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2008年11月30日 (日)

本 「本所深川ふしぎ草子」

宮部みゆきさんは下町の育ちということで、東東京のあたりが舞台となることが多いですよね。
本作は宮部さんが得意とする時代小説で、深川の七不思議を題材にした短編集です。
深川七不思議というのは知らなかったのですが、「置いてけ堀」だけは聞いたことがありました(まんが日本昔話だったかな)。
どの短編も時代小説らしい人情味があって、そしてちょっとしたミステリー・不思議話があって、宮部さらしい作品になっていると思います。
時代小説といっても物語に登場するのは侍ではなくて、江戸の街の町人たち。
そういった市井の人々が登場するからでしょうか、素直に人の哀しさやあったかい人情みたいなところが感じられます。
たぶん侍社会の話だともっと堅苦しくなってしまうんでしょうね。
このあたりは宮部さんのやさしい視線が感じられます。
すべての短編に登場する回向院の親分さん茂七が、またいい感じの人なんですが、こちらは別の作品「初ものがたり」では主役をはっているということで。
こちらも読みたくなりました。

「本所深川ふしぎ草子」宮部みゆき著 新潮社 文庫 ISBN4-10-136915-1

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「ルパン三世 カリオストロの城」 繰り返し観ても色あせない

先日ブロガーさん仲間と生涯の映画ベスト10は何かという話になり、うーんと頭をひねったのですが、僕の選んだ映画の中で唯一アニメーションでランクインしたのが、この作品「ルパン三世 カリオストロの城」です。
正直言ってこの映画を何度観たかわからないくらい。
ビデオが家に導入されたときにもテレビで放映されたのを録画して繰り返し観てましたね。
おかげでCMが入る場所まで覚えてしまった・・・。
いつもお世話になっている「カリスマ映画論」の睦月さんが、熱く本作についてブログで語っていたので(先週としまえんでリバイバル上映していたそうです)、つられて無性に観たくなって本日通算何十回目かの観賞をDVDで。
やはりおもしろい!
しかし、この作品はすごいです。
数えきれないほど観ても楽しめるんだもん。
心に刻まれる映画というのはいろいろなタイプがあります。
初めて観た時の衝撃が強い印象となって心に残るもの。
こういう映画は何度か観るとその強い印象が段々と薄れていくような怖さがあって、何度もあまり観なかったりします。
逆に何度も何度も観て楽しみたくなってしまうもの。
明らかに本作「カリオストロの城」は後者でしょう。

本作については思い入れがありすぎるので、なかなか記事に書くのが難しいのですが・・・、がんばってやってみましょう。
まず何度観ても見飽きないというのは、この作品がアニメーション=「絵が動く」ということの本質的なおもしろさということをきちんと見せているからでしょう。
アニメというのが市民権を得てから久しいですが(「ガンダム」以降か)、ストーリーやテーマを語り過ぎ、「絵が動く」という基本的なところにある感激を失っている作品も多くみられます。
宮崎監督も「ポニョ」でそのあたりの本質に再チャレンジしているように見えますが、やはり最高峰なのは「カリオストロの城」なのではと思います。
有名な「ルパン走り」(タタタタタタ、ピョーンってやつね)とか、オープニングのカーチェイスとか、ストーリーに関係なく「絵が動く」ということの感激が味わえるんですよね。
これは本当に快楽的ですらあって、何度でも何度でも観たいって感じになります。
そうそう、城にローマ水道から侵入するときのルパンの平泳ぎ(落ちる水の中を泳ぐところね)も好きなんです。
あとは魅力的なのはキャラクター、そしてその粋な台詞だと思います。
登場してるのはルパン、次元、五右衛門、不二子、銭形とおなじみのキャラクターたちですが、彼らの掛け合いの台詞というのに、彼らの長年の腐れ縁みたいなものが感じられるのがとてもいい。
例えば、クラリスが不二子にルパンとの関係を聞く場面。
不二子 「気をつけてね、あいつ、根っからの女たらしよ」
クラリス 「捨てられたの?」
不二子 「まさか。捨てたのよ」
くどくどとルパンと不二子の関係を説明するのではなくて、これだけでわからせてしまうところが粋なんですよね。
他にもルパンと次元がジャンケンでパンクの修理を決めるとことか、大公の屋敷跡で次元がルパンにコブラツイストかけるとことかも、台詞がほとんどないのにこの二人の関係というのが伝わってきます。
「超」がつくくらいに有名な「ルパン三世」という題材だからできることだとは思いますが、それがわかった上でのこの洒落たキャラクターの描き方がいいですね。

ここまで書いてやっとこの作品が何度観ても色あせない理由がわかってきたような気がします。
この作品何度も観ている場合には、ストーリーを楽しんでいるんじゃないんですね。
この場面が観たい、この台詞が聞きたい、なにかそういう気持ちで観ているような気がします。
そういった名場面がこの作品には数えきれないほどにある。
だから何度観てもその度ごとに楽しめる。
うー、やっぱりスクリーンで観たくなってきた。
どこかでまたリバイバル上映やってくれないかなあ。

宮崎駿監督作品「崖の上のポニョ」の記事はこちら→

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2008年11月29日 (土)

「デス・レース」 監督自身がファンの心を持つ

本日のジェイソン・ステイサム祭、第二弾「デス・レース」です。
監督は「バイオハザード」、「エイリアンVS.プレデター」のポール・W.S.アンダーソン。
この監督好きなんです。
先にあげた二作品をはじめ、ポール・W.S.アンダーソンが関わった作品にはテレビゲームの映画化や人気作品のリメイク、続編などが多いんですよね。
元ネタのある作品の映画化やリメイクというのは案外難しいと思っています。
なぜなら元ネタの方にはしっかりとしたファンが存在しているから。
特にテレビゲームの映画化は元々が動く映像だったりするわけで、下手をすると大ブーイングになってしまいます。
そういう映画化、リメイクの方向性としてはいくつかあります。
原作の骨子や設定だけを活かして、全く別もののストーリーとして作ってしまう方向性。
邦画ですが、最近だと樋口監督の「隠し砦の三悪人」とかはこの考え方だと思います。
こちらはある種、軸をずらしてしまうわけで、これにより「オリジナルと違う」という声を避けているとも言えます(そのほうが監督のらしさを出しやすいわけでこのことは否定しません)。
また別な方向性としてはあくまで原作に忠実に作り上げること。
これまた邦画ですが「20世紀少年」はこちらですよね。
それでポール・W.S.アンダーソンの作品ですが、彼の作品はオリジナルの骨子を活かして新しいものを作るという意味では前者の考え方と同じですが、基本的に彼は元ネタに対してのリスペクトはかなり高く、元ネタを発展的にグレードアップしているような方向性で作り上げているように思えます。
このグレードアップするところがポール・W.S.アンダーソンはなかなか上手なんですよ。
本作でもレース中に、戦車の砲台をつけたタンクローリーのような巨大な装甲車”戦艦”が突然乱入して死のレースを更に盛り上げますが、これをバカバカしく感じさせないような作りがこの監督はうまいと思います。
「バイオハザード」にしても「エイリアン」「プレデター」にしても、たぶん監督自身が元ネタのファンなのではないでしょうか。
なのでオリジナルのファンが感じている「外せないポイント」そして「こういうのが見たいという願望」を、監督が心得ているように思えます。
だからオリジナルのファンからあまり文句がでないのではないのでしょうか。

本作のオリジナルは「デス・レース2000年」という作品。
僕は未見なので、オリジナルのエッセンスが活きているかどうかは判断できないのですが、パンフレットを観るとカルトファンがいそうなB級風な作品ですね。
やはりポール・W.S.アンダーソンもファンだったようなので、オリジナルのファンが観たら喜ぶのかもしれないですね。

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「バンク・ジョブ」 度胸とハッタリと時の運

本日は「バンク・ジョブ」と「デス・レース」を観てきたので、期せずしてジェイソン・ステイサム祭になってしまいました。
特にジェイソン・ステイサムファンというわけではないのですが、それぞれ気になる監督の作品だったもので・・・。

こちらは「世界最速のインディアン」のロジャー・ドナルドソン監督の作品です。
昨年公開された「世界最速のインディアン」が個人的にお気に入りの作品なので、本作も気になっていました(けれど何故渋谷でしか上映してないの・・・)。

主人公テリーとその仲間たちは、ある銀行の警報機が一時的に無効になるというネタを手に入れ、その銀行の貸金庫に強盗に入ります。
襲撃は首尾よく終わり、彼らが奪っていったのは、現金と宝石類、そしてその他諸々。
けれどもその中にはとってもヤバいものがいくつも紛れ込んでいました。
王女や大臣のスキャンダルネタ、悪徳警官への賄賂の裏帳簿など、それらが公にされるととてもヤバいものばかり。
そもそも銀行の警備情報自体が、MI-5がエセ黒人左翼活動家マイケルXが貸金庫に隠している王女のスキャンダルネタをテリーたちに奪わせようと仕組んだものだったのです。
それらを取り返そう、奪おうと、MI-5、悪徳警官、ポルノ王、黒人左翼活動家などがテリーたちを追いかけます。
どの相手をとっても、まともにやりあったらテリーたちが敵うわけもない大きな力を持っています。
さてテリーたちは逃げ仰せることができるのか・・・。

強奪ものっていうのは名作が多いですが、本作もおもしろい作品でした。
なにせ主人公たちを追うものたちは、どれも容赦がない相手ばかり。
ひとつだけとっても逃げられそうにないのに、これが複数だったりするわけですから、さらに大変なはず。
けれどこれがミソ。
この複数の追っ手は、それぞれが敵対している関係なんですよね。
テリーたちは、自分たちが握っているカードを上手く使いながら、追っ手たちを噛み合わせて逃げようとします。
テリーたちにはあるのは度胸とハッタリと、時の運。
ジェイソン・ステイサムの胆の座ったような顔立ちが、テリーという役柄にあっていました。

舞台となった時代の70年代ロンドンが、なんだかいい雰囲気。
なんとなくどんよりとした感じもありつつも、流れている音楽はイギリスロックな感じで。
画としては決して派手ではないのですけれど、物語はけっこう考えられていて展開はどこいくのかわからないハラハラしたところがあって飽きない感じと合っていたように思います。
一番最初の「ルパン三世」のアニメシリーズを何故か思い出してしまいました。
時代も同じ頃だからかもしれませんが、なんだか雰囲気似ていません?

ロジャー・ドナルドソン監督「世界最速のインディアン」の記事はこちら→

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2008年11月24日 (月)

「エリザベス」 私は国民と結婚しました

本作は、先日観た「ブーリン家の姉妹」の登場人物アン・ブーリンの娘でイギリス女王となったエリザベスの物語。
エリザベスの治世の間に、イングランドの国力は増しスペインの無敵艦隊を破り、世界の貿易を一手に握るようになっていきます。
けれどもエリザベスが即位した頃のイングランドは、スペインやフランスなどの強国に翻弄され、まだ国内もカトリックとプロテスタントの宗教的対立は解決されておらず安定しているとはいえない状況でした。
映画の中ではエリザベスはメアリーの後を継ぎ女王となるであろうということは予想していたように見えます。
即位したてのときに「争いは好まない」と言っていましたが、彼女の中にはなにかしら理想があったのでしょう。
けれどもいざ王位についてみても、国というのは自分の思うように動かないということをエリザベスは身にしみて理解します。
女であるということもあったでしょう。
また悪名高きアン・ブーリンの娘、妾腹であるということもあったのでしょう。
周囲の貴族たちにとって、エリザベスは女王であってもそれは他国との婚姻関係を結ぶことによって、イングランドの地位を保とうとするための駒でしかないのです。
国を含めて組織というものは大きくなればなるほど、多くの人が関わるシステムとなっていきます。
最終的な意思決定者であっても、そのシステムの中に組み込まれざるをえません。
王という地位もそれは国というシステムを動かす仕組みの一部なのです。
最高意思決定者が傀儡とか、御神輿になってしまうことがあるのはそういうためなのです。
そうならないためにはその地位にいる人間が強い意志を持たなくてはいけません。
エリザベスという女性は、その強い意志を持っていた人物でした。
けれどもそれには代償が伴います。
王という役割を果たすには、普通の女性としての生活は犠牲にせざるをえなかったのです。
強い意志をもって国を経営していくためには、その判断に私情というものが入ってはいけません。
もしかするとエリザベスの脳裏には、ある種自分勝手に政治や宗教を利用し、周りの者を不幸にした父親ヘンリーの生き方が反面教師としてあったのかもしれません。
劇中ではエリザベスはヘンリーに対して尊敬の意を持っているように見えますが、そのようなこともあったのではないかなと思いました。
ラストのシーンで、エリザベスは髪を切り、そしてその顔を真っ白に塗りたくった姿で現れます。
それは一人の女性としての存在を止め、絶対王政の最高意思決定者としての王、国家経営の「機関」として生きるという彼女の意志を表しているように思えました。
それが「国民と結婚した」という彼女の発言に現れているのでしょう。

エリザベスの母親アン・ブーリンを描いた作品「ブーリン家の姉妹」の記事はこちら→

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本 「クライマーズ・ハイ」

今年の夏に映画にもなった「クライマーズ・ハイ」の原作本を読みました。
御巣鷹山の日航機墜落事故と、その報道の喧噪の中での北関東新聞の記者たちの様子を描くという点では原作も映画も同様です。
映画の方では「金融腐食列島<呪縛>」や「突入せよ、あさま山荘事件」などを作った原田監督らしく、悠木を主人公としながらも事故に翻弄される新聞社全体をダイナミックに描いていました。
原作は主要なエピソードは映画と変わりがありませんが、より主人公悠木という男を深く深く描いております。
日航事件の全権デスクとなった映画の悠木は、毅然と言える態度で(多少の迷いがあったとしても)事故報道に立ち向かいます。
堤真一さんの演技もあり、頼れる男のようなイメージがありましたが、その分悠木の持っている迷いというものはやや薄くなっていたような気がします。
ややもすると現代のシーンである衝立岩へのアタックの意味合いが薄く感じられたりもしました。
原作の悠木は、今までの生き方、それは記者としての生き方、親としての生き方に対して何か迷いのような苛立ちのようなものを持っています。
特に息子との関係においては、どこか不器用で愛情表現ができず、愛していてもいるが、何か扱いづらく距離をおいてしまう感じがでています。
原作では日航全権デスクとしての記者の顔、親としての家庭の顔の悠木が描かれ、それらへの自分の関わり方を見いだせない男として描写されています。
それが現代シーンの衝立岩の登攀へとオーバーラップするのです。
映画の方は悠木の二つの側面のうちの記者の顔のほうに比重を置いた描き方になっていたと思います。
映画としてはこれは正しい判断で、両方をしっかりと描こうとした場合、時間がいくらあっても足りなかったと思います。

映画にはなかった望月彩子のエピソードがよかった。
小説を読んで久しぶりに泣けました。
重い命、軽い命、それは誰が決めるのか。
答えは出ない問いなのかもしれません。
けれどそれを問い続けるのが記者という仕事なのかもしれないですね。

映画化作品「クライマーズ・ハイ」の記事はこちら→
横山秀夫さん作品「半落ち」の記事はこちら→

「クライマーズ・ハイ」横山秀夫著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-765903-4

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本 「マーケティング企画技術 -マーケティング・マインド養成講座-」

僕は会社に入ってずっとマーケティング関連業務の周辺で仕事をしています。
デザインであったり、広告であったり、製品開発であったり。
そういう仕事の中で「マーケティングとは?」ということに対して自分なりの考えみたいなものを持つようにはなってきています。
正直、特に体系的な勉強をしてきたわけではなく、実地での経験によるものなのではありますが。
薦められてコトラーのマーケティングの本なども読んでみましたが、あっさりと挫折しました。
コトラーなどのマーケティング関連の本は、あまりに一般化されていて、また学問になっているため、実際のところそれが現実の具体的な問題に対処できるのか、個人的には疑問です。
これらはあくまでも「今まで起こったこと」の体系化でしかないのだと思います。
それとは逆にちまたには様々なマーケティングスキルについて書かれた本があります。
ある種のハウツー本ですが、これらもいわゆるテクニックだけについて書かれているものが多く見受けられます。
さまざまな技法はもちろん大切なのですが、それはやはりしっかりとしたマーケティングの骨子があってこそ初めて活きるのです。
スキルだけ身につけてもそれを適切に使いこなせなくては意味がありません。

そういう意味で本著は、実務に使え、そしてマーケティングとは何なのかということについてかなりわかりやすく書いてある内容であり、マーケティング初心者に強くお薦めできる本となっています。
先に書いた僕自身の「マーケティングとは?」という考えにも、非常にシンクロするものがありました。
例えば、本著では「虫の眼」「鳥の眼」という言葉が出てきます。
いわばミクロの視点とマクロの視点ということなのですが、これの切り替えをできるということがマーケターにとって大事であると書かれています。
これについては僕も同じように思っております。
マクロの視点というのは、具体的にいうといわゆる数値データの類いです。
人口統計やら、n数何百の数値データです。
これらは説得力も持つためにマーケティングプランを組み立てる際に、非常に重要になります。
ただこれらは現実に起こったことを数値化したもので、言わば過去についてまとめたもの以上のものではありません。
実はこれだけに頼ると、画期的な企画・商品などはほとんど出ることはないでしょう。
そしてミクロの視点というのは、1ユーザーの意見など個人の意見を元にした視点です。
nが限られているため、なかなか説得力がないと言われがちではありますが、僕個人としてはこの個人的な意見の中から何を抽出できるかというのが、実は大事だと思っています。
実際にモノを使う方の何気ない一言の中には、他の方にも共通する真実が含まれていることがあります。
この一言を見つけ出すのが、マーケターのセンスなのではないかと思います。
ただしこの一つの意見にこだわりすぎるのも危険です。
ほかの大多数の人はそう思っていない可能性もあるのです。
その実証にマクロの視点を使えばいいのです。
このミクロとマクロ、「虫の眼」と「鳥の眼」を行き来してそれぞれの視点の良さを使うこと、これが優れたマーケターに求められる点だと思います。

その他にもこの本ではマーケターに求められるものの考え方がいろいろと紹介されています。
マーケティングって何なんだろう?という疑問を持っている方にはこちらの本はお薦めです。

「マーケティング企画技術 -マーケティング・マインド養成講座-」山本直人著 東洋経済 ハードカバー ISBN4-492-55531-5

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2008年11月23日 (日)

「Happyダーツ」 恋はエネルギー

ダーツって、ずいぶん前に一度しかやったことがありません。
やる前は的に矢を投げればいいから簡単じゃんと思ったりしたのですが、けっこう難しかった覚えがあります(酔っぱらっていたから?)。
そんなダーツ知識ゼロな僕が観ても大丈夫かしらんと思ったりもしましたが、映画の中ではルールはけっこうわかりやすく説明してくれているので、まったく知らない人が観ても問題ないと思います。
最近のダーツは電気式で点数出てくるんですね、知らなかった・・・(ソフトダーツというらしい)。
前は紙に書いて計算して面倒くさい印象がありました。
便利な世の中になったものです。

主人公の美奈子は30歳の派遣社員のOL。
仕事はラクチンそうで定時には会社を出れる。
容姿は悪くはないので、そこそこモテる。
日々の生活は不満はなさそうで、なんとなーく過ぎている感じ。
自分の中に熱中できるものがない、ということにも気づいていないのほほんとした感じの女性です。
そんな美奈子がふと友人に誘われていったダーツバー。
美奈子はそこで働く年下の青年篠塚に一目惚れしてしまいました。
篠塚に会いたいばっかりに美奈子はダーツバーに通いつめ、彼に見てもらいたくってダーツを習い始めます。

ベタなストーリーなのではありますが、改めて恋って自分のエネルギーになるものだなあと思いました。
たぶんみんな経験ありますよね。
好きな人に見てもらいたくって、話をしたくって、その人の趣味と同じことを始めてしまうこと。
その人が興味を持っていることに自分も関心をもっていくこと。
ふだん新しいことを始めようとするのってとってもエネルギーがかかるものですが、恋をしてしまうとそういうことは苦ではなくなってしまうものなんですよね。
恋をするのも、なにかに夢中になるのにも、がんばりが必要です。
がんばっているときはしんどいこともあるけれど、そんなときってなんだか楽しい感じもありません?
自分の中からエネルギーが沸いてくるような感じ。
わくわくするような感じ。
恋っていうのは、そういうエネルギーを生み出すきっかけになるんですよね。
恋したくなってきた。

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「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」 まさか、彼・・・?

本作は数多ある戦争映画と、そしてハリウッドの映画産業自体をパロってるコメディ映画です。
ベン・スティラーのコメディは個人的にはあまりツボに入らないことが多いのですが、本作は出演者が豪勢なので、公開を楽しみにしていました。
まずは大好きなジャック・ブラック。
この人、下品千万ですが、なんだか憎めなくて好きなんですよねー。
本作では自分自身をモチーフにしているような、お下品ギャグが持ちネタのコメディアン、ジェフ・ポートノイを演じています。
パロディというより、いつものJBそのまんまの役です。
そしてロバート・ダウニー・Jr。
演じているのは、役作りのために整形手術で黒人になってしまう(んなバカな!)役者バカ、カーク・ラザラス。
これは役になりきるために毛を抜いたり自らの肉体を変えたりするデ・ニーロアプローチをパロっているんでしょうかね。
あまりにおバカな設定の役で、せっかく「アイアンマン」でヒーローになってメジャー街道に見事カムバックしたのにキャリア的に大丈夫か?と勝手に心配してしまいます。
本人は楽しそうにやっているので、いいけど。
そういえば「スパイダーマン」な彼もちょっと出ていましたね(マーベルコンビだ)。
その他にもニック・ノルティとか、マシュー・マコノヒーとかけっこう有名どころが数々出演していて、この出演者の豪勢さはおバカコメディとは思えないほど。

さてコメディ映画なので、笑えたかというのが評価のポイントですが、やはりどうもベン・スティラーとは波長が合わないようで、爆笑とまではいかず、というところでした。
いや、まったく笑えないわけではなかったんですけれどね、ややブラックな笑いが多いので笑っていいかどうか悩ましいところでありました(監督があっけなくいなくなっちゃうとことか、子供を投げ捨てちゃうとことか)。
コメディ映画ではなく、ほんとに戦争映画のように爆発シーンとかアクションシーンとかは激しくて見応えありました。

本作見て、何が一番驚いたかって、あの鬼プロデューサーの彼。
アップになったとき、誰だろどこかで見たことあるなーとずっと思っていたのですが・・・。
ラストのダンスを見て・・・まさか彼では?という疑問が。
そう「卒業白書」とか「ハスラー2」の彼です。
まさかねー、ハゲだし、デブだし、毛むくじゃらだし、違うよねーと思ったのですが。
しっかりエンドロールで最後に名前がでてました。
椅子から滑り落ちそうになりましたよ。
思わせぶりで申し訳ないですが、興味のある方は劇場でご確認ください(笑)。

ベン・スティラー主演「ナイト ミュージアム」の記事はこちら→
ジャック・ブラック主演「テネイシャスD〜運命のピックをさがせ!」の記事はこちら→
ロバート・ダウニー・Jr主演「アイアンマン」の記事はこちら→

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2008年11月22日 (土)

「ブラインドネス」 豊かさと倫理

本作を観て思い出したのが、ロバード・ゴールディングの「蝿の王」。
映画化もしているので、ご存知の方も多いかと思います。
この小説を初めて読んだ時は、かなり衝撃を受けました。
「十五少年漂流記」のように無人島に少年たちが漂着しますが、そこでサバイバルをしていくうちに次第に彼らの間に強者が弱者を支配するような構造や異なるグループ同士の対立が起こります。
そこには獣のような弱肉強食の関係があり、やがてそれは仲間で少年を殺してしまうという悲劇的な結末に至ります。
次第に少年たちの間で疑心暗鬼や支配欲みたいなものが満ちていく様は、とても恐ろしかった覚えがあります。
本作「ブラインドネス」でも、謎の失明をする病気に感染した者が閉じ込められる収容所の中で、モラルが崩壊し、次第に人間の中に潜む獣性みたいなものが支配して行くさまが描かれています。
ある意味、収容所の中は外の世界に比べ平等です。
(「医者の妻」を除いて)誰も見ることができないという意味で。
そこではそれまでの肩書きは通用しません。
医者であろうが、泥棒であろうが、男であろうが、女であろうが、若かろうが、老いていようが。
政府に管理され、それなりに物資を供給されているという時点では、誰もが同等です。
当初はグループの代表者が話し合い物事を決めるような民主的な状況でした。
けれども供給される物資が減り、生きていくことすらが苦しくなってきたとき、物資を支配をする者が現れたそこでは民主的なプロセスは消滅してしまいます。
生きるか死ぬかといったような状況で、悲しいほどに民主的な考えやモラルというものが脆いということ知らされます。
これは「蝿の王」を読んだときと同じような、苦しさを感じました。
倫理や道徳といったものもそのような究極の状況では脆い。
では人間とはそういうものだ、それは人間の業だから仕方のないと諦めてしまわなくてはいけないものなのでしょうか。
たぶん人間とはそのようなものなのでしょう。
一個体の生物として自身の生命を守るということは、本能だと思います。
生命の危険にさらされたとき、倫理や道徳などは消し飛んでしまうものなのかもしれません。
だから。
だからこそ、人は豊かになることを目指すのかもしれません。
生命が危険にさらされないほどに豊かになること、それは道徳や倫理というものを優先させるという余裕を生みます。
その余裕があってこそ、他者、とりわけ弱者への配慮があるのかもしれません。
実はすべての人が生きていくために十分な豊かさになることが争いをなくすための方法なのかもしれないと思ったりもしました。

ただ豊かさが偏在すること、普通に生きること以上の大きな豊かさをさらにさらに求めようとすることは、やはり争いを生むことになるような気もします。
本作で第3病棟の男たちは収容所では何にも役に立たない金品を食料と引き換えに巻き上げました。
それらは生きるためには不要であり、ただ支配の象徴としての財宝でしかありません。
けれども男たちはそれを欲しがった。
これは過剰な欲望です。
その欲望はさらに増幅し、それが最後には彼ら自身を崩壊させるに至りました。
これと似ている例を僕たちは今、現実に見ています。
アメリカに端を発する金融危機、これは明らかに過剰な欲望が人の手を離れ、手に負えなくなってシステムが崩壊したと言えると思います。
倫理観を失った際限のない豊かさへの欲望はやはり人を不幸にするのです。
「白い闇」という病気は目が開いていながら、何も見えないという病気でした。
マネーゲームに踊らされていた人々も、見ているようで本当は何も見えていなかったということなのかもしれません。

豊かさを求めることは悪いことではありません。
けれどもそこには倫理や道徳がなくてはいけません。
そしてその倫理や道徳は豊かでなくては生まれないものでもあります。
争いをなくすには皆が本当に平等でなければならないのでしょう。
そのためには豊かさと、倫理・道徳がバランスをとれている社会というのが必要なのかもしれません。
それが成熟した社会なのでしょうね。

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2008年11月16日 (日)

「ハッピーフライト」 次は安心して乗れそうです

「フライング☆ラビッツ」は東映&JALでしたが、こちら「ハッピーフライト」は東宝&ANAの組み合わせ。
両作品とも航空会社を題材にしているので、最初はかなりかぶっている企画だなあと思ってましたが、観てみると描いているポイントは違いましたね。
「フライング☆ラビッツ」は一人のCAを中心にした青春ものでしたが、こちら「ハッピーフライト」は飛行機を飛ばすということに関わる様々な人たちを描いているコメディタッチの作品でした。
「スウィングガールズ」の矢口史靖監督なので、大勢の人物をそれぞれきちんとキャラクターを描くのはお手の物ですよね。
コメディタッチとはいえ、後半の緊急事態発生後はけっこうハラハラしてしまいます。
その緊迫感と、コメディの軽妙な感じは矢口監督らしくとてもバランスがいいですね。

臆病者なので、飛行機に乗るのはあまり好きじゃないんです。
ジェットコースターなどもそうなのですが、あのふわっと胃が浮くような感じが苦手で・・・。
いつも飛行機が離着陸する時はなんとなく手に汗握っちゃいます(本作では笹野さんの役がそんな感じでしたよね)。
そんな僕が最近は1年間に6回も海外出張があって(それも一人のことが多い)、毎回飛行機に乗るたびにドキドキです。
そんな感じなのであまり空港などでも気分的にはあまり余裕などはなく、あまり周囲のことなどに気が回る感じではありません。
本作を観て、飛行機を飛ばすということにこれほど多くの人が関わっているのだなあと改めて感心しました。
航空産業というのは巨大なシステムですから、それに関わっている人はもの凄く多いわけです。
本作でも登場するのは、パイロット、CA、整備士、グラウンドスタッフ、管制官、OCCディスパッチャー、バードコントロール等々。
知っている仕事もありましたし、あまり馴染みのない仕事もありました。
それぞれが自分の持ち場の仕事をしっかりとやっているからこそ、飛行機というのは安全に飛んでいるんですね。
エマージェンシーが出てからも、それぞれの持ち場でスタッフはけっこう冷静に仕事をしています。
それは普段からそのようなことが起こりうるということを考え、訓練しているからできるんでしょうね。
きちんと体に染み付いた訓練をしているからこそ、緊急事態でも咄嗟に判断もできるわけです。
天然ボケ気味のCA悦子(綾瀬はるかさん)悦子も緊急着陸時にその後の手順を確認していたところがありましたが、やはりプロっぽいなと感じました。
これだけのプロが支えてくれているのだから、次に飛行機に乗る時は少しは安らかに乗れそうです(笑)。

エンドクレジットの最後に2010年は航空100年と出ていました。
ライト兄弟が飛行機を作ってから、たった100年なんですね。
ほんとにすごい進歩です。

「フライング☆ラビッツ」の記事はこちら→
矢口史靖監督作品「スウィングガールズ」の記事はこちら→

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2008年11月15日 (土)

「DISCO<ディスコ>」 キュート!エマニュエル・ベアール

「サタデー・ナイト・フィーバー」が火をつけたディスコブームというのは70年代後半から80年代初めにかけてなので、個人的にはあまり思い入れみたいなものはないんですよね。
でもその頃の曲というのは、様々な映画などでもしばしば使われているので、いつの間にか耳に馴染んでいたりもします。
予告でかかっていた曲もほとんど知っていて、ディスコは行ったことが無いくせになんだか懐かしい感じがして本作に興味を持っていました。
またダンスをテーマにした映画というのは最後に盛り上がるために割と好きだったりするので、フランス映画「DISCO」を観てきました。
ディスコというとなんとなくアメリカのイメージがあって、「へー、フランス映画なんだ?」と不思議に思いましたが、改めて調べてみると「DISCO」という言葉はフランス語だと知って、びっくり。
「サタデー・ナイト・フィーバー」のイメージがあったので、なんとなく英語だと思っていました。

さて内容はというと、若い頃はディスコでブイブイ言わせていた中年トリオが、20年振りにディスコでのダンスバトルに挑むというお話。
こういうストーリーは最後に苦労して勝ち残って感動!という流れが予想されますが、本作はほとんど「泣かせ」の要素はありません。
ですので「感動」を期待して観に行くと、ちょっと肩すかしかもしれません。
どちらかというと終止軽妙なコメディタッチで描かれていて、ストーリー的には定番の展開で驚くことはほとんどなく、気軽に観ることができます。

本作の収穫はエマニュエル・ベアールでした。
久しぶりに観た感じがしましたが、とても綺麗な女性ですね。
綺麗というより、かわいい感じかな。
お年は30後半になるかと思いますが、とてもキュートな感じがするんですよね。
ちょっとアヒル口で、キュッと笑うところがチャーミング。
ダンスも披露していましたが、セクシーであってキュート。
いいですねー。
衣装もセンスがよかったです。
このあたりのセンスの良さはさすがフランス映画です。
結局、ストーリーはお約束の展開だったのでそれほど頭を使うこともなく、ずっとエマニュエル・ベアールに集中という観賞になってしまいました(笑)。

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2008年11月 9日 (日)

「マルタのやさしい刺繍」 おばあちゃんたちに拍手喝采

長い間連れ添った伴侶をなくしたマルタは、なにか気が抜けたように暮らしていました。
夫の写真を抱きながら泣き暮らす日々。
そんなマルタを友人の一人リージが心配し、気を変えようと遺品の整理を手伝います。
その見つけた小さな箱には、とても凝った刺繍をしたランジェリーが入っていたのです。
実はマルタの結婚前の夢が自分の作ったランジェリーを売るお店をパリで開くことでした。
結婚したためその夢は叶いませんでしたが、思い出として自分で作ったランジェリーをしまっていたのでした。
リージはマルタにこれでお店をひらこうと言います。
それからおばあちゃんたちの奮闘が始まります。

お店を開こうと決心をしてからの、マルタの活き活きとした表情といったら!
彼女が暮らすのは伝統を大事にする田舎の街。
何十年か前のまま時が止まっているような街で、伝統に固執しようとするのはマルタたちの子供世代の働き盛りの男たちです。
その街の男たちは今まで通りのやり方を続けていくことが大事と考え、マルタのランジェリー・ショップに眉をひそめます。
マルタのショップを拡販しようとインターネットを学ぼうとするフリーダ。
夫を病院に連れて行き、またマルタの商品の配送をしようと自動車の運転を習うハンニ。
マルタのやりたいことをドンドンと後押ししてくれるアメリカ好きのリージ。
マルタとその友達のおばあちゃんたちの方が、その子供たちよりも新しいものを取り入れることに前向きです。
年だからってことは関係なくって、いくつになっても新しいことに興味をもってやってみようとすることが、人生を豊かにするんですよね。

先日以前上司だった方に、ご自身の個展(とてもアイデアに富んだユニークなアートでした)に招待していただきました。
まだまだ50代半ばで若い方なのですが、いろいろリタイア後のことを考えて自分の作品を作るようになったということです。
僕自身はけっこうこの試みに感銘を受けました。
自分よりもずいぶん年上なのに新しいことをやろうとするのはすごいなあと。
なかなか日常にはまってしまうと新しいことをせずに今まで通りにしがちですが、あえて新しいことにチャレンジするのは若さの秘訣かもしれません。
本作のマルタとその仲間のおばあちゃんたちの活躍を観て、また同じ想いを抱きました。
ラストの音楽会のところでのマルタはあっぱれで気持ちいい。
元気で前向きなおばあちゃんたちに拍手喝采を贈りたいです。

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2008年11月 8日 (土)

本 「アラビアの夜の種族」

物語というものは誰かが語り、または書いたもの。
けれども物語はそれ自身が、あたかも生命を持つがごとくふるまうように見えることもあります。
前にある作家さんが、物語が勝手に走り始める、それを自分は記録しているだけと言っていることを聞いたことがあります。
その感覚というのはなにかわかるような気がします。

本作「アラビアの夜の種族」の主人公は誰かと問えば、それはこの作品の中で語られる物語そのものであるということになるでしょう。
この作品の中で語られる物語は、語られることにより変化し、増殖していきます。
それはまさにDNAが突然変異し、受け継がれていくようにも見えます。
思えば、文字が発明される前から存在していた物語は口伝でした。
口から口へ時間や距離を隔てて伝わるうちに物語は変節していきます。
そしてそれは分岐し、さまざまなバージョンを生み出し、広がっていきます。
これはまさに生命が伝播していくことがごとくです。
本作では物語の中に物語が存在し、その中にも物語が存在しています。
これはまた生物群の中に個体が存在し、その個体には細胞が存在しているようにも見えます。
やはり生命のメタファーなのです。

読み始めはどのようになるか展開が遅いですが、後半になればなるほど、入れ子の物語それぞれが合流し、離れ、影響し合い、そして怒濤のような圧力を持った物語の大河となります。
語り口もテクニックとして翻訳調になっていますが、それ自体も意味があり、物語の生命性を表すことに繋がっているのは見事です。
日本推理作家協会長編賞、日本SF大賞を受賞していることからもわかるとおり、本作はひとつのジャンルに分類できるものではありません。
物語そのものを描こうとしている作品ですから。
物語のエネルギーというものを感じたい方にはお薦めです。

「アラビアの夜の種族Ⅰ」古川日出男著 角川書店 文庫 ISBN4-04-363603-2
「アラビアの夜の種族Ⅱ」古川日出男著 角川書店 文庫 ISBN4-04-363604-0
「アラビアの夜の種族Ⅲ」古川日出男著 角川書店 文庫 ISBN4-04-363605-9

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「ブーリン家の姉妹」 上昇志向が身を滅ぼす

アン・ブーリンはその時代に生きるには、あまりに賢く上昇志向が強い女性だったのでしょうか。
彼女が生きたイングランドはヘンリー8世の治世、まだまだ王や貴族が権力を握っている時代でした。
女性は戦略の道具として扱われ、嫡子を産むことが最も大切なこととされていました。
その時代の普通の女性であれば、男性に見初められそその子を産んで育てるという受け身を甘んじて受け入れていたのでしょうが、アンはそれに満足する女性ではありませんでした。
彼女は男の気持ちをとらえ、操ることができる知性と魅力、そして子を産むという女性としての能力も武器にすることによって、その上昇欲を叶えようとしました。
彼女はその時代の女性に比べても、特に教養があり、賢い女性として描かれています。
冒頭のシーンでもあるように、妹のメアリーと比べて父親はとてもアンを評価をしていたように見えます。
たぶんその父親の評価というものは、無意識のうちに姉妹にも伝わっていたのでしょう。
姉であるアンはその評価に自信を持ち、いよいよその才能を伸ばしていったのでしょう。
そしてその心には、誰にも負けないプライドも育てていったと思われます。
対して妹のメアリーは「姉にはかなわない」という気持ちを持ちながら育ってきたのでしょう。
その気持ちは彼女を人に対して一歩引いたような奥ゆかしい性格にしていったのでしょう。
姉も、妹も、互いに「姉が一番、妹は二番」という了解を持ちつつ育ち、それが崩れない限り姉妹の関係は安定的でした。
ヘンリーに会うまでは。
ヘンリーが始めにメアリーを選んだとき、二人が了解していた関係性が崩れます。
アンは初めて、妹に劣っているという評価を他人に受けたのです。
それは彼女にとって屈辱的であったに違いありません。
彼女がヘンリーに固執したのは、先に書いた上昇志向に加え、自分より劣っていると思っていた妹に負けたということが彼女のプライドをひどく傷つけたからなのでしょう。
アンは自身のプライドにかけ、ヘンリーをメアリーから奪わないわけにはいかなかったのです。
結果としてアンは、メアリーからヘンリーを奪い、そしてイングランドの王妃の地位までに上り詰めました。
けれどもそれが叶ったとき彼女は幸せだったのでしょうか。
彼女は望むものは手に入れることができました、けれども・・・。
アンは女性としての魅力・能力を武器にし、王妃に上るためには、王自身ですらそのための道具と捉えていたように思われます。
そこには愛情はなく、あるのは駆け引きのみ。
駆け引きは両者の間に緊張感のある関係があれば保たれますが、それが安定化したとき、それはなくなります。
ヘンリーとアンが結婚したとき、その関係は破綻してしまう運命だったのです。
人との関係性をあくまでも自身の上昇のための道具としてしか捉えられなかった女性がアン。
婚姻が家の戦略ために扱われていた古い時代の中に生きたアンは、その時代の女性としては極めて強い上昇志向を持った女性でした。
アンの叔父や父親は女性を出世の道具に使ういけ好かない人物として劇中では描かれています。
またヘンリーも女性を本気で愛するようには到底思えず、そのときそのときの欲情で動いていた男に見えます。
その時代、女性の扱いはひどかったと言わざるをえません。
けれどもアンが上昇志向を満たすために使ったのは、やはり婚姻関係や跡継ぎを産むといった古い時代の戦術だったのです。
古い時代だったからそれしか女性が上昇していくには道がなかったのかもしれませんが、結果としてそれが彼女を転落させてしまうことになるわけです。

彼女の死後、彼女の娘エリザベスがイギリスの女王となります。
女性として国家の頂点に、アン・ブーリンの娘が立ったというのは皮肉にも思えます。

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2008年11月 3日 (月)

「ラスベガスをぶっつぶせ」 現実はそれほど甘くない?

ギャンブルって全くやらないのです。
嫌いというよりハマってしまうのが怖いので、ちょっと避けている感じでしょうか。
なので本作でとりあげられている「ブラックジャック」というゲームのルールもよく知りません。
このカードゲームは結果的に手元のカードの合計を21にいかに近づけるということなのですが、やったことがないためか、カードのやり取りなどでハラハラドキドキするようなところが実感しにくかったんです。

主人公ベンはハーバードに進学するために奨学金を得ようとしますが、狭き門のためにその取得に苦労します。
そんなとき大学の教授ミッキーに、ラスベガスのカジノでいっしょに稼がないかと声をかけられます。
彼らが選んだゲームはブラックジャック。
先に書いたようにゲームの最後に手札の合計がディーラーよりも21に近づけば勝ちというゲームなわけです。
勝利をするにはなにが次に出てくるかカードを記憶するということが必要です。
そのために人並みはずれた記憶力を持つベンにミッキーは目を付けたのです。

<ここからネタばれあります>

もうちょっと最後のカタルシスがあるかなと思っていたのですが、期待ほどではなかった感じでした。
ブラックジャックというゲームを僕があまり知らなかったのがひとつですが、なんとなく「スティング」みたいに、最後は強い相手をだまして大逆転みたいなことを期待しちゃっていたためでもあります。
本作でもベンを利用していたミッキーを最後にギャフンと言わせるのですが、それもコールがお膳立てしたことなんですよね。
そのコールにベンはお金も巻き上げられちゃうし。
コールもミッキーも最後はベンがだましてしまうということだったら、もうちょっとカタルシスがあったのかもしれません。
原作は実話だということだからそこまでできなかったのかな。
現実はそれほど甘くないということでしょうか。

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本 「NHK -問われる公共放送-」

広告に関わる仕事をしながら、日頃地上波の民放を観ることがあまりありません。
観ているのはBS・CSだったり、そしてNHKだったりします。
なぜ民放を観ないかというと、おもしろくないからとしかいいようがありません。
ドラマなどでは時折しっかりしたものがありますが、ほとんどがバラエティになっていて観ていてもうるさいだけだと思ったりします。
それでも民放の場合は(なげかわしいことに)そういう番組で視聴率がとれているわけだからそういう内容ばかりになってしまっているわけです。
その点、NHKに関しては突っ込んだテーマやタイムリーだったり、深く掘り下げていたりする番組を作っているように思います。
そういう姿勢自体を評価したいので、僕はきちんと受信料は払っています。
時々「観ていないと言えば払わなくてもよい」という人がいますが、これは結果的には自分の首を絞めることになるように思えます。
基本的に受信料だけで成り立っているNHKはそれがなくなれば、番組制作も放送もできない状態になってしまいます。
もしCMなどを流して広告収入を得るような民放スタイルになれば、同じように安易にローコストで視聴率のとれる番組へ偏っていくのは目に見えています。
逆に国営放送として政府の予算を使うような組織となってしまえば、戦前のように政府に都合のいい情報しか流さなくなってしまう危険があります。
国からも、経済の仕組みからも独立したジャーナリズムとして質の高い放送を行っていくためには、現状のような受信料方式は向いています。
けれどそこに不満が多く出てきているのは、受信料を払っている視聴者に対しきちんとした情報公開などを行ってこなかったNHK側の甘さがあると思います。
NHKは視聴者が払っている受信料の重みというものをしっかりと認識しながら、放送をしなくてはいけません。
昨今のNHK職員の不祥事はそのようなモラルがなくなってきていることによるからだと思います。
民放などよりも良質の番組を作るスタッフ力をNHKは持っていると思います。
その影響力ということを理解し、NHKという組織がなんのために存在しているのかということをしっかりと組織構成員が自覚するということが大事なのだと思います。

「NHK -問われる公共放送-」松田浩著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430947-6

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「センター・オブ・ジ・アース」 アトラクションとして観れば・・・

3D映画なんて何年振りでしょう・・・。
「スパイキッズ」等も観ていなかったし、もしかしてディズニーランドの「キャプテンEO」以来かも。
若い人は「キャプテンEO」知らないだろうなあ。
会場に入る時に眼鏡を配られるのは、20年前と変わりません。
それほど技術的には進化していないのかな・・・。
さて観始めてみると、まあ普通に3D映画でした。
「キャプテンEO」では突然目の前に何かが迫ってきて思わず避けようとしてしまったりしましたが、あまりそういうことはなかったですね。
3D映画であることを気にした演出ではなかったような気がします。
もうすこしドキッとさせる場面があったほうが3Dならではの臨場感が味わえたのではないかと思います。
普通のファミリーアドベンチャー映画を3Dにしただけといった感じがしました。
アドベンチャー映画としては、小さな子供も観るという設定なのか、別段奇をてらったようなところもなく、すんなりと観ていけます。
もの足りないと言えばそれまでですが、ディズニーランドでジャングルクルーズに乗っているようなアトラクションの一つと思えば、まあ納得はできるでしょうね。
2000円は高いけど。

ブレンダン・フレイザーはこういう役柄はぴったりでしたね。
3D版は吹き替えだったのですが、それを担当していたのは沢村"セクシィー部長"一樹さん。
こちらもぴったり。
子役の子はどこかで観たぞと思ったら「テラビシアにかける橋」の男の子でした。

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「ハンサム★スーツ」 他人の小さな幸せを見つけて前に進もう

昨年公開された「カンナさん大成功です」の男子版といったところ?
「ハンサム★スーツ」とは着るだけでハンサムになれるというスーツ。
バカバカしい設定ですけど、けっこう現代の男たちの悩みをストレートに表現しているような気がします。

数年前からイケメンという言葉も日常語になっていますよね。
女性誌の「抱かれたい男No1」とかいうような特集も定着した感があり、その号はよく売れたりするのは相変わらずのようです。
ああいうのって男子たるもの気にしたりすると沽券に関わったりするので関心がないようにしてたりしますが、実のところ気になったりもするものです。
男は外見じゃない、中身だなどと言ってみても、世の中やはり見た目が大事という方が多いですからね。
劇中で啄郎が「男は中身だというけれど、そこまでたどりつかんのや!!」というのは、イケメンじゃない男たち(自分も含め)の魂の叫びですね。
じゃ見た目とか気にしてお金をかけたり(最近は男子用のエステとかもあるようですし)すればいいじゃないかということになるのですが、それはそれでなんだかカッコ悪い気がしてしまうわけです。
そのあたりは女性と違って微妙な男ゴコロというやつです。
多くの女性が支持するキムタクとかみたいな容貌だったら、その前のどんな世界が広がっているのでしょうね。
人生観が違うでしょうねえ。
凡庸な自分としては想像のしようもないですけれど。
外見重視でなく中身を見てくれと言いたくはなりますが、男性側も女性に対して美人とかかわいいとか言ったりするわけで、お互い様なんでしょうね。
昔の時代は男性が女性を選ぶという感じでしたが、現代は女性に男性が選ばれるようにしないといけない時代なのでしょうかね。
そういえば、ライオンとかおしどりとか、昆虫は雄の方が派手だったりしますよね。
人間もまさにそういう感じになっているのかも。

話は変わって。
本江さんが啄郎とやっていた「他人の小さな幸せを見つけて前に進もう」ゲームがなかなかよいなと。
自分の見た目を気にしすぎるっていうことは、外見を含めて他人からの評価を気にするということなんですよね。
人の評価ばかりに気を取られすぎると、自分の大事なところを見失ってしまうんですよね。
人はそうそう満点の評価をつけてくれることはありませんし、すべての人が評価してくれるわけでもありません。
気にしすぎると自分の今現在の幸せというのも見えなくなってしまいますし、視野が狭くなって他人のことにも気づいてあげられなくなってしまうのです。
「他人の小さな幸せを見つけて前に進もう」ゲームっていうのは、人のささいな幸せの気づくことによって、自分の中にもそんなささいな幸せがあるんだということに気づくというものなんですよね。
それと他人の幸せも喜んであげられるということも結局は自分が幸せな気分になれることなんです。
昔の一時期自分の気持ちが追い込まれている時があったのですが、そんなときは自分にも他人にもとても無頓着になってしまうんですよね。
それでかえってもっと気持ち的に追い込まれてしまうというか。
けれどふっと他人の評価とかをそれほど気にしないようになった(そりゃゼロじゃないですけど)とき、人の喜んでいることを喜べるようになったんですよね。

見た目とか諸々、人の評価を気にしなくてはいけないことが多い今の時代、そればかりに神経使ってしまうと疲れ果ててしまいます。
自分のいいところも悪いところも変なところも何もかもをさらけだして、それでもいいと言ってくれる人が近くにいてくれるというのが理想ですよね。
それがずっと笑顔でいられるということなんでしょう。
なかなかそういう人に巡り会えないですが。

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2008年11月 1日 (土)

本 「廃用身」

現役医師の作家というと「チーム・バチスタの栄光」などの著作がある海堂尊氏が有名ですが、本作の久坂部羊氏も、医師であり作家であるという方です。
海堂氏の作品は医療の世界を扱っていながらも、かなりエンターテイメントよりですが、久坂部氏の作品はより医療に対する問題意識が高い作品となっています(けれども小説としておもしろくないわけではありませんが)。
タイトルにある廃用身というのは、脳梗塞などで麻痺が起こり動かなりその回復の見込みがたたない手足のことです。
本作の主要人物である漆原という医師はその廃用身を切除することにより、患者自身への負担、また介護スタッフへの負担を軽減させてよりよい介護環境を作ろうと考えます。
動かない手足を切断という方法はかなりショッキングです。
それが是か否かというのは小説の中でも双方の視点で語られていますが、一番この作品を通じて作者が訴えたかったのは、現在の介護環境の劣悪化だと思います。
本作品が発表されたのは2003年ですが、それ以降も介護に関しては制度は改悪されていていますし、介護会社の破綻(コムスンとか)や、介護士の不足など将来に向けての不安はさらに増しています。
この作品の中で作者が登場人物の口を借りて言っているのは老人問題を若い世代の問題にしなくてはいけないということです。
若い世代にとって老後というのはまだ先の遠い話のように思えます(自分も含めて)。
けれども現在の医療や介護の制度を作っている政治家、官僚というのはすでに50代、60代の人々で彼らはそれらの制度が崩壊してしまうときには生きていることはないのです。
とりあえず自分の老後さえ大丈夫ならばその先のことはどうでもよろしい、そんな感じすらあります。
そういうことを防ぐためにも老後の福祉という問題については、若い世代が自分ごととして認識することが必要なのでしょう。
今年か来年か必ず総選挙があると思います。
その際、各政党の医療問題、福祉問題に関する取り組みの考え方を投票のポイントにするというのはありかもしれませんね。

「廃用身」久坂部羊著 幻冬舍 文庫 ISBN978-4-344-40639-7

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