薦め書籍があります。
まずは立花隆さんの「宇宙からの帰還」
宇宙飛行士のインタビューをまとめたもので、外から地球を見た人がそれぞれその体験が、その後の人生に大きな影響を与えたということがわかります。
パラダイム・シフトと呼べるほどの体験になるのでしょう。
あとは本作もプロデュースしたロン・ハワードが制作した「フロム・ジ・アース」というドラマの原作「人類、月に立つ」。
こちらは月に立つまでの科学者たち、宇宙飛行士たちの悪戦苦闘がよくわかります。
ご興味ができた方は是非。

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2009年1月12日 (月)

本 「黄金旅風」

飯嶋和一氏の作品は初めて読みます。
昨年「出雲前夜」が大佛次郎賞をとって、書店にも飯嶋さんの作品はかなり並んでいますよね。
本作はハードカバーが出版されたときから気にはなっていたのですが、最近文庫になっていたので読んでみました。
舞台となるのは江戸時代初期、将軍家光の時代の長崎。
戦乱の世が終わり、次第に社会は安定していこうとする時代です。
長崎という街は、異国との貿易の開かれた窓口ということで、様々な国の人が暮らす自由な土地柄でした。
けれども幕府の重鎮たちや長崎奉行は統制を強め、また私利私欲に走った行いをするようになります。
そのような中に長崎のために立ち上がる風雲児、末次平左衛門と平尾才介が本作の主な登場人物。
二人の傑物の生き様を描いたのが本作です。

かなり読み応えのある作品でした。
小説というのは、同じくらいのページ数でもサラサラと読める作品と、時間がかかってしまう作品とありますよね。
本作は明らかに後者ですが、難解というわけもありません。
イメージでいうと、しっかりと歯ごたえがある食べ物を何度も咀嚼して食べていく感じに近いです。
食べるということ自体はそれほど難しいわけではないけれど、それを味わうにはしっかりと噛んで食べなくてはいけない。
そうするとその味わいが深く感じられるといった感じでしょうか。
密度が濃いというか、骨太であるというかそんなイメージです。
なかなかうまく言えないのですが、本作を読んだ方はわかると思うんですけれど・・・。
そういう意味では、小説好きの方、玄人好みの作家さんかもしれません。
「出雲前夜」も興味がでてきました。
こんどそちらも読んでみようかと思います。

「黄金旅風」飯嶋和一著 小学館 文庫 ISBN978-4-09-403315-1

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「チェ 28歳の革命」 判断保留

チェ・ゲバラ。
顔は知っている、街で売られているTシャツにその顔がプリントされているから。
でもその他に知っていることと言ったら、キューバ革命でカストロの腹心だったということくらい。
街であのTシャツ着ている若者もほとんど彼のことを何も知らずに着ていることでしょう。
彼についてほとんど何も知らなかったけれども、多くの人に英雄と言われているその人物に興味があったので、本作を観にいきました。
ちょっと不安があったのは、前後編合わせて4時間を越える大作であるということ。
そしてスティーブン・ソダーバーグ監督であること。
ソダーバーグ監督は評価の高い監督ですが、「オーシャンズ11」とか「トラフィック」とかそれほどいいと思ったことはありませんでした。
どうも自分とはあまり相性が良くない感じがあります。

さて2部作の前編となる「28歳の革命」です。
観終えたところでの評価としては、その評価は後編を観るまでいったん保留というところになります。
もともと1つの物語として作られ、あまりの長さのために前後編に分けて公開ということになったのでしょうか。
他の前後編の作品などでは前編でもいちおう起承転結的な構造にしてあるものですが、この作品についてはまさに「起承」のみで終わっています。
小説などで上下巻が分冊されているような感じです。
なので前編だけで評価を行うことはできないですね。
前編ではチェがキューバ革命に身を投じ、革命を成功させるまでを描いています。
歴史としてはこの後、チェはキューバを去り、アフリカでの解放運動に参加します。
多分これが後半の「転結」で語られることなのでしょう。
チェはキューバ人ではなく、アルゼンチン人です。
彼は自国民ではなく、他国の虐げられた人々のために戦った人物なのです。
彼の中にはそのような支配され搾取されるものへの思いがあり、だからこそキューバ革命が成功したあと、アフリカへ旅立ったのでしょう。
たぶんその思想に共鳴する人々が彼を英雄と考えるのでしょう。
個人的には虐げられた人々への思いというもの自体はわかるのですが、そのために武力闘争しかないという結論自体には共感しがたいところはありますが。
ともあれ、チェという人物、その思想というものには興味がでてきたので、後半でその人物像がどのように描かれるのか期待したいと思います。

ソダーバーグの演出はやはり相性があわないという感じは本作を観ても思いました。
時間軸が頻繁にいったりきたりする構造、あくまでも淡々と語られていく物語、わかりにくさというか、わざととっつきにくくしているのではと思えるような肌感がどうもなじめない・・・。
観終わったときは、後編を観るのは止めようかとも思ったのですが、やはりチェ・ゲバラの生き様というのを最後まで観てみたいという思いはあるので、やはり行こうとは思っています。
ソダーバーグについてはそのときもう少し書いてみたいと思います。

「チェ 39歳別れの手紙」の記事はこちら→

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2009年1月10日 (土)

「ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー」 見えないものを見せる力

これは楽しみにしていた作品。
前にも書きましたが、マイク・ミニョーラの原作コミックも大ファンですし、ギレルモ・デル・トロ監督も大好き。
本作「ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー」は第一作に引き続いてギレルモ・デル・トロ監督ですし、またマイク・ミニョーラもヴィジュアル・コンサルタントに名を連ねているわけで、期待せずにはおられません。
結果としては満足できる出来だったと思います。
第一作はラヴクラフトを彷彿とさせるようなオカルト風味がありましたが、本作は「パンズ・ラビリンス」でデル・トロ監督が描いた世界を思わせるダーク・ファンタジーのテイストがあります。
こういう世界は理屈抜きに好きなんですよね。
どうも彼らの描くヴィジュアル世界が自分の好みととても近いようです。
京極夏彦とか、実相寺昭雄とか、ギレルモ・デル・トロとか・・・。
名前をあげると突拍子もない組み合わせのようですが、この方たちはなんというか現実のすぐ裏っ側にある不可思議な世界を描いているような気がするんですよね。
それらはオカルティックであったり、疑似科学的であったりするフィクションなのですが、異世界ファンタジーのようなまったく現実感のない世界ではありません。
日の当たる現実世界と繋がりをもった、けれども想像力のない人には見えない裏側を描こうとしているような気がするのです。
妖怪だとか、妖精だとかいうものは見えないだけで僕たちのすぐ側にいるのかもしれません。
この見えないものを見せようとする想像力に惹かれてしまうような気がします。
特にギレルモ・デル・トロはそのイマジネーションがとてもオリジナリティがあって、彼が生み出すクリーチャーというのは、妙な現実的な肉体感を持ちながら、ありえない非日常な不気味さも併せ持つようなテイストがあります。
このあたりとっても趣味が入っているので、このテイストが合わない方はまったくダメでしょうけれども。

第一作の出演者がそのまま登場しているのが嬉しい。
ヘルボーイを演じるロン・パールマンはまさにはまり役といっていい感じで、実写では彼以外のヘルボーイは想像できません。
デル・トロ監督お気に入りのダグ・ジョーンズもサピエンを再び演じています。
この方の独特な動きというのも他の方にはマネできないような気がします。
新たなキャラクターである、クラウスもこれは自分的には好き。
これはまさにガス人間!(幽体離脱したときに肉体がなくなってしまったため、気密スーツに入っているという設定)
なんていかしたアイデアでしょう。

本作ラストでヘルボーイはBPRDを離れます。
原作も最新刊ではヘルボーイはBPRDを離れ世界を放浪中。
クラウスの過去にもいろいろありそうですし。
デル・トロ監督は3作目への布石をいくつか打っているということを言っていたので、このあたりが続編に繋がるポイントかもしれません。
なにとぞ、3作目をお願いします。

第一作「ヘルボーイ」の記事はこちら→
ギレルモ・デル・トロ監督「パンズ・ラビリンス」の記事はこちら→

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2009年1月 6日 (火)

本 「はじめての死海写本」

「死海写本」と聞くとなんとなくワクワクしてしまいます。
「エヴァンゲリオン」とかにも言葉が出てきますし、トンデモ学説などのネタにもなってますし、なんとなくミステリアスですから。
なんでこのようにミステリアスな感じがするかというと、その発見がほんのつい最近のことだからでしょう。
このユダヤ教に関する文書群は、書かれてから2000年近くの間、誰の目にも触れずあるとき突然、ベドウィンによって発見されました。
その後、人の手から手と渡り、またアラブ諸国とイスラエルの緊張などがあり、その公開までは時間がかかったことも関係あるでしょう。
トンデモ本などではその内容などにいろいろ謎めいたところを読みますが、実際の死海写本の内容はそんなことはなくユダヤ教の一派の教典だということです。
タイトルを読んだだけで読み始めましたが、その時の期待としてはその発見などの経緯に関しての物語でした。
けれども内容としては、死海写本と旧約聖書や新約聖書の同一点や差異点、またその成立の歴史的背景などでした。
これは読んでいても、キリスト教、とりわけ聖書の内容にかなり通じてないとなかなか苦しい。
僕は聖書中の有名なエピソードはいくつか知っていますが、その文章を諳んじているほどではないので、ややチンプンカンプンなところもありました。
詳しい方が読めば、なるほどと思うのかもしれません。

「はじめての死海写本」土岐健治著 講談社 新書 ISBN4-06-149693-X

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2009年1月 5日 (月)

「必殺仕事人 2009」 閉塞感のある時代だからこそ

2007年の夏に放映されたスペシャル版と同じキャストで、新年早々「必殺仕事人」のスペシャル版です。
今週金曜日の夜からレギュラー番組として久しぶりの復活します。
前回2007年のときのスペシャル版の記事の時に、パイロット版的な役割かなと書きましたが、まさにそういう感じだったのでしょうね。
基本的な物語の構造は従来の黄金パターンを本作品も踏襲しています。
これは偉大なるワンパターンであるのですが、「必殺仕事人」というシリーズは、時代劇でありながら、それが制作されたときの時事を取り入れた風刺があるのが、時代の空気のような新鮮味のようなものを感じるところだったりもします(なので昔の再放送を観るとピンとこなかったりもする)。

貧乏な老人たちが住む長屋は立ち退きをさせられようとします。
それを陰で仕組んでいたのは薬問屋恵比寿屋で、彼は薬を庶民に安く売って(このあたりドラッグストアを想起させます)仏の善兵衛と呼ばれますが、実は舶来ものの安い薬が江戸に入ること防ぎ、また医者たちを接待し、自分のところの薬を処方させ、利益を得ていました。
割りを喰うのは貧乏人ばかり・・・。

今回のスペシャル版では、このように医療問題、後期高齢者医療制度問題などを風刺していました。
必殺仕事人というのは、庶民に変わって「晴らせぬ恨みを晴らす」というのが商売。
何かと閉塞感がある今の時代に「必殺仕事人」というシリーズが復活するというのは、フィクションの中だけでも悪を成敗して欲しいという気持ちの表れなのかもしれませんね。

やっぱり藤田まことさんの中村主水はいいなあ。
仕事人の顔ですね。
東山紀之さんもかっこいいけど。
さてレギュラーシリーズはどんな感じで展開していきますか・・・。
期待しております。

「必殺仕事人2007」の記事はこちら→

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2009年1月 4日 (日)

「幻影師アイゼンハイム」 ミステリーとしてはどうか?

昨年公開されたエドワート・ノートン主演の作品。
舞台となっているのは19世紀末のウィーンで、人々を驚かせるイリュージョンを見せる幻影師(奇術師)アイゼンハイムと公爵令嬢とのラブストーリーです。
映像は映画黎明期のようなレトロなテイストがあって趣があります。
公開時にも驚きのラストといった感じで喧伝されていたと思いますが、最後の10分くらいがその種明かしがあります。
本作をミステリーとして観ると、ややラストについては乱暴なような気がしました。
事件を追う警察官が最後にその真相に気づくということでフラッシュバックのように種明かしをするのですが、ちょっとバタバタとしているような気がします。
物語の途中で真相のヒントとか伏線の仕込みがそれほどきちんとされていないように思えます。
それがあった上で、ラストに種明かしがされ、その巧みさがわかるということならば良いのですが、そうはなっていなかったような気がします。
事件自体もその目的自体は中盤くらいで察せられるので、その真相がわかってもそれほどの衝撃も受けません。
どちらかというとこれは脚本というよりも演出・編集の問題のような気がしますけれども。
本作についてはミステリーとして観るよりも、やはりラブストーリーとして観た方がいいのかもしれません。
それでももう少しこちらについても登場人物の感情などがはっきりとしているともっと良かったような気がします。
出演者が比較的表情が乏しげな演技をしていたように思いました(これは事件の真相をはっきりとさせないための計算かもしれませんが)。
19世紀末のウィーンを舞台にした雰囲気自体は良かったので、ややミステリーとしてもラブストーリーとしてもやや残念な出来かなとは思いました。

エドワード・ノートン主演「インクレディブル・ハルク」の記事はこちら→

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2009年1月 3日 (土)

本 「テンペスト」

「テンペスト」と言っても、あのイギリスの文豪の作品ではありません。
こちらの作品は、池上永一さんが書かれた「テンペスト」です。
舞台はかつての琉球王国、時代は日本本土では幕末の時代。
琉球王国は清と日本の間にあるために、両国との関係性のバランスを上手くとりながら長らえてきました。
けれども清が英国に破れ、日本も欧米諸国より開国の圧力を受けているという状況の中、琉球王国自体も嵐のさなかのような時代の流れに押し流されていきます。
そのような琉球王国の宮廷が物語の主な舞台。
けれどもいわゆる歴史小説のような重さはなく、かなり気軽に読んでいけます。
どちらかというと琉球王国の宮廷を舞台にした恋愛小説といったほうがいいかもしれません。
上巻の帯にある「ベルばらの琉球版か」という宗田理さんの言葉は言い得て妙です。

タイトルのtempestというのは嵐という意味なんですね。
本作はまさに嵐のさなかのように怒濤の如く物語が進んでいきます。
作者の池上永一さんが書かれた「シャングリ・ラ」もそうでしたが、かなり情報量やアイデアが詰め込まれているにも関わらず、基本的にはコミックのような展開なので読むのはつらくありません。
読みやすさという点ではライト・ノベルに近い感覚もあります。
登場するキャラクター造形は、まさにライト・ノベルという感じで歴史小説の風格みたいなものはほとんど感じません。
どちらかというと軽い感じがするので、歴史小説と思って手に取った方は肩すかしのように感じるかもしれません。
登場人物がアニメっぽいというか、コミックっぽいところがあるので、その辺りが好きずきが分かれるポイントになるでしょうね。
僕も「シャングリ・ラ」を読んだ時はSF小説のつもりで読んでいたら、けっこう軽くて違和感を感じたものでした。
そのあたりこの作者の作風だと思ってしまえば気にならなくなるのですが、最初はとまどうかもしれません。
逆にライト・ノベルから小説を読み始めたような若い読者には取っ付きやすい歴史もののような感じもします。

池上永一作品「レキオス」の記事はこちら→

「テンペスト<上> 若夏の巻」池上永一著 角川書店 ハードカバー ISBN978-4-04-873868-2
「テンペスト<下> 花風の巻」池上永一著 角川書店 ハードカバー ISBN978-4-04-873869-9

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「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」 永久の化学反応

本作はマーティン・スコセッシがディレクターを務めたザ・ローリング・ストーンズのドキュメンタリーです。
ライブが始まる前のパートはなんとなくスコセッシの香りがしましたが、あとは時折挿入されるインタビュー映像以外は、ストーンズを見せるということに特化したライブの映像で組み立てらています。
ザ・ローリング・ストーンズは超有名なバンドですから、洋楽の知識がからきしダメな僕でもさすがに知っていました(映画でよく使われますから)。
なんとなくバンドというのは「音楽の目指す方向性が違ってしまった」などといって何年か経つと解散してしまうようなイメージがあります。
けれどもストーンズが結成されたのは1962年ということですから、これは僕が生まれるよりも前!
もう46年も彼らはずっと同じバンドをやっているんですね。
そこにまず驚きます(サラリーマンだって定年まで勤めたとしても40年くらいですから)。
ロックが産声をあげた時から、その先頭を走り続けているストーンズ。
ライブの映像を見ても彼らが60歳を過ぎているなんて到底思えません。
挿入されていた過去のインタビュー映像(彼らがブレイクしたとき)で、若かりし頃のミック・ジャガーが「化学反応が起きた」という発言をしています。
これは言い得て妙だと思いました。
本作で彼らのライブ映像を観てみるとまさに「化学反応」のようです。
それはメンバー同士、ゲストのアーティストと、そして会場に来ているファンたちと、それぞれの間で「化学反応」が起き、より大きな連鎖反応を起こしているような感じがしました。
そもそもがライブというのは、アーティストと観客との一体感みたいなものが生まれる場です。
でもストーンズのライブというのは、その反応が他のアーティストよりもさらに激しいのかもしれまえん。
スコセッシはこのドキュメンタリーを撮るにあたっては小さな会場にすることにこだわったようですが、そのほうがストーンズと観客の一体感というものをより見せられるという計算があったからのような気がします。
それぞれの間にある「化学反応」は、ただ放っておくとだんだんとその反応は鈍くなっていくような気がします。
バンドメンバー同士の間でも刺激がなくなってくる。
けれどもストーンズは40年以上にも渡って活動を続けています。
彼らはその「化学反応」を劣化させないような努力をしているような気がします(本人たちが意識しているかどうかは別にして)。
メンバー同士が互いにリスペクトしつつも、刺激し合うような間柄で居続けること。
観客を常に反応させることを考えていること。
これは冒頭にスコセッシにその日のライブの曲が直前まで連絡されないということからも想像できます。
彼らはその日の自分たちの調子・ノリや、観客の雰囲気を見ながら、ギリギリまで曲を決めないのではないのでしょうか。
最も大きな「化学反応」を起こすために。
化学反応は反応する物質が枯渇すれば、反応は止まります。
ストーンズはそれを絶やさぬように常に刺激を与え続けることを考えている。
それを行い続けるからこそ、彼らはずっと最前線で活躍できているのかもしれません。
まさに永久の化学反応を続けているかのように。

マーティン・スコセッシ監督「ディパーテッド」の記事はこちら→
マーティン・スコセッシ監督「アビエイター」の記事はこちら→

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2009年1月 2日 (金)

「アラトリステ」 スペイン版任侠もの

2009年はこの映画からスタート、「アラトリステ」です。
ヴィゴ・モーテンセン主演でスペインの架空の剣客アラトリステを演じます。
予告を観て剣劇ものかと思って観にいったのですが、前半思いっきり寝てしまいました・・・。
言い訳するわけじゃないですが(してるじゃん)、寝てしまった理由を。
その一。
西仏戦争の頃のイベリア半島の歴史に全く疎くて、最初お話についていけなかった。
そのニ。
出てくる人が、髭をはやしていてラテンな顔つき(当たり前か)のためみんな同じ顔に見えて、登場人物の関係性がよく把握できなかった。
その三。
長かった・・・のと、物語がとても淡々としていて・・・。
途中からがんばって覚醒しようと努力をしたのですが、乗り遅れてしまったため、登場人物に感情移入できずそのまま不完全燃焼で終わってしまいました。
もっと活劇風なものだと思っていたのが、よくなかったのかもしれません。

描かれる時代は世界の覇権を握っていたスペインが没落をしていく頃です。
王はフェリペ4世でしたが、その側近オリバーレス伯爵が実権を握っていました。
オランダとの戦いを終え、祖国に戻った歴戦の勇士アラトリステが本編の主人公になります。
アラトリステは戦えば勇猛果敢に敵を倒す剣豪であり、義に厚い男。
帰国後彼は刺客となりますが、諸外国との争い、国内での権力闘争などにより陰謀が行われ、アラトリステもそれに巻き込まれます。
それでも彼は義を重んじ、そのために友情や愛も犠牲にします。
この作品を観ながら「ああ、これは昔の東映のヤクザ映画のようだ」と思いました。
そう思うとアラトリステが高倉健さんに見えてくる・・・。
言葉少なく、義のために自分を捨て、いざ戦いとなればその強さは比類がない。
アラトリステは高倉健さんが演じたキャラクターを彷彿させます。
これはまさに任侠映画。
この手のジャンルが好きな方は楽しめるかもしれません。

しかし・・・、今年最初のレビューなのに切れ味なくてすみません・・・。

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2009年1月 1日 (木)

「ユニバーサル・ソルジャー」 わ、若い・・・

なんで今頃こんな映画を観ているんだという感じですが・・・。
先日「その男 ヴァン・ダム」を観て、なんとなくジャン=クロード・ヴァン・ダムの作品が観たくなってしまったんですよね(笑)。
あと年末年始はおもしろいテレビ番組もないですし、こういうB級アクションは気軽に観れますしね。

さてそのヴァン・ダムですが、若いですねえ。
もう19年前の作品ですから当たり前ですけれど。
「その男 ヴァン・ダム」でうらぶれた姿を観た後だけに、若いなあと思ってしまいました。
お話はというと、ヴェトナム戦争時あるアメリカ部隊が全滅の憂き目に遭いました。
しかし男たちの死体はある組織に引き取られ、生化学的な処理をされ、無敵の戦士ユニバーサル・ソルジャーとして甦ったのです。
彼らは脳をコントロールされており、命令に忠実に働く完璧な戦士になっていました。
監督はそのころ売り出し中のローランド・エメリッヒ。
この頃から荒唐無稽な設定が好きなんですね、この方は。
あらためてこの作品を観てみると、お金をあまりかけていないということに気づきます。
お金をかけているのはユニバーサル・ソルジャーの移動基地となっているあのトラックくらいじゃないかしらん。
この後、ローランド・エメリッヒの作品はどんどんお金をかけていく典型的な大バジェットのハリウッド映画になっていくのですが、この頃はまだかわいらしいもんでしたね。
本作ジャン=クロード・ヴァン・ダムの敵役となっているのは、ドルフ・ラングレン。
この方も「あの人は今」って感じもありますが・・・。
「ロッキー3」でスタローンの相手を演じた方ですね。
どうでもいいけどドルフ・ラングレンはオランダの格闘家セーム・シュルツに似ているような気がします。
ヴァン・ダムもラングレンもそれほど演技がうまいとはいえないですが、サイボーグ戦士の役なので、多少演技がダイコンでも気になりません。
うまい配役だと言えば、そう言えるでしょう。
ストーリーとしても今となってはそれほどびっくりするところはなく。
あの頃のマッスルアクション全盛期の頃を思い返すにはいい作品かも知れません。
とはいえ二人の肉弾戦も思いのほか少ないんですよねー。

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