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2008年12月31日 (水)

本 「プレイヤー・ピアノ」

前に雑誌の本の特集でどなたか書評で推薦されていたので読んでみました。
こちら「プレイヤー・ピアノ」は以前より作品名は知っていましたが、もう古典の域に達している(1952年なので)作品ですよね。
舞台となるのは品質・効率・安定を追求し、工業化・機械化が進んだ社会。
そこでは機械の設計者である技術者と機械の管理ができる管理者が社会の中で高い地位を与えられています。
それ以外の人々は次第に機械でその仕事を差し替えられて、軍隊か道路などの修理をするような業務にしかつかせてもらえなくなっています。
作品が書かれた時代には、近未来のことだったと思うのですが、今周りを見渡すとまさにそのような状況に近くなっているような気がします。
この物語で機械に仕事を奪われた人々は何を求めるかというと「働きがい」なんですよね。
自分のやったことが人に役立っていることを味わう実感。
これは仕事をしていくにあたって、もしかするとお給料よりも大切なことかもしれません。
これだけ人間が増え、またグローバルに繋がっている世界において、人は大きなシステムの一つ部品となってしまうのはいたしかたありません。
けれどもその部品がきちんと「働きがい」を持って仕事をできなくてはその大きなシステムも動かないのです。
「派遣切り」「内定取り消し」などいろいろ最近雇用関係で問題が起きていますが、これは企業経営としてはそれを選択せざるをえない厳しい状況であることは重々承知の上なのですが、やはりこれは人をシステムの部品とするという側面でしか捉えていないような気もします。
本質的にはシステム(国や会社など)があるのは人々の豊かな生活のためであるので、それを忘れてしまうと様々な問題が出てくるような気がします。
何十年も前の小説で今の世の中を見越したようなことを書いている本作、未来を予見するというSFというジャンルのすばらしさを実感した作品でありました。

「プレイヤー・ピアノ」カート・ヴォネガット・ジュニア著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011501-X

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2008年12月29日 (月)

2008年を振り返って<映画>

さて恒例の(と言っても2回目ですが)2008年の振り返りをやってみたいと思います。
昨年はあと1本で大台と書いていたのですが、今年の劇場鑑賞作品の数は軽く大台を越え、年間122本に及んでおりました。
びっくり。
今年は仕事がかなり忙しく、ストレスフルなものが多かったんですけれど、そうなると休みの日に映画が無性に観たくなるんです(現実逃避という説もあるけれど)。
なので本数が激増したのかな。
とはいっても2008年はこれは初日に観たいぞというような期待が大きかった作品も多かったのも事実でした。
では今年のベスト10を発表です(昨年はベスト5だったのですが、絞れなかった・・・)。

 1.「ダークナイト」
 2.「デトロイト・メタル・シティ」
 3.「パコと魔法の絵本」
 4.「アフタースクール」
 5.「WALL・E/ウォーリー」
 6.「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン-」
 7.「クライマーズ・ハイ」
 8.「クローバーフィールド/HAKAISYA」
 9.「バンテージ・ポイント」
 10.「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」

さて1位の「ダークナイト」。
おそらく数多くのブロガーさんが今年No.1にしているであろうと予想される作品です。
僕の中でも他作品に圧倒的な差をつけての1位だと思っています。
ヒーローものの前提である善と悪というものを深く深く掘り下げたテーマ性を持ちながらも、高いエンターテイメント性を持った作品。
絶対的な悪として描かれるヒース・レジャー演じるジョーカーの印象も強く残っていますが、やはりヒーローもの根底に関わるテーマをこのように掘り下げた脚本、演出がすばらしいと思います。

2位の「デトロイト・メタル・シティ」、こちらは役者はやはりすごいと思い知った作品です。
「ダークナイト」のヒース・レジャーも演じているというよりはジョーカーという存在がそこにいるという感じでしたが、本作で松山ケンイチさん演じるクラウザーさんもまさにそんな感じ。
松山ケンイチさんという人は、どんなキャラクターでも雰囲気というか魂からしてなりきるような役者さんに見えます。
もちろんメイクをしたりとはしているのですが、やはり松山ケンイチではなくそのキャラクターがそこにいるという感じに思わせるのがスゴいと思うのですよね。
原作のエッセンスをうまく解釈してストーリー仕立てにした脚本もよくできていました。

3位は「パコと魔法の絵本」。
これは作品の中で語られていることにとても共鳴してしまったからです。
詳しくはそのときの記事のところを読んでいただけると幸いですが、「自分だけで生きているのではない」という当たり前のことを改めて感じさせてもらった作品でした。
邦画とは思えないカラフルな映像・音楽も楽しかったです。

4位「アフタースクール」。
結局この作品は3回も観ました(さらにDVDも買ってしまった)。
観る度になるほどと思わせる脚本がすばらしい。
こういうドンデン返しものというのは2回目はさほどおもしろくなかったりするものですが、本作は違います。
観れば観るほど、こんなところにこんな仕掛けが、と感心させられることばかり。
よく練られています。

5位「WALL・E/ウォーリー」
こちらはここまでアニメーションキャラクターに生命を与えた演出が良かったです。
コンピューターで描かれている以上そこには偶然性などはなく、すべてウォーリーやイヴが人間以上に人間らしく見えるところは監督やアニメーターたちが意図したことなんですよね。
これを支えるピクサーの技術力もすばらしいです。

6位「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン-」
これは「映画愛」を感じたから!
映画を作っている人たちの映画への愛情が感じられる作品はやはり観ていて気持ちいい。
皮肉って笑わせるパロディ映画ではなく、映画好きなんだ!という想いが伝わってきます。

7位「クライマーズ・ハイ」
原田監督のいいところがでた作品。
ぴりぴりとした緊張感が全編ずっと続いていて、長尺なのに引き込まれて最後まで見せきりました。
堤真一さんは本作といい、「容疑者Xの献身」といい、脂が乗っている感じがしますね。

8位「クローバーフィールド/HAKAISYA」
これは賛否両論分かれていましたが、僕は高く評価しています。
映画をとてもコンセプチュアルに考えて、それを中途半端ではなく徹底的にコンセプトに基づいて組み立てた作品に思えます。

9位「バンテージ・ポイント」
これは「アフタースクール」と同じようによく練られた脚本だったからです。
こういうタイプの作品は脚本の設計がおかしいと、全く見られたものではなくなってしまいます。
やはり映画は脚本ですよね。

10位「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」
人間というものを醜いところまで深くえぐっていくポール・T・アンダーソン監督の粘っこい演出が良かった。
観るのにとてもエネルギーがいりますが、いろいろと考えさせてくれるパワーを持っています。
ダニエル・デイ=ルイスの存在感も圧倒的でした。

あとワースト5を。

 1.「少林少女」
 2.「L change the worLd」
 3.「カンフーくん」
 4.「ブラブラバンバン」
 5.「D-WARS/ディー・ウォーズ」

1〜3位まではあまりに企画が安易すぎて、腹立たしいほど。
映画への愛情はなく、売りたいだけでは?と勘ぐってしまいます。
その時の記事を読み直してみると、かなり憤っているのが我ながら伝わってきます。
5位の「D-WARS/ディー・ウォーズ」は映画に対する愛は感じるけれど、実力が伴わない感じでした(笑)。
そこが「クローバーフィールド」と違うところ。

今年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いします。
よい映画に出会えるといいですね。

2007年を振り返って<映画>の記事はこちら→

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「永遠のこどもたち」 幸せは主観

2008年の劇場観賞の最後となるのは、本作「永遠のこどもたち」。
ギレルモ・デル・トロが制作をしているからか、観賞後の感覚が「パンズ・ラビリンス」が似ていました。

<今回かなりネタばれなので、ご注意>

決してハッピーエンドではないラスト。
ただアンハッピーエンドでもありません。
客観的に観ている僕たちはあのような終わり方は、バットエンドに見えます。
けれど、なにが幸せで、なにが幸せでないのか。
幸せというものは本人の主観で変わるものなのでしょう。
主人公ラウラにとって、愛する子供を失うことこそが不幸。
どこに行ったかわからない我が子を捜し続けているのは彼女にとってはつらいこと。
そしてその行方が知れ、失踪の真実がわかったとき、その後にずっと彼女は不幸を背負い続けなければならなくなります。
だから愛する子供や幼い頃の友達といっしょにずっと暮らせるあの終わり方は、ラウラにとっては幸せなのかもしれません。
彼女の表情はそれまでの我が子を捜して狂乱しているようになっている時に比べ、とても穏やかで満ち足りたように見えました。
生と死、幸と不幸。
「生きているってすばらしい」なんて言い切れるほど能天気でもないですし、「生は苦界」と言うほどに冷めてもいません。
生や死が、幸せか不幸かなんてばっさりと断じれるものではないのでしょう。
やはり幸せかどうかは、本人が、自分がどう感じられるか、どう見るかというものなのかもしれませんん。
ラウラ本人にとって幸せなのであれば、やはりこのラストはハッピーエンドなのだと思います。
このあたりの感覚が「パンズ・ラビリンス」を彷彿させます。
このようなスピリチュアルな感じというのは、スペイン系の民族に共通しているバックグラウンドなのかなあ。

怖い部分がある映画だとまったく予備知識がなく観賞したため、途中かなりビビらされました。

ギレルモ・デル・トロ監督「パンズ・ラビリンス」の記事はこちら→

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本 「容疑者Xの献身」

やはり東野圭吾さんは長編の方が合っているような気がします。
さらさらと読みやすい文体なので、短編だと読んだ充足感がちょっと薄いんですよね。
歯ごたえがない感じと言いましょうか。
けれども長編だとその読みやすさによってリズムよく一冊読めるので、そして読書の満足感もあるという感じがします。

こちらは今年の秋に映画化された「容疑者Xの献身」の原作になります。
映画の方はほぼ本作に忠実に映画化したようで、事件のトリックや人物の性格付けなどは変わっていません。
先に映画を観てしまったため結末を知っていたため、本作を読んで驚くことはなかったのですが、こちらの作品を始めに読んだらやはりこの結末はびっくりしたと思います。
ラストのシーンはやはり映画で石神を演じた堤真一さんの演技がどうしてもオーバーラップしてしまいます。

原作と映画が唯一違うのは草薙というキャラクターの扱い。
ドラマ・映画は内海薫という新人女性刑事が湯川と組みますが、原作は草薙が相棒になります。
やはり湯川の相手が年下の女性か、同期で友人である男性かというので、湯川のキャラクターの表現のされ方が変わりますね。
原作で印象深いのは、湯川が石神の犯罪のトリックを見破り、その事実に苦しんでいる場面です。
それを湯川が草薙に話すシーンがあります。
(湯川)「僕は友人としての君に話したわけで、刑事に話したんじゃない。この話に基づいて君が捜査を行うというなら、今後、友人関係は解消させてもらう」
<中略>
(草薙)「もしいつまで経っても花岡靖子が自首してこないのなら、俺は捜査を始めるしかない。たとえおまえとの友人関係を壊してでも」
(湯川)「そうだろうな」
ここは映画でも似たようなシーンがありましたが、やはり草薙というキャラクターだからこそこのシーンが生きていると思います。
湯川の石神に対する友情そして無念に対し、草薙は半端にそれを受け止めるのではなく、刑事として友人としてそれを真正面に真摯に受け止めています。
湯川も草薙が友情にほだされて刑事の職務を全うしないなどとは思っていません。
ああいうひねくれた言い方でないと自分の悩みを口に出せない湯川という人物を、草薙がきちんと受け止めているという気がします。
ここのシーンは原作の方が良かったですね。

ガリレオシリーズは「ガリレオの苦悩」「聖女の救済」と立て続けに単行本が年末に発売されました。
こちらの方もいずれ読んでみたいと思います。

東野圭吾、探偵ガリレオシリーズ長編第二弾「聖女の救済」の記事はこちら→
東野圭吾、探偵ガリレオシリーズ「探偵ガリレオ」の記事はこちら→
東野圭吾、探偵ガリレオシリーズ「予知夢」の記事はこちら→
映画「容疑者Xの献身」の記事はこちら→

「容疑者Xの献身」東野圭吾著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-711012-3

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2008年12月28日 (日)

「バットマン ゴッサムナイト」 It's Cool!

日本を代表するアニメーションスタジオが制作による「バットマン」オリジナル・アニメーションです。
制作しているのはスタジオ4℃、プロダクションI.Gにマッドハウス。
すごいラインナップです。
本作は「ダークナイト」公開時にDVDリリースされていたのにスルーしていたのですが、その制作スタジオの顔ぶれにそそられて観てみました。
各スタジオ2作ずつ、計6作の短編アニメーション集になっています。
それぞれ10数分の尺なので、ストーリーというよりはそれぞれのスタジオ、監督がどんな風にバットマンを映像化しているかというのが見所でしょう。
それぞれにクールで、カッコいいですよ。
さすが海外でも評価されているプロダクションです。
映像のセンスが違いますよね。
作画のタッチは好きずき分かれると思いますので、どれが自分のお気に入りかと考えてみるのも一興でしょう。
僕のお気に入りは第4話の「闇の中で」(マッドハウス制作)ですね。
作画のタッチが僕が好きなアメコミ作家のマイク・ミニョーラに似ているんです。
ちなみにマイク・ミニョーラという方は、「ヘルボーイ」の原作者(ストーリーも作画も)で、独特なタッチのスタイルを持っている人です。
これがカッコ良くて「ヘルボーイ」は全巻集めてしまいました・・・(これがまた、高いのよ)。
ミニョーラは「バットマン」のコミック版(これは持っていない。欲しい!)を手がけたこともあるので、そのあたりの雰囲気が共通しているかもしれません。
同じスタッフで、続編公開に合わせて「ヘルボーイ」のアニメ化してくれないかしらん。

「ダークナイト」の記事はこちら→

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2008年12月27日 (土)

本 「スティーブ・ジョブズの流儀」

スティーブ・ジョブズと言えば、アップルのCEOとして多くの人が知っているでしょう。
アップルはMacintosh(最近はiPodと言った方がわかりやすいか)を製造しているメーカーです。
大学でデザインをやっていたのですが、そのとき学校で初めてMacintoshと出会い、衝撃を受けたものです。
「これからはデザインはコンピューターだ、Macintoshだ」と思いました。
それほどまでに画期的だったのです。
ちょうど僕が学校の先生の手伝いをしていたとき使っていたのは、MS-DOSのコンピューター。
一日中数字を打ち込んで、それを計算してアウトプットしたものをまた打ち込んで、みたいなことをやっていました。
画面に出てくるのはよくわからないコマンドばかり(言われた通りに作業していただけなので、まったくコマンドを理解していなかったのです)。
それがMacintoshではフォルダがあって、ファイルがあって、そしてゴミ箱まであって。
ゴミ箱にファイルを入れたら「捨てた」ことになるなんて!
今でこそ当たり前になっているGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)ですが、それを初めて見た時の衝撃は忘れられません。
それから会社に入ってデザインワークにMacintoshを導入を行い、また二年目のボーナスで自宅用に購入(本体、モニタ、プリンタをいれてしめて80万・・・ひぇー)しました。
ちなみにそのときのハードディスク容量は1GB。
当時はこれでもかなり奮発したという感じでした。
現在のメモリースティックよりも全然少ない・・・。
それから何台か購入し、いまもブログはMacintoshで書いてます。

そのMacintosh、そして最近のiPodを世に送り出した人物がアップルの創業者であり、現CEOであるスティーブ・ジョブズなわけです。
そのキャラクターはかなり個性的で、そのイノベーティブな経営については多くの本で語られています。
本著はそのスティーブ・ジョブズの仕事の仕方を、今までの彼の実績を踏まえつつ、解説しているものです。
今までのジョブズの仕事というのは、Macの雑誌を10数年にも渡り購読しているので、本著は読んでも新しい発見というのはありませんでした。
一応ビジネス本らしいので、各章の最後にジョブズの仕事を踏まえた教訓めいたものが掲載されています。
ただこれがまったく使えない・・・。
これはジョブズの仕事をまとめただけであって、普通の人が応用できるような普遍的なアドバイスになっていないんですよね。
これではビジネス書としてはどうだろう・・・?
ジョブズの人となりを知るには、読みやすいし、まあいいかと思いますけれど。
ただジョブズのユニークさを知りたい方はもっとおもしろい本もありますし。
ビジネス書としては内容が薄いなあと思った次第です。

「スティーブ・ジョブズの流儀」リーアンダー・ケイ二ー著 ランダムハウス講談社 ハードカバー ISBN978-4-270-00421-0

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「その男 ヴァン・ダム」 あの人は今

あの人は今・・・。

本作に登場するのはジャン=クロード・ヴァン・ダム。
ああ、懐かしい名前。
「ヴァン・ダム」っていかにも強そうな感じ・・・(ガンダムみたいだから?)。
どうでもいいですが、シルベスター・スタローンとか、アーノルド・シュワルツェネッガーとか80年代から90年代に華やかだったマッスル系アクションスターっていかめしい名前が多いですよね。
最近はとんとご無沙汰していたジャン=クロード・ヴァン・ダム主演の作品を観てきました。
とは言っても、アクション映画ではありません。
スタローンは一時期低迷していたものの最近は監督としてヒット作を出していますし、シュワルツェネッガーは政治家になっているしと、あの頃のアクションスターも年をとってうまく転身できているような気がしますが、ヴァン・ダムだけは最近名前を聞かない。
もともとスタローン、シュワルツェネッガーに比べると一段、二段低いポジションだったとは思いますが。
でも「ユニバーサル・ソルジャー」(ローランド・エメリッヒ監督)とか「ハード・ターゲット」(ジョン・ウー監督)とか大物とかとも組んでいたんですよねえ。
マッスル系アクション映画が段々と下火になっていくに従い、他の俳優たちは様々に転身していきますが、どうもヴァン・ダムは乗り遅れてしまったのか、そもそもそういうのしかできなかったのか、徐々にその作品を見かけなくなります。
そんな彼が落ち目な自分の役で主演したのが、本作「その男ヴァン・ダム」。
制作は彼の母国、ベルギー(とルクセンブルクとフランスとの合作)。
ハリウッドで売れなくなったとはいえ、母国ベルギーではなおヒーロー。
街を歩いていればサインを求められたり、声をかけられたり(うっとおしいタクシーの運転手のおばちゃんが最高におかしい)。
ただヴァン・ダム本人はメジャーな仕事がこなくなったり、娘の親権の裁判があったりと(このあたりどこからフィクションなのかよくわからないですが)、そういう周囲の見方と温度差を感じているように見えます。
そんな彼が弁護士費用を振込に郵便局に行ったところ、強盗に巻き込まれ、あろうことかヴァン・ダム自身が銀行強盗のように誤解されてしまいます。
この映画、ヴァン・ダムが落ち目のヴァン・ダムを真面目に演じているのが、痛々しいというか自虐的な笑いを誘ってなんだかおかしい。
落ち目なところがかわいそうというのではなく、そんなことも越えてしまっているようなところがなんだか笑えるのです。
よく本人がこの企画を了承したものです。
銀行強盗の一味の中にコアなヴァン・ダム・ファンがいて、それがまたおかしい。
あの頃のアクション映画ファンが観たら笑える小ネタがたくさんあります。
「あんたが誘わなかったら、あいつは今でも香港で鳩を撮ってるよ」
「売れたら、あんたのこと切りやがって」
これはそのファンがジョン・ウーのことをけなしている台詞。
事実、ジョン・ウーをハリウッドに招いたのはヴァン・ダムらしいです。
確かに今ではキャリアにかなり差がでていますねえ(ジョン・ウーは「ハード・ターゲット」を作ったとき、あまりに面倒くさいハリウッドの制作システムにうんざりしたそうです)。

万人にお勧めできる作品ではないですが、ジャン=クロード・ヴァン・ダムの輝かしきあの頃を知っている方はご覧になってみたらいかがでしょう。

ジャン=クロード・ヴァン・ダム主演「ユニバーサル・ソルジャー」の記事はこちら→

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2008年12月25日 (木)

「コールドケース シーズン2」 シリーズとしての横軸も強まり、見応えアップ

AXNでシーズン1に続いて放映されていたシーズン2が先頃終わりました。
人気シリーズなのでシーズン2も一話完結である番組のフォーマットは変わらず、さらに磨きがかかっていて見応えがあります。
さらにシーズン2ではときおり、捜査する側であるレギュラー陣が中心になるような回もあり、さらにキャラクターに深みがでてきています。
特に主人公リリー・ラッシュについては、女性でありながら事件に対して執着ともいれるほどの気持ちの入れこんでいく彼女のパーソナリティについて、その過去がところどころで描かれていくことにより明らかにされていきます。
シーズン2は一話完結というフォーマットは守りながらも、横軸にレギュラー陣のキャラクターを深く掘り下げていくことにより、シリーズとしての横軸もしっかりと強く持っているように思えました。
「コールドケース」では毎回扱われた事件に関しては犯人が捕まったり、死の真相が判明したりという解決が毎回必ずされています。
けれどもシーズン2の最初の方の回で唯一限りなく犯人に近い人物を取り逃がしたケースがあります。
その人物がシーズン2にも再び登場します。
その人物はリリーに異常なまでの関心を示していきます。
その犯人との関わりの中でリリーの背負っている過去も次第に明らかになっていきます。
このあたりはレギュラーキャラクターを描くことにより、さらにシリーズとして深みを増しているように思えました。
最終回では、途中回で語られたボスの過去の話などもうまく踏まえられており、よくできているエピソードでありました。
またリリーの相棒であるスコッティも、かつての恋人を事故で失い、そしてその後リリーの妹とつき合い始めます。
かつての恋人の事故も謎が残されており、このあたりその後のシリーズの横軸として語られていくかもしれません。

アメリカではシーズン5まで制作されているということ。
はやくシーズン3が放映されないかな。
年末にはAXNで一挙放映されるようなので、見逃した方はご覧になったらいかがでしょうか。

「コールドケース シーズン1」の記事はこちら→
「コールドケース シーズン3」の記事はこちら→

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2008年12月23日 (火)

本 「ルナティカン」

今月、神林長平さんの作品、二作目です。
今までもこちらのブログでも指摘していますし、何人もの評論家の方もおっしゃっているように、神林長平さんの作品は、フィリップ・K・ディックに通じるようなテイストを持っていると思います。
現実と仮想・虚構、生と死、条理と不条理といったような観念が入り乱れるような独特な世界観を持つ作品が多い作家さんです。
そういう意味では一般的にはやや取っ付きにくい感がある方かもしれません(けれどそういうのが好きな方はきっとはまる)。
そんな神林長平作品の中で本作「ルナティカン」は異彩を放っているかもしれません。
なぜかというと、「とても普通だから」です。
神林作品に共通してあるような先にあげた観念論のややこしさみたいなものはほとんどありません(なくはないけど)。
そういう点では受け入れられやすい作品かもしれませんが、神林ファンとしてはややもの足りないところもあります。

神林長平作品「敵は海賊・A級の敵」の記事はこちら→
神林長平作品「ライトジーンの遺産」の記事はこちら→
神林長平作品「あなたの魂に安らぎあれ」の記事はこちら→

「ルナティカン」神林長平著 早川書房 文庫 ISBN4-15-030712-1

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「のだめカンタービレ 巴里編(アニメ)」 良くも悪くも原作に忠実

「のだめカンタービレ」は同じ原作をベースに、アニメ、実写ドラマとダブルでコンテンツを展開する成功例となっていますよね。
来年末(1年も先ですが)には、実写版が映画化されるようで。

さてアニメ版の方ですが、ちょうど昨年のお正月に放映された実写スペシャル版とほぼ同じエピソードを描いていました。
前回のアニメ版は実写ドラマ版に比べて、より原作に近いイメージで作られていましたが、今回の巴里篇も同様です。
ただ良くも悪くも原作に忠実なのですよね。
原作漫画の方は、のだめと千秋がパリに行ってからややダラダラな感じがありますが、アニメの方にもそれが如実に出ていました。

「のだめカンタービレ」というお話は、勝手気ままなのだめに、真面目一本の千秋が惹かれ振り回されるところがおもしろかったりします。
千秋自身がのだめに惹かれていくことを認めないというところのギャップがおかしかったりするのですよね。
また東京篇ではまわりのキャラクターも賑やかでした。
のだめと千秋がパリに行ってからは、二人は成長していき、またお互いに気持ちを確認し合うところまでの関係になります。
原作からしてそうなのですが、それからどうも二人のキャラクターが落ち着いてしまった気がします。
もともと持っていたドタバタ感というのが、薄れてしまったような。
まわりのキャラクターも東京篇に比べておとなしいというのもあります。
もっとはちゃめちゃな感じが楽しかったんですケド。
千秋が「変態の森」の中に足を踏み入れてから、逆に物語が停滞してしまっていますよね。
原作もその感じが続いていますが・・・。

アニメ版は来年に続編の製作が決まったようですね。
原作から離れてアニメ版として新しいドラマティックな展開を行っても良いかもしれません。

前作「のだめカンタービレ(アニメ)」の記事はこちら→
続編「のだめカンタービレ フィナーレ」の記事はこちら→

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「ワールド・オブ・ライズ」 アメリカが嫌われる理由

最近、全世界的にアメリカの不人気が高まっているように思います。
具体的には本作でも語られているイラク戦争などブッシュ政権による強引とも言える一国主義の政策によるものだと考えられます。
けれども具体的なその行動よりも世界の人々がいらだっているのは、アメリカという国の、というよりアメリカという国を運営している人たちの傲慢さにだろうと思います。
アメリカの平和=世界の平和ということを、微塵も疑っていない態度。
世界の平和は自分たちが守るものであり、他の者たちにはできないであろうという不遜さ。
確かにソ連が消滅し、まだ中国もアメリカには到底及ばない現在、実質的に世界に影響を与えることのできる軍事力を持っているのはアメリカだけだと言っていいでしょう。
現在のアメリカ発の金融危機により、急激にそのプレゼンスは落ちているとはいえ、全世界をこのような危機に引きずり込めるという点からみても、やはり良くも悪くも影響力がある国と言えます。
その影響力については万人が認めるものであっても、それを行使する人々の傲慢さがその行動にチラチラと見えるところが、世界の人々が次第に反米ムードを持ち始めていることに繋がっているのでしょう。
たぶんアメリカの人々も、その雰囲気にやっと(いまさらという感はありますが)気づき始めているのかもしれません。
だからこそ本作のような作品が作られたのかもしれません。
本作において、いけ好かないアメリカ像というのをキャラクターとして体現しているのが、ラッセル・クロウが演じるエド・ホフマンというCIAの官僚。
彼の発言や行動には先に書いたようなアメリカという国の持つ傲慢さが窺えます。
エド自身は自分の仕事がアメリカそして世界の平和を守るための仕事だと疑いも持っていませんし、それについての迷いもありません。
本作を観れば、だれしもこのキャラクターがとてもイヤなヤツだと思うでしょう。
利己的で、他者は自分のために利用する存在としか思っていない男。
嘘をつくこともためらいません。
大義のためには嘘は手段でしかないと考えているようです。
そしてこの人物がアメリカという国を表しているということも気づくと思います。
嘘という言葉にあわせて、本作では信頼という言葉も出ます。
信義を重んじる人物として描かれているのはヨルダンの情報部の長。
彼は9・11以降一般的にアメリカ人が嫌い、恐れを持っているアラブ人なわけです。
彼は拷問なども辞さない非道なところも持ち合わせていますが、信義に基づき行動をしています。
その点においては嘘で固め、自分の部下ですら騙そうとするエドよりは信頼できるようなイメージを持ちます。
そこで思うのは本作がアメリカではどのような評価を受けたのだろうかということ。
想像するにあまり一般的には受けないであろうと思います。
自分たちの国、アメリカが嫌われる理由を見せられるんですから。
ただこのような作品を作り、メジャー映画として公開できるところもアメリカという国のすごいところでもあります。
日本を始め、他の国ではなかなかこのような映画を作ることもできないでしょうから。

リドリー・スコット監督がすごいのは、このようなテーマ性がありながらも、エンターテイメント作品としても最後まで見せきる牽引力を持っていること。
インディーズ的な政治的な話、高尚な話にもっていかず、あくまでメジャー映画としての娯楽性も持っているところがすばらしい。

リドリー・スコット監督、ラッセル・クロウ出演「アメリカン・ギャングスター」の記事はこちら→
リドリー・スコット監督、ラッセル・クロウ主演「プロヴァンスの贈りもの」の記事はこちら→
アメリカに対する他国民のアンビバレントな気持ちをひも解いたノンフィクション「反米主義」(近藤健著)

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2008年12月21日 (日)

本 「神仏習合」

平家物語で那須与一が沖の平家の船に掲げられた扇に向かって弓を射るところで、「南無八幡大菩薩」と称える場面があります。
与一が称えるこの言葉に日本人である僕たちはに不自然さはありませんが、よく考えてみると「八幡」というのは「八幡神」で、これは日本古来の、いわば土着の神様の名前で、そして「菩薩」というのは仏でありこちらは仏教由来なんですよね。
もともとはまったく違う宗教である神道の神、仏教の仏が体系化された思想の中で統合されていることを、「神仏習合」と言います。
こちらの本では基盤宗教としての神道、普遍宗教としての仏教がいかに歴史的の中で影響し合って「神仏習合」ということが起こったのか解き明かしていきます。
おもしろいのは次第に社会に富の蓄積が起こり、持てるものと持てない者の差がでてきたとき、持てる者の方に罪の意識が芽生えてくるということ。
その罪の意識が仏教というものへ向かわせたというところです。
人間というものは欲深いと言いながらも、持ってしまうことというのは何か罪悪感のようなものを持つものです。
いつかそのしっぺ返しがくるのではないかという恐れの裏返しでしょうか。
当初仏教をうけいれたのは奈良時代、大和国家の頂点にある天皇やその周辺。
社会が富んでいくに従い、仏教は浸透していきます。
また国家が人民を支配するいくために、神道や仏教といった考え方が次第に変質してくのがおもしろい。
どちらかというと社会の変化におされて国家の中枢のものの考え方が変わらざるをえないといった状況でしょうか。
宗教や思想といってもその時代や社会というものに影響を受け、変化をしていくというのが歴史のおもしろいところ。
さまざまな要因が重なって、日本独自の「神仏習合」という考え方が現れてきたことがわかります。

「神仏習合」義江彰夫著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430453-9

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「K-20 怪人二十面相・伝」 懐かしの冒険活劇

江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズ、ご多分に漏れず僕も小学生の頃、学校の図書館にあったこのシリーズをワクワクしながら読んだものです。
当然、正義を守る名探偵明智小五郎や小林少年の活躍には胸躍らすわけですが、やはり怪人二十面相という怪しげなキャラクターというのが魅力的であったというのが最大の理由でしょう。
得体のしれない怪しげな事件を演出し、二十の顔を持ち本当の顔がわからない怪人二十面相。
このキャラクターはミステリーに限らずその後の様々な作品に影響を与えました。
江戸川乱歩の作った世界観をさらに発展させ、シリーズの陰の主人公、ダークヒーローとも言える怪人二十面相を主役にし、新解釈を加えた本作品「K-20 怪人二十面相・伝」。
かなり期待しながら公開を待っておりました。
期待していた理由としては、うまくやれば大人も子供も楽しめる(ダーク)ヒーローものとして成立するのではないかということ。
最近はヒーローもの全盛と言いますが、日本においてはやはり子供向けというポジショニングはなかなかはずれません。
アメリカにおいてはヒーローものは大人も映画館に呼べるドル箱のネタとして今年も多くの作品が作られるくらいメジャーになっていますが、日本ではそうはなっていません。
そんな中で怪人二十面相というキャラクターというのは、誰も知らない人がいないくらいメジャーな存在であるため、注目を集めることができるのではないかと期待していました。

さて蓋を開けてみると・・・。
ヒーローものというよりは、懐かしの冒険活劇といった作品に仕上がっていました。
こういう雰囲気は好き。
レトロな雰囲気のある時代設定のせいでもあるかと思いますが、本作を観てまず思い浮かべたのが「インディ・ジョーンズ」シリーズ。
平吉(金城武さん)と二十面相との戦い、軍警に追いまくられるチェイス、ラストの大掛かりな仕掛けとか「インディ」のような活劇シーンが多くてけっこう楽しめました。
そういえば、日本では冒険活劇と言えるような映画というのは思いのほか少ないですよね。
なぜだろう?
やはり大人が冒険活劇を楽しめるというような土壌がなかったからなのでしょうか。
アクションシーンが小気味いいなと思っていたら、アクション監督のところに横山誠さんの名が。
この方は最近注目している方なんですよね。
ワイヤーやCGなどを使ったアクションも撮れる方ですが、横山さんのアクションは実は肉体をきちんとつかったシーンがなかなか美しいんですよ。
中盤の泥棒修行で街を縦断するところなんかはあれだけでけっこう見せてくれます。
世界観などはまったく僕のツボとなるもので堪能できたのですが、全体的にややモタモタとした印象があったことは否めません。
たぶんこの作品の評価が低い方はそこを気にするだろうと思います。
特に前半は登場人物の紹介があるためにかなりモタモタしています。
「インディ」のようにもっともっとテンポよく見せられたら印象は良くなったとは思うので惜しいです。

「怪人二十面相は誰だ?」というコピーが予告で出ていて、怪人二十面相の台詞「お前はサーカスに戻れない」を言った声が特徴のある鹿賀丈史さんだったので「バレバレじゃーん」と思っていたら、さすがにそんなに単純じゃなかった(笑)。
あれはフェイクだったのね。

あまり一般ウケしそうにないけど、僕は好き。
シリーズ化できそうなネタなので、次回作期待したいところです。

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2008年12月20日 (土)

本 「武士道シックスティーン」

同じ高校の剣道部に所属する香織と早苗。
香織は幼い頃より父に剣道を教わり、宮本武蔵の「五輪書」を愛読書とする女子高生。
昔の日本男児のような性格で、戦い方は剛。
かたや早苗はずっと日舞を習っていたけれども、中学生から剣道に転向。
いまどきの女子高生らしい性格で、その戦い方は柔。
性格も戦い方も違う二人がライバルとなりながら、成長していくという王道中の王道のスポーツ青春小説です。
ベタと言えばベタなのですが、その王道な感じが心地よく、サラサラと読めます。
とはいえおもしろくないわけではなく、対照的な二人の成長を小気味よく読ませてくれます。
二人はものの考え方やスタイルが真逆ですが、次第に相手の良さというのに気づいていきます。
そして互いに共鳴し、それぞれの戦いのスタイルも進化していきます。
本作を読んで改めて考えたのが、「中道」「中庸」という考え方。
若い頃は「中道」という考え方は「どっちつかず」な中途半端なような気がしてあまり好きではありませんでした。
白黒はっきりつけるのが正しいだろうと。
けれどいろいろと人生経験を積むにつれ、「中道」「中庸」というのが良き道なような気がしています。
僕は「中道」というのは「どっちつかず」ではなく、両極どっちの考え方も考慮した上で最もバランスのいい最適な道を選ぶことだと考えています。
「片方聞いて沙汰するな」じゃないですが、一つの考え方に凝り固まっていてはいずれ壁にぶつかります。
いろいろな意見を聞き考え、それぞれの良いところ悪いところを検討し、最も最適な道を選択する。
これが「中道」。
本作の香織も早苗も、それぞれのやり方にこだわりがありました。
けれど互いの良さに気づいて、それを取り入れることにより自分のやり方を進化させていきます。
結果的に彼女たちの戦い方は似たようなスタイルになっていきます。
それが「中道」だなという感じがしました。
本作さらさらと読める青春小説ですが、ちょっとそのような人生の考え方みたいなものも感じられたりして。
映画にも向いている作品ではないでしょうか。

本作好評だったようで続編(「武士道セブンティーン」)もあるようですね。
こちらも今度読んでみようと思います。

続編「武士道セブンティーン」の記事はこちら→
さらに続編「武士道エイティーン」の記事はこちら→
誉田哲也さん作品「ジウ」の記事はこちら→

「武士道シックスティーン」誉田哲也著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-325160-7

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「地球が静止する日」 We Can Change

1951年のSF映画「地球の静止する日」のリメイク。
オリジナルは未見ですが、有名な作品なのでなんとなくストーリーは知っていましたしゴートという名のロボットは聞いたことがありました。

さてこの作品、おもしろかったかと問われると、「はい」と素直に答えられません。
予告で何度も観た街が滅んでいくシーンなどはなかなかの出来だと思いましたが、他の作品に比べ圧倒的に凄いかと言えば、そうでもなく。
もう少しサスペンス感があるのかと思っていたのですが、思いのほか淡々としている印象を受けました。
そのためになんとなく物語の中に入り込めない感じがしました。
まず一つの原因はキアヌ・リーブス演じる主人公クラトゥの性格付けではないかと思います。
本作のクラトゥは終止無表情で、彼が何を考え感じているのかがとてもわかりにくい。
宇宙人なので人間と同じような感情を持つわけではないので、そういうアプローチも間違っていないかと思いますが、そのために観客が登場人物の誰に入れ込んで観ていくかがいささか不明確な気がしました。
地球人であるヘレンが語り手としての役割を持っているかというとそういう感じでもないですし、いわゆる「神の視点」で俯瞰的に地球の危機を描かれる物語でもないですし。
観る側に期待する目線というのをあまり想定しているように感じないため、どうも観ながら納まりが悪い感じがしてしまいました。
クラトゥが「人間には別の側面がある」と言った時になにか目に見える変化があれば、もっとわかりやすかったのかもしれませんが、宇宙人としての異質感を重視したのかその無表情には結局変化はありませんでした。
また物語の締めくくりとしての人類の今後を示唆するようなものがあればまた違ったのかもしれませんが、そういう描写もありませんでした。
個人的にはヘレンに語り手としての役割をしっかりと与えた方がよかったように思います。
どうも手なじみにくいような硬質感のようなものを感じる作品で、(テーマは難しくはないのですが)とっつきにくい印象を持ちました。

そのテーマは人は変われるかということでしょう。
「We Can Change」という言葉が何度も出てきましたが、オバマ次期大統領の演説を思い出してしまいました。
人間というものは物事がうまくいっている時というのは変化を好みません。
けれど状況が良くなくなり悪くなっていくことがわかったとき、人は自らを変えることができます。
進化論でいうと変化した環境に対応できなくなった種というのは淘汰されていくわけですが、人類というのは環境に対応できなくなりそうなとき、自らの意志で変化しようとすることができる種であると思います(理想論かもしれませんが)。
それだったらこれほどまでにいろんな問題がでるわけがないだろうという意見もあるとは思いますが、このようなことが起こるのは、状況が悪くなっているかどうかということへの各々の認識の違いによって引き起こされるだと思います。
同じ状況でも危機感がある人間と、そうでない人間がいる。
危機感がない人が多い場合はなかなか「変革」というのは起こらないものです。
アメリカが誰がみても悪くなっているときだからこそ、彼の地では「変革」ということが受け入れられたのです。
それがこれほどひどくなっていなかったら、そうはならないでしょう。
ようは状況の良さ・悪さを認識する感度が高いか低いかで変化への意志というのは変わってくる。
哀しいかな、人間というのは明らかに状況が悪くなっていると明確にならない限り、なかなか悪い未来というのは見たがらないものなのですよね。
自分のことはなかなか客観視できないということなのかもしれません。
だから変化というのが手遅れになることもあります。
地球人が宇宙にいるのは自分だけではないという自覚を持ったとき、自分たちがどう見られるかそういう視点を意識できたとき、僕たちははじめて自分たちを客観視することができ、ほんとに地球の未来というのを考えられるのかもしれません。

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2008年12月14日 (日)

「篤姫」 俳優・脚本が共同で生んだ活き活きとしたキャラクター

この数年のNHK大河ドラマの中でも人気が高かった「篤姫」が終わりました。
大河ドラマをこれほど毎週楽しみにして観るというのは、僕自身も久しぶりだったような気がします。
NHK大河ドラマでは幕末ものはあまり視聴率がとれないと言われていたようですが、それを覆した「篤姫」ブームとなりましたね。
幕末ものというのが人気がとれないのは、一つはその歴史の複雑さだと思います。
江戸時代から明治時代はほんの数十年の中で社会が根底から変わった時代です。
あまりに短い期間でさまざまなことが起こるため、その流れが把握しきれないということだというような気がします。
僕自身も歴史の授業で習って「蛤御門の変」とか「薩長同盟」とか言葉は知っていますが、それぞれの関連となると甚だ怪しい状況でした。
その点、本作「篤姫」はその激動の時代を薩摩藩、幕府という二つの視点から描いているせいか、その流れは非常にわかりやすく、途中で投げ出したくなるようなことにはなりませんでした。
これは脚本の構成の巧みさでしょうか。
また大河ドラマで人気があるのは戦国時代ものだと思いますが、よく知られた人物(信長、秀吉、家康のような)が出てくるということと、さらには大規模な合戦シーンなどのドラマチックな見せ場を持っているからだと思います。
その点、「篤姫」は幕末ということもありますし、また大奥にいる女性が主役ということもあり、その点の見せ場としては分が悪いと言えます。
けれども男たちが肉体を使って戦ういくさの代わりに本作では、篤姫が意志と知恵で激動の時代を戦っていくというところをドラマチックに描いていました。

本作を魅力的に見せた要因で最大のものは、活き活きとしている登場人物だと思います。
史実の人物をとても特徴的に脚色したキャラクター造形が見事でした。
これは脚本だけでなく、演じた俳優陣の功績も大きく、演じることで幅と深みがでてきたキャラクターをまた脚本が活かしていくという、プラス方向のスパイラルができていたと思います。
これは1年という長さである大河ドラマならではの醍醐味と言えるでしょう。
個人的に好きだった登場人物は・・・。

・徳川家定(堺雅人さん)
  堺さんの持ち味を活かしきったキャラクターでした。
  茫洋とした感じと、切れ味を持った感じの二面性を持ったこの役は堺さんのはまり役。
・幾島(松坂慶子さん)
  使命感を持ち篤姫を導いた老女役を松坂慶子さんが貫禄で演じていました。
  最終回近くに再登場してきたときは嬉しかったです。
  これは視聴者からのリクエストがあったからではないでしょうか。
・本寿院(高畑淳子さん)
  本寿院という人物がこんなコメディリリーフになるとは当初は誰も思っていなかったのではないでしょうか。
  これは先ほど書いたような俳優と脚本のプラス方向のスパイラルが働いている例だと思います。

ここにはあげていませんが、他にも魅力的な登場人物がたくさんいました。
もちろん主演の宮﨑あおいさんはすばらしい。
最終回では回想シーンも多くあり、娘時代の篤姫のシーンも出ていましたが、それを観ると宮﨑さんが篤姫が年齢を追って成長していく様を当初より計算して演じていたことがわかります。
今泉家の姫だった頃、少年かと思うほどに勝ち気であった於一が、そして島津本家の姫に、そして江戸で御台所にと立場が変わっていくにしたがい、立ち居振る舞いや声の出し方なども変えていっていることがわかります。
最終回で亡くなる前のシーンでは、背丈すら縮んだようにも見えました(宮﨑あおいさんはけっこう背が高いのに)。
大女優の風格させ漂わせてきている宮﨑あおいさん、来年公開の「少年メリケンサック」では弾けた演技になっているようですが、こういう幅の広さも彼女の魅力。
今後も目が離せません。

NHKの大河ドラマというのは一度観たらそれっきりというのが個人的には多いのですが、本作に限ってはもう一度観たいと思える出来でした。
やはりそれは活き活きとしたキャラクターにあるのかもしれません。

07年NHK大河ドラマ「風林火山」の記事はこちら→
09年NHK大河ドラマ「天地人」の記事はこちら→
宮崎あおいさん主演「初恋」の記事はこちら→

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「マグノリア」 人は自分本位でしか生きられないのか

ポール・トーマス・アンダーソンの作品を観たのは「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」が初めて。
こちらの作品を観て人間というものを描く力に圧倒され、すごい監督だなと思いました。
本作「マグノリア」は彼の代表作とも言える作品というのは知っていましたが、3時間にも及ぶ長尺、そして主要な登場人物が10人以上という群像劇ということで、観るのにはなかなかにエネルギーがいりそうということでややためらっていましたが、本日DVDで観てみました。

本作も人間という存在を深く描いている作品です。
怪しげなSEX伝導師、末期がんに侵されている彼の父親、そしてその若い後妻。
クイズ王としてもてはやされている少年、以前同じように天才少年と呼ばれた中年男、クイズ番組の司会者、ドラッグに溺れる彼の娘、彼女に心を惹かれる信心深い警察官。
主立った登場人物をざっとあげてもこのくらいはいて、彼らのある日の出来事が錯綜しながら進んでいきます。
登場人物たちがそれぞれ絡み合う場面がずっと続くのですが、中盤くらいまでの彼らの会話がまったくかみ合っていないことに気づきます。
だいたい会話している場面では、どちらか一方が自分の考えというものをずっとまくしたているだけなのです。
最もわかりやすいのがトム・クルーズ演じるSEX伝導師ですけれども、他の登場人物も多かれ少なかれそういうところがあります。
一見彼らが話している場面は会話のようにも見えるのですが、注意をして観てみるとお互いに相手が言っていることを聞こうとしているのではなく、自分のことをただ主張しているだけということがわかります。
彼らの生き方は自分自身のやりたいことをやるというものであります。
登場人物が10人以上に及んでいますが、老若男女に問わず、そのような人間の自分本位なところが描かれています(唯一違うのは警官のみ)。
これだけ様々な登場人物を配したのは、人間というものは所詮自分本位にしか生きられないというようなことを表したかったのでしょうか。
そしてまた彼らは自分本位でありながらも、その行動が他人を騙している不幸にしているということの自覚も持っています。
それが罪の意識となり、彼ら自身を苛んでいます。
特に自らの死や、身近な人の死を感じた者たちは、それまでの自分本位だった人生を悔いているように見えます。
それもまた人間なのでしょう。
それがわかっていても人というのは自分本位で罪を犯し、そしてまたそれを悔やむものなのでしょうか。
唯一希望のかけらがあったのは警官の物語。
彼のエピソードから、隠し立てなく正直に生きるということが最後には人生を幸せに送れるのだなということを感じました。

ラストの蛙の雨は突然のことで驚きましたが、なんだか聖書でそのようなエピソードがあったようなと思い出し、検索してみると出エジプト記にありました。
それは第8章第2節ということで、本作に頻繁にでてくる82という数字はそこにかけていたのでしょうか。
ふむー、なかなかに深い作品です。

ポール・トーマス・アンダーソン監督作品「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の記事はこちら→

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「HEROES シーズン2」 ややスケールダウン?

昨年のアメリカの脚本家協会のストの影響を受けて、「HEROES」のシーズン2は全11話と、シーズン1と比べると半分くらいの長さになっています。
短い分、小気味よい点もあるのですが、シーズン1に比べてスケールダウンをしている感じはしなくもないです。
シーズン1のおもしろさというのは全米の各エリアにいる能力者が次第にお互いの存在をしり、そして世界の終わりを救うためにある時、ある場所に導かれるように集まっていくというプロットでした。
その世界の終わりというのも超能力者ならではのアイデアだったので新鮮だったような気がします。
本作でも再び世界は終末の危機にさらされるのですが、その内容は幾多の映画で描かれているような題材であって新鮮味がやや落ちたような気がします。
その終末の危機を救うあたりも話数がない分、ややドタバタと終わってしまったような感じがし、「これで終わり?」といったようなもの足りなさは感じました。
シーズン1よりヒロの話にも出ていたケンセイ・タケゾウ(これは剣聖・武蔵ということなのかな)が実際に登場し、シーズン2の中でもキーマンとなるのですが(再登場したときはちょっと驚きましたが)、そこからの盛り上がりがやや不足気味で、さきほど書いたような消化不良感が残りました。
もうすこしケンセイ・タケゾウはうまく使えたと思うのだけれど・・・。
年明けにはさっそくSuperDramaTVでは、シーズン3が放送されるということ。
ややスケールダウンした感のある本作、また勢いを取り戻せるでしょうか?

「HEROES シーズン1」の記事はこちら→
「HEROES シーズン3」の記事はこちら→

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2008年12月13日 (土)

本 「予知夢」

昨年放映されたテレビドラマ「ガリレオ」の原作であり、「探偵ガリレオ」の続編となる短編集です。
前作についての記事でも書きましたが、さらさらと読みやすいという印象は変わりません。
どちらかというと淡白な感じすらあります。
物理学者湯川があくまで科学法則に則った推理で事件を解決するという構成は本作も継続してとられています。
ただそのトリックについてはやや強引なところも感じたりもしました。
これはドラマの時も感じていて、「探偵ガリレオ」をベースにしている話と、こちら「予知夢」をベースにしている話ではやや前者の方が出来がいいような感じがしていました。
東野圭吾さんは短編はあまり得意ではないのかな。
本作の後に「ガリレオ」シリーズは「容疑者Xの献身」として長編化され、今年の秋に映画化されました。
この映画化作品は思っていた以上にドラマとしては見応えがあったため、その印象が残っていた中、本作を読んだので、余計に淡白だという印象になってしまったのかもしれません。
今度は「ガリレオ」シリーズの初の長編作品「容疑者Xの献身」も読んでみたいと思います。
短編とは印象が違うかもしれないですね。

東野圭吾「探偵ガリレオ」の記事はこちら→
東野圭吾「ガリレオの苦悩」の記事はこちら→
東野圭吾「容疑者Xの献身」の記事はこちら→

「予知夢」東野圭吾著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-711008-3

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本 「ユービック」

タイトルにある「ユービック」というのは、作者フィリップ・K・ディックの造語です。
そもそも誰も知らない作者が作った言葉がタイトルというのは、不可思議ですが、この作品ではこの「ユービック」なるものが何なのか(それは物とは限らない)というのが、物語をドライブする力となります。
1992年(この作品が書かれたのは1969年なのでその時からすれば近未来)、予知者<プレコグ>に対抗するために、彼らの能力を相殺する力を持つ反予知者が月に送り込まれました。
しかし彼らは相手の待ち伏せにあい、全滅させられてしまいます。
その中の一人ジョーが目覚めると世の中が様変わりをしていました。
そこはあらゆるものがどんどんと古くなっていく世界となっていたのです。
何が時間逆行現象を起こしてしまったのか。
そしてジョーが行くところに表れる謎のメッセージ、そしてその中にある「ユービック」という言葉の意味は・・・?
主人公が目覚めた世界は明らかに通常の世界ではありません。
それは世界が変質してしまったのか、それともジョーは実は死んでいてその半死状態(この時代は肉体的には死んでも脳活動だけの半死状態で保存されることがある)の世界にいるからなのか。
ディックの小説にはたびたびありますが、主観の危うさというのがここにはあります。
自分が見たり感じたりしている世界が果たして真なのか偽なのか。
この作品の場合は明らかにジョーを取り巻く世界は異常です。
僕たちの暮らすこの世界は基本的にエントロピーは増加していきます。
けれどもジョーを取り巻く世界では物事は反エントロピー的な振る舞いをします。
そしてその反エントロピー的な振る舞いを抑制するのが「ユービック」なのです。
この異常な世界の謎、そして「ユービック」の謎がストーリーを引っ張っていきます。
そのためディックの他の小説よりもストーリーにはっきりと芯があるような感じで読みやすい気がします(とはいえへんてこなこの世界になじめない方も多いとは思いますが)。
しかしディックという人はこのようなへんてこで異常な世界をよく思いつき、それをへんてこな話によくぞまとめあげるものだと感心してしまいます。
そのアイデアは他にはないユニークさを持っていて、だからこそ彼の作品は映画の原案などにされるのでしょうね。
とはいえ、どれもそのまんま映像化しにくいので、ほとんどの作品はいつも大胆に改変されディックらしさは失われているのですけれど。

フィリップ・K・ディック作品「流れよわが涙、と警官は言った」の記事はこちら→

「ユービック」フィリップ・K・ディック著 早川書房 文庫 ISBN978-4-15-010314-9

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「空へ -救いの翼 RESCUE WINGS-」 人を守る力

ゴジラシリーズや「戦国自衛隊1549」等、手塚昌明監督の作品はあまりいいと思ったことはないのですが(とってもドラマが薄いので)、撮影に自衛隊が全面協力していることらしいので、観に行ってきました。
メカもの好きなので・・・。
本作の題材となるのは航空自衛隊航空救難隊。
主役メカ(?)は救難ヘリUH-60Jで、こちらは「ブラックホーク・ダウン」で登場したUH-60 ブラックホークをベースにした機体です。
実機が映っているシーンがかなり多いですが、自衛隊もだいぶ撮影に協力したのでしょうね。
登場人物の背景に本物の戦闘機が映っていると、それだけで画面がはえます。

救難ものというと、「海猿」や「守護神」そして先週から公開中の「252」などが思い浮かびます。
それらの作品と比べても、予想した通りというか本作も過去の手塚監督の作品と同様にドラマ部分がとても弱い。
ストーリーはこの手のジャンルの王道で凝ったひねりはないのに、それをドラマチックに盛り上げるでもない。
救難シーンは自衛隊の全面協力なので、本物の醸し出す迫力は映像から感じられるところなので、登場人物に関わる演出が淡白なのがもったいない感じがします。
メカ周りの演出では見せてくれるような気がしましたが(護衛艦への着艦のシーンはなかなか迫力ありました)、あまりこの監督は人間を描くことにはあまり興味がないのかな・・・。

日本の自衛隊というのは「専守防衛」という言葉にあるように、その力を「守る」ためにしか使えません。
ただその高い戦闘力というのはそもそもは人を殺したり、物を壊したりするために使うものなので、ある種の自己矛盾を持っている組織でもあります。
たぶんその組織も、そこに属する人も、そのアイデンティティの不安定さというのを感じることはあるのではないでしょうか。
自衛隊という(あえて言いますが)軍隊・戦闘集団の中で、やはりエリートと呼ばれるのはファイターパイロットなどの戦闘職なのでしょう。
その中で救難隊というのは、ど真ん中のコースではないのだと思います。
作品中で織田1尉が「F転」(ファイターパイロットから配転すること)したのをわだかまりと持っているように。
ただ日本において自衛隊の持つ戦闘力というのは自分からその力をふるうことのできない力です。
それをふるわなくてはいけないときは日本がかなりたいへんな状況となっている時です。
つまり平和であり続けるための力ではあるけれども、それをふるう機会がない力。
そのような自衛隊という組織の中で唯一救難隊というのは、「人を守るための力」を実務で発揮できる組織なのだと感じました。
自衛隊への災害救助要請というのは自治体から出るものですが、民事への自衛隊の介入というのはなるべくなら避けたいという気持ちがあるようです(ただ阪神淡路大震災での要請の遅れが被害を大きくした反省から最近はそうでもなくなっている)。
そのために自衛隊が出動する時というのはかなり過酷な状況になっているわけで、救難隊というのはそういう中でその力を発揮することが期待される、たいへんなお仕事だと思います。

本作の主人公役を務めるのは高山侑子さん。
本格的に映画に出演するのは本作が初めてのようで、初々しいというかややまだ演技が拙いところがありました。
ただまだ16歳にも関わらず、20歳過ぎの女性自衛官という役を本作では演じていたので、もう少し慣れてくればおもしろい女優さんになるかもしれません。
彼女のお父さんは実際に航空自衛隊の航空救難隊にいた方で、新潟中越地震のときも任務につかれていたということです。

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2008年12月 7日 (日)

「LOST シーズン4」 フラッシュフォワード

シーズン3のラストで、少なくともケイトとジャックが島から脱出することができたということが明らかになりました。
ここでこのシリーズで使われたのが、「フラッシュフォワード」という物語手法。
それまでの「LOST」では、登場人物たちの現在時間に、彼らそれぞれの過去を織り込んでいく「フラッシュバック」という手法でした。
登場人物の行動に影響を与えている過去・人生が明らかになるにつれ、彼らの行動の意味が次第にわかっていくというところがこのシリーズの醍醐味の一つです。
墜落事故の生存者たちは、当然のことながらそれぞれのことは知りません。
当然観ている僕たちもそう。
つまり登場人物それぞれが謎めいているわけです。
「フラッシュバック」によって彼らの行動の原因が明らかになっていきます。
けれどもシーズン3までくると登場人物たちの性格や人生というのを、僕たちも知ってきます。
人間としての謎はなくなっていきます。
そのためにドラマを謎めいたものにするには新たな登場人物を出さなくてはいけません。
そのためシーズン3ではややドラマが複雑化し、当初持っていたグイグイ引っぱっていくような物語の力が落ちてきたような感じもありました。
そのような中、そしてシーズン4から試みたのが、彼らのその後・未来を描く「フラッシュフォワード」。
観ている僕たちには登場人物の行動の結果が提示されます。
けれども何故そのようになったのか、というのがわからない。
行動にはそのための判断が必ずあります。
登場人物はどのような判断をしたのか?
その謎が物語を牽引する力になります。
島を脱出した人間は6人、彼らは「オーシャニック6」と呼ばれます。
シーズン4開始当初は帰還したとわかっているのはジャックとケイトだけ。
残りの4人は誰なのかというのも物語を牽引する力になります。

物語全体の大きな流れについても、シーズン1であったような「この島はいったい何なのか?」という謎に立ち返ってシンプルになっていたと思います。
シーズン2はハッチの謎、シーズン3は「別のものたち」の謎だったわけですが、謎が明らかになるにつれやや当初持っていた神秘的な感じすらあった島の存在がやや薄れていたような気もしていました。
それがシーズン4ではそれが原点に戻ってきたような感じもあります。

島からの脱出に成功したジャックやケイトたち「オーシャニック6」たちはこれからどのような選択をするのでしょうか?
島へ戻るのか、戻らないのか。
そして島に残った仲間たちはどうなっているのか?
シーズン4を観終わったばかりなのに、シーズン5が早く観たい!

「LOST シーズン5」の記事はこちら→
「LOST シーズン3」の記事はこちら→
「LOST シーズン2」の記事はこちら→
「LOST シーズン1」の記事はこちら→

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「252 -生存者あり-」 待つ身のつらさ

小笠原近海で発生した地震によって、海底のメタンハイドレードが溶出。
そのために局所的に気温・水温が上昇したため発生した超巨大台風が東京を直撃。
台風による暴風のため高潮が東京湾沿岸に押し寄せ、海水は地下街・地下鉄に流れ込む。
大量の海水により地下鉄の車両すら押し流され、また水分を多く含み脆弱化した地盤は暴風による力で崩落を起こす・・・。
本作「252 -生存者あり-」は首都東京を襲う災害を題材にしたディザスター・ムービーです。

職場が銀座界隈なもので、本作の舞台となる銀座駅・新橋駅というのは普段からよく利用します。
東京という都市は江戸時代より海を埋め立てていきながら拡大していったために、実は海というのはけっこう近くにあります。
舞台となる新橋近辺はほんのちょっと歩けば海なんですよね。
また東京というのは地下街が発達している街でもあります。
地下というのは意外にも地震には強かったりするのですが、確かに水には弱いかもしれない。
あれだけ多くの水が一気に流れ込むことがあれば、地下街は危険な場所かもしれません。

登場人物たちの性格付けは、ややこの手の災害映画にありがちなステレオタイプであったのが残念なところ。
過去に仲間を犠牲にしてしまったことを悔いる男とか、生存者の中に一人はいるとてもわがままな男、助けを求めるけなげな少女とか。
ある意味、王道と言えば王道な物語なのですが、もう一ひねりあればもう少し印象度は高くなったかなとは思いました。
映像的には前半の地下街に大量の水が流入するあたりはなかなか迫力があり、知っている場所が舞台となっているのもあって、この場にいたらどうしようという恐ろしさはありました。
またラストの荒れ果てた新橋駅前の地上は、セットだとは思うのですが、実際の場所のように見えるくらいに細かく再現されていて、リアリティにこだわった作品なのだなと思いました。

一人からくも地下街から逃げられ、けれども残された娘と夫を心配している妻由美が、夫の兄でありまたハイパーレスキュー隊の隊長でもある静馬に助けを求めるシーンが印象的でありました。
肉親が災害に巻き込まれてしまった家族の方というのは、とても焦燥感を持つのだと思います。
すぐにでも助けにいきたい、けれどもそこは危険で近づくこともできない。
行動したいのに何もすることができないという、つらさ。
ただただ待ち続けるしかできないというのは、ほんとうにつらいことだと思います。
またハイパーレスキュー隊の若い隊員も、待機命令が出た時に上司に食って掛かります。
彼が自分の仕事に誇りを持っているからこその発言なのです。
けれども二次災害の危険がある限り救助を続けることはできません。
「待機も任務」と若い隊員の気持ちもわかった上で、上官は言います。
彼らも待つ身のつらさを味わっているのでした。
いくらつらくても人というのは行動していれば、不安を軽くすることはできます。
行動というのはなにか解決にむかっていくような気にさせてくれるものですから。
そんなときに「待つ」というのはかえってたいへんな勇気がいることなのかもしれません。

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本 「アメリカの宇宙戦略」

子供の頃に読んだ本では、21世紀になったら人類は宇宙に居住地を持っているような未来が描かれていました。
けれど現在の状況はそれにはほど遠い。
ケネディ大統領が月へ行くと宣言してから、月に人類が足跡を刻むまではたった8年。
けれどもそれから何十年と経っているのに、最近では月を訪れることもなくなっています。
その背景にはアメリカ・ソ連の宇宙進出競争がアメリカの勝利で一段落したことが大きい。
「必要は発明の母」と言いますが、科学技術というのは解決しなくてはいけない目標があるほうがその進化は早い。
月へ到着するという目標を達成してしまったNASAはその目標を失ってしまい活力を失ってしまうのです。
その他にも東西冷戦が終わったこと、アメリカの景気の悪化などの要因があります。
宇宙への進出には莫大なコストそして人的なものを含めた大量の資源の導入が必要です。
それは一大国家プロジェクトであり、そのために経済や政治というものの影響を多く受けざるをえません。
宇宙は残された最後のフロンティアと言われることが多いですが、そこへの進出というのは極めて政治的な意図によってもたらされるものだといえるでしょう。
そう言えば、ヨーロッパの新大陸への進出も経済的、政治的理由によってはじまりました。
好奇心だけではもう宇宙開発といった大プロジェクトは動かないのです。
最近は中国が有人での打ち上げに成功したりして、アメリカも危機感を持つ状況になってきていると思います。
この先にあるのが、競争にせよ強力にせよ、宇宙開発においてアメリカと中国が牽引役になるのは間違いないでしょう。
ただ心配なのは最近の全世界的な不況により、宇宙開発といったすぐにリターンが返ってこないプロジェクトに対しては予算などの獲得が難しくなるのが予想されること。
もしかすると再び宇宙開発低迷の時代になるかもしれません。

「アメリカの宇宙戦略」明石和康著 岩波書店 新書 ISBN4-00-431023-7

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2008年12月 6日 (土)

「禅 ZEN」 内観

本作は曹洞宗の開祖道元を主人公とした作品です。
同じ頃成立した鎌倉仏教のひとつ浄土宗などは「南無阿弥陀仏」と一心に念仏を唱えれば来世に救われると教え、広まっていきました。
それまでの仏教が貴族のものでしたが、念仏を唱えるだけということがある種のお手軽さをもっていることが庶民にも広がった理由でしょう。
それに対し道元は、末法思想(来世で救われる)ということは否定し、「修証一如」、つまり無限の修行こそが成仏であると称えます。
作品の中でも語られていますが、曹洞宗では「只管打坐」といってただひたすらに坐禅をすることを通じ、心を無の境地に導いていきます。

人生何十年か生きていれば、壁にぶち当たったりする時はいくつかあるものです。
どうしようもないと思うこともあるかと思います。
僕自身もそういうことがありましたが、個人的な経験で言うと、あがきまくったその先でただひたすらに自分を「内観」することによって、ある種達観したような気持ちになることができました。
そうすると、悩んでいる自分、もがいている自分が、冷静に見えてくるようになり、そしてあるがままな自分というのを受け入れられるようになりました。
「悟り」というのにはほど遠いのですが、「不惑」みたいな感じにはなっています。
自分っていうのは、それ以上でもそれ以下でもないというか。

ちょっと道元の言うこととはニュアンスは違うのですが(彼の言っていることは考えることすら越えて無になることなので)、ただひたすらに自分の内面を見つめることというのは己というものを受け入れることに繋がると思います。
おりん(内田有紀さん)が子を失い、坐禅を初めて行ったときに、嗚咽する場面があります。
あれは自分の内面の扉を開けたときにあまり見たくない自分の醜い側面を見たからだと思います。
けれどそういう醜いところ、弱いところということに気づくということはとても大事なのです。
そういうところも自分の一面と受け入れられることが、穏やかな気持ちへの道になります。
作品中で道元が行った北条時頼との問答は内観療法(時頼はノイローゼのような状態に見えた)のようでもあり、道元が時頼を内観へ導いていったように見えました。

今回は悟りきったような偉そうなことを言っていますが・・・(笑)。
まだ悟りまではいたらず、日々あがくことも多いです・・・。

映画としては編集に冗長なところもありやや不満はありますが、主演の中村勘太郎さんはどっしりとした存在感があり、強い意志がある道元に合っていたように思えました。

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2008年12月 5日 (金)

「WALL・E/ウォーリー」 ビビリ屋ウォーリーとツンデレイヴ

まさかロボットに泣かされるとは・・・。
今まで発表した作品の品質の高さから、また予告編で観た映像の素晴らしさから、観る前からピクサーの新作「ウォーリー」への期待度は高まっていました。
それでも軽々とその期待度のバーを、「ウォーリー」は越えてくれました。

見捨てられた地球でひとりぼっちで仕事をしていたゴミ回収ロボット、ウォーリー。
いつしか彼の中には人間でいうと「好奇心」のようなものが生まれていました。
ゴミを片付ける作業の中で見つけた、かつて人間たちが使っていた道具の数々。
それらはウォーリーにとって大事な宝物になっていました。
このウォーリーがとてもかわいらしい。
好奇心旺盛で、でもとってもビビリ屋で。
ロボットなのに、アニメなのに、人間以上に人間らしいウォーリー。
そのウォーリーが恋をしました。
恋の相手は突然地球に訪れた真っ白なロボット、イヴ。
イヴは与えられた使命を果たそうとする真面目なロボット。
それゆえか、彼女の性格はややキツい。
でもイノセントなウォーリーの気持ちが伝わるに連れ、彼女の表情(!)がやわらかになっていくのが女の子らしい。
言わばツンデレ系?
前半は攫われたイヴを取り戻そうとするウォーリーの一途な想い。
後半はダメージを受けたウォーリーを助けようとするイヴの懸命な気持ち。
二人(あえてこう言いますが)の気持ちが伝わってくるハートウォーミングな物語でした。
ラストは救いのある結末で良かった。
ほろりときてしまいました。

この人間らしいロボットを描けるのは、やはりピクサーの表現力があるからなのでしょう。
最近は多く公開されている3DCGアニメですが、ピクサーの作品は他の作品とやはりレベルが違います。
ドリームワークスの作品などアメリカの3DCGアニメというのは、やはり2Dアニメを3Dにしたということであって、その質感というのはいわゆるアニメタッチというかおもちゃくささみたいなものがあり、また動きも従来のアニメのようなディフォルメ的な表現が多く見られます。(個人的にはこのタッチはあまり好きではない)。
逆に日本の最近の3DCGアニメというのはリアリティ指向でいかに見た目も動きも本物っぽくみせるかということがテーマのものが多いと思います。
でもピクサー作品というのはそれらとはちょっと違います。
動きについてはアニメっぽいディフォルメがあります。
デザイン自体もディフォルメされたものになっています。
けれどもピクサーが他と違うのはそのテクスチャ表現や空気感だと思います。
ウォーリーの表面の錆びた鉄板や、イヴのボディのツルツルの磨き上げられたような曲面。
冒頭の埃でかすむゴミだらけの地表、またきらきらと輝く星。
実写かと思うほどのテクスチャ感でありながら、それは単純に実写をCGに置き換えたものではない、ディフォルメ表現。
そのようなディテールにこだわった肌感のようなものが、CGで作られたファンタジーでありながら、
そして主人公たちがロボットでありながら、ほんとにそこに息づいているような存在として感じられるのでしょう。

音楽は「2001年宇宙の旅」へのオマージュがありましたね。
宇宙船がでたところでは「美しく青きドナウ」が流れていましたし。
船長が立ち上がるところは「ツァラトゥストラはかく語りき」でした。
船の人間たちは安楽な生活に慣れきって、決められた生活を繰り返すだけの、まさにロボットのような生き方をしています。
けれどもこのシーンで船長が立ち上がるところで、「2001年宇宙の旅」で猿が人間になる場面の「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れたということは、人が再びロボット的な者から人間になるということの暗喩でしょう。
エンディングのアニメーションが、洞窟壁画みたいなものからエジプトの壁画、モザイク、印象派やゴッホのような絵のように変わっていくのは、再び人間が人間らしく文明を営んでいくということを表しているように思えます。

あとはマッキントッシュユーザーとしては、ウォーリーが映画を観ていたのがiPodだったり、ウォーリーが充電して再起動するときの音がマックの起動音と同じだったりしたのが嬉しいところだったりしました。
さすがアップルのスティーブ・ジョブズが近しいピクサーならではです。

ピクサーの表現力はやはりすごいなあと思いながらエンドロールまで観終わったとき、おなじみのピクサーのロゴ。
ピョンピョンと跳んでくるルクソーJr.をあらためてみて、そういえばこのスタンドも無機物なのにとっても人間ぽかったなあと思い返しました。
これがピクサーの原点なのですよね。

ピクサー作品「カールじいさんの空飛ぶ家」の記事はこちら→
ピクサー作品「レミーのおいしいレストラン」の記事はこちら→
ピクサー作品「カーズ」の記事はこちら→

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2008年12月 2日 (火)

本 「ライトジーンの遺産」

もともとソノラマ文庫に収録されていた作品です。
脱線になりますが、いつの間にか朝日ソノラマってなくなってしまったんですねえ。
小説を読み始めたのは、ソノラマ文庫からだったので、ちょっと残念・・・。

さてこちらの作品。
近未来、人類は体内の臓器が崩壊してしまうという現象に直面していました。
かつてライトジーン社は人工臓器を供給し、社会に大きな影響力を与えていましたが、その危険性により解体されてしまいます。
そのライトジーン社が研究のためにつくった人造人間が主人公菊月虹。
人造人間である彼は、人の心を読めたり影響を与えることができるサイファと呼ばれる者でもありました。
本作はこういう背景を持った未来社会を舞台にした連作短編集です。

僕がおもしろいと思ったのはその中の「ダーマキスの皮膚」という作品。
神林長平さんはその作品で、精神と肉体というもの、またコミュニケーションをテーマにすることが多いです。
近代以降、多くの人は精神というのは物理的なものではないと考えています。
肉体というのは手に取って調べることができるけれど、精神はそのようなことはできません。
でも自分を感じる精神は存在するわけで、それ自体を否定することもできない。
なのでなんとなく肉体と精神というのは、別の次元の話というようなことで捉えているのではないでしょうか。
肉体がハードウェア的だとしたら、精神はソフトウェア的なものとイメージできるでしょう。
では精神というのはどこにあるのでしょうか?
脳の中の情報?
けれど神林長平という作家は、精神と肉体がまったく別次元のものと捉えているのではない気がします。
しばしば彼の作品では精神の力が物理的な世界へ影響を与えることを描きますし、また肉体が電脳世界で実体を持っているようなことも書かれています。
たぶん精神と肉体というのはもっと不可分なものとして神林さんは捉えているのではないでしょうか(うまく言えないけれど)。
先ほどあげた短編では「記憶を持った皮膚」というのがでてきます。
なんだか突飛そうにも聞こえますが、肌感とかいう言葉もあるように自分が世界を見ているのは、眼だけではなくて、皮膚だったりするのです。
だって外界と最も接しているのは皮膚ですから。
そこに外界と内面の情報のやり取り、フィードバックがあり、なにかしら記憶やら精神というのがあるというのは何かわかるような気もします。
そもそも精神というのは「この器官にある」と言えるものではないですから。

本作こういった神林さん独特のモノの見方があって、またボリュームもそこそこあるので、とっつきにくいかもしれません。
ただこの方の感じ方というのは他の方にはないところがあるので、ハマれる人はハマれる作家だと思います。

神林長平作品「敵は海賊・A級の敵」の記事はこちら→
神林長平作品「ルナティカン」の記事はこちら→
神林長平作品「あなたの魂に安らぎあれ」の記事はこちら→

「ライトジーンの遺産」神林長平著 早川書房 文庫 ISBN978-4-15-030939-8

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「D-WARS ディー・ウォーズ」 模倣以上のものではない

韓国の作品でありながら、L.A.を舞台にして主な登場人物もアメリカ人という新しい試みの怪獣映画です。
僕は未見なのですが、「ゴジラ」にインスパイアされた「怪獣大決戦 ヤンガリー」という韓国では珍しい怪獣映画を撮った監督シム・ヒョンレの作品です。

びっくりするくらいにつまらなかった・・・。
基本的に怪獣映画は好きなので、それだけで評価が高くなりがちな僕ですが、こちらの作品は評価できるところがあまりありません。
まず一番致命的なのが、登場人物がまったく描けていないということ。
特に主人公であるイーサンとサラという登場人物が薄っぺらくてまったく感情移入できません。
イーサンですが、普通だったら何故自分がそこまでにサラを探そうということにこだわってしまうのかということに多少なりとも葛藤があるかと思いますが、それを子供の頃の古物商によって語られる話で説明に疑問なく納得している彼の行動に疑問を感じます。
またイーサンとサラのキスシーンなどもあったりしますが、それも突然で、ほとんどあったばかりのサラがイーサンに惹かれることへの納得性もありません。
あげようとするといくつもあるのですが、すべてを500年前の宿命で片付けてしまう脚本に荒っぽさというか、考え不足さみたいなものを感じました。
もしかすると監督は都会を怪獣が破壊するというシーンを撮りたかっただけであって、人物には興味ないのかもしれませんが。
ただそういった特殊撮影やアクションがこの監督の個性が出て見応えあったかというとそういうことでもありません。
ドラゴン軍が大部隊で攻めてくるシーンはLOTRのようですし、黒い甲冑に身を包んだ軍団は「スター・ウォーズ」の影響で作られた一連のSF映画のようですし、全体的には「ゴジラ」だし・・・。
今までどこかで観たという印象しか残りません。
別に自分が好きな映画へのオマージュが悪いと言っているわけではありません。
タランティーノなどはそういうのばかりですし。
けれどもオマージュというのは、オリジナルを解釈して自分なりの表現で吐き出すからこそ、またそこにオリジナリティを感じるのです。
本作から感じたのはお粗末な模倣以上のではありません。
テクニカルな面でここまで韓国映画もできるぞということは評価できるかもしれませんが、それ以上は評価できるような作品ではありませんでした。
残念です。

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